大宰相・田中角栄論
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そう言いながら、接した人の心をつかんだんだよな。
麻生元総が半径2mの男と言われたように。 次の一節は、いろいろな角栄本にも引用された有名なインタビュー記事の一部だ。
<子供が十人おるから羊かんを均等に切る、そんな社会主義者や共産主義者みたいなバカなこと言わん。
キミ、自由主義は別なんだよ。(羊かんを)チョンチョンと切ってね、いちばんちっちゃいヤツにね、いちばんデッカイ羊かんをやるわけ。
そこが違う。分配のやり方が違うんだ。大きい奴には”少しぐらい我慢しろ”と言えるけどね、生まれて三、四歳のは納まらないよ。
そうでしょう。……それが自由経済というものだ。>
田中角栄は社会主義・共産主義というものは機械的な悪平等の思想だと思い込んでいて
自分の主張こそ由緒正しい社会主義・共産主義の理想だとは夢にも考えなかった。
「官公庁が発注する仕事は、一定のパーセンテージを中小企業に割り当てなければいけない」という官公需法も、
「大型店の新規開業には地元の零細商店の合意を必要とする」という大店法も、
「とにかく農民の生活水準を都市勤労者より低くしてはいけないのだから、生産者米価を上げるのに理屈は必要ない」という生産者米価の政治加算も、
全部「チョンチョンと切って、いちばんちっちゃいやつに、いちばんデッカイ羊かんをやる」政策だった。 角栄政権のプラスのほうに眼を転じれば、首相在任中にやってのけた功績がふたつある。
日中国交回復と、ソ連共産党書記長ブレジネフに「日ソ間には北方領土という未解決の問題が存在する」と認めさせたことだ。
どちらも社会主義政権相手の仕事だった。
後に訪朝議員団団長として北朝鮮を訪問した金丸信が朝鮮労働党の国を挙げての「熱烈歓迎」に手も無く丸めこまれてしまったのも、
もともと国家社会主義者同士だったからだ。
さらに、「遅れてきた田中角栄」鈴木宗男があれだけロシアの官僚たちと肝胆相照らす仲になれたのも、
お互い国家社会主義者同士で話が通じやすかったからだ。
日本中に増殖した田中角栄とその亜流たちには、「人間は自由意志を持った動物だから、行きたいところへ行き、やりたいことをやり、
住みたいところに住む。それを統制でねじ曲げようとしたら、とんでもないロスが生じる」という経済学的発想はちんぷんかんぷんだった。
そんな「わけの分からない理屈」をこねる連中より、革命世代の中国共産党首脳陣、旧ソ連官僚、そして北朝鮮労働党の同志諸君のほうが、
はるかに気心が通じたはずだ。 世界中にたったひとりだったかもしれないが、一九七二年という早い時期から田中角栄政権誕生の本質を
「革命家」による政権奪取と見抜いていた社会主義国指導者がいた。
彼は、岩波書店の総合誌『世界』に掲載されたインタビューで以下のように答えている。
<日本人民の闘争が強まったために佐藤反動政府は追い出され、田中政府がこれにかわりました。
これは日本人民の闘争の結果だといえます。われわれは日本人民の闘争を高く評価し、それを全面的に支持します>
(坪内祐三、『一九七二─「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」 』、二〇〇三年、文藝春秋刊より引用)
当時の北朝鮮国家元首、金日成だ。
まさに、「英雄、英雄を知る」と言うべき洞察力だ。
いや、近年出版された青木直人著『田中角栄と毛沢東─日中外交暗闘の30年』(二〇〇二年、講談社刊)を読むと、
毛沢東も田中角栄を「日本に革命を起こした同志」とみなしていたようだ。
歴史に残る毛沢東・田中角栄会談は茶飲み話ではなく、実務家同士らしく「米ソ覇権主義二大帝国に抗して、日中同盟を作ろう」という議論をしたらしい。
その後毛沢東は没し、田中角栄が言葉と知的能力の大半を失ってからも、中国は律儀に一線級の政府や共産党の要人を田中のもとに送りつづけた。
毛沢東が「田中角栄先生は革命運動における同志だ。決して礼を失することがないように」と遺訓を残したのだろう。 「日本は、第二次大戦中から(あるいは、戦争直後から)世界でいちばんうまくいった社会主義国家だった」という通説を、
あまりにも安易に受け入れてしまっている人が多い。
しかし、考えてもいただきたい。
世界経済史上ほかには例を見ないほどの高い成長率が持続したあの戦後復興から高度成長期までの輝かしい時代が、
本当に「社会主義的な統制経済」で達成できたものなのだろうか?
