相馬義胤〜伊達政宗に対抗した奥州屈指の戦国大名〜
〜相馬義胤の主な戦歴〜
永禄06年(1563年)【貝殻坂の戦い】・・・・相馬義胤○-●草野直清・青田顕治
永禄07年(1564年)【北目の戦い】・・・・・・相馬義胤○-●粟野宗国
永禄09年(1566年)【小斎城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄09年(1566年)【金津城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄09年(1566年)【金山城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄11年(1568年)【小島の戦い】・・・・・・相馬義胤△-△伊達輝宗
元亀元年(1570年)【丸森城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
天正03年(1575年)【座流川の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達軍
天正04年(1576年)【駒峰城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達輝宗
天正04年(1576年)【冥加山の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗
天正04年(1576年)【坂本城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正06年(1578年)【権現堂の戦い】・・・・相馬義胤△-△岩城常隆
天正09年(1581年)【子深田の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗
天正09年(1581年)【矢野目の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正09年(1581年)【谷地の戦い】・・・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗・政宗
天正10年(1582年)【金津城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正11年(1583年)【丸森城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正12年(1584年)【金山城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正16年(1588年)【三春城の戦い】・・・・相馬義胤●-○田村月斎
天正16年(1588年)【宇都志の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達軍・田村軍
天正17年(1589年)【常葉城の戦い】・・・・相馬義胤○-●田村軍
天正17年(1589年)【鳥の海の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正17年(1589年)【坂本犀鼻の戦い】・・相馬義胤△-△伊達軍
天正18年(1590年)【大沢の戦い】・・・・・・相馬隆胤●-○伊達軍
天正18年(1590年)【蓑首城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正18年(1590年)【小豆畑の戦い】・・・・相馬隆胤●-○伊達軍
相馬義胤(そうま よしたね)は陸奥相馬氏第16代当主で小高城城主。
武勇に優れ義侠に富み、父・盛胤と共に伊達輝宗・政宗父子の宿敵として知られる。
相馬氏と伊達氏は親戚でありながら長年にわたって敵対関係にあり、
天文の乱・伊達稙宗隠居領争い・田村清顕後継争い等で激しく戦った。
義胤の領地(陸奥国行方郡・宇多郡・標葉郡)は現在の福島県相馬郡(南相馬市・相馬市・新地町・飯舘村)
および双葉郡の一部(浪江町・双葉町・大熊町・葛尾村)に当たる。
この浜通り北部一帯は東日本大震災では地震・津波・原発事故により大きな被害を受けたが、
相馬武士の子孫達は逞しく復興を進めている。
また義胤も行った平将門以来の軍事訓練でもある相馬野馬追(そうま のまおい)は、
今も伝統の祭りとして毎年行われている。 ちなみに相馬盛胤は 平(たいらの)盛胤で直筆の書状が残ってるよ で、同時代に平氏の家紋の「揚羽蝶」を掲げた氏族に尾張の織田氏が上げられる 2011年『東日本大震災』→2012年『平清盛』→2013年『八重の桜』
NHK高校講座 第8回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生 武士の登場
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/tv/nihonshi/archive/resume008.htm
次回 第9回 2015/06/17(金) 院政と荘園 リンクミスしてたか
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/tv/nihonshi/archive/resume008.html
高校講座だけど時代劇ファンから見ると役者の高橋秀樹の話も聞けて面白かった
福島県の相馬地方の3つの妙見神社には氏神として平将門が勧請されている。 あーまたミスしてたか 次回 第9回「院政と荘園」は19日(金)
>>231
一部の研究者は相馬の苗字は平将門(相馬小次郎)に
あやかった「こじつけ」という言い方をしていた。
「千葉一族」様より
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/souma.htm
地方文化にミームとして残っていた情報をどう扱うかはデリケートな問題。
ぱっとみると確かにそうだが、よく考えてみれば、それは義胤の祖先の
千葉常胤という人物が、将門にあやかれるほどの力を持ったことを示してるわけだ。
現代の相馬さんはその名を脈々と受け継いできた、
そのことを誇りに思っていらっしゃるように見受けられた。 >>226
それは伊勢平氏限定というか清盛の周辺だけじゃ無いのか?
