【諸行無常】源平合戦を語る【盛者必衰】
保元・平治から壇ノ浦(鎌倉開幕でもOK)を楽しく語りましょう
平家好きも源氏好きも集まれー 源平とか幕末やりたいと言う人いたから
ゆるゆるとつづくと思う
>>3
不屈の人ではある
本来は今様好きな遊び人だったんだけどね >>7
平氏と源氏の戦いじゃないが
>>1によればいいんじゃない 話題がないから
みなさん平氏や源氏でだれが好き?
理由もあるとベターだなあ 範頼の再評価か
一般的になんか情けないイメージはあるが
山陽道の大将として、負けてる戦は少ないし
それなりに評価されていい人物と思う
義経が神がかり過ぎるんだよね 範頼の勝利した戦いといえば
藤戸の戦いや葦屋浦の合戦 たらればで行くと
重盛が死ななければ
義平が落ち延びていたら 範頼=金床・義経=ハンマーの役割で勝利を収めてきたイメージがあるけどね。 >>16
不明ながら、八田知家の関係でいけば、
宇都宮近辺でなかろうか、と言ってみる 名将というと語弊があるなあ。
統率者としてはそれなりに優秀だったというのが精一杯じゃないかなあ?
個人的な能力というより源家の血統が占めてる部分が大きい気がするし。 Wikiで見る限り、個人の能力は良くわからないが、配下の力を上手く使い大局的に軍を動かせるだけの能力はあったという感じだね。
Koei式に言うと統率85 武力60 知力70↓ 政治70↓みたいな。 俺は木曾義仲だなぁ
親父がらみで頼朝との確執とか複雑な関係が面白い
戦争は普通に強いよな、この人 悪源太と義賢か
義仲・・・戦はきわめて上手いが、統治が出来なかったね
もっとも義経だって出来るとは思えないが
頼朝ー範頼ラインだから平氏が西に落ちて以後の、
京の統治が出来たんでしょうね 大蔵館襲撃の件は 秩父党内の河越・畠山の勢力争いも絡んでるみたいだね 能登殿が実は一の谷で死んでいたらしいという話を聞いてショックだったのは
俺だけではあるまい。 一の谷で死んだYO説・・・吾妻鏡 玉葉
壇ノ浦で死んだYO説・・・醍醐雑事記 >>27
玉葉では「渡さるる首のうち、教経においては一定現存」とわざわざ書かれている。
一定は「たしかに、確実に」という意味で、現存を「そこに存在する」ととるか
「生存している」ととるかで大分変わると思う。ただ、当時から能登殿の生死に関する
情報は錯綜していたみたいだな。
ただ、一昨年の大河「義経」みたいに、佐藤継信を射殺したり、壇ノ浦で奮闘するのが
資盛では、いかんせん義経の相手としては力不足で、様にならない。 維盛ほどじゃないんだろうが、資盛もちょっとな
平氏の中でも重盛系はなんでパッとしないんだろうか >>29
資盛は、建礼門院右京大夫との恋など、どうも貴公子然としすぎてるし、
乗り合い事件とか起こしてるし、やっぱり武人然としてないよな。
やはり能登殿でなければという思いが強いな。 乗り合い事件は
お子ちゃま+親バカのイメージだね
重盛が生けていれば・・・などとよく言われるが
この事件からみるとそうでもないな 信康が資盛
家康が重盛ということかな?
