戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう
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戦国ちょっと悪い話48
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https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1616370564/
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戦国ちょっと悪い話49
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2021/08/31(火) 00:47:12.80ID:ik3gw1m9
189人間七七四年
2021/11/16(火) 06:18:40.76ID:c/W8y1p0 そこであなた方良貨が率先しての出番ですよ!
いやホントに
いやホントに
191人間七七四年
2021/11/16(火) 17:21:56.14ID:pClttnhG 或る記に、上方で石田三成らが挙兵した時、真田安房守(昌幸)は息子の伊豆守(信之)を呼び寄せ、
「豊臣家に従わん」と申し聞かせたが、信之は一向に同心しなかったために昌幸は不興の顔色にて
「私は既に老年であり、立身の望みは毛頭無い。然れども海野家(真田は海野小太郎幸常の裔である)の
再興を思い、次には其の方や左衛門佐(信繁)を世にあらしめんが為ばかりに存じ立った事であるのに、
汝は内府(徳川家康)の家来である本多中務(忠勝)の縁者であることを以て、親の命に背き
不届きである!」と申した。
これに信之は、偽って答えた
「近年内府の御懇志について、一旦は私の考えも申し述べました。しかし父上が是非にも上方と
御一味するとの思し召しであるのならば、御意に従うより他はありません。」
この言葉に安房守は大いに喜び、
「其の方同心の上はいよいよ相談を遂げ、秀頼公へ一忠節無くては叶うべからず。それについて
一層熟考致すべし!」
と申すと、伊豆守も
「なるほど、心得ました。」
と言ってその座を立ち、勝手の方より密かに外に出ると、直ちに馬に打ち乗って陣所を出、
関東の味方をしたという。
(新東鑑)
信之が昌幸を欺いて徳川に味方したという、「犬伏の別れ」の別バージョン?のお話。
「豊臣家に従わん」と申し聞かせたが、信之は一向に同心しなかったために昌幸は不興の顔色にて
「私は既に老年であり、立身の望みは毛頭無い。然れども海野家(真田は海野小太郎幸常の裔である)の
再興を思い、次には其の方や左衛門佐(信繁)を世にあらしめんが為ばかりに存じ立った事であるのに、
汝は内府(徳川家康)の家来である本多中務(忠勝)の縁者であることを以て、親の命に背き
不届きである!」と申した。
これに信之は、偽って答えた
「近年内府の御懇志について、一旦は私の考えも申し述べました。しかし父上が是非にも上方と
御一味するとの思し召しであるのならば、御意に従うより他はありません。」
この言葉に安房守は大いに喜び、
「其の方同心の上はいよいよ相談を遂げ、秀頼公へ一忠節無くては叶うべからず。それについて
一層熟考致すべし!」
と申すと、伊豆守も
「なるほど、心得ました。」
と言ってその座を立ち、勝手の方より密かに外に出ると、直ちに馬に打ち乗って陣所を出、
関東の味方をしたという。
(新東鑑)
信之が昌幸を欺いて徳川に味方したという、「犬伏の別れ」の別バージョン?のお話。
192人間七七四年
2021/11/16(火) 18:04:39.49ID:W0ajfcUM 良い悪い話スレまとめの管理人が自分のブログの為にやってるんじゃないの
勝手に私物化して動画にまで手を出してるみたいだけど
何か勝手に私物化されだした頃からもうこのスレに協力するのは止めた
勝手に私物化して動画にまで手を出してるみたいだけど
何か勝手に私物化されだした頃からもうこのスレに協力するのは止めた
193人間七七四年
2021/11/16(火) 18:18:34.28ID:fQObzDUl 結局なんのなんの理屈つけて
「逸話は投稿しませーん、文句だけ言いまーす」
って事か。なるほど悪貨だ。
「逸話は投稿しませーん、文句だけ言いまーす」
って事か。なるほど悪貨だ。
194人間七七四年
2021/11/16(火) 21:21:22.05ID:/jTn07bK 議論が必要だよ
もろもろ
もろもろ
195人間七七四年
2021/11/17(水) 07:56:01.54ID:NJoySAHn >>192
何をいまさら嘆いたところでもう遅い
そういった利己的なやつのせいで良い悪いスレはもうとっくに死んでる
勝手な振る舞いに嫌気がさして去ったやつ等も戻っては来ない
今はただ強欲管理人がスレ維持の為にコピペ貼るだけのスレになった
何をいまさら嘆いたところでもう遅い
そういった利己的なやつのせいで良い悪いスレはもうとっくに死んでる
勝手な振る舞いに嫌気がさして去ったやつ等も戻っては来ない
今はただ強欲管理人がスレ維持の為にコピペ貼るだけのスレになった
196人間七七四年
2021/11/17(水) 08:22:40.94ID:WWXSk6Hc 管理人云々というのもいるからやろうに
197人間七七四年
2021/11/17(水) 11:49:48.49ID:Rn/aJH79 バカはまとめてNG
199人間七七四年
2021/11/17(水) 19:00:36.39ID:kX5VEqU/ そして誰もいなくなった
200人間七七四年
2021/11/19(金) 13:00:05.02ID:furH5ySo 「醒睡笑」とともに落語の元祖とされる「昨日は今日の物語」から
昔、下京に道無というものがいた。
良い娘を持っていたため他人が縁談を勧めた。
道無「相手はどのくらいの身上か?」
「四国の主であったが、今は浪人じゃ」
道無「おかしなことを、十石取りにでさえ惜しむ娘を四石取りになど」
とついに承知しなかった。
四国の主、もしあの人だとしたら縁談進めなくて正解だった気がする
昔、下京に道無というものがいた。
良い娘を持っていたため他人が縁談を勧めた。
道無「相手はどのくらいの身上か?」
「四国の主であったが、今は浪人じゃ」
道無「おかしなことを、十石取りにでさえ惜しむ娘を四石取りになど」
とついに承知しなかった。
四国の主、もしあの人だとしたら縁談進めなくて正解だった気がする
201人間七七四年
2021/11/19(金) 13:34:01.89ID:825YLhYZ どうせ今浪人じゃ娘食わせられないことに変わらないし
202人間七七四年
2021/11/19(金) 14:05:43.91ID:tqj7QyJe 大阪城で露と消えそう
203人間七七四年
2021/11/21(日) 16:01:22.28ID:Fvc+5BzI 大永年中に河野四郎通直(弾正少弼。伊予の名族)は予州の氏族を滅ぼしてその領地を併せ持ち、
自家を大きくして国中の兵将を押し靡かんと望んだ。まず不服の氏族を攻めて軍諍を始め、
この時に今岡、重見、河野の一家など同姓の輩が他国に分散した。
(中略)各々弱は強に制せられてその領地を削られ、あるいは殺戮され、追放された。
ところで、河野家の祖先に“息方(ヲキガタ)”という人がいたがこの人について異伝がある。
往昔の河野家に右衛門三郎といって門戸を守る者がいた。その気性は強暴で哀愍の情は少なく、
乞食人を嫌って門戸に入れなかった。四国は弘法大師出生の地で、仏法流布の境域である。
真言を宗とする者は四国辺路を物乞いし、霊仏を巡礼して菩提を祈ったが、
右衛門三郎はこうした人をも門内に入れなかった。
右衛門三郎が年老いて臨終の時、僧1人が来て曰く「汝は生涯強暴にして慈悲心もなかった。
しかしながら潔白にして正直であった。何であっても未来の願があるならば、叶えて取らせよう」
右衛門三郎は曰く「我が何を願い、何を憂いようか。我に願うことはない。
しかしもし願って叶うというならば、我が君河野殿の子に生まれることだろうか」
僧は「その願を合えん」と言うと白玉を出して左手に握らせ、死に赴かせた。
果たして河野の子は白玉を握って出生した。これを息方というのである。
息方は成長後に河野家を継ぎ、不動の像を造ってその白玉を玉眼とし、これを崇信して氏の証とした。
その後裔は今度の内乱で郷里を去る時、不動像を背負って讃州坂田庄室山の下に来たり、
一宇を安置して泉光寺と号した。この名は清泉があったことが由来である。
天正年中の大地震(天正地震)により天下悩乱し、大地は割れて白水を出し、大山は崩れて郷里は埋まり、
平陸は破れて海底に沈むことがあった。この時、室山は崩れて泉光寺は地の底に埋まった。
河野氏族は深く嘆いて掘り出そうとしたが力足らずして止め、ここに新たに堂を立て不動像を造り、
旧所に安置して河野氏族の氏寺とした。その一宇は今も存在する。その部類はなお多い。
――『南海通記』
異伝は空海と衛門三郎の伝承に酷似しているが通直に追われた河野氏族に伝承されていたものか
自家を大きくして国中の兵将を押し靡かんと望んだ。まず不服の氏族を攻めて軍諍を始め、
この時に今岡、重見、河野の一家など同姓の輩が他国に分散した。
(中略)各々弱は強に制せられてその領地を削られ、あるいは殺戮され、追放された。
ところで、河野家の祖先に“息方(ヲキガタ)”という人がいたがこの人について異伝がある。
往昔の河野家に右衛門三郎といって門戸を守る者がいた。その気性は強暴で哀愍の情は少なく、
乞食人を嫌って門戸に入れなかった。四国は弘法大師出生の地で、仏法流布の境域である。
真言を宗とする者は四国辺路を物乞いし、霊仏を巡礼して菩提を祈ったが、
右衛門三郎はこうした人をも門内に入れなかった。
右衛門三郎が年老いて臨終の時、僧1人が来て曰く「汝は生涯強暴にして慈悲心もなかった。
しかしながら潔白にして正直であった。何であっても未来の願があるならば、叶えて取らせよう」
右衛門三郎は曰く「我が何を願い、何を憂いようか。我に願うことはない。
しかしもし願って叶うというならば、我が君河野殿の子に生まれることだろうか」
僧は「その願を合えん」と言うと白玉を出して左手に握らせ、死に赴かせた。
果たして河野の子は白玉を握って出生した。これを息方というのである。
息方は成長後に河野家を継ぎ、不動の像を造ってその白玉を玉眼とし、これを崇信して氏の証とした。
その後裔は今度の内乱で郷里を去る時、不動像を背負って讃州坂田庄室山の下に来たり、
一宇を安置して泉光寺と号した。この名は清泉があったことが由来である。
天正年中の大地震(天正地震)により天下悩乱し、大地は割れて白水を出し、大山は崩れて郷里は埋まり、
平陸は破れて海底に沈むことがあった。この時、室山は崩れて泉光寺は地の底に埋まった。
河野氏族は深く嘆いて掘り出そうとしたが力足らずして止め、ここに新たに堂を立て不動像を造り、
旧所に安置して河野氏族の氏寺とした。その一宇は今も存在する。その部類はなお多い。
――『南海通記』
異伝は空海と衛門三郎の伝承に酷似しているが通直に追われた河野氏族に伝承されていたものか
204人間七七四年
2021/11/21(日) 16:17:25.55ID:mcu/nSEA http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11862.html
この下の方にも衛門三郎と空海の話があるな
この下の方にも衛門三郎と空海の話があるな
205人間七七四年
2021/11/24(水) 10:11:10.33ID:XTGck5aC 相方猫地蔵の由緒
一五七四年(天正二年春)尾道の浄土寺で妖怪騒動が起きた。
当初相方村に備後一円で名を馳せた弓の名人千葉修理之進に
妖怪退治の要請が、殿様の命を受けた使者の命を懸けた懇願に
断りきれず見事退治した。その夜から、家族共々皆狂い廻る
病に犯され、祈祷師に祈祷をして貰った所、妖怪の怨霊の祟りと
告げられ、罪無き子猫と共に成敗され成仏できん、親子の猫地蔵を
造り祀ってくれれば罪滅ぼしに信者の願い事は何でも叶えてやる。
特に咳の病気で難儀している信者は即治してやる。早速紙屋谷に
石造りの小祠を建てねんごろに供養したところ三日後より
家族皆回復した。此の事から祀られてきたお地蔵様です。
紙屋谷では不便なため住還道に親猫を祀っていましたが、
祠崩落の恐れが出て親子共に現在のところに移設しました。
二〇十二年(平成二十四年)十二月吉日 相方歴史研究会
一五七四年(天正二年春)尾道の浄土寺で妖怪騒動が起きた。
当初相方村に備後一円で名を馳せた弓の名人千葉修理之進に
妖怪退治の要請が、殿様の命を受けた使者の命を懸けた懇願に
断りきれず見事退治した。その夜から、家族共々皆狂い廻る
病に犯され、祈祷師に祈祷をして貰った所、妖怪の怨霊の祟りと
告げられ、罪無き子猫と共に成敗され成仏できん、親子の猫地蔵を
造り祀ってくれれば罪滅ぼしに信者の願い事は何でも叶えてやる。
特に咳の病気で難儀している信者は即治してやる。早速紙屋谷に
石造りの小祠を建てねんごろに供養したところ三日後より
家族皆回復した。此の事から祀られてきたお地蔵様です。
紙屋谷では不便なため住還道に親猫を祀っていましたが、
祠崩落の恐れが出て親子共に現在のところに移設しました。
二〇十二年(平成二十四年)十二月吉日 相方歴史研究会
206人間七七四年
2021/11/26(金) 21:22:29.85ID:nTccaeTD 大阪冬の陣の直前、片桐且元が大阪城より退去すると、大阪方は十月十二日、軍勢を堺に向かさせ
その占拠を目論んだ。
ある説に、この時堺に加賀屋正碩という富豪の町人が在った。豊臣軍が迫っていることを知った彼は、
自身で町中を駆け廻って申した
「女童、足弱は別として、十五歳以上六十歳以下は一人も当地を立ち退く必要はない!
どうするかと言えば、先ず若者と老人が、当面敵味方となる。
そして大阪へは老人共より、焔硝千斤を献じて、軍勢に寄って放火狼藉されることを免れるべし。
また若者二、三百人は政所(堺奉行所)へ行って、
『大阪より討ち手が甚だしく向かって来ていると承りました、僅かのご人数では御勝利出来ません、
岸和田へ御退きあれ』と無理にでも誘い引かせるのだ。
幸いにも堺奉行の芝山(正親)殿は眼病なので、この事に必ず従われるだろう。
そして後で関東より、焔硝を大阪に献じたことを咎められれば、老人たちの致したことであり
是非に及ばぬ旨を陳述するように。
世上が静謐になった後は、勝利した方に付けば良い。」
この言葉にみな同意したとの事である。
(新東鑑)
大坂冬の陣直前、豊臣軍の堺占拠の折の逸話。
その占拠を目論んだ。
ある説に、この時堺に加賀屋正碩という富豪の町人が在った。豊臣軍が迫っていることを知った彼は、
自身で町中を駆け廻って申した
「女童、足弱は別として、十五歳以上六十歳以下は一人も当地を立ち退く必要はない!
どうするかと言えば、先ず若者と老人が、当面敵味方となる。
そして大阪へは老人共より、焔硝千斤を献じて、軍勢に寄って放火狼藉されることを免れるべし。
また若者二、三百人は政所(堺奉行所)へ行って、
『大阪より討ち手が甚だしく向かって来ていると承りました、僅かのご人数では御勝利出来ません、
岸和田へ御退きあれ』と無理にでも誘い引かせるのだ。
幸いにも堺奉行の芝山(正親)殿は眼病なので、この事に必ず従われるだろう。
そして後で関東より、焔硝を大阪に献じたことを咎められれば、老人たちの致したことであり
是非に及ばぬ旨を陳述するように。
世上が静謐になった後は、勝利した方に付けば良い。」
この言葉にみな同意したとの事である。
(新東鑑)
大坂冬の陣直前、豊臣軍の堺占拠の折の逸話。
207人間七七四年
2021/11/28(日) 12:34:53.57ID:jRfz3VOu 江戸初期の笑話集「昨日は今日の物語」から三条西実枝(実澄)に関するお話
和歌に造詣が深いためか、大河「麒麟がくる」では正親町天皇と明智光秀の仲介役としてけっこう後半の出番が多かった
(里村)紹巴の所へ、九州より連歌執心の人上洛。
九州の人「国もとへの外聞にて候ほどに、三条西殿へ御体申したく」
紹巴「やすき事。
御公家衆は、物ごとに御念いり、根問いをなさるるぞ。
貴所の宿は三条にて候ほどに、左様のきづかい肝要」
九州の人「まことに御心づけかたじけない。そこはまかせおかれよ」と申す。
さて御対面にて御盃くだされ、さまざま御ねんごろにて、
三条西実枝「向後は、上国のみぎりは、さいさい待ち入り」などと仰られ、さて案内のごとく、
実枝「ここもとへ宿は?」と御尋ねなさるる。
かの人、なんと心得てか、「二条の下」と申す。
実枝「二条の下?」と仰せければ、
又「四条の上」と申す。
実枝「四条の上とは?」と仰ければ、
その時かの人うろたえて、「三条西のつらのきたなき家に居まいらする」と申上げられた。
帰るさに紹巴に叱られて、「いわれざる御心づけにて」と、かえって恨みられた。
里村紹巴の仲介で三条西実枝と関係を築こうとしたところ、三条の宿に泊まっていたため
宿を問われても相手の苗字に気を遣って回りくどい言い方をしていたが、重ねて問われ、
「三条西のつらのきたなき」と、最悪の返答をしてしまったという話。
和歌に造詣が深いためか、大河「麒麟がくる」では正親町天皇と明智光秀の仲介役としてけっこう後半の出番が多かった
(里村)紹巴の所へ、九州より連歌執心の人上洛。
九州の人「国もとへの外聞にて候ほどに、三条西殿へ御体申したく」
紹巴「やすき事。
御公家衆は、物ごとに御念いり、根問いをなさるるぞ。
貴所の宿は三条にて候ほどに、左様のきづかい肝要」
九州の人「まことに御心づけかたじけない。そこはまかせおかれよ」と申す。
さて御対面にて御盃くだされ、さまざま御ねんごろにて、
三条西実枝「向後は、上国のみぎりは、さいさい待ち入り」などと仰られ、さて案内のごとく、
実枝「ここもとへ宿は?」と御尋ねなさるる。
かの人、なんと心得てか、「二条の下」と申す。
実枝「二条の下?」と仰せければ、
又「四条の上」と申す。
実枝「四条の上とは?」と仰ければ、
その時かの人うろたえて、「三条西のつらのきたなき家に居まいらする」と申上げられた。
帰るさに紹巴に叱られて、「いわれざる御心づけにて」と、かえって恨みられた。
里村紹巴の仲介で三条西実枝と関係を築こうとしたところ、三条の宿に泊まっていたため
宿を問われても相手の苗字に気を遣って回りくどい言い方をしていたが、重ねて問われ、
「三条西のつらのきたなき」と、最悪の返答をしてしまったという話。
208人間七七四年
2021/11/29(月) 13:36:34.53ID:/wW17Iqe 小籔のやったヤツ?
