【諸行無常】源平合戦を語る【盛者必衰】
保元・平治から壇ノ浦(鎌倉開幕でもOK)を楽しく語りましょう
平家好きも源氏好きも集まれー >>94
貴方の「普通」と私の「普通」が一致していなかったのでしょう。
ど忘れしておりました。私にはたいして目立たないこの挿話の方が、人物像
を(史実かどうかはさておき)示しているようで、面白かったので。
気張る息子に、危ぶむ父。 >>95 法琳寺別当補任の応保二年の項に第三十五代宗範の辞任理由を、
「越前守平基盛死去依任去。祈祷為依也。」 とあるので、基盛の死因は病死で、
それも急性症状ではなく、祈祷を頼むくらいの闘病日数はあったと思われます。
源平盛衰記では崇徳帝や為義のタタリで死んだことにしたいので溺死と
しているのでしょう。
>>96 普通という言葉はトゲがあったかもしれませんが、例えばフルタ製菓(株)の
「義経 源平争乱」フィギュアの企画担当者は平治の乱における重盛の武勇を
源平争乱中でも屈指の、絵になる場面と考えているようです。
http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/shinrekishiroman/genpeisouran.html
しかし、このラインナップでは清盛だけが異質すぎる。
代わりに碇知盛を立体化して欲しかった。
>>97
いや、トゲがあったという訳では。そう思われたのでしたら、失礼致しました。
確かに、場面としてはこちらの方が遙かに絵になるでしょうね。 鎌倉悪源太義平が大好き
もっと活躍して欲しかったちなみに平治の乱で義朝、義平が没してなかったら
都で義朝の跡取りは頼朝 だろうけど義平の源氏の中の立ち位置ってどうなったんだろう?
三浦氏と新田氏を中心に 義朝の代より坂東で大きな勢力になってると思うけどその武力を背景に頼朝が 棟梁として都で権力をって事を義朝は考えてたのかな? 義朝といえどもそこまで考えるだろうか。
その先見の無さで平治の乱で信頼側についたんだし。 義平が無事落ちて坂東で勢力はったら
頼朝の出る幕はないんじゃないかな なかっただろうね。
頼朝の母方が多少まともな血統だったとはいえ、マッチョ気質の坂東武者を貴種性でまとめるのは
義平や朝長が生きていては不可能だったと思う。 頼朝は坂東で貴種として価値はあっても実力勝負の
坂東じゃ義平の名の方が通ってるよね
平治の乱がなく義朝が40代くらいで早逝してたら源平じゃなく義平、頼朝の源氏同士の対立があったかも
さて皆様が当時の源氏ゆかりの武者ならどっちにつきますか? >>105
やっぱり義平かな。豪胆な印象があって、暗めな自分には良さそう。 >>105
義平と頼朝なら僕は頼朝かな。
義朝が早世していたら正嫡は志田義広あたりに移りそうだけど。 >>105
叔父を容赦なく攻め滅ぼしちゃう怖ろしい義平
彼の武勇に期待する 今の所、義平が優勢ですねちなみに皆様がどの地方にお住まいか?で義平、頼朝のどっちにつく?の決断も変わって来そうですね
義平の武勇か頼朝の政治力か?
義平は鎌倉、頼朝は京が
根拠地としましょう
他条件(義経の存在など)など皆様あれば一緒に取り決めしょう
冷静に考えたら、義平では幕府は開けないな
頼朝の着想は余人では出てこないだろう
でも着いていくなら悪源太 >>111
そうですね確に悪源太について行くのが、おもしろそうです
ただ京を根拠地とする頼朝ならば、悪源太(坂東武士団)を朝敵とするくらいの政治力を持っているので恐いものがありますね
まあ前提を>>105と考えると京には清盛が居る・・・
平治で義朝が勝ち 義平が東に下り 義朝が早逝したらで考えた時は
>>111も面白そうだね 前レス下段>>111→>>112
それから
清盛と頼朝が組むと考えれば>>112もありかな 清盛、頼朝が組むと協力ですね
義平は坂東のリーダーとして鉄板ですから幕府などのビジョンはなくても千葉介、三浦氏や新田氏などが
坂東の独立を掲げた争いになるかもしれませんね
皆様の意見の全てが興味
深いのですが概ね
頼朝派=現実、堅実派
義平派=夢を買う派
って感じですね
状況、条件さえ整えば
坂東武者達は義平に将門の再来を見れたかもしれませんね
ただ頼朝が黙ってないでしょうが
皆様は義平、頼朝に何を
託しましたか? 義平は坂東にいる源氏を率いられない要素が多すぎるでしょ。
自分の弟は希義・義門・全成・円成・義経が京方に回る。
義朝の有力な弟たちはみな敵に回る。
為義と結べば為朝以下は味方になるかもしれないけれど、
義賢を討っているだけに孤立しそう。
味方の大族は大庭・千葉・上総・相馬・三浦・秩父。
うまくまとめられたら関東限定の地方勢力にはなりえるかもね。 >>116
保元の乱がなかったとの
条件ですね!
この場合、指摘の通り源氏自体が義朝の死によって
空中分解しそうですね
義平が坂東を押さえるのは上総御曹司と言われた義朝の後盾、上総介がキーポイントだと思うのですが、どう思われます?
>>117
素晴らしい意見だと思います
範頼の存在意義は義経と
同等クラスだと思います
正直このコンビに充分な
兵力と環境を与えたら、義平、為朝あたりがタッグを組んでも合戦で勝つのは
難しいんじゃ?
条件にもよると思いますがどうでしょうか?
>>117 義経も微妙な立場に。頼朝より義平の方が気が合いそう。 坂東が義平で団結できても常陸に志田義広、両毛に足利一党、甲斐信濃に逸見一門がいる。
為朝は孫娘が頼家の妾になるくらいだから義平と結んでも不思議はないだろうけど、
兵力は相模、武蔵、上総からしか調達できない。経済的、軍事力に弱さが否めないな。
あと三河が範頼を担いでも、尾張は頼朝与党にならざるを得ない。
生き延びても頼朝与党だろうな。 どちらにしても持たざる側(義平陣営)が持ってる側への戦いになりそうですね
源姓足利氏は義平(鎌倉)陣営に付きそうですが藤姓足利氏が問題ですね
ただ義平はあまり文献には残ってないですが坂東では無敵の強さを誇った武者です
坂東平定を実行すれば短期間で勝負をつけた気がします
ただ頼朝にはやはり勝てないでしょうね
ちなみに相性の話しですが義経は頼朝より義平の方がに同意です
古代律令国家が崩壊しながら武者の世になっていく
この時代
魅力いっぱいなのに戦国や幕末に比べて・・・
そんな時代のこのスレを
盛り上げる為に皆様どんどん参加して下さい
義平の野望に!
>>122義経は頼朝より義平の方がに同意ありがとう!しかし頼朝VS義平なら奥州藤原家が義経に力を貸しそうでは…しかし強いのは義平…天運は頼朝にありそう…最後は頼朝に…色々な意味で頼朝は深い… >>126
そうですね、普通のものさしで頼朝は計れませんね
20年近く流人生活をつて
天下獲った男は頼朝ぐらいじゃないでしょうか
義平は坂東の項羽になりそうですが、関東人としては彼について行きたいところです
126さんが奥州藤原氏の存在を出して頂きましたが
歴史的に坂東と奥羽は激突の運命があるように思うのですが、どうでしょう?
義経が義平の元に走れば
やはり奥州藤原氏も義平陣営に来るでしょうか?
キャスティングボートですね >>127
126 です。たしかにそうですね。私も坂東と奥羽は激突の運命があるように思ういます。義経が頼朝、義平に敵対するなら奥州藤原家にも動きがあると思いますが… 義経が義平の元に走れば動かないですね。 その仮想歴史において、なぜ義平が奥羽と対立するの?
奥州藤原氏の出先にあたる越後平氏と足利新田氏が対立関係で
足利新田と義平が対立関係にあれば、敵の敵で味方になるかもしれない。
間にはいるのが義広に与する佐竹や大掾らでも同じような図式になるし。
>>129自分で藤原家の名をだしたがやはり…義平が奥羽と対立はしないと思うが 奥州藤原氏と義平坂東が組むのは難しい問題…無理だろ…差別問題的に… 為朝や義平、義経が好きだがどうやってこのメンバー相手に最後は頼朝になるか見てみたい。頼朝恐るべし… 為朝や義平、義経が好きだがどうやってこのメンバー相手に最後は頼朝になるか見てみたい。頼朝恐るべし…だから源平は面白いのかな? >>129
義平の正室は源(新田)義重娘です
三浦氏、新田氏は血縁関係で義平を担ぐのは鉄板です新田義重娘と義平の間に
子供が出来れば坂東の御曹司です
>>130
同意です
義経と義平の間柄が微妙な仲を取り持つでしょうが
導火線に思います
>>131
やっぱり、これだけ個性の強い面子をまとめるのは
頼朝しかいないのでしょうかね?