相馬の「胤」と蘆名の「氏」がそれぞれの通字なのにその上「盛」が平氏の通字というのは無い。
足利将軍家の通字の「義」を拝領することは稀にあるけど。
>>231
房総半島にあった相馬御厨という荘園に由来する。
相馬氏は 会津蘆名氏の全盛期、同属として協定を保つためという理由のほうが強いだろうね
「顕胤盛胤両代三郡館持並出騎之事」これの原書では相馬顕胤の弟・堀内近胤(母蘆名盛高娘、正室蘆名盛舜娘)は
相馬盛胤のすぐ隣に書かれている。つまり総大将と同格という別格扱いをされている。
うーん、相馬小次郎にあやかったというよりも、神格化した、というほうが正しいか。
祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となる
と信仰される神々である。また、恩恵をうけるも災厄がふりかかるも信仰次第とされる。すなわち御霊信仰である。
その性質から、総じて信仰は手厚く大きなものとなる傾向があり、創建された分社も数多い。
平安京、京の都で長くとりおこなわれている祇園御霊会は、祟り神を慰撫し鎮魂する祭りである。
主祭神である「祇園神」「牛頭天王」はまさにこの意味での祟り神の代表格であり、疫病をもたらす厄神であると同時に、
手厚く祀る者には守護神として働くとされ、全国各地に牛頭天王社が創建された。
御霊信仰
非業の死を遂げ畏れられたもの、たとえば菅原道真や崇徳院、平将門は祟り神に部類される神として祀られている。
後半はWikipediaからの転載。 盛胤の「盛」は葦名盛氏から一字貰ったと考えるのが自然ではなかろうか
盛氏は盛胤の烏帽子親だし >>235
盛胤が元服したのは、天文の乱以降ですか?
盛胤が仙道ではなく、伊具郡に指向していったのは、葦名家との関係も
あっての事なのかな? >>235
その場合、普通は「氏」の方を与える。「盛」は蘆名の通字だから。 >>238
一字与えるのに通字とかは関係ない
まして相馬は家臣でも属国でもないし通字の方を与える方が理に適う
他の大名の例を見ても通字を与えるのは家格の高い家や重要な家である事が多いからね 普通は通字は与えない
通字を与えるのは特別な関係の時だけ、足利義満が北野義綱に与えたように
てか偏諱を与えるのって基本上下関係があるときでしょ。将軍家が全国の大名に稙・晴・輝をばらまいたように
葦名と相馬って対等な関係じゃないの?少なくとも主従関係じゃないでしょ 平将門の子孫ってほんまなん?
ほんとならすげーと思うけど
それはそれで逆賊の子孫って不都合な事はなかったんだろかと 伊達氏の洞の場合、家格と同じく当主の年齢も上下関係に影響したのかな。
そう考えると蘆名盛氏は長兄ではあるから。
それとは別の話だが
相馬顕胤は側室(西氏)の子だったが、父が早世してしまったので十四歳で家督を継いだ。
正室・蘆名盛高の娘に子(堀内近胤)がまだ生まれていない、あるいは幼少過ぎたため
大将にはなったのが顕胤という説は納得。
そして、顕胤の父の名前も盛胤、主従関係ではなかったかもしれないけど、親密な印象はあるね。 >>241
自分は岡田清一の研究を呼んで多少納得している。
大河ドラマとかで信長がよく舞っている「敦盛」。
それと同じ「幸若舞」の演目に「信太(しだ)」というのがある。
『信太』は、将門の孫である文国と姉千手姫の貴種流離譚です。
そのあらすじは、文国が姉千手姫の嫁いだ小山行重(将門を討った
藤原秀郷の子孫)から所領を奪われると、その後は人買い商人に売られ、
塩汲みに従事させられるなど諸国を流浪します。しかし、外の浜(陸奥湾)
で領主「塩路の領司」の養子となり、さらに多賀国府(宮城県)で国司から
その素性が認められると、小山行重を攻め滅ぼし、相馬郡でめでたく栄えた
というものです。
人買い商人に売られて塩汲みに従事し、最後は宿敵を討ち滅ぼすストーリーは、
「山椒大夫」に極めてよく似ています。「塩」に関する内容が豊富であること
、塩汲みの状態から、素性が認められて身分を回復するのが多賀国府であること
などから、おそらく日本海側で伝えられた「山椒大夫」と、関東地方に残された
将門の子孫伝承が多賀国府で結びついたと考えられます。そして、これを結びつ
けた人びととは、日本海側と太平洋側を往来する塩商人であったと思われます。
多賀国府(多賀城市)や遠く石川県金沢市に残されている信太小太郎の伝承は、
中世に発生した伝承が多少のかたちを変えながらも、それぞれの地域で現在に
いたるも語り継がれてきたことを示しています。
流行のエンターテイメントとして将門肯定観が先に敷衍していたんだな。 >>241
逆賊といっても昔のことです。奥州藤原氏の初代清衡の父も逆賊として首を切られたけど、
3代秀衡は陸奥守や鎮守府将軍に任官してます。 >>243
エンターテイメントっていうより、当時の教養の域かもしれないね >>240
通字を与える事は別に珍しくはない
足利将軍家ですら義の字はたくさんばら蒔いている
関東あたりだと真壁氏などは兄の氏幹は北条の通字を、弟の義幹は佐竹の通字を貰っている
他にも北条の通字で言えば太田氏資、上杉氏憲、成田氏長など
佐竹の通字では船尾義綱などが貰っている
共通して言えるのは係争地にあって格下の同盟者に与えているという事だ
というか関東東北においては所謂包括的な洞の関係があり
相馬は初めは伊達、次いで葦名、そして佐竹の洞中にあったから一字を受ける事はおかしくはない 奥州石川って弱小なのに代々将軍から偏諱を受けてるよな 石川昭光は佐竹義昭からだと勘違いしてたわ
義昭死んだときまだ昭光養子入りしてねぇや
石川家も直接支援難しい遠国の伊達からじゃなくて
葦名か佐竹から養子迎えてどちらかの洞中に組み込まれてたら
南陸奥の戦国史も多少違った形になって
相馬家にも影響したのかな? が、すべてを把握できてないかもしれない。
把握できてないものは、相手がまことではないと考えるべきで、
あるいは、忘れているのかもしれない。
なにしろ、まことは50代である。 >>246
ひろゆきの2ちゃんに書くとこっちで見れないのね
以下、考察用
大永4(1524)年、17歳になった相馬顕胤は岩城領に攻め入る。顕胤と重隆の間に伊達晴宗の妻
に重隆の娘・久保姫を斡旋する約定があったが、重隆が突如、白河義顕に嫁がせようとしたことから
軍事衝突に発展したらしい。(千葉氏の一族)
このとき伊達晴宗は5歳前後。
『塔寺八幡宮長帳裏書』天文3年(1534年)条には、蘆名盛舜が伊達稙宗に同心し、二階堂氏と共に
結城領の白河郡新城に出馬した。(wikipedia)
このとき伊達晴宗は15歳前後。
天文10年(1541年)頃に久保姫が伊達晴宗の正室となる。
このとき伊達晴宗は20歳前後。
天文10年(1541年)伊達稙宗幽閉事件。懸田義宗、伊達晴宗に幽閉された稙宗を相馬家臣草野直清の
親類である草野肥前と共に盗み出して懸田城に匿う。伊達晴宗、相馬顕胤いずれも軍勢を出すが、晴
宗は相馬氏の軍勢を見ると懸田城に攻め込んだため籠城戦となる。顕胤は近くの山に布陣し、状況を
見ながら懸田城と晴宗の両者に使者を送り、何度も晴宗の非行を諭そうと試みた。稙宗を伊達郡越河
の屋形に移すことで事態は収まったが、このとき伊達稙宗の提案で稙宗次女を懸田俊宗の後室(先年
に奥を亡くしている)に、懸田義宗の提案で義宗娘を孫次郎(相馬盛胤)の正室にと約束し三者は杯
を交わした。稙宗は晴宗の非協力を嘆いたという(『奥相茶話記』wikipedia)。
天文11年(1542年)6月、伊達晴宗による稙宗幽閉事件が(奥相茶話記説をとれば再び)起きる。
天文12年(1543年)ごろ 元服にふさわしいだろう年齢 盛胤14歳。
天文17年(1548年)天文の乱終結、義胤が生まれる。 >>237
伊達輝宗は蘆名盛氏と少なくとも1回は戦ってるのが史実。
独眼竜政宗もそうだけど山岡宗八の小説を基本にした物語にはまったく書かれていない。 今年の相馬野馬追を見に行ってくる
お前ら感想を聞きたければ俺の家来になれ 見に行くだけ?
