戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう
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戦国ちょっと悪い話49
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2021/08/31(火) 00:47:12.80ID:ik3gw1m9
362人間七七四年
2022/02/21(月) 16:31:04.82ID:1cd2BFms 今年の大河ドラマでSNS考察勢がよく書いてる、ヒャッハーな坂東武者も京の権威とのつながりが大事って話
室町戦国もそんなもんで江戸時代も同様だよなあと思うし
そもそも古墳時代の稲荷山鉄剣銘文のヲワケの臣からしてそうだったよなあと
もう国の成り立ちの始まりからの伝統なんすね
室町戦国もそんなもんで江戸時代も同様だよなあと思うし
そもそも古墳時代の稲荷山鉄剣銘文のヲワケの臣からしてそうだったよなあと
もう国の成り立ちの始まりからの伝統なんすね
363人間七七四年
2022/02/21(月) 17:01:35.81ID:ZDFCkngZ 柳田國男「山島民譚集」の「河童駒引」から葦毛馬
(「濃陽志略」に書かれているそうだ)
田口氏の祖先は遠山玄蕃という武士であった(遠山友忠によって攻められている)。
かつて葦毛の馬を飼っていて、夏の日に川の淵に放置していたところ、その馬がにわかに走って厩に帰ってきた。
下人たちが見たところ、小児が馬のそばにうずくまっていたが、よく見たら河童であった。
水中から馬の足を掴んだところ、驚いた馬が一目散に厩に馳せ帰ってきたのだろう。
下人たちは河童を打ち殺そうとしたが、玄蕃は制止し、「今後は人畜を害せぬように」とさとして帰らせた。
このことからその淵の名を「あしげの淵」とよぶようになった。
葦毛の馬が高名を成したためにその呼び名がついたのであろう。
ついでにこの柳田國男の本には「博多細記」出典として、
黒田家家臣が、便所で妻の尻を触った河童の腕を落としたところ、
河童が腕を取りに来て、代わりに傷薬をもらった、という話も載っているが
この「博多細記」とは、今までも何回か黒田忠之関連で投稿されている「博多細伝実録」のことである
(「濃陽志略」に書かれているそうだ)
田口氏の祖先は遠山玄蕃という武士であった(遠山友忠によって攻められている)。
かつて葦毛の馬を飼っていて、夏の日に川の淵に放置していたところ、その馬がにわかに走って厩に帰ってきた。
下人たちが見たところ、小児が馬のそばにうずくまっていたが、よく見たら河童であった。
水中から馬の足を掴んだところ、驚いた馬が一目散に厩に馳せ帰ってきたのだろう。
下人たちは河童を打ち殺そうとしたが、玄蕃は制止し、「今後は人畜を害せぬように」とさとして帰らせた。
このことからその淵の名を「あしげの淵」とよぶようになった。
葦毛の馬が高名を成したためにその呼び名がついたのであろう。
ついでにこの柳田國男の本には「博多細記」出典として、
黒田家家臣が、便所で妻の尻を触った河童の腕を落としたところ、
河童が腕を取りに来て、代わりに傷薬をもらった、という話も載っているが
この「博多細記」とは、今までも何回か黒田忠之関連で投稿されている「博多細伝実録」のことである
365人間七七四年
2022/02/21(月) 19:48:57.17ID:ZDFCkngZ ついでに柳田國男は「山島民譚集」で葦毛の馬の章をもうけていて
葦毛の馬の糞が金創(刃物の傷)の妙薬になるということが、「甲陽軍鑑」の松代攻めの箇所に書かれているとしているが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3655.html
ここでうんこの話だよ。うんこうんこー!
この逸話の元になっている、「甲陽軍鑑」第三十二の
第四次川中島合戦の時に甘利左衛門尉の同心頭である米倉丹後守惣領子彦二郎が撃たれて肺出血を起こし死にかけた時に
「葦毛馬の糞水、煮立てて飲み候えば血をくだす」と言われ、
彦次郎は拒否をしていたものの、甘利が信玄公のお役に立つ方が重要であろう!と自ら飲んで見せたため
彦二郎も飲んだところ、血を吐いて快癒した話を指していると思われる。
大河ドラマ「風林火山」でも主人公の山本勘助が鉄砲にやられた時に馬糞を溶かした水を飲んで治っているので有名なネタかもしれない。
傷薬の処方にに詳しい河童が葦毛馬を持って行こうとしたのもこのためだろうか(馬が溺死したら馬糞も何もあったもんじゃないけど)。
ついでに柳田國男は葦毛の馬(白馬も含めて)が日本各地で不吉な存在として扱われていると書いているが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-223.html
この、とある三好家の忠臣が十河一存に対して「有馬権現は葦毛の馬を嫌うから、有馬温泉に行くときは乗らない方がいいでしょう」
と忠告したのに十河がそれを聞かずに行って神罰を蒙って病死した話も載っけていた。
葦毛の馬の糞が金創(刃物の傷)の妙薬になるということが、「甲陽軍鑑」の松代攻めの箇所に書かれているとしているが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3655.html
ここでうんこの話だよ。うんこうんこー!
この逸話の元になっている、「甲陽軍鑑」第三十二の
第四次川中島合戦の時に甘利左衛門尉の同心頭である米倉丹後守惣領子彦二郎が撃たれて肺出血を起こし死にかけた時に
「葦毛馬の糞水、煮立てて飲み候えば血をくだす」と言われ、
彦次郎は拒否をしていたものの、甘利が信玄公のお役に立つ方が重要であろう!と自ら飲んで見せたため
彦二郎も飲んだところ、血を吐いて快癒した話を指していると思われる。
大河ドラマ「風林火山」でも主人公の山本勘助が鉄砲にやられた時に馬糞を溶かした水を飲んで治っているので有名なネタかもしれない。
傷薬の処方にに詳しい河童が葦毛馬を持って行こうとしたのもこのためだろうか(馬が溺死したら馬糞も何もあったもんじゃないけど)。
ついでに柳田國男は葦毛の馬(白馬も含めて)が日本各地で不吉な存在として扱われていると書いているが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-223.html
この、とある三好家の忠臣が十河一存に対して「有馬権現は葦毛の馬を嫌うから、有馬温泉に行くときは乗らない方がいいでしょう」
と忠告したのに十河がそれを聞かずに行って神罰を蒙って病死した話も載っけていた。
366人間七七四年
2022/02/21(月) 20:08:08.43ID:ZDFCkngZ 訂正、柳田國男が十河一存の話の出典として挙げてる当代記の該当箇所を読むと行くのを止めたのは松永久秀じゃなかった
修理大夫(三好長慶)の弟、十川は松永との間柄が常に悪かった。
この十川が唐瘡をわずらっていたため、養生のために摂州有馬へ、永禄九丙寅年に湯治に行くことにした。
温泉神は葦毛馬が登山することを嫌いたまう、と人皆この旨を十川に告げたけれども、押して葦毛馬に乗って登山をした。
やがて神罰を蒙り、帰国後ほどなくして病死した。
前に出ていた逸話通り、松永久秀が止めたパターンもあるのだろうか
修理大夫(三好長慶)の弟、十川は松永との間柄が常に悪かった。
この十川が唐瘡をわずらっていたため、養生のために摂州有馬へ、永禄九丙寅年に湯治に行くことにした。
温泉神は葦毛馬が登山することを嫌いたまう、と人皆この旨を十川に告げたけれども、押して葦毛馬に乗って登山をした。
やがて神罰を蒙り、帰国後ほどなくして病死した。
前に出ていた逸話通り、松永久秀が止めたパターンもあるのだろうか
367人間七七四年
2022/02/21(月) 20:19:13.35ID:ZDFCkngZ たびたび失礼、すぐ松永久秀が忠告したパターンが見つかった、申し訳ない
足利季世記「十川一存逝去の事」
永禄三年十二月十川民部大夫一存と松永との中あしく、常に不快を現しける。
そのころ十川殿、瘡を煩に有馬の温泉へ湯治ありける。
松永意見申しけるは「有馬温泉権現はあしげ馬を御とがめある神なり。
この御馬御無用と申す。しかれども十川殿、松永が申すことを用いたまわず。
松永もまた十川殿の宣うことを背ける事なれば十川殿是を聞きたまわず。
葦毛馬に乗り湯治して登山ありけるが、案の如く落馬ありて忽ち死去ありけるこそ不思議なれ。
運命尽くすとな言いながらあえなき事どもなり。
足利季世記「十川一存逝去の事」
永禄三年十二月十川民部大夫一存と松永との中あしく、常に不快を現しける。
そのころ十川殿、瘡を煩に有馬の温泉へ湯治ありける。
松永意見申しけるは「有馬温泉権現はあしげ馬を御とがめある神なり。
この御馬御無用と申す。しかれども十川殿、松永が申すことを用いたまわず。
松永もまた十川殿の宣うことを背ける事なれば十川殿是を聞きたまわず。
葦毛馬に乗り湯治して登山ありけるが、案の如く落馬ありて忽ち死去ありけるこそ不思議なれ。
運命尽くすとな言いながらあえなき事どもなり。
368人間七七四年
2022/02/21(月) 21:44:53.35ID:qo/EHyEy369人間七七四年
2022/02/21(月) 22:44:18.34ID:ZDFCkngZ370人間七七四年
2022/02/22(火) 00:31:24.55ID:V3AWK7vN >>368
*にフィストファ○クしようとする妖怪とか日本は昔から性癖の国よな
*にフィストファ○クしようとする妖怪とか日本は昔から性癖の国よな
371人間七七四年
2022/02/22(火) 04:30:03.40ID:V3AWK7vN372人間七七四年
2022/02/22(火) 13:58:01.99ID:I7TlitT/ 女性宅の汲み取り便所でしんでた男の話思い出した
373人間七七四年
2022/02/22(火) 21:53:50.35ID:UEXtDzLM >>369
まだまだヌルいな。
その種のhentaiとしては神武天皇のカミさんの親父が突き抜けてる。
そのhentaiが満更嫌でもなかった女も大概だってことになるが。
流石に始祖王の義父母ともなると格が違う。
詳しくは『古事記』で。
まだまだヌルいな。
その種のhentaiとしては神武天皇のカミさんの親父が突き抜けてる。
そのhentaiが満更嫌でもなかった女も大概だってことになるが。
流石に始祖王の義父母ともなると格が違う。
詳しくは『古事記』で。
374人間七七四年
2022/02/23(水) 08:01:51.78ID:xgKiI7+q 詳しくはWebで・・みたいに言うな
375人間七七四年
2022/02/23(水) 15:58:31.52ID:ZuQNmClx 「大友興廃記」より「馬鬼退治の事 ならびに七不思議」
朽網に名山の九重嶽、前嶽、黒嶽があり、黒嶽は仙界で様々の奇特がある。
朽網三河守鑑康(耳川の戦いでは志賀親守とともに肥後口を担当)の代にあたって、黒嶽の麓にある八幡宮に年々神馬を奉じるに、前年に馬を広野に解き放って、翌年神馬をとらえて奉っていた。
ある年の祭りのとき、解き放った神馬が見つからず別の馬を神馬として放ったが、次の年もまた見つからなかった。
何かが馬を喰い殺したのではないかと人々が不審になっていると、樵や草刈りも帰ってこなくなり、実は辻斬りのためではないかとも言われた。
そのうち誰ということなく「先の神馬が馬鬼となって人馬を喰らっている」と流言が立った。
不審に思い、山を探してみると人馬の髑髏や舎利が多く見つかり、往来のものも先の馬が鬼となって人々を害していると噂したため、
三河守鑑康は退治を大久保蔵人と上高(しやうかう)因幡守の両人に仰せつけた。
蔵人は長刀、因幡守は弓を持ち、前嶽のふもとの屏風岩で、おびき寄せようとしたところ、常の馬より長い葦毛の馬がいきり立って歯噛みしてとびかかってきた。
因幡守は三人張りの弓で尖り矢を射たが馬には当たらず、二の矢をつごうとしたが、
蔵人は長刀の石突を屏風岩に突かせていたため、長刀がとびかかってきた馬の胸を貫いた。
明け方になり馬の死骸をみようとしたが、どこにも残っていなかった。
その馬の祟りによって蔵人の子孫に男子ができなかったため、石によって宮を造営し「馬鬼の宮」と号して年々祭った。
今成峠では、その時から今に至るまで清水が湧き出している。
朽網は希有なる所にて七不思議あり、曰く
鳴瀬川:河なき所に波の音あり
音無川:河水みなぎり、波あるが音なし
西の池:池の辺で高声する時は雨降る
念仏の池;池辺にて念仏唱えれば池に沸々と声あり
殺生石:人畜鳥獣、この石に触れて死す
雪中の青蓼:聞こえたるうそ?
仙白水:時々黒嶽より白水ふる
朽網に名山の九重嶽、前嶽、黒嶽があり、黒嶽は仙界で様々の奇特がある。
朽網三河守鑑康(耳川の戦いでは志賀親守とともに肥後口を担当)の代にあたって、黒嶽の麓にある八幡宮に年々神馬を奉じるに、前年に馬を広野に解き放って、翌年神馬をとらえて奉っていた。
ある年の祭りのとき、解き放った神馬が見つからず別の馬を神馬として放ったが、次の年もまた見つからなかった。
何かが馬を喰い殺したのではないかと人々が不審になっていると、樵や草刈りも帰ってこなくなり、実は辻斬りのためではないかとも言われた。
そのうち誰ということなく「先の神馬が馬鬼となって人馬を喰らっている」と流言が立った。
不審に思い、山を探してみると人馬の髑髏や舎利が多く見つかり、往来のものも先の馬が鬼となって人々を害していると噂したため、
三河守鑑康は退治を大久保蔵人と上高(しやうかう)因幡守の両人に仰せつけた。
蔵人は長刀、因幡守は弓を持ち、前嶽のふもとの屏風岩で、おびき寄せようとしたところ、常の馬より長い葦毛の馬がいきり立って歯噛みしてとびかかってきた。
因幡守は三人張りの弓で尖り矢を射たが馬には当たらず、二の矢をつごうとしたが、
蔵人は長刀の石突を屏風岩に突かせていたため、長刀がとびかかってきた馬の胸を貫いた。
明け方になり馬の死骸をみようとしたが、どこにも残っていなかった。
その馬の祟りによって蔵人の子孫に男子ができなかったため、石によって宮を造営し「馬鬼の宮」と号して年々祭った。
今成峠では、その時から今に至るまで清水が湧き出している。
朽網は希有なる所にて七不思議あり、曰く
鳴瀬川:河なき所に波の音あり
音無川:河水みなぎり、波あるが音なし
西の池:池の辺で高声する時は雨降る
念仏の池;池辺にて念仏唱えれば池に沸々と声あり
殺生石:人畜鳥獣、この石に触れて死す
雪中の青蓼:聞こえたるうそ?
仙白水:時々黒嶽より白水ふる
376人間七七四年
2022/02/23(水) 16:08:06.89ID:ZuQNmClx なおこの殺生石も有名な那須の殺生石と同様、元は玉藻前が石になったもので
玄翁和尚が那須の殺生石を砕いた破片がここまで飛んできたという伝説があるらしい
玄翁和尚が那須の殺生石を砕いた破片がここまで飛んできたという伝説があるらしい
377人間七七四年
2022/02/23(水) 18:47:48.53ID:La6fcLzt 将門の首より飛んでるなぁ、殺生石の欠片
378人間七七四年
2022/02/23(水) 21:50:51.84ID:eb+KOINo そういや馬糞で思い出したけど
ウクライナのホロドモールの際、家族のなかで一人だけ生き残った女の子が
自分はコルホーズの厩舎に忍び込んで馬糞を食べてたから生き延びたって話を読んだけど
人間って馬糞食べても平気なんだな。そりゃ溶かした水も飲めるわ。
ウクライナのホロドモールの際、家族のなかで一人だけ生き残った女の子が
自分はコルホーズの厩舎に忍び込んで馬糞を食べてたから生き延びたって話を読んだけど
人間って馬糞食べても平気なんだな。そりゃ溶かした水も飲めるわ。
379人間七七四年
2022/02/24(木) 08:35:29.92ID:1vt0lxcq いっそ殺生石で待ち伏せして殺生石に触れさせた方が楽に勝てたのでは?
大食らいの葦毛の怪物馬といえど、玉藻の前には勝てないだろうし
大食らいの葦毛の怪物馬といえど、玉藻の前には勝てないだろうし
380人間七七四年
2022/03/05(土) 13:53:11.96ID:3+NMX/vT 或る記(難波戦記カ)に、伊予国の人曰く、以前に他国よし来た軍談の旅客があった。
同国道後に於いて浪速乱(大坂の陣)を談じた。当地の村人たちはこぞってこれを聴いた。
彼等は、始めは信じて群参していたのだが、最後の方にかかると「これは虚談である」として、
皆これを信じなかった。これについてかの旅客は「私は全く虚談を述べていない。どういう理由で
そのように言うのか。」と問うた所、村民はこのように言った
「後藤又兵衛については、大阪落城後に当所の温泉に来て、傷を治療したのだ。この事を所の別当が怪しみ
問うた所、その切なる事に好感をもったのか、又兵衛は実を以て答えた。別当は聞いて、その功名を崇み、
かつ、又兵衛の活気に懐き、彼を労り親しんだ。
ところが所の者共これを伝え聞き、公聞を恐れ密かに党を結び、不意に後藤を襲った。
又兵衛基次はこれに立ち向かい、奮迅して数人を斬ると雖も、大勢が打ち囲み、既に縄目の辱に合わんとするに
及び、内に駆け入って自害した。
則ちその首を取り、東武(江戸)に献じた所、御沙汰の上仰せ出された事には、『後藤又兵衛については
道明寺に於いて戦死している。然るを再び後藤の首と言って捧げることは紛らわしい。さりながら
真偽を糺すには及ばず。』との趣にて、その功空しくなった。
その後郷民たちは後藤の霊を恐れ、八幡宮の傍らに新たに祠を立て、九月十三日(八幡宮の例祭は八月十五日
である)、五斗の樽祭といって、この小祠を祀る。
であるのだから、後藤又兵衛が道明寺表において討死と講ずる事は虚事である。然ればその外の事についても
きっと虚事を入れているのだろうから、故に信ずるに足らず。」
と答えた。これに旅客は汗顔して口を噤んだという。
(新東鑑)
後藤又兵衛の生存伝説について
同国道後に於いて浪速乱(大坂の陣)を談じた。当地の村人たちはこぞってこれを聴いた。
彼等は、始めは信じて群参していたのだが、最後の方にかかると「これは虚談である」として、
皆これを信じなかった。これについてかの旅客は「私は全く虚談を述べていない。どういう理由で
そのように言うのか。」と問うた所、村民はこのように言った
「後藤又兵衛については、大阪落城後に当所の温泉に来て、傷を治療したのだ。この事を所の別当が怪しみ
問うた所、その切なる事に好感をもったのか、又兵衛は実を以て答えた。別当は聞いて、その功名を崇み、
かつ、又兵衛の活気に懐き、彼を労り親しんだ。
ところが所の者共これを伝え聞き、公聞を恐れ密かに党を結び、不意に後藤を襲った。
又兵衛基次はこれに立ち向かい、奮迅して数人を斬ると雖も、大勢が打ち囲み、既に縄目の辱に合わんとするに
及び、内に駆け入って自害した。
則ちその首を取り、東武(江戸)に献じた所、御沙汰の上仰せ出された事には、『後藤又兵衛については
道明寺に於いて戦死している。然るを再び後藤の首と言って捧げることは紛らわしい。さりながら
真偽を糺すには及ばず。』との趣にて、その功空しくなった。
その後郷民たちは後藤の霊を恐れ、八幡宮の傍らに新たに祠を立て、九月十三日(八幡宮の例祭は八月十五日
である)、五斗の樽祭といって、この小祠を祀る。
であるのだから、後藤又兵衛が道明寺表において討死と講ずる事は虚事である。然ればその外の事についても
きっと虚事を入れているのだろうから、故に信ずるに足らず。」
と答えた。これに旅客は汗顔して口を噤んだという。
(新東鑑)
後藤又兵衛の生存伝説について
382人間七七四年
2022/03/06(日) 13:32:53.93ID:aEanwxFY と言っても3年くらい前からヒビ入ってたのをなんとか繋いでたみたいだけどな
383人間七七四年
2022/03/06(日) 15:12:56.57ID:ipMLukOV 或る本に、神保長三郎(相茂)の部隊を、仙台(伊達政宗)勢が鉄砲にて悉く撃ち殺したが、
(別記によると被害は従者一人であり、長三郎は別状無かったともある。未詳)
後に大御所(徳川家康)よりこの事についてお尋ねが有った所、伊達家より
「奥の兵、一偏の東夷たるを以て、大和武者の美麗を見、『我が党に非ず、城兵なる事必定なり』と
思い誤り候」
と陳謝したが、重ねての台命は無かったという。
別記に、この時伊達方と水野日向守(勝成)家令・塚本弥兵衛、竹本左門、寺島助九郎の三人が
味方討ちしたとも言う。
(新東鑑)
伊達家による神保隊味方討ちについてのお話
(別記によると被害は従者一人であり、長三郎は別状無かったともある。未詳)
後に大御所(徳川家康)よりこの事についてお尋ねが有った所、伊達家より
「奥の兵、一偏の東夷たるを以て、大和武者の美麗を見、『我が党に非ず、城兵なる事必定なり』と
思い誤り候」
と陳謝したが、重ねての台命は無かったという。
別記に、この時伊達方と水野日向守(勝成)家令・塚本弥兵衛、竹本左門、寺島助九郎の三人が
味方討ちしたとも言う。
(新東鑑)
伊達家による神保隊味方討ちについてのお話
384人間七七四年
2022/03/07(月) 20:13:21.67ID:o+u3g8Om 「朝野雑載」より六角義郷の話
義郷の父である六角義秀は近江国守護であったが暗愚の将であったため近江の大方は攻め取られ、家臣にも所領が奪われ、義郷が相続したのは十八万石に過ぎなかった。
しかも石田三成の讒言により義郷が死罪になりそうだったのを、秀吉公により名族ということで領地没収のみで許された。
さて三成が義郷を讒言した理由だが、義郷の家人、多良尾彦六入道道賀というものの娘、おまんというものが有名な美人で義郷の妾となっていたのを
三成がうらやみ、道賀に頼んでおまんを所望したのを、主君の妾だとして道賀が断った結果、義郷を殺して妾を奪い取ろうと思うにいたったということだ。
義郷浪人後、おまんのことを聞きつけた関白秀次公はさっそく聚楽第に呼び込んでしまった。
三成は大いにあきれ、この上はと秀次公も讒言した結果、おまんはほかの三十余人の秀次公の女房たちと共に首を刎ねられてしまったということだ。
このように三成が多良尾の娘を取ろうと、罪なき義郷、秀次、および両家一族、幕下の諸将やその家族まで幾千万人も死罪、追放、流刑にしたためその怨念が石田にかえってきて
その身はもちろん、一族縁者家人までことごとく断絶し、末世にいたるまで大悪無道の名を残した、なんとあさましいことだろうか。
※六角義郷:六角氏の子孫を称した澤田源内の偽書「江源武鑑」に出てくる架空の人物
ただし「江源武鑑」では三成が義郷を讒言した理由について、家人同士が争って三成側に死者が出たからとしている
義郷の父である六角義秀は近江国守護であったが暗愚の将であったため近江の大方は攻め取られ、家臣にも所領が奪われ、義郷が相続したのは十八万石に過ぎなかった。
しかも石田三成の讒言により義郷が死罪になりそうだったのを、秀吉公により名族ということで領地没収のみで許された。
さて三成が義郷を讒言した理由だが、義郷の家人、多良尾彦六入道道賀というものの娘、おまんというものが有名な美人で義郷の妾となっていたのを
三成がうらやみ、道賀に頼んでおまんを所望したのを、主君の妾だとして道賀が断った結果、義郷を殺して妾を奪い取ろうと思うにいたったということだ。
義郷浪人後、おまんのことを聞きつけた関白秀次公はさっそく聚楽第に呼び込んでしまった。
三成は大いにあきれ、この上はと秀次公も讒言した結果、おまんはほかの三十余人の秀次公の女房たちと共に首を刎ねられてしまったということだ。
このように三成が多良尾の娘を取ろうと、罪なき義郷、秀次、および両家一族、幕下の諸将やその家族まで幾千万人も死罪、追放、流刑にしたためその怨念が石田にかえってきて
その身はもちろん、一族縁者家人までことごとく断絶し、末世にいたるまで大悪無道の名を残した、なんとあさましいことだろうか。
※六角義郷:六角氏の子孫を称した澤田源内の偽書「江源武鑑」に出てくる架空の人物
ただし「江源武鑑」では三成が義郷を讒言した理由について、家人同士が争って三成側に死者が出たからとしている
385人間七七四年
2022/03/07(月) 20:25:17.89ID:o+u3g8Om ついでに多良尾道賀(多羅尾光俊)はたしかに娘のおまんを秀次に側室として送り込んでいるが
六角氏没落時点で六角を見限って信長についている
また「江源武鑑」では義郷が秀次に連座した理由として、義郷の部下である鯰江権佐の娘のおこほ、が秀次の側室になっていたからとしていて微妙に違う
六角氏没落時点で六角を見限って信長についている
また「江源武鑑」では義郷が秀次に連座した理由として、義郷の部下である鯰江権佐の娘のおこほ、が秀次の側室になっていたからとしていて微妙に違う
386人間七七四年
2022/03/08(火) 16:59:38.37ID:5bTTo9MU >>383
>奥の兵
ところでこの表現なんだけど、過去まとめのこちらではこんな風に書かれてるんだが
奥州独特なのかな?
政宗の黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10342.html
>奥州武者(奥士)は馬上で槍をとって戦え
>奥武者の我が家は
他の地方でも同様の呼び方ってあったんだろうか
下野で下士とか備中で備武者とか
>奥の兵
ところでこの表現なんだけど、過去まとめのこちらではこんな風に書かれてるんだが
奥州独特なのかな?
政宗の黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10342.html
>奥州武者(奥士)は馬上で槍をとって戦え
>奥武者の我が家は
他の地方でも同様の呼び方ってあったんだろうか
下野で下士とか備中で備武者とか
387人間七七四年
2022/03/09(水) 12:47:50.32ID:1/ZuZ5BC 大浦五郎・六郎の兄弟(共に実名不詳、大浦為則の御実子)は陸奥藤崎城に在し為信公からの御信愛も厚かった。
天正13(1585)年の水無月の大暑の頃、兄弟は水浴びをしようと船で藤崎川に出たところ、故有って2人とも卒去してしまった。
為信公はお嘆きになり堪えきれず兄弟の守役と船の水主を御成敗されたという。
(津軽一統志)
津軽為信の義理の兄弟が水遊び中にどういうわけか死んでしまったという謎の話。
何があったのかは想像に難くないと思う。
天正13(1585)年の水無月の大暑の頃、兄弟は水浴びをしようと船で藤崎川に出たところ、故有って2人とも卒去してしまった。
為信公はお嘆きになり堪えきれず兄弟の守役と船の水主を御成敗されたという。
(津軽一統志)
津軽為信の義理の兄弟が水遊び中にどういうわけか死んでしまったという謎の話。
何があったのかは想像に難くないと思う。
388人間七七四年
2022/03/09(水) 12:57:26.68ID:x+DZIOFz 信愛厚い義理の兄弟を謀殺するとはと
北信愛も呆れ顔
北信愛も呆れ顔
390人間七七四年
2022/03/10(木) 22:22:51.55ID:rUMmCTVv 宇佐美「水遊び中に溺死とな?」
391人間七七四年
2022/03/10(木) 22:45:20.98ID:tM0qHdAv 宇喜多「わしのように泳げるやつはおらんのか」
392人間七七四年
2022/03/11(金) 00:07:40.90ID:uV3P/ENK 寒いんだよ、いい加減悟れよ
393人間七七四年
2022/03/11(金) 01:12:31.47ID:8pkJ0Zjl KY
394人間七七四年
2022/03/14(月) 13:54:55.47ID:LugW9j32 井戸忠右の家に伝わる話によると、井戸若狭守は明智光秀の親族であったという。
槇島城に在った時、明智はこのように言った
「それがし、思うことあり。その願が満たされるまでは、大国は与えない。小国を一つ参らせよう。」
これを若狭守も聞き咎めぬ顔で居たが、その後光秀は遂に謀反した。然ればこれは光秀が、昔から
その謀反を考えていたという事であり、一朝一夕の思いつきでは無かったという事なのだろう。
(紳書抄)
槇島城に在った時、明智はこのように言った
「それがし、思うことあり。その願が満たされるまでは、大国は与えない。小国を一つ参らせよう。」
これを若狭守も聞き咎めぬ顔で居たが、その後光秀は遂に謀反した。然ればこれは光秀が、昔から
その謀反を考えていたという事であり、一朝一夕の思いつきでは無かったという事なのだろう。
(紳書抄)
395人間七七四年
2022/03/16(水) 18:28:18.85ID:W5QHGRnF 「朝野雑載」から前田利長家臣、太田但馬守について
太田但馬守(長知)は土方勘兵衛(雄久)の弟であり、前田利長卿の家臣として高禄をうけ、山口宗永の大聖寺の城攻めには一方の侍大将もして活躍し、
丹羽長重との浅井縄手の合戦でも比類なき下知をくだし前田軍を指揮した。
あるとき、但馬は狐の子を捕らえてなぶり殺しにしたところ、母狐が但馬の部下に取り憑き
「但馬はとがなき我が子をなぶり殺しにする。
この怨念、いずかたへかゆくべき。近日かくのごとくにむくうべし」と言った。
利長卿がある夜、寵妾のもとへ通ったところ、忍んでいる男の影があり、みると太田但馬の姿であった。
利長卿はこの時以来但馬を憎んでいたところ、またある夜、寵妾のところに向かったところ但馬があらわれ、姿を消した。
そのためただちに横山山城守(長知)に命じて但馬を斬り殺させた。
なお但馬はその夜饗応に招かれ、酒宴に出席していたため寵妾のところに通えるはずもなく、
その上、深閨との間には番所も多くあり、その夜に人が通った形跡はなかったということだ。
後日よくよく尋ねたところ、かの母狐の仕業だということになった。
この但馬は性格が我儘で人をそしり、偏狭でおのが功績を人に自慢し、自己の利益を欲し、人の恨みを買うような人物であったけれども
知行二万五千石で第一の老臣だったために、表立って非難する人もいなかった。
結局のところ、不善の家には必ず餘殃があるという言葉の通り、最終的には不慮の災難に遭ったと言えよう。
青地礼幹「可観小説」にもある話らしい
太田但馬守(長知)は土方勘兵衛(雄久)の弟であり、前田利長卿の家臣として高禄をうけ、山口宗永の大聖寺の城攻めには一方の侍大将もして活躍し、
丹羽長重との浅井縄手の合戦でも比類なき下知をくだし前田軍を指揮した。
あるとき、但馬は狐の子を捕らえてなぶり殺しにしたところ、母狐が但馬の部下に取り憑き
「但馬はとがなき我が子をなぶり殺しにする。
この怨念、いずかたへかゆくべき。近日かくのごとくにむくうべし」と言った。
利長卿がある夜、寵妾のもとへ通ったところ、忍んでいる男の影があり、みると太田但馬の姿であった。
利長卿はこの時以来但馬を憎んでいたところ、またある夜、寵妾のところに向かったところ但馬があらわれ、姿を消した。
そのためただちに横山山城守(長知)に命じて但馬を斬り殺させた。
なお但馬はその夜饗応に招かれ、酒宴に出席していたため寵妾のところに通えるはずもなく、
その上、深閨との間には番所も多くあり、その夜に人が通った形跡はなかったということだ。
後日よくよく尋ねたところ、かの母狐の仕業だということになった。
この但馬は性格が我儘で人をそしり、偏狭でおのが功績を人に自慢し、自己の利益を欲し、人の恨みを買うような人物であったけれども
知行二万五千石で第一の老臣だったために、表立って非難する人もいなかった。
結局のところ、不善の家には必ず餘殃があるという言葉の通り、最終的には不慮の災難に遭ったと言えよう。
青地礼幹「可観小説」にもある話らしい
396人間七七四年
2022/03/16(水) 18:38:17.36ID:W5QHGRnF https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/kakan/kakan_70.pdf
金沢海みらい図書館のサイトで「可観小説」を確認したらほぼ同じ話だった
金沢海みらい図書館のサイトで「可観小説」を確認したらほぼ同じ話だった
397人間七七四年
2022/03/17(木) 18:07:38.72ID:JSQj1OF4 加藤清正の股肱の臣である庄林隼人(一心)、森本義太夫(一久)は共に直鑓を好んだ。
庄林は黒鳥毛を以て鞘とし、森本は白鳥毛を以て鞘とした。時の人は彼等を並び称して、これを
「黒鳥白鳥」と云った。
加藤清正が木山弾正の居城である天草城を攻めた時、森本は清正の前での軍議の序において、
「臣は小勇なれども、組討する事は壮力によりません。ただ心を剛にしてその術を知ること、
それだけです。」と申した。
清正は、森本の勇をたのむの気を抑えようとされたのか、「組討の勝敗は偶然である。必ずという
事はない。」とその言葉を制した。
その翌日、森本は衆を離れて敵と遭遇すると、彼は馬上の達者であったので、敵を横ざまに乗り倒し、
飛び下って忽ち首を掻き落とした。そして清正に「臣が言葉、違っていたか否か!」と申すと、
清正も感嘆したという。
朝鮮の役の時、流れ矢が森本の尻に当たった。庄林がそこを駆け過ぎようとしたのを森本は呼びかけた
「矢に当たって耐えられないほど痛い!この矢を抜いてくれ!」
庄林は立ち返ってこれを抜いた。すると森本は
「大いに快きかな!」
との言葉も言い終わらぬ間に自分の馬を引き寄せ騎乗し一鞭打って
「庄林殿、跡に続かれよ!」
と即座に駆けて一番に首を獲った。
(志士清談)
加藤家三傑とも言われた森本義太夫(一久)についてのお話
庄林は黒鳥毛を以て鞘とし、森本は白鳥毛を以て鞘とした。時の人は彼等を並び称して、これを
「黒鳥白鳥」と云った。
加藤清正が木山弾正の居城である天草城を攻めた時、森本は清正の前での軍議の序において、
「臣は小勇なれども、組討する事は壮力によりません。ただ心を剛にしてその術を知ること、
それだけです。」と申した。
清正は、森本の勇をたのむの気を抑えようとされたのか、「組討の勝敗は偶然である。必ずという
事はない。」とその言葉を制した。
その翌日、森本は衆を離れて敵と遭遇すると、彼は馬上の達者であったので、敵を横ざまに乗り倒し、
飛び下って忽ち首を掻き落とした。そして清正に「臣が言葉、違っていたか否か!」と申すと、
清正も感嘆したという。
朝鮮の役の時、流れ矢が森本の尻に当たった。庄林がそこを駆け過ぎようとしたのを森本は呼びかけた
「矢に当たって耐えられないほど痛い!この矢を抜いてくれ!」
庄林は立ち返ってこれを抜いた。すると森本は
「大いに快きかな!」
との言葉も言い終わらぬ間に自分の馬を引き寄せ騎乗し一鞭打って
「庄林殿、跡に続かれよ!」
と即座に駆けて一番に首を獲った。
(志士清談)
加藤家三傑とも言われた森本義太夫(一久)についてのお話
398人間七七四年
2022/03/17(木) 19:10:43.42ID:r/VwdZXg399人間七七四年