「自由競争にもとづく市場経済より統制経済のほうがうまくいく」という思想の破綻は、世界中でいやというほど実証されている。
なぜ、戦後日本だけが、例外的に社会主義経済でうまくいったというのだろうか?
「先進諸国に対するキャッチアップには統制経済が向いている」という主張には何の根拠もない。
世界中の社会主義革命は中進国、後進国で起きており、社会主義政権は例外なく先進国に対するキャッチアップ政策を掲げた。
しかし、統制経済のままでキャッチアップに成功した国はない。
頑固に統制経済を維持した国は、体制そのものが転覆して市場経済に戻ったか、
北朝鮮のように国民に食うや食わずの生活をさせながら慢性的戦争プロパガンダでかろうじて政権を保っているかのどちらかだ。
中国のように徐々に自由競争の市場経済を導入して統制色を弱めた国だけが、
まがりなりにも「社会主義政権」のたてまえを守りながら経済成長を達成している。
「キャッチアップなら社会主義的な統制経済のほうがうまくいく」なんて実例は、世界中探しても見当たらない。
朝鮮戦争特需やアメリカの占領政策に高度成長の原因を求めるに至っては、
「日本人はどうせだめな民族なんだから、自分たちの努力だけで立派なことができたわけがない。
だから、高度成長もだれかの振り付け通りに踊っていたから達成できたのだ」という、
とんでもない欧米崇拝志向以外には根拠を持たない発想だ。
特需や資金援助で経済が発展するものなら、ウルグアイ・ラウンド以後の日本農業は世界の最先端を行く
高収益産業になっているはずだ。
アメリカの占領政策や経済政策への干渉・介入で高度成長ができるものなら、
フィリピンやメキシコはとっくの昔に世界の先進国の仲間入りをしていたはずだ。 戦後の日本経済は、世界中でもめずらしいくらい階級とか身分とか人種とかの差別の少ない社会で、
しかもみんなが自由に自分にとって何がいちばんいいかを判断して行動できる、自由競争の市場経済の理想型に近い社会だった。
欧米諸国の租税負担が軒並み国内総生産の三〇〜四〇パーセントを占めていた中で、日本の租税負担は二〇パーセント台の前半ですんでいた。
だからこそ、民間企業が自由な競争の中で大胆な設備投資をする資金的余裕があり、一貫して高い民間設備投資が高度成長経済を実現したのだ。
また、高度成長期の日本は失業という現象を永遠に追放してしまう一歩手前まで近づいた社会だった。
欧米諸国での完全雇用の目標が失業率三パーセントであり、実際の失業率は好況期でも四〜五パーセント、
ちょっと景気が悪くなれば簡単に二桁になってしまう中で、日本の失業率はほぼ一貫して二パーセント以下だった。
しかし、一九六〇年代の終わりから七〇年代の初めにかけて、高度成長を可能にした自由で統制色の薄い経済を
根本から変えてしまう一連の政策が実行された。 この一連の政策は、間違いなく社会主義的だった。
「中小企業は大企業に比べて競争力がないから保護してやらなければならない」、
「地方は大都市圏に比べて競争力がないから保護してやらなければならない」、
「零細地場商店は大型店舗に比べて競争力がないから保護してやらなければならない」、
「農林漁業に従事する人たちは製造業やサービス業に従事する人たちに比べて競争力がないから、
あるいは海外の低賃金で同じ仕事をする人たちに比べて競争力がないから保護してやらなければならない」といった政策ばかりだからだ。
ところが、日本人の大半は、一九六〇年代末から七〇年代初めに日本で「忍び寄る社会主義」勢力が政権奪取に成功したなどということは、夢にも考えなかった。
想像もしていなかったところから出てきた社会主義勢力だったので、呆気にとられているうちに革命政権が誕生してしまったのだろう。
日本型「忍び寄る社会主義」が生まれたのは、イタリア共産党構造改革派のこむずかしい理論闘争の中からでもなく、
イギリス労働党左派フェビアン協会のメンバーたちの優雅にアフタヌーンティーをすすりながらの雑談の中からでもなかった。
それは、越後の山の中から生まれたのだ。