出陣しないの?
宇多郷のリナちゃんに手を出すなよ >>253
いつのまに伊達家から偏諱受けてんだよ
山岡「荘」八だろ つか、なんで伊達家って、伊達騒動のときに、石高へらされなかったんかね?他の大名だと取り潰しとかでしょ? 藩主綱村は若年につきお咎めなしとされ、後見役の伊達宗勝が代わりに改易、土佐藩に
お預けとなった。 >>259
なるほど、教えていただきありがとうございますm(__)m 相馬野馬追祭り見てきた
相馬もののふの勇猛さと魂を垣間見れて感動した
みんなも来年は見に来いよ 奥州相馬氏の城・館
◇宇多郷【相馬市】
・中村城(相馬隆胤)
・黒木城(門馬貞経)
・熊野堂城
・鬼越館
・蓑首城(泉田甲斐)
・駒ヶ嶺城(藤崎久長)
◇北郷【南相馬市 鹿島区】
・田中城(相馬郷胤)
・江垂中館(佐藤好信)
◇中之郷【南相馬市 原町区】
・太田城
・牛越城
・明神館(岡田胤末)
◇小高郷【南相馬市 小高区】
・小高城(相馬義胤)
・村上城
・岡田館(岡田氏)
◇標葉郷【浪江町・双葉町・大熊町】
・権現堂城(岡田将監)
・請戸城
・泉田城
・新山城
◇草野郷【飯舘村】
・草野館
・小屋林館 小高小学校の校歌の作者が さとう宗幸だったような、誰か覚えてないかな?確認取れない? ちょっと分かんないなぁ
週末に小高へボランティア行けば?
地元の人が教えてくれるかもよ >>250
伊達は奥州統一戦で、負けていたかも知れん。
でも、相馬にはあんまり影響なく変化無しだったとおもう。
九曜紋の御家柄、曾祖母を持ち
伊達藩一門家中の子孫の勝手な妄想だがなぁ。 >>222
「顕」の字は そのころ全盛期だった白河結城家、結城家あたりが関係してるんじゃないかな。
その結城氏の勢力に北から圧力を加えていったのが、伊達稙宗。 相馬の先祖は、相馬小次郎こと平将門、伊達の先祖は藤原藤太秀郷という説があるが、
それが事実なら、因縁というか、先祖の時代から相争っていたワケか。 秀郷とは系譜が違うな
秀郷は藤原魚名の四男の子孫
伊達は藤原魚名の次男の子孫 >>266
結城と相馬は宇多郡を巡っての争いがあったからどうかね 義胤の鎧の兜飾りって、毘沙門天の像の背中の飾りと同じなんだ
それで毘沙門具足っていうんだろうね 初めて気づいた >>263
作者は誰か知らないし、何番だったか忘れたけど 歌詞だけ覚えてます
小高小学校校歌
歴史は 長く 紅梅の
その名に 残る 城跡の
桜の 花の 明るさは
小高の 里の 人心
我らは ここに 育ちゆく
たのしい たのしい
小高小学校
震災のあった年から小高区は住むことはできず、
夜間はまだ閉鎖された状態が続けています。
小高小学校から育ち行く子はいませんね。悲しいですね 藤葉栄衰記によると天正6年3月に権現堂(浪江町)で相馬と岩城・二階堂が戦ったそうだが本当なの?
夜ノ森を突破され大熊町・双葉町・浪江町まで敵の北上を許したなら大変な劣勢を強いられた事になる
まして伊達・亘理と伊具郡・宇多郡で交戦中だ
南北二方面での戦いを強いられ、当主になったばかりの義胤は大変だったろう 伊達輝宗って相馬盛胤に劣勢で伊具郡の大半取られた上、本領の伊達郡まで攻め込まれてるな
輝宗って弱かったんだな
蘆名や岩城の助勢ないと何も出来ないんだな wikipediaを見てるだけでも
矛盾を感じる描写がポロポロ見つかり疑問を感じています。
たとえば秀吉による伊達家VS相馬家への裁定
>6月5日、政宗は小田原に到着。秀吉から出羽・奥州の仕置を任された。
>片倉景綱は相馬氏について政宗留守中の戦闘(小豆畑の戦い)を言語道断とし、相馬討伐の許しを得ていた
>(天正十八年六月十四日 片倉景綱書状「原町市史中世編年史料」)。小田原より帰還した政宗は相馬攻めを計画した(天正十八年六月廿六日 伊達政宗書状「原町市史中世編年史料」)。
>7月5日、北条氏政が豊臣政権に降伏。7月7日、政宗は大里城(岩瀬郡天栄村)に拠る矢田野氏の抵抗が未だ収まらなかったため、
>そちらに全勢力を傾け相馬攻めを延期した(天正十八年七月七日 伊達政宗書状「原町市史中世編年史料」)。
>7月26日、小田原征伐を終え奥州仕置に向かった豊臣秀吉は宇都宮に到着。
>義胤は三郡の本領を安堵された[13]。
無茶苦茶じゃないですか?
6月に相馬討伐許可を出しておいて、
伊達家が他のことに忙殺されて着手出来ずに居たら
許可から1ヵ月後に相馬家に安堵を出す。
秀吉が狂ってるのか資料がおかしいのかどっちなんでしょうか? 惣無事令についてはまだあります
1587年には佐竹と相馬に惣無事令が届く
佐竹は伊達家と蘆名家の和睦周旋を命じられる
↓
伊達家は無視して戦争行為を続ける(相馬もw)
↓
1589年、秀吉に近しかった蘆名家を伊達家が滅ぼしちゃう
↓
その1ヵ月後に秀吉から上杉家佐竹家に政宗討伐令が下る
相馬家も伊達家に抗戦する(が、肥大化した伊達勢力に劣勢)
↓
1590年、相馬家小田原参陣、伊達家小田原参陣
↓
その際に伊達家の小十郎が「相馬が惣無事令無視しましたよー」と告発
↓
秀吉「なにけしからん、相馬を成敗していいぞ」
↓
(1ヶ月経過)
↓
秀吉「義胤くんの領土を安堵します」
どこから突っ込んでいいかわからないぐらいへんてこです
秀吉が相当いい加減に朝令暮改してたと考えるしかないんでしょうか?
相馬家的には「関白に逆らう政宗討伐」という名分があったはずなのにいつの間にか消え、
伊達家敵には「ルール違反した相馬家討伐」の許可があったはずなのにいつの間にか消え… 秀吉はそういう人です。政宗が小田原への参陣が遅れたことは死に値すると白装束と
磔柱でパフォーマンスするとこれを許します。それで伊達家への討伐令は取り消しです。
相馬の場合も詳しい事はわかりませんが、秀吉個人が許せばそれで討伐令は取り消しなのです。 相馬と伊達の50年戦争
@天文の乱:で胤宗に味方した顕胤が晴宗と激突
A胤宗隠居領争い:伊具郡の戦いで当初は亘理が盛胤に味方し、盛胤が優勢、伊達郡にも攻め込む
B亘理が伊達に寝返って、形勢が互角になった
C田村が伊達と縁組みして伊達が優勢になり
D畠山が滅ぼされ 惣無事令とは言っても
秀吉の解釈・気分次第で割りとどうにでもなるから
政宗も相馬も運が良かったんだろ 相馬と伊達って南北朝の時から戦ってたんだな
相馬は斯波家長に従い北朝方、伊達は北畠顕家に従い南朝方
ほんと仲悪いんだな 亘理なんて同じ千葉常胤の子孫で共同歩調だったのに晴宗時代ぐらいから裏切る裏切る 相馬氏は奥州五郡一揆収束後の1440年頃滅亡の危機だったようだ
当主相馬高胤は宿敵の標葉郡権現堂城主・標葉清隆と寝返った行方郡牛越城主・牛越定綱に挟撃されて苦戦している
標葉清隆は相馬氏を滅ぼすため本拠を請戸城から権現堂城(小高城まで僅か5km)に移転し攻勢に出ている
当時の書状が残っていれば有り難いのだが 相馬盛胤は北は名取郡座流川、南は常陸国孫沢ま、西は伊達郡小島まで進出してたのか
伊達や佐竹を敵に回して一歩も引かなかったんだな 東はアメリカまで
インディアンを相手にして一歩もひかなかった 馬の差でアパッチ
白兵戦に持ち込めば相馬兵か
三船敏郎の侍映画「レッドサン」ではアパッチがやられてたなw 相馬と伊達は
アパッチ族と騎兵隊の戦いみたいなものか。 確かにここのスレは保守的だ。
浪江の旧家で発見された文書の一端を紹介したら消された。
不明な事柄は無視される。これでは相双の歴史は期待できない。 アパッチ族(というかインディアン全般)て
映画のせいで馬とセットみたいに扱われてるけど
彼等が馬に乗るようになったのって西洋人に侵略されてからよ
そこから滅ぼされるまでにそれほど馬術や騎馬襲撃戦法の積み上げがあったとは思えない
映画でやたら馬に乗ってるのは騎馬突撃してくるインディアンを白人が打ち倒す映像が勇壮になるからだけど
インディアンだって馬鹿じゃないんだからそんな撃たれまくるとこで騎馬突撃なんかするかw
伊達と戦ってた時代の相馬家は騎馬と鉄砲隊をどう組み合わせて使ってたのかなあ 江戸時代の相馬氏の投手の名前って
DQNネームのさきがけじゃないけど、よそであんまり見ない字を使ってるひとが多いね そうお?
改めて見てみたけど当時として珍しい字なんかないように思える DQNネームというか、それまでにないような変な字や形式の名前っていうのは
いつの時代も町民階層では現れてるんだけど
藩主家にはあんまりないよね
偉い人から字を分けてもらったり考えてもらったりする外交ツールなんだから
新奇なDQN文字なんか使ってる余裕ないしさ 江戸時代だと
将軍など高貴な人と諱被らないために
わざと難解な文字を名前に使ったりすることがあったと
何処かで見たことがある 【清水】 国民を大量に被爆病&被爆死させ、血税から20億円チューして雲隠れwww 【勝俣】
事故に直接責任のある清水・勝俣に20億円を支払い、東電社員の給与を15%上げたから不足したので税金で支援してほしい
https://twitter.com/tok aiama/status/760578933427359744
コンビニでレジ待ちしていて前の高校生
「期末テストの社会で「原発は賛成か反対か意見を書け」ってあったんだよ。だから俺、「反対」って書いたらバツで返された。意見書けってのにバツっておかしくねえ?」
https://twitter.com/guchirubakari/status/759515386014334976
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信。これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある。書けばツイッターで速攻削除されている。
https://twitter.com/toka iamada/status/664017453324726272
サンマ以降のバラエティ芸人の大半が、暴走族出身で極右思想。原発反対派を「放射脳」と嘲笑する連中。
芸能界極右は石原慎太郎一家を筆頭に、上田晋也 草野仁 津川雅彦 向井理 松本人志 宇多田ヒカル マツコ 春日俊彰 田村淳 北村晴雄
https://twitter.com/tokaia mada/status/630627400552845312
名無し 食べて応援で人が何人死んだみたいな無茶苦茶なこと、福島県の人に対してよく言えるな…。見苦しい。
https://twitter.com/tok aiama/status/720726309240836097
千葉麗子 「科学的根拠も示さず福島には住めないなどと風評被害をまき散らしている」
奥田知志 「薄い放射能〜大丈夫だっぺ〜食べて応援」 NPO法人抱樸理事長 SEALDs奥田愛基氏の父親
青山繁晴 「放射線障害で、つまりいわゆる放射能にやられたって意味では、亡くなった方はもちろんゼロで、治療を受けた人も、1人もいないんですよ。ね。
副島隆彦 「ホテル 放射能」を建設しよう。また、愚かな「放射能コワイ、コワイ」派の敵どもが、ギャーギャー騒ぐでしょう。 福島では、誰も死なない。[1792]
リチャード輿水 「なぜ、福島が安全なのか、10月11日(日)のRK佐久講演を聞けば、全部、わかるよ。」
ベンジャミンF フクシマが大変だ大変だって、あれはもうプロパガンダ、嘘八百なにもない。26分40秒〜
https://www.youtube.com/watch?v=KRd6O5bwN9M 原発事故に苦しむ福島県の相双地方を復興させるため、当地を支配した相馬義胤スレを盛り上げなければ
皆さん、相馬義胤について知りたい事あれば何でも言ってください!
