家が貧乏だったやつしかわからないこと Part.18
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前スレ>>990
>山田のゼットライト
そういや、オサレにうるさい兄貴がこれ持ってたかも??
自分は、卓上に置くださいやつ、、今もテレビの後ろに使わずそのままあるんだけど 煽り疲れた5ちゃんを閉じて
休日もこれで終わりかなとつぶやいて
鏡の顔を眺めながら「老けたな」と思ったら泣けてきた〜 散髪屋で頭を洗って、どうぞと言われて上体を起こした時
頭髪が落ち武者でギョッとした。しかも相当に逝ってる。 ショッピングモールのエスカレーターで両脇がミラーのところがよくあるでしょう
ふと横を見て「なんだ、この貧相な男。なぜ俺を見つめてるんだよ…」
と思ったら鏡に映った自分だった 納豆がおやつだったな
当時はタレとか付いてなくて醤油をかけて食べていた気がする 小中高と買い食い(この言葉、古い?)したり缶ジュースを買ったりは
とてもできなかった。親からもらった小遣いは使わず大切にしていた。
みんなはなんで平気で出来るのだろう?と思っていた。みんなが金持ちに
見えていた。高校時代に友人に喫茶店に誘われても行けなかった。
昼食代にと親にもらった金を昼飯を抜いて貯めて、何か(何なのか分からず)
のためにと思い、取っておいたりしていた。とにかく金というものは自分の
楽しみのためのものとは思えず、使わないものという意識があった。
今でも水道は細く水を出す習慣のまま。 >>10
1200円のところに行っているから関係ないな
洗髪する散髪屋に行くほどの価値がない髪になったし
息子は美容院に行っているけれど、自分の感覚だともったいない カットに行かなくてよくなってもう数年
冬は帽子ないと寒いね (´・ω・`) 俺はいまも貧乏だから外食できんわ
朝昼晩全部自宅か弁当じゃないと食費が超過する 俺は高校くらいに、親が当時で2000〜3000円くらいする良いハサミを買って来てくれて、それ以来、自分で切っている。今もそのハサミ。 自分は高校の時帰り道で喉が渇いたが、ジュース買うお金も持ってなくて、駅前で献血してたからジュース欲しさに献血した。
でも貰えたのはヤクルトでガッカリした。
逆に喉渇いたわ。 団地にすんでいたこともあったけど、定期的に消毒があったな
あれは何の消毒だったのだろう
あと借家時代に親父が赤痢にかかった
衛生状態が極端に悪かったんだと思う 美容室は5回くらい行ったことある
千円カットも行けない
Amazonバリカンでツーブロックや坊主にしたり
最近はスキバサミでコマメに美容師気取りで適当に自分で切ってる 食べ放題に行ったらバレないようにリュックにデザートを入れる >>29
最近母がグルメだって知った、おまえ食べって言ってるのは
実はいやな物ってことがわかった
そのおかげで、嫌いな物できちんと食べる子になったけどね >>29
時々外食行くと「お母さんはお腹いっぱいだから沢山食べな」と言ってたけど、実際は何も食べてなかった 子供の頃外食なんて行ったことなかったな。
せいぜい100円蕎麦か100円ラーメン。
数年に一回カツカレー食べに連れてってもらってた。カツもカレーもご飯のおかずとして成り立つのになんて贅沢なメニューなんだと思ってた。大人になって自分で稼ぐようになってからは普通に食べてたけど、最近は体が受け付けなくなってきた。 母親の頃外食なんて行ったことなかった。
せいぜい立ち食い蕎麦屋かスガキヤラーメンぐらい。 片付け方がわからない。
ガキの頃はろくな家具なんて家に無くて、夏冬それぞれ1箱(元々少ししか無い)の
ダンボールに入れてたし、下着とか靴下は一年中同じカゴに入れっぱなし。
学用品やら他のものも机やタンスなんか無かったから、整理整頓の方法がわからないんだ。
どうにか行けた高校でバイトして買ったカラーボックスが自分専用の初めての家具だった。
うれしかった。 お年玉は貰っても没収。
実は没収したお年玉はずっと貯めてて大人になってから貰えたなんてパターンも無し。 >>35
片付けできないの分かる
自分は3LDKの団地住まいだったんだけど子ども部屋なんてなかった
1 両親の仕事部屋
2 両親の寝室
3 母親の荷物・洋服ダンス←ここに妹と2人で机並べてリビングに布団敷いて寝てた
何故アンタたちは片付けできないの!とよく怒られたけど、
そもそも片付けるスペースがないからそれぞれの机の上にものを置くしかできないし、
布団はそれぞれの机の下に押し込むしかできなかった
(何故かボックス類を部屋に置くことは禁止だった) >>35 初めて買ったカラーボックス嬉しかったな。 >>39
私はファスナーで開け閉めする衣装ケースが、初めて買った家具で、しばらくは毎日そこから制服出すのが嬉しかったな。 小5で初めて買ってもらった扉付きのカラーボックスは
シール貼ったり剝がしたりの跡や、家を出て度重なる引っ越しの時に付いた傷があるけど
今でもウチのクローゼットの中で機能してる 母親は貧乏性で安売りがあると買いだめ
買わないと損をすると信じているので手に持てる限界まで買ってヨロヨロしながら帰ってくる
買い過ぎてしまう>半分ぐらいは賞味期限が切れてしまう>もったいなくて捨てられない>台所がゴミの山
こういう無駄があるから貧乏なんだと言うとキレるので放置するしかなく家の中がどんどん腐った食品と新聞紙のゴミで埋まってゆく
その結果狭い家はますます狭くなり家が狭くて座るところもないわねと母はボヤいている
あんたの頭が悪いから座れねーんだよ
旅館、飛行機、ホテルとあらゆるところにある備品を母は持ち帰ってくる
結婚して実家を出た俺の住まいまでやってきた時に、お土産だよと嬉しそうに渡されたのが飛行機内の毛布、カーディガン、スプーンとフォークのセットでゾッとした
貰っても嬉しいような良いものでもなく、母が帰り次第捨てた みんなが持ってるマジソンバッグが欲しかったけどなかなか買って貰えず、やって買ってもらえそうになった時は誰もそんなバッグ持っていなかった。 高校受験は公立一本と言われた
私立はお金がかかると滑り止めも受けさせてもらえなかった
自分は運良く合格できたけど、当時成績トップで同じことを言われていた女子が当日体調不良で受験失敗してしまって中卒で働くことになった時は神を恨んだ 公立は定時制も通信制もある。
昼間行けないのを跳ね返すことは可能だ。 通える高校が1校しかない山奥出身かもしれないんで、そんな苛めんなよ 昔は交通のべんが悪かったから
通える高校の選択肢が無かったし
二次募集なんていつから始まったのかな
俺の頃は無かったな
今は私立とか高専に流れるから、定員補充してるけど >>43
自分はクーピーペンシル。
みんな何十色だか忘れたけど相当な本数はいってるの持ってて羨ましかった。
親戚のおじさんに12色だったかを買ってもらった時にはもったいなくて結局あんまり使えなかった気が。 >>45
首都圏だけど当時は二次募集なんてなかったよ 定員割れした高校では二次募集あったな。
地元の進学校落ちたのが、隣町の商業高校に通ってた。 >>51
そうだったのか
当時二次募集があったのは私立と定員割れした高校だったのかな
トップの子は県内トップの公立女子校しか通うのを許してもらえなかったから
そこ以外は行かせてもらえないんだと言ってた >>49
自分もクーピーペンシルに憧れてたけど、母は「全部が芯なんて、削ったら勿体ない!」と言って絶対買ってくれんかった。 今は公立は前期試験・後期試験の二回チャンスがあるんだよね
自分も北関東の公立至上主義の地域だった
公立落ちて東京の私立に通ってた
(地元の私立高校に通うのはかなり恥ずかしいし肩身が狭い) >>49
クーピー欲しかったな
大抵学校グッズは上の兄弟のお下がりだった 本人やその家族や学校側しか知らない情報がレスの流れに合わせてどんどんと出てくるから面白いね
もう少し引っ張れるかな? まさかここの子?
ttps://pds.exblog.jp/pds/1/202104/07/63/a0390763_15374182.jpg
ttps://pds.exblog.jp/pds/1/202111/12/63/a0390763_12215340.jpg
ttps://pds.exblog.jp/pds/1/202111/12/63/a0390763_12215314.jpg 私立でも行かせてはもらえたけど、極力公立でと言うことでワンランク下の高校に入った。
おかげであいつ天才じゃねみたいな感じで悪くはなかった。ただ、公立だと他にも似たような奴はそこそこいた。 ワンランクじゃなくて、ツーランクかもな。
卒業時にはほぼ同レベルになっていたけど。 公立高校だったが、授業料は\1700だったと記憶している。
それを買い食いなんかに使い込んで青くなってる仲間が大勢いた。 共通一次試験が始まった頃の世代だったから国立は一発勝負だったな
私立は受けていなかったので安全牌の国立を受けた
当然受かったけれど風邪とかで落ちたらヤバかったな
授業料免除とアルバイトで高校の時より経済的に楽になった >>44
自分もそうだったけど担任が尽力してくれて私立の特待生のクチを見つけてくれた。無事公立に受かったけど。同級生で貧乏で中卒で働くって言っていた子には絶対高校へ行くべきだと説得して行かせてた。 中学の時俺より格段に頭悪かった奴が駒澤大学の附属校に進学してそのまま大学行った。俺は高卒で住み込みで就職。俺はついてないなあと思った。 >>59
進学校でないと周りはあまり勉強しないから、モチベの維持が難しいよね。
せめて有名私立大学への進学を親が許してくれたならなあ。
国立だけの一発勝負では不合格なら全ての努力が無駄になるから、
やる気にならない。 >>63
俺の経験では高卒と中卒では基礎学力の差が歴然としていた。
国家資格の取得でも高卒が必須ってのもあるしな。
尤も中卒より更にひどい大バカ高卒も多いが。 家が貧しい人は陸軍士官学校か海軍兵学校に行けばいいよ。
うちの爺さんも貧しい家庭から陸軍士官学校に行ったよ。 大学行けるってだけで金持ちだわな。
貧乏家から見たら。
そんな暇あったら働いて家に金入れろだったからなあ。 大学行ってます。
大学の生協で働いてる。
伊東四朗。 >>71
陸軍士官学校から陸軍大学校なら無償だよ? 実家住まいだろうがアパート暮らしだろうが寮生活だろうが
働き出したら毎月親元に金を送るのは当然だった。 どんなにシノギがきつくても、昔は親への上納金は必須だったから >>75
うちは高校に入ってからは早くやめて働けと酔っぱらいの父に言われていた。高卒で家を出て寮に入って仕事はじめたけど妹は高卒で家に残り働いてお金を入れてた。だから私はいつも役立たずってなじられてた。 たけしも自称貧乏だけど、兄も本人も大学行ってるしなあ 昭和50年以前は学費が安かったからだろ
高度成長後、ばか上がりした 貧乏&負のスパイラルから脱却させるために無理してでも大学に行かせてくれた親御さんには感謝しないとね
自分は行けなかったから子供には院まで行かせられるように貯蓄してる 進学なんかせんでえぇから早く働いて家に金を入れろって思考の親は
何なんだろうな。
そんなに貧乏な原因を考えられないのかな?
貧乏が連鎖するって考えが及ばないんだろうな。
子供作るのも自分を楽にしてくれるだけの
道具作り位にしか考えていないんだろうね。 >>85
貧困の連鎖から逃れなかった。
生活保護の母子家庭だったから、あきらめてる。 >>83
昭和30年〜昭和48年
国立大学の年間授業料が公務員の初任給一ヶ月より安かった >>87
諦めんなよ…
諦めんなよ、お前!!
どうしてそこでやめるんだ、そこで!!
もう少し頑張ってみろよ!
ダメダメダメダメ、諦めたら!
子供のこと思えよ、子供の将来のこと思ってみろって。
あともうちょっとのところなんだから。
俺だってこのマイナス10度のところ、しじみがトゥルルって頑張ってんだよ!
ずぅーとやってみろ、必ず目標を達成できる!
だからこそNever Give Up!! 田舎だったんで馬鹿私立高しかなかったが、受験したら授業料免除の特待生合格だった
公立は県下一の進学校受かったが、親が学費払ってくれて公立高に進学した 子供の頃、近所のおばさんたちが井戸端会議やってて
あそこのうちは今は大変だけど、男の子が5人もいるんだから
年取ったら左団扇だよねぇ、なんて話をよくしてた。
でも結局、5人の子供は全員家を出て消息不明。その親は
最後は市営の老人ホーム、当時は養老院に入った。 学区内の私立高校は甲子園常連校だった。
滑り止めって事で受けたんだけど家庭の事情もあって行く気もなかった。
同級生で野球やりたくて受けたのもいたが、試験問題の回収時に「アメリカの首都は」という問いに「ニューヨーク」と回答してて、こりゃダメだと思った記憶。 現在の首都はワシントンDCだけど最初の首都はニューヨークだから間違いではないと言い訳してみる ニューヨークと言ったら
「お前ら!ニューヨークへ行きたいか?」
「罰ゲームは怖くないか?」
それでは第一問
「自由の女神があるニューヨーク、その昔ニューヨークはアメリカ合衆国の首都だった。南北戦争後のニューヨーク、1800年当時もアメリカの首都だった。」
さぁ!○かXか? 貧乏だから高校や大学に行けない、行けたなら貧乏ではない
という単純な話ではなくて
同じくらいの貧乏でも
教育を犠牲にするか、教育以外を犠牲にするかの違いがあると思う >教育以外を犠牲にするか・・
貧乏だから犠牲にするものさえないんだよ。 え?じゃあもしかして日本の首都は東京ってわけじゃないの知らないんだ? 七五三て貧乏な家は一回しか
祝って貰えんのかと思ってた男子 そういや祝ってもらえなかったなあ
七五三って本州の風習だから無かったのかと思ったな。 誕生日も、何もなかったな
初めての彼女から祝ってもらった時は嬉しくて泣けて来たし、彼女から不思議がられた あと記憶から消えないのが、中2のとき
クラスで担任から「家のテレビが白黒の人、手を挙げて!」と言われて
挙げたの俺とあと一人だけだった
ろくでもない先公ばっかりだったな 中学へ上がるとき伯母にお祝い買ってあげる何が欲しい?と聞かれクーピーペンシルを希望したけど伯母と仲の悪い母が断った。あれは残念だったな。 俺も中学に入学するとき、普段は親父と仲の悪かった叔父や叔母から
お祝いにバスケットシューズを買ってもらった。しかも新品が3足。
ところが24センチだった足がものの2,3か月で26センチになり
全部履けなくなって、勿体なさと悔しさでえらくがっかりした。 家のテレビがカラーになったのは、新八犬伝を放送している年だった
何故覚えているかというと、新八犬伝を見ている時に白黒テレビが壊れたから 当時、オニツカのローカットモデルが
7000円ぐらいで、憧れだった。
バッシューは買って貰えなくて
俺のバッシューには
可愛いPONYのマークが付いていた
周りも体育館シューズが普通だった。 七五三なんて儀式は、我が家とは全く何の関係もなかった
千歳飴も食べたことがなかった
わかるかな、わかんねぇだろうなぁ 分かるよ、七五三やってない
こどもの日の兜もない
生活に追われていて年中行事とは無縁な家庭だった >>110
>>111
北海道だからか?
昔は七五三のお祝いは関東地方が盛んだったような。 兜はなかったが鯉のぼりはあったな。
随分古かったから、親父の代で使ってたものだったのかも。 子供の頃は誕生日が嫌だったな。誰からも誕生日プレゼントもらえなかった。貧乏人だったから、子供ながらにもプレゼントは諦めてたけど、せめて誕生日おめでとうと言うことぐらいもできないのかと疑問に思った思った。 夏休みの絵日記は、6年間一度も書いた事が無いだって海にも山にも何処にも連れててくれないから書けない。 >>109
オニツカブームあったよなぁ
俺は雪国だったのでオニツカのスノートレ、スノートレーニングシューズっていうハイカットの防水バッシューみたいのが大流行した
確か1万円越えで高くて部活仲間のうち俺だけ買ってもらえず、ヘンテコなデザインの類似品で悔しかった >>112
大阪だよ
信心深くはない家だったが親父に連れられて初詣でには行った
阪急宝塚線の清荒神では傷痍軍人が物乞いしていたっけ ボーリングゲームが少しはやってもちろん買って貰えないからちびた鉛筆を三本並べてビー玉転がして自作した。それを意気揚々と母に披露したらものすごく悲しい顔された。 >>110
兄妹
兄だけは特別七五三写真があった。
私は、七五三無し社会人になってから
千歳飴を知った。 運動具メーカーの靴なんて買ってもらったことなかったけど、高校指定の上靴がミズノのランバードだったな。入学時に25だった足が大きくなること想定してかサイズを26.5にしたんだけど、なんとか卒業時点で26.5で収まってくれて助かった。 確かに親孝行な足だな
卒業後に足はのびのびと大きくなったのか心配だ >>121
ウチも兄妹。
兄貴が七五三で神社に行った時、自分は七五三と関係ない歳で「ついでに」やってもらった。
2人目は何かにつけてそんな感じ。 自分は一人っ子だったから、経済的には若干楽だったかも 家は超貧乏な四人姉弟だけど俺が生まれて間もない時に二人の姉は所謂間引き状態で養女に出されてた。
そのお陰で俺と弟は大人になることが出来た 七五三確かにやってないな
両親中卒で底辺職業、学校でクラス皆の前で親の職業を言う授業?があって皆に笑われたのいまだに覚えてる!
親ガチャで完全にハズレ
もし両親が大卒で金持ちなら俺の人生も今とは全然違うんだろうな >>127
里子に出された姉妹とは交流ありますか? >>129
自分が18になって仕事し始めた頃初めて連絡を入れそれからずっと姉弟として付き合い有ります。
養女で戸籍は抜けても実の姉弟で有ることは変わりありませんから
ま、二人ともまったくの他人へではなく遠地の親戚筋への養女だったので比較的連絡はつけやすかったのが幸いでして ウチが貧乏だったのは両親が駆け落ちだったせいもあったんだな
それも人妻を略奪して駆け落ちと言うね
成人してからお袋が話してくれたな「お前には父親違いの兄がいる」とか >>131
そうですかそれは良いですね話は全然違いますがうちの夫の母親が養女に出された人間なんですがどうも被差別部落出身だったらしく(出身ロンダリング)大人になっても出身家族とは交流を持たなかった様ですもう亡くなりましたが本人は孤独を抱えていたと思います。 被差別部落の出生を消そうとしても陰湿な田舎では
あの子はどこそこの部落から貰われてきたとか
必ず言われる。 子供の出来ない銭湯屋からダイヤモンドと赤ちゃんを交換して欲しいと頼まれた事があってお父さんが本気で悩んだと母から言われた事がある。 >>128
うちも貧乏で七五三なんかやってないな
職業を言う授業の時、親が失業中で無職だったからそれ言ったらクラス中がざわざわしたのを覚えてる
父親は職を転々としてて、中年になっても新入社員みたいな安月給しか貰ってなかった
母親は中卒でろくに漢字も読めず(軽い知障だったのかも)、貧乏なのに勤めには出てなかった
ネットでは自分と同じような貧乏育ちも目にするが、リアルでは普通(以上)の育ちの人間しか会った事が無い
親ガチャはずれ組は社会の隅でひっそり生きてるんだろうな 俺は家族で一人だけ青白く、両親も姉もガングロだ
おまえは雪国に行った時に道端に落ちてたから拾ってやったんだ感謝しろとよく母に言われてた
冗談のつもりだったらしいが、家が貧乏だったので子供の俺はいずれどこかに捨てられるのかとヒヤヒヤして育ったな
たまによその家族に養子になり新しい母親がすごく綺麗で優しい人の夢を見てたよマジで 真っ暗にすると夜中に便所へ行くときに寝ている奴を踏んずけるので
電灯に風呂敷を巻いて薄明りにしてた。今思うと危ない行為だな。 >>139
大人になってからは貧乏ではなくなったけれど
子供達が小学生の頃は、この通りだった >>139
ウチなんか、裸電球を差し込んでたソケットの上にあるスイッチをひねってON/OFFしてたよ >>142
ひねるヤツね
すぐに二股にできるのに変えたな、松下幸之助が儲けたヤツ
点灯も紐で引っ張るタイプに 「ナツメ球」は昔からあったと思うが使わなかったの?