それとも
信康が重盛
家康が清盛ということかな? そこへきて、次男宗盛が凡庸な人物ときているからな。
謡曲「頼政」の
忠綱 兵を 下知して曰く水乃逆巻く所をば 岩ありと知るべし
弱き馬をば下手に立てて 強きに水を防がせよ
流れん武者には弓筈を取らせ 互に力を合はすべしと
唯一人(いちにん)乃下知に依つて
さばかりの大河なれども一騎も流れず此方(こなた)乃岸に
喚いて上れば味方の勢は 我ながら踏みもためず
このくだりと謡のリズムが好き 三位頼政って平家にペコペコしてるだけの うだつが上げらない老人なんだけど
そんな彼を何が奮い立たせたんだろうか 能鑑賞の本には
平宗盛の仲綱への仕打ちに対する憤りとは別に、
優れた戦略家として死んでゆくことへの妄執
老武者が「名」を残すことに対する執心が原因ではないか、と載ってる ありがとう、勉強になりました
能かあ、まだ近づいた事ないなあ
平家物語の琵琶法師は有名だけど、
源平は能でも広く後世に伝わったんでしょうね あくまで能の話だけどね
能の演目・平家物語・史実で、似ていても全く同じではない気がする
三国志と三国志演義と京劇が違うみたいに
このあいだ、能「兼平」見てきたよ
今井四郎兼平の最期、壮絶で悲しいね >>43 樋口兼豊かな
頼朝さんちも、清盛さんちもなくなちゃったからね
おっと池殿がいるか ところで上に出てた範頼だが、武将としちゃなかなか優秀じゃね?そもそも
苦戦したのは頼朝が三種の神器や安徳天皇を無事に保護する戦いをするよう
に範頼に命じてたことや養和の飢饉による食糧不足や兵船不足、それから自分たちの
所領の保持や恩賞による自領の拡大を最優先する自立心の強い東国御家人が
軍の中心だったってのが大きいと思う。
苦戦したとはいえ、そういったハンデを乗り越えて、ほとんど敗戦もなく
山陽道、北九州を制圧して平家討伐に貢献した範頼の実績はどうみても名将じゃなきゃできんよ。 配下が優秀?どこがだよ!笑 食料がなくなった途端、鎌倉に帰らせろと
範頼に訴えて範頼を困らせてばかりの東国御家人が優秀だとは思えんな。
千葉常胤とか北条義時は優秀だと思うけど、結局部下が良くても、それを
率いる大将が無能なら、敵地で苦戦した時点で軍としての組織は崩壊してたと
思うよ。しかし結果的には、配下の士気が下がりながらも半年近く軍の体裁を保ち戦果を挙げたわけだから、
やはり範頼の指揮官としての素質は十分にあると思う。 いや普通なら、食糧不足になったら、協力し合って地元の豪族とかに働き
かけたりして何とかしようとするのが普通なのに、総大将の範頼に不平不満を
当り散らすか、しまいには鎌倉に帰らせろとか勝手極まりないことばかり
言い出してる時点で論外だろ。少なくとも配下が優秀だから軍を維持できた
ってことはないと思うがなあ。 周防の豪族が範頼軍に大量の兵糧を献上したというのも事実なんだよな。
豪族の中には食料を結構持ってた奴もいるんじゃないか? 平氏に制海権を握られ、鎌倉から兵糧を遅れない現状。
周防・長門も飢饉だし、内藤ら敵も多いぞ。
範頼自身が周防から頼朝に窮状を訴えてるが? 確かにそれは事実だな。ただ彦島の手前の赤間が関に進出したり
してるから陸上では平家軍に勝っていたと思う。でもあの状況で三種の神器と
天皇の保護を前提に戦えと頼朝に支持されちゃあどう頑張っても苦戦しちゃう
わな・・・。ある意味範頼は最初から困難な遠征を強いられたと言えるかもしれん。
そもそもこの遠征自体にムリがあるような気もするけど、範頼はよく頑張ったと
思うよ。 範頼の事をとやかく言うつもりはないけど、東国武士に責任転嫁されちゃ黙っていられんのよ( ̄ー ̄)
追討軍の兵糧は現地調達だから、これが出来ないとなれば戦う事など無理。兵船不足もそうだな。
渡海した豊後においても、民庶が逃げ散って兵糧を得る術がない状況に陥ってる。
馬上、陸の野戦では無類の強さの坂東武者も船戦は苦手。瀬戸内での平氏との戦が海戦になる事は頼朝も認識してた事だが。
範頼軍が「困難な遠征を強いられた」というのはその通りだと思うよ。「頑張り屋さん」なのもそうだろう。
あと>53の兵糧が大量ってのは?