父の相馬盛胤、祖父の相馬顕胤についてでもいいですよ! 相馬氏自体はそれなりに有名だけど
それぞれどんな人物なのかまではあまり知られてない。
各当主の特徴とかアピールポイントは? 相馬は太平洋のある東を除いて北・北西・南西・南に敵を抱えていた
すなわち北の亘理、北西の伊達、南西の田村、南の岩城
田村とは婚姻関係を通じて長く盟友の間柄だったが、田村合戦で田村が伊達の支配下に入ると敵に転じた 福島第一原発事故のおセンチって相馬領なんだよな
涙出てくる >>1
東北の戦国時代...伊達ですら盛り上がらないのに。 原発事故の最大の被災地は伊達領でなく相馬領
相馬義胤スレ盛り上げて復興支援しよう お前らもう少し相馬氏に関心持てよ
東北で最も昔から続いてる氏族なんだぞ 震災後に沢山の芸能人やリポーター、代議士達が来たけど
震災前に相馬に来たことある奴はほぼゼロに近い。
都内で震災直後の写真を見せて話してもウワの空でどこかの出来事て感じ。
ボランティアに来てくれた人たちの中には、参加によって会社での評価が上がるとか
高校生は大学受験で自己推薦の出願で評価を受けられるとか云々
これが現実。 野馬追祭りには行列帳に基づいた厳格な順列があると眺めていたが
大半の武士が兜を付けた府下給人ばかりになっていた。
身分の違いまでは厳格にはいかないようです。 野馬追は観光用のイベントだからね。
騎馬武者がいればそれでいいのw
詳しいことなんぞ 誰も知らねえしw 長い歴史のある相馬
でも、伊達や会津に比べると圧倒的に史料が少ない。
学芸員や研究者が暇そうだし、新史料があると聞くと
飛びつくもんねw 会津の民間研究者の方が語ってましたが
大河ドラマで注目されたおかげで、全国から歴史資料が集まったそうです。
相馬の資料も全国に散逸していて、ドラマなどで注目されれば集まりそうですよ。
震災ではなくて歴史的に注目されなければ駄目ですね。 相馬研究で有名なのって
岡田清一氏ぐらいしか知らんな >>317
史料は少ないと思うよ。
従弟の家系は家老職になって、明治に土着したのだが
昭和の中頃に土蔵を整理した時に古文書が沢山出てきたが読めないので焼いた。
高札も何本かあったがこれも不明で風呂の薪にしたらしい。
他にもいろいろとあったらしいが始末したんだと。
どの家もそうだと思うが、先祖のことなどに興味持つ子孫は100年にひとりらしいから無理もないわなw
こうやって史料は抹消されてゆくんだな。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ また相馬野馬追の季節が来た。見に行きたいが金がない。無念 >>278
ここだけ見ると相馬も伊達に対抗出来る30万石クラスの大名でないとおかしいんだけど、
せいぜい伊達の十分の一ぐらいなのはどういうことなんだろ? 国の規模は関係ないのよ。
伊達の戦が下手だったのと相馬の傭兵たちのゲリラ戦が巧みだっただけ。 >>320
おふくろの実家には刀が沢山あって、それで薪割りしてたって、駄目になったら捨てたと。残った刀や槍は近所の士族だ!の通報でGHQが持ち去ったて聞いたよ。 ここのスレは相馬の正史?から外れるような事を言うと
すぐに削除されるから誰も意見を言わなくなった。