「勢州軍記」から北畠具教の最期

伊勢国司であり三瀬大御所の北畠中納言源具教入道は不智不慮であり、当家を織田に渡したことを悔いていた。
(続群書類従では「不智不慮」としているが、北畠具教の法号が「不智斎」であるため不智で切るべき?)
信長公と仲が悪く、信雄朝臣を蔑んでいた。
そのため先年武田信玄と合心し謀叛を企てていたという。
またある時、信雄の小姓が小鳥をとりに国司屋敷に入ってきたため、具教の家臣は小姓をひどく打擲したところ、信雄は憤った。
信長公は北畠具教に野心があるとみなし、織田掃部助(忠寛)に北畠具教親子、坂内入道親子を討つように命じた。
信雄が諸侍に謀ったが、天野佐左衛門尉と柘植三郎左衛門尉が城門の外でこれについて相談したのが、門の陰にいた下女に聞かれてしまい、ことが公になってしまった。
そのため急いで討ち手を招集した。
まず北畠具教への討ち手として藤方刑部少輔、奥山常陸介、滝川三郎兵衛尉、長野左京亮が命じられたが、藤方は名代として軽野左京進を出した。
彼らは領地の朱印を頂いたが、みな北畠譜代重恩の臣であり、欲のために理を捨てたのであった。
ただ奥山常陸介は心を翻し、仮病で討ち手には加わらなかった。
こうして天正四年十一月二十五日の朝、三人は三瀬御所に参じた。
北畠具教卿は炬燵に当たり、夜衣を着て、三歳と今年生まれたばかりの若君を膝においてあやしていた。
近習である佐々木四郎左衛門尉が御前に参じ、出仕のよしを言上した。
具教卿は若君を乳母に預け、出座しようとしたところで長野左京亮が具教卿御愛用の槍で具教卿を突いた。
具教卿は兵法の名人であったため、太刀を抜こうとしたが、小姓の佐々木四郎左衛門尉も企てに加わっており、あらかじめ太刀を抜けないように細工をしていた。
具教卿は徒手空拳であったが肝が据わっており、長野に対して
「わしは常々、お前がいつか裏切ると思っておったわ!」と言った。
そのとき滝川・軽野も太刀を抜いて斬りかかってきた。
具教卿は憤怒の面持ちでついに死んだ。御年四十九であった。
若君は乳母に抱えられ裏庭に向かったが追手により害された。
今年生まれた若君も乳母が懐中に入れて雪隠に隠れたが、探し当てられ殺された?(尋求奉失之)
北の方や乳母や女房たちも泣き喚きながら逃げ回り、聞く人で涙を流さぬ者はなかったという。

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北畠具教の滅亡
こっちと違って刀も抜けずに殺されてしまっている