【そして】架空の武将を創る【語る】
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,r.'::://:::::i:::::::::::::::::::::::::::::::ヽ っ | >>1の母です。 |
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/::i:::::!i:::::::i:::::::i:::::::::::::::::::::::::::::::::::i | ・・・ごめんなさい、 |
l:i:i::::l_,|l::!:::i、:::::ヽ:::::::::::::::::::::::::::::::l .| 軽い気持ちで. |
!l::!:::|=、゙!`、!`ニ 、::`:::、:::::::::::::::::::::! | このスレをのぞいた |
ヽ:!:l|  ̄`u`、:::::::::::::::::::::::ノ | 私が馬鹿でした。 |
|{l 〈 u l:l`irr、:::::::::< _ノ こんな糞スレを |
. |ハ 、,,,__ リ ,ヒノ:::::::::::::', . ̄ ̄| こっそり立てていたなんて !!|
/7'i、`='" u ' !;::::::::::::::ノ | 私が今日 |
. iY/,/,ヘ:、_,、‐'` `'---'" .| このスレを読んだこと、 |
!', , , ノ l ヽ u / | | >>1 には |
. 〈 ' ' ' / :l `i、 ,/ l .| 黙っておいてくださいね。 |
i 'i | !, ,/ l. \___________/
その昔、中国に、姓:殷 名:歩 字:天津という名将がおったそうな。
その頃の人の会話。
男A「殷歩め、恐ろしい強さじゃ。このままでは中華はすべて奴のものになって
しまうわい。」
男B「ならば暗殺してしまえばいいだろう」
男A「駄目だ、殷歩は剣の腕もあるのだ、それに性欲が無いので女にも引っかからん」
男B「それでは打つ手が無いではないか・・・どうしたらいいのだ。」
■ナレーター■
しかし、歴史はこの時代にもう一人の英雄を生んでいたその名は勃鬼。彼の
登場により殷歩の運命は次第に狂わされていくのである。 趙索(前685〜前646)
春秋時代の晋の人
晋の武官の息子として生まれる。
おっとりとした風采で言動が柔らかく、よく人の心に沿うことに長けていたので
晋の献公の息子の一人、夷吾(後の晋の恵公)に従者として召し抱えられる。
趙索は、夷吾に誤りが有るとその場で諫めるのではなく後日それとなく諫言したため、夷吾も快くその諫めを受け入れた。
お付きの中に夷吾に媚びへつらう者がいると、夷吾にそれとなくその者の非を咎めたりしたため
佞人や小人の類は暇を出されて夷吾の側に居れなかった。それがために幾人かに恨まれ、たびたび讒言されたが夷吾は
「(趙索は)私にとって闇夜を照らす月のように得がたいものだ」といって取り合わなかった。
趙索は出しゃばらず、目上のものをよく敬ったため家中での評判も良かった。
ある日献公は近侍のものたちに
「(息子たちは)皆それぞれ優れたところが有り甲乙つけ難いが、その従者を比べたならば夷吾が最も優れている」
と言って、後に趙索にいくらかの黄金を送った。
趙索はそれを元手に郷里の人々に酒食を振る舞って、手元には一銭も残さなかった。
人々は趙索の気前の良さを褒めたたえた。 献公が驪姫を寵愛しその間に子供が生まれると、驪姫はわが子を太子にしたいと考え、たびたび太子を讒言した。
献公が驪姫の讒言に惑わされ、ついにその太子の申生を殺すと、
夷吾は災いが己にも及ぶのでは無いかと思い不安になった。
趙索は人をやってそれとなく献公の動向を探っていたが、いよいよ献公が夷吾を害するらしいと知ったので夷吾の面前で
「災いはもう目前に迫っております。すぐさま居城へと帰り、災いに備えなければなりません」
と激しく詰め寄った。
夷吾が居城の屈へと帰ると、献公は屈に対して兵を向けた。
夷吾は父に大兵を向けられたと知り、ひどく動揺して進退を決められなかった。そんな夷吾に対して趙索は
「ぐずぐずしている暇は有りません。今すぐ逃げ出すか、さもなくば城壁を高くして兵に備えなければなりません」