当時は高かったのかな。
シラタ米でも、古米でも、精米後1年以上経った米でも
大抵はおいしく食べられるが、1993年の米不足で輸入されたタイ米は
半年間食べ続けても慣れることはなかったな。 >>142
知ってます。家の何処だったか忘れましたが
子供の頃ありました。懐かしいなぁありがとうございます。 >>145
タイ米の御飯は美味しくなかったから、基本的に炒飯(ナシゴレン)だったな
美味しくないといいつつ普通の御飯でも食べたけどね >>144
二股は正式名称を「国民ソケット」というんだね(松下製)。
口金といえば大抵がE26かせいぜいE17だったから、
ナツメ球が使用できたのは当時はどうやら蛍光灯に付属したケースだけのようだ。
>>147
某ブログより抜粋
タイ政府のコメの担当のお役人さんに質問
「数年前日本が大凶作の時タイ米を輸入したが非常にまずかった。
しかし今どこで食べてもタイ米は美味しい。どうしてか?」
お役人さん「あの時は突然大量のコメを緊急輸入したいとの話だった。
その量は200万d(最終的には250万トン輸入した)。しかし当時の全
世界でのコメの貿易量は1100万d位、幾らタイと言えどもそんな量の
コメなど準備出来る訳が無い。しかし古古米でもクズ米でも何でもいい
と言うので家畜用にしかならない古古米、古古古米を出荷した。まあ豚
のエサなので不味いのは当たり前」 タイ米のような長粒米の食べ方を知らなかっただけだよ
日本の短粒米と真逆だからね >>148
そのブログとやらは裏付けが取れているのか?
発信者の創作に思えるのだが
当時は何度かマレーシアに出張していたので、そこでタイ米を普通に食べていた
日本が緊急輸入したタイ米とは別物というくらい味が違うことになるのだが >>150
「短足おじさんの一言」というブログなんだが、
抜粋して書いたけど全体はいろいろと興味深い記事だったよ。
本当はURLを貼りたいのだけど、最近、別のURLを貼って規制されて
困ったので今回は遠慮させて欲しい。 >>152
なるほど
タイで仕事をしていた人の話なら信憑性が高いですね
三食はほとんど御飯の私でさえ、米が無かったらパンや?を食べればいいのにと思っていたので
需要に合わせて輸入しないのが納得できなかった あの時日本が香米を買いあさって、それをまずいとは反発されてたと思うけど
単なる嗜好の違いだろ、おれは好きだけど 子供の頃卵は、おがくずに埋もれて売られていた。数を言ううと茶色い紙袋に入れてくれた。 袋は紙袋にして、無料に戻して
ダイソー行って来たけど、袋は4•4円だった。 タイ米を日本米に混ぜて売るなんて愚策をやってりゃ
不味いになるわな
タイ米のみで食って見たかったな >>8
そうなんだw
>>40
毎日制服をケースに閉まってたの?
躾けが行き届いた立派な家だよ
自分のところは、物凄い交通量の道路横の家で
たんすの取っ手に毎日制服を吊るしてたけど
肩のところに白いホコリ(排気ガス?)積もってて
掃っても掃っても降り積もるスピードの方が早いかんじ
それで、雨に打たれると肩のところに雨の粒々分
黒くなり、白いホコリが余計に目立つという衣装環境だったw
ある、コンクリ建物アパートに住んでる、人気者の家に
遊びに行ったら、制服の肩にカバーを掛けてるのを初めて見て
もちろん、親にせがんだけど、タオルかなんか掛けるので誤魔化され
更には、その習慣も4,5日も続かなかったわw 亀だけど上で段ボールだの片付けだのあったので思い出したけど
当時テレビで新一年生には、必ず学習机が用意されてたもんだけど
自分の家は、金がない、というより親が自営でとにかく忙しく、小1程度じゃ
勉強もしないし、ってので?例のスチールの机を入学時に用意してもらえなかった
その代わりに、どこかで貰った木製の机で水色のペンキで塗り立てたのを
設えてもらった
それで、スチール机のように上に棚がないので、自分なりの工夫で段ボールを
並べてみたのだが親が「これは何だ!!」と怒ってその箱を捨ててしまったよ
上の鉛筆並べたボーリングのレスを見て、これも思い出したわけ
木製机、ってだけでもみすぼらしいのに、段ボールまで上に載せて、なんか
親なりに「あてつけがましい」と感じたんかもしれんね、毒親だったので
その後2年進級時に展示品を安く買ってスチール机を用意してもらえた
しかし展示品なので、盤面にセロテープの跡がこびりついてて
こんなんも忙しくない親なら剥いでくれるのだろうが、とにかく子供どころじゃ
なかった親なので、そのセロテープの二重三重に残った跡が、1年以上は
残ってたと思うよ こんなかんじw
無知・無教養な両親にせがんでやっと買ってもらった文房具は
エルムの手回し鉛筆削りだけ。
万力で机の端に止めて、嬉しくて意味もなく何回も鉛筆を削ってた。 むしろ当時は、日本国民ほぼ全員が無知無教養で
極めて一部のエリートというか、おそらく戦時に功労を残した人というか
戦前から参謀側に入らざるを得なかった層だけに
国際的な知識があったんじゃないかねぇ
当時は貧乏な境遇を恨んだけど、大人になって周りを
見まわしたら、ほとんどの日本人が貧乏だった、との認識に至ったんだけど
とにかくよくやったよ、日本は敗戦から
その劣等感がバブルで補償された、と思ったからつい油断してしまい
その後奈落の底が延々続いているけどもw あと小学6年頃か、足が2,3ヶ月にはもう大きくなり靴も小さくなり、が
続いたときに、親が靴代に癇癪を起こし、穴があいても暫く買わない!って
宣言されて、その代わり、穴を糸で縦横に繕って履かされたw
他の生徒に見られるのが恥ずかしかったけど、しょうがない・・・
また、その頃には週末に上履きを持って帰って外の井戸水で自分で
洗ってたんだけど、いい自転車を買ってもらった同級生が遠い町から
こちらに遊びに来て、ちょうど洗っているところを目撃された事もあるな
いい自転車で自分の洗ってる横をぐるぐる回ってたけど、驚きの色もあったみたい
当時は専業主婦が多く、小学生で自分で靴洗う子なんかクラスにそうおらんかったし
>>156
昔は直売場で買ったことがあるけれど、ここは籾殻に卵が埋まっていたな
>>165
水槽の中に豆腐が入っていて、ボウルで持ち帰った >>166
そういう豆腐もあるだけだろ、今でも岩豆腐の名前でうってるよ
今は凝固剤で水が多くても固まるけど
水をしっかり抜くと持ち上げても、くずれなくなるけど、歩留まりは悪くなる >>162
鉛筆削りは消しゴム大の大きさで手で鉛筆を回す奴だけだった。 >>169
鉛筆を挿し込んでハンドルを回すやつだよ。
当時としては最高機種の部類の鉛筆削り器だった。 >>127
>>130
間引きって堕胎の事やんな? >>171
俺が持っていたのは消しゴムみたいなのだけって事。ハンドルじゃなくて、電動のも存在していた気がする。
最初はナイフを渡されたが、小学生には流石に難しく、消しゴムみたいな鉛筆削りを買ってくれたような記憶。 鉛筆削りはハンドルの奴やったよ
電動のやつは友達がもってたけどあれは機械にセンサーが無くていくらでも削れるので
不経済やな
早くて楽やけど
学校には携帯型の小さいやつを持っていってた >>177
学校に電動鉛筆削りがあったけれど
先が尖ったら強めに押さないと削れなくなるので、一応削り過ぎは防げる
色鉛筆は強めに押さなくても削れてしまった記憶があるが曖昧 鉛筆補助軸(鉛筆エクステンダー)っていうの、あれ欲しかったな
チビ鉛筆を延長するやつ
シャーペンが手に入ってから不要になったけど 絵を描くなら鉛筆にこだわるけど、
シャーペンは芯の交換だけだから安上がりだな 小学校時代の俺のクラスのバカ担任はシャーペン禁止令を出してたわ 今でこそだけど、俺が子供の頃のシャープペンの芯は
あまり品質が良くなかった。よく折れた。 大人になってそれなりに社会経験を積んで振り返ってみると教員ってろくなヤツいなかったなと感じる シャーペンなんて金持ちだろ
うちなんて芯が中心に無い鉛筆だったぞ
製造メーカはコーリンをパクったような名前だったけど
中心に無いから学校の鉛筆削りだと、へんな位置に芯がでるw チューボー相手にニッキョウソがどうたらこうたら喚き散らかして授業ボイコットの記憶。 母親がチビた鉛筆を大事に保管してるな。
捨ててもいいんじゃないの?と聞いても大事なものらしい。 「まだ使える」品を捨てる事に罪悪感があるんでしょ
気持ちは分かる 小学低学年の授業中強室のテレビで延々とあさま山荘事件の生放送見させられたのには辟易とした いよいよ春だね
食べられる野草に詳しい人が羨ましい
母ちゃんがよく自生した春菊で、お汁を作ってくれた 俺は銀行強盗梅川を生中継で見てた。その頃俺も非行でプー太郎だったので何か自分と
投影してみてた あのとき耳を削ぎ落とされてしまった行員はいま、どうしてるかな? 梅川が住んでいた長居のマンソンまだあるで。
事件当時はまだ築浅でしたな。 >>183
うちもそうだった
しかも毎日鉛筆削ってるかチェックがあった つ¶ ♪ポットンだけどお前のために探しておいたよ小さなマンション〜 >>199
今のトイレは流さないでよくなってるが
癖になるとヤバイと思って自動洗浄オフにしてるな 銀行強盗梅川は衝撃的だった、俺もテレビかじりついて見ていた。不謹慎ながら
女子行員達のトイレが気になっていた 大人しく諦めて金渡せば行員お巡りさんも亡くならずに済んだのに あの当時はシージャックも銀行ジャックも犯人は
最終的には皆さん狙撃で死刑執行された。
それはそれでいいのではないかと思う。 >>183
昔なら子供達にナイフで鉛筆を削らせて、
手先の器用さを身に付けさせる狙いがあったと思う。
でも鉛筆削り器が普及してから、形骸化してしまった。 小刀で鉛筆削るの得意だった
鉛筆削りなんて家になかったよ…… >>207
家もだ、鉛筆削り以外にも肥後守で竹とんぼつくったり紙でっぽう作ったり
いろんなもの作ったな 何も食べる物がなかった時に割りばしに味噌塗って少し炙って舐めてた奴俺以外にいる? シャーペンは中学の入学祝いで腕時計とセットで買ってもらうのが普通やったな
自分は今54歳
フレフレシャーペンはペンを上下に振るだけで芯が出てた画期的なやつで得意気にカチカチ音鳴らして振ってるやつ居た うちは中学の入学祝なんて何も無かったな
義務教育だからいちいち祝う必要無いと言ってたけど、実際は貧乏で買えなかったんだろう
高校生になっても腕時計が無くて、親が遠方に住む伯父(普段付き合いの無い)に買ってくれと頼んで
なんとか途中で買って貰えたからよかった
中学入る時に買って貰った学生鞄は高校卒業するまで使ったよ >>212
オレは高校入学祝いに腕時計を買ってもらったけど、磁気の影響を受けたのか、1年足らずでダメになっちゃったな。
代わりに貯めた小遣い使って、磁気の影響を受けないデジタルタイプを買ったな。
以来ずっとこのタイプを使ってる。
液晶デジタルの腕時計って何故かバカにされるけど、オレは使ってみてそんなに悪くないと思ってるが、今では
アナログの3針式の腕時計って良いのか?と思ってる。 安価なチプカシは、ビル・ゲイツも愛用しているね。
俺も液晶デジタルは好きだけど、オススメはソーラー式。
真夏の炎天下に置いてダメにしちゃったけど。 俺はデジアナ一択。出来れば秒針付。
出始めのころ、シチズンデジアナに憧れたが買えるはずもなかった。 大正生まれだった祖母が若い頃に駐在をしていた叔父から就職祝いで腕時計を買ってもらったのが嬉しかったからと、俺達兄弟が高校へあがる度に腕時計を祖母が買ってくれた。 >>216
いいなぁ
自分は、孫特権何も無かったな >>217
>>218
ありがとうございます。祖母からの恩送りだと思って自分も一次志望の大学に落ちて泣いてた姪っ子にはデスクトップのパソコンを一式、一浪して苦労して就職した甥っ子が学校を回るシステムエンジニアをしていますがバリバリに割れたスマホを使っていたので仕事で使うものだと思ってスマホ買い替える足しにしろと10万円渡しました。
祖母にしてもらったことを次の世代へ自分がやらなくちゃという思いがありますね。 >>219
めちゃくちゃ良い人だ
良いことの連鎖は続けていかないとだな >>219
偉いな凄いな弱っている時に差し伸べられた愛は絶対忘れないと思う。 >>221
作家で経済評論家の邱永漢氏が生前著した著書の中で、上司や偉い人は高級品をもらうのに慣れてるから、
そんな人に高級品を贈答品として贈っても何の意味も無い、どうせなら後輩や困っていそうな人に高級品を
贈った方が喜んでもらえるし、贈った甲斐があるというものだ、と述べていたが、まさにその通りだね。 >>219
何か感動話になってるけど、お前んち貧乏でも何でもないだろ
スレ違いだ糞ボケ >>223
両親は貧乏なんじゃない?
もしくは片親だったとか 貧乏な頃に受けた恩は、自分に余裕ができたら
同じようなシチュエーションで返せばいいって話だよね
貧乏と関係ないけど、
学生の頃に田舎道で雨に降られて、近所のお年寄りから
傘を持っていきなさい、返さなくていいと渡された
自分も同じことをしたいけど雨の日に傘を2本も持ち歩かないからなぁ 子供の頃、ビデオデッキや関数電卓を拾って使ってたな。
当時まだ高価だったのに良く捨ててあったよな。ビデオデッキは画質がおかしかったけど。 家電は修理・調整しながら使うのが当然だった
実質使い捨ての今が異常なんだよ >>225
同じシチュにこだわらなくても良いんですよ >>227
傘や鞄や靴も修理しながら使ってたよね
皆なんでそんなに頻繁に買い換えるの?と驚いたことがある >>227
今の家電はワンチップで基盤交換しかできないから
修理費もかかるので仕方が無いな
それに人件費も高い、昔なら部品1個で修繕できたけど >>227
修理する部品の保有期間が短いね
それと修理代が高いから、新品を買うのとあまり変わらない >>229
子供の頃、傘の修理屋が来てたな。
傘はそんなに高いものだったのか。 よく足元の靴を見るとその人が判るというけど
俺は雨の日に差している傘を見るとその人が
大体わかる。
50、60過ぎて使い捨てのビニル傘差してるなんてのは・・・ >>233
傘を使わない人はどう判断するの?
ゴアのカッパなら撥水透水完璧だし、両手が使えるから便利 俺は傘は使わないな
まあ相手先を汚すわけにもいかないから、やむを得ないときだけ
カッパももってる、車にいつも入れてるのはコンビニ傘だな
急な雨で同乗者を濡らすわけにも、いかないから、返さなくて良いからって
渡し用 靴も足元を見るってヤツ対応用だね
ワークマンで買った作業用安くて丈夫
冠婚葬祭以外はずっとこれだな
足元見てるヤツがいたら、ヤッタと思う (´・ω・`)そんな見てもらえるくらい毛が無いがな そお言えば、公務員の友人が、退職後金髪にしたな
維持すんのがめんどうって元に戻ってるが とある仕事を担当すると金髪になるというジンクスがあったな
二人目はあんな真面目な人が何故金髪と言われていた
三人目の私は普通の髪のままだったのでジンクスが途絶えた >>244 禿では? ごめんなさいね、富士額ですよね? (_ _;) ここのスレの人なら分かってくれそうなこと
五右衛門風呂
バランス釜 五右衛門風呂は10年前まで現役だったが、底の鉄が薄くなって修復不可能になって最終的に風呂場ごと壊し真新しい灯油式ボイラーのシステムバスに
五右衛門風呂は真冬でもなかなか湯冷めしないのがメリットかな
風呂焚き用の薪は裏に雑木山があるからいくらでも有ったし 中学生の時に家の風呂焚きスイッチ着火しなくて業者呼んで修理して貰ったけどまた、直ぐ壊れて業者も修理不可能になり風呂場の隣に壁ぶち壊して新しい風呂場作る出来上がるまで数カ月風呂無し生活で、時々銭湯に連れてかれた。 子供の頃風呂は石炭で焚いてたな。
火の加減が難しいんだよな。
と言ってもデレキ触らせて貰えんかったけど。
お湯がめちゃ熱かった。 学校が石炭ストーブで、日直がそのままストーブ係
毎日用務員室の隣に有った石炭の山から石炭運んでストーブ点火、これがなかなか厄介で下手くそな日直はいつも点火までに時間が
帰りの掃除の時に石炭の燃えカス綺麗に掃除してカスは校庭の窪みへ >>252 青森五所川原辺り?
北へ帰る人は誰も無口で、、、地吹雪やストーブ列車に憧れます @九州 コークスと言えば鞴
見習いの職人さんはマイアさ5時になると鞴でコークス赤くする。 >>253
昭和30年代なら、だるまストーブでしょう、全国 どんなに貧乏な家でも暖房だけは充実していたな@北海道 >>252
用務員は生徒が登校する前に各教室の石炭ストーブを点火するもんだろ
関東の用務員は随分と楽してるな @北海道 >>262
用務員さんや先生が点火するのは1年〜4年までで5、6年生は日直が担当
流石に6学年30クラス有ったから無理でしょう。 俺も北海道だけど点火した記憶有り。高学年の時だけだったかもしれないけど。
あと、冬の掃除の時の水の冷たさが今思い出しても辛すぎる。たまーにお湯だと本当に嬉しかった。 冬の朝礼が辛かったな
校長の話は長いし足裏からめちゃ冷えて凍える思い ご飯にイカの塩辛乗せてお茶漬けにしてたべてたけど、うまかったな。 >>265
良くドーーーンと言う音がして生徒がぶっ倒れていたな。
吹雪、古ぼけた木造の校舎、真っ赤に燃えるだるまストーブ、
懐かしいと言うよりどこか違う世界のようだ。 ストーブ前の席は灼熱。
対角線上の廊下側最後列は寒かったな。
俺の頃は高校まで石炭ストーブだった。 中学高校ストーブ無かった。
窓際にオイルヒーターの残骸があったが
壊れてて使えずみんな自前のホッカイロで
暖をとる。 小学校は、炭ストーブ
日直二人が朝炭小屋からバケツいっぱい運ぶ
炭ストーブに大きなタライに水入れて牛乳瓶入れてあたたかい牛乳飲んでた。 小学校低学年の時に、バケツで石炭を教室に運んだ記憶はあるけど
着火した記憶はないなあ。
小さい子供にマッチを預けるのは危険だと思うから、たぶん教師が点けていた。 何かと優遇されていた高校だったので
冬は当時は珍しかった大型のガスストーブだった。 子供が高校生の時、校舎の建替えがあったけれど、エアコン設置費は含まれていなかった
なので、高校生の保護者やOBに寄付を募って設置された
エアコン設置費を都道府県が出すかどうかは、都道府県によって異なるらしい?
自分が小学生の頃に校舎の建替えがあったけれど
建替え中はプレハブの教室で、暖房は石炭ストーブだった
そのストーブの上に置いたタライの中に牛乳を入れて温めていた記憶がある >>277
マジで?茨城県寒いやろ
>>274
何県よ?
ちなみに静岡県は小中高ストーブ無いよw >>282
冬は窓際の席が人気
寒いけどそれが当たり前だったし、高校にストーブ置いたらそれはそこで喫煙しろと言ってるようなもの
暑さ寒さは根性で乗り越えるじだいだったし 小学校は戦前の木造校舎床下から冷たい風が吹きあがってくる
のでダルマストーブだった、中高は高度成長の勢いで
鉄筋コンクリと、そのためか暖房無
中学校は町内唯一の水洗トイレ、父兄参観日に流し方しらない
親が物を残してた >>280
小学校が田んぼ一面深い雪でうずもれて
それでも6年生先頭で、ラッセルしながら登校してたな
今は1月に1日か2日2〜3cm積もる程度昼には溶ける
テレビでは南国地方なんて言ってるけどね >>280
地球温暖化説正しいと思うんだがな
夏は昔より暑くなっているし
冬は昔より雪が積もらなくなってるし雪の日も少なくなってきてるよね? >>288
2021年に真鍋淑郎がノーベル賞を貰っているのに
その評価はいかがなものか? >>289
あれは温室効果ガスの論文だろ、その原因は言及してない >>286
地球温暖化説正しいと思うんだがな
夏は昔より暑くなっているし
冬は昔より雪が積もらなくなってるし雪の日も少なくなってきてるよね?
>>286
冬は昔より雪が積もらなくなってる
おいお前んちテレビ📺無いのか? 間氷期だろ、温暖化すれば、海の炭酸ガスが大気にでてくる
温室効果は否定しないけど、人類がさわいでもどうにもならない ひと部屋に家族5人で住んでいた。
家を出るまで姉ちゃんとしてた。
今はお互いに結婚して普通に接している。 温暖化説も否定しないけどなんとなく地軸がずれて来てる気がするんだけどな
日本なんか特にだんだん南国気候になりつつあるのはそのせいと思ってる 地軸がズレて傾いてきているのは本当の様だ。原因は中国の大量コンクリート建造物と
インドの急激な地下水くみ上げと言っていた科学番組をで観た。地球の肺と言われているアマゾン森林
伐採も止められないので改善無理だな。 温暖化の原因は諸説有りかもしれないけれど
平均気温が上昇していることは観測結果なので否定しようがない >>300
いやいや、ググればいくらでも出てくるので、そこまで必要ないでしょ
「地球は温暖化していない」というタイトルの論文でさえ、本文に平均気温が上昇していると書いてあるし
冒頭には気温は全く上昇していないと書いてあるので、ここだけ読んで早とちりしないでね
二酸化炭素温暖化説の否定が趣旨だから
https://www.city.hidaka.lg.jp/material/files/group/29/201803283.pdf 自分も書き込んでなんなんですが、元の貧乏話に戻りません 本がないから無意味に辞書や電話帳を読み耽る子供時代 図書室を良く使ったな。
先生が図書室の利用実績リストを見て、1位だった俺に対して〇〇君はよく本を読んでいて偉いと褒めてくれた。 貧乏だけど鉄オタだったので交通公社の時刻表を端から端まで >>306
時刻表楽しいよね
妄想旅してみたり、欄外の一言読んでみたり >>306
自分も隠れ鉄で、70年代の小学生の時よく交通公社の時刻表へ投稿していました。
みどりの窓口や駅弁のマークを見ると今でも血が騒ぐというか?
その鉄の血を受け継いだのか、娘も息子も今やjrへ 因みに家族は未だに誰一人私の隠れ鉄を知りません。
私が死んだときに私の遺品の中から国鉄の硬券入場券を見つけたらきっとビックリするかもです。 ビフテキ といって出されたおかずは トンテキ だった キャベツだけのお好み焼きを食べた事あった。
今思い出しても涙出るわ。 子供の頃のすき焼きは、豚肉だった。
兄ちゃんがこんなのすき焼きじゃないーと暴れた。すき焼きは、牛肉だー
子供の頃牛肉食べた事が無かったから
兄ちゃんナニ言っているんだと思った。 うちは鶏、カレーもすき焼きも
近所の養鶏場の廃鶏、出荷できない卵、とか安く手に入った
硬いけどね >>316
廃鶏、、、何も言えない無常感が!(T_T)
中学生の頃に一輪車でウンコ集め、800円/日でアルバイトしてたわ! >>307
ほんと大好きだった
もう愛読書と言って良いくらい
妄想旅もよくした >>309
みど窓や駅弁マーク懐かしいですね、赤帽のマークとかも
好きが高じて国鉄に就職、子供も跡?を継いでます
わたしも国鉄時代の硬券多数持ってますが死んだら捨てられてしまうでしょう 関東の叔父が新築披露でお泊まりに行ったらすき焼きが豚肉。
関西人の俺が母親に「家に金使ってもうてすき焼きが豚肉やで」
鼓膜がパンクするくらいひっぱたかれた。 赤帽なつかしぃわ〜
上野駅広小路口の左側に赤帽が有った記憶が、そして駅に両替所が有った。
東京へ行く度に横須賀線のグリーン車がなんとなく羨ましくて、大人になったら絶対グリーン車に乗るんだと夢見て
最初のグリーン車が東京発大垣行き(ムーンライトながらの前身)の夜行普通のグリーン車だった。 牛肉なんて、輸入自由化するまで食べたことなかったな。すき焼きもカレーも肉じゃがも豚肉だったよ。 国鉄時代の切符と言えば、自分と同じ名字の駅の切符は持ち帰った 名前ではないけどほんとによく切符だけは売れた「愛国ー幸福」
いい旅チャレンジ20000kmは正に青春そのものでした。
DISCOVER JAPAN >>324
菜食主義でもないのにっていう話だと思う 鹿児島と言う名字のひとがいるけど鹿児島県とはまったく関係がないという不思議!
徳島さんや福島さんは居るけど広島さんと言う名字は聞いたことがないなあ >>327
明治以降の造語の北海道と愛媛以外はいるらしいよ >>326
俺はベジタリアンでなくペスコだけど
それでもイカは入れないし、それが悲しいと思ったことはないな
そもそも、キャベツだけのお好み焼きに涙するって本当に貧乏を経験したのかと それは環境だろ、ひとそれぞれ
お好み焼きなんて知らんかったよ、上京するまで
海が近い農村だから、魚介、野菜はただ同然に手に入ったから
野菜・魚・鶏・卵ばっかりだったね 子供の頃の冷蔵庫は、ワンドアで上に氷作る所があったけど段々冷蔵庫壊れて来て最後は、
ハウスのシャービックさえ固まらず家で作れるのは、フルーチェとプリン🍮だけ。 本当に貧乏を経験した人は余程開き直らないと当時の事は思い出したくないし語りたくなんてないよ
貧乏を語れるだけ裕福だったのさ 家には冷蔵庫が無くて
母親が俺たちに美味しいプリンを食べさせようと
スイカを冷やすように川の水でプリンを冷やしてくれたけど
ジュルジュルで固まらなかったな
優しい母親だった。 普通は冷蔵庫がない時点でプリンという発想は無くなるけどな セブン店員「賞味期限切れおでん」販売を内部告発、
1か月過ぎた商品も 本社が認めて謝罪
ユーチューバーのコレコレさんが店員の告発として動画を配信
://twitter.com/naoyafujiwara/status/1479224057535287300?s=20
2019年7月11日、
セブンイレブンのオーナーだった齋藤敏雄さんが遺体で発見。
2014年9月には、
長男の栄治さんも夜勤後に自宅で自殺していた。
500m圏内に8店舗、200m圏内に5店舗の過剰集中により売上が激減し、
家族経営は閉店に追い込まれた。
企業売上の為、家族の人生を破壊したセブンは絶対に許せない。
://twitter.com/yamatokairagi/status/1166313328043413504
菓子工場で働いていた技能実習生が亡くなった。
遺族から相談があり、昨夜駆けつけて話を聞いてみると、
亡くなった本人は過酷な労働環境の下で精神的にも身体的にも辛くなり、
転職を求めていたのに、会社や監理団体から断られ続け、
失踪先で自殺をしたという。
今日はその方の葬儀に参加した。
://twitter.com/marikojiei/status/1480429519584755719?s=20
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>314
大阪ではそれをキャベツ焼きという
>>315>>320
昔の関東地方はそれが普通やったようですが
>>317
はだしのゲンみたいやな
「ウンコ〜ウンコ〜新鮮なウンコありませんか〜」
>>319
洗面所のマークはありましたか? 豚肉のすき焼きはまだ一度も食べたことないなあ。
すき焼きと言えばかしわのすき焼きがほとんどで、たまに牛肉だった。
家で飼ってる鶏を潰したすき焼きの時は、血管がまとわりついてる卵の黄身がたくさん鶏肉と並んでて気持ち悪かった。 >>336
洗面所のマークは覚えてないですね
駅名の左にあったのは駅弁、赤帽、みど窓、救護所のマークです いまだにわからないんだけど、すき焼きって牛が普通なの? >>339
豚すき焼き 豚しゃぶしゃぶ
というくらいだから本来は牛肉だな >>340
本来4つ足は表立って食わないから
鶏すきだろ >>297
無重力の宇宙に浮かんでる地球の一部が重くなっても地軸は傾かないよ
重力は地球の中心に向かって引っ張られてるんだし
地軸の角度が変わるとしたら月の影響が大きい >>343
理屈で言えば、地球の一部が重くなると地球の重心が移動するから地軸は傾くよ
もっとも、建造物だの地下水だのでずれる重心は微々たるものだから、それでは地軸は傾かないけどな 同僚から幼い時からいつも家では大型犬がいて今も飼ってる、という話を聞いて
少し切ない気持ちになる
ペットどころか外食すら満足に出来ない家庭に育ったから 家族の夕飯が大鍋にインスタントラーメン大量な時があった >>346
大鍋に皆が箸を突っ込んでラーメンをズル食いするって楽しそう それがその家のmaxの夕食だったら余りにも悲しすぎる。イベントなら楽しそうだけど >>346
インスタントラーメンって逆に高くつかない?大鍋ってことは一人一個分なかったのかな? 家は休みの日の昼食にハウスのたまごめんを良く食べていた。具は白菜だったかな。
俺は美味しくて好きだったのに、クラスの奴が凄くマズイとか言ってて悲しくなった。 >>351
業務スーパーのスレを見ていると
「あれが不味い」とか「一口食って捨てたわ」なんて書き込みはよくある
彼らにとっては貴重な情報交換なのだろうけど、
「買ったら最後まで責任を持って食えよ」というのが正直な気持ち
まあ自分で稼いだ金をどう使おうと勝手だが 金持ちには程遠いが、食べるものくらいは我儘できる収入はできた。
不味いものに当たると腹立たしくて、情けなくて、不愉快で堪えがたい。
この歳になると不味いものを我慢して食べるということが出来なくなった。 普通に店で買っているもので、不味いものは滅多にないな
嫌いなもの(レバーとか)はそもそも買わないし
未知の食べ物に挑戦して外れることはあるが、一応食べきる
業務スーパー(固有名ではなく一般名の方)で不味いものって何だろう
冷凍タコ焼きとか冷凍水餃子とかアイスクリームとか菓子とかを買うのだが不味かったものは無かった >>355
業務スーパーでチューブ入りわさび【中国産】が、
58円(税別)とお手頃だったので試してみた
やはりS&Bやハウスと比べて、安い分だけ味も落ちる
好物の刺身が台無しになるのも嫌なので、ざるそば用で使い切った 自分は、そのテの品は真っ先に成分表示を見て、添加物や香料がぞろぞろ入ってるのは見送る事にしてる
その他の何でも同じだけど、一番高い品と安い品の成分表示を見比べての学習をオススメ
見慣れると安さの理由が分かって来るよ 俺たちに明日は無いキャッシュカードに残は無い! Orz >>357
全く気にしない。我が子が居たら気にするかもしれないが、俺は独り者
味覚なんて、その場の雰囲気や環境で味が変わるもの
添加物を気にしてたら今の時代生きていけない
アメリカで販売禁止になってるアメリカ産の除草剤ラウンドアップを
農協が推奨してるんだよ
俺らは家が貧乏だったから耐性が付いたんだから
今更、そんなの気にするなっつぅーの >>357
原材料はもちろん見ているけれど、例えばわさびだと
安い物だとS&Bやハウスのような大手メーカーでも混ぜ物はコッテコテだよ
美味いか不味いかは賭けだね
やっぱり食べてみないと分からないよ
キッコーマン醤油でも安物は「果糖ぶどう糖液糖」を原料に使っている
そういうのは炊き込みご飯などの大量使用を目的に買っている
もちろん普段使いは別 キユーピーの「深煎りごまドレッシング」「焙煎胡麻ドレッシング」は微妙に中身が違っていたな。 >>357
流通を信用しすぎだろ
ラベル表記なんて、いくらでも抜け穴があるのに 昔から良い物食ってきた食通自慢みたいな人の相手をするのが苦手
適当に話合わせるけど、蘊蓄なんか語れないし聞きたくもない
そりゃ不味い物より美味い物の方が良いが、正直そんなに味にこだわりない
貧乏育ちで粗食に慣れ過ぎたからだろうか >>366
いまだにナイフとフォークが苦手だよ。
子供の頃全く使わなかったから。 箸が使える店では最初に切り分けて箸で食べるね。ライスはフォークの背に食べると言われてたけど食べる場面は未経験だな。 売ってる最低の箸さえ家になかった大貧乏育ちだが、
ナイフとフォークは妙にしっくりする。
洒落でサバの味噌煮やお好み焼きをそれで食ってる。 自分で稼げるようになったあとでも
お金を使うのが恐い。
父親がいつクビになっても不思議でない働き方をしていて
お金が足らなくて母親が働くと父親はサボろうとする。
手に職付けたくて行ってた工業高校で一定数そういうのが居て勇気づけられた。
ビバ堅実に生きるだった。
とにかく潰れなさそうな会社選んで真面目に働いていればお金入ってくるから残業厭わず働いて、服も靴もボロボロになるまで使っていたので、回りに着ない服とか恵んでくれる人がいて助かった。
人からはモノを貰ったら、たくさんの感謝とお金掛からないものをすごく悩んで出していた。
お金は使ったら無くなるから、付き合いも最低限。
付き合いでゆくときは交通費ケチってた。 俺は100万都市で一人暮らししてるが
弟と両親が実家で暮らしてる。
こないだ弟から電話があって母親が脳出血で倒れたと。
父親もヨボヨボなんで施設に入った母親の代わりに弟が親父の食事も作ってるらしい。
俺も何もしない訳にはいかないから、一度実家に訪れて弟と話をしたら
スマホの料金に毎月1万円、テレビの有料放送に毎月2万円使ってるらしい。
年老いた親父の為にエアコンつけっ放しなんで電気代も3万円近くと聞いたから
ネットで調べて一番安い会社に変更させた。
今時スマホに1万円払ってるヤツも居ないからキャリアの出してる格安プランに変更させようとしたら
使ってる機種でないと操作方法がわからないから今のままでないと嫌だと言う。
それで毎月支払いが厳しいと言ってる。
少なくともスマホ料金は削減させたいが
どう説得すればいいのやら。 スマホ代はやめといた方がいいな
課金上限なんて確認しといた方がいいな 光サービスで家ではwifi接続にしてる、スマホのパケット量は1G以下になったよ
家にも年寄いて環境は似たもんだろうな自分と
ネットは年寄見ながらの、気晴らしなんだとおもうよ テレビの有料放送2万円を削ったほうが良いのでは?あとテレビって電気代くうらしいよ >>370
フレンチやイタリアンのコース料理でご飯は出てこないもんなwww >>379
コース料理ではなく、フランス料理なら気がつかないで食べていることが多いかも
フレンチフライ(フライドポテト)とか かしこまってライスをフォークの背に乗せて食べる人がいるけど、日本人だけらしいよ!(笑) >>382
フォークとナイフでランチを食べる正式な食べ方というものは無かったので
晩餐会でランチを出した場合どうするか? とうことになり
ライスをフォークに乗せて食べる方法を正式な食べ方にしようと
日本の誰かが考えたと記憶している
自分は箸を頼むが、無かったらスプーンですくう 国際結婚した伯母の旦那。
つまりアメリカ人はフォーク一本で食ってた。 マナー講師は日夜新たなマナーを作り出して広める仕事 ファミリーレストラン皿にご飯
皿ご飯食べにくい
ご飯あと絶対ちゃんと取れていなそうどうせ料理のせるからと疑ってしまう。水につけておかないときれいに落ちない。皿ご飯だいっきらいお茶碗にしてくれ >>387
ご飯をすくうより横にズラす感じで食えば綺麗に食べられるよ
押し付けちゃダメよ カレー食う時は最後のひと口ふた口のご飯で
皿についたカレールウを拭き取るようにさらってなるべく皿を白くして終了したい
カレールウがもったいないって言うのもあるんだけど
同じ理由でファミレスのポタージュスープもパンで拭いて食ってたら連れに注意された >>389
> 同じ理由でファミレスのポタージュスープもパンで拭いて食ってた
それでいいんだよ。
料理人にすればそこまで食べて欲しいもの。
だからそのやり方はマナー違反ではないどころか、マナーとして正しいんだって。 うちのオフクロは94歳になるけど
いまだに食事が終わった皿とかソースが
残るとなめる癖がある 有名マナー講師が寿司屋でのマナーを偉そうに講釈垂れた後にそこの寿司屋の店主から
「寿司なんてもんは好きなように食うのが一番いいんだよ」
って叱られたのはスカッとしたわ 社会経験の少ない若者ならまだしも50歳過ぎたらさりげなくマナー通りに食べてほしいわ。 醤油皿の醤油を、シャリに付けずにネタにだけ付けるのは面倒だな
醤油を刷毛で塗る店もあったけどね
パック寿司なら魚型の醤油差しが楽でいい 久しぶりに回転寿司に行ったけどいつの間にかものすご〜く質が落ちたな 小さい頃、かんぴょうでもキュウリでもない赤い寿司ネタは一体何なんだろうと思っていた。 今でもしめは、カッパか卵だな
でも近所のはま寿司のカッパは、きゅうりの鮮度のせいか、おいしくない 回転寿司のネタが昔の3分の1しかないです!
ボンビーな私なんて味なんてどうでもいいんです
お腹いっぱい食べたいんです!マシで Orz 瀬戸内に赴任中の回転寿司でファミリーが来て子供の第一声。
( ・∇・)エンガワ!さびぬき
助走付けてひっぱたきたかったわ。
俺はついついかんぴょう巻。 正月帰省すると母親が巻き寿司作ってだよ。
生寿司買って帰ると言ったんだがな。 >>387
ファミレスによるけれど、ライスとパンの選択式が多いので、パンを選んでいる
自宅では御飯がメインで、パンはめったに食べないし >>398
ネタもシャリも小さくなったよね
30〜40年前だと10皿くらいでも満腹になった サバ寿司が大好きで、若い頃は自作していた
当時はインターネットもなくて、アニサキスの知識はゼロ
生サバを買ってきて冷凍したわけでもないのに何ともなかった
恐いからもうやらないが、塩で漬けるとアニーちゃんが弱るのかな?