社会主義革命の張本人が自分のことを「激烈な反共主義者だ」と信じていたこと、
彼が自民党の一派閥の領袖だったこと、そして金権政治をめぐるスキャンダルまみれの政治家だったことに、
日本人の大部分が眼をくらまされていた。
もちろん、越後から山を越えて東京に出てきた日本の「忍び寄る社会主義」革命の指導者とは、田中角栄のことだ。 田中角栄の主要な大罪リスト
1 老人医療費無料化というバラマキ
2 年金支給額の大幅アップ(二倍以上)
3 公立学校教員の給料を大幅アップ
4 私学助成金という、憲法違反のバラマキ
5 過剰な公共事業を通じてのバラマキ(均衡ある国土の発展という妄想)
6 中国共産党独裁政権(周恩来)との国交回復(チベットやウイグルでの中共の蛮行は無視)
7 シベリアへ開発への資金援助(北方領土問題もシベリア強制連行の補償などは棚上げ)
8 利権・金権による大派閥を率いる政治。国会からマトモなディベートがなくなってしまった。
9 中国に土下座外交をする、竹下登、小沢一郎、岡田克也などの弟子を輩出したこと。
10 日本に蔓延する拝金主義の元凶。財界トップすらも、目先の商売のみを優先し、総理祭神は靖国参拝をするななどと言い出す始末である。
たしかに、恵まれない生い立ちから、総理大臣にまで出世したのはすごいことであるが、それだけの話である。
彼が、日本の国益を棄損したことは甚だしい。
大盤振る舞いのバラマキ政策が、現在の財政赤字に直結している。 田中角栄は良かったがその後継が悪かったとか言い訳しながら小沢を嫌ってる倒錯した中高年が多いよな。
真実はぜんぜん違う。田中角栄自体がダメだった。
日本を駄目にしたのは田中角栄であるのは明白であるにもかかわらず
自分自身がバラマキの恩恵を享受した「既得権益」だからこそ角栄を否定することはできないんだろう。 田中角栄が駄目なのだからその後継者が駄目なのは当たり前のこと。
途中で駄目になったのではなく最初から駄目だったんだよ。
田中角栄は高度成長の果実に寄生できたが小沢には元手がないというだけの話。 コピー商品激安
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http://www.gucci33.com 田中角栄は、単なる保守政治家ではなく、体制内革命を成就した革命家だった。
佐藤内閣をできるだけ長持ちさせ、クラウンプリンス福田赳夫の首相就任を阻止しながら行われた
党中党建設、派中派建設は、革共同・革マル派もうらやむ手際の良さだった。
都会の有権者は争点次第で投票行動も違ってくるが、いったんつかんだ地方の有権者は
本人が大都市圏に移住しない限りずっと支持基盤になる。
ここに眼をつけた、「地方から攻め上って都市を包囲する」選挙戦略は、毛沢東もうらやむ辺境革命理論の実践だった。
一言で言えば、田中角栄は戦後日本政治の中で唯一政権奪取に成功した革命家なのだ。
彼は政治手法を自民党の先輩代議士たちからではなく、三宅正一や小林進などの
社会党の農民運動指導者から学んだと言われている。
<初当選のころの田中は、有権者との付き合い方を”日農”を指導していた当時の三宅正一社会党代議士から伝授されたと言います。
”田中君、一票が欲しければまずそこの家に上がってお茶をごちそうになることだ。そのうえで、お茶代を置いてくるんだ”と。
有権者とのスキンシップですね。それを、若き日の田中はそのまま実行した>
<地下タビに脚絆、昼メシどきになると握りメシを抱えて農家の縁先を借りる。
”すいません。ちょっとここでメシを食わせてもらっていいですか”。”……まア、家に入りなさい”ということになる。
家に上がればしめたもので、持論を訴え、聞いてもらうことで”一票”を手にしていくことになる>
(小林吉弥、『高橋是清と田中角栄─日本を救った巨人の知恵』、二〇〇二年、光文社知恵の森文庫)
こうした政治手法だけを拝借して、政治理念や哲学は旧来の自民党の現状維持思想のままということがありうるだろうか?
一晩農家に泊めてもらえば、そこでどんなことに困っているのか、どんなものが欲しいのかといった話をじっくり聞くはずだ。
こんな選挙運動をして当選した政治家が、泊めてもらった農家で聞かされた不満や要求を解決しようとしなかったとしても、
「あの人はうちに泊まってくれたことがあるから」というだけの理由で、票を取りつづけることができるだろうか?
日本の農民をそこまで見くびってはいけない。
自分のところに不満や要求を聞きに来た代議士が、国会ではその不満や要求を無視するような政策を取りつづけたら、
一度や二度は許しても、いずれ落選させるだろう。
ましてや、田中角栄は自民党の代議士だ。
社会党の代議士のように「努力はしたが、政権を握っていないから官僚組織を動かせなかった」という言い訳は通用しない。
つまり、田中角栄の政治手法は必然的に政治理念をも社会党系の急進農民運動の理念に変えて行ったのだ。
そして、田中角栄は、地方の農民たちが抱いている大都市圏に対する劣等感と羨望の念、そしてその裏側にある
「われわれは、もともと都会人に比べると非常に不利な立場にあるのだから、都会人に一泡吹かせるためなら、
多少は汚い手を使ったとしても許されるはずだ」という意識を完全に共有していた。 田中が筋金入りの反知性主義者だったことは、彼の経済思想の材料がどんなに乏しかったかで見て取れる。
彼が生涯を通じて尊敬した知識人は、母校二田尋常高等小学校の校長、草間道之輔と、
理研コンツェルン創始者で農村工業論の提唱者、子爵大河内正敏だけだ。
大河内正敏は、一九三〇年代の荒れた世相を背景に、「農村への工業の移転こそ、農村の疲弊を救い、
流入民の激増による大都市圏の政情不安、治安悪化をも救う理想の政策」と主張して、
当時の「革新派」軍人や革命志向の右翼の注目を集めていた。
田中角栄が、生涯を通じてこの「農村工業論」以上の経済認識に到達したとは考えられない。
一連の「過密と過疎の同時解消」政策を推進する上で、一瞬たりとも、「都市に人が集中するのは、
経済効率がいいからではないか」といった疑念に駆られた形跡はない。
彼にとっては、「人口密度が高くて経済活動も活発な地域と、人口密度が低くて経済活動も停滞している地域があれば、
人口の多いところから少ないところへ人間を移住させるほうが効率的だ」というのは、疑問の余地がない自明の前提だった。
一九七〇年代初めには第一次全国総合開発計画発足以来の目玉プロジェクト、新産業都市建設計画は
全然軌道に乗らないのに、新産業都市周辺の地価だけは暴騰していた。
しかし、田中角栄は自分の政策に対する反省は抜きに、首相辞任で責任を回避しながら
「社会的弱者」のための利権連合という政権の枠組みを陰で操る道を選んだ。
野党も日本社会党から、公明党、民社党、共産党に至るまで、すべて田中角栄の過密・過疎同時解消論に正面から反論できなかった。
列島改造論の尻馬に乗って、「もっと上手に列島を改造する」とか、「もっと手厚く社会的弱者を保護する」といった、
お釈迦様の手のひらに乗ったような対案しか出していない。
その後約一〇年にわたって、「角影」内閣、「直角」内閣、「田中曾根」内閣といった造語でも分かるように、
責任も権限も明らかではない「無所属議員」田中角栄が日本国首相以上の権威を持って国政を牛耳る無責任体制が定着した。
「日本経済は草間道之輔の道徳論と、大河内正敏の工業配置論で切り盛りできる」と信じていた田中角栄に
戦前・戦中と戦後で日本経済の仕組みが変わったという認識はあったのだろうか?
おそらく田中角栄の経済観はまったく変わっていない。
戦前・戦中・戦後を通じて、田中角栄は「経済というものは利権のかたまりだ」としか思っていなかった。
「東京や大阪に経済活動が集中するのは、東京や大阪に利権が集中しているからであって、
利権を全国均等にばら撒けば経済活動も全国各地で均等化する」という見方だ。
「政治家や官僚からの特別待遇や早耳情報で他人を出し抜いていれば、多くの同業者とのきびしい競争を勝ち抜ける」なんて発想で
経営が務まるのは、地場の中小ゼネコンぐらいのものだ。
日本経済の中でいちばん効率的な大都市圏にある大企業同士の勝負がこんなちゃちな理由で決まるものなら苦労はない。
田中角栄の不幸は「経済とは利権のかたまりなり」という経済観を否定するような事件に、政治を志す前に出会わなかったことだ。 田中角栄さんのお陰で私の今日の生活があると思います。サンキューです。 一度、税金っちゅう目の前の湧き出る甘い汁の吸い方
教えてもらったら 狩りの本能なんか忘れてしまう
あとはそれにどれだけありつくかを考えるだけ
田中角栄氏の時にもっと深い先見性のある人間だったら
ここまでの借金堕落は無い 日本人を堕落させたのが田中角栄
政治家は施しで人間を駄目にする。
たとえ善意だったとしても。 3秀吉 50本120打点
4博文 45本150打点
5角栄205本420打点(自分操作)
俺のパワプロでのクリーンナップ。角栄さん主役の大河ドラマ見たいなあ。 東芝部品!!
日本は盗聴機器で終わった公明党は創価学会信者のみ
知るべき!
日本テロ装置犯人、医師アカギアイカワ50代歯科医サイトウツヨシ43歳
Googleで集団ストーカーと検索下さい
誤解のない様テクノロジー犯罪を理解願います
*公安が新興宗教を配下とし、オウム信者潜伏捜査からの誤作動は2004から!?
国民は20%公安に盗聴管理されてる
田中は派閥を円満に竹下登に譲る代わりにオーナーとして影響力を行使すれば竹下の暴走も食い止められたし、朝からウイスキーをがぶ飲みして倒れることもなかったろうに 角さんの政策はその時代の要請だったのにもかかわらず、いまだに方向転換できないのが、
問題なんだよな 中曽根にしても福田にしても、次代(渡辺美智雄元外相、安倍晋太郎元外相)より長生きしてるし、田中としては、田中→竹下→小沢→孜の路線をつくることもできたはずである。 防衛相、資産では存在感=野田改造内閣資産
17日公開された野田改造内閣の新任閣僚の資産(家族分含む)を見ると、田中直紀防衛相が
3億331万円と突出している。野田佳彦首相と留任閣僚を含めた平均5763万円をはるかに
上回っており、国会で野党から「資質」を追及されて防戦一方の防衛相も、「資産」では存在感を
示した格好だ。
もっとも、その3分の2は妻・真紀子氏の個人資産。防衛相自身の資産にしても、義父の
故田中角栄元首相からの相続分が大半だ。所有株式308万株の内訳も、越後交通(新潟県長岡市)など
田中家と関係が深い会社のものが303万株余りを占めた。防衛相は真紀子氏と結婚し、田中家に婿入りした。
防衛相は17日、資産について記者団から質問を受けたが、「(公開した資料に)記載以上のことを
話すことはない」として、多くを語らなかった。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012021700887
さすが
さすが 最近、興味を持ってこの人のこと少し調べてみたんだけど、
なんというか内面が全然見えてこない人だった。
私利私欲のためだけにやったとは思えないし、かといって理想に燃えていた
というだけでもない。
人の心を掴むのがやたらと好きで、目的は全てそこにあったんじゃないかと思える。
人を喜ばせたい、というのが病的な形で表れている。
見方だけでなく敵に対しても嫌われたくなかった人なんじゃないかな・・
みんなを自分のファンにしたいみたいな。 「日本は、第二次大戦中から(あるいは、戦争直後から)世界でいちばんうまくいった社会主義国家だった」という通説を、
あまりにも安易に受け入れてしまっている人が多い。
しかし、考えてもいただきたい。
世界経済史上ほかには例を見ないほどの高い成長率が持続したあの戦後復興から高度成長期までの輝かしい時代が、
本当に「社会主義的な統制経済」で達成できたものなのだろうか?
