室町幕府の存在意義
鎌倉幕府や江戸幕府に比べて、
存在の薄い室町幕府。
マイナーな存在である室町幕府について語りましょう。 室町幕府は鎌倉幕府の体制に対する反動にしか過ぎなかったから 室町幕府がボロボロになって、かつそのままで引っ張ってくれなかったら、織田信長始め、近世の新たな担い手が現れなかった。
つまり、ダメダメでもしばらく存在だけがあったのが、日本の近世を開いたといえる。
さっさと滅びていたら、うまく信長・秀吉・家康に繋がらなかった。
たしか、北条クポッ!の荒らし幕府を次いで、ピキッ!がつくったものであった。
ちなみに、わたしは姉幕府をつくる予定である。
http://ane.bakufu.org/ 文化面ではやっぱり義政が政治に興味失ったのがプラスになったよね
まあ応仁の乱のせいで貴重な文化遺産が灰燼に帰したけど・・・ >>3
反動というより、得宗専制の事実上の簒奪を企んだ朝廷・足利家双方の企みが共に空中分解して挫折した政治的機能不全と言うべきではなかろうか。 確かに尊氏はともかく、直義の理想は時頼・時宗時代の得宗専制だからなぁ・・・
でも義満や義教の時代には、持ち直すチャンスはあったんだよね 室町幕府にはな、国家財政を貯える金蔵が一個もなく直轄地も少なかったくせに
近代以前でもっとも貨幣流通に特化した財政構造と莫大な運用を可能にし
まがりなりにも200年にわたり幕府を維持できたのだがなぜかわかるか?
職能民の存在がキーポイントなんだよ 幕府の大黒柱は細川だ!
幕府直轄の兵は8000
細川方は12000
幕府とは細川、畠山、斯波、山名、赤松、京極、一色の物だ! あー、だから関東地方はいち早く戦国時代に突入した訳か… 古代天皇家とて、決して直轄の兵力は多くなかったはず。
蘇我、物部、有力豪族の専横に悩まされていた。
徳川政権が、例外的に巨大だったために少々矮小に見えるだけだとオモフ 徳川は鎌倉と室町 ついでに秀吉の失敗をみて体制をつくっているわけだから
尊氏だって鎌倉の失敗は教訓にしてるでしょうね
それが執権→管領・四職への権力分化なのかな 関東には鎌倉公方なるものをおいて、
自分の息子を遣わし、
母方の親族上杉氏を関東管領なんかに任じて、
逆に争いの火種になってるな。
将軍争い、管領争い、いろんなのが絡まって、
応仁の乱に発展する。 知らなかったけど人力鉄道の歴史サイトがあった。
http://www.kk-net.com/~tabuchi/JINSHA.htm
>>18
特定の一族に官職を任せたのが、結果的には混乱の原因に
それを見て江戸幕府は譜代全体に分散させた
鎌倉 執権・連署・六波羅など=北条
室町 管領・侍所頭人・関東管領など
=細川・斯波・畠山・山名・一色・京極・赤松・上杉など
江戸 老中・京都所司代・若年寄など=譜代各家 なかなか優秀だった義教が殺されてしまったのが最大の分岐点だったな
そのせいで義勝義政と子供将軍が続いて将軍の権力低下 1へ
源平や戦国や幕末みたいな大規模な戦乱ではなかったからね
しょぼい戦争で作り上げられた幕府だから
源平や戦国のスーパースターに比べると楠木も新田も地味 >>24
夏休みの宿題はもう終わったの?
こんな所で遊んでないで早くやらないと、あっという間に夏休み終わっちゃうよ。 >>9
お前こんなとこにもカキコしてたのかw
今時幕府系サイトなんてはやんねーよ(プゲラ 1、鎌倉時代には国内で相当な割合を占めていた国衙と検非違使庁の機能を吸収
2、南北朝の合体 室町幕府って、南朝を監視するために京都に置かれたんとちがうんか? 鎌倉 江戸 安土桃山は 地名からでしょうが
室町 って 何なの ? >>24
戦前の反動じゃない?
江戸時代からスーパースターなのは楠木正成。
>>24
どう見たら小規模な戦いしか無かった等といえる。 古今、有名な武将は数多いが
楠木正成は別格だろう
湊川の戦いとかな
国賊尊氏を負けると分かっていて迎え撃つ忠臣正成
皇居内に銅像が建立されたのはこの人だけだし 鎌倉時代だったかもしれないけどなんでみんな急に烏帽子取るようになったの?
戦前カンカン帽被ってたのが戦後になって被らなくなった的な力が
当時の日本社会にも働いてたわけ? 初めての切腹とか胸のお守りに命を救われるとか
いろいろあったんだが >>36
御所が室町に置かれたのは義満の時代ですから、語弊がありますね。
とはいえ、ひとまずはこれで通すしかない。
>>38
>国賊尊氏を負けると分かっていて迎え撃つ忠臣正成
こうしたイメージは後世の創作でしょうね。
田舎育ちで利益を考えないと生き残れない立場にいた男に、尊皇云々という
ご立派な概念が存在したとは、考えられません。
銅像が立つまでの間に、理屈が色々とついてきたようですが。
尊皇か否かを考えて陣営を決めていた者など、いなかったでしょう。
>>39
観応2年(1351)の時点で烏帽子を着用しない例が見えていますが、こ
れが広まるのは、15世紀以降ですね。
はっきりこれと言える訳ではありませんが、烏帽子を着用して兜を着用する
場合、兜の上にある天辺穴に烏帽子を差し込んでいました。
これが、時代が下ると縮小するようになっており、烏帽子をつけず、乱髪に
して兜を着用する習慣が広まりました。
『慕帰絵』に描かれている烏帽子を着用していない人々が高位には見えない
こと、下層階級は元々兜を着用する必要がなかったことがひっかかりますが、
上層がハレの場以外で烏帽子をつけなくなり、下層もそれに習って一般化し
たのかもしれませんね。
なお、九州の菊池氏は、鎌倉時代には烏帽子なしで兜をつけていました。
>>40
切腹自体は、『保元物語』の内記平太、『続古事談』の藤原保輔、『平家物語』
の源頼政、『承久記』の伊賀光季などが行っています。
自殺=切腹や、その作法が定着したのは、室町時代でしょうが。
義満の時代に成立したらしい『義経記』に、切腹のやり方を尋ねる場面があり
ますが、この頃はまだ切り方はそれぞれ異なったらしい。 >観応2年(1351)の時点で
失礼。『慕帰絵』が成立したのがこの時代です。 オレ江戸時代の服飾・工芸デザインは嫌いだが、なぜか室町時代には惹かれる。 >>42
なるほど、高位の人が次第に面倒臭くなったってことなんですね。
勉強になりました。にしてもその後一度廃れてから
またリバイバルされて流行にならなかったんでしょうか? >>45
面倒くさいというか、騎乗者(ということは高位)同士で行われる騎射戦が
よく描かれている『平家物語』でよく言われているように、顔面や大鎧の隙
間と並んで、天辺穴を射られる場合がありました。
烏帽子越しに頭のてっぺんなど射られたら、洒落になりません。
南北朝時代以降、ゲリラ戦や下馬後の集団戦闘が行われ(つまり高位の人物
が下位の人物に混ざるようになった)、鎧も大鎧からそれまでは従者用だっ
た胴丸・腹巻への移行が見られましたが、兜もその中で変化していったので
はないかと。
掟破りの行動が増えたことは、すでに『平家物語』の時点で見え、騎射戦と
いっても、13世紀までには相手の馬を射て落馬させてから射るようなこと
が行われていたようですが、騎射戦自体は16世紀まで続く(戦国期はまず
ない)ものの、南北朝時代以降は減少し、それに伴って個人同士が向き合っ
て天辺穴を狙って射る云々の表現も消えていますね。
しかし、相手の弱点を容赦なく突く傾向はこの後も続き、騎乗者でもない下
位の人物に殺される例も(新田義貞などは好例でしょう)出てきていますか
ら、防御性には気がつかわれたことでしょう。
以上、多分に私の憶測が混じっていますが、兜の天辺穴の変化と、烏帽子を
兜の下に着用しなくなっていったことは、事実です。 要するに、烏帽子(体面)に合わせて兜をつくるより、兜(現実)に合わせ
て頭部を改良する必要に迫られた結果、烏帽子は儀礼用にとどまったのでは
ないかということです。儀礼用には明治まで続きましたからね。 楠木って経済力はあったんじゃね?地盤的に考えても無教養ではなく
むしろ教養人であったからこそ、後醍醐と精神的に結びついたんだ
そんな事を神戸人の陳舜臣は言っていた 室町時代は平安末期に似ていると思います。
歴史に中心に公家がいて武家がいて、
鎌倉や江戸の関東中心の単純な歴史じゃないから興味深いです。
この時期の関東は鎌倉府の鎌倉公方が古河に移り、安定していませんね。
武士の中心である関東が、どこにでもある一地方に転落した、
関東人にとっては面白くない時代かもしれません。 室町なんて、室町なんて・・・・・・・・・・・・(泣) 戦乱が多くて暮らしづらい時代だったかもしれないが 文化は花開いたね。 戦国時代はいらない
室町時代後期で十分
戦国時代も室町将軍いるじゃん いやむしろ室町時代は応仁の乱で終わってくれた方がすっきりした いやまずは一般と学問における戦国という期間の認識乖離を埋めるべきだろ むしろ室町時代を戦国時代に含めるべきだと思うんだ。