と勧めた。普段はおとなしい趙索が激しく論じたため、夷吾もすぐさま決心することができた。
夷吾は、心中驪姫に恨みを抱いていたため逃げるのを潔しとせず、城の守りを固めて献公の軍を向かえ撃った。
屈の守兵は最初君主の兵に刃を向けることをためらっていたが、趙索が
「既に危機が目の前に有るというのに、何をためらうことがあるのか」
と、自ら石弓を用いて献公の軍に矢を射ったので、兵達も勇躍して献公の軍と戦った。
趙索は軍の役職に就いて居なかったが、言うことの筋も通っており良く時機を見極めていたので
夷吾の勧めも有って軍議に加わることを許された。
一度は献公の軍を追い返したが、再び攻められ支えきれず
夷吾は城を捨てて他国へ落ち延びようとした。
はじめ、夷吾は母の出身である狄へと亡命しようと思っていたが
大夫の冀ゼイが、既に狄には兄の重耳が亡命しているのでやめたほうが良い、と諫めた。
趙索は、いつか再び国に帰るときに秦の力を借りやすい梁に亡命するのが良い、と勧めた。
夷吾はそれらの意見を聞き入れ、梁へと亡命した。 梁での苦しい暮らしに幾人もの臣下が去って行ったが、趙索は常に夷吾の側にあって夷吾を助けた。
晋では(献公の後を継いだ)驪姫の子(奚斉)が叛乱を起こした里克らによって殺され、その後立てられた驪姫の甥(悼子)も里克
によって殺された。
晋の大臣達はは梁に亡命していた夷吾のもとに使者を送り、帰国して王位を継ぐように勧めた。
その使者に喜び、急いで帰国しようとする夷吾を趙索はこう諫めた。
「君主の権威と軍隊はまさに虎の爪牙と言うべきもの。それが無くては何者も従わせることはできません。
今、殿下は急いで帰国しようとなされていますが、殿下には頼りになるものがお有りですか?
人々を従わせるだけの威を持たずに帰国しようなど、自ら後ろ手を縛って敵の目の前に向かうようなものですぞ」
そうして、他の国の後ろ楯を得てから帰国するように勧めた。
趙索は秦に使者として赴き、河西の地を割譲する約束して秦の穆公からの援護の約束を取り付けた。
また、夷吾に対して(晋の)国内に居る里克を味方につけるよう勧めた。
夷吾はそれに従い、里克に対して帰国に協力したならば領主に封じるよう約束する手紙を送り、里克を味方につけることに成功した
。
夷吾は、秦や斉の助けを受けて帰国し王位に就いた。都に入るとき、夷吾は趙索にその馬の轡を取らせた。
王位に就いた夷吾は帰国前の約束を反故にして秦に河西の地を割譲しようとしなかった。
趙索はそれについて、勢い盛んな秦との関係を悪くすることの不利を口を酸っぱくして諫めたが夷吾は聞き入れなかった。
また夷吾は、帰国に協力した里克を「二君を殺した」としてその不義を責めて殺した。
それについても趙索は
「(里克は)確かに不義であったが、王にとっては大きな功績のあったもの。
また、一度諸侯に封じる約束をしたのにそれを破って殺すのはよろしくない。
不義を責めるのであれば、その地位を取り上げて放逐するのに留めるべきだ」
と、諫めたが聞き入られなかった。
王位に就いた夷吾は盛んに道義に反したことを行うようになり、そのたびに趙索も諫めたため
以前と違って直言が煙たがられるようになり、疎んじられた。
ある人が、昔のように婉曲に諫めたほうが趙索のためではないか、と趙索に忠告したが、趙索は
「坂道を転げ落ちるように道を外れていく主を諫めねばならないのだ。どうして以前のように柔かな物言いができようか」
と答えた。 ある年、晋は酷い飢饉に見舞われ、晋の民は酷く苦しんだ。
夷吾は諸侯の盟約に則って秦に食料の支援を頼もうと考えたが、
(領土割譲の約束を)反故にしたことで秦に恨まれていると考え、
誰一人としてその使者の役目を引き受けようと名乗り出なかった。
夷吾は以前に趙索が秦に使者として赴き、その役目を果たしていたことを思い出し、
特別に趙索を呼び出して大夫の位を与えると、使者として秦に赴くように命じた。
趙索は秦の穆公に拝謁して、食料の援助を乞うた。穆公は趙索に向かって
「群臣は『以前に約束を反故にした晋を助ける必要はない、この機に晋を攻めとるべきだ』と言っているが、どうだ」
と言って驚かせようとした。趙索は毅然として胸を張って答えた。
「今、晋の多くの民衆は飢えに苦しんでおります。
