>>160
>>168から承前)
【解説篇】

貴論に謂う
「惣無事令を甘く見ていた」
「氏邦自体が宇都宮方面に進出してる」
は前レスの1~2の事実経過に照らして成り立たない。
北條に惣無事令は届いていなかった以上は甘く見るも何もない。
北條は戦国大名として尋常の戦闘行為を続けていたのみである。

その後3を経て4の段階に至った時点で北條は羽柴「豊臣」権力体への従属を自ら決している。
実質を云うならばここで北條は戦国大名であることを終えて「豊臣大名」となった。

5の北條氏規出仕はこれを名実共に確定したイベントとして極めて明確である。

更に重要なのはこれと同時期に発生した足利事件を、羽柴が詳細を知りながら全く問題にしなかった事実だ。
見ようによっては羽柴が激怒暴発しても不思議の無い背信行為紛いの行動だが、これを不問に付したことの要点は二つ。
 イ)羽柴「豊臣」権力体が「公儀」として惣無事を強要する対象はあくまでも大名領国境目の戦争に限られる
 ロ)大名領国内部の擾乱及びその鎮圧に羽柴「豊臣」権力体は関与しない
即ち羽柴はこの時点に於いて足利地域は北條領国、事件は国内事案であると認定していたことが示されている。
無論北條もこの認識を共有している。

同時に北條から羽柴に対して沼田裁定を要請した事実も見逃せない。
これは正に北條が羽柴を超越的権力体即ち「公儀」と位置付けたことに他ならない。

これらを要するに、
天正十六年八月時点で「豊臣公儀」と「豊臣大名・北條」の関係は両者合意の上で完全に成立していたということだ。
6~9の経緯はこれを明確に証明している。
貴論に反論せざるを得ない所以である。

然る後に名胡桃事件の勃発を迎える。
何故これが「北條事、公儀を蔑し」となるのかは上記のイ及びロから明らかだろう。
名胡桃城奪取の実行者たる猪俣が何者であれ、惣無事令に反したという厳然たる事実の結果責任を北條は監督者として問われたのである。

これは直ちに小田原合戦の意義に繋がって行く。
それは戦国大名同士の闘争に非ず、
「公儀」がその法に背いた配下の者に行使する暴力、即ち「処罰」だった。

小田原合戦は「戦国の終焉を告げる合戦」などではなかった。
戦国は天正十六年八月に終結していた。

小田原合戦は「ポスト戦国の開始を告げる行政行為」だった。
 
以上。