209人間七七四年
2021/11/29(月) 13:54:09.38ID:XpD/AGtU 三条西実澄はドラマだと部屋中本まみれで明智気に入って正親町天皇と引き合わせた人
小籔のは二条晴良
小籔のは二条晴良
210人間七七四年
2021/11/29(月) 17:00:44.44ID:NLV3QtN+ 或る記に、塙直之(団右衛門)は加藤嘉明の元を浪人した後、左馬助(嘉明)に奉公構を受け、慶長十四年に
出家と成り中国地方に在った所、大阪の一乱(大坂の陣)が起こるということを聞いくと直ぐに
「関東に下り、何方へなりとも付いて参陣しよう。」
と、譜代の家人である山縣三郎右衛門という者を召し連れて近江路まで進んだが、この時
諸浪人が大阪に抱えられているという事を知り
「関東に下るべきか、それとも大阪城に入るべきか」
と迷い、心一決せず山縣三郎右衛門に相談した。すると三郎右衛門は
「はるばる東国へ下ったとしても、諸大名やその従臣数多であり、参陣しても禄は多く貰えないでしょう。
大阪へ行かれれば、歓迎され高知を給わるでしょう。さらに軍功があれば大名にもなれるでしょう。
この理、当然のことです。」
と諌めた。
これに「然らば」と、塙直之は近江路より引き返し大阪に着くと、伝手を以て豊臣家に仕えようと
様々に徘徊していた折に、雲居法師が城に出入りするのに行き合ったが、彼は直之の従弟であったので、
その事を話し、直に城中に入ったという。
(新東鑑)
塙団右衛門、大阪入城についての逸話
出家と成り中国地方に在った所、大阪の一乱(大坂の陣)が起こるということを聞いくと直ぐに
「関東に下り、何方へなりとも付いて参陣しよう。」
と、譜代の家人である山縣三郎右衛門という者を召し連れて近江路まで進んだが、この時
諸浪人が大阪に抱えられているという事を知り
「関東に下るべきか、それとも大阪城に入るべきか」
と迷い、心一決せず山縣三郎右衛門に相談した。すると三郎右衛門は
「はるばる東国へ下ったとしても、諸大名やその従臣数多であり、参陣しても禄は多く貰えないでしょう。
大阪へ行かれれば、歓迎され高知を給わるでしょう。さらに軍功があれば大名にもなれるでしょう。
この理、当然のことです。」
と諌めた。
これに「然らば」と、塙直之は近江路より引き返し大阪に着くと、伝手を以て豊臣家に仕えようと
様々に徘徊していた折に、雲居法師が城に出入りするのに行き合ったが、彼は直之の従弟であったので、
その事を話し、直に城中に入ったという。
(新東鑑)
塙団右衛門、大阪入城についての逸話
211人間七七四年
2021/11/29(月) 17:07:02.12ID:Mpqgaxv0 「諸象戯図式」
小象戯 駒数四十枚
天文年中、後奈良天皇、日野宰相藤晴光、伊勢守平貞孝等に命じ、酔象を除く者也。
麒麟がくるでは天文十八年の将棋では酔象がまだ存在してたっけ
今では小将棋は酔象あり(42枚)、本将棋は酔象なし(40枚)をさすけど
小象戯 駒数四十枚
天文年中、後奈良天皇、日野宰相藤晴光、伊勢守平貞孝等に命じ、酔象を除く者也。
麒麟がくるでは天文十八年の将棋では酔象がまだ存在してたっけ
今では小将棋は酔象あり(42枚)、本将棋は酔象なし(40枚)をさすけど
212人間七七四年
2021/12/01(水) 00:17:05.27ID:5lsKvRdt 『諸象戯図式』には小象戯として
酔象ありの42枚とするもの、酔象を除いた40枚とするものの2種類が紹介されてる
その42枚の方は持ち駒再使用ありで、いまの小将棋(持ち駒再使用なし)とはゲーム性がまた違う
酔象ありの42枚とするもの、酔象を除いた40枚とするものの2種類が紹介されてる
その42枚の方は持ち駒再使用ありで、いまの小将棋(持ち駒再使用なし)とはゲーム性がまた違う
213人間七七四年
2021/12/02(木) 14:58:05.53ID:K46OWYnc 或る記に、大阪冬の陣、十一月六日の朝、大御所(徳川家康)に中井大和守(正清)が言上した所によると、
三井寺照光院御門主、並びに三井寺の僧侶七人が大阪の密旨を得て、家康公を呪詛し奉るという事を、
三井寺の本覚坊が訴えたという。
この事は板倉伊賀守(勝重)に御吟味が仰せ付けられ、三井寺の宝泉院、光浄院両所の僧が召喚された。
かの両僧の申す所によると
「本覚坊は不義の僧であったため、僧中で詮議して一山より追放致しました。そこで最近は大徳寺の辺りを
徘徊していたと申す者も有ります。そして彼は追放されたことを意趣として、照光院、並びに三井寺の
僧中を憎み、このように偽って申し上げたのでしょう。
その上照光院と三井寺僧中はそもそも不和であり、調伏を一緒になって行うような事はありえません。」
そう重ねて申し上げたため、板倉より、かの本覚坊を召し捉え、三井寺に差し出すべき旨を申し渡した。
別記に、照光院と三井寺僧中が不和に成った起こりは従来、聖護院、実相院、圓満院の三御門主にて
三井寺を御支配していた所が、秀吉公以来、聖護院だけがこれを支配するようになり、それ故に
照光院などと関係が悪化したのだという。
また一説に、関東調伏の事は金地院(崇伝)を以て御尋ねが有ったとも言う。
(新東鑑)
三井寺内部の紛争が大阪冬の陣で変な所に飛び火したお話
三井寺照光院御門主、並びに三井寺の僧侶七人が大阪の密旨を得て、家康公を呪詛し奉るという事を、
三井寺の本覚坊が訴えたという。
この事は板倉伊賀守(勝重)に御吟味が仰せ付けられ、三井寺の宝泉院、光浄院両所の僧が召喚された。
かの両僧の申す所によると
「本覚坊は不義の僧であったため、僧中で詮議して一山より追放致しました。そこで最近は大徳寺の辺りを
徘徊していたと申す者も有ります。そして彼は追放されたことを意趣として、照光院、並びに三井寺の
僧中を憎み、このように偽って申し上げたのでしょう。
その上照光院と三井寺僧中はそもそも不和であり、調伏を一緒になって行うような事はありえません。」
そう重ねて申し上げたため、板倉より、かの本覚坊を召し捉え、三井寺に差し出すべき旨を申し渡した。
別記に、照光院と三井寺僧中が不和に成った起こりは従来、聖護院、実相院、圓満院の三御門主にて
三井寺を御支配していた所が、秀吉公以来、聖護院だけがこれを支配するようになり、それ故に
照光院などと関係が悪化したのだという。
また一説に、関東調伏の事は金地院(崇伝)を以て御尋ねが有ったとも言う。
(新東鑑)
三井寺内部の紛争が大阪冬の陣で変な所に飛び火したお話
214人間七七四年
2021/12/03(金) 21:10:31.61ID:2Iizd9Vy215人間七七四年
2021/12/03(金) 21:44:38.13ID:9P0uR6cr 一条大路で晒された後、妙心寺(快川紹喜の居た寺)に引き取られたんじゃないの>勝頼らの首
映画の創作?
いずれにせよ勝頼は朝敵扱いだったので、
京都で晒されるのは「必要な儀式」だったり
映画の創作?
いずれにせよ勝頼は朝敵扱いだったので、
京都で晒されるのは「必要な儀式」だったり
216人間七七四年
2021/12/03(金) 23:13:02.08ID:pSaRneIZ 「名残常盤記」続き
(常盤は頼康の寵愛を受け懐妊するが、ほかの側室たちに妬まれた。
また、世田谷吉良家譜代の内海掃部という美男の侍は、風紀の乱れを注意したことで玉の井の婢女(はしため)の恨みを買っていた。
頼康が主君かつ親族(頼康の正妻は北条氏康の姉妹とされる)の北条氏康の見舞いのため小田原に出向いた際、
途中の藤沢の宿において、掃部のたもとから常盤の手跡の恋文が挟まれた袱紗(ふくさ)がでてきた。
目をかけていた家臣と常盤との密通に激怒した頼康は内海一族を成敗し、常盤の殺害も命じた。
頼康の姉の淀殿は常盤の潔白を信じ「せめて子が産まれるまでは」と止めるが頼康が聞き入れないため、ひそかに常盤を逃そうとした。
しかし夜道を逃げる常盤に頼康の追手がおいついたため常盤は自害。享年十九、胎内の子は八ヶ月であった。)
さても御所には一旦憤り深く思し召し、情けなくも計らいたまえども、妹背の契り、かれこれ朝夕のおゆかしく思い給いて、ひたすら鬱々として、おものをも仰せられず。
人目忍び入り、御涙せきあえたまわず、御所しずまりかえり、さびしきおりから、文月九日の朝より、不思議や御殿震動することおびただしく、
山崎の辺より白鷺むらがり、なきさけぶことかまびすしく、そもおそろし。
御所にも御驚きましまして、諸山の貴僧高僧を集めて、さまざまお祈りありけるところ、
ふしぎや玉の井の婢女、にわかに狂乱馳せめぐり、しばらくありて口走る。
「我はこれ鷺の宮の神霊なり。汝ら三寸の舌をもって、あやりなき人を殺し、殊に若君を失いたてまつること、天の咎め逃れ難し。
常盤の方にはつゆいささか、曇りなき身を袱紗より、事発端し内海父子を滅ぼせしは不届きとやいわん。
(以下、側室と玉の井の婢女が共謀し、常盤に仕えていた右筆をだまして恋文を書かせ、藤沢宿の遊女をしていた婢女の妹に命じ、内海掃部が居眠りした隙に袖の中に袱紗を忍ばせたことをあばき)
汝らいちいち責め殺さで置くべきか」とはしりめぐりてどうとふし、
また起き上がり、掃部が声にてお恨み数々申し上ぐ。書きたるものを取り出し、御所様へ投げつけたてまつる。
出仕の銘々、魂きえ寄り添い、介抱してければ、物の怪去って静かなり。書きたるものを御覧ずれば
「おしおきは いろはのうちの下の文字」この心は、とがなくてしす、という事なるべし。
御所にもこのころの、奇怪さまざまなり。うち、物の怪の申したる事恐ろしく、御憤りに引きかえて、人々の思惑、淀殿の毎度の御異見おもちいなく、罪なき人を死罪せし、
我が身ひとつにふるなみだ、御機嫌あしく、近習外様、御叱りを、こうむらざる人もなし。
(その後、頼康は内海掃部と常盤の親族に詫びをし、事件に関わった女房たち十三人を水責めにして全てを白状させ、若林村で残らず成敗した。
胎児のまま死亡した若君のために一社を建立し、馬引沢中郷神戸(ごうど)若宮八幡として崇めたてまつり、
常盤の供養として法華経千部を書写し弁財天を勧請した)
さても修行者の空山(物語の聞き手)は、夢うつつとも幻に、ながなが由来を上臈(語り手、仙女と見紛う美女)の、御物語を聞きおりしが、
遠寺の鐘の告げわたり、日も西山に傾きて、黄昏しらす鳥の声。
上臈見ればましまさず、いかにいかにと我ながら不思議に覚え、
「おもかげは 程なく消えて 跡にただ 田の面に残る 草の葉の露」
と古歌を吟じて、行方は諸国修行の道と。
「とやかくと 書集めたる もしお草 いつわりばかり 世には残して」
名残常盤記 終
(鈴木堅次郎「世田谷城 名残常盤記」から鈴木氏が四写本を用いてまとめたものから抜粋・要約)
(常盤は頼康の寵愛を受け懐妊するが、ほかの側室たちに妬まれた。
また、世田谷吉良家譜代の内海掃部という美男の侍は、風紀の乱れを注意したことで玉の井の婢女(はしため)の恨みを買っていた。
頼康が主君かつ親族(頼康の正妻は北条氏康の姉妹とされる)の北条氏康の見舞いのため小田原に出向いた際、
途中の藤沢の宿において、掃部のたもとから常盤の手跡の恋文が挟まれた袱紗(ふくさ)がでてきた。
目をかけていた家臣と常盤との密通に激怒した頼康は内海一族を成敗し、常盤の殺害も命じた。
頼康の姉の淀殿は常盤の潔白を信じ「せめて子が産まれるまでは」と止めるが頼康が聞き入れないため、ひそかに常盤を逃そうとした。
しかし夜道を逃げる常盤に頼康の追手がおいついたため常盤は自害。享年十九、胎内の子は八ヶ月であった。)
さても御所には一旦憤り深く思し召し、情けなくも計らいたまえども、妹背の契り、かれこれ朝夕のおゆかしく思い給いて、ひたすら鬱々として、おものをも仰せられず。
人目忍び入り、御涙せきあえたまわず、御所しずまりかえり、さびしきおりから、文月九日の朝より、不思議や御殿震動することおびただしく、
山崎の辺より白鷺むらがり、なきさけぶことかまびすしく、そもおそろし。
御所にも御驚きましまして、諸山の貴僧高僧を集めて、さまざまお祈りありけるところ、
ふしぎや玉の井の婢女、にわかに狂乱馳せめぐり、しばらくありて口走る。
「我はこれ鷺の宮の神霊なり。汝ら三寸の舌をもって、あやりなき人を殺し、殊に若君を失いたてまつること、天の咎め逃れ難し。
常盤の方にはつゆいささか、曇りなき身を袱紗より、事発端し内海父子を滅ぼせしは不届きとやいわん。
(以下、側室と玉の井の婢女が共謀し、常盤に仕えていた右筆をだまして恋文を書かせ、藤沢宿の遊女をしていた婢女の妹に命じ、内海掃部が居眠りした隙に袖の中に袱紗を忍ばせたことをあばき)
汝らいちいち責め殺さで置くべきか」とはしりめぐりてどうとふし、
また起き上がり、掃部が声にてお恨み数々申し上ぐ。書きたるものを取り出し、御所様へ投げつけたてまつる。
出仕の銘々、魂きえ寄り添い、介抱してければ、物の怪去って静かなり。書きたるものを御覧ずれば
「おしおきは いろはのうちの下の文字」この心は、とがなくてしす、という事なるべし。
御所にもこのころの、奇怪さまざまなり。うち、物の怪の申したる事恐ろしく、御憤りに引きかえて、人々の思惑、淀殿の毎度の御異見おもちいなく、罪なき人を死罪せし、
我が身ひとつにふるなみだ、御機嫌あしく、近習外様、御叱りを、こうむらざる人もなし。
(その後、頼康は内海掃部と常盤の親族に詫びをし、事件に関わった女房たち十三人を水責めにして全てを白状させ、若林村で残らず成敗した。
胎児のまま死亡した若君のために一社を建立し、馬引沢中郷神戸(ごうど)若宮八幡として崇めたてまつり、
常盤の供養として法華経千部を書写し弁財天を勧請した)
さても修行者の空山(物語の聞き手)は、夢うつつとも幻に、ながなが由来を上臈(語り手、仙女と見紛う美女)の、御物語を聞きおりしが、
遠寺の鐘の告げわたり、日も西山に傾きて、黄昏しらす鳥の声。
上臈見ればましまさず、いかにいかにと我ながら不思議に覚え、
「おもかげは 程なく消えて 跡にただ 田の面に残る 草の葉の露」
と古歌を吟じて、行方は諸国修行の道と。
「とやかくと 書集めたる もしお草 いつわりばかり 世には残して」
名残常盤記 終
(鈴木堅次郎「世田谷城 名残常盤記」から鈴木氏が四写本を用いてまとめたものから抜粋・要約)
217人間七七四年
2021/12/04(土) 00:04:07.31ID:O9A6HOPb なお常盤が殺された理由については
頼康の正室が北条氏のため、跡取りになるような男児が産まれるのを防ぐため、という説も
(黒田基樹「北条氏康の家臣団」によれば、
頼康には太郎・次郎・辰房丸という男児がいて、太郎と次郎は北条氏が嫁いだ時にはすでに生まれていたようだから成り立たないが)
結局のところ男児が全員死んだか、北条の血を引く辰房丸だけ死んだかで適当な後継がいなかったため
頼康は北条氏康の指定した氏朝(遠江今川嫡流の堀越六郎の子で母親は氏康妹の山木大方、正室は北条玄庵の娘)を養子に迎え、翌年病死。
この氏朝の代で小田原征伐が起き世田谷城から退去、その後は家康に従う。
https://i.imgur.com/SkH8d9K.jpg
「へうげもの」にも氏朝は少し出てくる
頼康の正室が北条氏のため、跡取りになるような男児が産まれるのを防ぐため、という説も
(黒田基樹「北条氏康の家臣団」によれば、
頼康には太郎・次郎・辰房丸という男児がいて、太郎と次郎は北条氏が嫁いだ時にはすでに生まれていたようだから成り立たないが)
結局のところ男児が全員死んだか、北条の血を引く辰房丸だけ死んだかで適当な後継がいなかったため
頼康は北条氏康の指定した氏朝(遠江今川嫡流の堀越六郎の子で母親は氏康妹の山木大方、正室は北条玄庵の娘)を養子に迎え、翌年病死。
この氏朝の代で小田原征伐が起き世田谷城から退去、その後は家康に従う。
https://i.imgur.com/SkH8d9K.jpg
「へうげもの」にも氏朝は少し出てくる
218人間七七四年
2021/12/05(日) 16:25:39.70ID:J7djUx9K (北条氏康の死後)
氏康御病気の頃より今に至って、譜代重恩の輩は申すに及ばず、関八州御旗下の大名は群をなした。
その他に甲州、越後、佐竹、方々の使者は往来して止まず。
御中陰の日数がようやく過ぎ、氏政(北条氏政)は伊豆の三島へ鷹狩りに御出になったところへ甲州より使者が来たる。
氏真(今川氏真)と氏政は親しき間柄で小田原に居住しており、そのうえ譜代の侍はいまだに多く、
また家康公も内々氏真に御芳志があった。そのため信玄(武田信玄)は行末を難しく思われたのだろうか、
氏真を討ち申したいと密かに氏政へ人を遣わしたのである。
氏政はいかに思し召されたのかその旨を合点なさり、すでに甲州より忍んで討手の者どもが来ると聞こえた。
悪事千里を走る習い、やがてその事を聞き付けなさり、氏真の御前(早川殿)は氏政の御姉なので
この上なく御恨みになり、氏真その他下々に至るまで「氏政は人倫に非ず」と立腹限りなし。
ここにいてはならないと氏真は小田原を引き払い、家康公を御頼みになって妻子を引き連れて浜松へ落ちなさった。
また、御心の内はさぞかしと思いやられる一首を詠んだ。
「中々に世をも人をも恨むまじ、時にあはぬを身の科にして、氏真」
家康公は先年の御言葉もあり、屋形を作って氏真を据え、御懇情浅からず御労りを施しなさった。
これぞまことに仁政たるべし。
そもそも今川の家は代々小田原と縁者であり、早雲氏綱二代重恩を受け、特に氏真は御兄弟の契りあり。
何によって信玄に語らわれたのか今川殿を追い出し、このような情け無き振る舞いは謂れなし。
まことに頼む木の本に雨も溜まらぬ風情かな。中陰の折で誰か言う人もなし。
末の世まで嘲弄を受けるだろう、当家の運は末になったと小田原の諸臣は悲しんだ。
――『北条五代実記(北条盛衰記)』
よく氏真の辞世の句と紹介される一首だがこの本書では小田原出奔時の無念を詠んだものになっている。
氏康御病気の頃より今に至って、譜代重恩の輩は申すに及ばず、関八州御旗下の大名は群をなした。
その他に甲州、越後、佐竹、方々の使者は往来して止まず。
御中陰の日数がようやく過ぎ、氏政(北条氏政)は伊豆の三島へ鷹狩りに御出になったところへ甲州より使者が来たる。
氏真(今川氏真)と氏政は親しき間柄で小田原に居住しており、そのうえ譜代の侍はいまだに多く、
また家康公も内々氏真に御芳志があった。そのため信玄(武田信玄)は行末を難しく思われたのだろうか、
氏真を討ち申したいと密かに氏政へ人を遣わしたのである。
氏政はいかに思し召されたのかその旨を合点なさり、すでに甲州より忍んで討手の者どもが来ると聞こえた。
悪事千里を走る習い、やがてその事を聞き付けなさり、氏真の御前(早川殿)は氏政の御姉なので
この上なく御恨みになり、氏真その他下々に至るまで「氏政は人倫に非ず」と立腹限りなし。
ここにいてはならないと氏真は小田原を引き払い、家康公を御頼みになって妻子を引き連れて浜松へ落ちなさった。
また、御心の内はさぞかしと思いやられる一首を詠んだ。
「中々に世をも人をも恨むまじ、時にあはぬを身の科にして、氏真」
家康公は先年の御言葉もあり、屋形を作って氏真を据え、御懇情浅からず御労りを施しなさった。
これぞまことに仁政たるべし。
そもそも今川の家は代々小田原と縁者であり、早雲氏綱二代重恩を受け、特に氏真は御兄弟の契りあり。
何によって信玄に語らわれたのか今川殿を追い出し、このような情け無き振る舞いは謂れなし。
まことに頼む木の本に雨も溜まらぬ風情かな。中陰の折で誰か言う人もなし。
末の世まで嘲弄を受けるだろう、当家の運は末になったと小田原の諸臣は悲しんだ。
――『北条五代実記(北条盛衰記)』
よく氏真の辞世の句と紹介される一首だがこの本書では小田原出奔時の無念を詠んだものになっている。
219人間七七四年
2021/12/05(日) 16:49:21.21ID:fzcOOjCi 元亀二年十月、氏康死亡
元亀三年五月、氏真が施主として義元の十三回忌を小田原の早河久翁寺で施行
四十九日からかなり経っても氏真夫妻が小田原に残っているような
元亀三年五月、氏真が施主として義元の十三回忌を小田原の早河久翁寺で施行
四十九日からかなり経っても氏真夫妻が小田原に残っているような
220人間七七四年
2021/12/06(月) 15:48:26.53ID:cTQQ2Jd/ 秦桐若は黒田孝高に従い度々勇名を得、首三十一を取った。播州の近国の者達は、彼の、長さ一間半ある
唐団扇の指物を見知っており、戦場で近づくことがなかった。秦が指物を隠して敵に近づき、俄にそれを出すと
それだけで敵勢は忽ち敗走したという。
天正十年の山崎合戦の折、彼は重い傷を負い、治療して過半癒えたが、未だ十分に回復していなかったことで、
翌年摂州有馬温泉で湯治をした所、不日に平癒した。この時秦は
「この湯に浴しただけでも傷が癒えた、これを飲めばその効能はいよいよ速やかであろう。」
と、三勺飲むと、腹痛暴泄し程なく傷口が再び破裂して忽ち死んだ。
(志士清談)
有馬温泉の湯を飲んだばかりに急死した黒田家の勇士のお話。
唐団扇の指物を見知っており、戦場で近づくことがなかった。秦が指物を隠して敵に近づき、俄にそれを出すと
それだけで敵勢は忽ち敗走したという。
天正十年の山崎合戦の折、彼は重い傷を負い、治療して過半癒えたが、未だ十分に回復していなかったことで、
翌年摂州有馬温泉で湯治をした所、不日に平癒した。この時秦は
「この湯に浴しただけでも傷が癒えた、これを飲めばその効能はいよいよ速やかであろう。」
と、三勺飲むと、腹痛暴泄し程なく傷口が再び破裂して忽ち死んだ。
(志士清談)
有馬温泉の湯を飲んだばかりに急死した黒田家の勇士のお話。
221人間七七四年
2021/12/06(月) 18:23:16.75ID:DoAv82So 当時は湯も不衛生だったのだろうな
222人間七七四年
2021/12/06(月) 18:55:09.70ID:OH6D94Dy いや、当時の衛生観念とか考えて妥当の判断だとは思うんだけどね?
どうしてもバカにつける薬飲んだって話思い出しちゃうなこれ
どうしてもバカにつける薬飲んだって話思い出しちゃうなこれ
223人間七七四年
2021/12/07(火) 03:02:12.04ID:iiyy02JR 温泉は湧き続けてたり殺菌効果があれば泉質は保たれるし
山崎合戦の時代なら現代ほど人で賑わう訳でもないだろうから
湯の衛性さには問題は無かったんじゃないか?
この場合むしろ問題だったのは泉質なんじゃないか?
飲める温泉も多いけど含有成分によっては飲んで体調悪化するものもあるだろう
山崎合戦の時代なら現代ほど人で賑わう訳でもないだろうから
湯の衛性さには問題は無かったんじゃないか?
この場合むしろ問題だったのは泉質なんじゃないか?
