家が貧乏だったやつしかわからないこと Part.18
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俺は貧乏をネタに虐められていて、ランドセルの中に砂辺じゃなく大量のザリガニやカエル入ってたよ
教科書とノートは池の中だったし
後日、俺が毎日教科書とノート持って来なくて学校で問題になって犯人知ってだけど最後まで言わずに数年後に楽しいことしてやった うちの父親もある中で仕事はしていたけど割と転々としてた。正月は家族を正座させて飲みながら延々とクダを巻くイジメみたいな言いがかりをつけるのが毎年恒例。母はメソメソ泣くだけ 父のことで、警察や消防から良く電話が掛かってきた。
酔って道路で寝ていたので保護したとか、酔って転倒して救急で運ばれたとか。 皆の中には、今は大成してる人もいるんやな、立派だと思う
自分はもう少しで年金暮らしになるけど、フラフラした働き方してたから
とてもそれで暮らしてはいけない
最後の場所を自分なりに決めていて、それは大昔にツーリングして知った
山間の橋なのだけど、冷静に考えたらそこまで行く足が年とったらすでにないわけで
それで、最近、かつて親が事業を始める前に暮らしてた
陽の当たらない暗いアパート、そこは暗いしボロすぎて今は誰も住めない
奥まった場所の建物なんだけど、そこを最後の場所にしようと最近考えてた
そこは街の中心部なので最悪歩いてでも行ける場所だから 何度か下調べして暗い1階のかつて住んでた部屋は、鍵開かないし
バールであけて部屋の中で果てるのもいいなぁ、とか考えてたけど
もう朽ちた金属の階段で二階にも上がれるのだが、そこは朽ちてるだけあって
階段の昇り口にテープが渡して貼ってあり、登れないようになっていた
そうだ!あそこの2階なら人目につかないしバールなんて使わなくても
そのまま階段踊り場というか、二階の居室(どこも空室)の玄関前で果ててもいいかも!
とグッドアイディアに満足し、少し短期バイトにやる気が出て来ていたところだった で、先日テープを越えて朽ちた階段昇って二階を確かめてみようと
(子供時代に住んでた時も昇った事はない)1,2ヶ月ぶりに訪れると・・・
嘘でしょ??2階の奥の部屋に「社労士事務所」?みたいのが入ってるし
階段のテープも剥がされてるし、なんなら奥側でなく手前の道路に面した
部屋の鍵が開いてたので中覗いてみると
とてつもなくカビた黒い壁の部屋の一間にブルーシートが敷かれ
もしかしてこれからリフォームする気??????
こんなボロい木造に誰が住むのよ・・・ていうか社労士事務所の人も
どういうつもり???ていうか、それならわいが住むわ、、、と
2階はとても明るかった
台風や地震を乗り越えられるかはわからんが安い家賃なら住みたいかも
ただ、昔と違うのは風呂無し物件なのに銭湯が近くにないことだな
トイレがいっちょまえに水洗だったのに驚いたわ、その鍵が開いてた部屋 昼のいっときだけ2階の階段上から光が入り
親が行水のために盥を出してくれたな
みのむしの外衣じゃなく光です(藁
そこ以外は1階は真っ暗で、泥棒がよく来るアパートで有名だったらしい
実際二階の部屋の一つは鍵が3個もついてたわ
こんなところ貧乏人しか住まないに決まってるのに、泥棒ももっと効率目指せよ
やはり連休に入ると普段はじっとしてる基地外も
5chを覗く様になるんだなw はぁ?
基地外言うもんがキチガイやで
それにここは貧乏暮らしに関して書くスレなので
人格攻撃して煽る前に、君の貧乏体験を晒しなさい 仕返しなら中学の時にそいつの体操服袋の中に女子のブルマー入れて転校させてやったわ 子供の頃はゴールデンウィークだからってどこかに出かけるでもなく
教育テレビ見ながら暇を持て余してたな
昔は大型連休になる機会も少なかったってのもあるけど 昭和52年のGWは29(祝)30(土)1(日)2(月)3(祝)4(水)5(祝)という絵にかいたような飛び石だった
二、三連休の短い休みでも家族で出かける奴はいなくなるから集まる友達少なくてつまんなかったな
GWの昼間のテレビは夏休みとかと違ってアニメとかやってないから教育テレビ見て
風邪で休んだ時のようなささやかな特別感を味わった記憶は確かにある >>781
その連休覚えているよ
ずっと部活だったから 子供の頃のGWなんて何の記憶も残ってない。
土曜もメーデーも学校あるし、5月4日も平日だったし、日祝日もいつもの日曜と同じ過ごし方していたはず。 >>779
未来人さんこんにちは。
どの連休のことかな? >>781
そこを工夫して>>779が回答になるようなレスを書くんだ >>778
あったなその連休!
