【聖護院】本山修験宗【修験道】
聖護院の管長さんは、安保法制の廃止を求めておられますが、その前に、神仏判然令・
修験道廃止令の廃止を求めるのが先ではないでしょうか? 宮城 泰年(みやぎ たいねん、1931年12月28日 - )は、日本の修験道の僧侶、本山修験宗大僧正。聖護院門跡門主。龍谷大学客員教授。
略歴
1931年、京都府京都市左京区聖護院内の積善院に生まれる。龍谷大学文学部国文学科を卒業後、新聞社に勤務。
その後、聖護院に帰山。庶務部長、宗務総長、聖護院門跡執事長などを歴任し、
その間北爆下の北ベトナムや、ポル・ポト政権直後のカンボジアなどを取材し、仏教者と親交を深める。2007年、門主に就任。
新聞記者時代の経験を活かし、宗教者の平和活動に取り組む。
京都仏教会常務理事、京都府・京都市仏教会事務局長、日本宗教者平和協議会代表委員、宗教者九条の和代表世話人、
平和・民主・革新の日本をめざす全国の会代表世話人などを歴任。龍谷大学文学部仏教学科で教鞭をとる。
修験道に関する研究も多く、修験道場である大峰山などのいわゆる女人禁制については必ずしも固持せず、独自の見解を持つ。 宮城泰年師インタヴュー
https://www.yuki-iwama.com/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89%E9%96%A2%E9%80%A3/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E6%B3%B0%E5%B9%B4%E5%B8%AB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B4%E3%83%A5%E3%83%BC/
龍大に入ったのは、中学校を自分でおれなくしたような生活になってしまったし。
入ったのは後になって何をしようかということやなしに、とにかく戦争の忌まわしい思い出から逃れるために龍大に入っただけのことや。
予科1年おって予科はそのまま。2年のときに新制の1年になるんやけども。
とにかく龍大入ってよかったと思うたんは、先生、いわゆる教授が僕らを対等に扱うということが分かって。大学生になった途端に。
中学生では教師はどこまでたっても先生で、上からもの言いよった。ところが龍大入ったら「宮城君」と言って、「君」付けられたんやね。
接し方というのは、そういうふうに1人1人を認めた。その当時の龍大生というのは、僕が1年で入った全員集めたかて200人そこそこやからな。
先生はみんなの顔すぐに覚えれられるようなもんやろ。
その次に、龍大というのは、なんと、ぼんぼんの集まりやなと思うたんやわ。
たかだか200何人という同級生はほとんど浄土真宗のお寺の息子ばっかりだった。
僕が入ったときに、「宮城、おまえ、寺どこや?」って言われた。
「ここや。聖護院や」、「聖護院、何宗や?」、「山伏や。修験宗や」と言うたら、「雑行雑修やの」って言われたやん。
「雑行雑修」って何のことや分からへんの。知ってる?
