もし戦国時代の日本がヨーロッパにあったら
戦国武士に同等の武器を入手され、地続きで攻め込まれたら
瞬く間に、全ヨーロッパが征服されていただろう。 平地や丘陵みたいな騎兵に有利な地形が多いからなあ。 >>4
しかも日本人の体格の方が騎兵に適している。 周囲キリスト教国ばかりだから
十字軍編成して、連合国で日本討伐しに来るんじゃね? ヨーロッパは人口少ないだろう
日本の人口に圧倒されてたんじゃね? ヨーロッパって何気に緯度高い土地で寒冷だから稲作が凶作で石高不足で武装解除orz
中世期のヨーロッパは小麦の収穫率も相当酷かったらしいね
嘘か真か一粒の麦が5〜6倍にしかならなかったとか
日本から見れば毎年が大凶作レベルだな 信長の野望・覇欧伝 武将ファイルより
武田晴信 たけだはるのぶ
カイランド地方の大名・武田信虎の嫡男として生まれる。10歳の時、ペストで死亡。晴信の死に
よって、信繁が家督を継ぐが、この信繁もペストで夭逝する。▼司馬遼太郎が、晴信と信繁が
長生きしていれば、信長の欧州統一はかなわかなっただろうと書いているが、それはどうだろうか。
▼史実と同様、ゲームでも周りは強豪だらけで、蘆名や姉小路と並んで、欧州統一に最も遠い。
▼この歳で死んだので、シブサワ・コウも能力のつけようがなく、この能力値である。もし捕らえ
ても、後方の留守番係の候補としてしか使いようがないだろう。
政治22 戦闘30 統率22 野望25 魅力30
638 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2007/05/07(月) 20:32:13 0
荒唐無稽な妄想にマジレスも大人気ないが、そもそも日本がヨーロッパの横にあったらって前提が曖昧でよく分からない。
ヨーロッパの横ってどこ?考えられるのは大西洋のスペイン沖か北海辺りか?日本が収まりそうなのは。
そしてどういう経緯で日本がヨーロッパ沖へ移動するのか?
はるか昔から日本がヨーロッパの横に存在していたのか、それとも戦国時代の日本が突如
同年代のヨーロッパへ丸ごと瞬間移動でもしたのだろうか?
前者の場合日本とは似ても似つかない国が出来てただろうから論外だが、
仮にスペイン沖か北海に瞬間移動したとしたら?
まず日本の自然が風土の変化についていけず、様々な面で破綻するだろう。
降雨量も減るし日照時間も変わる、空気も乾燥する…
冷涼な北欧の気候か、それともスペインの地中海性気候か?どっちにしろ駄目っぽい。
こんな状況では農業も思うに任せず、水田なんか維持できるわけもない。
主要作物を米から小麦へ切り替えるにしてもそんな土地も無い。ノウハウも無い。
かくして日本の動員力を支える米は全滅、征服どころか飢饉に陥るのであった 米は水田でなくても育つし
粟や稗なら寒くても全然OK 「明日から水稲を止めて陸稲にしろ!」なんて無茶が通るとお思いですか? 百歩譲って陸稲を作るにしたって相当の降水量が無きゃ作れない。
粟や稗じゃ兵士の給料にすらならない。という訳で終了 粟や稗で戦ってくれるお人好しの足軽がいりゃぁいいけどなw 日本がスペインの南西あたりにあったらワインの名産地になると思う 日本がテネリフェ島にあったらアンドラ騎士団と親密になると思う
>>14
658 名前:世界@名無史さん 投稿日:2007/05/07(月) 21:51:40 0
ある宣教師が日本は相当強いく、仮にスペインの隣に日本があっても
スペインは勝てないと報告してたらしい。多分これが元ネタ。
>>10
1600年当時、日本が1200万人。ドイツと同程度ですね。
フランスが1850万人で、ウラル以西の総人口1億の中では最大です。
イングランドが600万人。
兵力でいえば、フランスと争っていたスペインが総勢15万人で最大。
17世紀前半中には各国・地域も15万人を揃え、17世紀末にはフランス
の兵力が40万に達しています。
スペインの兵力が15万人に達したのは16世紀中ごろで、15世紀末には
2万人足らずであったものが急増したものです。 >>24
その時代だとまだドイツとかフランスとか統一されてないんじゃ?
その点では諸大名に分かれてる日本も同じだが。
そう考えると、外国勢力と結ぶ大名なんかも出てくるのかなぁ。 カソリックと新教とか
ヨーロッパに分裂の芽がある限り付け入る隙はある 無理だろ。 長篠の60年前に、既にああいう鉄砲戦術が確立されてるんだぞ。
海軍だって、既に船の横舷に大砲並べてるレベルだし。
>>25
ドイツはともかく、フランスは未統一とは言いがたいのでは。
>>26
一まとまりにはならないでしょうね。どう考えても。
特にフランスとスペイン・オーストリアの協力は考えにくい。
カウニッツでもいれば別ですが。
>海軍だって、既に船の横舷に大砲並べてるレベルだし。
当時はまだ命中率が低く、命中してもなかなか沈まなかったようです。
日本でいう戦国期までは、まだ切り込み志向が強かった。
1588年というから統一の2年前になりますが、その年に行われたアルマ
ダ海戦では、大砲で撃ち合っているものの、巨大な火船の使用、潮の流れで
漂流した後、浅瀬に座礁して動けなくなった船への攻撃、帰路の大嵐が主な
(スペイン側の)被害の原因だったようです。 『多聞院日記』に「鉄ノ船也」とあるぐらいで、他の記録では大船としか書
かれていないのでは。『日葡辞書』にも、「テッセン(鉄船)」は出て来ま
すが、仮に信長の用意させた船が鉄で覆われていたとしても、そう珍しいも
のではなかったのでしょう。
いずれにせよ、外洋を航海できないと思いますが。
「唐入り」の際にも、東シナ海を渡れず、朝鮮経由しか道がなかった。
また、攻撃力も足りませんね。大砲が一隻あたり三門では。
スペインのように切り込みを挑んでくる相手ならともかく、イングランドの
ように逃げながら仕掛けてこられると、不味くありませんか。