その最中に夜鳴きそばでラーメン買って貰ったの思い出した。
おっちゃんが「飛び石連休だから残念だな」って言ってくれて
そんな会話しながらワクワクしながらおっちゃんがラーメン作ってくれるのを眺めてた。
今にして思えば一杯300円か400円程度のラーメンを、それこそ年に数回だけど食わせて貰う贅沢だったんだなぁと。 今でこそ家が貧乏って結構普通だけど、
こちとら小学校のときは安定経済成長期から
バブルに向かっていたから、
家が貧乏ってかなり肩身が狭く恥ずかしかった。
ってか今の時代が羨ましい。 シャツ、パンツまで従兄弟のお下がりだった。
俺、長男。だから中学から新聞配達をした。 4歳まで、窓の無い蔵(タバコの葉の乾燥室)に住んでいた。
今、思うと夏冬とどうして過ごしていたのかと
不思議なくらいだよ、
ご飯食べる時は木のみかん箱の上で食っていたような
裸電球ひとつだけの部屋だった。
でも、兄弟 父母そろって
あの頃が一番幸せだった。あの日に帰りたい。 ちょっと前になんかのコラムで見た貧乏な家のイメージって言うアンケートで
「物が多い」「兄弟が多い」「独特のにおいがする」等々好き放題書かれてて
最後に「だけど何だか楽しそう」って書かれてた
幼少期の記憶は人それぞれだけれど、酒飲みの父に文句ばっか言ってる母がいて兄弟もいて
貧乏でも笑ってられる家族だったのはギリ幸いだったのかなぁなんてたまに思う 当事者としては楽しいものではなかったけどね
イメージはともかく自分の場合は
物は少ない、ひとりっ子、独特のにおいがあったかもしれないが本人は判らない
だな 吐く息の匂い、着ている服の匂い、持ってきた弁当の匂い、
確かに皆それぞれいつも同じだっただったな。 昔は一億総中流なんていわれてたからそれ以下となると貧乏って色濃く炙り出されてた感じ。 小学生の頃、同級生のほぼ全て二階建ての建売住宅に住んでたけど、二人だけ貧乏認定されてた女子が居た。一人は潰れそうな小さい平屋。もう一人はアパート住まいだった。
共に馬鹿にされてたけど、アパート住まいの女子の家で学級新聞か何かを作ることになって行ったんだけど、お母さんが若くてとても親切丁寧な感じで、それから班の皆は馬鹿にしなくなったね。 うちは古いボロボロの平屋に住んでたけど友達にもどこに住んでるのか言えなかったな 家庭訪問って言えば、先生に出すお茶菓子が用意できないからって、
母ちゃんが夜なべして作ってくれた自慢のおはぎが土手に捨てられてた。
捨てた先生が悪いんやない。貧乏が全て悪いんやって歯を食いしばって
涙を堪えたって漫画にあったな 鍋持って一軒一軒米を分けてもらうために廻るのが日課 ごめん、スレ違いだった
家は貧乏じゃなく乞食だった >>796
何だっけその漫画。
人間交差点か何かだったっけ? 遊園地や動物園等に初めて行ったのは修学旅行や遠足だった 昔たしか小学4、5年の頃に親が人工皮革の黒いジャンパーを買って来てくれた。
月曜日にそれ着て学校行ったら「ビニジャン!ビニジャン!」とめちゃくちゃバカにされた。
本物の革ジャンを買えない親をバカにされた様で腹が立つと言うよりも悲しかったわ。
バカにした連中は今、底辺這いつくばってるゴミ連中になっててるのは笑えるけど許せてはいないな。
もっと堕ちて行く様を見てやるけど。 貧乏とそれに起因する辛い思いから逃げるためか、自分を俯瞰で見るクセがついた。
逃げられないんだけど、気持ちだけでも自分を別のところに置きたかった。
解離性障害みたいなのの一歩手前だったんかな。
「数年後の自分がご飯食べてるときには今日のことなんて忘れてる」とかもよく考えた。
大人になって経済的にもまあどうにかこうにかできてるけど、クセは抜けていないように思う。 過去に貧乏だったよなと言う事実=潜在意識って寝てる間は途切れるんだよね!