大王は苦しむ民を救える力がありながら、過去の旧悪に捕らわれて手をこまねいている。
それが聖王の道なのでしょうか。其の王が悪であっても、其の民に何の罪があるのですか」
それを聞いた穆公はおおいに笑うと
「君の考えは実に正しい。我が意志もそれである」
として趙索の意気を褒めたたえ、食料の援助を約束した。
こうして晋の民は飢えから救われたが、「主を悪と述べるのはけしからん」と晋王に讒するものが有ったため、
趙索は位を追われて遠ざけられた。
翌年、秦が酷い飢饉に見舞われた。
秦は晋に援助の使者を送ったが、夷吾は逆にこれを好機と見て秦へと軍を進めた。
これを聞いて趙索は
「我が王は幾度不義を重ねれば良いのか。天に唾してその身が無事で居られると思っているのか」
と嘆き、すぐさま侵略を停止して秦と和睦するよう勧めたが聞き入られなかった。
晋の行為に秦の穆公は大いに怒り、大軍を発して晋軍を打ち破り、逆に晋の領土深くにまでその軍を進めた。
夷吾は大いに慌て、趙索を再び呼び戻すと秦軍を迎え撃つよう命じた。
出陣するに際し趙索は息子の郁にこう言った。
「秦は名君の指導のもとで勢い盛んであり、我が晋は道に外れて人心を失っている。
既に勢いが向こうにある以上、十中八九私は生きて帰れまい」
趙索は一軍を率いて出陣したが、曲沃にて流れ矢に当たって死んだ。
その後、晋の領内に侵攻した秦軍は夷吾を捕らえた。
捕らえられた夷吾は趙索が戦死したことを聞いて
「趙索の言うことに従わなかったばかりにこのような辱めを受け、むざむざと彼を殺してしまったのか」
と嘆いた。
穆公は趙索を生かして捕らえたいと思っていたが、戦死してしまったことを聞いて悲しみ、
息子の趙郁とその家族を探し出して秦へと移住させた。その後趙索の子孫は代々秦で優遇された。 >>11
もっと短くまとめるつもりが途中からちょっと暴走したw 結局、書きたいのは史記なのか春秋なのかわからん。もしや左伝か >>18
今でも生きている。共産党の幹部やってるよ 武英 字は季擁
後漢の桓帝の治世のころに青州北海に生まれる。
小さなころから手先が器用で農具などに上手い工夫を施して大人に驚かれたりしていた。
黄巾の乱が起こると村に自前の落とし穴などの罠を仕掛けて賊軍の侵入を防いだ。
袁紹らが董卓打倒の兵を起こし、それに付き従った兄が片腕を失って帰って来ると
武英はからくり仕掛けの右腕を兄のために作ってあげた。
その腕には火薬を利用してその拳を飛ばす仕掛けが施されていた。
ある日、賊が村に押し寄せたとき、武英の兄がその飛ぶ拳で賊軍を追い払った。
人々はそれを「火箭鉄拳」と呼んで武英の技能の巧みさを褒めたたえた。 武圭 字は李擁
武英の子。献帝の治世の頃、青洲北海に生まれる。
小さなころから名工の父に仕込まれ極めて優れた技能を習得した。
許昌に移り献帝お抱えの職人として仕え、世界初のオルゴールを
組み立てるなどして献帝を喜ばせやがて「神工」と呼ばれるようになる。 ■恵慈尊(えじそん)■
恵慈尊とは中国で代々優れた技術者、発明者を輩出した武一門の棟梁の尊称
である。武一門は後漢末の始祖・武英からはじまりそれから約1200年にわた
って中国の科学技術をリードしてきた。しかし時の皇帝朱元璋の怒りにふれ
一門はことごとく粛清されてしまった。これにより以後の中国の技術的進歩
は大幅に遅れることになった。なお発明王トーマス・エジソンの名がこの恵
慈尊にあやかったものであることは言うまでも無い。
【民明書房・神工!驚異の武一門のより抜粋】 朴利(ぱくり)
高麗に仕えた技術者。次々に新しい技術を生み出したため朝廷から天才として
重用された。しかし現在では彼の発明はどれも中国の武家から拝借したものば
かりであることが明らかになっている。 お、しばらくぶりに覗いたら増えてるw
あいかわらず面白いw 大村サンチョ(1570-1590)
マリの戦国武将。日本出身。
元は大村純忠の家臣であったが、純忠死後17歳でマリに移住。サンチョと名乗った。
ソンガイ帝国に武将として使え、タウデニの戦いで敵大将を討つなど活躍し部将に昇進。
しかし翌年ニジェール川の戦いで深入りしたところを敵に囲まれ20の若さで戦死。
サンチョの将来を期待していた国王はその死を悲しんだと言われる。 大村サンチョ
政治14統率79武勇97知略45魅力98 【アブーバクル】