子供の頃に母ちゃんが塩サバを買ってきて、たま〜に作ってくれた
焼津産の塩サバで作ると確かに美味い サバと豆腐(おから)は貧乏人が食う代表だった、だからいやと言うほど食わされたな (T_T) >>399
まともな寿司屋で本物の平目の縁側食べようよ みんなの食べ物話を読んで、親戚から貰ったじゃがいもしか食べ物が無くてひもじかったガキの頃の自分に、大人になってどうにか好きな物が食べられる生活が出来てる、毎日風呂に入れて、冬にはコートが着られてるから頑張れ
って、タイムマシンで励ましに行きたくなった。 中古とはいえマンションと自家用車まで持てるようになった自分に驚いてる。 >>411
判るわ。
それができたらもう少しだけ胸張って生きていたと思う。
ただ、じたばた生きていたから今の生活に辿り着いたから、じたばたしろとも言うしかないが 子供にエンガワなんて、豚に真珠だな
しかもサビ抜きw
こういうのが大人になって海原雄山になる
何を食ってもマズいのは不幸 中学校の頃6食連続でインスタントラーメン食べたら
全身蕁麻疹がでてビックらこいた
体に悪いんだなとしみじみ思た 家は貧しくて帰ってもオヤツなんてなかったから、何時も5月頃になると学校からの帰り道に田んぼや池でアカガエルや食用カエル捕まえては帰ってから焼いて醤油付けて食べてた。意外と旨かったのがシマヘビ
。ヘビはカエルよりも食べる所多いけど細かい骨を除きながら食べるからけっこう大変。
朝、川にウケ入れとけば帰りには沢山ドジョウや田ウナギが、それが何日か後に夕食に必ず出てきた。 >>417
凄いな火垂るの墓かよ
家はポッキーくらいなら不自由なく食べれたわ 俺はこれでも恵まれてた方だ
兄弟も二人で親父が丈夫で出稼ぎ行けてたし、中学生になった時は中古だったけど通学用の自転車買ってもらえたし じゃがいもスライスして揚げてポテトチップ作ってたな。水にさらさないとパリッと揚がらないの知らなくて、いつもシナシナの食べてた。 >>417
すげぇーわ
貧乏どころか、飛行機がジャングルに墜落しても
食べ物には困らないな インスタントの塩ラーメンに卵を入れたやつが週2くらいで夕食に出てきたよ
懐かしくて今も時々食べてる
あとおかずがクノールのお湯で溶くだけのスープだけとか
細いソーメンみたいなのが入ってた、コンソメスープがうまかったなあ 雪解けの時期に、よくお金落ちてないか下むいて歩いてたな。
習慣で、今でもしている。最近、1円落ちていても誰も拾わないが
俺は拾うよ。 >>427
酒の自販機の下によく落ちてると言われてたな。 いつの頃からか、ネコババは運気が下がるような気がして
お金を拾ったら警察に届けるようになった
といっても500円硬貨からだけど
それ以下は落ちていても無視している
本当に生活に困っている人が拾えばいいわけで ポッカのベンダーにコイン入れ損ねて落として
下覗いたら100円玉が500円玉に化けた。 >>429
俺も運気が下がるような気がして
少額なら賽銭箱においてる 縁日が終わった直後の屋台が撤収した道を夜中に歩いてたら結構な数の小銭が落ちてた
俺も小学生の頃は拾った金を貯めてお菓子やプラモデル買ってたけど
ある日病院の駐車場でビニール袋に入った何か漢字が書いてある封筒の束を見つけて
その中のひとつを開けてみたら紙のお金が入っててそれが20個くらいあるのにビビって
慌てて家に帰って母ちゃんに見せたら「なに開けてんだ!」ってとりあえず引っぱたかれた
お見舞いでお金を包む事をその時初めて知り、母ちゃんとそこの病院の受付に届け封を開けた事を謝って帰った
大金拾うと咄嗟に人はビビるということを学んだ >>413
自分は新幹線に初めて乗ったのが24歳の時だった。
旅行の話になると、友達らは新幹線も飛行機も乗った経験あるのに、新幹線すら乗った事がない自分は話題に入れなかった。
グリーン車は30代になって、仕事場の雇い主の鞄持ちで初めて乗った。 >>433
60歳になりました。
60歳の誕生日に自分へのプレゼントにE5系のグリーン車、流石にいきなりグランクラスだと心臓に悪いから先ずはあこがれだったグリーン車に
正直な話し自販機でキップ買うだけでビビっていました。やはり貧乏性っての一生抜けないんだと改めて実感した60歳の誕生日でした。 >>433
別スレで前に見たことあるけど、どこの県だったか、修学旅行で新幹線に乗るというので、前もって
学校の予行演習で新幹線に乗る練習をしてるとかいう話を見て驚いたわw
ホンマかいな?と思ったのを思い出した。 >>437
40〜50年前は普通の光景かと
2分間の停車時間内にすべての生徒をスムーズに車内へ入れたりホームへ出したりする
生徒は遊び半分でしたが、教師達は結構マジで必死に。200人以上の人が一気に新幹線に短時間で乗り降りするわけで
事故が起きたらいくらあの時代とは言え問題になったし >>438
四国だったけど、知らんな、小6の時の修学旅行の時水洗の流し方はならった >>433
子供達をリニア500km/h体験に連れて行ったとき、アンケートがあった
その一つが「新幹線と比べてどうですか?」というような質問の選択肢だったけれど、その他の選択肢が無い
子供達は新幹線に乗ったことがないので、欄外に「新幹線に乗ったことがない」と書かせた
新幹線に初めて乗ったのは国内出張の時だったけれど
グリーン車は乗ったことがないな 貴兄らはグリーン車は必ず座れる訳ではないことをご存知かな?
出張の帰りに疲れすぎて途中から自費にてグリーン券を買い求め乗り込んだら全席満員でデッキに立ちっぱなしで帰ってきた苦い思い出が、、、涙) >>442
今はネットでも券売機でも空席情報確認できるから大丈夫ですよ
あと、東海道新幹線7号車の謎とかも 以前のJR東日本は激安グリーン券大盤振る舞いだったけど、最近はどうなんだろう。 >>438
神戸やけどそんなんしらんわ
電車乗り方とかマナーとか親に教育されとるから大体わかるんちゃうん? 子供の頃は新幹線でコンクリートみたいなアイスを買ってもらうのが楽しみだった 今は貧乏ではないけれど、噂のコンクリートみたいなアイスを食べたことがない
というか、新幹線の車内販売を利用したことがないな 新幹線の名古屋あたりで買った車内販売の弁当が
クッソ不味かったのが今もってトラウマで、
以後 幕の家弁当は買わない。 グリーン車といえば、夜行大垣行き340Mの繁忙期争奪戦。ピークの時は早朝からグリーン車入り口付近ホームに席取り並んでたw 東京に行くとき、夜行列車で大垣−東京を利用したことがあったな
禁煙は名古屋−東京の高速夜行バス(三列独立シート)、またはぷらっとこだま&高速バスプランを利用している 東京行はサンライズか夜行高速バスのプレミアムシート うちの親家族旅行なんて何処にも連れてくれない。母親が父親の保養所温泉に母親が連れて行けとそれで温泉行ったぐらい
夏休みの絵日記は、書くネタは、無い
親が海にもプールにも連れてってくれない
父親は、毎日呑んだくれて
毎日トイレでゲロ吐いてた。 そういえば小学生の頃、夏休みになると同級生の何人かはその父親の会社の
保養施設に泊りに行くと自慢してたっけ。今思えばそんなとこって感じだがw 子供時代は全く旅行には連れて行ってもらえなかった。 初めて行ったのが近くの海水浴場だった!しかも幼なじみの親に不憫だと思われて連れてってもらった!
お礼も言う暇もなく他界された!南無南無 (T_T) 四国住まいだが、近場の海水浴なんかにはよく連れてってもらったな。
でも1970年の大阪万博には結局連れてってもらえなくて、悲しい思いをしたのは今でも覚えてる。
延べ人数で日本の人口の半分は入場した大阪万博には行きたかったなぁ。 >>459
なんかご近所?、俺も修学旅行先が例年なら京阪神だったのでワクワクしてたら
北九州一周にになってしまった 貧乏の頃の癖が抜けないのか、婆さんが使い終わったマヨネーズの口をちゅーちゅー吸って
絞りだしてたのを見たときは情けなかった ケンタッキーフライドチキンは今でも高級品と言うか高いと言うイメージ。
買えない訳じゃないが何と言うかもったいない。
コンビニのレジ前チキンとかで十分って思うところが俺自身貧乏の出だからだな、ってつくづく思う時がある。
まあ、そもそも普通に唐揚げの方が好きだし年も取ったのでフライドチキン自体食いたいと思わなくなってるけど。 マヨネーズ使い終わったのをきれいに中洗って
ままごとに使ってた。
おままごとのおもちゃなんて、買って貰えなかった。 雛人形は、新聞の広告に入ってくる
ひな壇の広告に裏に厚紙貼って切り抜いて
飾ってた。 家が万博に近かったから、
学校から1回、親父と一緒に夜間割引で1回の
計2回行けた
漫画家の浦沢直樹が行けなくて悔しがっていたな
混雑して入れなかったフジパンロボット館なんて、現代の技術水準で
言えば子供騙しに過ぎないし、そうそう残念がることもないのさ
でかい祭りには違いないが 幼馴染の家には、豪華な雛人形が飾られていた
俺は引っ越したが、風の便りでその子の親が事業で傾いて
家を手離したと聞いて寂しい気持ちになった ケンタッキーフライドチキンは就職するまで食った事無くて、CM映像のパーティのご馳走イメージが強かった
就職して初めて一人で行った時は頼み方がわからなくてレジカウンターでモジモジしたのを覚えてる
息子が孫の誕生日やクリスマスで買ってくるたびにその時の恥ずかしさを思い出す 高嶺の花だった大きなカップに入ったKFCの9ピース!ボーナス貰って初めて食って感動したなあ、今にして思えばアブラギッシュだった (笑) KFCが出てきた当時は店舗数が少なくて
わざわざ電車に乗って遠路を買いに行った。 貧乏とは関係ないが
最寄りにマクドが出来た時前の日の夕方以降
買ったであろうハンバーガーを
自慢げに翌日の弁当に持ってきたヤツがいた >>461
昭和36年生まれの定年退職者だけど、修学旅行は小学校、中学校と九州北部だったね。
高校はオレの前年までは関東方面と南九州から一方を選べたが、オレの代から立山黒部アルペンルートに
一本化されてしまい、東京行きが無くなった・・・orz >>471
KFCがどこにあるのかもガキの頃知らなかったな。ただ夏になると母の実家(メチャクチャ山奥)のお祭りの前後に親類みんな集まって寝泊まりした。
その当時毎年母の実家の従兄弟のお兄さんがKFCのバケツみたいな入れ物のフライドチキンを買ってきてくれたのが懐かしいわ。わざわざ街場まで買いに行ってくれたんだと思う。
従兄弟だけどお年玉も俺達にくれた。そういう心遣いが最近忘れられない ケンタッキーは店が少ないから、子供の頃には馴染みがなかったから、食べたことはなかったな。自分で稼ぐようになって食べてみたら、すごくうまくて感動した。 船が難破して無人島に辿り着き、
簡単にとれるアホウドリを食うグループと
魚をとって食うグループに分かれた
結局生き残ったのは、魚を食ったグループだけだった
…という話をどこかで読んだ 閑話休題
産まれて初めて美味いっ!と思った食物は大衆食堂の「カツ丼」だったよ! 意外と美味しいのが
セイコーマートのホットシェフ(カツ丼)
北海道と茨城と埼玉だけで味わえるマニアックなもの 今でも贅沢だと思うのはカツカレーだねえ。
カツもカレーもご飯のおかずとして成り立つから二食で食べたいところなのに、それを一食で食べられるんだから。
もう胃が弱くなって脂っこいものはあんまり食べられないけど、昨日外でカツカレー食べてきた。美味かったなー。 やっぱ昔ながらの食堂やら蕎麦屋、ラーメン屋の出前は懐かしいわ。
うちの地域はカツ丼言うとソースカツ丼と二種類あって自分はソースカツ丼の方が好きで
出前頼んで届くと、そのソースカツを丼の蓋に移して、
まずはソースのかかった飯とソースカツの一切れの半分くらいでそもそものカツ丼の飯平らげて。
その後、残ったソースカツで丼飯二杯くらい食ってたわ。
今あのありがたみとか味わえないのは悲しくもあるわ。 イギリスでは日本式のカツカレーが大ブームらしいね
インドからイギリスを経由して、日本にカレー文化が伝わったわけで
イギリスへ逆輸入というか恩返しができたわけだ >>472
弁当のおかずにマクドナルドのナゲットが入ってたヤツならクラスにいたな
魚の小骨は俺の中では異物混入と一緒で
子供の頃のアジフライや白身フライは今よりも小骨が散りばめられてて大嫌いだった
その白身フライの小骨が無いなんてフィレオフィッシュ考えた人は天才だと思ったね
今やスーパーの惣菜の白身フライは当たり前のように小骨は無いんだけども >>482
大手の冷凍食品で、たぶん魚のフライだったと思うけど
骨なしと書かれていたのに、小さい骨が付いていた(怒るほどのもんじゃない)
んで、お客さん向けの相談室にTELして説明したら、その小骨と引き換えに
ツナ缶3個が送られてきた
クレーマーと思われるのも嫌で、「え、本当にいいんですか?」と
何度も言ったけど、ま、クレーマーだわな 昔の冷凍食品は糞不味い上に電子レンジもまだ高級家電だったから結局冷凍のまま油で揚げて中が凍ったまま食べてたとか普通だった >>483
自分も冷凍ラーメンの具に芋虫が混じっていたと本気で思って具も送ったけど結果はキクラゲだった。お詫びにと金券貰ったけどこちらが平謝りでしたわでも芋虫と見分けつかなかっんだよほんとに 30年ほど前、高級ティッシュを買ったら2枚重ねのティッシュの間に
大きな蚊が標本の様に漉き込まれてた。メーカーに封筒で送ったら尋問みたいに
徹底的に質問されて、何か自分に嫌疑をかけられているようだった。
後日、GSでくれるような普通のティッシュボックスが3個送られてきた。 お前らボンボンじゃん
オラの住んでいる街にケンタッキーは、無い
社会人になって初めて自分で隣街に自分で運転して買いにいってグロテスクのパーツに食欲失せた。 俺も親も免許を持っていない。親戚も持っていないのが多い。戦前は運転手雇って車に乗ってたらしいが。
もともとは富豪。戦中と戦後すぐに大人が殆ど死んで、子ども達だけになって悲惨な状況になったらしい。 ケンタッキーは今は食べれる。
子供の頃は食べれなかった。
マクドナルドも食べれなかった。 ケンタッキーの1号店は小3の時、万博のニュースで見た
マクドナルドの1号店は小4の時、テレビで見た
でも、自分とは無縁の世界だったから
目の前のアーム筆入れ破損事件の方が今でもトラウマのように記憶にある。 マックもケンタも日本で営業開始したのは万博以降だから年代のよって違うだろうな
ケンタッキはたぶん昭和末期だな、今もだめだな唐揚げは好きだが >>487
同意
どっちにしても外食は、めったに無い贅沢だったな
たとえ駅前食堂のオムライスでも
ガキが一人で外食できるなんて絶対に無かった KFCはヒソーリ練習してから彼女誘って行ったわ。
手に持って食べるとか昭和中期には無かったもんね。 ケンタッキーって手が汚れませんか?
手を汚さずに食べる方法ありますか? 20年位前かなあ、土曜の昼すぎにすき家で飯食ってたら小学生がひとりで入ってきてカレー頼んで食ってた
オイオイガキひとりかよって思ったけどよく考えたら俺も小学生の頃に親が共働きで土曜の昼は作り置きか即席ラーメン
極々たまーに300円が食卓の上に置かれててそれ握りしめて近所のお好み焼き屋に行ってた覚えあるなあなんて思い出した >>496
今はガキはマクドで友達どうしで食ってるぞ >>484
現在の冷凍食品の話なのだが
冷凍のメンチカツを買ったら、凍ったまま油で揚げろと書いてあった
解凍して揚げるとパンクするとのこと
何でだ?
ちなみに美味しい >>503
弁当用の冷凍のメンチとかコロッケ
そのまま弁当箱でもokらしいぞ 醤油かけご飯、、、今思えば美味しかった記憶がある Orz マーガリンご飯はよく食べてたな。
今も食べてるけど。 >>493
戦後のどさくさで大人がいなければ土地家屋などまもりきれなかったんでは?うちの祖父母は戦死は免れたが自宅とか無くなったよ浅田次郎もそのへんの話し書いてるね 家の隣のぼろ家に住んでいるばあちゃんが自宅外にトイレがあって、その隣畑が他所の家の畑なのに勝手に耕して野菜作ってた。
昔は、休眠土地を耕した者が土地の持ち主と
とんでもない法律があった。その後まんまと人の畑を奪った隣のばあちゃんおかんがそんな盗人が勝つ法律に怒ってた。 恵比寿のはなしだけど昭和50年代まで戦後のどさくさで住み着いた人らの掘っ立て小屋あったよ近所で語り継がれていたよあのうちはねって。 今でも線路淵の土地に勝手に野菜作ってる家あるな。
ガードレールも外してるし不法地帯だよ。 土手に住んでたり、野菜作って占拠してる人も居るな。
ちな、多摩川。 子供の頃イシイのハンバーグをよく食べてた。ソースがうまかった。 金持ちだな。
うちはマルシンだけだったよ。
ハンバーグ=マルシンだった。
たまに見かけても買いたいとは思わないんだよなあ。 ハンバーグと言ってもあの食感とあの味じゃ
何の肉だか分らないよな。
犬だの兎だのが入ってると言われても仕方がない。 >>516
買って食べたけれど、ほぼ昔の味だったよ
ただ、昔はもっと焦げていたような気がする ウチはニッスイNOWハンバーガーっていう魚肉ソーセージみたいな赤いビニールに包まれたヤツを
輪切りにして焼いたのをケチャップかけて食ってた
姉と兄が職に就いた頃に初めてイシイのハンバーグを食った 随分と豪勢だな
マルシンもイシイも食べたのはずっと後で
肉が少なく、つなぎと野菜が多めの手製だった うちはイシイのチキンハンバーグだったな。
マルシンは貧乏でお袋がまともな味付け出来なくて一回食卓に上がってそれっきりだったわ。 イシイのハンバーグはうまいよね
今でも食べたくなる時があるよ マルシン今でも買うな
焼いてすき焼きのたれを絡め、レタスとマヨネーズも一緒にトースト
で挟む照り焼きサンド おかんに中学高校弁当のおかずにマルシンハンバーグ入れて貰ってた。今でも3個テープで巻き付けられたの買う。気持ちは、十代に帰れる >>523
すき焼きのたれ
美味しいそうそれやるありがとうm(_ _)m みんなマルシン買うんなら俺も買うか。
何十年ぶりに食べることになるのか… >>523
頭良いな!
てか料理センスが良いんかな?
俺も真似させて貰うわ! イシイのハンバーグは高校の時、弁当に昨晩の残りのソースがご飯の上にかかってたわ
マルシンハンバーグは今でも食パンの間に挟んで食べてる。 マルシンって今も獣脂で塗り固められているのかな
あんなのを食べても身体にいいとは思えんが 初代ボンカレー松山容子パッケージ
この前食べたけど懐かしくて涙が出てきたぞ 一度でいいから懐かしいもの、美味いものを食べて
涙を流してみたい。そんな話は聞くけど経験がない。 それは普段幸せだからだよ。
大切な家族を失うと一緒に食べた大好きだったメニューを一人で店で食べたら涙が止まらなかった。 マルシンいまでも好きだ。
大人になって鉄板に乗ったハンバーグ食べて「世の中にこんな美味いものが!」
ってなっても、やっぱたまにマルシン食べたくなる。
共働きでいつも疲れていた母が作ってくれた弁当の味。
逆にガキの頃おやつなんかロクに無くて、父に山へ連れていかれて
アケビを食べさせられたけど、いまはちょっとした料理屋でいい値段とられてて草生えた。 >>535
子供の頃、よく鰯や鯖食わされたけど
東京の少しおしゃれな店で、鯖がでて、
産地聞くと、俺の田舎で、昔はさばの生き腐れいったのに
遠くにも運べるんだと、感心したけど
値段で絶句したよ、子どものころ塩サバで食ってたのに >>537
イワシもいまや値段あがってるしね。
土曜に学校終わって、独りの昼メシによくイワシ缶がおかずに置かれていたなあ。 >>531
ボンカレー食うと妹の出産で母親が入院した時に父親と二人で食った思い出や
共働きで家に買い置きがいっぱいあって何かっていうと晩飯はボンカレーだった思い出
ホントは母親が作ったカレーが食べたいのにボンカレー出てきて泣きながら食べた思い出等が次々と頭をよぎる
ボンカレーゴールドでは一切よぎらない 独身で好きなもん食えるけど家族で食った飯の方が旨かった。
すき焼きとか肉の取り合いでおふくろに「いい加減にしなさい」とか
怒られたのもいい思い出だな。仕事先の人と今半のすき焼き食っても
あんまし旨くない。俺がガキの頃は外食産業が今ほど発達してなくて
ラーメン屋でも町内に1軒くらいしかなかったな。中学生の頃は
部活の帰り、肉屋が店頭で揚げるコロッケが旨かった。 父の給料日に、町で一軒のラーメン屋で飯を食わせてもらえることがあった。
一番安い普通のラーメンだけど、みんな知り合いみたいな小さな町だったので
ラーメン屋の親父さんがチャーシュー余計に乗せてくれたりした。
ウチの事情も知られてたんだろうなあ。
父は餃子をアテに酒を飲むんだけど、必ずひとつわけてくれたな。
家族に迷惑ばかりの亡父で恨んだこともあったけど、最近は良いことしか思い出さない…ってのは自衛のためなのかな。 テレビでCM流れてたボンカレーだけど、子供だった俺がねだったんだろう。一度だけ夕食に出たことがあった。
野菜も肉も小さくて、味もなんか美味しくなかった。ひどいねーと言いながら食べた。
それに五人家族だったから、作ったほうが安かったんだろう。
それ以来ボンカレーをねだることはなくなりましたとさ。 自分の家も自営業だったから、ボンカレーは良く食ったな
家に出入りする姉ちゃんが、レトルト?袋をすりこぎで押して
最後の最後まで絞り出してくれたし皿は、周りが見てない隙に
ペロペロ舐めてたわ、すぐみつかって必ず怒られたけど
あと、上の吉野家じゃないが自分も土曜の給食ない半ドンの日は
小学校時代から近所の、労務者向け食堂で肉うどん食ってた
一杯百円だった昭和46年頃。それとて肉が載ってるから贅沢であり
素うどんは70円くらいだったかも? 昭和55,6年頃だったか、遠縁のファミリーがよくドライブで
外食していて、たまに回転ずしや吉野家や焼肉に連れていってくれてたけど
その時、カウンター席の隣に中学生か小学生くらいで、今から
不良になりますよ、的な予備軍が夜一人で店内に入って来て座ったのだが
なんか、切ない気持ちになって茶を汲んで差し出した事あるな
その頃は、まだそういう一人入店は珍しかった時代、つまり専業主婦が
まだまだ比率高かった時代だし、独り者向けの大衆食堂からチェーン店に
移行し始める時期だったかな 自分の家は乗用車も運転できる者もいなかったが、その遠縁は本当に
よくあちこち行っていた、というのも家が一間取りしかなかったから、開放感求めてたのかもなぁ
つまり、その家もあまり裕福でなかったから、いつも注文は遠慮しがちで頼んでいたし
焼肉屋なんかいくと、まったくメニューがわからなく、ミノ?かなんか口にしたら
ゴムみたいで延々飲み込めなくて、咀嚼が食事時間の半分以上を占めた事とかあった
しかし、その家の人も「それ吐き出して別の食え」と言える懐事情じゃないし、今は
年金かけてなかったから、恐らく??生活保護に数年前から頼っているかもしれない
(詳しくわからない)
大恩があるのだが、向精神薬にはまってしまい訪ねていっても退去後にドアをバシン!と
閉められるような対応を受けて、もう近寄れなくなってしまってるんだよな マルシンハンバーグを食べて、エコバッグを当てるんだ
http://www.marushin-foods.co.jp/60th_quo/
マルシンハンバーグって、一種類だけだと思ってた >>550
ありがとうございます。
あぁでももう4月www >>550
スパイシーベーコンは比較的最近食べたけど違いがわからんかった。
レトルトカレーはボンカレーよりククレカレーの方が登場回数圧倒的に多かったな。 >>547
大学時代も金がなかったんで、学食で素ラーメンをよく食べた
昭和61〜62年で100円だった >>553
ほとんど天ぷらうどん、カツカレーのどちらかだったな
いつぞや定食を食べていたら、食べ終わるまでに
「アルバイト収入が入ったのか」「原稿料が入ったのか」と3回くらい声をかけられた
そこまで珍しいのかと思った 今どきのレトルトカレーは結構うまくて驚く
ホテル仕様とかプロ仕様とか色々あるけど まあいつもはトライアルで売ってるメガ盛り88円の食べてるけど。 豆腐ハンバーグを食べた(ハウス食品・豆腐ハンバーグの素を使用)
見た目で大豆ミート・ハンバーグに需要が奪われるだろうね
S&Bゴールデンカレー・動物性原材料不使用でよくカレーを作るよ
俺は獣肉を食べないんだ 独身時代、ジャワカレーにサツマイモ入れて3日分作り、飽きたら食パンに挟み
良く食べた。安上がりだったし腹持ちした。 貧乏といっても学生までで、就職した時点で貧乏ではなくなるからな >>553
学食は素うどんに、コロッケのせか、
中華そばにマーガリンかな お前ら裕福過ぎてワロタ!
貧乏人しかわからない、戸籍謄本で初めて姉弟の存在を知った複雑な青春時代の心境。 父の誕生日を知ったのは戸籍謄本だったな
命日は保育園児の時から知っていたが 高校まで預金残高が一万円行ったり来たりだったのに、働きだしたら預金残高が十万の単位になって心底驚いた。 大学の学食はいつも170円のカレー食ってたわ
バイト代出た次の日だけは250円のカツカレー食べるのが楽しみだった 貧乏だったのに大学かー自分は高校が奨学金で早く働け働け言われ続けてなんとか卒業したわ。 おでん大根(デカイから) 50円
大ごはん 150円
学生貧民だった。 経済的には高校より大学の方が楽だぞ
授業料免除と奨学金とアルバイトで
アルバイト収入は勤労学生控除対象外になるくらいだった >>552
スーパーの特売になる銘柄は地域や店舗によって違うみたいで
オカンがククレは安くならないからと言ってレトルトはボンカレーばっかだった
ウチのオカンがバーモントでカレー作ってたから俺も自宅でカレー作る時はバーモント使いたいんだが
転勤して他県に住んだらその地域のスーパーはこくまろカレーばっか特売になって
しょうがなくこくまろで作ってたけどある日安くなってないけどバーモント買って作ってみたら久々懐かしい味で泣きそうになった 高校の時なんて常に腹減ってた思い出が強く残ってて
中学までできなかった買い食いがしたくてバイトしてたような時期もあった
2時間目終りの休憩で弁当は食い終わってて
昼は学食のうどん食って売店で買ったパンかじりながら教室に戻ってた
この事をバイト先の肉屋の店長に話したら余ったコロッケメンチカツを大量にくれて
俺はそれをおかずに家でメシおかわりしてオカンはニッコニコだった 靴下が常に穴空き
パンツのゴムが伸びきってる
中学の時の長袖のジャージが買えない >>579
永谷園のお茶漬けの素を2回に分けて使って食べてた >>581 ちょっと話が逸れるけどあの東海道五拾三次のカード欲しい人っているの?
あれ要らないからその分安くしてくんないかな? >>581
うちは、甘めの味噌にチリメンじゃこを入れて火を通したのを
飯のアテに作ってあったから、それのせて、熱いお茶かけて食ってた ネスカフェがない時はクリープをお湯で薄めて飲んでいた >>579
同じくww
父親の実家が米農家だから売る程あった。 >>585
わかるぅw
クリープに砂糖入れて飲んだ。甘くて美味しいの凄い贅沢した気分になった。
クリープ粉なめてた。 最近は塩分控えめの塩鮭が多いけど、昔は白く塩が浮き出るのを塩抜きしないで食べてたな。
ひとかけらでご飯一杯は行けた。
あれで作る鮭茶漬けはうまいんだよ。 すごい賛同わかるぅ
ワテが子供の頃おかんが買って来たのは2種類
凄いオレンジ色が濃いめちゃくちゃしょっぱいのが弁当で家で食べるのは、普通の塩気 >>1
スレたてありがとうございます。
童心に帰れるしみじみここすきだ。 クリープって、今はすごい高級感がある
何年か前に箱買いしたら、そのあと急に値段が上がって驚いた
サンマの水煮缶も箱買いしてから、不漁が続いて上がったし
昔は塩のかかっていない紅鮭が、普通に売られていたんだけどな
今は養殖の銀鮭が主流だ
なんか日本の食生活は昔より貧しくなっていっている クリープはワゴンセールで数年前に買っただけだな。空き容器にマリーム詰めて使ってる。安いと思って買ったトップバリュのは不味かった。 クリープを入れないコーヒーなんて、、、手裏剣を使わぬ忍者のようだね @クリープのCM 昔のインスタントはスリープとかで誤魔化さないと飲めたものじゃなかったから
いまのインスタントはブラックでもかなり美味しい 珈琲にはクリープではなく牛乳を入れている
妻は豆乳を入れているが、自分には合わない
豆腐は好きだけれど、豆乳は美味しくないな >>557
子供すぎて覚えてないんだけど、おそらく
牛だったと思う。肉の色が黒かったような?西日本です
>>553
その頃だと、巷の店の素うどんは200〜250円と
いったところかな、どうだったっけ。。 >>582
あの頃、ああいうのを入れるの流行ってたんかな
森永のハイクラウンだったかは、ピーターグリーナウェイ、って人の
カードが入ってたように思う >>600
うどん、200円高いな、
最近まで素うどん140円の某県だと信じられん値段 え、つまり香川?w
140円は安すぎる!
今、地元のチェーン店のうどん屋の素うどんは420円・・・
肉うどんにいたっては680円・・・
まぁ、だしがしっかりした店だからしょうがないのかも?
バブル時期は病んでいたから、あまりしっかり世情を覚えてないな
モスバーガーが初めてできて、セットメニューが450円か500円?
高いな〜、と思った記憶だ >>603
某県だと、その値段なら高級店だな
今の値段だと、かけ小 160円
肉うどん340円
うどんはうまいよ
たぶん平成前期までは100円の店もあったね
それでも金がないときは玉売り買って、家であたためて
てきとうにつゆつくって食ってた
今調べたら1玉60円、昔は30円だったのに
高級店で大事な客をつれていく店だったら肉うどん600円かも >>600
西日本で肉うどん言うたら牛肉やね。
3年前大阪から東京出てきてうどん屋で肉うどん頼んだ際豚肉の肉うどんで驚いた!東京じゃどこも肉うどんに豚肉つこてんな >>604
新橋にある香川県のアンテナショップのうどんが一番うまい。安くはないけど。
香川でガイドブックに出ている何店かでうどん食ったけど、全てそこより劣ると感じた。 >>607
観光客相手の店の凋落は激しいのは認めますね
客がほっといても来るから、平成20年までが一番よかった
店のオーナも世代替わりした今はね >>582 >>601
お茶漬けの東海道五十三次のカードと羽衣あられはセットで思い出される
羽衣あられと味覚糖の純露は貧しい少年時代に近所のおばちゃんがたまにくれて嬉しかった もう30年以上も前に岡山の児島ってとこに住んだ時、セルフのうどん屋を初めて見て
安いし美味いしでヘビロテで利用させてもらってた
出張の帰りの電車でうっかり乗り過ごして瀬戸大橋を渡ってしまって坂出まで行ってしまった
ひとまずホームのうどん食ってみたらやたら美味くて、それでもまだ時間があったので
帰りの電車来るまで駅前ブラついたらセルフうどん屋があちこちにあった
それからしばらくは休みの日にうどん食いに瀬戸大橋渡るのがささやかな楽しみになった かけうどん一杯100円なんだけど、トッピングの天ぷらで高くついたりなー おはようございます。
素敵なお話にほっこりしました。 毎日の平日昼はうどん、あげ載せてきつね、ちょっと贅沢して卵のせて
きつねの月見です、医者に血糖値高めで注意されているので
それで我慢してます。
安く昼が食べられるのが利点かな、モーニングうどん、がまんしてます 大阪万博(1970年)の会場内で
親父が食べたラーメンが1杯200円だったよ
当時俺は小学生だったが高いと思った おまいらさ、電話が(呼)だったひといる?
ガキの頃、親は電話の権利なんか買えなくて、ずっとお隣(小さな商店だった)の電話(呼)で
親切なお隣さんが「○○さーん、電話ですよー!」って呼び出してくれてた。
個人情報やプライバシーなんて外国の話かと思えたド田舎の話。 学生アパートは呼び出しだった。
管理人の好意で取り次いでもらってたわ。
長電話なんかしようもんなら張り倒された。 彼氏の寮が呼び出しだった。
電話に出るおじさんが私の名前覚えて彼呼んでくれた。その内私の声だけで待ってなと彼呼んでくれた。懐かしい20代 学生の頃は居間(と言う名の一間)に黒電話あっただけだから片想いの女の子に電話する事も出来ず数キロ離れた公衆電話までよく走ったわ >>616
電話のある家は集落に数件、だいたい農協で借りてたな
電話があると集落放送で呼びだされたよ
緊急は電報 おばあちゃんがうどんの乾麺を茹でてくれて、茹であがったところでお椀にすくい上げてそこに醤油を掛けて食べたのですら旨かったわ。 >>615
昭和60年つくば万博会場内で素うどん一杯800円 俺は郷ひろみと同学年です、因みに掛布も一緒が玉にキズなんだけど >>616
西東京市(田無)に住んでいたけど当初は呼び出しだったよ。 >>616
ニコイチボロ長屋で電話はお隣さんの呼び出しだったから学級名簿はお隣の番号に(呼)だった
高校卒業間際にお隣さんが引っ越したけど卒業名簿は変わらずお隣さんの番号に(呼)のまま
就職して少ししてマシなアパート借りて親と引っ越して電話もちゃんと引いたけど
同級生たちは俺の住所も電話番号知らないからしばらく俺が行方不明のまま同窓会が開かれてたらしい 学校の制服が入学式に届かないってニュース見て
入社式に着るスーツ持ってなくてギリギリまでバイトして
やっと買えたスーツのズボンの丈直しが間に合わなくて学ランで入社式に出た事思い出して泣きそうになった
社長や工場長にはすぐに覚えてもらえて「貧乏を恥じるな」と言ってもらったけどさすがに恥ずかしかったなあ
制服の利点は着る物を考える手間が無くなったり子供を地域で見守りやすくなる(事件とか特別支援が必要な子の行動とか)だったり
生活レベルの格差が目立たなくなるとかコメンテーターの人が言ってたけど
衣替えの季節にワイシャツ持ってなくて困ったヤツが俺含めて学年で3人くらいいて
着る物で悩んで生活レベルの低さを露呈する事もあるんだぞとこっそり思った 安いスーツしか着れなかったな。でも作業衣の制服だあったので良かったよ。 高校時代、バイトは基本禁止だったけど家の事情を先生方が考慮してくれて
同級生の家の家業を手伝う形でバイトして、運転免許をとるために貯金してたんだけど、
就職決まって通勤用の服も靴もカバンも、諸々無いことに気づき、揃えてたら貯金無くなった。
大人になって貯金はそこそこできたけど、なんだかんだでいまだに免許持ってないよ。
当時って、今よりも服も靴も高かったよなあ… そりゃ当時はほとんどメイドインジャパンだったからな
今ほど安くない代わりに品質もブランド力も桁違いだった訳だし たしかにバブル時期にローン組んで買った服で一部残ってるものを
今触ると、生地の厚さが全然違うから驚くわ。中国製はペラペラなんだよね、安くていいけどさ
先日、街中を久しぶりに少しだけ疲れない範囲で歩いてみたけど、中三の時に
友達と自分と3人で「バイト募集してませんか?」と聞いて回った路地とか通って
懐かしかったわ
自分も同級生が自営してたので小学校高学年から手伝いに行ってたよ
兄も中学から新聞配達してレコードが息抜きだったみたい
たまに寝過ごすと、新聞販売店から黒電話に電話がかかる
自分の家は商売してたから店は肌色で、家は黒だった スイッチする黒い箱があって、二階と一階で、通話をつなげられるのよ
間違えて受話器揚げる前にそのレバーを倒すと切れちゃうw
もっと上の先輩世代も小学生高学年から牛乳配達やってる人とかいたよね
今なら児童虐待?wになるんかもしれんけど、敗戦後はそんな事言ってられなかった
今の若者は知らん世界の話やで あと、服とかカバンはとにかく親戚からのもらい物や
近所からのもらい物で凌いだよ >>632さんは、おそらく都会育ちじゃないか?
何故なら田舎なら親戚縁戚がいて、大体その辺りは賄えるんだよね
もちろん、とんでもないセンス、時代遅れ、サイズ感の違い、があるんだけれど
昭和の時代は、とにかく物がなくて人から借りるのは当たり前、って時代だったと思う
物がない分大切にしたし、まぁとにかく戦争世代の、物を捨てないこと
まぁ、第三次大戦がこれから起こるなら、今後もあまり捨てない方がいいのかもしれんけどね
このスレにくるとあれこれ懐かしいよ 兄貴は、何でも新しい物買って貰って
私は、親戚からお古傷だらけのつくえ >>636
632だけど、本当にこのスレ懐かしいことたくさん思い出すね。
つらいことの方が多かったけど、あれがあったから今はちょっとしたことでもしあわせ感じられる。
金持ちから見たら負け犬みたいに思われるだろうけど、雨漏りがしない家に住んで
毎日風呂に入れて好きなメシが食えるってだけでしみじみしあわせだわ。
不幸自慢じゃないけど、自分は貰いっ子で養父母は貧乏すぎて、親戚にもあまり関わられなかったんだ。
一番歳の近いイトコにたまにお下がりもらうくらいで、ほとんど着たきりでそれでいじめられたりしたよ。
関東の山ん中の話。
長文ごめんなさい。 仕事が辛い時にこのスレ読んでる。
子供は成人して、本来は楽出来る状態の筈だけど、寄辺無いので、いまでも頑張らないと未来がない。
波平より一つ歳上になったけど、新しい事を覚えないといけないから、見た目は還暦超えらしいが、見た目よりかは中身は若いらしい。
やっと、五十越えて新しい事を出来るというのを幸せと思っている。
お金がない呪縛は解けないけど、仕事柄、守ってくれるギブアンドテイクのしがらみさんが心地良い。
長文スマソ。 >>637
自分のコメントかと思った!
私もそうだった。
学生カバンもスポーツバッグも兄貴のお古。
服は従姉妹のお古。
年に一度のお年玉で新品を買おうとしたら、その金まで親にまきあげられた。 自分は中学校の制服がお古だったんだけど小柄だったんで肩が落ちてるし袖は長いしで恥ずかしかった。だけど中1の夏休みに急遽引っ越す事になり転入先の制服は新しいのを買って貰えた。 昔に比べりゃ、金も入るし
ちょっとは幸せそうに見えるのさ
だけど忘れた時にへまをして
ついてないぜと苦笑い
金が欲しくて
働いて
眠るだけ たまの楽しみは風邪ひいたって
嘘ついて寝ていると
ばあちゃんがりんごとバナナを買って来てくれた。
嘘のようなホントの話! 病気にならないと
りんごもバナナも食えなかった話
分かりにくくて、ごめん。 そうだったな。
テレビのある茶の間で寝て、NHK教育テレビでノッポさん見てるとカーチャンが桃缶開けてくれたんだ。
今もたまにずる休みして桃缶自分で開けるけど。 >>640
同じく
お年玉は、お正月町に1軒だけあったおもちゃ屋さんにお兄ちゃんと一緒にいくんだけど
毎年おもちゃ屋で、兄ちゃんに二人でお金あわせればこのおもちゃが買えるとお年玉巻き上げられてた。兄ちゃんの要求を断固断ると家に帰ってから母親になんで兄ちゃんの言うう事を聞かないと冬休み中ずーと母親に責められた。 >>645
ノッポさん見てた何でも作れるノッポさん
子供時自分にはノッポさんヒーロー的w
うちは風邪の時は、桃缶食べれた。 家には足踏み式のミシンはあったな
別にそれで内職をしていたわけではないけど、
裁縫には自信があったのか母がいろいろ作ってくれた
毛糸でセーターも編んでくれた
服を買ってもらった記憶はあまりないが、ジャンパーくらい >>649
wwwww
こいつ何でカタコト?知的障害者か?
お前性格の悪さ滲み出てるな >>638
そうだったのですね・・
自分の兄も、中学に入って母親方に来て、それは
別れた父親が兄を高校には行かせない、という話になり
母が10年ぶりに引き取ってせめて高卒に、ってかんじでした
父側の家では母が去った後にすぐ腹ボテの後妻が来て
兄はそちらで、小遣いをもらえなかったから
新聞配達をし始めたんじゃないかしら
昭和の中期までは日本全体が貧乏だったと思うよ?
米ソの冷戦終了が見えて来たモスクワ五輪ボイコットの後あたりから
後の中国市場を意識した、まず日本を西洋式に「更に」変えましょう、
みたいな波がきて、あの敗戦の薄暗い貧困が少し変化してきた印象だ 自分は冷たい井戸水で牛乳瓶を洗ってるのに、テレビでアメリカドラマ見ると
栓をひねればお湯が出てるらしい?!! 瞬間湯沸かし器ではなく!!
と、きらびやかで華美で明るい戦勝国をどれだけ羨んだかは懐かしい思い出だけれど
そんな国にも光と影の部分が当然あり、何もかもが完成されたような幸福とか
満たされた国、なんてないのじゃないか、と年とったら思うようになった
それと同じように、家庭もある種演技する場、というか本当に外からじゃ判らないというか・・・
638さんは、貧困よりも実両親がいない事の方をつらく、悲しく感じていらっしゃるのかも?
お金はがむしゃらに働けば自分で解決できるけど、子供時代の境遇は、どんな権力者でも
改善するのは難しいし、どうしようもない無力感を思い知らされるというか (よく知りもせず高説スマソ) ていうか昔のバナナ、ってほぼ真っ黒だったよね?
黄色部分4割、黒7割、ってイメージだわ
あと干しバナナが年寄のお茶請けによく出て来てたような?
それも黒かったし 水木しげるさんと布枝さんがゲゲゲの女房で
黒くなって売り物にならなくなった安いバナナを
買ってきて食事代わりにしていたね
すごく人気があった連ドラだけど、傷痍軍人に嫁いだ布枝さんが
当時の心境を語ったものではなかったな 中学校の帰り道にパン屋さんがあって袋一杯食パンのミミ10円で買って食べてた。
味より食べることが幸せだった。今は味が優先。 ちり紙は古紙再生紙だったな。
たまに新聞が溶け切ってなくて、文字が読める部分があった。 食パンの耳は蜂蜜をかけてよく食べた
インスタントコーヒーによく合った
サンドイッチの調理人が触りまくっているだろうから、
今だとちょっと抵抗があるかな パンの耳たまに買うけど食いきれないんだよ。
ちゃんとしたパン使ってる店だから、ちゃんとカビてくる。
最近の安い食パンはカビないんだよ。 最寄りのコンビニが元酒屋のデイリーヤマザキで昼晩ほぼ毎日通ってた頃
パンの耳って貰えるか聞いてみたら昔の長い食パンの袋いっぱいに貰った
サンドイッチ作る時に出るような細い耳じゃなくて一斤を6枚切りとかにする時に出る四角い耳
ケチャップマヨネーズ溶けるチーズを駆使してピザトースト的な食い方して、その月の食費は少しの具材と酒代だけで収まった ヤマ〇キとか有名メーカーのパンを売る小さなパン屋は
売れ残っても返品のできない買い取りなのかな?
パン屋のおばさんに賞味期限を過ぎたパンを安く売ってほしいと
交渉したら、売ってくれるようになった
賞味期限を数日過ぎたものはカビが生えてきて、取り除いてよく食べた >>641
私も近所の人のお古のセーラー服もらった。
夏服は白いセーラーで、自分のだけ黄ばんでたし、型も少し違ってた。
お古って響きは今も嫌い。
自分に子供ができたら絶対にお古は着させない!って思ってた。 みんな良き大人(お父さん お母さん)になってるんだな。 >>666
アチーブメントテストって、いまでも聞くと響きが厭だな。
何となく人間の査定されているようで。
全方面優れているやつだけが優秀で、一つ零れる毎にランクが下がるイメージがある。
脱線スマソ。 >>670
なってないよ。俺は独りもんだよ。
まあ自分に問題が有るのは解ってるんだけどな。発達障害というやつだ。通知表には忘れ物が多いと書かれ続けてた。新学期になると、教科書よく無くしてた。近所に住むいっこ上の友達に、よく教科書もらってた。 俺は積極性をつけましょうって書かれた
自習になった時にみんな席を立って仲良い人のとこに行って喋ってた中俺は教科書にパラパラマンガ書いてたら
教頭先生の見回りでバレて後日学級会でその事が議題になった時立ち歩いて無いのは俺と学級委員長だけとわかって
まあクラス全体的に怒られたんだけど俺だけ職員室に呼ばれたので褒められるかと思ったら仲良い友達いないのか?と聞かれたから
多分おかしな子だと思われてたと思う 学校の教師ごときが何を偉そうな事抜かしてたんだって話。
子供相手にしか出来ん日和見主義の屑ばっか。 中3になってすぐ「将来の夢」って作文書かされて、こんなガキみたいなことさせんなよと思い、「平凡な地方公務員になって平凡な人生を送りたい」って書いたら、「中学らしさがない」って怒られた
自分も地方公務員の癖に何言ってんだよと思った 保育園の時は、ボケてるとか話を聞かないと言われていたな
小学生になった時の聴覚検査で難聴が発覚した
生まれつきだったので、言葉の発達も遅れた
最近は乳児の時に検査出来るらしいけれど、当時はそうでなかった 休憩時間にドッジボールにも参加せず1人で校庭の隅の砂場の砂を蹴って遊んでたら
ガッチャマンのゴッドフェニックスの小さい合金玩具が埋まってた
ゴッドフェニックスを持って「チャラチャ♪チャラチャ♪チャラチャ〜♪ドゥシュー‼︎」
とか言って遊んでて気づいたら校庭に誰も居なくなってた
教室に戻るととっくに授業が始まっててみんなが真面目に席について前を見てるのが妙におかしかった
廊下側の1番後ろの席だったので事なきを得たけど静まり返った校庭と廊下の風景は強く印象に残ってる 小1の時学校へ100万円寄付したお爺さんがいた
校長先生の説明ではこの小学校の卒業生で東京で働いてきた。読み書きが出来るようになった小学校への感謝の気持ちで寄付しますとの事だった
校長先生がそのお金でピアノを買ったと話してくれた。
俺がアスペ気質だから覚えているのだろうけどカッコいいお爺さんだなと思い出した。
俺も貧乏な家庭の子が通う無償で学習できる塾へ寄付したいと常々思っている。俺自身が大学を諦めた過去がある、学問は大事だと思う >>680
自分も寄付する機会があったら、親が病気などで貧しくて進学できない子供の学資なんかにしたいな。
あと、食事もロクに摂れない子供にもだけど、彼らは早急に保護されるべき。
子供たちが信用できる大人になりたいわな。 地元の児童養護施設へ寄付出来るよ自分はバサーの為に未使用の食器類等を寄付したことある。 ふるさと納税で使途が指定できるときは、子育て関連を指定している
直近の純粋な寄付は、大学の工業倶楽部だな
セコいところだと、何かのポイントの有効期限が近づいていても、交換できるものがないときの寄付だな
寄付だと1ポイントから出来るのでポイントが無駄にならない 公園のベンチでまだヨチヨチだった頃の息子とジュース飲んでたら
目の前にどこかの兄弟らしき子が来てジッとこちらを見て
ずーっとそこを動かないから「何もやらないぞ」と追い払った
嫁が可哀想だと言ってたけど放置子は一回エサやると付き纏って来る事を
子供の頃のウチより貧乏な家の子を見て知ってたから少しも可哀想だと思わなかった 上で一間取りの家に住んでた遠縁の事書いたけど、そのエリアは
いわゆる開発地域でどの家も貧乏だったけど、ある日窓開けてたら、
路地裏の子が虫取り網で、一間取りの家が箪笥の上に飾ってた
プラモの小さい人形というかロボットのフィギュアみたいのを
盗ろうとしてた、って話を聞いたな
路地裏の家々とは交流がなかったが、いくら貧しても
やっていい事悪い事あるだろ、と
まぁ、あちらの国の人達なんですけどね >>660
あったあったw 懐かしい
自分はわら半紙が大好きだったな
習字も安いこの紙で練習してたわ 保育園の時にマジンガーZと仮面ライダーが大人気で駄菓子屋に吊り下げで売られてるソフビ人形が欲しかった
ある日同じ組の子がマジンガーのソフビ人形を保育園に持ってきてて触らせてほしくてずっと見てたら
園庭で遊んでる時にその子が駆け出した瞬間スモック(園児服)のポケットから人形が落ちたので走り寄って拾った
幼心に盗もうかという物欲と罪悪感が葛藤したほんの一瞬後に持ち主の子が「返せ!」と人形をひったくったので
「拾ってやったんだろ!」ってぶん殴ってケンカになって先生が止めに入った
その時先生が盗んだわけじゃないでしょと若干こっちの味方をしてくれたのが救いだったなあと思い出す マジンガーZ人気だったな。
クリスマスにソフビの人形買ってもらったな。
友達のジャンボマシンダーが羨ましかった。 マジンガーZは見た記憶が殆どない。
裏番組だった日テレドラえもんは見た記憶がある。 小さい頃、ウルトラマンのお面買って貰いたかったな。 お面をした写真があるから、お面は買って貰ったらしい。超合金は無理だった。 小さい頃、まじで仮面ライダーになりたかった
バイクに乗れんから自転車で両手を離して変身の練習をしたり、リヤブレーキをかけてスピンターンして緊急出動もできるようになった
走りながらサドルの上に片足を乗せてバランスも取れるほどまで上達した
練習しすぎて市道の交差点で派手に転倒したままスライディングして危うくショッカー一味の乗る車に轢かれそうになったが間一髪で車が止まってくれた 仮面ライダーは無免許で捕まった経験があるらしい、仮免許で公道を走って郵便局で罰金を払う姿を主婦に目撃されて、、、 貧乏だったから肉と言えば筋だらけの鯨肉を生姜醤油で焼いたものだった
大人になって懐かしさから鯨肉を買って生姜醤油で焼いて食べてみた。
子供の頃に食べた食感、味ではなかった・・ 今でも一番うまい缶詰は鯨の大和煮の缶詰だと思う。ミカン缶と同じくらいの大きさで160円とかそんなもんだった。
親父はクジラベーコンで晩酌してた。
あれはあんまり好きではなかったな。 俺的に缶詰のおかずは、ちょうしたの秋刀魚蒲焼きだった。甘いタレが子供ながらに嬉かった。 家族4人で晩ごはんがサッポロ一番みそラーメン5袋をよく食べたわ
どんだけ貧乏なんだ 醤油かけただけの大根おろしがおかずって時もザラにあった 皆、帰りに給食費の袋渡されるのに俺だけ渡されないんだよ
小学生の俺でもその意味わかったし嫌だったな。ランドセルが俺だけ新しくなかった記憶は今でもはっきり覚えているし、皆が自転車乗っているのに俺だけ何キロも走って追いかけて遊びに行ってたから大概途中で見失って半分ぐらいは諦めて帰った 家貧乏だったから同級生からいつも臭いとか汚いとか乞食とかずっと言われて小学生生活過ごした。特に気になる女子の近くでそれ言われるの一番嫌だったな
そんな毎日だったけど皆と遊びたいから何を言われても後追いかけてたな
たまに石投げられたり川に落とされたりと、色々されたな
ランドセルの中に砂場の砂が満杯で入っていた時は流石に涙止まらなかった。貧乏って絶対悪だよね、貧乏でいじめられるってわけわかんなかったよ
そんな極悪な環境も高校に行く頃には大分良くなって、普通に県立高校に行かせて貰えた貧乏が少しましになった程度だったけど >ランドセルの中に砂場の砂が満杯で入っていた
ひでぇ話だな
しかし、やった奴がマトモな人間に成長していれば、
必ずや一生後悔するだろう
俺がやったなら、会って土下座したいくらいの気持ちになる
もちろん、それで許してもらおうとは思わないが >>704
おまおれってくらいよく分かるわ
俺は給食費100円だけしか払ってない事をずっと隠してた
自転車乗れないどころか持ってない事も知られたくなかった
優しくて大好きな先生が転勤した隣町の学校に自転車で会いに行こうってのにも参加しなかった
こういう小さな事が積み重なって周りとの壁が出来上がっていくんだよな >>707
貧乏とは関係ない話だが、担任の先生が結婚した時、みんなで数キロ離れた家まで見に行ったな。
家の前で見張っていて奥さんが家から出て来た時、小学生が家の前にずらっといるのを見て
「あら?」と言う感じで話しかけて来たんで急いで逃げた。
今にして思えば、旦那が教師で、小学生が家の前に束になっているのってバレバレだよな。
先生はその事について一切触れては来なかった。 >>705
貧乏や乞食とからかわれても言い返せないんだよな
ある時余りに悔しくて取っ組み合いのケンカになった事があって
先生が止めに入ってどうしてケンカになったかを聞くんだけど
貧乏をバカにされて悔しかったってみんなの前で理由を言うのも惨めで黙ってずっと泣いてた
それ以来からかわれる事は少なくなったけど腫れ物扱いな空気は肌で感じてた 自転車に乗っていて、ひとつ間違えたら障害者か
亡くなっていたかも知れない事故は少なくとも2度経験している
今でも乗れないことがコンプになっている人もいるだろうけど、
今から乗れるようになっても危険なだけだよ
乗れるようになるのは簡単だけど、ちょっとした油断が命取りになる ほろ酔いで無灯火のチャリ漕いでの飲み会帰りに
用水路に頭から落ちて首から下に麻痺が残って
施設に入ってる知り合いがいる そういえば同級生がバイク事故で一生、車椅子生活になったのがいた
不良でもなく普通の子だった
自転車に乗れないことが必ずしも不幸とは言えないと痛感する
「人間万事塞翁が馬」ですね 「人間万事塞翁が馬」じんかん、、、ケセラセラなるようになれ 俺、小学生の時から超貧乏でそれをネタに9年間ずっと虐められていたから中学を卒業する頃にはすっかり性格もネジ曲がってしまったし中学の頃は復讐とかしか考えてなかった。正直頭の中ではもう何人も何回も虐めた奴を殺してるし、そんな妄想するのが中学の時の一番の楽しみだった。
ま、陰湿になった俺も相当クズになったし虐めてきた奴を責めることが出来ないほどのことはしてきた。絶対貧乏は悪だよ
だから今でも同窓会の葉書が着ても一度も顔を出したこともない
だって毎日ひもじく惨めで虐められた思いでしかないから。
こんな高齢者になっても虐めた奴に対する復讐心は無くならないし俺って相当なクズだな >>714
自分としては、復讐心というよりも、二度とかかわりたくないから視界から消えて欲しいという気持ちだな
オリンピック関係で、過去のいじめが発覚して、いじめた人に謝りたいと言っていたが
いじめられた立場としては、猿でも出来る謝るポーズはいらない、会いたくない、とにかく視界から消えてくれ
といったところか >>714
クズでも何でもない、ごく普通だと思うけどな。
だから「やられたらやり返す 倍返しだ!」の半沢直樹が大ヒットしたと思ってる。 最近、亡くなられた藤子不二雄Aさんが、イジメの復讐を漫画に描いた
「魔太郎が来る」 これだけは藤子Aさんがアニメ化させなかった (´-ω- `)
つ¶ 世の中の善と悪を比べれば恥ずかしながら悪が勝つ!
神も仏も無ぇものか、浜の真砂は尽きるとも尽きぬ恨みの数々を晴らす仕事の裏稼業!
お釈迦様でも気が付くめぇ >>718
酷いことをした相手が昔自分をイジメた奴だとは書いてなくない? >>704家も貧乏だったな。
母子家庭でさ、お袋は人は人自分は自分の
考えだったな。ガキの頃は昭和だから
周りは皆同じ位だったと思う。
時代が流れるとその差も歴然と出てきて
今でも、同じなんじゃないの。只、俺は
負けん気が強かったから、成り上がりを
目指したぞ。良い時代だったから俺でも
なんとか這い上がった。これからは
俺等が時代をプロデュースしようよ。
中途半端な根性じゃこれからは生きれないし
若者の力がなければ俺等も死ぬだけだよ。 >>711
中国地方山間部をホテルで借りたチャリで夜間走行していたら、用水路に柵も何もないのに驚愕した。
落ちたら相当ヤバいのに、道路のすぐ側面にあって落ちる可能性が高過ぎる。
もっとも北海道では散歩中に、落ちたらほぼ確実に死ぬ崖なのに柵も何もないのに遭遇したけど。 昔は道路沿いの用水路に蓋が無かった
幼少の頃に親戚の人に車に乗せられていた時
大雨で用水路が水で一杯になっていて、用水路が分からず片側が落ちたことがあったな
当時は母子家庭で車は無かったけれど
遠くの病院に行くときは親戚の人が送ってくれたことを思い出したわ
親戚には恵まれていたな 自分も貧乏だったけど小3の時の転校生の話し。その子は伯父家族の家に母子で越してきた仲良くなりうちに遊びにおいでと言われて行ったけどその子の学習机が廊下に置いてあった。それから2年くらいして市内に引っ越し遊びにおいでと言われて行ったら四畳半のアパートで共同トイレだったな。いつもニコニコしていて勉強の出来る子だったけど10代で結婚したと風の噂に聞いた。 貧乏は悪だ!人の心を蝕み卑しくする。
貧乏人は虐めのかっこうな標的
特に子供は貧乏人を見ると本能的に虐めにはいるし、何時までも大人になれないピーターパンな高齢者も貧乏人を見ると直ぐにマウンティング >>705
>ランドセルの中に砂場の砂が満杯で入っていた
読んでて涙出たわ。
自分はランドセルの中の色鉛筆を教室にばら撒かれた。
拾ってる最中に後ろから突き飛ばされて机にぶつかって転んだ。
今思い出しても辛いし、悔しい。 親が事業に失敗してから小学校中学校と家族旅行とか一切なかったな
卑屈でため息ばかりしてる母親が大嫌いだった
俺が眠ってると思って真横で陰口も叩かれてたし 高学年になって歴史で親の子ども時代の背景など知ったから大人になって
親は責めない。いじめられた同級生は忘れないけど今はそいつより出世してるし
結果オーライだ。 今も昔も、思慮分別がある筈の大人が貧乏人を馬鹿にしたり弱い者を虐めたりしてるんで、大人を模倣して育つ思慮分別の足りない子供の間で虐めがなくなることはない 逆だろ
子供の方が残酷だしな
人間が生来持ってる悪魔の部分を
容赦なく発揮するのが子供
大人になるほど社会性を纏って
表層をマシに繕えるようになる 自分は小中と同じ奴等に虐められていた
いまでも忘れないし、思い出すだけで涙出てくるし夢にもたまに出てくる
だから自分の老後は奴等のために使いたいと考えてる 他所んちは台所にテーブルと椅子があった。
我が家は一畳程の炊事場だけ。
椅子とテーブルの生活に憧れたわ。
しかも我が家は炊事場と洗面所を兼ねてた。
シンクで歯磨きもしてた。
だから友達が遊びに来ても、手を洗うとこがないから、オシボリを出してた。 >>735
友達の家の台所のテーブルにはひまわりの絵が大きくプリントされたテーブル掛けがかかってた
ウチは小学生の中頃まで足が折り畳み式の丸いちゃぶ台だった
コップは赤やオレンジの花が大きくプリントされた親父が飲んだワンカップのやつだった 復讐って、何やるの?
クズの遺伝子をこの世に残さないで根絶やしにするのも人類の為だし
ひとつの考え方だから、止めやしないけど後悔しないかい?
極刑になるような事はせず、老後くらいは穏やかに生きたいものだよな
お茶でもすすりながら、ボゥ〜っとNHKの朝ドラでも眺めている、あの
何気ない幸せを大事にしたい
自分のためにな 復讐が幸せならそれでもいいじゃない
老人になったら復讐しようにも
そいつはもう死んでるかもだが 着たきりすずめだった小学校時代、それをネタに無視とか嫌がらせのイジメされてた。
首謀者の女は小金持ち家庭育ちで、見栄っ張りの母親の性格そのまんま引き継いだ。
その女の仲間は会社経営者や大企業のエリートなんかに嫁いでいったが、本人はその性格のせいかなかなか結婚できず、いまだに独身の実家暮らし。
同居の弟家族には疎まれ(DV受けているという噂も)ているらしい。
これから日々迫る老い、衰えを孤独の中で受け止めていくのが、彼女が受ける罰なんだろうなと思うと胸がすくというより気の毒にすら思える。 割り箸を何回も使い回していたつうか割り箸がメインの箸だった >>744 それって場末の飲み屋とかラーメン屋じゃ今もある (笑) 家で日常的に使ってたのがな。
あと、ソファは無くって車の後部座席が部屋に置かれてたな。 >>743
今の話だが
テイクアウトで割り箸が付いた時
質の良い割り箸だったら再利用する マルちゃんのワンタンスープの中には冷や飯入れて、ごちそうサマー マルチャン味噌ラーメンは鍋で食べ、残りスープに冷御飯入れあっため雑炊にして食べる。 >>742
それにネギを散らすと格段にレベルアップするよな
>>748
ワンタンもだけどラーメンの汁にも飯入れて腹を膨らませてた
ラーメンを飯の上に乗せて、乗った所の飯もろとも口にかき込むラーメンライスの醍醐味を
先日入院した時に同部屋の同世代の人に語ったら物凄い共感してもらった
そういや袋ラーメンって晩飯に頻繁に出るほど食ってたのに
カップラーメンはごくたまにしか食わせてもらえなかったな >>747
屋外で使用した割り箸はそのまま捨てるけど、家で使った割り箸はしばらく料理用の菜箸として使用してる。洗っても汚れが落ちなくなったら捨てる。正月用の箸も同じ。 親父は酒を飲むと仕事や世間で受けた屈辱をおふくろや俺たち子供に当たり散らしてた。
大声で怒鳴ったり家の中の物を庭に投げ捨てた。
今、自分が親父の年を超えてみると、なんて情けない男だったのかと痛切に思う。 巨人の星の星一徹はたった1回しかちゃぶ台返しをしていない事実! >>752
仕事してただけいいじゃない。俺のクソ親父はアル中無職で酒飲んで俺らに暴力ふるった。 >>754
そう言うのって映画やドラマの中の事じゃなく本当にあるものなんだね。 >>753
ちゃぶ台を返したのではなく、体が当ってひっくり返っただけ >>751
マルちゃんカレーうどんを食った割り箸は洗っても黄色いの落ちないんだよね
って友達に言ったら割り箸なんて洗わないよって返されてなんか恥ずかしかった
>>752
友達のアル中のお父さんが運動会を見に来た時
ウチの子が2人に見えるだろ!酒持って来い!とか大声で喚いてて
友達が目に涙を浮かべながら父ちゃんやめてくれよって言ってるの見て
ウチの親父も暴れはしないけど呑んだくれなので凄く胸が締め付けられるような気持ちになった >>758 それで明子姉ちゃんは(´Д⊂グスン泣いてたの?
知らなんだわ変なやつ~ >>754
働いてたけど、家にには金入れた無いし、博打に消えてたよ >>762 スレタイ嫁!
♪昭和枯れすゝきがよく似合うんだ 俺は貧乏をネタに虐められていて、ランドセルの中に砂辺じゃなく大量のザリガニやカエル入ってたよ
教科書とノートは池の中だったし
後日、俺が毎日教科書とノート持って来なくて学校で問題になって犯人知ってだけど最後まで言わずに数年後に楽しいことしてやった うちの父親もある中で仕事はしていたけど割と転々としてた。正月は家族を正座させて飲みながら延々とクダを巻くイジメみたいな言いがかりをつけるのが毎年恒例。母はメソメソ泣くだけ 父のことで、警察や消防から良く電話が掛かってきた。
酔って道路で寝ていたので保護したとか、酔って転倒して救急で運ばれたとか。 皆の中には、今は大成してる人もいるんやな、立派だと思う
自分はもう少しで年金暮らしになるけど、フラフラした働き方してたから
とてもそれで暮らしてはいけない
最後の場所を自分なりに決めていて、それは大昔にツーリングして知った
山間の橋なのだけど、冷静に考えたらそこまで行く足が年とったらすでにないわけで
それで、最近、かつて親が事業を始める前に暮らしてた
陽の当たらない暗いアパート、そこは暗いしボロすぎて今は誰も住めない
奥まった場所の建物なんだけど、そこを最後の場所にしようと最近考えてた
そこは街の中心部なので最悪歩いてでも行ける場所だから 何度か下調べして暗い1階のかつて住んでた部屋は、鍵開かないし
バールであけて部屋の中で果てるのもいいなぁ、とか考えてたけど
もう朽ちた金属の階段で二階にも上がれるのだが、そこは朽ちてるだけあって
階段の昇り口にテープが渡して貼ってあり、登れないようになっていた
そうだ!あそこの2階なら人目につかないしバールなんて使わなくても
そのまま階段踊り場というか、二階の居室(どこも空室)の玄関前で果ててもいいかも!
とグッドアイディアに満足し、少し短期バイトにやる気が出て来ていたところだった で、先日テープを越えて朽ちた階段昇って二階を確かめてみようと
(子供時代に住んでた時も昇った事はない)1,2ヶ月ぶりに訪れると・・・
嘘でしょ??2階の奥の部屋に「社労士事務所」?みたいのが入ってるし
階段のテープも剥がされてるし、なんなら奥側でなく手前の道路に面した
部屋の鍵が開いてたので中覗いてみると
とてつもなくカビた黒い壁の部屋の一間にブルーシートが敷かれ
もしかしてこれからリフォームする気??????
こんなボロい木造に誰が住むのよ・・・ていうか社労士事務所の人も
どういうつもり???ていうか、それならわいが住むわ、、、と
2階はとても明るかった
台風や地震を乗り越えられるかはわからんが安い家賃なら住みたいかも
ただ、昔と違うのは風呂無し物件なのに銭湯が近くにないことだな
トイレがいっちょまえに水洗だったのに驚いたわ、その鍵が開いてた部屋 昼のいっときだけ2階の階段上から光が入り
親が行水のために盥を出してくれたな
みのむしの外衣じゃなく光です(藁
そこ以外は1階は真っ暗で、泥棒がよく来るアパートで有名だったらしい
実際二階の部屋の一つは鍵が3個もついてたわ
こんなところ貧乏人しか住まないに決まってるのに、泥棒ももっと効率目指せよ
やはり連休に入ると普段はじっとしてる基地外も
5chを覗く様になるんだなw はぁ?
基地外言うもんがキチガイやで
それにここは貧乏暮らしに関して書くスレなので
人格攻撃して煽る前に、君の貧乏体験を晒しなさい 仕返しなら中学の時にそいつの体操服袋の中に女子のブルマー入れて転校させてやったわ 子供の頃はゴールデンウィークだからってどこかに出かけるでもなく
教育テレビ見ながら暇を持て余してたな
昔は大型連休になる機会も少なかったってのもあるけど 昭和52年のGWは29(祝)30(土)1(日)2(月)3(祝)4(水)5(祝)という絵にかいたような飛び石だった
二、三連休の短い休みでも家族で出かける奴はいなくなるから集まる友達少なくてつまんなかったな
GWの昼間のテレビは夏休みとかと違ってアニメとかやってないから教育テレビ見て
風邪で休んだ時のようなささやかな特別感を味わった記憶は確かにある >>781
その連休覚えているよ
ずっと部活だったから 子供の頃のGWなんて何の記憶も残ってない。
土曜もメーデーも学校あるし、5月4日も平日だったし、日祝日もいつもの日曜と同じ過ごし方していたはず。 >>779
未来人さんこんにちは。
どの連休のことかな? >>781
そこを工夫して>>779が回答になるようなレスを書くんだ >>778
あったなその連休!
その最中に夜鳴きそばでラーメン買って貰ったの思い出した。
おっちゃんが「飛び石連休だから残念だな」って言ってくれて
そんな会話しながらワクワクしながらおっちゃんがラーメン作ってくれるのを眺めてた。
今にして思えば一杯300円か400円程度のラーメンを、それこそ年に数回だけど食わせて貰う贅沢だったんだなぁと。 今でこそ家が貧乏って結構普通だけど、
こちとら小学校のときは安定経済成長期から
バブルに向かっていたから、
家が貧乏ってかなり肩身が狭く恥ずかしかった。
ってか今の時代が羨ましい。 シャツ、パンツまで従兄弟のお下がりだった。
俺、長男。だから中学から新聞配達をした。 4歳まで、窓の無い蔵(タバコの葉の乾燥室)に住んでいた。
今、思うと夏冬とどうして過ごしていたのかと
不思議なくらいだよ、
ご飯食べる時は木のみかん箱の上で食っていたような
裸電球ひとつだけの部屋だった。
でも、兄弟 父母そろって
あの頃が一番幸せだった。あの日に帰りたい。 ちょっと前になんかのコラムで見た貧乏な家のイメージって言うアンケートで
「物が多い」「兄弟が多い」「独特のにおいがする」等々好き放題書かれてて
最後に「だけど何だか楽しそう」って書かれてた
幼少期の記憶は人それぞれだけれど、酒飲みの父に文句ばっか言ってる母がいて兄弟もいて
貧乏でも笑ってられる家族だったのはギリ幸いだったのかなぁなんてたまに思う 当事者としては楽しいものではなかったけどね
イメージはともかく自分の場合は
物は少ない、ひとりっ子、独特のにおいがあったかもしれないが本人は判らない
だな 吐く息の匂い、着ている服の匂い、持ってきた弁当の匂い、
確かに皆それぞれいつも同じだっただったな。 昔は一億総中流なんていわれてたからそれ以下となると貧乏って色濃く炙り出されてた感じ。 小学生の頃、同級生のほぼ全て二階建ての建売住宅に住んでたけど、二人だけ貧乏認定されてた女子が居た。一人は潰れそうな小さい平屋。もう一人はアパート住まいだった。
共に馬鹿にされてたけど、アパート住まいの女子の家で学級新聞か何かを作ることになって行ったんだけど、お母さんが若くてとても親切丁寧な感じで、それから班の皆は馬鹿にしなくなったね。 うちは古いボロボロの平屋に住んでたけど友達にもどこに住んでるのか言えなかったな 家庭訪問って言えば、先生に出すお茶菓子が用意できないからって、
母ちゃんが夜なべして作ってくれた自慢のおはぎが土手に捨てられてた。
捨てた先生が悪いんやない。貧乏が全て悪いんやって歯を食いしばって
涙を堪えたって漫画にあったな 鍋持って一軒一軒米を分けてもらうために廻るのが日課 ごめん、スレ違いだった
家は貧乏じゃなく乞食だった >>796
何だっけその漫画。
人間交差点か何かだったっけ? 遊園地や動物園等に初めて行ったのは修学旅行や遠足だった 昔たしか小学4、5年の頃に親が人工皮革の黒いジャンパーを買って来てくれた。
月曜日にそれ着て学校行ったら「ビニジャン!ビニジャン!」とめちゃくちゃバカにされた。
本物の革ジャンを買えない親をバカにされた様で腹が立つと言うよりも悲しかったわ。
バカにした連中は今、底辺這いつくばってるゴミ連中になっててるのは笑えるけど許せてはいないな。
もっと堕ちて行く様を見てやるけど。 貧乏とそれに起因する辛い思いから逃げるためか、自分を俯瞰で見るクセがついた。
逃げられないんだけど、気持ちだけでも自分を別のところに置きたかった。
解離性障害みたいなのの一歩手前だったんかな。
「数年後の自分がご飯食べてるときには今日のことなんて忘れてる」とかもよく考えた。
大人になって経済的にもまあどうにかこうにかできてるけど、クセは抜けていないように思う。 過去に貧乏だったよなと言う事実=潜在意識って寝てる間は途切れるんだよね!
次に目覚めた時からまたその自分の中で払拭出来ない潜在意識がふっと何かをきっかけに湧いてくるその繰り返し
ただその寝てる間でも途切れずにずっと変わらないのは自分の肉体(脳)だけ、、、
だからもうそんな昔の負の潜在意識などきっぱり忘れちゃいなよと周りを見渡せば初夏の風が吹いている >>809
80代が集団就職時代には新幹線は無いだろ 上野はオイラの心の駅さ
!
田舎さ帰っでおどうやおっ母に逢いでぇ~なあと思った時には自然と上野駅に居ただ~よ! もっと細かく言えば、最後の集団就職列車が昭和50年に廃止されるから、昭和35年(現61.62歳)の人達が最後の集団就職組になるかと思う。 集団就職ではないが、魚屋さんの息子さんが美大で
東京かどこかに進学して、地元には帰って来なかったなぁ
ちょうど、木綿のハンカチーフの時期だったし、車に荷物を
積み込みに大学卒業後に帰郷してて、そのドタバタと
トンボ返りする様子とかが懐かしい 督促状の類はもはや開封せずに放置されたものが山積みになってた >>816
その頃になると集団就職は高卒が主流じゃない?もちろん中卒も中にはいたかもだけど。 中卒は金の卵、高卒は茹で卵、大卒は温泉卵と言って重宝された時代だった うちの兄ははその一つ下の昭和36年生まれで頭も悪かったけど、貧乏でも高校行くのは当たり前の時代だったよ。中卒で就職なんて、よほどのワルくらいだった。 >>821
たしかに
文部省資料だと昭和45年80%昭和50年で90%越えてるから
昭和40年代中頃の人だけど職人に丁稚奉公のヤツもいた
電力の企業内学校に行ったヤツは通信制の高校に行って
今は下請け工事会社を起こして社長だな 中学で俺のクラスからは全員高校に進学した筈。
中退した奴もいると思うが、高校は最低でも出ないといけないと言う雰囲気でそう信じ込まされていた。 部活の部費が払えなかった、専用シューズが買えなかった
ユニホームなんて見せてもらえるだけだった、でもなんとか部活は続けた うちは貧乏じゃなく乞食だったからお前らが羨ましいよ
いまだったら乞食は犯罪と言われ犯罪者扱いだったな。小学校も半分の日数も行ってなかったからそれをネタに虐められることもなかった。 なんで乞食だったのかね?
