【鶏声台】「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」は捏造です!【小石川区原町】 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
東洋が叫ぶ「白山の哲学」は捏造じゃね?(前スレ)
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/joke/1448240658/
・「白山」の由来は白山神社である(白山神社は日本各地に存在する)
・戦前の白山は花街(風俗街)として有名で、品のいい土地ではなかった
・戦前の東洋大学の住所表記は「東京市小石川区原町17番地」である
・東洋大学白山キャンパスは「原町校舎」と呼ばれていた
・原町が現在の白山3〜5丁目になったのは昭和42年である
・戦前の東洋大学の最寄り停留場は白山上ではなく曙町だった
・哲学館(東洋大学の前身)は哲学の速成教育の学校であり、決してエリート養成校ではない
・東洋大学の学歴のみで教授になった人はほとんどいない
・井上円了は哲学館の校外移転を目指していた(移転予定地は公園になった)
・大正末〜昭和初頭の受験案内本だと早慶は大学、東洋は専門学校として扱われている
・笠智衆によれば大正末期の東洋大学は無試験全入だったそうだ
・東洋大学の昇格が遅れたのは資金不足と学校騒動(境野事件)のせいである
・戦前の東洋大学には専用グラウンドがなかったので、スポーツでも存在感がなかった
・東洋大学が六大学野球に誘われたというのも嘘
・東洋大学校歌「亜細亜の魂」の歌詞に「白山」は見られない
・大学昇格後は学生数激減→授業料収入激減で大ピンチ
・昭和12年に学外から財界人(大倉邦彦)を学長に迎えて経営再建
・戦後の学校再建の際に大日本獅子吼会から資金援助を受ける(のちに金銭トラブル発生)
・東洋大学が受験案内本で「白山」をアピールするようになったのは昭和30年代から 幕末・明治・大正回顧八十年史 第二十輯(昭和10年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109563/32
教育会の名士
福沢諭吉(慶應)や高田早苗(早稲田)、新島襄(同志社)、岸本辰雄(明治)、岡野敬次郎(中央)、嘉納治五郎(高師)は載ってるのに、井上円了(東洋)は載っていない。 【偏差値ではどこがいい?序列は?Fラン?】日東駒専の中でおすすめを解説
https://manabu.biz/nihon_toyo_komazawa_sensyu/
何だこの捏造は。
>戦前では、三田(慶應)の理財、早稲田の政治、駿河台(中央)の法学、
>白山(東洋)の哲学と呼ばれるほど、有名な大学でした。 虚偽報道の背景
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E5%81%BD%E5%A0%B1%E9%81%93#%E8%99%9A%E5%81%BD%E5%A0%B1%E9%81%93%E3%81%AE%E8%83%8C%E6%99%AF
虚偽報道が後を絶たないことに様々な理由が挙げられる。
取材者や編集者の目論み・思想と事実・現実との差
根本的な理由としては、記者・ディレクターや取材チームが取材を開始する以前に、
記事に対する評価の期待値を計算し、自分なりの見通しや願望を立てていることがある。
特にドキュメンタリー番組・映画などでは撮影以前に企画者がシナリオを作成している事が当たり前である。
取材・撮影の進展によって予想外の事態が発生したり、
思わぬ事実、さらには自分の理想・思想と相反する実態が判明することも、当然多々起き得るものである。
取材者・企画者がそれを受け入れて、自分で組み上げた見通しやシナリオを、
取材した事実に沿って修正する事ができるならば虚偽にはならない。
だが、当初のままで押し進め、映像やコメントを自らの意図に沿う形に編集したり、
取材対象者に自身の発言ではなく取材陣の求める内容の発言をさせるなどして、事実を歪めれば虚偽報道に陥る。 偽史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E5%8F%B2#%E4%BE%8B%E3%83%BB%E9%A1%9E%E5%9E%8B
ロバート・キャロルは、偽史というのは(たとえば)次のような作為的な歴史だ、とした。
神話や伝説やサーガやそれに類する書きものを、文字通りに本当に起きたこと、と見なしてしまう。
昔の歴史家たちが残した記述を、批判的にあるいは懐疑的に読むこともせず、彼らの記述を ただ真に受け、
昔の歴史家の記述のまちがいを明らかにしてくれるような実証的あるいは論理的な証拠を無視してしまう。
現在の何らかの政治的な論点や宗教的な論点を支持しようとすることのほうが主たる目的として語られ、
過去に関する事実を見つけることについてはないがしろにしてしまう。
歴史というのは神話をつくりだすことなのだと主張する。
伝統的なアカデミックのスタンダードを用いれば、複数の異なる歴史と歴史を比較ができる、ということを拒否。
つまり伝統ある学術のスタンダード(正確性、実証性、論理的一貫性、関連性、完全性、公正であること、
誠実であること、等々等々)を拒み、モラルや政治の土俵にしか立とうとしないこと。
昔の文書を用いる時に、えこひいきがあり、自分の論点に都合のよい文書は好意的に扱い、
自分の論点に都合の悪い文書は無視したり棄却する。 東京六大学の由来
https://blog.goo.ne.jp/neuro-philosophy/e/6f02e67e06bc9d42378b784c03c78275?fm=entry_awc
明治、立教、法政はFランといいながら明治、立教、法政に入れなかったのが河村次郎。
そもそも六大学リーグが成立した時点で東洋は大学ですらなかった。
最低でも法政に受かっていれば、ここまでひねくれた考えを抱くことはなかったろうに。 戦前から東洋大は寺の子弟がゆく坊さん学校だったそうなので
そこから白山の哲学という売り文句がきているのだろう
坊さんになるわけでもないのに東洋大にゆくやつは珍しかった 社会学部の沿革
https://www.toyo.ac.jp/ja-JP/academics/faculty/soc/soc-history/
社会学部50周年記念事業の「 東洋大学社会学部年表(稿) 」より抜粋、編集しました。
1949年4月 新制大学へ移行。文学部第1部(哲学科・国文学科・中国哲学文学科・史学科・英米文学科・社会学科)設置(社会学科入学定員80名)
・・・仏教学科が抜けてます。
https://www.toyo.ac.jp/site/diph/enkaku-2.html 東洋工作員のいう白山の哲学の「哲学」は西洋哲学のことだろ。
昔の東洋大学が仏教色の強い学校だったという事実を意図的に隠している。 河村次郎
山内太地
石渡嶺司
東洋出身の大学評論家はロクなのがいない。 743:名無しなのに合格:2023/01/30(月) 02:54:50.94 ID:QWyRy4OA
確かに当時の中央も日大も高文の実績はあるが、
現代の我々がイメージする「名門」ではないよ
旧制中学や商業学校を出たものの、
学費に乏しい苦学生が昼間働きながら立身出世を夢見て通う夜間主体の学校
両校とも夜学の学生が全体の七割を占めていた
744:名無しなのに合格:2023/01/30(月) 03:02:13.68 ID:QWyRy4OA
中央大学も日本大学も昼間の法学部や法文学部が主体ではなく、
当時の夜学部である専門部こそ大学経営の要だった
具体的に言うと、
中央大学専門部法科、日本大学専門部法科、日本大学専門部政治科
ちなみに中央大学法学部政治学科は戦後に新設されている 主要私学の在学生数(天野郁夫『大学教育の日本的構造』より作成)
┌───┬──────┬──────┬──────┬──────┐
│ │明治38(1905)│大正04(1915)│大正14(1925)│昭和10(1935)│
├───┼──────┼──────┼──────┼──────┤
│慶 應│ 1151 │ 2748 │ 6853 (16.9)│ 7306 . (7.7)│
│早稲田│ 4908 │ 5232 │ 9753 (41.4)│. 17242 (47.4)│
│明 治│ 2558 │ 1901 │ 5723 (49.4)│ 6313 (49.1)│
│日 本│ 1838 │ 2374 │ 8665 (80.1)│. 12204 (67.7)│
│中 央│ 1422 │ 2169 │ 4473 (65.1)│ 6838 (61.5)│
│法 政│ 1045 │. 818 │ 3288 (29.3)│ 4148 (46.1)│
│専 修│. 411 │. 831 │ 1074 (65.1)│ 2244 (44.1)│
│立命館│. 715 │. 558 │ 1367 (78.0)│ 2027 (53.8)│
│関 西│. 962 │. 967 │ 2493 (63.9)│ 4495 (69.5)│
├‐‐‐‐‐‐┼‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐┼‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐┼‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐┼‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐┤
│東 洋│. 228 │. 169 │ 1614 (65.8)│. 554 (61.7)│
└───┴──────┴──────┴──────┴──────┘
( )内は専門部在学者の占める比率 「早稲田の政治」といっても、政経出身の総理大臣は21世紀に入るまで現れなかった。
石橋湛山 早稲田大学文学部
竹下登 早稲田大学商学部
海部俊樹 早稲田大学第二法学部
小渕恵三 早稲田大学第一文学部
森喜朗 早稲田大学第二商学部
福田康夫 早稲田大学第一政治経済学部
野田佳彦 早稲田大学政治経済学部
岸田文雄 早稲田大学法学部 「早稲田は、明治十五年に創立した時、自由民権論の真っ只中の時代的要求に応じ、東京専門学校の大黒柱は政治科だった。そして十年を経過する中に、当座の目標としていた議会政治はかち取ったため、つまり、もう政治を大黒柱とする役目はすんだのだ。」(木村毅『都の西北―早慶野球戦史を中心に』ベースボール・マガジン社、1978年、248ページ) 1922年 - 専門学校令による慶應義塾大学部理財科廃止
1926年 - 中央大学が駿河台南甲賀町に移転(それまでは神田錦町にあった)
したがって、「三田の理財」と「駿河台の法学」が同時期に並存することはない。 理財理財と言ってる奴らは慶應をいつまでも専門学校扱いしている。 専門学校令による大学予科生は、甲種中等学校(5年制)を卒業して入学し、
1年間修学した後、大学部本科に入学する。一方、専門部正科生も、大学予科生と同じく
甲種中学を卒業して入学するのだが、専門科目の講義は大学部と全く異ならず、
ともに机を並べて3年間授業を受けることになっていた。だから大学部生からいえば、
内容は専門部と同じで名前が違うだけ、予科に1年(大正7年からは2年)余計に通う分、
無駄だということになる。明治38年4月から大学昇格までの16年間に大学部を卒業した者が、
わずか205名(法律科102名、商業科95名、経済科8名)にすぎなかったのも、実はこうした
理由からだった(この間、専門部卒業生は毎年少なくとも70名、多い時は300名におよんで、
大学部とは雲泥の差があった)。
また、仮に卒業して「大学卒」の肩書を持ったとしても、修業年限の点で帝国大学卒とは大きな差があった。
なぜなら、帝大へ入学する学生は、中学校を修了後(4年修了で高校受験資格があったとはいえ)、
3年制の高等学校を卒業していたからだ。これに対して本学の大学予科は1年制だったので、
高校―帝大コースに比べて修業年限で2年短いことになる。専門学校令による大学卒業生が、
社会に出て給料その他で帝国大学卒業生より低い扱いを受けるのは、こうした理由からだった。
大正7年4月に大学令公布が近いとの予告に従って、本学は予科を2年に延長したが、
それでも帝国大学とは依然、1年の修業年限の差があった。しかし、昇格しさえすれば
卒業生に対する評価もやはり変わってくる。学生たちが大きな期待を寄せたのも無理がなかった。
ただ、ぐずぐずしていると専門学校令による大学を卒業しなければならず、それではがまんして
2年も予科に学んだ意味がない。予科生たちがあせりを感じ、血盟という行動をとってまでも
昇格の早期実現を学校側に働きかけたのには、こうした事情があったからである。
(学校法人関西大学 『関西大学百年史』 通史編上巻、昭和61年、364-365ページ) 昇格のために卒業延期
当時の学生たちが、いかに専門学校令による大学を卒業するのを嫌ったかは、
わざと卒業を遅らせていることからも想像できるだろう。
例えば、委員の1人だった織田佐代冶(大14大法)は、大正8年に予科へ入学したが一旦退学し、
改めて9年に入学し直した。そして11年学部へ進学し、14年に大学令による第1期生として卒業した。
似たような学生は、他にもたくさんいたという。血盟にかける意気込みが強かったのも、当然といえるだろう。
(学校法人関西大学 『関西大学百年史』 通史編上巻、昭和61年、365ページ) 博文館編纂部編『大東京写真案内』昭和8年
淀橋区
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212509/1/88
「収容学生一万五千を有する早稲田」
芝区
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212509/1/35
「城北の早稲田大学と並び称せられる私学の雄」
神田区
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212509/1/24
「白雲なびく駿河台の明治大学以下、中央日本、専修の各大学を始め・・・」
小石川区
https://dl.ndl.go.jp/pid/1212509/1/46
文理科大学、高等師範、拓大、女高師、日本女子大は紹介されているが東洋は・・・ サルトル、ボーヴォワール:義塾を訪れた外国人
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/foreign-visitors/201601-1.html
革新的な思想の持ち主であるサルトルらが、
官立の大学や大手新聞社などの招聘を受けず、
私学である慶應義塾の招きを受けたのも、
サルトル、ボーヴォワールの研究者、翻訳者に
義塾の教授陣、塾員や慶應義塾の関係者が多かったこともあろうが、
当時の政権から自主独立(独立自尊)していたことを
評価されていたことも否定しがたいことだろう。
東洋大学が哲学の名門ならサルトル級の哲学者くらい招待できるだろ。 慶應義塾大学通信(法・経済・文)
https://www.tsushin.keio.ac.jp/
・入試倍率は1.5倍。受験者の6割以上合格
・受験はネット出願で書類選考のみ(東京に行く必要無し)
・学費は年間僅か20万円(教材費レポート添削費用等込)
・新入生の45%(5割以上)が18歳〜29歳と若年層が増加
・卒業率は47パーセント。611人入学して288人卒業
春秋の年2回入学募集
インターネット出願対応で手軽に出願可(2021年8月11日〜)
・入学検定料2万円・健康診断書必要無し
・全キャンパスの慶應図書館利用可(医・薬・SFC・日吉・三田)
・通学生と違って、ほとんど通学しなくて可
・司法試験予備・公認会計士・税理士試験目指す学生多い
・卒業式・卒業証書・卒アルも通学生と一緒。三田会入れる
・3割の学生が関東以外の地域の学生。地方在住で学べる とりあえず、WIKIのこの関連叙述(リンクなし)は、削除願いだした方がいいね
情報弱者が誤解する可能性がある 東洋なんて慶應とはほとんど接点のない大学だからね。
アジア教育者会議(1960年10月19日-25日、慶應義塾創立100年記念行事)
日本側の出席者
・奥井復太郎(慶應義塾前塾長)
・小林澄兄 (慶應義塾大学名誉教授)
・松本信広 (慶應義塾大学文学部長)
・佐々木重雄(慶應義塾大学工学部教授)
・海後宗臣 (東京大学教育学部教授)
・鳥養利三郎(京都大学元総長)
・板垣与一 (一橋大学経済学部教授)
・内田俊一 (東京工業大学元学長)
・森戸辰男 (広島大学学長)
・蝋山正道 (お茶の水女子大学前学長)
・大浜信泉 (早稲田大学総長)
・大泉孝 (上智大学学長)
・日高第四郎(国際基督教大学大学院教育学科主任)
・佐々木吉郎(明治大学理事)
・安里源秀 (琉球大学学長)
東洋大学の教授はお呼びじゃない。 文藝春秋2023年11月号
最強の学閥パワーを解剖する
慶應義塾の人脈と金脈
1 いたるところに三田会あり ─その人脈
2 鉄の結束ゆえの驚異の集金力 ─その金脈
3 塾の核心・幼稚舎は謎だらけ ─勉強は教えない、終生の友をつくれ
4 三田会は福澤諭吉のピンチから生まれた ─「社中協力」に魂を入れた西南戦争 片山杜秀
5 甲子園優勝の陰に日吉倶楽部あり ─強さの秘密は髪型や推薦入試だけではない 柳川悠二
6 生涯の師と友を得た ─松竹・迫本淳一会長インタビュー 慶應義塾大学通信(法・経済・文)
https://www.tsushin.keio.ac.jp/
・入試倍率は1.5倍。受験者の6割以上合格
・受験はネット出願で書類選考のみ(東京に行く必要無し)
・学費は年間僅か20万円(教材費レポート添削費用等込)
・新入生の45%(5割以上)が18歳〜29歳と若年層が増加
・卒業率は47パーセント。611人入学して288人卒業
春秋の年2回入学募集
インターネット出願対応で手軽に出願可(2021年8月11日〜)
・入学検定料2万円・健康診断書必要無し
・全キャンパスの慶應図書館利用可(医・薬・SFC・日吉・三田)
・通学生と違って、ほとんど通学しなくて可
・司法試験予備・公認会計士・税理士試験目指す学生多い
・卒業式・卒業証書・卒アルも通学生と一緒。三田会入れる
・3割の学生が関東以外の地域の学生。地方在住で学べる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています