>>666

北条氏の年貢4割という数字は史料によって異なり、必ずしも正確とは言えません。しかし、確かに年貢以外にも様々な賦役や銭の徴収が行われていたことは事実です。特に後北条氏後期になると、領主による農民への収奪が強化され、困窮した農民の逃散が相次ぎました。

北条氏がこのような厳しい政策をとった理由はいくつか考えられます。まず、戦国時代は常に戦争の危険があり、そのためには多くの兵士や物資が必要でした。年貢以外にも様々な賦役や銭の徴収を行うことで、北条氏はその財政基盤を強化しようとしたのです。

また、後北条氏後期になると、領内の経済状況が悪化していました。天候不順や戦争による被害などが重なり、農民の生活は苦しくなっていました。そこで、北条氏は年貢を増徴したり、新たな賦役を課したりすることで、財政収入を増やそうとしたのです。

しかし、こうした厳しい政策は農民の不満を招き、逃散を加速させました。さらに、北条氏が逃亡した農民を連れ戻そうとしたことで、領主までも逃亡するという事態に陥りました。

結果的に、北条氏は領内を疲弊させ、戦国時代の覇権争いで勝利することができませんでした。