それで家帰って、おやじに、「雑行雑修っていうのは何ちゅうねん?」って言ったら、
「それはな、蓮如上人が言わはった言葉でな。いまだにそういうものの見方しとるんか」と、おやじが言った。雑行雑修を。
しかし浄土真宗から言ったら、「なるほど、雑行雑修なんやな」と。
もう、ひたむきに阿弥陀(あみだ)信仰に打ち込んではる世界から言うたら、知らんとこやから、
「雑行雑修」って言われても、それは彼らからの立場から言うたらしゃあないやろうけれども。
で、そこから「雑行雑修や」って言うた連中と仲良うなってね。
仲良うなってよかった思ったんは、食い物が当たるようになって。当時、まだ、あんた、お米は配給やろ。 彼らは田舎のお寺から出てくるから仕送りがあるわけや。檀家(だんか)さんが多い。
そしたら、「うちの若が、ご本山の学校へ行ってる」っていうことで、檀家さんが一生懸命応援してくれるわけやね。彼は裕福やった。
僕みたいに、下駄はいて、がらがらと行ってるっていうようなのはおらへんし。アルバイトしているのなんかも、ほとんどおらんかったしね。
龍谷大学の前には、大宮本校の入ったところのすぐ左側に、今、大宮の資料室みたいな小さなのがあるやろ。グッズなんか見せてる。
あの場所の後ろ側に「典座室」っていうのがあったんや。
「典座」いうのは、毎朝、本館の阿弥陀様に、お扉開けて、お光をあげて、お勤めの準備をする。
もちろん、そこの掃除もする。そのお仕えする人間が、そこに生活をするの。
それを、推薦なのか何か知らんけれども、学校側が選んだ浄土真宗のお寺の息子がそこにいる。
で、僕らの仲間が1人、そこに入ったわけや。坂上君いうてな。
ほいで、そこの典座室には、当然、浄土真宗の子がみんな集まってくるわけや。
どういうことか、僕もいつの間にやらそこへ入るようになってね。そこへ行ったら、いろんなもんがあるんよ。お米はあるし。
とにかく何か何か、その国からトウモロコシ送ってきてたり、ジャガイモ送ってきてたり。
というようなことで、典座室で浄土真宗の仲間に一緒になって。
それで、そういう中から、僕に興味を持たしてくれたのは、ヨットの操縦方法を教えてくれる子やとか。
そのかわり、僕はその当時すでに自動車の免許を持っていたさかいに、一緒にドライブクラブ。
その頃はレンタカーって言わへんのよね。ドライブクラブって言うて、貸し自動車屋があったんよ。
すさまじい車、もう、どこで潰れてもいいような車を貸し出しとったけど、それに乗って走っていったり。
とかいうようなことで、なおさら浄土真宗の人たちとのつき合いが増えていった。 話はどーんと飛ぶけれども、やがて、龍谷大学に勤務することになった。
それが済んだら、今のように客員教授になった。ずっと縁がつながっているというもとになるんやろうと思うんやわ。
それだけじゃない。龍谷大学の幅も広くなって、「雑行雑修や」言うてたかて、仏教学の力が強くなってきた。真宗学だけではなしにね。
でも、仏教学の教授の中に、僕らとの関係のつながった人ができてきていたっていうことがね。だから、人ってのは大事にしとかんなんな。
大学っていうのはやっぱり仲間を作る、友達を作る。すぐに芽が出てくるものではないけれども、やがて芽が出てくる。
その中には、去っていく者もあるし、新たな芽を持ってきてくれる者もあるし。いろんな人が出てくる。
僕は大学っていうのはそういうとこやないのかなっていうようなことは、今でも思っているのね。
龍谷大学では、僕は途中まで社会学を選んでたけども、僕にはちょっと合わない、という感じがしたので、国文学へ転科したんよ。
そやから、龍谷大学は、予科1年おって、それから新制大学5年おったから、合計6年おったわけだ。その頃はよかったわ。
入学したときの授業料が卒業までついてくるねん。同じ料金で。年々上がらへんのやわ。
その龍谷大学っていうのは、別に社会にそんなに目を向かしてくれたわけではなかったんやけれども、たまたまそういう多くの仲間がいて。
それから写真部だとか書道部だとか、いろんなクラブ活動に入った中で写真部の仲間が、「おれは新聞記者になる」、
「おれはカメラマンになる」っていうようなのがおって。僕もどっちみち聖護院っていうか、山伏の世界に入らなならんのやから、
お寺に入る前にはどこかをしっかり見ておきたいというふうに思うようになって。
それで新聞社へ入ろうと。社会に触れるっていったら、新聞社か、僕が受けたんはその当時すでに交通公社があった。
昭和29年ですからね。それと放送局と。で、放送局も交通公社ももちろん落ちました。それで新聞社へ入ったんは多少のコネを使って。
うん。それで、『新関西』という夕刊紙に入った。毎日新聞社系の夕刊ですね。
おやじは、「2年やぞ」と言ってね。そこが面白かったさかいに足かけ4年行ったんやけどね。 五大力さんのお札って、大祭の当日でなければ購入できないの? ところで、聖護院のパトロンで誰?
中坊のオッサンが経営していた御殿莊からの上納金よりも多額の金員を献上して
いる法人はあるのだろうか?
盆と暮れには、宮内庁の京都事務所長が金一封を持ってくるのが恒例行事のよう
ですが、中身は、どれくらいなのかな?
天皇が上洛されたおり、聖護院へ来られたことあるのかな?
数年前、京大の某教授が、光格天皇が出された討幕のご詔勅について言及したが、
反響は少なかったようね。 深仙、葛城灌頂ってどうすれば受けられるのでしょう?
受法資格ってあります? >>16
聖護院配下の山伏で、大峰山登頂回数や、ある程度の僧位を持つことが必要のようです。
このような質問をされるということは、部外者の方なのかな? 先日、聖護院門跡から深仙灌頂の案内が来ました。
来年秋に21年ぶりに開壇するそうです。
受法資格についても説明がありました。
一年以上前の今の時点で案内を送ってきたのは、現時点で受法資格がなくても
これから受法資格を取ることは可能だからというのもあるようです。
私の場合、現在受法資格はありませんが、なんとか入壇までこぎつけたいと思います。 近現代の山岳宗教と修験道―神仏分離令と神道指令への対応を中心に―
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f43-5.pdf
全国各地の修験霊山でも種々の形で神仏分離が行なわれた。
けれども明治2年(1869)5月18日まで戊辰戦争が続いたこともあって、
神仏分離の実施は諸藩の霊山、社寺でそれぞれ異なっていた。
その際多くの霊山や社寺では、各藩県に伺い出て、その指示にもとづいたが、
それでも決裁がつかない時は、中央官庁に伺ってその指示に従って実施した。
近世以来、本山派を統轄した聖護院では、慶応4年1月8日に聖護院門跡が還俗して海軍総督となった。
もっともその後も園城寺別当と修験道管領は兼職した。
一方当山派を統率した三宝院門跡の易宮は明治4年(1871)に復飾して閑院宮載仁親王となっている。
こうした中にあって、東国に多くの霞を有した本山派の若王子殿役所では、
明治2年(1869)2月に奥羽両国并に常州本山修験中に対して、
神仏分離令で両部(神道と仏教)習合は相成らずとしているのは、
神は神式で祀り、仏には仏の作法で勤め、両者を混淆しないということである。
それ故修験者は従来通り有髪妻帯し、古例にのっとった奉幣式、
七社引導、院主の自葬祭を実施するように、との触を出している。 聖護院八つ橋の鈴鹿は本家西尾の歴史を横取りして元禄2年創業とウソをでっち上げしているが本当は昭和2年創業だ。 貴方が自分の力発揮できたと思ったのはどんなときですか 聖護院塔頭積善院五大力尊法要
2019(平成31)年2月23日(土)
開闢法要7:00〜
大般若経転読法要10:30〜
柱源護摩供13:00〜
粕汁接待9:00頃〜(無くなり次第終了)
金剛吼菩薩 ・無畏十力吼菩薩 ・龍王吼菩薩 ・無量力吼菩薩 ・雷電吼菩薩の五尊の掛け軸が公開される。 5ちゃんねる荒らしに来る子ら、会社クビになった子の霊つけて言いにきとんで。 清水寺採燈大護摩供
8月16日(金)15:00〜
聖護院門跡山伏出仕 深仙灌頂、無事受けることができました。
思えばこの道に興味を持ったのが深仙・葛城灌頂の古い記事を見たのがきっかけでしたので
実際に自分が受法できて感激です。
葛城灌頂もなんとか受法したいものです。 9万円もの高額費用を出してまで、よく参加されました。少し冷静さを取り戻されることが良いのでは。 深仙灌頂って秘印など授かるの?
授かってなにになるの? 深仙灌頂受けられるなら、九万円なんて些細な額だわ。
誰でも受けられるものでもないし。 >>39
いや聖護院の得度山伏ならば受けられるだろう
それで受けてなんの資格があるの?
秘印の伝授は?