飲める温泉も多いけど含有成分によっては飲んで体調悪化するものもあるだろう
224人間七七四年
2021/12/07(火) 18:02:11.24ID:tjDKGJTZ 貞享元年(1684年)に書かれた
福住道祐「吉岡伝」から、吉岡兄弟(直綱・直重)と宮本武蔵の決闘について
宮本武蔵は越前少将忠直の家士にて二刀を弄する良手なり。
忠直、之を師とし日々習熟するに左右を離れず。
忠直君、聚楽第に在る日、武蔵に問う
「吉岡数回の名誉、兵法の骨髄を得たりと謂うべけんや?もし汝と対せばいかん?」
武蔵、言を謹みて曰く
「直饒(たとい)彼の兄弟一時に競い来たるとも不肖の一刀に較ぶべからず。」
忠直君大いに悦び、之を板倉伊賀守勝重に報ずる。
勝重即ち兄弟を召して云う。
「宮本武蔵、汝と勝負を決さんと欲する望みあり。速やかに是非を分かち、宜しく高覧に備えよ」と。
兄弟、敬して其の命を受け、是(ここ)に於いて直綱先に出ず。
両方相互に心力を竭(つ)くし、暫く時剋移りて、武蔵遂に眉間を撃たれる。
血出ること最も甚だしく、直綱後に却(しりぞ)く。
皆「直綱の勝ちなり」と言う。他「相撃(あいう)ちなり」と言う。
直綱怒りて云う。「則ち明白に決さん」と。
武蔵言を直綱に与え「已に決して了う。願う所、直重と宜しく相撃すべし」と。
是に於いて日を定め重ねて之を相待つに、武蔵忽ち迹(あと)を晦まし、之(ゆ)く所を知らず。
是を以て世を挙げて云う。
皆「直重、座して勝ちを得たる」と。
信憑性はおいといて、宮本武蔵が「2人がかりでも勝ちます」と大口を叩いて吉岡兄弟と決闘するも、
兄にはほとんど敗北、弟には逃げて不戦敗したという話。
福住道祐「吉岡伝」から、吉岡兄弟(直綱・直重)と宮本武蔵の決闘について
宮本武蔵は越前少将忠直の家士にて二刀を弄する良手なり。
忠直、之を師とし日々習熟するに左右を離れず。
忠直君、聚楽第に在る日、武蔵に問う
「吉岡数回の名誉、兵法の骨髄を得たりと謂うべけんや?もし汝と対せばいかん?」
武蔵、言を謹みて曰く
「直饒(たとい)彼の兄弟一時に競い来たるとも不肖の一刀に較ぶべからず。」
忠直君大いに悦び、之を板倉伊賀守勝重に報ずる。
勝重即ち兄弟を召して云う。
「宮本武蔵、汝と勝負を決さんと欲する望みあり。速やかに是非を分かち、宜しく高覧に備えよ」と。
兄弟、敬して其の命を受け、是(ここ)に於いて直綱先に出ず。
両方相互に心力を竭(つ)くし、暫く時剋移りて、武蔵遂に眉間を撃たれる。
血出ること最も甚だしく、直綱後に却(しりぞ)く。
皆「直綱の勝ちなり」と言う。他「相撃(あいう)ちなり」と言う。
直綱怒りて云う。「則ち明白に決さん」と。
武蔵言を直綱に与え「已に決して了う。願う所、直重と宜しく相撃すべし」と。
是に於いて日を定め重ねて之を相待つに、武蔵忽ち迹(あと)を晦まし、之(ゆ)く所を知らず。
是を以て世を挙げて云う。
皆「直重、座して勝ちを得たる」と。
信憑性はおいといて、宮本武蔵が「2人がかりでも勝ちます」と大口を叩いて吉岡兄弟と決闘するも、
兄にはほとんど敗北、弟には逃げて不戦敗したという話。
225人間七七四年
2021/12/08(水) 16:23:22.12ID:XBpBchgY226人間七七四年
2021/12/08(水) 17:58:49.31ID:XBpBchgY ついでに映画「信虎」に「とらや」中興の祖・黒川円仲の父親で塙直之の義父の黒川新助が出てきたので
(とらやによれば塙直之の妻、桜井右近太夫義胤女の実父)
とらやと同様に饅頭で有名な塩瀬の饅頭の由来を「渡辺幸庵対話」より、なお
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12889.html
明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン
でも塩瀬は光秀に饅頭やちまきを提供している。
饅頭屋の塩瀬は元来菊屋というものなり。
(塩瀬総本家によれば応仁の乱後に林家から塩瀬に改めたというが)
昔は饅頭の煉汁は小麦の甘酒にして製せしなり。
ある時、塩瀬が家来、余りの菓子蒸し申し餅米を夜取り違えて甘酒に作りけるを
是非無くそれにて饅頭をしければ色白く風味よくできはやり、これを外にても見習い後には方々にても餅米を甘酒にしける。
その後塩瀬が家来、砂糖に塩を加えてしたてけるに、風味すぐれて塩瀬が饅頭とてはやりいで今に断絶なし。
右、そこつに入ける塩の分量を覚えて毎度加えける。
この塩加減を秘して世に知らせずと語りける。
というわけで家人の失敗が二度重なって白くて風味のある饅頭ができたようだ
一説によれば、関ヶ原でとらやは西軍に、塩瀬は東軍についたため(長篠の戦いでも塩瀬は織田徳川に饅頭を提供したとされる)
塩瀬は江戸にも進出したとか。
(とらやによれば塙直之の妻、桜井右近太夫義胤女の実父)
とらやと同様に饅頭で有名な塩瀬の饅頭の由来を「渡辺幸庵対話」より、なお
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12889.html
明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン
でも塩瀬は光秀に饅頭やちまきを提供している。
饅頭屋の塩瀬は元来菊屋というものなり。
(塩瀬総本家によれば応仁の乱後に林家から塩瀬に改めたというが)
昔は饅頭の煉汁は小麦の甘酒にして製せしなり。
ある時、塩瀬が家来、余りの菓子蒸し申し餅米を夜取り違えて甘酒に作りけるを
是非無くそれにて饅頭をしければ色白く風味よくできはやり、これを外にても見習い後には方々にても餅米を甘酒にしける。
その後塩瀬が家来、砂糖に塩を加えてしたてけるに、風味すぐれて塩瀬が饅頭とてはやりいで今に断絶なし。
右、そこつに入ける塩の分量を覚えて毎度加えける。
この塩加減を秘して世に知らせずと語りける。
というわけで家人の失敗が二度重なって白くて風味のある饅頭ができたようだ
一説によれば、関ヶ原でとらやは西軍に、塩瀬は東軍についたため(長篠の戦いでも塩瀬は織田徳川に饅頭を提供したとされる)
塩瀬は江戸にも進出したとか。
227人間七七四年
2021/12/08(水) 22:19:23.62ID:XBpBchgY 渡辺幸庵についての説明をし忘れていたが、130歳まで生きた人物で、柳生但馬守宗矩に免許印可を受け、大坂の陣や島原でも活躍し、インドの霊鷲山まで行ったという人物。
武蔵(竹村武蔵)についても話していて、宗矩より格段に強く、武芸はもちろん詩歌茶の湯碁将棋すべて諸芸に達しているが、
一生沐浴せず裸足で外に出ていたのが第一の瑕疵だとか言ってた。
ついでに京都(山城国)の史跡や名産について書かれた
黒川道祐(1623-1691)「雍州府志」の「饅頭」の項目には
塩瀬家は宋に渡り元の順宗の時代に帰ってきて饅頭を始めた林浄因の子孫と通説通りに書かれてた。
同書では虎屋饅頭の祖三官について中華の投化(帰化)人としているが、
黒川道祐の父親が黒川光信で、虎屋代々の当主が黒川光◯で、苗字と通字が一致しているのは偶然かどうか。
あと「吉岡伝」の作者の福住道祐(1625-1689)と、名前と医師兼歴史家という経歴が一致していてややこしい
武蔵(竹村武蔵)についても話していて、宗矩より格段に強く、武芸はもちろん詩歌茶の湯碁将棋すべて諸芸に達しているが、
一生沐浴せず裸足で外に出ていたのが第一の瑕疵だとか言ってた。
ついでに京都(山城国)の史跡や名産について書かれた
黒川道祐(1623-1691)「雍州府志」の「饅頭」の項目には
塩瀬家は宋に渡り元の順宗の時代に帰ってきて饅頭を始めた林浄因の子孫と通説通りに書かれてた。
同書では虎屋饅頭の祖三官について中華の投化(帰化)人としているが、
黒川道祐の父親が黒川光信で、虎屋代々の当主が黒川光◯で、苗字と通字が一致しているのは偶然かどうか。
あと「吉岡伝」の作者の福住道祐(1625-1689)と、名前と医師兼歴史家という経歴が一致していてややこしい
229人間七七四年
2021/12/08(水) 23:24:21.09ID:5Z9jxIQx 氏照(北条氏照)と申すは、氏政(北条氏政)の弟の中でも武勇に優れ、特に大名であった。
上杉(山内上杉氏)の老臣に大石源左衛門定久という人がいた。
この人は木曽左馬頭義仲12代の末葉である。代々武蔵の守護代だったが上杉滅んで後に氏康へ降参し、
後に男子なくして氏康二男の氏照を婿にとり名跡を継がせ、氏照は“由井源三”と称した。
(中略)
ところで、氏照は先年の三増合戦(三増峠の戦い)で打ち負けて逃れ難い時があったが、
この時に山上で飯縄神へ祈念し、10ヶ年の間の女人禁制を立願なされた。
帰還した氏照はその時の祈念を果たそうと、ついに御前の方へ御入りにならず数年が経った。
かの女性はこれを夢にも知らず、氏照は自分を疎んで仇があると恨み、ついに思い沈み早世したのだという。
死後に書き置いた文言を見て氏照は後悔されたが叶わず、氏照もこれを本意なく思いなされて
ついにそれより女人を禁制なさり、その一世はただ出家の行儀と同じであった。
さてまた、大石には因もあるからと本姓になり返り、北条陸奥守氏照と申した。
また瀧山の城(大石氏の居城)は名城ながら瀧には“落ちる”という事があるから
城の名には禁忌だとして八王子に移ったのであるが、天正18年、ついに運尽きて落城した。
――『異本小田原記』
氏照正室というと八王子落城に因んだ悲劇で知られるが、この記事はまったく違う内容を伝えている
もっともこっちも悲劇なんだが
上杉(山内上杉氏)の老臣に大石源左衛門定久という人がいた。
この人は木曽左馬頭義仲12代の末葉である。代々武蔵の守護代だったが上杉滅んで後に氏康へ降参し、
後に男子なくして氏康二男の氏照を婿にとり名跡を継がせ、氏照は“由井源三”と称した。
(中略)
ところで、氏照は先年の三増合戦(三増峠の戦い)で打ち負けて逃れ難い時があったが、
この時に山上で飯縄神へ祈念し、10ヶ年の間の女人禁制を立願なされた。
帰還した氏照はその時の祈念を果たそうと、ついに御前の方へ御入りにならず数年が経った。
かの女性はこれを夢にも知らず、氏照は自分を疎んで仇があると恨み、ついに思い沈み早世したのだという。
死後に書き置いた文言を見て氏照は後悔されたが叶わず、氏照もこれを本意なく思いなされて
ついにそれより女人を禁制なさり、その一世はただ出家の行儀と同じであった。
さてまた、大石には因もあるからと本姓になり返り、北条陸奥守氏照と申した。
また瀧山の城(大石氏の居城)は名城ながら瀧には“落ちる”という事があるから
城の名には禁忌だとして八王子に移ったのであるが、天正18年、ついに運尽きて落城した。
――『異本小田原記』
氏照正室というと八王子落城に因んだ悲劇で知られるが、この記事はまったく違う内容を伝えている
もっともこっちも悲劇なんだが
230人間七七四年
2021/12/09(木) 21:55:48.94ID:SFzaBOI/ 福住道祐「吉岡伝」続き
なかんずく従弟吉岡清次郎重堅、また剣術によく、胆大にして心猛し。江都の軽捷を得る。
慶長十八年癸丑、右僕射秀頼公、東山大仏殿を再興す。
すでにその功畢(おわ)りて六月廿二(にじゅうに)日、禁裏に於いて御祝の能あり。
勅許により、貴となく賤となく緇(黒衣、つまり僧侶)となく素(俗人)となく来観者、堵の如し(見物人が多いたとえ)。
重堅、時において病いまだいえざるに、先にゆきてこれを見る。
かくの如きに臨み、平素所司代役人に只見弥五左衛門なる者あり。これまた一流の兵法者なり。
かつて重堅と隙ありてその便を伺う間、幸いに奉行となり諸人を指揮し、座列の高低を制するに笞(むち)をもって重堅を撃つこと三度なり。
重堅これを瞠(みは)るに只見なり。重堅、密かに門を出て輿中所蔵の刀を取り、また密かに門に入る。
けだし金闕は佩刀を禁ずるなり。重堅、即日羊刻に忽ち身を只見の辺に寄せ、自ら怨みを報ずると称し、即時に只見を頭上から腰下に至るまで裁断すること一刀両断なり。
重堅、従来妙手にしてこれを防ぐ者なし。
ここに於いて奉行役人相集まり、おのおの槍衾を作り突き出す。
重堅、槍の上を飛躍、奔転して一時におちながら槍枝三十本を斬る。
疵(きず)を蒙る者十四五人、死者六七人。その翔ぶや、あたかも龍虎の風雲を鼓舞するがごとし。
防ぐ者四つに囲み、重堅、刀を地上に抛(な)げ、合掌念仏していう。
「我、若さゆえ心に任せ殺害す。唯々として禁裏を怖れたてまつらん。」と。
言おわりて遂に突き伏され、命隕(お)つ。
世を挙げて皆これを感惜す。
なかんずく従弟吉岡清次郎重堅、また剣術によく、胆大にして心猛し。江都の軽捷を得る。
慶長十八年癸丑、右僕射秀頼公、東山大仏殿を再興す。
すでにその功畢(おわ)りて六月廿二(にじゅうに)日、禁裏に於いて御祝の能あり。
勅許により、貴となく賤となく緇(黒衣、つまり僧侶)となく素(俗人)となく来観者、堵の如し(見物人が多いたとえ)。
重堅、時において病いまだいえざるに、先にゆきてこれを見る。
かくの如きに臨み、平素所司代役人に只見弥五左衛門なる者あり。これまた一流の兵法者なり。
かつて重堅と隙ありてその便を伺う間、幸いに奉行となり諸人を指揮し、座列の高低を制するに笞(むち)をもって重堅を撃つこと三度なり。
重堅これを瞠(みは)るに只見なり。重堅、密かに門を出て輿中所蔵の刀を取り、また密かに門に入る。
けだし金闕は佩刀を禁ずるなり。重堅、即日羊刻に忽ち身を只見の辺に寄せ、自ら怨みを報ずると称し、即時に只見を頭上から腰下に至るまで裁断すること一刀両断なり。
重堅、従来妙手にしてこれを防ぐ者なし。
ここに於いて奉行役人相集まり、おのおの槍衾を作り突き出す。
重堅、槍の上を飛躍、奔転して一時におちながら槍枝三十本を斬る。
疵(きず)を蒙る者十四五人、死者六七人。その翔ぶや、あたかも龍虎の風雲を鼓舞するがごとし。
防ぐ者四つに囲み、重堅、刀を地上に抛(な)げ、合掌念仏していう。
「我、若さゆえ心に任せ殺害す。唯々として禁裏を怖れたてまつらん。」と。
言おわりて遂に突き伏され、命隕(お)つ。
世を挙げて皆これを感惜す。
231人間七七四年
2021/12/09(木) 21:57:54.65ID:SFzaBOI/ 事、江府に聞こえ、みな吉岡の一族を滅さんと欲す。
東照神君仁慈の余り、芸術を嘆惜し、令を下して曰く
「這(この)回、吉岡不礼を禁中になすといえども、当人すでに死するの間、刑罰一族に及ぼすべからず。」と。
ここにおいて一族、宥恕を蒙り、死罪に及ばざるといえども、なお一年余跡をくらます。
大神君命じて曰く「今より後はすべからく兵法の指南を停むべし。」と。
明年冬、大神君、秀頼を討たんとす。諸軍をあい率いて大坂城を攻む。
神君すなわち所司代に命じて曰く「速やかに吉岡一類を尋ね出だせ。弟子にも這(この)回大坂城に入るを得べからず、云々。」と。
ここに於いて兄弟を召し、従来出陣の志、甚切なりといえども欽命によりてこれを誓うに状をもってす。
翌年丁卯夏四月、兄弟、三宿越前守長則(御宿政友?)の招に応じ籠城一月余。
軍労多しといえども大坂城陥ち、功を論ずること益なく、京に帰り西洞院に居住す。
ここにおいて明人、李三官に黒色を染む方を伝され、もって家業となす。
眷属を扶助し、永く富家となす。世人これを憲法染、または吉岡染と称す。
前半はこれらと同じ話のようですが、だいぶ盛っているような。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8599.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10093.html
東照神君仁慈の余り、芸術を嘆惜し、令を下して曰く
「這(この)回、吉岡不礼を禁中になすといえども、当人すでに死するの間、刑罰一族に及ぼすべからず。」と。
ここにおいて一族、宥恕を蒙り、死罪に及ばざるといえども、なお一年余跡をくらます。
大神君命じて曰く「今より後はすべからく兵法の指南を停むべし。」と。
明年冬、大神君、秀頼を討たんとす。諸軍をあい率いて大坂城を攻む。
神君すなわち所司代に命じて曰く「速やかに吉岡一類を尋ね出だせ。弟子にも這(この)回大坂城に入るを得べからず、云々。」と。
ここに於いて兄弟を召し、従来出陣の志、甚切なりといえども欽命によりてこれを誓うに状をもってす。
翌年丁卯夏四月、兄弟、三宿越前守長則(御宿政友?)の招に応じ籠城一月余。
軍労多しといえども大坂城陥ち、功を論ずること益なく、京に帰り西洞院に居住す。
ここにおいて明人、李三官に黒色を染む方を伝され、もって家業となす。
眷属を扶助し、永く富家となす。世人これを憲法染、または吉岡染と称す。
前半はこれらと同じ話のようですが、だいぶ盛っているような。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8599.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10093.html
232人間七七四年
2021/12/09(木) 22:08:23.60ID:SFzaBOI/ ついでに黒川道祐「雍州府志」の京土産一覧から「吉岡染」について
吉岡染
西洞院四条、吉岡氏の人始めて黒茶色を染む、故に吉岡染と謂う。
倭俗、毎事に法の如くにこれを行うに憲法と称す。
その染家吉岡の祖毎事かくの如し。
故に世に憲法染と称す。この人、剣術を得、吉岡流と称す。而して今に行わるなり。
雍州府志(1682-1686年に執筆)の頃にはまだ吉岡流が残ってたのだろうか
吉岡伝(1684年に執筆)では吉岡兄弟は仏道に帰依し、吉岡家は染物専門のようだが。
吉岡染
西洞院四条、吉岡氏の人始めて黒茶色を染む、故に吉岡染と謂う。
倭俗、毎事に法の如くにこれを行うに憲法と称す。
その染家吉岡の祖毎事かくの如し。
故に世に憲法染と称す。この人、剣術を得、吉岡流と称す。而して今に行わるなり。
雍州府志(1682-1686年に執筆)の頃にはまだ吉岡流が残ってたのだろうか
吉岡伝(1684年に執筆)では吉岡兄弟は仏道に帰依し、吉岡家は染物専門のようだが。
233人間七七四年
2021/12/12(日) 14:17:03.91ID:IsRXlB3n 越後村上の城主である堀丹後守直寄は、堀監物直政の二男で、幼名を三十郎と言った。彼は豊臣秀吉公の
児小姓であり、後に丹後守と改めた。
直寄は自身の九万石の領地の内、一万石の禄を与えて能勢右近を招いたほどの人材好きであった。
彼の家中に梅田佐五右衛門という武士が有り、大坂の陣でも武功があり、それ以前からも名のある者であった。
彼は勇荘大力であり、口径が三、四寸ばかり(10〜12センチほど)の大丈夫筒(大筒)を持ち上げるほどであった。
ある時、丹後守が制札を出した。これに『小唄・尺八・男色等禁制』とあったのだが、佐五右衛門は
この部分に墨を引いて塗りつぶした。丹後守はこの行為に激怒し、二名の討ち手を遣わして彼を殺させた。
佐五右衛門が城の端に何気なく立っている所に、一人が近寄って短刀で刺した。佐五右衛門は騒がず
この者を捕って引き寄せたが、その時もう一人も彼を刺した。しかし佐五右衛門は両人を左右の脇に挟み、
二十間あまり(約36メートル)の縁を走り出たが、その間に再び突かれて殺された。
彼のこの死に様を聞いた丹後守は、その胆力を惜しんだという。
(志士清談)
自分で殺させておいて惜しむというのも何というか。
児小姓であり、後に丹後守と改めた。
直寄は自身の九万石の領地の内、一万石の禄を与えて能勢右近を招いたほどの人材好きであった。
彼の家中に梅田佐五右衛門という武士が有り、大坂の陣でも武功があり、それ以前からも名のある者であった。
彼は勇荘大力であり、口径が三、四寸ばかり(10〜12センチほど)の大丈夫筒(大筒)を持ち上げるほどであった。
ある時、丹後守が制札を出した。これに『小唄・尺八・男色等禁制』とあったのだが、佐五右衛門は
この部分に墨を引いて塗りつぶした。丹後守はこの行為に激怒し、二名の討ち手を遣わして彼を殺させた。
佐五右衛門が城の端に何気なく立っている所に、一人が近寄って短刀で刺した。佐五右衛門は騒がず
この者を捕って引き寄せたが、その時もう一人も彼を刺した。しかし佐五右衛門は両人を左右の脇に挟み、
二十間あまり(約36メートル)の縁を走り出たが、その間に再び突かれて殺された。
彼のこの死に様を聞いた丹後守は、その胆力を惜しんだという。
(志士清談)
自分で殺させておいて惜しむというのも何というか。
234人間七七四年
2021/12/12(日) 15:10:40.45ID:6rYzIKm+ やっちゃいけない事する以上仕留めないといけないけど、それはそれとしてこんだけの豪の者を仕留めるのは惜しいってのは矛盾しないと思う
235人間七七四年
2021/12/12(日) 15:23:50.95ID:UcxeYvzn 太田道灌を殺った扇谷定正にはこんな気分はあったろうか…。
236人間七七四年
2021/12/12(日) 22:20:57.19ID:D27xJOHb 道灌つながりで
万里集九「梅花無尽蔵」から、道灌死後一ヶ月ほど経った文明十八年(1486年)八月の話を
(道灌の死時点は作詩どころではなかったため「梅花無尽蔵」には当時の記載なし)
人、夢に春苑、道灌静勝公を見るあり。
その面壮然として、恰も平素のごとし。
而して唯、扇を求め、略(ほぼ)世故の談に及ぶと。
遂に蓮経を漸書し、便面一枝を副え、公の影堂に寄せんと。
すなわち余、扇面に題していう。
一夢縦途亦有由 風声墓樹漸驚秋
平生白羽慕諸葛 餘習未忘呼扇求
夢の中とはいえ、主家への恨みを気色にも表さない死せる道灌であった。
扇を求めたのが風流のためか、諸葛亮のようにまた軍を率いたいという心かはともかく。
なお万里集九は明応三年(1494年)正月三日に東国での十年間の思い出として、
山は富士山を仰ぎ、人は道灌に会えたことを挙げるほど、
道灌を敬愛していたことで知られている。
万里集九「梅花無尽蔵」から、道灌死後一ヶ月ほど経った文明十八年(1486年)八月の話を
(道灌の死時点は作詩どころではなかったため「梅花無尽蔵」には当時の記載なし)
人、夢に春苑、道灌静勝公を見るあり。
その面壮然として、恰も平素のごとし。
而して唯、扇を求め、略(ほぼ)世故の談に及ぶと。
遂に蓮経を漸書し、便面一枝を副え、公の影堂に寄せんと。
すなわち余、扇面に題していう。
一夢縦途亦有由 風声墓樹漸驚秋
平生白羽慕諸葛 餘習未忘呼扇求
夢の中とはいえ、主家への恨みを気色にも表さない死せる道灌であった。
扇を求めたのが風流のためか、諸葛亮のようにまた軍を率いたいという心かはともかく。
なお万里集九は明応三年(1494年)正月三日に東国での十年間の思い出として、
山は富士山を仰ぎ、人は道灌に会えたことを挙げるほど、
道灌を敬愛していたことで知られている。
237人間七七四年
2021/12/12(日) 23:02:07.31ID:D27xJOHb ついでに永田徳本の医書「梅花無尽蔵」の拾遺を読んだら
「蛇が玉門(女性の隠部)に入った時は枇杷の実を砕き、酒か湯か油で溶かして入れましょう」
とか書かれてた。
130歳まで生きた渡辺幸庵が「女の陰門に蛇が入ったのを3回見たことがある、蛙を突き出したり山椒をかけたりしたら外に出てきた」
とか言ってるのを考えると
118歳まで生きた永田徳本がそういう症例に出くわしてても不思議ではないか
「蛇が玉門(女性の隠部)に入った時は枇杷の実を砕き、酒か湯か油で溶かして入れましょう」
とか書かれてた。
130歳まで生きた渡辺幸庵が「女の陰門に蛇が入ったのを3回見たことがある、蛙を突き出したり山椒をかけたりしたら外に出てきた」
とか言ってるのを考えると
118歳まで生きた永田徳本がそういう症例に出くわしてても不思議ではないか
238人間七七四年
2021/12/14(火) 14:42:04.75ID:WY1sGR2F そういえば昔の中国人は辺境の関所に玉門関(マンコの関)とか陽関(チンポの関)とか命名したのは、何考えてたんだろうな。まあなんか思想的背景があるんだろうけどさあ。
李白の詩で「玉関、殊に未だ入らず」というのは、「キツくて入らないよぉ(>_<。)」ということかw
李白の詩で「玉関、殊に未だ入らず」というのは、「キツくて入らないよぉ(>_<。)」ということかw
239人間七七四年
2021/12/14(火) 19:56:56.04ID:vfCpp4yd そんな処女が居たのを思い出した。
入れるのに苦労したな・・・
入れるのに苦労したな・・・
240人間七七四年
2021/12/15(水) 16:18:55.11ID:9XAdt7ZK 西垣源五左衛門「浄観筆記」から豊国大明神祭礼「風流踊り」の怪異
慶長九年(1604年)八月十五日、京都全体総出で太閤秀吉の七回忌の豊国大明神臨時祭礼(八月十二日から十八日)が行われた。
踊りには上京、下京の町組から一組約百人の集団がくりだし、組を表す大団扇を掲げ、それぞれ贅を凝らした衣装で着飾り、
豊国神社の社頭で踊り狂った後、禁裏へとくり込んだ。また桟敷も町のあちこちに設けられた。
午の刻、群衆はいずくからともなく現れた風流踊りの一団を見て思わず粛然となった。
一団の女たちは辻ヶ花(桃山時代に流行し姿を消した絞り染め、幻の染めと呼ばれる)や縫い絞り小袖をまとい、男たちは上布でつくった小紋帷子を着ていたが
踊りには鳴り物がつかず、みな死人のように蒼ざめた顔をしていた。
かれらは群衆に見守られながら、豊国神社の大石垣の中に、静かに消えていった。
「人々消えしあと、群衆口々にあれは(秀次)関白御家の人と騒げり。
みな消えし大石のほとりに、女人被衣(かつぎ)とせし金襴落ちたり。
この被衣のちに洛中の名刹に蔵され、名物裂となれり。」
「浄観筆記」について
時代小説家、澤田ふじ子氏の「染織草紙」によれば(この話も同書の孫引き)、
江戸中期の宝暦年間に近江小室藩、京都屋敷の用人を勤めた西垣源五左衛門(法名を浄観)による、京都の市井の話を書き留めたもので、
近江小室藩が藩祖・小堀遠州の遺風を受けてか風流な人物を輩出したためか、源五左衛門の記す内容も芸事に関することが多いのだとか。
なお資料としては未紹介であるらしく(少なくとも1984年時点では)、「浄観筆記」で検索してもほとんどが澤田ふじこ氏関連でしか出ず、どこに所蔵されてるかはわからなかった。
慶長九年(1604年)八月十五日、京都全体総出で太閤秀吉の七回忌の豊国大明神臨時祭礼(八月十二日から十八日)が行われた。
踊りには上京、下京の町組から一組約百人の集団がくりだし、組を表す大団扇を掲げ、それぞれ贅を凝らした衣装で着飾り、
豊国神社の社頭で踊り狂った後、禁裏へとくり込んだ。また桟敷も町のあちこちに設けられた。
午の刻、群衆はいずくからともなく現れた風流踊りの一団を見て思わず粛然となった。
一団の女たちは辻ヶ花(桃山時代に流行し姿を消した絞り染め、幻の染めと呼ばれる)や縫い絞り小袖をまとい、男たちは上布でつくった小紋帷子を着ていたが
踊りには鳴り物がつかず、みな死人のように蒼ざめた顔をしていた。
かれらは群衆に見守られながら、豊国神社の大石垣の中に、静かに消えていった。
「人々消えしあと、群衆口々にあれは(秀次)関白御家の人と騒げり。
みな消えし大石のほとりに、女人被衣(かつぎ)とせし金襴落ちたり。
この被衣のちに洛中の名刹に蔵され、名物裂となれり。」
「浄観筆記」について
時代小説家、澤田ふじ子氏の「染織草紙」によれば(この話も同書の孫引き)、
江戸中期の宝暦年間に近江小室藩、京都屋敷の用人を勤めた西垣源五左衛門(法名を浄観)による、京都の市井の話を書き留めたもので、
近江小室藩が藩祖・小堀遠州の遺風を受けてか風流な人物を輩出したためか、源五左衛門の記す内容も芸事に関することが多いのだとか。
なお資料としては未紹介であるらしく(少なくとも1984年時点では)、「浄観筆記」で検索してもほとんどが澤田ふじこ氏関連でしか出ず、どこに所蔵されてるかはわからなかった。
241人間七七四年
2021/12/15(水) 16:36:12.45ID:9XAdt7ZK 訂正
豊国大明神臨時祭礼(八月十二日から八月十八日)のメインイベントである風流踊りが行われた。
豊国大明神臨時祭礼(八月十二日から八月十八日)のメインイベントである風流踊りが行われた。
242人間七七四年
2021/12/15(水) 21:23:09.42ID:vX+zcGAJ 慶長十九年(1614)十一月二十日、大阪冬の陣の最中、
この日大御所(徳川家康)は本多上野介正純を召され、大阪城中の織田有楽・並びに大野修理(治長)方は
内状を遣わすよう仰せ付けられた。
これは先月より大野壱岐守氏治(治純)を以て、御和談の事を仰せ入れられていたのだが、重ねて秀頼公が
合点あるようにとの上意によって、後藤庄三郎を城中に遣わしたものの、大阪方では御承引の御請が
無かったため、このようにされたのである。
この時後藤庄三郎には御褒美として、銀子三十枚を給わった。
然るにその後、大阪方の落人を搦め捕ったが、かの者を尋問したところ大野修理亮の足軽であると申す故、
これを大野壱岐守に引き合わせたところ、壱岐守曰く「旧好の者にて、名は与助と申します。」との内容を
言上した。そのため速やかに縄を許し、壱岐守に預け於いて、城中の御使にこの者を仰せ付けたという。
(中略)
或る記に、二十三日、この日大野壱岐守に仰せ付けられ、先だって捕えた与助を御使の者とされた。
その御使によって、『兎角書状にては埒が明かない。口上にて申し入れたい事があるので、織田有楽、
大野修理方より慥かな者を一人づつ差し越してほしい。』との本多上野介(正純)の考えを伝えたところ、
織田有楽より村田吉蔵、大野修理亮より米村権右衛門という者を差し越した。
本多上野介は彼等に立ち向かい、御和談についての事を口上にて申し渡した。その上で、今度の戦に際し、
秀頼公より諸大名に給わった御廻文と、それとともに織田有楽や大野修理などによって遣わされた
御請の留書を集め、かの両使に渡して言った
「何れの諸大名も、斯くの如く(豊臣家からの文書をそのまま幕府へ提出)致している以上、
秀頼公への忠節をいたす衆など一人も無い。諸大名の別心などを頼みに思召しても、詮無き事である。
この廻文をそちらでご覧になれるよう進呈する。」
と、残らず大阪城中へ遣わしたという。
(新東鑑)
大阪冬の陣で、秀頼が自分に味方するよう諸大名に送った廻文が、まとめて幕府から返されたというお話。
この日大御所(徳川家康)は本多上野介正純を召され、大阪城中の織田有楽・並びに大野修理(治長)方は
内状を遣わすよう仰せ付けられた。
これは先月より大野壱岐守氏治(治純)を以て、御和談の事を仰せ入れられていたのだが、重ねて秀頼公が
合点あるようにとの上意によって、後藤庄三郎を城中に遣わしたものの、大阪方では御承引の御請が
無かったため、このようにされたのである。
この時後藤庄三郎には御褒美として、銀子三十枚を給わった。
然るにその後、大阪方の落人を搦め捕ったが、かの者を尋問したところ大野修理亮の足軽であると申す故、
これを大野壱岐守に引き合わせたところ、壱岐守曰く「旧好の者にて、名は与助と申します。」との内容を
言上した。そのため速やかに縄を許し、壱岐守に預け於いて、城中の御使にこの者を仰せ付けたという。
(中略)
或る記に、二十三日、この日大野壱岐守に仰せ付けられ、先だって捕えた与助を御使の者とされた。
その御使によって、『兎角書状にては埒が明かない。口上にて申し入れたい事があるので、織田有楽、
大野修理方より慥かな者を一人づつ差し越してほしい。』との本多上野介(正純)の考えを伝えたところ、
織田有楽より村田吉蔵、大野修理亮より米村権右衛門という者を差し越した。
本多上野介は彼等に立ち向かい、御和談についての事を口上にて申し渡した。その上で、今度の戦に際し、
秀頼公より諸大名に給わった御廻文と、それとともに織田有楽や大野修理などによって遣わされた
御請の留書を集め、かの両使に渡して言った
「何れの諸大名も、斯くの如く(豊臣家からの文書をそのまま幕府へ提出)致している以上、
秀頼公への忠節をいたす衆など一人も無い。諸大名の別心などを頼みに思召しても、詮無き事である。
この廻文をそちらでご覧になれるよう進呈する。」
と、残らず大阪城中へ遣わしたという。
(新東鑑)
大阪冬の陣で、秀頼が自分に味方するよう諸大名に送った廻文が、まとめて幕府から返されたというお話。
243人間七七四年
2021/12/17(金) 21:34:40.99ID:7+jAGShj 忠臣蔵で有名な兵法学者・山鹿素行「武家事紀」から
尾藤知宣、戸田勝隆について
尾藤左衛門佐
初名十二兵衛、尾藤源内(森可成家人、坂本の戦いで討死)の子。
尾州人、秀吉の旧臣たり(神子田、宮田、戸田、尾藤、人皆これを並べ称す)。
もっとも軍事に通ず。秀吉に従いて戦功度々。
越中佐々征伐の時、尾藤軍奉行をつとむ。
加賀越中の境、砺波山の道筋は砦多きゆえ、砺波山・羽生の宮の北の方のソワ道(険阻な道)をおのおの越ゆ。
この時、馬の履は皆はねすて、両方へ差し縄をつけ、馬取り両方へ引っ張り、馬の手綱をむすび前輪にかけ、馬の足をそろえ、これを滑らすべきよし下知し、
いずれもその通りにいたし、人馬あやまちなし。人もってこれを賞す。
同国外山(成政の居城)乱入の時、大河多く馬を泳がしむ。
この時、尾藤が下知によって人馬さらに水に溺れず。
(ぬかるみをはずし、馬の頸を川上の方へあげ、後輪にのりかかり、川下のあぶみを強く踏みて声をかくるなり)
はじめ秀吉・信雄不快の時、尾藤大垣城に至りて池田・稲葉らの諸将と軍事を議す。のち西国平均して讃岐国を賜わる。
島津征伐の時、大納言秀長に属し豊後路より日向にいたる。
この時、島津、高城より兵を出し、宮部善浄房(啓潤)が陣営に夜戦をなす。
秀長の陣営ら、これを援けんと議す。尾藤しいてこれを留めて、後巻(うしろづめ)延引す。
のちに秀吉この事を糾明あって、尾藤ついに闕国せらる。
天正十八年七月、小田原滅亡の後、秀吉自ら奥州にいたりたまう。
尾藤野州那須野に出でて謁す。
秀吉すなわち刑戮せしめたまう
(あるいはいう。秀吉駕籠をとどめして、乗馬を二、三遍のらせたまいて見物。その後、尾藤の刑戮を命ぜらる、うんぬん)。
尾藤知宣、戸田勝隆について
尾藤左衛門佐
初名十二兵衛、尾藤源内(森可成家人、坂本の戦いで討死)の子。
尾州人、秀吉の旧臣たり(神子田、宮田、戸田、尾藤、人皆これを並べ称す)。
もっとも軍事に通ず。秀吉に従いて戦功度々。
越中佐々征伐の時、尾藤軍奉行をつとむ。
加賀越中の境、砺波山の道筋は砦多きゆえ、砺波山・羽生の宮の北の方のソワ道(険阻な道)をおのおの越ゆ。
この時、馬の履は皆はねすて、両方へ差し縄をつけ、馬取り両方へ引っ張り、馬の手綱をむすび前輪にかけ、馬の足をそろえ、これを滑らすべきよし下知し、
いずれもその通りにいたし、人馬あやまちなし。人もってこれを賞す。
同国外山(成政の居城)乱入の時、大河多く馬を泳がしむ。
この時、尾藤が下知によって人馬さらに水に溺れず。
(ぬかるみをはずし、馬の頸を川上の方へあげ、後輪にのりかかり、川下のあぶみを強く踏みて声をかくるなり)
はじめ秀吉・信雄不快の時、尾藤大垣城に至りて池田・稲葉らの諸将と軍事を議す。のち西国平均して讃岐国を賜わる。
島津征伐の時、大納言秀長に属し豊後路より日向にいたる。
この時、島津、高城より兵を出し、宮部善浄房(啓潤)が陣営に夜戦をなす。
秀長の陣営ら、これを援けんと議す。尾藤しいてこれを留めて、後巻(うしろづめ)延引す。
のちに秀吉この事を糾明あって、尾藤ついに闕国せらる。
天正十八年七月、小田原滅亡の後、秀吉自ら奥州にいたりたまう。
尾藤野州那須野に出でて謁す。
秀吉すなわち刑戮せしめたまう
(あるいはいう。秀吉駕籠をとどめして、乗馬を二、三遍のらせたまいて見物。その後、尾藤の刑戮を命ぜらる、うんぬん)。
244人間七七四年
2021/12/17(金) 21:40:10.22ID:7+jAGShj 戸田民部少輔
初名三郎四郎、尾藤とともに秀吉の旧臣、もっとも度々の戦功あり。
四国平均の後、伊予国を賜わる。
その子、自らの刀にて、あやまちいたし死す。
折節、民部少輔、放鷹の出先にて聞き、
「己が刀にてあやまち死するほどの気質にては、役に立つべき器にあらず。見るに及ばず」と言いて、ただちに放鷹す。
その後、子なく、朝鮮征伐の中で民部病死す。
初名三郎四郎、尾藤とともに秀吉の旧臣、もっとも度々の戦功あり。
四国平均の後、伊予国を賜わる。
その子、自らの刀にて、あやまちいたし死す。
折節、民部少輔、放鷹の出先にて聞き、
「己が刀にてあやまち死するほどの気質にては、役に立つべき器にあらず。見るに及ばず」と言いて、ただちに放鷹す。
その後、子なく、朝鮮征伐の中で民部病死す。
245人間七七四年
2021/12/18(土) 20:39:09.35ID:ANtCCoBN 山鹿素行「武家事紀」から神子田正治、宮田光次について
神子田半左衛門尉
肥前守が子なり。秀吉凡賤の時より勤仕して、度々軍功をあらわし、宮田・尾藤・戸田と四人の列、もっとも神子田を第一とす。
秀吉中国退治のために播州を賜わる。この時四人五千石を与えたまう。(四士、長浜に於いておのおの二百五十貫、黄母衣士なり)
この時、おのおの会談して
「大国を領せらるる上は、いずれにもまたそれぞれの城地、または分内広所を賜わりてこそ、年来の勇労をも慰むべきに、
わずか馬の飼料に五千石を得ることもっとも不快なり。これよりおのおの逃亡すべき」
と相催しけるに、神子田いいけるは
「いずれもが分別大いに違えり。中国征伐として、大国拝領にいずれもさせる益なしと、秀吉の志あるゆえにこの小知を賜わる。
それにあっては五千石は過分なり。いそぎ長浜より引っ越して以前のごとくいよいよ忠戦を抜くべし」
と諷諫して長浜を仔細なく引っ越すや、三木城攻めにおのおの相ともに力戦す。
三年の城攻めにつき、城をかまえ持ち口を定め、度々城兵と相戦い、賤ヶ岳の役に、神子田一方の将として相備う。
長久手の役ののち、五月朔日、秀吉師を濃州にかえしたまう。
小牧より付くべきの間、しんがりは二重堀の諸将これを勤むべしと命ぜられ、秀吉みずから青塚に馬を立ちたまい、黒田孝高(如水)、明石与四郎(左近)が兵を傍にそなえしめたまう。
二重堀の諸将、一番神子田半左衛門、二番日根野兄弟、三番木村常陸介・加藤作内、四番長谷川秀一、五番細川忠興なり。
小牧より北畠信雄、兵を出してしたがうべきとありしを、源君(家康)これをとどめたまう。
しかれども信雄の勢二十余人かけだして付きしたがう。
神子田・木村・日根野が兵、見崩(戦う前に崩れること)いたし敗北。細川忠興が兵士しんがりして、信雄が勢と相戦いて追い散らし引き取る。
この時、秀吉じかに青塚にいたまいて見物なり。
「去月長久手において三将討ち死に、今日細川忠興が働きによって長久手の色直しなり」とのたまい、
すなわち細川が兵士に感状ならびに熨斗付きの刀などを賜わる。
今日、神子田一番に敗軍いたし、敵も付かずに見崩、諸手之によりて騒動せしむ。その罪のがれがたしとあって、その夜改易せらる。
のち神子田、豊後に漂泊す。秀吉ついに殺害せしめたまうて、その頭を一条戻橋に獄門にかけ、自らその罪科を札に記さしめ立ちたまえりとなり。
(あるいは云う、神子田はじめ長久手において首級を得て帰る。秀吉大いに感じ、これを賞す。
神子田、その首を棄てて云う「予のごときは自らその首を得るに、公なんぞ叱らざるや。匹夫の功、あに賞するに足らんや」と。
二重堀退去の時、公、青塚に在りてこれを見る。近臣に示す。
「この神子田、抜群の勇戦あるべし。汝らこれを視るべし」と。
しかるに神子田、大いに敗る。公、もっともこれを羞(は)じてにくむ。
すなわち彼を呼びてその罪を糺(ただ)すに、神子田云う。
「我兵士を率いざる。故に敵を防ぐの士なし」と。
公、大いにこれを怒りて「汝、我に仕えしはじめ幾人を携えて来たるや?」と。
ついにこれを改易す、うんぬん)
神子田半左衛門尉
肥前守が子なり。秀吉凡賤の時より勤仕して、度々軍功をあらわし、宮田・尾藤・戸田と四人の列、もっとも神子田を第一とす。
秀吉中国退治のために播州を賜わる。この時四人五千石を与えたまう。(四士、長浜に於いておのおの二百五十貫、黄母衣士なり)
この時、おのおの会談して
「大国を領せらるる上は、いずれにもまたそれぞれの城地、または分内広所を賜わりてこそ、年来の勇労をも慰むべきに、
わずか馬の飼料に五千石を得ることもっとも不快なり。これよりおのおの逃亡すべき」
と相催しけるに、神子田いいけるは
「いずれもが分別大いに違えり。中国征伐として、大国拝領にいずれもさせる益なしと、秀吉の志あるゆえにこの小知を賜わる。
それにあっては五千石は過分なり。いそぎ長浜より引っ越して以前のごとくいよいよ忠戦を抜くべし」
と諷諫して長浜を仔細なく引っ越すや、三木城攻めにおのおの相ともに力戦す。
三年の城攻めにつき、城をかまえ持ち口を定め、度々城兵と相戦い、賤ヶ岳の役に、神子田一方の将として相備う。
長久手の役ののち、五月朔日、秀吉師を濃州にかえしたまう。
小牧より付くべきの間、しんがりは二重堀の諸将これを勤むべしと命ぜられ、秀吉みずから青塚に馬を立ちたまい、黒田孝高(如水)、明石与四郎(左近)が兵を傍にそなえしめたまう。
二重堀の諸将、一番神子田半左衛門、二番日根野兄弟、三番木村常陸介・加藤作内、四番長谷川秀一、五番細川忠興なり。
小牧より北畠信雄、兵を出してしたがうべきとありしを、源君(家康)これをとどめたまう。
しかれども信雄の勢二十余人かけだして付きしたがう。
神子田・木村・日根野が兵、見崩(戦う前に崩れること)いたし敗北。細川忠興が兵士しんがりして、信雄が勢と相戦いて追い散らし引き取る。
この時、秀吉じかに青塚にいたまいて見物なり。
「去月長久手において三将討ち死に、今日細川忠興が働きによって長久手の色直しなり」とのたまい、
すなわち細川が兵士に感状ならびに熨斗付きの刀などを賜わる。
今日、神子田一番に敗軍いたし、敵も付かずに見崩、諸手之によりて騒動せしむ。その罪のがれがたしとあって、その夜改易せらる。
のち神子田、豊後に漂泊す。秀吉ついに殺害せしめたまうて、その頭を一条戻橋に獄門にかけ、自らその罪科を札に記さしめ立ちたまえりとなり。
(あるいは云う、神子田はじめ長久手において首級を得て帰る。秀吉大いに感じ、これを賞す。
神子田、その首を棄てて云う「予のごときは自らその首を得るに、公なんぞ叱らざるや。匹夫の功、あに賞するに足らんや」と。
二重堀退去の時、公、青塚に在りてこれを見る。近臣に示す。
「この神子田、抜群の勇戦あるべし。汝らこれを視るべし」と。
しかるに神子田、大いに敗る。公、もっともこれを羞(は)じてにくむ。
すなわち彼を呼びてその罪を糺(ただ)すに、神子田云う。
「我兵士を率いざる。故に敵を防ぐの士なし」と。
公、大いにこれを怒りて「汝、我に仕えしはじめ幾人を携えて来たるや?」と。
ついにこれを改易す、うんぬん)
246人間七七四年
2021/12/18(土) 20:47:31.63ID:ANtCCoBN 宮田喜八郎
幼若より秀吉につかゆ。武勇絶倫、秀吉母衣の勇士一員たり。
秀吉長浜を領られしより、播州に移りたまう時に至るまで宮田・尾藤・神子田・戸田をこゆる勇功の士あらず。
三木城攻めに天正六年五月、宮田戦死。秀吉もっとも嘆惜す。
尾藤、神子田に比して戸田、宮田は記載に乏しい。
神子田については過去に五千石と秀吉への口答えの話も両方出ていたが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1832.html
神子田半左衛門と五千石の加増・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3315.html
神子田さんが改易された話逆バージョン
五千石についてはここでは秀吉に大望があるため城地を与えなかった、と以前の話とは違った解釈だった。
それにしても、尾藤知宣、戸田勝隆、神子田正治、宮田光次を合わせて羽柴四天王と呼ぶらしいが、誰がはじめに言い出したんだろう
幼若より秀吉につかゆ。武勇絶倫、秀吉母衣の勇士一員たり。
秀吉長浜を領られしより、播州に移りたまう時に至るまで宮田・尾藤・神子田・戸田をこゆる勇功の士あらず。
三木城攻めに天正六年五月、宮田戦死。秀吉もっとも嘆惜す。
尾藤、神子田に比して戸田、宮田は記載に乏しい。
神子田については過去に五千石と秀吉への口答えの話も両方出ていたが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1832.html
神子田半左衛門と五千石の加増・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3315.html
神子田さんが改易された話逆バージョン
五千石についてはここでは秀吉に大望があるため城地を与えなかった、と以前の話とは違った解釈だった。
それにしても、尾藤知宣、戸田勝隆、神子田正治、宮田光次を合わせて羽柴四天王と呼ぶらしいが、誰がはじめに言い出したんだろう
247人間七七四年
2021/12/20(月) 15:28:15.13ID:B2NNC59W 奥州会津の城主・松平(本姓蒲生)下野守忠郷の家人に、岡半兵衛重政という者があった。
彼は忠郷の母儀(正清院・家康公御娘)に対して度々違背する事があった。母儀はこの事を
内々大御所(家康)へ訴えたため、岡半兵衛の禄を放つべき御諚の旨、老臣より奉書を投じた。
岡半兵衛は大阪御陣の後、様々に弁じたが終に御赦免無く、駿府に於いて自害した)
そして岡半兵衛に同心していた池信濃以下数人が浪人した。
岡半兵衛の居城であった奥州津村の城には蒲生五郎兵衛を移し、また蒲生源左衛門尉郷成を呼び返し、
三春の城に差し置くべき旨仰せ出されるに依って、源左衛門尉を召し寄されたのだが、彼はその路中にて
病死した。このため郷成の嫡子である源三郎郷喜を、源左衛門と改名して三万石、二男・源兵衛郷舎に
一万五千石を賜って、この兄弟を返した。
蒲生家執権の事は、町野長門守、玉井数馬の両人が相勤めるべき旨、御下知あった。
また下野守の使者として北安達内匠という者が大御所に申し上げた所によると、
「蒲生主計は年来武勇に達し、その上無欲にして、家中及び百姓等を撫育してきた為、家も貧しかった所に、
今度両御所(家康・秀忠)が大阪へ御発行(大阪冬の陣)に付き、下野守の人数も差し向けられるという
風聞があります。これについて、蒲生主計は訴えました、
『家貧しうして兵を動かし難し、願わくば黄金拝借仕り、忠郷様の名代として大阪へ馳せ向い、
討ち死にを遂げたいのです。』
そのように望んだのですが、下野守・中務大輔(忠知)兄弟共に幼少であり、殊更この主計は、先に
御改易を仰せ付けられた岡半兵衛の一族であります故に、その訴訟を取り次ぐ者も有りませんでした。
そこで主計はこれを恨み憤り、忽ち自害してしまいました。
この趣は先達て江戸の御留守である(松平)忠輝朝臣まで申し上げましたが、今又、直に言上仕ります。」
これを聞いた大御所は
「主計は武功有る者であった。彼のような者については、善悪に依らず訴訟の事が有れば取り上げるべきなのに
打ち捨てて置く事、蒲生家の老臣たちの怠慢甚だしい。主計の卒爾の自害、不憫の至である。
凡そ家中の困窮は、その将の過ちである。然しながら忠郷は未だ幼少である。よってこれらは臣下の罪である。」
そのように仰せに成りご立腹されたことで、安達内匠は戸惑いながら帰国した。
(新東鑑)
大阪冬の陣の頃も、氏郷死去以来の蒲生騒動が未だ治まっておらず家中が混乱したままだった蒲生家についてのお話
しかし本当に蒲生だらけですね。
彼は忠郷の母儀(正清院・家康公御娘)に対して度々違背する事があった。母儀はこの事を
内々大御所(家康)へ訴えたため、岡半兵衛の禄を放つべき御諚の旨、老臣より奉書を投じた。
岡半兵衛は大阪御陣の後、様々に弁じたが終に御赦免無く、駿府に於いて自害した)
そして岡半兵衛に同心していた池信濃以下数人が浪人した。
岡半兵衛の居城であった奥州津村の城には蒲生五郎兵衛を移し、また蒲生源左衛門尉郷成を呼び返し、
三春の城に差し置くべき旨仰せ出されるに依って、源左衛門尉を召し寄されたのだが、彼はその路中にて
病死した。このため郷成の嫡子である源三郎郷喜を、源左衛門と改名して三万石、二男・源兵衛郷舎に
一万五千石を賜って、この兄弟を返した。
蒲生家執権の事は、町野長門守、玉井数馬の両人が相勤めるべき旨、御下知あった。
また下野守の使者として北安達内匠という者が大御所に申し上げた所によると、
「蒲生主計は年来武勇に達し、その上無欲にして、家中及び百姓等を撫育してきた為、家も貧しかった所に、
今度両御所(家康・秀忠)が大阪へ御発行(大阪冬の陣)に付き、下野守の人数も差し向けられるという
風聞があります。これについて、蒲生主計は訴えました、
『家貧しうして兵を動かし難し、願わくば黄金拝借仕り、忠郷様の名代として大阪へ馳せ向い、
討ち死にを遂げたいのです。』
そのように望んだのですが、下野守・中務大輔(忠知)兄弟共に幼少であり、殊更この主計は、先に
御改易を仰せ付けられた岡半兵衛の一族であります故に、その訴訟を取り次ぐ者も有りませんでした。
そこで主計はこれを恨み憤り、忽ち自害してしまいました。
この趣は先達て江戸の御留守である(松平)忠輝朝臣まで申し上げましたが、今又、直に言上仕ります。」
これを聞いた大御所は
「主計は武功有る者であった。彼のような者については、善悪に依らず訴訟の事が有れば取り上げるべきなのに
打ち捨てて置く事、蒲生家の老臣たちの怠慢甚だしい。主計の卒爾の自害、不憫の至である。
凡そ家中の困窮は、その将の過ちである。然しながら忠郷は未だ幼少である。よってこれらは臣下の罪である。」
そのように仰せに成りご立腹されたことで、安達内匠は戸惑いながら帰国した。
(新東鑑)
大阪冬の陣の頃も、氏郷死去以来の蒲生騒動が未だ治まっておらず家中が混乱したままだった蒲生家についてのお話
しかし本当に蒲生だらけですね。
248人間七七四年
2021/12/20(月) 16:04:04.81ID:g3dHoHz9 名字を活躍した家臣に配る、やってもらった側は感無量だけど後から見る人間からは誰が誰やら
249人間七七四年
2021/12/20(月) 16:10:51.18ID:fHEcECu2 読み方を変えよう
がもう、かもう、がまお
がもう、かもう、がまお
250人間七七四年
2021/12/20(月) 18:43:11.05ID:yGHycAm/ かばなま
251人間七七四年
2021/12/20(月) 19:02:54.51ID:FmAYMNPX 夜悪いことするとがおーさんが来る、みたいな伝承が滋賀だかで残ってたっけ?
252人間七七四年
2021/12/21(火) 02:04:50.43ID:8asVSz2+ ナボナはお菓子のホームラン王です
253人間七七四年
2021/12/21(火) 16:29:18.69ID:+zNGuFRY 「沈惟敬、秀吉に毒を盛る」陰徳太平記バージョン
(この前のまとめ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13304.html
のコメント欄で沈惟敬が毒を持った話が陰徳太平記にも出てるとあったので)
そもそも太閤公、御不例の御病因を聞くに、去々年九月遊撃将軍・沈惟敬来朝して太閤に謁たてまつりける時、かれ懐中より丸薬取り出して服用す。
太閤公「それは何の薬や」と尋ねさせたまえば、「これは老人の若返る良薬にて候」と申す。
太閤公「老いて二度若くなる薬は日本にかえても求めまほしきものを、われに得させよ」とのべければ、すなわち奉りけり。
その座に輝元卿、利家卿、善乗坊(善祥坊、宮部継潤)など伺候したまいけるに、太閤公この人々にも賜りけれど、
利家卿、輝元卿は「かかる薬、いにしえよりありということを聞かず、怪し」と思い、服するようにて頓に懐中したまう。
善乗房は即呑まれけるゆえ、これも太閤公と同じ年に死去せられぬ。
遊撃将軍「秀吉公長生したまわばついには大明一統に征伐せらるべし。しからばわれ一身を捨て大明国中の人を救わば大忠なるべき」と思惟して
かく鴆毒を良薬と偽りてわが身も服し太閤公にも奉りけると聞こえしが。
かれが謀の中に陥されて、はかなく成りせたまゆこそくやしけれ。
たとい、いにしえよりかかる薬ありとも、讐敵といい、異朝の者といい、彼が奉りし薬を何の思案なく服用したまうべきや。
いわんや古往今来不老不死の薬の名のみありて実はそらごとなりということをば三歳の児も知るところなり。
秦皇の蓬莱を尋ね、漢武の仙掌の露を嘗めしは愚かなる例にはいわざるや。
かくまで浅智にございましては扶桑のみならず、朝鮮大明にいたって和を乞い、腰を折りての大謀争が寸心より出生せん。
これただ宿世の業因の果報する所のみ。
(この前のまとめ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13304.html
のコメント欄で沈惟敬が毒を持った話が陰徳太平記にも出てるとあったので)
そもそも太閤公、御不例の御病因を聞くに、去々年九月遊撃将軍・沈惟敬来朝して太閤に謁たてまつりける時、かれ懐中より丸薬取り出して服用す。
太閤公「それは何の薬や」と尋ねさせたまえば、「これは老人の若返る良薬にて候」と申す。
太閤公「老いて二度若くなる薬は日本にかえても求めまほしきものを、われに得させよ」とのべければ、すなわち奉りけり。
その座に輝元卿、利家卿、善乗坊(善祥坊、宮部継潤)など伺候したまいけるに、太閤公この人々にも賜りけれど、
利家卿、輝元卿は「かかる薬、いにしえよりありということを聞かず、怪し」と思い、服するようにて頓に懐中したまう。
善乗房は即呑まれけるゆえ、これも太閤公と同じ年に死去せられぬ。
遊撃将軍「秀吉公長生したまわばついには大明一統に征伐せらるべし。しからばわれ一身を捨て大明国中の人を救わば大忠なるべき」と思惟して
かく鴆毒を良薬と偽りてわが身も服し太閤公にも奉りけると聞こえしが。
かれが謀の中に陥されて、はかなく成りせたまゆこそくやしけれ。
たとい、いにしえよりかかる薬ありとも、讐敵といい、異朝の者といい、彼が奉りし薬を何の思案なく服用したまうべきや。
いわんや古往今来不老不死の薬の名のみありて実はそらごとなりということをば三歳の児も知るところなり。
秦皇の蓬莱を尋ね、漢武の仙掌の露を嘗めしは愚かなる例にはいわざるや。
かくまで浅智にございましては扶桑のみならず、朝鮮大明にいたって和を乞い、腰を折りての大謀争が寸心より出生せん。
これただ宿世の業因の果報する所のみ。
254人間七七四年
2021/12/23(木) 14:41:39.94ID:dDjxcVds 別記に、上杉家家臣の杉原常陸介(水原親憲)は武功の者であった。
上杉景勝卿がある年、江戸より米沢へ帰城された時、常陸介を始めその他大身の輩が皆迎えに出た。
景勝卿はそれぞれに詞をかけ、常陸介の居た所を二、三十間過ぎた時、常陸介が忽ちに頓死した。
(意識不明になったということだろう)
人々は薬を与えて呼び返したがその甲斐もなく。景勝卿も早く帰って保養するよう下知したのだが、
遂に死んだ。
この知らせに景勝卿は涙を流し
「前夜の夢の中に、不識院殿(上杉謙信)が枕にお立ちに成り、『杉原常陸介を此の方に給われ。』と
宣われた。夢覚めて近習の者達に此の事を語り聞かせ、常陸が死すべき兆を夢に見たと言ったのだが、
その如く只今相果ててしまった。」
と、甚だ惜しまれたという。
(新東鑑)
上杉景勝卿がある年、江戸より米沢へ帰城された時、常陸介を始めその他大身の輩が皆迎えに出た。
景勝卿はそれぞれに詞をかけ、常陸介の居た所を二、三十間過ぎた時、常陸介が忽ちに頓死した。
(意識不明になったということだろう)
人々は薬を与えて呼び返したがその甲斐もなく。景勝卿も早く帰って保養するよう下知したのだが、
遂に死んだ。
この知らせに景勝卿は涙を流し
「前夜の夢の中に、不識院殿(上杉謙信)が枕にお立ちに成り、『杉原常陸介を此の方に給われ。』と
宣われた。夢覚めて近習の者達に此の事を語り聞かせ、常陸が死すべき兆を夢に見たと言ったのだが、
その如く只今相果ててしまった。」
と、甚だ惜しまれたという。
(新東鑑)
255人間七七四年
2021/12/25(土) 10:42:29.69ID:VAMcHqsE 或る本に曰く、大阪冬の陣、今福の戦いにおいて佐竹義宣の軍が難儀に及んだ時、後陣に控えていた
堀尾山城守(忠晴)に援兵を要請した所、堀尾は「心得候」と返答した。
この時、幕府の御目付である安藤治右衛門がこの場に在り、堀尾に「(幕府の)御下知も伺わずに
人数を出す事、然るべからず。」と申し上げこれを制した。しかし山城守は
「御下知が無いからと言って、目前に味方を討たせ、見物する法があるものか!」
と、その勢二千計りを左右にして、勝ち誇っている木村重成の軍勢の所へ、会釈も無く駆け入ろうとした。
ところがその場は堀越にあり、駆け合う事は出来ず、彼等は徒に合戦を見物するのみであった。
堀尾はこの年十六歳にて、天下無双の美男であったと云われる。
(新東鑑)
堀尾忠晴、見物なんて出来ない!と言って出撃したのに結局見物してしまったというお話
堀尾山城守(忠晴)に援兵を要請した所、堀尾は「心得候」と返答した。
この時、幕府の御目付である安藤治右衛門がこの場に在り、堀尾に「(幕府の)御下知も伺わずに
人数を出す事、然るべからず。」と申し上げこれを制した。しかし山城守は
「御下知が無いからと言って、目前に味方を討たせ、見物する法があるものか!」
と、その勢二千計りを左右にして、勝ち誇っている木村重成の軍勢の所へ、会釈も無く駆け入ろうとした。
ところがその場は堀越にあり、駆け合う事は出来ず、彼等は徒に合戦を見物するのみであった。
堀尾はこの年十六歳にて、天下無双の美男であったと云われる。
(新東鑑)
堀尾忠晴、見物なんて出来ない!と言って出撃したのに結局見物してしまったというお話
256人間七七四年
2021/12/25(土) 14:26:31.47ID:HufBNS07 この後のイケメンが気まずそうにしてる顔が見たい
257人間七七四年
2021/12/25(土) 16:01:28.99ID:DGVEwEQj 木村重成「天下無双の美男とは私のことではないのか」
258人間七七四年
2021/12/25(土) 23:13:53.37ID:fzoKlB+k 「大友記」より「義鑑公(宗麟)御舎弟八郎殿、大内家を継ぎたまうこと」
百済国の王子林処(琳聖)王太子より二十八代の後胤、周防豊大内義隆公、安芸の毛利陸奥守元就と戦いたまうこと類度におよばれども、
大内殿大身にましませば御馬を出さるることなく、冷泉院などという侍大将に人数少々相添えあしらわせたまう。
元就公は仕出の侍、弓矢をとりて、かく器用なれば心がけ深くして大内殿の国おおかた元就が手に入り、
大軍をもって義隆居城周防山口へよせければ、義隆一戦にも及ばず深川大寧寺にいらせたまう。
元就つづいて追いかくれば、力なく天文二十年辛亥九月朔日に義隆公、父子ともに御腹召さる。
既に大内家退転しければ大内殿家老陶尾張守晴基(陶晴賢)、
「義鎮公御舎弟八郎御曹司を申しうけ奉り義隆公御跡目に仕りすべまいらせたき」よし、田原近江守を頼りにせんと申し上げる。
右の旨言上しければ、義鎮公仰せら候は
「尾張あるじの義隆をうたせ、元就という敵と合戦ならず、居城山口をさえ敵にとられ籠るべき一城もなく、義隆跡に仕えすべしと申すも無分別なり。
義隆跡に八郎まいりたりと元就聞きそろわば、時日をうつさず大軍をもって押し寄すべし。
その時尾張一身の才覚にて元就に手向かいなるまじく候。
たとい一戦に及ぶといえども、しばしもこらうべきようなければ追い崩れならん事うたがいなし」よし、何事も聞き入れるべかるずとある気配にそうらえども
八郎殿おことわりありて「義隆あとのき、元就手指国にてそうらえば、元就におそれ自ら退き仕り候と、諸人のあざけりも口惜しき次第にて御座候。
元就と一戦を遂げ討死仕り候事ならば子の上の面目にて候」とて義隆跡目に御約束なり。
尾張守よろこび安芸国厳島に城郭を構え、八郎殿を大内義長と号し厳島へいれまいらす。
元就はやりたる大将なれば、やがて押し寄せ一日一夜攻めし戦い、尾張守打ち負け周防豊国長府谷長福寺へ引き退き、
毛利つづいて追いかくれば尾張守討死いたす。義長公力なく御腹召さる。
それより中国八カ国、毛利成敗とぞなりにけり。
毛利元就が大内義隆を討った逆臣で、陶晴賢が大内家再興に努力した忠臣みたいな
百済国の王子林処(琳聖)王太子より二十八代の後胤、周防豊大内義隆公、安芸の毛利陸奥守元就と戦いたまうこと類度におよばれども、
大内殿大身にましませば御馬を出さるることなく、冷泉院などという侍大将に人数少々相添えあしらわせたまう。
元就公は仕出の侍、弓矢をとりて、かく器用なれば心がけ深くして大内殿の国おおかた元就が手に入り、
大軍をもって義隆居城周防山口へよせければ、義隆一戦にも及ばず深川大寧寺にいらせたまう。
元就つづいて追いかくれば、力なく天文二十年辛亥九月朔日に義隆公、父子ともに御腹召さる。
既に大内家退転しければ大内殿家老陶尾張守晴基(陶晴賢)、
「義鎮公御舎弟八郎御曹司を申しうけ奉り義隆公御跡目に仕りすべまいらせたき」よし、田原近江守を頼りにせんと申し上げる。
右の旨言上しければ、義鎮公仰せら候は
「尾張あるじの義隆をうたせ、元就という敵と合戦ならず、居城山口をさえ敵にとられ籠るべき一城もなく、義隆跡に仕えすべしと申すも無分別なり。
義隆跡に八郎まいりたりと元就聞きそろわば、時日をうつさず大軍をもって押し寄すべし。
その時尾張一身の才覚にて元就に手向かいなるまじく候。
たとい一戦に及ぶといえども、しばしもこらうべきようなければ追い崩れならん事うたがいなし」よし、何事も聞き入れるべかるずとある気配にそうらえども
八郎殿おことわりありて「義隆あとのき、元就手指国にてそうらえば、元就におそれ自ら退き仕り候と、諸人のあざけりも口惜しき次第にて御座候。
元就と一戦を遂げ討死仕り候事ならば子の上の面目にて候」とて義隆跡目に御約束なり。
尾張守よろこび安芸国厳島に城郭を構え、八郎殿を大内義長と号し厳島へいれまいらす。
元就はやりたる大将なれば、やがて押し寄せ一日一夜攻めし戦い、尾張守打ち負け周防豊国長府谷長福寺へ引き退き、
毛利つづいて追いかくれば尾張守討死いたす。義長公力なく御腹召さる。
それより中国八カ国、毛利成敗とぞなりにけり。
毛利元就が大内義隆を討った逆臣で、陶晴賢が大内家再興に努力した忠臣みたいな
259人間七七四年
2021/12/27(月) 13:13:00.33ID:QCMvxcki 大阪冬の陣、今福の戦いでのこと
戦場から川向うに陣していた上杉景勝勢の直江山城守(兼続)は、豊臣勢の中に、部隊を下知している
後藤又兵衛を見つけた
「茜の母衣張で、馬印に黒半月を差して下知しているのは大将分と見えたり!あれを討て!」
そう申すと、若き者共が差し詰めて鉄砲を撃ち掛けた。これに後藤又兵衛の物具にも、弾丸が五、六発
当たり、その中の弾の一つが後藤の左の腕脇を打ちかすった。しかし彼は少しも騒がず、疵を確認して
「我が君の御運は強し!」
と申した。
この言葉を諸軍勢聞いて、「大阪には後藤より他に人無しとする言い分である。」と、これを嘲る者達も
多かったという。
(新東鑑)
戦場から川向うに陣していた上杉景勝勢の直江山城守(兼続)は、豊臣勢の中に、部隊を下知している
後藤又兵衛を見つけた
「茜の母衣張で、馬印に黒半月を差して下知しているのは大将分と見えたり!あれを討て!」
そう申すと、若き者共が差し詰めて鉄砲を撃ち掛けた。これに後藤又兵衛の物具にも、弾丸が五、六発
当たり、その中の弾の一つが後藤の左の腕脇を打ちかすった。しかし彼は少しも騒がず、疵を確認して
「我が君の御運は強し!」
と申した。
この言葉を諸軍勢聞いて、「大阪には後藤より他に人無しとする言い分である。」と、これを嘲る者達も
多かったという。
(新東鑑)
260人間七七四年
2022/01/04(火) 03:12:50.87ID:AEphEda+ (天正9年、笠原政晴の謀反の時)
小田原の老臣である松田尾張守(憲秀)の子息・松田新六郎はその頃は笠原の養子で
笠原新六郎(政晴。政尭の名で知られる)と申し、600騎の大将であったが去年より戸倉の城に在城した。
その頃の駿河国は甲州の領地なので、伊豆の堺目沼津の城に勝頼衆の高坂源五郎(春日昌元か)が200余騎で籠もった。
笠原新六郎も手勢180余騎で戸倉に在城し、互いに近所なので苅田をさせ、夜駆けの足軽競り合いが度々あった。
この新六郎は若輩の頃より武勇の道は無器用にして、欲深きことは並びなき人であった。
そのため高名もなくして官禄を望み、功なくして忠賞を願い、折にふれて不忠ばかり多いため、
小田原でも氏政と氏直(北条氏政・氏直)はさほど御馳走なく、新六郎は内々不足に思い、
「時機が良ければ謀反も起こすというのに」と躊躇っていた。
そんなところに沼津の城主・高坂源五郎は、三島の心経寺という僧をもって勝頼の御意だとして
色々新六郎を謀り、「伊豆一国の守護になされ新六郎を勝頼の婿になさるので、こちらへ降参して忠功なされてしかるべし」
と語らった。笠原は元来大欲深き男で、そのうえ内々小田原に不足もあり時機良しと存じて甲州方になって勝頼へ内通し、
甲州勢・海野組の衆200余騎にて戸倉の城へ籠もった。
(中略。政晴は北条方を攻めて笠原照重を討ち、玉縄の北条氏勝が政晴討伐に出陣)
同3月中旬、戸倉・大平の間の手白山という所まで出張ると戸倉城から出家1人がやって来て
左衛門太夫(北条氏勝)の前に畏まって申すには、
「私は笠原新六郎の使いでございます。今日の御出勢には罷り向かって一矢仕るべきですが、
主人の勝頼は図らずも信長のために自害して滅びなさったと只今告げ来たりました。それでは戦も無益であります。
ただ城を渡しましょう。御勢を向けられてしかるべし」
これを聞き左衛門太夫は「もっともだ。しかしその是非は小田原へ申してこそである」と飛脚でこれを小田原へ申し上げた。
氏政は聞こし召し、評定なされて御出馬あり。笠原新六郎不忠の逆儀は申すに及ばざる次第ながら、父尾張守の度々の忠功に
思し召し替えられて命を御許しになった。そして新六郎は出家入道して罷り出るように、また城を受け取り、
甲州勢をなんとかして討ち取ってしかるべしとの御下知であった。
左衛門太夫は承り、新六郎に出家させ城を受け取らせるようにと申し、甲州からの加勢衆にも早々に城を開けて退きなされ
との使者を遣わした。甲州勢は「是非ともこの城を枕に仕るべし!とても帰るわけにはいかない!」と申した。
左衛門太夫は重ねて申し「沼津の城も五三日以前に開けて皆々退きなされた。各々も何が苦しかろう、ただ御退きしかるべし」
すると甲州勢は「では笠原新六郎殿を人質に賜りたい。それならば退去しよう」と言う。ならば人質を参らせようと、
新六郎の名代として御宿又太郎という笠原が身を離さぬ小姓で、まことに容顔比類なき児で16歳の者を、
“またらかけ”という名馬に乗せて、「何事かあれば乗り抜けよ」と密かに申し聞かせて人質に出した。
しかしながら甲州方でも心得ており、その馬には乗せずに小荷駄に乗せて、ことさら中に取り囲んだ。
2,3町も過ぎると前後から敵が取り巻く様子となって人質をも討ち果たし、甲州衆200余人は一所に皆討たれたのである。
――『異本小田原記』
笠原新六郎は後に小田原征伐で父・松田憲秀とともに豊臣方に内通しようとして北条方に殺害される
黒田官兵衛の聞き間違いのふりで処刑された逸話でも有名かな
小田原の老臣である松田尾張守(憲秀)の子息・松田新六郎はその頃は笠原の養子で
笠原新六郎(政晴。政尭の名で知られる)と申し、600騎の大将であったが去年より戸倉の城に在城した。
その頃の駿河国は甲州の領地なので、伊豆の堺目沼津の城に勝頼衆の高坂源五郎(春日昌元か)が200余騎で籠もった。
笠原新六郎も手勢180余騎で戸倉に在城し、互いに近所なので苅田をさせ、夜駆けの足軽競り合いが度々あった。
この新六郎は若輩の頃より武勇の道は無器用にして、欲深きことは並びなき人であった。
そのため高名もなくして官禄を望み、功なくして忠賞を願い、折にふれて不忠ばかり多いため、
小田原でも氏政と氏直(北条氏政・氏直)はさほど御馳走なく、新六郎は内々不足に思い、
「時機が良ければ謀反も起こすというのに」と躊躇っていた。
そんなところに沼津の城主・高坂源五郎は、三島の心経寺という僧をもって勝頼の御意だとして
色々新六郎を謀り、「伊豆一国の守護になされ新六郎を勝頼の婿になさるので、こちらへ降参して忠功なされてしかるべし」
と語らった。笠原は元来大欲深き男で、そのうえ内々小田原に不足もあり時機良しと存じて甲州方になって勝頼へ内通し、
甲州勢・海野組の衆200余騎にて戸倉の城へ籠もった。
(中略。政晴は北条方を攻めて笠原照重を討ち、玉縄の北条氏勝が政晴討伐に出陣)
同3月中旬、戸倉・大平の間の手白山という所まで出張ると戸倉城から出家1人がやって来て
左衛門太夫(北条氏勝)の前に畏まって申すには、
「私は笠原新六郎の使いでございます。今日の御出勢には罷り向かって一矢仕るべきですが、
主人の勝頼は図らずも信長のために自害して滅びなさったと只今告げ来たりました。それでは戦も無益であります。
ただ城を渡しましょう。御勢を向けられてしかるべし」
これを聞き左衛門太夫は「もっともだ。しかしその是非は小田原へ申してこそである」と飛脚でこれを小田原へ申し上げた。
氏政は聞こし召し、評定なされて御出馬あり。笠原新六郎不忠の逆儀は申すに及ばざる次第ながら、父尾張守の度々の忠功に
思し召し替えられて命を御許しになった。そして新六郎は出家入道して罷り出るように、また城を受け取り、
甲州勢をなんとかして討ち取ってしかるべしとの御下知であった。
左衛門太夫は承り、新六郎に出家させ城を受け取らせるようにと申し、甲州からの加勢衆にも早々に城を開けて退きなされ
との使者を遣わした。甲州勢は「是非ともこの城を枕に仕るべし!とても帰るわけにはいかない!」と申した。
左衛門太夫は重ねて申し「沼津の城も五三日以前に開けて皆々退きなされた。各々も何が苦しかろう、ただ御退きしかるべし」
すると甲州勢は「では笠原新六郎殿を人質に賜りたい。それならば退去しよう」と言う。ならば人質を参らせようと、
新六郎の名代として御宿又太郎という笠原が身を離さぬ小姓で、まことに容顔比類なき児で16歳の者を、
“またらかけ”という名馬に乗せて、「何事かあれば乗り抜けよ」と密かに申し聞かせて人質に出した。
しかしながら甲州方でも心得ており、その馬には乗せずに小荷駄に乗せて、ことさら中に取り囲んだ。
2,3町も過ぎると前後から敵が取り巻く様子となって人質をも討ち果たし、甲州衆200余人は一所に皆討たれたのである。
――『異本小田原記』
笠原新六郎は後に小田原征伐で父・松田憲秀とともに豊臣方に内通しようとして北条方に殺害される
黒田官兵衛の聞き間違いのふりで処刑された逸話でも有名かな
261人間七七四年
2022/01/05(水) 16:03:04.54ID:NKvNGPde 記に、豊臣秀頼の家臣である渡辺内蔵助(糺)は器量世に勝れ、力人に越えていたため、
今日の合戦(大阪冬の陣・鴫野の戦い)にも棟梁の臣と選ばれた。
彼は兵法の達人であり、人を人とも思わず、日頃から広言を吐いており、今日の合戦にも
真っ先に進んだのであるが、幕府方の堀尾山城守(忠晴)らの軍兵がこれに直に懸かって、
前後に当たり左右に激しける勇力に払われて、足を立てることも出来ず追い立てられた。
持たせておいた馬印も一番に逃げ入ったため、人々は皆、渡辺を悪しきと思ったのであろう、
一首の狂歌が書かれ、内蔵助の屋敷の門の前に押し立てられた
『渡辺が 憂名を流す鴫野川 敵に逢うては目も内蔵助』
敵も味方も、これを聞き伝えて物笑いになったという。
(新東鑑)
今日の合戦(大阪冬の陣・鴫野の戦い)にも棟梁の臣と選ばれた。
彼は兵法の達人であり、人を人とも思わず、日頃から広言を吐いており、今日の合戦にも
真っ先に進んだのであるが、幕府方の堀尾山城守(忠晴)らの軍兵がこれに直に懸かって、
前後に当たり左右に激しける勇力に払われて、足を立てることも出来ず追い立てられた。
持たせておいた馬印も一番に逃げ入ったため、人々は皆、渡辺を悪しきと思ったのであろう、
一首の狂歌が書かれ、内蔵助の屋敷の門の前に押し立てられた
『渡辺が 憂名を流す鴫野川 敵に逢うては目も内蔵助』
敵も味方も、これを聞き伝えて物笑いになったという。
(新東鑑)
262人間七七四年
2022/01/05(水) 16:43:35.31ID:FGjiJTPV 新東鑑の凡例を読むと「記とあるは、難波戦記をいふ。」
と書かれていて
実際「増補難波戦記」にも
渡辺内蔵助糺は器量世に勝(すぐ)れ力人に卓絶たれば今日の合戦にも〜」
とほぼ同じ内容の記事があるな
と書かれていて
実際「増補難波戦記」にも
渡辺内蔵助糺は器量世に勝(すぐ)れ力人に卓絶たれば今日の合戦にも〜」
とほぼ同じ内容の記事があるな
263人間七七四年
2022/01/05(水) 17:27:01.25ID:/YWcSCEU 器量がいいのに人を人とも思わない態度を取ってるのか
264人間七七四年
2022/01/06(木) 18:19:38.97ID:7ZpPPo9o 「博多細伝実録」より僧高要の祟り
忠之の短慮についてであるが、天台宗の僧・高要という者が太宰府の近くの寺の別当をしていた。
この出家は破戒僧であり、十六才の寺衆の美婦を小児姓といつわって仕えさせていた。
ついに目付けにばれ、本来ならば遠島を申しつけられるところを、
忠之により、法外不仁であるということで生きながら骨を割られ殺された。
忠之は城より二里半ばかりの崇福寺に、毎月祖父如水の忌日に寺参りをしていたが
暁方に馬で向かったところ、高要法師が忽然として煙の人形のごとく馬の前に現れ白眼をむいた。
忠之が「坊主めが、推参なり」と言うや煙の如く消失した。
高要の死から一年もしないうちに、高要の破戒を見出した目付けはもちろん、その時とらえた場に居合わせた者十三人が一人も残らず死んでしまった。
そこで福岡の大工町に一社が建立されたが、色道の罪で殺されたため、誰ともなく縁切りの願いを叶えてくれる、ということになった。
忠之の短慮についてであるが、天台宗の僧・高要という者が太宰府の近くの寺の別当をしていた。
この出家は破戒僧であり、十六才の寺衆の美婦を小児姓といつわって仕えさせていた。
ついに目付けにばれ、本来ならば遠島を申しつけられるところを、
忠之により、法外不仁であるということで生きながら骨を割られ殺された。
忠之は城より二里半ばかりの崇福寺に、毎月祖父如水の忌日に寺参りをしていたが
暁方に馬で向かったところ、高要法師が忽然として煙の人形のごとく馬の前に現れ白眼をむいた。
忠之が「坊主めが、推参なり」と言うや煙の如く消失した。
高要の死から一年もしないうちに、高要の破戒を見出した目付けはもちろん、その時とらえた場に居合わせた者十三人が一人も残らず死んでしまった。
そこで福岡の大工町に一社が建立されたが、色道の罪で殺されたため、誰ともなく縁切りの願いを叶えてくれる、ということになった。
265人間七七四年
2022/01/08(土) 19:30:00.65ID:rglBk/zP 「大友興廃記」より角隈石宗の諫言
天正六年、伊東家に頼られた大友宗麟が自ら出馬し日州高城を攻めることにした。
これに対して軍配者の角隈石宗は数条の諫言をした。
・当年は(宗麟の)四十九の厄年のため出陣は見合わせた方がいいでしょう。
・昨年より箒星(弾正星で有名なやつ)が西に尾を靡かせました。
戦場の方角に箒の柄ですので人を打つことにつながります。これまた不吉です。
などなど
しかし、一休以来と言われる如露法師により禅宗に傾倒していた大友宗麟は
「彗星が物の怪であるならば、本朝以外の唐天竺においても物の怪のはずである。
小国の日本の九か国に過ぎないこの宗麟の弓箭を告げることがあろうか」
と石宗の諫言を無視した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2279.html
でも出てるけど出典と宗麟の返答までは書いてなかったので。
天正六年、伊東家に頼られた大友宗麟が自ら出馬し日州高城を攻めることにした。
これに対して軍配者の角隈石宗は数条の諫言をした。
・当年は(宗麟の)四十九の厄年のため出陣は見合わせた方がいいでしょう。
・昨年より箒星(弾正星で有名なやつ)が西に尾を靡かせました。
戦場の方角に箒の柄ですので人を打つことにつながります。これまた不吉です。
などなど
しかし、一休以来と言われる如露法師により禅宗に傾倒していた大友宗麟は
「彗星が物の怪であるならば、本朝以外の唐天竺においても物の怪のはずである。
小国の日本の九か国に過ぎないこの宗麟の弓箭を告げることがあろうか」
と石宗の諫言を無視した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2279.html
でも出てるけど出典と宗麟の返答までは書いてなかったので。
266人間七七四年
2022/01/09(日) 13:01:40.96ID:/2Qi0JCl 大友興廃記から日州へ御出陣を仰出る事
天正六年戊寅(1578)年九月下旬に宗麟公、老中の田原紹忍、田北鎮周、朽網宗歴、吉岡讃州、志賀道輝ならびに軍配者(角隈)石宗を召して
「当家の勇力、九州を退治し、日州表も塩見、日知也、門河、この三城にて山毛田代の武士も従わすといえども大隅・薩摩いまだ残る。
この両国を退治して九州の主とならん。みずから出馬し、まず日州高城をせむべし。
佐伯惟教入道宗天、田北相模守鎮周に先陣を仰せつく」
老中おのおの申さるるは「伊東わずかの勢と義久の勢と数年の戦いに、伊東の勢、一度のおくれにより没落することは時の仕合、運によるもの、と人びとをして見る」
その時軍配者石宗申し上げる
「薩州義久は国中の成敗正しく信義をもち天の加護をうけ五常の道を乱さぬ古来名将なり。
日州、肥後、球磨も従う上は当年は御出馬をせず治められるべし。
当年は殊に四十九の厄により弓箭は不吉なり。
明年は合戦するに座して勝利をえん」と申し上ぐるも、(宗麟)御座を立たせけり。
老中、一所に会合し、朽網宗歴いうは
「先年、当国に関東より医師下向ありて居住するを見れば何かにつけて気高きさまにみてけるが、後漢の末なり。定めて異国人なり」
石宗いわく「後漢末、霊帝丹波国矢田郡に住して丹波氏といわれけり。
六代ののち坂上の姓を賜り代々典薬となれり。
中国大内家も異国より来朝す。原田、秋月、長宗我部なども漢の高祖の末なり。
(東漢氏や秦氏だが、高祖の名前を出してるのは原田が高祖山城の城主だから?)
薩州の家は雨中の徒然に聞きしが、薩摩も、比企の藤四郎の娘は頼朝公の局なり。
(このあとこの丹後局が頼朝の御子を懐妊したため御簾中(北条政子)によって筑紫に流されたところ途中の摂津住吉で野宿中に出産、
狐が集まり加護をしてくれたため島津は今も野狐を吉例としている、
そのあと鎌倉への帰還が許され八文字民部大輔(島津忠久の祖父の惟宗忠康の気がするが)の御局となり
子供は畠山重忠の婿として奥州へ下向し秀衡一門を退治し大隅・薩摩を獲得し島津又三郎忠久を号する。
比企の乱で重忠が母の比企氏側につかなかったため離縁?といった話が続く)
当家大友能直公(大友初代)御母、刀祢の局もまた頼朝公の局にて、能直公は頼朝公の御子なり。
御先祖は連枝により今年の御弓箭はやむべし」
こうして>>265の諫言の話になる
天正六年戊寅(1578)年九月下旬に宗麟公、老中の田原紹忍、田北鎮周、朽網宗歴、吉岡讃州、志賀道輝ならびに軍配者(角隈)石宗を召して
「当家の勇力、九州を退治し、日州表も塩見、日知也、門河、この三城にて山毛田代の武士も従わすといえども大隅・薩摩いまだ残る。
この両国を退治して九州の主とならん。みずから出馬し、まず日州高城をせむべし。
佐伯惟教入道宗天、田北相模守鎮周に先陣を仰せつく」
老中おのおの申さるるは「伊東わずかの勢と義久の勢と数年の戦いに、伊東の勢、一度のおくれにより没落することは時の仕合、運によるもの、と人びとをして見る」
その時軍配者石宗申し上げる
「薩州義久は国中の成敗正しく信義をもち天の加護をうけ五常の道を乱さぬ古来名将なり。
日州、肥後、球磨も従う上は当年は御出馬をせず治められるべし。
当年は殊に四十九の厄により弓箭は不吉なり。
明年は合戦するに座して勝利をえん」と申し上ぐるも、(宗麟)御座を立たせけり。
老中、一所に会合し、朽網宗歴いうは
「先年、当国に関東より医師下向ありて居住するを見れば何かにつけて気高きさまにみてけるが、後漢の末なり。定めて異国人なり」
石宗いわく「後漢末、霊帝丹波国矢田郡に住して丹波氏といわれけり。
六代ののち坂上の姓を賜り代々典薬となれり。
中国大内家も異国より来朝す。原田、秋月、長宗我部なども漢の高祖の末なり。
(東漢氏や秦氏だが、高祖の名前を出してるのは原田が高祖山城の城主だから?)
薩州の家は雨中の徒然に聞きしが、薩摩も、比企の藤四郎の娘は頼朝公の局なり。
(このあとこの丹後局が頼朝の御子を懐妊したため御簾中(北条政子)によって筑紫に流されたところ途中の摂津住吉で野宿中に出産、
狐が集まり加護をしてくれたため島津は今も野狐を吉例としている、
そのあと鎌倉への帰還が許され八文字民部大輔(島津忠久の祖父の惟宗忠康の気がするが)の御局となり
子供は畠山重忠の婿として奥州へ下向し秀衡一門を退治し大隅・薩摩を獲得し島津又三郎忠久を号する。
比企の乱で重忠が母の比企氏側につかなかったため離縁?といった話が続く)
当家大友能直公(大友初代)御母、刀祢の局もまた頼朝公の局にて、能直公は頼朝公の御子なり。
御先祖は連枝により今年の御弓箭はやむべし」
こうして>>265の諫言の話になる
267人間七七四年
2022/01/09(日) 17:47:45.92ID:lggOd2q5 或る記に、大阪冬の陣、博労淵の戦いで薄田隼人正(兼相)は博労淵を乗っ取られたことに対し、
その憤慨甚だしく、殊に大阪城中の列将が大いに嘲った事で、彼は毛利豊前守(勝永)に向かって言った
「今夜、蜂須賀安房守の陣を打ち破る。そのため足下に後陣を頼みたい。」
これに豊前守曰く
「私は新参の士であり、その勢も三百ばかりですから、先陣するのが当然です。御辺は多勢にして
本座の士であり、これは後軍を成す所以であります。にもかかわらず私がどうして後陣に
あらねばならないのか。」
と、承引しなかった事で、薄田の血気の勇も衰え、其の事を黙止したという。
(新東鑑)
薄田隼人正のかっこ悪いお話
その憤慨甚だしく、殊に大阪城中の列将が大いに嘲った事で、彼は毛利豊前守(勝永)に向かって言った
「今夜、蜂須賀安房守の陣を打ち破る。そのため足下に後陣を頼みたい。」
これに豊前守曰く
「私は新参の士であり、その勢も三百ばかりですから、先陣するのが当然です。御辺は多勢にして
本座の士であり、これは後軍を成す所以であります。にもかかわらず私がどうして後陣に
あらねばならないのか。」
と、承引しなかった事で、薄田の血気の勇も衰え、其の事を黙止したという。
(新東鑑)
薄田隼人正のかっこ悪いお話
268人間七七四年
2022/01/09(日) 21:23:09.42ID:iEdIKZ+J269人間七七四年
2022/01/10(月) 01:02:57.34ID:ll8UQZEV >>264
の僧高要の話についてまとめサイトのコメント欄で質問があったので調べたら異説があった。
「博多細伝実録」には「霊を福岡大工町浄念寺の間に社を建立の者為て高要権現と称し」
と書かれていたが、福岡市中央区大手門2丁目(かつての大工町)に存在する浄念寺について福岡市中央区のHPで見たところ、
境内には空誉上人を祀る空誉堂があり、後藤又兵衛の身代わりになって黒田忠之に処刑された、としていた(長政ではなく)
また、中央区の「今泉天神通りの3か寺」のページだと、
安養院の寺小姓を気に入った忠之が差し出させようとしたところ
住職の空誉上人が断ったため釜茹でにしたとしていた。
実際「博多細伝実録」だと「骨を刻、体?を鋳(に)こみ」と書かれているようなので名前も近いし高要=空誉と思われる。
ところでまとめサイトだと>>266の話をとばして>>267の話だけをまとめてるような
の僧高要の話についてまとめサイトのコメント欄で質問があったので調べたら異説があった。
「博多細伝実録」には「霊を福岡大工町浄念寺の間に社を建立の者為て高要権現と称し」
と書かれていたが、福岡市中央区大手門2丁目(かつての大工町)に存在する浄念寺について福岡市中央区のHPで見たところ、
境内には空誉上人を祀る空誉堂があり、後藤又兵衛の身代わりになって黒田忠之に処刑された、としていた(長政ではなく)
また、中央区の「今泉天神通りの3か寺」のページだと、
安養院の寺小姓を気に入った忠之が差し出させようとしたところ
住職の空誉上人が断ったため釜茹でにしたとしていた。
実際「博多細伝実録」だと「骨を刻、体?を鋳(に)こみ」と書かれているようなので名前も近いし高要=空誉と思われる。
ところでまとめサイトだと>>266の話をとばして>>267の話だけをまとめてるような
270人間七七四年
2022/01/10(月) 21:59:52.63ID:UGpWE7JG 或る記に、小栗又市(忠政)は、初め庄治郎と称したが、いつも一番首一番高名を遂げたことで、
大御所(徳川家康)の命によって又市と改めた。
去る関ケ原合戦に、米津清右衛門清勝が敵の首を得て小栗に見せた所、彼はそれを見て
「我も高名せん!」と、罵りながら馬を馳せ、島津の後殿に辞をかけ、馬上より突き落とし
首を得て帰るとそれを米津に見せ、たちまちその首を捨てた。これはその時の手柄が、名に
応じなかった故だという。
また曰く、この時(松平)薩摩守忠吉朝臣も敵の首を取られ、家康公の御前に出られると、
家康公を始め諸大名これを称賛したが、この時小栗又市は
「敵が弱く逃げ廻っているのを、家臣に足手を持たせて首を取らせ参られたのを褒められては、
いつでも敵は弱いものだと思し召されて、いざという時怪我あるべし。」
と申したことで、忠吉朝臣も立腹されたという。このような人物だったが故に、高禄にはなれなかったと
云われる。
(新東鑑)
大御所(徳川家康)の命によって又市と改めた。
去る関ケ原合戦に、米津清右衛門清勝が敵の首を得て小栗に見せた所、彼はそれを見て
「我も高名せん!」と、罵りながら馬を馳せ、島津の後殿に辞をかけ、馬上より突き落とし
首を得て帰るとそれを米津に見せ、たちまちその首を捨てた。これはその時の手柄が、名に
応じなかった故だという。
また曰く、この時(松平)薩摩守忠吉朝臣も敵の首を取られ、家康公の御前に出られると、
家康公を始め諸大名これを称賛したが、この時小栗又市は
「敵が弱く逃げ廻っているのを、家臣に足手を持たせて首を取らせ参られたのを褒められては、
いつでも敵は弱いものだと思し召されて、いざという時怪我あるべし。」
と申したことで、忠吉朝臣も立腹されたという。このような人物だったが故に、高禄にはなれなかったと
云われる。
(新東鑑)
271人間七七四年
2022/01/11(火) 01:02:57.11ID:AD0C/h+Y 小栗一族って骨ありすぎて報われないのかな
272人間七七四年
2022/01/11(火) 10:42:55.30ID:1bCBJ5R/ 面倒臭いの一言でok
273人間七七四年
2022/01/12(水) 19:27:57.50ID:4OnqiQbH 高要もしくは空誉上人の異説
「寛永箱崎文庫」より紅陽法印のこと
安養寺別当の紅陽法印は実は岐井谷安芸守友房(城井朝房?)の次男であり大友宗麟にとっては孫であったが、
岐井谷滅亡の後京都智積院紅道大僧正の弟子として真言密教を修行して天満宮の別当となる。
山中での修行後に下山した際、赤子の泣き声が聞こえたため行ってみると、猟師が出てきて
「私の子供なのですが、母親が死に、乳がなくて困っております」
と答えたため不憫に思い、猟師の話をくわしく聞いてみると、かつては大友に仕えた定村種時の息子、定村種春であり、
祖父大友宗麟からの感状も持っていることがわかったため、祖父の引き合わせだと感動し引き取ることにした。
子供は女児であったため、表向きは男子ということで寺小姓としておいておいた。
十数年たち成長した後には要人(かなめ)と名付けたが美しく育ったため、いつしか男女の仲となってしまった。
あるとき黒田忠之が安養寺に来た際に、要人が茶を立てたところ忠之は気に入り、たびたび紅陽を城に召すようになった。
そのころ忠之は奇術を用いる大盤和尚という者を気に入り、折々召し出していたが
忠之の面前で紅陽と大盤が問答をしたところ、大盤は言い負かせれたうえ、切支丹であることが露見した。
栗山大膳が大盤を拷問したところ切支丹であることを白状し、獄門にかけられた。
これ以降、忠之は紅陽と大膳を恨むようになっていたが、天神の祭礼日には家中の者があちこち訪ねる習わしになっていたため
寵愛していた倉橋重太夫(倉八十太夫)に安養寺へ行かせ、定村要人の様子を見てくるように命じた。
倉橋は安養寺に行ったものの要人は出てこなかったため怪しく思い、寺の奥まで押し入り、
逃げようとする要人の胸ぐらを掴んだところ、柔らかいものがふれ、要人が女であることが露見した。
帰城した倉橋からこれを聞いた忠之は奉行に要人を捕らえるように命じたが、紅陽によって要人は父親のところに送り出されていた。
奉行は紅陽を尋問したが「要人は出奔しました、所在は知れません」というばかりであり
二の丸の裏庭をお白洲の代わりにして、煮えたぎった油をかけるなどの拷問をしたが紅陽は口を割らなかった。
そこでとうとう破戒僧ということで、四本の杭に手足を縛り、背中を反らせ刀で引き裂き、そこに塩湯を流し込み、
皮肉をひきつらせて溝を作らせ、融けた鉛をその溝に注ぎ込んだ。
奉行が「これでも白状しないのか」というと
紅陽は両眼をかっと見開き、「おのれ、忠之が無道、要人が色香に迷い、これを奪い取らんと拷問にことよせて我を殺さんとし
また我を匹夫とはもっとも慮外至極なり。そもそもわれは岐井谷安芸守が二男なり。
我は父祖重々の怨敵たる黒田家なれども昔仇を忘れ恨みもせざりしに、
さる頃、汝が帰依なせし大盤が邪法をばくじきしことを遺恨に含み、今要人のことによせ、いまだ天下に行われざる非道の責(せめ)をなしたるべし。
たとい女犯のつみあろうとも死刑にあたらんや。この恨み思いしらさでおくべきか」
と四本の杭を引き抜き悪鬼の形相で死んだ。
このあと黒田騒動の話になっていく
「寛永箱崎文庫」より紅陽法印のこと
安養寺別当の紅陽法印は実は岐井谷安芸守友房(城井朝房?)の次男であり大友宗麟にとっては孫であったが、
岐井谷滅亡の後京都智積院紅道大僧正の弟子として真言密教を修行して天満宮の別当となる。
山中での修行後に下山した際、赤子の泣き声が聞こえたため行ってみると、猟師が出てきて
「私の子供なのですが、母親が死に、乳がなくて困っております」
と答えたため不憫に思い、猟師の話をくわしく聞いてみると、かつては大友に仕えた定村種時の息子、定村種春であり、
祖父大友宗麟からの感状も持っていることがわかったため、祖父の引き合わせだと感動し引き取ることにした。
子供は女児であったため、表向きは男子ということで寺小姓としておいておいた。
十数年たち成長した後には要人(かなめ)と名付けたが美しく育ったため、いつしか男女の仲となってしまった。
あるとき黒田忠之が安養寺に来た際に、要人が茶を立てたところ忠之は気に入り、たびたび紅陽を城に召すようになった。
そのころ忠之は奇術を用いる大盤和尚という者を気に入り、折々召し出していたが
忠之の面前で紅陽と大盤が問答をしたところ、大盤は言い負かせれたうえ、切支丹であることが露見した。
栗山大膳が大盤を拷問したところ切支丹であることを白状し、獄門にかけられた。
これ以降、忠之は紅陽と大膳を恨むようになっていたが、天神の祭礼日には家中の者があちこち訪ねる習わしになっていたため
寵愛していた倉橋重太夫(倉八十太夫)に安養寺へ行かせ、定村要人の様子を見てくるように命じた。
倉橋は安養寺に行ったものの要人は出てこなかったため怪しく思い、寺の奥まで押し入り、
逃げようとする要人の胸ぐらを掴んだところ、柔らかいものがふれ、要人が女であることが露見した。
帰城した倉橋からこれを聞いた忠之は奉行に要人を捕らえるように命じたが、紅陽によって要人は父親のところに送り出されていた。
奉行は紅陽を尋問したが「要人は出奔しました、所在は知れません」というばかりであり
二の丸の裏庭をお白洲の代わりにして、煮えたぎった油をかけるなどの拷問をしたが紅陽は口を割らなかった。
そこでとうとう破戒僧ということで、四本の杭に手足を縛り、背中を反らせ刀で引き裂き、そこに塩湯を流し込み、
皮肉をひきつらせて溝を作らせ、融けた鉛をその溝に注ぎ込んだ。
奉行が「これでも白状しないのか」というと
紅陽は両眼をかっと見開き、「おのれ、忠之が無道、要人が色香に迷い、これを奪い取らんと拷問にことよせて我を殺さんとし
また我を匹夫とはもっとも慮外至極なり。そもそもわれは岐井谷安芸守が二男なり。
我は父祖重々の怨敵たる黒田家なれども昔仇を忘れ恨みもせざりしに、
さる頃、汝が帰依なせし大盤が邪法をばくじきしことを遺恨に含み、今要人のことによせ、いまだ天下に行われざる非道の責(せめ)をなしたるべし。
たとい女犯のつみあろうとも死刑にあたらんや。この恨み思いしらさでおくべきか」
と四本の杭を引き抜き悪鬼の形相で死んだ。
このあと黒田騒動の話になっていく
274人間七七四年
2022/01/14(金) 17:08:56.97ID:oR2DBSob 「箱崎釜破故」より麻井(浅井)四郎左衛門の妻お綱のこと
(数種類のバージョンがあるようだが広島大学図書館が往来物(寺子屋の教科書)として公開しているものを元にした)
黒田忠之には北の方(采女)という愛妾がいたが、新しく江戸から十六の愛妾を二の丸に住まわせたため、
采女の方は自身が取り立てた麻井四郎左衛門という侍に妻として下げ渡すことにした。
四郎左衛門にはお綱という妻と二人の幼少の男子がいたため断ろうとしたものの主命ということで断りきれず、お綱は離縁となった。
四郎左衛門も離縁後しばらくはお綱の元に忍んで行ったものの、お綱の嘆き繰言をするのをうるさく思うようになった。
また先妻に通っているのを後妻の采女が禁止したため、せめて二人の男児だけは引き取ろうとしたが、
「血のつながっていない子を後継にはさせません。実母に養育させればいいでしょう」という采女の意見に押され、それ以降お綱のもとに通うことはなくなった。
四郎左衛門が通わなくなり二年が経ち、援助もないため、お綱は生活も事欠くようになった。
寛永七年霜月二十七日の夜、絶望したお綱は南無阿弥陀仏と称名を唱え、短刀を二人の息子(四歳と六歳)の胸に刺した。
息絶えた二人にお綱は
「恨むなら父上と父上を寝取った女を恨みなさい。母も敵を討ったらお前たちのところに行くからね」
と言って、装束を改め、鉢巻を締め、長刀を持って四郎左衛門の屋敷に向かった。
お綱を見た門番は仰天し「夜中に何者なり?」と声を上げたが一刀のもとに切り伏せられた。
お綱が寝屋と思われる方へ進んでいくと、浪人浅野彦五郎というものが刀を持って参じ、しばらくお綱と切り結んだ。
そのうち彦五郎の刀がお綱の左肩に打ち込まれ、お綱は「口惜しや残念やただ一歩のところで」と怒りの声を上げて斃れた。
お綱の死に顔は眼を見開き歯を食いしばり、というものすごい形相であった。
(数種類のバージョンがあるようだが広島大学図書館が往来物(寺子屋の教科書)として公開しているものを元にした)
黒田忠之には北の方(采女)という愛妾がいたが、新しく江戸から十六の愛妾を二の丸に住まわせたため、
采女の方は自身が取り立てた麻井四郎左衛門という侍に妻として下げ渡すことにした。
四郎左衛門にはお綱という妻と二人の幼少の男子がいたため断ろうとしたものの主命ということで断りきれず、お綱は離縁となった。
四郎左衛門も離縁後しばらくはお綱の元に忍んで行ったものの、お綱の嘆き繰言をするのをうるさく思うようになった。
また先妻に通っているのを後妻の采女が禁止したため、せめて二人の男児だけは引き取ろうとしたが、
「血のつながっていない子を後継にはさせません。実母に養育させればいいでしょう」という采女の意見に押され、それ以降お綱のもとに通うことはなくなった。
四郎左衛門が通わなくなり二年が経ち、援助もないため、お綱は生活も事欠くようになった。
寛永七年霜月二十七日の夜、絶望したお綱は南無阿弥陀仏と称名を唱え、短刀を二人の息子(四歳と六歳)の胸に刺した。
息絶えた二人にお綱は
「恨むなら父上と父上を寝取った女を恨みなさい。母も敵を討ったらお前たちのところに行くからね」
と言って、装束を改め、鉢巻を締め、長刀を持って四郎左衛門の屋敷に向かった。
お綱を見た門番は仰天し「夜中に何者なり?」と声を上げたが一刀のもとに切り伏せられた。
お綱が寝屋と思われる方へ進んでいくと、浪人浅野彦五郎というものが刀を持って参じ、しばらくお綱と切り結んだ。
そのうち彦五郎の刀がお綱の左肩に打ち込まれ、お綱は「口惜しや残念やただ一歩のところで」と怒りの声を上げて斃れた。
お綱の死に顔は眼を見開き歯を食いしばり、というものすごい形相であった。
275人間七七四年
2022/01/14(金) 17:10:45.59ID:oR2DBSob 翌日、四郎左衛門が采女に「まあ、あいつも生き恥を晒すよりは死んだ方が幸せだったな」と語っていたところ、屏風の影からさわさわという音がした。
屏風を開けるとお綱が生前の姿のまま立っており、采女は「あっ」と一声叫ぶや、舌を三寸ほど噛み切って死んでしまった。
四郎左衛門は忠之に対して采女の死因について病死であると届け出たものの、ことのなりゆきが忠之の耳に達し、
忠之は怒り、お綱の死骸を暴いて竹の串で貫き、路上に晒した。
往来を通る者で「嫉妬ゆえこのように晒されることになった」と嘲った者どもが数十人あったが、どの者も言った途端に狂ってしまった。
忠之はますます怒り「にくき女め」と穢多に命じて死骸を微塵に打ち砕き、川に流すよう命じた。
この役を行った穢多十二人は、たたまち様々な恨み言を述べて狂死したため、この十二人を一箇所に葬った。今日ではこの塚を穢多塚と言っている。
お綱の死骸を打ち砕くのを見分した役人も即時に発狂して、帰るや門の礎に頭を打ち砕いて死んでしまった。
その後、四郎左衛門は怨霊に悩ませられ痩せ衰えてしまい、これを聞いた忠之は不憫に思い四郎左衛門の元を訪れた。
四郎左衛門のあまりの変わりように忠之は驚き、詳しく尋ねると
「毎夜子の刻に前妻が苦しげな様を見せつけてきて熱が出てきます」と答えたため
忠之が「よし、われが邪気を退けてやろう」
とうけあったところ、四郎左衛門は涙を流し喜んだ。
屏風を開けるとお綱が生前の姿のまま立っており、采女は「あっ」と一声叫ぶや、舌を三寸ほど噛み切って死んでしまった。
四郎左衛門は忠之に対して采女の死因について病死であると届け出たものの、ことのなりゆきが忠之の耳に達し、
忠之は怒り、お綱の死骸を暴いて竹の串で貫き、路上に晒した。
往来を通る者で「嫉妬ゆえこのように晒されることになった」と嘲った者どもが数十人あったが、どの者も言った途端に狂ってしまった。
忠之はますます怒り「にくき女め」と穢多に命じて死骸を微塵に打ち砕き、川に流すよう命じた。
この役を行った穢多十二人は、たたまち様々な恨み言を述べて狂死したため、この十二人を一箇所に葬った。今日ではこの塚を穢多塚と言っている。
お綱の死骸を打ち砕くのを見分した役人も即時に発狂して、帰るや門の礎に頭を打ち砕いて死んでしまった。
その後、四郎左衛門は怨霊に悩ませられ痩せ衰えてしまい、これを聞いた忠之は不憫に思い四郎左衛門の元を訪れた。
四郎左衛門のあまりの変わりように忠之は驚き、詳しく尋ねると
「毎夜子の刻に前妻が苦しげな様を見せつけてきて熱が出てきます」と答えたため
忠之が「よし、われが邪気を退けてやろう」
とうけあったところ、四郎左衛門は涙を流し喜んだ。
276人間七七四年
2022/01/14(金) 17:12:21.01ID:oR2DBSob こうして忠之は浅野彦五郎を含めた勇士二十四人を選び、
日光一文字の刀(北条早雲が日光二荒山から貰い受け、北条氏降伏の際に如水に贈られた)、岡本正宗の短刀(忠之の元服祝いに家康から下賜された)、
碇切(長政が朝鮮で碇ごと間者を斬った)、返切(へし切り長谷部)、安宅(如水の四国攻めの際に敵将安宅貴康を斬った)、権藤の長刀(如水が朝鮮で虎に襲われた時に権藤という武士がこの薙刀で虎を仕留めた、もしくは高橋元種の部下・権藤平左衛門が18人を斬った)
といった黒田家の名刀を持たせ、正宗の刀は四郎左衛門の枕元に置くように手配させた。
勇士たちは霊魂よ来るなら来い、と豪語していたが、夜になり、二十四、五才ほどの女がほほと笑って病人の枕元に近づいても、おのおの身の毛がよだち、腕がすくみ、身動きが取れなくなった。
四郎左衛門がしばらく熱で焼けるほど苦しんだ後に女は出ていったが、勇士たちはまたも身動きが取れなかった。
われながら情けなく思った勇士たちは翌夜、名誉挽回を期し、彦五郎は自ら正宗の短刀を抱いて四郎左衛門と寝床に臥した。
丑満の頃、生首が出現し四郎左衛門の上を通ったところ、四郎左衛門は一声うめくや、むなしく息絶えてしまった。
日光一文字の刀(北条早雲が日光二荒山から貰い受け、北条氏降伏の際に如水に贈られた)、岡本正宗の短刀(忠之の元服祝いに家康から下賜された)、
碇切(長政が朝鮮で碇ごと間者を斬った)、返切(へし切り長谷部)、安宅(如水の四国攻めの際に敵将安宅貴康を斬った)、権藤の長刀(如水が朝鮮で虎に襲われた時に権藤という武士がこの薙刀で虎を仕留めた、もしくは高橋元種の部下・権藤平左衛門が18人を斬った)
といった黒田家の名刀を持たせ、正宗の刀は四郎左衛門の枕元に置くように手配させた。
勇士たちは霊魂よ来るなら来い、と豪語していたが、夜になり、二十四、五才ほどの女がほほと笑って病人の枕元に近づいても、おのおの身の毛がよだち、腕がすくみ、身動きが取れなくなった。
四郎左衛門がしばらく熱で焼けるほど苦しんだ後に女は出ていったが、勇士たちはまたも身動きが取れなかった。
われながら情けなく思った勇士たちは翌夜、名誉挽回を期し、彦五郎は自ら正宗の短刀を抱いて四郎左衛門と寝床に臥した。
丑満の頃、生首が出現し四郎左衛門の上を通ったところ、四郎左衛門は一声うめくや、むなしく息絶えてしまった。
277人間七七四年
2022/01/14(金) 17:19:46.55ID:oR2DBSob 忠之は麻井四郎左衛門夫婦の追善供養をしたものの、麻井の跡目を継ぐものがなかった。
そこでお綱を殺した褒美ということで浪人浅野彦五郎に麻井の跡目二千石を相続させた。
しかし彦五郎は「悪口を言った者、死骸晒しの時に立ち会った役人までも狂死しているのだから自分も祟られるかもしれない」
と檀那の寺で相談し、六ヶ寺でお綱の仏事を行うこととした。
このことは隠密であったがなぜか忠之の耳に達し「言語道断、われの敵の女が肩を持つか」と忠之は怒った。
そのとき佞人があり、彦五郎が正宗を抱き臥した後返していない、と忠之に告げた。
忠之からの詰問に驚いた彦五郎が家中をくまなくさがしたところ、麻井家の箪笥のなかに置いたまま失念していたことが判明し
失念していたと忠之に申し上げたものの、盗人ということで平人に落とされ、五歳の男児ともども釜煎の刑に処せられた。
また六ヶ寺の住持は皆衣を剥ぎ取られ俗名に戻され流罪にされた。
一説にはお綱の幽霊が正宗を箪笥に忍ばせ、彦五郎に殺された恨みを果たしたのではないかと言われている。
(このあと黒田騒動の話になる)
なお「箱崎釜破故」の他のバージョンでは彦五郎に請われてお綱の供養を行ったのは空誉上人であり、
そのために忠之により背を割り鉛を流し込まれるという刑罰を受け、浄念寺の和尚がこっそり放置されていた死体を持ち出し自分の寺に葬ったことになっているようだ。
荒唐無稽な話でお綱自体も創作だと思われるのだが、
福岡城の扇坂門はかつて「お綱門」と呼ばれていて、その門に男が手を触れると熱病にうなされたという伝説があったとか。
福岡市中央区の「お綱さんばなし」というページによれば、大筋は同じだが四郎左衛門は登城していたため屋敷にはおらず、
浪人「明石」彦五郎に斬りつけられたあと、四郎左衛門のいる城に行こうとしたが扇坂門に手をついたところで息絶えたため「お綱門」と呼ばれたことになっている。
そこでお綱を殺した褒美ということで浪人浅野彦五郎に麻井の跡目二千石を相続させた。
しかし彦五郎は「悪口を言った者、死骸晒しの時に立ち会った役人までも狂死しているのだから自分も祟られるかもしれない」
と檀那の寺で相談し、六ヶ寺でお綱の仏事を行うこととした。
このことは隠密であったがなぜか忠之の耳に達し「言語道断、われの敵の女が肩を持つか」と忠之は怒った。
そのとき佞人があり、彦五郎が正宗を抱き臥した後返していない、と忠之に告げた。
忠之からの詰問に驚いた彦五郎が家中をくまなくさがしたところ、麻井家の箪笥のなかに置いたまま失念していたことが判明し
失念していたと忠之に申し上げたものの、盗人ということで平人に落とされ、五歳の男児ともども釜煎の刑に処せられた。
また六ヶ寺の住持は皆衣を剥ぎ取られ俗名に戻され流罪にされた。
一説にはお綱の幽霊が正宗を箪笥に忍ばせ、彦五郎に殺された恨みを果たしたのではないかと言われている。
(このあと黒田騒動の話になる)
なお「箱崎釜破故」の他のバージョンでは彦五郎に請われてお綱の供養を行ったのは空誉上人であり、
そのために忠之により背を割り鉛を流し込まれるという刑罰を受け、浄念寺の和尚がこっそり放置されていた死体を持ち出し自分の寺に葬ったことになっているようだ。
荒唐無稽な話でお綱自体も創作だと思われるのだが、
福岡城の扇坂門はかつて「お綱門」と呼ばれていて、その門に男が手を触れると熱病にうなされたという伝説があったとか。
福岡市中央区の「お綱さんばなし」というページによれば、大筋は同じだが四郎左衛門は登城していたため屋敷にはおらず、
浪人「明石」彦五郎に斬りつけられたあと、四郎左衛門のいる城に行こうとしたが扇坂門に手をついたところで息絶えたため「お綱門」と呼ばれたことになっている。
278人間七七四年
2022/01/15(土) 16:27:52.40ID:CFXpItV1 南都(奈良)の奉行である中坊飛騨守(秀祐)・美作守(秀政)父子に仕えていた、
柴田角兵衛、田村源兵衛という兄弟の勇士があった。
ある日、兄弟は連れ立って木津川を渡ったのだが、この渡は武士からは船賃を取らない事になっていた
にもかかわらず、この時の両人の風体が春日社の禰宜に似ていたため見誤り、船賃を乞うた。
渡守は川の中程で舟を止めて、彼等に対し「船賃を出さねば渡さない!」と悪口に及んだため、
兄弟は水棹を取って一人の渡守を打ち倒すと、もう一人は水に飛び込んで遁れ、木津の町に入ると
「人殺しだ!」と叫んだ。
この町は浪人なども居住していた地であったので、鑓長刀を持って数多の者達が兄弟に向かって
出合った。兄弟は刀を抜いてこれと当たり、数箇所に傷を負い、兄弟の間も隔てること半町ばかりであった。
源兵衛は血で朱に染まり、また角兵衛は溝に踏み込んでしまい危うかったが、町の者共も彼等の勇気に
辟易し、近づく者も無かったため自ら起き上がった。そして取り囲んでいた者達も次第にまばらになったので、
彼等は木津の町へと向かった。
すると町は騒動して木戸をさし堅めて彼等の侵入を阻止しようとした。しかし潜り戸より婦人が
彼等を覗いているのを見つけるとこれを人質に取ってその家に入り込んだ。この婦人は所の長の
妻であったので、様々に扱いとなり、これは当分の難を遁れるためであったので、約を定めて
婦人を解放した。その内に彼等兄弟が奉行所の士であることが解り、木津の町の者達は却って
打ち詫び、怠状(謝罪状)を書いて出した。
死者六人、負傷者は数を知れず。兄弟は大難を遁れた。
(志士清談)
船賃を取る取らないで死者六名負傷者多数の騒ぎになったというお話。
柴田角兵衛、田村源兵衛という兄弟の勇士があった。
ある日、兄弟は連れ立って木津川を渡ったのだが、この渡は武士からは船賃を取らない事になっていた
にもかかわらず、この時の両人の風体が春日社の禰宜に似ていたため見誤り、船賃を乞うた。
渡守は川の中程で舟を止めて、彼等に対し「船賃を出さねば渡さない!」と悪口に及んだため、
兄弟は水棹を取って一人の渡守を打ち倒すと、もう一人は水に飛び込んで遁れ、木津の町に入ると
「人殺しだ!」と叫んだ。
この町は浪人なども居住していた地であったので、鑓長刀を持って数多の者達が兄弟に向かって
出合った。兄弟は刀を抜いてこれと当たり、数箇所に傷を負い、兄弟の間も隔てること半町ばかりであった。
源兵衛は血で朱に染まり、また角兵衛は溝に踏み込んでしまい危うかったが、町の者共も彼等の勇気に
辟易し、近づく者も無かったため自ら起き上がった。そして取り囲んでいた者達も次第にまばらになったので、
彼等は木津の町へと向かった。
すると町は騒動して木戸をさし堅めて彼等の侵入を阻止しようとした。しかし潜り戸より婦人が
彼等を覗いているのを見つけるとこれを人質に取ってその家に入り込んだ。この婦人は所の長の
妻であったので、様々に扱いとなり、これは当分の難を遁れるためであったので、約を定めて
婦人を解放した。その内に彼等兄弟が奉行所の士であることが解り、木津の町の者達は却って
打ち詫び、怠状(謝罪状)を書いて出した。
死者六人、負傷者は数を知れず。兄弟は大難を遁れた。
(志士清談)
船賃を取る取らないで死者六名負傷者多数の騒ぎになったというお話。
279人間七七四年
2022/01/15(土) 19:40:29.00ID:b10x2zW+ うーん、実に自力救済社会
280人間七七四年
2022/01/15(土) 20:58:09.72ID:ydFSr9mU 水滸伝にありそうなエピソードだな
281人間七七四年
2022/01/16(日) 08:47:08.92ID:6ofPMtyB 西日本新聞社編「福岡県の昔ばなし」の「お綱門」のあらすじ
大名には江戸の正妻とは別に国元に第二夫人を置くことが認められていたため、忠之が参勤交代の帰路、大坂の花街で見初めた芸者に采女という肩書きをつけて博多に連れ帰る
家老の栗山大膳が「身分の低い者を側室にするなどもってのほかです」と諌めたため仕方なく采女を浅野四郎左衛門にあずける
浅野は采女に夢中になり、妻お綱と二人の子供を馬出の下屋敷に移し、自分は大名町の本宅で采女と楽しむ
お綱には暮らしのための金銭も届かないようになり、明日は雛祭りだというのに幼い娘の支度もできないと下働きの善作を本宅に使いを出しお金の無心をさせる
浅野は「すでに絶縁!」とけんもほろろ、奥方を哀れに思った善作は遺書をしたため千代の松原で首をくくる
それを知ったお綱は逆上し、二人の子供を手にかけ子供たちの首を包み腰にさげ、薙刀を持って、下屋敷から大名町の本宅に
浅野は登城しており、留守を預かっていた浪人明石彦五郎が怪しみお綱に切りつける
重傷をおったお綱は薙刀を杖代わりにして城内にはいるが扇坂門の扉に手をかけたため死亡、寛永七年三月三日のことであった
近年、老朽化した「お綱門」を取り壊すことになり丁重な供養をした後、長宮院という寺でお綱親子の霊を祀る
長宮院は空襲で焼け、今は福岡家庭裁判所となっているが位牌は疎開させてあったため無事で
東湊町の真光院で「お綱大明神」として家庭円満、良縁祈願、水子供養で訪れる人が多かった
真光院は今は福岡県糸島郡二丈町に移転、今なお香煙は絶えない
「お綱門」の後日談
後世になりさまざまな怪談話を生み出した
太平洋戦争当時、福岡城址は福岡第24連隊の兵営となったが「お綱門」で立番をする兵士は心身の異常を訴えたという
また鬼のような上官のワラ布団の下にこの門の近くの小石をこっそり隠し入れると、上官は悪夢にうなされたり病気になったという
大名には江戸の正妻とは別に国元に第二夫人を置くことが認められていたため、忠之が参勤交代の帰路、大坂の花街で見初めた芸者に采女という肩書きをつけて博多に連れ帰る
家老の栗山大膳が「身分の低い者を側室にするなどもってのほかです」と諌めたため仕方なく采女を浅野四郎左衛門にあずける
浅野は采女に夢中になり、妻お綱と二人の子供を馬出の下屋敷に移し、自分は大名町の本宅で采女と楽しむ
お綱には暮らしのための金銭も届かないようになり、明日は雛祭りだというのに幼い娘の支度もできないと下働きの善作を本宅に使いを出しお金の無心をさせる
浅野は「すでに絶縁!」とけんもほろろ、奥方を哀れに思った善作は遺書をしたため千代の松原で首をくくる
それを知ったお綱は逆上し、二人の子供を手にかけ子供たちの首を包み腰にさげ、薙刀を持って、下屋敷から大名町の本宅に
浅野は登城しており、留守を預かっていた浪人明石彦五郎が怪しみお綱に切りつける
重傷をおったお綱は薙刀を杖代わりにして城内にはいるが扇坂門の扉に手をかけたため死亡、寛永七年三月三日のことであった
近年、老朽化した「お綱門」を取り壊すことになり丁重な供養をした後、長宮院という寺でお綱親子の霊を祀る
長宮院は空襲で焼け、今は福岡家庭裁判所となっているが位牌は疎開させてあったため無事で
東湊町の真光院で「お綱大明神」として家庭円満、良縁祈願、水子供養で訪れる人が多かった
真光院は今は福岡県糸島郡二丈町に移転、今なお香煙は絶えない
「お綱門」の後日談
後世になりさまざまな怪談話を生み出した
太平洋戦争当時、福岡城址は福岡第24連隊の兵営となったが「お綱門」で立番をする兵士は心身の異常を訴えたという
また鬼のような上官のワラ布団の下にこの門の近くの小石をこっそり隠し入れると、上官は悪夢にうなされたり病気になったという
282人間七七四年
2022/01/16(日) 11:56:16.35ID:vAkwOalY 福岡んおごじょはすごかね
283人間七七四年
2022/01/20(木) 15:07:22.97ID:sapmit/h 一本に、(慶長十九年)十二月十六日、大阪冬の陣において大御所(家康)の下知として、備前島
菅沼織部正の寄せ口より、大銃百挺を揃え城中に打ち入れた。その他玉造口の寄場よりも、大阪城の
千畳敷を目当てに大銃を発した所、即ち淀殿の屋形の内三の間に女中多く集まって居たのだが、
そこに弾落ちて茶箪笥を打ち砕いた。女中各々肝を消し、淀殿の御居間も震え動いた。
淀殿は流石に女性であったので、その砌より御心弱くなられ、御和談の為なら江戸にも御下向あるべしと
仰せに成られたため、これを織田有楽、大野修理(治長)承り、秀頼公に段々と諌めたのであるが、
御承引無かった。この上は出頭の近臣に諫言致させるのが然るべしと、その人選をしたが、渡辺内蔵助(糺)は、
去る鴨野合戦以来不首尾であり、また薄田隼人正は日頃の広言に似合わぬと、城中の沙汰悪しきにより、
木村長門守(重成)宜しかるべしと、この趣を申したが、重成は承諾しなかった。
「今、各々の宣う所は、最初に片桐(且元)が申していた所です。只今に至って左様の儀、
この重成には申し上げることは出来ません。各々両所が股肱の臣として、左様に惑われる事に、
御運の末を嘆き入り奉る。」
との旨を述べると、両人も汗顔赤面して、重ねての言葉もなかった。
その後淀殿より色々仰せ進められたため、ようやく秀頼公も、御和談の評議を行ったという。
(新東鑑)
菅沼織部正の寄せ口より、大銃百挺を揃え城中に打ち入れた。その他玉造口の寄場よりも、大阪城の
千畳敷を目当てに大銃を発した所、即ち淀殿の屋形の内三の間に女中多く集まって居たのだが、
そこに弾落ちて茶箪笥を打ち砕いた。女中各々肝を消し、淀殿の御居間も震え動いた。
淀殿は流石に女性であったので、その砌より御心弱くなられ、御和談の為なら江戸にも御下向あるべしと
仰せに成られたため、これを織田有楽、大野修理(治長)承り、秀頼公に段々と諌めたのであるが、
御承引無かった。この上は出頭の近臣に諫言致させるのが然るべしと、その人選をしたが、渡辺内蔵助(糺)は、
去る鴨野合戦以来不首尾であり、また薄田隼人正は日頃の広言に似合わぬと、城中の沙汰悪しきにより、
木村長門守(重成)宜しかるべしと、この趣を申したが、重成は承諾しなかった。
「今、各々の宣う所は、最初に片桐(且元)が申していた所です。只今に至って左様の儀、
この重成には申し上げることは出来ません。各々両所が股肱の臣として、左様に惑われる事に、
御運の末を嘆き入り奉る。」
との旨を述べると、両人も汗顔赤面して、重ねての言葉もなかった。
その後淀殿より色々仰せ進められたため、ようやく秀頼公も、御和談の評議を行ったという。
(新東鑑)
284人間七七四年
2022/01/20(木) 18:43:36.01ID:M79NcYgQ 女に口出しさせたのと、大野の無能がな・・
285人間七七四年
2022/01/20(木) 19:27:06.64ID:LzbtBaVD この頃から大砲とそれにビビった淀のせいにされてるのか
286人間七七四年
2022/01/24(月) 20:30:23.62ID:mtcjsHOY 大阪冬の陣の和睦の時のこと
或る本に、この時真田左衛門佐(信繁)は秀頼公を諌めて
「敵味方、甲冑を脱ぎ万歳を唱えています。
今宵、敵の虚に乗じてこれを討てば勝利必然であり、両御所(家康・秀忠)を打ち取ること、
掌の中です。」
そのような事を申したが、淀殿の仰せに
「今日和議を約したというのに、言下に違変などできるわけがない。」
と、御承引無かった。真田は再々諌めたが、織田有楽、大野修理亮などは頻りにこれを制止した。
そのような中、真田は間諜を以て両将軍の陣営を窺ったが、それによると両御所も予めこれを慮って、
三軍の守りは非常に厳整であり、もし誤って城兵が夜襲すれば、たちまち粉々にされてしまうだろう、
との事であった。
これを聞いて真田も大いに感じ、豊臣家二世にして、亡ぶべき時至るを嘆いたという。
(新東鑑)
或る本に、この時真田左衛門佐(信繁)は秀頼公を諌めて
「敵味方、甲冑を脱ぎ万歳を唱えています。
今宵、敵の虚に乗じてこれを討てば勝利必然であり、両御所(家康・秀忠)を打ち取ること、
掌の中です。」
そのような事を申したが、淀殿の仰せに
「今日和議を約したというのに、言下に違変などできるわけがない。」
と、御承引無かった。真田は再々諌めたが、織田有楽、大野修理亮などは頻りにこれを制止した。
そのような中、真田は間諜を以て両将軍の陣営を窺ったが、それによると両御所も予めこれを慮って、
三軍の守りは非常に厳整であり、もし誤って城兵が夜襲すれば、たちまち粉々にされてしまうだろう、
との事であった。
これを聞いて真田も大いに感じ、豊臣家二世にして、亡ぶべき時至るを嘆いたという。
(新東鑑)
287人間七七四年
2022/01/24(月) 21:34:08.49ID:HJjNCmQ0 ええと、つまり真田のこわっぱ程度の悪だくみなど、
神君はまるっとお見通しだったって悪い話?
神君はまるっとお見通しだったって悪い話?
288人間七七四年
2022/01/25(火) 20:28:46.88ID:FAwjF8BT 貝原益軒による武将の逸話や面白話を集めた「朝野雑載」より
信長公の妾を細川幽斎に給う。松井佐渡はその妾に付いて来たる。
信長の子を懐胎せり。
そのうめる子、越中守忠興なり。よく信長に似たり。
これ人のしらざる事なり。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3578.html
倅めが、吠えをるわ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6595.html
そんな信長の死後55年経った1637年
信長が忠興をかわいがり、忠興も信長を敬愛していたのがそんな話になったのだろうか
信長公の妾を細川幽斎に給う。松井佐渡はその妾に付いて来たる。
信長の子を懐胎せり。
そのうめる子、越中守忠興なり。よく信長に似たり。
これ人のしらざる事なり。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3578.html
倅めが、吠えをるわ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6595.html
そんな信長の死後55年経った1637年
信長が忠興をかわいがり、忠興も信長を敬愛していたのがそんな話になったのだろうか
289人間七七四年
2022/01/25(火) 21:01:41.98ID:FAwjF8BT http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13304.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13318.html
「朝野雑載」を読んでたら過去にも↑で出ていた沈惟敬の丸薬の話もあった
慶長元年八月、大明より正使楊方奇、副使沈惟敬、ならびに朝鮮の両使、同じく渡海して、泉州境に着く。
九月二日、伏見の城にて大明の冊使に対面あり。
しかるに沈惟敬懐中に丸薬を持ちて常にこれを服用す。
太閤の御前へ出だし時も、紙の袋を懐中より取り出してかの薬を呑みければ、秀吉公御覧ありて
「汝は何薬を服するや」と尋ね給う。
沈惟敬がいわく「日本と朝鮮の国争いにつきて、その扱いに大唐よりはるばるここに来たる儀なれば、
もし病死仕りてはそのこと叶わず、大事の使いにて候ゆえ、養生のため唐帝より調合して与えられたり。
これは平人の調合することならぬ薬なり」と申す。
秀吉公きこし召され「その薬少し我に与えよ」とのたまう。
沈惟敬がいわく「やすき御事なり。さりながら他国より来たる我らが薬なれば、大将たる人のそこつにもちい給うべき事にあらず。
ただ誰人にてもこれをのませられ、ほど経てその様体をお尋ねありて、その後御所望と御座候えば、進上仕らん」と申す。
太閤「もっともなり」とのたまい、かの丸薬を近臣両人にのませ給う。
十日ほど過ぎて様子お尋ねありしに、
かの両人「気力はなはだ強くなり、気色ことにはれやかなり」と申し上ぐる。
さては沈惟敬が申すところ、偽りにあらずとて、件の丸薬御所望ありてこれを用い給う。
その節加賀大納言利家卿、小早川隆景卿、両人へも下されけり。
しかるに隆景は慶長二年十二月に逝去あり。
太閤は同三年八月に薨去なり。
利家は同四年三月に逝去せらる。
おのおの同じ様なる病気にて死に給いて後、筋ゆるみ骨の節々はなれ、五体崩れ損ずること、三将みな同じことなり。
はじめにこころみに呑みたる近臣両人も三年過ぎて死す。かれが死に様同前なり。
その頃諸人これを聞きて、唐人の智謀おそるべしといいあえり。
後にまた、日本に来たりし遊撃といいし者はかの沈惟敬がことなり。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13318.html
「朝野雑載」を読んでたら過去にも↑で出ていた沈惟敬の丸薬の話もあった
慶長元年八月、大明より正使楊方奇、副使沈惟敬、ならびに朝鮮の両使、同じく渡海して、泉州境に着く。
九月二日、伏見の城にて大明の冊使に対面あり。
しかるに沈惟敬懐中に丸薬を持ちて常にこれを服用す。
太閤の御前へ出だし時も、紙の袋を懐中より取り出してかの薬を呑みければ、秀吉公御覧ありて
「汝は何薬を服するや」と尋ね給う。
沈惟敬がいわく「日本と朝鮮の国争いにつきて、その扱いに大唐よりはるばるここに来たる儀なれば、
もし病死仕りてはそのこと叶わず、大事の使いにて候ゆえ、養生のため唐帝より調合して与えられたり。
これは平人の調合することならぬ薬なり」と申す。
秀吉公きこし召され「その薬少し我に与えよ」とのたまう。
沈惟敬がいわく「やすき御事なり。さりながら他国より来たる我らが薬なれば、大将たる人のそこつにもちい給うべき事にあらず。
ただ誰人にてもこれをのませられ、ほど経てその様体をお尋ねありて、その後御所望と御座候えば、進上仕らん」と申す。
太閤「もっともなり」とのたまい、かの丸薬を近臣両人にのませ給う。
十日ほど過ぎて様子お尋ねありしに、
かの両人「気力はなはだ強くなり、気色ことにはれやかなり」と申し上ぐる。
さては沈惟敬が申すところ、偽りにあらずとて、件の丸薬御所望ありてこれを用い給う。
その節加賀大納言利家卿、小早川隆景卿、両人へも下されけり。
しかるに隆景は慶長二年十二月に逝去あり。
太閤は同三年八月に薨去なり。
利家は同四年三月に逝去せらる。
おのおの同じ様なる病気にて死に給いて後、筋ゆるみ骨の節々はなれ、五体崩れ損ずること、三将みな同じことなり。
はじめにこころみに呑みたる近臣両人も三年過ぎて死す。かれが死に様同前なり。
その頃諸人これを聞きて、唐人の智謀おそるべしといいあえり。
後にまた、日本に来たりし遊撃といいし者はかの沈惟敬がことなり。
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