中東のどこかの国の王。大変な女好きで即位直後から女アサリをしまくっていた。
側近のアリーに諌められると彼を厨房の下働きにしてしまった。そしてついに叔父
メフメトの反乱により地位を失う。全てを失い逃げまとう彼に付き従ったのは以前
、彼に遠ざけられていたアリーただ一人だったという。その後、叔父を討ち
王位を奪還したり、外国との戦争に勝ち勝利王と呼ばれたり、法をあきらかにする為
泣く泣く宰相アリーを処刑したりとまあいろいろあったが跡継ぎに恵まれず、結局
処刑したメフメトの遺児であるウマルに王位を譲ったという。 丘尚 字は不明
後漢末期に幽州などを荒らしまわった丘力居の子と言われる。
父が没した後、烏桓の首長であったトウ頓の庇護を受けようとしたが、
受け入れられず、中原まで移動した。
丘尚は徐栄の推挙によって董卓に登用された。
しかし、董卓の暴虐を目の当たりにした丘尚は出奔、
同時期曹操も董卓に仕えることを拒み、出奔していたが、彼と意気投合し、
曹操から「真の友人とは、丘尚のような者のことを言うのだ。」と絶賛された。
だが、曹操が徐州に軍を進め虐殺を始めると、これに恐れをなして陳宮らの離反に加担した。
しかし、陳宮らがいつまで経っても敵将・程cの守る城を落とせぬものだから、
丘尚はこれを不安がってまたも出奔。淮南の袁術に身を寄せた。
尚、近年「袁術に皇帝僭称を勧めたのは、丘尚」という俗説が出始めたが、これは誤りである。
これまで小人の道を歩んでいた丘尚だが、袁術が没落しても、その節操の無さは変わらず、
雷薄らとともに袁術を受け入れなかった。
官渡決戦の際、丘尚は寿春・兗州・予州・徐州を挙げて曹操から離反するよう呼びかけたが、
呼応したのは徐州だけで、それが劉備であった。
しかし、劉備は曹操からの予想外の強襲を受けるや早々に撤退してしまった。
その後、自己の軍事力を背景に、中原一帯を荒らしまわる、ゲリラ戦法
「天下大乱の計」を目論むが、以前から丘尚の所業を怨んでいた男に刺殺された。
歴史家の陳寿は、評す
「丘尚は節操が無く、自分勝手であったが、それでも魏武と対抗するという気持ちはあった。
もし彼の戦略が成功すれば、魏武も危難にあったに違いない。
尤も、それがならなかったのは彼の所業によるところが最も大きいのだが。」 座敷が高くなってきたけど、1行か2行でもいいから考えてやってください。
また、他の人が考えた人物に追加設定するのもOKです。 霍里
霍去病の一族の人間とされる。
匈奴の討伐に従軍したが疫病にかかったので隔離された。
司馬遷は「武帝何やっちゃってんだか」と嘆息した。 .. -─‐ --、、-、、‐- 、
. '" ヾ、 il. `ヽ
.′ / ヾリ ヽ
! / , , }!、 ',
‘t.==-‐ヲ / /, ,イfjト、 ヽ 、 ヽ
/ 〈∧∠イ_∠_ `~ ヽ、_ヾ〉ト,)
ノ レ'¨_ニ=`ソ k'=ミYノ′
〃 l _f frj _,} {tj },hヽ
〃 f⌒'、{ `こニ ' ヤ='_{j )
'、 l i(_,`' ,冫 リ'´
'ヘN、 、ヾ、' ,, ,,、{
`^ーヽNミ'、,、 ,"'⌒ヾ, !
| ゙ゞ、,, _.ニ、、,,ヒ.,
fー- -→゙、,、,、",,,、,,、.゙、ミ
_ .イ彡," f ミj }! f:j{
,.. -‐'" ゙`'ー‐ ----,宀r‐^'ー- ._
トルメキア帝国最後の皇帝黒戸亜
武田謙信は戦国時代の名将で、現在の甲信越地方を治めていた名君であります。
風林火山の銘の元、「毘」の旗を掲げて川中島の中洲に館を構えていました。
平時は水も滴る美男子の愛妻家でしたが、戦の法螺貝が響くと髭を蓄えた鬼の形相
となり、領内平定に東奔西走しました。
後世(特に進駐軍時代)にはその八面六簸の活躍が誤解され「武田謙信は兄・謙仁と
弟の信玄が混同された架空の人物」とされてしまいました。 薔薇山美勝(バラヤマヨシカツ)
戦国時代から江戸初期の武将。春本の作者(工口淫春)「クグチインシュン」としても有名。
領土は百万石だったが息子が二百人居たために分割され大名薔薇山家は一代で消えた。その子孫もコドモが多すぎて薔薇山家は貧乏になり、最後には農民になった 知らなかったけど人力鉄道の歴史サイトがあった。
http://www.kk-net.com/~tabuchi/JINSHA.htm