平家や朝廷側にお詳しい方の参加も是非お待ちします頼朝を最終的に負かすのは平相国くらいに思えてきました >>133、130ですそうですね 義平の正室は義重娘で頼朝が手を出した娘ですね。義平の母は実は遊女で三浦の養女と言う話しは本当ですかね?あと朝長の母も遊女で波多野氏養女と言う話し…だから頼朝が嫡男だと…女好きの義朝ならありえると思いますが… 頼朝・希義の母、熱田季範の娘以外がすべて遊女。
あり得んわね実際。 >>134
133です
義朝と為義の意外な共通点を発見!ですね
実際、二人は女ったらし(もてた)と思います
ただ義平の母に関して遊女と言うと聞こえは悪いですが、義平を三浦氏が養育し正室に迎えた新田義重娘は八幡太郎の曾孫になります思うほど卑しい身分の女でなかったと思います
ここからは仮説ですが
為義と義朝の違いは自身の孕ませた愛人を義朝は有力な家人(三浦氏、波多野氏)に下げ渡したのではないでしょうか?
遊女を「ゆうじょ」と読めば意味が違ってくるわな実際。 >>137
ぷらっとさん、奥深すぎでわかりません
くだいて言って頂ければ
ちなみに義平、朝長の母は常磐と似たような身分だと思うんですが、どうでしょう? >>138
はい。遊女を「あそびめ」と読めば、妾という意味になるということで。
そこいらで春を売っている人とは違うと思うよ。 >>139
なるほど、さすがですね
つまり彼女ですね
いやはや為義と義朝はもてたんですね
だとすると孕んだ彼女を
家人に払い下げ!って形でいいんですか? いいんじゃないのかな。清盛の娘と義朝の息子の母が同一の時代なんだし。 義朝
義賢
義広
頼賢
頼仲
為宗
為成
為朝
為仲
行家
泰綱
有朝
義久
頼次
頼定
仙覚
正親
維義
慈応
乙若
亀若
天王
義成
義俊
為家
頼憲
経家
秀義 確にぷらっとさんの、おっしゃる通り!
常磐は子だくさんですね
以前のレスで名古屋在住で頼朝派と伺いましたが、やはり熱田大宮司家の縁ですか?
ちょうど尾張、美濃と言うと東西文化の境界って感じで、ぷらっとさんの意見を読ませてもらったんですが 毎日、頼朝所生の井戸の横通ってるからさ。
真実はさておき。 143は、ぷらっとさんの
>>141へのレスです
為義は絶倫ですね >>144
そうなんですか
やはり真実はさておき、身近に感じますよね
そう言えば、尾張と言えば義朝最後の地ですね それは知多でしょ。
知多は尾張の中でも国中国という特殊地域で。 >>147
そうなんですか、すみません
一口に尾張って言っても
広いですもんね
実際、名古屋お住まいの
ぷらっとさんから見て義朝はルート的には正解なコースを通ってるんですか?
それともやはりヨソ者だなって手落ちがあります?
地元の方の意見を伺ってみたいです 尾張と言えば…頼朝が長田に「約束通り尾張美濃をくれてやる」(終わり身をくれてやる)と言って長田を斬らせた話しは本当ですかね?。 >>149
長田もその後、謎が多い
ですよね、ついでに地元での長田評も聞いてみたくないですか?
>>150
長田は評判悪いですよね。そう言えばやっぱり皆さんは義経は伝説的に凄かったと思います?私も義経が好きで源平の勉強をしたのですが…凡将ではないと思いますが…美化し過ぎのような… 私は義経も凄かったかもしれないが義経についていた甲斐源氏が異常に強かったのではと思っています…一ノ谷も武田の騎馬なら?甲斐源氏の騎馬なら?なんて感じです。 関東人で義朝派にとって
長田評は少し溜飲の下がる思いでありがたいです
義経ですが美化されている所もあると思いますが、やはり日本史上規格外の武者ではないでしょうか?
実戦で兵を率いたら強かったんだと思います
たらればですが、義経に
元冦で元軍相手に騎兵襲撃をして欲しいのは僕だけでしょうか?
おそらく徹底的な殲滅戦を義経は展開すると思いますが >>153
もし、義経が元冠の時代に生きていたとしても、やはり元軍相手に殱滅戦は無理だと思われる。
卓越した集団戦に、新たな武器、戦力もそもそも違う。
撤退させることを念頭においてようやくでは?
マジレス、すいません。 源氏が最終的に勝てたのはほとんど義経ら源氏到来以前に平氏を瓦解させた木曾
義仲の功績じゃん >>155
壇之浦を考えたら義経自身は華々しいやり方(勝敗関係無し)しそう
>>156
苦しいながら平家の地盤を地道に潰していった範頼も評価大だよ 義経って当時の戦の作法からしたら掟破りの卑怯モンだろ?
ここには源氏贔屓しかいないのか?
平清盛って非道な独裁者ってイメージあるけど実は人情味あっていい奴なんだよ
目下の者でも人前では立ててやったり、幼い頼朝を結局は助けてやったりとしてるんだよな
そんな甘ちょろい清盛さんが好きだ その甘さが平家滅ぼしたけどね
まあ、でも上に戴くならやっぱり頼朝よりは清盛の方が良いよね
その清盛が死んだからガタガタになったんだろうけど 亡くなった長男の重盛の代わりに宗盛が後継者になったのが痛い
せめて知盛が後継者になってれば…あんなことにはならなかったんじゃ… >>158
戦に作法など存在しない
勝敗がすべて
当時は義経の戦い方に卑怯などといった評価はなかった >>158
多勢に無勢は卑怯とはいうけど、義経はその逆なんだからいいじゃない。
流川楓のプレイを自己中心的だと批判してた記者が、試合が進むにつれ、
そうじゃない、自己中心的のレベルを超えてゲームそのものを支配してると
気がつくんだよね>by スラムダンク
景時は猪と批判したけど、義経はちゃんと大局を見据えてたと思う。
まあ、政治の大局は読めないと言われてるけど、それも無理ないと。
頼朝追討の院宣が秀衡に下されてから、義経は鎌倉の敵になってしまった。
武士全般というより鎌倉の利益を第一に考える頼朝に対し、義経の夢は、
源氏を再興した暁には奥州と共生していくことだったんじゃないのかな。 どうして重衡は一の谷で殺されずに捕虜になったのかが謎だ >>159
自分は平家の方が好きだけど、平家方は歌や舞や楽器で有名な
文化人が多めなせいか男からしたら浮ついたイメージが強いのでは
知盛や教経は人気あると思うけどね
重衡は南都焼き討ちの罪も問う為だろう
それがなかったとしても斬首だっただろうけどな >>159
>目下の者でも人前では立ててやったり
『十訓抄』の伝える逸話ですね。他にも色々といい話があります。
あの中では若い頃の話とされていましたが、『平家物語』で晩年の清盛=おご
って滅んだとされていた以上、出世前に限定しないといけなかったのでしょう。
当時の人間は、人間の能力や勝敗は冥界(仏神の世界)の采配によるものだと
考えていたので、滅ぶのには必ず理由があったとする。
おごったのが原因で滅んだというより、滅んだからおごった面が強調された。
そもそも、『平家』に出て来る清盛の悪行というのがはっきりしません。
寺社勢力の攻撃(大仏殿焼き討ち自体は偶然らしい)は、彼に限らず義経な
どもやっていますし(義経は勝尾寺でしたが)。
敵対する寺社への攻撃は、延暦寺の名が大き過ぎ、殺戮が苛烈過ぎたとはい
え、何も信長が最初にやったことではない。
禿は検非違使が使っていた密偵がモデルだとも言いますし、有名な殿下乗合
の一件も、清盛が福原に出ている間に重盛がやらかしたことですし。
それに、武家の報復としては珍しくない。
相手が摂関家ということで、当時の公家から見れば僭越=悪行でしたが、は
たして全階層から否定的に見られることであったかどうか。 >平家方は歌や舞や楽器で有名な文化人が多めなせいか男からしたら浮つい
>たイメージが強いのでは
この手のイメージというか先入観・偏見は江戸期に入って強調され、勇猛な
武士(東国)と文化的で軟弱な公家(西国)というイメージが醸成されたよう
ですが、実際は中世には公家も武に関わっていたし、武家も文化的な面を必
要としていたようですね。
楽や歌などを卑しむ脳筋志向は比較的新しいと思いますよ。
『平家』の斎藤実盛の台詞が有名ですが、あれは物語の中で平家滅亡のフラグ
を立てたもので、実際には富士川にはいなかったので言い様もない。 >何も信長が最初にやったことではない。
彼の行動を以って「政教分離」とは、過大評価にもほどがあります。
この辺りの動向は神田千里先生の著書参照。無神論者説には賛同出来ませんが。 清盛はまだ幼い従者が寝坊していても彼らを起こさずそっとしておいた
というような話もどっかで聞きいたなー
昔の時代は殺伐していたようなイメージがあるんだけど
このような細やかな心配りって珍しいんじゃね?
清盛個人の人格のなせるわざなんだろうかね それも『十訓抄』です。
編纂した側がどんな社会的な立場にいたかで何をよしとするかも変わって来る
でしょうが、中世は公家や僧侶も武威を振るいましたからね。
源満仲が、入道する前に「家来になめられるから」殺生戒の誓いのみは無視し
たという逸話が『今昔物語集』にありますが、当時の入道が基本的に一線を退
いても在俗と変わらないものであったとはいえ、武家の「家来」に対する暴力
性(家来に対して、敵対者に対して)を伺わせる話です。
しかし、鞭ばかりでは人は動かないでしょう。
とりわけ名誉の尊重された時代ですから、「身内の前で褒めてもらえる」とい
うのは、忠誠心を増したことでしょうね。
いい話が過ぎて半分戯画になっているのは、慶滋保胤と平清盛と尼子経久か。 もし仕えるのであれば清盛とか尼子経久のような人物がいい
逆に源頼朝や毛利元就は酷薄そうであまり仕えたくない 清盛は「驕り」というより「甘い」のでは
血が干上がるような悲劇を知らないお坊ちゃんという印象
経久もそうですが、元就も身内には甘いという逸話がありましたね。
>血が干上がるような悲劇を知らないお坊ちゃんという印象
頼朝も多分平治の乱で負けていればそう育っていたでしょう。
代々院の信任を得ていたという点では清盛の家の方が上でしたが、恵まれた
環境という点では、京育ちの頼朝も大差なかった。
事実かどうか分かりませんが、『吾妻鏡』では念持物の観音像は東国武者に
笑われる(道心と殺生が相反するからでしょう)からと隠していたというこ
とになっています。この辺の感覚は都人のそれでしょう。
誕生地は尾張か都か分かりませんが。 清盛のこと甘いなんて言ってるが、
保元の乱では、源氏を弱体化させるためとは言え自分の身内を捨て駒にしてる
とんでもない食わせ者だぞ 反りの合わない親族は赤の他人よりも憎々しいもの。
頼朝は異母兄弟には冷酷だったけど、同母兄が死んだ時は嘆き狂った
らしいし、自分の血を分けた実子にはバカ甘い。
清盛も然りかと。 >>155
そもそも弘安の役では
日本は元軍に対して徹底的な殲滅戦を実際しちゃってますよ
鷹島での最終決戦では日本軍のワンサイドゲームになっていましたから。
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』 白鳥倉吉【国史】 結局のところ
源氏の武略を比較すると
義仲>>>>>範頼、義経?>>>>>頼朝
ってとこだな
政略の比較では真逆だけど(義経を除く→義経は最低レベル) 武略とは関係ないけど
頼朝の個人武勇は相当高かったらしいね
反対に義経は以外と身体能力は低かったみたい
なんか不思議だけど納得できる自分がいる 義経は馬術と剣術は得意だったが弓は苦手だったといわれてるね なんでも弓というのは膂力が必要で
それだけは技術や努力で補えないからだとか
弓力の低い弓を使ってることがばれるのを嫌がって取り落として海に流された自分の弓を
わざわざ回収するとかいう記述がのこってるらしいね
>>179
殲滅戦を通り越して一方的な虐殺と言った方が正しいとオモ >>183
源平戦時代は打物は下馬して行うのが殆ど(というか当時は乗馬しての打物は悪しきこととされていた)
弓が出来なければ乗馬する意味がないね 範頼は大軍の将といっても御輿的存在でしょ。
自分では兵をまとめられず、軍は空中分解寸前だったから頼朝に泣きついた。
絶対引いてはならない局面でそんなんでは名将とはいえず。
頼朝の政略の高さは軍を抜いている。しかし東国武士の総意を代弁したところもあるので、頼朝はある意味歴史の必然性を感じる。
義経に関して言うと、義経がいなければ平家が滅んでいないだろうことも確かなように思われる。平家が九州あたりで勢力を盛り返せば日本の歴史はやはり別のものになっていたのではと考える。この場合は歴史の偶然性を感じる。