「自由競争にもとづく市場経済より統制経済のほうがうまくいく」という思想の破綻は、世界中でいやというほど実証されている。
なぜ、戦後日本だけが、例外的に社会主義経済でうまくいったというのだろうか?
「先進諸国に対するキャッチアップには統制経済が向いている」という主張には何の根拠もない。
世界中の社会主義革命は中進国、後進国で起きており、社会主義政権は例外なく先進国に対するキャッチアップ政策を掲げた。
しかし、統制経済のままでキャッチアップに成功した国はない。
頑固に統制経済を維持した国は、体制そのものが転覆して市場経済に戻ったか、
北朝鮮のように国民に食うや食わずの生活をさせながら慢性的戦争プロパガンダでかろうじて政権を保っているかのどちらかだ。
中国のように徐々に自由競争の市場経済を導入して統制色を弱めた国だけが、
まがりなりにも「社会主義政権」のたてまえを守りながら経済成長を達成している。
「キャッチアップなら社会主義的な統制経済のほうがうまくいく」なんて実例は、世界中探しても見当たらない。
朝鮮戦争特需やアメリカの占領政策に高度成長の原因を求めるに至っては、
「日本人はどうせだめな民族なんだから、自分たちの努力だけで立派なことができたわけがない。
だから、高度成長もだれかの振り付け通りに踊っていたから達成できたのだ」という、
とんでもない欧米崇拝志向以外には根拠を持たない発想だ。
特需や資金援助で経済が発展するものなら、ウルグアイ・ラウンド以後の日本農業は世界の最先端を行く
高収益産業になっているはずだ。
アメリカの占領政策や経済政策への干渉・介入で高度成長ができるものなら、
フィリピンやメキシコはとっくの昔に世界の先進国の仲間入りをしていたはずだ。 戦後の日本経済は、世界中でもめずらしいくらい階級とか身分とか人種とかの差別の少ない社会で、
しかもみんなが自由に自分にとって何がいちばんいいかを判断して行動できる、自由競争の市場経済の理想型に近い社会だった。
欧米諸国の租税負担が軒並み国内総生産の三〇〜四〇パーセントを占めていた中で、日本の租税負担は二〇パーセント台の前半ですんでいた。
だからこそ、民間企業が自由な競争の中で大胆な設備投資をする資金的余裕があり、一貫して高い民間設備投資が高度成長経済を実現したのだ。
また、高度成長期の日本は失業という現象を永遠に追放してしまう一歩手前まで近づいた社会だった。
欧米諸国での完全雇用の目標が失業率三パーセントであり、実際の失業率は好況期でも四〜五パーセント、
ちょっと景気が悪くなれば簡単に二桁になってしまう中で、日本の失業率はほぼ一貫して二パーセント以下だった。
しかし、一九六〇年代の終わりから七〇年代の初めにかけて、高度成長を可能にした自由で統制色の薄い経済を
根本から変えてしまう一連の政策が実行された。