2022/03/18(金) 15:14:49.56ID:l73Nz6xM 青地礼幹「可観小説」から「芳斎青木新兵衛の事」前半部分
青木新兵衛(方斎入道)は方々へ渡り奉公をしていたが越前少将忠直卿に仕えた。
その経緯であるが、あるとき忠直卿の家臣、永見主膳が息子の着付けを三宿勘兵衛(御宿政友)に依頼した時、一座に居合わせた若い衆が武功咄を望んだ。
以下、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4376.html
「真の武士とは」
とほぼ同じ話で、これにより永見主膳に出入りしていた浪人の青木新兵衛が忠直卿に召し出されることとなった。
なお「真の武士とは」では
永見主膳→狛伊勢守、三宿勘兵衛→阿閉掃部
と名前が違っており、
室鳩巣「駿台雑話」の「阿閉掃部」やそれを出典としたと思われる、
神沢杜口「翁草」の「阿閉掃部(注釈では阿閉貞征の息子)」では、「真の武士とは」と両者の名前が同じであるが
主題である「真の武士」という言葉が出てこないので、ほかの出典があるのだろうか。
青木新兵衛(方斎入道)は方々へ渡り奉公をしていたが越前少将忠直卿に仕えた。
その経緯であるが、あるとき忠直卿の家臣、永見主膳が息子の着付けを三宿勘兵衛(御宿政友)に依頼した時、一座に居合わせた若い衆が武功咄を望んだ。
以下、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4376.html
「真の武士とは」
とほぼ同じ話で、これにより永見主膳に出入りしていた浪人の青木新兵衛が忠直卿に召し出されることとなった。
なお「真の武士とは」では
永見主膳→狛伊勢守、三宿勘兵衛→阿閉掃部
と名前が違っており、
室鳩巣「駿台雑話」の「阿閉掃部」やそれを出典としたと思われる、
神沢杜口「翁草」の「阿閉掃部(注釈では阿閉貞征の息子)」では、「真の武士とは」と両者の名前が同じであるが
主題である「真の武士」という言葉が出てこないので、ほかの出典があるのだろうか。
400人間七七四年
2022/03/18(金) 15:20:32.17ID:l73Nz6xM 青地礼幹は室鳩巣の弟子であり、師弟で同じ話を書いておきながら両者の名前が違う理由は不明。
青地は加賀藩士であり、青木新兵衛も最後は前田利常に仕えているため、師の間違いを青地が正したのかもしれない。
(「可観小説」では「駿台雑話」評や室鳩巣逝去についても書かれている)
また「翁草」には
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13192.html
中々鬼にて御座候
の、伊達政宗が青木新兵衛の松川での戦いぶりを褒めたところ、
帰邸後、秀康が永井善左衛門と取り違えて永井を褒め、永井が「それは青木新兵衛です」と訂正し
秀康が「まあどっちも我が家人なのだから強く穿鑿には及ばない」とごまかした話もあり、
この時点で青木新兵衛が秀康から認識されていたのなら忠直の時に無名だったのはおかしい気もする
青地は加賀藩士であり、青木新兵衛も最後は前田利常に仕えているため、師の間違いを青地が正したのかもしれない。
(「可観小説」では「駿台雑話」評や室鳩巣逝去についても書かれている)
また「翁草」には
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13192.html
中々鬼にて御座候
の、伊達政宗が青木新兵衛の松川での戦いぶりを褒めたところ、
帰邸後、秀康が永井善左衛門と取り違えて永井を褒め、永井が「それは青木新兵衛です」と訂正し
秀康が「まあどっちも我が家人なのだから強く穿鑿には及ばない」とごまかした話もあり、
この時点で青木新兵衛が秀康から認識されていたのなら忠直の時に無名だったのはおかしい気もする
401人間七七四年
2022/03/18(金) 15:23:29.67ID:l73Nz6xM ついでに山鹿素行「山鹿語類」の「士談五 剛操」には
青木新兵衛が越前で青木紀伊守(青木一矩)に仕えていたころ、同輩の荻野河内のところで寄り合いがあり
その席で武功話をせがまれた新兵衛が、賤ヶ岳の戦いにおける余呉の湖畔での戦いで、立派な前立ての武者と槍合わせをし、
新兵衛が槍をついたところ武者が退いた、という話をしたところ
亭主の河内が「それはそれがしなり。法斎(新兵衛)の具足や指物はこのようなもので、また胴には槍跡がなかっただろうか?」
と尋ねたところその通りだったため、
河内「よい時分におおせられて満足だ、しかしそれがしは槍でつかれもせず、退きもしなかった、
それだけははっきりと言っておこう!」
新兵衛「いや、たしかに某がついて、そなたは退いた!」
と双方引かず、すっかりみんなの興が醒めたところで、河内の十七になる子供が出てきて
「推参ではありますが申し上げます。そもそも殿軍の折ですから双方とも一騎討ちをなさったわけではなく、
それぞれ味方の軍からあまり離れないように戦ったわけですから、一歩、二歩退いたかどうかで言い争っても無意味でしょう。
そのようなことで議論なさるのは、御両人には似つかわしくないと思います」
と言ったところ、新兵衛も大いに感じて穿鑿をやめ、座中も感じて興を催したということだ。
という主君が忠直ではなく青木一矩で、組み合わせた相手も荻野河内と違うが、似た話がある
時代的には山鹿素行の方が古いが、もしこちらが元の話だとすると、青木新兵衛にとってはあまりかっこうのよくない話になる。
青木新兵衛が越前で青木紀伊守(青木一矩)に仕えていたころ、同輩の荻野河内のところで寄り合いがあり
その席で武功話をせがまれた新兵衛が、賤ヶ岳の戦いにおける余呉の湖畔での戦いで、立派な前立ての武者と槍合わせをし、
新兵衛が槍をついたところ武者が退いた、という話をしたところ
亭主の河内が「それはそれがしなり。法斎(新兵衛)の具足や指物はこのようなもので、また胴には槍跡がなかっただろうか?」
と尋ねたところその通りだったため、
河内「よい時分におおせられて満足だ、しかしそれがしは槍でつかれもせず、退きもしなかった、
それだけははっきりと言っておこう!」
新兵衛「いや、たしかに某がついて、そなたは退いた!」
と双方引かず、すっかりみんなの興が醒めたところで、河内の十七になる子供が出てきて
「推参ではありますが申し上げます。そもそも殿軍の折ですから双方とも一騎討ちをなさったわけではなく、
それぞれ味方の軍からあまり離れないように戦ったわけですから、一歩、二歩退いたかどうかで言い争っても無意味でしょう。
そのようなことで議論なさるのは、御両人には似つかわしくないと思います」
と言ったところ、新兵衛も大いに感じて穿鑿をやめ、座中も感じて興を催したということだ。
という主君が忠直ではなく青木一矩で、組み合わせた相手も荻野河内と違うが、似た話がある
時代的には山鹿素行の方が古いが、もしこちらが元の話だとすると、青木新兵衛にとってはあまりかっこうのよくない話になる。
402人間七七四年
2022/03/18(金) 16:21:39.98ID:Nc2Sr3bk それ河内の息子のいい話だな
403人間七七四年
2022/03/18(金) 20:07:44.51ID:WPcSNcPa 新書太閤記に同じ話あるんだけど、吉川英治の創作だと思ってたわ
「さてさて、御老人たちは、戦場からお残り遊ばした余生を、恥よとも、勿体ないとも、思し召さず、よくもまあ、退いた退かぬなどと、愚かな喧嘩がおできになりますな。
こうして、寄合い振舞いなどのできるのも、誰のためと思し召すか。
五十年来打ち続いた合戦に、どれほどな武者輩が白骨となったでしょう。
思えば、その方々へ、蔭膳の礼もせずに、今日、一杯の酒とて、飲めた義理ではござりますまいに」
「さてさて、御老人たちは、戦場からお残り遊ばした余生を、恥よとも、勿体ないとも、思し召さず、よくもまあ、退いた退かぬなどと、愚かな喧嘩がおできになりますな。
こうして、寄合い振舞いなどのできるのも、誰のためと思し召すか。
五十年来打ち続いた合戦に、どれほどな武者輩が白骨となったでしょう。
思えば、その方々へ、蔭膳の礼もせずに、今日、一杯の酒とて、飲めた義理ではござりますまいに」
404人間七七四年
2022/03/19(土) 09:41:17.42ID:yvHy8Bac 「可観小説」から「芳斎青木新兵衛の事」後半部分
岡部自休入道は忠直卿の時に町方・郡方・公事方様々の奉行を兼役し出世頭であった。
自休の領地の百姓の女が布施但馬の領地の百姓に嫁ぎ、夫の方は佐渡の方へ用事で行った。
三年たっても音沙汰がなかったため、妻は近所の男と再婚し子供を産んだ。
その後、先夫が佐渡から帰り、妻のことを知り代官所に訴えた。
自休は郡方奉行であったが、「今は待て」と言ったきり判決も下さず年が暮れてしまった。
翌年、舅の方が現在の婿を一族ともども招いたところ布施但馬はこれを知り、自分のところの百姓を侮辱されたと思い
夜中に舅の家の周りに焼き草を積ませて、火を放って一人も残らず殺してしまった。
忠直卿はこれを聞いてお怒りなさり、「この件について訴人あらば黄金十五枚をとらす」と立て札をあちこちに立てた。
この時、但馬の家来の中野長兵衛というもの、かねてから但馬に恨みがあったため、訴人となって恨みを晴らそうと思い、妻に話した。
妻は長兵衛に異見をしたが、長兵衛は聞き入れず自休の方へ向かった。
妻の方は、主君を訴えるのは不義であり、このままでは罪なき子供まで殺されると思い、但馬に夫のことを打ち明け、子供の助命を嘆願した。
こうして長兵衛は但馬に捕らえられ、座敷に押し込められたが、調略を使って夜中に抜け出し、塀を越えた。
そのまま近くの牧野主殿宅に逃げ込んだが、牧野の舅である竹島周防により殺されてしまった。
岡部自休入道は忠直卿の時に町方・郡方・公事方様々の奉行を兼役し出世頭であった。
自休の領地の百姓の女が布施但馬の領地の百姓に嫁ぎ、夫の方は佐渡の方へ用事で行った。
三年たっても音沙汰がなかったため、妻は近所の男と再婚し子供を産んだ。
その後、先夫が佐渡から帰り、妻のことを知り代官所に訴えた。
自休は郡方奉行であったが、「今は待て」と言ったきり判決も下さず年が暮れてしまった。
翌年、舅の方が現在の婿を一族ともども招いたところ布施但馬はこれを知り、自分のところの百姓を侮辱されたと思い
夜中に舅の家の周りに焼き草を積ませて、火を放って一人も残らず殺してしまった。
忠直卿はこれを聞いてお怒りなさり、「この件について訴人あらば黄金十五枚をとらす」と立て札をあちこちに立てた。
この時、但馬の家来の中野長兵衛というもの、かねてから但馬に恨みがあったため、訴人となって恨みを晴らそうと思い、妻に話した。
妻は長兵衛に異見をしたが、長兵衛は聞き入れず自休の方へ向かった。
妻の方は、主君を訴えるのは不義であり、このままでは罪なき子供まで殺されると思い、但馬に夫のことを打ち明け、子供の助命を嘆願した。
こうして長兵衛は但馬に捕らえられ、座敷に押し込められたが、調略を使って夜中に抜け出し、塀を越えた。
そのまま近くの牧野主殿宅に逃げ込んだが、牧野の舅である竹島周防により殺されてしまった。
405人間七七四年
2022/03/19(土) 09:42:56.99ID:yvHy8Bac この趣旨を聞いた忠直卿は激怒なさり、とうとう布施但馬は自殺した(原文では「事長き故略す」としている)。
このことが駿府に聞こえ、家康公は激怒なさり、ことの発端の自休の進退も極まった(切腹?)。
また周防は訴人を殺したということで但馬の一味とみなされ、駿府において詮議されることとなった。
こうして青木新兵衛に周防の護送の任務が与えられたが、新兵衛は越前府中から三里いったところで
「上意とはいえ、お歴々の方に縄をかけるのは忍びませんので」と縄をほどき、そのまま駿府に連行した。
駿府での吟味に際し、周防は
「但馬は黄門秀康公取り立てのもので、すぐれたる武功も多く、しかも国政を知るものであり、百姓千万人にも替えがたい逸材でした。
もし長兵衛が存命であれば、但馬は処せられたでしょう。
かといって長兵衛は忠直卿に忠義立ていたしたということで殺す名分もありません。
そのため私の粗忽ということにして、長兵衛の首を刎ねたというわけです」
と申し上げ、これを聞かれた家康公は「周防の申すこといちいちもっともである」と赦免された。
このころ、青木を諸人は褒めたという。
新兵衛はのちに加賀藩の前田利常公に奉公して方斎と号したということだ。
また太閤記によれば、小田原の陣の山中城陥落の折、大母衣をかけた武者が搦手から討ち入り、武将の首をとり、太閤の御本陣へ参った。
太閤御覧ありて幸先がよいと金銭を賜ったとあるが、これが青木新兵衛という名だったそうだ。
このことが駿府に聞こえ、家康公は激怒なさり、ことの発端の自休の進退も極まった(切腹?)。
また周防は訴人を殺したということで但馬の一味とみなされ、駿府において詮議されることとなった。
こうして青木新兵衛に周防の護送の任務が与えられたが、新兵衛は越前府中から三里いったところで
「上意とはいえ、お歴々の方に縄をかけるのは忍びませんので」と縄をほどき、そのまま駿府に連行した。
駿府での吟味に際し、周防は
「但馬は黄門秀康公取り立てのもので、すぐれたる武功も多く、しかも国政を知るものであり、百姓千万人にも替えがたい逸材でした。
もし長兵衛が存命であれば、但馬は処せられたでしょう。
かといって長兵衛は忠直卿に忠義立ていたしたということで殺す名分もありません。
そのため私の粗忽ということにして、長兵衛の首を刎ねたというわけです」
と申し上げ、これを聞かれた家康公は「周防の申すこといちいちもっともである」と赦免された。
このころ、青木を諸人は褒めたという。
新兵衛はのちに加賀藩の前田利常公に奉公して方斎と号したということだ。
また太閤記によれば、小田原の陣の山中城陥落の折、大母衣をかけた武者が搦手から討ち入り、武将の首をとり、太閤の御本陣へ参った。
太閤御覧ありて幸先がよいと金銭を賜ったとあるが、これが青木新兵衛という名だったそうだ。
406人間七七四年
2022/03/19(土) 09:49:41.65ID:yvHy8Bac というわけで百姓夫婦のいざこざが不手際のために、どんどんおおごとになってしまった話。
布施但馬の死については
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6823.html
徳川家康「その道存とは誰だ」
にも書かれているが、上の話で秀康に青木新兵衛と間違われた永井善左衛門などが暗殺したことになっている。
しかも冤罪扱いで家康は但馬を是としているようだ。
布施但馬の死については
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6823.html
徳川家康「その道存とは誰だ」
にも書かれているが、上の話で秀康に青木新兵衛と間違われた永井善左衛門などが暗殺したことになっている。
しかも冤罪扱いで家康は但馬を是としているようだ。
407人間七七四年
2022/03/19(土) 09:53:22.07ID:yvHy8Bac https://ja.m.wikipedia.org/wiki/越前騒動
wikiみたら思ったより大きな騒動だった
wikiみたら思ったより大きな騒動だった
408人間七七四年
2022/03/22(火) 12:13:02.25ID:uwizcW1I 三好左京大夫(義継)が将軍(足利)義輝公を討ち、その祝言の連歌をしようと連衆を集め、
里村紹巴、里村心前、灰屋紹由などが参った。座を定めて、三好殿が「発句をしたぞ」と申され、
そして句を出すと
『しやくとして しかもろとある木の上に くうくうとおなきやるハ八幡殿の御使か、
やら目出度やな』
とされた。満座興を覚ましていたが、三好殿が申すには
「”しゃく”はろの木、”くうくう”は鳩なり。」と申した。
その後色々有って百韻は終わった。
その後、織田信長公上洛の時、御咄のついでに、この発句の事を里村紹巴が御咄申した。
信長公はこれを笑われると思っていたのだが、御返事もなされず、無興にして座を立たれた。
紹巴も、どうして御意に入らなかったのだろうかと思いながら退出した。
信長公はすぐに森三左衛門(可成)を召して「先程の発句の物語を聞いたか」と仰せになった。
森が「承り候」と申すと、信長公は仰せになった
「三好が是程のうつけでは、天下を取るような事はできない。これを案ずるに、松永弾正(久秀)は
天下への望みが有って、先ず三好に将軍を討たせ、しかし三好はうつけであり、天下の支配は成らない、
その時天下を取るべしと考えている佞人なのだろう。
幸いに松永は出仕して在京しているのだから、これを早々に討つべし!」
森三左衛門は承ると
「仰せ、尤もであります。さりながら御上洛早々に、最初に出仕つかまつった松永を誅殺すれば、
今後味方に参る大名は無くなってしまうでしょう。ですので、重ねての事に遊ばされるべきです。
松永弾正は佞人なのですから、次第に悪逆を顕すでしょう。その節に成敗遊ばすべきです。」
と申したため、その時は松永安穏となった。
これは先の三好殿連歌の時の連衆の中に在った、灰屋紹由の咄だという。
(川上久国雑話)
里村紹巴、里村心前、灰屋紹由などが参った。座を定めて、三好殿が「発句をしたぞ」と申され、
そして句を出すと
『しやくとして しかもろとある木の上に くうくうとおなきやるハ八幡殿の御使か、
やら目出度やな』
とされた。満座興を覚ましていたが、三好殿が申すには
「”しゃく”はろの木、”くうくう”は鳩なり。」と申した。
その後色々有って百韻は終わった。
その後、織田信長公上洛の時、御咄のついでに、この発句の事を里村紹巴が御咄申した。
信長公はこれを笑われると思っていたのだが、御返事もなされず、無興にして座を立たれた。
紹巴も、どうして御意に入らなかったのだろうかと思いながら退出した。
信長公はすぐに森三左衛門(可成)を召して「先程の発句の物語を聞いたか」と仰せになった。
森が「承り候」と申すと、信長公は仰せになった
「三好が是程のうつけでは、天下を取るような事はできない。これを案ずるに、松永弾正(久秀)は
天下への望みが有って、先ず三好に将軍を討たせ、しかし三好はうつけであり、天下の支配は成らない、
その時天下を取るべしと考えている佞人なのだろう。
幸いに松永は出仕して在京しているのだから、これを早々に討つべし!」
森三左衛門は承ると
「仰せ、尤もであります。さりながら御上洛早々に、最初に出仕つかまつった松永を誅殺すれば、
今後味方に参る大名は無くなってしまうでしょう。ですので、重ねての事に遊ばされるべきです。
松永弾正は佞人なのですから、次第に悪逆を顕すでしょう。その節に成敗遊ばすべきです。」
と申したため、その時は松永安穏となった。
これは先の三好殿連歌の時の連衆の中に在った、灰屋紹由の咄だという。
(川上久国雑話)
409人間七七四年
2022/03/22(火) 12:38:23.11ID:713ehzU1 「翁草」巻二十九から「信長公、松永久秀を励まされし事」
松永弾正久秀は三好長慶に仕えて右筆たり、経上りて長臣となる。
信長、久秀と善し。ある時信長久秀に対して
信長「御辺は智勇の士なり。恨まらくば一つの疵あり」と。
久秀そのところを問う。信長いわず。
久秀しきりに問う。さらば無人所にていわんとて、潜なるところに呼びよせて
信長「御辺、大身になる道にくらし」となり。
ここより久秀異心を生じてついに三好家を滅せしという。
松永弾正久秀は三好長慶に仕えて右筆たり、経上りて長臣となる。
信長、久秀と善し。ある時信長久秀に対して
信長「御辺は智勇の士なり。恨まらくば一つの疵あり」と。
久秀そのところを問う。信長いわず。
久秀しきりに問う。さらば無人所にていわんとて、潜なるところに呼びよせて
信長「御辺、大身になる道にくらし」となり。
ここより久秀異心を生じてついに三好家を滅せしという。
410人間七七四年
2022/03/22(火) 13:10:30.51ID:szCojPnS この頃にはもう奸臣松永久秀像が出来上がっていたと
411人間七七四年
2022/03/22(火) 14:02:32.05ID:OkHuMmoM 里村紹巴、「時は今」の歌会にもいるし小説の主人公行けそうだよな
412人間七七四年
2022/03/22(火) 18:52:37.48ID:9LYGOP2z つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11941.html
まとめ過去で「可観小説」関連だと、「花の慶次」のこれですかw
近年だと竹島一件についての伝聞も注目されてるとか。
戦国関連だと、青地礼幹は家老本多家の一族ですね。
本多政重と直江兼続養女(大国実頼娘)の間に生まれた長男政次は母方の樋口姓を名乗り京に住まいしていたそうですが、
本多家を継ぐのに直江本家断絶後で後ろ盾がなくなった遠慮のようなものがあったのではないかとの推測があるとのこと。
子の樋口朝政は祖父に似た豪胆な人物だったそうですが、その子の定政が青地家に養子入りし、礼幹兄弟の父です。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11941.html
まとめ過去で「可観小説」関連だと、「花の慶次」のこれですかw
近年だと竹島一件についての伝聞も注目されてるとか。
戦国関連だと、青地礼幹は家老本多家の一族ですね。
本多政重と直江兼続養女(大国実頼娘)の間に生まれた長男政次は母方の樋口姓を名乗り京に住まいしていたそうですが、
本多家を継ぐのに直江本家断絶後で後ろ盾がなくなった遠慮のようなものがあったのではないかとの推測があるとのこと。
子の樋口朝政は祖父に似た豪胆な人物だったそうですが、その子の定政が青地家に養子入りし、礼幹兄弟の父です。
413人間七七四年
2022/03/23(水) 11:11:40.99ID:7PYVe/vM 今まで何度か出ている館林城の狐の話を朝野雑載から(時代的には微妙)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-144.html
赤井照光と狐と館林築城・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2278.html
狐の城再び
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12250.html
館林城と決定命婦荒御前
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12371.html
館林城の築城由来
大坂の陣で活躍し、老中にまで昇った松平和泉守乗寿(大給松平家第七代)が館林城を拝領し、城中八幡宮を参詣したところ、
案内に召し連れていた商家の老翁たちが
「先例として、館林の城主となる方は、まず八幡宮に参詣し、次に曲輪の稲荷に参詣した後、ほかのところを御覧あることとなっております」と申した。
和泉守は笑って「城主たるものが稲荷に参詣すべきことがあろうか。
稲荷は元々畜生で、我は人間、しかも大名で位階も高い、参る必要などあるまい」と言うと
老翁たちは「稲荷は畜生ではなく本地は弁財天貴狐天王と号し、垂迹は宇賀神と称す福神です、参詣なさってください」
と諌めたが和泉守は聞き入れず城中の他の部分を巡見して帰った。
そこへ江戸から飛脚がきて、松平伊豆守(信綱)、阿部豊後守(忠秋)、阿部対馬守(重次)の三老中連署で、
大納言様(家綱公)が痘瘡(天然痘)のようなのですぐ江戸に参府するように、とのだったので、和泉守は急いでその夜の亥の刻に早駕籠で館林を立ち江戸に向かった。
翌日には板橋に到着し、使者三人を三老中につかわし
「連署で大納言様の痘瘡についての書状が来たのでただいま板橋に到着いたしました、先に使者を遣わします」と報告させた。
三人の老中は登城の支度をしていたところでこの口上を聞き、
「大納言様は御快勝であり、連署の書状を遣わした覚えもない。館林にお帰りあれ」
と異口同音に使者たちに伝えた。
驚いた使者たちは主人にしかじかと伝え、乗寿は三老中連署の書状を確認したところ、白紙であった。
乗寿は、これはおそらく稲荷の仕業だろうと憤ったが、しかたなく館林城に帰った。
付記:松平乗寿は翌年、この尾曳稲荷神社の社殿の修築をしているようだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-144.html
赤井照光と狐と館林築城・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2278.html
狐の城再び
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12250.html
館林城と決定命婦荒御前
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12371.html
館林城の築城由来
大坂の陣で活躍し、老中にまで昇った松平和泉守乗寿(大給松平家第七代)が館林城を拝領し、城中八幡宮を参詣したところ、
案内に召し連れていた商家の老翁たちが
「先例として、館林の城主となる方は、まず八幡宮に参詣し、次に曲輪の稲荷に参詣した後、ほかのところを御覧あることとなっております」と申した。
和泉守は笑って「城主たるものが稲荷に参詣すべきことがあろうか。
稲荷は元々畜生で、我は人間、しかも大名で位階も高い、参る必要などあるまい」と言うと
老翁たちは「稲荷は畜生ではなく本地は弁財天貴狐天王と号し、垂迹は宇賀神と称す福神です、参詣なさってください」
と諌めたが和泉守は聞き入れず城中の他の部分を巡見して帰った。
そこへ江戸から飛脚がきて、松平伊豆守(信綱)、阿部豊後守(忠秋)、阿部対馬守(重次)の三老中連署で、
大納言様(家綱公)が痘瘡(天然痘)のようなのですぐ江戸に参府するように、とのだったので、和泉守は急いでその夜の亥の刻に早駕籠で館林を立ち江戸に向かった。
翌日には板橋に到着し、使者三人を三老中につかわし
「連署で大納言様の痘瘡についての書状が来たのでただいま板橋に到着いたしました、先に使者を遣わします」と報告させた。
三人の老中は登城の支度をしていたところでこの口上を聞き、
「大納言様は御快勝であり、連署の書状を遣わした覚えもない。館林にお帰りあれ」
と異口同音に使者たちに伝えた。
驚いた使者たちは主人にしかじかと伝え、乗寿は三老中連署の書状を確認したところ、白紙であった。
乗寿は、これはおそらく稲荷の仕業だろうと憤ったが、しかたなく館林城に帰った。
付記:松平乗寿は翌年、この尾曳稲荷神社の社殿の修築をしているようだ。
414人間七七四年
2022/03/24(木) 18:15:19.00ID:Uytfi1gh 「朝野雑載」より林田内膳(左門)と女幽霊
林田内膳は富田清現(勢源)の弟子であり、黒田長政の剣術の師範であった。
(以下今まで出た林田左門関連)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3278.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8750.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9402.html
しかし長政公に不足を感じ、福岡を立ち退き、細川家を頼って関東に赴こうとしたのが発覚し、激怒した長政により誅殺されることとなった。
そこで怪力の大男(ともに六尺三寸)後藤金右衛門、林仁左衛門の両人に左門をからめとるよう言い渡した。
両人は左門が自室に入ったところに押し入り、外から錠をおろさせ、左門と格闘したが、後藤・林が先に精魂尽き果ててしまった。
左門は「ここでこの二人を殺したところで、自分は外の者たちに捕まるのだから、無益な殺生をするだけだ」と思い正座し、両人に絡め取らせた。
そのとき左門は「ふだんこのような時のために懐中に大楊枝を忍ばせていたのだが、今日は見つからない。
もしあれば両人の命はなかっただろう」と言った。
その後、服を着替える時、どこからかその大楊枝が落ちたということだ。
こうして左門は宝満山の麓で籠居の身となり、外から槍で突き殺されたという。
死ぬ時の様子は不明だが、おそらく天下に名高い兵術の名人のため、世間の評判をはばかって密々に殺したのだろう。
元禄六七年の頃であろう。
林田内膳は富田清現(勢源)の弟子であり、黒田長政の剣術の師範であった。
(以下今まで出た林田左門関連)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3278.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8750.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9402.html
しかし長政公に不足を感じ、福岡を立ち退き、細川家を頼って関東に赴こうとしたのが発覚し、激怒した長政により誅殺されることとなった。
そこで怪力の大男(ともに六尺三寸)後藤金右衛門、林仁左衛門の両人に左門をからめとるよう言い渡した。
両人は左門が自室に入ったところに押し入り、外から錠をおろさせ、左門と格闘したが、後藤・林が先に精魂尽き果ててしまった。
左門は「ここでこの二人を殺したところで、自分は外の者たちに捕まるのだから、無益な殺生をするだけだ」と思い正座し、両人に絡め取らせた。
そのとき左門は「ふだんこのような時のために懐中に大楊枝を忍ばせていたのだが、今日は見つからない。
もしあれば両人の命はなかっただろう」と言った。
その後、服を着替える時、どこからかその大楊枝が落ちたということだ。
こうして左門は宝満山の麓で籠居の身となり、外から槍で突き殺されたという。
死ぬ時の様子は不明だが、おそらく天下に名高い兵術の名人のため、世間の評判をはばかって密々に殺したのだろう。
元禄六七年の頃であろう。
415人間七七四年
2022/03/24(木) 18:18:51.63ID:Uytfi1gh さて、左門が誅殺される少し前、長政のお供で江戸から伏見に参着した。
左門は京で用事があったため、伏見にいた親しい友を呼びよせ、饗応し泊まらせた。
丑の刻に障子を開ける者がいたため、友が目覚めて見てみると、十六くらいの美女が左門が寝ている姿をしばらく見つめ、また障子を閉めて帰っていった。
友「左門は一生不犯の誓いを立ててると言っていたのに、歳をとると未練が出てきたとみえる。
邪魔をしては悪いからさっさと帰ろう」
と思い、翌朝、左門にすぐ帰ると告げた。
左門「なぜそう帰るのを急がれるのだ?今夜も泊まったらいいだろう」
友は不審に思いながらも昨夜のことを伝え、今夜はその女と楽しんだらよかろうと言ったところ、
左門は笑って「一生不犯の誓いはまだ守っておる。
あの幽霊は近ごろ深夜になると必ず出るのだ。おそらく我が身がほろぶ前兆であろう。
実は昔、武者修行をしていたおり、ある里にしばらくとどまっていたところ、そこの家の娘で美人で気立の良いものがおった。
わしの男ぶりに執着し、床に入ってきおった。
一生不犯の誓いを立てておるのだ、と言って優しく追い返したのだがわずらわしいため、朝になるとこっそり里を出た。
そうすると昼になって女が追いついてきて、泣きながら袖に縋りついてきた。
そこでわしは言った。
「仕方あるまい、今夜だけそなたのために誓いを破ろう。そなたもそれで満足をしてくれ」
女は道理をわきまえたようで
「仰せの通り、武者修行の先々に参るわけにもいきません。
今宵、どこかで一泊し、わたくしの胸のくもりを晴らしてくだされば、明日必ず里に帰ります」
そして二人で近くの里にむけて歩いたのだが、そっと女を先に行かせて、後ろから抜き打ちに斬り殺したというわけだ。
それ以来その女の顔が常に頭から離れぬ」
この話は、左門が特に親しい友にだけ語っていたという。
筆者(貝原益軒)「左門も、伏見ですでに身の滅びる予兆があったのであれば、身を慎めば命を長らえたであろうに。
それにしてもその女幽霊だが、左門に殺されていながらもなお、左門の運命があやういことを知らせるとは、なんとやさしい心がけではないか」
左門は京で用事があったため、伏見にいた親しい友を呼びよせ、饗応し泊まらせた。
丑の刻に障子を開ける者がいたため、友が目覚めて見てみると、十六くらいの美女が左門が寝ている姿をしばらく見つめ、また障子を閉めて帰っていった。
友「左門は一生不犯の誓いを立ててると言っていたのに、歳をとると未練が出てきたとみえる。
邪魔をしては悪いからさっさと帰ろう」
と思い、翌朝、左門にすぐ帰ると告げた。
左門「なぜそう帰るのを急がれるのだ?今夜も泊まったらいいだろう」
友は不審に思いながらも昨夜のことを伝え、今夜はその女と楽しんだらよかろうと言ったところ、
左門は笑って「一生不犯の誓いはまだ守っておる。
あの幽霊は近ごろ深夜になると必ず出るのだ。おそらく我が身がほろぶ前兆であろう。
実は昔、武者修行をしていたおり、ある里にしばらくとどまっていたところ、そこの家の娘で美人で気立の良いものがおった。
わしの男ぶりに執着し、床に入ってきおった。
一生不犯の誓いを立てておるのだ、と言って優しく追い返したのだがわずらわしいため、朝になるとこっそり里を出た。
そうすると昼になって女が追いついてきて、泣きながら袖に縋りついてきた。
そこでわしは言った。
「仕方あるまい、今夜だけそなたのために誓いを破ろう。そなたもそれで満足をしてくれ」
女は道理をわきまえたようで
「仰せの通り、武者修行の先々に参るわけにもいきません。
今宵、どこかで一泊し、わたくしの胸のくもりを晴らしてくだされば、明日必ず里に帰ります」
そして二人で近くの里にむけて歩いたのだが、そっと女を先に行かせて、後ろから抜き打ちに斬り殺したというわけだ。
それ以来その女の顔が常に頭から離れぬ」
この話は、左門が特に親しい友にだけ語っていたという。
筆者(貝原益軒)「左門も、伏見ですでに身の滅びる予兆があったのであれば、身を慎めば命を長らえたであろうに。
それにしてもその女幽霊だが、左門に殺されていながらもなお、左門の運命があやういことを知らせるとは、なんとやさしい心がけではないか」
416人間七七四年
2022/03/24(木) 18:51:48.81ID:79rqJTsI メンヘラっぽい女性切ったらさすがに後味悪かったのかずっと脳裏にこびりついたと
大楊枝ってのはどのくらいの大きさの楊枝だったんだろか
大楊枝ってのはどのくらいの大きさの楊枝だったんだろか
417人間七七四年
2022/03/24(木) 22:44:06.44ID:jriH98ln 木枯し紋次郎のくらいかも
418人間七七四年
2022/03/29(火) 13:54:38.43ID:FlGFlp8J 鹿塩石人「宇都宮釣天井漫記」の宇都宮釣り天井事件についての伝承の孫引き
鎮房が御客の座にチイーチかる。
お酒やる、御馳走が出チー、大分酔いがまわっちかる。
突然天井が墜ちて来たゲナ。仕掛ちやる綱が切れたんで、押し潰されるかつ思ふたら、ごうな力ン強い男ぢゃったき、そりユ両方の手で受けた。
そうすると隣リン室に居った松田小吉チウ豪傑ーー今ゼン村に居る松田勇吉やんの先祖ジ御座りやする。
その小吉が飛込んぢ入っち、鎮房ン身を護り近づくもんヌ十八人も切りまくった。
黒田の奴む、これにゃ困ってどうすることも出来ンかる、仕様ぐネーかる、床ドンに廻っち、短クエ柄ン槍ぜ、下ン方かるつき上ち、刺したもんぢゃき、とーとー殿様む、力がつきて天井ン下になっち死んぢしもうた。
以上、上城井村寒田出身の中野氏が語った伝承だそうな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3689.html
黒田長政の愛刀もなかなか
この713の語ってる伝説と同一だと思われる。
鎮房信仰が高まるにつれて、その場に居合わせた小姓の松田小吉(左馬介)についても活躍の伝承が生まれていったらしい
鎮房が御客の座にチイーチかる。
お酒やる、御馳走が出チー、大分酔いがまわっちかる。
突然天井が墜ちて来たゲナ。仕掛ちやる綱が切れたんで、押し潰されるかつ思ふたら、ごうな力ン強い男ぢゃったき、そりユ両方の手で受けた。
そうすると隣リン室に居った松田小吉チウ豪傑ーー今ゼン村に居る松田勇吉やんの先祖ジ御座りやする。
その小吉が飛込んぢ入っち、鎮房ン身を護り近づくもんヌ十八人も切りまくった。
黒田の奴む、これにゃ困ってどうすることも出来ンかる、仕様ぐネーかる、床ドンに廻っち、短クエ柄ン槍ぜ、下ン方かるつき上ち、刺したもんぢゃき、とーとー殿様む、力がつきて天井ン下になっち死んぢしもうた。
以上、上城井村寒田出身の中野氏が語った伝承だそうな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3689.html
黒田長政の愛刀もなかなか
この713の語ってる伝説と同一だと思われる。
鎮房信仰が高まるにつれて、その場に居合わせた小姓の松田小吉(左馬介)についても活躍の伝承が生まれていったらしい
419人間七七四年
2022/03/29(火) 14:02:15.41ID:w0D03uOM 宇都宮釣り天井事件じゃなくて
城井(宇都宮)鎮房謀殺事件じゃないか
というお叱りがあるこもしれないけど、そこは一足早いエイプリルフールということで
城井(宇都宮)鎮房謀殺事件じゃないか
というお叱りがあるこもしれないけど、そこは一足早いエイプリルフールということで
420人間七七四年
2022/03/29(火) 15:50:55.61ID:8usFSfld ??
421人間七七四年
2022/03/30(水) 20:10:56.12ID:Uvu0HEdg 会津宰相(蒲生)氏郷は朝鮮征伐の頃、肥前名護屋に於いて下血を患い、諸医技を既に尽くしたが、堺の宗叔が
いよいよこれを治した。私(曲直瀬玄朔)はその時、朝鮮まで従って帰り、上洛した。その後、翌年の
秋に法眼(曲直瀬)正純が語ったところによると、氏郷に宗叔は養生葯(薬)を進上したという。この時私は、
「名護屋にて所労(病気)の後、脈を診る事ができなかったので顔色を見たが、終に調わず、肌は黄黒く
首の付け根あたりの肉は痩せ消え、目の下にはわずかに浮腫があった。もしこれで腹が張れ、四肢がむくめば
必ず大事となる、
葯を進上するといっても分別があるべきだ。」と言った。
その後十一月に太閤秀吉公が蒲生氏郷邸に御成をなされ、私もその供奉をしたのだが、この時顔色を観察すると、
腫れはやや甚だしかった。その後張腫は増し、十二月朔日、太閤殿下は民部法印(前田玄以)の屋敷に座されて、
葯院(施薬院全宗)と私の二人を召されて、氏郷の所労は如何かと聞かれた。二人ともに
「終に脈を診ることも出来ませんでした。」と答えた。「葯は誰が与えているのか。」と問われた。
「堺の宗叔の葯」と申した。
その後秀吉公は、左右に在った大納言(徳川)家康、中納言(前田)利家の二人に、「諸医を召して
氏郷の脈を診せるように」と仰せになった。
すぐに上池院、竹田蘆庵、盛方院、祥寿院、一?、祐安、その他九名の医師が氏郷の床下に至った。
家康、利家が左右に在って、諸医は脈を診て退いた。
同月五日、前田利家、徳川家康卿は私と一?を召して、氏郷の脈を診た上での診断を聞いた。
私は言った「十中九は大事(重体)であります。残りの一つというのは、年齢の若さと食欲のあることだけです。
しかしさらに食欲が減じ、気力が衰えれば、十は二十にもなるほど、大事となります。」
利家が言った「他の医師たち一人ずつに尋ねたが、或いは十に五つ大事、或いは十に七、八は大事と申した。」
そして宗叔を召し、「玄朔は十に二十も大事であると言う。残りの医師は、或いは十に五.六.七、八などと
云う。お前はどのように考えるか。」
宗叔曰く「十に一つほど難しいと存じます。」と申した。
その後、利家は私に対し「氏郷の所労はいよいよ悪化している。宗叔の葯を止めるべきだ。今日よりそなたが
治療をせよ。」と言われた。私は「宗叔の葯では十死であると見ておられるのなら、五日三日は葯を与えて
その様子を見るべきです。そうしなければそれぞれの治療を照らし合わせることが出来ません。」と申した。
そこで宗叔が召され、その旨を仰せられたのだが、彼は尚も「十に一つほど危ういのだ」と申した。
それ故に、翌文禄四年正月末、宗叔の葯が止められた。
蒲生氏郷は次第に気力衰え、食欲も減じた。一?の葯を与えたが、十余日にして果たして逝去した。
(医学天正記)
蒲生氏郷の病についての記録
いよいよこれを治した。私(曲直瀬玄朔)はその時、朝鮮まで従って帰り、上洛した。その後、翌年の
秋に法眼(曲直瀬)正純が語ったところによると、氏郷に宗叔は養生葯(薬)を進上したという。この時私は、
「名護屋にて所労(病気)の後、脈を診る事ができなかったので顔色を見たが、終に調わず、肌は黄黒く
首の付け根あたりの肉は痩せ消え、目の下にはわずかに浮腫があった。もしこれで腹が張れ、四肢がむくめば
必ず大事となる、
葯を進上するといっても分別があるべきだ。」と言った。
その後十一月に太閤秀吉公が蒲生氏郷邸に御成をなされ、私もその供奉をしたのだが、この時顔色を観察すると、
腫れはやや甚だしかった。その後張腫は増し、十二月朔日、太閤殿下は民部法印(前田玄以)の屋敷に座されて、
葯院(施薬院全宗)と私の二人を召されて、氏郷の所労は如何かと聞かれた。二人ともに
「終に脈を診ることも出来ませんでした。」と答えた。「葯は誰が与えているのか。」と問われた。
「堺の宗叔の葯」と申した。
その後秀吉公は、左右に在った大納言(徳川)家康、中納言(前田)利家の二人に、「諸医を召して
氏郷の脈を診せるように」と仰せになった。
すぐに上池院、竹田蘆庵、盛方院、祥寿院、一?、祐安、その他九名の医師が氏郷の床下に至った。
家康、利家が左右に在って、諸医は脈を診て退いた。
同月五日、前田利家、徳川家康卿は私と一?を召して、氏郷の脈を診た上での診断を聞いた。
私は言った「十中九は大事(重体)であります。残りの一つというのは、年齢の若さと食欲のあることだけです。
しかしさらに食欲が減じ、気力が衰えれば、十は二十にもなるほど、大事となります。」
利家が言った「他の医師たち一人ずつに尋ねたが、或いは十に五つ大事、或いは十に七、八は大事と申した。」
そして宗叔を召し、「玄朔は十に二十も大事であると言う。残りの医師は、或いは十に五.六.七、八などと
云う。お前はどのように考えるか。」
宗叔曰く「十に一つほど難しいと存じます。」と申した。
その後、利家は私に対し「氏郷の所労はいよいよ悪化している。宗叔の葯を止めるべきだ。今日よりそなたが
治療をせよ。」と言われた。私は「宗叔の葯では十死であると見ておられるのなら、五日三日は葯を与えて
その様子を見るべきです。そうしなければそれぞれの治療を照らし合わせることが出来ません。」と申した。
そこで宗叔が召され、その旨を仰せられたのだが、彼は尚も「十に一つほど危ういのだ」と申した。
それ故に、翌文禄四年正月末、宗叔の葯が止められた。
蒲生氏郷は次第に気力衰え、食欲も減じた。一?の葯を与えたが、十余日にして果たして逝去した。
(医学天正記)
蒲生氏郷の病についての記録
422人間七七四年
2022/03/30(水) 22:07:24.76ID:f88ysiOU >>421とは別の者ですが、文字化けが一か所あるようなので一応付け加えを。
坂浄慶、竹田定加、半井驢庵、吉田成方院浄忠、祥寿院瑞久、一鴎宗虎、祐庵
医師それぞれの名がこちらです。
秀吉は皇室や足利将軍家の侍医を番医として雇い入れ、身内の診察だけではなく味方にしたい有力者へ派遣して信頼を得ようとしたとか。
『医学天正記』は症例ごとに患者の名と治療実績が書かれていますけれども、ちょっと面白かったのが正親町天皇は正親町院で、後陽成天皇は今上皇帝ってとこですね。
坂浄慶、竹田定加、半井驢庵、吉田成方院浄忠、祥寿院瑞久、一鴎宗虎、祐庵
医師それぞれの名がこちらです。
秀吉は皇室や足利将軍家の侍医を番医として雇い入れ、身内の診察だけではなく味方にしたい有力者へ派遣して信頼を得ようとしたとか。
『医学天正記』は症例ごとに患者の名と治療実績が書かれていますけれども、ちょっと面白かったのが正親町天皇は正親町院で、後陽成天皇は今上皇帝ってとこですね。
423人間七七四年
2022/03/31(木) 10:50:28.35ID:DaErJV62 肝硬変の末期症状だね
424人間七七四年
2022/03/31(木) 17:31:47.22ID:Q9oMo27y >>413のより詳しい話が
「徳川実紀」にも多く引用されている「寛明日記」の、正保二年閏五月廿九日から六月三日の条にあった。
(新日本古典籍総合データベースの678-686コマ)
前半は>>413とまったく同じ話で、
後半は乗寿が案内役の老人に稲荷のことを尋ねたところ
すでに既出の「赤井氏(「寛明日記」では但馬守法連)が子供にいじめられている狐を助けたところ親狐が人(小男)となって現れ、館林での築城をすすめた話」
「元亀二年、北条氏政の下知で伊勢備中守貞宗(貞運?)、山角上野介定方、山角紀伊守定勝、芳賀伯耆守綱可(垪和「はが」康忠?)が城に攻め寄せた時、
夜に風雨が激しくなり、軍勢四、五千の鬨の声が起こり、松明一、二千灯が連なり、北条勢が敗れた話」
「天正十八年に小田原の陣で石田三成、大谷吉隆、長束正家などが攻めてきた時に、石田が材木を切って沼に道を作り、夜明けに渡ろうとしたが、
夜中に松明が二、三千燈ともり、朝になると材木が悉く沼に沈んでしまった。
そこで案内をしていた北条左衛門大夫(氏勝)が「これはおそらく稲荷のなせる業です」と言って、力攻めではなく降伏をすすめた話」
を老人がした。
乗寿は奇特に思い委細を記録し、この前の無面目を晴らすために老中にこの話を送ったということだ。
とあった。残念ながら「徳川実紀」には採られていないようだ。
「徳川実紀」にも多く引用されている「寛明日記」の、正保二年閏五月廿九日から六月三日の条にあった。
(新日本古典籍総合データベースの678-686コマ)
前半は>>413とまったく同じ話で、
後半は乗寿が案内役の老人に稲荷のことを尋ねたところ
すでに既出の「赤井氏(「寛明日記」では但馬守法連)が子供にいじめられている狐を助けたところ親狐が人(小男)となって現れ、館林での築城をすすめた話」
「元亀二年、北条氏政の下知で伊勢備中守貞宗(貞運?)、山角上野介定方、山角紀伊守定勝、芳賀伯耆守綱可(垪和「はが」康忠?)が城に攻め寄せた時、
夜に風雨が激しくなり、軍勢四、五千の鬨の声が起こり、松明一、二千灯が連なり、北条勢が敗れた話」
「天正十八年に小田原の陣で石田三成、大谷吉隆、長束正家などが攻めてきた時に、石田が材木を切って沼に道を作り、夜明けに渡ろうとしたが、
夜中に松明が二、三千燈ともり、朝になると材木が悉く沼に沈んでしまった。
そこで案内をしていた北条左衛門大夫(氏勝)が「これはおそらく稲荷のなせる業です」と言って、力攻めではなく降伏をすすめた話」
を老人がした。
乗寿は奇特に思い委細を記録し、この前の無面目を晴らすために老中にこの話を送ったということだ。
とあった。残念ながら「徳川実紀」には採られていないようだ。
425人間七七四年
2022/03/31(木) 18:25:21.07ID:u6Hz94cM >>421
まとめ過去ログにやっぱ同内容のものがあったか
つか10年前だし致し方なし
蒲生氏郷の病
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7540.html
まとめ過去ログにやっぱ同内容のものがあったか
つか10年前だし致し方なし
蒲生氏郷の病
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7540.html
426人間七七四年
2022/04/03(日) 20:46:46.65ID:1Ul4dzbi 「続片聾記」から「忠直公御乱行の事」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4468.html
とだいたいのあらすじは同じで
松平忠直がある時天守に登ると美人の絵姿が風に舞って忠直の所に来た。
その美人に一目惚れした忠直は家臣にこれとそっくりな美人を探せと命じたところ、関ヶ原におむにという女がいたため、
一国にも替え難い美しさ、ということで「一国」と名づけた。
しかしこの女は罪人が首を刎ねられるのを見ると悦んだため、忠直は死罪に当たらないような者でも一国の前で首を刎ね、気に入らない小姓や家臣も死罪とした。
そのうち首を刎ねるだけでは飽き足らず、平たい石で人の天窓(あたま)を叩き割る、白洲で磔にする、妊婦の腹を裂く、といった悪行を重ねた。
これに対して眉を顰めた、秀康公から仕えている武士をも死罪としたため、家臣たちは毎朝家を立つ時は最期の盃をかわして登城するようになった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4468.html
とだいたいのあらすじは同じで
松平忠直がある時天守に登ると美人の絵姿が風に舞って忠直の所に来た。
その美人に一目惚れした忠直は家臣にこれとそっくりな美人を探せと命じたところ、関ヶ原におむにという女がいたため、
一国にも替え難い美しさ、ということで「一国」と名づけた。
しかしこの女は罪人が首を刎ねられるのを見ると悦んだため、忠直は死罪に当たらないような者でも一国の前で首を刎ね、気に入らない小姓や家臣も死罪とした。
そのうち首を刎ねるだけでは飽き足らず、平たい石で人の天窓(あたま)を叩き割る、白洲で磔にする、妊婦の腹を裂く、といった悪行を重ねた。
これに対して眉を顰めた、秀康公から仕えている武士をも死罪としたため、家臣たちは毎朝家を立つ時は最期の盃をかわして登城するようになった。
427人間七七四年
2022/04/03(日) 20:48:52.87ID:1Ul4dzbi 忠直の家臣に縣茂左衛門という者がいた。昔年大坂の陣で忠直に供をし、城中に入った十七騎の一人であった。
ある雨の夜、草履取りを供にして歩いていると、向こうから忠直公の駕籠が来たためあわてて平伏したが、
忠直公は「茂左衛門、供をせよ」と言ってきた。
茂左衛門は今度は自分が斬られるのか、と覚悟を決めた。
そのまま城中に行き、白洲に入ったため、茂左衛門は「もはや死は逃れられぬ」といよいよ覚悟した。
白洲は月明かりに照らされ、そこには老若男女の死骸が三十人ほど山のように積み重なっていた。
そのほか死骸がかけられた磔が林立していた。
茂左衛門が観念したところで、忠直公が「からめたる奴原を一々斬り捨て、我が慰みとせよ!」
と言ったため、茂左衛門は「案に相違し、身の逃れる嬉しさよ」とむごいことを思いつつ、連れられてきた二、三人の首を切った。
その後は忠直公に命じられるまま、あるいは袈裟懸けに、あるいは打首、と二十七人を斬った。
この褒美に忠直公から刀を授けられ、虎口を逃れた気持ちで城を出て家に帰った。
すると念仏が仏間から聞こえてきたため、茂左衛門が何があったのか聞くと、親も弟も妹も涙を流しながら
「茂左衛門が忠直公に斬られたと思い念仏を唱えていたのです」と答えた。
茂左衛門も自分の罪業のあまりの深さに恐ろしくなり、後に隠居して道甫居士と号したという。
かれから直に聞いた物語をここに記す。
ある雨の夜、草履取りを供にして歩いていると、向こうから忠直公の駕籠が来たためあわてて平伏したが、
忠直公は「茂左衛門、供をせよ」と言ってきた。
茂左衛門は今度は自分が斬られるのか、と覚悟を決めた。
そのまま城中に行き、白洲に入ったため、茂左衛門は「もはや死は逃れられぬ」といよいよ覚悟した。
白洲は月明かりに照らされ、そこには老若男女の死骸が三十人ほど山のように積み重なっていた。
そのほか死骸がかけられた磔が林立していた。
茂左衛門が観念したところで、忠直公が「からめたる奴原を一々斬り捨て、我が慰みとせよ!」
と言ったため、茂左衛門は「案に相違し、身の逃れる嬉しさよ」とむごいことを思いつつ、連れられてきた二、三人の首を切った。
その後は忠直公に命じられるまま、あるいは袈裟懸けに、あるいは打首、と二十七人を斬った。
この褒美に忠直公から刀を授けられ、虎口を逃れた気持ちで城を出て家に帰った。
すると念仏が仏間から聞こえてきたため、茂左衛門が何があったのか聞くと、親も弟も妹も涙を流しながら
「茂左衛門が忠直公に斬られたと思い念仏を唱えていたのです」と答えた。
茂左衛門も自分の罪業のあまりの深さに恐ろしくなり、後に隠居して道甫居士と号したという。
かれから直に聞いた物語をここに記す。
428人間七七四年
2022/04/05(火) 11:38:08.11ID:j0gfoA8T まとめのコメント見たら一国が褒姒や妲己扱い
褒姒も妲己も九尾の狐の化身と言われ、九尾の狐(玉藻前)が殺生石になり玄翁和尚に割られた伝説は有名だが
その破片が全国三ヶ所の「高田」という地名に飛び散ったと言われる
一つが豊後高田で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13411.html
この朽網の殺生石も豊後高田まで飛んでった殺生石の破片が70kmほど転がったものだとか
もう一つは美作高田か安芸高田で
最後の一つが越後高田
この忠直の乱行による改易のため、忠直の息子光長は越後高田藩主となったが、41年後に地震で高田が大きな被害を受け筆頭家老、次席家老が圧死
それにより台頭した小栗美作が改革を施行したら反対派とお家騒動となり、幕府裁定によりいったん小栗が勝ったが
館林城主から将軍になったばかりの綱吉が再審して両派に厳罰、越後高田藩は没収されましたとさ
いっそ忠直乱行も越後騒動も九尾の狐のせいにしてしまおう
綱吉も狐が建てた館林城主だったし
褒姒も妲己も九尾の狐の化身と言われ、九尾の狐(玉藻前)が殺生石になり玄翁和尚に割られた伝説は有名だが
その破片が全国三ヶ所の「高田」という地名に飛び散ったと言われる
一つが豊後高田で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13411.html
この朽網の殺生石も豊後高田まで飛んでった殺生石の破片が70kmほど転がったものだとか
もう一つは美作高田か安芸高田で
最後の一つが越後高田
この忠直の乱行による改易のため、忠直の息子光長は越後高田藩主となったが、41年後に地震で高田が大きな被害を受け筆頭家老、次席家老が圧死
それにより台頭した小栗美作が改革を施行したら反対派とお家騒動となり、幕府裁定によりいったん小栗が勝ったが
館林城主から将軍になったばかりの綱吉が再審して両派に厳罰、越後高田藩は没収されましたとさ
いっそ忠直乱行も越後騒動も九尾の狐のせいにしてしまおう
綱吉も狐が建てた館林城主だったし
429人間七七四年
2022/04/05(火) 21:33:03.97ID:pTJG6TRQ 或る本に、大坂夏の陣の時、大阪の城兵たちは、冬の陣のときと同じように、幕府方が早々に
攻め寄せてくることは無いと思っており、上下油断していたが、その中で毛利豊前守(勝永)の組の
鉄砲大将・松岡彦兵衛、雨森三右衛門らは、敵付の方を見おかんと、五月七日の未明に、両人
打ち連れて素肌(鎧をつけないこと)になり、刀を若党に持たせ、乱髪の体にて天王寺まで来た。
この時寄手は大御所(徳川家康)の仰せにより、井水、或いは溜水、また切門には、皆引裂紙を竹に
付けて立て置いていたが、松岡、雨森はこれを味方が為したものと思い、「さても早きものかな」と
語り合った。
さて、夜が明けると両人はその場を離れ、平野・岡山筋、東南五里の間に至ったところ、村里と覚しきものが
有った。霧によってそのように見えるのかと疑いながら能く見てみると、森林だと思っていたのは、
みな寄手の旗指物、長柄などであり、村里と思っていたのは、東国勢の備であった。
日が出るに従い、長柄などがきらめき渡り、八尾、若江、南は平野境へかかり、三里ほどが一面となって
押し来ていた。
松岡らはこれに驚き、毛利・真田の方へ右の趣を申し遣わした所、何れも周章てて足軽を張り出し、
備えを立てたという。
(新東鑑)
大坂夏の陣直前にも大阪方は油断していたというお話
攻め寄せてくることは無いと思っており、上下油断していたが、その中で毛利豊前守(勝永)の組の
鉄砲大将・松岡彦兵衛、雨森三右衛門らは、敵付の方を見おかんと、五月七日の未明に、両人
打ち連れて素肌(鎧をつけないこと)になり、刀を若党に持たせ、乱髪の体にて天王寺まで来た。
この時寄手は大御所(徳川家康)の仰せにより、井水、或いは溜水、また切門には、皆引裂紙を竹に
付けて立て置いていたが、松岡、雨森はこれを味方が為したものと思い、「さても早きものかな」と
語り合った。
さて、夜が明けると両人はその場を離れ、平野・岡山筋、東南五里の間に至ったところ、村里と覚しきものが
有った。霧によってそのように見えるのかと疑いながら能く見てみると、森林だと思っていたのは、
みな寄手の旗指物、長柄などであり、村里と思っていたのは、東国勢の備であった。
日が出るに従い、長柄などがきらめき渡り、八尾、若江、南は平野境へかかり、三里ほどが一面となって
押し来ていた。
松岡らはこれに驚き、毛利・真田の方へ右の趣を申し遣わした所、何れも周章てて足軽を張り出し、
備えを立てたという。
(新東鑑)
大坂夏の陣直前にも大阪方は油断していたというお話
430人間七七四年
2022/04/08(金) 14:12:26.88ID:8NMoyGPa 「勢州軍記」から北畠具教の最期
伊勢国司であり三瀬大御所の北畠中納言源具教入道は不智不慮であり、当家を織田に渡したことを悔いていた。
(続群書類従では「不智不慮」としているが、北畠具教の法号が「不智斎」であるため不智で切るべき?)
信長公と仲が悪く、信雄朝臣を蔑んでいた。
そのため先年武田信玄と合心し謀叛を企てていたという。
またある時、信雄の小姓が小鳥をとりに国司屋敷に入ってきたため、具教の家臣は小姓をひどく打擲したところ、信雄は憤った。
信長公は北畠具教に野心があるとみなし、織田掃部助(忠寛)に北畠具教親子、坂内入道親子を討つように命じた。
信雄が諸侍に謀ったが、天野佐左衛門尉と柘植三郎左衛門尉が城門の外でこれについて相談したのが、門の陰にいた下女に聞かれてしまい、ことが公になってしまった。
そのため急いで討ち手を招集した。
まず北畠具教への討ち手として藤方刑部少輔、奥山常陸介、滝川三郎兵衛尉、長野左京亮が命じられたが、藤方は名代として軽野左京進を出した。
彼らは領地の朱印を頂いたが、みな北畠譜代重恩の臣であり、欲のために理を捨てたのであった。
ただ奥山常陸介は心を翻し、仮病で討ち手には加わらなかった。
こうして天正四年十一月二十五日の朝、三人は三瀬御所に参じた。
北畠具教卿は炬燵に当たり、夜衣を着て、三歳と今年生まれたばかりの若君を膝においてあやしていた。
近習である佐々木四郎左衛門尉が御前に参じ、出仕のよしを言上した。
具教卿は若君を乳母に預け、出座しようとしたところで長野左京亮が具教卿御愛用の槍で具教卿を突いた。
具教卿は兵法の名人であったため、太刀を抜こうとしたが、小姓の佐々木四郎左衛門尉も企てに加わっており、あらかじめ太刀を抜けないように細工をしていた。
具教卿は徒手空拳であったが肝が据わっており、長野に対して
「わしは常々、お前がいつか裏切ると思っておったわ!」と言った。
そのとき滝川・軽野も太刀を抜いて斬りかかってきた。
具教卿は憤怒の面持ちでついに死んだ。御年四十九であった。
若君は乳母に抱えられ裏庭に向かったが追手により害された。
今年生まれた若君も乳母が懐中に入れて雪隠に隠れたが、探し当てられ殺された?(尋求奉失之)
北の方や乳母や女房たちも泣き喚きながら逃げ回り、聞く人で涙を流さぬ者はなかったという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12389.html
北畠具教の滅亡
こっちと違って刀も抜けずに殺されてしまっている
伊勢国司であり三瀬大御所の北畠中納言源具教入道は不智不慮であり、当家を織田に渡したことを悔いていた。
(続群書類従では「不智不慮」としているが、北畠具教の法号が「不智斎」であるため不智で切るべき?)
信長公と仲が悪く、信雄朝臣を蔑んでいた。
そのため先年武田信玄と合心し謀叛を企てていたという。
またある時、信雄の小姓が小鳥をとりに国司屋敷に入ってきたため、具教の家臣は小姓をひどく打擲したところ、信雄は憤った。
信長公は北畠具教に野心があるとみなし、織田掃部助(忠寛)に北畠具教親子、坂内入道親子を討つように命じた。
信雄が諸侍に謀ったが、天野佐左衛門尉と柘植三郎左衛門尉が城門の外でこれについて相談したのが、門の陰にいた下女に聞かれてしまい、ことが公になってしまった。
そのため急いで討ち手を招集した。
まず北畠具教への討ち手として藤方刑部少輔、奥山常陸介、滝川三郎兵衛尉、長野左京亮が命じられたが、藤方は名代として軽野左京進を出した。
彼らは領地の朱印を頂いたが、みな北畠譜代重恩の臣であり、欲のために理を捨てたのであった。
ただ奥山常陸介は心を翻し、仮病で討ち手には加わらなかった。
こうして天正四年十一月二十五日の朝、三人は三瀬御所に参じた。
北畠具教卿は炬燵に当たり、夜衣を着て、三歳と今年生まれたばかりの若君を膝においてあやしていた。
近習である佐々木四郎左衛門尉が御前に参じ、出仕のよしを言上した。
具教卿は若君を乳母に預け、出座しようとしたところで長野左京亮が具教卿御愛用の槍で具教卿を突いた。
具教卿は兵法の名人であったため、太刀を抜こうとしたが、小姓の佐々木四郎左衛門尉も企てに加わっており、あらかじめ太刀を抜けないように細工をしていた。
具教卿は徒手空拳であったが肝が据わっており、長野に対して
「わしは常々、お前がいつか裏切ると思っておったわ!」と言った。
そのとき滝川・軽野も太刀を抜いて斬りかかってきた。
具教卿は憤怒の面持ちでついに死んだ。御年四十九であった。
若君は乳母に抱えられ裏庭に向かったが追手により害された。
今年生まれた若君も乳母が懐中に入れて雪隠に隠れたが、探し当てられ殺された?(尋求奉失之)
北の方や乳母や女房たちも泣き喚きながら逃げ回り、聞く人で涙を流さぬ者はなかったという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12389.html
北畠具教の滅亡
こっちと違って刀も抜けずに殺されてしまっている
431人間七七四年
2022/04/09(土) 11:16:59.24ID:/cGAqrGu ある本に、伊木七郎右衛門常紀(伊木遠雄)は幼若の時、遠雄半七と称していた。
彼の祖父は式馬大和守と称し、下総国より上って織田信秀に仕えた。
父は式馬七右衛門と言ったが、続いて信長公に仕えた。
そのような中、濃州各務郡に、木曽川を隔てて東は尾州犬山、西には濃州伊木山があった。
その頃、伊木山香川と云う将が籠城して、信長公に敵対していた。
これに対して、式馬七右衛門は先登して力戦し、かの伊木山を攻め落とした。
これに信長公は感悦斜めならず、「末代の誉れに、氏を改めよ」と有ったため、この後氏を伊木とした。
また、この白の本丸に、石の井桁があったが、その場所において働き抜群であった故に、それまでの
月に星の家紋を替えて、井桁紋にした。
又、七郎右衛門は十六歳の時、秀吉公の児小姓に召し出され、翌天正十一年、江州賤ヶ岳合戦において
太刀打ちして、新発田型の使番の、指物を差した武者を討ち取った、この働きは七本槍と左右に立ち並んだ
手柄であるとして、世に『七本槍。三振太刀』と云った。(その他の二人は石河兵介、櫻井左吉である)
同十八年の小田原陣では黄母衣を掛けた。
大坂夏の陣での落城の時に命を遁れたが、その後方々より高禄を与えるとして招いたが、所存あって
応じず、片桐氏の後見として、現米五百石、嫡子は千石を領した。
その後京極安智(高広)の招きに応じ、丹後国に赴き、父子三人にて三千石を領した。
二代目七郎右衛門は千二百石の采地にて、同丹後守の家老職を勤めたという。
(新東鑑)
「三振太刀」や大坂の陣後の話はどうも後世の創作らしいですが、
伊木半七の名で有名な、秀吉の近習で黄母衣衆でもあった伊木遠雄についての様々な伝承。
彼の祖父は式馬大和守と称し、下総国より上って織田信秀に仕えた。
父は式馬七右衛門と言ったが、続いて信長公に仕えた。
そのような中、濃州各務郡に、木曽川を隔てて東は尾州犬山、西には濃州伊木山があった。
その頃、伊木山香川と云う将が籠城して、信長公に敵対していた。
これに対して、式馬七右衛門は先登して力戦し、かの伊木山を攻め落とした。
これに信長公は感悦斜めならず、「末代の誉れに、氏を改めよ」と有ったため、この後氏を伊木とした。
また、この白の本丸に、石の井桁があったが、その場所において働き抜群であった故に、それまでの
月に星の家紋を替えて、井桁紋にした。
又、七郎右衛門は十六歳の時、秀吉公の児小姓に召し出され、翌天正十一年、江州賤ヶ岳合戦において
太刀打ちして、新発田型の使番の、指物を差した武者を討ち取った、この働きは七本槍と左右に立ち並んだ
手柄であるとして、世に『七本槍。三振太刀』と云った。(その他の二人は石河兵介、櫻井左吉である)
同十八年の小田原陣では黄母衣を掛けた。
大坂夏の陣での落城の時に命を遁れたが、その後方々より高禄を与えるとして招いたが、所存あって
応じず、片桐氏の後見として、現米五百石、嫡子は千石を領した。
その後京極安智(高広)の招きに応じ、丹後国に赴き、父子三人にて三千石を領した。
二代目七郎右衛門は千二百石の采地にて、同丹後守の家老職を勤めたという。
(新東鑑)
「三振太刀」や大坂の陣後の話はどうも後世の創作らしいですが、
伊木半七の名で有名な、秀吉の近習で黄母衣衆でもあった伊木遠雄についての様々な伝承。
432人間七七四年
2022/04/11(月) 11:58:15.48ID:Tpen1w6e 「勢州軍記」から>>430の続き
「具教兵法の事」
北畠具教卿は塚原卜伝入道の弟子であり、兵法を極め、奥義・一の太刀を習得していた。
しかし用心を怠ったために、このような害を受けてしまった。
このようなことがあるから張良は漢皇を立てたのち身をひいたのだ。
これこそが武士の奥義といえよう。
さて兵法剣術については、近来常陸国住人の飯篠長威入道が天より真の伝(天真伝?)を受け、一流を起こした。
かの卜伝は長威から相伝されること四代目にあたり、秘伝をものとしていた。
その伝を新たに世間に広め、諸国を修行し、常陸に帰ってきた。
最終的に家督を三人の息子たちのうちの誰かに譲ろうと考え、
嚢連(ふすま?)の上にに木枕を置き、嚢連を開けると木枕が落ちるように仕掛けた。
まず長男を招いた。長男は開ける前に木枕を見つけたため、木枕を下ろし、入室し座った。
同様に次男を招いた。次男は嚢連を開けた時に木枕が落ちてきたため、とっさに飛び退いて手を刀にかけ、怒りながら入室し座った。
同じく三男を招いたところ、三男は嚢連を開けたら木枕が落ちてきたため、すぐに抜刀して木枕を斬った。
塚原卜伝は、次男、三男に対しては「木枕を見て驚くとは何たることだ!」と怒り、長男には感心して家督を譲ることにした。
卜伝「しかし奥義の一の太刀は伝授するのは一人だけ、ということになっておる。
すでにわしは伊勢国司・北畠具教卿に伝授してしまったから、汝は伊勢に行って習ってこい」
と遺言して死んだ。
そののち、長男の塚原彦四郎は伊勢に上り、北畠具教卿に会い
「私の父が私に一の太刀を伝授してくれたのですが、相違がないか確認させていただけませんか?」
と言うと、北畠具教卿はその意図を知らず、一の太刀を実演して見せてしまったということだ。
「具教兵法の事」
北畠具教卿は塚原卜伝入道の弟子であり、兵法を極め、奥義・一の太刀を習得していた。
しかし用心を怠ったために、このような害を受けてしまった。
このようなことがあるから張良は漢皇を立てたのち身をひいたのだ。
これこそが武士の奥義といえよう。
さて兵法剣術については、近来常陸国住人の飯篠長威入道が天より真の伝(天真伝?)を受け、一流を起こした。
かの卜伝は長威から相伝されること四代目にあたり、秘伝をものとしていた。
その伝を新たに世間に広め、諸国を修行し、常陸に帰ってきた。
最終的に家督を三人の息子たちのうちの誰かに譲ろうと考え、
嚢連(ふすま?)の上にに木枕を置き、嚢連を開けると木枕が落ちるように仕掛けた。
まず長男を招いた。長男は開ける前に木枕を見つけたため、木枕を下ろし、入室し座った。
同様に次男を招いた。次男は嚢連を開けた時に木枕が落ちてきたため、とっさに飛び退いて手を刀にかけ、怒りながら入室し座った。
同じく三男を招いたところ、三男は嚢連を開けたら木枕が落ちてきたため、すぐに抜刀して木枕を斬った。
塚原卜伝は、次男、三男に対しては「木枕を見て驚くとは何たることだ!」と怒り、長男には感心して家督を譲ることにした。
卜伝「しかし奥義の一の太刀は伝授するのは一人だけ、ということになっておる。
すでにわしは伊勢国司・北畠具教卿に伝授してしまったから、汝は伊勢に行って習ってこい」
と遺言して死んだ。
そののち、長男の塚原彦四郎は伊勢に上り、北畠具教卿に会い
「私の父が私に一の太刀を伝授してくれたのですが、相違がないか確認させていただけませんか?」
と言うと、北畠具教卿はその意図を知らず、一の太刀を実演して見せてしまったということだ。
433人間七七四年
2022/04/11(月) 17:42:12.30ID:C16sIoNI 賢いな
434人間七七四年
2022/04/11(月) 22:12:30.19ID:Dj17yKJA >嚢連(ふすま?)の上にに木枕を置き、嚢連を開けると木枕が落ちるように仕掛けた。
教室の入り口に黒板消し挟むやつの由緒?
教室の入り口に黒板消し挟むやつの由緒?
435人間七七四年
2022/04/11(月) 22:21:12.59ID:zwR4m/VE 七人の侍に似たシーンがあったな
436人間七七四年
2022/04/11(月) 22:57:48.74ID:Tpen1w6e 「勢州軍記」から北畠具教を討った面々のその後
・(藤方刑部少輔の父である)藤方慶由のこと
藤方慶由は人質として信雄の田丸城に留め置かれていたが、北畠家没落に嘆き悲しんだ。
こともあろうに子息の刑部少輔が北畠具教卿暗殺という不義の企てに加わっていたと知ると
「去年の夏、孫が長嶋城を落としてしまい家名を失ったというのに、今、お前の不義があらわれてしまい、当家の名は失墜してしまった。
主君であり、一族(藤方氏は北畠氏の分家)であるというのに嘆かずにいられようか。
報いはやがて子孫にこよう、長生きしたばかりに、このようなことを見ようとは。わしは早死にすべきだった」
息子の刑部少輔「私も本意ではなかったのですが、父上が人質に取られているため、御命をお助けするために逆意を企てたのです」
慶由「お前がそのように言うのであれば、わしは三瀬主君(北畠具教卿)に対して追腹を斬る!
これで少しは当家の面目も立つだろうし、武道の本望というものだろう。」
と言い、そののち「風呂に入ってくる」と言って部屋を出、深い淵に身を投げて死んでしまった。
その名誉と義心に対し、世の人はこぞってこれを賞賛した。
その子孫については慶由が言った通り、落魄して大津でボロ屋に住むようになり、ついに滅亡したという。
また実際に討ち手に加わった藤方家の軽野左京進は、刑部少輔に逆心を唆した張本人でもあった。
国司を討ったのちほどなく重病にかかり、五体・四肢が癰(膿瘍)や痪(「やまいだれに奐」麻痺)に侵されて死んだということだ。
末世といえども因果応報は歴然の理である。
・(藤方刑部少輔の父である)藤方慶由のこと
藤方慶由は人質として信雄の田丸城に留め置かれていたが、北畠家没落に嘆き悲しんだ。
こともあろうに子息の刑部少輔が北畠具教卿暗殺という不義の企てに加わっていたと知ると
「去年の夏、孫が長嶋城を落としてしまい家名を失ったというのに、今、お前の不義があらわれてしまい、当家の名は失墜してしまった。
主君であり、一族(藤方氏は北畠氏の分家)であるというのに嘆かずにいられようか。
報いはやがて子孫にこよう、長生きしたばかりに、このようなことを見ようとは。わしは早死にすべきだった」
息子の刑部少輔「私も本意ではなかったのですが、父上が人質に取られているため、御命をお助けするために逆意を企てたのです」
慶由「お前がそのように言うのであれば、わしは三瀬主君(北畠具教卿)に対して追腹を斬る!
これで少しは当家の面目も立つだろうし、武道の本望というものだろう。」
と言い、そののち「風呂に入ってくる」と言って部屋を出、深い淵に身を投げて死んでしまった。
その名誉と義心に対し、世の人はこぞってこれを賞賛した。
その子孫については慶由が言った通り、落魄して大津でボロ屋に住むようになり、ついに滅亡したという。
また実際に討ち手に加わった藤方家の軽野左京進は、刑部少輔に逆心を唆した張本人でもあった。
国司を討ったのちほどなく重病にかかり、五体・四肢が癰(膿瘍)や痪(「やまいだれに奐」麻痺)に侵されて死んだということだ。
末世といえども因果応報は歴然の理である。
437人間七七四年
2022/04/11(月) 22:59:50.89ID:Tpen1w6e ・奥山常陸介のこと
奥山常陸介は北畠具教卿を討った時の褒美として、あらかじめ信雄から三千石の朱印状を賜り、常陸介も誓紙を書いた。
しかし譜代相伝の主君を討つに忍びず、心変わりし、仮病を理由に国司追討に参加しなかった。
信雄に朱印状を返して辞去し、そのまま出家した。
具教卿暗殺ののち、信雄が奥山を召すと、剃髪染衣の姿で田丸に現れた。
信雄はその義心に感心し、三百石の朱印状を渡したが、
奥山は「もはや現世において領地の望みはありません、後生を願うのみです」と朱印状を受け取らなかった。
そののちも道心は変わらず、真盛上人の開山した摂津の西来寺の近くで庵室を構え、具教卿の後生菩提を祈った。
一生念仏を唱え続け、ついに往生を遂げたという。
奥山常陸介は北畠具教卿を討った時の褒美として、あらかじめ信雄から三千石の朱印状を賜り、常陸介も誓紙を書いた。
しかし譜代相伝の主君を討つに忍びず、心変わりし、仮病を理由に国司追討に参加しなかった。
信雄に朱印状を返して辞去し、そのまま出家した。
具教卿暗殺ののち、信雄が奥山を召すと、剃髪染衣の姿で田丸に現れた。
信雄はその義心に感心し、三百石の朱印状を渡したが、
奥山は「もはや現世において領地の望みはありません、後生を願うのみです」と朱印状を受け取らなかった。
そののちも道心は変わらず、真盛上人の開山した摂津の西来寺の近くで庵室を構え、具教卿の後生菩提を祈った。
一生念仏を唱え続け、ついに往生を遂げたという。
438人間七七四年
2022/04/12(火) 17:09:59.79ID:vzpiur7t 東国武将興亡録
ハトの呪いなのか阿弥陀仏のバチが当たったのかよくわからないタマキンの話
下妻城主多賀谷政経は筑波郡福岡の阿弥陀堂に草鞋も脱かず堂上に座し其の堂に巣寵りして居た鳩を追いやったところ
急に股間の睾丸がしめ付けられて悶絶して倒る。家来の菊地勘解由が色を失って薬を与い、やっと政経は正気を取り戻し
たが、良く見れば勇猛血気の政経は弥陀の尊像惠心僧都作に腰掛けて居た、依て政経は大薬寺の慶円と云う僧を頼みて
兼定の太刀一振と永楽銭二十貫と玄米二十俵を奉納して伝意を慰め、更に黄金で五智の如来五体を鋳造して安置す。
ハトの呪いなのか阿弥陀仏のバチが当たったのかよくわからないタマキンの話
下妻城主多賀谷政経は筑波郡福岡の阿弥陀堂に草鞋も脱かず堂上に座し其の堂に巣寵りして居た鳩を追いやったところ
急に股間の睾丸がしめ付けられて悶絶して倒る。家来の菊地勘解由が色を失って薬を与い、やっと政経は正気を取り戻し
たが、良く見れば勇猛血気の政経は弥陀の尊像惠心僧都作に腰掛けて居た、依て政経は大薬寺の慶円と云う僧を頼みて
兼定の太刀一振と永楽銭二十貫と玄米二十俵を奉納して伝意を慰め、更に黄金で五智の如来五体を鋳造して安置す。
439人間七七四年
2022/04/12(火) 17:24:56.74ID:lHR19+a4440人間七七四年
2022/04/12(火) 17:27:43.49ID:lHR19+a4 しかしそのサイトの多賀谷政経の次の記事が塚原卜伝の死か
偶然だったら面白いが
偶然だったら面白いが
441人間七七四年
2022/04/13(水) 16:00:40.46ID:Vd6/BRm7 本多出雲守忠朝という人は、中務大輔忠勝の二男にして、去る関ヶ原合戦でも高名あり、大御所(徳川家康)も
甚だ称賛していた。
例年、出雲守は参勤の折に、大御所に蝋燭を献上していた。大御所はこの蝋燭を「他に異なる」と褒める
仰せがあった。
ある時、忠朝が参府し、晩景に及んで出仕し、在所の鹽肴を献上した所、老中一同がこのように申した
「足下が献上した蝋燭が、御旨にお叶いになった。今回も蝋燭を献上されるのがいいだろう。」
しかしこれを聞いた忠朝は
「その事を知らざる故に、用意しておりません。」
と申した。
本多上野介(正純)はこれを聞くと
「然らば、御納戸に置いてある蝋燭で、間に合わせれば良いでしょう。」と言った。
これに出雲守大いに喜び、その蝋燭を献上した。
さて、忠朝退去の後、大御所がその献上された蝋燭を灯された所、前のものと違い大いに流れた。
これを御覧になって
「出雲の父は武勇のみだけではなく、このような小事であっても、曾て越度がなかったが、
父には似ざらる者かな」
と仰せになった。
(新東鑑)
本多正純の罠だったのかたまたまなのか
甚だ称賛していた。
例年、出雲守は参勤の折に、大御所に蝋燭を献上していた。大御所はこの蝋燭を「他に異なる」と褒める
仰せがあった。
ある時、忠朝が参府し、晩景に及んで出仕し、在所の鹽肴を献上した所、老中一同がこのように申した
「足下が献上した蝋燭が、御旨にお叶いになった。今回も蝋燭を献上されるのがいいだろう。」
しかしこれを聞いた忠朝は
「その事を知らざる故に、用意しておりません。」
と申した。
本多上野介(正純)はこれを聞くと
「然らば、御納戸に置いてある蝋燭で、間に合わせれば良いでしょう。」と言った。
これに出雲守大いに喜び、その蝋燭を献上した。
さて、忠朝退去の後、大御所がその献上された蝋燭を灯された所、前のものと違い大いに流れた。
これを御覧になって
「出雲の父は武勇のみだけではなく、このような小事であっても、曾て越度がなかったが、
父には似ざらる者かな」
と仰せになった。
(新東鑑)
本多正純の罠だったのかたまたまなのか
442人間七七四年
2022/04/13(水) 22:48:27.28ID:v2cJDMcC 広島県三原市八幡町字野串の山中に存在する宝篋印塔墓には、一つの伝説が伝わっている。
天正15年(1587年)、河野通直が二十四歳で没し、河野宗家滅亡。これに四十名余りの家臣も殉死したとされ……しかし、河野宗家の血は未だ絶えていなかった。
先代通宣の庶子、通昭。母方が荒木村重の一族である彼は、河野氏の改易後は山城の国芹川村で暮らしていたが、通直が死に遺臣一同の運動にも豊臣秀吉には河野氏再興を許す意思がないと判断するや、遂にその暗殺を決意。
当人は計画を実行する前に老齢で死去したので、これも高齢な長男通許六十二歳ではなく、次男通軌がこれを引き継ぐ。
文禄元年(1592年)4月9日、九州に下向する秀吉が備後国御調八幡宮に立ち寄って戦勝祈願をすると知った通軌は、一族の得能備後、和田左衛門、栗山因幡、土居兵庫父子、松本美濃ら河野氏の遺臣と神社の藪に潜み秀吉を狙撃しようとしたが、立ちどころに露見。
全員が秀吉が訪れる前に討ち果たされてしまったと言う。その際、討ち果たされた通軌の墓こそ字野串の宝篋印塔墓で、周囲の小ぶりは墓群は共に討ち果たされた遺臣達のものであると。
……この事は「河野家譜 築山本」や郷土史、貫心流剣術などの伝承に大同小異な異説が記されており、三原市は史実ではない伝承と市史で疑問を呈したり、史家によっては毛利家が不祥事を揉み消したのだろう等と推測したりもしていますが……。
一説に、この時に御調八幡宮の藪に待ち伏せていた河野氏の遺臣は三百人とか。
……斬り込みではなく狙撃で三桁も待ち伏せる必要があったのかと思いますが、そりゃ事前に露見しますよ。
尚、計画を何も知らされていなかった長男の通許は連座を恐れ、苗字を母方の築山姓に変えて諸国を流浪の旅に出る事で族滅を免れた。
天正15年(1587年)、河野通直が二十四歳で没し、河野宗家滅亡。これに四十名余りの家臣も殉死したとされ……しかし、河野宗家の血は未だ絶えていなかった。
先代通宣の庶子、通昭。母方が荒木村重の一族である彼は、河野氏の改易後は山城の国芹川村で暮らしていたが、通直が死に遺臣一同の運動にも豊臣秀吉には河野氏再興を許す意思がないと判断するや、遂にその暗殺を決意。
当人は計画を実行する前に老齢で死去したので、これも高齢な長男通許六十二歳ではなく、次男通軌がこれを引き継ぐ。
文禄元年(1592年)4月9日、九州に下向する秀吉が備後国御調八幡宮に立ち寄って戦勝祈願をすると知った通軌は、一族の得能備後、和田左衛門、栗山因幡、土居兵庫父子、松本美濃ら河野氏の遺臣と神社の藪に潜み秀吉を狙撃しようとしたが、立ちどころに露見。
全員が秀吉が訪れる前に討ち果たされてしまったと言う。その際、討ち果たされた通軌の墓こそ字野串の宝篋印塔墓で、周囲の小ぶりは墓群は共に討ち果たされた遺臣達のものであると。
……この事は「河野家譜 築山本」や郷土史、貫心流剣術などの伝承に大同小異な異説が記されており、三原市は史実ではない伝承と市史で疑問を呈したり、史家によっては毛利家が不祥事を揉み消したのだろう等と推測したりもしていますが……。
一説に、この時に御調八幡宮の藪に待ち伏せていた河野氏の遺臣は三百人とか。
……斬り込みではなく狙撃で三桁も待ち伏せる必要があったのかと思いますが、そりゃ事前に露見しますよ。
尚、計画を何も知らされていなかった長男の通許は連座を恐れ、苗字を母方の築山姓に変えて諸国を流浪の旅に出る事で族滅を免れた。
443人間七七四年
2022/04/13(水) 22:52:55.72ID:v2cJDMcC 以上、「八幡の藪」事件とも呼ばれる秀吉襲撃未遂事件。
この場合、河野氏遺臣団の手際の悪い話か、六十を超えて計画は知らされていなかったのに父と弟のせいで諸国を流浪する破目に陥った長兄の運の悪い話か?
この場合、河野氏遺臣団の手際の悪い話か、六十を超えて計画は知らされていなかったのに父と弟のせいで諸国を流浪する破目に陥った長兄の運の悪い話か?
444人間七七四年
2022/04/15(金) 18:13:31.33ID:V3JBKu5c 或る本に、大坂夏の陣の後、大御所(徳川家康)は帰陣し二条城へと入ったが、この時水野日向守(勝成)を
召して言った。
「私は先に、お前が八方の大将を承る上は、相構えて昔のように、自ら高名しようなどと思うなと言った。
ところが五月七日の合戦(天王寺・岡山の戦い)で、明石(全登)の陣へ向かい、自ら鑓を取って
真っ先に駆けて敵四人と渡り合い、二人を追い払い二人は首を切るなどと、予ての私の命を背いて
軽々しい振る舞いばかりを仕り、奇怪の至りである!」
そのように甚だお叱りになったため、彼の手の者達も高名したのであるが、御感に預かることが出来なかった。
されどもこの年の七月二十日、三万石加増有って、大和郡山の城を賜った。これは今度の勧賞であったのだろう。
同五年、備後国福山の城を賜い、城を築いて移った。十万石であった。
慶安二年二月十五日に卒した。時に八十八歳であった。
(新東鑑)
水野勝成が家康から叱られたお話
召して言った。
「私は先に、お前が八方の大将を承る上は、相構えて昔のように、自ら高名しようなどと思うなと言った。
ところが五月七日の合戦(天王寺・岡山の戦い)で、明石(全登)の陣へ向かい、自ら鑓を取って
真っ先に駆けて敵四人と渡り合い、二人を追い払い二人は首を切るなどと、予ての私の命を背いて
軽々しい振る舞いばかりを仕り、奇怪の至りである!」
そのように甚だお叱りになったため、彼の手の者達も高名したのであるが、御感に預かることが出来なかった。
されどもこの年の七月二十日、三万石加増有って、大和郡山の城を賜った。これは今度の勧賞であったのだろう。
同五年、備後国福山の城を賜い、城を築いて移った。十万石であった。
慶安二年二月十五日に卒した。時に八十八歳であった。
(新東鑑)
水野勝成が家康から叱られたお話
445人間七七四年
2022/04/16(土) 15:34:03.94ID:pm0i4x+e 飯見大膳と一族が気の毒な話
豊田氏には飯見大膳という家臣がおり、宿敵多賀谷氏の家臣である白井金洞と婚姻関係で結ばれていたため、白井から豊田氏
を殺せばお前にこの城をやるといわれておりました。飯見大膳はその言葉に乗り、豊田治親を大膳宅で毒殺。
城を我が物にいたしました。しかし、豊田氏の遺臣たちは多賀谷氏に降伏し、その条件として豊田氏の遺児の助命と、飯見大膳
一族の引き渡しを要求いたしました。多賀谷氏はこの二つを了承。裏切り者である飯見大膳を遺臣たちに引き渡しました。
遺臣たちは飯見大膳の一族36名の処刑をすぐさま実行。子供大人関係なく殺されました。
豊田氏には飯見大膳という家臣がおり、宿敵多賀谷氏の家臣である白井金洞と婚姻関係で結ばれていたため、白井から豊田氏
を殺せばお前にこの城をやるといわれておりました。飯見大膳はその言葉に乗り、豊田治親を大膳宅で毒殺。
城を我が物にいたしました。しかし、豊田氏の遺臣たちは多賀谷氏に降伏し、その条件として豊田氏の遺児の助命と、飯見大膳
一族の引き渡しを要求いたしました。多賀谷氏はこの二つを了承。裏切り者である飯見大膳を遺臣たちに引き渡しました。
遺臣たちは飯見大膳の一族36名の処刑をすぐさま実行。子供大人関係なく殺されました。
446人間七七四年
2022/04/18(月) 18:51:46.68ID:F7aHokVL 「景憲家伝」より、小幡景憲が又聞きした有名な信長のパワハラ 付、権六も被害に
信長は長篠で勝ってからことのほか不行儀が増した
柴田修理(勝家)すらも主の小鼓にて柴田に熊谷(能の敦盛)の脇を申し付け、「男(主役のシテ)見事とて脇無用引込候へと呵(大声で叱る)」
甲州没落のときも諏訪にて明智光秀の陣取りが見事だったことに嫉妬し、「明智があたまを打、その上小姓ともに明智があたまを打候へと被申、榊原小平太(康政)われら所より使に行、則其次の間にて見之物語仕る也」
榊原小平太もドン引きしたのか嬉々としてしゃべったのか
権六はいらない子
信長は長篠で勝ってからことのほか不行儀が増した
柴田修理(勝家)すらも主の小鼓にて柴田に熊谷(能の敦盛)の脇を申し付け、「男(主役のシテ)見事とて脇無用引込候へと呵(大声で叱る)」
甲州没落のときも諏訪にて明智光秀の陣取りが見事だったことに嫉妬し、「明智があたまを打、その上小姓ともに明智があたまを打候へと被申、榊原小平太(康政)われら所より使に行、則其次の間にて見之物語仕る也」
榊原小平太もドン引きしたのか嬉々としてしゃべったのか
権六はいらない子
447人間七七四年
2022/04/18(月) 18:54:43.65ID:F7aHokVL 又聞きと書きましたが、正確には家康が語ったことを小幡景憲が記した部分です
448人間七七四年
2022/04/20(水) 16:04:21.07ID:hRgr3lgH 大野主馬助治房は秀頼公の元で出頭し、大阪城中に於いては兄治長と共に、彼ら兄弟の上に立つ者も無く、
しかも今度の矛盾(大坂の陣)の張本人たる身の上であったのに、いかなる思慮があったのだろうか、
大阪落城の時、その混乱の中で城より落ち失せたという。
一説に、大野治房は秀頼の若君・国松丸を守護して落ちていった所に、禁野の辺りで、
主馬の郎党、塙市左衛門、松田庄太夫が心変わりして、治房を刺殺し、金銀を奪い取り、
国松君を捨てて逃げ去ったのだという。
(新東鑑)
大阪落城後の大野治房について
しかも今度の矛盾(大坂の陣)の張本人たる身の上であったのに、いかなる思慮があったのだろうか、
大阪落城の時、その混乱の中で城より落ち失せたという。
一説に、大野治房は秀頼の若君・国松丸を守護して落ちていった所に、禁野の辺りで、
主馬の郎党、塙市左衛門、松田庄太夫が心変わりして、治房を刺殺し、金銀を奪い取り、
国松君を捨てて逃げ去ったのだという。
(新東鑑)
大阪落城後の大野治房について
449人間七七四年
2022/04/21(木) 14:48:17.33ID:P7oGifBM 西園寺公広の最期
公家の西園寺家から分かれた伊予西園寺氏、その最後の当主である西園寺公広は元は伊予来住寺の僧侶だったが、従兄の戦死により伯父の婿養子として還俗。
長宗我部氏に降伏後は、豊臣家の四国征伐でも戦わずして小早川隆景に降伏。九州征伐には小早川勢として従軍し、降伏後も居城である黒瀬城に留まる事を許されていたのだが。
小早川隆景が九州に移封され、戸田勝隆が南予を領するようになると、情勢は一変する。
天正十五年(1587年)八月には、西園寺旧臣の過半である三十八名が城から下城が命じられ、十二月には西園寺家も土居・勸修寺・法華津の有力家臣と同様に城から去るように命じられる。
その後の南伊予の統治は、東・中予を任された福島正則と異なり東北の葛西・大崎一揆と同様の事態に。よそ者である戸田家と急遽として取り立てられた軽輩上がりの家臣により、リアル北斗の拳状態と化す南予。
土地は農家も寺社も構わず好き放題に横領され、女と見れば他者の妻でも娘でも容赦なく攫い、飽きれば捨てられたり売られたり吊るし斬りにされ、少しでも抗議すると「御公儀への謀反」と見做されて一族が磔に。
この状況下で南予の地侍達は「天下を相手に敵わないのは承知」で「座して嬲り殺されるよりは」と蜂起。
これに対して戸田勝隆、独力では鎮圧できなかったが板嶋沖の九島・願成寺で蟄居している西園寺公広の身柄と小早川隆景の傘下で九州に従軍した時の軍功で所領安堵の朱印状が出る事を仄めかして、西園寺家中で最有力な家臣であった土居清良に同朋の国人一揆を鎮圧させた。
「これでもう、西園寺公広を生かしておく理由は無くなった」
戸田勝隆はそう判断した。
十二月八日、「毛利家と小早川家を介して、九州従軍の軍功により黒瀬城と旧領を安堵する朱印状が出た」と音物を携えた使者を使わす。
翌日、旧臣十名を従えて大津城(後の大洲城)に訪れた西園寺公広。元僧侶で公家大名の五十一歳など、容易く自ら仕物にかけれると侮っていた戸田勝隆は、護衛も公広も一分の油断も隙もない事に絶句。
九日は宇和島から大洲まで移動してきた所労を労うと宴を催し、十一日に大洲城の御殿ではなく重臣・戸田駿河守の屋敷で朱印状を渡すのと偽って護衛を屋敷の玄関と次の間に控えさせ、公広単身を戸田駿河守以下で押し包んだ。
公広、二尺六寸余りに大磨上げされ無銘の安綱の佩刀を抜刀するや、即座に戸田駿河守を最初に斬り、満身創痍となりながらも同室の刺客九名を全て討ち果たすや、戸田家中の包囲する客殿で自害。次の間と玄関に控えていた小姓を含む護衛十名も五十数名を道連れにして全滅。
翌年、戸田勝隆は領内の大百姓や寺社の全てから人質を取り、武芸に秀でたと評判の者は罪状の有無に関わらず悉く殺害。
ごく一部の有力者のみ家臣に取り込み、南予支配を進めていく事になる。
以上、謀反など企んでいなくても、その実力があるだけで罪だという豊臣政権下での地元民に対する扱いが悪い話。
尚、公広の安綱は豊臣秀吉に献上された後で西園寺宗家に贈られ、今は愛知県名古屋で東建コーポレーションの刀剣ワールド財団に現存しております。
公家の西園寺家から分かれた伊予西園寺氏、その最後の当主である西園寺公広は元は伊予来住寺の僧侶だったが、従兄の戦死により伯父の婿養子として還俗。
長宗我部氏に降伏後は、豊臣家の四国征伐でも戦わずして小早川隆景に降伏。九州征伐には小早川勢として従軍し、降伏後も居城である黒瀬城に留まる事を許されていたのだが。
小早川隆景が九州に移封され、戸田勝隆が南予を領するようになると、情勢は一変する。
天正十五年(1587年)八月には、西園寺旧臣の過半である三十八名が城から下城が命じられ、十二月には西園寺家も土居・勸修寺・法華津の有力家臣と同様に城から去るように命じられる。
その後の南伊予の統治は、東・中予を任された福島正則と異なり東北の葛西・大崎一揆と同様の事態に。よそ者である戸田家と急遽として取り立てられた軽輩上がりの家臣により、リアル北斗の拳状態と化す南予。
土地は農家も寺社も構わず好き放題に横領され、女と見れば他者の妻でも娘でも容赦なく攫い、飽きれば捨てられたり売られたり吊るし斬りにされ、少しでも抗議すると「御公儀への謀反」と見做されて一族が磔に。
この状況下で南予の地侍達は「天下を相手に敵わないのは承知」で「座して嬲り殺されるよりは」と蜂起。
これに対して戸田勝隆、独力では鎮圧できなかったが板嶋沖の九島・願成寺で蟄居している西園寺公広の身柄と小早川隆景の傘下で九州に従軍した時の軍功で所領安堵の朱印状が出る事を仄めかして、西園寺家中で最有力な家臣であった土居清良に同朋の国人一揆を鎮圧させた。
「これでもう、西園寺公広を生かしておく理由は無くなった」
戸田勝隆はそう判断した。
十二月八日、「毛利家と小早川家を介して、九州従軍の軍功により黒瀬城と旧領を安堵する朱印状が出た」と音物を携えた使者を使わす。
翌日、旧臣十名を従えて大津城(後の大洲城)に訪れた西園寺公広。元僧侶で公家大名の五十一歳など、容易く自ら仕物にかけれると侮っていた戸田勝隆は、護衛も公広も一分の油断も隙もない事に絶句。
九日は宇和島から大洲まで移動してきた所労を労うと宴を催し、十一日に大洲城の御殿ではなく重臣・戸田駿河守の屋敷で朱印状を渡すのと偽って護衛を屋敷の玄関と次の間に控えさせ、公広単身を戸田駿河守以下で押し包んだ。
公広、二尺六寸余りに大磨上げされ無銘の安綱の佩刀を抜刀するや、即座に戸田駿河守を最初に斬り、満身創痍となりながらも同室の刺客九名を全て討ち果たすや、戸田家中の包囲する客殿で自害。次の間と玄関に控えていた小姓を含む護衛十名も五十数名を道連れにして全滅。
翌年、戸田勝隆は領内の大百姓や寺社の全てから人質を取り、武芸に秀でたと評判の者は罪状の有無に関わらず悉く殺害。
ごく一部の有力者のみ家臣に取り込み、南予支配を進めていく事になる。
以上、謀反など企んでいなくても、その実力があるだけで罪だという豊臣政権下での地元民に対する扱いが悪い話。
尚、公広の安綱は豊臣秀吉に献上された後で西園寺宗家に贈られ、今は愛知県名古屋で東建コーポレーションの刀剣ワールド財団に現存しております。
450人間七七四年
2022/04/21(木) 23:14:59.11ID:dsm5+nL8 立花家家臣、樺島家と壇家の断絶と復興
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利輝元と石田三成の西軍に属して戦った立花宗茂とその一族郎党であったが、 関ヶ原の戦いはご存じのとおり西軍の敗北に終わり、
立花宗茂は残兵をまとめて大坂城に戻り、そこから紆余曲折を経て 領地である柳川に戻り、そこで鍋島・加藤・黒田の軍と一戦交えたのちに開城降伏した。
関ヶ原以後の立花宗茂の紆余曲折
西国無双 吼える
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13139.html
関ヶ原の戦いにおける宗茂
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3443.html
名将の降伏 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4344.html
その後、立花宗茂は改易となるが加藤清正はじめとする諸大名からの仕官の誘いを断り、肥後の玉名郡高瀬村の清源寺に入って 加藤清正の客分として遇されることとなり、
正室の立花ァ千代は肥後国玉名郡腹赤村に寄宿することとなった。
改易された立花家に代わって柳川藩主として入ったのが田中吉政である。
慶長7年(1602年)7月11日、柳川と肥後の境近くにある面の坂にてこの前日に松風の関で 田中家の関守に捕らえられた松延村の樺島彦左衛門益義と本郷村の壇七郎兵衛忠重と
その一族の者らが磔刑に処され、 彼らの父親、松延村の庄屋・樺島式部(旧松延城主)は自宅にて切腹し、本郷村の庄屋・檀大炊介(旧松延城主)は 矢部川の川原にて斬首と相成った。
そして、樺島・壇両家は庄屋職を解かれた上で断絶となる。
何故にこのようなこととなったか?樺島・壇の両家とその一族は密かに当時は国(藩)をまたいでの 輸送は禁じられていた米と金品を塩と偽って塩俵に隠して、
味噌などと共に大八車に積んで毎月のように 旧主である立花宗茂と立花ァ千代に届けていたのである。
肥後側の南関は清正から関守を任された加藤美作が色々目溢しをしていたようであるが、何者かが密告したか たまたまバレたのかは定かではないが、田中家の領内で捕まった樺島・壇の人々は僅か一日で処刑され、
それから3カ月ほどのちにはこの事件が原因かは分からないが、立花ァ千代も34歳の若さでこの世を去ってしまうのである。
加藤清正、立花ァ千代に兵糧を送る http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13129.html
この逸話もひょっとすると、今回のこの話に絡んでいたのかも知れない。 また、樺島・壇両家の仕送りに対して宗茂は脇差を礼として送っていたとも言い、 立花宗茂が田中吉政とその家臣を毛嫌いしていた?という既出の逸話もあり、
今回の逸話のことも 一因だったのではないか?とも個人的には思う。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利輝元と石田三成の西軍に属して戦った立花宗茂とその一族郎党であったが、 関ヶ原の戦いはご存じのとおり西軍の敗北に終わり、
立花宗茂は残兵をまとめて大坂城に戻り、そこから紆余曲折を経て 領地である柳川に戻り、そこで鍋島・加藤・黒田の軍と一戦交えたのちに開城降伏した。
関ヶ原以後の立花宗茂の紆余曲折
西国無双 吼える
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13139.html
関ヶ原の戦いにおける宗茂
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3443.html
名将の降伏 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4344.html
その後、立花宗茂は改易となるが加藤清正はじめとする諸大名からの仕官の誘いを断り、肥後の玉名郡高瀬村の清源寺に入って 加藤清正の客分として遇されることとなり、
正室の立花ァ千代は肥後国玉名郡腹赤村に寄宿することとなった。
改易された立花家に代わって柳川藩主として入ったのが田中吉政である。
慶長7年(1602年)7月11日、柳川と肥後の境近くにある面の坂にてこの前日に松風の関で 田中家の関守に捕らえられた松延村の樺島彦左衛門益義と本郷村の壇七郎兵衛忠重と
その一族の者らが磔刑に処され、 彼らの父親、松延村の庄屋・樺島式部(旧松延城主)は自宅にて切腹し、本郷村の庄屋・檀大炊介(旧松延城主)は 矢部川の川原にて斬首と相成った。
そして、樺島・壇両家は庄屋職を解かれた上で断絶となる。
何故にこのようなこととなったか?樺島・壇の両家とその一族は密かに当時は国(藩)をまたいでの 輸送は禁じられていた米と金品を塩と偽って塩俵に隠して、
味噌などと共に大八車に積んで毎月のように 旧主である立花宗茂と立花ァ千代に届けていたのである。
肥後側の南関は清正から関守を任された加藤美作が色々目溢しをしていたようであるが、何者かが密告したか たまたまバレたのかは定かではないが、田中家の領内で捕まった樺島・壇の人々は僅か一日で処刑され、
それから3カ月ほどのちにはこの事件が原因かは分からないが、立花ァ千代も34歳の若さでこの世を去ってしまうのである。
加藤清正、立花ァ千代に兵糧を送る http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13129.html
この逸話もひょっとすると、今回のこの話に絡んでいたのかも知れない。 また、樺島・壇両家の仕送りに対して宗茂は脇差を礼として送っていたとも言い、 立花宗茂が田中吉政とその家臣を毛嫌いしていた?という既出の逸話もあり、
今回の逸話のことも 一因だったのではないか?とも個人的には思う。
451人間七七四年
2022/04/22(金) 20:59:28.49ID:BLpusYEu http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2285.html
一条兼定、暗殺事件
では一条兼定暗殺の実行犯、入江左近は元親に殺されたことになっているが別のパターンもある。
※入江生存パターン
「大友興廃記」より
一条康政公は長曾我部元親により四国を追われ、豊後に逃れた。
このとき康政公の御台所(大友宗麟の娘)は土佐に置かれたままだったため、宗麟公は元親と交渉し、御幼少の姫君を豊後に返してもらった。
そののち康政公は豊後でわびしい暮らしをしていたため再起をはかり、伊予国の住人で法花津の城主・播磨守則延の援けで元親にしたがう三ヶ城を落とし、伊予戸島に居住した。
この時の書状
「二三年之間御弓箭を尽くし、懇意の段、悦喜浅からず候。
わけて干戈を方々に取り鎮められたるを以って、一城を預け置くべき者なり。
三月八日 康政
法花津播磨守殿」
そんな時、土佐において元親は康政公の侍・入江左近を近づけ、予州戸島へ入りて康政公をうつべしと言い含めた。
左近はかたじけなくも譜代の家臣でありながら元親に同心し、戸島に入って康政公に言うことには
入江「代々主従の縁を忘れがたくそうらえば、ここまで参り候」
康政公は企みとは思し召さず御喜悦して
康政「うちの侍にもうとみ果てられて、尋ね来るものなきに、入江ばかりは神妙なり」と信じてしまった。
こうして種々の物語をしているうちに夜がふけると
入江「今晩は私が番をいたしましょう」と言ったため、その他の御近習は皆宿所に帰ってしまった。
康政公が枕につき、側には児扈従一人だけとなった頃、入江は近づき康政公に一太刀浴びせた。
しかし夜着が厚く、切れなかった。
康政公は早業を習得していたため、刀を抜こうとしたところ、入江は二の太刀で左腕を打ち落としてしまった。
康政公は太刀を膝の間に挟んで、入江に一太刀入れたところ、入江は妻戸をくぐって浜に出て、船に飛び乗って逃げ延びた。
駆けつけてきた康政公の侍たちが追おうとしたが、他の船のともづなはとうに入江により切られていたため、他の船は全て流れてしまっていた。
こうして入江は難なく逃げ延びた。
そののち、康政公は法花津則延により道後に送られたが、そこで病死してしまったという。
※「大友興廃記」では一条兼定の名前を誤って、文書発給者の源康政の名前にしている。
一条兼定、暗殺事件
では一条兼定暗殺の実行犯、入江左近は元親に殺されたことになっているが別のパターンもある。
※入江生存パターン
「大友興廃記」より
一条康政公は長曾我部元親により四国を追われ、豊後に逃れた。
このとき康政公の御台所(大友宗麟の娘)は土佐に置かれたままだったため、宗麟公は元親と交渉し、御幼少の姫君を豊後に返してもらった。
そののち康政公は豊後でわびしい暮らしをしていたため再起をはかり、伊予国の住人で法花津の城主・播磨守則延の援けで元親にしたがう三ヶ城を落とし、伊予戸島に居住した。
この時の書状
「二三年之間御弓箭を尽くし、懇意の段、悦喜浅からず候。
わけて干戈を方々に取り鎮められたるを以って、一城を預け置くべき者なり。
三月八日 康政
法花津播磨守殿」
そんな時、土佐において元親は康政公の侍・入江左近を近づけ、予州戸島へ入りて康政公をうつべしと言い含めた。
左近はかたじけなくも譜代の家臣でありながら元親に同心し、戸島に入って康政公に言うことには
入江「代々主従の縁を忘れがたくそうらえば、ここまで参り候」
康政公は企みとは思し召さず御喜悦して
康政「うちの侍にもうとみ果てられて、尋ね来るものなきに、入江ばかりは神妙なり」と信じてしまった。
こうして種々の物語をしているうちに夜がふけると
入江「今晩は私が番をいたしましょう」と言ったため、その他の御近習は皆宿所に帰ってしまった。
康政公が枕につき、側には児扈従一人だけとなった頃、入江は近づき康政公に一太刀浴びせた。
しかし夜着が厚く、切れなかった。
康政公は早業を習得していたため、刀を抜こうとしたところ、入江は二の太刀で左腕を打ち落としてしまった。
康政公は太刀を膝の間に挟んで、入江に一太刀入れたところ、入江は妻戸をくぐって浜に出て、船に飛び乗って逃げ延びた。
駆けつけてきた康政公の侍たちが追おうとしたが、他の船のともづなはとうに入江により切られていたため、他の船は全て流れてしまっていた。
こうして入江は難なく逃げ延びた。
そののち、康政公は法花津則延により道後に送られたが、そこで病死してしまったという。
※「大友興廃記」では一条兼定の名前を誤って、文書発給者の源康政の名前にしている。
452人間七七四年
2022/04/22(金) 21:03:48.02ID:BLpusYEu ※入江が狼に食い殺されたパターン
貝原益軒「朝野雑載」より
一条関白房家公の子孫にして、土佐の公方である一条頼房公は、元親の逆心により追い出され、縁続きの豊後の大友義統を頼った。
しかしここでも追い出され、伊予の栗木に要害を構えたところ、一条殿の家臣である入江兵庫太夫というものが頼房の首を斬り、元親に捧げてほうびを得た。
ある夜、兵庫が山路を通っていると、狼が数百出てきて兵庫を食い殺し、白骨さえもなく、刀脇差だけが残った。
そののち長曾我部もだんだんに滅んだということだ。
「朝野雑載」には「大友興廃記」から採ったとおぼしき話が色々あるが、この出典は別っぽい。
入江の最後も、前に出た話では元親に斬られたことになっているが、こちらだと狼に食い殺されている。
しかし一条頼房という名前はどこから出たのだろう
貝原益軒「朝野雑載」より
一条関白房家公の子孫にして、土佐の公方である一条頼房公は、元親の逆心により追い出され、縁続きの豊後の大友義統を頼った。
しかしここでも追い出され、伊予の栗木に要害を構えたところ、一条殿の家臣である入江兵庫太夫というものが頼房の首を斬り、元親に捧げてほうびを得た。
ある夜、兵庫が山路を通っていると、狼が数百出てきて兵庫を食い殺し、白骨さえもなく、刀脇差だけが残った。
そののち長曾我部もだんだんに滅んだということだ。
「朝野雑載」には「大友興廃記」から採ったとおぼしき話が色々あるが、この出典は別っぽい。
入江の最後も、前に出た話では元親に斬られたことになっているが、こちらだと狼に食い殺されている。
しかし一条頼房という名前はどこから出たのだろう
453人間七七四年
2022/04/23(土) 13:36:25.83ID:GYB7Ksye https://twitter.com/jun_ito_info/status/1517577410828730368
伊東潤@人間発電所
@jun_ito_info
この仕事を15年続けて分かったけど、本格歴史小説は知識量で勝負が決まる。知識量と面白さは正比例する。
知っていれば知っているだけ新解釈が生まれ、それが物語を生き生きとさせ、登場人物も光彩を放ってくる。
この好循環を生むには勉強しかない。「書く前に史料や研究本を徹底的に読め」ということ。
多少バズったので、定義をはっきりさせますね。
史実 : 一次史料に記してあるもので、まず間違いのないもの。
定説 : 権威ある研究家が提唱している説で、確固たる根拠や裏付けがあるもの。
解釈 : 史実を元にした持論。根拠や裏付けは必要。
(続く)
フィクション : 史実と定説を全く無視するか、自分に都合のいいものだけを取り上げ、勝手に持論や物語を展開させるもの
この定義を確立した上で、自説を展開する余地があれば物語にして提示する。それが歴史小説。
こうした区分けをしておくと、歴史小説は書きやすくなります。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
伊東潤@人間発電所
@jun_ito_info
この仕事を15年続けて分かったけど、本格歴史小説は知識量で勝負が決まる。知識量と面白さは正比例する。
知っていれば知っているだけ新解釈が生まれ、それが物語を生き生きとさせ、登場人物も光彩を放ってくる。
この好循環を生むには勉強しかない。「書く前に史料や研究本を徹底的に読め」ということ。
多少バズったので、定義をはっきりさせますね。
史実 : 一次史料に記してあるもので、まず間違いのないもの。
定説 : 権威ある研究家が提唱している説で、確固たる根拠や裏付けがあるもの。
解釈 : 史実を元にした持論。根拠や裏付けは必要。
(続く)
フィクション : 史実と定説を全く無視するか、自分に都合のいいものだけを取り上げ、勝手に持論や物語を展開させるもの
この定義を確立した上で、自説を展開する余地があれば物語にして提示する。それが歴史小説。
こうした区分けをしておくと、歴史小説は書きやすくなります。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
454人間七七四年
2022/04/23(土) 13:37:35.57ID:GYB7Ksye 歴史小説家伊東潤のツイートがわりと好評らしいんで転載
でもこのスタンスで書かれた小説で、臆病者の卑怯者扱いされた上杉景勝と直江兼続は災難だったなw
伊東は北条押しなんで、上杉景虎の勝利により北条が越後(+甲信)も勢力下に収める歴史を阻害した景勝主従は絶許だったらしい
そこで上杉ファンから批判受けた伊東は「フィクションに何マジなってんの?w」と返答してるから、しょせん歴史小説での
史実の裏付けなんてフレーバーに過ぎないということですな
でもこのスタンスで書かれた小説で、臆病者の卑怯者扱いされた上杉景勝と直江兼続は災難だったなw
伊東は北条押しなんで、上杉景虎の勝利により北条が越後(+甲信)も勢力下に収める歴史を阻害した景勝主従は絶許だったらしい
そこで上杉ファンから批判受けた伊東は「フィクションに何マジなってんの?w」と返答してるから、しょせん歴史小説での
史実の裏付けなんてフレーバーに過ぎないということですな
455人間七七四年
2022/04/23(土) 17:11:30.68ID:Q++SGYnq 司馬遼太郎が地方武将を悪役扱いで登場させたら、子孫だかに責められたと溢してたのは「播磨灘物語」の後書きだったかな?
そういう言い方すると江戸期まで生き残った戦国大名の多くは、神のごとく崇められているどころか、本当に神格化(神社のご祭神)されてるから、口出しできなくなってしまうね。
まあ普通はつべこべ言われたりしないよ。
そういう言い方すると江戸期まで生き残った戦国大名の多くは、神のごとく崇められているどころか、本当に神格化(神社のご祭神)されてるから、口出しできなくなってしまうね。
まあ普通はつべこべ言われたりしないよ。
456人間七七四年
2022/04/23(土) 21:12:34.98ID:lIRAMAQF 誰だったか、話を脚色するために架空の登場人物を小説に登場させたら、その子孫と名乗る人から電話があって困ったと言う話があったな。
457人間七七四年
2022/04/23(土) 21:36:26.81ID:fdTJO9ha 「貴重なご意見ありがとうございます。今後の参考とさせていただきます。」で相手しなくていいと思うけどな
458人間七七四年
2022/04/23(土) 22:18:35.51ID:5fJXLANX 吉川英治が「鳴門秘帖」に登場させた架空人物が書いたという書状を持ち込まれて困った話があったような
あとは池波正太郎「真田太平記」の樋口角兵衛とか
あとは池波正太郎「真田太平記」の樋口角兵衛とか
459人間七七四年
2022/04/24(日) 09:45:23.10ID:Yv3+t1mZ >>457
伊東潤の場合は、歴史実証主義と謳ってる割に批判されたらフィクションだから文句言うな、というとこがダサいだけですね
伊東潤の場合は、歴史実証主義と謳ってる割に批判されたらフィクションだから文句言うな、というとこがダサいだけですね
460人間七七四年
2022/04/24(日) 09:53:57.46ID:Yv3+t1mZ 景勝、兼続に辛口で、謙信の人狩りとか上杉の「義」はどこにあんだよとドヤ顔するのも、最近流行りの鎌倉武士=ヒャッハーみたいなもんで
まあ流行の一環に過ぎないというか
上杉景虎の評価に関しては、ファンタジー小説「炎の蜃気楼」が口火を切ってるわけですが、あれの作者は地元有志から米沢上杉まつりに
招待され取り込まれているので、伊東潤と乃至政彦はそういう対象に選択もされなかったということかもしれません
まあ流行の一環に過ぎないというか
上杉景虎の評価に関しては、ファンタジー小説「炎の蜃気楼」が口火を切ってるわけですが、あれの作者は地元有志から米沢上杉まつりに
招待され取り込まれているので、伊東潤と乃至政彦はそういう対象に選択もされなかったということかもしれません
461人間七七四年
2022/04/24(日) 23:17:26.73ID:6RLowsdy 「朝野雑載」より矢崎城主・中村惟冬の妻
薩摩より島津中務少輔家久を大将として新納武蔵(新納忠元)、鎌田尾張入道寛栖(鎌田政年)、梅北宮内左衛門(梅北国兼)、河上左京(川上忠智)など三万余騎が
兵船数百艘に乗り、肥後国宇土郡の郡の浦に上陸し、阿蘇大宮司の家臣である中村伯耆惟冬の籠っている矢崎の城を取り囲み、城攻めした。
惟冬も粉骨砕身で防いだが、多勢に無勢で援軍もなかったため、過半数が討たれ、残りの多くも手負となった。
惟冬はそれでも勇気をたゆまさず、わずか七十余人で城門を開けて打って出て、数刻戦い討死した。
しばらくして惟冬の妻が緋威の鎧を着て、女二十人ばかりを左右に立て、不意にどっと打って出、敵を二、三町退けたのち、枕を並べて討死したという。
ただし「明赫記」だと中村惟冬や家臣たちは各々自らの妻子を刺し殺したのちに打って出たことになっている。
薩摩より島津中務少輔家久を大将として新納武蔵(新納忠元)、鎌田尾張入道寛栖(鎌田政年)、梅北宮内左衛門(梅北国兼)、河上左京(川上忠智)など三万余騎が
兵船数百艘に乗り、肥後国宇土郡の郡の浦に上陸し、阿蘇大宮司の家臣である中村伯耆惟冬の籠っている矢崎の城を取り囲み、城攻めした。
惟冬も粉骨砕身で防いだが、多勢に無勢で援軍もなかったため、過半数が討たれ、残りの多くも手負となった。
惟冬はそれでも勇気をたゆまさず、わずか七十余人で城門を開けて打って出て、数刻戦い討死した。
しばらくして惟冬の妻が緋威の鎧を着て、女二十人ばかりを左右に立て、不意にどっと打って出、敵を二、三町退けたのち、枕を並べて討死したという。
ただし「明赫記」だと中村惟冬や家臣たちは各々自らの妻子を刺し殺したのちに打って出たことになっている。
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