次に目覚めた時からまたその自分の中で払拭出来ない潜在意識がふっと何かをきっかけに湧いてくるその繰り返し
ただその寝てる間でも途切れずにずっと変わらないのは自分の肉体(脳)だけ、、、
だからもうそんな昔の負の潜在意識などきっぱり忘れちゃいなよと周りを見渡せば初夏の風が吹いている >>809
80代が集団就職時代には新幹線は無いだろ 上野はオイラの心の駅さ
!
田舎さ帰っでおどうやおっ母に逢いでぇ~なあと思った時には自然と上野駅に居ただ~よ! もっと細かく言えば、最後の集団就職列車が昭和50年に廃止されるから、昭和35年(現61.62歳)の人達が最後の集団就職組になるかと思う。 集団就職ではないが、魚屋さんの息子さんが美大で
東京かどこかに進学して、地元には帰って来なかったなぁ
ちょうど、木綿のハンカチーフの時期だったし、車に荷物を
積み込みに大学卒業後に帰郷してて、そのドタバタと
トンボ返りする様子とかが懐かしい 督促状の類はもはや開封せずに放置されたものが山積みになってた >>816
その頃になると集団就職は高卒が主流じゃない?もちろん中卒も中にはいたかもだけど。 中卒は金の卵、高卒は茹で卵、大卒は温泉卵と言って重宝された時代だった うちの兄ははその一つ下の昭和36年生まれで頭も悪かったけど、貧乏でも高校行くのは当たり前の時代だったよ。中卒で就職なんて、よほどのワルくらいだった。 >>821
たしかに
文部省資料だと昭和45年80%昭和50年で90%越えてるから
昭和40年代中頃の人だけど職人に丁稚奉公のヤツもいた
電力の企業内学校に行ったヤツは通信制の高校に行って
今は下請け工事会社を起こして社長だな 中学で俺のクラスからは全員高校に進学した筈。
中退した奴もいると思うが、高校は最低でも出ないといけないと言う雰囲気でそう信じ込まされていた。 部活の部費が払えなかった、専用シューズが買えなかった
ユニホームなんて見せてもらえるだけだった、でもなんとか部活は続けた うちは貧乏じゃなく乞食だったからお前らが羨ましいよ
いまだったら乞食は犯罪と言われ犯罪者扱いだったな。小学校も半分の日数も行ってなかったからそれをネタに虐められることもなかった。 なんで乞食だったのかね?
親が働けなかった理由は何? ウチは数年間生ポだったことある。
田舎だったせいか生ポ=乞食みたいなとこあって恥ずかしかった。
地域に二人くらい当時で言う知恵遅れっぽいひとが徘徊してたんだけど
その人たちは普通の家庭で、彼らのほうがしあわせそうで自分がみじめだった。 兄弟で一人だけランドセル買って貰えなかった悲しい思い出
他人のお下がりで我慢したけど4年で壊れた
買う金が無い訳じゃないのに買って貰えないなんて酷い毒親っぷりに呆れるわ うちもセーカツホゴだったな。イリョーケン貰って病院に行ってた。親父が起業してから抜け出したけど。 ウチも医療券で病院行ってた
風邪ひくと母親が朝一番に市役所で医療券貰ってきて病院行って帰ったら母親は仕事行かなくちゃいけなくて
ジャーの中に冷や飯あるから腹減ったら何かで食えって言われて教育テレビ見ながら寝てた小学校低学年の頃
俺が働くようになって同じ部署の主婦パートさんが小5の子供が熱出したって言って休み貰ってるの見て
昼からでも出れないモノなのかなあって子供の頃の話も混ぜながら言ったら大バッシング食らった コラコラパートてのはそういう時に休みやすいからパートなんだってば そうだね、働きだして間もない頃の俺の見識の狭さ故周りの都合まで思いが至らなかった
ウチは共働きでも貧しくて母親は貰いが減るからと俺が学校休んでも家に置いて働きに出てた
そのパートさんの子も病院で診てもらって落ち着いたら昼からでも出て時給稼げばいいじゃんって思ったんだ
その時初めて「多くの場合親は看病の為に休む」んだって知った セーカツホゴもイリョーケンも、当時子供だったから意味も解ってなかった。父親はサラリーマンだったのになんで生保だったのか今となっては疑問だ。借金でもあったよかな。
そーいや母親は内職やってたな。電子機器の配線作ってた。一個作って1円とかそんなこと言ってたな。 生活保護は受けていなかったが、大人になって世の中のことが判るようになってから、生活保護家庭の方が裕福だと気がついた 乞食とまでは行かないのだろうが、「古物屋」と呼ばれて廃品回収業をやっていた家は乞食に近い認識をされていたなぁ、と。 学校で遠足の時なんかに保険証持って行かなくちゃなんないときに