周防の上遠隆から贈られた兵糧と、豊後の臼杵・緒方氏から提供された兵船82艘で、何とか豊後に渡ることが出来た範頼軍だけど、
文治元年2月1日、葦屋浦で原田種直を打ち破った戦で活躍してるのは、武蔵の渋谷重国と下総の下河辺行平ね。
>49の千葉常胤はお爺ちゃんだからなぁ、、頼朝からの信頼度はピカイチだけどね。
同じく、北条小四郎義時はこの頃はあんまり、、兵としてより一流の政治家として評価すべきだろうな。 そんなことは百も承知だが、配下が優秀だったというだけで、範頼軍は苦境でも何とか
なったっていうのは俺は疑問だな。それを率いる奴が凡庸な奴なら、軍は崩壊
するだろう。関東武士がこの遠征で活躍してたのは認めるけど、範頼は凡庸だった
が配下のおかげで戦果が挙げられたという見方は納得できん。
>>9
携帯から、読みにくいのはご容赦を。
平重衡、宗盛父子、あと源為義
重衡は、千手ノ前・奥方とのやりとりとか、最後の川原での場面が泣ける。
あと、宗盛は確かに凡将だけど、副将・清宗への父としての愛情とか、斬られる場面がこれまた泣ける。
為義は、保元の乱で、敵方後白河天皇に味方した子供の義朝に、代々伝わる鎧を届けさせる場面が好き。
『明ケヌレバ、敵トナル子ノ許ヘ、遣ワシケル、親ノ心ゾ、哀レナル』
この文見て、鳥肌たった。
長文、乱文すいません。 ベタかもしれんが、能登殿。
兄の通盛やその兄が召し使っていた菊王との関係などに、
「剛」と「柔」双方が備わっているところがよい。
そして壇ノ浦の戦いぶりなど、あの場面に関しては主役は
義経ではないと思う。
吾妻鑑では一の谷で討たれたとあるけど、他の史料や玉葉を
見る限り壇ノ浦まで生きてたと思う。それから、「義経」では平敦盛
ともども存在をスルーされてたが、資盛では能登の代わりは
勤まらんと思う. 私が最近株急上昇なのは重衡。
凛々しい武人貴族、それでいて明るく気配り上手な人だったらしい
からね。戦も強かったといわれてる。
そんなわけで彼が主人公の小説を入手して読み進めてる。
姉の徳子との絆がいい感じ。
〉60「義経」に敦盛が出なかったのは残念だったな。
能登殿も絶対出ると思ったのに、知盛に設定吸収されてた感じだった。
また源平ものやるなら、この二人も出してほしい。 源(新宮十郎)行家がいなければ、三位頼政に始まる源氏の決起は無かったとか >62
それは一理あると思う。平家はいずれ滅びるにしろ、行家が頼朝に以仁王の令旨を届けたわけだし。
>63
経正は俺も好きだが、何この残念な気持ちは。 親王宣下もされていない一庶王の令旨に何の効力と名文があっただろう。 >>65
そもそも似仁王に令旨を書かせ、全国の源氏蜂起を企図した人物は?
源三位頼政?行家?
それともそこまで考えてなかった? 桓武平氏系図(女子は省略)
平忠盛―┬清盛―――――――――┬重盛―――――┬維盛――妙覚
├家盛 | ├資盛―┬盛綱
├経盛―┬経正 ├基盛――行盛 ├清経 └盛国
| ├経俊 | ├有盛
| └敦盛 ├宗盛―┬清宗 ├師盛――源智
| | ├能宗 ├忠房
├教盛―┬通盛――通衡 | └某 ├宗実
| ├教経 | ├行実
| ├業盛 ├知盛―┬知章 ├重真
| └仲快 | ├知忠 ├重遍
| ├重衡 └知宗 └清雲
├頼盛―┬仲盛 ├維俊<養子>
| ├光盛 |
| ├保盛 ├知度
| ├為盛 ├清房
| ├知重 ├清貞<養子>―┬師行――師範
| └静遍 | └清兼
├忠重<養子> └清邦
|
└忠度―――忠行 源頼義┬義家┬義親─為義
├義綱┝為義┬義朝┬義平
│ ├義宗├義賢├朝長
│ ├義忠├義広├頼朝┬頼家
│ │ ├頼賢├希義└実朝
│ ├石川├頼仲├義門
│ │義時├為宗├範頼─範円─為頼─吉見
│ ├若槻├為成├全成 頼宗
│ │義隆├為朝├円成
│ │ ├為仲└義経
│ │ ├行家
│ │ ├泰綱
│ │ └有朝
│ └義国┬新田
│ │義重
│ └足利
│ 義康
└義光・・・続く・・・ >>73
>>74
系図依頼したものです。ぷらっとさん返事遅れてすいません。
感謝します。これで源平の系図が両方そろったわけですか。
74は確かに面白いですね。 件の牛車事件も実際は重盛が仕返しさせたらしいからな。
ただ、『愚管抄』では「イミジク心ウルワシキ人」という評価らしい。
実際重盛って武将としてはどうだったのか? 「殿下乗合」の真相は、『平家物語』の作者も参照したらしい『玉葉』を見
れば分かりますが、『源平盛衰記』の作者は、『玉葉』以外の史料も参照し
たらしく、この時浄海は福原で逆修の最中であったと記し、「普通とおおい
に違えり」としていますね(傍注ですが)。
重盛の武勇については、『保元物語』に、源為朝に挑戦しようとしたら父に
止められたとあるぐらいでしょうか。それも真偽は定かではありませんが。 まあ、普通は平家物語よりも、当時の資料である
九条兼実の日記の方を信用するよな。 ところが九条兼実は重盛と昵懇だったりするから信憑性が落ちるんだこれが。 しかし、同日記の清盛が福原にいたという事までが偽りとも思えません。 殿下乗合事件については「愚管抄」などにも重盛の指示とある。 兼実は「平家」を嫌いつつも立場を守り通した重盛の上司だもの。
検閲がある世の中でなし、純粋に平家批判であって重盛だけを攻撃してはいないよ。 スレ汚しすみませんが、吉川平家物語には、
殿下乗合事件は親子どっちの仕業になっているのか、知っている人教えて下さい。
>>86
ぷらっとさんは重盛首謀説を信じていますか? 史料はともかく、バランス的には重盛首謀でいいと思うけど。 確かに、本人の心象が出ているとも考えられる・・・か。 『平家物語』自体、九条家周辺(兼実・慈円兄弟が直接関与していたかはさ
ておき)で成立したと言われていますが、事実は事実として、物語としての
道理を表現するための構成を優先させたのでしょう。
善人が死んで家運が傾いたとした方が、話として辻褄は合いますからね。
重盛(善人)が死んで平家が凋落し、浄海(悪人)は都落ち前に死んだ。
善因善果、悪因悪果でうまく収まります。
当時の人間は、人の行いとそれに感応する冥の世界が世の中を動かすと考え
ていた訳で、人の善悪と盛衰が一致しているのが当然。
事実と違うことを書いていて信じられるのかという話ですが、どうも書かれ
たことが本当になると考えていたような節があります。
事実を故意に変更したという点では、『平家』も偽書に似通った点がある。 >>66 保元物語だけでなく、同時代の一級資料「兵範記」でも基盛の大活躍は記録されていますね。
正直、保元物語の重盛は言うだけ番長みたいで、カッコ悪いです。
なぜ、平家物語では宗盛を次男として、基盛は存在を抹殺されたのか、疑問に思います。
>>80 保元物語を出して平冶物語を出さないのはなぜですか?
普通、重盛の戦闘実績といえば、源義平(悪源太)との一騎打ちで有名な
平治の乱の時だと思いますが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E7%9B%9B
http://horse.shrine.net/samurai/shigemori.html >>94
貴方の「普通」と私の「普通」が一致していなかったのでしょう。
ど忘れしておりました。私にはたいして目立たないこの挿話の方が、人物像
を(史実かどうかはさておき)示しているようで、面白かったので。
気張る息子に、危ぶむ父。 >>95 法琳寺別当補任の応保二年の項に第三十五代宗範の辞任理由を、
「越前守平基盛死去依任去。祈祷為依也。」 とあるので、基盛の死因は病死で、
それも急性症状ではなく、祈祷を頼むくらいの闘病日数はあったと思われます。
源平盛衰記では崇徳帝や為義のタタリで死んだことにしたいので溺死と
しているのでしょう。
>>96 普通という言葉はトゲがあったかもしれませんが、例えばフルタ製菓(株)の
「義経 源平争乱」フィギュアの企画担当者は平治の乱における重盛の武勇を
源平争乱中でも屈指の、絵になる場面と考えているようです。
http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/shinrekishiroman/genpeisouran.html
しかし、このラインナップでは清盛だけが異質すぎる。
代わりに碇知盛を立体化して欲しかった。
>>97
いや、トゲがあったという訳では。そう思われたのでしたら、失礼致しました。
確かに、場面としてはこちらの方が遙かに絵になるでしょうね。