(承前)
 
明らかにならないのは西側即ち今日の吹上曲輪である。
吹上曲輪の西縁を限る内濠西半部の完成は勿論徳川期に入ってからのことだろう。
これは牛ヶ淵、千鳥ヶ淵、半蔵濠、桜田濠によって構成されるが、前三者は局沢川、桜田濠はまた別水系の小河川を原形とする。
つまり北條期までの吹上曲輪相当区域は東を道灌濠、西を上記諸河川の谷によって明確に区切られた台上の区画だったと云うことになる。

諸々の古記録や諸碩学の論考を見るに当時此処が城外であったことは間違いない。
しかし上の如く何らかの施設を構えるに究竟の一画を北條は勿論のこと太田道灌ともあろう者が原野のまま放置したとは素人目にも不可解の感を禁じ得ない。
これは全く無根拠の話になるが、
後述の理由によって少なくとも北條期に於けるこの区域は城外ながらも「準城域」とも云うべき占有地だったのではないかと想像している。

以上、北條期江戸城の物理的構成は;
 ・今日の本丸、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸に相当する城域を有する
 ・平川、道灌濠、日比谷入江を外郭線兼防御線とする
 ・今日の大手門と同じ位置に大手を構える
 ・大手に架橋された大橋を街区生活圏の要とする
 ・大橋の東側に城下町として大橋宿を擁する
 ・城域西側の台上区画を附帯占有区域とする(?)
--と概括される。
 
(続)