社会保険ってか会社の保険証の友達がうらやましかった。
生活保護だと医療券だし、当時の国保は業種で組合とかあったか知らんけど
親父が気が向いて働く時は小さい町の土建屋で日雇いだったから
市町村国保ってので、会社で働いてないひとみたいだなあって思ったよ。 会社員の父を持つ子は、ボーナスだから小遣いが貰えるとか
どこそこにある会社の保養所に泊まりに行くとか言ってた。
うちらにはまるで関係ない話。 マイカーが無かったから友人の家族が車で送ってくれたときドアの開け方わからなくて友人にドア開けてって頼んだらもうわがままなんだから!って言われたな 中学の頃クラスやクラブの友達は、夏は水筒(筒状のタッパーみたいな)ごと凍らせて持って来てた。
ウチの冷蔵庫は冷凍庫がなかったから氷入れて持って行ったが、クラブの時間には溶けて温かった。
冷凍庫がなかったのはウチぐらいで、アイスクリームの買い置きもできんかったわ。 就職してからは貧乏ではなくなったが
我家に電子レンジが入ったのは平成4年だった うちの実家はもっと遅かった。
福引で当てたのが台所にあったけど、使い方がわからなかったようで、一杯の牛乳温めるのも鍋にかけてた。カップに入れた牛乳をレンチンして温めてあげたら驚いてたよ。 俺の住む家に初めて電子レンジが導入されてから、まだ一年経たない。 15アンペアだったのでブレーカー(銅線)が落ちてしょっちゅう真っ暗だった 小遣いがなかった
新しい下着をなかなか買ってもらえなかった
友達の自分専用の部屋とベッドや学習机が羨ましかった 旅行は連れてってもらったが年に一度お盆のキャンプだった
今風のコテージではなくてかび臭いクモの巣の張ったバンガローで
湿っぽい布団で寝た しょうがくせいの時、親の借金で夜逃げして一年ほど都内の橋の下に小屋作って住んでいた
一年経過し学校行ってない子供が(俺)かわで遊んでいると通報されたのか?役所の人が小屋を何度も訪れて借家に入ることになりそれから学校に通えるようになった。 そんな体験のおかげで、そこにあった食べられる植物や生き物の名称は分からなくても
見ただけで分かるようになった。
一番のご馳走はシマヘビとアオダイショウ。2m付近に育ったアオダイショウは多少小骨が邪魔をするけど肉も多く、結構あっさり系な食べ物。あと、蜜蜂の巣から採った天然蜜は今までの中で最高の甘味だった。
ただ、時々刺されて唇やデコが腫れ上がるがあの甘味にはかえられない。 ここの奴らは何やかや言っても貧乏もよい体験にしてるよね自分はもう両親共にいないけど貧乏ながら死なずに育て上げてくれて感謝しかない >>853
たまに、その強さが普通の家庭ならあえて身につけなくてもいいもの
だったんだろうなあ…って思うよ。
貧乏の苦労をしてこそ身についたもんだしね。 育つ時に貧乏だった奴は大人になっても
考え方がせこい。 >>856
ボンボン育ちのお坊ちゃま、お嬢様とは対極だね、確かに。 >>844
イオンの正月の籤で当てたのが、電子レンジだ 51歳。そんなに貧乏でもなかったけど、両親共働きで
自分が中学生ぐらいのとき、両親の手取りを足すと
20万ぐらいだった。こっそり明細見たのでよく覚えてる。
ちなみに3人きょうだい。
一応ファミコンは買ってもらったが、購入時は一世一代の
覚悟の圧を親が見せてきたのを記憶している。買ってもらった
高いおもちゃはそれが初めてだったので。
服は近所の金持ちのおさがりばっかり。それが普通だと
思ってたので貧乏とは思ってなかった。
勉強机も小学校上がるとき買ってもらったけど、学校の
職員室にあるような中古のスチール事務机。自転車も
どっかでもらってきたような中古のボロ自転車。中学で
初めて買ってもらった新品自転車はシンプルで当時よく
あったゴテゴテ電飾系とは真逆の自転車だった。 >>859
>スチール事務机
子供向けのキャラクター学習机は人気あるけどバカの子が使うイメージ
学年で一番勉強できる子は裕福だがネズミ色の事務机で
むしろ機能的に使えそうで自分も欲しかった
その子は大阪・北野高校へ 北野高校って号泣会見した馬鹿県議の出身校としか知らない。 公立では大阪一の進学校だけど今もそうかな
京大阪大への進学が多い
リチウム電池でノーベル賞の吉野彰や
手塚治虫もそう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています