【関東限定】老舗(創業百年以上)鰻屋を語るスレ
伊豆榮で紛らわしいのは、品書きやギフトの箱に用いている錦絵らしきカラフルな絵。クリナップのコラムには「伊豆栄 浮世絵コレクション」とある。
あれは、歌川国芳の1831年の錦絵の行灯の「山くじら」が「いづ栄」に書き変わったものだ。
店のサイトでは店と絵の関係には言及していない。メディアではむしろ「栄の字は江戸末期の女将土肥栄子から」と時代のズレを語っている。
後述する伊豆屋栄次郎や穴鰻についても、店の出版物(1997)などで他者が言及したくらいで、関係を主張してはいない。
ただ錦絵もこれらの言及も、サイトの「8代将軍の時代(1716-45)から池之端で」という言い伝えをイメージ的に補強してはいると思う。
史料では1904年までは確実に遡れる。上野黒門町 伊豆榮 土肥光太郎とあり、今が9代目なら6代目になる。1884年の番付の御成道の伊豆栄もたぶん同じ店だろう(同史料には赤坂田町に伊豆秋、日本橋本町に伊豆橋もあるが)。
しかし1904年の同じ史料には、浅草花川戸町にも伊豆榮 土肥光太郎とある。1906-24年の史料では山口氏。
浅草の食べもの(久保田万太郎,1920)には「伊豆栄は、吾妻橋の際のもとの伊豆熊のあとである、今でも、ときに伊豆熊の名によつて呼ばれる。それほど売込んだ伊豆熊といふ名である。が、これは、格別、いさくさのないごくあたりまへの、入れごみ鰻屋である」とある。
浅草経済学(1933)に伊豆熊が吾妻橋際で4,5年前まで営業とあり、1934年にいづ熊鰻店 根本熊四郎 佐久間町4-16とあるので、1929年頃に移ったか。
この吾妻橋際の伊豆熊は、伊豆屋という名店であった。江戸名物酒飯手引草(1848)には伊豆屋栄次郎(略すと伊豆栄)、懐溜諸屑(天保-安政)には伊豆屋榮次郎/いづ熊、58-78年の史料では伊豆熊と記載。84年の番付で伊豆屋は奴鰻、大野屋と共に年寄を務めた。
また伊豆屋-伊豆熊には横山町2丁目に支店があった。史料では1880-84年伊豆熊、1891-1924年伊豆屋 三橋キシとある。江戸の夕栄(1922)中の慶応(1865-8)初めの鰻屋のリストにもいづ熊が東ばしいづ熊と別にある。この横山町の伊豆屋支店に1948年養子に入り、1969年青砥に店を移したのがいづみ(2005年から2代目)。
以上から推測するに、おそらく吾妻橋際の伊豆屋(伊豆屋榮次郎-伊豆熊)本店は、1884年から1904年までの間に土肥家に渡ったのだろう。 一方、8代将軍の時代からと伊豆栄が言う理由はおそらく、三田村鳶魚が1939年、江戸の鰻屋の初出を享保20年(1735)「続江戸砂子」の深川と池ノ端の鰻の比較としたからだろう。不忍池ではなく千住尾久の辺より取来る、深川の佳味に及ばずと続くのだが。
池之端中町/湯島には穴鰻と呼ぶ店が、東贐(1807)、くるわの茶番(1815)、神代余波(1847、ただし斎藤彦麿(1768-1854)の昔話)に見られる。吾妻曲狂歌文庫(1786)の四方赤良(太田南畝)の「あなうなぎ〜」もか。しかし早期に見られなくなる。上述の慶応初めの鰻屋リストにも穴鰻はあるが、前後が日本橋区の店なので移転か別店かと思われる。
むしろ上野山下仏店の大和屋利右衛門の方が、七十五日(1787)など多く言及されている。天明(1781-1789)の初めに開業(世のすがた,1787)し文化文政期(1804-31)に繁盛(紫草,1916)したとされるが、戊辰戦争(1868)で焼失した。これも伊豆栄の位置からは離れている。
寺の記録からは土肥家が初代(1770没)から続いている事は確からしい。
が、史料からは伊豆屋栄次郎や穴鰻を継いでいるとは考えづらいし、8代将軍の時代に鰻屋を始めたかどうかも、正直よくわからないと感じている。
なお、伊豆栄の支店の開業は駒込花街1924年以前、高田馬場1924年、池袋・永田町・吉祥寺1978年以降。東都芸妓名鑑(1930)の下谷花街の待合・料亭リストの筆頭にも「いつ栄」とあり、同時期の電話番号簿と異なる番号が記されている。 ての字の歴史については、芝地区地域情報誌第54号に三和淡水魚株式会社の説明がある。史料と矛盾はないと思われる。
史料では2代目と思われる芝田町の御用鰻納人の鉄五郎が1861年同業者に訴えられ引退し、幼い息子の兼太郎に条件付きで家業を継がせる話がある。 補足
>>37 1924年に浅草公園5区に鰻蒲焼の乃だやがあり庖丁会2代目会長と同じ苗字なので、根岸の前に店を開いていたのではないか。
>>40 庖丁屋については商牌雑集(明治)に 蒲焼代 南馬道 庖丁屋とあった。>>37の乃だやとの関係の有無は不明。
>>45 伊豆榮については京浜名家総覧(1906)の池之端の伊豆榮の短評に「明治初年の創業」とあった。
>>46 穴鰻については歳盛記(1868)に向じま穴鰻とあったので、移転したと思われる。向島の寺島村にはその後も穴喜がある。 >>39
涌井は全て湧井に訂正させて下さい。失礼しました。 >39
初代忠兵衛も初代吉兵衛と訂正させて下さい。すみません。 >>39
やっこは1940,42榊原吉兵衛でなく精一と名乗っているが、神田紺屋町の大工道具問屋の湧井精一氏との関係の有無は不明。 >>532
草加屋吉兵衛=やっこ(元は通称)
大江戸店内にあった「草加屋」写真も原典では「やつこ蒲焼店」
戦後やっこは榊原家から矢野家へ引き継がれたそうなので、湧井家が関与している可能性はあるとは思うが 神田川も伊豆栄もどっちもマズいまでは言わないけど美味くはなかったな
東京(都心)の店って行く人間多いのと、せっかく行ったからって自分で自分にフィルターかけて満足してる奴ら多すぎだろ 嘉永の番付で、大関と立行司格の御三家。
麹町 丹波屋ーバブル崩壊後に閉店。現在は貸しビル業と思われるが、ビル名からも丹波屋の屋号が外れる。
最後の職人頭が、横浜の大黒屋の職人指導。
霊岸島 大黒ー戦時中に閉店。谷崎の細雪にも登場。
尾張町 大和田ー昭和に麻布に移転後閉店。永田町の山の茶屋は、系統を引いている。 キャッシュレス対応してない店
万札がいるのに危ない危ない /⌒ - - ⌒\
/ 人 。 。丿
/ /| 亠 | 〃⌒ ⌒ ヽ
/ / | /干\| ィl fノノリ)))ハ)
\ \ | |く#彡||,,| |,,|リ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\ V_⌒v⌒\〉| .||_ □ ノ|| < 後で2人で鰻を水天宮で食う〜!
\__ξ 丶/⌒ - - ヽ \_________
/ \ | | |
/ ノ\__| |( ・ 人 ・ ) |
/ /パンパン| |プルンプルン| |
/ / | |_ | |_
ヽ_ξ ヽ_ξ 金や気を使って餌食わせて機嫌取ってSEXせてもらうって
まんこの養殖だよね 日本一の鰻・京極かねよ
京都府京都市中京区六角通新京極東入 >>71
スレチだし不味いし日本一でもないし
大正末期創業と公式に2016年書いてた癖に、2017年から大正初期に変わったって事は、根拠ないって事だしw 明治から続く老舗でも最近できた新しい店に押されている >>56
イェールの学生や教授に頭良くないことに自然に気づいた >>45
はっきり言えるけど仮に100を切りそうに見える層と両極端よな 隠してんじゃないか、金持ち虐めて貧乏も使えない
乗用車の人の死者の身元は分からないけど
本国ペンの反応検索してたんでしょ? 男が女趣味やる→女だけでそんななくない?そしたら出られる
そう
ちょっと立ち直れない プレイドボリバン無視はありえない
それは無理だろう 572の追記
でも結果論だけど?
今日から
まあこれはお試しだが 切手販売がこのままグダグダでたいした暴露ももうやめよ今がよい