【改行】カシオペアから見えもの6【御免】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
カシオペアの音楽について多角的な観点から
推察し、新しいあるべき姿を見出そうとする
事を目的としているスレッドである。
直接的にはカシオペアに関連しない記事など
何を書いても自由だが、最終的にカシオペア
について結び付ける努力はして欲しい。
また、趣旨などハッキリする文章にして貰い
たい。話がキチンと伝わるように務めれば、
話の「甘い果実」を食べる事が出来る筈だ。
※前スレ
【改行】カシオペアから見えもの5【御免】
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/fusion/1612135974/ HALLEのサビのボイシングの間違いは何とかならんのかな その間違いを間違いのまま
捉える事が出来ないのな、
カシオペアファン。
じゃあ編集して補正したらいいんじゃ
ないの? ここにカシオペアファンの
矛盾というか理不尽があるんだよ。
俺もアリスとか弾いていて、
譜面ではEmと書かれてあるんだけど
Eの方がしっくり来るかなぁと思う
時があって、
でもそれをEmのまま弾いている
うちに「これはこれでありかな?」
とか思うようになった事がある。 その「間違い」にカシオペアが
気づいてなければそれは間違いでは
ないし、
気づいていても、「今回のこれは
このままで」という判断が働いても
それは間違いにはならないだろ。
例え、ライブでは「直した」としても。 不思議なんだよな。カシオペアは
アドリブが出来てジャズの範疇に
入った進化形態だ!という感じ
であるにも関わらず、
和音に関しては打ち合わせ、書き譜
ありのカッチリアレンジならば、
それはどうかね、純然たる即興と
言えるのかね?
よくは分からないが。 カッチリアレンジをするのなら、
即興なんて必要ないんだよね。
毎回CDと同じソロを弾いたって
別に構わないだろ?
だって、「ミスった!」とか
思っちゃたりするんだろ? カシオペアは再現する事がなかなか
難しい事をやっている、と。
それを「アドリブ」として手を変え
品を変えでは、そもそもカシオペア
自体だって、
自分らのやっている事ですら再現
出来ていない事になるだろ? つまりは、お前らの言う技術の
定義が曖昧なんだよ。何処に基準を
置いてるんだか、サッパリ分からない。
つまりは、お前らの好き嫌いが
技術の高低そのまま。 「うるせえ!カシオペアはカッチリも
アドリブも両方とも上手いんじゃあー!」
と言う事のアホらしさには全く気付かない。
だってそうだろ。野呂のアコギは
あの程度でいい、とか言えるんだから。 カシオペアは、とは言っても
結構個人差はあるとは思うのだが、
自分のやれる事から一歩も外に
出ていない感じがどうしてもしてしまう。
それが強過ぎて、どんなに新基軸を
打ち立てても同じようなものか、
つまらないものになってしまう。
だから、つまらない音楽は仮に作れた
としても、問題作は作れないだろうと。 「上手いだ凄い駄目言われるが、
何だかんだと自分の出来ることから
一方も外に出られない」
まあ、これが理由かもな。
分からないが。
何の理由かはお前らが察すればいい。 カシオペアの音楽は西洋庭園っぽい感じだ。
何処までも何処までも同じ花。ある境界線
からは、別な花。大きく俯瞰して見れば、
まあ確かに色鮮やかなんだが、圧倒させて
心が動かさる感じ。
日本庭園はその逆。全ての要素が不完全で
あり崩れている。しかしながら、全体が
均衡を表している。だから、染み染みと
その全体的な美しさを鑑賞出来る感じ。 西洋庭園か日本庭園か?という話を
したいんじゃない。
言いたいのは、カシオペアにいる限り、
日本庭園は作れないと言っている。 カシオペアにとっては単なる悪口で
しかないのはその通りとして
考えるべき事は沢山あって、
ワクワク出来るという「日向翔陽」が
まるでないんだな、カシオペアには。 お前らカシオペアファンは
ツッキーにすらなれないじゃないか。 まあ、カシオペアファンにとって
アニメと言えば鉄人28号とかか。。。
ビルの街にガォー
夜のハイウェイにガォー
だったっけ? あくまでも即興はソロだけ。
バッキングやユニゾンについては
カッチリ書き譜だから、
和音構成のミスはミスなのだ!