親が働けなかった理由は何? ウチは数年間生ポだったことある。
田舎だったせいか生ポ=乞食みたいなとこあって恥ずかしかった。
地域に二人くらい当時で言う知恵遅れっぽいひとが徘徊してたんだけど
その人たちは普通の家庭で、彼らのほうがしあわせそうで自分がみじめだった。 兄弟で一人だけランドセル買って貰えなかった悲しい思い出
他人のお下がりで我慢したけど4年で壊れた
買う金が無い訳じゃないのに買って貰えないなんて酷い毒親っぷりに呆れるわ うちもセーカツホゴだったな。イリョーケン貰って病院に行ってた。親父が起業してから抜け出したけど。 ウチも医療券で病院行ってた
風邪ひくと母親が朝一番に市役所で医療券貰ってきて病院行って帰ったら母親は仕事行かなくちゃいけなくて
ジャーの中に冷や飯あるから腹減ったら何かで食えって言われて教育テレビ見ながら寝てた小学校低学年の頃
俺が働くようになって同じ部署の主婦パートさんが小5の子供が熱出したって言って休み貰ってるの見て
昼からでも出れないモノなのかなあって子供の頃の話も混ぜながら言ったら大バッシング食らった コラコラパートてのはそういう時に休みやすいからパートなんだってば そうだね、働きだして間もない頃の俺の見識の狭さ故周りの都合まで思いが至らなかった
ウチは共働きでも貧しくて母親は貰いが減るからと俺が学校休んでも家に置いて働きに出てた
そのパートさんの子も病院で診てもらって落ち着いたら昼からでも出て時給稼げばいいじゃんって思ったんだ
その時初めて「多くの場合親は看病の為に休む」んだって知った セーカツホゴもイリョーケンも、当時子供だったから意味も解ってなかった。父親はサラリーマンだったのになんで生保だったのか今となっては疑問だ。借金でもあったよかな。
そーいや母親は内職やってたな。電子機器の配線作ってた。一個作って1円とかそんなこと言ってたな。 生活保護は受けていなかったが、大人になって世の中のことが判るようになってから、生活保護家庭の方が裕福だと気がついた 乞食とまでは行かないのだろうが、「古物屋」と呼ばれて廃品回収業をやっていた家は乞食に近い認識をされていたなぁ、と。 学校で遠足の時なんかに保険証持って行かなくちゃなんないときに
社会保険ってか会社の保険証の友達がうらやましかった。
生活保護だと医療券だし、当時の国保は業種で組合とかあったか知らんけど
親父が気が向いて働く時は小さい町の土建屋で日雇いだったから
市町村国保ってので、会社で働いてないひとみたいだなあって思ったよ。 会社員の父を持つ子は、ボーナスだから小遣いが貰えるとか
どこそこにある会社の保養所に泊まりに行くとか言ってた。
うちらにはまるで関係ない話。 マイカーが無かったから友人の家族が車で送ってくれたときドアの開け方わからなくて友人にドア開けてって頼んだらもうわがままなんだから!って言われたな 中学の頃クラスやクラブの友達は、夏は水筒(筒状のタッパーみたいな)ごと凍らせて持って来てた。
ウチの冷蔵庫は冷凍庫がなかったから氷入れて持って行ったが、クラブの時間には溶けて温かった。
冷凍庫がなかったのはウチぐらいで、アイスクリームの買い置きもできんかったわ。 就職してからは貧乏ではなくなったが
我家に電子レンジが入ったのは平成4年だった うちの実家はもっと遅かった。
福引で当てたのが台所にあったけど、使い方がわからなかったようで、一杯の牛乳温めるのも鍋にかけてた。カップに入れた牛乳をレンチンして温めてあげたら驚いてたよ。 俺の住む家に初めて電子レンジが導入されてから、まだ一年経たない。 15アンペアだったのでブレーカー(銅線)が落ちてしょっちゅう真っ暗だった 小遣いがなかった
新しい下着をなかなか買ってもらえなかった
友達の自分専用の部屋とベッドや学習机が羨ましかった 旅行は連れてってもらったが年に一度お盆のキャンプだった
今風のコテージではなくてかび臭いクモの巣の張ったバンガローで
湿っぽい布団で寝た しょうがくせいの時、親の借金で夜逃げして一年ほど都内の橋の下に小屋作って住んでいた
一年経過し学校行ってない子供が(俺)かわで遊んでいると通報されたのか?役所の人が小屋を何度も訪れて借家に入ることになりそれから学校に通えるようになった。 そんな体験のおかげで、そこにあった食べられる植物や生き物の名称は分からなくても
見ただけで分かるようになった。
一番のご馳走はシマヘビとアオダイショウ。2m付近に育ったアオダイショウは多少小骨が邪魔をするけど肉も多く、結構あっさり系な食べ物。あと、蜜蜂の巣から採った天然蜜は今までの中で最高の甘味だった。
ただ、時々刺されて唇やデコが腫れ上がるがあの甘味にはかえられない。 ここの奴らは何やかや言っても貧乏もよい体験にしてるよね自分はもう両親共にいないけど貧乏ながら死なずに育て上げてくれて感謝しかない >>853
たまに、その強さが普通の家庭ならあえて身につけなくてもいいもの
だったんだろうなあ…って思うよ。
貧乏の苦労をしてこそ身についたもんだしね。 育つ時に貧乏だった奴は大人になっても
考え方がせこい。 >>856
ボンボン育ちのお坊ちゃま、お嬢様とは対極だね、確かに。 >>844
イオンの正月の籤で当てたのが、電子レンジだ 51歳。そんなに貧乏でもなかったけど、両親共働きで
自分が中学生ぐらいのとき、両親の手取りを足すと
20万ぐらいだった。こっそり明細見たのでよく覚えてる。
ちなみに3人きょうだい。
一応ファミコンは買ってもらったが、購入時は一世一代の
覚悟の圧を親が見せてきたのを記憶している。買ってもらった
高いおもちゃはそれが初めてだったので。
服は近所の金持ちのおさがりばっかり。それが普通だと
思ってたので貧乏とは思ってなかった。
勉強机も小学校上がるとき買ってもらったけど、学校の
職員室にあるような中古のスチール事務机。自転車も
どっかでもらってきたような中古のボロ自転車。中学で
初めて買ってもらった新品自転車はシンプルで当時よく
あったゴテゴテ電飾系とは真逆の自転車だった。 >>859
>スチール事務机
子供向けのキャラクター学習机は人気あるけどバカの子が使うイメージ
学年で一番勉強できる子は裕福だがネズミ色の事務机で
むしろ機能的に使えそうで自分も欲しかった
その子は大阪・北野高校へ 北野高校って号泣会見した馬鹿県議の出身校としか知らない。 公立では大阪一の進学校だけど今もそうかな
京大阪大への進学が多い
リチウム電池でノーベル賞の吉野彰や
手塚治虫もそう まぁ稼ぎは良くなったけどケンタッキーは高いと言う認識から抜け出せんのよ。
フライドチキンなんてコンビニレジ前で十分だろ!と。 優秀なんだな。まあ、号泣議員があの北野高校出身とか言われてたからそうなんだろうとは思ったけど。
三国丘高校ってのもひと頃話題になったんで知っている。あとは天王寺高校ってのを友達が出たんで知ってる。
東京の人間として、大阪の公立校で知っているのはその三校くらいかな。 >>859
51歳の人が中学生ん時ってバブル経済の入口やん >>856
貧乏育ちだからか常に金の事ばかり考えてる
百均の物でも他の店でもっと安く買えないか考えてしまったり
コンビニや自販機は定価だから極力スーパーで買うようにしたり
今はそれほど貧乏でもないんだが常に値札気にしてセコセコ生きてる >>870
昨日、別スレに書いてた人がいたが、どうせNHKの受信料を払わされてるのなら、
それならその分しっかりと見させてもらおうじゃないかと思うよな。
ま、民放の見たい番組をスルーしてまでとは思わんが。 >>869
うちの親父はカルピス買う金も惜しんで
クエン酸を使って作ってた 外食なんて一年に一回とかで初めてマックとかすかいらーく行った時は美味しくて物凄く感動した 祖父母宅が新宿中央公園の近くだったからたまに遊びに行った時小田急や京王の食堂で外食させてくれたな 焼肉屋なんか子どもの頃連れて行ってもらったこと
なかったなあ。初めて焼肉屋に行ったのは大人に
なってからだわ。
今は安価の食い放題とかあってうらやましい。 ケーキや寿司を食べたことがなかった。
弁当がご飯とたくあんと梅干しだった。 うちはクソ親だったんで弁当すら作ってくれなかった。自分で塩ご飯のみを
タッパみたいな弁当箱につめて学校行ってたよ。貧乏話とは違うか。 俺は1年間学校行かないで毎日川の脇でアザミとかタンポポとかカラス豆とかヘビとかカエルとか
食べるもの必死に探していた。
近所でお祭りがあると赤飯や甘い麦茶が振る舞われるので必死に何度も並んだ。今まで食べた世界一美味しかった赤飯と麦茶 >>880
我が家は寿司と言えばバラ寿司だった。
風呂は無くて行水だったし、市営住宅に住んでたし、ホンマに金の無い家庭だったんだなって思う。 貧乏を通り越して赤貧や乞食話になると嫌悪感になるな
辛かった思い出のひとゴメンな 宝塚にある清荒神は手に届くところにある賽銭を持ち帰っていいルールがある
ただし、次に来た時に倍返ししないといけない
子供の時に持ち帰ったけど、青年になってから返しにいった
なんかいいルールだね 自分は子供の頃、肉は焼いて食ってだけど焼肉という料理を知らなかった
よく鶏絞めて内臓取り出して焼いて食べてた。 >>888
逮捕されるよ
オンボロ貧乏アパートのナマポ住人がやらかして
それ以来帰ってこなくなった
そのうちアパートは取り壊し ビデオで録画されたり、現行犯で捕まった場面を見ると
よく賽銭泥棒なんてみっともない罰当たりなことするなと思う。 昔は、賽銭泥棒は子供がするものだった。今、大人がすればよっぽど惨めな生活者だ。 貧乏だったけど、賽銭に手を出そうと言う発想自体が無かったな。
キチンと躾て育ててくれた事は感謝している。 普通の事なのにわざわざ躾の良さを強調するか?余程暗い過去シリーズが有りそうだな
ちょっとセイヤング行ってチンペイとバンバンに相談してくるわ >>888
北海道神宮にある賽銭箱の中身をパクってタイーホされた有路雅親っていうコンサドーレ札幌のサポーターがいたね
ニュースにも載った。
今からちょうど十年前 小学生の頃とか万引きでよく捕まったな
当時は親に怒られたけどよくよく考えたら貧乏じゃなかったら万引きなんてしなかったと思う 友人の奥さんが万引き癖で悩んでいる。
何度捕まってもやってしまうそうだ。
経済的には裕福な方だと思うのだが。 スリルを楽しむ為に万引きを…
って言うならミナミで怖そうなおっちゃんの頭をグーでドツいたらええねん スリルってより達成感なんじゃない。何度捕まってもっそのうち牢屋とかに入らないの 万引き常習犯は依存症らしい
自力で直すことはほぼ不可能
だから再犯率が高い ナチュラルに万引きしてしまったことなら何度かある
買いたい物をカゴに入れてなぜか小脇に挟んでレジ通さないで堂々と通過 会社に戻ったり電車に乗ろうとして、あら?
みたいな ナチュラルに窃盗所謂手癖が悪いってやつか貧乏関係ないわな 子供の頃貧乏だったから、うなぎを食べたことがなかった。
自分で稼ぐようになってからうなぎを食べに行って感動した。今はすき家でよく食べてる。 すき家のウナギなんて不味いに決まっていると思って食ったら、思いの外、美味しくて驚いた記憶 すき家のウナギは、さすがに店で食べる鰻には劣るが
あの値段で牛丼屋が出す鰻としては合格点。 極貧で明日食べるビフテキにもこまっていたあの昔!恥ずかしいよ 貧乏もあるがケチな父親が、子どもの自分が何か無駄なことをしでかすと
「それでラーメン何杯食えるんだよ!?」とラーメン算するやつ。 ちょっとした顔見知りに、買ってきた中国産のパック鰻を
少し分けてあげようと聞いてみたら、国産しか食べないとおっしゃる
それは別にいいのだが、俺は中国産のパック鰻で
十分に美味いので、それ以上に美味いらしい国産ものを
自ら望んで食べる必要はないと思っている
むしろ中国産がおいしく感じられなくなるほうが困るよ
1匹2500〜4000円も出すなら他の料理を食べるよ
ちなみに中国産の鰻が安かった頃は年間80匹以上食べた 近頃の中国産ウナギは結構美味しいわ
安くて大きくて身もふっくらしてる >>914
昭和30年代の国鉄食堂車のメニュー見たらうな重よりも天ぷらの盛り合わせのが高価やったのに驚いた!
あの時代なら鰻も国産やろうし 新幹線のビッフェのカレー食って文明開化の味がしました。 >>917
その時代なら、そのあたりの川でも、普通に鰻がいた。
ひっかける罠を作って、よくとりに行ったな
何本かとれたら、食堂に持っていって、小遣いにしてた 中国で鰻丼を食べたけれど美味しかったぞ
現地で食べれば国産だ >>920 俺も蛇は大の大嫌い、田舎だからしょっちゅう出くわすよ! (T_T)
でも小さい頃からうなぎ撮りは日課で得意だったよ!(笑)
>>921 なるほどね! (笑) 鰻を食べなくッた、理由
海に豚の死体が投棄されていて
石をぶつけると......... >>923 そんな事を言ったら寿司ネタのシャコなんて Orz 俺も鰻を食った事無くて初めて食ったのが駅で売ってた鰻弁当
その鰻がゴムみたいに硬かったのでずっと敬遠してたけど
出張で行った浜松の取引先さんがやけに上機嫌で連れてってくれた鰻屋さんで
鰻の蒲焼きをオカズにうな重を食うダブルうな重なるモノをご馳走になった
ご飯が足りなくなるほどバカうまで若かった事もありご飯おかわりしたら
上司には嗜められたけど取引先さんニッコニコだった 鰻初めて食べたのは、30代のとき転職した会社の社長に鰻屋に連れてってもらった時だな。それ以来鰻屋の鰻は食べてない。
子供の頃はヤツメウナギなら食ったことはあった。当時はうまいと食べていたが、あんなグロい生き物だったとは大人になるまで知らなかった。 >>926
>>927
東海地方では仕事納めに鰻飯の出前を取る習慣あるけど鰻が嫌いな人は堪らんやろなw >>914
中国産を食べない理由として、安心感の有無もあるよ。どんな薬剤投入した餌喰わせられてるんだか? >>929
その顔見知りのおじさんは国産がすごく美味しいと言っていたよ
養殖か天然ものか、までは聞かなかったが天然ものなんて
あまり脂が乗っていないように思うのだがな
抗生物質とか気にする人はチリなどの養殖サケも >>930
旬は秋から冬にかけて、脂がのるらしい
夏は、ほんとうは美味しくない、シーズンらしくで
誰かが宣伝に土用の丑の日を思いつたらしい
近所に天然うなぎを食べさせてくれる店があるけど
高いらしく、自分的には牛のステーキが良い 古来ウナギは(胸黄)が訛ったもので読んで字のごとく天然物は胸~腹が黄色いのが特徴です
味に関しては育った川の水が影響するみたいよ 結構鰻を食べる頻度は高いが、貧乏育ちのせいか
鰻屋の暖簾をくぐる度に一瞬の恐怖と不安とためらいがある。 浜松の浜名湖は養殖鰻のメッカだしな
三島も美味しいよな 素材の鰻にもよるんだろうが、うな重なんてつまるところ調理の仕方。
関東なら蒸す、焼く、たれで決まるんじゃないの。
あと飯の焚き方と。 >>928
東海地方に住んでいるけれど、自分の周りではそのような習慣が無いな
ひつまぶしを食べることは多いが >>936 真に失礼ながら一度本物のムナギを食してからレポートをお願いしますがな うな重って高くなったよね
梅が千円で松が千五百円くらいの時代が良かったね マンガの「日出処の天子」でもムナギってでてくるなあ
なによりこのスレのみんなが、松屋だろうが中国産だろうが、高級料理屋だろうが
鰻が食べられ、語れるようになったことがうれしいな。
お祝いに今夜は鰻にしよう。
みんな、頑張ったね。 近畿大学が開発したウナギ味のナマズを食べたけれど
ウナギというより白身魚の味に近かったな 浜松に住んでる 以前親類が養鰻をやっていて高校の時アルバイトで養鰻池でアルバイトしたことある。土用の丑の日の前で出荷の手伝いをした。
養鰻屋のおじさんともう一人手伝いに来ていたおじさんが休憩になると戦争時の話ばかりしていたのを覚えてる
県外の人が浜松に来るとせっかく来たのだからとうなぎを食べるみたいですね。 浜名湖のほとりのホテルに泊まった時は昼ごはんに食べた鰻が一番の思い出になりました >>942
近畿大学はウナギの完全養殖に挑戦してるけどマダマダのようですね。
しらすウナギを河口でごっそりと取ってるから
日本の天然うなぎなんて、存在するのか疑問ですね
四万十川と九州南部くらい >>946 半笑い!
捕れた場所でも相当な違いがありますよ!しかもナマズとムナギは似て非なる味です @田舎育ち >>948 それは違う! うなぎのタレだけ買ってきて白いご飯に、、、(゚д゚)ウマー >>949
家が貧乏だったと過去形で語れる人の特権です>余ったタレ
セコいのは変わらんが >>949
白ご飯だけじゃなく、イワシの蒲焼きにウナギのタレかけてるw
自分的には満足なんだが、家族はウナギじゃないから不評w 絶滅危惧種無理して食わなくても
うな次郎にタレ十分じゃないね 消費税減税より低所得者層にウナギを配ったらどうだろうか? この夏を無事に乗り切ってもらうためにも >>954
まぁタレ舐めたくてうなぎ食ってるヤツは一定数いそうではある みんな言うほど貧乏じゃ無いやん!
オイラなんて根が貧乏だから、今でも鰻買うなんて躊躇しちゃうよ ガキの頃はウナギは鯉鮒と同じで、近所の川に生るもんだったから
捕まえてきたら、爺さんが蒲焼にしてくれたけど
店で食ったのは、ずっと後だな
山や川や海にいる物は自分で取りに行ったり釣ったりしてたから
今考えると贅沢なもん食ってんだと思うな そういや子供の頃はドジョウがよく食卓に上ってたな。食べづらくって好きじゃなかったけど、今思えばどっかの川で親がとってきたんだろうな。大人になって自分で買い物するするようになったら、どこの店でも売ってないもんな。 近所に鰻屋がある!兄弟5人で鰻屋の排気ダクトの下に座って買ってきた白いご飯を分け合って食べたんだ
何故か塩味がしたっけな うちは鮒を食ってた
魚臭くて食えたもんじゃなかった >>964
どじょうを食べる習慣のある地域は売ってるようですね。
どじょうは旬があってその時期じゃないと骨が硬いそうですよ
たしか浅草かどこかに柳川鍋の店があるらしいですね。
私は取りに行ったことはあるのですが、食べたことは無いです。
どじょうは冬場は泥の中に潜り込んでるので
それをクワで掘り出して、水で洗い流して捕まえてました >>968
浅草の「駒形どぜう」は、唖然とするほど高くなったよ。ひとりでふらっと寄って鍋を突くなんてことはできなくなった。 たかがドジョウと思うから唖然とするのかなw
でも駒形どぜうは手がかかってるし、今の時代
一鍋2000円ちょっとなら仕方ないかないという気もする。 >>971
川魚は泥臭さを一手間が必要らしいですから、高くなるのでは
今のどじょうは養殖じゃないですかね
田舎の田んぼや小川を見ても
何かいるような雰囲気はないです。
どじょうも准絶滅危惧種扱いの地域もあるらしいですから 母親が裏庭に生えてるニラ切ってきて卵で閉じたのを俺は好きでよく食ってた
ふと食いたくなってスーパーに買いに行ったら肉厚の立派なニラが並んでた
俺が求めてるのはピラピラの薄い葉っぱのニラなんだけどなあと思いながら
作ったニラ卵はシャキシャキして香りも強くて美味かったけどやっぱ母親のやつがいいなぁと思った 子供の頃は、大阪の箕面市牧落に住んでいた
田んぼもあるけれど住宅地で、コンクリで整備された側溝にも
ドジョウが普通にいた
今はどうかな >>973
母がよく庭に生えている春菊で、お汁を作ってくれた
おいしかったけれど、その経験がなければ
癖が強いから苦手野菜になっていたと思う >>967
確かに今は貧乏って程じゃないんだけど
どうもストッパーが掛かっちゃうんだよ。
根が貧乏だから。 このスレの影響で磯丸水産のうな丼食った。すき家と同等か少し上って感じかな。
俺はこれで充分。 >>973
花期を過ぎたスイセンを食べる事故があるらしいね
>>974
うちの田舎は田周辺の用水は米作期以外はほとんど水が流れていないから、無理だろうな
生活用水が流れ込む川はいるかも >>979
スイセンだと中毒症状でてたいへんなことになってるよ 小学生の科学と学習で
スイセンを差した花瓶の水が毒であることを知ったな
玩具を買ったりお出かけした記憶がほとんどないけれど、科学と学習だけは毎月買っていた
学問で貧乏から脱却できた理由の1割は科学と学習のおかげだと思っている >>982
科学と学習、両方毎月買って貰えてたんなら貧乏じゃないよ。
オイラはどっちか一方。しかも毎月じゃないっていう...
近所の同学年の友達(毎月両方取ってもらってる)が羨ましかったな。
【極め付きのネタ】
あの科学と学習って、近所のオバサンが学研だかから金貰って
毎月配達してたんだが、オイラそのオバサンから1冊当たり
幾らで再委託して貰って、配達して小遣い稼ぎしてた。
笑えるだろ?
近所の小学生の家に小学生のオイラが配達に行くんだぜ? うちも貧乏だったから、学習塾や習い事に行きたかったけど
無理すれば親は行かしてくれそうな感じはしたんだけど、
その無理が食費に及びそうだったので、無理には言わなかった。
結局参考書は多少買ってもらったけど、塾とかは行かずに
地方三流大学まで行って、今は正規の公立教諭。
正規教諭なるまで時間かかったので、特例は受けられず育英会の
奨学金(48000円×12月×4年)は返還しないといけなかったから
早めに臨採講師しながら30歳ぐらいまでには返し終えた。 小学校すらまともに通えなかった俺からしたら・・・・・おれ、たぶん小中で出席日数半分ないし
みんな裕福な家に生まれてて羨ましいよ
今は働いているから三度のご飯は食べられるし、まともな家にも住んでる。服に穴なんて勿論あいてない 前にも書いたけど、家はクラスの中でも平均よりは裕福な家だったかもしれない。
しかし、昭和40年代の北海道の「市」ですらない田舎の「町」。生活は本当に貧乏だった。
降り積もる雪、吹き荒ぶ風、真っ赤に燃えるストーブ、今となっては遠い記憶だが。
それでもこのスレの話を見る限り、マシな方とは言われそうだけど。 >>987
市でも旧産炭地だと似たようなもんだろう。
自分の家は安く払い下げられた炭鉱住宅。
住んでる住民は言わずもがな。 物心ついた頃から貧乏だったから、未だにメモ帳など買わずにカレンダーの裏を使ってる。
ウチの父は裏が白の広告のばかり集めて、ホチキスで綴じて使ってたわ。 今はそんなことないけど、小学生の頃は家の中に隙間から雪が吹き込んでくるので、真冬の超寒い時は家の中に積んであった藁の中に潜って寝てた。
ただ難点なのは、身体中がわらでチクチク痒くなること。それさえなれれば藁の中は朝までかなり温かい。 >>989
家もだけど、町にも金が無いのか学校も木造校舎でボロくて、床が抜けたとか騒ぎになってた。
当然、今はコンクリのに建て替えられているけど。 >>990
その精神は会社でコンピューター連続用紙で出力されたとき、必ず1枚白紙が出るので
溜めてB4サイズに切りコピーに使用していた。何でも応用し使い切る精神になった。
ただ、手間かかる人件費は掛かる。 今は昔ほど貧乏じゃないけど、染みついた貧乏性でメモ紙を買うのは勿体ないと思う
景品で貰った広告ついてるやつとかチラシの裏とかで済ませてる
コピーした紙の裏も使う >>996
貧乏性というより、倹約家なんだと思うよ(^O^)/ コピー用紙500枚入りを使うから電気量販店で一番安いのを
買っているが、あれ一枚を適当に切ってメモ代わり
子供の頃はチラシ裏だったけど、
コロナの影響で今は郵便受けのチラシはすぐ捨てている
メモ代わりは何でもいいけど、散逸しやすいから
大事なものは、ちゃんとノートに書き写しているよ
パスワードとか
でないと、後で困ることになる
一冊の保存用ノートはケチっちゃダメだよ >>990
広告の裏を綴じてノートを作っている同級生がいたな
普通のノートを使っている私の方が貧乏のはずだが
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