と言うので良いか。 というのであれば、カシオペアには
伴奏には即興はあり得ないという事で
いいな?
前にマイルス・デイビスが
ピアノの伴奏に怒った映像を見た。
「こんな和音入れんじゃねえ!」
今回のカシオペアのケースは
そうじゃなくて、単純なるミスなんだな?
よく分からないが。 カシオペアの良さについて。
「この矛は何でも切れる」(即興も上手い)
「この盾は何でも守る」(難譜も上手い)
「じゃあその矛で縦を切れ」
(二つ同時にやってみろ)
「グヌヌ」
だから、お前らの「技術は凄い!」は
基本矛盾なんだよ。 だが一方で、「ソロだけアドリブ、
その他は書き譜なんだな?」
「その場合、和音のミスは単純ミスで
即興のぶつかり合いの中で齟齬が
出た訳ではないんだな?」
と訊いても
「グヌヌ」 結局お前らの技術に対する評価基準とは
「悔しいか、悔しくないか」しかない
じゃないか。 そんな程度の価値判断で、
他の音楽をよくもまあ馬鹿に出来たなと
正直思うよ。 そんでお前らの中から
「カシオペアの音楽ってどういう点に
価値があんだろ?」
「色んな視点があって、それらが
深まっていったら面白いのになあ」
というのがまるでない。
ただ、「悔しい、この野郎!」しか
ないのだ。
発想を何で変えられないんだ? だから、俺は
カシオペアファンとは
自分の見栄の為だけにカシオペアの
音楽を聴いているだけ、
と判断している。 「じゃあ編集して直せば?」
と言っても「グヌヌ」
お前ら何がやりたいんだよ? 価値基準がなく、ただ「カシオペアの
音楽は凄え、それが分かる俺私は通」
しかないから、
音楽的センスの相対化の波も受けず、
言語化の訓練もろくにしなかったから、
「辞めろ」
「戻れ」
或いは汚らしい言葉しか
出て来ないんですよ、
しかもミドルエイジ以上で。 そこに危機感を覚えているだけで、
お前ら批判をしたい訳でもないのだが。。。 お前らファンがこのテイタラクだと
カシオペア自身もこんな程度か?と
見なされてしまうんだぞ。 例えば、音楽を聴いて幸せな気分に
なりたいなと思ったら、俺は
薗田憲一とデキシーキングスを聴く。
所謂お前らの言うジャズとは違う。 幸せな気分にさせる技術ならば、
それこそカシオペアなんて敵わない。
そんなの分かるだろ。
吉本新喜劇だからだろ。 こういう音楽を馬鹿にして、
「所詮コミカル」と蔑むのが
カシオペアファンだろう。
俺は格好いい音楽やお洒落な音楽、
今の時代のダンサブルな音楽だけが
聴きたい訳じゃない。
AMラジオからでしか聴きたくない
音楽だってある。音質や聴感的な
ものだけで音楽を判断したりしない。
カシオペアの音楽は、
いい音の出るシステムがなければ
その魅力が半減どころか壊滅して
しまうのではないか?
お前らなりのそういう視点が
全くないから、お前らの言う
「いい音楽」が退屈過ぎて
仕方がない。
ただ「凄いんじゃあー」
「上手いんじゃあー」
「他の音楽は駄目なんじゃあー」
何だよそれ。 これが酸いも甘いも噛み分けた、
俺より爺さん婆さんのやる事かね? 「野呂ちゃんの聖者の行進」
とか、やればいいのに。 アリスのファンで良かった。。。
こんな下らない事で悔しくならずに
済んだのだから。 カシオペアファンは
だから駄目なんだよ。
理由があって言っている。 うわぁ、ウンチ爺ついに頭おかしくなったか…
いや、元々か。 もしわたしのおとうさんなら
かなしくて
「いっしょにびょういんいこ?」
といいます わたしはうそはついてません
ことばをかえているだけです お前がその爺なのになすりつける
のも芸当の内か。
だから駄目なんだよカシオペアファンは。 結局感情で自滅する。
それまでの馬鹿な、汚らしい言葉で
通せない。
そんな言葉ばかり言う奴が
「お前もな」なんていうプライドを
見せてどうするんだよ。 「いや、お前に言ったんじゃないよ」
と俺に言うつもりか。
なら、
お前自身に言ってんじゃないのか。 まあ、これまでの話で
カシオペアファンには疑問しかないが
お前には関係ないだろ。
だってカシオペアファンでは
ないのだから。 言葉は変えたが、お前らに分かり易く
しないのかな?と思って平仮名で
小学生っぽく書いただけだ。
なりすましてなんていない。
何故なら、
言っている事は何も変わらないから。 下らない。
回り道をしてしまった。
JAZZの好きな先輩から、
「お前はアコギが好きなんだろ?」
と勧められたのがガボール・ザボ。
「バッカナル」というアルバムを
聴いてみた。
何と言ったら良いか形容はしづらいの
だが、アコースティックという言葉が
西洋的であるとするなら、この音は
アジア的だ。
良し悪しは兎も角、カシオペアには
あまり見出せない。
「野呂はインド音階やるぜ!」とか
カシオペアファンは言いそうだが、
そういう話じゃない。
そう、カシオペアのような
お洒落さはないな。 野呂はインド音階をお洒落に
してしまっている。
一方でザボは土臭い。
カシオペアの音楽は土臭さがないんだ。 カシオペアファンから見た
悪い音楽、低レベルな音楽とは
この「土臭さ」の事も含まれている
のでは?思っている。 「半導体は産業のコメ」と言われる。
「それ位大事だ」という意味だろう。
「農家の皆さんが苦労・手間を掛けて
作ってくれた有り難いお米だ」と
一粒も残さず食べる、や「いただきます」
「ご馳走様でした」などの言葉は、
それを象徴する。
これは(東)アジア的・或いは少なくとも
日本的な発想なのではないか?
という話は以前もした。 和辻哲郎の『風土』の中に
日本のようなモンスーンの影響を受けた
気候では、夏の湿気が凄く雑草や害虫の
駆除、野分(台風)の影響対策など、
比較的にはかなり大変になる。
土地や気候とのガチの格闘、それを
「野良仕事」というんだろう。 一方で、欧州の農業はどうか?
夏は比較には乾燥しているそうだ。
だから、一日の農作業が終わると
農具をそのまま畑に刺しっ放しにして
帰るそうだ。
今話題のウクライナ、ここは土地が
余りにも肥沃過ぎて、下手をすると
ただ種を撒いただけでも収穫期には
作物が穫れるそうだ。
だから、「そんなに手間暇掛けんでも」
という合理的精神が醸成されたのかも
知れない。 この西欧の「合理化精神」が眩しく
見えてしまう。そりゃスマートには
見えるだろ。「こうすりゃ簡単じゃん」
と事もなげに出来てしまう人は
確かに憧れるんだろう。
だから、野良仕事には侮蔑しがちに
なり易い。「だせえ」と。 ガボール・ザボはハンガリー人だが、
何故かアジア的だ。「野良仕事の音楽」
だ。彼の演奏した「恋は水色」でさえ。
その「野良仕事」がカシオペアファンから
すればダサい、低レベルに聞こえても、
まあ、仕方ないだろう。 カシオペアは、野呂は、
インド音階でさえ「合理性」に照らし
合わせてお洒落にしてしまう。
クラシック音楽で言うところの
例えば「韃靼人の踊り」か。 異国情緒を異国情緒のまま受け取れない。
一旦西欧的フィルターを掛けてからでは
ないと異国を表せない。
その異国が、カシオペアや野呂からしたら
日本だったという話だ。 「異国情緒を西欧的フィルターで」の
価値観だけでものを見るから、
カシオペアファンの思考は情緒不安定に
なってしまうのは自然だろう。
簡単な話だ。「野良仕事」を侮蔑する
のに、野呂やカシオペアの音楽活動は
「野良仕事」並の労苦や試練がある
からだ。
「これが現代的スマートなやり方」
であるにも関わらず、
「お前ら出来ないだろ?」が同居する。
これは労働集約的農業つまり
野良仕事と呼べるものじゃないのか。
ここに構造的矛盾があるんだよ。 野良仕事が野良仕事を笑っている。
明らかにおかしな話だ。 「カシオペアの音楽が野良仕事だと?
ふざけんな!」
というカシオペアファンの反応が
すぐ目に浮かぶ。
その「野良仕事に誇りが持てないのか」
と言いたくなるわい。
カシオペアの次のアルバムは
「日本の農業」を主題にしたらどうか。
野呂や成瀬がひょっとこ顔で、
大高がモンペ姿で、とか。
「明るい農村」みたいなタイトルで。
野呂の名前も
「野呂一生 農業通信員」とか。 俺はカシオペアおよびカシオペアファンの
音楽の教条化・ドグマ化を危惧している
だけて、
カシオペアやカシオペアファンをただ
侮蔑する事が主旨ではないという事を
改めて表明しておく。 他人様の事はいつもエラソーにあれこれ言うくせに、自分の事をちょっと言われただけで顔真っ赤にして大発狂するガキみたいにな奴
だから駄目なんだよ、ウンチ爺 発狂しているのはお前だろう?
汚らしい言葉のオンパレード。 「俺は汚らしい言葉を使ったり
なりすましたり、なすり付けたり
していいんだ」
というのが、「俺はカシオペア
ファンだから」
「凄いバンドを評価出来る
選ばれし民だから」
という教条・ドグマの前提だと
見ているだけだ、
という話だ。
何でそんな話になる。 ガボール・ザボって知らなかったが、
60〜70年代の古い人なんだな。
サンタナがこの人を大好きだったらしいよ。
渡辺貞夫が参加している作品があったり、
渡辺香津美がライナーノーツを書いたりとか。
この手の権威付けが大好きな
カシオペアファンではあるけれど、
あまり好きなタイプのギタリストでは
ないかも知らん。
ただ、「フュージョンの草分け的存在」
のようだよ。
お前ら興味ないの?全く知らないの?
ジャズ・フュージョンに造詣深くないの? 俺の感覚からすると逆だ。
カシオペアがイージーリスニング。
ガボール・ザボは田植え歌。 カシオペアの音楽は聴感上、
お洒落で爽やかで都会的だ。
都会生活の清涼剤的BGMと考えれば
それはイージーリスニングだろ。
ただ、カシオペアファンが
「凄いんじゃ!」「高技術じゃ!」
「高品質なんじゃボケ!」とか
下らない雑情報を入れるから、
本質を見誤るだけで。 ガボール・ザボについては、逆に
「カッコ悪さ」が妙に引っかかる。
懐かしいようなと言えば田植え歌だし、
存在感があると言えばお経だし、
上手くは例えられない。 念仏なんじゃないか、ガボール・ザボの
音楽は。お経と言うと、坊さんだけが
やってる感じなので。
もっと一般的というか、檀家的というか。 君らカシオペアファンか大好きな
新興宗教の話とは全く違う、もっと
素朴で通奏低音のような信仰を
音楽化した感じ。
これはイージーには聴けないと
おは思うが。 カシオペアの音楽は
簡単にお洒落な音楽だと分かり、
一分ファンが言うように
高技術だという事が簡単に喝破されて
しまう音楽だと思う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています