>>116
信玄、クズ人間
探検
戦国ちょっといい話50
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117人間七七四年
2022/04/02(土) 00:48:41.91ID:jw+hxvLW118人間七七四年
2022/04/03(日) 13:25:58.33ID:PZfYpEcu 或る記(難波戦記)に、越前・松平忠直の家臣、片桐丹波守は先に忠直の勘気を受けていたのだが、
大坂夏の陣に際し、この陣に忍んで供をし先手に居た。
この姿を本多伊豆守(富正)が見て、忠直朝臣の前に来て言った
「片桐丹波守の事ですが、今、忍んで御供仕り、御先手に加わって居ます。その気色は、今日を最期と
存じ極めた様子に見えます。
御勘気されたまま討ち死にを遂げてしまえば、冥土、黄泉の障りともなり、不憫な事に思います。
それを哀れに思い、御勘気を御免あらば、二世の思い出となると考えます。」
そう、涙を流して訴えると、少将(忠直)は「勘気を免すので、早々に召し出すべし。」と申された。
これにより使番の深澤長左衛門が乗り切って先へ通り、丹波守に斯くと申し渡すと、そのまま旗本へ来て、
馬より降りて兜を脱いで畏まり、しきりに落涙していた。
この姿を忠直朝臣が見られ、「片桐、勘気を免す」と申されると、片桐は頭を地に付け、一礼して
立ち上がったが、「今になって許すとは聞こえないことだ」(只今になり許すとは聞えざる事)と
思っているような気色でその場を退き、馬に乗って駆け出した。
しかし先手の鑓が始まると同時に、兜付きの高名(兜を付けた武者を討ち取ること)して、持参したという。
(新東鑑)
大坂夏の陣での越前家の一コマ
大坂夏の陣に際し、この陣に忍んで供をし先手に居た。
この姿を本多伊豆守(富正)が見て、忠直朝臣の前に来て言った
「片桐丹波守の事ですが、今、忍んで御供仕り、御先手に加わって居ます。その気色は、今日を最期と
存じ極めた様子に見えます。
御勘気されたまま討ち死にを遂げてしまえば、冥土、黄泉の障りともなり、不憫な事に思います。
それを哀れに思い、御勘気を御免あらば、二世の思い出となると考えます。」
そう、涙を流して訴えると、少将(忠直)は「勘気を免すので、早々に召し出すべし。」と申された。
これにより使番の深澤長左衛門が乗り切って先へ通り、丹波守に斯くと申し渡すと、そのまま旗本へ来て、
馬より降りて兜を脱いで畏まり、しきりに落涙していた。
この姿を忠直朝臣が見られ、「片桐、勘気を免す」と申されると、片桐は頭を地に付け、一礼して
立ち上がったが、「今になって許すとは聞こえないことだ」(只今になり許すとは聞えざる事)と
思っているような気色でその場を退き、馬に乗って駆け出した。
しかし先手の鑓が始まると同時に、兜付きの高名(兜を付けた武者を討ち取ること)して、持参したという。
(新東鑑)
大坂夏の陣での越前家の一コマ
119人間七七四年
2022/04/06(水) 22:39:17.57ID:CeypfKfb 「勢州軍記」から「諸木野弓の事」という、
織田と北畠具教・具房親子との戦いである大河内城の合戦の一コマ
あるとき信長卿本陣・桂瀬山にて、織田軍の一人が松の大木にもたれながら北畠軍の城中に向かって
「大腹御所(北畠具房、肥満体であったという)の餅食い!」
と嘲ったため、城兵たちは腹を立て「矢で射てしまえ!」と考えた。
その頃、大和秋山家の侍に射手が三人おり、諸木野弥三郎、秋山万助、秋山志摩介、といった。
その中でも諸木野が召し出され、諸木野弥三郎はおそれいりながら大弓に大きな矢をつがえ、射った。
敵味方ともに見物していたところ、矢はあやまたず四、五町(500m前後)を越えて、嘲った者を松の木ごと射抜いた。
信長卿は感心し、その矢を抜いて城中に返還した。
敵味方ともに大いに感悦したということだ。
織田と北畠具教・具房親子との戦いである大河内城の合戦の一コマ
あるとき信長卿本陣・桂瀬山にて、織田軍の一人が松の大木にもたれながら北畠軍の城中に向かって
「大腹御所(北畠具房、肥満体であったという)の餅食い!」
と嘲ったため、城兵たちは腹を立て「矢で射てしまえ!」と考えた。
その頃、大和秋山家の侍に射手が三人おり、諸木野弥三郎、秋山万助、秋山志摩介、といった。
その中でも諸木野が召し出され、諸木野弥三郎はおそれいりながら大弓に大きな矢をつがえ、射った。
敵味方ともに見物していたところ、矢はあやまたず四、五町(500m前後)を越えて、嘲った者を松の木ごと射抜いた。
信長卿は感心し、その矢を抜いて城中に返還した。
敵味方ともに大いに感悦したということだ。
120人間七七四年
2022/04/06(水) 23:55:03.22ID:Vw+cZHK+ よっぽど細い松の幹だったのか
あるいは作り話か
あるいは作り話か
121人間七七四年
2022/04/07(木) 07:07:24.27ID:YDHzngnu たぶん射抜いて松の木に突き刺さったのかと
122人間七七四年
2022/04/07(木) 07:37:33.95ID:oTEmwTn/ 500mも離れて罵り合いしてたのか?
拡声器もない時代に
松だけに嘘松
拡声器もない時代に
松だけに嘘松
123人間七七四年
2022/04/07(木) 07:39:37.33ID:YDHzngnu ついでに原文では
彼人与松共射貫也(彼の人、松と共に射貫くなり)となってます
彼人与松共射貫也(彼の人、松と共に射貫くなり)となってます
124人間七七四年
2022/04/10(日) 14:40:35.76ID:HpImF3ZA 或る本によると、本多飛騨守成重は、作左衛門重次の息である。童名仙千代。成人して丹下と称した。
父重次が故あって上総国小原荘に籠居した時、成重も出仕を止められた。
関ヶ原御陣の時、御後に陣し、慶長十八年越前国丸岡の城を給わり、(松平)忠直朝臣に属した。
大阪夏の陣、五月七日に、一晩に合戦を始め、真田の陣を打ち破り、自ら敵二騎を斬って落とし、
大勢の敵を追い崩し、彼の部隊は首二百七十三を討ち取り、大手の城門を破って左の脇より大阪城に乗り込み、
ここかしこに火をかけ、首二十八を斬った。
手の者共で討たれたのは五人、疵を被ったのは七人であった。
元和九年、忠直朝臣配流の後に、再び将軍家に召され、慶安四年十二月に卒した。時に六十二歳であったという。
(新東鑑)
有名な本多重次の手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の「お仙」こと本多成重について。
父重次が故あって上総国小原荘に籠居した時、成重も出仕を止められた。
関ヶ原御陣の時、御後に陣し、慶長十八年越前国丸岡の城を給わり、(松平)忠直朝臣に属した。
大阪夏の陣、五月七日に、一晩に合戦を始め、真田の陣を打ち破り、自ら敵二騎を斬って落とし、
大勢の敵を追い崩し、彼の部隊は首二百七十三を討ち取り、大手の城門を破って左の脇より大阪城に乗り込み、
ここかしこに火をかけ、首二十八を斬った。
手の者共で討たれたのは五人、疵を被ったのは七人であった。
元和九年、忠直朝臣配流の後に、再び将軍家に召され、慶安四年十二月に卒した。時に六十二歳であったという。
(新東鑑)
有名な本多重次の手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の「お仙」こと本多成重について。
125人間七七四年
2022/04/16(土) 15:32:47.72ID:zIGJ4adC 或る本に、大阪夏の陣での大阪落城の時、細川玄蕃頭興元が、鑓を合わせたという事を
家康公が聞き召され、仰せになられた
「鑓を合わすという事は、再々に有るような事ではない。
かつて、この茶臼山の北に見える勝曼院の山に、佐久間不干(信栄)、筒井順慶、荒木村重が籠もって、
大阪の門跡が攻めてきた時、鑓を合わせたと聞いた。
その他に上方において、鑓を合わせたという話は聞き及んでいない。」
この時、佐久間備前守(安政)が罷り出て言った
「上意の如くに御座候。その日は、私は同姓不干の手に付き、両度の鑓がありました。
天正六年五月三日の事です。
朝は茶臼山の西に見える、難波の貝塚での合戦において。不干の与力の、佐久間久右衛門、同葵之助、
梶川弥三郎、水野源太夫、永岡小三郎、この六人(本文ママ)が鑓を合わせ、その晩、勝曼院の山において、
不干家中の志水天市、江原弥助、浮貝藤助、長瀬弥五右衛門の四本、鑓を合わせました。
長瀬は、只今は小右衛門と申し、加賀に居ります。」
と、申し上げたという。
(新東鑑)
家康公が聞き召され、仰せになられた
「鑓を合わすという事は、再々に有るような事ではない。
かつて、この茶臼山の北に見える勝曼院の山に、佐久間不干(信栄)、筒井順慶、荒木村重が籠もって、
大阪の門跡が攻めてきた時、鑓を合わせたと聞いた。
その他に上方において、鑓を合わせたという話は聞き及んでいない。」
この時、佐久間備前守(安政)が罷り出て言った
「上意の如くに御座候。その日は、私は同姓不干の手に付き、両度の鑓がありました。
天正六年五月三日の事です。
朝は茶臼山の西に見える、難波の貝塚での合戦において。不干の与力の、佐久間久右衛門、同葵之助、
梶川弥三郎、水野源太夫、永岡小三郎、この六人(本文ママ)が鑓を合わせ、その晩、勝曼院の山において、
不干家中の志水天市、江原弥助、浮貝藤助、長瀬弥五右衛門の四本、鑓を合わせました。
長瀬は、只今は小右衛門と申し、加賀に居ります。」
と、申し上げたという。
(新東鑑)
126人間七七四年
2022/04/17(日) 16:54:42.08ID:sJ6g5wvU 或る本に、大阪夏の陣、五月七日の合戦で、徳川秀忠公の御先鋒・青山伯耆守(忠俊)の組の
土方宇右衛門、花房又七郎が先駆けして鑓を合わせた時、味方二人が突き伏せられ、さらに敵兵が
掛かってきたところを、土方、花房はその手負いの味方を肩に掛けて退いた。
この事を人々は「両人とも鑓を突いた」と申したが、家康公がこれを聞かれ、
「七日の合戦、総て鑓は無し。両人の者、鑓を突きたるにはあらず」
と仰せになられたが、各々に千石の加増があった。
古には弓箭にて戦ったが、楠木正成が異朝の鉾戦を模して、鑓を用い始めたのだが、猶弓箭についての
評価はしても、鑓についての評価はなかった。
武田信玄の時代より、専ら鑓についての穿鑿がされるようになった。
凡そ、敵味方が備を立ち寄せ、弓鉄砲にて迫り合い、その後戦いが激しくなってなって弓鉄砲も放ち難き時は
鉾矢形(ほうしぎょう)となる。その時進んで鑓を入れるのを「一番鑓」と名付けた。
それより二番鑓、或いは太刀鉄砲にて一番鑓の脇を結ぶのを「鑓脇」といい、またその時首を取ったのを、
鑓下の功名と言う。
又、この場で負傷した味方を肩にかけて退くことを、「場中に高名」と言い習わした。
又、敗軍の時、敵が小返しして働くのを突き伏せて首を取ることは「印」と言い、鑓とは言わなかった。
何れにおいても、強き働きのことを「鑓」と名付けたのである。
されば天文十一年八月、今川駿河守義元と、織田備後守信秀の合戦の時、三州小豆坂に於いて合戦があったが、
今川勢の四万騎が、一度に咄と討って掛かった所、織田勢の四千騎、乱れ立って敗北したが、
信秀の先陣である織田孫三郎引き返し討って向かった。続いて織田造酒之丞、下方左近、岡田左近、
岡田助右衛門尉、佐々隼人正、同孫助の七騎進んで敵を突き立てた、故に「七本鑓」と名付けられた。
又天正十一年四月、秀吉公と柴田勝家の合戦で「賤ヶ岳の七本鑓」と言うのも、敵兵が崩れて色づいた時の、
総懸かりの鑓である。
また未森城攻めで、前田利家卿の家人・山崎六左衛門は小太刀、山崎彦右衛門、野村巳下は鑓で戦ったが
(これは天正十二年、敵は佐々内蔵助(成政)である)、六左衛門が一番に首を取った事で、
利家卿より一番鑓の感状、並びに一万石の加増があった。
この時彦右衛門が「それがしこそ一番鑓なり」と争ったが、利家卿は御許容なく
「太刀は鑓よりも短い、故に先に進んでいたこと分明である」
と批判された。
また、垣越、狭間越、投突は「犬鑓」と言って弱き鑓とされているのだが、狭間より鉄砲を撃ち出す時に、
鑓にて狭間を閉じるに於いては「鑓」とすべき。又垣越もその時の状況によって判断される。
又投突も、合渡川の戦いの時杉江勘兵衛は踏み止まり、激しい戦いの場であったので投突にしたが、
これは犬鑓とは言い難いとされた。
さて、家康公が五月七日の戦いに「鑓は無し」と宣われたのは、仮にも秀頼公は主君である故の
ご思慮であったと言える。それは冬夏両度の御陣を、「相手は淀殿」と仰せになっていた事からも
思い量るべきである。名将の御一言は表向きの事ではなく、深い御智計があるものだと云われている。
(新東鑑)
「鑓」についてのお話
土方宇右衛門、花房又七郎が先駆けして鑓を合わせた時、味方二人が突き伏せられ、さらに敵兵が
掛かってきたところを、土方、花房はその手負いの味方を肩に掛けて退いた。
この事を人々は「両人とも鑓を突いた」と申したが、家康公がこれを聞かれ、
「七日の合戦、総て鑓は無し。両人の者、鑓を突きたるにはあらず」
と仰せになられたが、各々に千石の加増があった。
古には弓箭にて戦ったが、楠木正成が異朝の鉾戦を模して、鑓を用い始めたのだが、猶弓箭についての
評価はしても、鑓についての評価はなかった。
武田信玄の時代より、専ら鑓についての穿鑿がされるようになった。
凡そ、敵味方が備を立ち寄せ、弓鉄砲にて迫り合い、その後戦いが激しくなってなって弓鉄砲も放ち難き時は
鉾矢形(ほうしぎょう)となる。その時進んで鑓を入れるのを「一番鑓」と名付けた。
それより二番鑓、或いは太刀鉄砲にて一番鑓の脇を結ぶのを「鑓脇」といい、またその時首を取ったのを、
鑓下の功名と言う。
又、この場で負傷した味方を肩にかけて退くことを、「場中に高名」と言い習わした。
又、敗軍の時、敵が小返しして働くのを突き伏せて首を取ることは「印」と言い、鑓とは言わなかった。
何れにおいても、強き働きのことを「鑓」と名付けたのである。
されば天文十一年八月、今川駿河守義元と、織田備後守信秀の合戦の時、三州小豆坂に於いて合戦があったが、
今川勢の四万騎が、一度に咄と討って掛かった所、織田勢の四千騎、乱れ立って敗北したが、
信秀の先陣である織田孫三郎引き返し討って向かった。続いて織田造酒之丞、下方左近、岡田左近、
岡田助右衛門尉、佐々隼人正、同孫助の七騎進んで敵を突き立てた、故に「七本鑓」と名付けられた。
又天正十一年四月、秀吉公と柴田勝家の合戦で「賤ヶ岳の七本鑓」と言うのも、敵兵が崩れて色づいた時の、
総懸かりの鑓である。
また未森城攻めで、前田利家卿の家人・山崎六左衛門は小太刀、山崎彦右衛門、野村巳下は鑓で戦ったが
(これは天正十二年、敵は佐々内蔵助(成政)である)、六左衛門が一番に首を取った事で、
利家卿より一番鑓の感状、並びに一万石の加増があった。
この時彦右衛門が「それがしこそ一番鑓なり」と争ったが、利家卿は御許容なく
「太刀は鑓よりも短い、故に先に進んでいたこと分明である」
と批判された。
また、垣越、狭間越、投突は「犬鑓」と言って弱き鑓とされているのだが、狭間より鉄砲を撃ち出す時に、
鑓にて狭間を閉じるに於いては「鑓」とすべき。又垣越もその時の状況によって判断される。
又投突も、合渡川の戦いの時杉江勘兵衛は踏み止まり、激しい戦いの場であったので投突にしたが、
これは犬鑓とは言い難いとされた。
さて、家康公が五月七日の戦いに「鑓は無し」と宣われたのは、仮にも秀頼公は主君である故の
ご思慮であったと言える。それは冬夏両度の御陣を、「相手は淀殿」と仰せになっていた事からも
思い量るべきである。名将の御一言は表向きの事ではなく、深い御智計があるものだと云われている。
(新東鑑)
「鑓」についてのお話
127人間七七四年
2022/04/17(日) 19:41:45.90ID:F3beJKik ベジタリアン?武田信玄が永禄十三年十一月九日に書いた起請文より抜粋
一、今度向于駿州出陣、則蒲原落城、興国寺岡前、駿州
円令静謐、達信玄本意者、従来庚午歳(永禄十四年)可学天台之化行
之事、
付、従己巳(永禄十三年)十一月禁肉食、(つけたり、己巳十一月より肉食を禁ず)
注目は最後で、信玄はこの月から肉食を絶っていた模様
駿河攻略という心願が成就すれば翌年から行うとした天台宗の修行に備え、身を清めていたんでしょうか
ほうとうには猪肉とかを入れたそうで、これもダメだし鯛も鶴もダメ
動物に優しい元肉食、信玄のちょっといい話
一、今度向于駿州出陣、則蒲原落城、興国寺岡前、駿州
円令静謐、達信玄本意者、従来庚午歳(永禄十四年)可学天台之化行
之事、
付、従己巳(永禄十三年)十一月禁肉食、(つけたり、己巳十一月より肉食を禁ず)
注目は最後で、信玄はこの月から肉食を絶っていた模様
駿河攻略という心願が成就すれば翌年から行うとした天台宗の修行に備え、身を清めていたんでしょうか
ほうとうには猪肉とかを入れたそうで、これもダメだし鯛も鶴もダメ
動物に優しい元肉食、信玄のちょっといい話
128人間七七四年
2022/04/17(日) 20:17:49.52ID:l6UsOGHj 信玄「ただし二脚羊は除く」
129人間七七四年
2022/04/17(日) 20:22:58.65ID:l6UsOGHj ん?待って永禄13年は4月まで。永禄12年or元亀1年11月の間違い?
130人間七七四年
2022/04/17(日) 20:28:59.43ID:wytywmt5 己巳=永禄十二年のようだ
二脚羊が猿だとすると天台宗の守護神の山王の御使いだからもちろんだめだろう
蒲原駿河で猿はお似合いな気もするけど
二脚羊が猿だとすると天台宗の守護神の山王の御使いだからもちろんだめだろう
蒲原駿河で猿はお似合いな気もするけど
131人間七七四年
2022/04/17(日) 20:29:45.53ID:F3beJKik132人間七七四年
2022/04/20(水) 18:59:23.26ID:JwisvsqA 「大友興廃記」から「戸次鑑連、石宗に軍配相伝契約の事、ならびに諸葛孔明の事」
土持親成が逆心したため、大友宗麟公は天正六年(1572年)戊寅三月上旬、討伐軍を御発足なされた。
土持居城に近づくと狼煙が見えたため、さては薩摩勢への合図かとみな身構えた。
ここに宗麟公の軍配者・角隈石宗は武田流、小笠原流、そのほか方々の軍配相伝を受けた人であったが
石宗「この狼煙は合図ではありません。こちらには味方がいるぞと錯覚させるための策です。
煙は律気にのぼらず、呂気に靡いているため、敵の運がよくなることはないでしょう」
その後、首尾よく大勝し、土持親成を生捕にした。
助命嘆願の声もあったが親成は切腹させられ、これを憐れんだ人々は、童に至るまで敦盛の曲舞を替え歌して勇んで歌った。
佐伯惟教は不快に思い「人の驕りが言わせるのだ」と法度を厳しくしたため、この新曲舞はやんだ。
土持親成が逆心したため、大友宗麟公は天正六年(1572年)戊寅三月上旬、討伐軍を御発足なされた。
土持居城に近づくと狼煙が見えたため、さては薩摩勢への合図かとみな身構えた。
ここに宗麟公の軍配者・角隈石宗は武田流、小笠原流、そのほか方々の軍配相伝を受けた人であったが
石宗「この狼煙は合図ではありません。こちらには味方がいるぞと錯覚させるための策です。
煙は律気にのぼらず、呂気に靡いているため、敵の運がよくなることはないでしょう」
その後、首尾よく大勝し、土持親成を生捕にした。
助命嘆願の声もあったが親成は切腹させられ、これを憐れんだ人々は、童に至るまで敦盛の曲舞を替え歌して勇んで歌った。
佐伯惟教は不快に思い「人の驕りが言わせるのだ」と法度を厳しくしたため、この新曲舞はやんだ。
133人間七七四年
2022/04/20(水) 19:02:54.19ID:JwisvsqA さて戸次伯耆守入道道雪の子息・山城守鑑連の陣所の隣家に軍配者・石宗は宿をとっていたため
戸次鑑連は石宗に「ほかのみなが狼煙を怪しんだのに貴公は策だと見抜きました。
どうかわたしに軍配を残りなく相伝くだされたい」と所望したところ
石宗「安いことです。師弟となった上は残らず伝授いたしましょう。
まず城の気についてです。そもそも気というのは烟霧雲などで窺い知ることができます。
城攻めの際、気が死灰のようになっていれば、城は滅亡する運命にあります。
城の気が東に靡けば、落城しにくいので策が必要です。
城の気が南に靡けば、攻めても落ちないので策が必要です。
城の気が西に靡けば、攻め手の勝ちで城は降参することになります。
城の気が北に靡けば、城の勝ちで攻め手の負けです。
城の気がどこへでも行った後に戻ってくるようなら、城主は逃亡します。
城の気が攻め手にかかれば、攻め手に病人が多いことになります。
城の気が高く上がってどこに行ったかわからないようなら、勝敗は見えないため持久戦となります。
城攻めして十日過ぎて、雷も雨もないようなら、敵城に助勢が来るか、味方側に裏切り者が出ます。
陣定めをしたあとに、それぞれ勝手に定めごとをするようであれば負けです。
また武者の勝色・負色というものがあります。
人数の備えがしっかりしていて人馬の足が見えないようなら勝ちです。
備えがバラバラで人馬の足が見えるようなら負けです。
また巴ということがあります。
一人がほかの隊の様子が気になってそばにより、ほかのものも影響されて近づき、順繰りに寄るようであれば巴のように見えます。これも負けです。
また日取りのことですが、
「味方の吉日は敵にとっても吉日だから方角こそが肝要である」と言う者がいますがよろしくありません。
その大将にとって吉日であれば、ほかの大将にとって吉日とはなりません。
また悪日を吉日、悪方を吉方に変える秘術もあります。
このようなことを知らずして戦場に出る者は、鰭のない魚が海中にいるような、翼のない鳥が野山にいるような、竿なくして舟に乗るようなものです。
またわたしの師は「古人曰く、上戦は戦をせぬゆえ、勝ちを白刃の前に争うは良将にあらず」と申しておりました」
鑑連「面白い話をありがとうございます。相伝の初めには気についてうかがいましょう」
石宗「それは臼杵において相伝いたしましょう」
戸次鑑連は石宗に「ほかのみなが狼煙を怪しんだのに貴公は策だと見抜きました。
どうかわたしに軍配を残りなく相伝くだされたい」と所望したところ
石宗「安いことです。師弟となった上は残らず伝授いたしましょう。
まず城の気についてです。そもそも気というのは烟霧雲などで窺い知ることができます。
城攻めの際、気が死灰のようになっていれば、城は滅亡する運命にあります。
城の気が東に靡けば、落城しにくいので策が必要です。
城の気が南に靡けば、攻めても落ちないので策が必要です。
城の気が西に靡けば、攻め手の勝ちで城は降参することになります。
城の気が北に靡けば、城の勝ちで攻め手の負けです。
城の気がどこへでも行った後に戻ってくるようなら、城主は逃亡します。
城の気が攻め手にかかれば、攻め手に病人が多いことになります。
城の気が高く上がってどこに行ったかわからないようなら、勝敗は見えないため持久戦となります。
城攻めして十日過ぎて、雷も雨もないようなら、敵城に助勢が来るか、味方側に裏切り者が出ます。
陣定めをしたあとに、それぞれ勝手に定めごとをするようであれば負けです。
また武者の勝色・負色というものがあります。
人数の備えがしっかりしていて人馬の足が見えないようなら勝ちです。
備えがバラバラで人馬の足が見えるようなら負けです。
また巴ということがあります。
一人がほかの隊の様子が気になってそばにより、ほかのものも影響されて近づき、順繰りに寄るようであれば巴のように見えます。これも負けです。
また日取りのことですが、
「味方の吉日は敵にとっても吉日だから方角こそが肝要である」と言う者がいますがよろしくありません。
その大将にとって吉日であれば、ほかの大将にとって吉日とはなりません。
また悪日を吉日、悪方を吉方に変える秘術もあります。
このようなことを知らずして戦場に出る者は、鰭のない魚が海中にいるような、翼のない鳥が野山にいるような、竿なくして舟に乗るようなものです。
またわたしの師は「古人曰く、上戦は戦をせぬゆえ、勝ちを白刃の前に争うは良将にあらず」と申しておりました」
鑑連「面白い話をありがとうございます。相伝の初めには気についてうかがいましょう」
石宗「それは臼杵において相伝いたしましょう」
134人間七七四年
2022/04/20(水) 19:05:47.88ID:JwisvsqA 鑑連「では八陣についてですが、陣取りは八つに定まっているのでしょうか」
石宗「八陣というのは異国の諸葛孔明の八陣の図をもって沙汰しております。
八陣とは
魚鱗、鶴翼、長蛇、偃月、鋒矢、方円、衡範、雁行
を根本としてさまざまな陣取りがあります。いずれにせよ源はこの八陣です。これも書面で相伝いたしましょう。
鑑連「孔明とはいかなる勇士でしょうか」
石宗「孔明とは蜀の賢人です。
昔異朝に、呉の孫権、蜀の劉備、魏の曹操という三人があり、シナ四百州を三分していました。
曹操は才智世にすぐれて謀をめぐらし敵を防ぎ、孫権は士を労い衆を撫し、ともに故国を賊し政を掠めるものが集まり、帝都を侵していました。
劉備は最近王室から分かれたばかりで、仁義があり利欲を忘れたために忠臣・孝子が四方からきて教化し武徳を行なっていました。
こうして三人とも智仁勇を備えていたため、呉魏蜀は鼎立しておりました。
ここに諸葛孔明という賢人が隠遁して蜀の南陽山で歌を歌って暮らしておりましたが、劉備に招聘されても断りました。
そこで劉備は三度草廬に自ら赴き「我が身の欲ではなく天下万民のためにその才を発揮してもらいたい」
と誠を尽くし理を尽くし仰せになったため、孔明はついに蜀の丞相となりました。
劉備は「朕に孔明あるは魚に水あるがごとし」と武侯と号させました。
魏の曹操は臥龍・孔明をおそれ、司馬仲達という将軍に七十万騎を備えさせ蜀に侵攻させました。
劉備も孔明に三十万騎を備えさせ、魏蜀の国境である五丈原で両軍はあいまみえました。
しかし五十日の間睨み合うだけだったため、魏兵は不満に思い司馬仲達に進軍を乞うたのですが、司馬仲達は許可しませんでした。
ある時、仲達は生捕にした蜀兵から孔明の様子を聞いたところ
「孔明は士卒に礼儀を厚くし、同じものを食べ、夜は眠らず自ら見回りをし、昼は士卒と睦まじく交際する。
そのため三十万の軍勢は心を一つにしているのだ」と言ったため
司馬仲達は「味方は七十万だが心は一つになっていない、孔明が過労と酷暑のために病となるまでは待つべきである」
と魏の士卒が「四十里も隔てて敵将の脈を知ることがあろうか、臥龍を恐れるため言い訳しているのだ」と嘲るのも無視して出陣しませんでした。
ある夜、両陣の間に客星が落ち、火よりも赤く輝いておりました。
これをみた仲達は「七日のうちに天下の人傑を失う相である、孔明は必ず死ぬであろう」と喜びました。
七日後に孔明は死にましたが、蜀軍は孔明の死を隠して魏軍に兵を進めました。
司馬仲達は戦えば魏が敗北すると考えていたため、一戦にも及ばず五十里退却しました。
こうして「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言われるようになったのです。
軍が散じたのち、蜀兵は孔明の死を知り全軍が仲達に降りました。
こうして蜀がまず滅び、次に呉が滅んで魏の曹操が天下を統一してのです。
私が思いますに、諸葛孔明のように、礼を保ち、世に畏れられたというのは、ともに大将が学ぶべき美点です。
もっとも多年宗麟公が数国を治めた御威光にはかなわないでしょうが。」
これは鑑連の児扈従の聞き書きを記したものである。
後日、鑑連は臼杵丹生島登城の折々に軍配一巻を伝授されたそうだ。
石宗「八陣というのは異国の諸葛孔明の八陣の図をもって沙汰しております。
八陣とは
魚鱗、鶴翼、長蛇、偃月、鋒矢、方円、衡範、雁行
を根本としてさまざまな陣取りがあります。いずれにせよ源はこの八陣です。これも書面で相伝いたしましょう。
鑑連「孔明とはいかなる勇士でしょうか」
石宗「孔明とは蜀の賢人です。
昔異朝に、呉の孫権、蜀の劉備、魏の曹操という三人があり、シナ四百州を三分していました。
曹操は才智世にすぐれて謀をめぐらし敵を防ぎ、孫権は士を労い衆を撫し、ともに故国を賊し政を掠めるものが集まり、帝都を侵していました。
劉備は最近王室から分かれたばかりで、仁義があり利欲を忘れたために忠臣・孝子が四方からきて教化し武徳を行なっていました。
こうして三人とも智仁勇を備えていたため、呉魏蜀は鼎立しておりました。
ここに諸葛孔明という賢人が隠遁して蜀の南陽山で歌を歌って暮らしておりましたが、劉備に招聘されても断りました。
そこで劉備は三度草廬に自ら赴き「我が身の欲ではなく天下万民のためにその才を発揮してもらいたい」
と誠を尽くし理を尽くし仰せになったため、孔明はついに蜀の丞相となりました。
劉備は「朕に孔明あるは魚に水あるがごとし」と武侯と号させました。
魏の曹操は臥龍・孔明をおそれ、司馬仲達という将軍に七十万騎を備えさせ蜀に侵攻させました。
劉備も孔明に三十万騎を備えさせ、魏蜀の国境である五丈原で両軍はあいまみえました。
しかし五十日の間睨み合うだけだったため、魏兵は不満に思い司馬仲達に進軍を乞うたのですが、司馬仲達は許可しませんでした。
ある時、仲達は生捕にした蜀兵から孔明の様子を聞いたところ
「孔明は士卒に礼儀を厚くし、同じものを食べ、夜は眠らず自ら見回りをし、昼は士卒と睦まじく交際する。
そのため三十万の軍勢は心を一つにしているのだ」と言ったため
司馬仲達は「味方は七十万だが心は一つになっていない、孔明が過労と酷暑のために病となるまでは待つべきである」
と魏の士卒が「四十里も隔てて敵将の脈を知ることがあろうか、臥龍を恐れるため言い訳しているのだ」と嘲るのも無視して出陣しませんでした。
ある夜、両陣の間に客星が落ち、火よりも赤く輝いておりました。
これをみた仲達は「七日のうちに天下の人傑を失う相である、孔明は必ず死ぬであろう」と喜びました。
七日後に孔明は死にましたが、蜀軍は孔明の死を隠して魏軍に兵を進めました。
司馬仲達は戦えば魏が敗北すると考えていたため、一戦にも及ばず五十里退却しました。
こうして「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言われるようになったのです。
軍が散じたのち、蜀兵は孔明の死を知り全軍が仲達に降りました。
こうして蜀がまず滅び、次に呉が滅んで魏の曹操が天下を統一してのです。
私が思いますに、諸葛孔明のように、礼を保ち、世に畏れられたというのは、ともに大将が学ぶべき美点です。
もっとも多年宗麟公が数国を治めた御威光にはかなわないでしょうが。」
これは鑑連の児扈従の聞き書きを記したものである。
後日、鑑連は臼杵丹生島登城の折々に軍配一巻を伝授されたそうだ。
135人間七七四年
2022/04/21(木) 08:28:36.74ID:CX+G3e4b 同説に子息はいないから創作だろう
136人間七七四年
2022/04/21(木) 09:17:05.98ID:4iHUaxAG 失礼、戸次鎮連(道雪の猶子)でした
鑑連だと道雪本人だ
鑑連だと道雪本人だ
137人間七七四年
2022/04/21(木) 15:01:14.99ID:P7oGifBM 「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」
戸田勝隆に旧領安堵と音物を携えた使者が訪れ、大津(大洲)まで出頭する事になった西園寺公広が出立前に残した時世の句です。
この時、扈従する護衛十名は若輩の小姓も含めて全てが主君に殉じる覚悟の者ばかりで、公広自身が伯耆安綱の太刀を二尺六寸余りの無銘に大磨上げした刀を差し料として、斬り死を覚悟していたと。
時世には、伊予西園寺家の滅亡は季節が移ろうように逆らい難いものであり、騙し討ちに遭うのも騙されて殺されるのではなく、避けがたい天命なのだと覚悟している心境を詠ったと。
……覚悟の上でも、呼び出しを無視して自害するのではなく、刺客を道連れに全力で斬り死する公家出身で僧侶上がりでも戦国大名だった西園寺公広の、戦国時代らしいお話。
戸田勝隆に旧領安堵と音物を携えた使者が訪れ、大津(大洲)まで出頭する事になった西園寺公広が出立前に残した時世の句です。
この時、扈従する護衛十名は若輩の小姓も含めて全てが主君に殉じる覚悟の者ばかりで、公広自身が伯耆安綱の太刀を二尺六寸余りの無銘に大磨上げした刀を差し料として、斬り死を覚悟していたと。
時世には、伊予西園寺家の滅亡は季節が移ろうように逆らい難いものであり、騙し討ちに遭うのも騙されて殺されるのではなく、避けがたい天命なのだと覚悟している心境を詠ったと。
……覚悟の上でも、呼び出しを無視して自害するのではなく、刺客を道連れに全力で斬り死する公家出身で僧侶上がりでも戦国大名だった西園寺公広の、戦国時代らしいお話。
138人間七七四年
2022/04/21(木) 15:02:50.43ID:P7oGifBM ↑訂正。
×時世
〇辞世
誤変換に気づきませんでした、掲載時にはお手数ですが修正をお願いします。
×時世
〇辞世
誤変換に気づきませんでした、掲載時にはお手数ですが修正をお願いします。
139人間七七四年
2022/04/22(金) 06:15:31.88ID:uQZkWR+e NHKニュース|NHK NEWS WEB
WEB特集
徳川家康の甲冑(かっちゅう)の金物〜漆黒の謎に迫る彫金師〜
2022年4月21日 19時37分
徳川家康の甲冑(かっちゅう)の金物〜漆黒の謎に迫る彫金師〜
来年放送される大河ドラマ「どうする家康」に合わせて、静岡市に新たな歴史博物館がオープンします。
最大の呼び物は、当時の材料や技法を使って新たに制作が進められている国の重要文化財で、徳川家康が関ヶ原の戦いで身につけたとされる甲冑(かっちゅう)「歯朶具足(しだぐそく)」。その金物は当時の技術では困難だったとされる漆黒で出来ています。
金物はどのようにして作られたのか、甲府市の彫金師によってその謎が明らかになりました。(甲府放送局記者 飯田章彦)
漆黒の甲冑(かっちゅう) 家康の歯朶具足(しだぐそく)
徳川家康が天下統一を果たす大きな節目となった関ヶ原の戦い。
そこで身につけていたとされるのが漆黒の甲冑、歯朶具足です。
戦国時代、戦場での武功を示すために色鮮やかできらびやかな甲冑が主流だったなか、漆黒の色は天下人、家康の象徴ともいわれ、国の重要文化財に指定されています。
この歯朶具足を当時の材料や技法で新たに制作し、来年1月に静岡市にオープンする歴史博物館の呼び物として展示しようという取り組みが始まっています。
この歯朶具足の金物の復元を任されているのが甲府市の彫金師、穂坂雅喜さんです。
穂坂さんが生れ育ったのは、全国有数の宝石のまち・甲府市。
多くの宝飾品メーカーや職人が集まり、国内で流通する宝飾品のおよそ3分の1を生産しています。
家業を継いで宝飾職人となった穂坂さん
宝飾職人の家に生まれ、大学卒業後、家業を継いだ穂坂さんですが、高い技術力が認められ、彫金師として甲冑の金物の復元に携わるようになりました。
彫金師とは、“たがね”といわれる伝統工具を使って金属の装飾などを施す職人のことです。
彫金師として歩み出した穂坂さんの転機となったのが、ふるさと山梨の国宝、楯無鎧(たてなしのよろい)の復元でした。
甲斐源氏の祖、源義光の生き様やこだわり、それを制作した彫金師の技術や苦労を想像しながら復元していくことに魅力を感じたといいます。
「武将にとって甲冑(かっちゅう)は死に装束みたいなもの。当時の最高の技術を結集して制作されています。それに携われることが魅力だと感じています」
WEB特集
徳川家康の甲冑(かっちゅう)の金物〜漆黒の謎に迫る彫金師〜
2022年4月21日 19時37分
徳川家康の甲冑(かっちゅう)の金物〜漆黒の謎に迫る彫金師〜
来年放送される大河ドラマ「どうする家康」に合わせて、静岡市に新たな歴史博物館がオープンします。
最大の呼び物は、当時の材料や技法を使って新たに制作が進められている国の重要文化財で、徳川家康が関ヶ原の戦いで身につけたとされる甲冑(かっちゅう)「歯朶具足(しだぐそく)」。その金物は当時の技術では困難だったとされる漆黒で出来ています。
金物はどのようにして作られたのか、甲府市の彫金師によってその謎が明らかになりました。(甲府放送局記者 飯田章彦)
漆黒の甲冑(かっちゅう) 家康の歯朶具足(しだぐそく)
徳川家康が天下統一を果たす大きな節目となった関ヶ原の戦い。
そこで身につけていたとされるのが漆黒の甲冑、歯朶具足です。
戦国時代、戦場での武功を示すために色鮮やかできらびやかな甲冑が主流だったなか、漆黒の色は天下人、家康の象徴ともいわれ、国の重要文化財に指定されています。
この歯朶具足を当時の材料や技法で新たに制作し、来年1月に静岡市にオープンする歴史博物館の呼び物として展示しようという取り組みが始まっています。
この歯朶具足の金物の復元を任されているのが甲府市の彫金師、穂坂雅喜さんです。
穂坂さんが生れ育ったのは、全国有数の宝石のまち・甲府市。
多くの宝飾品メーカーや職人が集まり、国内で流通する宝飾品のおよそ3分の1を生産しています。
家業を継いで宝飾職人となった穂坂さん
宝飾職人の家に生まれ、大学卒業後、家業を継いだ穂坂さんですが、高い技術力が認められ、彫金師として甲冑の金物の復元に携わるようになりました。
彫金師とは、“たがね”といわれる伝統工具を使って金属の装飾などを施す職人のことです。
彫金師として歩み出した穂坂さんの転機となったのが、ふるさと山梨の国宝、楯無鎧(たてなしのよろい)の復元でした。
甲斐源氏の祖、源義光の生き様やこだわり、それを制作した彫金師の技術や苦労を想像しながら復元していくことに魅力を感じたといいます。
「武将にとって甲冑(かっちゅう)は死に装束みたいなもの。当時の最高の技術を結集して制作されています。それに携われることが魅力だと感じています」
140人間七七四年
2022/04/22(金) 06:16:58.61ID:uQZkWR+e それから10年あまり。
多くの金物を復元してきた技術が評価され、穂坂さんは歯朶具足の金物の復元を任されることになりました。
金物は、革や鉄を素材にした板などをつなげたり、表面に模様を精緻に彫りあげ、甲冑を華やかに彩るものです。
このため金や銀など派手な色のものが多くみられますが、歯朶具足の金物は黒、しかも漆を塗ったような深い黒が特徴です。
穂坂さんによりますと、当時は金物を黒い色にするのは技術的に難しかったといいます。
文献に残っている銅に金を混ぜる「赤銅」という技法では、青みがかった黒しか表現できませんでした。
このため穂坂さんは、黒をどのようにして出したのかを東京芸術大学と検証することにしました。
そこで金属の含有量や成分を調べる装置を使って分析すると、銅に微量の銀が含まれていることがわかりました。
この分析を基に、穂坂さんは漆黒を復元する実験を始めました。
実験では「湯床吹き」といわれる当時の技法を用い、1000度以上に加熱したるつぼで溶かした金属をお湯に流し入れて塊にします。
銀の添加量を変えながら金物の制作を繰り返すなかで、銀を入れすぎると表面に浮き出てしまい、黒くならないこともわかりました。
およそ4年、試行錯誤を繰り返した結果たどり着いたのが2%の銀。
できあがった鉄板を60度のお湯で溶かした硫黄につけると、硫化反応で漆黒に変化することを発見しました。
2%の銀を含んだ鉄板を硫黄の湯につける
穂坂さんによりますと、銀を銅に入れて金物を漆黒にする技法はこれまで見つかっていなかったということです。
当時の技法を解明した穂坂さん。
いよいよ復元が本格的に始まりました。
職人が施した模様をたがねを使って忠実に再現。
「唐草」や魚の卵をかたどった「ななこ」の模様を入れていきます。
仕上げに硫化反応をさせると、1つ目の金具が完成しました。
「家康の思いや美意識、甲冑の制作に携わった当時の職人の思いを共有し、私の持てる技術と知識を総動員して復元制作にのぞみたいです」
甲冑は当時の権力者が最高の技術や材料、人材を集めて作らせたもので、歴史をひもとく貴重な資料です。
しかし、武将が命をかけて戦いに臨む際に身につけた神聖なものであるため、これまで博物館などで大切に保存され、科学的な調査はほとんど行われてきませんでした。
今回、家康の歯朶具足の金物を科学的なアプローチで調査し、新たな技法が発見されたことで、甲冑や当時使われていた金属製品の研究が進み、家康が生きた時代をさらに詳しく知ることにつながるのではないかと、歴史学者の平山優さんは評価します。
「銀を使う技法が日本独自に生み出されたものなのか、海外の技術が輸入されて甲冑(かっちゅう)に用いられたのか、研究が広まる大きなスケールを持った発見だと考えています。当時の国際交易の広がりや甲冑研究が進むことに期待したいと思います」
家康の甲冑の金物に海外の技術が使われたとすれば、当時の新たな事実を知る大きな発見と言えるかもしれません。
今回の調査をきっかけに、この時代の研究が進むことに期待したいと思います。
多くの金物を復元してきた技術が評価され、穂坂さんは歯朶具足の金物の復元を任されることになりました。
金物は、革や鉄を素材にした板などをつなげたり、表面に模様を精緻に彫りあげ、甲冑を華やかに彩るものです。
このため金や銀など派手な色のものが多くみられますが、歯朶具足の金物は黒、しかも漆を塗ったような深い黒が特徴です。
穂坂さんによりますと、当時は金物を黒い色にするのは技術的に難しかったといいます。
文献に残っている銅に金を混ぜる「赤銅」という技法では、青みがかった黒しか表現できませんでした。
このため穂坂さんは、黒をどのようにして出したのかを東京芸術大学と検証することにしました。
そこで金属の含有量や成分を調べる装置を使って分析すると、銅に微量の銀が含まれていることがわかりました。
この分析を基に、穂坂さんは漆黒を復元する実験を始めました。
実験では「湯床吹き」といわれる当時の技法を用い、1000度以上に加熱したるつぼで溶かした金属をお湯に流し入れて塊にします。
銀の添加量を変えながら金物の制作を繰り返すなかで、銀を入れすぎると表面に浮き出てしまい、黒くならないこともわかりました。
およそ4年、試行錯誤を繰り返した結果たどり着いたのが2%の銀。
できあがった鉄板を60度のお湯で溶かした硫黄につけると、硫化反応で漆黒に変化することを発見しました。
2%の銀を含んだ鉄板を硫黄の湯につける
穂坂さんによりますと、銀を銅に入れて金物を漆黒にする技法はこれまで見つかっていなかったということです。
当時の技法を解明した穂坂さん。
いよいよ復元が本格的に始まりました。
職人が施した模様をたがねを使って忠実に再現。
「唐草」や魚の卵をかたどった「ななこ」の模様を入れていきます。
仕上げに硫化反応をさせると、1つ目の金具が完成しました。
「家康の思いや美意識、甲冑の制作に携わった当時の職人の思いを共有し、私の持てる技術と知識を総動員して復元制作にのぞみたいです」
甲冑は当時の権力者が最高の技術や材料、人材を集めて作らせたもので、歴史をひもとく貴重な資料です。
しかし、武将が命をかけて戦いに臨む際に身につけた神聖なものであるため、これまで博物館などで大切に保存され、科学的な調査はほとんど行われてきませんでした。
今回、家康の歯朶具足の金物を科学的なアプローチで調査し、新たな技法が発見されたことで、甲冑や当時使われていた金属製品の研究が進み、家康が生きた時代をさらに詳しく知ることにつながるのではないかと、歴史学者の平山優さんは評価します。
「銀を使う技法が日本独自に生み出されたものなのか、海外の技術が輸入されて甲冑(かっちゅう)に用いられたのか、研究が広まる大きなスケールを持った発見だと考えています。当時の国際交易の広がりや甲冑研究が進むことに期待したいと思います」
家康の甲冑の金物に海外の技術が使われたとすれば、当時の新たな事実を知る大きな発見と言えるかもしれません。
今回の調査をきっかけに、この時代の研究が進むことに期待したいと思います。
141人間七七四年
2022/04/22(金) 08:32:52.58ID:PcKV0DTx なんで結論が海外になるんだよ
奈良の漢國神社にも納めたんだしいうてそれほど貴重でもなかったんだろ
その後その技術が廃れただけ
奈良の漢國神社にも納めたんだしいうてそれほど貴重でもなかったんだろ
その後その技術が廃れただけ
142人間七七四年
2022/04/22(金) 10:31:05.46ID:0WRzKbEH 弟子のみに伝えたか一子相伝か、職人の技能って必ず廃れるね
143人間七七四年
2022/04/22(金) 11:56:50.04ID:PcKV0DTx 現に新々刀で掘り起こしたときも古の鍛刀術が廃れてたしね
144人間七七四年
2022/04/22(金) 12:27:30.84ID:BLpusYEu 「大友興廃記」より「大将心持の事 附・星を祈る事」
薩摩の太守・島津義久公の家臣、河田大膳入道休叱(入道名が牛室である川田義朗?)は高名な軍法者であり、神変奇特のことが多かった。
たとえば力攻めしても落とせないような城郭を、祈祷により天から火を下すことで焼却するような神変があった。
まことに飛ぶ鳥を落とすほどの奇特をなし、かれが行くところ大勝を得ないことがなかった。
さるほどに、島津義久公は天正十四年(1586年)丙戌の冬、諸勢を豊後に発向すべきか運を占えと休叱に申し付けた。
休叱「運ははかるまでもござなく候。
豊後両大将の星は、それがし存知のことなれば、大友宗麟子息義統の星を祭りもうすべく候。
星の奇瑞、次第になされよろしからん」と申す。
さて宗麟公の星は禄存星、義統の星は破軍星に当たっていたため、休叱は両星をそれぞれ祈祷したところ、忽然として奇特があった。
この星回りであれば、運の甲は乙となり、島津が利を失うことはあるまい、と休叱は喜悦の眉を開いた。
一方、豊後においても津野隈越前守(角隈石宗と思われるがすでに耳川の戦いで戦死しているはず)という軍法者があって、宗麟公父子の星が怪しいのを見咎め
越前守「かくのごとくは敵のためになすところの災いか、または国中の大乱か、常のことにはあらず。我かく見る上は、念じ返さん」
と思い、宗麟公に言上申したが御同心なく、
宗麟公「運は天にあり」とただ天運に任せよとの御意であった。
孔子曰く「祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。」
宗麟公のお言葉はよろしくないと人々は言い合った。
島津の軍師が星を祈祷して、大友宗麟・義統親子の運を転じたという話
薩摩の太守・島津義久公の家臣、河田大膳入道休叱(入道名が牛室である川田義朗?)は高名な軍法者であり、神変奇特のことが多かった。
たとえば力攻めしても落とせないような城郭を、祈祷により天から火を下すことで焼却するような神変があった。
まことに飛ぶ鳥を落とすほどの奇特をなし、かれが行くところ大勝を得ないことがなかった。
さるほどに、島津義久公は天正十四年(1586年)丙戌の冬、諸勢を豊後に発向すべきか運を占えと休叱に申し付けた。
休叱「運ははかるまでもござなく候。
豊後両大将の星は、それがし存知のことなれば、大友宗麟子息義統の星を祭りもうすべく候。
星の奇瑞、次第になされよろしからん」と申す。
さて宗麟公の星は禄存星、義統の星は破軍星に当たっていたため、休叱は両星をそれぞれ祈祷したところ、忽然として奇特があった。
この星回りであれば、運の甲は乙となり、島津が利を失うことはあるまい、と休叱は喜悦の眉を開いた。
一方、豊後においても津野隈越前守(角隈石宗と思われるがすでに耳川の戦いで戦死しているはず)という軍法者があって、宗麟公父子の星が怪しいのを見咎め
越前守「かくのごとくは敵のためになすところの災いか、または国中の大乱か、常のことにはあらず。我かく見る上は、念じ返さん」
と思い、宗麟公に言上申したが御同心なく、
宗麟公「運は天にあり」とただ天運に任せよとの御意であった。
孔子曰く「祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。」
宗麟公のお言葉はよろしくないと人々は言い合った。
島津の軍師が星を祈祷して、大友宗麟・義統親子の運を転じたという話
145人間七七四年
2022/04/22(金) 14:26:21.25ID:yvMRKNQz https://digital.asahi.com/sp/articles/ASQ4M6D4YQ45UUHB00K.html
オランダの哲学者像がなぜ妖怪「小豆とぎ婆」像に 400年の謎
>17世紀に九州に漂着したオランダ船の船尾にあった像を400年余り守り継いできた栃木県佐野市の龍江院で、地元の人たちが像を紹介する資料館を開いた。
>今は東京国立博物館に寄託されている「木造エラスムス立像」(国重要文化財)がたどってきた、数奇な運命の物語を広く知ってもらうのが狙いだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12894.html
栃木のエラスムス木像
でも紹介されていた、ウィリアム・アダムズ(三浦按針)のリーフデ号に載っていたエラスムス像の資料館ができたようだ
記事には小豆とぎ婆にされてしまった理由(あくまで一説)についても触れている
オランダの哲学者像がなぜ妖怪「小豆とぎ婆」像に 400年の謎
>17世紀に九州に漂着したオランダ船の船尾にあった像を400年余り守り継いできた栃木県佐野市の龍江院で、地元の人たちが像を紹介する資料館を開いた。
>今は東京国立博物館に寄託されている「木造エラスムス立像」(国重要文化財)がたどってきた、数奇な運命の物語を広く知ってもらうのが狙いだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12894.html
栃木のエラスムス木像
でも紹介されていた、ウィリアム・アダムズ(三浦按針)のリーフデ号に載っていたエラスムス像の資料館ができたようだ
記事には小豆とぎ婆にされてしまった理由(あくまで一説)についても触れている
146人間七七四年
2022/04/23(土) 21:51:27.66ID:5fJXLANX http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6484.html
天正二年、一条康政(たぶん兼定を勘違い)は
上記の話は「大友興廃記」では一条康政(兼定)暗殺の次に出ているが、古今の例については省略されているのでそこも含めて投稿
「大友興廃記」より
一条殿藤の奇特 附・飛梅 并・紫珊瑚の物語
一条康政公(兼定)の家滅びて、天正二年甲戌に豊後国に渡海なさった。
御館を出立なさるときに、年来秘蔵の藤に暇乞いのために門前から戻り、馬の鞭で藤の糸を撫で上げなさって
「植えおきし 池の藤波 心あらば 今年ばかりは 咲くな匂うな」
と遊ばれたあと渡海なさった。
そののち、長宗我部元親が一条殿御自愛の藤を見ようと前述の御所に立ち入ったが、この藤は一房も咲いてなかった。
人々が不審がっていると、蜷川新右衛門尉の末裔で道馮(蜷川親長、道標)という人が元親のそばにいたが
道馮「康政はこの藤に名残を惜しんで
「植えおきし 池の藤波 心あらば 今年ばかりは 咲くな匂うな」
と詠んだそうなので、もしかするとそのためではないでしょうか」
と申したところ
元親「上代はともかく、今の末代でそのような奇特もなかろう」と同意しなかった。
天正二年、一条康政(たぶん兼定を勘違い)は
上記の話は「大友興廃記」では一条康政(兼定)暗殺の次に出ているが、古今の例については省略されているのでそこも含めて投稿
「大友興廃記」より
一条殿藤の奇特 附・飛梅 并・紫珊瑚の物語
一条康政公(兼定)の家滅びて、天正二年甲戌に豊後国に渡海なさった。
御館を出立なさるときに、年来秘蔵の藤に暇乞いのために門前から戻り、馬の鞭で藤の糸を撫で上げなさって
「植えおきし 池の藤波 心あらば 今年ばかりは 咲くな匂うな」
と遊ばれたあと渡海なさった。
そののち、長宗我部元親が一条殿御自愛の藤を見ようと前述の御所に立ち入ったが、この藤は一房も咲いてなかった。
人々が不審がっていると、蜷川新右衛門尉の末裔で道馮(蜷川親長、道標)という人が元親のそばにいたが
道馮「康政はこの藤に名残を惜しんで
「植えおきし 池の藤波 心あらば 今年ばかりは 咲くな匂うな」
と詠んだそうなので、もしかするとそのためではないでしょうか」
と申したところ
元親「上代はともかく、今の末代でそのような奇特もなかろう」と同意しなかった。
147人間七七四年
2022/04/23(土) 21:53:24.81ID:5fJXLANX 道馮「それはそうですが、上代に咲く花は末代にも咲くのは道理です。
草木も春は花咲き、夏は繁り、秋は実り、冬は枯れるでしょう。
このように天地のいぶきが中より出るため、花には仏性があるといえるのです。
すべてのものは天理をそなえているのですから、この藤にも心があって、歌の心を天理の性に受けたのでしょう。
その昔、天神(菅原道真公)が筑紫に左遷された時、御跡を慕って梅は飛び、桜は名残を惜しんで枯れたところ
菅相公が不思議がり、哀れに思い
「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に なにとて松の つれなかるらん」
と詠まれたところ松も飛び参って、今の世までも「飛梅」「追い松」と名を残しています。
また上野岑雄(かんつけのみねお)という人は、別れを嘆き、なれ親しんだ桜の木に対して
「ふか草の 野辺に桜し 心あらば この春ばかり 墨染めに咲け」
と詠んだところ、草木に心はないと世の人は言いますが、ものの哀れを知って墨染めに咲いたと承っております。
草木も春は花咲き、夏は繁り、秋は実り、冬は枯れるでしょう。
このように天地のいぶきが中より出るため、花には仏性があるといえるのです。
すべてのものは天理をそなえているのですから、この藤にも心があって、歌の心を天理の性に受けたのでしょう。
その昔、天神(菅原道真公)が筑紫に左遷された時、御跡を慕って梅は飛び、桜は名残を惜しんで枯れたところ
菅相公が不思議がり、哀れに思い
「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に なにとて松の つれなかるらん」
と詠まれたところ松も飛び参って、今の世までも「飛梅」「追い松」と名を残しています。
また上野岑雄(かんつけのみねお)という人は、別れを嘆き、なれ親しんだ桜の木に対して
「ふか草の 野辺に桜し 心あらば この春ばかり 墨染めに咲け」
と詠んだところ、草木に心はないと世の人は言いますが、ものの哀れを知って墨染めに咲いたと承っております。
148人間七七四年
2022/04/23(土) 21:55:09.45ID:5fJXLANX また異国でもそのようなことがあります。
田真・田慶・田広(以下「二十四孝」に収められている話。酈食其を煮殺した田広とは別人)という三兄弟がいました。
父の死後、父親の愛した紫珊瑚(花蘇芳)という木を三つに切って形見分けしようとしたところ、木は枯れてしまいました。
三人が「これからは鼎に囲んで見よう」と言ったところ蘇って元の色になり盛んに咲いたということです。
また摩頂松ということがあります。
玄奘法師(三蔵法師)が西域に行く時、霊巌寺の松を撫でていうには
「吾西に去らば汝も西に長ずべし。吾帰らばすなわち東へ向かえ」と約束しました。
はたしてのちに松はたちまち東に向かったため、玄奘の弟子はこれを見て師の帰還を知ったと言います。
康政も「ことしばかりは」と詠まれたので、来春は元のように咲くでしょう、そうなれば歌の奇特と納得されるでしょう」
田真・田慶・田広(以下「二十四孝」に収められている話。酈食其を煮殺した田広とは別人)という三兄弟がいました。
父の死後、父親の愛した紫珊瑚(花蘇芳)という木を三つに切って形見分けしようとしたところ、木は枯れてしまいました。
三人が「これからは鼎に囲んで見よう」と言ったところ蘇って元の色になり盛んに咲いたということです。
また摩頂松ということがあります。
玄奘法師(三蔵法師)が西域に行く時、霊巌寺の松を撫でていうには
「吾西に去らば汝も西に長ずべし。吾帰らばすなわち東へ向かえ」と約束しました。
はたしてのちに松はたちまち東に向かったため、玄奘の弟子はこれを見て師の帰還を知ったと言います。
康政も「ことしばかりは」と詠まれたので、来春は元のように咲くでしょう、そうなれば歌の奇特と納得されるでしょう」
149人間七七四年
2022/04/23(土) 22:00:10.93ID:5fJXLANX と和漢の名木の奇特を述べたところ、元親も近習ももっともだとは思ったものの、来春咲くまでは承諾できかねる、と言い合った。
翌年の春、一年がまんしたぶん、藤は三尺ほどに咲いたため
人々は「道馮が去年言ったことは道理だった。道馮の予言通りの奇特だ」と感心した。
元親も我を折って、藤の奇特を認めた。
そののち、この奇特を太閤秀吉公が聞こしめし、この藤を召し上らせて、京都において一条殿(一条内基?兼定の息子の内政の元服を執り行っている)に進上なさったため、大変大事にされた。
あるとき奏聞したところ、天子もこの藤も御覧にいれたそうだ。
されば草木さえこのように振る舞うのに、譜代相伝の臣下が無下に浅ましいことをしたというのも、康政公の御代に一条の家自滅到来の時節だったということだろう。
翌年の春、一年がまんしたぶん、藤は三尺ほどに咲いたため
人々は「道馮が去年言ったことは道理だった。道馮の予言通りの奇特だ」と感心した。
元親も我を折って、藤の奇特を認めた。
そののち、この奇特を太閤秀吉公が聞こしめし、この藤を召し上らせて、京都において一条殿(一条内基?兼定の息子の内政の元服を執り行っている)に進上なさったため、大変大事にされた。
あるとき奏聞したところ、天子もこの藤も御覧にいれたそうだ。
されば草木さえこのように振る舞うのに、譜代相伝の臣下が無下に浅ましいことをしたというのも、康政公の御代に一条の家自滅到来の時節だったということだろう。
150人間七七四年
2022/04/24(日) 19:18:43.37ID:oi+Wmvg6 慶長二十年(1615)五月七日、大御所(徳川家康)は茶臼山より四、五丁という所まで至った時、
大阪城本丸の辺りから煙が立ち上った。
丁度この頃、小出大隅守三尹が大御所のもとに馳せ来た。
大御所は大隅守に「かの煙を見よ」と仰せになった。
これに三尹答えて曰く
「近頃笑止なる事に御座候(最近になく気の毒なことです)」
と申し上げた。群臣たちは「奇怪の詞かな」とささやきあったが、家康公は仰せられた
「汝は秀頼に筋目があるのだから、尤もの一言である。」
そして、哀れに思し召す御気色にさえ見えた。
この様子に、大阪落城の悦びを申し遅れじと、ここに参り集まった人々の中でも、豊臣家の御恩を被った輩は、
世に恥ずかしきことに思ったという。
この後も大御所は、宿老の者に向かって「大隅守が申した事、神妙の至りである。」と、
御感最も浅からざる様子であった。
或る本に、小出大隅守の父秀政は、尾州中村の人であり、秀吉公と同じ地に生まれたため、
幼い頃より相親しく、その後秀吉公に仕えて奉公の労を積み、ついに泉州岸和田を給わったという。
また或る本に、新井白石先生曰く、小出播磨守(秀政)は大政所の妹(栄松院)を妻にしたという。
(新東鑑)
大阪城本丸の辺りから煙が立ち上った。
丁度この頃、小出大隅守三尹が大御所のもとに馳せ来た。
大御所は大隅守に「かの煙を見よ」と仰せになった。
これに三尹答えて曰く
「近頃笑止なる事に御座候(最近になく気の毒なことです)」
と申し上げた。群臣たちは「奇怪の詞かな」とささやきあったが、家康公は仰せられた
「汝は秀頼に筋目があるのだから、尤もの一言である。」
そして、哀れに思し召す御気色にさえ見えた。
この様子に、大阪落城の悦びを申し遅れじと、ここに参り集まった人々の中でも、豊臣家の御恩を被った輩は、
世に恥ずかしきことに思ったという。
この後も大御所は、宿老の者に向かって「大隅守が申した事、神妙の至りである。」と、
御感最も浅からざる様子であった。
或る本に、小出大隅守の父秀政は、尾州中村の人であり、秀吉公と同じ地に生まれたため、
幼い頃より相親しく、その後秀吉公に仕えて奉公の労を積み、ついに泉州岸和田を給わったという。
また或る本に、新井白石先生曰く、小出播磨守(秀政)は大政所の妹(栄松院)を妻にしたという。
(新東鑑)
151人間七七四年
2022/04/24(日) 19:53:20.62ID:VIZvEaiS 笑止は現代の意味で捉えちゃうと危ういなホントw
152人間七七四年
2022/04/25(月) 19:25:46.07ID:X2x17hql で、お城では焼死したんだね
153人間七七四年
2022/04/25(月) 19:55:46.78ID:IAJmmHLZ つまんね
154人間七七四年
2022/04/26(火) 05:46:42.54ID:kDwMC3+v そりゃよかった
155人間七七四年
2022/04/26(火) 12:06:05.83ID:hib2q/pm156人間七七四年
2022/04/26(火) 19:47:04.65ID:eBmPl9pu ちゃんとした学者でも笑止の捉え方が怪しい人いまだにいるからなぁ
157人間七七四年
2022/04/26(火) 20:21:48.09ID:xmJK+njz 乃至政彦氏の「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」p113
で西笑承兌は家康のブレーンではなく兼続の友人の立場で書状を送ったとして
その根拠の一つに、書状の冒頭で公使が派遣される事態を「笑止」と書いていることを挙げていて
「公使の派遣を「笑止」と蔑む手紙を、公使自身が携えたと考えるのは無理がある。」
と書いてたっけ
で西笑承兌は家康のブレーンではなく兼続の友人の立場で書状を送ったとして
その根拠の一つに、書状の冒頭で公使が派遣される事態を「笑止」と書いていることを挙げていて
「公使の派遣を「笑止」と蔑む手紙を、公使自身が携えたと考えるのは無理がある。」
と書いてたっけ
158人間七七四年
2022/04/27(水) 22:36:49.46ID:2M22ybcL 昔むかし、島津家の当主が十五代貴久の頃の話。
貴久の元に仕える一人の若者がいた。
とある娘がその若者に恋をした。
ある時、若者が戦で大怪我を負ったとの知らせ
が娘のところに届いた。
驚いた娘は、何も持たず大急ぎで若者ところへ
向かった。
しかし、どんどん日が暮れあたりは暗くなり曇り空で月も星も見えず、ついに何も見えなくな
り娘は一歩も進むことが出来なくなった。
その時、娘は祈りを捧げると雲が動き月が見え月明かりを頼りに娘は無事に若者の所に辿り着くことができました。
後日、この話をを聞いた貴久は娘が祈った場所を「乙女月」と名付けました。
鹿児島県日置市の地名「乙女月」の由来の話。
(南日本新聞に載っていた話)
ちなみに「乙女月」バス停まで天文館から1時間ほどかかるそうです。
貴久の元に仕える一人の若者がいた。
とある娘がその若者に恋をした。
ある時、若者が戦で大怪我を負ったとの知らせ
が娘のところに届いた。
驚いた娘は、何も持たず大急ぎで若者ところへ
向かった。
しかし、どんどん日が暮れあたりは暗くなり曇り空で月も星も見えず、ついに何も見えなくな
り娘は一歩も進むことが出来なくなった。
その時、娘は祈りを捧げると雲が動き月が見え月明かりを頼りに娘は無事に若者の所に辿り着くことができました。
後日、この話をを聞いた貴久は娘が祈った場所を「乙女月」と名付けました。
鹿児島県日置市の地名「乙女月」の由来の話。
(南日本新聞に載っていた話)
ちなみに「乙女月」バス停まで天文館から1時間ほどかかるそうです。
159人間七七四年
2022/04/28(木) 11:10:25.26ID:ZqnN/qCm で、その二人は結ばれたのだろうか・・
160人間七七四年
2022/04/28(木) 15:35:02.06ID:HeXbkUKV 慶長二十年(1615)五月七日、大阪夏の陣、徳川頼宣卿は大御所(徳川家康)の元に向かうため
頻りに諸軍を進めていたが、喉の乾きを凌ぎかね、馬上より水を乞われた所、三浦長門守邦時の付け人である
柾木清兵衛という者が、馬柄杓にて水を汲んで差し出すと忽ち飲んだ。
大御所に御対面されると、大御所は頼宣卿の髪を撫でられ
「今日はその方等に首を取り飽かせる事が出来なかった。残念である。」と仰せになった。
頼宣卿答えて
「御先手を承らなかった故に、詮無き道に刻を移し、戦に臨めなかったこと、無念至極です。」
と申された。
これを聞いた松平右衛門太夫(正綱)が、
「今日、手に合わすことが出来なかったとしても、御若年なのですから、今後幾度も合戦に遭うでしょう。」
と慰めたのだが、頼宣卿は
「私が十四歳のこの時は、再びは無いのだ!(予が十四歳の事が複あるべきか)」
と、頻りに落涙あって、怒り給いけるとかや。
(新東鑑)
頻りに諸軍を進めていたが、喉の乾きを凌ぎかね、馬上より水を乞われた所、三浦長門守邦時の付け人である
柾木清兵衛という者が、馬柄杓にて水を汲んで差し出すと忽ち飲んだ。
大御所に御対面されると、大御所は頼宣卿の髪を撫でられ
「今日はその方等に首を取り飽かせる事が出来なかった。残念である。」と仰せになった。
頼宣卿答えて
「御先手を承らなかった故に、詮無き道に刻を移し、戦に臨めなかったこと、無念至極です。」
と申された。
これを聞いた松平右衛門太夫(正綱)が、
「今日、手に合わすことが出来なかったとしても、御若年なのですから、今後幾度も合戦に遭うでしょう。」
と慰めたのだが、頼宣卿は
「私が十四歳のこの時は、再びは無いのだ!(予が十四歳の事が複あるべきか)」
と、頻りに落涙あって、怒り給いけるとかや。
(新東鑑)
161人間七七四年
2022/04/28(木) 15:51:14.83ID:9a1G/Nyl http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-709.html
徳川頼宣の初陣・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3364.html
徳川頼宣「わーん!わーん!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9708.html
遅しとあるは、上意とも存じ奉らず
似たような話はいくつかあったっけ
徳川頼宣の初陣・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3364.html
徳川頼宣「わーん!わーん!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9708.html
遅しとあるは、上意とも存じ奉らず
似たような話はいくつかあったっけ
162人間七七四年
2022/04/29(金) 17:58:46.21ID:EA4ErCyW 或る本に、慶長二十年(1615)五月十日の事であったが、和泉国今井の小物屋、長左衛門という者、
親の忌日に当たるとして、近隣の姥嫁等を集め茶を入れ、四方山の物語をしていた所、
年齢二十歳余りの武士、彼は着込みの上に帷子、并びに軍羽織を着し、旅装束にて長左衛門のもとに来て。、
傘を脱ぐと
「御無心ながら、この葛籠をしばらくここに置いて頂きたい。」
との言葉も終わらぬうちに、中間に持たせた葛籠を門内に投げ入れて立ち去った。
長左衛門は人を出して彼を追いかけさせ、「御知己でも無いのに、むやみに預かるようなことは
罷りなりません。早々に持ち帰ってください!」と伝えようとしたのであるが、かの武士と中間は共に、
早くも行方が知れず、遣わした者も空しく帰った。
その場に集まり居た者達は口々に、「これは定めて大阪の落人であろう。路次にて盗賊に逢っては
難儀する故に、この荷物をここに置き、身を軽くして働かんと思い、このようにしたのだろう。
今日はあなたの御親父の忌日なれば、仏神があなたに、福を与え給ったのではないだろうか。」
そのように申したが、長左衛門は眉をひそめ
「いやいや、それは事によるべし。落ちているものを拾うのさえ、心ある人は善しとしない。
いわんや、人が預けたものに手を出すなど有るべき事ではない。たとえ主人は殺されたのだとしても、
世の人の聞くところは如何であろうか。」
そう言って、下人三、四人を召し連れ、股引脚絆(旅装束)して、目当てもなく国府の方へ
尋ね行った所、一里ばかりも進だ場所にある、堤の陰にあたる溝の端に、最前の武士が、
数ヶ所に手傷を負って、死んでいた。
せめて共にあった中間になりとも、尋ね逢わんと思っていた所、畔の上に、年のほど十七、八と見える婦人、
一練の帷子に、生絹に秋の野を描いたものを引き重ね、生まれて五十日ばかりの子を抱いて倒れていた。
彼女は喉元を突かれ、朱に染まって死んでいた。その傍らに、引き破られた駕も打ち捨てられていた。
彼女の抱いている赤子の生死は如何かと窺ったが、これも、飢えて死んだのだろうか、息もしておらず、
成すべきことも無かった。
長左衛門は、それより十町ばかり南の山寄に知っている僧が在ったので、急ぎ使いを以てこの趣を知らせ、
彼らを葬らせた。
さて、長左衛門はそれから一年ほども過ぎた後に、かの葛籠の蓋を開けた。
その中には婦人の衣服、并びに正宗の脇差し一腰、その他、竹流し金があった。これ故、いよいよこれは、
あの場で死んでいた女性の荷物に相違無いと考え、この衣服から幡を仕立て、金など、とかの僧の庵室へ寄付し、
件の脇差しは家の重宝とした。
長左衛門の家はそれよりますます富み栄え、代々有徳にて暮らした。
また、武士の差していた大小は、これを弔った僧が売り、これによって追善の営みを最も懇ろにしたという。
この話は、津川左近(近治)の事ではないかと考えられ、よってここに記す。
(新東鑑)
親の忌日に当たるとして、近隣の姥嫁等を集め茶を入れ、四方山の物語をしていた所、
年齢二十歳余りの武士、彼は着込みの上に帷子、并びに軍羽織を着し、旅装束にて長左衛門のもとに来て。、
傘を脱ぐと
「御無心ながら、この葛籠をしばらくここに置いて頂きたい。」
との言葉も終わらぬうちに、中間に持たせた葛籠を門内に投げ入れて立ち去った。
長左衛門は人を出して彼を追いかけさせ、「御知己でも無いのに、むやみに預かるようなことは
罷りなりません。早々に持ち帰ってください!」と伝えようとしたのであるが、かの武士と中間は共に、
早くも行方が知れず、遣わした者も空しく帰った。
その場に集まり居た者達は口々に、「これは定めて大阪の落人であろう。路次にて盗賊に逢っては
難儀する故に、この荷物をここに置き、身を軽くして働かんと思い、このようにしたのだろう。
今日はあなたの御親父の忌日なれば、仏神があなたに、福を与え給ったのではないだろうか。」
そのように申したが、長左衛門は眉をひそめ
「いやいや、それは事によるべし。落ちているものを拾うのさえ、心ある人は善しとしない。
いわんや、人が預けたものに手を出すなど有るべき事ではない。たとえ主人は殺されたのだとしても、
世の人の聞くところは如何であろうか。」
そう言って、下人三、四人を召し連れ、股引脚絆(旅装束)して、目当てもなく国府の方へ
尋ね行った所、一里ばかりも進だ場所にある、堤の陰にあたる溝の端に、最前の武士が、
数ヶ所に手傷を負って、死んでいた。
せめて共にあった中間になりとも、尋ね逢わんと思っていた所、畔の上に、年のほど十七、八と見える婦人、
一練の帷子に、生絹に秋の野を描いたものを引き重ね、生まれて五十日ばかりの子を抱いて倒れていた。
彼女は喉元を突かれ、朱に染まって死んでいた。その傍らに、引き破られた駕も打ち捨てられていた。
彼女の抱いている赤子の生死は如何かと窺ったが、これも、飢えて死んだのだろうか、息もしておらず、
成すべきことも無かった。
長左衛門は、それより十町ばかり南の山寄に知っている僧が在ったので、急ぎ使いを以てこの趣を知らせ、
彼らを葬らせた。
さて、長左衛門はそれから一年ほども過ぎた後に、かの葛籠の蓋を開けた。
その中には婦人の衣服、并びに正宗の脇差し一腰、その他、竹流し金があった。これ故、いよいよこれは、
あの場で死んでいた女性の荷物に相違無いと考え、この衣服から幡を仕立て、金など、とかの僧の庵室へ寄付し、
件の脇差しは家の重宝とした。
長左衛門の家はそれよりますます富み栄え、代々有徳にて暮らした。
また、武士の差していた大小は、これを弔った僧が売り、これによって追善の営みを最も懇ろにしたという。
この話は、津川左近(近治)の事ではないかと考えられ、よってここに記す。
(新東鑑)
163人間七七四年
2022/04/30(土) 16:26:03.18ID:SqHdkmEL 各地の戦国関連のお祭りがようやく3年ぶりに動きつつありますが、みなさんのところはいかがでしょうか?
感染エチケットに気を配って大いに観光(と飲食)を楽しみたいものです。
朝日新聞 29日から米沢上杉まつり3年ぶり開催 5月3日にメインの川中島合戦
2022年4月23日
https://www.asahi.com/articles/ASQ4Q72HDQ4QUZHB008.html
山形県米沢市の春の風物詩「米沢上杉まつり」について、主催する米沢四季のまつり委員会(会長=中川勝市長)は22日、
29日~5月3日に3年ぶりに開催すると発表した。コロナ禍で一昨年、昨年は中止だった。出演者は例年より少なくなる。
米沢市上杉博物館
特別展「戦国京都と上杉家」
https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/124kyouto.html
会 期:前期 4月16日(土)~5月15日(日)
後期 5月21日(土)~6月19日(日)
※「五虎退」刀剣乱舞コラボ企画は後期より
感染エチケットに気を配って大いに観光(と飲食)を楽しみたいものです。
朝日新聞 29日から米沢上杉まつり3年ぶり開催 5月3日にメインの川中島合戦
2022年4月23日
https://www.asahi.com/articles/ASQ4Q72HDQ4QUZHB008.html
山形県米沢市の春の風物詩「米沢上杉まつり」について、主催する米沢四季のまつり委員会(会長=中川勝市長)は22日、
29日~5月3日に3年ぶりに開催すると発表した。コロナ禍で一昨年、昨年は中止だった。出演者は例年より少なくなる。
米沢市上杉博物館
特別展「戦国京都と上杉家」
https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/124kyouto.html
会 期:前期 4月16日(土)~5月15日(日)
後期 5月21日(土)~6月19日(日)
※「五虎退」刀剣乱舞コラボ企画は後期より
164人間七七四年
2022/04/30(土) 17:13:12.13ID:BtnZy3Uu >>163
感染拡大させんなゴミカス
感染拡大させんなゴミカス
165人間七七四年
2022/05/03(火) 09:46:10.21ID:rJTBUjzh 「薩藩旧伝集」「薩州旧伝集」より関ヶ原の島津退き口で活躍した後醍院喜兵衛(五大院宗繁)の話
・江戸で火事があった時、薩摩の衆も大勢火消しのために働いた。
みなが火事の風下にまわって作業しているのを見た後醍院喜兵衛は
「おのおの、そこは風下である。風の脇で火を消されよ」と言うと
みなは「弱気なことを言うやつめ、さあ火消し壺になれ、焼け死ね、焼け死ね!」と言いながら消した。
消火がおわり、誰も怪我したものはなかったが
喜兵衛が言うことには「あんな火事で一命を捨てさせてはならぬと思ってああ申したが、逆効果であった。
もっと言葉に気をつけるべきであった」
ある時、喜兵衛が下人に慮外があったため長刀で斬り殺した。
ある人が「下人を殺すのに長道具など使うとは大袈裟な、刀を使えばいいものを」
と言ったところ、
喜兵衛「刀を使って万一怪我をしてはなりませんから長道具を使いました。
戦場ではさすがに下人を相手に長道具や飛び道具などは用いませんよ」と言った。
ある時、家に立て籠っている者がいて、喜兵衛に捕縛が命じられた。
喜兵衛主従はみな具足を着用し押し入って捕縛した。
人々「鎧など着るとは臆病者だ」と非難したが
喜兵衛「このような立て篭もり程度で、万一し損じて怪我をしてはいけませんからな」と答えた。
・江戸で火事があった時、薩摩の衆も大勢火消しのために働いた。
みなが火事の風下にまわって作業しているのを見た後醍院喜兵衛は
「おのおの、そこは風下である。風の脇で火を消されよ」と言うと
みなは「弱気なことを言うやつめ、さあ火消し壺になれ、焼け死ね、焼け死ね!」と言いながら消した。
消火がおわり、誰も怪我したものはなかったが
喜兵衛が言うことには「あんな火事で一命を捨てさせてはならぬと思ってああ申したが、逆効果であった。
もっと言葉に気をつけるべきであった」
ある時、喜兵衛が下人に慮外があったため長刀で斬り殺した。
ある人が「下人を殺すのに長道具など使うとは大袈裟な、刀を使えばいいものを」
と言ったところ、
喜兵衛「刀を使って万一怪我をしてはなりませんから長道具を使いました。
戦場ではさすがに下人を相手に長道具や飛び道具などは用いませんよ」と言った。
ある時、家に立て籠っている者がいて、喜兵衛に捕縛が命じられた。
喜兵衛主従はみな具足を着用し押し入って捕縛した。
人々「鎧など着るとは臆病者だ」と非難したが
喜兵衛「このような立て篭もり程度で、万一し損じて怪我をしてはいけませんからな」と答えた。
166人間七七四年
2022/05/03(火) 09:49:10.13ID:rJTBUjzh 五大院宗繁じゃなかった、
後醍院宗重だ
後醍院宗重だ
167人間七七四年
2022/05/03(火) 11:40:15.49ID:y3cn3XZq168人間七七四年
2022/05/04(水) 17:34:58.60ID:Rtv2PDY4 慶長二十年五月十一日、高力摂津守忠房は命ぜられて、和泉国に入って大阪の残党を捜索した。
高木筑後守正次、山田十太夫重利を監使として、和州の諸将である桑山、別所、松倉等が相共に探った。
大阪の城兵であった山川帯刀賢信、北川治郎兵衛宣勝は、八幡の瀧本坊に忍んでいたが、
同十二日、かの山に落人が隠れているという風聞ががあったため、秋元但馬守泰朝に命じて尋ね捜させた。
この時、山本、北側の両人は、瀧本坊の法印に申した
「御詮議が有った場合、これに言い訳することも出来ないでしょう。なので我ら両人は罷り出で、切腹仕ります。」
これに対して法印は
「もし幕府からのお尋ねが在れば、『一宿は致させましたが、その後は何処へ参ったのか存じません。』と
申し上げます。その上でのお計らい次第にすべきであり、返す返すも両人とも、切腹のことは思い止まって下さい。」
そう申したため、山川、北川らはすぐに逐電した。しかしこれによって幕府方は瀧本坊を捕え、
板倉伊賀守(勝重)の元に召し籠められた
或る本に、同十七日、山川帯刀、北川治郎兵衛は本能寺へ来て、
「我ら両人は大阪の落人であり、先に瀧本坊の所に隠れ居たのだが、かの僧が京都に生け捕られたと承った。
願わくば我ら両人が死刑に遭い、瀧本坊の赦免を乞い奉る!」
そのように言い、この旨は本能寺より京都所司代へ訴えられた。
この時、本多上野介(正純)が大御所(徳川家康)に対し、「訴え出てきた落人を、何方へか召し預ける
べきでしょうか」と窺った所、仰せに
「義を知って出てきた者に、何ぞ事あらんや。」
と、そのまま本能寺に差し置かれた。
その後、大御所は「両人の者共は、大阪にて良い茶を呑みつけただろうから、寺で出される質の悪い茶には
迷惑するであろう。この茶を取らせよ。」と仰せられ、手づから正純へ遣わされた。正純はこの茶を
御使の何某に渡し、何某は受取ってかの寺へ行って、山川、北川の両人に
「すぐに切腹が仰せ付けられるだろう。その心得あるべし。」と、上意の趣を言い渡したが、
その後、大阪の様子、並びに国大名、大身小身に寄らず、心を通じた者は無かったかと尋ねたが、両人は
「それがしは外様者故、何も存じません。」
と答えた。
そのため使いの者は、「左様に申し上げたい事だが、上様にそのような返答は罷りならない。
一ヶ条であっても申し上げられるべし。」と言ったが、両人は重ねて
「されど存ぜぬことは、申されません。」と言った。
上使は又言った「両人の事をそれがしが能きように執り成すので、私の言う通り申し上げられよ。」
これに山川帯刀は立腹して「豊臣家滅亡の上は、頼り入りたい事はこれ無し!然るを、
人も頼まぬことを取り持ちたがる人、私はその方を頼む人を取り持ってやろう!」
そう言って様々に悪口したため、上使も大いに怒り、「さらばその通りを言上すべし!」と申し、
立ち返って大御所へ一々に申し上げ、散々に悪く言った。
ところが家康公は聞かぬ御顔にて、
「彼ら両人は、大阪に於いて勇者と呼ばれた者達だ。一度知らぬと申し出たのを、重ねて問うことがあるか!」
と、使いの者を強く叱りつけた。
かの両人には切腹を仰せ付けられるべしとの御沙汰であったのだが、如何なる事か、八月三日、還御の時に
御赦免あって、両人共に京都に住んだが、翌年、大御所が薨去されると、同年八月、京都の浪人払のため、
山川帯刀は平戸に、北川治郎兵衛は大村へ遣わされたという。
(新東鑑)
高木筑後守正次、山田十太夫重利を監使として、和州の諸将である桑山、別所、松倉等が相共に探った。
大阪の城兵であった山川帯刀賢信、北川治郎兵衛宣勝は、八幡の瀧本坊に忍んでいたが、
同十二日、かの山に落人が隠れているという風聞ががあったため、秋元但馬守泰朝に命じて尋ね捜させた。
この時、山本、北側の両人は、瀧本坊の法印に申した
「御詮議が有った場合、これに言い訳することも出来ないでしょう。なので我ら両人は罷り出で、切腹仕ります。」
これに対して法印は
「もし幕府からのお尋ねが在れば、『一宿は致させましたが、その後は何処へ参ったのか存じません。』と
申し上げます。その上でのお計らい次第にすべきであり、返す返すも両人とも、切腹のことは思い止まって下さい。」
そう申したため、山川、北川らはすぐに逐電した。しかしこれによって幕府方は瀧本坊を捕え、
板倉伊賀守(勝重)の元に召し籠められた
或る本に、同十七日、山川帯刀、北川治郎兵衛は本能寺へ来て、
「我ら両人は大阪の落人であり、先に瀧本坊の所に隠れ居たのだが、かの僧が京都に生け捕られたと承った。
願わくば我ら両人が死刑に遭い、瀧本坊の赦免を乞い奉る!」
そのように言い、この旨は本能寺より京都所司代へ訴えられた。
この時、本多上野介(正純)が大御所(徳川家康)に対し、「訴え出てきた落人を、何方へか召し預ける
べきでしょうか」と窺った所、仰せに
「義を知って出てきた者に、何ぞ事あらんや。」
と、そのまま本能寺に差し置かれた。
その後、大御所は「両人の者共は、大阪にて良い茶を呑みつけただろうから、寺で出される質の悪い茶には
迷惑するであろう。この茶を取らせよ。」と仰せられ、手づから正純へ遣わされた。正純はこの茶を
御使の何某に渡し、何某は受取ってかの寺へ行って、山川、北川の両人に
「すぐに切腹が仰せ付けられるだろう。その心得あるべし。」と、上意の趣を言い渡したが、
その後、大阪の様子、並びに国大名、大身小身に寄らず、心を通じた者は無かったかと尋ねたが、両人は
「それがしは外様者故、何も存じません。」
と答えた。
そのため使いの者は、「左様に申し上げたい事だが、上様にそのような返答は罷りならない。
一ヶ条であっても申し上げられるべし。」と言ったが、両人は重ねて
「されど存ぜぬことは、申されません。」と言った。
上使は又言った「両人の事をそれがしが能きように執り成すので、私の言う通り申し上げられよ。」
これに山川帯刀は立腹して「豊臣家滅亡の上は、頼り入りたい事はこれ無し!然るを、
人も頼まぬことを取り持ちたがる人、私はその方を頼む人を取り持ってやろう!」
そう言って様々に悪口したため、上使も大いに怒り、「さらばその通りを言上すべし!」と申し、
立ち返って大御所へ一々に申し上げ、散々に悪く言った。
ところが家康公は聞かぬ御顔にて、
「彼ら両人は、大阪に於いて勇者と呼ばれた者達だ。一度知らぬと申し出たのを、重ねて問うことがあるか!」
と、使いの者を強く叱りつけた。
かの両人には切腹を仰せ付けられるべしとの御沙汰であったのだが、如何なる事か、八月三日、還御の時に
御赦免あって、両人共に京都に住んだが、翌年、大御所が薨去されると、同年八月、京都の浪人払のため、
山川帯刀は平戸に、北川治郎兵衛は大村へ遣わされたという。
(新東鑑)
169人間七七四年
2022/05/04(水) 21:24:12.40ID:/7YhvoxA 「薩藩旧伝集」から
後醍院宗重、関ヶ原にて
・惟新様(島津義弘)は、関ヶ原合戦で味方が敗軍いたしたため御戦死を決意なされた。
しかしいろいろ諌め申し上げて、落ち延びることになった。
しかしどの方角に落ち延びたら良かろうとなった時、後醍院喜兵衛宗重が申し上げたことには
「おっつけ、内府公(家康)は陣場を移動されるでしょうから、その陣頭を突っ切って伊勢路へ落ち延びるべきかと思います」
その言葉にたがわず、内府公は陣場を大谷刑部殿の陣場に移動し始めたので、その陣頭を突っ切って、伊勢路へ落ち延びることができたということだ。
・惟新公が関ヶ原から落ち延びる時、城中の敵にむかって後醍院喜兵衛は
「島津兵庫頭(義弘)、ただいままかり通る!」と声高に申し上げた。
惟新様をはじめみなが「そのようなことを申すな!」と言ったところ
喜兵衛「このようにいえば、皆必死になるので強みが増すでしょう」と答えたということだ。
これについては後醍院ではなく薬丸壱岐(兼成)が言ったという説もある。
それによれば薬丸壱岐殿は伊賀上野の敵城下にて「兵庫頭ただいままかり通る!」と声高に申したため、
「壱岐は厄介者だから後からついてこい」と言われてしまい、列から追い出され、後からついていくことになったという。
上野城ならば敵も少し出てきて戦ったことだろう。
後半は似た話が前に出ていた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4775.html
1600年、伊賀山中にて
後醍院宗重、関ヶ原にて
・惟新様(島津義弘)は、関ヶ原合戦で味方が敗軍いたしたため御戦死を決意なされた。
しかしいろいろ諌め申し上げて、落ち延びることになった。
しかしどの方角に落ち延びたら良かろうとなった時、後醍院喜兵衛宗重が申し上げたことには
「おっつけ、内府公(家康)は陣場を移動されるでしょうから、その陣頭を突っ切って伊勢路へ落ち延びるべきかと思います」
その言葉にたがわず、内府公は陣場を大谷刑部殿の陣場に移動し始めたので、その陣頭を突っ切って、伊勢路へ落ち延びることができたということだ。
・惟新公が関ヶ原から落ち延びる時、城中の敵にむかって後醍院喜兵衛は
「島津兵庫頭(義弘)、ただいままかり通る!」と声高に申し上げた。
惟新様をはじめみなが「そのようなことを申すな!」と言ったところ
喜兵衛「このようにいえば、皆必死になるので強みが増すでしょう」と答えたということだ。
これについては後醍院ではなく薬丸壱岐(兼成)が言ったという説もある。
それによれば薬丸壱岐殿は伊賀上野の敵城下にて「兵庫頭ただいままかり通る!」と声高に申したため、
「壱岐は厄介者だから後からついてこい」と言われてしまい、列から追い出され、後からついていくことになったという。
上野城ならば敵も少し出てきて戦ったことだろう。
後半は似た話が前に出ていた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4775.html
1600年、伊賀山中にて
170人間七七四年
2022/05/05(木) 22:36:45.19ID:2DXCFnUB 「薩藩旧伝集」には後醍院が伊勢路を選んだ理由について
「いつも箱に入れて持っていた大黒様が伊勢路を向いていたから」
という話もある
「薩藩旧伝集」より後醍院宗重の息子たち
後醍院喜兵衛、入道して淡斎は文禄の役後から島津家に仕えていた。
(相良→島津→佐々→小西→島津のようだが)
惟新様(義弘)が帖佐建昌の城下、餅井田原で鷹狩を遊ばされた時、田舎馬に乗ったみすぼらしい老人に行き当たった。
老人は殿様を見るなり馬から飛び降りおそばに参ったが、
惟新様はことのほか丁寧にご挨拶あそばされた。
老人も「御機嫌を伺いに参ろうと思っておりましたが、こうしてお目にかかれるとは」と申し上げると
惟新様は「帰る時はまたこちらに寄ろうぞ」と御意を示された。
淡斎の嫡男、高橋少三郎はそのとき惟新様のお供をしていたが、お側の衆にこの老人の名を尋ねたところ、
浜田民部左衛門入道英臨(浜田経重)である、と答えられた。
その時、少三郎は興の醒めた顔でいたが、帰宅したのち父の淡斎に対して
少三郎「かくかくというわけで、みすぼらしい身なりをした老人は太閤様にまで名が轟いていた、武辺者の浜田栄臨でありました。
あれほどの武辺者でもあのような暮らしぶりでは、我々の暮らしぶりでは御当家にとって恥といえ、とうてい出世の見込みはないでしょう。
上方へ奉公に出たいと思います」と言うと
淡斎「何事もそなたの了簡次第である」
とのことだったので、少三郎は因幡鳥取に召し抱えられたと言うことだ。
なお淡斎の次男、蔵之介はというと謡(うたい)数寄で夜が白むまで謡を唄っていたため、淡斎は
「武辺者の子がかように遊芸にこるとは、なんと口惜しいことよ。
殿様(島津忠恒)は能が数寄なので、万一謡のせいでそばに召し加えられるようなことがあってはかえって迷惑だ」
と申したということだ。
「いつも箱に入れて持っていた大黒様が伊勢路を向いていたから」
という話もある
「薩藩旧伝集」より後醍院宗重の息子たち
後醍院喜兵衛、入道して淡斎は文禄の役後から島津家に仕えていた。
(相良→島津→佐々→小西→島津のようだが)
惟新様(義弘)が帖佐建昌の城下、餅井田原で鷹狩を遊ばされた時、田舎馬に乗ったみすぼらしい老人に行き当たった。
老人は殿様を見るなり馬から飛び降りおそばに参ったが、
惟新様はことのほか丁寧にご挨拶あそばされた。
老人も「御機嫌を伺いに参ろうと思っておりましたが、こうしてお目にかかれるとは」と申し上げると
惟新様は「帰る時はまたこちらに寄ろうぞ」と御意を示された。
淡斎の嫡男、高橋少三郎はそのとき惟新様のお供をしていたが、お側の衆にこの老人の名を尋ねたところ、
浜田民部左衛門入道英臨(浜田経重)である、と答えられた。
その時、少三郎は興の醒めた顔でいたが、帰宅したのち父の淡斎に対して
少三郎「かくかくというわけで、みすぼらしい身なりをした老人は太閤様にまで名が轟いていた、武辺者の浜田栄臨でありました。
あれほどの武辺者でもあのような暮らしぶりでは、我々の暮らしぶりでは御当家にとって恥といえ、とうてい出世の見込みはないでしょう。
上方へ奉公に出たいと思います」と言うと
淡斎「何事もそなたの了簡次第である」
とのことだったので、少三郎は因幡鳥取に召し抱えられたと言うことだ。
なお淡斎の次男、蔵之介はというと謡(うたい)数寄で夜が白むまで謡を唄っていたため、淡斎は
「武辺者の子がかように遊芸にこるとは、なんと口惜しいことよ。
殿様(島津忠恒)は能が数寄なので、万一謡のせいでそばに召し加えられるようなことがあってはかえって迷惑だ」
と申したということだ。
171人間七七四年
2022/05/05(木) 22:39:45.94ID:2DXCFnUB そんな蔵之介であったが、
慶長五年の関ヶ原合戦から六年目、惟新様七十歳の時、吉野で御馬追が行われることになった。
特別に二才(にせ)衆には異様の姿でまかり出ることが許されたため、鹿児島の二才衆がおもいおもいの格好で馬に乗りまかり出る中、
後醍院蔵之介だけは野袴で馬にも乗らずに出てきた。
二才衆は「あの髪と身なりをみろよ」と皆々笑った。
さて吉野で本礼落とし(競馬?)の時、蔵之介は袂から食べ物を取り出し馬に食わせ、さっと馬に飛び乗り二つ三つうちこむと真っ先に駆け出した。
その時「さてもさても淡斎の子だけはある」と皆々が申した。
惟新様も本礼落としをなさったそうだ。
慶長五年の関ヶ原合戦から六年目、惟新様七十歳の時、吉野で御馬追が行われることになった。
特別に二才(にせ)衆には異様の姿でまかり出ることが許されたため、鹿児島の二才衆がおもいおもいの格好で馬に乗りまかり出る中、
後醍院蔵之介だけは野袴で馬にも乗らずに出てきた。
二才衆は「あの髪と身なりをみろよ」と皆々笑った。
さて吉野で本礼落とし(競馬?)の時、蔵之介は袂から食べ物を取り出し馬に食わせ、さっと馬に飛び乗り二つ三つうちこむと真っ先に駆け出した。
その時「さてもさても淡斎の子だけはある」と皆々が申した。
惟新様も本礼落としをなさったそうだ。
172人間七七四年
2022/05/07(土) 18:21:40.53ID:vcsZqKO6 慶長二十年五月二十日、大野修理亮(治長)の重臣で、大阪落城後捕えられた米村権右衛門が
召し出され、大阪城中に貯えた金銀についての巨細を尋ねられた。米村は、知らないという事を
申したが、これを聞いた奉行は「汝は修理亮の寵士である。どうして知らないという事があるか!」
と罵った。
それまで米村は稽首(頭を深くたれて地につけること)していたが、この言葉を聞くや額を上げ、
「これは御奉行の言葉とも覚えぬものかな!それがしは卑賎であったのを、主人の憐れみを以て、
士の中に入れて頂いた(別記に、米村は大野治長の草履取りだったとも言われる)。
その主人は大阪に在って、軍陣の成敗を執られていた以上、運命の存亡をこそ朝夕に計り続け、
曾て金銀財貨を心とせず。これを以て下賤の者と言えども、敵を討ち首をとらんとのみ思い、
他に思慮を巡らす事はなかった。これによって金銀財貨を見ること、芥の如し。
理を以て申せば、城中が戦に負けた時は、首領をも保つことは出来ず、千万の財貨が有ったとしても
何の役に立つだろうか。そして、もし勝軍いたせば、両将軍(家康・秀忠)の御腰の物までも皆
我らの物となり、求めずして財貨は飽き充るだろう。
言うべき旨があれば厭おうとは思わない。しかし言うべき理がないのなら、口を裂かれ
舌を抜かれても、何を述べようか!」
そう、憚る気色無く申したことを、大御所も聞き召され、「無類の剛の者なり」と、御赦免あった。
(新東鑑)
召し出され、大阪城中に貯えた金銀についての巨細を尋ねられた。米村は、知らないという事を
申したが、これを聞いた奉行は「汝は修理亮の寵士である。どうして知らないという事があるか!」
と罵った。
それまで米村は稽首(頭を深くたれて地につけること)していたが、この言葉を聞くや額を上げ、
「これは御奉行の言葉とも覚えぬものかな!それがしは卑賎であったのを、主人の憐れみを以て、
士の中に入れて頂いた(別記に、米村は大野治長の草履取りだったとも言われる)。
その主人は大阪に在って、軍陣の成敗を執られていた以上、運命の存亡をこそ朝夕に計り続け、
曾て金銀財貨を心とせず。これを以て下賤の者と言えども、敵を討ち首をとらんとのみ思い、
他に思慮を巡らす事はなかった。これによって金銀財貨を見ること、芥の如し。
理を以て申せば、城中が戦に負けた時は、首領をも保つことは出来ず、千万の財貨が有ったとしても
何の役に立つだろうか。そして、もし勝軍いたせば、両将軍(家康・秀忠)の御腰の物までも皆
我らの物となり、求めずして財貨は飽き充るだろう。
言うべき旨があれば厭おうとは思わない。しかし言うべき理がないのなら、口を裂かれ
舌を抜かれても、何を述べようか!」
そう、憚る気色無く申したことを、大御所も聞き召され、「無類の剛の者なり」と、御赦免あった。
(新東鑑)
173人間七七四年
2022/05/08(日) 00:48:29.51ID:xEsd93HH 薩摩藩「本藩人物志」「薩州旧伝集」から>>170の浜田経重の話
「本藩人物志」の浜田民部左衛門経重入道栄臨の記述
村田越前守経定(村田銃の開発者、村田経芳の祖先だろうか?)の附衆であったが軍功抜群のゆえ、竜伯公(島津義久)が鹿児島に召された。
秀吉公が九州に出陣された時は台聴に達し、お目見えが許され、御手槍を下賜された。
(原注:金房正次(政次?)作で一尺二寸。子孫に伝来されている)
知行五百石を拝領するよつ仰せつかったが、一年で竜伯公に返上した。
慶長十六年の竜伯公御逝去の時には殉死した十五人の一人となった。
辞世の句
二つなき、命を君に奉る こころのうちは、澄める月かな
もののふの取り伝へたる梓弓 君にひかるる、後の世までも
村田越前守の配下の時は城攻めの際、敵中や城中に忍び行って武功をあげた。
貴久公、義久公の御代まで出陣し、ことに忍びの武功があった。
「本藩人物志」の浜田民部左衛門経重入道栄臨の記述
村田越前守経定(村田銃の開発者、村田経芳の祖先だろうか?)の附衆であったが軍功抜群のゆえ、竜伯公(島津義久)が鹿児島に召された。
秀吉公が九州に出陣された時は台聴に達し、お目見えが許され、御手槍を下賜された。
(原注:金房正次(政次?)作で一尺二寸。子孫に伝来されている)
知行五百石を拝領するよつ仰せつかったが、一年で竜伯公に返上した。
慶長十六年の竜伯公御逝去の時には殉死した十五人の一人となった。
辞世の句
二つなき、命を君に奉る こころのうちは、澄める月かな
もののふの取り伝へたる梓弓 君にひかるる、後の世までも
村田越前守の配下の時は城攻めの際、敵中や城中に忍び行って武功をあげた。
貴久公、義久公の御代まで出陣し、ことに忍びの武功があった。
174人間七七四年
2022/05/08(日) 00:51:23.78ID:xEsd93HH 「薩州旧伝集」の浜田経重の話
浜田民部左衛門は吉野を通った時、猪に出くわしたので木に登って通り過ぎるのを待った。
そこへ二才衆が通りかかって猪を取り押さえ
「民部左衛門殿ほどの方がなぜそのような卑怯の真似をなさるのですか?」と笑った。
民部左衛門「この身は御用のためにあるので、猪などを取り押さえる際に怪我をしては残念ですからな」
と答えたという。
ある人が浜田民部左衛門の刀を拝見したいと言ってきたので差し出したところ、抜こうとしたが抜けなかった。
民部左衛門が自分で抜いてみると赤錆だらけだったので
ある人「これではいざという時役に立ちますまい」
と笑ったところ
民部左衛門「そうですね。しかし戦というものは急には起きないものです。数十日の間がありますのでそのうちに研ぎましょう。
それに武士というものは喧嘩などしないものです。万一刀が必要なことがあれば、わたしは相手を鞘のまま叩き殺しましょう。
あなたは研いでいた方がいいでしょうが」
と答えたため、相手は閉口してしまったという。
浜田民部左衛門は吉野を通った時、猪に出くわしたので木に登って通り過ぎるのを待った。
そこへ二才衆が通りかかって猪を取り押さえ
「民部左衛門殿ほどの方がなぜそのような卑怯の真似をなさるのですか?」と笑った。
民部左衛門「この身は御用のためにあるので、猪などを取り押さえる際に怪我をしては残念ですからな」
と答えたという。
ある人が浜田民部左衛門の刀を拝見したいと言ってきたので差し出したところ、抜こうとしたが抜けなかった。
民部左衛門が自分で抜いてみると赤錆だらけだったので
ある人「これではいざという時役に立ちますまい」
と笑ったところ
民部左衛門「そうですね。しかし戦というものは急には起きないものです。数十日の間がありますのでそのうちに研ぎましょう。
それに武士というものは喧嘩などしないものです。万一刀が必要なことがあれば、わたしは相手を鞘のまま叩き殺しましょう。
あなたは研いでいた方がいいでしょうが」
と答えたため、相手は閉口してしまったという。
175人間七七四年
2022/05/08(日) 12:49:48.35ID:bHdxuNpE 村田銃といえばゴールデンカムイでマタギが使ってたっけ
177人間七七四年
2022/05/09(月) 15:47:05.98ID:rDukSbJM 薩摩といえば強姦婚
178人間七七四年
2022/05/09(月) 16:03:41.70ID:AbK5L8LX 「薩州旧伝集」から押川強兵衛(押川公近、浜田経重の娘婿)の話
あるとき、押川強兵衛はじめ多くの者が疲労のために野外でしばらく寝ることにした。
番をしていた者が寝ている者の陰嚢を探ったところ、たいていは縮みこんでいた。
強兵衛は高いびきをかいて寝ていたが、「強兵衛は剛強の人だからどんなものだろう」と探ったところ、硬くなってなかったため
さすがは勇強の人である、と感心したということだ
なお薩摩藩「本藩人物志」によれば押川公近の活躍として
関ヶ原後に伊吹山に島津兵二百人で籠り、公近と浜田主水(浜田経重の息子)が食糧を確保して皆に配った。
そののち石田三成からもらった黄金を隠して落ち延びようとしたところを捕らえられたが、島津と親しい山口直友により救助され、大小の刀を貰った。
そしてこっそり直友の屋敷から丸腰で出立し、隠していた黄金を取った後、疲労のため道端のお堂で眠った。
睡眠中、鰐口の音に気づき起きると、大脇差の男が斬りかかってきたため、その刀を奪い、男の首を切り落とし、京都に行き近衛様の屋敷に駆け込んだ。
帰国後、三虚空蔵参りの名目で島津豊久の行方や諸国情勢を探った。
そののち帰国後、桐野九郎左衛門(桐野利秋の先祖)の案内で平田増宗(琉球征伐の副将)を上意に従い暗殺した。
といったことが書かれている
あるとき、押川強兵衛はじめ多くの者が疲労のために野外でしばらく寝ることにした。
番をしていた者が寝ている者の陰嚢を探ったところ、たいていは縮みこんでいた。
強兵衛は高いびきをかいて寝ていたが、「強兵衛は剛強の人だからどんなものだろう」と探ったところ、硬くなってなかったため
さすがは勇強の人である、と感心したということだ
なお薩摩藩「本藩人物志」によれば押川公近の活躍として
関ヶ原後に伊吹山に島津兵二百人で籠り、公近と浜田主水(浜田経重の息子)が食糧を確保して皆に配った。
そののち石田三成からもらった黄金を隠して落ち延びようとしたところを捕らえられたが、島津と親しい山口直友により救助され、大小の刀を貰った。
そしてこっそり直友の屋敷から丸腰で出立し、隠していた黄金を取った後、疲労のため道端のお堂で眠った。
睡眠中、鰐口の音に気づき起きると、大脇差の男が斬りかかってきたため、その刀を奪い、男の首を切り落とし、京都に行き近衛様の屋敷に駆け込んだ。
帰国後、三虚空蔵参りの名目で島津豊久の行方や諸国情勢を探った。
そののち帰国後、桐野九郎左衛門(桐野利秋の先祖)の案内で平田増宗(琉球征伐の副将)を上意に従い暗殺した。
といったことが書かれている
179人間七七四年
2022/05/09(月) 17:06:39.50ID:AbK5L8LX 最初読んだ時、「鰐口の音」は刀を抜いた時の「鯉口の音」とか「鍔の音」の間違いかと思ったけど
目を覚ますほどの音はしないから、お寺のお堂だし「鰐口の音」でいいはず
目を覚ますほどの音はしないから、お寺のお堂だし「鰐口の音」でいいはず
180人間七七四年
2022/05/09(月) 20:37:22.33ID:tcJFYPPt 或る本に、大野修理亮(治長)の娘は天樹院殿(千姫)に召し仕え、大野修理亮の重臣である
米村権右衛門の娘は、この大野の娘に仕えた。
大阪夏の陣後、米村が浪人した後に、折々(千姫の)御屋鋪へ行くと、衣服、黄金等の拝領物などがあった。
然るに、治長の娘が病を煩い、「生きているうちに、寺詣など致して相果てたい」との願いにより、
御暇を下され、その上に米村権右衛門を召され、
「その方が召し連れ罷り上がり、隨分に養生を致させよ。」
と、関所手形。道中の雑用等も潤沢に給わり、自身の娘とともに供して京に上がり、様々に養生を
なしたのであるが、終に相果てた。
故に火葬としたのであるが、この時権右衛門が妙心寺の方へ行っている間に、彼の娘が治長の娘を
焼く火の中に飛び入り、棺に抱きついて焼死した。
権右衛門は帰ってきて大いに驚いたが、為す術もなく、そのような状況だったので主従の骨を
分けることも出来ず、一所にして高野山へ持ち登り、骨堂に納めた。そして剃髪して自ら権入と
名を改め、京都妙心寺の内、嶺南和尚に随事し、その後江戸に下り、芝の東禅寺に在って掃除などしていた。
ある日、沢庵和尚と嶺南和尚が同道し、浅野因幡守長治(長晟二男)に招かれたのだが、沢庵曰く
「御亭主には随分の人数を持たれていますが、嶺南和尚の持たれているような人は無いでしょう。」
と言った。長治は聞いて「そては何と申す人でしょうか。」と「尋ねると。
沢庵答えて
「大野修理が家老・米村権右衛門と申す者です。かの者は修理の配所への供をも相勤め、関ヶ原合戦の砌、
宇喜多中納言(秀家)家来・高知七郎右衛門と申す者を組み討ちに致し、その後大阪冬陣で御和談の折、
織田有楽、大野修理亮方へ、交渉のため物を心得た侍を一人づつ出すようにとあった時、有楽よりは村田吉蔵、
そして修理よりは彼を出しました。彼は度々城中より出て交渉を行い、御和談が成立すると、茶臼山の
御陣所において、大御所(徳川家康)に御目見得仕り、殊の外御賞美に預かりました。
現在は武士を止め、嶺南和尚の方に罷り有ります。」
これに長治
「その権右衛門は世間に隠れ無き者です。拙者、彼を召し抱えたく思います。修理方での知行は
いかほどであったかご存知ないでしょうか。」
これに両和尚共に、「先知は二百石であったと聞き及んでおります」とあり、因幡守は
「では四百石遣わし申すべし。」と言うと、沢庵は「どうしても、五百石を遣わされるべきです。」
と申した。これに対し
「五百石という知行については。少々差し合い申す仔細もあります、その代わりに足軽を
預けましょう。又、彼は今道心者の体でありますから、腰刀も無いでしょう。
私は、もう月末ではありますが、当年の物成を支度料として遣わしましょう。」
これによって米村は、終に浅野長治の家来と成った。
(新東鑑)
米村権右衛門の娘は、この大野の娘に仕えた。
大阪夏の陣後、米村が浪人した後に、折々(千姫の)御屋鋪へ行くと、衣服、黄金等の拝領物などがあった。
然るに、治長の娘が病を煩い、「生きているうちに、寺詣など致して相果てたい」との願いにより、
御暇を下され、その上に米村権右衛門を召され、
「その方が召し連れ罷り上がり、隨分に養生を致させよ。」
と、関所手形。道中の雑用等も潤沢に給わり、自身の娘とともに供して京に上がり、様々に養生を
なしたのであるが、終に相果てた。
故に火葬としたのであるが、この時権右衛門が妙心寺の方へ行っている間に、彼の娘が治長の娘を
焼く火の中に飛び入り、棺に抱きついて焼死した。
権右衛門は帰ってきて大いに驚いたが、為す術もなく、そのような状況だったので主従の骨を
分けることも出来ず、一所にして高野山へ持ち登り、骨堂に納めた。そして剃髪して自ら権入と
名を改め、京都妙心寺の内、嶺南和尚に随事し、その後江戸に下り、芝の東禅寺に在って掃除などしていた。
ある日、沢庵和尚と嶺南和尚が同道し、浅野因幡守長治(長晟二男)に招かれたのだが、沢庵曰く
「御亭主には随分の人数を持たれていますが、嶺南和尚の持たれているような人は無いでしょう。」
と言った。長治は聞いて「そては何と申す人でしょうか。」と「尋ねると。
沢庵答えて
「大野修理が家老・米村権右衛門と申す者です。かの者は修理の配所への供をも相勤め、関ヶ原合戦の砌、
宇喜多中納言(秀家)家来・高知七郎右衛門と申す者を組み討ちに致し、その後大阪冬陣で御和談の折、
織田有楽、大野修理亮方へ、交渉のため物を心得た侍を一人づつ出すようにとあった時、有楽よりは村田吉蔵、
そして修理よりは彼を出しました。彼は度々城中より出て交渉を行い、御和談が成立すると、茶臼山の
御陣所において、大御所(徳川家康)に御目見得仕り、殊の外御賞美に預かりました。
現在は武士を止め、嶺南和尚の方に罷り有ります。」
これに長治
「その権右衛門は世間に隠れ無き者です。拙者、彼を召し抱えたく思います。修理方での知行は
いかほどであったかご存知ないでしょうか。」
これに両和尚共に、「先知は二百石であったと聞き及んでおります」とあり、因幡守は
「では四百石遣わし申すべし。」と言うと、沢庵は「どうしても、五百石を遣わされるべきです。」
と申した。これに対し
「五百石という知行については。少々差し合い申す仔細もあります、その代わりに足軽を
預けましょう。又、彼は今道心者の体でありますから、腰刀も無いでしょう。
私は、もう月末ではありますが、当年の物成を支度料として遣わしましょう。」
これによって米村は、終に浅野長治の家来と成った。
(新東鑑)
181人間七七四年
2022/05/09(月) 22:08:23.88ID:V0Qof8cd 槐記より秀吉の話
享保九年 九月七日の日記
太閤秀吉、ある狩りの帰りに供廻りの者たちを御上覧に入れようとて、南門の前を通る許しを願い出た。お許しあって、その日南門を開いて上覧された。三藐院殿(近衛信尹)もその時お出でであったので、秀吉一行の装束の細部まで残さず記録なされた。供廻りの人数の夥しいことは言うまでもなかったが、まず先手の者たち、鶴百羽を青竹に結び付けて二列に並び、続いて雁二百羽を同じようにといったふうに、上覧に供するために甚だ華美に興行されていると見えた。家康をはじめとする騎馬の士は、みな鷹を手に据えて通った。秀吉は朝鮮の輿に乗って唐冠に唐服を着しハイタカを手に据えて南門の前まで来ると酒を乞われた。殿上人諸卿みな出迎えて南門の前に宴席を設けたが、秀吉の据えていたハイタカは実は作り物で、この時首を取ると中に酒肴が入っていたそうだ。太閤の物数寄はかようなものであった。
享保九年 九月七日の日記
太閤秀吉、ある狩りの帰りに供廻りの者たちを御上覧に入れようとて、南門の前を通る許しを願い出た。お許しあって、その日南門を開いて上覧された。三藐院殿(近衛信尹)もその時お出でであったので、秀吉一行の装束の細部まで残さず記録なされた。供廻りの人数の夥しいことは言うまでもなかったが、まず先手の者たち、鶴百羽を青竹に結び付けて二列に並び、続いて雁二百羽を同じようにといったふうに、上覧に供するために甚だ華美に興行されていると見えた。家康をはじめとする騎馬の士は、みな鷹を手に据えて通った。秀吉は朝鮮の輿に乗って唐冠に唐服を着しハイタカを手に据えて南門の前まで来ると酒を乞われた。殿上人諸卿みな出迎えて南門の前に宴席を設けたが、秀吉の据えていたハイタカは実は作り物で、この時首を取ると中に酒肴が入っていたそうだ。太閤の物数寄はかようなものであった。
182人間
2022/05/10(火) 21:03:38.91ID:XPxiA+Ql 槐記の享保十年九月十六日の記事から 秀吉と曾呂利の話
進藤夕翁(泰通)の話に、太閤秀吉天下一統ののち、西明寺殿(北条時頼)をまねて日本廻国を思い立ち、側近たちにひそかに語った。側近たちが「あきれたことだが、日ごろの御気性では止めたとてお聞き入れあるまい」と陰で噂しているのが四人衆の耳に入った。丹羽五郎左衛門(原文七郎左衛門)などはどうにかして止めようと思ったが手立てがなかった。時に曾呂利という冗談のうまい奇人がいて、太閤の気に入りだった。五郎左衛門はこの男に「太閤殿下が日本廻国を思い立たれたが、お前が見事止めおおせればこの上ない忠勤であるぞ」と頼み込むと、「心得ました。折を見て申し上げましょう」と曽呂利は請け合った。
ある時、曽呂利が御前に出たときに、「何か変わったことはないか」と問われると、答えて、「最近変わったことといえば、この頃以ての外に博奕が流行っております。東国からも西国からも、都下に大勢人が集まって、そこここで賭場を開いては勝負を争っております。近頃、東国と西国との勝負を一気につけようと、清滝のあたりに集まっているところへ、旅人と見える山伏のどこからともなく現れて勝負を見物しておりました。
少しして『私も人数に加え給え。一勝負いたそう』と山伏が言うと、親分衆これを聞いて『まずは元手をお見せなさい』と言う。山伏、『元手には及ぶまい。諸君らの如き下手を相手にすれば、座中の賭金はすべて我が物となろうが、いくらかは元手も懐中している』と金三百両を出してこれを質として勝負しました。言葉に違わず山伏は大いに勝ちまくって座中の金をことごとく巻き上げてしまいました。東西の親分衆、腰を抜かすほど驚いて『あなたはどこの国の方ですか』と問うと、『俺はこの山麓に住まう、天下を思いのままにする博奕の大親分だ。侮るまいぞ』と言えば、座中の者みな再拝稽首します。
さらに山伏語っていわく、『博奕に限らず、俺は天地をひとつかみにし、山川を自在に操り、高からんと欲せばこの愛宕山頂と頭を並べ、長からんと欲せばそこの君の東国よりそちらの君の西国に届くまで長くなる。大ならんと欲せば天地に充満し、小ならんと欲せば煮豆ほどに小さくなる』と語りますと、一人進み出て、『さてさて世にも稀な話です。何としても煎り豆ほどになるのを見たいものでございます』と乞うと、一瞬のうちに煎り豆となったところを取って口に入れ、ポリポリとかみ砕き、『これで一安心だ』と喜んだということでございます」と語った。
秀吉大いに感心して、「さてさて、汝は愛い奴じゃ。余が近頃廻国を思い立ったことを聞いて諫めたのだな。お前の言うこともっともである。余は天下を有しているといえども、天下人の位にあってその職を守ればこそ安んじていられるが、身一つでいては思いもよらぬ目に会わぬとも限らぬ」と思い止まられたということです。
この話の虚実はともかく、甚だ美談であると、水戸黄門の儒官のなにがしの著わした曽呂利の伝記に載せてあります、近いうちにお目にかけましょうと夕翁が申し上げた。
進藤夕翁(泰通)の話に、太閤秀吉天下一統ののち、西明寺殿(北条時頼)をまねて日本廻国を思い立ち、側近たちにひそかに語った。側近たちが「あきれたことだが、日ごろの御気性では止めたとてお聞き入れあるまい」と陰で噂しているのが四人衆の耳に入った。丹羽五郎左衛門(原文七郎左衛門)などはどうにかして止めようと思ったが手立てがなかった。時に曾呂利という冗談のうまい奇人がいて、太閤の気に入りだった。五郎左衛門はこの男に「太閤殿下が日本廻国を思い立たれたが、お前が見事止めおおせればこの上ない忠勤であるぞ」と頼み込むと、「心得ました。折を見て申し上げましょう」と曽呂利は請け合った。
ある時、曽呂利が御前に出たときに、「何か変わったことはないか」と問われると、答えて、「最近変わったことといえば、この頃以ての外に博奕が流行っております。東国からも西国からも、都下に大勢人が集まって、そこここで賭場を開いては勝負を争っております。近頃、東国と西国との勝負を一気につけようと、清滝のあたりに集まっているところへ、旅人と見える山伏のどこからともなく現れて勝負を見物しておりました。
少しして『私も人数に加え給え。一勝負いたそう』と山伏が言うと、親分衆これを聞いて『まずは元手をお見せなさい』と言う。山伏、『元手には及ぶまい。諸君らの如き下手を相手にすれば、座中の賭金はすべて我が物となろうが、いくらかは元手も懐中している』と金三百両を出してこれを質として勝負しました。言葉に違わず山伏は大いに勝ちまくって座中の金をことごとく巻き上げてしまいました。東西の親分衆、腰を抜かすほど驚いて『あなたはどこの国の方ですか』と問うと、『俺はこの山麓に住まう、天下を思いのままにする博奕の大親分だ。侮るまいぞ』と言えば、座中の者みな再拝稽首します。
さらに山伏語っていわく、『博奕に限らず、俺は天地をひとつかみにし、山川を自在に操り、高からんと欲せばこの愛宕山頂と頭を並べ、長からんと欲せばそこの君の東国よりそちらの君の西国に届くまで長くなる。大ならんと欲せば天地に充満し、小ならんと欲せば煮豆ほどに小さくなる』と語りますと、一人進み出て、『さてさて世にも稀な話です。何としても煎り豆ほどになるのを見たいものでございます』と乞うと、一瞬のうちに煎り豆となったところを取って口に入れ、ポリポリとかみ砕き、『これで一安心だ』と喜んだということでございます」と語った。
秀吉大いに感心して、「さてさて、汝は愛い奴じゃ。余が近頃廻国を思い立ったことを聞いて諫めたのだな。お前の言うこともっともである。余は天下を有しているといえども、天下人の位にあってその職を守ればこそ安んじていられるが、身一つでいては思いもよらぬ目に会わぬとも限らぬ」と思い止まられたということです。
この話の虚実はともかく、甚だ美談であると、水戸黄門の儒官のなにがしの著わした曽呂利の伝記に載せてあります、近いうちにお目にかけましょうと夕翁が申し上げた。
183人間七七四年
2022/05/12(木) 18:00:36.77ID:cmrYwXvY 浅野因幡守長治の家来と成った米村権右衛門は、八十有余の年齢に及ぶまで相勤めていたが、
家中に槇尾又兵衛という町奉行役があった。この者は、元は故薄田隼人正(兼相)の近習で、
利発なる者故、因幡守が目をかけて使われていた。
ある時、長治が大阪落城の時、天樹院殿(千姫)が城中を出給いし折の事をお尋ねになった所、
槇尾又兵衛承り、世上にて取り沙汰されている通り、「本来秀頼と御一所にあるべきはずなるを、
御女儀とは申しながら、甲斐なき御事であると、その頃より申し触られています。」と言った。
程過ぎてから米村権右衛門はこの話を聞いて大いに怒り、家内の諸道具までも悉く取り片付け、
その上でこのように訴え出た
「槇尾又兵衛について、去る頃、御前において天樹院様の御噂を申したと承りました。
城中を御出遊ばされた事は、豊臣公御母子助命の儀をお願い下さるようにと、大野修理亮がたって
申し上げた故であります。又兵衛が申す内容では、天樹院様に悪名を取らせます。またそのようでは、
修理亮の身にとっても大いに迷惑仕ります。
然し乍らこのような片田舎に於いて、又兵衛を相手にして裁許に預かったとしても、世上への申し訳には
なりません。
そこで、私は御暇を頂き、江戸表に参り、公儀に相願い、天樹院様恥辱の申し訳を仕らなければ、
故主である修理亮への奉公も相立ちません!」
これに、家老の山田監物、矢島若狭も大いに難儀し、内々にて様々に説得したが、米村は得心しなかった。
このため因幡守にこの事を申し上げると、因幡守は槇尾又兵衛を内々に召して
「その方の故主である隼人正は六日に討ち死にし、その家来は同日晩方に城中を立ち退いたという。
然れば、天樹院殿の儀は七日の事であるから、お前は定めて、世上一統の取り沙汰を申したに過ぎないだろう。
その方は如才無く気が利いているのだから、米村権右衛門へそれについて断りを申して合点致させ、
内々に事を済ませるのがこの方の為なのだから、宜しく取り計らうように。」
とあった故に、又兵衛は米村に対し
「近頃、無調法の至り、迷惑を仕らせました。」
との事を述べて謝罪し、米村もこれにて堪忍したという。
(新東鑑)
家中に槇尾又兵衛という町奉行役があった。この者は、元は故薄田隼人正(兼相)の近習で、
利発なる者故、因幡守が目をかけて使われていた。
ある時、長治が大阪落城の時、天樹院殿(千姫)が城中を出給いし折の事をお尋ねになった所、
槇尾又兵衛承り、世上にて取り沙汰されている通り、「本来秀頼と御一所にあるべきはずなるを、
御女儀とは申しながら、甲斐なき御事であると、その頃より申し触られています。」と言った。
程過ぎてから米村権右衛門はこの話を聞いて大いに怒り、家内の諸道具までも悉く取り片付け、
その上でこのように訴え出た
「槇尾又兵衛について、去る頃、御前において天樹院様の御噂を申したと承りました。
城中を御出遊ばされた事は、豊臣公御母子助命の儀をお願い下さるようにと、大野修理亮がたって
申し上げた故であります。又兵衛が申す内容では、天樹院様に悪名を取らせます。またそのようでは、
修理亮の身にとっても大いに迷惑仕ります。
然し乍らこのような片田舎に於いて、又兵衛を相手にして裁許に預かったとしても、世上への申し訳には
なりません。
そこで、私は御暇を頂き、江戸表に参り、公儀に相願い、天樹院様恥辱の申し訳を仕らなければ、
故主である修理亮への奉公も相立ちません!」
これに、家老の山田監物、矢島若狭も大いに難儀し、内々にて様々に説得したが、米村は得心しなかった。
このため因幡守にこの事を申し上げると、因幡守は槇尾又兵衛を内々に召して
「その方の故主である隼人正は六日に討ち死にし、その家来は同日晩方に城中を立ち退いたという。
然れば、天樹院殿の儀は七日の事であるから、お前は定めて、世上一統の取り沙汰を申したに過ぎないだろう。
その方は如才無く気が利いているのだから、米村権右衛門へそれについて断りを申して合点致させ、
内々に事を済ませるのがこの方の為なのだから、宜しく取り計らうように。」
とあった故に、又兵衛は米村に対し
「近頃、無調法の至り、迷惑を仕らせました。」
との事を述べて謝罪し、米村もこれにて堪忍したという。
(新東鑑)
184人間七七四年
2022/05/13(金) 16:58:04.81ID:uwclWyl4 「大友興廃記」より「信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ遣わさるる事」
永禄の末、信長公が天下の権柄を執ることとなり、威を海内に振るうこととなったため、大友宗麟公は豊後から御祝いの使者を送った。
そののち信長公から鬼月毛という名馬を豊後に遣わされることとなった。
この馬は尋常の馬より遥かに長い顔で八、九寸ほどあり、骨がごつごつし筋が太かった。
眼は朱を差したようで、いつも怒り、常にいななき、歯噛みし、人にも馬にも食らいつくようだったので、鬼月毛と名付けられた。
宗麟公はこの馬を誰に乗らせようかと考えたところ、小笠原刑部大夫晴宗という、もともと義輝公方の侍があり、その子息で大学兵衛(大友興廃記によれば諱は晴定)というものが荒馬乗りの達人であった。
小笠原大学兵衛ではなくては乗りこなせられないだろうということで、明朝に乗ることになった。
鬼月毛は金覆輪の鞍、紅の大房に真紅の縄を八筋つけ、舎人八人が持ち、そのほかに綱を二本つけて計十人で馬場に引いてこさせた。
鬼月毛は轡を噛み切っていなないてやってきた。
宗麟公はじめ諸侍そのほか何人もが見物にやってきて見守る中、大学兵衛尉は白い小袖にかちんの上下、金ののし付きにした大小を差して、六尺あまりの巨体でゆらりと打ち乗った。
手綱、鞍、鎧などを例式のごとくにして、序盤から早駆けさせ、自在に操った。
のちには曲乗りの秘術をつくし、梯子を踏ませたり、碁盤の上に四つの蹄を縮めて立たせたり、
あるいは鞭を塀の向こう側に投げ捨て、その五丈あまりの塀を越えさせ、鞭の上をまっすぐにかけさせたりした。
宗麟公は御覧になり感じ入り、父親の晴宗方へさまざまな褒美を与えた。
鬼月毛は大学兵衛が乗りこなしたため、より速く駆けるようになり九州一の名馬となった。
日に日に見物人は多くなり、七町余の馬場を、人が四回か五回息をつけばたやすく往復するような俊足であった。
その後、馬術の上手なものが何人も挑戦したが、十人に一人か二人は腰を下ろすものの、馬が足を踏み出す前に諦めてしまい、
そのほかの八、九人は馬を見ただけで恐れて乗らなかった。
こうして大学兵衛は自由自在の御者として名誉に預かった。
厩舎別当の雄城無難は
「常の馬であれば我らとそう変わらないように見えるが、この鬼月毛ばかりは上手だけではなく力乗りでなければ乗りこなせない。
大学兵衛の力は馬よりもまさり、しかも上手のためこのように乗りこなせるのだろう」
と申したそうである。
永禄の末、信長公が天下の権柄を執ることとなり、威を海内に振るうこととなったため、大友宗麟公は豊後から御祝いの使者を送った。
そののち信長公から鬼月毛という名馬を豊後に遣わされることとなった。
この馬は尋常の馬より遥かに長い顔で八、九寸ほどあり、骨がごつごつし筋が太かった。
眼は朱を差したようで、いつも怒り、常にいななき、歯噛みし、人にも馬にも食らいつくようだったので、鬼月毛と名付けられた。
宗麟公はこの馬を誰に乗らせようかと考えたところ、小笠原刑部大夫晴宗という、もともと義輝公方の侍があり、その子息で大学兵衛(大友興廃記によれば諱は晴定)というものが荒馬乗りの達人であった。
小笠原大学兵衛ではなくては乗りこなせられないだろうということで、明朝に乗ることになった。
鬼月毛は金覆輪の鞍、紅の大房に真紅の縄を八筋つけ、舎人八人が持ち、そのほかに綱を二本つけて計十人で馬場に引いてこさせた。
鬼月毛は轡を噛み切っていなないてやってきた。
宗麟公はじめ諸侍そのほか何人もが見物にやってきて見守る中、大学兵衛尉は白い小袖にかちんの上下、金ののし付きにした大小を差して、六尺あまりの巨体でゆらりと打ち乗った。
手綱、鞍、鎧などを例式のごとくにして、序盤から早駆けさせ、自在に操った。
のちには曲乗りの秘術をつくし、梯子を踏ませたり、碁盤の上に四つの蹄を縮めて立たせたり、
あるいは鞭を塀の向こう側に投げ捨て、その五丈あまりの塀を越えさせ、鞭の上をまっすぐにかけさせたりした。
宗麟公は御覧になり感じ入り、父親の晴宗方へさまざまな褒美を与えた。
鬼月毛は大学兵衛が乗りこなしたため、より速く駆けるようになり九州一の名馬となった。
日に日に見物人は多くなり、七町余の馬場を、人が四回か五回息をつけばたやすく往復するような俊足であった。
その後、馬術の上手なものが何人も挑戦したが、十人に一人か二人は腰を下ろすものの、馬が足を踏み出す前に諦めてしまい、
そのほかの八、九人は馬を見ただけで恐れて乗らなかった。
こうして大学兵衛は自由自在の御者として名誉に預かった。
厩舎別当の雄城無難は
「常の馬であれば我らとそう変わらないように見えるが、この鬼月毛ばかりは上手だけではなく力乗りでなければ乗りこなせない。
大学兵衛の力は馬よりもまさり、しかも上手のためこのように乗りこなせるのだろう」
と申したそうである。
185人間七七四年
2022/05/14(土) 14:09:06.03ID:p90IDzup (氏家内膳(行広)とその子三兄弟の切腹の後)大御所(徳川家康)は二条城に入られたが、この時
南光坊天海は小僧を召し連れ御前に出、
「氏家内膳正は御敵を成したるに依って、その子供を殺害されたことは御理であります。
ですが、この小僧はその内膳の子(三男)でありますが、拙僧の弟子となり申しました。ですので、
一向御免下さるべし。」と言った。
家康公はこの旨を聞かれ
「氏家が主君の恩を報じる為に一命を捨てたのだから、出家させた子供に罪をかける道理はない。
心安く思うように。」
と仰せになった。
或る記に、かの小僧は南光坊天海に従って、武州東叡山に居た。その頃、東叡山寛永寺には一人の浪人が
在ったのだが、俄に狂乱し、刀を抜いて本坊へ切入った。これに児喝食は言うに及ばず、齢長けた僧も
逃げ走ったが、内膳正の三男の若僧はかの狂人を組み伏せ、抜いた刀を奪い取った。
後に、山城国愛宕山康楽寺の住持となったという。
(新東鑑)
南光坊天海は小僧を召し連れ御前に出、
「氏家内膳正は御敵を成したるに依って、その子供を殺害されたことは御理であります。
ですが、この小僧はその内膳の子(三男)でありますが、拙僧の弟子となり申しました。ですので、
一向御免下さるべし。」と言った。
家康公はこの旨を聞かれ
「氏家が主君の恩を報じる為に一命を捨てたのだから、出家させた子供に罪をかける道理はない。
心安く思うように。」
と仰せになった。
或る記に、かの小僧は南光坊天海に従って、武州東叡山に居た。その頃、東叡山寛永寺には一人の浪人が
在ったのだが、俄に狂乱し、刀を抜いて本坊へ切入った。これに児喝食は言うに及ばず、齢長けた僧も
逃げ走ったが、内膳正の三男の若僧はかの狂人を組み伏せ、抜いた刀を奪い取った。
後に、山城国愛宕山康楽寺の住持となったという。
(新東鑑)
186人間七七四年
2022/05/15(日) 18:59:32.65ID:Davxrel8 越後の大関城主に大関盛憲という人物がいた。
盛憲が青年の頃、深夜荒れ野を歩いていたところ、火葬場の荼毘の中からものを拾っては口に入れている女がいた。
髪を振り乱し、歯は黒く、鬼女かと思った盛憲が近寄ろうとしたところ、女は突然逃げ出した。
女を捕まえた盛憲が「なぜ人骨を食べるのか!」と尋ねたところ、女は「けして怪しいものではありません。荼毘の火で鉄奨(お歯黒)を温めると剥げなくなると聞いてこうしているのです」と火中からお歯黒を入れた小壺を取り出してみせた。
盛憲はその豪胆さに感じて、女を妻とした。
そして二人の間に生まれた息子を弥七と名付けた。
後の水原壱岐守親憲である。
盛憲が青年の頃、深夜荒れ野を歩いていたところ、火葬場の荼毘の中からものを拾っては口に入れている女がいた。
髪を振り乱し、歯は黒く、鬼女かと思った盛憲が近寄ろうとしたところ、女は突然逃げ出した。
女を捕まえた盛憲が「なぜ人骨を食べるのか!」と尋ねたところ、女は「けして怪しいものではありません。荼毘の火で鉄奨(お歯黒)を温めると剥げなくなると聞いてこうしているのです」と火中からお歯黒を入れた小壺を取り出してみせた。
盛憲はその豪胆さに感じて、女を妻とした。
そして二人の間に生まれた息子を弥七と名付けた。
後の水原壱岐守親憲である。
187人間七七四年
2022/05/15(日) 20:02:59.75ID:w74wCBni 越後にも強姦婚があったんやな
さすが奴隷市の開催国やで
さすが奴隷市の開催国やで
188人間七七四年
2022/05/17(火) 16:15:21.99ID:g40oUKwA 或る記に、坂崎出羽守(直盛)が将軍家を怨み参らせて、己が宿所に籠もった時、幕府の執政の人々は
相議して、出羽守の老臣の元に奉書を下して、
『汝が主人、逆乱の罪遁るるべからず、坂崎の家絶えざらん事を思わば、汝が主人に勧めて自害させよ。
さあらんに於いては、世継ぎを立てるだろう。』
という旨を下知すべしと議定した。
その時、本多上野介(正純)は人々に向かい
「誠に家老が主人に腹を切らせた場合、かの家を存続させるのか」と問うた。
人々は「どうしてかの謀反人の家を存続させるだろうか。」と答えた。
正純はこれを聞くと「然らば、その奉書を下されること、然るべからず。
坂崎出羽守の不臣を罰するために、その臣に不臣を勧めるなど、天下の下知に有るべき事とも思われず。
速やかに軍勢を差し向けて誅罰あるべきものである!
人臣への教えとすべきでは無い事を述べて、偽を行い、天下の風俗を乱すべきではない!」
そう言ったが、衆議一決しなかったため、「正純の連署叶うべからず!」と署名を拒否したという。
新井白石先生曰く、「本多正純の他事は如何にもあれ、この一言は天下の名言と言うべきである。」と
評価し、柳生但馬守宗矩も、常に彼に感じ入っていたという。
誠にこの一言を以て見るに、この人が若い頃から大御所の御覚えが良かったというのもむべなるかな。
また、彼が同職の人々との関係が不快であったという事も、押して知る事ができる。
(新東鑑)
相議して、出羽守の老臣の元に奉書を下して、
『汝が主人、逆乱の罪遁るるべからず、坂崎の家絶えざらん事を思わば、汝が主人に勧めて自害させよ。
さあらんに於いては、世継ぎを立てるだろう。』
という旨を下知すべしと議定した。
その時、本多上野介(正純)は人々に向かい
「誠に家老が主人に腹を切らせた場合、かの家を存続させるのか」と問うた。
人々は「どうしてかの謀反人の家を存続させるだろうか。」と答えた。
正純はこれを聞くと「然らば、その奉書を下されること、然るべからず。
坂崎出羽守の不臣を罰するために、その臣に不臣を勧めるなど、天下の下知に有るべき事とも思われず。
速やかに軍勢を差し向けて誅罰あるべきものである!
人臣への教えとすべきでは無い事を述べて、偽を行い、天下の風俗を乱すべきではない!」
そう言ったが、衆議一決しなかったため、「正純の連署叶うべからず!」と署名を拒否したという。
新井白石先生曰く、「本多正純の他事は如何にもあれ、この一言は天下の名言と言うべきである。」と
評価し、柳生但馬守宗矩も、常に彼に感じ入っていたという。
誠にこの一言を以て見るに、この人が若い頃から大御所の御覚えが良かったというのもむべなるかな。
また、彼が同職の人々との関係が不快であったという事も、押して知る事ができる。
(新東鑑)
189人間七七四年
2022/05/17(火) 16:37:38.40ID:pgI56b42 嘘ついて何とかしようとするエライさんってヤだな
190人間七七四年
2022/05/18(水) 21:31:30.49ID:dj1xSr2p 槐記享保十四年四月十三日の記事から 織部とムクロ肩衝
茶の後の四方山話のついでに(家煕様が話された)「ムクロ肩衝という名物の茶入れがある。その首がないのが名の由来という。織部が誰かと茶の湯をした後、秘蔵の茶入れを茶坊主に片付けさせたところ、茶坊主が茶入れのなかに指を入れて中を拭っていたが、指がどうやっても抜けないので、首を叩き割って指を抜いた。茶入れ袋と一緒に織部の前に出し、『茶入れの首と人間の首とを、まさかお取替えにはなさらないでしょう』と申したという話だ。この茶入れは名物記にも載っている」
茶の後の四方山話のついでに(家煕様が話された)「ムクロ肩衝という名物の茶入れがある。その首がないのが名の由来という。織部が誰かと茶の湯をした後、秘蔵の茶入れを茶坊主に片付けさせたところ、茶坊主が茶入れのなかに指を入れて中を拭っていたが、指がどうやっても抜けないので、首を叩き割って指を抜いた。茶入れ袋と一緒に織部の前に出し、『茶入れの首と人間の首とを、まさかお取替えにはなさらないでしょう』と申したという話だ。この茶入れは名物記にも載っている」
191人間七七四年
2022/05/19(木) 12:49:07.64ID:1Lx5XXEG 割る前に報告してくれたら指を切り落とせたのにな
192人間七七四年
2022/05/19(木) 23:13:26.62ID:ra+2wtGb 槐記享保十二年十月十五日の記事から 金森宗和と加藤某
中井主水常覚が常修院殿(慈胤法親王)にこうお話し申し上げた。「昔、加藤越中守は武威天下に隠れなき者だったが、茶の湯のことはさほど世に聞こえておりませんでした。ある時、金森宗和に茶の湯を所望して、甚だ賞嘆して、『宗和の茶は名人と言うべきである。私は茶の湯を所望したのではない。その気のひっぱるところを見たいと欲したゆえである。ぬっと炭取を持って来られたところから一礼されるところまで、隙あらば鑓を入れようと狙っていたが、気が満ちていて一毛の入る隙もなく、ついに鑓を入れることが出来なかった』と語ったそうです。誠にお上手であったと承り及んでいます」こう常覚が常修院殿に語ると、「誠にそうであったろう」と常修院殿は大いに嬉しがられた。
「ひっぱる」「ぬっと」は原文ママ。面白い表現なので訳さずそのままで。
加藤越中守には適当する人物がいないので、名前か官位に誤りがあるのは確か。加藤越中守は肥前守としてある異本もあるそうで、岩波の日本古典文学大系の近世随想集では、肥前守は肥後守の誤りで清正のことかとしている。清正と宗和では年齢がかなり離れているので、あるいは清正と宗和の父可重との話か。ウィキペディアの宗和の項では加藤泰興との話としているが、泰興は出羽守で、出典も書かれていない。
中井主水常覚が常修院殿(慈胤法親王)にこうお話し申し上げた。「昔、加藤越中守は武威天下に隠れなき者だったが、茶の湯のことはさほど世に聞こえておりませんでした。ある時、金森宗和に茶の湯を所望して、甚だ賞嘆して、『宗和の茶は名人と言うべきである。私は茶の湯を所望したのではない。その気のひっぱるところを見たいと欲したゆえである。ぬっと炭取を持って来られたところから一礼されるところまで、隙あらば鑓を入れようと狙っていたが、気が満ちていて一毛の入る隙もなく、ついに鑓を入れることが出来なかった』と語ったそうです。誠にお上手であったと承り及んでいます」こう常覚が常修院殿に語ると、「誠にそうであったろう」と常修院殿は大いに嬉しがられた。
「ひっぱる」「ぬっと」は原文ママ。面白い表現なので訳さずそのままで。
加藤越中守には適当する人物がいないので、名前か官位に誤りがあるのは確か。加藤越中守は肥前守としてある異本もあるそうで、岩波の日本古典文学大系の近世随想集では、肥前守は肥後守の誤りで清正のことかとしている。清正と宗和では年齢がかなり離れているので、あるいは清正と宗和の父可重との話か。ウィキペディアの宗和の項では加藤泰興との話としているが、泰興は出羽守で、出典も書かれていない。
193人間七七四年
2022/05/20(金) 11:21:24.27ID:0N1cL2JJ 清正だと決めて掛かってるから考察がおかしくなる
そういう学者が行き詰まったときにやるのは捏造な
チョンがいい例
そういう学者が行き詰まったときにやるのは捏造な
チョンがいい例
194人間七七四年
2022/05/22(日) 20:19:15.64ID:U8GqlHSQ 「朝野雑載」から秀忠関ヶ原途上の上田攻めの時の話
慶長五年九月八日、秀忠公は本田佐渡守(正信)を召して、昨日兵が真田方に煽られて戦をした一部始終を聞かせ給うたところ
佐渡守「大久保忠隣や牧野康成の配下の者どもが下知なく兵を進めたのは処罰するべきです。
軍法を破るものは不忠であり、不忠の者はその罪を逃れません。
大久保・牧野の物頭に腹を切らせるべきです」
と諌めたところ、秀忠公も同意されたため、大久保・牧野にその旨を言い渡した。
両人は仕方なく家人に腹を切らせようとしたところ、牧野康成の息子、新次郎(牧野忠成)は
「手柄を立てた家来に腹を切らせては、誰が身命を捨てて働くでしょうか」
と独断ということにして、小姓掃部を召し連れて陣中を立ち退いてしまった。
これにより康成も逼塞していたが、秀忠公若君誕生により新次郎は御赦免され、康成も元のように出仕した。
新次郎が立ち退いたと聞いた大久保忠隣の息子の新十郎(大久保忠常)も、旗奉行の杉浦惣左衛門久勝を召し連れて出奔しようとしたが、
惣左衛門は承諾せず「御志は身に余りますが、我が命を救うために御主君が浪人するというのは本意ではありません。命は義よりも軽いのです」
と言ってたちまち自害してしまった。
杉浦の嫡男や次男の命は助けられ、長男・平太夫久成はのちに大久保忠常に仕え、
次男・十兵衛久真は、惣左衛門の志をお聞き届けになった秀忠公に召し出されたということだ。
慶長五年九月八日、秀忠公は本田佐渡守(正信)を召して、昨日兵が真田方に煽られて戦をした一部始終を聞かせ給うたところ
佐渡守「大久保忠隣や牧野康成の配下の者どもが下知なく兵を進めたのは処罰するべきです。
軍法を破るものは不忠であり、不忠の者はその罪を逃れません。
大久保・牧野の物頭に腹を切らせるべきです」
と諌めたところ、秀忠公も同意されたため、大久保・牧野にその旨を言い渡した。
両人は仕方なく家人に腹を切らせようとしたところ、牧野康成の息子、新次郎(牧野忠成)は
「手柄を立てた家来に腹を切らせては、誰が身命を捨てて働くでしょうか」
と独断ということにして、小姓掃部を召し連れて陣中を立ち退いてしまった。
これにより康成も逼塞していたが、秀忠公若君誕生により新次郎は御赦免され、康成も元のように出仕した。
新次郎が立ち退いたと聞いた大久保忠隣の息子の新十郎(大久保忠常)も、旗奉行の杉浦惣左衛門久勝を召し連れて出奔しようとしたが、
惣左衛門は承諾せず「御志は身に余りますが、我が命を救うために御主君が浪人するというのは本意ではありません。命は義よりも軽いのです」
と言ってたちまち自害してしまった。
杉浦の嫡男や次男の命は助けられ、長男・平太夫久成はのちに大久保忠常に仕え、
次男・十兵衛久真は、惣左衛門の志をお聞き届けになった秀忠公に召し出されたということだ。
195人間七七四年
2022/05/22(日) 23:42:55.82ID:N8u6mvGT 槐記享保十三年七月十二日の記事より 木下勝俊と春日局
長嘯子は歴々の者と見える。中井常覚の話に。
昔、春日局が上洛したおりに、板倉周防守がお誘いして祇園の清水へ参ったが、当時私(常覚)は十三歳でお供仕ったが、瀧の下の腰掛けに一同腰掛けて瀧を賞翫していたところ、その瀧で足を洗っていた熊野比丘尼が春日局を見て、「実に久しいことお目にかかっておりませんでしたが、お上がりなさるよしを承りまして、つい今しがた熊野から参ったところで、未だ御挨拶申し上げませんでした」と申せば、
「この尼の申す通りです。故あって懇意にしているのですが、京の建仁寺のあたりに住居しているとのよし、周防守様も常々お目にかけて下さいませ。この者と会ってふと思い出しましたが、長嘯様のいらっしゃる霊山はこの近くにございますので、参りてお会いしたく存じます」と、私を連れてそちらに向かわれた。周防守は、今日は東本願寺の門主が主人になって祇園林で宴席を張って待っているとのことなので、一足先ににそちらに向かわれた。
さて、長嘯子のところへ参ると、長嘯は紙子の軽装で気軽に縁側に出て、「よくこそいらっしゃった。二階の方が景色が良いから上がり給え。茶の一杯も振る舞うべきだが、あなたのお持ちの茶の方が上等でしょう」と言った。茶弁当なども二階へ上げて主客ともに楽しまれたが、周防守から「東本願寺の門主がお待ちかねです。早くお出で下さい」と幾度も使いが参ったので、立ち帰られた。彼の春日局に対する態度はまるで主人であるかのようだった。
さて、祇園へ参ると、林一面に畳を敷いて杉折の提重おびただしく、饗応の限りを尽くされたこと言語に絶していた。こう常覚が申し上げると、家煕様も、そのような話を聞いたことがあると仰られた。
長嘯子は歴々の者と見える。中井常覚の話に。
昔、春日局が上洛したおりに、板倉周防守がお誘いして祇園の清水へ参ったが、当時私(常覚)は十三歳でお供仕ったが、瀧の下の腰掛けに一同腰掛けて瀧を賞翫していたところ、その瀧で足を洗っていた熊野比丘尼が春日局を見て、「実に久しいことお目にかかっておりませんでしたが、お上がりなさるよしを承りまして、つい今しがた熊野から参ったところで、未だ御挨拶申し上げませんでした」と申せば、
「この尼の申す通りです。故あって懇意にしているのですが、京の建仁寺のあたりに住居しているとのよし、周防守様も常々お目にかけて下さいませ。この者と会ってふと思い出しましたが、長嘯様のいらっしゃる霊山はこの近くにございますので、参りてお会いしたく存じます」と、私を連れてそちらに向かわれた。周防守は、今日は東本願寺の門主が主人になって祇園林で宴席を張って待っているとのことなので、一足先ににそちらに向かわれた。
さて、長嘯子のところへ参ると、長嘯は紙子の軽装で気軽に縁側に出て、「よくこそいらっしゃった。二階の方が景色が良いから上がり給え。茶の一杯も振る舞うべきだが、あなたのお持ちの茶の方が上等でしょう」と言った。茶弁当なども二階へ上げて主客ともに楽しまれたが、周防守から「東本願寺の門主がお待ちかねです。早くお出で下さい」と幾度も使いが参ったので、立ち帰られた。彼の春日局に対する態度はまるで主人であるかのようだった。
さて、祇園へ参ると、林一面に畳を敷いて杉折の提重おびただしく、饗応の限りを尽くされたこと言語に絶していた。こう常覚が申し上げると、家煕様も、そのような話を聞いたことがあると仰られた。
196人間七七四年
2022/05/23(月) 19:42:12.20ID:tGyeQDo6 「朝野雑載」より、第二次上田合戦時の戸田左門(戸田一西)の進言
慶長五年(1600年)九月二十三日の夜、本田上野介(正純)から
「内府公(家康)、御持病も御快癒されましたので、明日秀忠公に御対面なさいます。
また今度御供に召し連れた面々にも御目見の御沙汰があります」
と申し送りされたため、翌朝秀忠公は大津の城に赴きなさって、家康公と御対面された。
御供に召し連れた輩も御眼前にひかれた。
秀忠公「関ヶ原に遅参してしまい、大切の御一戦に参加できず、御迷惑におぼしめされていることでしょう」
家康公「参陣の時節を申し上げた使者が口上を誤った以上、いたし方のないことであるが、
総じて天下分け目の戦というものは囲碁の勝負と同じことで、碁にさえ勝てば、相手方に石がいくらあろうが相手の用にはたたぬものである。
われわれが関ヶ原の一戦に打ち勝つならば、真田ごときの小身者がいかに城を堅固にしようと、結局は城を明け渡して降参するよりほかにないのだ。
お前の後ろに控えている者どものうちに、そのように申した者は一人もいなかったのか?」と尋ねられた。
秀忠公が「同じことを戸田左門(一西)も申しておりました」
と仰られたところ、
家康公は「なんと申したのだ?」と重ねてお尋ねになったので
秀忠公は左門の進言の委細を仰られた。
家康公は御家人列座の方を御覧なさり左門を召されたが、末座にいたため聞こえなかったのか反応がなかった。
そこで秀忠公は声高に「内府公は左門をお召しだ!」と仰られると、左門はすぐ御前近くに出た。
家康公はおそばに召し寄せ、御両手にお菓子を山盛りにすくい、お手ずからお菓子を賜い
家康公「その方、小身にて口がきけぬか、すぐに口がきくようにしてやろう」とおっしゃった。
左門はあまりのありがたさにお礼もいえなかったため
秀忠公が代わりに「左門ですが、けっこうの御意をこうむり、かたじけないしあわせに存じております」と仰られたという。
慶長五年(1600年)九月二十三日の夜、本田上野介(正純)から
「内府公(家康)、御持病も御快癒されましたので、明日秀忠公に御対面なさいます。
また今度御供に召し連れた面々にも御目見の御沙汰があります」
と申し送りされたため、翌朝秀忠公は大津の城に赴きなさって、家康公と御対面された。
御供に召し連れた輩も御眼前にひかれた。
秀忠公「関ヶ原に遅参してしまい、大切の御一戦に参加できず、御迷惑におぼしめされていることでしょう」
家康公「参陣の時節を申し上げた使者が口上を誤った以上、いたし方のないことであるが、
総じて天下分け目の戦というものは囲碁の勝負と同じことで、碁にさえ勝てば、相手方に石がいくらあろうが相手の用にはたたぬものである。
われわれが関ヶ原の一戦に打ち勝つならば、真田ごときの小身者がいかに城を堅固にしようと、結局は城を明け渡して降参するよりほかにないのだ。
お前の後ろに控えている者どものうちに、そのように申した者は一人もいなかったのか?」と尋ねられた。
秀忠公が「同じことを戸田左門(一西)も申しておりました」
と仰られたところ、
家康公は「なんと申したのだ?」と重ねてお尋ねになったので
秀忠公は左門の進言の委細を仰られた。
家康公は御家人列座の方を御覧なさり左門を召されたが、末座にいたため聞こえなかったのか反応がなかった。
そこで秀忠公は声高に「内府公は左門をお召しだ!」と仰られると、左門はすぐ御前近くに出た。
家康公はおそばに召し寄せ、御両手にお菓子を山盛りにすくい、お手ずからお菓子を賜い
家康公「その方、小身にて口がきけぬか、すぐに口がきくようにしてやろう」とおっしゃった。
左門はあまりのありがたさにお礼もいえなかったため
秀忠公が代わりに「左門ですが、けっこうの御意をこうむり、かたじけないしあわせに存じております」と仰られたという。
197人間七七四年
2022/05/23(月) 21:21:46.50ID:pFEDWaRQ 槐記享保十二年五月十八日の記事より 遠州と黒田長政
この頃岡崎が話した二、三の話の中に。
「故筑前守(黒田長政)は古遠州の門人でとりわけ茶道に熱心であったが、ある時江戸で筑前守が遠州に、『利休、織部といえども、時にはこれは嫌な物数寄だ、どういう訳でこんなことをされるのだと思うことがありましたが、遠州のなされることは一つとして嫌らしいことはなく、いちいちその訳が合点出来ます。お上手と申し上げるも愚かです』と申し上げた。
遠州、『それは貴殿の茶の湯にまだ至らぬところがあるからそう思われるのです』と答えた。ただ『はい』と答えて筑前守は下がられたが、合点がゆかなかったので、出入りの町人を通してそれとなく真意を問われたけれども、何も答えを得られなかった。
ほどなくお暇下されて遠州は伏見へ帰られることになったが、筑前守が『私もおっつけお暇下されるでしょう。帰る途中伏見によりますからお茶をいただきたいものです』と申し上げると、『いかにも進上いたしましょう』と約束して遠州は京に帰った。
いくばくも無く『明日伏見を通りますので、お茶をいただくことはできますか』と申しよこすと、『何はさておき差し上げましょう』と遠州は約束されたが、その日は東福門院のご用で上京されるところだったので、家来の何某に『明日は筑前守がいらっしゃるから、庭の掃除をはじめ、かくかくしかじかの準備をしておくように』と言いつけて上京された。
夜を徹して帰ってから一度庭を見回って大いに気に入ったが、囲居に入ると大いに不機嫌になって、筑前守に使者を立てて、『明日の茶は囲居で差し上げることが出来なくなりましたので、書院にて差し上げましょう。羽織にてお出で下さい。私もそういたしますから』と言ってよこした。筑前守は意外に思ったが羽織で参ると、遠州も羽織で出迎え、玄関より書院に通し、料理も型のごとく、濃茶も出された。
すべて終わって、筑前守が『本日はどういう訳で囲居ではなかったのでしょうか』と問われると、『そのことです。昨日はご用を仰せつかって上京したために、留守の者に今日の準備を申し付けておいたのですが、囲居の畳替えをはじめとして窓竹まで真新しいものに交換してしまいました。そのために囲居でお茶を進上しなかったのです』
『それはどういうことですか』『いや、そこです。いつぞや私めは利休や織部たちには及ばないと申し上げたことをご合点下さい。貴殿は江戸でほうぼうの結構な囲居での茶会にはご出席し尽されていますから、私のところでは虫喰い竹に古畳でお茶を進ぜようと思っていたのに、案に相違して囲居でお茶を進上できなかった点こそ、利休織部の両名に私が及ばぬところなのです』と申された」と岡崎が語った。(家煕様は)一段ともっともなことだと仰った。
この頃岡崎が話した二、三の話の中に。
「故筑前守(黒田長政)は古遠州の門人でとりわけ茶道に熱心であったが、ある時江戸で筑前守が遠州に、『利休、織部といえども、時にはこれは嫌な物数寄だ、どういう訳でこんなことをされるのだと思うことがありましたが、遠州のなされることは一つとして嫌らしいことはなく、いちいちその訳が合点出来ます。お上手と申し上げるも愚かです』と申し上げた。
遠州、『それは貴殿の茶の湯にまだ至らぬところがあるからそう思われるのです』と答えた。ただ『はい』と答えて筑前守は下がられたが、合点がゆかなかったので、出入りの町人を通してそれとなく真意を問われたけれども、何も答えを得られなかった。
ほどなくお暇下されて遠州は伏見へ帰られることになったが、筑前守が『私もおっつけお暇下されるでしょう。帰る途中伏見によりますからお茶をいただきたいものです』と申し上げると、『いかにも進上いたしましょう』と約束して遠州は京に帰った。
いくばくも無く『明日伏見を通りますので、お茶をいただくことはできますか』と申しよこすと、『何はさておき差し上げましょう』と遠州は約束されたが、その日は東福門院のご用で上京されるところだったので、家来の何某に『明日は筑前守がいらっしゃるから、庭の掃除をはじめ、かくかくしかじかの準備をしておくように』と言いつけて上京された。
夜を徹して帰ってから一度庭を見回って大いに気に入ったが、囲居に入ると大いに不機嫌になって、筑前守に使者を立てて、『明日の茶は囲居で差し上げることが出来なくなりましたので、書院にて差し上げましょう。羽織にてお出で下さい。私もそういたしますから』と言ってよこした。筑前守は意外に思ったが羽織で参ると、遠州も羽織で出迎え、玄関より書院に通し、料理も型のごとく、濃茶も出された。
すべて終わって、筑前守が『本日はどういう訳で囲居ではなかったのでしょうか』と問われると、『そのことです。昨日はご用を仰せつかって上京したために、留守の者に今日の準備を申し付けておいたのですが、囲居の畳替えをはじめとして窓竹まで真新しいものに交換してしまいました。そのために囲居でお茶を進上しなかったのです』
『それはどういうことですか』『いや、そこです。いつぞや私めは利休や織部たちには及ばないと申し上げたことをご合点下さい。貴殿は江戸でほうぼうの結構な囲居での茶会にはご出席し尽されていますから、私のところでは虫喰い竹に古畳でお茶を進ぜようと思っていたのに、案に相違して囲居でお茶を進上できなかった点こそ、利休織部の両名に私が及ばぬところなのです』と申された」と岡崎が語った。(家煕様は)一段ともっともなことだと仰った。
199人間七七四年
2022/05/24(火) 17:26:34.67ID:bJqQkG0r 本多正信も進言したのになかったことにされてる
200人間七七四年
2022/05/24(火) 21:54:11.27ID:UW7pG4Rp 槐記享保十年八月十三日の記事より
近衛信尋と伊達政宗と福島正則 後半部分は既出ですが
この度関東の姫君様(徳川継友に嫁した家煕の息女安己姫)が御逝去されたため、御忌とて奥にあらせられた。お伽に参ったが、とても寒々しくて何の興もなかったが、更け行くうちに雨も晴れ、おぼろげながら月も顔を出して少し興も出てきたので、女中の吉岡於秀と左兵衛尉のみで四方山話をしていると、(家煕様が次のように語られた)
「この奥座敷はいにしえ桜の御所にあった名物の御書院で、奥州の政宗や福嶋大輔(福島正則)などがしばしば参会したところであった。この押し入れは昔は二畳敷きであったが、ある時鼠が入って騒がしかったのを、応山(近衛信尋)が『鼠であろう』と仰るよりも早く、片目政宗と福嶋大輔の二人とも続いて押し入れに入ってここかしこと探し求めたが、外から応山がしきりに『取り逃がしたか』とお尋ねあったが、残念ながら取り逃がしてしまった。二人が押し入れを出るなり『どうであった。どうであった』とお尋ねあり、大輔、『無駄骨折って取り逃がしたのは無念の至りです。人ならば取り逃がしはしまじきものを』と謹んで申し上げたとのことだ。いかにも人ならば取り逃がしはしまじき者どもであった、実に可笑しいことであったと応山公はよくお話になった」
「福嶋大輔は普段はいたって物柔らかな人で、人に噂されているような人物ではなかった。ある時応山公が滋野井を供にして、福嶋の京の屋敷へ茶の湯をされにおいでになった。待合まで福嶋がお迎えに出ようと中門を通ろうとすると、蜘蛛の巣が福嶋の顔にひたとかかった。
福嶋が手で蜘蛛の巣を押しぬぐって、ご挨拶を申し上げようとするのを見て、滋野井、『これは大変なことになった。ここを掃除した者はすぐに手打ちになるに違いない。可哀想なことだ』と心に思った。
応山が『今日は何よりも珍しい馳走にあずかりました。待合につくなり、あちらの松の高枝から蜘蛛が舞い降りて中門の袖垣かけて巣を織り、やっと出来上がったところへ亭主殿がお出でになられ、今少し見ていたいものだと実に名残惜しく思われました。あの蜘蛛の振舞いようはかねてよりお申し付けになられていたのではありませんか』と御冗談を仰ると、大輔も実に興あることだと感じて名誉に思い、掃除のし残しには全く気が付かなった。このことはのちに犬徒然草という仮名物に記載してある」
信尋の生年は1599年、正則の1619年の改易以前だとすると信尋はこの時十代。前半の言動の子供っぽさからすると十代前半か。
正則は五十台半ばから後半、政宗は五十前後。槐記の他の信尋の逸話からも感じられるが、人懐っこい人好きのする人柄だったのではと思われます。
ちなみに、槐記では基本、武家は姓プラス官位で呼ばれていますが、政宗は政宗呼びで、片目政宗も原文ママ。
秀吉と家康も諱呼びしているので有名人扱いということなんでしょうか。
近衛信尋と伊達政宗と福島正則 後半部分は既出ですが
この度関東の姫君様(徳川継友に嫁した家煕の息女安己姫)が御逝去されたため、御忌とて奥にあらせられた。お伽に参ったが、とても寒々しくて何の興もなかったが、更け行くうちに雨も晴れ、おぼろげながら月も顔を出して少し興も出てきたので、女中の吉岡於秀と左兵衛尉のみで四方山話をしていると、(家煕様が次のように語られた)
「この奥座敷はいにしえ桜の御所にあった名物の御書院で、奥州の政宗や福嶋大輔(福島正則)などがしばしば参会したところであった。この押し入れは昔は二畳敷きであったが、ある時鼠が入って騒がしかったのを、応山(近衛信尋)が『鼠であろう』と仰るよりも早く、片目政宗と福嶋大輔の二人とも続いて押し入れに入ってここかしこと探し求めたが、外から応山がしきりに『取り逃がしたか』とお尋ねあったが、残念ながら取り逃がしてしまった。二人が押し入れを出るなり『どうであった。どうであった』とお尋ねあり、大輔、『無駄骨折って取り逃がしたのは無念の至りです。人ならば取り逃がしはしまじきものを』と謹んで申し上げたとのことだ。いかにも人ならば取り逃がしはしまじき者どもであった、実に可笑しいことであったと応山公はよくお話になった」
「福嶋大輔は普段はいたって物柔らかな人で、人に噂されているような人物ではなかった。ある時応山公が滋野井を供にして、福嶋の京の屋敷へ茶の湯をされにおいでになった。待合まで福嶋がお迎えに出ようと中門を通ろうとすると、蜘蛛の巣が福嶋の顔にひたとかかった。
福嶋が手で蜘蛛の巣を押しぬぐって、ご挨拶を申し上げようとするのを見て、滋野井、『これは大変なことになった。ここを掃除した者はすぐに手打ちになるに違いない。可哀想なことだ』と心に思った。
応山が『今日は何よりも珍しい馳走にあずかりました。待合につくなり、あちらの松の高枝から蜘蛛が舞い降りて中門の袖垣かけて巣を織り、やっと出来上がったところへ亭主殿がお出でになられ、今少し見ていたいものだと実に名残惜しく思われました。あの蜘蛛の振舞いようはかねてよりお申し付けになられていたのではありませんか』と御冗談を仰ると、大輔も実に興あることだと感じて名誉に思い、掃除のし残しには全く気が付かなった。このことはのちに犬徒然草という仮名物に記載してある」
信尋の生年は1599年、正則の1619年の改易以前だとすると信尋はこの時十代。前半の言動の子供っぽさからすると十代前半か。
正則は五十台半ばから後半、政宗は五十前後。槐記の他の信尋の逸話からも感じられるが、人懐っこい人好きのする人柄だったのではと思われます。
ちなみに、槐記では基本、武家は姓プラス官位で呼ばれていますが、政宗は政宗呼びで、片目政宗も原文ママ。
秀吉と家康も諱呼びしているので有名人扱いということなんでしょうか。
201人間七七四年
2022/05/25(水) 20:11:44.38ID:yj+RKTrs 「大友興廃記」より「高森伊予守、志賀親度(「道懌」表記を「親度」に統一)に加勢所望のこと
肥後国の高森伊予守は大友宗麟公の幕下であり、先年小原鑑元の逆心が現れ罰せられたのも彼の働きであった。
島津義久公の家老・新納武蔵守(忠元)の計略により、島津方の稲富新助が花山にて甲斐相模守(甲斐親英、甲斐宗運の嫡男)と合戦したが、島津方は敗れた。
その遺恨により新納武蔵守は高森の城を落とそうと、天正十二年十二月十三日(1585年1月13日)に三千騎で高森伊予守の城に攻め寄せた。
伊予守も奮戦し互いに鉄砲を撃ち合ったが、とうとう大手門を破られ、伊予守は降伏し城を明け渡した。
もとより伊予守は武略の上手であったため、これは一旦城を取らせて油断させる策略であった。
十五日に伊予守は樽肴種々の土産を調えて「和睦の盃を酌み交わしましょう」と城に行ったところ、稲富はよろこんで城に入れて宴会となった。
盃をさしかわしながら稲富が言うことには
「われわれも攻城の時、大剛の者が取り囲まれ若干の負傷者や死人が出ました。
詰めの城まで攻めていたならば、最後には落城させていたでしょうが、こちらも過半が討たれていたことでしょう。
伊予守の御芳志により死なずにすみました」
このとき、伊予守はみずからを智慧才覚のない無分別者と思わせるためこう尋ねた。
伊予守「島津義久公は隣国から徐々に智略をめぐらし、諸国の侍に内通させ、彼等が味方についたのちに豊後に御出兵なさるとうかがっております。
武士の習いとして「昨日の矢先に今日はひかゆる(昨日の敵は今日の友、の意?)」と言いますので
それがしも義久公御出兵の時には稲富殿の組に入りたいと思います」
稲富「義久公の豊後御出兵はありません。
肥後は島津の隣国なので、武蔵守が才覚をもっていろいろ調略をしましたが、それでも本当の味方は少数です。
まして豊後は宗麟公が御在国なので調略ののちに出兵など思いもよらぬことです」
それを聞いた伊予守は話題を変えたのち、次のように問うた。
伊予守「さる天正六年の冬、日向国高城において豊後の諸勢に若干の死者が出ました。(耳川の戦い)
敵味方いかばかり討ち死にしたでしょうか?」
稲富「敵味方六万六千人余りの討ち死にだったそうです。
中務(島津家久)が豊後勢の死骸を讃嘆して言うには
「武士の強弱は死骸でわかるものだ。
勝負は時の運。豊後勢は敵陣に頭を向けており、味方に向かった死骸はない」と感じられたそうです。
また、義久公の命令で弔いをしました」
伊予守「おもしろいお話です。私などはただの死骸としか見ないのに、中務がそのように気づかれるとは、屍にとっての面目といえましょう」
肥後国の高森伊予守は大友宗麟公の幕下であり、先年小原鑑元の逆心が現れ罰せられたのも彼の働きであった。
島津義久公の家老・新納武蔵守(忠元)の計略により、島津方の稲富新助が花山にて甲斐相模守(甲斐親英、甲斐宗運の嫡男)と合戦したが、島津方は敗れた。
その遺恨により新納武蔵守は高森の城を落とそうと、天正十二年十二月十三日(1585年1月13日)に三千騎で高森伊予守の城に攻め寄せた。
伊予守も奮戦し互いに鉄砲を撃ち合ったが、とうとう大手門を破られ、伊予守は降伏し城を明け渡した。
もとより伊予守は武略の上手であったため、これは一旦城を取らせて油断させる策略であった。
十五日に伊予守は樽肴種々の土産を調えて「和睦の盃を酌み交わしましょう」と城に行ったところ、稲富はよろこんで城に入れて宴会となった。
盃をさしかわしながら稲富が言うことには
「われわれも攻城の時、大剛の者が取り囲まれ若干の負傷者や死人が出ました。
詰めの城まで攻めていたならば、最後には落城させていたでしょうが、こちらも過半が討たれていたことでしょう。
伊予守の御芳志により死なずにすみました」
このとき、伊予守はみずからを智慧才覚のない無分別者と思わせるためこう尋ねた。
伊予守「島津義久公は隣国から徐々に智略をめぐらし、諸国の侍に内通させ、彼等が味方についたのちに豊後に御出兵なさるとうかがっております。
武士の習いとして「昨日の矢先に今日はひかゆる(昨日の敵は今日の友、の意?)」と言いますので
それがしも義久公御出兵の時には稲富殿の組に入りたいと思います」
稲富「義久公の豊後御出兵はありません。
肥後は島津の隣国なので、武蔵守が才覚をもっていろいろ調略をしましたが、それでも本当の味方は少数です。
まして豊後は宗麟公が御在国なので調略ののちに出兵など思いもよらぬことです」
それを聞いた伊予守は話題を変えたのち、次のように問うた。
伊予守「さる天正六年の冬、日向国高城において豊後の諸勢に若干の死者が出ました。(耳川の戦い)
敵味方いかばかり討ち死にしたでしょうか?」
稲富「敵味方六万六千人余りの討ち死にだったそうです。
中務(島津家久)が豊後勢の死骸を讃嘆して言うには
「武士の強弱は死骸でわかるものだ。
勝負は時の運。豊後勢は敵陣に頭を向けており、味方に向かった死骸はない」と感じられたそうです。
また、義久公の命令で弔いをしました」
伊予守「おもしろいお話です。私などはただの死骸としか見ないのに、中務がそのように気づかれるとは、屍にとっての面目といえましょう」
202人間七七四年
2022/05/25(水) 20:16:39.85ID:yj+RKTrs そののち伊予守は家中の高森右京進を呼び出して
「お前は今回の降伏を無念に思っておるだろうが、これは稲富をだまして討つための策略である。
お前は密かに豊後に行って、志賀親度に我が意志を伝え、加勢を頼め」
と言うと、右京進は了承して豊後岡の城に行き、高森伊予守からの書状を披露した。
親度は書状を読むと、家中七組の頭(省略)に誰を遣わすべきか談合した。
談合の結果、大軍を差しむけ島津方をことごとく討ち取ろうと定まったところで
親度の嫡子・志賀太郎親次はその時十六歳であったが、こう発言した。
志賀親次「高森への加勢のために大軍を差し向けるのはもってのほかであります。
そのわけですが、肥前・肥後も薩摩に味方しているのは明らかです。
このたび高森を攻めているのは伊予守を敵としているのではなく、最終的に豊後をとろうと企てているからです。
わたしは遊山をすると、狩り、釣りの次には敵を討つ方法を考えるようにしておりますが、それは戦は猟に似ているからです。
猪は寝ているうちに勢子で取り囲み、魚は騒がないように遠くから網を回し、それぞれ囲いを狭めていきます。
もし初めから近くに網を回すと魚が騒ぐため、大漁は見込めないでしょう。
薩摩は名高い大将ですので、豊後を取るために周辺の国から大きな網を巡らせているのでしょう。
今、薩摩が高森を攻めているのは網の中の石を取り除いているようなものです。
島津義久は二、三年のうちに豊後を攻めようと考えております。
もしここで肥後に大軍を出しては、いくらか討たれて味方が弱体化してしまいます。
最後に大敵と戦わなければならないのに、いま人数を損なうのは不可であります。」
親度「わしもそう思うが、薩摩勢は三千ばかりあり、高森伊予守が援軍を請うているのだ。どうしたものか」
七組頭一同は親次の言葉に親度も同意したことで、お家の行く末は安泰だと感涙の涙を流し、
「親次様はまだ若いのにこのような名言を仰られるとは、お年を経ればどれだけの御分別が出てくることやら。
おそらくは九州に肩を並べるもののない名大将になるでしょう」と申した。
親度「それでは二千の兵を出そうと思ったが、親次の異見により雑兵を加えて千五百の兵を出そう。
侍大将には親次、朝倉土佐守(「留守の火縄」の朝倉一玄だろうか)、大森弾正を命じる」
「お前は今回の降伏を無念に思っておるだろうが、これは稲富をだまして討つための策略である。
お前は密かに豊後に行って、志賀親度に我が意志を伝え、加勢を頼め」
と言うと、右京進は了承して豊後岡の城に行き、高森伊予守からの書状を披露した。
親度は書状を読むと、家中七組の頭(省略)に誰を遣わすべきか談合した。
談合の結果、大軍を差しむけ島津方をことごとく討ち取ろうと定まったところで
親度の嫡子・志賀太郎親次はその時十六歳であったが、こう発言した。
志賀親次「高森への加勢のために大軍を差し向けるのはもってのほかであります。
そのわけですが、肥前・肥後も薩摩に味方しているのは明らかです。
このたび高森を攻めているのは伊予守を敵としているのではなく、最終的に豊後をとろうと企てているからです。
わたしは遊山をすると、狩り、釣りの次には敵を討つ方法を考えるようにしておりますが、それは戦は猟に似ているからです。
猪は寝ているうちに勢子で取り囲み、魚は騒がないように遠くから網を回し、それぞれ囲いを狭めていきます。
もし初めから近くに網を回すと魚が騒ぐため、大漁は見込めないでしょう。
薩摩は名高い大将ですので、豊後を取るために周辺の国から大きな網を巡らせているのでしょう。
今、薩摩が高森を攻めているのは網の中の石を取り除いているようなものです。
島津義久は二、三年のうちに豊後を攻めようと考えております。
もしここで肥後に大軍を出しては、いくらか討たれて味方が弱体化してしまいます。
最後に大敵と戦わなければならないのに、いま人数を損なうのは不可であります。」
親度「わしもそう思うが、薩摩勢は三千ばかりあり、高森伊予守が援軍を請うているのだ。どうしたものか」
七組頭一同は親次の言葉に親度も同意したことで、お家の行く末は安泰だと感涙の涙を流し、
「親次様はまだ若いのにこのような名言を仰られるとは、お年を経ればどれだけの御分別が出てくることやら。
おそらくは九州に肩を並べるもののない名大将になるでしょう」と申した。
親度「それでは二千の兵を出そうと思ったが、親次の異見により雑兵を加えて千五百の兵を出そう。
侍大将には親次、朝倉土佐守(「留守の火縄」の朝倉一玄だろうか)、大森弾正を命じる」
203人間七七四年
2022/05/25(水) 20:19:35.96ID:yj+RKTrs 肥後国高森の近くにきた志賀親次は兵を陰に隠し、使者の高森右京進とともに高森伊予守の宿所を密かに訪ねた。
伊予守「城を攻めれば負傷者や死人が大勢出るでしょう。
一口を空けて夜討ちにして城を焼けば、敵は空いている口から出ようとするでしょうから、
われわれは城の案内はわかっておりますので搦手から詰めかけて尽く討ちましょう」
こうして豊後勢は同士討ちを防ぐため、同じ装備で合言葉を決め、夜討勢を五百、城から出てきたところを討つ伏兵を、志賀勢・高森勢でそれぞれ千おいた。
こうして十二月二十九日の明け方、伊予守はかねて用意していた火矢や松明を忍び口より投げ込んで、城中の大部分を占めていたボロ屋を炎上させた。
そこで前方・後方から鬨の声を挙げたところ、城中の稲富勢は慌てふためき兵を出してきた。
味方の兵は血気さかんに闘い、互いに敵を多く討とうと争った。
稲富勢も命を惜しまず、味方が倒れても顧みず、ここを死に場所と定めて戦ったが、どんどん討たれ少なくなった。
しかし稲富は戦巧者のため、わずかの勢で戦場を横切ったため討ち損じてしまった。
戦が終わり、死骸を数えると千八百余りを討ち取っていた。
志賀勢も負傷者は多数出たが、死人は五、六人もいなかった。
城は再び高森のものとなり、志賀勢は豊後に帰還した。
志賀親次は「このたびの戦では大いなる不覚をいたしました。薩摩勢は多く討ち取りましたが、大将である稲富を討ち損じました。」
と志賀親度に申したが
親度「悔やむでない。戦というものは必ずしも敵を討つのが勝ちではない。殺さずして退散させるのも勝利である。
それにしても高森伊予守の武略のために大勝利を得たものだ」と喜んだ。
そののち伊予守から志賀親度に加勢の礼があった。
親度が大友義統公に詳細を告げると、義統公は大いに感悦した。
義統公から親度と高森に御感状が与えられた。
のち天正十四年に肥後国を新納忠元が、豊後国を島津中書(家久)が討ち入った時、志賀から高森に援護の兵が出され、豊後国に高森を引き取った。
翌年、薩摩勢が退いた後、高森は肥後国に帰還した。
甲斐宗運御逝去ののち、「策を帷幄の中に巡らし、勝ちを千里の外に決す」とは高森伊予守のことであろう。
伊予守「城を攻めれば負傷者や死人が大勢出るでしょう。
一口を空けて夜討ちにして城を焼けば、敵は空いている口から出ようとするでしょうから、
われわれは城の案内はわかっておりますので搦手から詰めかけて尽く討ちましょう」
こうして豊後勢は同士討ちを防ぐため、同じ装備で合言葉を決め、夜討勢を五百、城から出てきたところを討つ伏兵を、志賀勢・高森勢でそれぞれ千おいた。
こうして十二月二十九日の明け方、伊予守はかねて用意していた火矢や松明を忍び口より投げ込んで、城中の大部分を占めていたボロ屋を炎上させた。
そこで前方・後方から鬨の声を挙げたところ、城中の稲富勢は慌てふためき兵を出してきた。
味方の兵は血気さかんに闘い、互いに敵を多く討とうと争った。
稲富勢も命を惜しまず、味方が倒れても顧みず、ここを死に場所と定めて戦ったが、どんどん討たれ少なくなった。
しかし稲富は戦巧者のため、わずかの勢で戦場を横切ったため討ち損じてしまった。
戦が終わり、死骸を数えると千八百余りを討ち取っていた。
志賀勢も負傷者は多数出たが、死人は五、六人もいなかった。
城は再び高森のものとなり、志賀勢は豊後に帰還した。
志賀親次は「このたびの戦では大いなる不覚をいたしました。薩摩勢は多く討ち取りましたが、大将である稲富を討ち損じました。」
と志賀親度に申したが
親度「悔やむでない。戦というものは必ずしも敵を討つのが勝ちではない。殺さずして退散させるのも勝利である。
それにしても高森伊予守の武略のために大勝利を得たものだ」と喜んだ。
そののち伊予守から志賀親度に加勢の礼があった。
親度が大友義統公に詳細を告げると、義統公は大いに感悦した。
義統公から親度と高森に御感状が与えられた。
のち天正十四年に肥後国を新納忠元が、豊後国を島津中書(家久)が討ち入った時、志賀から高森に援護の兵が出され、豊後国に高森を引き取った。
翌年、薩摩勢が退いた後、高森は肥後国に帰還した。
甲斐宗運御逝去ののち、「策を帷幄の中に巡らし、勝ちを千里の外に決す」とは高森伊予守のことであろう。
204人間七七四年
2022/05/25(水) 23:28:29.94ID:8WaBkeoQ 槐記享保十年十月二十二日の記事より 秀忠と政宗と酒井忠世
進藤夕翁の話に「台徳院殿の御時、酒井雅樂頭(恐らく忠世)と奥州の政宗が御相伴になって、台徳院殿自らが放った鷹で獲った雁を二人に下されたが、二人ともにその雁を褒めたところ、その時分俳諧が流行っていたのであろうか、『一句詠めるか』とお尋ねあるとすぐさま雅樂頭、
下さるる 御汁いくたび かえる雁
と詠まれた。御感心のあまり『政宗、脇を付けよ』とご所望あれば、政宗、
遅き給仕の あたまはる風
と付けると、おおいに面白がられた。『なにとぞ第三句はお上がお付け下さいませ』と二人が申し上げると、
山々は こぶしの花の 盛りにて
と付けられたとのことです」
家煕様も「昔の人は」と大笑いされたが、三人の性格の違いがまざまざと表れているのは実に驚くばかりだ。
進藤夕翁の話に「台徳院殿の御時、酒井雅樂頭(恐らく忠世)と奥州の政宗が御相伴になって、台徳院殿自らが放った鷹で獲った雁を二人に下されたが、二人ともにその雁を褒めたところ、その時分俳諧が流行っていたのであろうか、『一句詠めるか』とお尋ねあるとすぐさま雅樂頭、
下さるる 御汁いくたび かえる雁
と詠まれた。御感心のあまり『政宗、脇を付けよ』とご所望あれば、政宗、
遅き給仕の あたまはる風
と付けると、おおいに面白がられた。『なにとぞ第三句はお上がお付け下さいませ』と二人が申し上げると、
山々は こぶしの花の 盛りにて
と付けられたとのことです」
家煕様も「昔の人は」と大笑いされたが、三人の性格の違いがまざまざと表れているのは実に驚くばかりだ。
205人間七七四年
2022/05/27(金) 15:18:13.77ID:1yQqJgug 元和三年二月二十一日、故・徳川家康に対し、東照大権現の贈号がなされた。
或る記に、始めは大権現ではなく大明神の神号然るべきとの計議あって、それに決定せんとしたのだが、
天海僧正はこれを聞いて、「明神は非なり。権現とあって然るべし。」と言ったのだが、その場の衆は皆
「権現は(神仏)習合なのだから如何か。」と言った。
そうではあったが、天海の言う所も無視するわけにはいかず、事決せずして結論は延引された。
この事について、徳川秀忠公は老中をして議定せしめ給うたが、この時も皆、明神号を以て是なりとし、
将に定まらんとした。しかしこの時天海は黙して何も発言しなかった。そのため老中は再三天海に
尋ねられた所、彼は
「豊国大明神、幸ありや。」
と言った。
これに何れも答えること出来ず、権現に定まった。
後に神体を、吉田(吉田兼起カ)に命じて鎮斎しようとしたが、天海が
「吉田何をか知らん。愚僧勧請せん」と言ったため、皆疑って、この言葉を秀忠公に申し上げた。
そこで秀忠公は老中を以てこの事を尋ねられた所、天海は一軸を献じた。それは後陽成院帝より
天海に賜った、神体勧請伝の宸筆であった。殿中の者達、大いに驚いた。
今の東照宮の神体は、天海上人が鎮斎したものである。
総じて東叡山寛永寺の僧徒が神体を勧請する事を得るのは、その縁である。
天海がこの勅伝を得た経緯は、慶長の末に家康公、豊臣秀頼公を伐たんと思し召し、後陽成帝に
請い給う所、帝は愍みに思し召され、東西を和解なさしめんとの叡慮を持たれていた。故に
秀頼征伐の執奏が再三に及ぶと雖も、許し給わなかった。これに家康公は御憤あり、故にこの事を
後老中も皆恐れて敢えて言い出す者は無かった。
この時、天海は家康公を諌めた。その辞は甚だ激しく、終に家康公も後承引あった。
天海はすぐに上京し、この事を帝に奏聞した。帝は天海の功を奇とし、「その願う所を訟えよ」との
勅定があった。天海はすなわち、この神体勧請伝を以て奏じた。帝はそれを許し給うたという。
別記に、天海大僧正は足利公方・義澄公の末子であり(一説に、俗姓三浦の末葉・鈴木氏であるという)、
母は会津蘆名盛隆の娘で、永正七年に誕生、義澄公薨去に付き、母と同道し会津へ下向し、外祖の氏を
称して平氏となり、寛永十九年十月二日に寂した。百三十四歳であったという。
慶安元年四月、慈眼大師と諡を賜ったという。
(新東鑑)
天海僧正、明智光秀どころか足利将軍の落とし胤説まで有ったんですね。
或る記に、始めは大権現ではなく大明神の神号然るべきとの計議あって、それに決定せんとしたのだが、
天海僧正はこれを聞いて、「明神は非なり。権現とあって然るべし。」と言ったのだが、その場の衆は皆
「権現は(神仏)習合なのだから如何か。」と言った。
そうではあったが、天海の言う所も無視するわけにはいかず、事決せずして結論は延引された。
この事について、徳川秀忠公は老中をして議定せしめ給うたが、この時も皆、明神号を以て是なりとし、
将に定まらんとした。しかしこの時天海は黙して何も発言しなかった。そのため老中は再三天海に
尋ねられた所、彼は
「豊国大明神、幸ありや。」
と言った。
これに何れも答えること出来ず、権現に定まった。
後に神体を、吉田(吉田兼起カ)に命じて鎮斎しようとしたが、天海が
「吉田何をか知らん。愚僧勧請せん」と言ったため、皆疑って、この言葉を秀忠公に申し上げた。
そこで秀忠公は老中を以てこの事を尋ねられた所、天海は一軸を献じた。それは後陽成院帝より
天海に賜った、神体勧請伝の宸筆であった。殿中の者達、大いに驚いた。
今の東照宮の神体は、天海上人が鎮斎したものである。
総じて東叡山寛永寺の僧徒が神体を勧請する事を得るのは、その縁である。
天海がこの勅伝を得た経緯は、慶長の末に家康公、豊臣秀頼公を伐たんと思し召し、後陽成帝に
請い給う所、帝は愍みに思し召され、東西を和解なさしめんとの叡慮を持たれていた。故に
秀頼征伐の執奏が再三に及ぶと雖も、許し給わなかった。これに家康公は御憤あり、故にこの事を
後老中も皆恐れて敢えて言い出す者は無かった。
この時、天海は家康公を諌めた。その辞は甚だ激しく、終に家康公も後承引あった。
天海はすぐに上京し、この事を帝に奏聞した。帝は天海の功を奇とし、「その願う所を訟えよ」との
勅定があった。天海はすなわち、この神体勧請伝を以て奏じた。帝はそれを許し給うたという。
別記に、天海大僧正は足利公方・義澄公の末子であり(一説に、俗姓三浦の末葉・鈴木氏であるという)、
母は会津蘆名盛隆の娘で、永正七年に誕生、義澄公薨去に付き、母と同道し会津へ下向し、外祖の氏を
称して平氏となり、寛永十九年十月二日に寂した。百三十四歳であったという。
慶安元年四月、慈眼大師と諡を賜ったという。
(新東鑑)
天海僧正、明智光秀どころか足利将軍の落とし胤説まで有ったんですね。
206人間七七四年
2022/05/28(土) 19:00:22.20ID:13JLuMtD 噂でもいいんだけど天海ちゃん本人はどう思ってたのかねえ
本人に聞く奴も結構いたと思うんだよね
本人に聞く奴も結構いたと思うんだよね
207人間七七四年
2022/05/28(土) 19:37:58.79ID:OVmpUAW9 ほっとい天海とか思ってたんじゃないの
208人間七七四年
2022/05/28(土) 19:48:02.73ID:13JLuMtD 豊国大明神、幸ありや
ひどい豊臣憎しの言葉だな
ひどい豊臣憎しの言葉だな
209人間七七四年
2022/05/28(土) 22:20:06.53ID:BBDU84zs 天海「権現、私の好きな言葉です」
210人間七七四年
2022/05/28(土) 22:36:46.38ID:FtB32KSb 出生関連には「お前が思うならそうなんだろ、お前の中ではな」的な返ししてなかったっけ天海
211人間七七四年
2022/05/28(土) 22:52:19.77ID:BBDU84zs 川中島合戦史仲裁案「拙僧がソース」とかもね
212人間七七四年
2022/05/29(日) 12:30:56.67ID:9IYKMAH/ 槐記享保十九年三月二十七日より 秀忠と天海
台徳院の御時、南光坊が参られたが、ちょうどお出かけの際ですっかり身支度されてご対面あったが、台徳院が御印籠を提げているのを見とがめて、「何のために印籠を提げていらっしゃるのですか」とお伺いすると、大樹すぐに御合点あそばして「これは他の人に薬をやるために提げているのだ」とお答えされると、「お医者をお連れになるのは何のためでしょうか」と申し上げた。それより台徳院は生涯御印籠を提げられなかったということだ。
台徳院の御時、南光坊が参られたが、ちょうどお出かけの際ですっかり身支度されてご対面あったが、台徳院が御印籠を提げているのを見とがめて、「何のために印籠を提げていらっしゃるのですか」とお伺いすると、大樹すぐに御合点あそばして「これは他の人に薬をやるために提げているのだ」とお答えされると、「お医者をお連れになるのは何のためでしょうか」と申し上げた。それより台徳院は生涯御印籠を提げられなかったということだ。
213人間七七四年
2022/05/29(日) 12:34:52.85ID:oGCrHrDD 水戸黄門「ワシの陰嚢が目に入らんのか!」
214人間七七四年
2022/05/29(日) 13:02:09.01ID:AqsKSy9S 水戸光圀「年貢の徴収は男と女がやるようにせよ。女なら喜んでもくれるが男同士では痛がるだけである。」
215人間七七四年
2022/05/29(日) 13:09:28.85ID:9IYKMAH/ 槐記から沢庵の逸話二つ
享保十年五月十八日の記事より 沢庵と烏丸光広
今日、数寄屋での家煕様のお話に、「春屋の書は遠州がもてはやしたために沢庵、江月の書とともに世上に流布しているが、宗和は春屋が大嫌いであった。よく無禅が話していたが、宗和が『今日もよき茶の湯に呼ばれた。何から何までよく出来ていたけれども、例の坊主めが床の間にあったわ』と嘲っていたそうだ。応山も春屋ほど下手な書はないと、その悪筆ぶりをつねづねけなされていた。
沢庵は讃を書くことがあまりに多かったので讃沢庵と呼ばれていた。わけても歌の讃が多かった。沢庵は歌を烏丸光広に師事してよほど修行したそうだ。光広が異見して歌を詠むことをしきりに止めて『禅には和歌はいらぬものだ』と手紙を送ったが、その返事の最後に、『夢窓に庭の癖あり。雪舟に画の癖あり。愚に和歌の癖あり』と書いて、さらにそのあとに『世の中の 人には癖の あるものを 我にはゆるせ 敷島の道』と書いて送られたという。これより光広も許して指南されたとか。」
享保十一年霜月十六日 沢庵と近衛信尋
(家煕様のお話)その昔、応山公の御前に沢庵和尚が伺候して、お暇を述べて下がろうとしたが、「今しばらく」と応山公がお止めすると、「今日は法華八講の中日ですので、まずお暇いたしましょう」と出ようとした。応山公、呼び返されて「八講なのに中日とはどういうことか」と問うと、沢庵、「四つ椀の中椀のようなものと思し召せ」と答えて下がったとか。こういう頓智のある人物は定めて茶の湯も上手であろう。
法華八講は、法華経八巻を午前午後に一巻ずつ、日に二巻ずつ講じる法会のこと。
四つ椀は飯椀、汁椀、平椀、壺椀の四つ一組の椀。中椀は二番目に大きな椀(多くは汁椀)のこと。
いずれも偶数なので真ん中はないわけですね。
享保十年五月十八日の記事より 沢庵と烏丸光広
今日、数寄屋での家煕様のお話に、「春屋の書は遠州がもてはやしたために沢庵、江月の書とともに世上に流布しているが、宗和は春屋が大嫌いであった。よく無禅が話していたが、宗和が『今日もよき茶の湯に呼ばれた。何から何までよく出来ていたけれども、例の坊主めが床の間にあったわ』と嘲っていたそうだ。応山も春屋ほど下手な書はないと、その悪筆ぶりをつねづねけなされていた。
沢庵は讃を書くことがあまりに多かったので讃沢庵と呼ばれていた。わけても歌の讃が多かった。沢庵は歌を烏丸光広に師事してよほど修行したそうだ。光広が異見して歌を詠むことをしきりに止めて『禅には和歌はいらぬものだ』と手紙を送ったが、その返事の最後に、『夢窓に庭の癖あり。雪舟に画の癖あり。愚に和歌の癖あり』と書いて、さらにそのあとに『世の中の 人には癖の あるものを 我にはゆるせ 敷島の道』と書いて送られたという。これより光広も許して指南されたとか。」
享保十一年霜月十六日 沢庵と近衛信尋
(家煕様のお話)その昔、応山公の御前に沢庵和尚が伺候して、お暇を述べて下がろうとしたが、「今しばらく」と応山公がお止めすると、「今日は法華八講の中日ですので、まずお暇いたしましょう」と出ようとした。応山公、呼び返されて「八講なのに中日とはどういうことか」と問うと、沢庵、「四つ椀の中椀のようなものと思し召せ」と答えて下がったとか。こういう頓智のある人物は定めて茶の湯も上手であろう。
法華八講は、法華経八巻を午前午後に一巻ずつ、日に二巻ずつ講じる法会のこと。
四つ椀は飯椀、汁椀、平椀、壺椀の四つ一組の椀。中椀は二番目に大きな椀(多くは汁椀)のこと。
いずれも偶数なので真ん中はないわけですね。
216人間七七四年
2022/05/29(日) 17:25:21.08ID:3aTZmvuu 「朝野雑載」から沢庵と烏丸光広の話
烏丸光広卿が言うことには
「この世にうつけが二人いる。
沢庵は歌の名人であるが、自分の技量をわきまえず我らに添削を依頼する。これはうつけである。
また、我も自分の技量をわきまえず依頼に応じて沢庵の歌を直す。これもまたうつけである」
烏丸光広卿が言うことには
「この世にうつけが二人いる。
沢庵は歌の名人であるが、自分の技量をわきまえず我らに添削を依頼する。これはうつけである。
また、我も自分の技量をわきまえず依頼に応じて沢庵の歌を直す。これもまたうつけである」
217人間七七四年
2022/05/29(日) 20:47:29.02ID:bxvNmP/+ >>215 に出てくる無禅は槐記享保十一年七月十六日の記事に詳しく経歴が載っていて、まとめると
「七歳の時に長山公に召し使われて以来、三藐院公(信尹)、応山公(信尋)、良山公(尚嗣)、禅閣(基熙)、准后(家熙)、関白(家熙の長男家久)の七代に仕え、家久が六歳の時に亡くなった。年は百十九歳だったというが、本人が年は言わなかったので定かではない」
長山公はググると近衛尚嗣の道号となっているが、ここでは尚嗣の道号は良山となっている。また、家久から数えて七代前は近衛前久だが、ウィキによると道号は竜山。どちらが正しいかは分かりません。
この七月十六日の記事には、まとめサイトに「かの浪人が甲冑を帯びて発足した」のタイトルで載っている話と同一の話が載っていて、新東鑑の筆者は槐記のこの記事を参考にした可能性が高そうです。
「七歳の時に長山公に召し使われて以来、三藐院公(信尹)、応山公(信尋)、良山公(尚嗣)、禅閣(基熙)、准后(家熙)、関白(家熙の長男家久)の七代に仕え、家久が六歳の時に亡くなった。年は百十九歳だったというが、本人が年は言わなかったので定かではない」
長山公はググると近衛尚嗣の道号となっているが、ここでは尚嗣の道号は良山となっている。また、家久から数えて七代前は近衛前久だが、ウィキによると道号は竜山。どちらが正しいかは分かりません。
この七月十六日の記事には、まとめサイトに「かの浪人が甲冑を帯びて発足した」のタイトルで載っている話と同一の話が載っていて、新東鑑の筆者は槐記のこの記事を参考にした可能性が高そうです。
218人間七七四年
2022/05/30(月) 19:02:33.60ID:tH4eb+3+ 大阪冬の陣、鴨野口にて丹羽五郎左衛門長重卿は仕寄を付けられた時、上杉景勝卿も出られ、
「我等も仕寄を付け申すべし」とて、家来に先立ち、「これなる溝に橋を丈夫に掛けよ」と
申し付けて引き込んだ。
始めは皆(仕寄ではなく橋を掛ける事に)「手緩き人かな」と思う気色にて、まったく橋を掛けて
いなかったのだが、そこに景勝卿出て「何とて橋を掛けざるぞ」と申されたため、西条治部が
「只今にも橋は掛け申すべく候。」と即時に掛けた所、景勝卿はこれを見て、元の仕寄場を差し置き、
脇に土俵を置き、鉄砲を掛け法螺を立て、「次第に土俵を掛け来たれ!」と下知した。
大阪方は、上杉勢の動きに初めは用心していたものの、溝に橋を掛けようとする様子を見て、
「上杉は軍の術を知らぬか、はかばかしき事はなし。」と引き入ってしまっていた。
また上杉の家臣たちすら、下知を請けざる気色であった。
それ故に、景勝卿は敵の油断を計り、法螺を立てたため、即座に仕寄場に土俵をひたひたと持ち寄せて、
仕寄を付けたのだ。
先に土俵を置いた場所は仕寄道となり、翌日城兵は仕寄の防ぎに出て、これを見て肝を消したという。
(新東鑑)
「我等も仕寄を付け申すべし」とて、家来に先立ち、「これなる溝に橋を丈夫に掛けよ」と
申し付けて引き込んだ。
始めは皆(仕寄ではなく橋を掛ける事に)「手緩き人かな」と思う気色にて、まったく橋を掛けて
いなかったのだが、そこに景勝卿出て「何とて橋を掛けざるぞ」と申されたため、西条治部が
「只今にも橋は掛け申すべく候。」と即時に掛けた所、景勝卿はこれを見て、元の仕寄場を差し置き、
脇に土俵を置き、鉄砲を掛け法螺を立て、「次第に土俵を掛け来たれ!」と下知した。
大阪方は、上杉勢の動きに初めは用心していたものの、溝に橋を掛けようとする様子を見て、
「上杉は軍の術を知らぬか、はかばかしき事はなし。」と引き入ってしまっていた。
また上杉の家臣たちすら、下知を請けざる気色であった。
それ故に、景勝卿は敵の油断を計り、法螺を立てたため、即座に仕寄場に土俵をひたひたと持ち寄せて、
仕寄を付けたのだ。
先に土俵を置いた場所は仕寄道となり、翌日城兵は仕寄の防ぎに出て、これを見て肝を消したという。
(新東鑑)
219人間七七四年
2022/05/30(月) 20:54:27.36ID:u4RuVBEe 槐記より板倉重宗三話
享保十四年四月十六日の記事より 近衛信尋と重宗
板倉周防守(重宗)は形の如き茶人で、応山公とも心易い間柄でしばしば公を訪問したが、所司代であった時にはたびたび茶の湯に公を招いた。周防守は自ら茶臼を持って茶を挽くことを好んだ。
ある時応山公がお訪ねされると、周防守は待合でいつもの小臼で茶を挽いていたが、「この茶は御前に差し上げる濃茶で、今挽いていたところですが、早くもおいでになった面目なさよ。私めは勝手などを見繕って参りますので、おなぐさみに御前もこの臼で茶を挽かれてみてはいかが」と臼を差し上げて勝手に入ろうとするところを呼び返されて、「これを私に挽かせて、防州の茶は時の関白が挽かれたのだと、人々に話そうたくらみであろう」と仰れば、周防守後ろ頭を叩いて、「是非もありません。実を申せば、左様に思い付いた茶の湯でありましたが、見事にお見抜きなされた口惜しさよ」と二人とも大笑いなされたとか。
享保十七年九月十二日の記事より 後光明院と重宗
後光明院は格別の大器のお方であらせられたことを(家煕様は)常々仰せになられていた。板倉周防守が所司代を勤めていた時のことであった。後水尾院が廱にお悩みになられ、日々の御容態をご報告申し上げていたが、それだけでは心もとなく思し召されたか、周防守を召されて近日行啓なさるべきよしを仰せ下された。
周防守が申し上げて、「朝覲行幸のことは並大抵のことではございません。まず関東に申しつかわし、事の次第を調えなければ、にわかにできることではございません」と申し上げると、「それでは行啓は取りやめよう。その代わりに、禁中の辰巳の角の築地より院の御所の戌亥の角まで、梯子で高廊下をすぐに架けよ。禁裏の内を行幸するのは常のことである。廊下から廊下へ移るのを誰が行啓と申そうか。早々に高廊下を仕立てるべし」と仰って、ついに院のもとへ行啓されたという。
享保十九年二月二十四日の記事より 後水尾院と重宗
(修岳寺離宮の庭を誰が造営したのか道安が問うと家煕が答えて)「あれこそ御亭をはじめ一木一草に至るまでことごとく後水尾院の御製になったものだ」
(何故にあのような離れたところにお庭をあそばされたのか尋ねると)「不意にあの山をお手に入れられてより、地勢から山水をお考えなされて、お庭の雛形をお作りなされてから、草木をはじめ踏石、捨石にいたるまでみな土で模型をこしらえ、雛形の処々に置いてみて形良くなるようにあそばされ、七、八分できたころに、お側仕えの女中に庭造りの巧みな者がいたので、こもづつみの輿に乗せて、平松可心と非蔵人の何某などを供につけてたびたび見分に遣わされた。
あそこが法皇の御所になるという噂が周防守の耳にまで届き、御所まで参り、『かくかくの噂を聞きましたが、もし密かに行幸なされるお志のございましたら、何ゆえにそれがしに仰せ下されないのですか。早々に関東へ申しつかわし、どちらへなりとも行幸なされますよう取り計らいますのに、何の仔細がございましょう』と申し上げた。叡聞に達し、『内膳には少しも心配はいらぬ。左様な噂は全く根も葉もないことだ。身がそう言っていると内膳に申し聞かせよ。身がそう言うのだ。誰が何と言おうと、みな虚説であると思え』と仰せ下されたので、周防守は一言もなく退出した」
享保十四年四月十六日の記事より 近衛信尋と重宗
板倉周防守(重宗)は形の如き茶人で、応山公とも心易い間柄でしばしば公を訪問したが、所司代であった時にはたびたび茶の湯に公を招いた。周防守は自ら茶臼を持って茶を挽くことを好んだ。
ある時応山公がお訪ねされると、周防守は待合でいつもの小臼で茶を挽いていたが、「この茶は御前に差し上げる濃茶で、今挽いていたところですが、早くもおいでになった面目なさよ。私めは勝手などを見繕って参りますので、おなぐさみに御前もこの臼で茶を挽かれてみてはいかが」と臼を差し上げて勝手に入ろうとするところを呼び返されて、「これを私に挽かせて、防州の茶は時の関白が挽かれたのだと、人々に話そうたくらみであろう」と仰れば、周防守後ろ頭を叩いて、「是非もありません。実を申せば、左様に思い付いた茶の湯でありましたが、見事にお見抜きなされた口惜しさよ」と二人とも大笑いなされたとか。
享保十七年九月十二日の記事より 後光明院と重宗
後光明院は格別の大器のお方であらせられたことを(家煕様は)常々仰せになられていた。板倉周防守が所司代を勤めていた時のことであった。後水尾院が廱にお悩みになられ、日々の御容態をご報告申し上げていたが、それだけでは心もとなく思し召されたか、周防守を召されて近日行啓なさるべきよしを仰せ下された。
周防守が申し上げて、「朝覲行幸のことは並大抵のことではございません。まず関東に申しつかわし、事の次第を調えなければ、にわかにできることではございません」と申し上げると、「それでは行啓は取りやめよう。その代わりに、禁中の辰巳の角の築地より院の御所の戌亥の角まで、梯子で高廊下をすぐに架けよ。禁裏の内を行幸するのは常のことである。廊下から廊下へ移るのを誰が行啓と申そうか。早々に高廊下を仕立てるべし」と仰って、ついに院のもとへ行啓されたという。
享保十九年二月二十四日の記事より 後水尾院と重宗
(修岳寺離宮の庭を誰が造営したのか道安が問うと家煕が答えて)「あれこそ御亭をはじめ一木一草に至るまでことごとく後水尾院の御製になったものだ」
(何故にあのような離れたところにお庭をあそばされたのか尋ねると)「不意にあの山をお手に入れられてより、地勢から山水をお考えなされて、お庭の雛形をお作りなされてから、草木をはじめ踏石、捨石にいたるまでみな土で模型をこしらえ、雛形の処々に置いてみて形良くなるようにあそばされ、七、八分できたころに、お側仕えの女中に庭造りの巧みな者がいたので、こもづつみの輿に乗せて、平松可心と非蔵人の何某などを供につけてたびたび見分に遣わされた。
あそこが法皇の御所になるという噂が周防守の耳にまで届き、御所まで参り、『かくかくの噂を聞きましたが、もし密かに行幸なされるお志のございましたら、何ゆえにそれがしに仰せ下されないのですか。早々に関東へ申しつかわし、どちらへなりとも行幸なされますよう取り計らいますのに、何の仔細がございましょう』と申し上げた。叡聞に達し、『内膳には少しも心配はいらぬ。左様な噂は全く根も葉もないことだ。身がそう言っていると内膳に申し聞かせよ。身がそう言うのだ。誰が何と言おうと、みな虚説であると思え』と仰せ下されたので、周防守は一言もなく退出した」
220人間七七四年
2022/05/30(月) 21:09:49.36ID:u4RuVBEe 普通天皇の外出は行幸、皇太子などの外出は行啓ですが、ここで後光明天皇が自身の外出を
行啓と言っているのは、父親である後水尾院のもとを訪れるため、一種の謙譲表現なのでしょうか
行啓と言っているのは、父親である後水尾院のもとを訪れるため、一種の謙譲表現なのでしょうか
221人間七七四年
2022/05/31(火) 00:45:01.48ID:cpU+9pie 後水尾院が偉大な天皇だったことの表現かと
222人間七七四年
2022/05/31(火) 07:15:37.64ID:W1yvV688 >>218
西条(西條)氏は信濃の国人領主出身で、武田上杉を渡り歩いたよくある経歴の家
米沢藩での屋敷に天神さまを祀り、跡地が現在は米沢市の西條天満公園として整備されています
ご子孫は東京在住です
https://www.city.yonezawa.yamagata.jp/1810.html
西条(西條)氏は信濃の国人領主出身で、武田上杉を渡り歩いたよくある経歴の家
米沢藩での屋敷に天神さまを祀り、跡地が現在は米沢市の西條天満公園として整備されています
ご子孫は東京在住です
https://www.city.yonezawa.yamagata.jp/1810.html
223人間七七四年
2022/05/31(火) 09:40:20.63ID:d3csJQJL 読みは「にしじょう」
上杉家中の場合、東西南北それぞれの条さんは、信越の地名の読み由来からか
きたじょう、ひがしじょう、みなみじょう、ですね
上杉家中の場合、東西南北それぞれの条さんは、信越の地名の読み由来からか
きたじょう、ひがしじょう、みなみじょう、ですね
224人間七七四年
2022/05/31(火) 09:57:18.29ID:d3csJQJL そして上下の条さんはどうかとなると、こっちはじょうじょう、げじょうなんですね
225人間七七四年
2022/05/31(火) 10:04:25.96ID:d3csJQJL 明治大正期の画壇の大物に下條桂谷(げじょうけいこく)というひとがいますが、米沢出身です
226人間七七四年
2022/05/31(火) 23:03:58.88ID:Nwrw8Vlj 槐記享保十六年八月十九日の記事より 中院道茂
右京大夫の話に。俳諧は着想は同じでも表現の良し悪しで面白さが随分変わってくる。昔、中院前内府(通茂)は非常な肥満でしかも大男だったが、後西院の御前で、「栗粉の餅は拵えようが悪いと食べかねるものです。大きすぎてちぎって食わねばならぬようではその風味が損なわれてしまう。ひと口に食べられる大きさに作るのがよいのです」と申し上げるのを、傍で聞いていた若い殿上人たちが陰で、「どれほど大きくとも中院ならひと口に食べられるだろう」と大笑いしていたが、誰やらが
中院 口の広さぞ 知られぬる 噛まずに通る 雑煮餅でも
と狂歌を詠んだ。それを聞いた平松故中納言(時量か)が、「『噛まずに通る』ではなく『すれずに落ちる』としたいものだ」と仰ったので、また大笑いになった。叡聞に達して主上もお笑いになられたとか。
堂上方も結構口が悪いらしい
右京大夫の話に。俳諧は着想は同じでも表現の良し悪しで面白さが随分変わってくる。昔、中院前内府(通茂)は非常な肥満でしかも大男だったが、後西院の御前で、「栗粉の餅は拵えようが悪いと食べかねるものです。大きすぎてちぎって食わねばならぬようではその風味が損なわれてしまう。ひと口に食べられる大きさに作るのがよいのです」と申し上げるのを、傍で聞いていた若い殿上人たちが陰で、「どれほど大きくとも中院ならひと口に食べられるだろう」と大笑いしていたが、誰やらが
中院 口の広さぞ 知られぬる 噛まずに通る 雑煮餅でも
と狂歌を詠んだ。それを聞いた平松故中納言(時量か)が、「『噛まずに通る』ではなく『すれずに落ちる』としたいものだ」と仰ったので、また大笑いになった。叡聞に達して主上もお笑いになられたとか。
堂上方も結構口が悪いらしい
227人間七七四年
2022/06/01(水) 22:24:41.03ID:bE9TNziO 槐記享保十六年正月十二日の記事より 藤木敦直
先日(家煕様)のお話に。賀茂の敦直(藤木敦直)は近頃の名筆で並ぶ者がいないが、十九歳まで一文不通でイロハのイの字も知らなかった。三條の橋の上で、馬子が送り状を出して「宛名を読んで下さいませ」と言うのに、読めなかったことを深く恥じて手習いを始めたと聞く。ついにあれほどの人物になったのは、まことに志という言葉の見本と言えるのはもちろん、総じて名人上手という人の、生まれつきの才能のみにて名人上手となるのは少なく、何らかの機会があって、名人上手となる道を開く端緒があるのだろうと思える。
先日(家煕様)のお話に。賀茂の敦直(藤木敦直)は近頃の名筆で並ぶ者がいないが、十九歳まで一文不通でイロハのイの字も知らなかった。三條の橋の上で、馬子が送り状を出して「宛名を読んで下さいませ」と言うのに、読めなかったことを深く恥じて手習いを始めたと聞く。ついにあれほどの人物になったのは、まことに志という言葉の見本と言えるのはもちろん、総じて名人上手という人の、生まれつきの才能のみにて名人上手となるのは少なく、何らかの機会があって、名人上手となる道を開く端緒があるのだろうと思える。
228人間七七四年
2022/06/03(金) 21:16:19.80ID:IglZJe0y 「救民記」から「蛇断(へびきり)の太刀」
弘治(1555-1558)の頃、朽網に竹王という人がいた。
六月ごろ、田の畦切りをしていたところ、誤ってマムシの頭を切り落としてしまった。
その首はどこに行ったか知れなかった。
翌年、竹王はそのあたりを通りかかったが、前年のことは忘れてしまっていた。
なぜかひどく眠気を催して耐えられなくなったため、草に臥して仮眠をとっていると、何かが枕の方でざわめいた気がしたので、目覚めてそちらをみた。
すると、去年切り落とした蛇の頭が、腰に差していた九寸五分の小脇差により貫かれていた。
小脇差は自ら鞘から抜け出したのであった。
竹王はこれをみて大いに喜び、思えば蛇の頭を切り落とした月日も全く同じだと不思議に思い、
蛇の首を貫いたままの状態で、朽網殿にその小脇差をご覧に入れた。
宗暦公(朽網鑑康)は奇瑞であるということで、蛇切と名づけ、つねにこれを佩刀した。
来国統(来国宗?)の銘があり、のちには竹下紀伊守に預け置かれたそうである。
弘治(1555-1558)の頃、朽網に竹王という人がいた。
六月ごろ、田の畦切りをしていたところ、誤ってマムシの頭を切り落としてしまった。
その首はどこに行ったか知れなかった。
翌年、竹王はそのあたりを通りかかったが、前年のことは忘れてしまっていた。
なぜかひどく眠気を催して耐えられなくなったため、草に臥して仮眠をとっていると、何かが枕の方でざわめいた気がしたので、目覚めてそちらをみた。
すると、去年切り落とした蛇の頭が、腰に差していた九寸五分の小脇差により貫かれていた。
小脇差は自ら鞘から抜け出したのであった。
竹王はこれをみて大いに喜び、思えば蛇の頭を切り落とした月日も全く同じだと不思議に思い、
蛇の首を貫いたままの状態で、朽網殿にその小脇差をご覧に入れた。
宗暦公(朽網鑑康)は奇瑞であるということで、蛇切と名づけ、つねにこれを佩刀した。
来国統(来国宗?)の銘があり、のちには竹下紀伊守に預け置かれたそうである。
229人間七七四年
2022/06/06(月) 14:32:15.36ID:wwC56brm 「朝野雑載」から結城秀康と座頭
秀康卿がある時鷹狩りに出たところ、木履をいくつも背負ってよろよろ歩いている座頭がいた。
先払いのものが脇へ追いやったが、秀康卿一向が通っている最中にその盲人が秀康卿の御駕籠に近づいたので、
秀康卿「汝はどこに行く者ぞ」
座頭「われは座頭の会所に参るのですが、今朝雨が降り、道が乾いたため、座頭衆の木履を草履と取り替えて戻るところなのです。
殿様のお通りということで、あそこの藪に追いやられてしまい思いがけず時間を費やしてしまいました。
こうなってはたとえ石籠詰めにあってもやむをえないと行列をつっきったのです」
と泣く泣く申し上げた。
秀康卿が「盲目になるだけでなく、同じ盲人からこき使われて、履き物まで持たされるとは不憫なことだ。
汝が殿様と呼ぶは我のことである。
汝を検校にして領内の座頭を手下にしてやろう」
と仰られたところ、
盲人はからかっていると思い
「殿様はすでにお通りになったでしょうに、嘘を言う方ですな。
たとえ殿様のはからいでも御学問所はさておき、四分衆と肩を並べることも無理でしょう」
とつぶやいて慌ただしく通り過ぎた。
そこで秀康卿はすぐに君命を下し、その座頭を検校とした。
こうして御国中の座頭は彼に礼を取ったという。
秀康卿がある時鷹狩りに出たところ、木履をいくつも背負ってよろよろ歩いている座頭がいた。
先払いのものが脇へ追いやったが、秀康卿一向が通っている最中にその盲人が秀康卿の御駕籠に近づいたので、
秀康卿「汝はどこに行く者ぞ」
座頭「われは座頭の会所に参るのですが、今朝雨が降り、道が乾いたため、座頭衆の木履を草履と取り替えて戻るところなのです。
殿様のお通りということで、あそこの藪に追いやられてしまい思いがけず時間を費やしてしまいました。
こうなってはたとえ石籠詰めにあってもやむをえないと行列をつっきったのです」
と泣く泣く申し上げた。
秀康卿が「盲目になるだけでなく、同じ盲人からこき使われて、履き物まで持たされるとは不憫なことだ。
汝が殿様と呼ぶは我のことである。
汝を検校にして領内の座頭を手下にしてやろう」
と仰られたところ、
盲人はからかっていると思い
「殿様はすでにお通りになったでしょうに、嘘を言う方ですな。
たとえ殿様のはからいでも御学問所はさておき、四分衆と肩を並べることも無理でしょう」
とつぶやいて慌ただしく通り過ぎた。
そこで秀康卿はすぐに君命を下し、その座頭を検校とした。
こうして御国中の座頭は彼に礼を取ったという。
230人間七七四年
2022/06/06(月) 20:44:32.72ID:sDzb0bcz 目なし鼻なし
231人間七七四年
2022/06/08(水) 15:28:40.64ID:75f8/pZz 加州(前田家)の家臣・吉田大蔵は、大阪一乱の時に左の指を半ば射切られ、拇指と食指(人差し指)のみ
全うであったが、弓は猶妙手を得ていた。
前田利常がある日、放鷹に出たのだが、愛玩の鷹を大緒(鷹の足革に結びつける大きな組糸の緒)と共に
取り放ってしまい、辺りの森に入り、木の枝に止まったが、大緒が絡まって、鷹は逆さまに縋っていた。
利常は吉田大蔵を呼び、「どうにかして、鷹を損なわぬように射取れ」と命じた。
大蔵は一旦は辞退したものの、令重く「承り候」と承諾し、雁股を番い、鷹の真ん中を射たように見えたが、
そのまま飛び去ったのを、鷹もその跡を慕って飛び上った。
利常は大蔵に「何と射たものか、名誉の事である!」と称賛した所、大蔵は
「木に絡まった大緒は、射ても解くことは出来ません。そのため旋子(もとおし・大緒に用いる八の字型の金具)
を射割ったのです。またこういった時、矢に鷲の羽を用いるのは嫌われます。羽が擦れて鷹にあたった時に
非常に痛いからです。故に柔らかい羽を用いて射ることが、故実でもあります。」
と申したという
(新東鑑)
全うであったが、弓は猶妙手を得ていた。
前田利常がある日、放鷹に出たのだが、愛玩の鷹を大緒(鷹の足革に結びつける大きな組糸の緒)と共に
取り放ってしまい、辺りの森に入り、木の枝に止まったが、大緒が絡まって、鷹は逆さまに縋っていた。
利常は吉田大蔵を呼び、「どうにかして、鷹を損なわぬように射取れ」と命じた。
大蔵は一旦は辞退したものの、令重く「承り候」と承諾し、雁股を番い、鷹の真ん中を射たように見えたが、
そのまま飛び去ったのを、鷹もその跡を慕って飛び上った。
利常は大蔵に「何と射たものか、名誉の事である!」と称賛した所、大蔵は
「木に絡まった大緒は、射ても解くことは出来ません。そのため旋子(もとおし・大緒に用いる八の字型の金具)
を射割ったのです。またこういった時、矢に鷲の羽を用いるのは嫌われます。羽が擦れて鷹にあたった時に
非常に痛いからです。故に柔らかい羽を用いて射ることが、故実でもあります。」
と申したという
(新東鑑)
232人間七七四年
2022/06/08(水) 19:38:04.31ID:1fky5inv 故実でもありますって前にもやった人がいるんか…
233人間七七四年
2022/06/09(木) 14:17:59.05ID:dZuFsclC ゴルゴ13みたいな侍だな
234人間七七四年
2022/06/11(土) 18:36:07.05ID:E6KPR8lH 「朝野雑載」から長宗我部元親の家臣、田中新右衛門の話
田中新右衛門がいうことには
「我は無筆である。
「臆病」という字をある僧に尋ねたところ、「胸のやまい」と言われた。
これほど尤もな字はあるまい。
戦に臨んで吐く者がいるが、これは胸にその持病があるためだろうか。
臆病は船酔いと同じことである。
舟に乗る時、胸に灸を据え、鼻に橘の皮をさしこめば、小波の時は酔わず、大波の時は胸の内がこみあげて吐いてしまう。
誰でも常の時は、武を嗜もうがみっともない振る舞いなどしない。
苦戦する時は、生まれついての胸のやまいが起こり、心が迷い、義理も外聞も捨ててしまうのだ。」
田中新右衛門がいうことには
「我は無筆である。
「臆病」という字をある僧に尋ねたところ、「胸のやまい」と言われた。
これほど尤もな字はあるまい。
戦に臨んで吐く者がいるが、これは胸にその持病があるためだろうか。
臆病は船酔いと同じことである。
舟に乗る時、胸に灸を据え、鼻に橘の皮をさしこめば、小波の時は酔わず、大波の時は胸の内がこみあげて吐いてしまう。
誰でも常の時は、武を嗜もうがみっともない振る舞いなどしない。
苦戦する時は、生まれついての胸のやまいが起こり、心が迷い、義理も外聞も捨ててしまうのだ。」
235人間七七四年
2022/06/11(土) 19:51:06.22ID:q+6P8a6t 先月の記事ですが、刀剣乱舞ファン向け特別列車が、なんと新幹線一本貸し切りで運行されたそうな・・
なお、あくまでもこれは米沢上杉博物館の戦国時代展「戦国京都と上杉家」
の一環であります
刀剣乱舞とコラボ、米沢へつばさ臨時列車 ファン380人が「聖地巡礼」の旅
山形新聞5月29日
https://news.yahoo.co.jp/articles/19f007969b1a2585d77cc8aecaa120d9aec60530
公開中の人気アニメ「特『刀剣乱舞―花丸―』~雪月華~」とコラボレーションしたJR東日本の団体臨時列車が28日、山形新幹線つばさの車両を使用し、
上野―米沢間で運行され、約380人のファンらが米沢市を訪れた。刀剣乱舞は全国の名刀を擬人化した男性キャラクターが登場するストーリーで、
シリーズには同市の上杉博物館で展示中の短刀を模したキャラも登場する。
ファンは同博物館を訪ねるなど「聖地巡礼」を楽しんだ。
JR東日本公式コラボサイト
https://www.jreast.co.jp/sendai/hanamaru-yuinroku/
なお、あくまでもこれは米沢上杉博物館の戦国時代展「戦国京都と上杉家」
の一環であります
刀剣乱舞とコラボ、米沢へつばさ臨時列車 ファン380人が「聖地巡礼」の旅
山形新聞5月29日
https://news.yahoo.co.jp/articles/19f007969b1a2585d77cc8aecaa120d9aec60530
公開中の人気アニメ「特『刀剣乱舞―花丸―』~雪月華~」とコラボレーションしたJR東日本の団体臨時列車が28日、山形新幹線つばさの車両を使用し、
上野―米沢間で運行され、約380人のファンらが米沢市を訪れた。刀剣乱舞は全国の名刀を擬人化した男性キャラクターが登場するストーリーで、
シリーズには同市の上杉博物館で展示中の短刀を模したキャラも登場する。
ファンは同博物館を訪ねるなど「聖地巡礼」を楽しんだ。
JR東日本公式コラボサイト
https://www.jreast.co.jp/sendai/hanamaru-yuinroku/
236人間七七四年
2022/06/11(土) 19:54:49.46ID:q+6P8a6t それに3月の栃木県足利市の場合も
刀剣ファンら45日間で2万5587人 “聖地”足利の特別展閉幕
下野新聞3/29
https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/570615
【足利】足利ゆかりの名刀「山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)」(国重要文化財)など100点の名品を市立美術館で展示した
市制100周年記念特別展「戦国武将 足利長尾(あしかがながお)の武と美-その命脈は永遠(とわ)に-」が、27日閉幕した。
感染症対策のため入場を完全予約制とし、45日間の会期中の延べ入場者数は2万5587人だった。
刀剣ファンら45日間で2万5587人 “聖地”足利の特別展閉幕
下野新聞3/29
https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/570615
【足利】足利ゆかりの名刀「山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)」(国重要文化財)など100点の名品を市立美術館で展示した
市制100周年記念特別展「戦国武将 足利長尾(あしかがながお)の武と美-その命脈は永遠(とわ)に-」が、27日閉幕した。
感染症対策のため入場を完全予約制とし、45日間の会期中の延べ入場者数は2万5587人だった。
237人間七七四年
2022/06/11(土) 20:01:01.84ID:q+6P8a6t それがこういった結果に
題材はともあれ、ファンと行政、博物館双方がよい方向に向かっているこの流れはありがたいですね
おかげさまで刀剣以外の戦国展示も充実してくれてます
名刀「山姥切国広」足利市が取得交渉へ ゲーム「刀剣乱舞」で人気
毎日新聞6/10
https://news.yahoo.co.jp/articles/c5983df327381fc3596a1cd9fd1e63cb6a7ee7d7
安土桃山時代の刀工・堀川国広が足利領主・長尾顕長の依頼で鍛えたとされる刀「山姥切(やまんばぎり)国広」(個人蔵、国重要文化財)について、
栃木県足利市の早川尚秀市長は10日の市議会全員協議会で、所有者が市に管理を任せたい意向を伝えてきたことを明らかにし、
取得に向けた交渉に入る考えを示した。
題材はともあれ、ファンと行政、博物館双方がよい方向に向かっているこの流れはありがたいですね
おかげさまで刀剣以外の戦国展示も充実してくれてます
名刀「山姥切国広」足利市が取得交渉へ ゲーム「刀剣乱舞」で人気
毎日新聞6/10
https://news.yahoo.co.jp/articles/c5983df327381fc3596a1cd9fd1e63cb6a7ee7d7
安土桃山時代の刀工・堀川国広が足利領主・長尾顕長の依頼で鍛えたとされる刀「山姥切(やまんばぎり)国広」(個人蔵、国重要文化財)について、
栃木県足利市の早川尚秀市長は10日の市議会全員協議会で、所有者が市に管理を任せたい意向を伝えてきたことを明らかにし、
取得に向けた交渉に入る考えを示した。
238人間七七四年
2022/06/11(土) 20:33:27.11ID:E6KPR8lH 「朝野雑載」から上杉謙信の愛刀
上杉謙信の太刀は小豆粥(鎌倉行光三尺一寸。川中島にて信玄と立ち合った時の太刀である)、
谷切(来国俊作)、竹股兼光という、当代のすぐれもの三腰があった。
竹股兼光は、元来越後老津の百姓の刀であったが、不思議の霊剣ということで秘蔵して持っていたのを、竹股三河守(竹俣慶綱)が所望して家宝とした。
やがて謙信の耳に入り、謙信は乞い取って指料とした。
弘治二年(1556年)三月二十五日夜、二度目の川中島合戦のとき、信玄の家人・輪形目平太夫というものが一匁筒の鉄砲を構えていたところに、謙信が来て斬りかかり、かの竹股兼光で切り伏せた。
首は宇佐美駿河守定行の郎党・塚内が討ち取った。
夜が明けて甲州衆が輪形目の死骸を見たところ、持っていた一匁筒の二の目当の上を切断して真っ二つにしていた。
「いったい何を使って切ったのだろう?」と皆怪しんだ。
夜中のため、見た人もいなかったが、定めて謙信がお切りなさったのだろうと言い合った。
この刀、景勝の代に京都へのぼらせこしらえたところ、一年ほどへてようやくこしらえができ、越後に戻ってきた。
景勝の家老、直江・本庄をはじめ、そのほか宿老どもを呼び寄せ、その刀を見せなさった。
「さすが都の水で磨いただけあって、見事にできたものだ。まるで新刀のようだ」とおのおのは誉めそやした。
上杉謙信の太刀は小豆粥(鎌倉行光三尺一寸。川中島にて信玄と立ち合った時の太刀である)、
谷切(来国俊作)、竹股兼光という、当代のすぐれもの三腰があった。
竹股兼光は、元来越後老津の百姓の刀であったが、不思議の霊剣ということで秘蔵して持っていたのを、竹股三河守(竹俣慶綱)が所望して家宝とした。
やがて謙信の耳に入り、謙信は乞い取って指料とした。
弘治二年(1556年)三月二十五日夜、二度目の川中島合戦のとき、信玄の家人・輪形目平太夫というものが一匁筒の鉄砲を構えていたところに、謙信が来て斬りかかり、かの竹股兼光で切り伏せた。
首は宇佐美駿河守定行の郎党・塚内が討ち取った。
夜が明けて甲州衆が輪形目の死骸を見たところ、持っていた一匁筒の二の目当の上を切断して真っ二つにしていた。
「いったい何を使って切ったのだろう?」と皆怪しんだ。
夜中のため、見た人もいなかったが、定めて謙信がお切りなさったのだろうと言い合った。
この刀、景勝の代に京都へのぼらせこしらえたところ、一年ほどへてようやくこしらえができ、越後に戻ってきた。
景勝の家老、直江・本庄をはじめ、そのほか宿老どもを呼び寄せ、その刀を見せなさった。
「さすが都の水で磨いただけあって、見事にできたものだ。まるで新刀のようだ」とおのおのは誉めそやした。
239人間七七四年
2022/06/11(土) 20:35:15.85ID:E6KPR8lH しかし元の持ち主の竹股三河守はじっくりと見て、
「これは御当家の兼光ではございません。定めて取り替えたものでしょう」と言った。
景勝「その目利きはどういうことだ?」
三河守「かの御刀ははばき元より一寸五分上、しのぎに馬の毛一筋とおすほどの穴があり、
指表から指裏に通っていました。
それがしでなければ知る人もいないでしょう」
そこで三河守を早速京都にのぼらせて、三河守はしばらく京に滞在し、備前兼光の一尺八寸から三尺の売刀を求めたところ、はたして清水の南坂より持って来る者がいた。
そこでこれこそが竹股兼光の正真のものである、と三河守はこの趣を石田治部少輔に訴えたところ、偽物を出した罪人十三人をからめとり、日野岡峠に磔にかけた。
のちに正真の兼光を三河守は越後に持ち帰り、景勝の前でしのぎの穴に馬の毛を一筋引き通して見せ申した。
景勝をはじめ諸人は「奇妙の刀」だと感じた。
このことが秀吉公の上聞に達し、ほどなく景勝に御所望が下り、秀吉公に指し上らせた。
大坂落城のとき、城中に籠っていた浪人はこれを取って和泉・河内の間に落ちていったと噂が立ったため、
将軍家からもさまざまに御詮索があったが、とうとうそのありかはわからなかったという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-546.html
上杉謙信と「竹俣兼光」・悪い話
以前に出たのとは微妙に違う話
「宇佐美定行」の名前が出ているので話半分でよろしくお願いします。
「これは御当家の兼光ではございません。定めて取り替えたものでしょう」と言った。
景勝「その目利きはどういうことだ?」
三河守「かの御刀ははばき元より一寸五分上、しのぎに馬の毛一筋とおすほどの穴があり、
指表から指裏に通っていました。
それがしでなければ知る人もいないでしょう」
そこで三河守を早速京都にのぼらせて、三河守はしばらく京に滞在し、備前兼光の一尺八寸から三尺の売刀を求めたところ、はたして清水の南坂より持って来る者がいた。
そこでこれこそが竹股兼光の正真のものである、と三河守はこの趣を石田治部少輔に訴えたところ、偽物を出した罪人十三人をからめとり、日野岡峠に磔にかけた。
のちに正真の兼光を三河守は越後に持ち帰り、景勝の前でしのぎの穴に馬の毛を一筋引き通して見せ申した。
景勝をはじめ諸人は「奇妙の刀」だと感じた。
このことが秀吉公の上聞に達し、ほどなく景勝に御所望が下り、秀吉公に指し上らせた。
大坂落城のとき、城中に籠っていた浪人はこれを取って和泉・河内の間に落ちていったと噂が立ったため、
将軍家からもさまざまに御詮索があったが、とうとうそのありかはわからなかったという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-546.html
上杉謙信と「竹俣兼光」・悪い話
以前に出たのとは微妙に違う話
「宇佐美定行」の名前が出ているので話半分でよろしくお願いします。
240人間七七四年
2022/06/11(土) 21:17:11.88ID:q+6P8a6t241人間七七四年
2022/06/12(日) 10:58:32.97ID:oljx+cCd 竹俣で元女流棋士でフジテレビアナウンサーの竹俣紅を思い出したら
この竹俣慶綱の子孫だった
この竹俣慶綱の子孫だった
242人間七七四年
2022/06/12(日) 19:35:25.84ID:7TbLK4mt 群馬県立歴史博物館
「戦国上州の刀剣と甲冑」
https://grekisi.pref.gunma.jp/event/1767/
戦国時代の上州の郷土刀は、五家伝の中の相州伝を基礎にしていると言われます。相州伝は正宗などでたいへん著名な刀剣を生み、
その系譜を継ぐ上州の郷土刀を展示します。甲冑では、上杉や武田といった戦国大名にも愛用された上州甲冑師の製作した貴重な兜が
確認されています。古文書や絵画もあわせて展示し、製作者を含めた上州の刀剣と甲冑の姿とその歴史に迫ります。
令和4年7月9日(土)~8月28日(日)
・前期 [ 7月9日(土)~7月31日(日)]
・後期 [ 8月2日(火)~8月28日(日)]
展示そのものは上州鍛冶による刀剣と兜(兜鉢)中心でかなり地味マニアックなものになる予定ですが・・・
今回の目玉はなんといっても直江兼続の「愛の兜」!
米沢市、上杉神社から貸し出し展示されるのはなんと初めてです。過去、兼続の別の甲冑は貸し出しもありましたがこれは本当に初めてだとのこと。
愛の兜は兜鉢(兜中心の半球部分)が上州鍛冶の作、というわけでほぼ400年ぶりの里帰り展示であります。
次があるかはわからないので、山形県外での展示はこれから先この時しかないかもしれません。後期日程のみなので日程に気を付けて是非ご来訪を。
名刀・木下正宗と下記逸話の本庄兜も同時展示です。
「本庄正宗」由来
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%E6%9C%AC%E5%BA%84
「戦国上州の刀剣と甲冑」
https://grekisi.pref.gunma.jp/event/1767/
戦国時代の上州の郷土刀は、五家伝の中の相州伝を基礎にしていると言われます。相州伝は正宗などでたいへん著名な刀剣を生み、
その系譜を継ぐ上州の郷土刀を展示します。甲冑では、上杉や武田といった戦国大名にも愛用された上州甲冑師の製作した貴重な兜が
確認されています。古文書や絵画もあわせて展示し、製作者を含めた上州の刀剣と甲冑の姿とその歴史に迫ります。
令和4年7月9日(土)~8月28日(日)
・前期 [ 7月9日(土)~7月31日(日)]
・後期 [ 8月2日(火)~8月28日(日)]
展示そのものは上州鍛冶による刀剣と兜(兜鉢)中心でかなり地味マニアックなものになる予定ですが・・・
今回の目玉はなんといっても直江兼続の「愛の兜」!
米沢市、上杉神社から貸し出し展示されるのはなんと初めてです。過去、兼続の別の甲冑は貸し出しもありましたがこれは本当に初めてだとのこと。
愛の兜は兜鉢(兜中心の半球部分)が上州鍛冶の作、というわけでほぼ400年ぶりの里帰り展示であります。
次があるかはわからないので、山形県外での展示はこれから先この時しかないかもしれません。後期日程のみなので日程に気を付けて是非ご来訪を。
名刀・木下正宗と下記逸話の本庄兜も同時展示です。
「本庄正宗」由来
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%E6%9C%AC%E5%BA%84
243人間七七四年
2022/06/12(日) 19:37:25.45ID:7TbLK4mt http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13095.html
逸話記事URLはこっちでした。
逸話記事URLはこっちでした。
244人間七七四年
2022/06/12(日) 22:25:05.26ID:XbCAg6GT アフィカス自殺まだ?
245人間七七四年
2022/06/13(月) 16:33:10.50ID:fimvgw9r 大阪冬の陣、蜂須賀阿波守(至鎮)の陣に大阪方の城兵が夜討ちの時(本町橋の夜戦)、
阿波守よりこの趣を仔細に書付け報告された。
この検使として幕府より、小栗又市が遣わされた。ところが彼は蜂須賀手先の柵を、
又市の計らいとして取り除けさせた。蜂須賀家の家臣たちも心得難く思ったが、幕府の
検使の指図であるので、それに任せた。
翌十七日、大御所(徳川家康)は本町筋を御巡見された。そして夜討ちの場、且つ柵の様子を
ご覧になって「阿波守、若輩たりと雖も、弓箭に賢き仕方なり。」と、甚だ御感あったという。
(新東鑑)
阿波守よりこの趣を仔細に書付け報告された。
この検使として幕府より、小栗又市が遣わされた。ところが彼は蜂須賀手先の柵を、
又市の計らいとして取り除けさせた。蜂須賀家の家臣たちも心得難く思ったが、幕府の
検使の指図であるので、それに任せた。
翌十七日、大御所(徳川家康)は本町筋を御巡見された。そして夜討ちの場、且つ柵の様子を
ご覧になって「阿波守、若輩たりと雖も、弓箭に賢き仕方なり。」と、甚だ御感あったという。
(新東鑑)
246人間七七四年
2022/06/15(水) 19:22:14.33ID:5g8e6ETv 「救民記」より足立河内守の沙汰
救民(朽網)の家臣、足立河内守という者は初めは馬医を業としていたが、猛武勇力があり、身長六尺余、眼中も常人と違った。
(別本によれば「眼のうちにニクミあり」とあるので重瞳か)
そこで若侍といえど剣術を教え、朽網鎮則公より、冬田一反を与えられていた。
鎮則公が筑後御陣から凱旋された時、河内守はお迎えに出たが、身分に過ぎた出立ちで、徒士の者十二人、若い女十二人、美色を揃えて鎮則公を甚だ豊美に饗応した。
鎮則公も不審に思い検分したところ、領地を甚だしく横領していたため、誅殺すべきと決まった。
そこで中須の館で馬の治療をせよ、と河内守を呼び出し、甲斐右馬助と岩屋勘解由左衛門に殺させた。
河内守の妻子は驚き、仇敵の国にはいられないと肥後国阿蘇山の麓に居住した。
ただ朽網没落の後は故郷を忘れがたかったのか帰って住居していた。
右馬助は剃髪して一朴と称して居住していたが、
「足立河内守の息子の源助も今は故郷に帰っているようだが、我を見れば心得違いにも親の仇と思うだろう。」
といっそ自分から源助の家を訪ね、いきさつを丁寧に話し
「上意と言いながら、そなたの父の首を討ったのは我であるので、快く我を殺して亡父に報いよ」
と言ったところ、
源助は「元来、我が父に罪があって主君により誅殺されたのに、どうしてそこもとに仇を報ずる理がありましょうや」と言った。
こうして一朴・源助両人は相親しみ、交際するようになった。
救民(朽網)の家臣、足立河内守という者は初めは馬医を業としていたが、猛武勇力があり、身長六尺余、眼中も常人と違った。
(別本によれば「眼のうちにニクミあり」とあるので重瞳か)
そこで若侍といえど剣術を教え、朽網鎮則公より、冬田一反を与えられていた。
鎮則公が筑後御陣から凱旋された時、河内守はお迎えに出たが、身分に過ぎた出立ちで、徒士の者十二人、若い女十二人、美色を揃えて鎮則公を甚だ豊美に饗応した。
鎮則公も不審に思い検分したところ、領地を甚だしく横領していたため、誅殺すべきと決まった。
そこで中須の館で馬の治療をせよ、と河内守を呼び出し、甲斐右馬助と岩屋勘解由左衛門に殺させた。
河内守の妻子は驚き、仇敵の国にはいられないと肥後国阿蘇山の麓に居住した。
ただ朽網没落の後は故郷を忘れがたかったのか帰って住居していた。
右馬助は剃髪して一朴と称して居住していたが、
「足立河内守の息子の源助も今は故郷に帰っているようだが、我を見れば心得違いにも親の仇と思うだろう。」
といっそ自分から源助の家を訪ね、いきさつを丁寧に話し
「上意と言いながら、そなたの父の首を討ったのは我であるので、快く我を殺して亡父に報いよ」
と言ったところ、
源助は「元来、我が父に罪があって主君により誅殺されたのに、どうしてそこもとに仇を報ずる理がありましょうや」と言った。
こうして一朴・源助両人は相親しみ、交際するようになった。
247人間七七四年
2022/06/15(水) 19:23:16.94ID:5g8e6ETv 源助は農民とはいえいまだ武を嗜んでいたが、本田民部少輔が肥後国に転封された時、その従士、三人が源助の家の近くを通った。
源助は田に行っていたため家には源助の妻しかいなかったが、従士たちは家に立ち入り、「食い物を出して食わせよ」と言ってきた。
源助の妻が「貧しい家ですので出せるものもありません」と答えたところ、従士は刀に手をかけて「早く出せ!」と怒った。
そこへ源助が帰ってきたので
従士たちが「その方は亭主か、見れば大弓が架けられているが物好きなことよ。見せてみよ」
と言うと、従士たちの傲慢不遜ぶりを見た源助は
「では見せて差し上げましょう」と大弓を手に取り、一雁股の矢をつがい、ひと引きした。
それを見た三人の従士たちは驚いて逃げ、坂を下ろうとした。
そこで坂の上の柳の大枝を三人の上に射落としたところ、三人は「御免御免」と言いながらかたまりになって逃げたと言う。
源助は田に行っていたため家には源助の妻しかいなかったが、従士たちは家に立ち入り、「食い物を出して食わせよ」と言ってきた。
源助の妻が「貧しい家ですので出せるものもありません」と答えたところ、従士は刀に手をかけて「早く出せ!」と怒った。
そこへ源助が帰ってきたので
従士たちが「その方は亭主か、見れば大弓が架けられているが物好きなことよ。見せてみよ」
と言うと、従士たちの傲慢不遜ぶりを見た源助は
「では見せて差し上げましょう」と大弓を手に取り、一雁股の矢をつがい、ひと引きした。
それを見た三人の従士たちは驚いて逃げ、坂を下ろうとした。
そこで坂の上の柳の大枝を三人の上に射落としたところ、三人は「御免御免」と言いながらかたまりになって逃げたと言う。
248人間七七四年
2022/06/16(木) 07:36:11.87ID:zq9tP/lN ジャップの国技は強盗と強姦だからなぁ
249人間七七四年
2022/06/16(木) 11:44:22.01ID:T4UNuVOO それ半島の一子相伝伝統芸能じゃん
まあ全員が相伝してるんだけど
まあ全員が相伝してるんだけど
251人間七七四年
2022/06/17(金) 19:06:51.60ID:lpnKPrs/ 福岡・博多の地誌「石城志」から組香(香の聞き分け)の名人の話
(享保の頃に書かれた鶴田七右衛門「博多記」出典という)
綱輪町に沈香屋宗有というものがいた。
香をきくこと、世に名人と称されていた。
ある時、黒田長政公が彼を召して香を聞かせなさった。
宗有は「これは肥後殿が貯えなさっている「破れ笠」と号する名香でしょう」と判じた。
長政公は驚き、どうしてその香を知っているのかと問いなさった。
宗有が答えて言うには、
「三十年以前、伏見で女が焼いている香を聞いたところ、名香であったため、出所を尋ねたのです。
すると肥後殿近習の士からもらった破れ笠という香と申しておりました。
この香は破れ笠に相違ありません」
と申したそうだ。
(享保の頃に書かれた鶴田七右衛門「博多記」出典という)
綱輪町に沈香屋宗有というものがいた。
香をきくこと、世に名人と称されていた。
ある時、黒田長政公が彼を召して香を聞かせなさった。
宗有は「これは肥後殿が貯えなさっている「破れ笠」と号する名香でしょう」と判じた。
長政公は驚き、どうしてその香を知っているのかと問いなさった。
宗有が答えて言うには、
「三十年以前、伏見で女が焼いている香を聞いたところ、名香であったため、出所を尋ねたのです。
すると肥後殿近習の士からもらった破れ笠という香と申しておりました。
この香は破れ笠に相違ありません」
と申したそうだ。
252人間七七四年
2022/06/18(土) 06:38:30.39ID:uxja96LI 福岡県民は朝鮮人の後裔
これ豆な
これ豆な
253人間七七四年
2022/06/18(土) 10:16:12.01ID:12RdhQTP 帰化人は昔から日本中に沢山いるだろ。
だから何だっての?
だから何だっての?
254人間七七四年
2022/06/18(土) 11:54:50.77ID:piO9y7ec https://livedoor.blogimg.jp/unpinshishi/imgs/c/1/c12d0d83.jpg
ちなみに渡来人の遺伝子の濃さは九州は意外と少なくて四国が多い
四国の中でも他の三県と断絶してるようなイメージの土佐高知でさえも
ちなみに渡来人の遺伝子の濃さは九州は意外と少なくて四国が多い
四国の中でも他の三県と断絶してるようなイメージの土佐高知でさえも
255人間七七四年
2022/06/18(土) 17:18:13.62ID:H3EuXJFu 「朝野雑載」から
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2483.html
竹千代と黒ツグミ
の詳しいバージョン
家康公、竹千代様と申し奉っていた頃、尾張熱田の町人から「くろつく(クロツグミ)」という、小鳥の物真似ができる鳥が献上された。
近習の者たちはこの鳥の音を聞いて感心した。
しかし竹千代君がおっしゃるには
「珍しい小鳥とは思うけれども、返すので持ち帰れ」との御意であった。
「なぜお返しなさるのです?」と近習の衆が申し上げたところ
竹千代「これはたぶん、おのれ自身の音がない鳥である。
その仔細であるが、人でもさまざまな物事に器用な者は、多くはそれほど知慮が深くない者だ。
そのようなものを大将たる者は、もてあそばぬのがよい。」
とおっしゃった。
そののち「くろつく」の事を聞いてみると、実際におのれ自身の音がない鳥だったそうだ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/クロツグミ
> オスは繁殖期には大きい声で独特の囀りを行う。
>さえずりは複雑で、さまざまな鳥の声を自分の歌に取り入れることもよくする。
>日本の夏鳥で最も魅力的なさえずりを聴かせる鳥のひとつといえる。地鳴きは「キョキョキョ」など。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2483.html
竹千代と黒ツグミ
の詳しいバージョン
家康公、竹千代様と申し奉っていた頃、尾張熱田の町人から「くろつく(クロツグミ)」という、小鳥の物真似ができる鳥が献上された。
近習の者たちはこの鳥の音を聞いて感心した。
しかし竹千代君がおっしゃるには
「珍しい小鳥とは思うけれども、返すので持ち帰れ」との御意であった。
「なぜお返しなさるのです?」と近習の衆が申し上げたところ
竹千代「これはたぶん、おのれ自身の音がない鳥である。
その仔細であるが、人でもさまざまな物事に器用な者は、多くはそれほど知慮が深くない者だ。
そのようなものを大将たる者は、もてあそばぬのがよい。」
とおっしゃった。
そののち「くろつく」の事を聞いてみると、実際におのれ自身の音がない鳥だったそうだ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/クロツグミ
> オスは繁殖期には大きい声で独特の囀りを行う。
>さえずりは複雑で、さまざまな鳥の声を自分の歌に取り入れることもよくする。
>日本の夏鳥で最も魅力的なさえずりを聴かせる鳥のひとつといえる。地鳴きは「キョキョキョ」など。
256人間七七四年
2022/06/18(土) 20:29:14.49ID:S8CQs5r5 また家康さんの屁理屈が
257人間七七四年
2022/06/18(土) 21:52:36.11ID:uw2t0dxR 屁じゃなくて脱糞だろ
258人間七七四年
2022/06/19(日) 03:24:22.14ID:MWgpioh5 家康「ワシそんなこと言っとらん」ってケースじゃないかな
259人間七七四年
2022/06/20(月) 17:41:13.03ID:BoVD11zO 「朝野雑載」より小早川家の家臣・河田八助とその祖父・河田蔵人
筑前中納言秀秋(小早川秀秋)の郎従・河田八助はきわめて強力の者であり、関ヶ原合戦でも功名があった。
八助の祖父・河田蔵人は細川兵部少輔(細川勝久?)に仕えたが、永正(1504-1521)の頃、手負いの古野猪が京に出てきて老若男女を駆け殺し、負傷者が数知れぬほど出た。
足利義稙公が細川に退治せよとの命が下ったため、主君の命を受けた河田蔵人は組み伏せて猪に縄をかけて繋留した。
猪の背には苔むした小松が三本生えていて、矢も25本も立っていたそうだ。
八助も祖父に劣らぬ大力であり、小早川隆景に仕えていた。
あるとき狩場で隆景は八助を呼び、祖父同様に野猪を生捕りにせよと命じた。
八助はその日大きな猪を生捕りにした。この時十八歳であった。
関ヶ原合戦の時は松尾山の麓で大母衣をかけて高名をあらわした。
小早川家が絶えた後は池田氏に仕えたが、大坂の陣の時には鉄の大楯を軽々と持ち城へ突き寄せて、天下に名をあらわしたという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12218.html
河田八助と鉄の盾についてはこちらでも触れられていた
ついでに「朝野雑載」では源範頼の末子の茂平(範頼が殺された当時三歳)が土肥に保護されて小早川になったと書いている
筑前中納言秀秋(小早川秀秋)の郎従・河田八助はきわめて強力の者であり、関ヶ原合戦でも功名があった。
八助の祖父・河田蔵人は細川兵部少輔(細川勝久?)に仕えたが、永正(1504-1521)の頃、手負いの古野猪が京に出てきて老若男女を駆け殺し、負傷者が数知れぬほど出た。
足利義稙公が細川に退治せよとの命が下ったため、主君の命を受けた河田蔵人は組み伏せて猪に縄をかけて繋留した。
猪の背には苔むした小松が三本生えていて、矢も25本も立っていたそうだ。
八助も祖父に劣らぬ大力であり、小早川隆景に仕えていた。
あるとき狩場で隆景は八助を呼び、祖父同様に野猪を生捕りにせよと命じた。
八助はその日大きな猪を生捕りにした。この時十八歳であった。
関ヶ原合戦の時は松尾山の麓で大母衣をかけて高名をあらわした。
小早川家が絶えた後は池田氏に仕えたが、大坂の陣の時には鉄の大楯を軽々と持ち城へ突き寄せて、天下に名をあらわしたという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12218.html
河田八助と鉄の盾についてはこちらでも触れられていた
ついでに「朝野雑載」では源範頼の末子の茂平(範頼が殺された当時三歳)が土肥に保護されて小早川になったと書いている
260人間七七四年
2022/06/21(火) 13:22:33.00ID:5AhDOXhB 関ヶ原合戦の時、備前中納言(宇喜多)秀家卿の後勢七、八〇ほどが、福島左衛門大夫(正則)の先鋒、
福島丹波(治重)の備先を通ったが、地形が低かったため丹波の位置からは見えなかった所、正則の
旗本が見つけ、青木清右衛門を使いとして早々にこれを知らせた所、丹波は若者五、六〇を遣わし、
かの秀家卿の勢を追いかけさせた。
この時、黒田家の臣・後藤又兵衛が丹波の元に乗り来て「退き遅れたる敵が七、八〇ほど、対面を
横切って通っているが、能き仕物に候。追いかけて若者共に取らせ候へ」と言ってきた。
これを聞いた丹波が笑っている所に、先に遣わした五、六〇の若者たちが、皆首を取って帰ってきた。
これを見た又兵衛は「ぬからぬ丹波かな」と感じ入った。
ところがこの後、世の取り沙汰に、この時の戦いは後藤又兵衛が指図して、組勢に高名をさせたのであり、
全く又兵衛のおかげである、と言われた。丹波はこれを聞いて、「疑いもなく後藤の過言である。」と
奇怪に思い、いっそ対面して真偽を正そうと思っていたが、そのような中、又兵衛は浪人して、上方に
上がるとして、宮島で潮待ちをしていた。
この事を、安芸の領主と成った福島正則が聞きつけ、丹波を使いとして、「又兵衛を福島家で抱えたい。」と
申したが、又兵衛は「三万石ならば御奉公申すべし。」と言った。
丹波は戻りこの旨を正則に申し上げると、正則は頭を振って
「譜代のその方や小関岩美ですら二万石であり、三万石など思いもよらない!」
と言った。しかしこれを丹波は諌めて曰く
「又兵衛を三万石にて召し出されば、石見も拙者も威光が付きます。何故なら、又兵衛でさえ三万石
になるのなら、石見、丹波などは、外へ出したら四万石の侍であり、譜代故に小身のままなのだ、と
言われるでしょう。ならば、拙者までの面目なのです。」
そのように諌めたが、正則は承諾せず、再び丹波を使いとして、又兵衛に断りを申し遣わした。
そして暇乞して帰る時、先達ての世上の取り沙汰を思い出した。
「先年、関ヶ原にて備前勢の退き遅れた者達を我が手が討ち取った。ところがそれを、貴殿の指図にて
私に手柄させたのだと世上で申されているという。虚か実か、承り届けん。」
そう言って又兵衛に詰め寄ったが、又兵衛はこれに冷笑して
「貴殿と私の武辺は互角である。戦場において貴殿の指図を私は請けない。
然れば、私の指図も貴殿が請けることはないだろう。」
そのように返答したという。
(新東鑑)
福島丹波(治重)の備先を通ったが、地形が低かったため丹波の位置からは見えなかった所、正則の
旗本が見つけ、青木清右衛門を使いとして早々にこれを知らせた所、丹波は若者五、六〇を遣わし、
かの秀家卿の勢を追いかけさせた。
この時、黒田家の臣・後藤又兵衛が丹波の元に乗り来て「退き遅れたる敵が七、八〇ほど、対面を
横切って通っているが、能き仕物に候。追いかけて若者共に取らせ候へ」と言ってきた。
これを聞いた丹波が笑っている所に、先に遣わした五、六〇の若者たちが、皆首を取って帰ってきた。
これを見た又兵衛は「ぬからぬ丹波かな」と感じ入った。
ところがこの後、世の取り沙汰に、この時の戦いは後藤又兵衛が指図して、組勢に高名をさせたのであり、
全く又兵衛のおかげである、と言われた。丹波はこれを聞いて、「疑いもなく後藤の過言である。」と
奇怪に思い、いっそ対面して真偽を正そうと思っていたが、そのような中、又兵衛は浪人して、上方に
上がるとして、宮島で潮待ちをしていた。
この事を、安芸の領主と成った福島正則が聞きつけ、丹波を使いとして、「又兵衛を福島家で抱えたい。」と
申したが、又兵衛は「三万石ならば御奉公申すべし。」と言った。
丹波は戻りこの旨を正則に申し上げると、正則は頭を振って
「譜代のその方や小関岩美ですら二万石であり、三万石など思いもよらない!」
と言った。しかしこれを丹波は諌めて曰く
「又兵衛を三万石にて召し出されば、石見も拙者も威光が付きます。何故なら、又兵衛でさえ三万石
になるのなら、石見、丹波などは、外へ出したら四万石の侍であり、譜代故に小身のままなのだ、と
言われるでしょう。ならば、拙者までの面目なのです。」
そのように諌めたが、正則は承諾せず、再び丹波を使いとして、又兵衛に断りを申し遣わした。
そして暇乞して帰る時、先達ての世上の取り沙汰を思い出した。
「先年、関ヶ原にて備前勢の退き遅れた者達を我が手が討ち取った。ところがそれを、貴殿の指図にて
私に手柄させたのだと世上で申されているという。虚か実か、承り届けん。」
そう言って又兵衛に詰め寄ったが、又兵衛はこれに冷笑して
「貴殿と私の武辺は互角である。戦場において貴殿の指図を私は請けない。
然れば、私の指図も貴殿が請けることはないだろう。」
そのように返答したという。
(新東鑑)
261人間七七四年
2022/06/23(木) 20:03:00.28ID:ILFaMVm8263人間七七四年
2022/06/25(土) 22:49:22.14ID:POeF0AOd 「両豊記」より「異国船着岸 附・鉄炮の事」
享禄三年(1530年)の夏、南蛮国から大船九艘が豊後府内に着岸した。
商売目的であり、絹布・薬種そのほか重宝の珍物が数えられぬほどあった。
このことが諸国に知れ渡ったため、国々の商人が金銀を持ちきたって、我も我もと買い争った。
言語も文字も通じなかったが、南蛮人の方はあらかじめ予測していたのか大明の儒者を雇っていた。
こちらが保首座という禅家の学匠をもって書を遣わしたところ、三官という儒者が読んで、筆談で意思疎通をした。
儒者が言うには「我は大明国の者であるが、通訳のために雇われて来た。
船頭水主以下の者どもはみな南蛮人である。
我も南蛮のことについてはよく知らないのだが、船中を見るに、上下の礼儀がなく、
朝夕の食事も大勢が一つの大きな器から手づかみで食っていて、言葉にできぬありさまだ。」と申した。
この南蛮人どもは屋形に種々の重宝を献上したが、その中に兵具が二つあった。
長さは三尺余で鉄炮と言ったそうだ。
これが豊後における鉄炮の始まりである。
南蛮人どもは商売がうまくいったため順風満帆で帰国した。
そののち天文二十年(1551年)に着船した時には、南蛮の商主から石火矢という大きな鉄炮が献上された。
のちに臼杵丹生島で大友と島津が合戦した時、この大筒で薩州勢を撃ち殺し、落城を防いだということだ。
(「大友興廃記」では南蛮から大砲・国崩しが到来したのは天正四年(1576年)としている)
種子島以前とはいえ鉄炮を量産したわけではないようだ
享禄三年(1530年)の夏、南蛮国から大船九艘が豊後府内に着岸した。
商売目的であり、絹布・薬種そのほか重宝の珍物が数えられぬほどあった。
このことが諸国に知れ渡ったため、国々の商人が金銀を持ちきたって、我も我もと買い争った。
言語も文字も通じなかったが、南蛮人の方はあらかじめ予測していたのか大明の儒者を雇っていた。
こちらが保首座という禅家の学匠をもって書を遣わしたところ、三官という儒者が読んで、筆談で意思疎通をした。
儒者が言うには「我は大明国の者であるが、通訳のために雇われて来た。
船頭水主以下の者どもはみな南蛮人である。
我も南蛮のことについてはよく知らないのだが、船中を見るに、上下の礼儀がなく、
朝夕の食事も大勢が一つの大きな器から手づかみで食っていて、言葉にできぬありさまだ。」と申した。
この南蛮人どもは屋形に種々の重宝を献上したが、その中に兵具が二つあった。
長さは三尺余で鉄炮と言ったそうだ。
これが豊後における鉄炮の始まりである。
南蛮人どもは商売がうまくいったため順風満帆で帰国した。
そののち天文二十年(1551年)に着船した時には、南蛮の商主から石火矢という大きな鉄炮が献上された。
のちに臼杵丹生島で大友と島津が合戦した時、この大筒で薩州勢を撃ち殺し、落城を防いだということだ。
(「大友興廃記」では南蛮から大砲・国崩しが到来したのは天正四年(1576年)としている)
種子島以前とはいえ鉄炮を量産したわけではないようだ
264人間七七四年
2022/06/26(日) 22:05:18.83ID:mmbd0jN2 真田左衛門佐信仍(信繁)(本書に、世に幸村と云うは誤りなりと云々)は、家康公に御敵対申す始めより、
千子村正の大小を常に身を放たず帯していたという。村正の道具は、徳川家に祟るという説を真田が聞いて、
調伏の心としたのであろう。士たる者は、平生よりこのような忠義を含み、心を尽くすべし。
また石田治部少輔(三成)は悪しからざる者である。如何なる人であっても、各々その主人のために
命を軽んじ、義を立てて事を行う者は、敵であっても悪むべきではない。これは君臣共に心得るべき
事である。
これは水戸黄門光圀卿は宣われた事だという。
(新東鑑)
千子村正の大小を常に身を放たず帯していたという。村正の道具は、徳川家に祟るという説を真田が聞いて、
調伏の心としたのであろう。士たる者は、平生よりこのような忠義を含み、心を尽くすべし。
また石田治部少輔(三成)は悪しからざる者である。如何なる人であっても、各々その主人のために
命を軽んじ、義を立てて事を行う者は、敵であっても悪むべきではない。これは君臣共に心得るべき
事である。
これは水戸黄門光圀卿は宣われた事だという。
(新東鑑)
265人間七七四年
2022/06/28(火) 22:46:36.60ID:jbOcgdLv 大阪冬の陣の時、蜂須賀阿波守(至鎮)の陣に塙団右衛門が夜討ちした時、蜂須賀の家臣・賀島主水という者、
この時十五歳であったが、敵が一人、橋の欄干に在ったのを、鑓を突き立てたが、かの者は
「味方を見誤ったか!?」と言ってきた。それを聞いた味方の者達も「同士討ちするな!」と
声をかけてきたので、賀島はそのまま鑓を引いた。
するとかの者は大阪城内に駆け入り、馬を控えて、
「只今の士は、何と言える若者ぞ!?我は今夜の大将、塙団右衛門なり!!」
と名乗り捨てて内に入ったという。賀島主水はこの事を。老後まで語っていたとか。
(新東鑑)
この時十五歳であったが、敵が一人、橋の欄干に在ったのを、鑓を突き立てたが、かの者は
「味方を見誤ったか!?」と言ってきた。それを聞いた味方の者達も「同士討ちするな!」と
声をかけてきたので、賀島はそのまま鑓を引いた。
するとかの者は大阪城内に駆け入り、馬を控えて、
「只今の士は、何と言える若者ぞ!?我は今夜の大将、塙団右衛門なり!!」
と名乗り捨てて内に入ったという。賀島主水はこの事を。老後まで語っていたとか。
(新東鑑)
266人間七七四年
2022/06/30(木) 17:26:18.65ID:1TQVRMpv 「朝野雑載」から曽呂利新左衛門の死
曽呂利新左衛門は南庄目口町刀の鞘師であり、細工で誉高かった。
小口に刀を差し入れると、そろりと鞘によくあったため異名を「そろり」と言った。
のちに太閤に召し出され、細工を承った。
口がうまいため、細工の名人のみならず、「そろりが咄」とひて世俗に言い伝えられた。
曽呂利の臨終に秀吉公は上使を遣わされ「何事かのぞみはないか?」と上意があった。
曽呂利「望みはありません。
もし冥土の御一門へ御文を遣わせられるならば、片便ではありますが届け申しましょう」と申した。
臨終までも咄はやめなかったということだ。
曽呂利新左衛門の没年が1597年だとすると、秀長や大政所だけではなく秀次も御一門に入ってしまうような
曽呂利新左衛門は南庄目口町刀の鞘師であり、細工で誉高かった。
小口に刀を差し入れると、そろりと鞘によくあったため異名を「そろり」と言った。
のちに太閤に召し出され、細工を承った。
口がうまいため、細工の名人のみならず、「そろりが咄」とひて世俗に言い伝えられた。
曽呂利の臨終に秀吉公は上使を遣わされ「何事かのぞみはないか?」と上意があった。
曽呂利「望みはありません。
もし冥土の御一門へ御文を遣わせられるならば、片便ではありますが届け申しましょう」と申した。
臨終までも咄はやめなかったということだ。
曽呂利新左衛門の没年が1597年だとすると、秀長や大政所だけではなく秀次も御一門に入ってしまうような
268人間七七四年
2022/07/02(土) 11:34:21.30ID:zuvPQuU8 織田信長公が阿弥陀寺において由緒深き由来を詳しく尋ねると、元々信長公は御生存の間から
当寺開山・清玉上人と年来御別懇であり、御目をかけられていた事、世に隠れない事であったが、
そのような所に明智日向守光秀の謀反を起こし、天正十年六月二日の早朝、信長公の御旅館である
本能寺に押し寄せ合戦に及んだ。
この事早速清玉上人は聞きつけ、大いに驚かれ、手前の坊主、並びに僧徒二十人ばかりを召し連れ
取り敢えず本能寺へ駆けつけたが、表門・合壁は軍勢のためになかなか近寄ること出来そうにないと
見えた。清玉上人は裏道、堀溝の案内を能く存じられていたので、裏道にまわり本能寺の裏から
垣を破って寺内へようやく駆けつけた所、最早本能寺に火が掛かり、信長公も御切腹されたと聞いて
力を落とし、ふと傍らを見ると、墓の後ろ、藪の中で十人余りがうちより、落ち葉のようなものなどを
折りくべて火を焚いていた。清玉上人は不思議に思いその場所に立ち寄ると、そこにいたのは皆
見知った武士たちであった。
「こはいかに、さて、信長公は如何されたのでしょうか」
と、問うと、
「もはや御切腹遊ばされ、御遺言にて、『死骸を敵に取られるな、首を敵方に渡すな』と仰せ置かれました。
しかし、御遺骸を抱いて立ち退くにも四方敵の中であり、差し当たって致すべき思案もない故に、御死骸を
只今これにて御火葬に致し、灰と成して敵から隠し、我々はその後切腹仕り、御供申し候はんと考え、
只今御葬りを仕っているのです。」
そう、各々一同に答えられた。
清玉上人はこれを見て、「幸いの事です。私は内々に、各々方も御存知の通り、旧来御懇意の上意に預かり、
有り難く存じ奉っていました。ですので、何か御用も有るかと思い、早々にこちらに駆けつけましたが、
もはや御生害にて是非に及びません。しかし火葬は出家の役ですから、ここを愚僧にお渡しください。
僧徒も数多召し連れていますので、御火葬に致し御骨を我が寺に持ち帰って葬り奉って、御墓を築き
御送り、御法事等も愚僧の力の限り勤めます。ですのでその事はお気遣いなく、ここを私に任せて、
敵も表に見えますから、各々は御働きあって速やかに討ち死にし、御供なされますように。」
と申すと、皆々悦び申された「兼ねて御懇情の事なれば、思し召し至極に存じ候。
左様であれば仰せに従い、貴僧をへここを頼み置き、我々は罷り出て、猶入り来る敵を防ぎ、
心静かに切腹仕るので、どうか頼み入る。」
と、一両人を残して皆々立ち退き表へと出た。故に清玉上人は御火葬を受け取り、暫時に煙と成し奉り、
御骨を取り集め衣に包み、本能寺の僧衆が立ち退く風情して阿弥陀寺へ帰られ、御骨を先ずは深く
隠し置き、暫く日数も過ぎて、塔頭の僧徒ばかりにて密かに御葬儀を執り行い、葬り奉って御墓を
築き給い、御骨も納めた。
信長公の根本の御墓所は阿弥陀寺において、現在に至るまで御命日の法事を、懈怠無くあい勤め奉っている。
信長記に、『御首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ士卒に命じて殊の外
尋ねさせらが何としたことか、骸骨と思しきさえ見えざりつる』と有るのは、このためである。
『信長公阿彌陀寺由緖之記録』
当寺開山・清玉上人と年来御別懇であり、御目をかけられていた事、世に隠れない事であったが、
そのような所に明智日向守光秀の謀反を起こし、天正十年六月二日の早朝、信長公の御旅館である
本能寺に押し寄せ合戦に及んだ。
この事早速清玉上人は聞きつけ、大いに驚かれ、手前の坊主、並びに僧徒二十人ばかりを召し連れ
取り敢えず本能寺へ駆けつけたが、表門・合壁は軍勢のためになかなか近寄ること出来そうにないと
見えた。清玉上人は裏道、堀溝の案内を能く存じられていたので、裏道にまわり本能寺の裏から
垣を破って寺内へようやく駆けつけた所、最早本能寺に火が掛かり、信長公も御切腹されたと聞いて
力を落とし、ふと傍らを見ると、墓の後ろ、藪の中で十人余りがうちより、落ち葉のようなものなどを
折りくべて火を焚いていた。清玉上人は不思議に思いその場所に立ち寄ると、そこにいたのは皆
見知った武士たちであった。
「こはいかに、さて、信長公は如何されたのでしょうか」
と、問うと、
「もはや御切腹遊ばされ、御遺言にて、『死骸を敵に取られるな、首を敵方に渡すな』と仰せ置かれました。
しかし、御遺骸を抱いて立ち退くにも四方敵の中であり、差し当たって致すべき思案もない故に、御死骸を
只今これにて御火葬に致し、灰と成して敵から隠し、我々はその後切腹仕り、御供申し候はんと考え、
只今御葬りを仕っているのです。」
そう、各々一同に答えられた。
清玉上人はこれを見て、「幸いの事です。私は内々に、各々方も御存知の通り、旧来御懇意の上意に預かり、
有り難く存じ奉っていました。ですので、何か御用も有るかと思い、早々にこちらに駆けつけましたが、
もはや御生害にて是非に及びません。しかし火葬は出家の役ですから、ここを愚僧にお渡しください。
僧徒も数多召し連れていますので、御火葬に致し御骨を我が寺に持ち帰って葬り奉って、御墓を築き
御送り、御法事等も愚僧の力の限り勤めます。ですのでその事はお気遣いなく、ここを私に任せて、
敵も表に見えますから、各々は御働きあって速やかに討ち死にし、御供なされますように。」
と申すと、皆々悦び申された「兼ねて御懇情の事なれば、思し召し至極に存じ候。
左様であれば仰せに従い、貴僧をへここを頼み置き、我々は罷り出て、猶入り来る敵を防ぎ、
心静かに切腹仕るので、どうか頼み入る。」
と、一両人を残して皆々立ち退き表へと出た。故に清玉上人は御火葬を受け取り、暫時に煙と成し奉り、
御骨を取り集め衣に包み、本能寺の僧衆が立ち退く風情して阿弥陀寺へ帰られ、御骨を先ずは深く
隠し置き、暫く日数も過ぎて、塔頭の僧徒ばかりにて密かに御葬儀を執り行い、葬り奉って御墓を
築き給い、御骨も納めた。
信長公の根本の御墓所は阿弥陀寺において、現在に至るまで御命日の法事を、懈怠無くあい勤め奉っている。
信長記に、『御首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ士卒に命じて殊の外
尋ねさせらが何としたことか、骸骨と思しきさえ見えざりつる』と有るのは、このためである。
『信長公阿彌陀寺由緖之記録』
269人間七七四年
2022/07/02(土) 11:51:11.89ID:SZ/7KzMX270人間七七四年
2022/07/02(土) 19:17:50.79ID:sNNpHE3Q 「大友興廃記」から「小笠原宗忠、大神見介、臼杵主税介、渡唐の事」
小笠原晴宗の次男、宗忠は浪人として豊後で年月を送っていたが、これまたいたずらに浪人の日々を過ごしていた大神見介、臼杵主税介とともに
「無為に過ごすよりは唐に渡り見物をしよう」ということで三人とも肥前長崎から海を越えて明の大王の都に渡った。
もともと大友宗麟公は明の大王と通交して遣唐使や明の勅使の往来もあったため、三人が宗麟公の御判の状を持参すると
明の天子も「懇切に遇せ」との綸言を発してくれたため、言語は通じないまでも文字により数日を暮らしていた。
あるとき禁中から遠くないところで謀叛が起きたため、御誅伐の綸言が将軍たちに申し付けられた。
宗忠たち三人は「われわれ三人に先鋒を仰せつけください。官軍は後陣で遊ばされよ」と申したところ、天子からのゆるしがでた、
三人はよろこび先手となり、わずか九十三人が籠る城へと向かった。
宗忠は小笠原の末子ではあるが軍法を極めており、槍の秘術を会得していた。ほかの二人も一流の槍の使い手であった。
城から出てきた敵兵を三人で六十八人討ち取り、大将も討ちふせ首をとった。
逃げた者どもは後軍の官軍が退治した。
明の天子の叡慮は浅くなく、望みの褒美を与えようと仰られた。
三人が言うには「先年、信長公が安土におわしたとき、道坊と言うものが
『信長公への一日の進物をください。自分の運を試そうと思います』
と申したところ、その日の進物は銅銭一貫文だけだったので、信長公は道坊を憐れんだということです。
明であればそのようなことはないでしょうから、一日の御調物を下されたく思います」
と奏聞した。
しかしその日の御調物は常々よりも少なかった。
かわった風流者だったためにこのような果報だったのだろう。
そんなこんなで明の都に一年滞在したのち、対馬・壱岐の間で嵐に逢いながらも壱岐についた。
宗忠「あら波に 船も酔へるかのみ吐て 危なき命 生(いき)の島かげ」
こうして三人とも大明国に武勇を残し、異国見物をして帰朝した。
小笠原宗忠の兄の小笠原晴定についての話は以下参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13514.html
信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13522.html
小笠原晴定誅伐の事
小笠原晴宗の次男、宗忠は浪人として豊後で年月を送っていたが、これまたいたずらに浪人の日々を過ごしていた大神見介、臼杵主税介とともに
「無為に過ごすよりは唐に渡り見物をしよう」ということで三人とも肥前長崎から海を越えて明の大王の都に渡った。
もともと大友宗麟公は明の大王と通交して遣唐使や明の勅使の往来もあったため、三人が宗麟公の御判の状を持参すると
明の天子も「懇切に遇せ」との綸言を発してくれたため、言語は通じないまでも文字により数日を暮らしていた。
あるとき禁中から遠くないところで謀叛が起きたため、御誅伐の綸言が将軍たちに申し付けられた。
宗忠たち三人は「われわれ三人に先鋒を仰せつけください。官軍は後陣で遊ばされよ」と申したところ、天子からのゆるしがでた、
三人はよろこび先手となり、わずか九十三人が籠る城へと向かった。
宗忠は小笠原の末子ではあるが軍法を極めており、槍の秘術を会得していた。ほかの二人も一流の槍の使い手であった。
城から出てきた敵兵を三人で六十八人討ち取り、大将も討ちふせ首をとった。
逃げた者どもは後軍の官軍が退治した。
明の天子の叡慮は浅くなく、望みの褒美を与えようと仰られた。
三人が言うには「先年、信長公が安土におわしたとき、道坊と言うものが
『信長公への一日の進物をください。自分の運を試そうと思います』
と申したところ、その日の進物は銅銭一貫文だけだったので、信長公は道坊を憐れんだということです。
明であればそのようなことはないでしょうから、一日の御調物を下されたく思います」
と奏聞した。
しかしその日の御調物は常々よりも少なかった。
かわった風流者だったためにこのような果報だったのだろう。
そんなこんなで明の都に一年滞在したのち、対馬・壱岐の間で嵐に逢いながらも壱岐についた。
宗忠「あら波に 船も酔へるかのみ吐て 危なき命 生(いき)の島かげ」
こうして三人とも大明国に武勇を残し、異国見物をして帰朝した。
小笠原宗忠の兄の小笠原晴定についての話は以下参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13514.html
信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13522.html
小笠原晴定誅伐の事
271人間七七四年
2022/07/02(土) 19:25:24.05ID:zuvPQuU8 確認不足で失礼しました。こちらは未だ出ていないようなので
織田信長公の御長男である三位中将信忠公は、本能寺の変の折、妙覚寺に居られたが、本能寺に軍ありと
聞き給いて、二条の新御殿に御移り遊ばされ、二条にて御生害された。
これについても御遺言にて、『遺骸を敵に渡すな、火中に打ち込み焼き捨てよ!』と仰せ置かれていたため、
御家来中はその死骸を火中に打ち込み、失い申せし故に知れ難くなっていた所を、ここも清玉上人が
早速駆けつけられ、残り居た御家来中に信忠公の死骸を打ち込めた火の場所をとくと聞き糺し、火中に
焼き捨てられた遺骨などを尽く拾い集め、阿弥陀寺へ持ち帰り、信長公御墓に相並べて御墓を築き、
今に至りこれもまた、御命日御水向を相勤め申している。
『信長公阿彌陀寺由緖之記録』
織田信長公の御長男である三位中将信忠公は、本能寺の変の折、妙覚寺に居られたが、本能寺に軍ありと
聞き給いて、二条の新御殿に御移り遊ばされ、二条にて御生害された。
これについても御遺言にて、『遺骸を敵に渡すな、火中に打ち込み焼き捨てよ!』と仰せ置かれていたため、
御家来中はその死骸を火中に打ち込み、失い申せし故に知れ難くなっていた所を、ここも清玉上人が
早速駆けつけられ、残り居た御家来中に信忠公の死骸を打ち込めた火の場所をとくと聞き糺し、火中に
焼き捨てられた遺骨などを尽く拾い集め、阿弥陀寺へ持ち帰り、信長公御墓に相並べて御墓を築き、
今に至りこれもまた、御命日御水向を相勤め申している。
『信長公阿彌陀寺由緖之記録』
274人間七七四年
2022/07/03(日) 10:56:12.62ID:ZJgGd5kV 租・調・庸の調
275人間七七四年
2022/07/03(日) 11:53:21.91ID:48uUtX46 ありがトン
276人間七七四年
2022/07/04(月) 04:39:46.11ID:aHB+oo0E 無知蒙昧のアホがいると聞いて
277人間七七四年
2022/07/04(月) 05:51:06.91ID:Rm4JHItI 居場所を探しに来たんだね
278人間七七四年
2022/07/04(月) 09:06:39.12ID:91Ll7VDC >>276
仲間探しの旅かな
仲間探しの旅かな
279人間七七四年
2022/07/04(月) 17:57:40.30ID:pd53eAzv 図星つかれたのが釣れたわw
280人間七七四年
2022/07/04(月) 20:00:07.99ID:BcLs7wOf 「大友興廃記」から伊東諸武夢想の事
伊東三位入道(伊東義祐)は島津に破れ豊後に亡命し、田原紹忍の世話となっていた。
ある荒れ寺が気に入ったため、そこで気儘で風流な生活を楽しんでいたところ、何者かが
「のみしらみ、ねずみとなりて三位殿、たはらの下をはひまはりけり」と高札に書いて門前に立て置いた。
田原紹忍は歌道に明るかったため
三位入道は「さてはこれは田原の作ではないか?」と悔しく思い、中国地方を遍歴し、最終的に京において還行された。
息子の左京大夫(伊東義益)もすでに亡くなっていたため、伊東家滅亡と思われた。
しかし左京大夫の弟・民部大夫諸武(伊東祐兵)は聖人の行いに倣い、武勇があり、諸芸の風流の人であった。
家が絶えることを哀しみ、神仏をたのんでいた甲斐があり、秀吉公の援助で年月を送っていた。
ある夜の夢想に
「日に増して、しめとる帯のいとふとき」
とあったところで目が醒めた。
「帯(飫肥おび)」とは累代の本知であり、「日に増していとふとき」とは再び繁栄するという吉兆だと喜び、連歌興行をした。
ほどなく太閤秀吉公に召し出され、本領の内で知行安堵となったことこそ不思議である。
伊東三位入道(伊東義祐)は島津に破れ豊後に亡命し、田原紹忍の世話となっていた。
ある荒れ寺が気に入ったため、そこで気儘で風流な生活を楽しんでいたところ、何者かが
「のみしらみ、ねずみとなりて三位殿、たはらの下をはひまはりけり」と高札に書いて門前に立て置いた。
田原紹忍は歌道に明るかったため
三位入道は「さてはこれは田原の作ではないか?」と悔しく思い、中国地方を遍歴し、最終的に京において還行された。
息子の左京大夫(伊東義益)もすでに亡くなっていたため、伊東家滅亡と思われた。
しかし左京大夫の弟・民部大夫諸武(伊東祐兵)は聖人の行いに倣い、武勇があり、諸芸の風流の人であった。
家が絶えることを哀しみ、神仏をたのんでいた甲斐があり、秀吉公の援助で年月を送っていた。
ある夜の夢想に
「日に増して、しめとる帯のいとふとき」
とあったところで目が醒めた。
「帯(飫肥おび)」とは累代の本知であり、「日に増していとふとき」とは再び繁栄するという吉兆だと喜び、連歌興行をした。
ほどなく太閤秀吉公に召し出され、本領の内で知行安堵となったことこそ不思議である。
281人間七七四年
2022/07/04(月) 22:02:10.36ID:lty1qK8d 考えたら「祐」の草書体を「諸」と取り違えたのかもしれない
祐兵(スケタケ)→祐武(スケタケ)→諸武ということだろう
祐兵(スケタケ)→祐武(スケタケ)→諸武ということだろう
282人間七七四年
2022/07/04(月) 22:16:07.61ID:hXjZB30E しめす偏と言偏の崩し字はまったく別物だし、右と者もまあ似てるっちゃ似てるけど取り違えないでしょう
どっちも頻出の文字だし
どっちも頻出の文字だし
283人間七七四年
2022/07/04(月) 22:27:36.14ID:YHmjXRAA これが噂の無知蒙昧っていうやつか
284人間七七四年
2022/07/05(火) 19:43:13.55ID:ubBmdJR7 絵師の狩野山楽光頼は元・木村氏にて、豊臣秀吉公に仕えていたが、画に巧みである故に
狩野永徳の養子分に仰せ付けられ、それより氏を狩野とした。
大阪陣の時、狩野山楽は大阪城に残ったが、その息子である木村右京は味方の鉄砲に当たって死んだ。
然るに、大阪落城の砌、山楽は逃げ出て八幡の瀧本坊に忍び居た所を搦め捕られ、既に誅殺されるべき
所に、九条殿並びに本願寺東台院殿より、「彼は絵師であり武辺のことには拘わらぬ者である。」
との仰せられ、助命の儀をお頼みあった。
そこで「絵師と相違無いとの證據があるか。」とお尋ねの所、先達て秀吉公が、洛東東福寺の法堂を
造営された際に、天井に僧の明兆が筆した幡龍破画の残片があったのを、狩野永徳に補画(修復)
させた所、永徳はその功を遂げずに卒した。よってその跡を山楽が描いた。
これを申し立てて、命を免れた。
現在に至っても、かの画を『證據の龍』と呼んでいるという。
山楽は現在の縫殿助の先祖である。
(新東鑑)
狩野永徳の養子分に仰せ付けられ、それより氏を狩野とした。
大阪陣の時、狩野山楽は大阪城に残ったが、その息子である木村右京は味方の鉄砲に当たって死んだ。
然るに、大阪落城の砌、山楽は逃げ出て八幡の瀧本坊に忍び居た所を搦め捕られ、既に誅殺されるべき
所に、九条殿並びに本願寺東台院殿より、「彼は絵師であり武辺のことには拘わらぬ者である。」
との仰せられ、助命の儀をお頼みあった。
そこで「絵師と相違無いとの證據があるか。」とお尋ねの所、先達て秀吉公が、洛東東福寺の法堂を
造営された際に、天井に僧の明兆が筆した幡龍破画の残片があったのを、狩野永徳に補画(修復)
させた所、永徳はその功を遂げずに卒した。よってその跡を山楽が描いた。
これを申し立てて、命を免れた。
現在に至っても、かの画を『證據の龍』と呼んでいるという。
山楽は現在の縫殿助の先祖である。
(新東鑑)
285人間七七四年
2022/07/05(火) 23:11:42.48ID:u5LZH6cj 狩野派絵師のほとんどが徳川将軍家御用の奥絵師として江戸在住だったのに対し、山楽の系統は京都在住で京狩野と呼ばれる
山楽の後継者の山雪とその子孫は代々縫殿助を称している
山楽の後継者の山雪とその子孫は代々縫殿助を称している
286人間七七四年
2022/07/07(木) 17:10:07.68ID:7LyLmL9R 将軍家に於いて、例年正月元旦に兎の御吸物を召し上がられる事について、御先祖である
世良田左京佐有親(得川有親)は上野国徳川(得川)を領され、鎌倉公方である足利左馬頭持氏の
御家人であったのだが、永享年中、足利義教将軍とかの持氏と不和のことあって合戦ありしに(永享の乱)、
左馬頭遂に打ち負けて自害され、その後は皆京都将軍の下知となり、管領上杉憲実は制法政務を厳重に
執り行ったため、威勢日々に盛んになった。
そして鎌倉公方の残党を捜し求めたが、中でも新田の一族においては、根を絶ち葉を枯らすべしとの事故、
有親は得川に安堵なり難く、同十一年(或いは十二年とあり)三月上旬、有親並びにその子息・親氏は
密かに居所を離れ出て、方々に流浪して、忍んで相州藤沢に在る、時宗の清浄寺にて髪を剃り、
有親は長阿弥、親氏は徳阿弥(後に還俗して松平太郎左衛門と称す)と名乗り予てから懇意にしていた
小笠原清宗の三男、林藤助光政という者、信州の山家に蟄居していたので、有親父子は同年十二月下旬、
かの所を尋ねて至った。
藤助は大いに悦び、何か饗応しようと思ったが一物も無く、同月二十九日、自ら雪を分けて狩りを
した所、兎一疋を得たため、翌十三年正月元旦に、この兎を吸物にして進めた。
これより徳川家の吉例となった。
そして同年六月、藤助の許を立ち越え、三州坂井の郷の氏・家を借り、有親は嘉吉二年に死去した。
(新東鑑)
徳川将軍家の正月儀礼についての伝承。徳川の先祖が永享の乱のために三河に流れてきたという話も
あったのですね。
世良田左京佐有親(得川有親)は上野国徳川(得川)を領され、鎌倉公方である足利左馬頭持氏の
御家人であったのだが、永享年中、足利義教将軍とかの持氏と不和のことあって合戦ありしに(永享の乱)、
左馬頭遂に打ち負けて自害され、その後は皆京都将軍の下知となり、管領上杉憲実は制法政務を厳重に
執り行ったため、威勢日々に盛んになった。
そして鎌倉公方の残党を捜し求めたが、中でも新田の一族においては、根を絶ち葉を枯らすべしとの事故、
有親は得川に安堵なり難く、同十一年(或いは十二年とあり)三月上旬、有親並びにその子息・親氏は
密かに居所を離れ出て、方々に流浪して、忍んで相州藤沢に在る、時宗の清浄寺にて髪を剃り、
有親は長阿弥、親氏は徳阿弥(後に還俗して松平太郎左衛門と称す)と名乗り予てから懇意にしていた
小笠原清宗の三男、林藤助光政という者、信州の山家に蟄居していたので、有親父子は同年十二月下旬、
かの所を尋ねて至った。
藤助は大いに悦び、何か饗応しようと思ったが一物も無く、同月二十九日、自ら雪を分けて狩りを
した所、兎一疋を得たため、翌十三年正月元旦に、この兎を吸物にして進めた。
これより徳川家の吉例となった。
そして同年六月、藤助の許を立ち越え、三州坂井の郷の氏・家を借り、有親は嘉吉二年に死去した。
(新東鑑)
徳川将軍家の正月儀礼についての伝承。徳川の先祖が永享の乱のために三河に流れてきたという話も
あったのですね。
287人間七七四年
2022/07/09(土) 11:09:41.07ID:/UX4P9R1 天正年中、徳川家康公は江府(江戸)に移り給った時、榊原式部大輔康政を召され、
「当城に鎮守があるか」
と御尋ねになられた。康政承り、「御曲輪の内の北の辺りに、小社が見えました。」と言上した。
則ち康政を案内として北曲輪に入ると、小坂の上に、梅の木を数多植えてあるのをご覧になって、
「太田道灌は歌人であった故に、天神を勧請したのか」
と仰せになった。また一社の額を見られて
「当城に鎮守がなければ、坂本の山王を勧請すべしと思っていたが、量らずも山王社が建て置いてあるぞ」
との上意があったのを、康政承り
「ここにおのずからそのようになっていたのは、偏に御永久の吉瑞と存じ奉ります」
と申し上げると、家康公も御機嫌斜めならずして、こうしてこの社を紅葉山に移され、新たに造立された。
(新東鑑)
この紅葉山山王社が、後に更に移転して、現在の永田町の日枝神社となったそうで。
「当城に鎮守があるか」
と御尋ねになられた。康政承り、「御曲輪の内の北の辺りに、小社が見えました。」と言上した。
則ち康政を案内として北曲輪に入ると、小坂の上に、梅の木を数多植えてあるのをご覧になって、
「太田道灌は歌人であった故に、天神を勧請したのか」
と仰せになった。また一社の額を見られて
「当城に鎮守がなければ、坂本の山王を勧請すべしと思っていたが、量らずも山王社が建て置いてあるぞ」
との上意があったのを、康政承り
「ここにおのずからそのようになっていたのは、偏に御永久の吉瑞と存じ奉ります」
と申し上げると、家康公も御機嫌斜めならずして、こうしてこの社を紅葉山に移され、新たに造立された。
(新東鑑)
この紅葉山山王社が、後に更に移転して、現在の永田町の日枝神社となったそうで。
288人間七七四年
2022/07/11(月) 18:20:37.96ID:cem3OHMR 「大友興廃記」より「遣唐使の事」
大明国より唐船が豊後に天文十年(1541年)、同十二年、同十五年、永禄年間、天正三年(1575年)とたびたび到来し、猛虎四頭、大象、孔雀、鸚鵡、麝香、書画、錦繍綾羅、伽羅、猩猩の皮などがもたらされた。
そのため大友宗麟公もいろいろ進物を集め、金札銀札を調え、遣唐使を立てるために文武両道の達人を選ばれた。
ここに生国美濃の住人、齋藤某というものが国が乱れたため和泉堺に居住していたのを宗麟公が聞こしめし、使者をあもってめしだされた。
そののち入道して稙田玄佐と号した。
宗麟公より遣唐使を命じられ、いろいろ辞退したけれども再三の貴命、断りがたく了承し、金銀の王札、音物を携えて、数千里の海を越えて唐帝のもとで朝礼を拝した。
帝王より日本の勅使並みの扱いを受けたが、にわかに重病となり、帝より名医が差し向けられたが薬石効なく逝去した。
帝はこれを憐れみ国中の僧たちを集め丁重に供養し葬ったのち、玄佐の家人に種々の重宝を下賜した。
残りの者たちは帰りに嵐に遭い難破し、命からがら二十余人が宝物とともに帰朝した。
玄佐の嫡男虎松丸は三歳より母共に宗麟公の援助を受け、七歳の春より大友義統公に奉公しながら成長した。
なお稙田玄佐の先祖は清和源氏で多田満仲の頃より渡辺氏に入り(?)、藤原実綱と縁を結び、美濃斎藤家を継ぎ、数代を経たところ不思議なことがあった。
どこともしれぬ容姿に優れた女があらわれ奉公人となったが、一を聞いて十を知る聡明さであり、領主が言わぬうちから思い通りの働きをしたため、おおいに寵愛を受けた。
やぎて懐妊し、出産する段になって女は産室を作らせ、
「七日の間、どなたも入りませんよう」と伝えた。
三日を過ぎて領主は怪しみ、隙間からひそかに見たところ、恐ろしい姿の大蛇が子供を抱いて、赤い舌を出して子供を舐めていた。
領主は肝を潰し、人を集めて産室の扉を破って入ったところ、赤子だけで蛇は行方知らずであった。
産室は池となり、風の匂いがすさまじくなった。
その子を育てたところ、背中に巴の紋があり、子孫代々同じところに巴の紋が現れるようになったという。
これが稙田の起りであり、今に至るまで背中の紋は続いているという。
大明国より唐船が豊後に天文十年(1541年)、同十二年、同十五年、永禄年間、天正三年(1575年)とたびたび到来し、猛虎四頭、大象、孔雀、鸚鵡、麝香、書画、錦繍綾羅、伽羅、猩猩の皮などがもたらされた。
そのため大友宗麟公もいろいろ進物を集め、金札銀札を調え、遣唐使を立てるために文武両道の達人を選ばれた。
ここに生国美濃の住人、齋藤某というものが国が乱れたため和泉堺に居住していたのを宗麟公が聞こしめし、使者をあもってめしだされた。
そののち入道して稙田玄佐と号した。
宗麟公より遣唐使を命じられ、いろいろ辞退したけれども再三の貴命、断りがたく了承し、金銀の王札、音物を携えて、数千里の海を越えて唐帝のもとで朝礼を拝した。
帝王より日本の勅使並みの扱いを受けたが、にわかに重病となり、帝より名医が差し向けられたが薬石効なく逝去した。
帝はこれを憐れみ国中の僧たちを集め丁重に供養し葬ったのち、玄佐の家人に種々の重宝を下賜した。
残りの者たちは帰りに嵐に遭い難破し、命からがら二十余人が宝物とともに帰朝した。
玄佐の嫡男虎松丸は三歳より母共に宗麟公の援助を受け、七歳の春より大友義統公に奉公しながら成長した。
なお稙田玄佐の先祖は清和源氏で多田満仲の頃より渡辺氏に入り(?)、藤原実綱と縁を結び、美濃斎藤家を継ぎ、数代を経たところ不思議なことがあった。
どこともしれぬ容姿に優れた女があらわれ奉公人となったが、一を聞いて十を知る聡明さであり、領主が言わぬうちから思い通りの働きをしたため、おおいに寵愛を受けた。
やぎて懐妊し、出産する段になって女は産室を作らせ、
「七日の間、どなたも入りませんよう」と伝えた。
三日を過ぎて領主は怪しみ、隙間からひそかに見たところ、恐ろしい姿の大蛇が子供を抱いて、赤い舌を出して子供を舐めていた。
領主は肝を潰し、人を集めて産室の扉を破って入ったところ、赤子だけで蛇は行方知らずであった。
産室は池となり、風の匂いがすさまじくなった。
その子を育てたところ、背中に巴の紋があり、子孫代々同じところに巴の紋が現れるようになったという。
これが稙田の起りであり、今に至るまで背中の紋は続いているという。
289人間七七四年
2022/07/11(月) 18:28:06.43ID:cem3OHMR http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13394.html
一祐働きの事 付、月山の長刀
こちらの話に出てくる「植田玄佐鎮定の嫡男で善三郎」が虎松丸のことだと思われる。
同じ「大友興廃記」出典ではあるが、「稙田」と「植田」で字が異なっている。
ついでに新井白石「西洋紀聞」では豊後の領主とフランシスコ・ザビエルについてシドッチが語っている箇所で
https://ja.m.wikisource.org/wiki/西洋紀聞
按ずるに、フランシスクスは、漢に波羅多伽兒人、佛釆釋古者といふもの、卽此也、
豐後の屋形は、大友左衞門督入道宗麟也、其使せしものは、植田入道玄佐(玄佐、もと淸和源氏にて、渡邊の家をつぎ、又齋藤の家をつぐ、家紋巴なり、其子名虎松、時に三歲也といふ)もとは、美濃國齋藤の族也、
天正十二年に、宗麟がために使して、ローマに死す、西人懷にせし册子に、一道人の甁を持て、童子の頂に灌ぐ所を、繪かきし圖を指示て、これ豐後の大名の子の、法を受くる圖也といふ、但し豐後の屋形、其使等の姓名を問ふに、其姓名は、つたはらずといふ
と植田玄佐が明ではなくローマに行ったとしている
一祐働きの事 付、月山の長刀
こちらの話に出てくる「植田玄佐鎮定の嫡男で善三郎」が虎松丸のことだと思われる。
同じ「大友興廃記」出典ではあるが、「稙田」と「植田」で字が異なっている。
ついでに新井白石「西洋紀聞」では豊後の領主とフランシスコ・ザビエルについてシドッチが語っている箇所で
https://ja.m.wikisource.org/wiki/西洋紀聞
按ずるに、フランシスクスは、漢に波羅多伽兒人、佛釆釋古者といふもの、卽此也、
豐後の屋形は、大友左衞門督入道宗麟也、其使せしものは、植田入道玄佐(玄佐、もと淸和源氏にて、渡邊の家をつぎ、又齋藤の家をつぐ、家紋巴なり、其子名虎松、時に三歲也といふ)もとは、美濃國齋藤の族也、
天正十二年に、宗麟がために使して、ローマに死す、西人懷にせし册子に、一道人の甁を持て、童子の頂に灌ぐ所を、繪かきし圖を指示て、これ豐後の大名の子の、法を受くる圖也といふ、但し豐後の屋形、其使等の姓名を問ふに、其姓名は、つたはらずといふ
と植田玄佐が明ではなくローマに行ったとしている
290人間七七四年
2022/07/14(木) 15:02:37.22ID:uooA4Rmw 「朝野雑載」から江戸城天守閣と小堀遠州
江戸城天守閣の上塗りの白土が毎年剥がれて見苦しいため、そのたびに念入りに上塗りをしていたが、風雨が強かったためかえって白土が全て剥がれてしまった。
どうしたらよかろうと御老中が議論していたところ、小堀遠州が登城してきたため
御老中は「遠州は数寄の人であるので、天守閣の白土が落ちない工夫はないだろうか?」と相談した。
遠州が答えていうには「上塗り程度であればほどなく落ちるでしょう。
天守の壁を、下地の時点で白く塗り上げて仕舞えば、風雨が強くて上塗りが少々落ちようとも、見苦しいことはないでしょう」
御老中は手を打って「なるほど、もっとも至極です」とてそのようにしたということだ。
江戸城天守閣の上塗りの白土が毎年剥がれて見苦しいため、そのたびに念入りに上塗りをしていたが、風雨が強かったためかえって白土が全て剥がれてしまった。
どうしたらよかろうと御老中が議論していたところ、小堀遠州が登城してきたため
御老中は「遠州は数寄の人であるので、天守閣の白土が落ちない工夫はないだろうか?」と相談した。
遠州が答えていうには「上塗り程度であればほどなく落ちるでしょう。
天守の壁を、下地の時点で白く塗り上げて仕舞えば、風雨が強くて上塗りが少々落ちようとも、見苦しいことはないでしょう」
御老中は手を打って「なるほど、もっとも至極です」とてそのようにしたということだ。
291人間七七四年
2022/07/15(金) 11:54:08.91ID:BM9I11l+ 戸川秀安は性質廉直、柔和にて仁慈あり、故に政事賞罰の事について、主君である宇喜多直家に
不直が有る時は、何度も押し返し諌めて正理に行い、またこれ故に人々は彼を敬い懐いた。
岡平内(家利・後豊後守)と長船又三郎(貞親・後越中守)は共に短慮であり、どうもすれば
口論に及んだが、秀安はこれを宥め諭し、
「この三人が不和になった時は、主家破却の基であるぞ!」
と涙を流して説得した。故に両人も和平したという。
また、宇喜多直家は表裏有る将であり、時々、相違う事が多いことを隣国も知っていて、
宇喜多と何かしら議する事が有る時は、彼らは戸川秀安から起請文を乞い取ってこれを
実であるとした。
(戸川記)
宇喜多家における戸川秀安について。
不直が有る時は、何度も押し返し諌めて正理に行い、またこれ故に人々は彼を敬い懐いた。
岡平内(家利・後豊後守)と長船又三郎(貞親・後越中守)は共に短慮であり、どうもすれば
口論に及んだが、秀安はこれを宥め諭し、
「この三人が不和になった時は、主家破却の基であるぞ!」
と涙を流して説得した。故に両人も和平したという。
また、宇喜多直家は表裏有る将であり、時々、相違う事が多いことを隣国も知っていて、
宇喜多と何かしら議する事が有る時は、彼らは戸川秀安から起請文を乞い取ってこれを
実であるとした。
(戸川記)
宇喜多家における戸川秀安について。
292人間七七四年
2022/07/15(金) 12:03:06.68ID:QPIAvPs9293人間七七四年
2022/07/16(土) 11:08:02.39ID:T4jJtv0Z 「朝野雑載」から明の日本への援兵要請の時の話
家光公の御時、韃靼(清)が中華を滅ぼしたため(1644年、実際には明を滅ぼしたのは李自成)、大明の大将(鄭成功)から日本へ援兵を乞うてきた。
十万の軍勢を出そうと計画したところに井伊掃部頭(井伊直孝)が述べていうことには
「昔、太閤が朝鮮を攻め、大明の援兵と戦った時にすこぶる勝利したのは、日本の兵は久しく乱世であったため戦になれており、
一方、大明の方は久しく太平であったため戦になれていなかったためです。
今、日本の兵は久しく太平で戦を知らず、韃靼の兵は大明を討って戦になれております。
若兵を遣わしたところで勝利は得られないでしょう。
日本の兵がもし敗れたなら、かえって末世まで異国にまで侮りを受けることとなりましょう。」
と申したため、援兵派遣は沙汰止みになった。
一説には上の発言は大久保彦左衛門のものだという(大久保忠隣は1639年死亡)
家光公の御時、韃靼(清)が中華を滅ぼしたため(1644年、実際には明を滅ぼしたのは李自成)、大明の大将(鄭成功)から日本へ援兵を乞うてきた。
十万の軍勢を出そうと計画したところに井伊掃部頭(井伊直孝)が述べていうことには
「昔、太閤が朝鮮を攻め、大明の援兵と戦った時にすこぶる勝利したのは、日本の兵は久しく乱世であったため戦になれており、
一方、大明の方は久しく太平であったため戦になれていなかったためです。
今、日本の兵は久しく太平で戦を知らず、韃靼の兵は大明を討って戦になれております。
若兵を遣わしたところで勝利は得られないでしょう。
日本の兵がもし敗れたなら、かえって末世まで異国にまで侮りを受けることとなりましょう。」
と申したため、援兵派遣は沙汰止みになった。
一説には上の発言は大久保彦左衛門のものだという(大久保忠隣は1639年死亡)
294人間七七四年
2022/07/16(土) 11:15:13.67ID:WAJ05+SS 鄭成功じゃなくて父親の鄭芝龍か、この時は
296人間七七四年
2022/07/16(土) 14:42:21.63ID:hQTuVJNr ついでに「朝野雑載」の別の箇所に書かれている話では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1677.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12676.html
では柳生宗矩や安井算哲のセリフとされている板倉重昌戦死の予言も大久保彦左衛門がしたことになってます
板倉重昌が戦死したのは大久保彦左衛門の死の前年だからこちらはまだ可能性がありますが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1677.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12676.html
では柳生宗矩や安井算哲のセリフとされている板倉重昌戦死の予言も大久保彦左衛門がしたことになってます
板倉重昌が戦死したのは大久保彦左衛門の死の前年だからこちらはまだ可能性がありますが
297人間七七四年
2022/07/18(月) 14:38:41.02ID:3H39QenK 天正十年には、東、北の諸国は概ね静謐となり、織田信長公は在洛されていた。
戸川秀安はその頃病気を患っており、東国が治まった事で、関東草津の温泉に、療養のため赴いた。
そのような所に、秀吉公が備中高松城を水攻めにされ、宇喜多家より危急の通告があり、
帰ろうとしている所に、信長公父子が御不慮の横死(本能寺の変)に及び、諸国一統に騒動し、
東海北陸のあたりは殊に全く通行すら出来かねる有様で、秀安も心ならずも草津に、四月から八月まで
逗留し、八月に上方に登って秀吉公に拝謁した。その後も大阪に詰めていたという。
しかしながら彼は病気のために、年々御陣にも出られないことが多くなった。
天正十四、五年頃に、宇喜多秀家公の重臣、四、五輩が受領を仰せ付けられ、秀安も叙任し
肥後守となった。
暫くあって病気を申し立て、受領を嫡子助七郎達安に譲り、自身は入道して友村と号し、児島常山の麓に
引き籠もり、茶湯、連歌、並びに文章を楽しんだ。
日々日蓮宗を崇み、病が進んだ後は仏道の外、他事無かった。
備前の宇喜多家家臣で古老の面々は、残らず日蓮宗を尊崇していた。
慶長二年八月六日、秀安は死去した。これは嫡子である肥後守達安が高麗陣のため留守をしている間の
事であった。常山に葬られた。その場所には今も、石塔がある。
法名自任斎坊授友林と号した。
惜しいかな、彼には生涯の行状記が無く、その悉くを知ることは出来ず、僅かに十のうち一つを
ここに挙げるのみである。
秀安の扶禄は二万五千石、外に預かりとして五十人組、凡そ合わせて六万石、人数三千の先手備えにて、
宇喜多直家第一の重臣であった。
(戸川記)
戸川秀安の最期について
戸川秀安はその頃病気を患っており、東国が治まった事で、関東草津の温泉に、療養のため赴いた。
そのような所に、秀吉公が備中高松城を水攻めにされ、宇喜多家より危急の通告があり、
帰ろうとしている所に、信長公父子が御不慮の横死(本能寺の変)に及び、諸国一統に騒動し、
東海北陸のあたりは殊に全く通行すら出来かねる有様で、秀安も心ならずも草津に、四月から八月まで
逗留し、八月に上方に登って秀吉公に拝謁した。その後も大阪に詰めていたという。
しかしながら彼は病気のために、年々御陣にも出られないことが多くなった。
天正十四、五年頃に、宇喜多秀家公の重臣、四、五輩が受領を仰せ付けられ、秀安も叙任し
肥後守となった。
暫くあって病気を申し立て、受領を嫡子助七郎達安に譲り、自身は入道して友村と号し、児島常山の麓に
引き籠もり、茶湯、連歌、並びに文章を楽しんだ。
日々日蓮宗を崇み、病が進んだ後は仏道の外、他事無かった。
備前の宇喜多家家臣で古老の面々は、残らず日蓮宗を尊崇していた。
慶長二年八月六日、秀安は死去した。これは嫡子である肥後守達安が高麗陣のため留守をしている間の
事であった。常山に葬られた。その場所には今も、石塔がある。
法名自任斎坊授友林と号した。
惜しいかな、彼には生涯の行状記が無く、その悉くを知ることは出来ず、僅かに十のうち一つを
ここに挙げるのみである。
秀安の扶禄は二万五千石、外に預かりとして五十人組、凡そ合わせて六万石、人数三千の先手備えにて、
宇喜多直家第一の重臣であった。
(戸川記)
戸川秀安の最期について
298人間七七四年
2022/07/18(月) 15:40:06.22ID:/AevqENK 危急の通告て何やろ
299人間七七四年
2022/07/19(火) 19:25:56.28ID:v0TjrcZ5 豊臣秀吉公が北条を攻め給った時(小田原征伐)、徳川家康公は小田原へ御着陣後に仰せになった
「武州江戸において、祈祷所に成るべき天台寺と、菩提所になるべき浄土寺を見立てるように。」
この上意に対し、
「浄土宗では伝通院と増上寺と申す寺が二ヶ所あります。然れども伝通院はここの在郷にあります。
増上寺は前に海、後ろに山を抱えている景池であります。
また御祈祷所になるべき天台寺としては、浅草寺観音堂の外にはありません。」
と報告が言上された。
これにより増上寺、浅草寺の二院の住持を小田原の御陣所に召され、御目見えを仰せ付けられた。
その後、両寺の境内にて、乱妨禁制の御書付を下されるとき、祐筆よりこの書付を調え差し上げた所、
この内容を御覧の上、その日付に対し
「浅草寺の方は、卯月○日と認めさせよ。」
と仰せがあった。
御祐筆方より、重ねて「概ねこういった事については、月の異名は書き申しません」
と書法についての言上があったが、仰せに
「増上寺は菩提所なれば、さもあるべし。浅草寺は祈祷所であるのだから、異名にて認めるように。」
と上意あったという。
この浅草寺は古来より、寺中に坊数三十六ヶ所あった。然れどもこの当時は殊の外破壊しており、
そのうち十坊ばかりは清僧であったが、残りは山伏の類であり、妻帯の坊主もあったため、
徳川家の御祈祷所としては不都合であるとの沙汰もあった。
しかし家康公は夜のようなことに御構いも無く、九月には小田原征伐も定まり、御城(江戸城)に於いて
大般若経転読があった。この時は勿論、その他の御祈祷においても清僧にだけ仰せ付けられた。
故に妻帯の者は自然と寺内の徘徊も致し難くなり、或いは子を、或いは弟子を清僧とし、
又は寺を譲るなどしてその身は退院したため、程なく清僧ばかりとなった。
(新東鑑)
「武州江戸において、祈祷所に成るべき天台寺と、菩提所になるべき浄土寺を見立てるように。」
この上意に対し、
「浄土宗では伝通院と増上寺と申す寺が二ヶ所あります。然れども伝通院はここの在郷にあります。
増上寺は前に海、後ろに山を抱えている景池であります。
また御祈祷所になるべき天台寺としては、浅草寺観音堂の外にはありません。」
と報告が言上された。
これにより増上寺、浅草寺の二院の住持を小田原の御陣所に召され、御目見えを仰せ付けられた。
その後、両寺の境内にて、乱妨禁制の御書付を下されるとき、祐筆よりこの書付を調え差し上げた所、
この内容を御覧の上、その日付に対し
「浅草寺の方は、卯月○日と認めさせよ。」
と仰せがあった。
御祐筆方より、重ねて「概ねこういった事については、月の異名は書き申しません」
と書法についての言上があったが、仰せに
「増上寺は菩提所なれば、さもあるべし。浅草寺は祈祷所であるのだから、異名にて認めるように。」
と上意あったという。
この浅草寺は古来より、寺中に坊数三十六ヶ所あった。然れどもこの当時は殊の外破壊しており、
そのうち十坊ばかりは清僧であったが、残りは山伏の類であり、妻帯の坊主もあったため、
徳川家の御祈祷所としては不都合であるとの沙汰もあった。
しかし家康公は夜のようなことに御構いも無く、九月には小田原征伐も定まり、御城(江戸城)に於いて
大般若経転読があった。この時は勿論、その他の御祈祷においても清僧にだけ仰せ付けられた。
故に妻帯の者は自然と寺内の徘徊も致し難くなり、或いは子を、或いは弟子を清僧とし、
又は寺を譲るなどしてその身は退院したため、程なく清僧ばかりとなった。
(新東鑑)
300人間七七四年
2022/07/20(水) 10:53:45.62ID:KcG7usJM 天正十三年、秀吉公による根来攻めの時、和泉国千石堀において備前(宇喜多)勢は軍功有り、
根来寺破却の後、秀吉公は紀州雑賀へ御発向され、諸勢は丁場を分けて長堤を築き水攻めをするという時、
備前衆の丁場の堤が切れ水が溢れ出した。このため秀吉公の御機嫌を損じた。
岡豊前守(家利)は早速御前へ出て、
「私が不念故に堤を崩してしまったのです。申し訳に、切腹仕ります」
と申し上げるとたちまち機嫌を直され
「このような事は有るものだ。早々と水を留めるように(斯様の事ハ有物なり早々水を留候へ)
との上意にて相済み、即時に人夫を掛けて元のように堤を直した。そして程なく落城に及んだ。
その頃、宇喜多三老のうち戸川秀安は病気、長船貞親は既に死去しており、よろず備前守1人が下知した。
(戸川記)
根来寺破却の後、秀吉公は紀州雑賀へ御発向され、諸勢は丁場を分けて長堤を築き水攻めをするという時、
備前衆の丁場の堤が切れ水が溢れ出した。このため秀吉公の御機嫌を損じた。
岡豊前守(家利)は早速御前へ出て、
「私が不念故に堤を崩してしまったのです。申し訳に、切腹仕ります」
と申し上げるとたちまち機嫌を直され
「このような事は有るものだ。早々と水を留めるように(斯様の事ハ有物なり早々水を留候へ)
との上意にて相済み、即時に人夫を掛けて元のように堤を直した。そして程なく落城に及んだ。
その頃、宇喜多三老のうち戸川秀安は病気、長船貞親は既に死去しており、よろず備前守1人が下知した。
(戸川記)
303人間七七四年
2022/07/21(木) 09:59:35.90ID:5bLs7FaN304人間七七四年
2022/07/21(木) 12:17:30.20ID:hseXzmco305人間七七四年
2022/07/21(木) 14:25:21.15ID:9of599z4 徳川家康公が江府(江戸)に御入国の時は、城中の家作は申すに及ばず、二、三の丸、外郭にある家までも、
先の城主であった遠山氏の時のあった家屋がそのまま残っていた故に、当分はそれらを悉く用いられた。
然れども御城内には木削葺(こけら葺)の家すら一軒もなく、皆日光削ぎ、甲州削ぎなどで取葺に致し、
御台所は萱葺きで、手広くはあったのだが殊の外古く、御玄関の上の段には、船板の幅広のものを
二段に重ねたばかりにて、板敷きすら無かった。
本多佐渡守(正信)はこれを見て、「あまりに見苦しく、他国より参られた使者への外聞も如何かと
思います。なので御玄関廻りは造作を仰せ付けられるのが然るべしです。」と言上した所、家康公は
「その方は要らざる立派立てを申す」
と御笑いになり、家作の事にはお構いなく、「本丸と二の丸に有る堀を埋めるべし」と仰せ付けられ、
そういったものは万事を差し置かれて、御家中の大身小身に限らず、知行割を急がされた。
総奉行には御老中である榊原式部大輔(康政)、その下に青山藤蔵、伊那熊蔵、その他目附衆を加えられ、
かつ、御旧領四ヶ国に置かれていた御代官、勘定方の面々に、早々に当地に罷り出て、昼夜かけて
知行割を致すようにと仰せ渡された。
但し知行方の仕様は、旗本小身の面々には江戸に近くで渡し、知行高に応じ、順々に道のり遠き所を
渡すように。但し道中一夜泊より遠方で旗本に知行を渡す事は無用である、と仰せ付けられた。
又、大身の衆へ城地を下さる場合には、割り当ての外、皆御自身の思し召しにて遣わされた。
(新東鑑)
家康が江戸城の整備よりも家中の知行割りの作業を優先させたというお話。
先の城主であった遠山氏の時のあった家屋がそのまま残っていた故に、当分はそれらを悉く用いられた。
然れども御城内には木削葺(こけら葺)の家すら一軒もなく、皆日光削ぎ、甲州削ぎなどで取葺に致し、
御台所は萱葺きで、手広くはあったのだが殊の外古く、御玄関の上の段には、船板の幅広のものを
二段に重ねたばかりにて、板敷きすら無かった。
本多佐渡守(正信)はこれを見て、「あまりに見苦しく、他国より参られた使者への外聞も如何かと
思います。なので御玄関廻りは造作を仰せ付けられるのが然るべしです。」と言上した所、家康公は
「その方は要らざる立派立てを申す」
と御笑いになり、家作の事にはお構いなく、「本丸と二の丸に有る堀を埋めるべし」と仰せ付けられ、
そういったものは万事を差し置かれて、御家中の大身小身に限らず、知行割を急がされた。
総奉行には御老中である榊原式部大輔(康政)、その下に青山藤蔵、伊那熊蔵、その他目附衆を加えられ、
かつ、御旧領四ヶ国に置かれていた御代官、勘定方の面々に、早々に当地に罷り出て、昼夜かけて
知行割を致すようにと仰せ渡された。
但し知行方の仕様は、旗本小身の面々には江戸に近くで渡し、知行高に応じ、順々に道のり遠き所を
渡すように。但し道中一夜泊より遠方で旗本に知行を渡す事は無用である、と仰せ付けられた。
又、大身の衆へ城地を下さる場合には、割り当ての外、皆御自身の思し召しにて遣わされた。
(新東鑑)
家康が江戸城の整備よりも家中の知行割りの作業を優先させたというお話。
306人間七七四年
2022/07/21(木) 17:56:51.06ID:ptp19eSq 秀吉に対するアピールもあっただろうな
307人間七七四年
2022/07/22(金) 20:54:53.38ID:QhlJ9xR6 できれば最初に史料名を記してほしい
読む価値があるかどうか分かるから
別にその史料の価値というわけではなく
読む価値があるかどうか分かるから
別にその史料の価値というわけではなく
308人間七七四年
2022/07/22(金) 21:23:53.60ID:Mb780gem 普通に最初に末尾を見ればいいだけの話では…
309人間七七四年
2022/07/23(土) 08:12:27.03ID:zz2id93h 天正十九年の頃は、宇喜多秀家も成長され、参議に任じられ、器量骨柄といい、公儀からも殊に
その覚えは諸人に異なり、天下の御婿(秀吉の養女・豪姫の婿)として威勢最も盛んであった。
その重臣はそれぞれ大阪に詰めたが、中でも岡豊前守(家利)は宇喜多家第一の宿老にて、
勇武才智人に超え、世に良臣との名があった。殿下(秀吉)の御前能く、よろす直に言上した。
故に宇喜多家中に、彼に異議を言う者はなかった。
戸川肥後守(達安)は、岡豊前守に続いて威勢が在った。
有る夏の夜、殿下の秀家邸への御成があった。涼取の茶屋にて饗応があり、この時小西摂津守(行長)が
御前に在って、明年の高麗御発進の軍議をした。この時戸川肥後守は茶屋の廊下に控えていた。
殿下は彼に御声をかけ、「これに出て軍議を聞くように」と仰っしゃられたため、縁側に畏まった。
小西摂津守は朝鮮のことを既に手に握るが如く申し述べ、殿下の御機嫌は斜めならずであった。
夜閑になり御座敷へ入られる時、茶屋と座敷の間に古堤がある場所で殿下は
「肥後、背負うように」と上意があり、そのため背負奉ってお座敷へ帰らせ給った。
このとき「さても強勢なる背負い様かな」と、お笑いながら褒められたという。
(戸川記)
秀吉の宇喜多秀家邸御成と時の事について。
その覚えは諸人に異なり、天下の御婿(秀吉の養女・豪姫の婿)として威勢最も盛んであった。
その重臣はそれぞれ大阪に詰めたが、中でも岡豊前守(家利)は宇喜多家第一の宿老にて、
勇武才智人に超え、世に良臣との名があった。殿下(秀吉)の御前能く、よろす直に言上した。
故に宇喜多家中に、彼に異議を言う者はなかった。
戸川肥後守(達安)は、岡豊前守に続いて威勢が在った。
有る夏の夜、殿下の秀家邸への御成があった。涼取の茶屋にて饗応があり、この時小西摂津守(行長)が
御前に在って、明年の高麗御発進の軍議をした。この時戸川肥後守は茶屋の廊下に控えていた。
殿下は彼に御声をかけ、「これに出て軍議を聞くように」と仰っしゃられたため、縁側に畏まった。
小西摂津守は朝鮮のことを既に手に握るが如く申し述べ、殿下の御機嫌は斜めならずであった。
夜閑になり御座敷へ入られる時、茶屋と座敷の間に古堤がある場所で殿下は
「肥後、背負うように」と上意があり、そのため背負奉ってお座敷へ帰らせ給った。
このとき「さても強勢なる背負い様かな」と、お笑いながら褒められたという。
(戸川記)
秀吉の宇喜多秀家邸御成と時の事について。
310人間七七四年
2022/07/23(土) 22:04:08.06ID:46b6DecW 「朝野雑載」から知恵伊豆こと松平信綱の話
江戸大火事(明暦の大火)の節、御天守に火が移り焼き上がってしまった。
御城の女中が外に出ようとしたが、道がわからずあわてふためいた。
それを見た伊豆守は御玄関から奥まで畳二枚分の道を空けさせ
「畳のないところをたよりに出られよ」と申されたという。
また伊豆守九歳の時、秀忠公の御機嫌に触れたため、秀忠公に宿直(とのい)袋に入れられてしまい、封をされてしまった。
秀忠公は御台様(江)のもとに袋を預け、そのまま御放鷹に出御された。
伊豆守殿は袋に入っておとなしくしていたが、そのうち小便がしたくなったため「袋を開けてくだされ」と女中衆を呼んだ。
御台様も女中衆も困惑して「将軍様が手づから封をなされたので、開けることはならぬのです。どうしましょう」と言った。
伊豆守は「縫い目をほどきなされよ。それがしを出しなさって、小用が終わればその後にそれがしを入れて元のように縫合なさればいい。」
おのおの名案だと大いによろこんで伊豆守を出した。
伊豆守は小便を終え、また袋の中に入ろうとしたところ
御台様は「将軍様がお帰りになられるまではこのまま遊ぶとよいでしょう。」
とお菓子やその他さまざまな物をくだされ、懇切に遇された。
秀忠公が帰城された時、伊豆守はまた袋の中に入り、女中衆は縫い目を元のように縫合した。
やがて「将軍様御預けのものを御返しください」と御使いが来たため、袋が秀忠公の元に戻った。
秀忠公は袋の中の伊豆守に
「その方、向後忠勤を励むか?」とお尋ねになられ
伊豆守もおそれいって「御奉公、油断なくつかまつります」と申し上げたところ、秀忠公は御手づから袋より伊豆守を出されたということだ。
江戸大火事(明暦の大火)の節、御天守に火が移り焼き上がってしまった。
御城の女中が外に出ようとしたが、道がわからずあわてふためいた。
それを見た伊豆守は御玄関から奥まで畳二枚分の道を空けさせ
「畳のないところをたよりに出られよ」と申されたという。
また伊豆守九歳の時、秀忠公の御機嫌に触れたため、秀忠公に宿直(とのい)袋に入れられてしまい、封をされてしまった。
秀忠公は御台様(江)のもとに袋を預け、そのまま御放鷹に出御された。
伊豆守殿は袋に入っておとなしくしていたが、そのうち小便がしたくなったため「袋を開けてくだされ」と女中衆を呼んだ。
御台様も女中衆も困惑して「将軍様が手づから封をなされたので、開けることはならぬのです。どうしましょう」と言った。
伊豆守は「縫い目をほどきなされよ。それがしを出しなさって、小用が終わればその後にそれがしを入れて元のように縫合なさればいい。」
おのおの名案だと大いによろこんで伊豆守を出した。
伊豆守は小便を終え、また袋の中に入ろうとしたところ
御台様は「将軍様がお帰りになられるまではこのまま遊ぶとよいでしょう。」
とお菓子やその他さまざまな物をくだされ、懇切に遇された。
秀忠公が帰城された時、伊豆守はまた袋の中に入り、女中衆は縫い目を元のように縫合した。
やがて「将軍様御預けのものを御返しください」と御使いが来たため、袋が秀忠公の元に戻った。
秀忠公は袋の中の伊豆守に
「その方、向後忠勤を励むか?」とお尋ねになられ
伊豆守もおそれいって「御奉公、油断なくつかまつります」と申し上げたところ、秀忠公は御手づから袋より伊豆守を出されたということだ。
311人間七七四年
2022/07/24(日) 08:29:14.50ID:Hx8mz+Tr 玉袋だったんだな
312人間七七四年
2022/07/25(月) 15:31:56.54ID:SpzzsYtk 徳川家康公が江戸に御入国の砌、町方に盗賊が数多入り込み、皆々難儀しているとお聞きになり、
「その張本たる者を、一人召し捕らえるように」と奉行中に仰せ渡された。
そしてその頃、関東において名を得た盗賊の頭である鳶沢という者を捕らえ、これを言上すると、
家康公はその者を助命するよう仰せ付けられ、「彼の働きを以て、他国の盗賊が入り込まないようにせよ」
と仰せ渡された。
鳶沢はこれを承ると、
「命を御助け下さったことは有り難いのですが、他国の盗人が入り込まぬようにというのは、
私一人の力では及ばぬことです。何処であってもいいので、屋敷地を下し置かれれば、私は手下の者を
呼び集め、そこに差し置き、彼らに申し付けて吟味をさせるでしょう、
ただし、手下の者達も盗みを止めてしまっては身過ぎも出来なくなってしまいます。ですので、
当地の古着買いの元締めを御免下され、その他の者を御停止されますように。」
と相願った所、家康公はこの義をお聞き届けられ、遊女街の近辺の、一町四方の葭原を屋敷地として
給わった。鳶沢はこれを切り開き、鳶沢町の名付け、町家に取り立て、手下の者達に古着買いをさせ、
方々へ出して吟味させたため、程なく盗賊が入り込むことはなくなり、次第に御静謐になった。
そして古着買いもいつしか止み、鳶沢町も今は富沢町という。
(新東鑑)
徳川家康が盗賊の鳶沢甚内を取り立てたお話
「その張本たる者を、一人召し捕らえるように」と奉行中に仰せ渡された。
そしてその頃、関東において名を得た盗賊の頭である鳶沢という者を捕らえ、これを言上すると、
家康公はその者を助命するよう仰せ付けられ、「彼の働きを以て、他国の盗賊が入り込まないようにせよ」
と仰せ渡された。
鳶沢はこれを承ると、
「命を御助け下さったことは有り難いのですが、他国の盗人が入り込まぬようにというのは、
私一人の力では及ばぬことです。何処であってもいいので、屋敷地を下し置かれれば、私は手下の者を
呼び集め、そこに差し置き、彼らに申し付けて吟味をさせるでしょう、
ただし、手下の者達も盗みを止めてしまっては身過ぎも出来なくなってしまいます。ですので、
当地の古着買いの元締めを御免下され、その他の者を御停止されますように。」
と相願った所、家康公はこの義をお聞き届けられ、遊女街の近辺の、一町四方の葭原を屋敷地として
給わった。鳶沢はこれを切り開き、鳶沢町の名付け、町家に取り立て、手下の者達に古着買いをさせ、
方々へ出して吟味させたため、程なく盗賊が入り込むことはなくなり、次第に御静謐になった。
そして古着買いもいつしか止み、鳶沢町も今は富沢町という。
(新東鑑)
徳川家康が盗賊の鳶沢甚内を取り立てたお話
313人間七七四年
2022/07/26(火) 19:52:15.23ID:gT3YMaZZ 福島左衛門大夫正則は、諸将の中でも殊の外物狂わしい人物だった。
猟より帰ってきて口をすすがないまま食事を取り、食物の中に砂があると言って料理人を誅した事も
度々であった。剰えその首を脇差しで貫き、くるくると回して興じたこともあったとか。
されども、思いの外の事もあった。
ある日、福島家の一門衆が集まり酒宴をした時、給仕をしていた正則の寵愛する何某とかいう小姓が、
懐よりその酒宴に出されていた菓子を二つ三つ落とした。
正則はこれを見て大いに怒り、かの者を引き寄せて左出て頭髪を握り、右手に刀を抜き持って、
小姓の股を刺した。血が夥しく流れたが、彼は少しも動じず、始めの如く給仕をした。
この場にいた者達は何れも正則の気質を知っていた故に、終に死罪に及ぶ事を惜しみ、彼を片脇へと
引き退かせ、「申し分が有るのか?」と尋ねてみたものの、一向に物を言わなかったために、遂には
「侍の子たる者が、どうして酒宴の菓子を盗むような卑劣な事を成したのか。お前の身が死罪となっても
仕方がない。そして死しても父兄弟までの面汚しであるぞ!」と言った。
すると小姓はこれを聞いて
「申すべき事もありますが、人の命を取るような事になり本意ではありません。
その人の命を救って頂けるのなら、仔細を語ります。
私の命は、免ぜられるべきではありません。しかし一門の名折れと仰せられる事の口惜しさに、
このように申すのです。」
これを聞いて何れも誓って
「其の方のことは力及ばないにしても、この事について、他の人の命は我々の命にかけて救う。」
と申したため、この小姓は語った
「彼の人も、殿様の御家中の若き者なのですが、私に恋い焦がれ、数十通の文を私は賜りました。
しかし私も殿様の御座をも汚す身ですから、取り上げてさえしませんでした。それでも三ヶ年の間、
日々に文を送ってくる心の切なさを愛で、ある時その文の内容を見てその志を感じ、思わず返事を
した後、かの者はいよいよ耐えかね、虚労の様に煩ったと聞きました。
自分のために人の命を失ってしまうことの笑止さに、どうにかして一度逢いたいと思ったのですが、
出仕している間は外の御傍にあり、帰れば寄り合い部屋であり仲間の目も忍び難く、下部屋にて
なりとも逢うべしと思い、かの男を番葛籠へ入れさせ、一日前に入れ寄せました。
然れども折悪しく、三日三晩の御酒宴となり、致し方なき上に、かの者が飢えることの痛ましさに、
この菓子なりとも遣わさんと懐中に入れたのですが、運が尽き御前に於いて落としてしまったのです。
願わくば、かの葛籠を何も言わずに下してください。私は命を惜しむようなことはしません。」
一門の輩はこれを聞いて「正則に対しかの小姓の命乞いをしたとしても。承知して頂けないのは
必定であろう。しかし彼が菓子を盗んだのは卑劣なる所業では無いのだから、せめて死後の恥辱を
救い取らせん。」と、事の始末を正則に語った。
正則はこれを聞くと機嫌直り
「我が側に召し使う者ほどあって、卑劣の業はなさなかったか。恋する男に逢おうとしたのは、我が目を
欺くにも似ているが、事情を見れば深く咎めるべきことでもない。
その上今日の様子、流石に私の目鏡も違わなかったと感じた。である以上、彼の死罪を許そう。
また彼に心を懸けた奴も、私の気質を知った上で、是非に逢おうとしたというのは、用に立つべき者
なのだろう。かの倅を、恋した男の所に遣わすように。」
として、大方ならぬ機嫌であったという。
(新東鑑)
物狂いとされた福島正則も恋愛については大目に見たというお話
猟より帰ってきて口をすすがないまま食事を取り、食物の中に砂があると言って料理人を誅した事も
度々であった。剰えその首を脇差しで貫き、くるくると回して興じたこともあったとか。
されども、思いの外の事もあった。
ある日、福島家の一門衆が集まり酒宴をした時、給仕をしていた正則の寵愛する何某とかいう小姓が、
懐よりその酒宴に出されていた菓子を二つ三つ落とした。
正則はこれを見て大いに怒り、かの者を引き寄せて左出て頭髪を握り、右手に刀を抜き持って、
小姓の股を刺した。血が夥しく流れたが、彼は少しも動じず、始めの如く給仕をした。
この場にいた者達は何れも正則の気質を知っていた故に、終に死罪に及ぶ事を惜しみ、彼を片脇へと
引き退かせ、「申し分が有るのか?」と尋ねてみたものの、一向に物を言わなかったために、遂には
「侍の子たる者が、どうして酒宴の菓子を盗むような卑劣な事を成したのか。お前の身が死罪となっても
仕方がない。そして死しても父兄弟までの面汚しであるぞ!」と言った。
すると小姓はこれを聞いて
「申すべき事もありますが、人の命を取るような事になり本意ではありません。
その人の命を救って頂けるのなら、仔細を語ります。
私の命は、免ぜられるべきではありません。しかし一門の名折れと仰せられる事の口惜しさに、
このように申すのです。」
これを聞いて何れも誓って
「其の方のことは力及ばないにしても、この事について、他の人の命は我々の命にかけて救う。」
と申したため、この小姓は語った
「彼の人も、殿様の御家中の若き者なのですが、私に恋い焦がれ、数十通の文を私は賜りました。
しかし私も殿様の御座をも汚す身ですから、取り上げてさえしませんでした。それでも三ヶ年の間、
日々に文を送ってくる心の切なさを愛で、ある時その文の内容を見てその志を感じ、思わず返事を
した後、かの者はいよいよ耐えかね、虚労の様に煩ったと聞きました。
自分のために人の命を失ってしまうことの笑止さに、どうにかして一度逢いたいと思ったのですが、
出仕している間は外の御傍にあり、帰れば寄り合い部屋であり仲間の目も忍び難く、下部屋にて
なりとも逢うべしと思い、かの男を番葛籠へ入れさせ、一日前に入れ寄せました。
然れども折悪しく、三日三晩の御酒宴となり、致し方なき上に、かの者が飢えることの痛ましさに、
この菓子なりとも遣わさんと懐中に入れたのですが、運が尽き御前に於いて落としてしまったのです。
願わくば、かの葛籠を何も言わずに下してください。私は命を惜しむようなことはしません。」
一門の輩はこれを聞いて「正則に対しかの小姓の命乞いをしたとしても。承知して頂けないのは
必定であろう。しかし彼が菓子を盗んだのは卑劣なる所業では無いのだから、せめて死後の恥辱を
救い取らせん。」と、事の始末を正則に語った。
正則はこれを聞くと機嫌直り
「我が側に召し使う者ほどあって、卑劣の業はなさなかったか。恋する男に逢おうとしたのは、我が目を
欺くにも似ているが、事情を見れば深く咎めるべきことでもない。
その上今日の様子、流石に私の目鏡も違わなかったと感じた。である以上、彼の死罪を許そう。
また彼に心を懸けた奴も、私の気質を知った上で、是非に逢おうとしたというのは、用に立つべき者
なのだろう。かの倅を、恋した男の所に遣わすように。」
として、大方ならぬ機嫌であったという。
(新東鑑)
物狂いとされた福島正則も恋愛については大目に見たというお話
314人間七七四年
2022/07/27(水) 17:22:09.39ID:nFfr9l0Y 倭猿って男女見境なく突っ込むんだねw
315人間七七四年
2022/07/28(木) 19:29:03.99ID:gc6Jj94U 「朝野雑載」から松平信綱による上戸・下戸の優劣判定
江戸城御番の衆が上戸下戸の優劣を論じたが決さなかった。
松平伊豆守が出座したため御番衆が断じてほしいと頼むと
松平信綱「各々方、子息に教える時は大酒を飲むように教えますか?酒を飲まないように教えますか?」
各々「酒を飲まないようにと教えます」
信綱「下戸の勝ちです。我が子への教訓こそが真実です」
と断じたため、一同感服したという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6940.html
松平信綱は大下戸であった。土井利勝は大上戸であった
松平信綱の下戸についてはこんな話もあった
江戸城御番の衆が上戸下戸の優劣を論じたが決さなかった。
松平伊豆守が出座したため御番衆が断じてほしいと頼むと
松平信綱「各々方、子息に教える時は大酒を飲むように教えますか?酒を飲まないように教えますか?」
各々「酒を飲まないようにと教えます」
信綱「下戸の勝ちです。我が子への教訓こそが真実です」
と断じたため、一同感服したという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6940.html
松平信綱は大下戸であった。土井利勝は大上戸であった
松平信綱の下戸についてはこんな話もあった
316人間七七四年
2022/07/29(金) 20:17:48.73ID:yuTGgqLc 石川五右衛門という盗賊は、大小名、諸士群参の日、大阪並びに聚楽の営中に紛れ入り、
諸席に置かれている重代の宝刀、或いは鋭利の良刀を、自分の鉛刀に代えて帯し退き出た。
このため、すり替えられた者達で心ならずも惰弱の汚名を被り、歯噛みをして憤る輩数多であった。
このような中、浅野幸長は考え量り、御玄関にて刀を従者に遣わし、短刀だけで営中に登った。
衆人はその才智を嘆美し、これに倣い、皆家従に刀を持たせるようになったため、石川五右衛門の
一計も絶えて、その後営中に紛れ入る事もなくなった。
またこれよりこの事が士風となったという。
(新東鑑)
諸席に置かれている重代の宝刀、或いは鋭利の良刀を、自分の鉛刀に代えて帯し退き出た。
このため、すり替えられた者達で心ならずも惰弱の汚名を被り、歯噛みをして憤る輩数多であった。
このような中、浅野幸長は考え量り、御玄関にて刀を従者に遣わし、短刀だけで営中に登った。
衆人はその才智を嘆美し、これに倣い、皆家従に刀を持たせるようになったため、石川五右衛門の
一計も絶えて、その後営中に紛れ入る事もなくなった。
またこれよりこの事が士風となったという。
(新東鑑)
317人間七七四年
2022/07/31(日) 06:23:44.57ID:3C0fGes/ この頃から情弱って言葉があったのか
318人間七七四年
2022/07/31(日) 11:07:00.94ID:qVtjpT1C 惰弱と情弱、確かにパッと見間違えるな
319人間七七四年
2022/07/31(日) 11:39:51.51ID:8dPSwZGb おじいちゃんフォントサイズもっと大きくして!
320人間七七四年
2022/07/31(日) 13:17:46.76ID:0WzcNxCn 定期的に無知蒙昧がわくなw
321人間七七四年
2022/07/31(日) 19:28:13.25ID:DXD36y8P フォントですな
322人間七七四年
2022/08/01(月) 21:51:27.44ID:0y6b9poa 加藤左馬助(嘉明)の家では、老若共に帯を後ろで結ぶことは法度であり、前の方の脇で
結んだという。これは、急事の折には帯が解けることがあるが、後ろでは結び難く、
前の脇で結ぶ場合は走りながらでも結ぶ事のできる故である。
また家中の士であっても、具足兜を着すれば戦場において見知り難きものであるとして、
家中全員の具足兜、前立物まで屏風の絵に書かせ、縅毛以下、少しも違わぬように
極彩色に描かせ、その姓名を記し、会津の城中の広間の番所より書院まで、その屏風を
何双に立て置き、諸士が互いにこれらを見知るようにさせた。
そのため、もし誰であっても具足を縅し直すか、何であっても品の替わる事があれば、
役人までこれを届け、すると絵師がかの士の許へ行き、詳細に見届けて最前の絵を書き直したという。
(新東鑑)
結んだという。これは、急事の折には帯が解けることがあるが、後ろでは結び難く、
前の脇で結ぶ場合は走りながらでも結ぶ事のできる故である。
また家中の士であっても、具足兜を着すれば戦場において見知り難きものであるとして、
家中全員の具足兜、前立物まで屏風の絵に書かせ、縅毛以下、少しも違わぬように
極彩色に描かせ、その姓名を記し、会津の城中の広間の番所より書院まで、その屏風を
何双に立て置き、諸士が互いにこれらを見知るようにさせた。
そのため、もし誰であっても具足を縅し直すか、何であっても品の替わる事があれば、
役人までこれを届け、すると絵師がかの士の許へ行き、詳細に見届けて最前の絵を書き直したという。
(新東鑑)
323人間七七四年
2022/08/04(木) 21:03:34.37ID:yLplrfvZ 江戸城の石垣普請を、浅野但馬守長晟に仰せ付けられた所、町場は深泥であったため、大木を
底に敷いたのだが、普請の半ばにおいて石垣は崩れてしまった。
このため「浅野家の身上危なかるべし」と人々に噂された。
そのため、舎弟である采女正長重は、兄長晟に対してこのように諌めた
「普請奉行にこの責任を取らせ腹を切らせ、公儀に陳謝されるべきです」
しかし長晟はこれを承諾しなかった。長重はいよいよ諌めた上で
「御為を思って言っているのに、用いられない」
と恨む色が見えた。
長晟は長重を諭して言った
「私は、浅野左衛門佐に命じて普請の名代とした。そして普請奉行は左衛門佐の下知を受けた。
であれば、石垣の崩れた事について、その罪は普請奉行一人のものではない。
罪があるとすれば、先ず私に帰す。その次が左衛門佐である。
身の難を逃れるために罪なき者を弑する事は不義であり、私はそれを見るに忍びない。
その方はそんな心である故に私は、庶流を以て嫡流を簒うのではないかと畏れる。
義は上下ともに武士の守る所である。義を捨てて利を取るのは商売の風である。
今、試みに武士に対して「商売の風あり」と言えば、その者は必ず怒って悪声を
復そうとし、猶も止まらない時は刀によって殺すだろう。
その名を外に恥じて、その実を内に省みるべきではないだろうか。」
このように申すと、長重はこれに答える言葉も無かったという。
(新東鑑)
底に敷いたのだが、普請の半ばにおいて石垣は崩れてしまった。
このため「浅野家の身上危なかるべし」と人々に噂された。
そのため、舎弟である采女正長重は、兄長晟に対してこのように諌めた
「普請奉行にこの責任を取らせ腹を切らせ、公儀に陳謝されるべきです」
しかし長晟はこれを承諾しなかった。長重はいよいよ諌めた上で
「御為を思って言っているのに、用いられない」
と恨む色が見えた。
長晟は長重を諭して言った
「私は、浅野左衛門佐に命じて普請の名代とした。そして普請奉行は左衛門佐の下知を受けた。
であれば、石垣の崩れた事について、その罪は普請奉行一人のものではない。
罪があるとすれば、先ず私に帰す。その次が左衛門佐である。
身の難を逃れるために罪なき者を弑する事は不義であり、私はそれを見るに忍びない。
その方はそんな心である故に私は、庶流を以て嫡流を簒うのではないかと畏れる。
義は上下ともに武士の守る所である。義を捨てて利を取るのは商売の風である。
今、試みに武士に対して「商売の風あり」と言えば、その者は必ず怒って悪声を
復そうとし、猶も止まらない時は刀によって殺すだろう。
その名を外に恥じて、その実を内に省みるべきではないだろうか。」
このように申すと、長重はこれに答える言葉も無かったという。
(新東鑑)
324人間七七四年
2022/08/06(土) 16:33:25.99ID:AvbsJgaH >>242
https://twitter.com/Gunma_Rekihaku/status/1554260038104928256
https://pbs.twimg.com/media/FZHXKKOUYAEIHl-?format=jpg
群馬県立歴史博物館
@Gunma_Rekihaku
【愛の兜登場?】
みなさん、お待たせしました??本日(8/2)より、いよいよ #直江兼続 (なおえかねつぐ)のいわゆる「愛」の兜の展示スタートです??
所蔵する上杉神社以外で展示されるのが今回が初めですので、この貴重な機会にぜひ実物を間近でご覧下さい??
#戦国上州の刀剣と甲冑
Translate Tweet
9:17 AM ・ Aug 2, 2022
ちょっと以上に旅行、外出が差し控えられるご時世ですが、400年ぶりの里帰りでありますので可能な方はお気をつけいただいた上でぜひご訪問ください。
なお兜だけで胴体の鎧がないのは、これはまあ理由が・・・
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
https://twitter.com/Gunma_Rekihaku/status/1554260038104928256
https://pbs.twimg.com/media/FZHXKKOUYAEIHl-?format=jpg
群馬県立歴史博物館
@Gunma_Rekihaku
【愛の兜登場?】
みなさん、お待たせしました??本日(8/2)より、いよいよ #直江兼続 (なおえかねつぐ)のいわゆる「愛」の兜の展示スタートです??
所蔵する上杉神社以外で展示されるのが今回が初めですので、この貴重な機会にぜひ実物を間近でご覧下さい??
#戦国上州の刀剣と甲冑
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9:17 AM ・ Aug 2, 2022
ちょっと以上に旅行、外出が差し控えられるご時世ですが、400年ぶりの里帰りでありますので可能な方はお気をつけいただいた上でぜひご訪問ください。
なお兜だけで胴体の鎧がないのは、これはまあ理由が・・・
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
325人間七七四年
2022/08/07(日) 08:49:32.09ID:SlSuzWww 物好きな夏休みキッズ(と親御さん)がいたらぜひ群馬まで訪れてほしいんですが、昔のまとめで
愛の兜に本庄兜のペーパークラフトが紹介されていたようですので、工作の宿題がてら本物を見に
行ってみませんか?
山形県米沢市戦国武将と米沢市の観光情報
武将兜ペーパークラフト無料ダウンロード
http://www.yonezawa-naoe.com/information/080813.html
http://www.yonezawa-naoe.com/images/information/naoe_Ver2.0_yoko.jpg
http://www.yonezawa-naoe.com/images/information/honjou3.jpg
山形市最上義光歴史館
ダウンロードペーパークラフト
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=list&c=1858
雑談・一ノ谷形兜の事などについて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3719.html
【雑談】そういや前に出てた天下三槍のペーパークラフト
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9442.html
愛の兜に本庄兜のペーパークラフトが紹介されていたようですので、工作の宿題がてら本物を見に
行ってみませんか?
山形県米沢市戦国武将と米沢市の観光情報
武将兜ペーパークラフト無料ダウンロード
http://www.yonezawa-naoe.com/information/080813.html
http://www.yonezawa-naoe.com/images/information/naoe_Ver2.0_yoko.jpg
http://www.yonezawa-naoe.com/images/information/honjou3.jpg
山形市最上義光歴史館
ダウンロードペーパークラフト
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=list&c=1858
雑談・一ノ谷形兜の事などについて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3719.html
【雑談】そういや前に出てた天下三槍のペーパークラフト
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9442.html
326人間七七四年
2022/08/07(日) 08:52:10.41ID:BryXnE1d 兜すげー
327人間七七四年
2022/08/07(日) 21:43:22.51ID:SY5vKsav 豊臣秀吉公が小田原進発の時に、伊達陸奥守政宗(この時は左京大夫と称す)は参陣無かった事で、
秀吉公は甚だ怒り給われたのを、政宗聞いて小田原陣に至り、中村一氏に付いて
「それがしは関白殿の御門下に、必ず馬を繋ぐべき筋目はない。これによって日頃より、日和を見ていた所、
北条が滅びた後に、奥州へ御発向されるという風聞を承った。
然るに於いては、必定防戦は危ういと存じたため、日を継いで馳せ参った、
昔、源頼朝卿が千葉広常の遅参を咎められたような御気色が有るのは迷惑である!」
そのように言った所、秀吉公は御笑いあって
「政宗はありの儘なる者なり。」と、その罪を免ぜられた。
然るにその年の冬、奥州九戸に一揆が起こり、政宗もその味方をしているとの聞こえがあったため、
秀吉公は政宗を悪まれ、急ぎ上洛すべしとの仰せがあった。
政宗はこれを承ると、「私ほどの者が磔にかかる時、並々のものでは口惜しい。」
と、金銀にて装飾した磔柱を真っ先に持たせて上京した。
この頃秀吉公は伏見の城地を見て居られたのだが、政宗の上洛をお聞きになって、「ここへ来るように」
と仰せられた。このため伏見に参向すると、御側に招かれ、その日使われていた御杖(或いは扇子)にて、
政宗の首を押さえて
「その方が上洛しなかった場合は、かように申し付けようと思っていた所、速やかに馳上がった上は
これを免ずるなり。」と仰せになった。
政宗は畏まって、御前を退出したという。
(新東鑑)
秀吉公は甚だ怒り給われたのを、政宗聞いて小田原陣に至り、中村一氏に付いて
「それがしは関白殿の御門下に、必ず馬を繋ぐべき筋目はない。これによって日頃より、日和を見ていた所、
北条が滅びた後に、奥州へ御発向されるという風聞を承った。
然るに於いては、必定防戦は危ういと存じたため、日を継いで馳せ参った、
昔、源頼朝卿が千葉広常の遅参を咎められたような御気色が有るのは迷惑である!」
そのように言った所、秀吉公は御笑いあって
「政宗はありの儘なる者なり。」と、その罪を免ぜられた。
然るにその年の冬、奥州九戸に一揆が起こり、政宗もその味方をしているとの聞こえがあったため、
秀吉公は政宗を悪まれ、急ぎ上洛すべしとの仰せがあった。
政宗はこれを承ると、「私ほどの者が磔にかかる時、並々のものでは口惜しい。」
と、金銀にて装飾した磔柱を真っ先に持たせて上京した。
この頃秀吉公は伏見の城地を見て居られたのだが、政宗の上洛をお聞きになって、「ここへ来るように」
と仰せられた。このため伏見に参向すると、御側に招かれ、その日使われていた御杖(或いは扇子)にて、
政宗の首を押さえて
「その方が上洛しなかった場合は、かように申し付けようと思っていた所、速やかに馳上がった上は
これを免ずるなり。」と仰せになった。
政宗は畏まって、御前を退出したという。
(新東鑑)
328人間七七四年
2022/08/08(月) 02:29:08.03ID:cS6asV3w おぉ
金の磔柱の話は北条征伐の時の事と思ってたけど違う時の話だったのね
金の磔柱の話は北条征伐の時の事と思ってたけど違う時の話だったのね
329人間七七四年
2022/08/08(月) 17:15:20.67ID:7WahujQv >>324
これ大事な点は、上杉神社宝物殿の展示ケースは壁際にあるので、結果的に真正面からしか見ることができないの
今回のように中央に展示ケースがあって真後ろからも見学できる機会は二度とないってことです
これ大事な点は、上杉神社宝物殿の展示ケースは壁際にあるので、結果的に真正面からしか見ることができないの
今回のように中央に展示ケースがあって真後ろからも見学できる機会は二度とないってことです
330人間七七四年
2022/08/09(火) 21:33:24.95ID:OpEL8oi0 関ヶ原の御陣は、(小早川)金吾秀秋の裏切りがあり、大谷刑部(吉継)がここで命果て、
その他の上方勢は総崩れとなって伊吹山の方へ敗走した。島津の一手のみは備えを崩さず海道を直に
引き退いた。他家の落人も、これを頼んで続いて行った者は、大阪まで無事に引いた者が多かったという。
肥後守(戸川達安)は加藤嘉明の先手に加わり、治部少輔(石田三成)陣に迫った。
すると石田家の者六、七十騎が柵を破り一同に突出した。これに嘉明勢は左右に開き押し包み、
一人も逃さず打ち殺した。
この手の惣衆はその側に備えて、抜け落ちの者があれば打とうと、先手にここは働かせて、その他は
後ろで見物していた。他家の衆はこれを見て、「さても見事なる討ち様かな」と称美した。
三成は軍評議のために他の備えに行ったままで、我が陣に帰ることも出来ず敗走した。
嘉明の先手と戦い斬死した大将は、島左近であるという。
関ヶ原の没落後、佐和山の城も屠られた。その時肥後守も諸勢と一同に乗り込んだ。
そして家臣の与右衛門が兜首一つを取って肥後守へ差し出した。この与右衛門は合渡川の戦いに於いても
働きがあった。故にこの兜は与右衛門に与えられた。
この兜は後々まで岸本家の家宝となった。
(戸川記)
戸川記に見える関ヶ原合戦の模様
その他の上方勢は総崩れとなって伊吹山の方へ敗走した。島津の一手のみは備えを崩さず海道を直に
引き退いた。他家の落人も、これを頼んで続いて行った者は、大阪まで無事に引いた者が多かったという。
肥後守(戸川達安)は加藤嘉明の先手に加わり、治部少輔(石田三成)陣に迫った。
すると石田家の者六、七十騎が柵を破り一同に突出した。これに嘉明勢は左右に開き押し包み、
一人も逃さず打ち殺した。
この手の惣衆はその側に備えて、抜け落ちの者があれば打とうと、先手にここは働かせて、その他は
後ろで見物していた。他家の衆はこれを見て、「さても見事なる討ち様かな」と称美した。
三成は軍評議のために他の備えに行ったままで、我が陣に帰ることも出来ず敗走した。
嘉明の先手と戦い斬死した大将は、島左近であるという。
関ヶ原の没落後、佐和山の城も屠られた。その時肥後守も諸勢と一同に乗り込んだ。
そして家臣の与右衛門が兜首一つを取って肥後守へ差し出した。この与右衛門は合渡川の戦いに於いても
働きがあった。故にこの兜は与右衛門に与えられた。
この兜は後々まで岸本家の家宝となった。
(戸川記)
戸川記に見える関ヶ原合戦の模様
331人間七七四年
2022/08/10(水) 10:50:59.00ID:LosKS1LF 死に体の石田陣に詰め寄るヘタレ共でしたw
332人間七七四年
2022/08/11(木) 20:20:05.19ID:n/mKMT7Y 関ヶ原の戦いの結果、中納言(小早川)秀秋は備前美作拝領の後、岡山に在城して威を震い、
隣邑の領主を蔑ろにし、領境忘れたように振る舞った。そのため、同じく関ヶ原の後、
備中庭瀬三万石を領し小早川領と接した肥後守(戸川達安)との関係も宜しくは無かった。
そのような中、小早川秀秋とその重臣の間の関係が悪化し、二名が小早川家を立ち退いた。
この両人の内、稲葉内匠佐は、肥後守を頼ってひとまず庭瀬まで立ち退こうと欲した。
この事を肥後守も承諾して、小早川領と庭瀬の境に堀切して橋を掛け、柵木等を用意し、専ら
防戦の支度をした。その当時は、宇喜多浪人の名の有る者達が所々に散在しており、彼らに対し
肥後守は合力致し置いていたため、いざという時は彼らが庭瀬に馳集まるはずで、そうなれば
備作両国の人数で攻めかかっても容易には取り潰されることも無いと見えた。
さて、稲葉内匠が立ち退く日限に至り、肥後守より池田市右衛門、森三郎右衛門という物頭両人に、
足軽五十人を付けて、境目の少し先の川にある白石という橋まで出迎え稲葉内匠を守護し、庭瀬へと
帰った。内匠は使者を以て
「段々の御手当を忝なく存じます。これを忘れることはありません。美作表を何の問題もなく
引き払った上は、これより直に立ち退きます。」
と謝礼した。そして肥後守は町口まで出て面会し、互いに式礼して立ち別れた。
内匠は児島下津井より船に乗って上方へ登った。
その後、小早川秀秋も肥後守方へ手入れがあって、
「近隣の事でもあり、誠に宿老の事、よろず頼みこれを存ずる」旨を申し越した。
故に、以後は肥後守も小早川家に出入りするようになり、庭瀬に秀秋卿を招待した時、
秀秋より大左文字の刀を送られ、肥後守からは通天と号した駿馬を送った。これは関ヶ原の
槍場で用いた馬で、無類の駿足であったものを進上した。それよりはいよいよ懇意になり、
肥後守は弟の戸川主水を秀秋卿へ遣わし、彼は備前に居住した。
程なく、秀秋は逝去して家は断絶し、その後には池田輝政が入国された。池田家とは殊に従来より
懇意であったので、隣邑となって、いよいよよしみ、親しくなった。
(戸川記)
隣邑の領主を蔑ろにし、領境忘れたように振る舞った。そのため、同じく関ヶ原の後、
備中庭瀬三万石を領し小早川領と接した肥後守(戸川達安)との関係も宜しくは無かった。
そのような中、小早川秀秋とその重臣の間の関係が悪化し、二名が小早川家を立ち退いた。
この両人の内、稲葉内匠佐は、肥後守を頼ってひとまず庭瀬まで立ち退こうと欲した。
この事を肥後守も承諾して、小早川領と庭瀬の境に堀切して橋を掛け、柵木等を用意し、専ら
防戦の支度をした。その当時は、宇喜多浪人の名の有る者達が所々に散在しており、彼らに対し
肥後守は合力致し置いていたため、いざという時は彼らが庭瀬に馳集まるはずで、そうなれば
備作両国の人数で攻めかかっても容易には取り潰されることも無いと見えた。
さて、稲葉内匠が立ち退く日限に至り、肥後守より池田市右衛門、森三郎右衛門という物頭両人に、
足軽五十人を付けて、境目の少し先の川にある白石という橋まで出迎え稲葉内匠を守護し、庭瀬へと
帰った。内匠は使者を以て
「段々の御手当を忝なく存じます。これを忘れることはありません。美作表を何の問題もなく
引き払った上は、これより直に立ち退きます。」
と謝礼した。そして肥後守は町口まで出て面会し、互いに式礼して立ち別れた。
内匠は児島下津井より船に乗って上方へ登った。
その後、小早川秀秋も肥後守方へ手入れがあって、
「近隣の事でもあり、誠に宿老の事、よろず頼みこれを存ずる」旨を申し越した。
故に、以後は肥後守も小早川家に出入りするようになり、庭瀬に秀秋卿を招待した時、
秀秋より大左文字の刀を送られ、肥後守からは通天と号した駿馬を送った。これは関ヶ原の
槍場で用いた馬で、無類の駿足であったものを進上した。それよりはいよいよ懇意になり、
肥後守は弟の戸川主水を秀秋卿へ遣わし、彼は備前に居住した。
程なく、秀秋は逝去して家は断絶し、その後には池田輝政が入国された。池田家とは殊に従来より
懇意であったので、隣邑となって、いよいよよしみ、親しくなった。
(戸川記)
333人間七七四年
2022/08/13(土) 13:59:41.39ID:CU8pX0Nu 慶長十九年、大阪御謀反にて御手切となり、片桐市正(且元)はその所領である茨木に立て籠もったが、
これを大阪の軍勢が打ち潰すとの風説が頻りであった。
その頃、肥後守(戸川達安)は駿府より御暇を賜り、在所へ帰る途中、京都に立ち寄り所司代の
板倉伊賀守(勝重)の許へ参向した所、伊賀守はこのように語った。
「片桐市正が茨木に在るのですが、大阪よりこれを攻めるようです。そこで只今、片桐への
加勢を専ら催しているところです。」
これを聞いた肥後守は取るものも取り敢えず
「私は通常の旅行故に一層人数も少ないのですが、ここから直に加勢に行きましょう。」
伊賀守は大いに感心して「流石は肥州殿、あなたが御援助を加えれば、茨木も潤色となるでしょう。」と
申したため、その場より直に肥後守は茨木へ向かった。そして片桐市正と対面し、これこれを経緯を
述べると、市正は大いに力を得て、城内の成大寺という場所に肥後守を置いた、
肥後守が宿陣し四,五日滞留する所に、大阪方では茨木攻めについて異論が出、その上肥後守が
加勢に来た事なども聞いて、茨木攻めは容易ならずとの評定があり、この事は中止とされ、この表は
無事となった。これ故にひとまず肥後守も在所へ帰った。
(戸川記)
戸川達安と大阪冬の陣における茨木攻めについて
これを大阪の軍勢が打ち潰すとの風説が頻りであった。
その頃、肥後守(戸川達安)は駿府より御暇を賜り、在所へ帰る途中、京都に立ち寄り所司代の
板倉伊賀守(勝重)の許へ参向した所、伊賀守はこのように語った。
「片桐市正が茨木に在るのですが、大阪よりこれを攻めるようです。そこで只今、片桐への
加勢を専ら催しているところです。」
これを聞いた肥後守は取るものも取り敢えず
「私は通常の旅行故に一層人数も少ないのですが、ここから直に加勢に行きましょう。」
伊賀守は大いに感心して「流石は肥州殿、あなたが御援助を加えれば、茨木も潤色となるでしょう。」と
申したため、その場より直に肥後守は茨木へ向かった。そして片桐市正と対面し、これこれを経緯を
述べると、市正は大いに力を得て、城内の成大寺という場所に肥後守を置いた、
肥後守が宿陣し四,五日滞留する所に、大阪方では茨木攻めについて異論が出、その上肥後守が
加勢に来た事なども聞いて、茨木攻めは容易ならずとの評定があり、この事は中止とされ、この表は
無事となった。これ故にひとまず肥後守も在所へ帰った。
(戸川記)
戸川達安と大阪冬の陣における茨木攻めについて
334人間七七四年
2022/08/13(土) 14:13:22.08ID:jdX5Fg+t 公開情報だからかまわんでしょう・・
やはり現在でも各地で旧藩主家とのお付き合いって続いてるのね
https://www.city.yonezawa.yamagata.jp/6341.html
米沢市議会議長交際費
11月22日 上杉裕憲様 御令息様の御誕生お祝品
やはり現在でも各地で旧藩主家とのお付き合いって続いてるのね
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米沢市議会議長交際費
11月22日 上杉裕憲様 御令息様の御誕生お祝品
335人間七七四年
2022/08/14(日) 13:44:08.53ID:pKpwmqpE 尾州長久手の戦に、成瀬隼人正(正成)は十七歳であったが、敵軍に乗り込み兜首を取り、
家康公の御覧に入れると
「汝は勇士なり。旗本の兵寡し。先ずこれを守れ。」
と仰せになったため、御馬の先にあって息を継いでいた。
ところが先手が敵軍に辟易しているのを見て、駆け出そうとしたが、馬取が轡を取って
「既に功名を遂げられました、然るを敵の中に入り命を亡くすのは何の益があるでしょうか!」
と言った。
これを聞いた正成は大いに怒り馬取を罵ったが手を放さなかったため、刀を抜いて峰打ちし、
「小利を貪り大義を失うのが武士の道か!?今日の戦は、敵破れ陣を陥れ、逃げる所を追い詰めた後に
止むものだ。名も知れぬ首一つに身を顧みる事など出来ない!」
しかし鞭打っても罵っても、馬取は猶も放さなかった。
この時家康公は三十間ばかり隔てた場所でこれをご覧になっていたが、
「味方が足を貯め兼ねている。壮士の死戦すべき所はここぞ!ただその志に任せよ!」
と仰せになると、馬取この時轡を放った。
成瀬は真一文字に乗り入れ、また兜首を獲って、東西を馳廻り、味方を恥ずかしめた
「君が間近で進退剛怯を御覧になっているのに、きたなくも逃げ走り、一体何の面目があって
後人にまみえるのか!?」
正成のこの言葉に励まされて、引き色だった者も踏みとどまり、進む者はいよいよ勇んだ。
こうして、その年の暮、成瀬正成には根来衆五十人が預けられた。
家康公は、「成瀬の長久手の働きは、軍功の士にも劣らない」と、感じ仰せになられた。
徳川家において十七歳にして将となったのは、正成一人ばかりであるという。
(新東鑑)
家康公の御覧に入れると
「汝は勇士なり。旗本の兵寡し。先ずこれを守れ。」
と仰せになったため、御馬の先にあって息を継いでいた。
ところが先手が敵軍に辟易しているのを見て、駆け出そうとしたが、馬取が轡を取って
「既に功名を遂げられました、然るを敵の中に入り命を亡くすのは何の益があるでしょうか!」
と言った。
これを聞いた正成は大いに怒り馬取を罵ったが手を放さなかったため、刀を抜いて峰打ちし、
「小利を貪り大義を失うのが武士の道か!?今日の戦は、敵破れ陣を陥れ、逃げる所を追い詰めた後に
止むものだ。名も知れぬ首一つに身を顧みる事など出来ない!」
しかし鞭打っても罵っても、馬取は猶も放さなかった。
この時家康公は三十間ばかり隔てた場所でこれをご覧になっていたが、
「味方が足を貯め兼ねている。壮士の死戦すべき所はここぞ!ただその志に任せよ!」
と仰せになると、馬取この時轡を放った。
成瀬は真一文字に乗り入れ、また兜首を獲って、東西を馳廻り、味方を恥ずかしめた
「君が間近で進退剛怯を御覧になっているのに、きたなくも逃げ走り、一体何の面目があって
後人にまみえるのか!?」
正成のこの言葉に励まされて、引き色だった者も踏みとどまり、進む者はいよいよ勇んだ。
こうして、その年の暮、成瀬正成には根来衆五十人が預けられた。
家康公は、「成瀬の長久手の働きは、軍功の士にも劣らない」と、感じ仰せになられた。
徳川家において十七歳にして将となったのは、正成一人ばかりであるという。
(新東鑑)
337人間七七四年
2022/08/16(火) 18:36:12.91ID:3gjOkIHM 慶長二十年(元和元年)、両公(徳川家康・秀忠)は正月末に御帰府されたが、程なく大阪との
御和睦破れ、同三月、御陣令があり、速やかに出陣すべきとの由にて、四月、諸大名悉く上方へ登り、
両御所も四月末上洛された。
内藤紀伊守が尼崎御番を仰せ付けられ、肥後守(戸川達安)并びに備中組は残らず尼崎加番を仰せ付けられ、
各々そこに詰め番所を構え、往来を改めた。
五月始め、諸勢大和口より押し詰め。国分、道明寺、松坂に陣した。五月六日、両公御出馬され合戦が始まり、
同七日朝五時前注進があった。肥後守はこれを聞くやいなや、尼崎で松平宮内少輔へ見廻りと申し断って、
花房助兵衛(職秀)と申し合わせて天王寺表へ馳せた。
しかしその途中にて早くも阪城に火が掛かり、御勝利となった。
そこで茶臼山の御本陣へ参上し、與庵法印の取次にて家康公に御目見え申し上げた。
肥後守はこの時直に「尼崎の御番を仰せ付けられましたが、御旗本について心もとなく思い、推参
仕りました。」と申し上げると、上意に「何の尼崎」と仰せになられ、御機嫌良かった。
さて、花房助兵衛(この時六十六歳)は駕籠より抱き下ろされて肥後守の側に在った。
「花房助兵衛も参上しています。」と肥後守が披露申し上げると、大御所はご覧になり
「汝、若き時より軍好故、その躰にても出陣、奇特である!」との御意があった。
両人平伏して御前を退くと、助兵衛は肥後守を拝んで
「今、この御言葉を被った事、偏に君のおかげであり、生々世々忘れない。
老後の面目、何事がこれに等しいだろうか!」
そう、大変に喜んだ。
それより大樹公(秀忠)の岳山本陣へ参上し御目見得仕り、尼崎へと帰った。
肥後守の弟である戸川主水は御旗本に在ったが、榊原太郎左衛門佐(後飛騨守)と一緒に大阪城へ乗り込み、
桜の御門まで至った所で、城内に火が満ちて入ること叶わず、この事を中山勘解由に確認してもらい、
後に御旗本御検議の時、中山が証人に立った。
(戸川記)
御和睦破れ、同三月、御陣令があり、速やかに出陣すべきとの由にて、四月、諸大名悉く上方へ登り、
両御所も四月末上洛された。
内藤紀伊守が尼崎御番を仰せ付けられ、肥後守(戸川達安)并びに備中組は残らず尼崎加番を仰せ付けられ、
各々そこに詰め番所を構え、往来を改めた。
五月始め、諸勢大和口より押し詰め。国分、道明寺、松坂に陣した。五月六日、両公御出馬され合戦が始まり、
同七日朝五時前注進があった。肥後守はこれを聞くやいなや、尼崎で松平宮内少輔へ見廻りと申し断って、
花房助兵衛(職秀)と申し合わせて天王寺表へ馳せた。
しかしその途中にて早くも阪城に火が掛かり、御勝利となった。
そこで茶臼山の御本陣へ参上し、與庵法印の取次にて家康公に御目見え申し上げた。
肥後守はこの時直に「尼崎の御番を仰せ付けられましたが、御旗本について心もとなく思い、推参
仕りました。」と申し上げると、上意に「何の尼崎」と仰せになられ、御機嫌良かった。
さて、花房助兵衛(この時六十六歳)は駕籠より抱き下ろされて肥後守の側に在った。
「花房助兵衛も参上しています。」と肥後守が披露申し上げると、大御所はご覧になり
「汝、若き時より軍好故、その躰にても出陣、奇特である!」との御意があった。
両人平伏して御前を退くと、助兵衛は肥後守を拝んで
「今、この御言葉を被った事、偏に君のおかげであり、生々世々忘れない。
老後の面目、何事がこれに等しいだろうか!」
そう、大変に喜んだ。
それより大樹公(秀忠)の岳山本陣へ参上し御目見得仕り、尼崎へと帰った。
肥後守の弟である戸川主水は御旗本に在ったが、榊原太郎左衛門佐(後飛騨守)と一緒に大阪城へ乗り込み、
桜の御門まで至った所で、城内に火が満ちて入ること叶わず、この事を中山勘解由に確認してもらい、
後に御旗本御検議の時、中山が証人に立った。
(戸川記)
338人間七七四年
2022/08/17(水) 20:55:57.03ID:tN2INKCJ 細川の幽斎、ある時(里村)紹巴の所にお尋ねになった時、丁度紹巴は沈酔しており、正体無く
臥せっていた。幽斎はこれを見て、「いかに紹巴いかに」と、二、三度、四、五度起こされたが。
枕を上げてはまた寝、枕を上げてはたどたどとしていたが、目も覚めずむくむくとしていたので、
(目も覚すむくゝゝとしてゐられたれハ)
むくりむくりと あたまもたくる 幽斎
すると
うころもち ありともしらず 野へにねて 紹巴
そのように言って起きられた。
(寒川入道筆記)
泥酔して寝ていても下の句を読むと咄嗟に目を覚まして句を継ぐあたり流石代表的連歌師
臥せっていた。幽斎はこれを見て、「いかに紹巴いかに」と、二、三度、四、五度起こされたが。
枕を上げてはまた寝、枕を上げてはたどたどとしていたが、目も覚めずむくむくとしていたので、
(目も覚すむくゝゝとしてゐられたれハ)
むくりむくりと あたまもたくる 幽斎
すると
うころもち ありともしらず 野へにねて 紹巴
そのように言って起きられた。
(寒川入道筆記)
泥酔して寝ていても下の句を読むと咄嗟に目を覚まして句を継ぐあたり流石代表的連歌師
340人間七七四年
2022/08/23(火) 20:27:55.74ID:JgZITNRM 今から六、七十年前のことだが、元理という俳諧の上手と聞こえた者があった。
三好修理太夫(長慶)殿の所での御会の半ばに、俳諧の発句を御所望なされた。
丁度その時、修理太夫殿の御前に居合わせた人々は皆入道であり、御俗体は太夫殿ばかりであった。
また、その頃は十月であったので、そのまま
『お座敷を みれは大略神無月』 元理
これに対し
『ひとりしくれの古烏帽子きて』 太夫殿長慶朝臣
(寒川入道筆記)
三好修理太夫(長慶)殿の所での御会の半ばに、俳諧の発句を御所望なされた。
丁度その時、修理太夫殿の御前に居合わせた人々は皆入道であり、御俗体は太夫殿ばかりであった。
また、その頃は十月であったので、そのまま
『お座敷を みれは大略神無月』 元理
これに対し
『ひとりしくれの古烏帽子きて』 太夫殿長慶朝臣
(寒川入道筆記)
341人間七七四年
2022/08/27(土) 18:28:50.89ID:nJHAYYUM 元和二年四月十七日、東照大権現が御他界されたことで、駿府詰めの面々は皆江戸へと帰った。
同五年夏、台徳院殿(得川秀忠)御上洛され、伏見において福島左衛門(正則)の領国を
召し上げる時、その家老である福島丹波が明け渡しを拒否致した故に、中国四国の大名が
芸州広島へ発向することとなり、安藤対馬守(重信)、永井右近太夫(直勝)、戸川肥後守(達安)が
三奉行として出陣した。彼らに対して中国四国の列侯が、崇敬すること斜めならぬものであった。
しかし、安藤、永井は将軍家昵懇の家柄であるのでさもありなんが、肥後守は外様の身分でありながら
この御用を蒙ること、全くその武功に寄るものであった。
この時、加藤左馬介(嘉明)に先鋒が仰せ付けられたのだが、嘉明は
「正則は在国しておらず、国元は家来ばかりなのですから、私一人でも打ち潰すことは容易の事です。」
と申し上げた。
これらの事は伏見において仰せ付けられ、諸家段々に広島へ押し詰め、重ねての御下知を待っていた所、
伏見より花房志摩守を使いとして江戸に遣わし、江戸の福島正則に仰せ遣わされた所、正則は心服して、
滞りなく御請け申し上げ明け渡すように、とする証文を正則の自筆にて広島へ遣わした。
福島丹波はこれを見て、「然る上は」とて無事に城を渡した。
正則は越後に蟄居し、四万石がくだされた。
(戸川記)
福島正則改易についての戸川記の記事
同五年夏、台徳院殿(得川秀忠)御上洛され、伏見において福島左衛門(正則)の領国を
召し上げる時、その家老である福島丹波が明け渡しを拒否致した故に、中国四国の大名が
芸州広島へ発向することとなり、安藤対馬守(重信)、永井右近太夫(直勝)、戸川肥後守(達安)が
三奉行として出陣した。彼らに対して中国四国の列侯が、崇敬すること斜めならぬものであった。
しかし、安藤、永井は将軍家昵懇の家柄であるのでさもありなんが、肥後守は外様の身分でありながら
この御用を蒙ること、全くその武功に寄るものであった。
この時、加藤左馬介(嘉明)に先鋒が仰せ付けられたのだが、嘉明は
「正則は在国しておらず、国元は家来ばかりなのですから、私一人でも打ち潰すことは容易の事です。」
と申し上げた。
これらの事は伏見において仰せ付けられ、諸家段々に広島へ押し詰め、重ねての御下知を待っていた所、
伏見より花房志摩守を使いとして江戸に遣わし、江戸の福島正則に仰せ遣わされた所、正則は心服して、
滞りなく御請け申し上げ明け渡すように、とする証文を正則の自筆にて広島へ遣わした。
福島丹波はこれを見て、「然る上は」とて無事に城を渡した。
正則は越後に蟄居し、四万石がくだされた。
(戸川記)
福島正則改易についての戸川記の記事
342人間七七四年
2022/08/28(日) 13:29:50.38ID:yhd8x8KM 江戸城、西御丸の外堀を弁慶堀と呼ぶのは、慶長五年、関ヶ原合戦の後に、上方衆では藤堂高虎、
関東衆では伊達政宗の両人が頭取となり、江戸に屋敷地を拝領仕りたい旨を願われた。
家康公はこれを聞き召され、「各々大阪に屋敷有れば、当地にては無用の事なり。」と仰せになられたものの、
たって願われたために、外桜田辺り(今の大名小路の場所である)にて、東国西国の大名、加藤清正を始め、
黒田、鍋島、毛利、島津、伊達、上杉、浅野、南部、亀井、仙石、相馬、水谷、秋田、土方、その他の衆
(前田は芳春院江戸下向の時、秀忠公より御城大手先に於いて下されていた。また浅野幸長は弾正長政に
先立って、桜田霞ヶ関という所を拝領した故に、これを上屋敷となし、老父弾正隠居所に仕りたいと
願ったために、別に屋敷を下されたという)
御当家(徳川家)への御奉公始めとして、東西の諸侯による打ち込みの御堀普請が行われた。
これは東西の武蔵坊と言える心で行ったので、下々はこの堀を「弁慶堀」と申し習わした。
この頃、御堀はようやく幅十間(約18メートル)あまりであったのだが、屋敷拝領の諸侯よりの
願いを以て、堀の土を揚げ方々へ引取り、地上げに用いたため、現代のように御堀も広くなり、
底も深くなったという。
(新東鑑)
関東衆では伊達政宗の両人が頭取となり、江戸に屋敷地を拝領仕りたい旨を願われた。
家康公はこれを聞き召され、「各々大阪に屋敷有れば、当地にては無用の事なり。」と仰せになられたものの、
たって願われたために、外桜田辺り(今の大名小路の場所である)にて、東国西国の大名、加藤清正を始め、
黒田、鍋島、毛利、島津、伊達、上杉、浅野、南部、亀井、仙石、相馬、水谷、秋田、土方、その他の衆
(前田は芳春院江戸下向の時、秀忠公より御城大手先に於いて下されていた。また浅野幸長は弾正長政に
先立って、桜田霞ヶ関という所を拝領した故に、これを上屋敷となし、老父弾正隠居所に仕りたいと
願ったために、別に屋敷を下されたという)
御当家(徳川家)への御奉公始めとして、東西の諸侯による打ち込みの御堀普請が行われた。
これは東西の武蔵坊と言える心で行ったので、下々はこの堀を「弁慶堀」と申し習わした。
この頃、御堀はようやく幅十間(約18メートル)あまりであったのだが、屋敷拝領の諸侯よりの
願いを以て、堀の土を揚げ方々へ引取り、地上げに用いたため、現代のように御堀も広くなり、
底も深くなったという。
(新東鑑)
343人間七七四年
2022/08/30(火) 07:51:04.79ID:rNXzoC2O 板倉周防守(重宗)が江戸に下向された時、松平伊豆守信綱がこのように言った
「上様(徳川家光)にも、段々と政務に御心を尽くされています。上方のことも仔細に
聞いてみたく思っておられるようで、今後は仲間に遣わされる書状にも、今少し
御念を入れられ、上方の事を上聞されるようになさるべしでしょう。」
(重宗は何れも上の御機嫌を伺い、さらに堂上方に別儀なき儀ばかりを書いたという)
これを聞いて周防守は
「上方から百二十里隔てている以上、上様がどれほど御発明であっても、その情報は及び腰になり、
御存これ無き儀となります。そのために拙者が差し置かれているのです。ですので、
申し上げるには及ばざる事と存じ奉ります。」
と言った
この事を家光公は聞き召され、「周防守は、身を踏み込んで勤る者である。」と。
御感悦斜めならずであったという。
(新東鑑)
「上様(徳川家光)にも、段々と政務に御心を尽くされています。上方のことも仔細に
聞いてみたく思っておられるようで、今後は仲間に遣わされる書状にも、今少し
御念を入れられ、上方の事を上聞されるようになさるべしでしょう。」
(重宗は何れも上の御機嫌を伺い、さらに堂上方に別儀なき儀ばかりを書いたという)
これを聞いて周防守は
「上方から百二十里隔てている以上、上様がどれほど御発明であっても、その情報は及び腰になり、
御存これ無き儀となります。そのために拙者が差し置かれているのです。ですので、
申し上げるには及ばざる事と存じ奉ります。」
と言った
この事を家光公は聞き召され、「周防守は、身を踏み込んで勤る者である。」と。
御感悦斜めならずであったという。
(新東鑑)
344人間七七四年
2022/08/31(水) 13:47:28.43ID:9t7KSC9U 小河内蔵丞(小河之直)は栗山大膳らとともに黒田忠之の家老として精勤に励んだ人物であるが、その若い頃の話
内蔵丞がまだ喜助と言っていた十六の時、領内の百姓の馬を牛が突き殺してしまった。
馬主は「牛主に弁償させるべきです」
牛主は「牛主が不在の間に牛がしたことです。畜生のしたことですので牛主の責任ではありません」
と互いに水掛論となり、公事となったが決着しなかったためとうとう黒田長政の耳にまで達した
長政は「どっちももっともであるので、馬が百匁の値であるなら半値の五十匁だけ牛主が弁償してはどうだ?」
と裁定されたので、両者とも不満に思ったものの渋々帰っていった。
これを聞いていた喜助は朋輩衆に対して「このたびの判決は理非をわきまえぬ判決である」と言った。
朋輩衆「歴々の方がなされた判断であるのに何を言うか?」
喜助「牛主や馬主が牛や馬を繋いでいた間に起きた、とあるが繋いだ時間に前後があるはずである。
牛は相手に向かって突くのが習性なので、後で繋いだ飼い主に責任があると言えよう」
これを聞いた朋輩衆は手を打って讃嘆し、これが評判となり長政の耳に達した。
そこで改めて馬主、牛主を召喚すると、先に馬主が繋ぎ、後で牛主が繋いだことが判明した。
こうして牛主は全額百匁を馬主に払うこととなり、馬主は当然喜んだ。
牛主は最初の判決より五十匁多く払うことになったものの、今度は理屈が通っていたため、納得して帰ることとなった。
こうして長政は喜助を「常の人物ではない」と認め、十七の頃から評定衆に入れ、そののち小河伝右衛門の養子として名を内蔵丞と改めさせた。
長政のから忠之の代まで、今であれば二、三十人でさせるような仕置きを内蔵丞一人に任せたが、上からも下からも一言も苦情が出なかった
出典:竹下稔著・福田泰隆校訂「福岡藩初期家老 小河内蔵丞之直「小河内蔵之丞噺覚書写全」を読む」
内蔵丞がまだ喜助と言っていた十六の時、領内の百姓の馬を牛が突き殺してしまった。
馬主は「牛主に弁償させるべきです」
牛主は「牛主が不在の間に牛がしたことです。畜生のしたことですので牛主の責任ではありません」
と互いに水掛論となり、公事となったが決着しなかったためとうとう黒田長政の耳にまで達した
長政は「どっちももっともであるので、馬が百匁の値であるなら半値の五十匁だけ牛主が弁償してはどうだ?」
と裁定されたので、両者とも不満に思ったものの渋々帰っていった。
これを聞いていた喜助は朋輩衆に対して「このたびの判決は理非をわきまえぬ判決である」と言った。
朋輩衆「歴々の方がなされた判断であるのに何を言うか?」
喜助「牛主や馬主が牛や馬を繋いでいた間に起きた、とあるが繋いだ時間に前後があるはずである。
牛は相手に向かって突くのが習性なので、後で繋いだ飼い主に責任があると言えよう」
これを聞いた朋輩衆は手を打って讃嘆し、これが評判となり長政の耳に達した。
そこで改めて馬主、牛主を召喚すると、先に馬主が繋ぎ、後で牛主が繋いだことが判明した。
こうして牛主は全額百匁を馬主に払うこととなり、馬主は当然喜んだ。
牛主は最初の判決より五十匁多く払うことになったものの、今度は理屈が通っていたため、納得して帰ることとなった。
こうして長政は喜助を「常の人物ではない」と認め、十七の頃から評定衆に入れ、そののち小河伝右衛門の養子として名を内蔵丞と改めさせた。
長政のから忠之の代まで、今であれば二、三十人でさせるような仕置きを内蔵丞一人に任せたが、上からも下からも一言も苦情が出なかった
出典:竹下稔著・福田泰隆校訂「福岡藩初期家老 小河内蔵丞之直「小河内蔵之丞噺覚書写全」を読む」
345人間七七四年
2022/08/31(水) 22:27:09.19ID:ulBDHuFY (小牧・長久手戦役の中)今度、秀吉は北伊勢に出馬し、敵城が一ヶ所あれば付城を数多造らせた。
そのような所に、三介殿(織田信雄)よりの懇望により和平が相調い、三郎殿よりは、妹の岡崎殿という者を
人質として出したという。津田源兵よりも人質を出した。
徳川家康からは実子(次男於義丸)、重臣である石川伯耆守も人質として実子を共に出した。
そして三介殿と秀吉は会合し、秀吉より紙子二つ、金二十枚、北伊勢一揆が捨てた兵糧を取り置いていたもの、
二万五千俵をそのまま三介殿へ進上した。この会合のとき、脇差しの國行と、腰の物一振も三介殿へ進上し、
父子の約束があったという。
家康について、秀吉は存分が残っているとして、入魂という事については同心無かったが、三介殿より
様々に御懇望があったために、家康についても赦免となったという。
霜月十五日に、家康は三州に帰国した。
(宇野主水記)
小牧長久手の講和について。
そのような所に、三介殿(織田信雄)よりの懇望により和平が相調い、三郎殿よりは、妹の岡崎殿という者を
人質として出したという。津田源兵よりも人質を出した。
徳川家康からは実子(次男於義丸)、重臣である石川伯耆守も人質として実子を共に出した。
そして三介殿と秀吉は会合し、秀吉より紙子二つ、金二十枚、北伊勢一揆が捨てた兵糧を取り置いていたもの、
二万五千俵をそのまま三介殿へ進上した。この会合のとき、脇差しの國行と、腰の物一振も三介殿へ進上し、
父子の約束があったという。
家康について、秀吉は存分が残っているとして、入魂という事については同心無かったが、三介殿より
様々に御懇望があったために、家康についても赦免となったという。
霜月十五日に、家康は三州に帰国した。
(宇野主水記)
小牧長久手の講和について。
346人間七七四年
2022/09/01(木) 15:30:45.48ID:ugOBGEFV 「小河内蔵之丞噺覚書写全」および「古郷物語」より「内蔵殿風(内蔵允風)」
小河内蔵丞(小河之直)が上方に上った折に途中の瀬戸でちょうど順風が吹いたので、船頭や侍衆は「上々の日和ですな」と喜んだ。
しかし内蔵丞はまったく喜ばず
「上りの船はよいが、下りの船にとっては向かい風であり、急いでいる者もいるであろうのに難儀なことである。
上る者にも下る者にも船での往来が良くなければ「よき日和」と言えるだろうか」と言った。
そののち播磨灘で上下の船とも帆を張ることができる風が吹いたため、これこそが「内蔵殿風」だと言いあった。
そののち瀬戸の者どもはこれを聞き、けだし名言だと思い、上下共に帆を張れるような風を今でも「内蔵殿風」だと言っているそうである。
まったく徳の厚い性分であり、人々に対して好悪の情を持つことがなく、平等に考える人であった。
小河内蔵丞(小河之直)が上方に上った折に途中の瀬戸でちょうど順風が吹いたので、船頭や侍衆は「上々の日和ですな」と喜んだ。
しかし内蔵丞はまったく喜ばず
「上りの船はよいが、下りの船にとっては向かい風であり、急いでいる者もいるであろうのに難儀なことである。
上る者にも下る者にも船での往来が良くなければ「よき日和」と言えるだろうか」と言った。
そののち播磨灘で上下の船とも帆を張ることができる風が吹いたため、これこそが「内蔵殿風」だと言いあった。
そののち瀬戸の者どもはこれを聞き、けだし名言だと思い、上下共に帆を張れるような風を今でも「内蔵殿風」だと言っているそうである。
まったく徳の厚い性分であり、人々に対して好悪の情を持つことがなく、平等に考える人であった。
347人間七七四年
2022/09/02(金) 16:09:09.81ID:AsvhKVAq 「小河内蔵之丞噺覚書写全」から小河常章(小河之直の嫡子)の飼っていた鶉(うずら)の話
小河常章がまだ部屋住みで左京と言っていた頃、鶉をたいへん可愛がっていた。
籠を開けて鶉を出すと部屋を飛び回り、左京が手を差し出せばその手に留まるほど飼い慣らしていた。
ある日、左京が留守の時におそばの小姓たちが鶉を座敷に出して遊んでいたところ、猫が物陰から出てきて食ってしまった。
左京は短気であったため、帰ってきたらどうなるだろうと恐れ、まず内蔵丞にことの次第を告げた。
内蔵丞「笑止なことをしたものだ、左京が聞いたらひどく罰するであろう。
まずは町に行き鶉を一羽買ってきてその籠に入れよ」と言うと
小姓たちは「いくら内蔵丞様といえど、町の荒々しい鶉を手飼いの鶉のように見せかけられようか」
と思ったものの、町で鶉を一羽買ってきて籠に入れた。
さて左京が帰宅するや内蔵丞は早速左京を呼んで
「お前の鶉の評判は聞いていたが、いろいろ忙しくてこれまで見てなかった。今見せてはくれぬか」
と言うと、左京はすぐに籠を持ってきて、籠の口を開け、鶉を出した。
いつものように手を出して留まらせようとしたが、鶉はあたりを見回すと、そのまま縁側から外へ飛んでいってしまった。
左京が残念がって「いつもは手に留まりますのに逃げるとは、惜しいことです」と言うと
内蔵丞は「道理を知っている人間でさえ、重恩を忘れて逃亡するのはよくあることである。
ましてや今まで鳥が逃げ出さなかった方が不思議だ。
まああの鶉も生きているうちに故郷に戻ったと考えれば、慈悲を施したといえよう」と慰めた。
こうして内蔵丞の機転により小姓たちは大難を逃れたため、これを聞いた小姓たちの家族は涙を流して感謝したそうだ。
小河常章がまだ部屋住みで左京と言っていた頃、鶉をたいへん可愛がっていた。
籠を開けて鶉を出すと部屋を飛び回り、左京が手を差し出せばその手に留まるほど飼い慣らしていた。
ある日、左京が留守の時におそばの小姓たちが鶉を座敷に出して遊んでいたところ、猫が物陰から出てきて食ってしまった。
左京は短気であったため、帰ってきたらどうなるだろうと恐れ、まず内蔵丞にことの次第を告げた。
内蔵丞「笑止なことをしたものだ、左京が聞いたらひどく罰するであろう。
まずは町に行き鶉を一羽買ってきてその籠に入れよ」と言うと
小姓たちは「いくら内蔵丞様といえど、町の荒々しい鶉を手飼いの鶉のように見せかけられようか」
と思ったものの、町で鶉を一羽買ってきて籠に入れた。
さて左京が帰宅するや内蔵丞は早速左京を呼んで
「お前の鶉の評判は聞いていたが、いろいろ忙しくてこれまで見てなかった。今見せてはくれぬか」
と言うと、左京はすぐに籠を持ってきて、籠の口を開け、鶉を出した。
いつものように手を出して留まらせようとしたが、鶉はあたりを見回すと、そのまま縁側から外へ飛んでいってしまった。
左京が残念がって「いつもは手に留まりますのに逃げるとは、惜しいことです」と言うと
内蔵丞は「道理を知っている人間でさえ、重恩を忘れて逃亡するのはよくあることである。
ましてや今まで鳥が逃げ出さなかった方が不思議だ。
まああの鶉も生きているうちに故郷に戻ったと考えれば、慈悲を施したといえよう」と慰めた。
こうして内蔵丞の機転により小姓たちは大難を逃れたため、これを聞いた小姓たちの家族は涙を流して感謝したそうだ。
348人間七七四年
2022/09/02(金) 23:41:43.36ID:MhRgviZR 天正十三年三月八日、(秀吉は)紫野摠見寺において数寄の名物共を集め、二箇所において、
千宗易(利休)と今井宗久が茶を点てた。また京堺、その他方々の茶湯執心の者共にも参加をするように
とあったが、但し茶を飲ませるようにとし、又他にも、自分の所有する道具を持って登り、自身で茶湯を構え、
その人の名物などを(秀吉が)見るのだという。
一番に紫野和尚たちが所持する名物を見せ申した。二番に武衛などのような、然るべき牢人衆が見せられ、
三番は堺の良き道具持ち衆であり、その他次第次第にそのように有ったという。
秀吉は御在京二、三日の間に、大阪へ御帰城あったという。この茶会で宗易、宗久は都合二百服ばかりを、
両人して点てたという。
(宇野主水記)
千宗易(利休)と今井宗久が茶を点てた。また京堺、その他方々の茶湯執心の者共にも参加をするように
とあったが、但し茶を飲ませるようにとし、又他にも、自分の所有する道具を持って登り、自身で茶湯を構え、
その人の名物などを(秀吉が)見るのだという。
一番に紫野和尚たちが所持する名物を見せ申した。二番に武衛などのような、然るべき牢人衆が見せられ、
三番は堺の良き道具持ち衆であり、その他次第次第にそのように有ったという。
秀吉は御在京二、三日の間に、大阪へ御帰城あったという。この茶会で宗易、宗久は都合二百服ばかりを、
両人して点てたという。
(宇野主水記)
350人間七七四年
2022/09/04(日) 14:59:22.16ID:fPyEczsM https://mobile.twitter.com/fukuokaC_museum/status/1564137168255082496
福岡市博物館@fukuokaC_museum
福岡市博物館では、10月8日(土)より「独眼竜 伊達政宗」を開催します。
本展では、福岡初公開となる政宗所用の甲冑や直筆の手紙、武具、国宝「慶長遣欧使節関係資料」など約100点を紹介し、
政宗の魅力に迫ります。政宗と同世代の武将・黒田長政と立花宗茂の甲冑も同時公開します。
10月8日(土)より 11月27日(日)まで
特別展 独眼竜 伊達政宗
https://rkb.jp/event/masamune/
戦国時代展の一部としてではなく、西日本・九州でこれだけ大規模な伊達家特集は初めてではないでしょうか?
お近くの方はぜひこの機会を逃さずにお出でください。
実のところ仙台市博物館は、昨年の強い地震の後、設備破損の上に施設の老朽化が判明して(+コロナ)、大工事のため2年後まで閉館です・・
他所に貸し出せるのも今だけとも言えますので、行くしかないですよホント。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
福岡市博物館@fukuokaC_museum
福岡市博物館では、10月8日(土)より「独眼竜 伊達政宗」を開催します。
本展では、福岡初公開となる政宗所用の甲冑や直筆の手紙、武具、国宝「慶長遣欧使節関係資料」など約100点を紹介し、
政宗の魅力に迫ります。政宗と同世代の武将・黒田長政と立花宗茂の甲冑も同時公開します。
10月8日(土)より 11月27日(日)まで
特別展 独眼竜 伊達政宗
https://rkb.jp/event/masamune/
戦国時代展の一部としてではなく、西日本・九州でこれだけ大規模な伊達家特集は初めてではないでしょうか?
お近くの方はぜひこの機会を逃さずにお出でください。
実のところ仙台市博物館は、昨年の強い地震の後、設備破損の上に施設の老朽化が判明して(+コロナ)、大工事のため2年後まで閉館です・・
他所に貸し出せるのも今だけとも言えますので、行くしかないですよホント。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
351人間七七四年
2022/09/05(月) 14:50:01.20ID:SG6/So3y 徳川家光公の御治世に、「万事御政道は、東照宮の通りに成されるべき」と仰せになられたところ、
伊達陸奥守政宗は
「家康公より、百万石を給わらんとの御書付が有りますが、政宗としても現在は御代も代わった事でもあり、
それは反故であると存じていましたが、今度の仰せについて、この御証文の写しを御覧に入れたく思います。」
との御書付を献じられた。
この事は上聞に達し、土井大炊頭利勝を召されて
「陸奥守に百万石を下すというのは、有るまじき事では無いが、これはその当時の御謀であり、このような事を
取り上げていては、他家よりもまた、この類のことを願ってくるだろう、いかがすべきだろうか。」
と御尋ねになった。
利勝はこれに「井伊掃部頭(直孝)に御相談されるべきでしょう。」と言上したため、すぐに掃部頭を召し出され、
これこれの旨を仰せ聞かされたところ、直孝は承って、伊達家に参り、政宗と対面して申した
「只今、風説を承るに、今度仰せ出されたことについて、御先祖(家康)より下された御証文の写しを
差し出されるとの事ですが、これは実説でしょうか?不審に思い、罷り越しました。」と申した。
陸奥守答えて「いかにもその通りである。御代も代わった故に、この御書付も反故と存じていたのだが、
今度の仰せ出されにより、御覧に入れるのだ。」
直孝は尋ねた「その御証文は御自筆でしょうか?」
「全く、御先祖の御筆である。」
「もし出来るのであれば、それを少しばかり拝見仕りたく思います。」
そのように申したため、政宗は家臣を呼び出し、御証文の入った筥を取り寄せ、井伊の前に置くと、
直孝は御証文を出して押し頂き、とくと拝見して政宗に対し
「かような事は御謀であり、貴殿もその事は御存知であるはずです。誠に反故にて候。」
そう言いながらこれを二つ三つに引き裂いた。政宗はこれを見て興醒めして
「なるほど、左様である。これはおうた子に教えられ、川を渡る(負うた子に教えられて浅瀬を渡る)と
申すものであるな。」
と笑われ、種々の饗応あって後に、直孝は伊達家を出てそれより直ぐに登城して、この趣を報告すると、
家光公はご機嫌斜めならず、利勝も大いに感心したという。
(新東鑑)
伊達陸奥守政宗は
「家康公より、百万石を給わらんとの御書付が有りますが、政宗としても現在は御代も代わった事でもあり、
それは反故であると存じていましたが、今度の仰せについて、この御証文の写しを御覧に入れたく思います。」
との御書付を献じられた。
この事は上聞に達し、土井大炊頭利勝を召されて
「陸奥守に百万石を下すというのは、有るまじき事では無いが、これはその当時の御謀であり、このような事を
取り上げていては、他家よりもまた、この類のことを願ってくるだろう、いかがすべきだろうか。」
と御尋ねになった。
利勝はこれに「井伊掃部頭(直孝)に御相談されるべきでしょう。」と言上したため、すぐに掃部頭を召し出され、
これこれの旨を仰せ聞かされたところ、直孝は承って、伊達家に参り、政宗と対面して申した
「只今、風説を承るに、今度仰せ出されたことについて、御先祖(家康)より下された御証文の写しを
差し出されるとの事ですが、これは実説でしょうか?不審に思い、罷り越しました。」と申した。
陸奥守答えて「いかにもその通りである。御代も代わった故に、この御書付も反故と存じていたのだが、
今度の仰せ出されにより、御覧に入れるのだ。」
直孝は尋ねた「その御証文は御自筆でしょうか?」
「全く、御先祖の御筆である。」
「もし出来るのであれば、それを少しばかり拝見仕りたく思います。」
そのように申したため、政宗は家臣を呼び出し、御証文の入った筥を取り寄せ、井伊の前に置くと、
直孝は御証文を出して押し頂き、とくと拝見して政宗に対し
「かような事は御謀であり、貴殿もその事は御存知であるはずです。誠に反故にて候。」
そう言いながらこれを二つ三つに引き裂いた。政宗はこれを見て興醒めして
「なるほど、左様である。これはおうた子に教えられ、川を渡る(負うた子に教えられて浅瀬を渡る)と
申すものであるな。」
と笑われ、種々の饗応あって後に、直孝は伊達家を出てそれより直ぐに登城して、この趣を報告すると、
家光公はご機嫌斜めならず、利勝も大いに感心したという。
(新東鑑)
352人間七七四年
2022/09/06(火) 22:34:26.40ID:Jo2FWFOc 今度秀吉が御在洛され、関白になられた。近衛殿、前入道殿下前久公の御猶子としてであるという。
(天正十三年)七月一日に参内され、禁中において御能があり、上下京の手能の者たちがこれを
秀吉より仰せつかったという。
秀吉が関白になられた事で、同時に殿上人、諸大夫になった人が十人もあった。
御能は五番、弓八幡、田村、三輪、紅葉狩、呉服の切。
今回の御能に、関白殿(秀吉)に対し所々より進上があり、上下京衆より盃台六、七百ばかり、折が五百、
これらが合わせて庭上に夜中から並べ立てられ、これを番する衆もあった。
当日には清涼殿の御面等の少し下に引き下げて、仮の御椽を押し出され、その上に盃台、折以下が置かれた。
また、この折、盃台以下は上下京の町人の進上であった。今度の盆の踊りを御免する代わりに、今回、
折、盃台以下を馳走するようにと秀吉公より仰せだされたのだ。
能の太夫は、上京からはホリケ、ワキはホリケか、伯父のリウハであるという。入道前虎屋という者である。
下京の大夫はこれまで、禁裏御能に何れにても何か下されることは無かったが。大夫が若衆であるとして、
御扇が下される事もあった。そして今回は秀吉公より、越後の帷子二百が進上され、それが悉く下された。
(宇野主水記)
秀吉の関白就任の時の上京下京の関わりについて。
(天正十三年)七月一日に参内され、禁中において御能があり、上下京の手能の者たちがこれを
秀吉より仰せつかったという。
秀吉が関白になられた事で、同時に殿上人、諸大夫になった人が十人もあった。
御能は五番、弓八幡、田村、三輪、紅葉狩、呉服の切。
今回の御能に、関白殿(秀吉)に対し所々より進上があり、上下京衆より盃台六、七百ばかり、折が五百、
これらが合わせて庭上に夜中から並べ立てられ、これを番する衆もあった。
当日には清涼殿の御面等の少し下に引き下げて、仮の御椽を押し出され、その上に盃台、折以下が置かれた。
また、この折、盃台以下は上下京の町人の進上であった。今度の盆の踊りを御免する代わりに、今回、
折、盃台以下を馳走するようにと秀吉公より仰せだされたのだ。
能の太夫は、上京からはホリケ、ワキはホリケか、伯父のリウハであるという。入道前虎屋という者である。
下京の大夫はこれまで、禁裏御能に何れにても何か下されることは無かったが。大夫が若衆であるとして、
御扇が下される事もあった。そして今回は秀吉公より、越後の帷子二百が進上され、それが悉く下された。
(宇野主水記)
秀吉の関白就任の時の上京下京の関わりについて。
353人間七七四年
2022/09/09(金) 18:29:09.73ID:XSLFTUOS 「栂牟礼実録」の「剣の巻」から佐伯氏にまつわる奇瑞
・瀬登り脇差:佐伯惟勝の代の時に、船遊びの途中で海に誤って落としたことがあったが、脇差みずから城下の瀬まで登り、水底で光ったため惟勝に発見された。
佐伯惟治の乱の時にも所持されていたが、近頃は行方知れずになっている。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13613.html
・飛龍の太刀
この太刀を鞘から抜くとハバキから刃に龍の形が移動し、鞘に刺す時には龍がハバキの元へ帰る
・佐伯氏出陣の時にいつも雨が降るが、蛇の子孫であるため吉例としている。
・佐伯氏は祖母嶽大明神(蛇神)の子孫であるため代々鱗があり、佐伯惟定には三つあった。
惟定嫡男の惟重には元和五年(1619年)十一月二十日に腋の下に一つ鱗が出現したという。
・佐伯惟定が元和四年(1618年)六月九日に伊勢で没する三日前、佐伯惟康以来伝来の旗を入れた箱が鳴るという不思議があった。
・瀬登り脇差:佐伯惟勝の代の時に、船遊びの途中で海に誤って落としたことがあったが、脇差みずから城下の瀬まで登り、水底で光ったため惟勝に発見された。
佐伯惟治の乱の時にも所持されていたが、近頃は行方知れずになっている。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13613.html
・飛龍の太刀
この太刀を鞘から抜くとハバキから刃に龍の形が移動し、鞘に刺す時には龍がハバキの元へ帰る
・佐伯氏出陣の時にいつも雨が降るが、蛇の子孫であるため吉例としている。
・佐伯氏は祖母嶽大明神(蛇神)の子孫であるため代々鱗があり、佐伯惟定には三つあった。
惟定嫡男の惟重には元和五年(1619年)十一月二十日に腋の下に一つ鱗が出現したという。
・佐伯惟定が元和四年(1618年)六月九日に伊勢で没する三日前、佐伯惟康以来伝来の旗を入れた箱が鳴るという不思議があった。
354人間七七四年
2022/09/09(金) 20:37:33.45ID:BqFjAl/o 伊勢・関の一党とは、六波羅太政大臣(平)清盛公の後胤である。
先祖である小松内大臣重盛公は天下を治められたが、次男小松新三位中将資盛卿が十三の年に、
殿下乗合事件のために勢州鈴鹿郡関谷久我という所に流され、六年間ここに居られ、この時、
子息一人が出来た。
源氏の世になり、北条家がこの子を預かり命を助けた。彼は盛国と称して関東にて死去した。
その子、関之左近大夫将監実忠が初めて関之谷を給わり、「関」と号した。
その末孫・関孫四郎は足利尊氏卿に味方し子孫繁栄した。
関之三家督とは、鈴鹿郡亀山関家、川曲郡神戸関家、鈴鹿郡峰関家である。
何れも侍地下人共に、軍兵千の大将である。
同じく五大将とは、これに加えて鈴鹿郡国府関の家、同郡鹿伏兎関家、各五百の大将である。
関勢は合わせて五千人である(原文ママ)。そしてこの五家は皆、足利将軍家の侍である。
幕の紋は上羽蝶なり。
(勢州兵亂記)
伊勢関家について。
先祖である小松内大臣重盛公は天下を治められたが、次男小松新三位中将資盛卿が十三の年に、
殿下乗合事件のために勢州鈴鹿郡関谷久我という所に流され、六年間ここに居られ、この時、
子息一人が出来た。
源氏の世になり、北条家がこの子を預かり命を助けた。彼は盛国と称して関東にて死去した。
その子、関之左近大夫将監実忠が初めて関之谷を給わり、「関」と号した。
その末孫・関孫四郎は足利尊氏卿に味方し子孫繁栄した。
関之三家督とは、鈴鹿郡亀山関家、川曲郡神戸関家、鈴鹿郡峰関家である。
何れも侍地下人共に、軍兵千の大将である。
同じく五大将とは、これに加えて鈴鹿郡国府関の家、同郡鹿伏兎関家、各五百の大将である。
関勢は合わせて五千人である(原文ママ)。そしてこの五家は皆、足利将軍家の侍である。
幕の紋は上羽蝶なり。
(勢州兵亂記)
伊勢関家について。
355人間七七四年
2022/09/09(金) 20:55:02.34ID:XSLFTUOS http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7833.html
関家を相続する者は、代々乳首を四つ持っており
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7831.html
千葉宗家、惣領の印
関氏の副乳
豊後大神一族の佐伯氏や稙田氏の体の鱗
千葉氏の月星のイボ
先祖代々受け継がれる身体的特徴ネタってほかにもあるかな
関家を相続する者は、代々乳首を四つ持っており
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7831.html
千葉宗家、惣領の印
関氏の副乳
豊後大神一族の佐伯氏や稙田氏の体の鱗
千葉氏の月星のイボ
先祖代々受け継がれる身体的特徴ネタってほかにもあるかな
356人間七七四年
2022/09/10(土) 20:53:11.98ID:Ggs1f0hu 天正十三年十一月十九日、小早川左衛門佐(隆景)、吉川治部少輔(元長)が堺に到着し、二十日に
御門跡(顕如)より刑部卿を御使として、馬一疋が遣わさた。これは秀吉より参った然るべき馬であった。
新門様(教如)よりも御馬一疋が遣わされた。
二十一日、小早川、吉川の両人は大阪に行かれ秀吉に御礼し、毛利右馬頭(輝元)より銀千枚、
小早川より五百枚、吉川は三百枚を進上した。
二十四日には御能があり、金剛又兵衛大夫が能三番をり、芸州衆をもてなしめた。
二十五日、両川は御暇を給わり帰国。二十五日、当門様(顕如)へ返礼の使者があった。
小早川より一腰と五千疋、吉川より一腰と虎豹の皮三枚、馬代銀二枚であった。
吉川よりは同苗字の又五郎という人が来て、小早川隆景が早くも今朝兵庫まで下ったと言った。
夕方には中村孫平治が御礼に参った。
(宇野主水記)
小早川隆景、吉川元長の上洛について
御門跡(顕如)より刑部卿を御使として、馬一疋が遣わさた。これは秀吉より参った然るべき馬であった。
新門様(教如)よりも御馬一疋が遣わされた。
二十一日、小早川、吉川の両人は大阪に行かれ秀吉に御礼し、毛利右馬頭(輝元)より銀千枚、
小早川より五百枚、吉川は三百枚を進上した。
二十四日には御能があり、金剛又兵衛大夫が能三番をり、芸州衆をもてなしめた。
二十五日、両川は御暇を給わり帰国。二十五日、当門様(顕如)へ返礼の使者があった。
小早川より一腰と五千疋、吉川より一腰と虎豹の皮三枚、馬代銀二枚であった。
吉川よりは同苗字の又五郎という人が来て、小早川隆景が早くも今朝兵庫まで下ったと言った。
夕方には中村孫平治が御礼に参った。
(宇野主水記)
小早川隆景、吉川元長の上洛について
357人間七七四年
2022/09/10(土) 21:32:12.44ID:J/ZemXQR どこら辺がいい話なの
358人間七七四年
2022/09/10(土) 22:08:17.57ID:3lvuD7ir 宇野主水は顕如の秘書役(右筆)、その日記のうち現存するものがこれです。
360人間七七四年
2022/09/11(日) 08:21:42.73ID:f187KM49 戦国ちょっと無駄話ってスレでも立ててそこでやってほしいわ、もう新出の荒らしだろこれ
最後まで読まないとわからないから余計腹立つ
最後まで読まないとわからないから余計腹立つ
361人間七七四年
2022/09/11(日) 09:32:08.43ID:srxI4k4u 書かないとアフィカスにお金貰えないんだろ
かわいそうに
かわいそうに
362人間七七四年
2022/09/11(日) 09:39:00.07ID:xksSu1o2 何回も言うけど元ネタ書籍の背景くらいは書いてくれ。
363人間七七四年
2022/09/11(日) 09:41:30.26ID:0G5lvKnP アフィカスのアフィカスによるアフィカスのためのゴミスレッド
364人間七七四年
2022/09/11(日) 15:47:05.18ID:QRvICXs9 阿波の三善(三好)修理太夫(長慶)殿は、十七歳にて思い立ち、
「当年より三ヶ年の間、夏百日づつ求聞持の法を行いたい。」と宣われた。
家老の者は「それは何のためにあそばされるのでしょうか」と申した。
修理太夫は「武道の誉のためである。」と答えられた。
家老は承り、「三好の御家に生まれられた以上、冥加も果報も一段目出度くあられるのに、
どうしてそのように勿体無い事を行われるのでしょうか。」と諫言した。
三好殿は言われた
「各々は私に、冥加も果報も有るではないかと言う。しかしそれは推量である。
(新田)義貞公の軍記においても、推量は嫌われている。
私は幼少であるので末の儀を知らない。知らなければ先悪しと覚悟致すのが
尤もであろう。
もとより果報のある人は、祈らずとも吉となるだろう。
果報の無い人は祈っても叶わぬだろう。
また祈らずして悪しくなる者もあるだろうし、突然祈って良い結果となる人もあるだろう。
これ皆天道である。
果報に生まれついた人は、例えば自然木のようなものだ。自然木は強風にあたっても
そのために枯れることは稀である。木は何れも同じことだと思っても、そこに柱を添えて
結わなければ、すこしの風でも当てられて枯れること疑いない。
私のこの度の求聞持は、植木に添え木を結う心なのだ。
信仰を評価しない人の言う事も理である。
「八幡の社人、愛宕坊主などが天下一の武辺者に成るだろうか」と、神を信じる者を謗る。
しかしながら、例えば金堀は金を掘るが、己の物とはせず人にもたらす。
またそのように信仰を評価しない人々も、いざ、自分の子が存命不定の病となり、或いは
主君の勘当を蒙るなど、何の道であっても難儀に及ぶその時は、諸神諸仏に立願する。
皆これ人間の迷である。
迷に便って身を助る。人が迷わず悉く悟るなら、僧や社人は餓死するだろう。
されば昔より名を得た人は、十人中九人、信心の無い人はない。
祈るも天道、祈らぬも天道である。」
『甲陽軍鑑』
甲陽軍鑑より、三好長慶による信仰心についてのお話
「当年より三ヶ年の間、夏百日づつ求聞持の法を行いたい。」と宣われた。
家老の者は「それは何のためにあそばされるのでしょうか」と申した。
修理太夫は「武道の誉のためである。」と答えられた。
家老は承り、「三好の御家に生まれられた以上、冥加も果報も一段目出度くあられるのに、
どうしてそのように勿体無い事を行われるのでしょうか。」と諫言した。
三好殿は言われた
「各々は私に、冥加も果報も有るではないかと言う。しかしそれは推量である。
(新田)義貞公の軍記においても、推量は嫌われている。
私は幼少であるので末の儀を知らない。知らなければ先悪しと覚悟致すのが
尤もであろう。
もとより果報のある人は、祈らずとも吉となるだろう。
果報の無い人は祈っても叶わぬだろう。
また祈らずして悪しくなる者もあるだろうし、突然祈って良い結果となる人もあるだろう。
これ皆天道である。
果報に生まれついた人は、例えば自然木のようなものだ。自然木は強風にあたっても
そのために枯れることは稀である。木は何れも同じことだと思っても、そこに柱を添えて
結わなければ、すこしの風でも当てられて枯れること疑いない。
私のこの度の求聞持は、植木に添え木を結う心なのだ。
信仰を評価しない人の言う事も理である。
「八幡の社人、愛宕坊主などが天下一の武辺者に成るだろうか」と、神を信じる者を謗る。
しかしながら、例えば金堀は金を掘るが、己の物とはせず人にもたらす。
またそのように信仰を評価しない人々も、いざ、自分の子が存命不定の病となり、或いは
主君の勘当を蒙るなど、何の道であっても難儀に及ぶその時は、諸神諸仏に立願する。
皆これ人間の迷である。
迷に便って身を助る。人が迷わず悉く悟るなら、僧や社人は餓死するだろう。
されば昔より名を得た人は、十人中九人、信心の無い人はない。
祈るも天道、祈らぬも天道である。」
『甲陽軍鑑』
甲陽軍鑑より、三好長慶による信仰心についてのお話
365人間七七四年
2022/09/12(月) 19:20:04.66ID:cZgjre5a 豊後佐伯氏についての伝承をまとめた「栂牟礼実録」「剣の巻」からそのほかの佐伯氏伝来の刀剣についての話
・手鉾太刀
祖母嶽大明神(蛇神)の嫡子・大神惟基より相伝された。
その昔、承和七年(840年)に惟基が参内したおり、刀を枕元に置いて昼寝をした。
それを見た雅楽之介という公家が「九州の戎とはいえ、刀は名物かも知れぬ」と抜こうとしたが抜けなかった。
そこで雅楽之介はそこを離れ、「惟基の太刀は作り物だろう。銅でも中に詰め込んでるに違いない」
と言いふらし、竹の中に鉄をこめて綿で包んで禁中の庭に立てて
「惟基よ、庭に落ちたものがある。勅定により斬ってみよ」と恥をかかせるために命じた。
惟基が一刀のもとに斬り落としたため、あての外れた公家連中は逆恨みし惟基を流罪にしようとした。
しかしその日禁中で火事が起き、惟基が太刀を使って大扉をこじ開け消火したため、惟基は豊後守に任じられた。
このため手鉾太刀は不抜の太刀とも号している。
・神息太刀
宇佐八幡大神宮が打ったとされる太刀で、寿永二年(1183年)平家追討の功により源義経から緒方惟栄に下賜された。
佐伯惟定の息子・佐伯惟重が伊勢に住んでいた元和九年(1623年)に京に研ぎに送ったところ、息女が急病で危篤となった。
これは神息太刀を京に送ったためであろうと、追いかけさせ大津の駅で取り返し佐伯家に戻したところ、門に入るやいなや息女は快気した。
そのため家を守る太刀であろうといわれている。
・巴作りの太刀
祖母嶽大明神が大神惟基の母に譲り渡した太刀と言われている。
寛永三年(1626年)十月十日、佐伯惟重の主君である伊勢津藩藩主・藤堂高次は惟重に藤堂家の屋敷まで太刀を持参させた。
高次は直接触るのは畏れ多いというので、柄を杉原紙で包んで抜こうとしたが抜けなかった。
代わりに惟重が太刀を抜いて高次に渡そうとすると、いきなり座の板敷が崩れて座中の五、六人が卒倒した。
そのため藤堂高次は太刀を手に取るのはやめ、太刀を祝うために盃を回してみなで歓談した。
・手鉾太刀
祖母嶽大明神(蛇神)の嫡子・大神惟基より相伝された。
その昔、承和七年(840年)に惟基が参内したおり、刀を枕元に置いて昼寝をした。
それを見た雅楽之介という公家が「九州の戎とはいえ、刀は名物かも知れぬ」と抜こうとしたが抜けなかった。
そこで雅楽之介はそこを離れ、「惟基の太刀は作り物だろう。銅でも中に詰め込んでるに違いない」
と言いふらし、竹の中に鉄をこめて綿で包んで禁中の庭に立てて
「惟基よ、庭に落ちたものがある。勅定により斬ってみよ」と恥をかかせるために命じた。
惟基が一刀のもとに斬り落としたため、あての外れた公家連中は逆恨みし惟基を流罪にしようとした。
しかしその日禁中で火事が起き、惟基が太刀を使って大扉をこじ開け消火したため、惟基は豊後守に任じられた。
このため手鉾太刀は不抜の太刀とも号している。
・神息太刀
宇佐八幡大神宮が打ったとされる太刀で、寿永二年(1183年)平家追討の功により源義経から緒方惟栄に下賜された。
佐伯惟定の息子・佐伯惟重が伊勢に住んでいた元和九年(1623年)に京に研ぎに送ったところ、息女が急病で危篤となった。
これは神息太刀を京に送ったためであろうと、追いかけさせ大津の駅で取り返し佐伯家に戻したところ、門に入るやいなや息女は快気した。
そのため家を守る太刀であろうといわれている。
・巴作りの太刀
祖母嶽大明神が大神惟基の母に譲り渡した太刀と言われている。
寛永三年(1626年)十月十日、佐伯惟重の主君である伊勢津藩藩主・藤堂高次は惟重に藤堂家の屋敷まで太刀を持参させた。
高次は直接触るのは畏れ多いというので、柄を杉原紙で包んで抜こうとしたが抜けなかった。
代わりに惟重が太刀を抜いて高次に渡そうとすると、いきなり座の板敷が崩れて座中の五、六人が卒倒した。
そのため藤堂高次は太刀を手に取るのはやめ、太刀を祝うために盃を回してみなで歓談した。
366人間七七四年
2022/09/12(月) 20:50:43.97ID:bw+H0D7l 戦国豆知識を貼るスレじゃねえんだよ
367人間七七四年
2022/09/12(月) 21:15:09.62ID:3X6J1wBJ すっかりアフィカスのアフィカスによるアフィカスのためのゴミスレッドと化したね
368人間七七四年
2022/09/12(月) 21:16:46.49ID:cZgjre5a 神息太刀、巴作りの太刀は佐伯惟重関連の逸話なので問題ないと思います
手鉾太刀については逸話自体は平安時代であるものの、佐伯家の重宝ということで入れました
今までも武将の道具について並べた話はいくつか出ていますし、特に問題にはなってないかと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13414.html
二ノ谷は一ノ谷に並び、銕蓋は一ノ谷より上なりという
手鉾太刀については逸話自体は平安時代であるものの、佐伯家の重宝ということで入れました
今までも武将の道具について並べた話はいくつか出ていますし、特に問題にはなってないかと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13414.html
二ノ谷は一ノ谷に並び、銕蓋は一ノ谷より上なりという
369人間七七四年
2022/09/12(月) 21:38:44.62ID:spNsKpOa 自分では逸話を投稿もしないで、他人を罵ることしか出来ないヤカラは
このスレのただの寄生虫だから相手するだけ無駄よ。
このスレのただの寄生虫だから相手するだけ無駄よ。
370人間七七四年
2022/09/12(月) 21:50:23.27ID:jwY5c31r 豆知識でもいいだろ
371人間七七四年
2022/09/12(月) 22:04:13.95ID:bw+H0D7l よくねえよボケ
ネタが尽きたならスレを終わりにすればいいだけだ
ネタが尽きたならスレを終わりにすればいいだけだ
372人間七七四年
2022/09/12(月) 22:13:13.18ID:vbapfo+x 誰がそんなルール決めてんだよw
373人間七七四年
2022/09/12(月) 22:44:15.07ID:bw+H0D7l おう、まとめサイトの管理人見てるか
物事には引き際ってものがあるんだぞ
物事には引き際ってものがあるんだぞ
374人間七七四年
2022/09/13(火) 10:20:13.44ID:coaP4Bxa どこにでも居るんだよな、自分では何もせんで文句ばっかり言うヤツって
375人間七七四年
2022/09/13(火) 10:33:59.78ID:uJ2lt1kS お前らアフィサイトの為にコメント投稿しろってさw
文句言われたくなけりゃ5ch使わなきゃ良いんだよアホ
文句言われたくなけりゃ5ch使わなきゃ良いんだよアホ
376人間七七四年
2022/09/13(火) 11:15:52.30ID:CMco756k アフィカスの奴隷になってる倭猿が発狂してる
377人間七七四年
2022/09/13(火) 12:01:40.09ID:uJ2lt1kS ここ数ヶ月まともなコメントなんか付いてないけどなw
それよりなんでパンチョッパリが日本の掲示板に日本語で書き込んでんだよ
半島1万年のコリイエイトファンタジーを垂れ流したいのか?
それよりなんでパンチョッパリが日本の掲示板に日本語で書き込んでんだよ
半島1万年のコリイエイトファンタジーを垂れ流したいのか?
378人間七七四年
2022/09/13(火) 15:26:12.27ID:d+KHpvWh えっここ日本の掲示板だったの?確かサーバーって韓国にあるんじゃなかったか
379人間七七四年
2022/09/13(火) 15:35:49.57ID:uJ2lt1kS いつバカチョン半島に移転したんだよ
ウリナリサーバーで動かしてるから5chは韓国起源ニダとか言ってんのか
マジでバカチョンって頭おかしいな
ウリナリサーバーで動かしてるから5chは韓国起源ニダとか言ってんのか
マジでバカチョンって頭おかしいな
380人間七七四年
2022/09/13(火) 18:13:48.91ID:QtVlKtqL 韓国に劣等感抱いていつも韓国のこと注視せざるを得ない倭猿の発狂はいつ見ても飽きんな
381人間七七四年
2022/09/13(火) 18:18:08.99ID:uJ2lt1kS それまんま嫌いな日本の掲示板に張り付いてるお前のことじゃないかww
ちゅうか日本語使ってんじゃねえよ親日罪だぞ
ちゅうか日本語使ってんじゃねえよ親日罪だぞ
383人間七七四年
2022/09/13(火) 20:05:30.38ID:c5IXSckZ 甲州に小笠原源與斎という軍配者がいた。彼は様々な奇特を表し、風呂に入って戸を押さえさせたのに、
人々に気づかれずに外に出、或いは夜、各々が会合した時、座席の向かいに山が見れれば、
「向かいの山に火をいくつか立てよう。各々見よ」
と言って、人の好むように火を立てるほどの者であった。
おおよそ軍配をよく伝授すれば、その軍配の余精を以て、様々な奇特を致す。
また永禄四年に川中島合戦の時討ち死にした山本勘介は、信玄公旗本において足軽大将の中の
五人に優れた名人と呼ばれ、これも軍配鍛錬の者であった。
この山本勘介入道道鬼の軍配は、宮、商、角、微、羽の五つより分けて見る、雲気、烟気、その他
ゑぎ、さご、すだ、来たり様、行き様、これらの外も口伝が有るが、勘介流は一段短かった。
但し小笠原源與斎のような奇特は無かった。
しかしながら、源與斎も云っていたが、奇特は軍配の神変であるという威光までのもので、
勝負の利には成らぬものである。
その謂れは、人に望まれて山に松明を立てるくらいなら、自分が暗き道で火に事欠いている時、
松明を立てて道を見て行けるのならば然るべきであるが、そのようには中々成らず、
ただ人に望まれてよそに火を立てるばかり。これは術である。
術は座興であり、まことに道に至って弓矢の計略、計策などの用に立たない。
然れば、敵味方対陣の時節は、勘介も源與斎も同前である。
馬場美濃守(信春)は、「神変は尤もなものだが、それは人によっての事。
武士が弓矢のために軍配を習って、神変致した場合、武道のためとはいいながら、
『かの奇特する人よ』とあだ名を呼ばれ、禰宜や山伏のように申されてしまう。
そのうえ正法に奇特無しと聞こえており、であれば神変は更に要らざるものである。」
と申していた。
『甲陽軍鑑』
軍配者と神変について
人々に気づかれずに外に出、或いは夜、各々が会合した時、座席の向かいに山が見れれば、
「向かいの山に火をいくつか立てよう。各々見よ」
と言って、人の好むように火を立てるほどの者であった。
おおよそ軍配をよく伝授すれば、その軍配の余精を以て、様々な奇特を致す。
また永禄四年に川中島合戦の時討ち死にした山本勘介は、信玄公旗本において足軽大将の中の
五人に優れた名人と呼ばれ、これも軍配鍛錬の者であった。
この山本勘介入道道鬼の軍配は、宮、商、角、微、羽の五つより分けて見る、雲気、烟気、その他
ゑぎ、さご、すだ、来たり様、行き様、これらの外も口伝が有るが、勘介流は一段短かった。
但し小笠原源與斎のような奇特は無かった。
しかしながら、源與斎も云っていたが、奇特は軍配の神変であるという威光までのもので、
勝負の利には成らぬものである。
その謂れは、人に望まれて山に松明を立てるくらいなら、自分が暗き道で火に事欠いている時、
松明を立てて道を見て行けるのならば然るべきであるが、そのようには中々成らず、
ただ人に望まれてよそに火を立てるばかり。これは術である。
術は座興であり、まことに道に至って弓矢の計略、計策などの用に立たない。
然れば、敵味方対陣の時節は、勘介も源與斎も同前である。
馬場美濃守(信春)は、「神変は尤もなものだが、それは人によっての事。
武士が弓矢のために軍配を習って、神変致した場合、武道のためとはいいながら、
『かの奇特する人よ』とあだ名を呼ばれ、禰宜や山伏のように申されてしまう。
そのうえ正法に奇特無しと聞こえており、であれば神変は更に要らざるものである。」
と申していた。
『甲陽軍鑑』
軍配者と神変について
384人間七七四年
2022/09/13(火) 21:44:05.77ID:m+yYFmZe また韓国大好きのアフィカス倭猿が騒いでるのかw
385人間七七四年
2022/09/13(火) 21:46:40.03ID:uJ2lt1kS 嫌いな日本の掲示板に張り付いてるお前は親日罪だぞ
お前の歴史嘘ばっかりだし人生も嘘で塗り固められてるんじゃね?
お前の歴史嘘ばっかりだし人生も嘘で塗り固められてるんじゃね?
386人間七七四年
2022/09/13(火) 21:49:44.83ID:womp6QJm 張り付きアフィカス倭猿wwww
悔しくて発狂wwwwww
悔しくて発狂wwwwww
387人間七七四年
2022/09/13(火) 21:51:48.40ID:z1EV8n2D また韓国大好き倭猿が騒いでるのか
真っ赤だぞw
真っ赤だぞw
388人間七七四年
2022/09/13(火) 21:54:12.23ID:uJ2lt1kS キムチ発狂しとるやんw
トンスルでも飲んで落ち着けよチョン
トンスルでも飲んで落ち着けよチョン
389人間七七四年
2022/09/13(火) 22:01:30.01ID:Uwk/BubF ウンコ大好きアベ猿wwwまた真っ赤にして発狂wwwww
390人間七七四年
2022/09/13(火) 22:05:49.68ID:m/HKtoSf またアフィカスが荒らしてんのかw
391人間七七四年
2022/09/13(火) 22:05:55.41ID:uJ2lt1kS 勝手にウンコとか言い始めるから笑う
マジでウンコ酒命なんだな
油断したらウンコ画像貼り始めそうだな
おまエラいっつもそれやってるよなw
ちょっとバカにされたラすぐウンコ連投
大使館にもウンコ投げ込む
マジでウンコ酒命なんだな
油断したらウンコ画像貼り始めそうだな
おまエラいっつもそれやってるよなw
ちょっとバカにされたラすぐウンコ連投
大使館にもウンコ投げ込む
392人間七七四年
2022/09/13(火) 22:07:48.80ID:SemTYXEN 大好きなウンコの話になると饒舌だなwww
393人間七七四年
2022/09/13(火) 22:12:35.32ID:9jbe9+Xo 倭猿がウンコ愛を語ってて(爆笑)
394人間七七四年
2022/09/13(火) 22:23:45.54ID:9jbe9+Xo 一般社団法人日本うんこ文化学会 Japan Academy of Poop culture
http://sorabuta.com/一般社団法人日本うんこ文化学会概要/
ウンコ大好きジャップwwwww
http://sorabuta.com/一般社団法人日本うんこ文化学会概要/
ウンコ大好きジャップwwwww
395人間七七四年
2022/09/16(金) 20:13:10.82ID:Fv/jrH4D 私は高坂弾正と申して、武田信玄公被官の内で、一の臆病者である。
仔細は下々において童子供の戯言に『保科弾正鑓弾正、高坂弾正にげ弾正』と申しならわしているほどである。
私の元来を申せば、父は春日大隅といって甲州伊澤の大百姓であった。私が幼少の時、父大隅と死に別れ、
姉婿と田地の公事(裁判)があったが、私は負けた。
その時、公事の場より「召し使わるべし」との上意が有り、信玄公御年二十二歳、私は十六歳にて、御奉公に
罷り出、御小人として働いたことが良き仕合であったために、廿人衆に成るようにと、もっとの外に
出頭し、三十日の間に近習となされ、殊更に奥へ召し寄され、御膝下にて御奉公仕った。
何たる機縁を結び奉った事だろうか。
私は信玄公の御意などに相違し、仮にひと月も引き籠るような事は無かった。
連々御奉公いたし、春日弾正と号せられ、雨飾の城に差し置かれ、只今は海津の高坂の跡目となり、
高坂弾正と呼ばれている。
誠に私は御奉公に罷り出てから、二十四、五までは諸傍輩の沙汰に「あのようなほれ者(愚か者)を
お取立てになるのは、偏に信玄公の御目違いである。」と、上下の沙汰を承った。
これが我が等身の薬となった。御前を違え、信玄公の御目違いだと言われないようにと、一層
御奉公に精を出したのだ。
『甲陽軍鑑』
高坂弾正の前半生の述懐
仔細は下々において童子供の戯言に『保科弾正鑓弾正、高坂弾正にげ弾正』と申しならわしているほどである。
私の元来を申せば、父は春日大隅といって甲州伊澤の大百姓であった。私が幼少の時、父大隅と死に別れ、
姉婿と田地の公事(裁判)があったが、私は負けた。
その時、公事の場より「召し使わるべし」との上意が有り、信玄公御年二十二歳、私は十六歳にて、御奉公に
罷り出、御小人として働いたことが良き仕合であったために、廿人衆に成るようにと、もっとの外に
出頭し、三十日の間に近習となされ、殊更に奥へ召し寄され、御膝下にて御奉公仕った。
何たる機縁を結び奉った事だろうか。
私は信玄公の御意などに相違し、仮にひと月も引き籠るような事は無かった。
連々御奉公いたし、春日弾正と号せられ、雨飾の城に差し置かれ、只今は海津の高坂の跡目となり、
高坂弾正と呼ばれている。
誠に私は御奉公に罷り出てから、二十四、五までは諸傍輩の沙汰に「あのようなほれ者(愚か者)を
お取立てになるのは、偏に信玄公の御目違いである。」と、上下の沙汰を承った。
これが我が等身の薬となった。御前を違え、信玄公の御目違いだと言われないようにと、一層
御奉公に精を出したのだ。
『甲陽軍鑑』
高坂弾正の前半生の述懐
396人間七七四年
2022/09/16(金) 20:21:16.97ID:ph509oAr さすがアフィカス懲りないな
このスレに投下してどんなコメント載せるんだよ
直接自分のサイトに載せるだけでいいだろ
このスレに投下してどんなコメント載せるんだよ
直接自分のサイトに載せるだけでいいだろ
397人間七七四年
2022/09/16(金) 21:01:41.73ID:70ioijqF 「朝野雑載」から田中吉政と垣屋摂津守(垣屋光成?)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8387.html
のように農夫をやめて、宮部継潤にはじめ草履取りとして仕官したが、すぐに継潤により「草履取り程度の器ではない」と認められ徒士となった。
そののち才能・武功により家老として二千五百石が与えられた。
秀吉公が因幡の垣屋摂津守を攻めた時のこと、すでに城の包囲は突破されたため摂津守は覚悟を決めて自刃しようとした。
そこへ城中一番乗りした田中吉政は摂津守に対して槍をついた。
摂津守も槍で応戦し、勝負がまだ決しないうちに秀吉公の使いが来て
「このたび垣屋が城をもちこたえさせたのは見事である。
これまでの咎を許し、本領十二万石を安堵しよう」と言ってきた。
そのため吉政も摂津守も戦いをやめた。
摂津守は秀吉公に謁見し、吉政の功績を述べた。
秀吉公は大いに感じて吉政を召し出し、そののち三河刈屋城主として四万石を与えた。
田中吉政が十八の時に農夫を辞めて、四万石を領するまで、わずか六年ばかりであった。
(田中吉政は普通1548年生まれとされているが
「朝野雑載」の記事では「田中吉政が十八の時に宮部継潤(二万石)に仕えた」としているため
宮部継潤が1580年に但馬豊岡城主として二万石取りであることから考えると、「朝野雑載」では田中吉政の生年は1563年頃としているようだ)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8387.html
のように農夫をやめて、宮部継潤にはじめ草履取りとして仕官したが、すぐに継潤により「草履取り程度の器ではない」と認められ徒士となった。
そののち才能・武功により家老として二千五百石が与えられた。
秀吉公が因幡の垣屋摂津守を攻めた時のこと、すでに城の包囲は突破されたため摂津守は覚悟を決めて自刃しようとした。
そこへ城中一番乗りした田中吉政は摂津守に対して槍をついた。
摂津守も槍で応戦し、勝負がまだ決しないうちに秀吉公の使いが来て
「このたび垣屋が城をもちこたえさせたのは見事である。
これまでの咎を許し、本領十二万石を安堵しよう」と言ってきた。
そのため吉政も摂津守も戦いをやめた。
摂津守は秀吉公に謁見し、吉政の功績を述べた。
秀吉公は大いに感じて吉政を召し出し、そののち三河刈屋城主として四万石を与えた。
田中吉政が十八の時に農夫を辞めて、四万石を領するまで、わずか六年ばかりであった。
(田中吉政は普通1548年生まれとされているが
「朝野雑載」の記事では「田中吉政が十八の時に宮部継潤(二万石)に仕えた」としているため
宮部継潤が1580年に但馬豊岡城主として二万石取りであることから考えると、「朝野雑載」では田中吉政の生年は1563年頃としているようだ)
398人間七七四年
2022/09/17(土) 05:49:14.04ID:wtY/uD3Z >>396
ウンコが大好きなのがバレて荒らしてんのかw
ウンコが大好きなのがバレて荒らしてんのかw
399人間七七四年
2022/09/17(土) 12:24:41.50ID:Aj8vbOK9 ウンコミンジョクが発狂継続中
400人間七七四年
2022/09/17(土) 13:27:38.95ID:lvSZvB0W 東京国立博物館創立150年記念 特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」
https://tohaku150th.jp/
期日 10月18日(火)~12月11日(日)
今後50年は企画されない規模だそうで、やはり今行くしかありません。
戦国時代・武具関係に限定すると屏風絵か刀剣ということになってしまいますが、国宝刀剣19件は
特別室の「国宝刀剣の間」で展示とのこと。
特別展担当の佐藤学芸員は刀剣・甲冑のエキスパートなので期待大ですね。
(スレに何回か名前の出ている日本甲冑武具研究保存会メンバーでもあります)
https://tohaku150th.jp/
期日 10月18日(火)~12月11日(日)
今後50年は企画されない規模だそうで、やはり今行くしかありません。
戦国時代・武具関係に限定すると屏風絵か刀剣ということになってしまいますが、国宝刀剣19件は
特別室の「国宝刀剣の間」で展示とのこと。
特別展担当の佐藤学芸員は刀剣・甲冑のエキスパートなので期待大ですね。
(スレに何回か名前の出ている日本甲冑武具研究保存会メンバーでもあります)
401人間七七四年
2022/09/17(土) 14:14:52.92ID:pO7rUd5j 何これ?
一般社団法人日本うんこ文化学会 Japan Academy of Poop culture
ウンコ大好きジャップwwwww
一般社団法人日本うんこ文化学会 Japan Academy of Poop culture
ウンコ大好きジャップwwwww
402人間七七四年
2022/09/19(月) 15:30:28.02ID:tM2mpAZc 良き大将とは、例えば合戦の時、悉く自身の采配で勝利を得たとしても、主の手柄とはせず、
近習、小姓、小殿原、若党、小人、中間衆までも褒めたて、皆、彼らの働きによって合戦に
勝ったのだと仰せに成る。故にこのような大将の下には、大名、小名、足軽、徒若党、小人、
中間衆まで、武辺覚えの者多く出るもののだ。
然れば武田信玄公はこのように宣われた
「大将が馬に乗って(出馬して)以降は、徒若党、中間、小者は身近き者である。」として、
廿人衆、小人、中間衆に一層念を入れられ、目利きを以て廿人衆を目付、横目と名付けられ
先手へ向かわせ、心馳せ有る行動をすれば褒美を与えられた。
故に後にはこの者共、戦場において目を引くほどの武辺の手柄を七.八度ずつ致した。
そう言った者を廿人衆頭とし、小人、中間の場合は小人頭たどと名付け、知行を下され、
馬に乗り、廿人衆頭は徒若党を十人、二十人ばかり預かり、小人頭は小人、中間を
二十人、三十人ばかり預かった。
このような者が廿人衆に十騎、小人頭に十騎あった。
これによって、信玄公の徒若党、小人、中間衆は、(出世の)望みを存じ心がける故に、放し討ちの成敗物まで
五、六度なかり仕らなかった者は余り居なかった。
そのようであったので、現在も目付は廿人衆、その横目は小人頭である。
『甲陽軍鑑』
武田信玄の、直属の者達の使い方について。
近習、小姓、小殿原、若党、小人、中間衆までも褒めたて、皆、彼らの働きによって合戦に
勝ったのだと仰せに成る。故にこのような大将の下には、大名、小名、足軽、徒若党、小人、
中間衆まで、武辺覚えの者多く出るもののだ。
然れば武田信玄公はこのように宣われた
「大将が馬に乗って(出馬して)以降は、徒若党、中間、小者は身近き者である。」として、
廿人衆、小人、中間衆に一層念を入れられ、目利きを以て廿人衆を目付、横目と名付けられ
先手へ向かわせ、心馳せ有る行動をすれば褒美を与えられた。
故に後にはこの者共、戦場において目を引くほどの武辺の手柄を七.八度ずつ致した。
そう言った者を廿人衆頭とし、小人、中間の場合は小人頭たどと名付け、知行を下され、
馬に乗り、廿人衆頭は徒若党を十人、二十人ばかり預かり、小人頭は小人、中間を
二十人、三十人ばかり預かった。
このような者が廿人衆に十騎、小人頭に十騎あった。
これによって、信玄公の徒若党、小人、中間衆は、(出世の)望みを存じ心がける故に、放し討ちの成敗物まで
五、六度なかり仕らなかった者は余り居なかった。
そのようであったので、現在も目付は廿人衆、その横目は小人頭である。
『甲陽軍鑑』
武田信玄の、直属の者達の使い方について。
403人間七七四年
2022/09/20(火) 04:00:38.68ID:K/ArZKdS うんこジャップさんの朝食
tps://i.imgur.com/n92bj8U.jpg
tps://i.imgur.com/n92bj8U.jpg
404人間七七四年
2022/09/20(火) 17:04:41.30ID:vpd1SmTs 増上寺について書かれた「三縁山記」から増上寺第九世住持・道誉貞把(1515-1574)について
和泉国の生まれで、出家ののち十七の時に関東に出て増上寺で杲誉上人に学ぶこと九年、
師の命で説法をするために高座に上るも途中で言葉に詰まり、顔を赤くして慌てたため、大いにあざけられた。
そのため再び修行のため旅に出て、成田不動尊に参詣すること二十一日、仮眠をとっていたところ利・鈍(鋭い・鈍い)の二剣を持った不動明王が現れた。
不動明王は「利剣、鈍剣、どちらの剣を呑むか?」と尋ねてきた。
道誉が「利剣」と答えると不動明王は利剣をはらい道誉の喉を切り裂いた。
そして一升あまりの血を吐いたところで道誉は目覚めたが、痛みは感じられなかった。
その時から経典を日々数万行も暗誦し、顕密に通じるようになったという。
なお第三十六世住持で累ヶ淵伝説や水子供養で有名な祐天上人にも同じ話があるようだ
和泉国の生まれで、出家ののち十七の時に関東に出て増上寺で杲誉上人に学ぶこと九年、
師の命で説法をするために高座に上るも途中で言葉に詰まり、顔を赤くして慌てたため、大いにあざけられた。
そのため再び修行のため旅に出て、成田不動尊に参詣すること二十一日、仮眠をとっていたところ利・鈍(鋭い・鈍い)の二剣を持った不動明王が現れた。
不動明王は「利剣、鈍剣、どちらの剣を呑むか?」と尋ねてきた。
道誉が「利剣」と答えると不動明王は利剣をはらい道誉の喉を切り裂いた。
そして一升あまりの血を吐いたところで道誉は目覚めたが、痛みは感じられなかった。
その時から経典を日々数万行も暗誦し、顕密に通じるようになったという。
なお第三十六世住持で累ヶ淵伝説や水子供養で有名な祐天上人にも同じ話があるようだ
405人間七七四年
2022/09/20(火) 17:55:41.34ID:vpd1SmTs 「祐天記」だと祐天は不動明王の籠り堂で二十一日断食したとし、不動明王が選ばせたのも利鈍の剣ではなく、
「長短の利剣のうちどちらを呑むか?」と不動明王が尋ねたところ
祐天が「長い方を呑みます」と答えたことになっていて、道誉とは少し違った。
「長短の利剣のうちどちらを呑むか?」と不動明王が尋ねたところ
祐天が「長い方を呑みます」と答えたことになっていて、道誉とは少し違った。
406人間七七四年
2022/09/21(水) 21:48:01.96ID:PlgFYXfo 【悲報】 11歳女児「男湯に入ったら盗撮されました・・・気持ち悪い」
児童買春・児童ポルノ禁止法違反の疑いで昨年11月6日、大阪府警に書類送検されたのは自衛官の男(39)
昨年8月、男は大阪市浪速区の入浴施設で、父親と一緒に男湯にいた女児(11)を狙った。
父親は入浴中、娘を目で追う男の視線を感じ、女児も「気持ち悪い」と父親に相談。
浴槽を何度か移動しても、なぜか近くに男がいた。
不気味に感じた2人は浴場を出たが、その男は脱衣場でスマホのカメラをさりげなく女児に向けていた。
9条があって良かったね
児童買春・児童ポルノ禁止法違反の疑いで昨年11月6日、大阪府警に書類送検されたのは自衛官の男(39)
昨年8月、男は大阪市浪速区の入浴施設で、父親と一緒に男湯にいた女児(11)を狙った。
父親は入浴中、娘を目で追う男の視線を感じ、女児も「気持ち悪い」と父親に相談。
浴槽を何度か移動しても、なぜか近くに男がいた。
不気味に感じた2人は浴場を出たが、その男は脱衣場でスマホのカメラをさりげなく女児に向けていた。
9条があって良かったね
407人間七七四年
2022/09/22(木) 01:32:15.59ID:4T9UE/mR この後美味しく頂きました
https://i.imgur.com/Yenxs6Z.jpg
https://i.imgur.com/Yenxs6Z.jpg
408人間七七四年
2022/09/22(木) 12:06:01.19ID:kvYFseLK 歴史の教科書に新たな1ページが加わったな
409人間七七四年
2022/09/22(木) 18:18:45.76ID:ja2k1gBw 群馬県 前橋市公式サイト
「第3回 前橋藩主 松平大和守家顕彰祭」を開催します
https://www.city.maebashi.gunma.jp/soshiki/bunkasupotsukanko/bunkakokusai/gyomu/1/1/30206.html
松平家の名宝「復元」式部正宗の初披露を軸に、天下三名槍・御手杵の槍などの松平家関連史料を期間展示。
最終日には、松平家現当主が出演する“「復元」式部正宗お披露目講演会”や、松平家ゆかりの鉄砲隊による
大迫力の火縄銃演武を実施します!
イベント参加を通じて、前橋の歴史を体感してください。
令和4年9月23日(金曜日)~10月2日(日曜日)※月曜日休館
午前9時~午後5時(入館4時30分まで。ただし、最終日は午後3時閉場となります)
会場 臨江閣別館 1階 西洋間 (前橋市大手町3丁目15-3)
展示内容
・松平家名宝「復元」式部正宗(※10月2日の午前中は講演会で披露するため、展示会場ではご覧いただけません)
・天下三名槍 御手杵の槍(復元)、御手杵の槍(レプリカ)※復元品は刀鍛冶による真剣、レプリカは鉄工所制作の模擬刀です。
・白鞘、黒鞘
・松平直矩公の軍配と陣羽織(市指定重要文化財「前橋藩主松平家陣羽織・軍配」)
・前橋市出身刀匠 高橋恒厳 作品
・前橋市所蔵刀剣類、前橋市立図書館所蔵の松平家史料 ほか
「第3回 前橋藩主 松平大和守家顕彰祭」を開催します
https://www.city.maebashi.gunma.jp/soshiki/bunkasupotsukanko/bunkakokusai/gyomu/1/1/30206.html
松平家の名宝「復元」式部正宗の初披露を軸に、天下三名槍・御手杵の槍などの松平家関連史料を期間展示。
最終日には、松平家現当主が出演する“「復元」式部正宗お披露目講演会”や、松平家ゆかりの鉄砲隊による
大迫力の火縄銃演武を実施します!
イベント参加を通じて、前橋の歴史を体感してください。
令和4年9月23日(金曜日)~10月2日(日曜日)※月曜日休館
午前9時~午後5時(入館4時30分まで。ただし、最終日は午後3時閉場となります)
会場 臨江閣別館 1階 西洋間 (前橋市大手町3丁目15-3)
展示内容
・松平家名宝「復元」式部正宗(※10月2日の午前中は講演会で披露するため、展示会場ではご覧いただけません)
・天下三名槍 御手杵の槍(復元)、御手杵の槍(レプリカ)※復元品は刀鍛冶による真剣、レプリカは鉄工所制作の模擬刀です。
・白鞘、黒鞘
・松平直矩公の軍配と陣羽織(市指定重要文化財「前橋藩主松平家陣羽織・軍配」)
・前橋市出身刀匠 高橋恒厳 作品
・前橋市所蔵刀剣類、前橋市立図書館所蔵の松平家史料 ほか
410人間七七四年
2022/09/22(木) 18:20:07.16ID:ja2k1gBw 旧前橋・川越藩主の松平大和守家は結城秀康の子孫で、秀康が養子縁組した関東の名家結城氏の祭祀を継ぐ家系。
松平姓を名乗った後も家紋だけは結城氏のものです。
「式部正宗」の名は、中村式部少輔一氏が所持したものが後に榊原式部大輔康政の手に渡り、康政から
将軍家に献上されたという伝来からという。
なぜ売りに出されたかは不明だが、松平大和守家がこれを大金で購入し、以後は結城伝来の名槍「御手杵」と
ともに家宝となったが、残念ながら東京空襲で共に焼失してしまった。
この時、鎌倉以来の結城氏の古文書も失われたということです。
2016年に御手杵と式部正宗の復元を、前橋出身・在住の刀工高橋恒厳氏と、その師匠の上林恒平氏(山形市)が請け負い、
2022年ついに式部正宗の復元が完成しました。
復元までに至る経緯はいろいろとあるものの、刀剣乱舞での刀剣ファン激増が契機となったのは間違いなく、
ブームのまだまだの継続を願うところです。
wikipedia式部正宗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%AE%97
wikipedia御手杵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%89%8B%E6%9D%B5
松平姓を名乗った後も家紋だけは結城氏のものです。
「式部正宗」の名は、中村式部少輔一氏が所持したものが後に榊原式部大輔康政の手に渡り、康政から
将軍家に献上されたという伝来からという。
なぜ売りに出されたかは不明だが、松平大和守家がこれを大金で購入し、以後は結城伝来の名槍「御手杵」と
ともに家宝となったが、残念ながら東京空襲で共に焼失してしまった。
この時、鎌倉以来の結城氏の古文書も失われたということです。
2016年に御手杵と式部正宗の復元を、前橋出身・在住の刀工高橋恒厳氏と、その師匠の上林恒平氏(山形市)が請け負い、
2022年ついに式部正宗の復元が完成しました。
復元までに至る経緯はいろいろとあるものの、刀剣乱舞での刀剣ファン激増が契機となったのは間違いなく、
ブームのまだまだの継続を願うところです。
wikipedia式部正宗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%AE%97
wikipedia御手杵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%89%8B%E6%9D%B5
411人間七七四年
2022/09/22(木) 18:55:02.73ID:GKkWpaVQ どこがいい話なんだ?
412人間七七四年
2022/09/22(木) 19:59:55.16ID:M0b9Mbse 総じて、諸人が腹立つように仕る者を「喧嘩好き」と考え、これを法度に仰せ付けられるならば、
諸人の作法も良くなり、人が腹立つことも無くなる。腹を立てなければ喧嘩の有るべき仔細もない。
幸い、武田家の御殿は公方家(将軍家)の作法である。公方の御屋形造りは、第一諸人の付き合いに
慮外の無いことを肝要と考えている故に、諸侍が伺候致した時は、縁ばかり歩くように造られている。
これは中興鎌倉にて、源頼朝公より始まった。その後、足利尊氏公がその図を以て都にて造られた。
屋形造りについて、人々に慮外無い事を旨として設計するのが、公方家の屋形造りなのである。
この事について、いつぞや原隼人(昌胤)が小田原に御使者として向かわされた際、武田信玄公の
御意を以て、帰りに鎌倉見物を仕った。その鎌倉は絶えて久しく、何の跡も見ることは出来なかった。
ではあったがその地の町人、百姓共に、侍と見れば笠を脱ぎ馬より降り、いかにも慇懃なる
民百姓の作法であったと、隼人は帰国後信玄公に言上した。信玄公はこれを聞かれると
「いにしへの頼朝公のまつりごと、万事宜しく、以来西明寺時頼の仕置、今に残ってそのようなのだ、
そしてこういった事を観察したのは心の付いた事である。」
そう仰っしゃられ、隼人殿について斜め成らず感心されたことを、それがし(高坂弾正)は良く覚えている。
『甲陽軍鑑』
公方家の屋形作りについて
諸人の作法も良くなり、人が腹立つことも無くなる。腹を立てなければ喧嘩の有るべき仔細もない。
幸い、武田家の御殿は公方家(将軍家)の作法である。公方の御屋形造りは、第一諸人の付き合いに
慮外の無いことを肝要と考えている故に、諸侍が伺候致した時は、縁ばかり歩くように造られている。
これは中興鎌倉にて、源頼朝公より始まった。その後、足利尊氏公がその図を以て都にて造られた。
屋形造りについて、人々に慮外無い事を旨として設計するのが、公方家の屋形造りなのである。
この事について、いつぞや原隼人(昌胤)が小田原に御使者として向かわされた際、武田信玄公の
御意を以て、帰りに鎌倉見物を仕った。その鎌倉は絶えて久しく、何の跡も見ることは出来なかった。
ではあったがその地の町人、百姓共に、侍と見れば笠を脱ぎ馬より降り、いかにも慇懃なる
民百姓の作法であったと、隼人は帰国後信玄公に言上した。信玄公はこれを聞かれると
「いにしへの頼朝公のまつりごと、万事宜しく、以来西明寺時頼の仕置、今に残ってそのようなのだ、
そしてこういった事を観察したのは心の付いた事である。」
そう仰っしゃられ、隼人殿について斜め成らず感心されたことを、それがし(高坂弾正)は良く覚えている。
『甲陽軍鑑』
公方家の屋形作りについて
413人間七七四年
2022/09/25(日) 07:18:45.87ID:2kIRZglE 『蓮照院記録』より
甥の身を心配する?信長のちょっといい話(有名な話ですがまとめになかったので一応)
※天正十年正月、信長が安土で拝賀を受けたあとに記された記事
ある人が語るところによると、昨年の冬に津田信澄が当国(大和)を拝領したいと信長に願い出た
「上様」(信長)は「大和は神国であり、往代より子細がある。その国の住民はよく知っている」旨の話をし、声を荒げたので、重ねて訴えはしなかった
信長がそうした理由は、先年に原田(塙)直政を大和支配のために配置したところ、ほどなく大坂(石山本願寺)で討ち死にした
その前の松永以来、武家が当国に乱入するとことごとく退散しているので、つらつら信長がそういう話を聞いているからだろうということだった
甥の身を心配する?信長のちょっといい話(有名な話ですがまとめになかったので一応)
※天正十年正月、信長が安土で拝賀を受けたあとに記された記事
ある人が語るところによると、昨年の冬に津田信澄が当国(大和)を拝領したいと信長に願い出た
「上様」(信長)は「大和は神国であり、往代より子細がある。その国の住民はよく知っている」旨の話をし、声を荒げたので、重ねて訴えはしなかった
信長がそうした理由は、先年に原田(塙)直政を大和支配のために配置したところ、ほどなく大坂(石山本願寺)で討ち死にした
その前の松永以来、武家が当国に乱入するとことごとく退散しているので、つらつら信長がそういう話を聞いているからだろうということだった
414人間七七四年
2022/09/25(日) 07:37:48.79ID:2kIRZglE いい話でもないがついでに
『蓮照院記録』より
どこの国の兵隊が強いか弱いかという不毛な議論の一つに使われる部分を原文で
(織田による甲州征伐の動員で)「諸力衆・少分限之衆事他国立殊更遠国迷惑之由也、甲斐・越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也」
そういう「風聞」が西国にあったという程度ではないかと思いますが、さて
『蓮照院記録』より
どこの国の兵隊が強いか弱いかという不毛な議論の一つに使われる部分を原文で
(織田による甲州征伐の動員で)「諸力衆・少分限之衆事他国立殊更遠国迷惑之由也、甲斐・越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也」
そういう「風聞」が西国にあったという程度ではないかと思いますが、さて
415人間七七四年
2022/09/25(日) 15:45:39.91ID:H154cQhb 筒井を追い出して乗っ取った大和大納言
416人間七七四年
2022/09/26(月) 19:41:34.05ID:Fry+9SaN 小山田弥三郎(信有)の小山田家は、甲州郡内を信玄公の十一代前より下されて、都留郡に在城していた。
その仔細は、小山田の先祖は行人であり、またその頃、武田殿は御牢人されていて、武蔵国瀧山において
この行人に出会った。
「その方は何れの人か」
武田殿がそう尋ねると、聖は「甲州の者」と申した。そして武田殿が自身が牢人していることを
仰せになった時、この聖は「何にても、御奉公に走り廻りましょう。」と申した。
すると武田殿は
「甲州塩の山の後ろの大杉に、御旗・楯無を隠し置いている。これを取ってきてくれないか。」
と仰せになると、聖はいかにも潔くお請けを申し、急ぎ甲州へ参り御旗・楯無を取って帰り、
武田殿へ進上した。その時武田殿は彼に、「甲州を奪還するという本意が成れば、
都留郡をこの聖に下されるべき。」と約束した。
翌年、武田殿は御本意を遂げられ、かの聖に「小山田」を名乗らせ、都留郡を下され、
その上として「信」の字を下された。小山田家の由来はこの時より始まったのである。
『甲陽軍鑑』
この牢人していた武田殿って、十一代云々はともかく、武田信重の事ですかね
その仔細は、小山田の先祖は行人であり、またその頃、武田殿は御牢人されていて、武蔵国瀧山において
この行人に出会った。
「その方は何れの人か」
武田殿がそう尋ねると、聖は「甲州の者」と申した。そして武田殿が自身が牢人していることを
仰せになった時、この聖は「何にても、御奉公に走り廻りましょう。」と申した。
すると武田殿は
「甲州塩の山の後ろの大杉に、御旗・楯無を隠し置いている。これを取ってきてくれないか。」
と仰せになると、聖はいかにも潔くお請けを申し、急ぎ甲州へ参り御旗・楯無を取って帰り、
武田殿へ進上した。その時武田殿は彼に、「甲州を奪還するという本意が成れば、
都留郡をこの聖に下されるべき。」と約束した。
翌年、武田殿は御本意を遂げられ、かの聖に「小山田」を名乗らせ、都留郡を下され、
その上として「信」の字を下された。小山田家の由来はこの時より始まったのである。
『甲陽軍鑑』
この牢人していた武田殿って、十一代云々はともかく、武田信重の事ですかね
417人間七七四年
2022/09/26(月) 20:07:52.91ID:DvsscTwE 久しぶりにサイト見たらコメントついてないのをまとめててワロタ
アフィカスって機械的な作業になるからそれが意味あるかとか考えないんだよな
直接自分のサイトに書けばいいのにあたおか
しかもリンク記載なしだから5chアフィサイト規定に違反してるから
運営にチクったら一発アウト
アフィカスって機械的な作業になるからそれが意味あるかとか考えないんだよな
直接自分のサイトに書けばいいのにあたおか
しかもリンク記載なしだから5chアフィサイト規定に違反してるから
運営にチクったら一発アウト
418人間七七四年
2022/09/26(月) 20:43:56.41ID:yZbBANHU 通報しとく
419人間七七四年
2022/09/28(水) 21:56:23.61ID:TRfck96B 『利家夜話』より
老いたりとも槍の又左、というお話
長いので要約、かぎかっこ内のみ読み下し
秀次事件で連座しそうになった浅野長政親子
石田治部と増田右衛門と仲が悪く密告され、左京(幸長)は舅の利家を頼った
利家はさっそく、秀吉と北政所を密かに訪ねようとした
すると、伏見城の城門外には抜き身の槍がわざとたくさん並んでおり、奉行が左京を挑発しているようだった
それを見た利家は乗り物から下りて、激怒する
「おのれら何事ぞや。今は日本の侍は申すに及ばず、唐まで従ひ中、浅野弾正(長政)父子程の者、自然不届の事に極り御成敗なられ候とも御門際に抜身を仕まつること、さてもさても沙汰の限りなり。左様の事をば奉行の奴原知るまじ。算用の事や人の口にて痛き申す事などは存ずべし」と音声高らかに叱った
「おのれらめ。その槍の鞘はめましき(お飾りくらいの意か)か」と怒ると、御威光を恐れて奉行衆は櫓の中で小声になり、「さやはめ候へさやはめ候へ」と申したので、さっと鞘をはめた
お供していたものは、かように気味のよいことは見聞きしたこともない、初めて見たと話した
なお、前後に磯貝なる者が「似せ判」をしたとあるんですが、これはなんなんでしょうか
老いたりとも槍の又左、というお話
長いので要約、かぎかっこ内のみ読み下し
秀次事件で連座しそうになった浅野長政親子
石田治部と増田右衛門と仲が悪く密告され、左京(幸長)は舅の利家を頼った
利家はさっそく、秀吉と北政所を密かに訪ねようとした
すると、伏見城の城門外には抜き身の槍がわざとたくさん並んでおり、奉行が左京を挑発しているようだった
それを見た利家は乗り物から下りて、激怒する
「おのれら何事ぞや。今は日本の侍は申すに及ばず、唐まで従ひ中、浅野弾正(長政)父子程の者、自然不届の事に極り御成敗なられ候とも御門際に抜身を仕まつること、さてもさても沙汰の限りなり。左様の事をば奉行の奴原知るまじ。算用の事や人の口にて痛き申す事などは存ずべし」と音声高らかに叱った
「おのれらめ。その槍の鞘はめましき(お飾りくらいの意か)か」と怒ると、御威光を恐れて奉行衆は櫓の中で小声になり、「さやはめ候へさやはめ候へ」と申したので、さっと鞘をはめた
お供していたものは、かように気味のよいことは見聞きしたこともない、初めて見たと話した
なお、前後に磯貝なる者が「似せ判」をしたとあるんですが、これはなんなんでしょうか
420人間七七四年
2022/09/28(水) 23:51:02.35ID:TRfck96B 『利家夜話』より
城攻めのリアルな実相
※近江の金が森城(一向宗、加えて佐々木残党がたびたび籠ったとも考えられる、いわゆる村の城)攻め
江州金が森の城を信長公が攻められたとき、村井豊後(長頼)は夢で「時分もいいから必ず左の道に進みなさい」と山伏によって枕元で確かにお告げがあった
目覚めると、日頃から愛宕山を信仰していたからだとありがたく思い、水垢離をして具足を着て利家の陣所に向かったが、いまだ「鳥前」(鶏が鳴く前=夜明け前)のようで、(利家は)「もうちょっと待て」ということだった
そこで小屋に帰って「いねぶり」(居眠り)をしていると、またお告げで「左につけ」とあった
さてまた、信長公の本陣で一番貝が吹かれ、前田勢は城に寄せるとき、左右に道があったがみな右を進んだ
豊後(が属した部隊も)右を進んだが、「いやいやくっきりと愛宕山のお告げがあった」と一人道を引き返し、左の道を進んで堀の「柴折」(逆茂木)に刀をかけた
ふと見ると四、五人の影があり、「敵か味方か」と寄っていくと、「馬にも乗らずにここに来たのは誰だ。私は柴田修理(勝家)の甥の佐久間玄蕃(盛政)である」と名乗った
そのとき豊後が「前田家中の村井又兵衛(のちの豊後守)である」と言うと、玄蕃は「又左衛門(利家)家中で名前は内々聞いている。合戦場で初めて会えてとても喜ばしい。夜明けには逆茂木を切ろう」と申し合わせ、そのうちにあとから味方が寄せてきた
そのとき、豊後と玄蕃は声を掛け合い、逆茂木を切って槍を取って(乗り込み)すぐに首を取った
利家は信長本陣にいて、その首を持っていったところ信長公のお目にかけられた
信長公はまた又兵衛が手柄を立てたと近くにあった吊るし柿5つを手ずから与えたほか、いつもの働きの証であるとして南蛮笠を与えた
城攻めのリアルな実相
※近江の金が森城(一向宗、加えて佐々木残党がたびたび籠ったとも考えられる、いわゆる村の城)攻め
江州金が森の城を信長公が攻められたとき、村井豊後(長頼)は夢で「時分もいいから必ず左の道に進みなさい」と山伏によって枕元で確かにお告げがあった
目覚めると、日頃から愛宕山を信仰していたからだとありがたく思い、水垢離をして具足を着て利家の陣所に向かったが、いまだ「鳥前」(鶏が鳴く前=夜明け前)のようで、(利家は)「もうちょっと待て」ということだった
そこで小屋に帰って「いねぶり」(居眠り)をしていると、またお告げで「左につけ」とあった
さてまた、信長公の本陣で一番貝が吹かれ、前田勢は城に寄せるとき、左右に道があったがみな右を進んだ
豊後(が属した部隊も)右を進んだが、「いやいやくっきりと愛宕山のお告げがあった」と一人道を引き返し、左の道を進んで堀の「柴折」(逆茂木)に刀をかけた
ふと見ると四、五人の影があり、「敵か味方か」と寄っていくと、「馬にも乗らずにここに来たのは誰だ。私は柴田修理(勝家)の甥の佐久間玄蕃(盛政)である」と名乗った
そのとき豊後が「前田家中の村井又兵衛(のちの豊後守)である」と言うと、玄蕃は「又左衛門(利家)家中で名前は内々聞いている。合戦場で初めて会えてとても喜ばしい。夜明けには逆茂木を切ろう」と申し合わせ、そのうちにあとから味方が寄せてきた
そのとき、豊後と玄蕃は声を掛け合い、逆茂木を切って槍を取って(乗り込み)すぐに首を取った
利家は信長本陣にいて、その首を持っていったところ信長公のお目にかけられた
信長公はまた又兵衛が手柄を立てたと近くにあった吊るし柿5つを手ずから与えたほか、いつもの働きの証であるとして南蛮笠を与えた
421人間七七四年
2022/09/29(木) 17:35:41.44ID:GnixVJCR >>419
幸長の舅って利家でした?と思ったけど婚約だけしてたんだね
幸長の舅って利家でした?と思ったけど婚約だけしてたんだね
423人間七七四年
2022/09/30(金) 12:03:12.99ID:fHVJ/jqd 信長の甘い物好きがw
424人間七七四年
2022/09/30(金) 12:23:08.23ID:v2jg3NyM 近隣の百姓から徴発したんだろ
まあ蚊帳なんてないし虫がたかって中に卵が入ってる柿
吐くわ
まあ蚊帳なんてないし虫がたかって中に卵が入ってる柿
吐くわ
425人間七七四年
2022/10/01(土) 21:23:20.92ID:2d4/4eEe 武田信玄公はこのように仰せになった。
「この信玄が思うことは、各々を思っているわけではない。ただ、この信玄の身を思っている。
どういう事かと言えば、ああいった兵(つわもの)たちを集め、多く持ち、戦に勝たんという事である。
軍に勝つという事は、国を取り広げるという事である。国を取り広げてこそ、面々、方々諸人、
大小、上下共に加恩を与えて喜ばせる事が出来る。
所領を取って、その上に増知行を取り、立身してこそ侍の本意である。
この本意の「本」という物は、諸侍、大小、忰(かせ)者、中間、小者までも、遍くその褒賞を
過分に思い存ずるように仕る事であり、これは大将第一の理でなければならない。
それは例えば、日月の光のようなものである。
日光、月光の何れが、自分自身を照らすだろうか。私無くして照らしているのに日陰が出来るのは
己の科である。こういった私の無い事を摩利支天と申し奉る。
摩利支天は弓矢の神にましますが、既に軍配団扇を取って神体を顕し給うも、私の無いように、
侍のことは申すに及ばず、下々まで訴えがあるのなら告げ来たれ!」
『甲陽軍鑑』
武田信玄の「大将としての心得」
「この信玄が思うことは、各々を思っているわけではない。ただ、この信玄の身を思っている。
どういう事かと言えば、ああいった兵(つわもの)たちを集め、多く持ち、戦に勝たんという事である。
軍に勝つという事は、国を取り広げるという事である。国を取り広げてこそ、面々、方々諸人、
大小、上下共に加恩を与えて喜ばせる事が出来る。
所領を取って、その上に増知行を取り、立身してこそ侍の本意である。
この本意の「本」という物は、諸侍、大小、忰(かせ)者、中間、小者までも、遍くその褒賞を
過分に思い存ずるように仕る事であり、これは大将第一の理でなければならない。
それは例えば、日月の光のようなものである。
日光、月光の何れが、自分自身を照らすだろうか。私無くして照らしているのに日陰が出来るのは
己の科である。こういった私の無い事を摩利支天と申し奉る。
摩利支天は弓矢の神にましますが、既に軍配団扇を取って神体を顕し給うも、私の無いように、
侍のことは申すに及ばず、下々まで訴えがあるのなら告げ来たれ!」
『甲陽軍鑑』
武田信玄の「大将としての心得」
426人間七七四年
2022/10/03(月) 21:23:55.42ID:HQYAPPYE 『慶長年中卜斎記』より
ゴキゲン大権現、馬上酒の供を募る
お供の衆との旅程も時間が経つと、家康は扇拍子で小歌を唄い、酒があれば取り出して盃は用いなかった
馬の柄杓で飲むか、小竹筒の口からそのまま飲んだ
そのうち(一人で飲むのが寂しくなるのか)上戸を探すのだが、自分のいる位置の先か後ろか、どちらにいるか分からないので、片手綱で早駆し、もう片手には小竹筒を持って先に行けば見当たらず、後ろかと思って列の半分ほどまで走ると「馬上酒を飲ませてやるぞ」と尋ね回った
成瀬正成は上戸だったので度々だった
追加で小さく「唄ひ歌の拍子いかかなとと咄し笑行候。ささへに酒あれは取出し云々」とあります
「ささへに酒」は笹紅酒?細紅酒?
にごり酒の一種、ささにごり酒のことでしょうか
ゴキゲン大権現、馬上酒の供を募る
お供の衆との旅程も時間が経つと、家康は扇拍子で小歌を唄い、酒があれば取り出して盃は用いなかった
馬の柄杓で飲むか、小竹筒の口からそのまま飲んだ
そのうち(一人で飲むのが寂しくなるのか)上戸を探すのだが、自分のいる位置の先か後ろか、どちらにいるか分からないので、片手綱で早駆し、もう片手には小竹筒を持って先に行けば見当たらず、後ろかと思って列の半分ほどまで走ると「馬上酒を飲ませてやるぞ」と尋ね回った
成瀬正成は上戸だったので度々だった
追加で小さく「唄ひ歌の拍子いかかなとと咄し笑行候。ささへに酒あれは取出し云々」とあります
「ささへに酒」は笹紅酒?細紅酒?
にごり酒の一種、ささにごり酒のことでしょうか
427人間七七四年
2022/10/03(月) 22:42:59.42ID:yg7+fVtc428人間七七四年
2022/10/03(月) 23:10:16.86ID:HQYAPPYE >>427
そうですね
家康、上戸で検索してまとめとダブらないか調べたんですが、ここまで改編されると引っ掛かりませんよ汗
原典では悪い話というよりいい話のニュアンスです
ただ、明記はないものの成瀬が狙い打ちされて少し迷惑していた感じはありますね
家康の酒のエピソードは少ないように思うんですが、まとめttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7121.htmlだと比較的、肯定的な印象
徳川実紀の「見ていて心地がよい」対象の一人が成瀬だったんですかね
そうですね
家康、上戸で検索してまとめとダブらないか調べたんですが、ここまで改編されると引っ掛かりませんよ汗
原典では悪い話というよりいい話のニュアンスです
ただ、明記はないものの成瀬が狙い打ちされて少し迷惑していた感じはありますね
家康の酒のエピソードは少ないように思うんですが、まとめttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7121.htmlだと比較的、肯定的な印象
徳川実紀の「見ていて心地がよい」対象の一人が成瀬だったんですかね
429人間七七四年
2022/10/04(火) 00:40:43.89ID:N/YO0itS 和製ウンコ酒か
430人間七七四年
2022/10/04(火) 01:32:41.75ID:xzFPnSUI 伊達政宗の言動を記した『命期集』より
トイレで独り言…政宗の苦悩と意外な一面
下々の申し上げたことはもちろんの事、自国でも他の家の人間でも直接対面され、一度顔を御覧になると忘れることは十回に一回だった
たしかに名字も覚えられるので、(会った人間は)名誉に感じた
また、下々の人間が明白な間違いを犯し、厳しく詮索して糾明進退に関わることだと思われても、誰かが取りなしたり陳情すればその意見を取り入れた
疑う心が少しもあられないように見えた
それというのも、人々に不測の事態がないようにおぼしめされてのことだった
たとえば、土民百姓などの処分でもご自身では決めることはなく
トイレで独り言…政宗の苦悩と意外な一面
下々の申し上げたことはもちろんの事、自国でも他の家の人間でも直接対面され、一度顔を御覧になると忘れることは十回に一回だった
たしかに名字も覚えられるので、(会った人間は)名誉に感じた
また、下々の人間が明白な間違いを犯し、厳しく詮索して糾明進退に関わることだと思われても、誰かが取りなしたり陳情すればその意見を取り入れた
疑う心が少しもあられないように見えた
それというのも、人々に不測の事態がないようにおぼしめされてのことだった
たとえば、土民百姓などの処分でもご自身では決めることはなく
431人間七七四年
2022/10/04(火) 01:42:09.96ID:xzFPnSUI 続き
それでも決まらなければ奉行衆をその場に残し置き、御閑所(トイレ)に入った
御閑所からははるばる独り言が聞こえ、苦労されている様子で、物事の善悪を(トイレで)考え、自筆の書状で奉行衆に「どのような裁きがよいか吟味せよ」と申し付けた
(トイレに入る前の)その場で即決することはなく、いかようにも申し分を聞き、誰もが納得する結論が出れば命を助けて牢に入れられた
いかようにも憐憫を加えられ、手をかざし、よほどの大事でなければ命を奪われることはなく、御閑所で物事の善悪を見極められた
それでも決まらなければ奉行衆をその場に残し置き、御閑所(トイレ)に入った
御閑所からははるばる独り言が聞こえ、苦労されている様子で、物事の善悪を(トイレで)考え、自筆の書状で奉行衆に「どのような裁きがよいか吟味せよ」と申し付けた
(トイレに入る前の)その場で即決することはなく、いかようにも申し分を聞き、誰もが納得する結論が出れば命を助けて牢に入れられた
いかようにも憐憫を加えられ、手をかざし、よほどの大事でなければ命を奪われることはなく、御閑所で物事の善悪を見極められた
432人間七七四年
2022/10/06(木) 20:15:51.63ID:0MepCS7F434人間七七四年
2022/10/06(木) 23:42:13.99ID:QGrWWrsf 前代にも伝え聞く、国持大名が城に籠もって敵と講和を結んでも、籠もった大将の利に成ったことは殆ど無い。
これは末代であっても定めて変わらないであろう。このような考え方により、武田信玄公は甲州一国の内に
城普請はされず、御構えは、狭い堀を浅く掘った、ただ一重であった。
これについては家老衆が打ち寄り諌めを申した。「御城が小さく御座います。その上防御設備も粗末で、
これでは如何かと存じます。」
信玄公は仰せに成られた
「事の仔細を分別してみよ。国持大名が城に籠もって運を開くというのは稀である。ただし、主を持つ
侍が後詰(援軍)を待つ必要がある場合は、いかほどでも堅固な地を丈夫に要害化することが肝要である。
三ヶ国ほども支配仕る大将が、巨大な城いっぱいに籠もるほどの人を持っているのなら、その人数を使い
敵対している相手と国境において、一も二もなく平地で合戦を仕り、相手を打ち果たすべき事こそ尤もである。
人数を多く持つのにそういった合戦が出来ないようなら、たとえ籠城しても、敵の矢・鉄砲の中をくぐり、
妻子を捨てて走り逃げるだろう。
大将たる者は兵を崇敬して法度を定め、軍法を定め、合戦することを朝夕の作事と心得なければならない。
心のなかで、自分一人で合戦の計画という普請を仕るのは、城を普請するよりも遥かに大作事である。
そしてこれこそが、大将が一人で多人数の働きをする場所である。
であるから、大合戦で、二万、三万の軍勢で勝った事も、「信玄の勝利」と呼ばれるのだ。
大将一人の覚悟を以て諸人に勝たせ、諸人の勝ちが大将の勝ちと呼ばれる。これこそが大将の第一の
願いである。皆々諸侍、老若共に、この事を心得るように。」
『甲陽軍鑑』
おそらく「人は城、人は石垣~」の元ネタの一つと考えられる、武田信玄の城についての考え方。
これは末代であっても定めて変わらないであろう。このような考え方により、武田信玄公は甲州一国の内に
城普請はされず、御構えは、狭い堀を浅く掘った、ただ一重であった。
これについては家老衆が打ち寄り諌めを申した。「御城が小さく御座います。その上防御設備も粗末で、
これでは如何かと存じます。」
信玄公は仰せに成られた
「事の仔細を分別してみよ。国持大名が城に籠もって運を開くというのは稀である。ただし、主を持つ
侍が後詰(援軍)を待つ必要がある場合は、いかほどでも堅固な地を丈夫に要害化することが肝要である。
三ヶ国ほども支配仕る大将が、巨大な城いっぱいに籠もるほどの人を持っているのなら、その人数を使い
敵対している相手と国境において、一も二もなく平地で合戦を仕り、相手を打ち果たすべき事こそ尤もである。
人数を多く持つのにそういった合戦が出来ないようなら、たとえ籠城しても、敵の矢・鉄砲の中をくぐり、
妻子を捨てて走り逃げるだろう。
大将たる者は兵を崇敬して法度を定め、軍法を定め、合戦することを朝夕の作事と心得なければならない。
心のなかで、自分一人で合戦の計画という普請を仕るのは、城を普請するよりも遥かに大作事である。
そしてこれこそが、大将が一人で多人数の働きをする場所である。
であるから、大合戦で、二万、三万の軍勢で勝った事も、「信玄の勝利」と呼ばれるのだ。
大将一人の覚悟を以て諸人に勝たせ、諸人の勝ちが大将の勝ちと呼ばれる。これこそが大将の第一の
願いである。皆々諸侍、老若共に、この事を心得るように。」
『甲陽軍鑑』
おそらく「人は城、人は石垣~」の元ネタの一つと考えられる、武田信玄の城についての考え方。
435人間七七四年
2022/10/07(金) 12:05:41.31ID:LvhANc1y これは武田は裏切りで滅ぶとか予言されてな
信長もどんな居城を建てても死んだのは城じゃ無かったし
無意味だから陣屋で十分
信長もどんな居城を建てても死んだのは城じゃ無かったし
無意味だから陣屋で十分
436人間七七四年
2022/10/07(金) 13:52:22.78ID:Ca5bN3lM 太宰府を観光していたら日本人女性を連れた韓国人男性に馬鹿にされた
チビで日本の男は猿みたいだなと
悔しいし日本人女性を簡単に虜にできる韓国人男性が羨ましかったよ
相手にされてない韓国人女性ならに落とせると思い声をかけても「ジャップのサルは世界で一番ブサイクでしかも男尊女卑だからモテない、お断りw」と鼻で笑われた、死にたい
チビで日本の男は猿みたいだなと
悔しいし日本人女性を簡単に虜にできる韓国人男性が羨ましかったよ
相手にされてない韓国人女性ならに落とせると思い声をかけても「ジャップのサルは世界で一番ブサイクでしかも男尊女卑だからモテない、お断りw」と鼻で笑われた、死にたい
437人間七七四年
2022/10/08(土) 22:07:37.19ID:WVs9ucKA 日本語に堪能なイエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスによる「日本語小文典」から名乗について
名乗をつくるのに用いる語は、どのような名であれ82語に限られ、その82語のなかの2語を組み合わせて一つの名をつくる。
したがってある名を聞けば、それが仮名(けみょう)や姓でなく名乗であることの見極めは直ちにつく。
次に示すのは82語と具体例を添えたものである
(元々はアルファベット順であったが、五十音順に並び替え)
1あき(あきかず)2あきら(これあきら)3あつ(あつもり)4あり(ありよし)5う6うじ(たかうじ)7お8おお9おき(ただおき)10おさ
11か12かげ(かげかつ)13かず(なおかず)14かた15かつ(かついえ)16かど(まさかど)17かね(ひでかね)18かぬ(ひでかぬ)19かみ
20き21きみ22きよ23きん(きんあきら)24くに(くにみつ)25くま26くら27これ(これもり)
名乗をつくるのに用いる語は、どのような名であれ82語に限られ、その82語のなかの2語を組み合わせて一つの名をつくる。
したがってある名を聞けば、それが仮名(けみょう)や姓でなく名乗であることの見極めは直ちにつく。
次に示すのは82語と具体例を添えたものである
(元々はアルファベット順であったが、五十音順に並び替え)
1あき(あきかず)2あきら(これあきら)3あつ(あつもり)4あり(ありよし)5う6うじ(たかうじ)7お8おお9おき(ただおき)10おさ
11か12かげ(かげかつ)13かず(なおかず)14かた15かつ(かついえ)16かど(まさかど)17かね(ひでかね)18かぬ(ひでかぬ)19かみ
20き21きみ22きよ23きん(きんあきら)24くに(くにみつ)25くま26くら27これ(これもり)
438人間七七四年
2022/10/08(土) 22:08:40.50ID:WVs9ucKA 28さだ(さだもり)29さと30さね(さねもり)31しげ(しげもり、しげただ)32すえ(かげすえ)33すけ(すけつね)34すみ(すみただ)
35たか36たけ37ただ(ただもり)38たつ39たね40ため(ひさため)41ちか(ちかもり)
42つぐ(ひでつぐ)43つぎ44つな(ゆきつな)45つね(つねもり)46つら(つらゆき)47てる(てるもと)48とお49とき(ときただ)50とし(としみつ)51とみ52とも(とももり)53とよ
54な55なお(なおざね)56なか57なが(ながみつ)58なみ(しげなみ)59なり(なりちか)60のぶ(のぶなが)61のり(のりいえ)
62はる(はるもと)63ひさ(ひさたね)64ひで(ひでより)65ひと66ひら(ゆきひら)67ひろ(よしひろ)68ふさ69ふゆ70ふん?(たねふん)
71まさ(まさむね)72ます73また74まつ75み76みつ(みつただ)77むね(むねもり)78むら79もち80もと(もといえ)81もり82もろ(もろしげ)
35たか36たけ37ただ(ただもり)38たつ39たね40ため(ひさため)41ちか(ちかもり)
42つぐ(ひでつぐ)43つぎ44つな(ゆきつな)45つね(つねもり)46つら(つらゆき)47てる(てるもと)48とお49とき(ときただ)50とし(としみつ)51とみ52とも(とももり)53とよ
54な55なお(なおざね)56なか57なが(ながみつ)58なみ(しげなみ)59なり(なりちか)60のぶ(のぶなが)61のり(のりいえ)
62はる(はるもと)63ひさ(ひさたね)64ひで(ひでより)65ひと66ひら(ゆきひら)67ひろ(よしひろ)68ふさ69ふゆ70ふん?(たねふん)
71まさ(まさむね)72ます73また74まつ75み76みつ(みつただ)77むね(むねもり)78むら79もち80もと(もといえ)81もり82もろ(もろしげ)
439人間七七四年
2022/10/08(土) 22:11:25.30ID:WVs9ucKA 以上であるが、源平合戦の人物が多いのは説教をするには「太平記」や「平家物語」の言葉を学ぶように、と書いているからだろう。
しかし「いえ」「やす」「よし」などがないようだが
しかし「いえ」「やす」「よし」などがないようだが
440人間七七四年
2022/10/10(月) 20:40:27.29ID:N12PfjLC 武田信玄公は幼名を勝千代殿と申す。その仔細は、御父信虎公が二十八歳の時、駿河のくしま(福島)という武士、
今川殿を軽んじ、さらに甲州を取って己の国に仕らんとして、遠・駿の人数を率いて甲州飯田河原まで来た。
しかも六十五日あまり陣を張っていたが、この間甲州御一家(武田一門)の衆は尽く身構えをして動かず、
武田の御家はもはや滅亡かと見えた所に、信虎公の家老である荻原常陸守という大剛の武士が、武略を以て
信虎公の勝利を得た。
敵の大将であるくしまを討ち取られたその日のその時、誕生された故に、信玄公は「勝千代殿」の
幼名を付けられたのである。すなわちその時の合戦は勝千代殿の合戦であるとした、武田信虎公家老の
沙汰であった。
また勝千代殿の誕生前に種々の不思議が、信州諏訪明神より告げ来たと言われている。
『甲陽軍鑑』
武田信玄の幼名についてのお話。
今川殿を軽んじ、さらに甲州を取って己の国に仕らんとして、遠・駿の人数を率いて甲州飯田河原まで来た。
しかも六十五日あまり陣を張っていたが、この間甲州御一家(武田一門)の衆は尽く身構えをして動かず、
武田の御家はもはや滅亡かと見えた所に、信虎公の家老である荻原常陸守という大剛の武士が、武略を以て
信虎公の勝利を得た。
敵の大将であるくしまを討ち取られたその日のその時、誕生された故に、信玄公は「勝千代殿」の
幼名を付けられたのである。すなわちその時の合戦は勝千代殿の合戦であるとした、武田信虎公家老の
沙汰であった。
また勝千代殿の誕生前に種々の不思議が、信州諏訪明神より告げ来たと言われている。
『甲陽軍鑑』
武田信玄の幼名についてのお話。
441人間七七四年
2022/10/10(月) 21:02:15.88ID:QBpDoS3b あれ、武田家代々の幼名と違うの?
…信虎がパパじゃないとすると色んな事が腑に落ちるんだけどどうなんだろ
…信虎がパパじゃないとすると色んな事が腑に落ちるんだけどどうなんだろ
442人間七七四年
2022/10/10(月) 22:46:20.57ID:I5XffvIN 信虎は種無しだったもんな
443人間七七四年
2022/10/10(月) 22:53:17.60ID:RSFjfb0/ 信玄の幼名は太郎だけどな
444人間七七四年
2022/10/11(火) 19:34:25.37ID:sjUKDtPG それは通称やろ
445人間七七四年
2022/10/14(金) 02:27:34.48ID:X7Ck2XWY 弟もおるじゃろ
446人間七七四年
2022/10/14(金) 09:36:24.27ID:cE+9kySr 落とし子
447人間七七四年
2022/10/14(金) 14:07:21.65ID:1S1HyJBX 【タクシー暴走事故】 海外では希、日本だけ多発中
://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/traf/1577003763/l50
://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/traf/1577003763/l50

448人間七七四年
2022/10/14(金) 22:13:16.01ID:9Ftdyy30 武田晴信公は天文十一年十月二十三日に、信州大門峠において合戦に勝ち、海尻まで御馬を寄せられ、
敵の勢力圏との境目の仕置をなされた。
この信州衆という人々は、相手が強敵だからといっておくれる色を見せず、敵方に味方しようという
者も居ない。他所の国では、合戦に負けた場合、その勢力が保持していた城も、二つも三つも必ず
落ちるものだと聞き及んでいるが、信濃の国においては、他国の勢力が勝った勢いで敵方の小城であっても
取り詰めるような事をすれば、信濃衆は「負けた口惜しさをここにて仕返さん。」と考え、城を持ち固め
味方の後詰を待って支え続ける。
一方、後詰の軍勢の人々は、親子、兄弟、叔父、甥、従弟、はとこ、遠類、知音、近しい人々を討たれ憤っており、
さらに敵が城を攻めている事に、いよいよ以て口惜しく、「是非とも一度仕返しをし、味方が討たれたのと
同じように敵を討ち、或いは追い崩し、敗走する敵のおしつけを見なければ、武士として弓矢を取る甲斐がない。」
そのように言い合う国である。
故に、競いすぎた働きをしてしまうと、後々勝利を無にしてしまう。という事で、晴信公は勝った後は、
猶以て大事にあそばされたが、それは信濃の国柄がこのように強いものであったためである。
『甲陽軍鑑』
武田家から見た信濃衆について。
敵の勢力圏との境目の仕置をなされた。
この信州衆という人々は、相手が強敵だからといっておくれる色を見せず、敵方に味方しようという
者も居ない。他所の国では、合戦に負けた場合、その勢力が保持していた城も、二つも三つも必ず
落ちるものだと聞き及んでいるが、信濃の国においては、他国の勢力が勝った勢いで敵方の小城であっても
取り詰めるような事をすれば、信濃衆は「負けた口惜しさをここにて仕返さん。」と考え、城を持ち固め
味方の後詰を待って支え続ける。
一方、後詰の軍勢の人々は、親子、兄弟、叔父、甥、従弟、はとこ、遠類、知音、近しい人々を討たれ憤っており、
さらに敵が城を攻めている事に、いよいよ以て口惜しく、「是非とも一度仕返しをし、味方が討たれたのと
同じように敵を討ち、或いは追い崩し、敗走する敵のおしつけを見なければ、武士として弓矢を取る甲斐がない。」
そのように言い合う国である。
故に、競いすぎた働きをしてしまうと、後々勝利を無にしてしまう。という事で、晴信公は勝った後は、
猶以て大事にあそばされたが、それは信濃の国柄がこのように強いものであったためである。
『甲陽軍鑑』
武田家から見た信濃衆について。
449人間七七四年
2022/10/17(月) 17:59:25.61ID:lDCaiCXx まあ本来スレとは関係ないんだけど、世界的なサムライコンテンツの人気というものは確かにあるんだなあと
そして浅野家要素はいったいどこに
https://www.cinematoday.jp/news/N0132915
『47RONIN』続編映画、予告編が公開 舞台は現代のブダペスト
キアヌ・リーヴスが主演した映画『47RONIN』(2013)の続編『ブレイド・オブ・ザ・47 ローニン(原題) / Blade of the 47 Ronin』の
予告編が、映画の米公式Twitterで公開された。
日本の「忠臣蔵」を大胆アレンジした『47RONIN』は、主君の敵を討つべく集まった47人の浪士とはぐれ者のサムライ・カイ(キアヌ)が
手を組み、決死の戦いに挑むファンタジーアクション。キアヌをはじめ、真田広之、浅野忠信、菊地凛子、柴咲コウ、赤西仁ら日本を
代表する人気俳優の出演も話題となった。
キャストを一新した続編の舞台は、現代のブダペスト。祖先を浪士の一人に殺された邪悪な魔女が出現し、その復讐を果たすべく
侍たちの抹殺を企てる。魔女を倒せるのは、47人の浪士の子孫だけ。それぞれの使命を果たすため、生き残った戦士たちが立ち上がる。
予告編には、バーや列車内などで展開する迫力の刀アクションが収められている。
メガホンを取ったのは、ディズニー実写版『ムーラン』にも出演していたロン・ユアン監督。Netflixドラマ「ジュピターズ・レガシー」の
アナ・アカナや『ジョン・ウィック:パラベラム』のマーク・ダカスコスに加えて、テレサ・ティン、マイク・モー、ダスティン・ヌエン、クリス・パン、
福山智可子、藤本ルナ、小家山晃、古畑新之らがキャストに名を連ねる。アメリカ国内では10月25日よりNetflix配信、Blu-ray&DVD
も同日に発売となる。
そして浅野家要素はいったいどこに
https://www.cinematoday.jp/news/N0132915
『47RONIN』続編映画、予告編が公開 舞台は現代のブダペスト
キアヌ・リーヴスが主演した映画『47RONIN』(2013)の続編『ブレイド・オブ・ザ・47 ローニン(原題) / Blade of the 47 Ronin』の
予告編が、映画の米公式Twitterで公開された。
日本の「忠臣蔵」を大胆アレンジした『47RONIN』は、主君の敵を討つべく集まった47人の浪士とはぐれ者のサムライ・カイ(キアヌ)が
手を組み、決死の戦いに挑むファンタジーアクション。キアヌをはじめ、真田広之、浅野忠信、菊地凛子、柴咲コウ、赤西仁ら日本を
代表する人気俳優の出演も話題となった。
キャストを一新した続編の舞台は、現代のブダペスト。祖先を浪士の一人に殺された邪悪な魔女が出現し、その復讐を果たすべく
侍たちの抹殺を企てる。魔女を倒せるのは、47人の浪士の子孫だけ。それぞれの使命を果たすため、生き残った戦士たちが立ち上がる。
予告編には、バーや列車内などで展開する迫力の刀アクションが収められている。
メガホンを取ったのは、ディズニー実写版『ムーラン』にも出演していたロン・ユアン監督。Netflixドラマ「ジュピターズ・レガシー」の
アナ・アカナや『ジョン・ウィック:パラベラム』のマーク・ダカスコスに加えて、テレサ・ティン、マイク・モー、ダスティン・ヌエン、クリス・パン、
福山智可子、藤本ルナ、小家山晃、古畑新之らがキャストに名を連ねる。アメリカ国内では10月25日よりNetflix配信、Blu-ray&DVD
も同日に発売となる。
450人間七七四年
2022/10/17(月) 18:16:26.97ID:vO2YfhP9 もはや水滸伝だろそれ
451人間七七四年
2022/10/17(月) 18:34:21.06ID:QhGaOkKC キャスト多すぎ
八犬伝でいいじゃん
八犬伝でいいじゃん
453人間七七四年
2022/10/17(月) 22:30:50.64ID:GJZgmUi9 天文十二年正月三日に、武田の家老衆は打ち寄って、その年の武田晴信公の御備について談合した。
「諏訪、或いは佐久、小縣の敵味方の境において味方の城を構築する場合、その城の設計を能く致せば、
千の人数で保持する城であっても、三百で保つ事が出来る。これは城の取り様、縄張りに奥義がある
ためである。
このような城の設計を能く存じたる剛の者が、駿河の今川義元公の御一家、庵原殿の亭衆に居る。
彼は今川殿の直臣と成ることを望んだが、義元は召し抱えなかった。
かの者は三州牛久保の侍だが、四国、九国(九州)、中国、関東までも歩き廻った侍であり、
山本勘助と申す、大剛の武士であると聞く。この勘介を召寄せお抱えあるべきである。」
この事は板垣信方より晴信公へ申し上げられ、これにより、知行百貫の約束にて、その年三月、
駿河より勘介を召し寄された。
勘介の御礼を受けられ、晴信公は即座に仰せ付けられた
「勘介は一眼、さらに手傷を数ヶ所負っているため、手足も少々不自由に見える。
色黒く、これほどの無男でありながらその名が高く聞こえるのは、能々ほまれ多き侍であると覚える。
このような武士に百貫は少分である。」
との儀にて、二百貫を下された。
さて、その年の暮、霜月(十一月)中旬に晴信公は信州へ御出馬あり、下旬より十二月十五日までの間に、
城九つ落ちて晴信公の御手に入ったのだが、これは偏に山本勘助の武略の故であった。
晴信公二十二歳の御時の事である。
『甲陽軍鑑』
「諏訪、或いは佐久、小縣の敵味方の境において味方の城を構築する場合、その城の設計を能く致せば、
千の人数で保持する城であっても、三百で保つ事が出来る。これは城の取り様、縄張りに奥義がある
ためである。
このような城の設計を能く存じたる剛の者が、駿河の今川義元公の御一家、庵原殿の亭衆に居る。
彼は今川殿の直臣と成ることを望んだが、義元は召し抱えなかった。
かの者は三州牛久保の侍だが、四国、九国(九州)、中国、関東までも歩き廻った侍であり、
山本勘助と申す、大剛の武士であると聞く。この勘介を召寄せお抱えあるべきである。」
この事は板垣信方より晴信公へ申し上げられ、これにより、知行百貫の約束にて、その年三月、
駿河より勘介を召し寄された。
勘介の御礼を受けられ、晴信公は即座に仰せ付けられた
「勘介は一眼、さらに手傷を数ヶ所負っているため、手足も少々不自由に見える。
色黒く、これほどの無男でありながらその名が高く聞こえるのは、能々ほまれ多き侍であると覚える。
このような武士に百貫は少分である。」
との儀にて、二百貫を下された。
さて、その年の暮、霜月(十一月)中旬に晴信公は信州へ御出馬あり、下旬より十二月十五日までの間に、
城九つ落ちて晴信公の御手に入ったのだが、これは偏に山本勘助の武略の故であった。
晴信公二十二歳の御時の事である。
『甲陽軍鑑』
454人間七七四年
2022/10/18(火) 17:32:30.84ID:FCT13yXf 島津義久配下の明人医師・許三官は、朝鮮の役の計画を明へ通報した話で有名ですけれども
日本の医師と共に徳川家康を診察したことがあったんですな
wikipedia許儀後
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E5%84%80%E5%BE%8C
>義久と共に秀吉へ謁見した際に、秀吉は巨大な鍋を鋳造させ許を煮殺そうとした。しかし、
>徳川家康が秀吉を宥めたことで命拾いし、許はそのときの返礼として、家康が病になった際に
>薬を調剤して恩を返している。
まとめのこちら、後に島津義弘が危篤の際には徳川家(秀忠)から、曲直瀬門下の名医が診察に下向してますね
徳川家の医官は、秀吉派遣の医師たちと顔ぶれ・人脈かぶってるはずですが
「寿徳院玄由の閲歴について」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%E6%9B%B2%E7%9B%B4%E7%80%AC%E7%8E%84%E7%94%B1
日本の医師と共に徳川家康を診察したことがあったんですな
wikipedia許儀後
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E5%84%80%E5%BE%8C
>義久と共に秀吉へ謁見した際に、秀吉は巨大な鍋を鋳造させ許を煮殺そうとした。しかし、
>徳川家康が秀吉を宥めたことで命拾いし、許はそのときの返礼として、家康が病になった際に
>薬を調剤して恩を返している。
まとめのこちら、後に島津義弘が危篤の際には徳川家(秀忠)から、曲直瀬門下の名医が診察に下向してますね
徳川家の医官は、秀吉派遣の医師たちと顔ぶれ・人脈かぶってるはずですが
「寿徳院玄由の閲歴について」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%E6%9B%B2%E7%9B%B4%E7%80%AC%E7%8E%84%E7%94%B1
455人間七七四年
2022/10/19(水) 22:48:37.75ID:O1hpUpuD 甲府に幽閉された諏訪頼重の自刃により、諏訪の家は断絶した。ただし頼重の息女が、その年十四歳に
なられたが、尋常隠れなき美人であった。これを、武田晴信公は妾にしたいと考えられていた。
しかしこれに対し、板垣信方、飯富兵部、甘利備前の三人を始めとした各家老衆はこれを諌め申し上げた
「退治なされた頼重の息女を召し置かれるという事、彼女は女人といっても敵であるのですから如何かと
考えます。」
しかしながら、三年前に駿河より召し寄せられた、生国は三河牛久保の侍、山本勘助が進み出て、
板垣殿、飯富殿、甘利殿三人の侍大将に申し上げた
「晴信公の御威光が弱いものであれば、内縁者が伝を得たことを幸いと悦び、あらぬ企みを仕掛けることも
あるでしょう。しかし、晴信公の御威光は浅いものではありません。
その理由は、私は日本国中を大方見聞きしてきました。中国では安芸の毛利元就が、本知七百貫より弓矢を
取りすぐり、今や中国の大方を取り従え、四国九州までも御威光強くして、既に以て天下の異見を仕っています。
畿内の三好方も、元就の機嫌を取っているのは隠れなき事であります。
この毛利元就に対しても、晴信公二十五歳の内においてすら、さほど劣っていないその御威光を、私は
駿河において承っていました。
恐れながら私の考えでは、晴信公について日本国中が、若手の弓矢取りの代表と存じ奉る如くです。
甲府へ私が参って二年余たちました。その間、晴信公の発言を承り、また敵への対応の様子を見奉れば、
この屋形様が長命にさえあれば、必ず日本無双・文武二道の名大将と人々から唱えられるでしょう。
ですので、諏訪家の親類や被官たちも、何の企みも存じよる事はありません。
である以上、頼重の息女を召し置かれれば、諏訪衆は悦び、この御腹に御曹司た誕生し給えば、諏訪の家も
立ち申すべきと、出仕を望み、武田の譜代衆に劣り申しまじと、奉公申すでしょう。
このように、頼重の息女を晴信公が召し置かれる事は然るべきです。」
山本勘助がそのように工夫して申した故に、頼重の息女を晴信公は召し置かれた。そして勘介の分別の如く
諏訪衆はこれを悦び、人質を甲府へ進上した。
次の年、天文十五年に四郎殿(勝頼)が誕生された。これによって諏訪衆が屋形様を大切に存じ奉る事、
譜代衆同前となった。
『甲陽軍鑑』
武田晴信が諏訪頼重の娘を側室として迎える折のお話
なられたが、尋常隠れなき美人であった。これを、武田晴信公は妾にしたいと考えられていた。
しかしこれに対し、板垣信方、飯富兵部、甘利備前の三人を始めとした各家老衆はこれを諌め申し上げた
「退治なされた頼重の息女を召し置かれるという事、彼女は女人といっても敵であるのですから如何かと
考えます。」
しかしながら、三年前に駿河より召し寄せられた、生国は三河牛久保の侍、山本勘助が進み出て、
板垣殿、飯富殿、甘利殿三人の侍大将に申し上げた
「晴信公の御威光が弱いものであれば、内縁者が伝を得たことを幸いと悦び、あらぬ企みを仕掛けることも
あるでしょう。しかし、晴信公の御威光は浅いものではありません。
その理由は、私は日本国中を大方見聞きしてきました。中国では安芸の毛利元就が、本知七百貫より弓矢を
取りすぐり、今や中国の大方を取り従え、四国九州までも御威光強くして、既に以て天下の異見を仕っています。
畿内の三好方も、元就の機嫌を取っているのは隠れなき事であります。
この毛利元就に対しても、晴信公二十五歳の内においてすら、さほど劣っていないその御威光を、私は
駿河において承っていました。
恐れながら私の考えでは、晴信公について日本国中が、若手の弓矢取りの代表と存じ奉る如くです。
甲府へ私が参って二年余たちました。その間、晴信公の発言を承り、また敵への対応の様子を見奉れば、
この屋形様が長命にさえあれば、必ず日本無双・文武二道の名大将と人々から唱えられるでしょう。
ですので、諏訪家の親類や被官たちも、何の企みも存じよる事はありません。
である以上、頼重の息女を召し置かれれば、諏訪衆は悦び、この御腹に御曹司た誕生し給えば、諏訪の家も
立ち申すべきと、出仕を望み、武田の譜代衆に劣り申しまじと、奉公申すでしょう。
このように、頼重の息女を晴信公が召し置かれる事は然るべきです。」
山本勘助がそのように工夫して申した故に、頼重の息女を晴信公は召し置かれた。そして勘介の分別の如く
諏訪衆はこれを悦び、人質を甲府へ進上した。
次の年、天文十五年に四郎殿(勝頼)が誕生された。これによって諏訪衆が屋形様を大切に存じ奉る事、
譜代衆同前となった。
『甲陽軍鑑』
武田晴信が諏訪頼重の娘を側室として迎える折のお話
456人間七七四年
2022/10/20(木) 00:20:51.49ID:HQmP2XuJ いい話か…?
457人間七七四年
2022/10/20(木) 07:01:11.88ID:04wJO1Z2 ジャップの異常性が垣間見えた
458人間七七四年
2022/10/20(木) 13:08:58.36ID:7Ngem8q6 >>454
まとめのこちらからすると、皇室・足利将軍家の侍医・医療関係者の人脈を秀吉が利用し、それを徳川も踏襲したということですかね
氏郷の所労
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13451.html
まとめのこちらからすると、皇室・足利将軍家の侍医・医療関係者の人脈を秀吉が利用し、それを徳川も踏襲したということですかね
氏郷の所労
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13451.html
459人間七七四年
2022/10/22(土) 11:17:14.81ID:qF9HUZG8 武田晴信公が山本勘助に問われた
「さて、諸国の人の様子はどのようなものだろうか。」
勘助は申し上げた
「東西南北共に、人が名を申すほどの大将は、大方一つの傾向にありますが、国によって
初め、中は違いがあり、治まり方は一つではないと聞いています。」
「大将はその通りであろう。しかし諸侍から各下人まで、国によって変わるのか。」
「私は諸国を歩き、国々の家風を見てきました。その上今川義元公の御家を望んで駿河に九年在る間に、
諸国の牢人と交流し様々なことを見聞きしました。その経験より、私の本国であり三河より東の人々は、
大方一つです。
また尾張より和泉あたりまでも一つの気質であり、四国、中国、九州は、気質大方同じです。
筑紫の奥は、奥州衆に似ています。
先ず、尾張から上方にかけては、十人中九人、慇懃であることは稀であり、横柄であることを隠さず、
贔屓の人であれば不足や欠点があっても誉め、仲が悪ければ手柄の人でも誹り、武士の上中下の働きの
穿鑿も無く、首を一つ取れば覚えとし、押し出しが強く悪口も早く、国郡の主が世に落ちた場合、
その被官を主として、被官の名字を請けて名乗ることも多いため、無穿鑿に見えます。
被官が立身し主の名字を名乗るのは手柄であります。「今川は吉良に上がり、吉良殿は公方へ上がる」と
承っています。
さて、東国においては被官が仕上がり主の名字を申し受けることはありますが、仕下げたると申して、
被官を主として本名を捨て、被官の名字に成る事はありません。
関東においては結城は主でありながら小身であり、多賀谷は被官でありながら大身ですが、結城と対面する時、
大身の多賀谷は畏まります。」
ここで、晴信公は金言を申された
「上方の諸人が無穿鑿なのは、諸人の誤りではない。大将が誤れば家老も誤り、家老が誤れば諸役者誤り、
諸役者が誤れば下々も誤るものだ。」
『甲陽軍鑑』
諸国の気質についての対話。
なにげに「御所が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」の元ネタらしきものがありますね。
「さて、諸国の人の様子はどのようなものだろうか。」
勘助は申し上げた
「東西南北共に、人が名を申すほどの大将は、大方一つの傾向にありますが、国によって
初め、中は違いがあり、治まり方は一つではないと聞いています。」
「大将はその通りであろう。しかし諸侍から各下人まで、国によって変わるのか。」
「私は諸国を歩き、国々の家風を見てきました。その上今川義元公の御家を望んで駿河に九年在る間に、
諸国の牢人と交流し様々なことを見聞きしました。その経験より、私の本国であり三河より東の人々は、
大方一つです。
また尾張より和泉あたりまでも一つの気質であり、四国、中国、九州は、気質大方同じです。
筑紫の奥は、奥州衆に似ています。
先ず、尾張から上方にかけては、十人中九人、慇懃であることは稀であり、横柄であることを隠さず、
贔屓の人であれば不足や欠点があっても誉め、仲が悪ければ手柄の人でも誹り、武士の上中下の働きの
穿鑿も無く、首を一つ取れば覚えとし、押し出しが強く悪口も早く、国郡の主が世に落ちた場合、
その被官を主として、被官の名字を請けて名乗ることも多いため、無穿鑿に見えます。
被官が立身し主の名字を名乗るのは手柄であります。「今川は吉良に上がり、吉良殿は公方へ上がる」と
承っています。
さて、東国においては被官が仕上がり主の名字を申し受けることはありますが、仕下げたると申して、
被官を主として本名を捨て、被官の名字に成る事はありません。
関東においては結城は主でありながら小身であり、多賀谷は被官でありながら大身ですが、結城と対面する時、
大身の多賀谷は畏まります。」
ここで、晴信公は金言を申された
「上方の諸人が無穿鑿なのは、諸人の誤りではない。大将が誤れば家老も誤り、家老が誤れば諸役者誤り、
諸役者が誤れば下々も誤るものだ。」
『甲陽軍鑑』
諸国の気質についての対話。
なにげに「御所が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」の元ネタらしきものがありますね。
460人間七七四年
2022/10/22(土) 12:33:27.28ID:1mTUQqSV ハッタリかましてるけど、西はせいぜい尾張までしか知らないってばれてるぞ勘助
461人間七七四年
2022/10/27(木) 00:57:29.50ID:vN2GInnE 徳川家康の子孫 宗家が当主交代 19代家広氏が家督継承へ [夜のけいちゃん★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1666792359/1
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1666792359/1
462人間七七四年
2022/10/27(木) 11:52:18.39ID:WHqaTSMd 尊敬する人は菅直人さんで反原発です!なんて宣言して民主党系から立候補した徳川さんですね
あの頃もバカ殿扱いだったが大丈夫だろうか(個人的な感想です)
あの頃もバカ殿扱いだったが大丈夫だろうか(個人的な感想です)
463人間七七四年
2022/10/28(金) 21:33:15.59ID:e/wWnGUB ある時、武田晴信公は山本勘助を召してこのように仰せになった。
「いやしくもこの晴信、人の使いようは、人を使うのではなく、技を使うのだ。また政道を致すも、技を致すのだ。
悪しき技の無いように人を使えばこそ心地よくなる。
その中において、晴信の人の見様は、無心懸の者は無案内である。無案内の者は不穿鑿である。不穿鑿な者は
必ず慮外である。慮外なる者は必ず過言を申す。過言を申す者は必ず奢り易くめりやすい。奢り易くめりやすい
者は首尾不合である。首尾不合なる者は必ず恥を知らず、恥を知らざる者は何についても、皆仕る技悪しき
物である。
しかしそういった者であっても、その品々において使う事は、国持大将のひとつの慈悲である。
国持大将の慈悲結縁とは、寺社領を付け、出家を馳走仕り、或いは他国の城主が牢人したのを抱え置き、
その国を切り取って本意の地へ安堵させ、また少身の牢人であっても扶助し、国を取ってはその先方を抱え、
諸人の迷惑無きように恵む。
この如き慈悲結縁の施しによって、競り合い合戦をし、城を攻め落とし、または国中仕置のために科人の
死罪、流罪といった罪が消えて退く。この理によって、国持の慈悲結縁は肝要なのだ。
殊更、諸人の申すことに、過言と威言は一つの事としているが、威言は有る事を申すものであり、
過言は無き事を申すものである。であるため、武士の威言は申してもさほど不快ではない。
威言の侍には覚えがあるのだ。憎むべからず。
過言を申す侍は、その内容が作り事である故に、三度が三様に変わって内容が異なる。これは虚言を
言っているため、そのようになるのだ。これは必ず、直すべきことである。」
この晴信公の仰せに、山本勘助も感じ入った。
『甲陽軍鑑』
「いやしくもこの晴信、人の使いようは、人を使うのではなく、技を使うのだ。また政道を致すも、技を致すのだ。
悪しき技の無いように人を使えばこそ心地よくなる。
その中において、晴信の人の見様は、無心懸の者は無案内である。無案内の者は不穿鑿である。不穿鑿な者は
必ず慮外である。慮外なる者は必ず過言を申す。過言を申す者は必ず奢り易くめりやすい。奢り易くめりやすい
者は首尾不合である。首尾不合なる者は必ず恥を知らず、恥を知らざる者は何についても、皆仕る技悪しき
物である。
しかしそういった者であっても、その品々において使う事は、国持大将のひとつの慈悲である。
国持大将の慈悲結縁とは、寺社領を付け、出家を馳走仕り、或いは他国の城主が牢人したのを抱え置き、
その国を切り取って本意の地へ安堵させ、また少身の牢人であっても扶助し、国を取ってはその先方を抱え、
諸人の迷惑無きように恵む。
この如き慈悲結縁の施しによって、競り合い合戦をし、城を攻め落とし、または国中仕置のために科人の
死罪、流罪といった罪が消えて退く。この理によって、国持の慈悲結縁は肝要なのだ。
殊更、諸人の申すことに、過言と威言は一つの事としているが、威言は有る事を申すものであり、
過言は無き事を申すものである。であるため、武士の威言は申してもさほど不快ではない。
威言の侍には覚えがあるのだ。憎むべからず。
過言を申す侍は、その内容が作り事である故に、三度が三様に変わって内容が異なる。これは虚言を
言っているため、そのようになるのだ。これは必ず、直すべきことである。」
この晴信公の仰せに、山本勘助も感じ入った。
『甲陽軍鑑』
464人間七七四年
2022/10/29(土) 08:59:24.12ID:DUqMqWs2 長閑の事を指してんのかな
465人間七七四年
2022/10/29(土) 23:45:18.29ID:5mymJD+5 過言を申す侍は、その内容が作り事である故に、三度が三様に変わって内容が異なる。これは虚言を
言っているため、そのようになるのだ。これは必ず、直すべきことである。」
ここだけでよくない?
言っているため、そのようになるのだ。これは必ず、直すべきことである。」
ここだけでよくない?
466人間七七四年
2022/10/30(日) 13:35:25.66ID:Eh2d3Waw >>202
はじめまして。
先祖調査しておりこちらの記事にたどりつきました。
詳しくご紹介ありがとうございます。
森右京進の子孫で古文書を見ているのですが、
高森城の惟直とはどいいう関係にあるかご存知でしょうか?
もし教えていただけたら幸いです。
はじめまして。
先祖調査しておりこちらの記事にたどりつきました。
詳しくご紹介ありがとうございます。
森右京進の子孫で古文書を見ているのですが、
高森城の惟直とはどいいう関係にあるかご存知でしょうか?
もし教えていただけたら幸いです。
467人間七七四年
2022/10/30(日) 15:26:26.72ID:dLte+MCx 尾州の織田弾正忠(信秀)が死して、その子息、今の信長であるが、彼は今川義元公の旗下とならず、
挙げ句義元公がお持ちの国であった三河の内、吉良の城へ取り掛け、附城を造ってこれを攻めた。
この事体に義元公は御馬を出されたが、跡を気遣い遠州引馬に逗留され、先衆を以て弾正忠子息(織田信広)の
拵えたる砦を包囲し、既に攻め殺さんとする所に、織田は降参して父の如く義元公へ逆義あるまじきと
起請を書き詫び言したため、義元公と弾正忠子息の和睦が成立したのであるが、これは尾州侍である
笠寺の新右衛門(戸部政直)がかねてより義元公を大切に存じており、この折に仲介した御蔭だという。
またこの時義元公は
「三州岡崎の城主・松平広忠の子、竹千代当年十三歳になるを、一両年以前より盗み取り、熱田に
隠し置くという。それも早々にこちらへ渡せ」
と仰せになり、義元公はこの松平竹千代を駿府に召し置かれた。今の遠州浜松まで平定して浜松に在る
徳川家康が、この竹千代である。
『甲陽軍鑑』
いわゆる第二次小豆坂の戦いについてのお話。この時点では織田信秀はまだ生きているのと、
どうも信長と織田信広を混同していたフシがありますね。
挙げ句義元公がお持ちの国であった三河の内、吉良の城へ取り掛け、附城を造ってこれを攻めた。
この事体に義元公は御馬を出されたが、跡を気遣い遠州引馬に逗留され、先衆を以て弾正忠子息(織田信広)の
拵えたる砦を包囲し、既に攻め殺さんとする所に、織田は降参して父の如く義元公へ逆義あるまじきと
起請を書き詫び言したため、義元公と弾正忠子息の和睦が成立したのであるが、これは尾州侍である
笠寺の新右衛門(戸部政直)がかねてより義元公を大切に存じており、この折に仲介した御蔭だという。
またこの時義元公は
「三州岡崎の城主・松平広忠の子、竹千代当年十三歳になるを、一両年以前より盗み取り、熱田に
隠し置くという。それも早々にこちらへ渡せ」
と仰せになり、義元公はこの松平竹千代を駿府に召し置かれた。今の遠州浜松まで平定して浜松に在る
徳川家康が、この竹千代である。
『甲陽軍鑑』
いわゆる第二次小豆坂の戦いについてのお話。この時点では織田信秀はまだ生きているのと、
どうも信長と織田信広を混同していたフシがありますね。
468人間七七四年
2022/10/30(日) 16:33:47.13ID:t+SIK8yx >>467
小豆合戦は敗走して安城の防備を固めた所まで、安城落城はその後の話でしょ。素人みたいな間違いが多いですね。
小豆合戦は敗走して安城の防備を固めた所まで、安城落城はその後の話でしょ。素人みたいな間違いが多いですね。
469人間七七四年
2022/11/04(金) 19:23:34.51ID:A2ZHoV7J 甲府にてこの度、松山御陣(永禄6年(1563)の北条。武田連合軍による松山城攻め)に出陣するために米を
借用した侍衆について調査なされ、能々身上成らざると、武田信玄公は御分別あそばされ、彼らの寄親衆に
仰せ付けられ、それら侍衆の所領の内、収穫の悪い地を取り上げ、その代わりとして上納の土地を下し、
又或いはその後の忠節、忠功によって、所領の少ない者には御加増もなされた。
この事に諸人は信玄公を忝なく存じ、所領を取る者も取らない者も、「いさみ賢き大将かな」と
感じ奉った。
『甲陽軍鑑』
武田信玄が、軍役のために借米をした武士たちを救済したというお話ですね。
借用した侍衆について調査なされ、能々身上成らざると、武田信玄公は御分別あそばされ、彼らの寄親衆に
仰せ付けられ、それら侍衆の所領の内、収穫の悪い地を取り上げ、その代わりとして上納の土地を下し、
又或いはその後の忠節、忠功によって、所領の少ない者には御加増もなされた。
この事に諸人は信玄公を忝なく存じ、所領を取る者も取らない者も、「いさみ賢き大将かな」と
感じ奉った。
『甲陽軍鑑』
武田信玄が、軍役のために借米をした武士たちを救済したというお話ですね。
470人間七七四年
2022/11/05(土) 15:57:25.02ID:kQd4l8F6 (織田信長の頓死後)柴田(勝家)殿が三七(織田信孝)殿を天下の主に取り立てたいと分別したのは、
柴田殿が三七殿の具足初めを仕られた故であると聞いている。この後契約故に、後に御懇な関係に
成ったのだという。
(羽柴)秀吉については、城介(織田信忠)殿と御懇であったという。その仔細は、城介殿が若衆の時に、
御公家衆などに御恋慕なされ、それを難しく思し召された後気色を秀吉は見て取って、城介殿に
「ならば、私に御目を掛けていると世間に披露して下さい。そうすれば御気難しき事など有りません。
その上私においても、内々に難しいことを申し上げることは有りません。表面上だけでも、そのように
なされるべきです。(外儀を右の通に可被成)」
信忠様も「その通りだ」と思し召され、秀吉は信忠様の御知音のように、世間では認識された。
そして後々も御目をかけるように成られた。
(川角太閤記)
秀吉が信忠に取り入った(?)お話。これは秀吉が京で奉行をしていたから、秀吉を介して
公家衆と信忠の仲を取り次げる、みたいな話なんですかね。
柴田殿が三七殿の具足初めを仕られた故であると聞いている。この後契約故に、後に御懇な関係に
成ったのだという。
(羽柴)秀吉については、城介(織田信忠)殿と御懇であったという。その仔細は、城介殿が若衆の時に、
御公家衆などに御恋慕なされ、それを難しく思し召された後気色を秀吉は見て取って、城介殿に
「ならば、私に御目を掛けていると世間に披露して下さい。そうすれば御気難しき事など有りません。
その上私においても、内々に難しいことを申し上げることは有りません。表面上だけでも、そのように
なされるべきです。(外儀を右の通に可被成)」
信忠様も「その通りだ」と思し召され、秀吉は信忠様の御知音のように、世間では認識された。
そして後々も御目をかけるように成られた。
(川角太閤記)
秀吉が信忠に取り入った(?)お話。これは秀吉が京で奉行をしていたから、秀吉を介して
公家衆と信忠の仲を取り次げる、みたいな話なんですかね。
472人間七七四年
2022/11/06(日) 11:39:37.23ID:3YVvZo8d 次スレはワッチョイ有りにしませんか?
なんならIP有りでも構いませんけど
なんならIP有りでも構いませんけど
473人間七七四年
2022/11/06(日) 13:03:06.05ID:XkItWTWy おう、それいいな
アフィカスが雇ってるゴミの特定が捗るわ
アフィカスが雇ってるゴミの特定が捗るわ
474人間七七四年
2022/11/06(日) 16:46:48.05ID:XrQtncg6 (賤ヶ岳の勝利の後、柴田勝家の所領である越前を平定した羽柴秀吉は、彼に従属した前田利家が領する能登国へ入った。)
能登国中を巡検した秀吉は、越中との境目である末森城を取り立てるようにと言われ、さらに
七尾城も見られ、前田又左衛門(利家)に委しく言い含めた。
この時、前田又左衛門が申し上げた
「この勢いで、越中へ取り掛かり、内蔵助(佐々成政)を御退治されるべきです。」
秀吉は返答に
「その事について、思い出したことが有る。何かと言えば、天正三年五月二十一日に、甲斐国武田四郎(勝頼)と
三州長篠において信長公が御合戦成された時、頸数一万二千余り討ち取る大勝利を得たこと、貴殿も御供した
故に能くご存知であろう。
あの時、そのまま甲斐国へ押し込むのだろうと、私も人も考えていた。ところが信長公はそうせず、
そこから帰陣なされた。あの時、御勢い、御利運でこれ以上はないと思われたが、ああ言う時は
天魔の所業というものもあり、五,三年もそのまま捨て置けば、国内に謀反も出来、家中もまちまちに
成ることが聞こえるようにもなるだろう。その時に馬を出して退治するのだ、という御分別であったと
聞いている。
又左衛門殿も皆々も聞いてほしい。勝家に打ち勝った以上、この秀吉もこれに過ぎる安堵はない。
その上で心ならずも慢心することもあると覚える。その上、下々以下に及ぶまで勝ちに乗る体で、
早々勇み悦び、興に乗るような様子である。
佐々内蔵助は剛なる上に手聞の上手である。また合戦の習いとして、勝敗は人数の多少に必ずしも寄るもの
ではない。よって、これより一足先に引き取ろうと思う。その内に、秀吉が再び軍勢を募り出陣してきた時は、
位詰めに成るだろうと内蔵助も、またその家中の者達も考え出すであろうことは必定である。そうなれば
家中にも謀反者が出てくるだろう。
何事につけても、最も身が危うく見えるのは勢いが過ぎている時であり、だからこそ今引き取るべきである。」
そのように申して、加州村山城に入られ、加州半国と能登一国を前田又左衛門利家に与えた。
また能登に於いて長九郎左衛門(連龍)に対し、「前田又左衛門に付け置く。何事も利家次第とするように。」
と仰せ置かれた。
(川角太閤記)
能登国中を巡検した秀吉は、越中との境目である末森城を取り立てるようにと言われ、さらに
七尾城も見られ、前田又左衛門(利家)に委しく言い含めた。
この時、前田又左衛門が申し上げた
「この勢いで、越中へ取り掛かり、内蔵助(佐々成政)を御退治されるべきです。」
秀吉は返答に
「その事について、思い出したことが有る。何かと言えば、天正三年五月二十一日に、甲斐国武田四郎(勝頼)と
三州長篠において信長公が御合戦成された時、頸数一万二千余り討ち取る大勝利を得たこと、貴殿も御供した
故に能くご存知であろう。
あの時、そのまま甲斐国へ押し込むのだろうと、私も人も考えていた。ところが信長公はそうせず、
そこから帰陣なされた。あの時、御勢い、御利運でこれ以上はないと思われたが、ああ言う時は
天魔の所業というものもあり、五,三年もそのまま捨て置けば、国内に謀反も出来、家中もまちまちに
成ることが聞こえるようにもなるだろう。その時に馬を出して退治するのだ、という御分別であったと
聞いている。
又左衛門殿も皆々も聞いてほしい。勝家に打ち勝った以上、この秀吉もこれに過ぎる安堵はない。
その上で心ならずも慢心することもあると覚える。その上、下々以下に及ぶまで勝ちに乗る体で、
早々勇み悦び、興に乗るような様子である。
佐々内蔵助は剛なる上に手聞の上手である。また合戦の習いとして、勝敗は人数の多少に必ずしも寄るもの
ではない。よって、これより一足先に引き取ろうと思う。その内に、秀吉が再び軍勢を募り出陣してきた時は、
位詰めに成るだろうと内蔵助も、またその家中の者達も考え出すであろうことは必定である。そうなれば
家中にも謀反者が出てくるだろう。
何事につけても、最も身が危うく見えるのは勢いが過ぎている時であり、だからこそ今引き取るべきである。」
そのように申して、加州村山城に入られ、加州半国と能登一国を前田又左衛門利家に与えた。
また能登に於いて長九郎左衛門(連龍)に対し、「前田又左衛門に付け置く。何事も利家次第とするように。」
と仰せ置かれた。
(川角太閤記)
475人間七七四年
2022/11/08(火) 21:30:21.63ID:KK3AKmtk 永禄六年正月七日、遠州掛川の圓福寺という律宗の寺より出家一人が甲府へと来た。
長坂長閑に付いて御前に参り、信玄公に申し上げた内容は、御父信虎公が、今川氏実公の御気に
違われ、この春中に都に上がられる予定であるという。その事を申し上げた上で、
「小身の侍で信玄公が御心やすく思し召し、いかにもしっかりした分別ある侍」を一人、この僧と共に
寄越してほしいとの事であった。そこで信玄公は日向源藤斎に正月十三日に命じその日の内に
甲府を立たせ、遠州掛川圓福寺へと派遣した。
源藤斎は十七日に掛川圓福寺に到着し、その夜に信虎公の御目にかかった。
信虎公は仰せになった
「日向源藤斎と名乗っているようだが、お前は何者なのか。」
「日向大和の親類であります。信虎様が甲州から御牢人となられた時、今から二十六年前は
私は奉公もいたしておらず、日向大和を頼り、年齢も二十歳にも届いていませんでした。
また元来、信濃が本国であります。」
信虎公は聞き召され
「たとえ何者であっても、信玄が心安く思っているのであれば苦しからず。」と仰せになった
(中略)
その夜半、人々もみな静まった時分に信虎公は源藤斎を召して仰せになった。
「私は信玄に対して恨みがあると言っても、それは既に過ぎて久しい事だ。また信玄の方の道理も
万々多い。
あの頃は、能き上にも能くあれかしと思って折檻したのだが、今考えるとこの信虎のやったことは
全て間違いであったと思う。(其儀はよきうへにも能くあれかしと存て、折檻仕れども、信虎みな
ちがひなりと思ふ)
何故なら、今信玄の誉れは名高く聞こえ、信濃は皆手に入れて、飛騨国、上野国までも一両年の間に
治めるという沙汰を聞けば、信虎の祝着これに過ぎず。
そう、信玄に言ってほしい。」
そのように仰せに成ると、源藤斎は「畏まりて候」と申し上げた。
『甲陽軍鑑』
武田信虎が信玄の派遣した侍に対し、自分の間違いを率直に認めたというお話。
長坂長閑に付いて御前に参り、信玄公に申し上げた内容は、御父信虎公が、今川氏実公の御気に
違われ、この春中に都に上がられる予定であるという。その事を申し上げた上で、
「小身の侍で信玄公が御心やすく思し召し、いかにもしっかりした分別ある侍」を一人、この僧と共に
寄越してほしいとの事であった。そこで信玄公は日向源藤斎に正月十三日に命じその日の内に
甲府を立たせ、遠州掛川圓福寺へと派遣した。
源藤斎は十七日に掛川圓福寺に到着し、その夜に信虎公の御目にかかった。
信虎公は仰せになった
「日向源藤斎と名乗っているようだが、お前は何者なのか。」
「日向大和の親類であります。信虎様が甲州から御牢人となられた時、今から二十六年前は
私は奉公もいたしておらず、日向大和を頼り、年齢も二十歳にも届いていませんでした。
また元来、信濃が本国であります。」
信虎公は聞き召され
「たとえ何者であっても、信玄が心安く思っているのであれば苦しからず。」と仰せになった
(中略)
その夜半、人々もみな静まった時分に信虎公は源藤斎を召して仰せになった。
「私は信玄に対して恨みがあると言っても、それは既に過ぎて久しい事だ。また信玄の方の道理も
万々多い。
あの頃は、能き上にも能くあれかしと思って折檻したのだが、今考えるとこの信虎のやったことは
全て間違いであったと思う。(其儀はよきうへにも能くあれかしと存て、折檻仕れども、信虎みな
ちがひなりと思ふ)
何故なら、今信玄の誉れは名高く聞こえ、信濃は皆手に入れて、飛騨国、上野国までも一両年の間に
治めるという沙汰を聞けば、信虎の祝着これに過ぎず。
そう、信玄に言ってほしい。」
そのように仰せに成ると、源藤斎は「畏まりて候」と申し上げた。
『甲陽軍鑑』
武田信虎が信玄の派遣した侍に対し、自分の間違いを率直に認めたというお話。
476人間七七四年
2022/11/09(水) 14:32:11.08ID:hBj+9dfM >>475
お前も間違いを素直に認めろ
お前も間違いを素直に認めろ
477人間七七四年
2022/11/15(火) 20:41:39.74ID:bTevtSEj (小牧長久手合戦後、織田信雄と和睦を成立させたあと)
秀吉は徳川家康卿を御引き付けさせうようと思し召し、そのための御分別、御工夫に悩み、
寝付けないほどであったと聞こえた。
その段々の御分別の次第だが、秀吉は御あつかい(和睦)を掛けるために、家康の様子や手引を見ようと思し召し、
家康卿の国の様子を御聞きに成るために、人を色々に変装させ、三河遠江へ潜入させた。
この時、秀吉の御分別としては、「家康卿は籠城の支度をするなどあり得ない。ただ一合戦とのみ
定めているだろう。」と思し召されていた。
先の目付たちが帰国し、お尋ねに成ったところ、「家康は籠城の用意など全く見えません。
鷹野や川狩りのような慰み事ばかりしています。」と言う。後から参った目付も同様の報告であり、
秀吉の推量は少しも違わなかった。
そこで秀吉は、御あつかいの為に家康に妹を与え、この上は兄弟に成るべきと、御あつかいを掛けた。
その上で家康卿がまだ合点無ければ、母と女ども、さらに妹の三人を家康卿へ人質に出すべきと、
蜂須賀彦右衛門(正勝)や黒田官兵衛、その他二、三人に仰せ聞かせた。
(川角太閤記)
秀吉は徳川家康卿を御引き付けさせうようと思し召し、そのための御分別、御工夫に悩み、
寝付けないほどであったと聞こえた。
その段々の御分別の次第だが、秀吉は御あつかい(和睦)を掛けるために、家康の様子や手引を見ようと思し召し、
家康卿の国の様子を御聞きに成るために、人を色々に変装させ、三河遠江へ潜入させた。
この時、秀吉の御分別としては、「家康卿は籠城の支度をするなどあり得ない。ただ一合戦とのみ
定めているだろう。」と思し召されていた。
先の目付たちが帰国し、お尋ねに成ったところ、「家康は籠城の用意など全く見えません。
鷹野や川狩りのような慰み事ばかりしています。」と言う。後から参った目付も同様の報告であり、
秀吉の推量は少しも違わなかった。
そこで秀吉は、御あつかいの為に家康に妹を与え、この上は兄弟に成るべきと、御あつかいを掛けた。
その上で家康卿がまだ合点無ければ、母と女ども、さらに妹の三人を家康卿へ人質に出すべきと、
蜂須賀彦右衛門(正勝)や黒田官兵衛、その他二、三人に仰せ聞かせた。
(川角太閤記)
478人間七七四年
2022/11/18(金) 20:38:56.88ID:NfUjnO14 黒田藩草創期について老僧が語るという体裁の「古郷物語」から黒田藩家老の一人・小河内蔵允(小河之直)の出世
聞き手:小河内蔵允という人は国中の仕置きを一人でなさったそうですが、さぞ知慮分別に優れ、武勇もあったのでしょう。
老僧:内蔵允はもともと吉田善兵衛というものが「生計が立たないので草履取りにでも召し使ってください」と黒田長政公に差し出した喜助という者です。
当時、いかにもうつけのようで利発なところがなかったため小姓・傍輩からいじめられていました。
しかし根気が常人より強く、昼夜主人のそばを離れず、居眠りもせず、居ずまいも崩さず、寒いそぶりも暑いそぶりも見せませんでした。
老いても足袋をはかず、蚊が飛んできても手で優しく払うだけだったそうです。
ほかの小姓がいなくても喜助はそばにいるので、自然と長政公は喜助に用を言いつけるようになり、十四、五の頃には出世頭となりました。
そこで長政公は朝鮮にも召し連れ、武功を挙げたならばそれを理由に出世させようと思われたのですが、不運なことに喜助が行くところとは別のところに敵が現れ続けたため、一度も武功を上げることがありませんでした。
とはいえ臆病があったわけではないため、男子なくして当主が死んだ小河家に婿養子として入り、五千石をとることとなりました。
ふつう出世するとおごるものですが、内蔵允については小姓の時の心持ちを変えなかったため、憎むものはいませんでした。
関ヶ原にも参陣したのですが、これまた運悪く武功を挙げられませんでした。
長政公、筑前国拝領の時に八千石に加増し、国中・家中の仕置きを一手に任せました。
元来おごりというものを知らず、暗い内から訴えを聴き、百姓町人であっても門より直に通し、雨の時は裸足で縁側に行き、下々の訴えを聴きました。
上の判断が必要な時には年寄衆と話し合った上で長政公に尋ね、のちのち独断で問題となることもなかったため、年寄衆も「他家には内蔵允ほど慈悲正直が天理に叶っている出世人はいないだろう」とよろこびました。
こうして筑前入国五年目には二千石加増され、一万石取りとなったのです。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1801.html
小河内蔵允、主君黒田長政に・いい話
また、↑のような話もあり、猛々しい長政公でさえ内蔵允の柔和の前では取って回されてしまうと、皆不思議がっておりました。
聞き手:小河内蔵允という人は国中の仕置きを一人でなさったそうですが、さぞ知慮分別に優れ、武勇もあったのでしょう。
老僧:内蔵允はもともと吉田善兵衛というものが「生計が立たないので草履取りにでも召し使ってください」と黒田長政公に差し出した喜助という者です。
当時、いかにもうつけのようで利発なところがなかったため小姓・傍輩からいじめられていました。
しかし根気が常人より強く、昼夜主人のそばを離れず、居眠りもせず、居ずまいも崩さず、寒いそぶりも暑いそぶりも見せませんでした。
老いても足袋をはかず、蚊が飛んできても手で優しく払うだけだったそうです。
ほかの小姓がいなくても喜助はそばにいるので、自然と長政公は喜助に用を言いつけるようになり、十四、五の頃には出世頭となりました。
そこで長政公は朝鮮にも召し連れ、武功を挙げたならばそれを理由に出世させようと思われたのですが、不運なことに喜助が行くところとは別のところに敵が現れ続けたため、一度も武功を上げることがありませんでした。
とはいえ臆病があったわけではないため、男子なくして当主が死んだ小河家に婿養子として入り、五千石をとることとなりました。
ふつう出世するとおごるものですが、内蔵允については小姓の時の心持ちを変えなかったため、憎むものはいませんでした。
関ヶ原にも参陣したのですが、これまた運悪く武功を挙げられませんでした。
長政公、筑前国拝領の時に八千石に加増し、国中・家中の仕置きを一手に任せました。
元来おごりというものを知らず、暗い内から訴えを聴き、百姓町人であっても門より直に通し、雨の時は裸足で縁側に行き、下々の訴えを聴きました。
上の判断が必要な時には年寄衆と話し合った上で長政公に尋ね、のちのち独断で問題となることもなかったため、年寄衆も「他家には内蔵允ほど慈悲正直が天理に叶っている出世人はいないだろう」とよろこびました。
こうして筑前入国五年目には二千石加増され、一万石取りとなったのです。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1801.html
小河内蔵允、主君黒田長政に・いい話
また、↑のような話もあり、猛々しい長政公でさえ内蔵允の柔和の前では取って回されてしまうと、皆不思議がっておりました。
479人間七七四年
2022/11/19(土) 09:37:49.54ID:c1b3DFvx 父は小寺・黒田とも血縁のある英保常久、母は小河信章の姉で、父が亡くなり流浪の後、母は黒田二十四騎・桐山信行と再婚(後妻)する。
母に従い桐山家に世話になった後、叔父の婿養子となる(生前からか末期養子かはちょっと不明)。黒田騒動では藩主忠之を補佐。
小河之直の経歴は実際のところこんな感じらしいのですが、古郷物語が編纂されるまでに黒田家中はどうなってたんでしょうね?
母に従い桐山家に世話になった後、叔父の婿養子となる(生前からか末期養子かはちょっと不明)。黒田騒動では藩主忠之を補佐。
小河之直の経歴は実際のところこんな感じらしいのですが、古郷物語が編纂されるまでに黒田家中はどうなってたんでしょうね?
480人間七七四年
2022/11/19(土) 20:38:42.75ID:rRD8bnz+ 筆頭家老格の人物が実は下民の出だったってのは、格式固まって以降だといろいろ言われそうなんだが
実際の血筋が毛並みもいい人なのにこんな書きかたされるというのは、もしかして誰も文句言わないようなお家断絶だったの?
実際の血筋が毛並みもいい人なのにこんな書きかたされるというのは、もしかして誰も文句言わないようなお家断絶だったの?
481人間七七四年
2022/11/19(土) 23:12:48.94ID:47ZLOosC 以前紹介した「小河内蔵之丞噺覚書写」についての本によれば九州大学所蔵の「小河内蔵允殿咄覚書写」の家譜には
「天下へ御敵申したる者の子に候間、成程喃々に仕、いにしへ家頼の子の由育置十歳余り迄丹波所へ居申」
とあるので、小河之直の父の英保常久が播磨攻めの時に秀吉軍に抵抗したことが「古郷物語」の記述に関係しているのでは、としていた。
また吉田重成関連で以前出てきた「吉田家伝録」にも吉田知年の妻は小河内蔵允の娘というので小河内蔵允の出自についても書かれていて
阿保(英保)常久は天正の頃に羽柴秀吉によって追い出され、伊予国で没去した、と同様のことが書かれているので出自については世間に広まってなかったのかもしれない。
「古郷物語」の筆者はとりあえず吉田家と姻戚にあるからと吉田姓ということにしたのではないかと。
「天下へ御敵申したる者の子に候間、成程喃々に仕、いにしへ家頼の子の由育置十歳余り迄丹波所へ居申」
とあるので、小河之直の父の英保常久が播磨攻めの時に秀吉軍に抵抗したことが「古郷物語」の記述に関係しているのでは、としていた。
また吉田重成関連で以前出てきた「吉田家伝録」にも吉田知年の妻は小河内蔵允の娘というので小河内蔵允の出自についても書かれていて
阿保(英保)常久は天正の頃に羽柴秀吉によって追い出され、伊予国で没去した、と同様のことが書かれているので出自については世間に広まってなかったのかもしれない。
「古郷物語」の筆者はとりあえず吉田家と姻戚にあるからと吉田姓ということにしたのではないかと。
482人間七七四年
2022/11/21(月) 19:01:01.76ID:kbOd9V3r 「越中国の佐々内蔵助(成政)は、秀吉が四国九州へと軍勢を出すならば、定めて隙きが出来たとして、
油断を突こうとするだろう。であるので、内蔵助を攻める軍勢を出すべし」と御議定した所に、
蜂須賀彦右衛門(正勝)が申し上げた
「内蔵助についてですが、彼は供の者六人を召し連れ、国を急に立って浜松に参ったと承っております。
供は佐々与左衛門、いたわ勘右衛門、松木内匠、その他計六人、そのように承っています。
御分別のため申し上げます。」
これに対し、秀吉公の御意には
「家康卿が律儀である所に目をつけ、内蔵助はすぐに合戦という状況で無いために、直談をすべしと
思ったのだろう。しかし今更家康卿に心置きをしようとするなど、口実を作って却って、
毛を吹いて疵を求むという事と同じだ。事が見えない先に聞き出すような沙汰は、必ず上手く
行かないだろう。
家康卿に表裏はない(家康卿表裏有間敷なり)。丈夫である家康を東の押さえに頼り置く事ができれば、
東国の気遣いは無くなる。であれば越中に馬を出そう。」
との御議定であった。
家康卿へは越中に、『御馬出候、加勢少可給者なり』と仰せ遣わした所、本多豊後に都合三千の兵、
そのうち鉄砲三百挺にて家康卿よりの御加勢として素早く上洛に及んだ。
これによって上様(秀吉)は大阪を、酉年(天正十三年)七月二十七日に出陣された。
この時の御分別には、「内蔵助とはこの間まで、肩を並べる傍輩であったのだから、定めて私に対して
疑いが深いだろう。例えこの秀吉に降参したとしても、悪我を張るであろう。
織田信雄は信長公の御実子であるから、信雄を私の旗本と定めよう。内蔵助は堅物であるから、
信雄に対して降参するだろう。」
そのように思し召し、軍勢の路地すがら信雄に対面した時、自身の御旗本のように執り扱ったのは、
その様子を越中に響かせるためであったと聞こえた。
(川角太閤記)
油断を突こうとするだろう。であるので、内蔵助を攻める軍勢を出すべし」と御議定した所に、
蜂須賀彦右衛門(正勝)が申し上げた
「内蔵助についてですが、彼は供の者六人を召し連れ、国を急に立って浜松に参ったと承っております。
供は佐々与左衛門、いたわ勘右衛門、松木内匠、その他計六人、そのように承っています。
御分別のため申し上げます。」
これに対し、秀吉公の御意には
「家康卿が律儀である所に目をつけ、内蔵助はすぐに合戦という状況で無いために、直談をすべしと
思ったのだろう。しかし今更家康卿に心置きをしようとするなど、口実を作って却って、
毛を吹いて疵を求むという事と同じだ。事が見えない先に聞き出すような沙汰は、必ず上手く
行かないだろう。
家康卿に表裏はない(家康卿表裏有間敷なり)。丈夫である家康を東の押さえに頼り置く事ができれば、
東国の気遣いは無くなる。であれば越中に馬を出そう。」
との御議定であった。
家康卿へは越中に、『御馬出候、加勢少可給者なり』と仰せ遣わした所、本多豊後に都合三千の兵、
そのうち鉄砲三百挺にて家康卿よりの御加勢として素早く上洛に及んだ。
これによって上様(秀吉)は大阪を、酉年(天正十三年)七月二十七日に出陣された。
この時の御分別には、「内蔵助とはこの間まで、肩を並べる傍輩であったのだから、定めて私に対して
疑いが深いだろう。例えこの秀吉に降参したとしても、悪我を張るであろう。
織田信雄は信長公の御実子であるから、信雄を私の旗本と定めよう。内蔵助は堅物であるから、
信雄に対して降参するだろう。」
そのように思し召し、軍勢の路地すがら信雄に対面した時、自身の御旗本のように執り扱ったのは、
その様子を越中に響かせるためであったと聞こえた。
(川角太閤記)
483人間七七四年
2022/11/22(火) 08:27:03.82ID:1wYkIu2B 越前と美濃ですら連携に失敗してるのに越中と遠江なら尚更
484人間七七四年
2022/11/22(火) 20:54:01.75ID:NkZpqg5g 天正十四年十二月二十日時分に、豊後国より早打ちの飛脚が到来した。その内容は、
豊後国船井という場所の近辺にある、高田川という場所があり、この川を隔てて
仙石越前守(秀久)、長宗我部父子(元親、信親)が陣を取っていたが、川向かいに
薩摩衆が相陣を張った。島津方の大将は、島津中書(家久)と言った。
十二月十七、八日の頃、仙石越前、長宗我部父子はこの川を超えて合戦を仕掛けた。
朝方、戦は味方の両大将の勝ちとなり、頸数五百余りを討ち取った。しかし昼時分より、
豊後国の地の者、尽く一揆を起こし、薩摩方と一つに成って上方勢を中に取り籠め、
裏切りを仕った故に、長宗我部の惣領(信親)も討ち死にした。
それより両大将は敗軍したと、豊前に在った黒田官兵衛の所に報告されたのである。
これを知った官兵衛の分別には
「豊後では敗北したが、これしきのことは問題ない(是式の事は中々不苦候)。
この事を秘密にすれば、帰って陣中は騒ぐだろう。ただ有りの儘に毛利殿陣中に報告するのだ。
仙石越前、長宗我部程度の者が五人三人相果てようと、上様(秀吉)は自身の弱みと成ったとは
思わない。(仙石越前、長宗我部程成者五人三人相果候と申共、上様御弱みと被思召間敷)
定めて上方勢にすぐに命じて、九州へとお下りになるだろう。」
(川角太閤記)
川角太閤記に見える戸次川の戦いとその敗戦についての黒田官兵衛の反応。
豊後国船井という場所の近辺にある、高田川という場所があり、この川を隔てて
仙石越前守(秀久)、長宗我部父子(元親、信親)が陣を取っていたが、川向かいに
薩摩衆が相陣を張った。島津方の大将は、島津中書(家久)と言った。
十二月十七、八日の頃、仙石越前、長宗我部父子はこの川を超えて合戦を仕掛けた。
朝方、戦は味方の両大将の勝ちとなり、頸数五百余りを討ち取った。しかし昼時分より、
豊後国の地の者、尽く一揆を起こし、薩摩方と一つに成って上方勢を中に取り籠め、
裏切りを仕った故に、長宗我部の惣領(信親)も討ち死にした。
それより両大将は敗軍したと、豊前に在った黒田官兵衛の所に報告されたのである。
これを知った官兵衛の分別には
「豊後では敗北したが、これしきのことは問題ない(是式の事は中々不苦候)。
この事を秘密にすれば、帰って陣中は騒ぐだろう。ただ有りの儘に毛利殿陣中に報告するのだ。
仙石越前、長宗我部程度の者が五人三人相果てようと、上様(秀吉)は自身の弱みと成ったとは
思わない。(仙石越前、長宗我部程成者五人三人相果候と申共、上様御弱みと被思召間敷)
定めて上方勢にすぐに命じて、九州へとお下りになるだろう。」
(川角太閤記)
川角太閤記に見える戸次川の戦いとその敗戦についての黒田官兵衛の反応。
485人間七七四年
2022/11/23(水) 21:44:48.05ID:NGU3s3zC 豊臣秀吉による小田原征伐の御陣中へは、御公家方の方々より、細川幽斎へ狂歌などが
沢山に送られた。
山中城攻めで一柳(直末)が戦死したが、この事を一女院様より送られたのが、狂歌の初めであった。
あはれなり 一柳のめも春に もへいで渡る野べのかふりを
幽斎は返歌に
いとけなく ぐそくをかけて鉄砲の 玉にもぬける一柳か
こういった御狂歌の返歌、また道記などを大帖(大きな屏風)に仕立てて秀吉公の御目にかけた所、殊の外
御感になったと聞こえた。
その道記、狂歌の大帖(屏風)がもし今も現存するとすれば、御出家方の元に有るだろうとの事だ。
(川角太閤記)
沢山に送られた。
山中城攻めで一柳(直末)が戦死したが、この事を一女院様より送られたのが、狂歌の初めであった。
あはれなり 一柳のめも春に もへいで渡る野べのかふりを
幽斎は返歌に
いとけなく ぐそくをかけて鉄砲の 玉にもぬける一柳か
こういった御狂歌の返歌、また道記などを大帖(大きな屏風)に仕立てて秀吉公の御目にかけた所、殊の外
御感になったと聞こえた。
その道記、狂歌の大帖(屏風)がもし今も現存するとすれば、御出家方の元に有るだろうとの事だ。
(川角太閤記)
486人間七七四年
2022/11/30(水) 19:50:13.49ID:9cUq6Z2A 寅(1566)の六月二十四日に、武田信虎公より同年五月五日の日付にて、信玄公へ書状が使わされた。
その内容は、
『去る甲子(1564)三月、公方光源院殿(足利義輝)へ信虎が御礼申し上げ罷り帰る所、
公方様は広縁まで私をお見送りになった。そのためこの信虎は、頭を地に付けて申し上げた。
「武田の家があらん限りは、広縁まで公方が御送りある。我が家の系図是成。」
しかしながら三好が道なき故に、光源院殿の御妹の聟となる御恩を抛ち、去年乙丑(1565)、
義輝様を討ち奉る。(永禄の変)
そのような事があっても、侍という存在が有る限りは、公方が絶え給う事は無い。
その心得有るべし。」
このように折々、信玄公へ信虎公より仰せ越された。かの強くまします信虎公も、御父子の間なれば、
信玄公御吉事の義を折々仰せに成ると、武田の家老たちも涙を流した。
『甲陽軍鑑』
武田信虎から見た将軍義輝や永禄の変について
その内容は、
『去る甲子(1564)三月、公方光源院殿(足利義輝)へ信虎が御礼申し上げ罷り帰る所、
公方様は広縁まで私をお見送りになった。そのためこの信虎は、頭を地に付けて申し上げた。
「武田の家があらん限りは、広縁まで公方が御送りある。我が家の系図是成。」
しかしながら三好が道なき故に、光源院殿の御妹の聟となる御恩を抛ち、去年乙丑(1565)、
義輝様を討ち奉る。(永禄の変)
そのような事があっても、侍という存在が有る限りは、公方が絶え給う事は無い。
その心得有るべし。」
このように折々、信玄公へ信虎公より仰せ越された。かの強くまします信虎公も、御父子の間なれば、
信玄公御吉事の義を折々仰せに成ると、武田の家老たちも涙を流した。
『甲陽軍鑑』
武田信虎から見た将軍義輝や永禄の変について
489人間七七四年
2022/12/01(木) 10:06:47.47ID:HkgsbAAh うんこ公方
490人間七七四年
2022/12/02(金) 19:51:15.04ID:JTYTDe7c 減刑を命ず(『上杉謙信言行録』より)
謙信公が家来を従えて漁に行った時のこと。
人が集まっていたので何事かと思い、公が傍らにいた梅津左京に問いただした。すると「あれは佐渡で酒を盗んだ4人の者が今死刑になろうとしているところです」と答えた。
公は静かに頷き、「たしかに役人は法に基づいて処刑しようとしている。しかし少し考えるところがあるので、もし執行を延ばせるなら延ばしてやれ」と梅津を使者として処刑を一旦止めさせた。
公は館へ帰ると老臣たちを集め、「生あるものの最も大きな災いは死である。それを今まで私は無視してきた。誠に無念である。
どうか今後は盗人に寛大にしてやりたい。殺さずにすむのならこの上ない。私は才無く政治に暗いため、判断はそなたたちの考えに任す」
とそれとなく赦免してやれとの意を仄めかした。
老臣たちは熟議し、結果的に4人のうち1人は死罪にし、残り3人は手首を2本ずつ切って国を追放したとのこと。
謙信公が家来を従えて漁に行った時のこと。
人が集まっていたので何事かと思い、公が傍らにいた梅津左京に問いただした。すると「あれは佐渡で酒を盗んだ4人の者が今死刑になろうとしているところです」と答えた。
公は静かに頷き、「たしかに役人は法に基づいて処刑しようとしている。しかし少し考えるところがあるので、もし執行を延ばせるなら延ばしてやれ」と梅津を使者として処刑を一旦止めさせた。
公は館へ帰ると老臣たちを集め、「生あるものの最も大きな災いは死である。それを今まで私は無視してきた。誠に無念である。
どうか今後は盗人に寛大にしてやりたい。殺さずにすむのならこの上ない。私は才無く政治に暗いため、判断はそなたたちの考えに任す」
とそれとなく赦免してやれとの意を仄めかした。
老臣たちは熟議し、結果的に4人のうち1人は死罪にし、残り3人は手首を2本ずつ切って国を追放したとのこと。
491人間七七四年
2022/12/02(金) 22:25:14.45ID:cjHriNtb 法をねじ曲げて自己満足する馬鹿な主君に苦労した老臣の苦心が見えるな
492人間七七四年
2022/12/03(土) 08:49:55.77ID:giIWnroe 国を盗んだ者が言う事だからなあ
493人間七七四年
2022/12/03(土) 12:34:10.43ID:0ZMCCLVr 打ち首の方がましな気がする
494人間七七四年
2022/12/03(土) 15:02:53.62ID:f13TQAwz 手首2本づつってもしかして両手切り落とされてる?
495人間七七四年
2022/12/05(月) 00:16:57.95ID:c4fe6fH1496人間七七四年
2022/12/05(月) 03:45:01.85ID:DCaykmVp497人間七七四年
2022/12/05(月) 08:19:09.91ID:RH68z/I1 >>495
そしてコピーされるうちにオリジナルの大事なところが欠落して、この話みたいに単なるアホ主君の話にされるのもよくあるな
そしてコピーされるうちにオリジナルの大事なところが欠落して、この話みたいに単なるアホ主君の話にされるのもよくあるな
498人間七七四年
2022/12/06(火) 22:52:48.42ID:bvkRYqkY 「朝野雑載」から宍戸氏の毛利氏への帰順
宍戸隆家の先祖は源義朝と妾との間に生まれた八田知家であった。
平治の乱の時に源氏が禍にあったため、藤原氏の子として難を逃れ、のちに頼朝に属した。
その八代孫は安芸に下り、宍戸朝家と号した。
それからまた数代の子孫である宍戸元源は甲立城(五龍城)を領有し、毛利元就の郡山城、高橋権頭(高橋興光?)の猪掛城と鼎立を成したがいに争っていた。
あるとき毛利元就は甲立城に出向いて宍戸元源と対面し
「我が祖先・大江広元は源頼朝の家臣であり、御辺の先祖は頼朝の兄弟であります。
それなのに御辺に対して戦をするのははなはだ無礼といえますので、降参いたします」
と言うと元源は大いに感動し
「御辺は我より大身であるから降参とはもったいない。我らが降伏いたしましょう。
どうか嫡子隆家(宍戸隆家は元源の孫)を婿として取り立ててください(元就の娘の五龍局を正室にする)」
このときから宍戸氏は繁栄し、隆家の三女(清光院)は毛利輝元の内室となり、隆家嫡子の宍戸元秀、その嫡子の宍戸元続も八万石を有し朝鮮にて数度功名を成した。
元続の娘を輝元の養子とし、小早川秀秋に嫁がせた。
宍戸隆家の先祖は源義朝と妾との間に生まれた八田知家であった。
平治の乱の時に源氏が禍にあったため、藤原氏の子として難を逃れ、のちに頼朝に属した。
その八代孫は安芸に下り、宍戸朝家と号した。
それからまた数代の子孫である宍戸元源は甲立城(五龍城)を領有し、毛利元就の郡山城、高橋権頭(高橋興光?)の猪掛城と鼎立を成したがいに争っていた。
あるとき毛利元就は甲立城に出向いて宍戸元源と対面し
「我が祖先・大江広元は源頼朝の家臣であり、御辺の先祖は頼朝の兄弟であります。
それなのに御辺に対して戦をするのははなはだ無礼といえますので、降参いたします」
と言うと元源は大いに感動し
「御辺は我より大身であるから降参とはもったいない。我らが降伏いたしましょう。
どうか嫡子隆家(宍戸隆家は元源の孫)を婿として取り立ててください(元就の娘の五龍局を正室にする)」
このときから宍戸氏は繁栄し、隆家の三女(清光院)は毛利輝元の内室となり、隆家嫡子の宍戸元秀、その嫡子の宍戸元続も八万石を有し朝鮮にて数度功名を成した。
元続の娘を輝元の養子とし、小早川秀秋に嫁がせた。
499人間七七四年
2022/12/06(火) 23:50:43.00ID:EFubGdPK 獅子泥鰌
500人間七七四年
2022/12/07(水) 11:50:22.25ID:ZltX1f5j 嫁が不細工だと整形するしか手がない子孫カワイソス
501人間七七四年
2022/12/07(水) 12:34:53.74ID:14zCj7Y+ 不細工なのは五龍局と仲の悪かった、新庄局(吉川元春の妻)
502人間七七四年
2022/12/07(水) 16:01:38.83ID:p+Byk4xj 不細工は性格が悪いから友達ができない
お前ら心当たりあるだろw
お前ら心当たりあるだろw
503人間七七四年
2022/12/09(金) 16:54:48.68ID:G5Lawqq3 来年大河の武田信玄は上杉謙信なのか
阿部寛(2009「天地人」上杉謙信、2022「どうする家康」武田信玄)
阿部寛(2009「天地人」上杉謙信、2022「どうする家康」武田信玄)
504人間七七四年
2022/12/09(金) 16:58:22.51ID:5iAusHYr そんなこというたら信長は官兵衛
505人間七七四年
2022/12/09(金) 17:57:02.08ID:uhIMmw+J 貝原益軒「朝野雑載」から松平信康に見出された踊り手
天正六年(1578年)?ごろ、三河・遠江に踊りが一年中流行したが、これは岡崎三郎殿(松平信康)が好んだためであった。
先年、駿河で踊りが流行した時には今川氏真が滅んだので不吉である、と諸人は申した。
三郎殿はたいへん乱暴な方で、下手な踊り手がいれば弓で射殺した。
そのため踊りはずいぶんけっこうなものとなった。
そのころ大浜の踊り子のなかに、太鼓を打っている十五ほどの容顔美麗な童がいた。
三郎殿が父の名を尋ねると「大浜明神の社人・長田平右衛門(長田重元、一説には永田徳本の兄)の息子です」と申した。
平右衛門は有名な勇士であったため、すぐにその子を召し使った。
長田伝八という名で出世したが、三郎殿の死(1579年)ののちは家康公に召し出された。
長田壱岐(源義朝を殺害した長田忠致)の末裔であったため、苗字を永井と改めさせた。
長久手の戦いで池田勝入(池田恒興)を討ち取るという功名を成し遂げた永井右近大夫(永井直勝)その人である
天正六年(1578年)?ごろ、三河・遠江に踊りが一年中流行したが、これは岡崎三郎殿(松平信康)が好んだためであった。
先年、駿河で踊りが流行した時には今川氏真が滅んだので不吉である、と諸人は申した。
三郎殿はたいへん乱暴な方で、下手な踊り手がいれば弓で射殺した。
そのため踊りはずいぶんけっこうなものとなった。
そのころ大浜の踊り子のなかに、太鼓を打っている十五ほどの容顔美麗な童がいた。
三郎殿が父の名を尋ねると「大浜明神の社人・長田平右衛門(長田重元、一説には永田徳本の兄)の息子です」と申した。
平右衛門は有名な勇士であったため、すぐにその子を召し使った。
長田伝八という名で出世したが、三郎殿の死(1579年)ののちは家康公に召し出された。
長田壱岐(源義朝を殺害した長田忠致)の末裔であったため、苗字を永井と改めさせた。
長久手の戦いで池田勝入(池田恒興)を討ち取るという功名を成し遂げた永井右近大夫(永井直勝)その人である
506人間七七四年
2022/12/09(金) 22:13:12.98ID:mCa/kIWL 親子で穴兄弟か
507人間七七四年
2022/12/10(土) 20:25:42.27ID:LP3IGkV/ >>505
信康の死の前年ごろと思ったため、天正六年としましたが
「三河後風土記」巻第十六 三遠両国踊流行・付永井伝八直勝の事
では「天正四年丙子夏の始めより」となっていました。
また、信康については
「信康君は御年若く猛勇血気の大将、この踊りをめでたまうこと斜めならず。日夜日夜踊りをのみ御覧ぜらる。
もし踊子ども麁服(粗末な服)を着し、踊りも思召しにかないぬは忽ちに射殺したまえば、後々は錦繍を取り重ね金銀をちりばめ日夜日夜士民これがために財宝を費やしける。
心ある御家人どもは先年今川氏真踊りを好み士民ども家業をわすれ踊りに財費を費やしけるほどに
国中は武備すたれゆるみし虚に乗じ武田信玄駿州を奪いとり、大殿もこの時遠州をば御手に入れたまう
前車の覆るを見て後車の戒め(轍を踏まない)、殷鑑遠からず、御心得あらせたまうべきにや、と諫める者も少なからず」
と踊りの上手い下手とともに、衣装が豪華かどうかも射殺の基準となっていました。
信康の死の前年ごろと思ったため、天正六年としましたが
「三河後風土記」巻第十六 三遠両国踊流行・付永井伝八直勝の事
では「天正四年丙子夏の始めより」となっていました。
また、信康については
「信康君は御年若く猛勇血気の大将、この踊りをめでたまうこと斜めならず。日夜日夜踊りをのみ御覧ぜらる。
もし踊子ども麁服(粗末な服)を着し、踊りも思召しにかないぬは忽ちに射殺したまえば、後々は錦繍を取り重ね金銀をちりばめ日夜日夜士民これがために財宝を費やしける。
心ある御家人どもは先年今川氏真踊りを好み士民ども家業をわすれ踊りに財費を費やしけるほどに
国中は武備すたれゆるみし虚に乗じ武田信玄駿州を奪いとり、大殿もこの時遠州をば御手に入れたまう
前車の覆るを見て後車の戒め(轍を踏まない)、殷鑑遠からず、御心得あらせたまうべきにや、と諫める者も少なからず」
と踊りの上手い下手とともに、衣装が豪華かどうかも射殺の基準となっていました。
508人間七七四年
2022/12/11(日) 22:31:18.66ID:cJv5e76e 慶長二年酉の年、太閤様の御代であったが、その四月の頃、(伊達)政宗殿が洛外において花見の遊山をされたそうだ。
建仁寺の藤を一日中、一両日を過ごし、藤の森の入江の花見を、いかにも密かに、遊び者などを召し連れて遊山の所に、洛中のスリ共がこれを聞き出し、政宗一項をひしひしと取り巻いて
「我々は飢えており、金銀を頂きたいのです。」と申し掛けた所、
「安き程の義である。しかしここには金銀を持ってきていない。」そのように断ったが、
「ならば御腰の物、御供の衆迄のものを下さりますように。」
と申し上げた。これに対して「刀、脇差は如何であろうか。」と屋敷へ人を使わして金を取り寄せ、彼らに取らせてようやくそこから退くことが出来た。
悪事千里と言うが、五日のうちにこの話は京伏見に広まり、世間では「政宗殿が両腰の物まで奪い取られた、との風聞が専ら取り沙汰された。
このような所に、その頃加賀大納言(前田利家)殿と政宗とは、関係があまり良くなかったのだが、大納言殿はこの事を聞きつけられ、使番の北村という若者にこう言い含められた
「政宗殿の所へ参り、『最近承った事には、藤の森にてスリにお逢いに成ったとのこと。笑止(気の毒)に思います。』と伝えるように。」
この時、大納言殿の側廻りに居た徳山五兵衛(秀栄)はこれを聞くとこのように考えた
『以ての外の大事なる事を仰せ使わされるつもりだろうか?その使いに対し、定めた政宗殿からは『懇ろなる使、忝なく存じます。そして(我々がスリに遭ったという)証拠を下さりますように。』
と言って来るだろう。そう言われた場合、我々に確かな証拠は無い。となれば伊達家との関係が大事になる事は必定である』
そのように分別し、『そのような使いは御無用にて候』と申すべきだと胸中には思っていたが、大納言殿の癖として、一旦腹(一度言い出したことは反論を聞かない)なる人であるから、
そんな事を言えば猶以て早々に使いを出しかねないと案じ、あえて反対をせず「使いには私が参りましょう。」と申し上げた。
「ならば五兵衛が参るように」と仰せになられると、この使いの事を五兵衛は留めて、二、三日が過ぎた。
大納言殿より「五兵衛、政宗殿の汚き事についてはどうなったのか」と尋ねられたが、これに対し「これは大事の御使であります。伊達家より証拠を求められた時はいかがすべきでしょうか。」
と申し上げた。しかし「スリに遭った事は必定である。五兵衛が参らぬのなら他の者を遣わす」と仰せになった。そこで「ならば私が参ります。」との事に成った。
徳山五兵衛は政宗殿の元に参り、大納言殿の言った通りに申し渡すと、案の定、政宗殿は自身で出てきて書院において対面し、その返事には
「そのような事を能く聞かれ届けられました。願わくばその証拠を出し、我々に下さりますように。」
との事であった。五兵衛は挨拶仕り、「この事は、先に申し上げたように世間がそう取り沙汰している事です。
大納言に対し、証拠を出すようにとの御返事でありますが、そのようば御返事では、私は罷り帰ることが出来ません。使いが不調法であった、という事に成るからです。である以上、慮外ではありますが、
御椽を汚し申します。(椽側で切腹するということ)
五兵衛の覚悟が強く見えたのを、政宗殿はとっさにその気色を悟り、
「そういう事であるのなら、世間の取り沙汰もあるのだろうか、仰せを聞き置こう。それは世間の悪口でもあるのだろうが、御心安く思って頂きたい。そのような事は見に覚えが無い。
御内証、忝なく存じ奉り候」
と、直に返事をされた。徳山五兵衛は分別し、この返事を聞いても証拠が無いと考え、「今暫く、申し上げたい事があります。」と言ってその座を立ち、政宗殿の屋敷に近い、
糟屋内膳殿、土方勘兵衛へ使いを立て『これへ早々御出下さりますように、急用のこと御座候』と申し遣わした所、この両人が参り「このような使いのため、大納言の所より参りました。」と
説明し、この両人を先に立て、再び政宗殿に逢い、
「最前の御返事はあのようでしたが、その後に御言葉が有れば、後の両家の申し事に成ってしまいます。証拠のために、この両人を御前に在られて、御返事の内容を承ります。」
と申し上げた。
この後に取り沙汰されたことには、この徳山五兵衛の分別のために、政宗殿と大納言殿との間に物言いが起こらなかった。これは偏に臣下の徳山のおかげであると、この話を聞く者たちは
五兵衛に感じ入ったと聞こえている。
(川角太閤記)
建仁寺の藤を一日中、一両日を過ごし、藤の森の入江の花見を、いかにも密かに、遊び者などを召し連れて遊山の所に、洛中のスリ共がこれを聞き出し、政宗一項をひしひしと取り巻いて
「我々は飢えており、金銀を頂きたいのです。」と申し掛けた所、
「安き程の義である。しかしここには金銀を持ってきていない。」そのように断ったが、
「ならば御腰の物、御供の衆迄のものを下さりますように。」
と申し上げた。これに対して「刀、脇差は如何であろうか。」と屋敷へ人を使わして金を取り寄せ、彼らに取らせてようやくそこから退くことが出来た。
悪事千里と言うが、五日のうちにこの話は京伏見に広まり、世間では「政宗殿が両腰の物まで奪い取られた、との風聞が専ら取り沙汰された。
このような所に、その頃加賀大納言(前田利家)殿と政宗とは、関係があまり良くなかったのだが、大納言殿はこの事を聞きつけられ、使番の北村という若者にこう言い含められた
「政宗殿の所へ参り、『最近承った事には、藤の森にてスリにお逢いに成ったとのこと。笑止(気の毒)に思います。』と伝えるように。」
この時、大納言殿の側廻りに居た徳山五兵衛(秀栄)はこれを聞くとこのように考えた
『以ての外の大事なる事を仰せ使わされるつもりだろうか?その使いに対し、定めた政宗殿からは『懇ろなる使、忝なく存じます。そして(我々がスリに遭ったという)証拠を下さりますように。』
と言って来るだろう。そう言われた場合、我々に確かな証拠は無い。となれば伊達家との関係が大事になる事は必定である』
そのように分別し、『そのような使いは御無用にて候』と申すべきだと胸中には思っていたが、大納言殿の癖として、一旦腹(一度言い出したことは反論を聞かない)なる人であるから、
そんな事を言えば猶以て早々に使いを出しかねないと案じ、あえて反対をせず「使いには私が参りましょう。」と申し上げた。
「ならば五兵衛が参るように」と仰せになられると、この使いの事を五兵衛は留めて、二、三日が過ぎた。
大納言殿より「五兵衛、政宗殿の汚き事についてはどうなったのか」と尋ねられたが、これに対し「これは大事の御使であります。伊達家より証拠を求められた時はいかがすべきでしょうか。」
と申し上げた。しかし「スリに遭った事は必定である。五兵衛が参らぬのなら他の者を遣わす」と仰せになった。そこで「ならば私が参ります。」との事に成った。
徳山五兵衛は政宗殿の元に参り、大納言殿の言った通りに申し渡すと、案の定、政宗殿は自身で出てきて書院において対面し、その返事には
「そのような事を能く聞かれ届けられました。願わくばその証拠を出し、我々に下さりますように。」
との事であった。五兵衛は挨拶仕り、「この事は、先に申し上げたように世間がそう取り沙汰している事です。
大納言に対し、証拠を出すようにとの御返事でありますが、そのようば御返事では、私は罷り帰ることが出来ません。使いが不調法であった、という事に成るからです。である以上、慮外ではありますが、
御椽を汚し申します。(椽側で切腹するということ)
五兵衛の覚悟が強く見えたのを、政宗殿はとっさにその気色を悟り、
「そういう事であるのなら、世間の取り沙汰もあるのだろうか、仰せを聞き置こう。それは世間の悪口でもあるのだろうが、御心安く思って頂きたい。そのような事は見に覚えが無い。
御内証、忝なく存じ奉り候」
と、直に返事をされた。徳山五兵衛は分別し、この返事を聞いても証拠が無いと考え、「今暫く、申し上げたい事があります。」と言ってその座を立ち、政宗殿の屋敷に近い、
糟屋内膳殿、土方勘兵衛へ使いを立て『これへ早々御出下さりますように、急用のこと御座候』と申し遣わした所、この両人が参り「このような使いのため、大納言の所より参りました。」と
説明し、この両人を先に立て、再び政宗殿に逢い、
「最前の御返事はあのようでしたが、その後に御言葉が有れば、後の両家の申し事に成ってしまいます。証拠のために、この両人を御前に在られて、御返事の内容を承ります。」
と申し上げた。
この後に取り沙汰されたことには、この徳山五兵衛の分別のために、政宗殿と大納言殿との間に物言いが起こらなかった。これは偏に臣下の徳山のおかげであると、この話を聞く者たちは
五兵衛に感じ入ったと聞こえている。
(川角太閤記)
509人間七七四年
2022/12/12(月) 14:01:29.35ID:r1ZE6v21 ロリコンさぁ
510人間七七四年
2022/12/12(月) 17:23:24.85ID:AEhmbMhj 五兵衛さんのいい話であり
利家の悪い話でもある
利家の悪い話でもある
512人間七七四年
2022/12/13(火) 20:40:53.15ID:d5lZzaHf 永禄九年(1566)七月、越国の上杉輝虎は上野国和田城へ取り詰め、既に落城と見える所に、
武田信玄公の旗本で、足軽大将の横田十郎兵衛(康景)がこの加勢に籠もっており、彼は
自分の同心、足軽については言うに及ばず、和田の者共も十郎兵衛が良く下知した。
輝虎は一万三千の人数を以て攻めたが、城は落ちなかった。これは先ず大筋目として、城の持ちこたえ方、
手配りが良かった事がある。そして十郎兵衛は櫓へ上がり、日頃習い得た鉄砲を以て、輝虎の旗本たちが
寄せてくる所を見定め、良き武者を多く撃ち落とした。
その中で輝虎の御座を成す侍を撃ち殺し、さらに十郎兵衛の撃つ鉄砲に寄って輝虎自身も危うく見えた。
それ故に輝虎は早々に包囲を解いて、越後勢は退散した。
和田城が堅固に持ち定めることが出来たのは、横田十郎兵衛が大剛強で、しかも弓矢に能く功者の故であった。
この横田十郎兵衛は四十二歳だが、十六歳より走り廻り、二十七年の間に数度の武辺を仕り、優れて手を砕いた
働きがあったために、和田城を任された。これについて人々は褒め称えたが、横田自信はさほど手柄とは
考えていなかった。
『甲陽軍鑑』
武田信玄公の旗本で、足軽大将の横田十郎兵衛(康景)がこの加勢に籠もっており、彼は
自分の同心、足軽については言うに及ばず、和田の者共も十郎兵衛が良く下知した。
輝虎は一万三千の人数を以て攻めたが、城は落ちなかった。これは先ず大筋目として、城の持ちこたえ方、
手配りが良かった事がある。そして十郎兵衛は櫓へ上がり、日頃習い得た鉄砲を以て、輝虎の旗本たちが
寄せてくる所を見定め、良き武者を多く撃ち落とした。
その中で輝虎の御座を成す侍を撃ち殺し、さらに十郎兵衛の撃つ鉄砲に寄って輝虎自身も危うく見えた。
それ故に輝虎は早々に包囲を解いて、越後勢は退散した。
和田城が堅固に持ち定めることが出来たのは、横田十郎兵衛が大剛強で、しかも弓矢に能く功者の故であった。
この横田十郎兵衛は四十二歳だが、十六歳より走り廻り、二十七年の間に数度の武辺を仕り、優れて手を砕いた
働きがあったために、和田城を任された。これについて人々は褒め称えたが、横田自信はさほど手柄とは
考えていなかった。
『甲陽軍鑑』
513人間七七四年
2022/12/14(水) 02:31:04.59ID:N5ONe28H 1566年の時点で甲斐にそんな鉄砲の名手がいたのかー
514人間七七四年
2022/12/14(水) 11:31:32.61ID:gpimPw/N 嘘松
515人間七七四年
2022/12/15(木) 22:49:24.71ID:wmHpMfPX これは要らぬ義にて御座候へども、そのあらましを書き付けておく。
関ヶ原の時、国大名衆の中でも、分別を以てその家を恙無く存続させた人物としては、
鍋島加賀守(直茂)と申し、今の鍋島殿(勝茂)の親父が有る。その当時までは達者で居られた。
加賀守は御所様(徳川家康)が東へ御馬を出された事を聞くと、
「おそらくその跡で御謀反を企てる衆が出てくるだろう。御所様への御馳走として、
国大名衆はあらかたその御供に参ると聞いている。
我が家は東への御供を仕らないが、国を失わないための分別が有る。
銀子五百貫目を東へと持って下り、尾張国から御所様御分国は申すに及ばず、上杉景勝との境目までの
国々の町方にて、五貫匁程づつ、見合い見合いに兵糧を買うために、その町々の年寄共に預けおくべし。
上方に事が起きたとの情報を聞いた時、御所様へ申し上げる内容としては
『鍋島は御所様への御馳走をする覚悟であった所に、上方が蜂起したため、もはや鍋島がそちらへ
出ることは非常に困難になりました。ですのでこの兵糧は我々には必用がなくなりました。』
そう云って、町々において兵糧を差し上げ奉るように。」
そのように申し付け、奉行三人を東へ差し下した。
御所様がはや宇都宮に到着したのと等しく、治部少輔(石田三成)の謀反の情報が入った。
かの鍋島の者共は御所様に先の御断を申し上げ、早くも宇都宮において兵糧を差し上げた。
そして奥州境目までの兵粮米を買い置いていた事を目録にして、尾張からの兵糧米を進上したという。
この時御所様の御分別にも「さては鍋島、心中は別状無い」と思し召したと聞こえている。
鍋島の奥意は、実際には状況を伺っていたのだと言われているが、親の加賀守の分別を以て
(改易で)国から離れる事が無かったのだと、世間ではその頃専ら申していたという。
(川角太閤記)
関ヶ原の時、国大名衆の中でも、分別を以てその家を恙無く存続させた人物としては、
鍋島加賀守(直茂)と申し、今の鍋島殿(勝茂)の親父が有る。その当時までは達者で居られた。
加賀守は御所様(徳川家康)が東へ御馬を出された事を聞くと、
「おそらくその跡で御謀反を企てる衆が出てくるだろう。御所様への御馳走として、
国大名衆はあらかたその御供に参ると聞いている。
我が家は東への御供を仕らないが、国を失わないための分別が有る。
銀子五百貫目を東へと持って下り、尾張国から御所様御分国は申すに及ばず、上杉景勝との境目までの
国々の町方にて、五貫匁程づつ、見合い見合いに兵糧を買うために、その町々の年寄共に預けおくべし。
上方に事が起きたとの情報を聞いた時、御所様へ申し上げる内容としては
『鍋島は御所様への御馳走をする覚悟であった所に、上方が蜂起したため、もはや鍋島がそちらへ
出ることは非常に困難になりました。ですのでこの兵糧は我々には必用がなくなりました。』
そう云って、町々において兵糧を差し上げ奉るように。」
そのように申し付け、奉行三人を東へ差し下した。
御所様がはや宇都宮に到着したのと等しく、治部少輔(石田三成)の謀反の情報が入った。
かの鍋島の者共は御所様に先の御断を申し上げ、早くも宇都宮において兵糧を差し上げた。
そして奥州境目までの兵粮米を買い置いていた事を目録にして、尾張からの兵糧米を進上したという。
この時御所様の御分別にも「さては鍋島、心中は別状無い」と思し召したと聞こえている。
鍋島の奥意は、実際には状況を伺っていたのだと言われているが、親の加賀守の分別を以て
(改易で)国から離れる事が無かったのだと、世間ではその頃専ら申していたという。
(川角太閤記)
516人間七七四年
2022/12/26(月) 17:37:30.57ID:hS9JgHQL >>515の続き
浅井家の重臣である磯伯耆守(磯野員昌)は内々の分別に、
「天下を、この織田三郎信長が一度は取るという異見がある。また彼には妹が有るという。
備前守(浅井長政)には内儀が無く、方々より縁組について申して来ているが、どうにか分別して頂き、
信長殿の御兄弟に致したいと思っているのだが、信長への通路が敵に塞がれており、分別が成り立たない。
ところで私の煩いが東国へも聞こえたのは確かである。そこで国々へ使者を立て、手引してみよう。」
そう考え、道々の城々へ道を乞うてこのように申した
「私は当春、不慮に煩い存命も定かではない状況でしたが、両親がこれを悲しみ、神々へ命乞いをしてくれた為か、
不慮に助かることが出来ました。この時親は、東は伊豆箱根三島の明神、富士の御山へ立願をかけました。
そして神慮がこのように成ったため、そこまでの道の口を通行することを御赦免して頂きたいのです。
私は今年の六月を心懸、これらへの社参を遂げたいのです。」
そのように使者を立てて申し出た所、小田原までの間の城主は尽くこれに同意し
「御煩いの様子は承っております。さては神々への命乞いでしょうか。神慮に対し仕り通過を許可しましょう。」と、
小田原から江州までの道の口を請う事ができた。
さればとて、その夏に伯耆守は美々しい様子にて社参と称して東国へと下った。道々の城からは残る所無く馳走された。
清須まで到着した時、そこにおいて「霍乱(日射病、熱病)になってしまいました。信長公に御医者を頼みたく
存じます」と申し上げた。すると「御道中であり、安き事である。ここに暫く逗留して養生されるように。」と
御馳走を残る所無く仰せ付けられ。五、三日の間、養生として逗留した。
その夜、伯耆守は佐久間右衛門(信盛)殿をにわかに呼び寄せた。
「談合したい仔細があります。承った所に寄ると、信長公には御妹が居られるそうです。
我が浅井備前も未だ内儀がありません。そこで、御妹を申し請けたいのです。」
このように右衛門殿へ申し渡し、これは信長公の御耳に入ったが、信長公からは
「浅井との間には敵が多い。妹を送る道をどのように仕るべきか。その分別さえ確かに有るのなら
妹を遣わそう。そういう事なので直談したい。」との御返事であった。
ならばとて、伯耆守はすぐに御対面し申し上げた
「この事についての仔細ですが、今回、私はこのあと、東へと通過します。北条殿、義元、その他へこのように申します。
『道の口を通過する御赦免を頂いたおかげで、遂に社参が出来ました。この上、また御詫び言を申し上げたいの
ですが、今度は女たちを召し連れ、夫婦共に社参仕るべしとの立願を成したく、来年は夫婦ともにこちらへ
下りたいのです。』
そのように東の大名衆に御詫び言を申し上げます。夫婦連ねてという事であれば、なお以て別状は無いと、
道の口通過を免除していただけるでしょう。その同意をとりつけた上での帰りに、また御談合いたしましょう。」
翌日、伯耆守は東へと向かい、四ヶ所の宮々への社参を遂げ、北条殿、義元などへ先の御礼を申し上げ、
「来年は夫婦連ねて通行することをお許しください。」と断り申した所、案の定「安き事である。
神慮に対し仕る上は、御心安く来年、夫婦揃って御社参されるように。」との約束を堅く仕った。
そして清須に戻ると、再び霍乱気となったと申し出た。その上で
「東国ではこのように、来年妻たちを召し連れ下ることについてしっかりと申し極めました。
しかし私の妻を召し連れはしません。乗り物七丁、下女はした者に至るまで、三十四、五騎を召し連れ、
これを夫婦揃ってと称して下ります。そしてこの女共を入れ替えて、御妹を申し請けに罷り上がります。
これであれば、少しも問題はありません。」
信長はこれを聞き届け、「ならば妹を御目にかけよう。」と、伯耆守一人を召し連れて奥へ入り、伯耆守は御妹の姿を見奉った。
「目出度く来年の御祝言、相調いました」
そう直談仕り、帰国したという。
(川角太閤記)
浅井家の重臣である磯伯耆守(磯野員昌)は内々の分別に、
「天下を、この織田三郎信長が一度は取るという異見がある。また彼には妹が有るという。
備前守(浅井長政)には内儀が無く、方々より縁組について申して来ているが、どうにか分別して頂き、
信長殿の御兄弟に致したいと思っているのだが、信長への通路が敵に塞がれており、分別が成り立たない。
ところで私の煩いが東国へも聞こえたのは確かである。そこで国々へ使者を立て、手引してみよう。」
そう考え、道々の城々へ道を乞うてこのように申した
「私は当春、不慮に煩い存命も定かではない状況でしたが、両親がこれを悲しみ、神々へ命乞いをしてくれた為か、
不慮に助かることが出来ました。この時親は、東は伊豆箱根三島の明神、富士の御山へ立願をかけました。
そして神慮がこのように成ったため、そこまでの道の口を通行することを御赦免して頂きたいのです。
私は今年の六月を心懸、これらへの社参を遂げたいのです。」
そのように使者を立てて申し出た所、小田原までの間の城主は尽くこれに同意し
「御煩いの様子は承っております。さては神々への命乞いでしょうか。神慮に対し仕り通過を許可しましょう。」と、
小田原から江州までの道の口を請う事ができた。
さればとて、その夏に伯耆守は美々しい様子にて社参と称して東国へと下った。道々の城からは残る所無く馳走された。
清須まで到着した時、そこにおいて「霍乱(日射病、熱病)になってしまいました。信長公に御医者を頼みたく
存じます」と申し上げた。すると「御道中であり、安き事である。ここに暫く逗留して養生されるように。」と
御馳走を残る所無く仰せ付けられ。五、三日の間、養生として逗留した。
その夜、伯耆守は佐久間右衛門(信盛)殿をにわかに呼び寄せた。
「談合したい仔細があります。承った所に寄ると、信長公には御妹が居られるそうです。
我が浅井備前も未だ内儀がありません。そこで、御妹を申し請けたいのです。」
このように右衛門殿へ申し渡し、これは信長公の御耳に入ったが、信長公からは
「浅井との間には敵が多い。妹を送る道をどのように仕るべきか。その分別さえ確かに有るのなら
妹を遣わそう。そういう事なので直談したい。」との御返事であった。
ならばとて、伯耆守はすぐに御対面し申し上げた
「この事についての仔細ですが、今回、私はこのあと、東へと通過します。北条殿、義元、その他へこのように申します。
『道の口を通過する御赦免を頂いたおかげで、遂に社参が出来ました。この上、また御詫び言を申し上げたいの
ですが、今度は女たちを召し連れ、夫婦共に社参仕るべしとの立願を成したく、来年は夫婦ともにこちらへ
下りたいのです。』
そのように東の大名衆に御詫び言を申し上げます。夫婦連ねてという事であれば、なお以て別状は無いと、
道の口通過を免除していただけるでしょう。その同意をとりつけた上での帰りに、また御談合いたしましょう。」
翌日、伯耆守は東へと向かい、四ヶ所の宮々への社参を遂げ、北条殿、義元などへ先の御礼を申し上げ、
「来年は夫婦連ねて通行することをお許しください。」と断り申した所、案の定「安き事である。
神慮に対し仕る上は、御心安く来年、夫婦揃って御社参されるように。」との約束を堅く仕った。
そして清須に戻ると、再び霍乱気となったと申し出た。その上で
「東国ではこのように、来年妻たちを召し連れ下ることについてしっかりと申し極めました。
しかし私の妻を召し連れはしません。乗り物七丁、下女はした者に至るまで、三十四、五騎を召し連れ、
これを夫婦揃ってと称して下ります。そしてこの女共を入れ替えて、御妹を申し請けに罷り上がります。
これであれば、少しも問題はありません。」
信長はこれを聞き届け、「ならば妹を御目にかけよう。」と、伯耆守一人を召し連れて奥へ入り、伯耆守は御妹の姿を見奉った。
「目出度く来年の御祝言、相調いました」
そう直談仕り、帰国したという。
(川角太閤記)
518人間七七四年
2022/12/27(火) 23:01:39.62ID:xZUKIk8a 上杉謙信が関東攻めを行い、平井城を奪還した時のこと。
謙信は山内上杉家の家臣たちに使者を送り、こう伝えさせた。
「山内公(上杉憲政)は私を子とし、関東管領職を譲られた。それによって私も父のために平井城を取り返した。そなたたちも山内公に仕えていたのだから、そのまま私に仕えなさい」
長野業政は笑いながら言った。
「越後公(謙信)の功労は最も多い。後日そちらに赴いてお祝い申し上げよう。だが、家臣になることはできない」
使者がその内容を伝えると謙信は怒り、兵を以って攻めようとした。
すると、すでに謙信に降ってそばにいた太田資正がこう言った。
「業政は頑固な老翁で、常にこのような感じです。しかし、心は善良でわざわざ憎むべき者でもないです。明日必ずこちらに挨拶に来るでしょう。もし来なければ私が攻めて蹂躙します」
次の日、業政が平井城へ向かおうとしたところ、老臣たちはこれを諫めた。
業政は「死ぬのであれば謙信も道連れだ。憂うことはないぞ」と言い、そのまま平井城へ赴き、謙信に謁見した。
謙信は「そなたが昨日私の使者に向かって家臣になることはできないと言ったのは本当か」と聞いた。
すると業政はこう答えた。
「その通りです。父が子に家督を譲る際は、まず老臣に諮り、その後に天子あるいは将軍に告げてその許しを得るものです。ましてや管領職のようなものは室町将軍が任ずるものであり、父が私に譲るものでもなく、子も私から受け取ることはできません。しかし、山内家再興のためとあれば私はあなたの指揮に従い、先鋒を務めましょう」
それを聞いた謙信は笑いながら言った。
「資正の言うとおり、そなたは固陋の頑夫(わからずやでかたくなな男)であるな」
その後は宴会となり、宴会が終わった後に業政は箕輪へ帰り、謙信も軍を越後に還した。
長野記より
謙信は山内上杉家の家臣たちに使者を送り、こう伝えさせた。
「山内公(上杉憲政)は私を子とし、関東管領職を譲られた。それによって私も父のために平井城を取り返した。そなたたちも山内公に仕えていたのだから、そのまま私に仕えなさい」
長野業政は笑いながら言った。
「越後公(謙信)の功労は最も多い。後日そちらに赴いてお祝い申し上げよう。だが、家臣になることはできない」
使者がその内容を伝えると謙信は怒り、兵を以って攻めようとした。
すると、すでに謙信に降ってそばにいた太田資正がこう言った。
「業政は頑固な老翁で、常にこのような感じです。しかし、心は善良でわざわざ憎むべき者でもないです。明日必ずこちらに挨拶に来るでしょう。もし来なければ私が攻めて蹂躙します」
次の日、業政が平井城へ向かおうとしたところ、老臣たちはこれを諫めた。
業政は「死ぬのであれば謙信も道連れだ。憂うことはないぞ」と言い、そのまま平井城へ赴き、謙信に謁見した。
謙信は「そなたが昨日私の使者に向かって家臣になることはできないと言ったのは本当か」と聞いた。
すると業政はこう答えた。
「その通りです。父が子に家督を譲る際は、まず老臣に諮り、その後に天子あるいは将軍に告げてその許しを得るものです。ましてや管領職のようなものは室町将軍が任ずるものであり、父が私に譲るものでもなく、子も私から受け取ることはできません。しかし、山内家再興のためとあれば私はあなたの指揮に従い、先鋒を務めましょう」
それを聞いた謙信は笑いながら言った。
「資正の言うとおり、そなたは固陋の頑夫(わからずやでかたくなな男)であるな」
その後は宴会となり、宴会が終わった後に業政は箕輪へ帰り、謙信も軍を越後に還した。
長野記より
520人間七七四年
2022/12/30(金) 13:00:00.90ID:fPD5q2c/ >>516の続き
それから、岐阜、そのほか国々、城々へ、先の夫婦で社参したいという断りを、下向の時に申した所、
「安き御事に候。来年は夫婦連れにてお下り候へ。分国においては随分御馳走いたしましょう。」と、
方々と約束し、磯伯耆守(磯野員昌)は国へと帰った。そして翌年の六月頃、先に計画していた
調義仕り、乗物七丁の中に、小侍従と申す物書きの上手なる上臈衆を召し連れ、これを内儀のように
もてなし国を出た。
考えていたように、道先の城下においては、城主の裏方(奥方)より音信文など参った。かの小侍従は
物書き故に自らその返事を仕った。
そのように道々を罷り通り、東の四ヶ国の社参を仕り、その後清須まで戻り、信長公の御妹を申し請け、
七丁の乗物の、上臈衆、および三十四、五人の下女、はした共を入れ替え、信長公は御自分の上臈衆、
はした者以下に至るまで、御手廻り衆を御妹子に付け、これに伯耆守がお供して近江へと上がった。
その際、それまで連れていた下女達は清須に置いていったが、先に申した小侍従と申す物書きの女は、
乗物の中に入れた。それは帰国途中の城々より文などが届いた時、先の筆跡と違わないようにとの
配慮からであった。
浅井殿の領分に近づくと伯耆守は、『このように調義仕り、信長公の妹の御供をして罷り上がっております。
ですので御家中の年寄その他残らず、境目まで御迎えに出られますように。』と申し上げた。
このため浅井家中の者たちは残らず御迎えに出、その儀式、残る所無く御輿を迎え取り、御城へ直に
入れ奉り、その日の目出度く御祝言を上げた。
この時、信長公より川崎と申す侍が、商人の姿に変装し、小さ刀すら帯びず、この御祝言を見届けると
清須へと戻った。信長公はこの報告を受けると、「喜悦これに過ぎず」とお祝いされたという。
(川角太閤記)
お市の方の、浅井家への輿入れについて
それから、岐阜、そのほか国々、城々へ、先の夫婦で社参したいという断りを、下向の時に申した所、
「安き御事に候。来年は夫婦連れにてお下り候へ。分国においては随分御馳走いたしましょう。」と、
方々と約束し、磯伯耆守(磯野員昌)は国へと帰った。そして翌年の六月頃、先に計画していた
調義仕り、乗物七丁の中に、小侍従と申す物書きの上手なる上臈衆を召し連れ、これを内儀のように
もてなし国を出た。
考えていたように、道先の城下においては、城主の裏方(奥方)より音信文など参った。かの小侍従は
物書き故に自らその返事を仕った。
そのように道々を罷り通り、東の四ヶ国の社参を仕り、その後清須まで戻り、信長公の御妹を申し請け、
七丁の乗物の、上臈衆、および三十四、五人の下女、はした共を入れ替え、信長公は御自分の上臈衆、
はした者以下に至るまで、御手廻り衆を御妹子に付け、これに伯耆守がお供して近江へと上がった。
その際、それまで連れていた下女達は清須に置いていったが、先に申した小侍従と申す物書きの女は、
乗物の中に入れた。それは帰国途中の城々より文などが届いた時、先の筆跡と違わないようにとの
配慮からであった。
浅井殿の領分に近づくと伯耆守は、『このように調義仕り、信長公の妹の御供をして罷り上がっております。
ですので御家中の年寄その他残らず、境目まで御迎えに出られますように。』と申し上げた。
このため浅井家中の者たちは残らず御迎えに出、その儀式、残る所無く御輿を迎え取り、御城へ直に
入れ奉り、その日の目出度く御祝言を上げた。
この時、信長公より川崎と申す侍が、商人の姿に変装し、小さ刀すら帯びず、この御祝言を見届けると
清須へと戻った。信長公はこの報告を受けると、「喜悦これに過ぎず」とお祝いされたという。
(川角太閤記)
お市の方の、浅井家への輿入れについて
521人間七七四年
2023/01/01(日) 16:17:46.70ID:lFI7BjNp 永禄十二年正月十八日、小田原の北条氏康・子息氏政は、四万五千の人数を以て、(武田軍の侵攻のため
駿府より逃亡した)今川氏真を駿河へ帰国させるため出陣し、先手衆は薩?山、八幡平、由井、蒲原まで取り続いた。
武田信玄公は使いの甫庵を伊豆の北条のもとに送ったが、彼は牢へと入れられた。
信玄公は氏康の後詰を聞かれると山縣三郎兵衛(昌景)の、千五百の備を山西抑えのために駿府へと残し置き、
一万八千あまりの人数にて興津河原へ打ち出て、北条親子四万の人数と、信玄公一万八千余りの軍勢とで
御対陣となった。
この時期は正月中旬も末の事でもあり、浜風が強く吹いて、敵味方共に寒き嵐に陣を張り難かった。
信玄公は御中間頭の衆に仰せ付けられ、駿府の酒を買い、陣衆の道作り千人に持たせて興津へと取り寄せ、
在の釜を幾口も集めてこの酒を沸かし、信玄公も一つこれを飲み、「家中の大身、小身、上下の区別なく
この酒をを振る舞うように」と仰せ出された。このため、武田の諸勢はみなこの酒を飲んだ。
この時信玄公は尋ねられた
「各々この酒を飲んだが、寒くはないか?」
諸人は、「寒くありません。」と申す者もあり、「これを飲んでも寒いです。」と申す者もあった。
そこで、信玄公は仰せになられた
「平地において酒を飲んでさえ寒いというのに、況や山の上に有る氏康の衆は、酒も飲まずに高所に
陣屋を掛けたといっても、人は山の麓に下りているだろう。
氏康衆の武辺について、彼らは輝虎(上杉謙信)と十八年にわたり取り合いをしているが、輝虎の本国
越後と小田原は遠く隔たっており、一年に一度づつ出会い、五日、十日ばかり戦って、さほど長く
氏康と謙信が対陣する事はない。であるから、上杉は大敵といいながら、大将であった上杉憲政は弱く、
武道不案内故に、氏康に武略を成功させたに過ぎない。
氏康衆は今まで甚だしい敵に遭う事が無かったために、油断しているだろう。たった今飲んだ酒が醒めない内に、
北条家の先衆の掛けた陣屋を破り、あぶなげもなく敵に一入付けよ!」
そう仰せ付けられ、甲州勢先衆は薩?山へ攻め上がった所、実際に陣屋には一、二人ほどしか居らず、
本来居るべき者たちは皆麓へと下りていたため、即座に安々と陣屋を破り、その上小田原先衆の武具、馬具、
鑓などの結構な代物を甲州武田方が取った。これは信玄公の賢き御智略の故である。
『甲陽軍鑑』
駿府より逃亡した)今川氏真を駿河へ帰国させるため出陣し、先手衆は薩?山、八幡平、由井、蒲原まで取り続いた。
武田信玄公は使いの甫庵を伊豆の北条のもとに送ったが、彼は牢へと入れられた。
信玄公は氏康の後詰を聞かれると山縣三郎兵衛(昌景)の、千五百の備を山西抑えのために駿府へと残し置き、
一万八千あまりの人数にて興津河原へ打ち出て、北条親子四万の人数と、信玄公一万八千余りの軍勢とで
御対陣となった。
この時期は正月中旬も末の事でもあり、浜風が強く吹いて、敵味方共に寒き嵐に陣を張り難かった。
信玄公は御中間頭の衆に仰せ付けられ、駿府の酒を買い、陣衆の道作り千人に持たせて興津へと取り寄せ、
在の釜を幾口も集めてこの酒を沸かし、信玄公も一つこれを飲み、「家中の大身、小身、上下の区別なく
この酒をを振る舞うように」と仰せ出された。このため、武田の諸勢はみなこの酒を飲んだ。
この時信玄公は尋ねられた
「各々この酒を飲んだが、寒くはないか?」
諸人は、「寒くありません。」と申す者もあり、「これを飲んでも寒いです。」と申す者もあった。
そこで、信玄公は仰せになられた
「平地において酒を飲んでさえ寒いというのに、況や山の上に有る氏康の衆は、酒も飲まずに高所に
陣屋を掛けたといっても、人は山の麓に下りているだろう。
氏康衆の武辺について、彼らは輝虎(上杉謙信)と十八年にわたり取り合いをしているが、輝虎の本国
越後と小田原は遠く隔たっており、一年に一度づつ出会い、五日、十日ばかり戦って、さほど長く
氏康と謙信が対陣する事はない。であるから、上杉は大敵といいながら、大将であった上杉憲政は弱く、
武道不案内故に、氏康に武略を成功させたに過ぎない。
氏康衆は今まで甚だしい敵に遭う事が無かったために、油断しているだろう。たった今飲んだ酒が醒めない内に、
北条家の先衆の掛けた陣屋を破り、あぶなげもなく敵に一入付けよ!」
そう仰せ付けられ、甲州勢先衆は薩?山へ攻め上がった所、実際に陣屋には一、二人ほどしか居らず、
本来居るべき者たちは皆麓へと下りていたため、即座に安々と陣屋を破り、その上小田原先衆の武具、馬具、
鑓などの結構な代物を甲州武田方が取った。これは信玄公の賢き御智略の故である。
『甲陽軍鑑』
522人間七七四年
2023/01/01(日) 17:15:31.77ID:fw7z4nFs http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1665.html
真田昌幸「GIANT KILLING」三話・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5356.html
信玄と戦略眼
真田昌幸が言ったという話もあるようだ
真田昌幸「GIANT KILLING」三話・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5356.html
信玄と戦略眼
真田昌幸が言ったという話もあるようだ
523人間七七四年
2023/01/03(火) 20:33:31.63ID:dH72IYYe 永禄十二年の駿河における武田と北条の対陣は、正月十八日から同年四月二十日までの九十三日であった。
日夜のせり合いにおいては、武田方の跡部大炊介が一度松田尾張に追われたこと以外は、みな小田原北条衆が
武田に遅れた。
然し乍らあまりの長陣故に、信玄公は家老衆を召し出し、それぞれの意見を聞いた。
内藤修理(昌豊)は、
「薬師は眼の養生に、すねの三里に灸をおろします。」
馬場美濃(信春)は
「けらつつき(キツツキ)が虫を食べるに、他の鳥と違って穴の後ろを突き、口に出てくるのを取ります。」
と申した。
信玄公「さては各々の分別、いずれも同意である。」と、山西の抑えである山縣三郎兵衛(昌景)を駿府より
召寄せ、北条方の陣城を一つ押し散らさせ、山縣の同心である、みしな、広瀬、小菅、その他手柄の者たちに
御証文を下され、二日目の夜は馬場、山縣両大将に仰せ付け、由井の源三郎といって、氏康公の二番めの
子息で武蔵八王子の城主(氏照)の陣屋の前に柵をふり、筵にて囲った。柵が幾つも焼かれたのを
尽く踏み破らせた、
四月二十七日に信玄公より仰せ出があり、次の日の二十八日には信玄公は陣を払い、駿河庵原の山を越えて、
道も無い所を原隼人助(昌胤)の工夫に任せ、終に甲府へと帰還した。
北条家ではこの事について「武田信玄は剣を回して甲府に逃げ込まれた」と申したという。
『甲陽軍鑑』
武田軍の駿河からの撤退について
日夜のせり合いにおいては、武田方の跡部大炊介が一度松田尾張に追われたこと以外は、みな小田原北条衆が
武田に遅れた。
然し乍らあまりの長陣故に、信玄公は家老衆を召し出し、それぞれの意見を聞いた。
内藤修理(昌豊)は、
「薬師は眼の養生に、すねの三里に灸をおろします。」
馬場美濃(信春)は
「けらつつき(キツツキ)が虫を食べるに、他の鳥と違って穴の後ろを突き、口に出てくるのを取ります。」
と申した。
信玄公「さては各々の分別、いずれも同意である。」と、山西の抑えである山縣三郎兵衛(昌景)を駿府より
召寄せ、北条方の陣城を一つ押し散らさせ、山縣の同心である、みしな、広瀬、小菅、その他手柄の者たちに
御証文を下され、二日目の夜は馬場、山縣両大将に仰せ付け、由井の源三郎といって、氏康公の二番めの
子息で武蔵八王子の城主(氏照)の陣屋の前に柵をふり、筵にて囲った。柵が幾つも焼かれたのを
尽く踏み破らせた、
四月二十七日に信玄公より仰せ出があり、次の日の二十八日には信玄公は陣を払い、駿河庵原の山を越えて、
道も無い所を原隼人助(昌胤)の工夫に任せ、終に甲府へと帰還した。
北条家ではこの事について「武田信玄は剣を回して甲府に逃げ込まれた」と申したという。
『甲陽軍鑑』
武田軍の駿河からの撤退について
524人間七七四年
2023/01/04(水) 07:13:17.97ID:1ewKKFZE つまり大敗だったんですね
525人間七七四年
2023/01/04(水) 08:35:22.64ID:lpy2kxKk へー、研究者とかには既出なんだろうけど知らなかったなあ
産経新聞 司馬遼太郎生誕100年
1週間で手紙2千通が寄せられた「竜馬がゆく」
主人公のモデルは2人いた。1人は「龍馬を書いてほしい」とせがんだ高知出身の司馬さんの後輩記者。
おおらかな性格で約180センチの偉丈夫だった。もう一人は、ハンガリー動乱で亡命し京大大学院で
学んでいたスティーブン・トロクさん。「いずれ母国に戻って大統領になる」と語る彼に、土佐藩を
脱藩した主人公の人物像が重なったようだった。
産経新聞 司馬遼太郎生誕100年
1週間で手紙2千通が寄せられた「竜馬がゆく」
主人公のモデルは2人いた。1人は「龍馬を書いてほしい」とせがんだ高知出身の司馬さんの後輩記者。
おおらかな性格で約180センチの偉丈夫だった。もう一人は、ハンガリー動乱で亡命し京大大学院で
学んでいたスティーブン・トロクさん。「いずれ母国に戻って大統領になる」と語る彼に、土佐藩を
脱藩した主人公の人物像が重なったようだった。
526人間七七四年
2023/01/04(水) 08:36:46.82ID:lpy2kxKk あ、誤爆しました
527人間七七四年
2023/01/04(水) 23:54:14.80ID:OnRDo+3F528人間七七四年
2023/01/05(木) 07:02:14.66ID:uWu0t0A3 いわゆる司馬史観は間違いも多いから気をつけようね小説なんだし、のはずが
司馬遼太郎の小説を読むなんて歴史も知らない馬鹿なやつだな、というような罵倒がSNSに増えたのがね
小説も楽しめない歴クラ賢者とやら
司馬遼太郎の小説を読むなんて歴史も知らない馬鹿なやつだな、というような罵倒がSNSに増えたのがね
小説も楽しめない歴クラ賢者とやら
529人間七七四年
2023/01/05(木) 21:05:26.94ID:aN5OpNqs 18世紀前半に書かれた「続武家閑談」から「遠州怱劇」と徳川家康の遠州侵攻
今川氏真の時、遠州浜松の引間城は飯尾豊前(飯尾連龍)が城主であった。
また同国二俣城は今川氏真の妹婿・松井江蔵(松井宗恒?)がうけもっていた。
松井の取り持ちで飯尾豊前の姪が氏真の妾となったため、いったんは飯尾・松井とも出頭人となった。
しかし讒者(新野親矩?)のため氏真は両者に対して怒り、飯尾豊前を駿府城に呼び寄せて殺害した。
飯尾家老である江間安芸(江馬泰顕)、江間加賀(江間時成)は権現様に味方し、豊前後室(お田鶴の方)を守護し引間城に籠城した。
しかし氏真が城を攻めると城内は恭順か抗戦かでもめ、安芸と加賀は同士討ちし相果ててしまった。
家臣の野田彦右衛門は亡主の志をついで権現様に援軍を頼んだ。
権現様は遠州安間から御出馬を決意され、案内を縣刑部左衛門に命じた。
刑部左衛門は「浜名にお越しになるには本坂・引佐という二つの難所を通らねばならぬうえ、本坂では今川譜代の浜名兵庫(浜名頼広)が一揆を率いており、困難かと存じます。
幸い金指の方面はゆるやかですのでそちらをお通りになるとよろしいでしょう」
と申したが権現様は「本坂でも苦しくはないだろう」と刑部左衛門の考えを退けられた。
そののち出陣する段になり、権現様は本坂に向かい、先手の面々は甲冑を菰で目立たなくして金指・気賀方面に出陣させた。
刑部左衛門は猟師のなりで本坂峠まで本隊を案内すると浜名に向かい、浜名の郷のまるや寺・大移寺という二つの寺に放火し、その騒ぎにまぎれて本隊は本坂峠を越え、金指を経由した先手と合流した。
この功により刑部左衛門は、権現様が浜松を手に入れたのち、城の二の曲輪にとめおかれ、本多作左衛門(本多重次)配下となった。
しかし本多作左衛門は小田原の陣で領地を召しあげられてしまい、縣刑部左衛門は流浪の身となり、病死したという。
一説には権現様は今切をお渡りになり、浜松から一里半の宇布見村にお着きになり、そこの普済寺の住僧の案内で引間城に入られたという。
城中の皆はよろこび、江間加賀の妻子は権現様に召しだされ御褒詞が下された。
ここにいたって二俣城の松井江蔵も権現様に城を引き渡して退いたため、権現様は中根正照と青木貞治に二俣城を守らせなさった。
一方で本坂の一揆勢をことごとく御退治なさり、首級・百八を気賀村で掛けられたという。
今川氏真の時、遠州浜松の引間城は飯尾豊前(飯尾連龍)が城主であった。
また同国二俣城は今川氏真の妹婿・松井江蔵(松井宗恒?)がうけもっていた。
松井の取り持ちで飯尾豊前の姪が氏真の妾となったため、いったんは飯尾・松井とも出頭人となった。
しかし讒者(新野親矩?)のため氏真は両者に対して怒り、飯尾豊前を駿府城に呼び寄せて殺害した。
飯尾家老である江間安芸(江馬泰顕)、江間加賀(江間時成)は権現様に味方し、豊前後室(お田鶴の方)を守護し引間城に籠城した。
しかし氏真が城を攻めると城内は恭順か抗戦かでもめ、安芸と加賀は同士討ちし相果ててしまった。
家臣の野田彦右衛門は亡主の志をついで権現様に援軍を頼んだ。
権現様は遠州安間から御出馬を決意され、案内を縣刑部左衛門に命じた。
刑部左衛門は「浜名にお越しになるには本坂・引佐という二つの難所を通らねばならぬうえ、本坂では今川譜代の浜名兵庫(浜名頼広)が一揆を率いており、困難かと存じます。
幸い金指の方面はゆるやかですのでそちらをお通りになるとよろしいでしょう」
と申したが権現様は「本坂でも苦しくはないだろう」と刑部左衛門の考えを退けられた。
そののち出陣する段になり、権現様は本坂に向かい、先手の面々は甲冑を菰で目立たなくして金指・気賀方面に出陣させた。
刑部左衛門は猟師のなりで本坂峠まで本隊を案内すると浜名に向かい、浜名の郷のまるや寺・大移寺という二つの寺に放火し、その騒ぎにまぎれて本隊は本坂峠を越え、金指を経由した先手と合流した。
この功により刑部左衛門は、権現様が浜松を手に入れたのち、城の二の曲輪にとめおかれ、本多作左衛門(本多重次)配下となった。
しかし本多作左衛門は小田原の陣で領地を召しあげられてしまい、縣刑部左衛門は流浪の身となり、病死したという。
一説には権現様は今切をお渡りになり、浜松から一里半の宇布見村にお着きになり、そこの普済寺の住僧の案内で引間城に入られたという。
城中の皆はよろこび、江間加賀の妻子は権現様に召しだされ御褒詞が下された。
ここにいたって二俣城の松井江蔵も権現様に城を引き渡して退いたため、権現様は中根正照と青木貞治に二俣城を守らせなさった。
一方で本坂の一揆勢をことごとく御退治なさり、首級・百八を気賀村で掛けられたという。
530人間七七四年
2023/01/06(金) 22:26:41.15ID:k5YdyoG6 「続武家閑談」から中山勘解由(中山家範)
家康公は浜松に移られ、堀江城の大沢氏(大沢基胤)、同所の中安(中安定安)、権田や入野の木寺宮(後醍醐天皇の皇子・邦良親王の子孫)などを攻められた。
徳川方の近藤平右衛門(近藤康用、井伊谷三人衆の一人)は奮戦したが股を突かれてしまった。
そうこうして敵は堀江城に籠る者どものみとなったが、周囲は大河であり、敵勢は外部とやりとりができなくなった。
その時、小田原からの加勢である武州八王子の中山勘解由家範が八条流馬術でみなぎる大河に乗り入れ、城まで渡った。
それをみた武田信玄は大いに感じて
「自国・近国で浅瀬を知っていたとしてもこのように渡ることは無理であるのに、遠国の者がこのような馬術を披露するとは。
まことに強勇無双である」と称賛のあまり冑を渡した。
現在、中山隠岐守方で冑、中山丹波守方で頰当てが伝わっているという。
中山勘解由は天正十八年に八王子城で戦死したという。
家康公は浜松に移られ、堀江城の大沢氏(大沢基胤)、同所の中安(中安定安)、権田や入野の木寺宮(後醍醐天皇の皇子・邦良親王の子孫)などを攻められた。
徳川方の近藤平右衛門(近藤康用、井伊谷三人衆の一人)は奮戦したが股を突かれてしまった。
そうこうして敵は堀江城に籠る者どものみとなったが、周囲は大河であり、敵勢は外部とやりとりができなくなった。
その時、小田原からの加勢である武州八王子の中山勘解由家範が八条流馬術でみなぎる大河に乗り入れ、城まで渡った。
それをみた武田信玄は大いに感じて
「自国・近国で浅瀬を知っていたとしてもこのように渡ることは無理であるのに、遠国の者がこのような馬術を披露するとは。
まことに強勇無双である」と称賛のあまり冑を渡した。
現在、中山隠岐守方で冑、中山丹波守方で頰当てが伝わっているという。
中山勘解由は天正十八年に八王子城で戦死したという。
531530
2023/01/07(土) 12:15:19.36ID:zcSgtF6o 原文だと中山勘解由は大河を渡った、とだけ書いてるので
交渉のために堀江城から渡ってきたと考えた方が自然かも
交渉のために堀江城から渡ってきたと考えた方が自然かも
532人間七七四年
2023/01/07(土) 18:12:50.73ID:IHNWrgsW 単騎駆けを尊ぶ文化
533人間七七四年
2023/01/07(土) 20:41:41.12ID:EgOhblty ん?家康独立して今川領切りとってるときの話だよな?
信玄どこで見てたんだ??
信玄どこで見てたんだ??
534530
2023/01/07(土) 21:09:44.65ID:RAPuE3SW 信玄は家康に合わせて今川領(駿河)に侵攻したとはいえ、信玄の堀江城攻めは三方ヶ原の後だから正直よくわからない
中山勘解由の子孫が八条流馬術に箔をつけるためにでっちあげたのかもしれない
中山勘解由の子孫が八条流馬術に箔をつけるためにでっちあげたのかもしれない
535530
2023/01/07(土) 21:13:34.02ID:RAPuE3SW 「続武家閑談」から徳川家康の腫れ物と本多重次
権現様が腫れ物をわずらいになられた節、膿を出そうとはまぐりの貝殻でほられたが、かえって痛みが増した。
「外科を召し出せ」と命じられたところ、すぐさま本多作左衛門が長閑と申す唐人医者の薬を紹介した。
そこでその薬を取り寄せてつけてみたが、ひどくしみる薬であったためとりやめた。
しかし作左衛門は「その薬を塗られた上に灸をすえられますよう」と権現様に訴えたため、権現様は渋々その通りにされた。
灸をすえた直後はそれまでよりもひどい痛みであったが、しばらくすると腫れ物が内から破れて痛みも無くなった。
権現様は作左衛門に「おまえのおかげで命が助かった。
おまえは片眼で跛の醜男であるが、わしの意見にも逆らってでも、わしのために強く諫言するとは忠義なことである」
と感心なさったそうだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-498.html
本多作左衛門と家康の腫れ物・いい話
こちらは同じ逸話だけど、内容はけっこう異なる
権現様が腫れ物をわずらいになられた節、膿を出そうとはまぐりの貝殻でほられたが、かえって痛みが増した。
「外科を召し出せ」と命じられたところ、すぐさま本多作左衛門が長閑と申す唐人医者の薬を紹介した。
そこでその薬を取り寄せてつけてみたが、ひどくしみる薬であったためとりやめた。
しかし作左衛門は「その薬を塗られた上に灸をすえられますよう」と権現様に訴えたため、権現様は渋々その通りにされた。
灸をすえた直後はそれまでよりもひどい痛みであったが、しばらくすると腫れ物が内から破れて痛みも無くなった。
権現様は作左衛門に「おまえのおかげで命が助かった。
おまえは片眼で跛の醜男であるが、わしの意見にも逆らってでも、わしのために強く諫言するとは忠義なことである」
と感心なさったそうだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-498.html
本多作左衛門と家康の腫れ物・いい話
こちらは同じ逸話だけど、内容はけっこう異なる
536人間七七四年
2023/01/07(土) 23:03:34.50ID:eTIKiZeg537人間七七四年
2023/01/08(日) 12:51:28.25ID:3OeZANhT さて平山監修の金陀美家康か
538人間七七四年
2023/01/08(日) 18:36:51.99ID:3OeZANhT 大河第一話
派手な金濃具足は太守義元からの、元康(と三河衆)への信頼の証としての贈り物って演出はいいですね
派手な金濃具足は太守義元からの、元康(と三河衆)への信頼の証としての贈り物って演出はいいですね
539人間七七四年
2023/01/08(日) 18:39:41.30ID:3OeZANhT 岡崎城代山田景隆に名乗らせたのは、過去の「直虎」ネタかそれとも将来的な井伊直政につなげるためかな?
山田の子の川手良則は「直虎」ラストで一瞬だけ出番あったし
山田の子の川手良則は「直虎」ラストで一瞬だけ出番あったし
540人間七七四年
2023/01/08(日) 19:05:31.20ID:3OeZANhT 家康と信長が仲の良い幼馴染ではなく、記憶がフラッシュバックして身震いするほどのいじめられっ子と
お気に入りのいじめ相手を見つけたいじめっ子というのも斬新か
お気に入りのいじめ相手を見つけたいじめっ子というのも斬新か
542人間七七四年
2023/01/09(月) 02:27:23.85ID:yBmC8zxO あんなクソドラマ見てる奴がこのスレにいるなんてな
きっとジャニオタのお花畑なんだろ
尿潤で喜んじゃうんだし
きっとジャニオタのお花畑なんだろ
尿潤で喜んじゃうんだし
543人間七七四年
2023/01/09(月) 12:18:14.20ID:3iNTOqrm どうした、なんかあったのか?
女にでもふられたか?
女にでもふられたか?
544人間七七四年
2023/01/09(月) 13:10:34.89ID:AWGkuSD4 葵つかさにふられたジャニタレがいたんですよ〜
なーにーやっちまったなぁ!
なーにーやっちまったなぁ!
545人間七七四年
2023/01/09(月) 16:48:47.43ID:1bvbqDz0 悔しくて脱糞
城に帰って不貞寝
寝起きに飲尿
城に帰って不貞寝
寝起きに飲尿
546人間七七四年
2023/01/09(月) 17:39:25.35ID:UaZUy/56 飲尿五行説
547人間七七四年
2023/01/09(月) 19:10:33.28ID:vjiAFdO6 太閤となった豊臣秀吉が諸将を招き、自ら茶を立てた時のこと。
そこに参加していた大谷刑部少輔吉隆はライ病を患っていた。
茶碗が諸将を間を廻り、やがて吉隆の手に移った。
太閤殿下が自ら立てた茶であり、恭しく茶碗を口元に運んだところ、血膿の混じった鼻汁が茶碗の中に落ちてしまった。
弓矢を取っては万夫不当の勇者である吉隆もこれには困ってしまった。
居並ぶ面々は誰も気づいていないようなのでこのまま廻そうかと思ったが、血膿の混じった茶をわからぬとはいえ他人に飲ませるのはさすがに心が恥じる。
さてこの場をどう取り繕ったものかと途方にくれていると、その様子を見ていた太閤はそしらぬ顔で「刑部、その茶は加減が不味いからもう1度立て直そう。茶碗をこちらへ返せ」と手を伸ばしてきた。
それによって益々惑ってしまった刑部がまごまごしていると、太閤はひったくるように茶碗をもぎとると、血膿の入った茶をグッと飲み干してしまった。そして新しく茶を立てなおしてまわした。
面目を保つことができた吉隆は、ほっと吐息を漏らしたという。
有名エピソードの少し違う版。『豊臣秀吉言行録』より
そこに参加していた大谷刑部少輔吉隆はライ病を患っていた。
茶碗が諸将を間を廻り、やがて吉隆の手に移った。
太閤殿下が自ら立てた茶であり、恭しく茶碗を口元に運んだところ、血膿の混じった鼻汁が茶碗の中に落ちてしまった。
弓矢を取っては万夫不当の勇者である吉隆もこれには困ってしまった。
居並ぶ面々は誰も気づいていないようなのでこのまま廻そうかと思ったが、血膿の混じった茶をわからぬとはいえ他人に飲ませるのはさすがに心が恥じる。
さてこの場をどう取り繕ったものかと途方にくれていると、その様子を見ていた太閤はそしらぬ顔で「刑部、その茶は加減が不味いからもう1度立て直そう。茶碗をこちらへ返せ」と手を伸ばしてきた。
それによって益々惑ってしまった刑部がまごまごしていると、太閤はひったくるように茶碗をもぎとると、血膿の入った茶をグッと飲み干してしまった。そして新しく茶を立てなおしてまわした。
面目を保つことができた吉隆は、ほっと吐息を漏らしたという。
有名エピソードの少し違う版。『豊臣秀吉言行録』より
548人間七七四年
2023/01/09(月) 19:55:01.91ID:CkYvUW1c しみけんが淋病マンコをクンニした時のエピを思い出したわ
550人間七七四年
2023/01/11(水) 00:12:50.48ID:91aVkVe0 「続武家閑談」から小坂新助の武勇
遠州掛川天王山の戦いにおいて、柵のそばに敵の手負いの者がいた。
味方の勇士が敵の首を取ろうと心がけたものの、敵陣のすぐ側でありあきらめていたところに、
三河衆の小坂新助が難なく行って敵の首を取って帰ってきた。
これは霧の中の働きであった。
後日、権現様が新助に「首を取ったところは、敵味方の距離はいかほどあったか?」と尋ねたところ
新助は「十四、五間ほど(25mほど)だったと思います」と申し上げた。
そこで権現様が柵まで行って距離を計らせたところ弓杖2たけばかりであったため、いよいよ感心なされたということだ。
遠州掛川天王山の戦いにおいて、柵のそばに敵の手負いの者がいた。
味方の勇士が敵の首を取ろうと心がけたものの、敵陣のすぐ側でありあきらめていたところに、
三河衆の小坂新助が難なく行って敵の首を取って帰ってきた。
これは霧の中の働きであった。
後日、権現様が新助に「首を取ったところは、敵味方の距離はいかほどあったか?」と尋ねたところ
新助は「十四、五間ほど(25mほど)だったと思います」と申し上げた。
そこで権現様が柵まで行って距離を計らせたところ弓杖2たけばかりであったため、いよいよ感心なされたということだ。
551人間七七四年
2023/01/11(水) 23:32:06.05ID:91aVkVe0 「続武家閑談」と同じ著者による、木村高敦「武家閑談」から「徳川家康の大高城兵糧入れ」
今川義元は妹婿の鵜殿長持を織田信長の抑えとして大高城に置いていた。
しかし信長は丸根城、鷲津城を築き、大高城を孤立させ、その上に寺部城、挙母城、広瀬城の三城にも兵を置いたため大高城への兵糧搬入ができなかった。
そのため今川から権現様に永禄二年?(1559年)四月十日に兵糧を入れるよう命がくだった。
権現様は岡崎をうちいでたが、酒井正親、酒井忠次、石川数正らは
「信長勢が籠る城々の前で兵糧を運ぶなど不可能です」と諫めた。
権現様は当時十八であったが、家臣の言葉を用いなさらず
「我に考えがあるから言う通りにいたせ」とおっしゃった。
さて権現様は九日の夜半に酒井正親・石川数正に四千騎を率いさせ、大高城を囲む鷲津・丸根の両城も無視して寺部城を攻めさせた。
一方で権現様は八百騎で小荷駄千二百疋を引き連れ自ら大高城に向かった。
寺部城の織田兵は「なぜ敵勢ははるか奥のこの寺部城に取り掛かるのだろう?」と不思議に思いながらもとりあえず防戦した。
九日の丑時のため、暗さも暗く、三河兵はある程度攻めてさっと引き返し、
近くの梅ヶ坪城を攻めて二の丸、三の丸まで押し入って火をつけた。
今川義元は妹婿の鵜殿長持を織田信長の抑えとして大高城に置いていた。
しかし信長は丸根城、鷲津城を築き、大高城を孤立させ、その上に寺部城、挙母城、広瀬城の三城にも兵を置いたため大高城への兵糧搬入ができなかった。
そのため今川から権現様に永禄二年?(1559年)四月十日に兵糧を入れるよう命がくだった。
権現様は岡崎をうちいでたが、酒井正親、酒井忠次、石川数正らは
「信長勢が籠る城々の前で兵糧を運ぶなど不可能です」と諫めた。
権現様は当時十八であったが、家臣の言葉を用いなさらず
「我に考えがあるから言う通りにいたせ」とおっしゃった。
さて権現様は九日の夜半に酒井正親・石川数正に四千騎を率いさせ、大高城を囲む鷲津・丸根の両城も無視して寺部城を攻めさせた。
一方で権現様は八百騎で小荷駄千二百疋を引き連れ自ら大高城に向かった。
寺部城の織田兵は「なぜ敵勢ははるか奥のこの寺部城に取り掛かるのだろう?」と不思議に思いながらもとりあえず防戦した。
九日の丑時のため、暗さも暗く、三河兵はある程度攻めてさっと引き返し、
近くの梅ヶ坪城を攻めて二の丸、三の丸まで押し入って火をつけた。
552人間七七四年
2023/01/11(水) 23:35:24.70ID:91aVkVe0 火は闇夜を煌々と輝かせた。
鷲津・丸根の兵どもはこの光景を見て
「寺部城、梅ヶ坪城の守りをしろ!」と駆け出した。
こうして権現様は何の障害もなく思いのままに兵糧を大高城に運び入れた。
大高城への兵糧搬入を見た鷲津・丸根両城の守備兵たちは手を打って驚き、頭を掻いて悔やんだ。
石川・酒井も無事に引き返し、権現様とともに岡崎城に帰還した。
帰城後、みなみな権現様の御前に出て
「さて今朝は見事に兵糧を大高城に運び入れられましたが、なぜ我々に寺部城・梅ヶ坪城を攻めさせたのです?」と尋ねた。
権現様の仰せには「鷲津城・丸根城は大高城への兵糧入れを阻止するための城であるが、寺部城・梅ヶ坪城からの後詰めを頼りとしておる。
もし寺部城・梅ヶ坪城が落城したなら鷲津城・丸根城も干上がるのだから、両城が攻められたと聞けばそちらに兵を向けるだろう。
その隙に我は攻められる心配をせずに兵糧を大高城に運び入れられた、というわけだ。
「兵法は神速を尊ぶ」と言うが、人の予想外を突くのが肝要である。」
これを聞いた家老衆は
「君は幼い時より臨済寺の太原雪斎に習い、兵書を読まれたと聞いておりましたが、十八にしてこれほどの知略とは。
まさに生来の名将で御座います。後々たのもしく思います。」
と口々に言ったという。
なおこの大高城への兵糧入れが権現様の御手物の初めだそうだ。
鷲津・丸根の兵どもはこの光景を見て
「寺部城、梅ヶ坪城の守りをしろ!」と駆け出した。
こうして権現様は何の障害もなく思いのままに兵糧を大高城に運び入れた。
大高城への兵糧搬入を見た鷲津・丸根両城の守備兵たちは手を打って驚き、頭を掻いて悔やんだ。
石川・酒井も無事に引き返し、権現様とともに岡崎城に帰還した。
帰城後、みなみな権現様の御前に出て
「さて今朝は見事に兵糧を大高城に運び入れられましたが、なぜ我々に寺部城・梅ヶ坪城を攻めさせたのです?」と尋ねた。
権現様の仰せには「鷲津城・丸根城は大高城への兵糧入れを阻止するための城であるが、寺部城・梅ヶ坪城からの後詰めを頼りとしておる。
もし寺部城・梅ヶ坪城が落城したなら鷲津城・丸根城も干上がるのだから、両城が攻められたと聞けばそちらに兵を向けるだろう。
その隙に我は攻められる心配をせずに兵糧を大高城に運び入れられた、というわけだ。
「兵法は神速を尊ぶ」と言うが、人の予想外を突くのが肝要である。」
これを聞いた家老衆は
「君は幼い時より臨済寺の太原雪斎に習い、兵書を読まれたと聞いておりましたが、十八にしてこれほどの知略とは。
まさに生来の名将で御座います。後々たのもしく思います。」
と口々に言ったという。
なおこの大高城への兵糧入れが権現様の御手物の初めだそうだ。
553人間七七四年
2023/01/12(木) 23:03:56.12ID:CkZ1eLq0 「武家閑談」より徳川家康の謙譲の美徳
権現様は天下一統ののちも、いにしえにかわることなく、奢侈のお振る舞いはなさらなかった。
信玄の娘の賢性院(信玄次女で穴山梅雪正室の見性院)と御目見のときは、いつも上段から降って会釈をなさった。
また御放鷹で、今川義元戦死の場である桶狭間の田楽が窪の近くを通る際には毎度下馬なさった。
誠に謙譲の御心が深いこと、言葉にできないほどである。
権現様は天下一統ののちも、いにしえにかわることなく、奢侈のお振る舞いはなさらなかった。
信玄の娘の賢性院(信玄次女で穴山梅雪正室の見性院)と御目見のときは、いつも上段から降って会釈をなさった。
また御放鷹で、今川義元戦死の場である桶狭間の田楽が窪の近くを通る際には毎度下馬なさった。
誠に謙譲の御心が深いこと、言葉にできないほどである。
554人間七七四年
2023/01/13(金) 22:26:27.80ID:iXo+cHzD 「武家閑談」より加藤清正の片鎌槍について
天正十六年(1588年)霜月五日、加藤清正は天草伊豆守(天草種元)との一戦の時に十文字槍を突き折ってしまった。
それ以来、片鎌になったことは天下が一同に知るところである。
もっとも、元々片鎌だったという説もある。
寺沢兵庫頭忠高(寺沢堅高)の家人が物語るには、清正が鎌を折ったのは仏木坂という所で、その折れた片鎌が今でも仏木坂の社に保管されているという。
所望の人がいれば取り出すことができるそうだ。
また清正の片鎌槍を見た人の話によれば、十文字の月剣であり、志津の作で直刃、さやの穂は熊の毛、横手は黒ラシャだという。
瘧(おこり)を患っている者がいれば、熊の毛を1本抜いて頭に載せれば瘧が落ちるという。
天正十六年(1588年)霜月五日、加藤清正は天草伊豆守(天草種元)との一戦の時に十文字槍を突き折ってしまった。
それ以来、片鎌になったことは天下が一同に知るところである。
もっとも、元々片鎌だったという説もある。
寺沢兵庫頭忠高(寺沢堅高)の家人が物語るには、清正が鎌を折ったのは仏木坂という所で、その折れた片鎌が今でも仏木坂の社に保管されているという。
所望の人がいれば取り出すことができるそうだ。
また清正の片鎌槍を見た人の話によれば、十文字の月剣であり、志津の作で直刃、さやの穂は熊の毛、横手は黒ラシャだという。
瘧(おこり)を患っている者がいれば、熊の毛を1本抜いて頭に載せれば瘧が落ちるという。
555人間七七四年
2023/01/15(日) 00:04:03.76ID:wbs1odIZ 「武家閑談」より上杉謙信による席次争いの裁定
永禄三年三月(永禄四年閏三月?)、上杉謙信輝虎公が鶴岡八幡宮の神前で管領に任じられた。
関白近衛前久公が下向され、公方義輝よりは大和兵部少輔が上使であった。
その時、関東八州の大名・小名が列座した時に、千葉国胤(千葉邦胤は当時は幼児。父親の千葉胤富)と小山政種(小山政種は生まれる前。祖父の小山高朝)が席次争いした。
これを聞いた謙信公が
「千葉殿は関東八州諸士の上であるべきである。
また小山殿は関東八州諸士の下になるべきではない。」
と裁判したところ、事は静まった。
謙信は当意即妙の才知である、と天下の誉れとなった。
永禄三年三月(永禄四年閏三月?)、上杉謙信輝虎公が鶴岡八幡宮の神前で管領に任じられた。
関白近衛前久公が下向され、公方義輝よりは大和兵部少輔が上使であった。
その時、関東八州の大名・小名が列座した時に、千葉国胤(千葉邦胤は当時は幼児。父親の千葉胤富)と小山政種(小山政種は生まれる前。祖父の小山高朝)が席次争いした。
これを聞いた謙信公が
「千葉殿は関東八州諸士の上であるべきである。
また小山殿は関東八州諸士の下になるべきではない。」
と裁判したところ、事は静まった。
謙信は当意即妙の才知である、と天下の誉れとなった。
556人間七七四年
2023/01/15(日) 02:02:07.90ID:9vgYVuhb つまり…どう座ったの?
557人間七七四年
2023/01/15(日) 08:10:46.60ID:bAsuNukx 隣に並ばせたんじゃね
558人間七七四年
2023/01/15(日) 08:38:50.88ID:FKjG8Ito https://ja.m.wikipedia.org/wiki/小山高朝
永禄4年(1561年)、小田原城の戦いでは上杉謙信に味方し、上杉軍の一員として包囲戦に参じている。
しかし、謙信の関東管領就任式の際に千葉胤富に関東諸将の首位の座を奪われたことに不満を抱いたと言われており、直後に北条氏康と手を結んだために謙信の怒りを買い、
翌永禄5年(1562年)に再度関東入りした謙信に攻められて高朝は降伏した。
単に謙信が関東から出たら北条になびいただけかもしれないけど
永禄4年(1561年)、小田原城の戦いでは上杉謙信に味方し、上杉軍の一員として包囲戦に参じている。
しかし、謙信の関東管領就任式の際に千葉胤富に関東諸将の首位の座を奪われたことに不満を抱いたと言われており、直後に北条氏康と手を結んだために謙信の怒りを買い、
翌永禄5年(1562年)に再度関東入りした謙信に攻められて高朝は降伏した。
単に謙信が関東から出たら北条になびいただけかもしれないけど
559人間七七四年
2023/01/15(日) 18:10:46.30ID:kfqxqRmx 大河は東濃卍会だった
560人間七七四年
2023/01/15(日) 18:23:47.29ID:kfqxqRmx 田舎の三河より駿府好きと明言したとこもいい
1年間突っ込みながら楽めるとこがSNS中毒者向けっぽいか
1年間突っ込みながら楽めるとこがSNS中毒者向けっぽいか
561人間七七四年
2023/01/15(日) 21:54:06.89ID:k2gnhAsB 「朝野雑載」から徳川家康誕生
家康公は天文十一年壬寅十二月二十二日(通説では二十六日で壬寅の日)、三河国岡崎の城にて御誕生された。
胎内に十二ヶ月いらっしゃったという。
家康公と御母君が離別されたのち、御母君は小川の同心久松佐渡守(久松俊勝)に再嫁され、三男二女をもうけられた。
家康公には一生一腹(同父かつ同母?)の男子の兄弟がなかったので、みな松平の姓を賜って弟となり、敵味方の人質証人として、実の兄弟と変わらぬ憐れみようであったという。
神格化のためか胎内に十二ヶ月いたという伝説が。
なお家康自身が書いた願文では天文十二年生まれとして年齢を数えているので、実際は寅年ではなく卯年だったのかもしれない
家康公は天文十一年壬寅十二月二十二日(通説では二十六日で壬寅の日)、三河国岡崎の城にて御誕生された。
胎内に十二ヶ月いらっしゃったという。
家康公と御母君が離別されたのち、御母君は小川の同心久松佐渡守(久松俊勝)に再嫁され、三男二女をもうけられた。
家康公には一生一腹(同父かつ同母?)の男子の兄弟がなかったので、みな松平の姓を賜って弟となり、敵味方の人質証人として、実の兄弟と変わらぬ憐れみようであったという。
神格化のためか胎内に十二ヶ月いたという伝説が。
なお家康自身が書いた願文では天文十二年生まれとして年齢を数えているので、実際は寅年ではなく卯年だったのかもしれない
563人間七七四年
2023/01/16(月) 12:49:33.83ID:Z0LWwUBl 中日新聞 家康公に迫る 静岡市歴史博物館きょう全面開館2023年1月13日
https://www.chunichi.co.jp/article/616759
https://scmh.jp/
新規に建設された静岡市歴史博物館(旧・静岡市文化財資料館)がグランドオープンします。
期間中限定の展示もありますので、ぜひお出でください。
館の常設展示の目玉は、今回綿密な調査で横浜の西岡甲冑工房により作製された、徳川家康の最初と最後の甲冑の複製品です。
鎧の着初めに今川義元より贈られたという「紅糸威腹巻」(静岡浅間神社所蔵)
大坂の陣で着用したといわれる「伊予札黒糸威胴丸具足(歯朶具足)」(久能山東照宮所蔵)
この赤と黒の色彩の二つですね。
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/images/%E7%B4%85.JPG
https://static.chunichi.co.jp/image/article/size1/5/2/2/a/522acac13bc5790445fe0176db300055_1.jpg
紅糸威腹巻の実物は威毛(おどしげ、糸)の退色が酷く、正直しょぼい見た目なんですけれども
複製品の鮮やかな紅は見事なものです。やはり写真より現物を見ていただきたいですね。
駿河今川氏の美意識や、家康への期待が見て取れるような気がしました。
調査時の記録
(仮称)静岡市歴史文化施設の展示に向けて、家康公の甲冑を調査しました!
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/2018/06/post-4.html
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/2019/04/201916.html
https://www.chunichi.co.jp/article/616759
https://scmh.jp/
新規に建設された静岡市歴史博物館(旧・静岡市文化財資料館)がグランドオープンします。
期間中限定の展示もありますので、ぜひお出でください。
館の常設展示の目玉は、今回綿密な調査で横浜の西岡甲冑工房により作製された、徳川家康の最初と最後の甲冑の複製品です。
鎧の着初めに今川義元より贈られたという「紅糸威腹巻」(静岡浅間神社所蔵)
大坂の陣で着用したといわれる「伊予札黒糸威胴丸具足(歯朶具足)」(久能山東照宮所蔵)
この赤と黒の色彩の二つですね。
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/images/%E7%B4%85.JPG
https://static.chunichi.co.jp/image/article/size1/5/2/2/a/522acac13bc5790445fe0176db300055_1.jpg
紅糸威腹巻の実物は威毛(おどしげ、糸)の退色が酷く、正直しょぼい見た目なんですけれども
複製品の鮮やかな紅は見事なものです。やはり写真より現物を見ていただきたいですね。
駿河今川氏の美意識や、家康への期待が見て取れるような気がしました。
調査時の記録
(仮称)静岡市歴史文化施設の展示に向けて、家康公の甲冑を調査しました!
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/2018/06/post-4.html
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/2019/04/201916.html
564人間七七四年
2023/01/16(月) 12:51:27.53ID:Z0LWwUBl 知事と市長のいざこざは地元民の方でお願いですねw
インフラと展示の正当性云々と費用問題はホントどこでも同じ。
インフラと展示の正当性云々と費用問題はホントどこでも同じ。
565人間七七四年
2023/01/16(月) 16:05:07.58ID:Z0LWwUBl >>554
https://bunka.nii.ac.jp/heritage/131010/_478275/131010_478275520837061644187_900.jpg
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/523895
加藤清正の片鎌槍は、娘の瑤林院が紀州徳川頼宣に輿入れする際に持参した嫁入り道具として紀州家のものとなり、
現在は東京国立博物館に所蔵されています。
常設展示ではありませんがタイミングが合いましたら是非ご覧ください。
https://bunka.nii.ac.jp/heritage/131010/_478275/131010_478275520837061644187_900.jpg
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/523895
加藤清正の片鎌槍は、娘の瑤林院が紀州徳川頼宣に輿入れする際に持参した嫁入り道具として紀州家のものとなり、
現在は東京国立博物館に所蔵されています。
常設展示ではありませんがタイミングが合いましたら是非ご覧ください。
566人間七七四年
2023/01/16(月) 20:49:29.60ID:PJyhHbaY 永禄十二年十二月、駿府の今川殿館に岡部次郎右衛門(正綱)と申す三百貫の知行取りは、今川家の
近習、小身の侍達を数多の人数集めて立て籠もった。
これを武田信玄は暫く攻めたが、「次郎右衛門が小身にてこれほどの抵抗をするとは、如何様只者ではない」
と思し召された
「千兵は得やすいが一将求め難い。この次郎右衛門を助け置き、取り立てて我が先鋒をさせれば然るべし。」
として講和され、岡部次郎右衛門は信玄公の御被官衆となった。そして古主である今川殿からは
持たされることのなかった人数を五十騎、次郎右衛門に下され、また三百貫を三千貫になされ、
その時より岡部次郎右衛門を侍大将と成された。
『甲陽軍鑑』
近習、小身の侍達を数多の人数集めて立て籠もった。
これを武田信玄は暫く攻めたが、「次郎右衛門が小身にてこれほどの抵抗をするとは、如何様只者ではない」
と思し召された
「千兵は得やすいが一将求め難い。この次郎右衛門を助け置き、取り立てて我が先鋒をさせれば然るべし。」
として講和され、岡部次郎右衛門は信玄公の御被官衆となった。そして古主である今川殿からは
持たされることのなかった人数を五十騎、次郎右衛門に下され、また三百貫を三千貫になされ、
その時より岡部次郎右衛門を侍大将と成された。
『甲陽軍鑑』
567人間七七四年
2023/01/16(月) 21:41:09.28ID:Dz3TdecJ 「武家閑談」の初めの話「松平の御家御相続繁盛となる事」
権現様は天文十八(十一)壬寅年十二月二十六日、岡崎の城にて御誕生。御胎内十二ヶ月という。
御童名は竹千代と称されたが、天文十三年三月の夜に御父・松平広忠卿の夢で
「神々は 永き浮世を まもるかな 薮のこころは 千代竹の宿」
という歌を金の短冊に書き、松につけたところで目が覚めたという。
広忠卿は不思議に思い、三河の大浜の称名寺十五世の住職・其阿弥に夢の話をしたところ、上人も同じ夢を見ていた。
そこでこれは竹千代殿が御繁盛するという吉夢だろうということで、御祝いの連歌興行をなされた。
また慶長三年(1598年)正月、伏見で権現様は吉夢を見られたため、二日に石清水八幡宮に詣でられたという。
すると正月十四日に、江戸の酒井忠則から使者があり、それによれば
米津清右衛門(米津正勝)の妻が元日の夜見た夢に、権現様が八幡宮に御参詣された。
そして烏帽子の神人が枝に短冊をつけて権現様に差し出して歌を詠んだという。
「盛んなる 都の花を 敬はで 東の松の 世をば継がるる」
この時から三年のうちに関ヶ原の合戦で天下を御手にされた。
また天正十年(1582年)五月二十八日、明智光秀が謀叛の企てをこめて開いた愛宕百韻の十一句と十二句にも当家繁盛の吉兆があるという。
「立ちつづく 松の梢や しげるらん」御子孫繁盛の吉兆
「浪にまがひの 入海の里」江戸繁盛の兆
権現様は天文十八(十一)壬寅年十二月二十六日、岡崎の城にて御誕生。御胎内十二ヶ月という。
御童名は竹千代と称されたが、天文十三年三月の夜に御父・松平広忠卿の夢で
「神々は 永き浮世を まもるかな 薮のこころは 千代竹の宿」
という歌を金の短冊に書き、松につけたところで目が覚めたという。
広忠卿は不思議に思い、三河の大浜の称名寺十五世の住職・其阿弥に夢の話をしたところ、上人も同じ夢を見ていた。
そこでこれは竹千代殿が御繁盛するという吉夢だろうということで、御祝いの連歌興行をなされた。
また慶長三年(1598年)正月、伏見で権現様は吉夢を見られたため、二日に石清水八幡宮に詣でられたという。
すると正月十四日に、江戸の酒井忠則から使者があり、それによれば
米津清右衛門(米津正勝)の妻が元日の夜見た夢に、権現様が八幡宮に御参詣された。
そして烏帽子の神人が枝に短冊をつけて権現様に差し出して歌を詠んだという。
「盛んなる 都の花を 敬はで 東の松の 世をば継がるる」
この時から三年のうちに関ヶ原の合戦で天下を御手にされた。
また天正十年(1582年)五月二十八日、明智光秀が謀叛の企てをこめて開いた愛宕百韻の十一句と十二句にも当家繁盛の吉兆があるという。
「立ちつづく 松の梢や しげるらん」御子孫繁盛の吉兆
「浪にまがひの 入海の里」江戸繁盛の兆
568人間七七四年
2023/01/17(火) 22:06:13.58ID:an6A5pJj 「武家閑談」から「徳川家康、贔屓について語る」
権現様の御言葉によれば
「侍の贔屓強さといえば、今時のものは偽である。
まことの贔屓というのは佐竹義宣が石田治部(石田三成)を贔屓したようなのをいうのだ。
治部が結城少将(結城秀康)を証人として佐和山に送られる時、佐竹は
「道中で治部を討とうという者がいれば我らが相手となる」
と言って人数を出して待機していたいう」
「駿河土産」には「佐竹義宣は律儀なるもの」としてほぼ同じ話があるが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11433.html
律儀なる佐竹義宣
「律儀」とはちがい「贔屓」だと特定の人物に対してだけ、となって意味が異なる気がする
権現様の御言葉によれば
「侍の贔屓強さといえば、今時のものは偽である。
まことの贔屓というのは佐竹義宣が石田治部(石田三成)を贔屓したようなのをいうのだ。
治部が結城少将(結城秀康)を証人として佐和山に送られる時、佐竹は
「道中で治部を討とうという者がいれば我らが相手となる」
と言って人数を出して待機していたいう」
「駿河土産」には「佐竹義宣は律儀なるもの」としてほぼ同じ話があるが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11433.html
律儀なる佐竹義宣
「律儀」とはちがい「贔屓」だと特定の人物に対してだけ、となって意味が異なる気がする
569人間七七四年
2023/01/18(水) 20:24:02.20ID:/Jl3ViJy 「武家閑談」には、上の贔屓の話の前に秀忠の律儀の話に家康が正信を通じて苦言を呈した話もあった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4879.html
徳川秀忠「内府様の嘘、自分の嘘」
(昔出ていたこの話では「嘘」とされてるが「武家閑談」では「何事を言っても」となっている)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4879.html
徳川秀忠「内府様の嘘、自分の嘘」
(昔出ていたこの話では「嘘」とされてるが「武家閑談」では「何事を言っても」となっている)
570人間七七四年
2023/01/18(水) 20:25:40.76ID:/Jl3ViJy 「武家閑談」から玉虫次郎九郎の物見について
権現様がおっしゃるには
玉虫次郎九郎は空気(うつけ)ではあるが戦場では眼が八つあるほどの働きをする。
天正十三年(1585年)の上田の城攻めの時、酒井左衛門尉(酒井忠次)が物見をした。
次郎九郎の兄の城和泉(城昌茂)が「軽々しい振る舞いだ」とそしったところ、
次郎九郎は「あの上杉謙信ですら物見をなさった。
また謙信や酒井のような大身であれば物見ではなく見分と言うべきだろう。
内藤四郎左衛門(内藤正成)や我らがなすのがまことの物見である。」
と言ったそうだ。申すべき格言である。
権現様がおっしゃるには
玉虫次郎九郎は空気(うつけ)ではあるが戦場では眼が八つあるほどの働きをする。
天正十三年(1585年)の上田の城攻めの時、酒井左衛門尉(酒井忠次)が物見をした。
次郎九郎の兄の城和泉(城昌茂)が「軽々しい振る舞いだ」とそしったところ、
次郎九郎は「あの上杉謙信ですら物見をなさった。
また謙信や酒井のような大身であれば物見ではなく見分と言うべきだろう。
内藤四郎左衛門(内藤正成)や我らがなすのがまことの物見である。」
と言ったそうだ。申すべき格言である。
571人間七七四年
2023/01/21(土) 00:18:13.57ID:pg+Ii9kW 「武家閑談」から「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍とは別)
「赤小豆坂七本槍」は信長記に、「賤ヶ岳の七本槍」は太閤記にある。
「真田七本槍」は何とか記には載っていないが、いつでも語って聞かせようとある老人が言ったので
ある時、三井寺の高観音の舞番へ上り、毛氈を敷き、湖を見ながら老人の話を聞いたのでここに書きつける。
初めの真田陣(上田合戦)は天正十三年(1585年)閏八月のことであった。
二日の合戦で、鳥居元忠の色?の小見孫七が槍を合せた。(「信州上田軍記」によれば戦死)
同二十日丸山(丸子)の城下へ岡部内膳正長盛の一手がよく働き、家人の小鹿又五郎が一番槍、そのほか奥山新六、所藤内、近藤平太、内藤久五郎、勾山久内、笛吹小助がよく働いた。
権現様より岡部内膳ばかりか家人七人にも御感状がくだされた。
その内、所藤内は槍下の高名とされた。
小鹿又五郎は「一番槍を合わせること、千万一身の覚悟、諸事に抜きん出ている」といった御感状であった。
この小鹿又五郎は駿河衆であり、今川範忠の御二男、小鹿強五郎範季?の後胤という。
「赤小豆坂七本槍」は信長記に、「賤ヶ岳の七本槍」は太閤記にある。
「真田七本槍」は何とか記には載っていないが、いつでも語って聞かせようとある老人が言ったので
ある時、三井寺の高観音の舞番へ上り、毛氈を敷き、湖を見ながら老人の話を聞いたのでここに書きつける。
初めの真田陣(上田合戦)は天正十三年(1585年)閏八月のことであった。
二日の合戦で、鳥居元忠の色?の小見孫七が槍を合せた。(「信州上田軍記」によれば戦死)
同二十日丸山(丸子)の城下へ岡部内膳正長盛の一手がよく働き、家人の小鹿又五郎が一番槍、そのほか奥山新六、所藤内、近藤平太、内藤久五郎、勾山久内、笛吹小助がよく働いた。
権現様より岡部内膳ばかりか家人七人にも御感状がくだされた。
その内、所藤内は槍下の高名とされた。
小鹿又五郎は「一番槍を合わせること、千万一身の覚悟、諸事に抜きん出ている」といった御感状であった。
この小鹿又五郎は駿河衆であり、今川範忠の御二男、小鹿強五郎範季?の後胤という。
572人間七七四年
2023/01/22(日) 09:37:27.78ID:5cYmx69V 負け戦の七本槍とか・・・・・
573人間七七四年
2023/01/22(日) 18:27:59.49ID:gdIY12hr 「どうする家康」大森南朋 「海老すくい」で紅白出演狙う? 「あれに賭けている」
https://news.yahoo.co.jp/articles/7f52f893b94ca2e020c1575907d8d39e9e91900f
大森は酒井忠次が得意としていた舞「海老すくい」を初回放送で披露したことについて
「2カ月くらい前から心の準備をして練習した」と説明。その上で「どこまで宴会芸として
成立させられるか…。カットされているところもあるが、賭けている。今年の紅白に
あれで出ようと思っている」と冗談まじりに話した。
たしかに海老すくいの出番多いよなまだ数回だけなのに・・
今のご当主は踊れないみたいなのにイベントで強要されるたりするんだろうか?
酒井忠次の妙技海老すくい
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8634.html
https://news.yahoo.co.jp/articles/7f52f893b94ca2e020c1575907d8d39e9e91900f
大森は酒井忠次が得意としていた舞「海老すくい」を初回放送で披露したことについて
「2カ月くらい前から心の準備をして練習した」と説明。その上で「どこまで宴会芸として
成立させられるか…。カットされているところもあるが、賭けている。今年の紅白に
あれで出ようと思っている」と冗談まじりに話した。
たしかに海老すくいの出番多いよなまだ数回だけなのに・・
今のご当主は踊れないみたいなのにイベントで強要されるたりするんだろうか?
酒井忠次の妙技海老すくい
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8634.html
574人間七七四年
2023/01/22(日) 20:01:05.47ID:WTuh0zul また大河基地外が湧いてんのか
575人間七七四年
2023/01/22(日) 21:45:38.06ID:vbYgp9gn >>571の続き
「武家閑談」から「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍)
また後の真田陣(第二次上田合戦)は慶長五年(1600)年九月六日であった。
台徳院秀忠公が御発向し、真田昌幸をお攻めになられた時、城の北の門は根津長衛門が受け持っていた。
御旗本の浅見藤兵衛が一人で夜に堀の深さを測っていたところ、城中から鉄砲玉が雨のごとく降り注いで撃たれた。
朱の十二引の指物もずたずたになり、浅見は地に伏せた。
そんな所に御味方の小栗治右衛門もつづいてやってくると、城門から真田の甲兵二十余が門を開いて浅見・小栗両人に鉄砲を打ちつけ、鉄砲煙がはれたところで槍を突き立ててきた。
浅見の小者の虎若が刀を抜き槍下をくぐって二人の元に行ったところ、小栗は胸三箇所を撃たれて討ち死にしていた。
浅見も胸を撃たれて地に伏していたのを、虎若は浅見の両足をとって引き出した。
浅見は「兄の小栗を退けよ」と命じたが、虎若は腹を立てて「主人を捨てて他人を退ける者がおりましょうか」と背負って退却した。
虎若から指物について問われた浅見は
「槍合わせの時に落とされたと見えるが、取り戻すわけにもいくまいな」と言うと
虎若は「退却時に落としたのであれば武官の落ち度となりましょうが、槍合わせの時に落としたのであれば問題はないでしょう」と引き下がった。
「武家閑談」から「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍)
また後の真田陣(第二次上田合戦)は慶長五年(1600)年九月六日であった。
台徳院秀忠公が御発向し、真田昌幸をお攻めになられた時、城の北の門は根津長衛門が受け持っていた。
御旗本の浅見藤兵衛が一人で夜に堀の深さを測っていたところ、城中から鉄砲玉が雨のごとく降り注いで撃たれた。
朱の十二引の指物もずたずたになり、浅見は地に伏せた。
そんな所に御味方の小栗治右衛門もつづいてやってくると、城門から真田の甲兵二十余が門を開いて浅見・小栗両人に鉄砲を打ちつけ、鉄砲煙がはれたところで槍を突き立ててきた。
浅見の小者の虎若が刀を抜き槍下をくぐって二人の元に行ったところ、小栗は胸三箇所を撃たれて討ち死にしていた。
浅見も胸を撃たれて地に伏していたのを、虎若は浅見の両足をとって引き出した。
浅見は「兄の小栗を退けよ」と命じたが、虎若は腹を立てて「主人を捨てて他人を退ける者がおりましょうか」と背負って退却した。
虎若から指物について問われた浅見は
「槍合わせの時に落とされたと見えるが、取り戻すわけにもいくまいな」と言うと
虎若は「退却時に落としたのであれば武官の落ち度となりましょうが、槍合わせの時に落としたのであれば問題はないでしょう」と引き下がった。
576人間七七四年
2023/01/22(日) 21:48:58.23ID:vbYgp9gn 城方は手始めに相手方の二人を殺し、負傷させた、ということで真田兵の山本清右衛門と依田兵部がただ二人で追い打ちをかけにきた。
両人が二町ばかり離れた堤の上に立って偵察したところ、台徳公(徳川秀忠)の御旗本の武者、二、三十騎が騎馬の鼻を並べてやってきた。
山本・依田を見た旗本衆は、「今、槍を持ってこっちに来る真田方の斎藤左大夫とその弟子二人だ、逃すな」とかかっていった。
なかでも小野次郎右衛門(小野忠明)、辻太郎助(辻久吉)がひと足先に駆け寄ってきたため、斎藤左大夫は城に逃げ帰った。
小野と辻はそこで堤際へ行き、依田・山本を相手にすることにした。
こうして堤の上と下でそれぞれ槍を突き合わせた。
そこへ朝倉藤十郎(朝倉宣正)、中山助六(中山照守)、戸田半平(戸田光正)、鎮目一左衛門(鎮目惟明)、太田甚四郎、斎藤久右衛門(斎藤信吉)が続いて槍を合わせた。
(太田甚四郎以外の五人と小野・辻が上田七本槍)
こうして依田兵部は朱具足で奮戦したが倒れ伏した。
小野と辻が依田の首を取ろうとしたところ、山本清右衛門が二人を打ち払い、依田を肩に担いで城中に引き返した。
入れ違いに城中から駆け出してきた真田兵三十余人に対し、太田甚四郎は鉄砲を脇より撃ちかけた。
さすがの真田もひるんだところを、中山・朝倉・小野・辻・鎮目・戸田・斎藤が槍を持って追撃しようとしたため、真田はことごとく城に引き返した。
そこで本多正信は城を攻めても寄せ手の被害が生じるだけだと下知した。
(このあとは第二次上田合戦についての記述)
両人が二町ばかり離れた堤の上に立って偵察したところ、台徳公(徳川秀忠)の御旗本の武者、二、三十騎が騎馬の鼻を並べてやってきた。
山本・依田を見た旗本衆は、「今、槍を持ってこっちに来る真田方の斎藤左大夫とその弟子二人だ、逃すな」とかかっていった。
なかでも小野次郎右衛門(小野忠明)、辻太郎助(辻久吉)がひと足先に駆け寄ってきたため、斎藤左大夫は城に逃げ帰った。
小野と辻はそこで堤際へ行き、依田・山本を相手にすることにした。
こうして堤の上と下でそれぞれ槍を突き合わせた。
そこへ朝倉藤十郎(朝倉宣正)、中山助六(中山照守)、戸田半平(戸田光正)、鎮目一左衛門(鎮目惟明)、太田甚四郎、斎藤久右衛門(斎藤信吉)が続いて槍を合わせた。
(太田甚四郎以外の五人と小野・辻が上田七本槍)
こうして依田兵部は朱具足で奮戦したが倒れ伏した。
小野と辻が依田の首を取ろうとしたところ、山本清右衛門が二人を打ち払い、依田を肩に担いで城中に引き返した。
入れ違いに城中から駆け出してきた真田兵三十余人に対し、太田甚四郎は鉄砲を脇より撃ちかけた。
さすがの真田もひるんだところを、中山・朝倉・小野・辻・鎮目・戸田・斎藤が槍を持って追撃しようとしたため、真田はことごとく城に引き返した。
そこで本多正信は城を攻めても寄せ手の被害が生じるだけだと下知した。
(このあとは第二次上田合戦についての記述)
577人間七七四年
2023/01/23(月) 09:23:28.93ID:tVZXFX/4 >>573
>名無しんぼ@お腹いっぱい[] 2010/01/23(土) 21:00:26 ID:Le1hu93a0
>酒井の太鼓は歌舞伎の演目になっているくらい有名な話だが、歴史上の出来事としては「史実」と言いきることができるものではなく、
>「逸話」と呼ぶべきものでしょう。忠次公も踊り自体は知っていたかもしれないが、海老すくいの話も同じように「逸話」と言うべきだと
>思います。とのことでした。
>あ、それから、踊れないそうです(笑
海老すくいは現当主のこの言葉に尽きるな
史実と逸話の違いっていうのも肝に命じますよ
>名無しんぼ@お腹いっぱい[] 2010/01/23(土) 21:00:26 ID:Le1hu93a0
>酒井の太鼓は歌舞伎の演目になっているくらい有名な話だが、歴史上の出来事としては「史実」と言いきることができるものではなく、
>「逸話」と呼ぶべきものでしょう。忠次公も踊り自体は知っていたかもしれないが、海老すくいの話も同じように「逸話」と言うべきだと
>思います。とのことでした。
>あ、それから、踊れないそうです(笑
海老すくいは現当主のこの言葉に尽きるな
史実と逸話の違いっていうのも肝に命じますよ
579人間七七四年
2023/01/23(月) 12:19:46.76ID:OYjTP/Ci 酒井家の御当主を無知呼ばわりとは、最低だな
580人間七七四年
2023/01/23(月) 12:57:39.65ID:bxaU7vVB こんなところに史実厨とは
582人間七七四年
2023/01/23(月) 18:20:57.65ID:XwedlS8z 史実厨だけどここ楽しんでるよ
とはいえ史実厨なもんで書き込むときは史実の可能性がある聞き書きとかだけにしてるけど
えびすくいはどうなんだろな
とはいえ史実厨なもんで書き込むときは史実の可能性がある聞き書きとかだけにしてるけど
えびすくいはどうなんだろな
583人間七七四年
2023/01/23(月) 18:38:48.02ID:XwedlS8z ちょっと検索したらすぐ一次史料がでてきたぞ
ツイッターのパクりサイトだけど
ttps://togetter.com/li/1178178
一、御酒宴之内、御隠居様・家康度ゝ御座敷舞後者、御二方連テ御舞、無終も御乱酒、酒井左衛門尉羽衣舞、海老すくゐ川之舞名仁ニ候之間、幾度も御所望候、賀様之双方御会面、百年已来者無御座候之由、於府内上下万民唱ニ候、以上
天正14年の徳川北条面会を伝える西山本門寺文書の一部
酒井が海老すくいの名人ってのは史実と考えてよかろう
一次史料に明記された珍しいケース
ツイッターのパクりサイトだけど
ttps://togetter.com/li/1178178
一、御酒宴之内、御隠居様・家康度ゝ御座敷舞後者、御二方連テ御舞、無終も御乱酒、酒井左衛門尉羽衣舞、海老すくゐ川之舞名仁ニ候之間、幾度も御所望候、賀様之双方御会面、百年已来者無御座候之由、於府内上下万民唱ニ候、以上
天正14年の徳川北条面会を伝える西山本門寺文書の一部
酒井が海老すくいの名人ってのは史実と考えてよかろう
一次史料に明記された珍しいケース
584人間七七四年
2023/01/23(月) 18:51:17.84ID:XwedlS8z あ、素性が分からないんで日記としたら一次史料ってことね
585人間七七四年
2023/01/24(火) 21:32:04.96ID:bZTeiPzH 午の年(元亀元年)の極月に武田信玄公は、馬場美濃、内藤修理、山縣三郎兵衛、高坂弾正、
小山田兵衛尉、原隼人助、跡部大炊介の七人を召して、弾正にこのように仰せになった。
「信長の使いである織田掃部(忠寛)は、家康の人質(松平康俊)が甲府から逃亡した事について
どのように申していたか。」
高坂承り
「掃部が申すことによると、
『信長がこれを聞けば、家康も届かないことだと考えるでしょうが、定めてこれは家康も知らない事でしょう。
源三郎(松平康俊)が不覚悟であったために、そのような事態になったのだと推量いたします。
ですので、やがて又、定めて別の人質を、家康より武田に進上するでしょうし、そうしなかったとしても、
信長は信玄公に御無沙汰申し上げるような事は少しも有りませんので、以後は信長からも、
舎弟なりとも子息なりとも、進上致されるでしょう。』
このように、いかにも異議無きように、織田掃部は請け合いました。」
信玄公はこれを聞かれ
「信長は去年近江坂本において朝倉義景と対陣し(志賀の陣)、又は当年七月より天下を支配仕るにつき、
我々としては信長家中の者を深く取りなし、弓矢の義を能々問わなければ、弾正に対して本音を申すような
事は無いだろう。隼人、大炊介に対しても申さないだろう。偶々であっても、各々の被官共に語ったような
事はなかったか?」
高坂も隼人、大炊介いずれも「承らず候。総じて信長の使いに限らず、どこからの使者衆も、当方に参って
武者雑談などは終にいたしません。」と申し上げた所、馬場美濃がこのように申した
「尾州犬山の城主であった津田下野守(織田信清)は、信長の姉婿でしたが、信長に負けて追い出され、
諸国を牢々いたし、三年前より東国へ参り、御舎弟の一条右衛門太夫(信龍)殿のはなしの衆に成り、
犬山哲斎と称しております。この人の語った所によると、信長は武辺形義について、父弾正忠(信秀)を
少しも真似ず、舅であった斎藤山城守(道三)の、弓矢形義を仕ると。そしてそそけた(乱れてだらしがない)
ように見えても、実際は殊の外締めた働きをしている、そのように沙汰致しました。」
信玄公は仰せになった
「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることが出来ず、小身故に今川義元の旗下となり駿府に出仕した。
斎藤山城は、殊に我らを頼まれていた土岐(頼芸)殿牢々の後、美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には越前より朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどであり、斎藤の弓矢を
弾正忠と比べると、はるかにその弓矢の位は上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取り入れたのは尤もである。
しかも、山城の孫である龍興を信長は押し散らし、美濃侍を数多抱えたのであるから、父弾正の代には小家中
である故に、侍はどうしても大きな家中の家風を真似るものであり、おのずから信長衆も大体の事は、
斎藤山城のやっていたように致すのだ。それは意図的に真似ようとしなくても、例えば浄土寺へ行けば、
自然と念仏を申したく成る心が湧くのと同じ事である。」
また信玄公は馬場美濃に問われた
「信長の弓矢が締まっているとは、どういった事を根拠に犬山哲斎は申しているのか。」
馬場は
「ある時、犬山勢が油断し、侍を在々へ皆返した時、信長は七千の人数を以て犬山の宿町まで乱入しました。
しかし哲斎方十八人が反撃し彼らを追い出し、その後信長勢を追尾し、上方道を一里あまり追ったものの、
信長勢は返してこれと戦おうとせず、逃げ散ったような形となりました。しかし尾張中は皆信長に降参仕り、
犬山一人で信長に楯突くこともは今後成り難くなったため、終に城を渡し牢人仕りました。
信長の七千の人数が、十八騎に追い出されるということは無いでしょうが、尾張一国が皆信長に
従う上は、犬山も問題なく手に入るものであると判断したため、分別して哲斎をさほど強硬に攻めなかった、
という事から、「締りある」と哲斎は物語ったのです。」
と申した
『甲陽軍鑑』
武田家における信長の軍略についての認識について
小山田兵衛尉、原隼人助、跡部大炊介の七人を召して、弾正にこのように仰せになった。
「信長の使いである織田掃部(忠寛)は、家康の人質(松平康俊)が甲府から逃亡した事について
どのように申していたか。」
高坂承り
「掃部が申すことによると、
『信長がこれを聞けば、家康も届かないことだと考えるでしょうが、定めてこれは家康も知らない事でしょう。
源三郎(松平康俊)が不覚悟であったために、そのような事態になったのだと推量いたします。
ですので、やがて又、定めて別の人質を、家康より武田に進上するでしょうし、そうしなかったとしても、
信長は信玄公に御無沙汰申し上げるような事は少しも有りませんので、以後は信長からも、
舎弟なりとも子息なりとも、進上致されるでしょう。』
このように、いかにも異議無きように、織田掃部は請け合いました。」
信玄公はこれを聞かれ
「信長は去年近江坂本において朝倉義景と対陣し(志賀の陣)、又は当年七月より天下を支配仕るにつき、
我々としては信長家中の者を深く取りなし、弓矢の義を能々問わなければ、弾正に対して本音を申すような
事は無いだろう。隼人、大炊介に対しても申さないだろう。偶々であっても、各々の被官共に語ったような
事はなかったか?」
高坂も隼人、大炊介いずれも「承らず候。総じて信長の使いに限らず、どこからの使者衆も、当方に参って
武者雑談などは終にいたしません。」と申し上げた所、馬場美濃がこのように申した
「尾州犬山の城主であった津田下野守(織田信清)は、信長の姉婿でしたが、信長に負けて追い出され、
諸国を牢々いたし、三年前より東国へ参り、御舎弟の一条右衛門太夫(信龍)殿のはなしの衆に成り、
犬山哲斎と称しております。この人の語った所によると、信長は武辺形義について、父弾正忠(信秀)を
少しも真似ず、舅であった斎藤山城守(道三)の、弓矢形義を仕ると。そしてそそけた(乱れてだらしがない)
ように見えても、実際は殊の外締めた働きをしている、そのように沙汰致しました。」
信玄公は仰せになった
「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることが出来ず、小身故に今川義元の旗下となり駿府に出仕した。
斎藤山城は、殊に我らを頼まれていた土岐(頼芸)殿牢々の後、美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には越前より朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどであり、斎藤の弓矢を
弾正忠と比べると、はるかにその弓矢の位は上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取り入れたのは尤もである。
しかも、山城の孫である龍興を信長は押し散らし、美濃侍を数多抱えたのであるから、父弾正の代には小家中
である故に、侍はどうしても大きな家中の家風を真似るものであり、おのずから信長衆も大体の事は、
斎藤山城のやっていたように致すのだ。それは意図的に真似ようとしなくても、例えば浄土寺へ行けば、
自然と念仏を申したく成る心が湧くのと同じ事である。」
また信玄公は馬場美濃に問われた
「信長の弓矢が締まっているとは、どういった事を根拠に犬山哲斎は申しているのか。」
馬場は
「ある時、犬山勢が油断し、侍を在々へ皆返した時、信長は七千の人数を以て犬山の宿町まで乱入しました。
しかし哲斎方十八人が反撃し彼らを追い出し、その後信長勢を追尾し、上方道を一里あまり追ったものの、
信長勢は返してこれと戦おうとせず、逃げ散ったような形となりました。しかし尾張中は皆信長に降参仕り、
犬山一人で信長に楯突くこともは今後成り難くなったため、終に城を渡し牢人仕りました。
信長の七千の人数が、十八騎に追い出されるということは無いでしょうが、尾張一国が皆信長に
従う上は、犬山も問題なく手に入るものであると判断したため、分別して哲斎をさほど強硬に攻めなかった、
という事から、「締りある」と哲斎は物語ったのです。」
と申した
『甲陽軍鑑』
武田家における信長の軍略についての認識について
586人間七七四年
2023/01/25(水) 00:08:10.64ID:AqQAHLQG 一矢報いたというのが言いたい負け惜しみやんけ
587人間七七四年
2023/01/26(木) 21:57:02.77ID:NCUki9En 高野山過去帳の酒井忠次卒去の記事に記された、北条家との婚姻の場面での◯すくい
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1596/17-3-1/10/0030?m=all&s=0019&n=20
大権現氏政と惣河原にて参集したまひ、酒宴あるのとき、たわふれ(たわむれ)に、蜆(しじみ)すくひ川をまふ(舞う)、氏政悦のあまり、一文字の腰物貞宗をさすく(授く)
しじみだか海老だかはともかく、史実だったと考えてよかろ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1596/17-3-1/10/0030?m=all&s=0019&n=20
大権現氏政と惣河原にて参集したまひ、酒宴あるのとき、たわふれ(たわむれ)に、蜆(しじみ)すくひ川をまふ(舞う)、氏政悦のあまり、一文字の腰物貞宗をさすく(授く)
しじみだか海老だかはともかく、史実だったと考えてよかろ
588人間七七四年
2023/01/28(土) 09:20:00.34ID:v90iFr0W だがそれがいい
https://www.yamagata-np.jp/news/202301/24/img_2023012400647.jpg
https://www.yamagata-np.jp/news/202301/24/kj_2023012400631.php?utm_content=uzou_5&utm_source=uzou
慶次、兼続ら米沢を走る ラッピングバス、きょう24日から運行
山形新聞2023/1/24
米沢で晩年を過ごした戦国武将・前田慶次の漫画キャラクターを描いたラッピングバスの引き渡し式が23日、
市役所前で行われた。24日に運行を開始し、慶次ゆかりの堂森善光寺がある同市万世地区の住民らの生活路線で
運用されるほか、観光誘客にも一役買う。
万世地区を経由し、市役所と米沢スキー場を結ぶ市民バス万世線の新車両となる。車両更新を機に誘客の
起爆剤にしようと、両側面に前田慶次をはじめ、伊達政宗、直江兼続など漫画「花の慶次」に登場する
米沢ゆかりの戦国武将らを描いた。1日17便中10便で使われ、イベントなどにも登場する予定だ。事業費は約270万円で、
このほかに、漫画を管理するコアミックス(東京)への使用料がかかる。
https://www.yamagata-np.jp/news/202301/24/img_2023012400647.jpg
https://www.yamagata-np.jp/news/202301/24/kj_2023012400631.php?utm_content=uzou_5&utm_source=uzou
慶次、兼続ら米沢を走る ラッピングバス、きょう24日から運行
山形新聞2023/1/24
米沢で晩年を過ごした戦国武将・前田慶次の漫画キャラクターを描いたラッピングバスの引き渡し式が23日、
市役所前で行われた。24日に運行を開始し、慶次ゆかりの堂森善光寺がある同市万世地区の住民らの生活路線で
運用されるほか、観光誘客にも一役買う。
万世地区を経由し、市役所と米沢スキー場を結ぶ市民バス万世線の新車両となる。車両更新を機に誘客の
起爆剤にしようと、両側面に前田慶次をはじめ、伊達政宗、直江兼続など漫画「花の慶次」に登場する
米沢ゆかりの戦国武将らを描いた。1日17便中10便で使われ、イベントなどにも登場する予定だ。事業費は約270万円で、
このほかに、漫画を管理するコアミックス(東京)への使用料がかかる。
589人間七七四年
2023/01/28(土) 10:48:46.83ID:NFuXwtQf > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。
590人間七七四年
2023/01/29(日) 16:22:59.59ID:zGUfX6EG 悪いスレで名前にだしたので
「大友興廃記」から「生の松原合戦の事」
筑前国高祖(たかす)から三里離れたところに生(いき)の松原という場所がある。
先年(天正二年、1574年)、原田親種が高祖城で謀反のため誅されたが、原田親秀は高祖城で秋月種実と内通し、大友からの離反を企んだ。
それを知った立花道雪は小野和泉守(小野鎮幸)、由布雪可(由布雪下、由布惟信)を先陣の大将として三千騎余で城下に放火しつつ、高祖城に迫った。
これに対して原田親秀は林慶に六千余騎を率いさせた。
林慶は多勢の力で立花軍を二里半ばかり追い、生の松原に陣取った。
立花道雪は引き返さず、海を背にして陣取った。
原田の軍兵は「こちらは多勢で勢いもあるので今すぐ攻めましょう」と諌めたが
林慶は「今は満潮であり、こちらが攻めると向こうは背水の陣で死に物狂いで戦うであろう。潮がひくのを待つべきだ」と言った。
一方、小野和泉守も立花道雪に対し
「今は満潮でありますが、潮がひいて干潟となれば兵どもにも臆病の心が生じましょう。
こちらは小勢とはいえ、今攻めるべきです。」と諌めた。
立花道雪は「原田勢が攻めてこないのもおそらくそう考えているからであろう。
敵も思慮深い者であるから、しばらく人馬を休めたのちに、こちらから押し寄せよ。」と言った。
そののち小野、由布それぞれ五百騎を率い原田の先陣に撃ちかかり、立花道雪も追撃した。
原田軍は高祖の城下までいったん退却したが、林慶は大剛の者なので、逆に小野和泉守を一、二町追い返した。
そこへ由布が横槍を入れて林慶を取り囲み、ついに小野和泉守の手で林慶を討ち取った。
立花道雪率いる後陣もその勢いに乗り、高祖城の二の丸、三の丸まで攻め込み、焼き立て、勝鬨を上げて帰還した。
この戦で原田勢の手負・死人は千二百余。
それに対し立花勢は手負三十人、死人十人だったという。
潮の干満を兵の剛臆に関連づける分別は、林慶も小野和泉守も同じように持っていた。
しかし立花道雪ほどの人を二里半も追い立てて、そのまま城に引き取っていたならば大勝利と言えただろうに、討たれてしまったとは、林慶の軍配が外れたというべきであろう。
「大友興廃記」から「生の松原合戦の事」
筑前国高祖(たかす)から三里離れたところに生(いき)の松原という場所がある。
先年(天正二年、1574年)、原田親種が高祖城で謀反のため誅されたが、原田親秀は高祖城で秋月種実と内通し、大友からの離反を企んだ。
それを知った立花道雪は小野和泉守(小野鎮幸)、由布雪可(由布雪下、由布惟信)を先陣の大将として三千騎余で城下に放火しつつ、高祖城に迫った。
これに対して原田親秀は林慶に六千余騎を率いさせた。
林慶は多勢の力で立花軍を二里半ばかり追い、生の松原に陣取った。
立花道雪は引き返さず、海を背にして陣取った。
原田の軍兵は「こちらは多勢で勢いもあるので今すぐ攻めましょう」と諌めたが
林慶は「今は満潮であり、こちらが攻めると向こうは背水の陣で死に物狂いで戦うであろう。潮がひくのを待つべきだ」と言った。
一方、小野和泉守も立花道雪に対し
「今は満潮でありますが、潮がひいて干潟となれば兵どもにも臆病の心が生じましょう。
こちらは小勢とはいえ、今攻めるべきです。」と諌めた。
立花道雪は「原田勢が攻めてこないのもおそらくそう考えているからであろう。
敵も思慮深い者であるから、しばらく人馬を休めたのちに、こちらから押し寄せよ。」と言った。
そののち小野、由布それぞれ五百騎を率い原田の先陣に撃ちかかり、立花道雪も追撃した。
原田軍は高祖の城下までいったん退却したが、林慶は大剛の者なので、逆に小野和泉守を一、二町追い返した。
そこへ由布が横槍を入れて林慶を取り囲み、ついに小野和泉守の手で林慶を討ち取った。
立花道雪率いる後陣もその勢いに乗り、高祖城の二の丸、三の丸まで攻め込み、焼き立て、勝鬨を上げて帰還した。
この戦で原田勢の手負・死人は千二百余。
それに対し立花勢は手負三十人、死人十人だったという。
潮の干満を兵の剛臆に関連づける分別は、林慶も小野和泉守も同じように持っていた。
しかし立花道雪ほどの人を二里半も追い立てて、そのまま城に引き取っていたならば大勝利と言えただろうに、討たれてしまったとは、林慶の軍配が外れたというべきであろう。
591人間七七四年
2023/01/29(日) 21:45:31.22ID:ystmpJiH どうする やっぱ最高に面白かったな
氏真がイケメンだし次週の合戦シーンが楽しみ
ヘタレの家康なんか脱糞させちゃえ
氏真がイケメンだし次週の合戦シーンが楽しみ
ヘタレの家康なんか脱糞させちゃえ
592人間七七四年
2023/01/30(月) 11:42:36.68ID:PQJEHz6z 産経新聞2023.01.29
徳川19代、家督継承を報告 親族らに「未来へつなぐ」
https://www.sankei.com/article/20230129-GK2FGRVSJVIFHIV224P75RHLYE/
徳川家康から続く徳川宗家19代目当主として1月1日に家督を継いだ徳川家広氏(57)が29日、東京都港区の増上寺で開かれた「継宗の儀」で、
親族ら関係者に代替わりを報告した。儀式後の記者会見では「責任の重さに身が引き締まる。(先代の)父が守ってきたものを未来につないでいく」と意気込んだ。
儀式は非公開で、徳川や松平の一門など400人以上が参加。家広氏は父で18代目当主の恒孝氏(82)から家督相続の際に引き継ぐ品を受け取ったという。
会見で、放送中のNHK大河ドラマ「どうする家康」について問われ「人間らしく若者らしい家康公になっている。感情移入してもっと理解してもらえればうれしい」と語った。
当主の交代は60年ぶり。
東京都出身の家広氏は政治経済評論家や翻訳家として活動し、徳川記念財団の理事長を務める。2019年の参院選で立憲民主党公認候補として静岡選挙区から出馬し、落選した。
徳川19代、家督継承を報告 親族らに「未来へつなぐ」
https://www.sankei.com/article/20230129-GK2FGRVSJVIFHIV224P75RHLYE/
徳川家康から続く徳川宗家19代目当主として1月1日に家督を継いだ徳川家広氏(57)が29日、東京都港区の増上寺で開かれた「継宗の儀」で、
親族ら関係者に代替わりを報告した。儀式後の記者会見では「責任の重さに身が引き締まる。(先代の)父が守ってきたものを未来につないでいく」と意気込んだ。
儀式は非公開で、徳川や松平の一門など400人以上が参加。家広氏は父で18代目当主の恒孝氏(82)から家督相続の際に引き継ぐ品を受け取ったという。
会見で、放送中のNHK大河ドラマ「どうする家康」について問われ「人間らしく若者らしい家康公になっている。感情移入してもっと理解してもらえればうれしい」と語った。
当主の交代は60年ぶり。
東京都出身の家広氏は政治経済評論家や翻訳家として活動し、徳川記念財団の理事長を務める。2019年の参院選で立憲民主党公認候補として静岡選挙区から出馬し、落選した。
593人間七七四年
2023/01/30(月) 12:16:40.43ID:EzzKntzF 飲尿する家康の心情なんか分かんねえよ!
594人間七七四年
2023/01/30(月) 19:59:21.02ID:r6sM9i9Y >>576の続き
「武家閑談」から第二次上田合戦
本多正信からの下知により攻め手を引き、牧野康成も中の手に向かって下がっていたところ
真田昌幸は信賀(原註:真田幸村)ら八十騎と、物見をおびき寄せに出てきた。
牧野康成とその子、牧野忠成はこれを追いかけた。
真田兵の湯田又右衛門ら十余人がしんがりをして退いた。
牧野康成の兵の雨尾又六、辻茂左衛門、今泉次郎作、福島九太夫らがなおも追いかけた。
この時、二町ばかり先で真田父子と真田兵八十ばかりが手鼓を打って高砂を謡った。
榊原康政はこれを見て「さても悪しき仕方である。こちらを屑(もののかす)とも思っておらぬ」
と馬を引いて手勢二千余で真田の跡を切り取らんと駆け、渡辺重綱は道筋に鉄砲を撃ち込んだ。
真田父子・侍は色めきだち松沢五左衛門に榊原康政軍への備えをさせ次々と城内に退いた。
こうして真田に高砂を途中で切り上げさせて城中に追い払ったところで、再度引き取るようにという下知があった。
榊原康政、牧野康成も引き取り、軍評定があって関ヶ原への進軍が決まった。
こうして森右近大夫(森忠政)、日根野筑後守(日根野吉重)、石川玄蕃頭(石川康長)を真田表に残し、秀忠公は美濃へお急ぎになられた。
木曽へは本多正信隊は和田峠を避け回り道し、榊原康政の一手の二千騎は旗を押し立てて和田峠を越えた。
こうして真田の策は天の与えと伝えられているが、一人も欠けることなくことごとく秀忠公に奉侍した。
「武家閑談」から第二次上田合戦
本多正信からの下知により攻め手を引き、牧野康成も中の手に向かって下がっていたところ
真田昌幸は信賀(原註:真田幸村)ら八十騎と、物見をおびき寄せに出てきた。
牧野康成とその子、牧野忠成はこれを追いかけた。
真田兵の湯田又右衛門ら十余人がしんがりをして退いた。
牧野康成の兵の雨尾又六、辻茂左衛門、今泉次郎作、福島九太夫らがなおも追いかけた。
この時、二町ばかり先で真田父子と真田兵八十ばかりが手鼓を打って高砂を謡った。
榊原康政はこれを見て「さても悪しき仕方である。こちらを屑(もののかす)とも思っておらぬ」
と馬を引いて手勢二千余で真田の跡を切り取らんと駆け、渡辺重綱は道筋に鉄砲を撃ち込んだ。
真田父子・侍は色めきだち松沢五左衛門に榊原康政軍への備えをさせ次々と城内に退いた。
こうして真田に高砂を途中で切り上げさせて城中に追い払ったところで、再度引き取るようにという下知があった。
榊原康政、牧野康成も引き取り、軍評定があって関ヶ原への進軍が決まった。
こうして森右近大夫(森忠政)、日根野筑後守(日根野吉重)、石川玄蕃頭(石川康長)を真田表に残し、秀忠公は美濃へお急ぎになられた。
木曽へは本多正信隊は和田峠を避け回り道し、榊原康政の一手の二千騎は旗を押し立てて和田峠を越えた。
こうして真田の策は天の与えと伝えられているが、一人も欠けることなくことごとく秀忠公に奉侍した。
595人間七七四年
2023/01/30(月) 20:15:34.60ID:r6sM9i9Y というわけで巷間伝えられている第二次上田合戦と比べると地味な感じではある。
秀忠軍が大敗北したとしても書けないだろうけど、徳川方の上田七本槍の活躍も盛られてなさそうだ。
ついでに上田七本槍の中山照守の父親は>>530の中山家範で中山照守も八条流馬術の名手(将軍家指南役?)
小野忠明は小野流一刀流の開祖で秀忠の剣術指南役
秀忠軍が大敗北したとしても書けないだろうけど、徳川方の上田七本槍の活躍も盛られてなさそうだ。
ついでに上田七本槍の中山照守の父親は>>530の中山家範で中山照守も八条流馬術の名手(将軍家指南役?)
小野忠明は小野流一刀流の開祖で秀忠の剣術指南役
596人間七七四年
2023/01/31(火) 01:24:12.63ID:UwY/Td2H 徳川宗家の家督交代に伴う「継宗の儀」185年ぶりの祝儀 19代家広さん「不覚にも涙ぐんだ」 [少考さん★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1675031664/1
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1675031664/1
597人間七七四年
2023/01/31(火) 07:26:26.98ID:l6g6q5OT >>596
そこは脱糞だろ
そこは脱糞だろ
598人間七七四年
2023/02/01(水) 09:36:45.98ID:MGm2S+jR 子供のころは松平元信が松平元康になって徳川家康になるのはなんとなく納得してたが
神子上典膳が小野忠明になるのはなんか釈然としなかった
でもまあ木下藤吉郎が豊臣秀吉になるようなものだと思ったらそうでもなくなった
神子上典膳が小野忠明になるのはなんか釈然としなかった
でもまあ木下藤吉郎が豊臣秀吉になるようなものだと思ったらそうでもなくなった
599人間七七四年
2023/02/01(水) 09:49:28.37ID:D7JT3dPf 小野は朝臣だったのか
これは初耳
これは初耳
600人間七七四年
2023/02/01(水) 10:24:46.15ID:4eyn7Yor 朝臣と遊んだ
601人間七七四年
2023/02/01(水) 10:56:34.56ID:hkI6Xem/ あっそ ん
602人間七七四年
2023/02/01(水) 13:56:05.01ID:P8IYCqWh >>598
家康も秀吉も、なんなら人斬り半次郎でも派手な改名なのに、神子上さんは地味な方に変えてるから違和感あるのかも?
家康も秀吉も、なんなら人斬り半次郎でも派手な改名なのに、神子上さんは地味な方に変えてるから違和感あるのかも?
603人間七七四年
2023/02/01(水) 14:21:51.72ID:vGeYoreI 【速報】 第18代徳川家当主、徳川恒孝さん(82)、引退 19代目は長男の家広さん(57) [886559449]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1675134268/1
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1675134268/1
604人間七七四年
2023/02/01(水) 15:19:50.69ID:hkI6Xem/ なんで通字じゃないの?
嫡流じゃないなら虫けら同然じゃん
嫡流じゃないなら虫けら同然じゃん
605人間七七四年
2023/02/01(水) 18:55:20.52ID:+Gwn3Mrn 「武家閑談」から真田信繁の九度山脱出
真田左衛門佐幸村(真田信繁)は父安房守昌幸といっしょに高野山九度山に配流され、昌幸は慶長の末に死んだ。
左衛門佐は一人九度山に住んでいたが、大坂の陣の初め、秀頼公より大野修理亮治長が承り、大坂城に籠れという御言葉を賜ったため支度した。
紀伊国守の浅野但馬守長晟は橋本峠村近辺の百姓どもに下知し
「世上の噂に、真田左衛門佐が大坂への返事をしたと聞く。油断あるまじき」と触れを出した。
高野山学匠ならびに宗徒にも九度山からの遁人監視を申し付けた。
真田幸村は九度山近辺、橋本峠、橋谷の庄屋から小百姓にいたるまで残らず振舞おうと触れをまわし、九度山に招いた。
数百人の並いる者たちに対しさまざまに饗応し、酒を出し、上戸も下戸も問わず酒を強いること斜めならず、皆酔って臥せて前後不覚となった。
この時、百姓どもが乗ってきた馬に荷をつけ、妻子を乗物に打ち乗せ、上下百余で弓鉄砲を持って押し立て、紀ノ川を渡り、橋本峠、橋谷を通り、木目津を越し、河内に入り、大坂にむかって行った。
道筋の百姓どもは残らず九度山に行って酔い臥していたため、残っていたのは女子供だけであった。
しかも真田は槍や刀を抜き、鉄砲に火縄をさしていたため、とうてい止められるものではなかった。
さて百姓たちは明け方に酔いから醒めたが、見れば宿屋には一人もおらず、雑具まで取り払われ跡形もなかった。
これは出し抜かれたと東西を尋ねたが、昨晩のうちに立ち退いたため追いつくはずもなかった。
橋本峠、橋谷の己の家に帰り、家族に尋ねると
「昨夜の八つ時に真田殿が奥方や子連れで馬に荷をつけ、弓鉄砲を押し立てて河内の方へさして行きました」
と告げたため、百姓どもはみな頭を掻いたがどうにもしようがなかった。
真田左衛門佐幸村(真田信繁)は父安房守昌幸といっしょに高野山九度山に配流され、昌幸は慶長の末に死んだ。
左衛門佐は一人九度山に住んでいたが、大坂の陣の初め、秀頼公より大野修理亮治長が承り、大坂城に籠れという御言葉を賜ったため支度した。
紀伊国守の浅野但馬守長晟は橋本峠村近辺の百姓どもに下知し
「世上の噂に、真田左衛門佐が大坂への返事をしたと聞く。油断あるまじき」と触れを出した。
高野山学匠ならびに宗徒にも九度山からの遁人監視を申し付けた。
真田幸村は九度山近辺、橋本峠、橋谷の庄屋から小百姓にいたるまで残らず振舞おうと触れをまわし、九度山に招いた。
数百人の並いる者たちに対しさまざまに饗応し、酒を出し、上戸も下戸も問わず酒を強いること斜めならず、皆酔って臥せて前後不覚となった。
この時、百姓どもが乗ってきた馬に荷をつけ、妻子を乗物に打ち乗せ、上下百余で弓鉄砲を持って押し立て、紀ノ川を渡り、橋本峠、橋谷を通り、木目津を越し、河内に入り、大坂にむかって行った。
道筋の百姓どもは残らず九度山に行って酔い臥していたため、残っていたのは女子供だけであった。
しかも真田は槍や刀を抜き、鉄砲に火縄をさしていたため、とうてい止められるものではなかった。
さて百姓たちは明け方に酔いから醒めたが、見れば宿屋には一人もおらず、雑具まで取り払われ跡形もなかった。
これは出し抜かれたと東西を尋ねたが、昨晩のうちに立ち退いたため追いつくはずもなかった。
橋本峠、橋谷の己の家に帰り、家族に尋ねると
「昨夜の八つ時に真田殿が奥方や子連れで馬に荷をつけ、弓鉄砲を押し立てて河内の方へさして行きました」
と告げたため、百姓どもはみな頭を掻いたがどうにもしようがなかった。
606人間七七四年
2023/02/02(木) 09:53:48.31ID:x7+VVPmf 薄田兼相が岩見重太郎もなんとかしてほしいところ
607人間七七四年
2023/02/02(木) 12:21:14.77ID:UecNvwyY 真田幸村がサナダムシなのもなんとかして
608人間七七四年
2023/02/02(木) 13:10:41.82ID:rizj1g81 内職の紐がまさか寄生虫に似てたとはなぁ
609人間七七四年
2023/02/02(木) 15:08:51.09ID:sVmltDNx 寄生虫を干して紐にしたのが由来らしい
610人間七七四年
2023/02/02(木) 19:32:25.06ID:y38eWKJL http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-476.html
の元だと思われる
「武家閑談」真田信繁の大坂城入城
真田は大坂に着き、その身のまま大野修理(大野治長)殿のところに行く。
その頃は伝心月沢として薙髪であり、玄関で案内を乞うた。
奏者が出てきて「山伏はどこから来た?」と尋ねてきたので
真田はわざと「大峯辺の山伏であります。御祈祷の巻数を持参いたしましたので御目見を願います」と言った。
奏者は「殿は城におられるのでこちらに通るがいい」と番列の脇に呼び入れられた。
御目見を待つ若侍たちが十人ばかりいて、刀剣の目利きをしていた。
一人が真田に向かい「御僧の刀を見せてくれぬか?」と言ったため
真田は「ただの山伏の犬おどしの刀ですのでなかなかお目にかける必要もありますまいが、お慰みになれば」と取り出した。
するりと抜いて柄を見れば、格好は申すにおよばず、刀の匂いも艶があった。
若侍たちは「さてもさても見事なり」と口々にほめ、「中小身はどうだろう」と銘を見ると「貞宗刀匠正宗」とあり、「中小身も見事だ」と言いあった。
ここで皆々怪しみ、さては只者ではないだろう、と思っているところに大野修理殿が城より帰った。
奏者が「玄関にて御目見なさってください」と待っていたものたちを引き出してきた。
大野は真田の前に手をついて「近日お越しになるとは伺っておりましたが、御足労くださったとは。
いそいで城に戻り秀頼公のお耳に入れましょう。どうぞ舎院にお入りください」と言って城に馳せ戻った。
さて秀頼公より速見甲斐守(速水守久)が使いとして馳せ参じ、黄金二百枚、銀三十貫目を下された。
これを見た玄関の若侍どもはあきれかえった。
真田はおかしがったため、そののちその若侍たちに会っては「刀の目利きは当たっていたようだな」と言うと、皆赤面したという。
の元だと思われる
「武家閑談」真田信繁の大坂城入城
真田は大坂に着き、その身のまま大野修理(大野治長)殿のところに行く。
その頃は伝心月沢として薙髪であり、玄関で案内を乞うた。
奏者が出てきて「山伏はどこから来た?」と尋ねてきたので
真田はわざと「大峯辺の山伏であります。御祈祷の巻数を持参いたしましたので御目見を願います」と言った。
奏者は「殿は城におられるのでこちらに通るがいい」と番列の脇に呼び入れられた。
御目見を待つ若侍たちが十人ばかりいて、刀剣の目利きをしていた。
一人が真田に向かい「御僧の刀を見せてくれぬか?」と言ったため
真田は「ただの山伏の犬おどしの刀ですのでなかなかお目にかける必要もありますまいが、お慰みになれば」と取り出した。
するりと抜いて柄を見れば、格好は申すにおよばず、刀の匂いも艶があった。
若侍たちは「さてもさても見事なり」と口々にほめ、「中小身はどうだろう」と銘を見ると「貞宗刀匠正宗」とあり、「中小身も見事だ」と言いあった。
ここで皆々怪しみ、さては只者ではないだろう、と思っているところに大野修理殿が城より帰った。
奏者が「玄関にて御目見なさってください」と待っていたものたちを引き出してきた。
大野は真田の前に手をついて「近日お越しになるとは伺っておりましたが、御足労くださったとは。
いそいで城に戻り秀頼公のお耳に入れましょう。どうぞ舎院にお入りください」と言って城に馳せ戻った。
さて秀頼公より速見甲斐守(速水守久)が使いとして馳せ参じ、黄金二百枚、銀三十貫目を下された。
これを見た玄関の若侍どもはあきれかえった。
真田はおかしがったため、そののちその若侍たちに会っては「刀の目利きは当たっていたようだな」と言うと、皆赤面したという。
611人間七七四年
2023/02/03(金) 11:53:24.30ID:+VrU+S7l わざわざ正体を隠すとは性格が捻じ曲がった奴だな
そんなクズでも正体を見破り粛々と対応した修理はさすがだ
そんなクズでも正体を見破り粛々と対応した修理はさすがだ
612人間七七四年
2023/02/03(金) 14:34:43.05ID:LD9TP4LV いきなり真田左衛門佐であるといったとこで、顔を知ってる分けない衛士たちが、はいそうですかと通すわけもなく、軽く弄うてやろうとなるのは仕方ないんじゃないかな
話を作った人はそう考えたんだろう
話を作った人はそう考えたんだろう
613人間七七四年
2023/02/03(金) 15:19:43.40ID:D1kKXrEE614人間七七四年
2023/02/03(金) 18:42:25.15ID:G38mHENW 信玄公、人の御使いなされよう
信玄公は第一に、後ろ暗さが無いようにとされた。諸人が後ろ暗くなるのは、御恩を下す際、
上中下の詮索もなく、忠節、忠功の走り廻りも無い人々に所領を下すような事をすれば、
手柄のない人々は必ず軽薄を以て、功を繕って立身する故に、実際に忠節、忠功を成した人を嫉み、
悪口して逆に己の党の者を褒める。そういった者たちの奥意は主君への御為も思わず、
意地を貪って、へつらいまわる心である。故に、後ろ暗くなるのである。
信玄公は忠節、武功の武士には大身、小身によらす、尊卑にもよらず、その身の手柄次第に感状、また
御恩も下された。故に人が贔屓を執り成す事も、少しも叶わなかった。そのため、諸人の後ろ暗い事も
少なくなったのである。
『甲陽軍鑑』
信玄公は第一に、後ろ暗さが無いようにとされた。諸人が後ろ暗くなるのは、御恩を下す際、
上中下の詮索もなく、忠節、忠功の走り廻りも無い人々に所領を下すような事をすれば、
手柄のない人々は必ず軽薄を以て、功を繕って立身する故に、実際に忠節、忠功を成した人を嫉み、
悪口して逆に己の党の者を褒める。そういった者たちの奥意は主君への御為も思わず、
意地を貪って、へつらいまわる心である。故に、後ろ暗くなるのである。
信玄公は忠節、武功の武士には大身、小身によらす、尊卑にもよらず、その身の手柄次第に感状、また
御恩も下された。故に人が贔屓を執り成す事も、少しも叶わなかった。そのため、諸人の後ろ暗い事も
少なくなったのである。
『甲陽軍鑑』
615人間七七四年
2023/02/06(月) 11:38:57.47ID:70s7l+zE616人間七七四年
2023/02/06(月) 14:41:09.96ID:jjDXF4mA 無職か底辺の奴が今ごろ何か言ってら
よっぽど口惜しかったのかねw
よっぽど口惜しかったのかねw
617人間七七四年
2023/02/06(月) 16:55:03.99ID:lx6h6AZ+ と 負け犬が顔真っ赤にして恥の上塗りをするのであった🤭
618人間七七四年
2023/02/06(月) 17:23:04.64ID:RfSryFxq 無職じゃなくて小学生だったのか
619人間七七四年
2023/02/06(月) 17:57:53.16ID:wz8OvnMp まぁ所詮作り話なんだからカッカしなさんな
それはそれとして豊臣からすりゃたっぷり前払い金渡してるんだから立派な身なりで来て欲しかっただろうけど
それはそれとして豊臣からすりゃたっぷり前払い金渡してるんだから立派な身なりで来て欲しかっただろうけど
620人間七七四年
2023/02/06(月) 18:05:11.62ID:IDwx5uuz どうせ刀に金を使ってしまい奇を衒って山伏の格好で現れたんだろ
こういう奴何処にでもいるよな
こういう奴何処にでもいるよな
621人間七七四年
2023/02/06(月) 18:17:10.52ID:wYXGpwx3 「続武家閑談」から「大坂夏御陣前大野主馬駿河に忍び者を遣わすの相談のこと」
大坂夏の陣の前に、大野主馬(大野治房)が駿府に放火しようと、忍びを上﨟衆の床の下に忍び入れさせ、権現様がいらっしゃる時分を伺って、討ってしまおうと申し付けた。
そのとき小幡勘兵衛(小幡景憲)が「そのような手段では成功しないでしょう。
浜松にいらした時分、「女の居住の縁側は降りやすいように低く作れ」とおっしゃったため、どの床も低くなっているそうです。
本当は人が忍びいるのを防ぐためだそうです」と申したため、中止となった。
実は小幡は夏の陣の前に間者として大坂城の籠城に加わっていたという。
大坂夏の陣の前に、大野主馬(大野治房)が駿府に放火しようと、忍びを上﨟衆の床の下に忍び入れさせ、権現様がいらっしゃる時分を伺って、討ってしまおうと申し付けた。
そのとき小幡勘兵衛(小幡景憲)が「そのような手段では成功しないでしょう。
浜松にいらした時分、「女の居住の縁側は降りやすいように低く作れ」とおっしゃったため、どの床も低くなっているそうです。
本当は人が忍びいるのを防ぐためだそうです」と申したため、中止となった。
実は小幡は夏の陣の前に間者として大坂城の籠城に加わっていたという。
622人間七七四年
2023/02/07(火) 12:28:02.50ID:MRURELVk まぁ現実にはちゃんとした格好で入ったはず。てかわざわざ味方をおちょくって何が利益になるかと言えば…
623人間七七四年
2023/02/07(火) 13:37:21.89ID:+64kPC89624人間七七四年
2023/02/07(火) 17:26:15.78ID:YQxXboj/ いや信繁の話なんですが
625人間七七四年
2023/02/07(火) 19:41:00.85ID:KiNG3wst 機能性文盲怖い
627人間七七四年
2023/02/08(水) 09:48:06.39ID:l2+NMJgp 最初は放火だったのが次に殺すになってて笑った
628人間七七四年
2023/02/08(水) 10:50:08.33ID:bCajFm19 火事を起こして混乱してる最中に殺す計画だったんでしょ
そんなことも分からないから人生経験の乏しい無職って言われるんだろうね
そんなことも分からないから人生経験の乏しい無職って言われるんだろうね
629人間七七四年
2023/02/08(水) 10:53:40.64ID:l2+NMJgp 期待通りのレスがきて笑うわ
そんなとこはわざわざ文字にしなくてもおわかりですよね?って話なのに
そんなとこはわざわざ文字にしなくてもおわかりですよね?って話なのに
630人間七七四年
2023/02/08(水) 11:00:22.64ID:ZzXhpsma 無職が期待通りの反応をしてくれて笑った
わざわざレスしてくれなくても知ってるのに
わざわざレスしてくれなくても知ってるのに
631人間七七四年
2023/02/08(水) 17:37:13.78ID:SARpYva+ 古田織部ついでに
「続武家閑談」より「古田織部正の切腹のこと」
古田織部正が大坂へ返り忠をなしたが、「(家康の意向で?)切腹の義は暫し引き延ばすように」という内容の糊付けにした書状が板倉伊賀守勝重に遣わされた。
伊賀守は書状を読み、「このような急を要することは常々の書状とは違い、糊付けするに及ばない」と申したそうだ。
(大坂城落城後の)六月十一日、織部正は切腹となり、鳥井土佐守(鳥居成次?)と内藤右衛門が検使としてやってきたという。
「続武家閑談」より「古田織部正の切腹のこと」
古田織部正が大坂へ返り忠をなしたが、「(家康の意向で?)切腹の義は暫し引き延ばすように」という内容の糊付けにした書状が板倉伊賀守勝重に遣わされた。
伊賀守は書状を読み、「このような急を要することは常々の書状とは違い、糊付けするに及ばない」と申したそうだ。
(大坂城落城後の)六月十一日、織部正は切腹となり、鳥井土佐守(鳥居成次?)と内藤右衛門が検使としてやってきたという。
632人間七七四年
2023/02/09(木) 16:51:29.47ID:793QnLC8 スレに張り付いてオウム返しの脊髄反射は草生える
633人間七七四年
2023/02/09(木) 19:21:30.30ID:7bZBp8YZ 「続武家閑談」より「家康公堺より岡崎へ入還の事ならびに御当家伊賀衆の事」
天正十年(1582年)春、葛原親王二十八代の末裔、伊賀の国の士、柘植三之丞(柘植清広)が浜松にきて伊賀の士が家康公に属したいむね言上した。
伊賀はいったんは信長に従い本領安堵を得たが、そののち背いたため、その年信長により城郭を屠られ追い払われ、あるいは山林に逃れ、あるいは先祖伝来の地を失っていた。
この年信長は甲州征伐し凱旋したので、権現様は慶祝のため安土城にいたった。
信長は御奔走し、徳川家の歴々衆の永井直勝などにも別席で饗膳を出し、信長自ら箸で肴を配膳された。
家康公は御上京なさり、堺の津を遊覧されたところに、京本能寺で信長生害の知らせが届いた。
このため堺をお立ちになり、御家人の諫言に従い、長谷川竹丸(長谷川秀一)を案内人として伊賀・伊勢を経て岡崎へ御帰還ということになり、宇治川にいたった。
瀬を渡るに際し、酒井忠次が小船一艘を求め得て権現様を乗らせ奉った。
船人が運賃を乞うたため、御腰の笄を下賜した。
御家人たちは酒井忠次はじめみな馬で宇治川を渡った。
御船が岸に着くと鷹匠の神谷小作が船人から笄を取り戻したため、権現様から神谷に笄が下された。
山岡景隆(明智軍を妨害するために瀬田橋を落とした)の弟・山岡景佐は瀬田からこの地に来て道案内をした。
宇治田原の者どもが蜂起しているため、この地にある呉服(くれはとり)大明神の社に入れば別当の服部貞信が案内するだろうと御判断された。
この別当が家人を連れて山中を道案内すると、野武士らはみな別当と親しかったため、ことごとく服した。
天正十年(1582年)春、葛原親王二十八代の末裔、伊賀の国の士、柘植三之丞(柘植清広)が浜松にきて伊賀の士が家康公に属したいむね言上した。
伊賀はいったんは信長に従い本領安堵を得たが、そののち背いたため、その年信長により城郭を屠られ追い払われ、あるいは山林に逃れ、あるいは先祖伝来の地を失っていた。
この年信長は甲州征伐し凱旋したので、権現様は慶祝のため安土城にいたった。
信長は御奔走し、徳川家の歴々衆の永井直勝などにも別席で饗膳を出し、信長自ら箸で肴を配膳された。
家康公は御上京なさり、堺の津を遊覧されたところに、京本能寺で信長生害の知らせが届いた。
このため堺をお立ちになり、御家人の諫言に従い、長谷川竹丸(長谷川秀一)を案内人として伊賀・伊勢を経て岡崎へ御帰還ということになり、宇治川にいたった。
瀬を渡るに際し、酒井忠次が小船一艘を求め得て権現様を乗らせ奉った。
船人が運賃を乞うたため、御腰の笄を下賜した。
御家人たちは酒井忠次はじめみな馬で宇治川を渡った。
御船が岸に着くと鷹匠の神谷小作が船人から笄を取り戻したため、権現様から神谷に笄が下された。
山岡景隆(明智軍を妨害するために瀬田橋を落とした)の弟・山岡景佐は瀬田からこの地に来て道案内をした。
宇治田原の者どもが蜂起しているため、この地にある呉服(くれはとり)大明神の社に入れば別当の服部貞信が案内するだろうと御判断された。
この別当が家人を連れて山中を道案内すると、野武士らはみな別当と親しかったため、ことごとく服した。
634人間七七四年
2023/02/09(木) 19:24:15.75ID:7bZBp8YZ 服部貞信は江州信楽まで案内した。
この地は代々多羅尾が治める地なので多羅尾光俊と旧交のある長谷川竹が権現様の御難儀について光俊に告げ、光俊はすぐに自分の屋敷に入れ奉った。
権現様は服部貞信の忠義をお感じになり、当座の御褒美として来国次の御刀を下賜された。
のちに服部貞信は浜松に参り百六十石取りの御家人となった。現在、服部久右衛門・服部采女がこの御腰物を伝来していると聞く。
権現様は多羅尾の宿に御一泊され、多羅尾の案内で伊賀の柘植にいらっしゃった。
この地の柘植清広(前述)の一族は信長に攻め滅ぼされたために民間に潜んでいたのであった。
柘植らは人質を出し、途中の一揆勢を追い払い、お供仕って鹿伏兎(かぶと、加太)まで権現様を送った。
これにより権現様は柘植たちを御感あさからずお思いになった。
ただほかの二百人の伊賀浪人は中途までだったため、御家人とはならなかった。
多羅尾父子は伊勢の関まで送り奉ったため、多羅尾の本領も安堵して御家人とした。
同国白子まで到着なさると、角倉七郎次郎(角屋秀持)というものが自分の船を貸し奉ったため、そののち今に至るまで子孫繁盛している。
伊賀の柘植・百地などはここで御暇を賜った。
三河の大浜に権現様が到着されると長田重元が迎え奉って君臣ともに饗応した。長田重元は永井直勝の父である。
こうして権現様の御体もつつがないということで万歳を称し、同年明智退治のために尾張へ御進軍したところ伊賀の諸士はことごとく参陣し御家人となった。
ただ柘植・百地をはじめとした鹿伏兎までお供をした者はみな御直参として御馬廻りとなったが、中途までで帰った二百人は徒歩・同心の格として召し抱えられた。
この二百人が今の伊賀衆の先祖である。
この地は代々多羅尾が治める地なので多羅尾光俊と旧交のある長谷川竹が権現様の御難儀について光俊に告げ、光俊はすぐに自分の屋敷に入れ奉った。
権現様は服部貞信の忠義をお感じになり、当座の御褒美として来国次の御刀を下賜された。
のちに服部貞信は浜松に参り百六十石取りの御家人となった。現在、服部久右衛門・服部采女がこの御腰物を伝来していると聞く。
権現様は多羅尾の宿に御一泊され、多羅尾の案内で伊賀の柘植にいらっしゃった。
この地の柘植清広(前述)の一族は信長に攻め滅ぼされたために民間に潜んでいたのであった。
柘植らは人質を出し、途中の一揆勢を追い払い、お供仕って鹿伏兎(かぶと、加太)まで権現様を送った。
これにより権現様は柘植たちを御感あさからずお思いになった。
ただほかの二百人の伊賀浪人は中途までだったため、御家人とはならなかった。
多羅尾父子は伊勢の関まで送り奉ったため、多羅尾の本領も安堵して御家人とした。
同国白子まで到着なさると、角倉七郎次郎(角屋秀持)というものが自分の船を貸し奉ったため、そののち今に至るまで子孫繁盛している。
伊賀の柘植・百地などはここで御暇を賜った。
三河の大浜に権現様が到着されると長田重元が迎え奉って君臣ともに饗応した。長田重元は永井直勝の父である。
こうして権現様の御体もつつがないということで万歳を称し、同年明智退治のために尾張へ御進軍したところ伊賀の諸士はことごとく参陣し御家人となった。
ただ柘植・百地をはじめとした鹿伏兎までお供をした者はみな御直参として御馬廻りとなったが、中途までで帰った二百人は徒歩・同心の格として召し抱えられた。
この二百人が今の伊賀衆の先祖である。
635人間七七四年
2023/02/09(木) 22:01:24.25ID:zSQP2NxC 小学生だから現代文の成績が悪いのは当然だね
まあ単に頭悪いだけな気もするがw
まあ単に頭悪いだけな気もするがw
636人間七七四年
2023/02/10(金) 10:46:03.47ID:GWEK21bA >>585
徳川家康の異母弟・松平康俊(勝俊)は、今川氏への人質に出されたり、その次は武田氏の元に、さらにそこを脱出してと
波乱の人生を過ごしたひとでしたが、早くに亡くなりました。
娘が一人しかいなかったので水野家から従兄弟にあたる松平勝政が婿養子となって入り、子孫は交代寄合の大身旗本として続き、
江戸中期の加増で多古藩(千葉県香取郡多古町)の大名となっています。
歴史のさと多古を歩く
https://www.town.tako.chiba.jp/docs/2018013100486/file_contents/11_TakoKanko_A4_p2229m.pdf
さて、康俊の娘(もしくは勝政)は伝承では天正14年(1586)伯父の家康から雨乞いの神通力がある龍頭「?蛇頭(りょうじゃとう)」を授かり、
代々の家宝として伝え、現在はご子孫から多古町に寄贈されています。
その?蛇頭はリンク先の町誌に写真があるんですが、どう見てもミイラ化したワニ頭骨。ヨウスコウワニ?
唐の頭も含めて、家康は早い時期から舶来品好きですよね。
徳川家康の異母弟・松平康俊(勝俊)は、今川氏への人質に出されたり、その次は武田氏の元に、さらにそこを脱出してと
波乱の人生を過ごしたひとでしたが、早くに亡くなりました。
娘が一人しかいなかったので水野家から従兄弟にあたる松平勝政が婿養子となって入り、子孫は交代寄合の大身旗本として続き、
江戸中期の加増で多古藩(千葉県香取郡多古町)の大名となっています。
歴史のさと多古を歩く
https://www.town.tako.chiba.jp/docs/2018013100486/file_contents/11_TakoKanko_A4_p2229m.pdf
さて、康俊の娘(もしくは勝政)は伝承では天正14年(1586)伯父の家康から雨乞いの神通力がある龍頭「?蛇頭(りょうじゃとう)」を授かり、
代々の家宝として伝え、現在はご子孫から多古町に寄贈されています。
その?蛇頭はリンク先の町誌に写真があるんですが、どう見てもミイラ化したワニ頭骨。ヨウスコウワニ?
唐の頭も含めて、家康は早い時期から舶来品好きですよね。
637人間七七四年
2023/02/10(金) 11:13:58.34ID:DRzxnt9X そら熱田で南蛮と貿易してる信長サンだもの
家奴もアンテナ高いっしょ♪
家奴もアンテナ高いっしょ♪
638人間七七四年
2023/02/10(金) 15:03:07.54ID:GWEK21bA 久松家家宝・?蛇頭(りょうじゃとう)
https://adeac.jp/tako-town/texthtml/d100010/mp000010-100010/images/1-kuchie007-2.jpg
天正十四年(一五八六)康俊の女に家康から?蛇頭(りょうじゃとう)(口絵参照)を賜っている。松平家では代々これを伝え、現在は
同家から多古町に寄贈され町役場で保管している。それにまつわる伝承が口述書として付けられており、それによれば、「この竜頭は
その昔京都御所に夜な夜な怪物が出現し、そのため御所内で病魔が絶えなかった。それで当家(久松)の先祖がこれを弓で射落とした。
その為に病魔が絶えたとの由、それを記念し久松家に下し賜ったものである。また明治の初期に旱魃(かんばつ)が続き、農民が
困っている時に、この竜頭にお供えをし酒をかけてやり雨乞いをしたら大雨が降り農民に大いに喜ばれたとの由」(昭和五十三年十月六日書)とある。
https://adeac.jp/tako-town/text-list/d100010/ht000720
こちらは多古町史の該当部分
https://adeac.jp/tako-town/texthtml/d100010/mp000010-100010/images/1-kuchie007-2.jpg
天正十四年(一五八六)康俊の女に家康から?蛇頭(りょうじゃとう)(口絵参照)を賜っている。松平家では代々これを伝え、現在は
同家から多古町に寄贈され町役場で保管している。それにまつわる伝承が口述書として付けられており、それによれば、「この竜頭は
その昔京都御所に夜な夜な怪物が出現し、そのため御所内で病魔が絶えなかった。それで当家(久松)の先祖がこれを弓で射落とした。
その為に病魔が絶えたとの由、それを記念し久松家に下し賜ったものである。また明治の初期に旱魃(かんばつ)が続き、農民が
困っている時に、この竜頭にお供えをし酒をかけてやり雨乞いをしたら大雨が降り農民に大いに喜ばれたとの由」(昭和五十三年十月六日書)とある。
https://adeac.jp/tako-town/text-list/d100010/ht000720
こちらは多古町史の該当部分
639人間七七四年
2023/02/10(金) 18:32:27.56ID:9CUTqSK9 >>634の続き
「続武家閑談」より「伊賀の諸士軍功の事」
伊賀の歴々侍の中にも以前から伊賀を出て今川や権現様に仕えていた者がいた。
服部半蔵正成は度々の武功があり鬼半蔵と呼ばれ、同市郎右衛門(服部保英、正成の長兄の息子)は姉川にて奮戦し、同源兵衛(服部保正、正成の兄)は三方ヶ原で討ち死に、同中保正(服部中こと服部保正、源兵衛とは別人)は度々の勲功があり恩録が厚かった。
右の二百人の伊賀者は服部半蔵組となった。
服部半蔵は俗姓の家柄であるとはいえ今川義元の頃から夜討ち朝駆けの働きで高名を得、御家人の中でも武勇を知られていた。
そのため伊賀者の頭となってからは二百人の伊賀者は自然に家来のようになってしまった。
伊賀者は無念ながらも命に従い、その年(1582年)伊豆韮山の押さえとして天神殿という掻き揚げ城に籠った。
九月八日、敵が大勢籠っている伊豆の佐野小屋という砦の偵察を松平周防守康親に命じられ、伊賀士二人が忍び入り砦を監視するための「忍びかま」という越道をつくりことごとく内情を探った。
同十五日に命に従い伊賀の者どもは夜更けに砦を乗っ取った。
こうして信玄・勝頼親子二代が陥せなかった北条の砦を陥とし伊賀衆は高名を得た。
同年、甲斐のえくさ(江草、獅子吼城)という砦を伊賀衆は攻め取り、翌年未年(1583年)には服部中は岩城殿(岩殿城)、服部半蔵は谷村城を伊賀衆二百人を従えて八月から十二月まで守った。
「伊賀者由緒書」を参考にしているようだ
「続武家閑談」より「伊賀の諸士軍功の事」
伊賀の歴々侍の中にも以前から伊賀を出て今川や権現様に仕えていた者がいた。
服部半蔵正成は度々の武功があり鬼半蔵と呼ばれ、同市郎右衛門(服部保英、正成の長兄の息子)は姉川にて奮戦し、同源兵衛(服部保正、正成の兄)は三方ヶ原で討ち死に、同中保正(服部中こと服部保正、源兵衛とは別人)は度々の勲功があり恩録が厚かった。
右の二百人の伊賀者は服部半蔵組となった。
服部半蔵は俗姓の家柄であるとはいえ今川義元の頃から夜討ち朝駆けの働きで高名を得、御家人の中でも武勇を知られていた。
そのため伊賀者の頭となってからは二百人の伊賀者は自然に家来のようになってしまった。
伊賀者は無念ながらも命に従い、その年(1582年)伊豆韮山の押さえとして天神殿という掻き揚げ城に籠った。
九月八日、敵が大勢籠っている伊豆の佐野小屋という砦の偵察を松平周防守康親に命じられ、伊賀士二人が忍び入り砦を監視するための「忍びかま」という越道をつくりことごとく内情を探った。
同十五日に命に従い伊賀の者どもは夜更けに砦を乗っ取った。
こうして信玄・勝頼親子二代が陥せなかった北条の砦を陥とし伊賀衆は高名を得た。
同年、甲斐のえくさ(江草、獅子吼城)という砦を伊賀衆は攻め取り、翌年未年(1583年)には服部中は岩城殿(岩殿城)、服部半蔵は谷村城を伊賀衆二百人を従えて八月から十二月まで守った。
「伊賀者由緒書」を参考にしているようだ
640人間七七四年
2023/02/11(土) 10:36:28.10ID:V7PRnp0X >>636
ああ、異母弟じゃないや、久松は異父弟ですねw
ああ、異母弟じゃないや、久松は異父弟ですねw
641人間七七四年
2023/02/11(土) 11:59:15.16ID:Jx7Icl4Q ある時武田信玄公はこのように言われた
「世の中の人は色々である。既に分別が有っても才覚のない人が有り、才覚が有っても慈悲のない人が居る。
慈悲が有っても人を見知らぬ者もある。
人を見知らぬ者は大身の場合、彼をとりまいている者共はその十人の内八人ほどに、役に立たない者が多い。
小身の場合、彼が親しく付き合う朋輩の、悪しき友人に近づく。
このように、人は色々様々に変わって見えるが、要はただ、分別の至らぬ心のゆえである。
分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、人を知るにも功を成すにも、何事につけても能く
行うものだ。そのように、人間は「分別」の二文字を諸色の元であると認識し、朝に志し、夕べに思うほどに
分別をよくせよ。」
そのように信玄公は仰っしゃられたのである。
『甲陽軍鑑』
「世の中の人は色々である。既に分別が有っても才覚のない人が有り、才覚が有っても慈悲のない人が居る。
慈悲が有っても人を見知らぬ者もある。
人を見知らぬ者は大身の場合、彼をとりまいている者共はその十人の内八人ほどに、役に立たない者が多い。
小身の場合、彼が親しく付き合う朋輩の、悪しき友人に近づく。
このように、人は色々様々に変わって見えるが、要はただ、分別の至らぬ心のゆえである。
分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、人を知るにも功を成すにも、何事につけても能く
行うものだ。そのように、人間は「分別」の二文字を諸色の元であると認識し、朝に志し、夕べに思うほどに
分別をよくせよ。」
そのように信玄公は仰っしゃられたのである。
『甲陽軍鑑』
642人間七七四年
2023/02/11(土) 12:21:33.73ID:x/H7JQan 甲陽軍鑑の武田褒めは空々しくて寒々しい
643人間七七四年
2023/02/11(土) 12:32:37.58ID:lk3JOlum 「朝野雑載」から島左近の息子たち
島左近の嫡子新吉(島信勝)は関ヶ原で討ち死にした。
次男三男は戦を逃れ、妻子眷属五、六人ほどを山里に引き連れて隠れていた。
十年ほど兄弟で母を養っていたがとうとう家の煙も絶えそうになった。
そこで兄弟は密談し、弟を島左近の息子として縄をかけて駿府に参った。
これは恩賞を得て兄が母を養おうとする計略であった。
こうして弟は牢に入り、兄は褒美を得た。
しかし兄は弟と離れるのが悲しかったのか、そのまま駿府にとどまり夜な夜な弟の牢の様子を見に行った。
とうとう牢の番人に見咎められ、逃れないと思った兄は
「実は私も島左近の息子です。母を養うためこのようにはからいました。
どうか私たち兄弟が死罪にあったのちは、母に憐れみをたれてください」と申した。
家康公は兄弟の孝行心に感心し、母も駿河に召し寄せ、母子三人に長く御扶助を与えなさったという。
島左近の嫡子新吉(島信勝)は関ヶ原で討ち死にした。
次男三男は戦を逃れ、妻子眷属五、六人ほどを山里に引き連れて隠れていた。
十年ほど兄弟で母を養っていたがとうとう家の煙も絶えそうになった。
そこで兄弟は密談し、弟を島左近の息子として縄をかけて駿府に参った。
これは恩賞を得て兄が母を養おうとする計略であった。
こうして弟は牢に入り、兄は褒美を得た。
しかし兄は弟と離れるのが悲しかったのか、そのまま駿府にとどまり夜な夜な弟の牢の様子を見に行った。
とうとう牢の番人に見咎められ、逃れないと思った兄は
「実は私も島左近の息子です。母を養うためこのようにはからいました。
どうか私たち兄弟が死罪にあったのちは、母に憐れみをたれてください」と申した。
家康公は兄弟の孝行心に感心し、母も駿河に召し寄せ、母子三人に長く御扶助を与えなさったという。
644人間七七四年
2023/02/11(土) 13:40:34.46ID:zixhe24u 兄より優れた弟はいない
645人間七七四年
2023/02/11(土) 21:08:55.35ID:2iPvre8q646人間七七四年
2023/02/12(日) 18:48:58.34ID:8AdD7kWK 「続武家閑談」から「榊原小平太と平岩平右衛門喧嘩の事」
平岩主計頭親吉の弟の平右衛門が榊原小平太康政と喧嘩し、平右衛門が負傷したところで皆で引き離した。
その時、平岩親吉は御家人の宿老で榊原康政は小身で若年であった。
親吉が申されるには「小平太はその身の才智勇において匹敵するものがなく、上の御用にきっと立つべき人材である。
一方でわが弟はさほどの者ではなく、御用に立つようにも思われない、弟を逼塞させよう」と追い込んだ。
はたして榊原康政は天下の三傑と称せられ古今の英将となった。
平岩親吉の心根に智勇がなかったならば、諸人のあざけりを恥じて康政を罰したであろう。
「東国三十三ヶ国の間、徳川上杉武田の家中にも十人もいないであろう強勇の将である」
と聞く人はみな涙を流し、親吉を嘲る者は一人もいなかった。
「名将言行録」にも同じような話があるようで
親吉の弟の平右衛門は平岩康長のことらしい
平岩主計頭親吉の弟の平右衛門が榊原小平太康政と喧嘩し、平右衛門が負傷したところで皆で引き離した。
その時、平岩親吉は御家人の宿老で榊原康政は小身で若年であった。
親吉が申されるには「小平太はその身の才智勇において匹敵するものがなく、上の御用にきっと立つべき人材である。
一方でわが弟はさほどの者ではなく、御用に立つようにも思われない、弟を逼塞させよう」と追い込んだ。
はたして榊原康政は天下の三傑と称せられ古今の英将となった。
平岩親吉の心根に智勇がなかったならば、諸人のあざけりを恥じて康政を罰したであろう。
「東国三十三ヶ国の間、徳川上杉武田の家中にも十人もいないであろう強勇の将である」
と聞く人はみな涙を流し、親吉を嘲る者は一人もいなかった。
「名将言行録」にも同じような話があるようで
親吉の弟の平右衛門は平岩康長のことらしい
647人間七七四年
2023/02/12(日) 20:06:18.79ID:DoJh3FWu 途中まで順風満帆だったが主君の改易に巻き込まれて一度破滅した久勝みたいな生き方は嫌いじゃない
648人間七七四年
2023/02/12(日) 20:34:35.32ID:7lnbcluG お前の感想なんかどうでもいいから
649人間七七四年
2023/02/12(日) 22:51:51.07ID:/PJailbK せやろか?
650人間七七四年
2023/02/14(火) 09:18:02.88ID:vRFDUa9W >>641
よくわからないんだが分別ちゃんとある人は才覚においてもよく行うという結論なのに冒頭に分別あっても才覚のない人を挙げるのはどういうわけなんだろう
よくわからないんだが分別ちゃんとある人は才覚においてもよく行うという結論なのに冒頭に分別あっても才覚のない人を挙げるのはどういうわけなんだろう
651人間七七四年
2023/02/14(火) 09:40:07.54ID:f0v8HfSC また現代文の成績が悪かったアホがいるのか
これって中卒でも分かるんじゃないのか?
これって中卒でも分かるんじゃないのか?
652人間七七四年
2023/02/14(火) 09:56:52.71ID:vRFDUa9W じゃあ答えを教えてください
653人間七七四年
2023/02/14(火) 10:39:23.95ID:f/hNEtrI 人に教えを乞う前に調べろよバカ
いっその事小学校からやり直せ
いっその事小学校からやり直せ
654人間七七四年
2023/02/14(火) 10:45:44.65ID:vRFDUa9W 結局わかってなくて草
655人間七七四年
2023/02/14(火) 11:04:20.08ID:sKk5amfd https://dl.ndl.go.jp/pid/2563278/1/60
「甲陽軍鑑」巻四十から原文書き出した
なおこの直前に信玄は分別と才覚は別という話も言ってる
或時信玄公
世中の人々色々有。
既に分別有て才覚なき人有。
才覚有て遠慮なき人有。
遠慮有て慈悲のなき人に有。
慈悲有て人を見しらぬ人有。
人を見しらぬ者は大身は崇敬する者共十人の内八人役にたたぬ者多。
小身は其入魂する傍輩のあしきつれに近付也。
如此色々様々替てみゆれ共それは只分別のいたらぬ心也。
分別さへ能々すくれて有人は才覚にも遠慮にも人をしるにも切をなすにも何事に付てもよからん。
さる程に人間は分別の二字諸色の本と存知朝に心さし夕へにおもふても分別を能せよと
信玄公宣也
「甲陽軍鑑」巻四十から原文書き出した
なおこの直前に信玄は分別と才覚は別という話も言ってる
或時信玄公
世中の人々色々有。
既に分別有て才覚なき人有。
才覚有て遠慮なき人有。
遠慮有て慈悲のなき人に有。
慈悲有て人を見しらぬ人有。
人を見しらぬ者は大身は崇敬する者共十人の内八人役にたたぬ者多。
小身は其入魂する傍輩のあしきつれに近付也。
如此色々様々替てみゆれ共それは只分別のいたらぬ心也。
分別さへ能々すくれて有人は才覚にも遠慮にも人をしるにも切をなすにも何事に付てもよからん。
さる程に人間は分別の二字諸色の本と存知朝に心さし夕へにおもふても分別を能せよと
信玄公宣也
656人間七七四年
2023/02/14(火) 11:13:00.06ID:vRFDUa9W そういうことならわかります
657人間七七四年
2023/02/14(火) 11:19:30.93ID:f/hNEtrI 結局わかってなくて草
658人間七七四年
2023/02/14(火) 11:37:12.52ID:ATiw+wnZ 口語訳 わかりません
原 文 わかります
やっぱり現代文の成績が悪かったんだなw
原 文 わかります
やっぱり現代文の成績が悪かったんだなw
659人間七七四年
2023/02/14(火) 11:41:17.35ID:vRFDUa9W 前に現代文の成績悪かった方ですか?と嘲られてから取り入れててえらい
660人間七七四年
2023/02/14(火) 11:45:59.48ID:ATiw+wnZ おっ朝から結局わからなかったバカまだいたんだw
661人間七七四年
2023/02/14(火) 11:47:29.40ID:ATiw+wnZ >>659
それお前だろ、鏡見たことあんのか?
それお前だろ、鏡見たことあんのか?
662人間七七四年
2023/02/14(火) 13:06:51.87ID:x8m+BH9t こんなところでマウント
663人間七七四年
2023/02/14(火) 13:37:36.17ID:3dIo1dMb 恒例行事
664人間七七四年
2023/02/14(火) 14:09:57.39ID:vRFDUa9W オウム返しニキがハッスルしてて笑う
665人間七七四年
2023/02/14(火) 14:13:40.07ID:/JwyCt26 意味が分からないバカが朝から顔真っ赤で草生えるね
667人間七七四年
2023/02/14(火) 17:50:04.60ID:ZBd4SaRa 結局わかってなくて草
668人間七七四年
2023/02/14(火) 20:42:38.59ID:UZkk1VwY ある時、馬場美濃守(信春)がこのように申した。
「武田信玄公の人を召し使い方は、何とも私の分別に及ばない。どういう事かと言えば、
例えば職(裁判官)を用いての公事(裁判)沙汰などの裁きようは、物を読み物を知って、いかにも慈悲
やわらかなる人の技であると思えるのだが、或る年には原美濃守(虎胤)という大剛強のあら(荒)人に
職を仰せ付けられた。こういった事が不思議だと申したのは私ばかりではなく、各々が取り沙汰したのだが、
結果としてこの原美濃守の抜擢は、なんとも良き仕置であった。
そうではあったが、この原美濃守が公事にかかりきりになると、諸々の境目(国境)における武士道の御用が
困難になるとして奉行を上げられたが、その後しばらく、二,三ヵ月も後任の職が定まらなかった事、
また原美濃守殿ほど公事に理屈、批判を用いる裁判官は無いと言われたことは、信玄公の御工夫が
浅くなかったからこそである。
そのようであったからこそ、信玄公が何処へ御馬を向けられ、しかも敵国深くでの働きが有る時も、
諸々の武士、大小共に侍衆の事は申すに及ばず、誠に雑人まで「定めてこれは勝つだろう」と思い、
少しも撤退すべきなどとは考えなかった。これは信玄公の智略賢くまします故である。」
『甲陽軍鑑』
「武田信玄公の人を召し使い方は、何とも私の分別に及ばない。どういう事かと言えば、
例えば職(裁判官)を用いての公事(裁判)沙汰などの裁きようは、物を読み物を知って、いかにも慈悲
やわらかなる人の技であると思えるのだが、或る年には原美濃守(虎胤)という大剛強のあら(荒)人に
職を仰せ付けられた。こういった事が不思議だと申したのは私ばかりではなく、各々が取り沙汰したのだが、
結果としてこの原美濃守の抜擢は、なんとも良き仕置であった。
そうではあったが、この原美濃守が公事にかかりきりになると、諸々の境目(国境)における武士道の御用が
困難になるとして奉行を上げられたが、その後しばらく、二,三ヵ月も後任の職が定まらなかった事、
また原美濃守殿ほど公事に理屈、批判を用いる裁判官は無いと言われたことは、信玄公の御工夫が
浅くなかったからこそである。
そのようであったからこそ、信玄公が何処へ御馬を向けられ、しかも敵国深くでの働きが有る時も、
諸々の武士、大小共に侍衆の事は申すに及ばず、誠に雑人まで「定めてこれは勝つだろう」と思い、
少しも撤退すべきなどとは考えなかった。これは信玄公の智略賢くまします故である。」
『甲陽軍鑑』
669人間七七四年
2023/02/15(水) 17:10:30.83ID:7xbgD4U9 その割に政治力低いのな
670人間七七四年
2023/02/17(金) 15:22:56.61ID:JlT8fkiM 武田信玄公が二十八歳の時の事。
山本勘介と申す大剛の兵(つわもの)は、武道の手柄ばかりではなく兵法上手であった。
ある時、信州諏訪に於いて南部(宗秀)殿の内の者であった石井藤三郎という男を南部殿が
成敗しようとしたが、失敗しこの者は斬り回り逃げようとした。
その頃、山本勘介はこの南部殿の元へ来ており、彼が近くに居た座敷に、この藤三郎が
斬り押し込んできた。
これに勘介は刀を取り合わさず、そこに棒があったのを取ると、向かい受けて組みころばし、
縄をかけて南部殿へ渡した。この時少しばかり、三ヶ所を負傷したが、負傷と申すほどのものでもなかった。
何故なら三十日の内にすべて平癒したからである。
惣別、勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度において少しずつ負傷し、八十六ヶ所の疵があった。
その事を先の南部殿は悪しく沙汰していたのだが、この時は何も言われなかった。
『甲陽軍鑑』
山本勘介と申す大剛の兵(つわもの)は、武道の手柄ばかりではなく兵法上手であった。
ある時、信州諏訪に於いて南部(宗秀)殿の内の者であった石井藤三郎という男を南部殿が
成敗しようとしたが、失敗しこの者は斬り回り逃げようとした。
その頃、山本勘介はこの南部殿の元へ来ており、彼が近くに居た座敷に、この藤三郎が
斬り押し込んできた。
これに勘介は刀を取り合わさず、そこに棒があったのを取ると、向かい受けて組みころばし、
縄をかけて南部殿へ渡した。この時少しばかり、三ヶ所を負傷したが、負傷と申すほどのものでもなかった。
何故なら三十日の内にすべて平癒したからである。
惣別、勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度において少しずつ負傷し、八十六ヶ所の疵があった。
その事を先の南部殿は悪しく沙汰していたのだが、この時は何も言われなかった。
『甲陽軍鑑』
671人間七七四年
2023/02/18(土) 19:22:49.71ID:PgV/ljYw 「続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」
榊原康政が上洛させられると、秀吉が密かにその旅宿に御来臨され、忠臣であると賞され
「さて明日謁見の時は、昔頼朝が青狩衣に立烏帽子でなさったようにしたら面白いだろう。そのように心得られよ」
と熟意を尽くしなさった。
翌日登城なされた時、果たして右の狩衣と烏帽子で対面なされたという。
秀吉と家康との和睦の時、まず榊原康政が使者として上洛した時の話のようだが、タイトルには家康と書かれている。
家康との対面の前夜に宿に訪ねて行った逸話との混同だろうか。
榊原康政が上洛させられると、秀吉が密かにその旅宿に御来臨され、忠臣であると賞され
「さて明日謁見の時は、昔頼朝が青狩衣に立烏帽子でなさったようにしたら面白いだろう。そのように心得られよ」
と熟意を尽くしなさった。
翌日登城なされた時、果たして右の狩衣と烏帽子で対面なされたという。
秀吉と家康との和睦の時、まず榊原康政が使者として上洛した時の話のようだが、タイトルには家康と書かれている。
家康との対面の前夜に宿に訪ねて行った逸話との混同だろうか。
672人間七七四年
2023/02/20(月) 20:17:28.56ID:XEaRtdGo 「武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子
大坂の陣での五月七日の合戦前に秀忠公は味方の軍勢を巡見なさった。
黒田長政、加藤嘉明については独立した部隊ではなく本多忠純(本多正信の三男)の部隊に属していた。
七日の昼前、大軍が備えているところに誰からともなく「将軍様御成」と言い出したため、長政の嘉明はお目見えのために通路へ出た。
秀忠公は一騎で黒い鎧、山鳥の尾の羽織兜をめされ、桜野という七寸三分の馬に孔雀の尾の鐙をかけて召されていた。
武具は十文字の長刀、そのほか徒歩の士二十人ほどがお供していた。
黒田長政・加藤嘉明をご覧になり両人の方へ乗りかけられたため、両人は馬の左右の口についた。
秀忠公は「敵を打ちもらし城へ引かれたのは残念だ」とおっしゃったが
両人が「そのうち敵はまた人数を出すので、冥利にお叶いになるでしょう。思いのままの御一戦となりましょう」
と言うとご機嫌もよくなった。
長政・嘉明に「もう戻ってよいぞ」とおっしゃられたため、両人は備えに戻った。
途中、本多正信が具足も兜もつけず、団扇で蝿を払いながら乗物に乗って通った。
黒田長政が「将軍様はいつもと違い軽い様子だな」と申すと
加藤嘉明は「いかにもいかにも、このように軽いのは御家の癖だろう」と答えた。
長政は深く感心し「秀忠公は常々御行儀正しいが、軍法においては万事軽く行うということか」
と賞賛したという。
大坂の陣での五月七日の合戦前に秀忠公は味方の軍勢を巡見なさった。
黒田長政、加藤嘉明については独立した部隊ではなく本多忠純(本多正信の三男)の部隊に属していた。
七日の昼前、大軍が備えているところに誰からともなく「将軍様御成」と言い出したため、長政の嘉明はお目見えのために通路へ出た。
秀忠公は一騎で黒い鎧、山鳥の尾の羽織兜をめされ、桜野という七寸三分の馬に孔雀の尾の鐙をかけて召されていた。
武具は十文字の長刀、そのほか徒歩の士二十人ほどがお供していた。
黒田長政・加藤嘉明をご覧になり両人の方へ乗りかけられたため、両人は馬の左右の口についた。
秀忠公は「敵を打ちもらし城へ引かれたのは残念だ」とおっしゃったが
両人が「そのうち敵はまた人数を出すので、冥利にお叶いになるでしょう。思いのままの御一戦となりましょう」
と言うとご機嫌もよくなった。
長政・嘉明に「もう戻ってよいぞ」とおっしゃられたため、両人は備えに戻った。
途中、本多正信が具足も兜もつけず、団扇で蝿を払いながら乗物に乗って通った。
黒田長政が「将軍様はいつもと違い軽い様子だな」と申すと
加藤嘉明は「いかにもいかにも、このように軽いのは御家の癖だろう」と答えた。
長政は深く感心し「秀忠公は常々御行儀正しいが、軍法においては万事軽く行うということか」
と賞賛したという。
673人間七七四年
2023/02/20(月) 20:18:55.44ID:XEaRtdGo >長政の嘉明はお目見えのために通路へ出た。
は
>長政と嘉明はお目見えのために通路へ出た。
です。すいません
は
>長政と嘉明はお目見えのために通路へ出た。
です。すいません
674人間七七四年
2023/02/21(火) 20:27:41.98ID:bL5twcMw 「武家閑談」から真田大助
五月七日の合戦前に真田左衛門佐(真田信繁)は秀頼公が御出馬されないため、子息大助を人質に城へ置き、自身は出陣することにした。
大助は十五歳であったが
「父上はお討死を決意されているようです。
私は父母の懐に生まれてより、これまで片時も離れずいました。
去年、大坂城に入る時に母上とは生き別れ、その後の母からの文でも
「互いに会うことはもうないでしょう。
どうか父の御最後を見届けなさい。生きようとせず、同じ枕で討ち死にして真田の名を挙げなさい」
と常々言われております。
ただ今父を見捨てて城に戻ることはできません」
と左衛門佐の袖に取り付いて泣いた。
左衛門佐も真田の軍兵も泣かぬものはなかった。
左衛門佐は涙を拭い、はったと大助を見つめて
「武士の家に生れた者は忠義名利を大切にして父母を忘れ、自分の身を忘れるものだ。城へ入れ。
秀頼公御屋形の御側で死ねばすぐに冥途にて巡り合うだろう。
暫時の別れを悲しむのは弓箭の家に生まれた者として甚だ未練がましい。早く城へ入れ」
と取り付く手を引き離すと、大助は名残惜しげに父を見て
「さようであればお城に参ります。来世でまたお会いしましょう」と別れた。
左衛門佐は気にしないふりをしていたものの、涙で東西がわからぬほどであった。
五月七日の合戦前に真田左衛門佐(真田信繁)は秀頼公が御出馬されないため、子息大助を人質に城へ置き、自身は出陣することにした。
大助は十五歳であったが
「父上はお討死を決意されているようです。
私は父母の懐に生まれてより、これまで片時も離れずいました。
去年、大坂城に入る時に母上とは生き別れ、その後の母からの文でも
「互いに会うことはもうないでしょう。
どうか父の御最後を見届けなさい。生きようとせず、同じ枕で討ち死にして真田の名を挙げなさい」
と常々言われております。
ただ今父を見捨てて城に戻ることはできません」
と左衛門佐の袖に取り付いて泣いた。
左衛門佐も真田の軍兵も泣かぬものはなかった。
左衛門佐は涙を拭い、はったと大助を見つめて
「武士の家に生れた者は忠義名利を大切にして父母を忘れ、自分の身を忘れるものだ。城へ入れ。
秀頼公御屋形の御側で死ねばすぐに冥途にて巡り合うだろう。
暫時の別れを悲しむのは弓箭の家に生まれた者として甚だ未練がましい。早く城へ入れ」
と取り付く手を引き離すと、大助は名残惜しげに父を見て
「さようであればお城に参ります。来世でまたお会いしましょう」と別れた。
左衛門佐は気にしないふりをしていたものの、涙で東西がわからぬほどであった。
675人間七七四年
2023/02/21(火) 20:29:36.12ID:bL5twcMw 大助は城に入り、郎等たちを拒み、ただ一人で秀頼公の御供をして芦田曲輪の朱三矢倉へ籠った。
七日の朝食時から翌八日の午の刻まで、秀頼公とその御供三十二人は矢倉に詰めていた。
大助は父の行方を気にして、城中に逃れた人に父について尋ねたところ
「真田殿は天王寺前で大勢の敵陣に駆け入り、馬上で戦い、そののち槍十本ほどに槍玉にかけられてお討死されました」
と詳しく申す者があったため、大助は涙をおしぬぐい、
母と別れた時「最期にはこれを持って討ち死にせよ」と渡された水晶の数珠を取り出し、念仏を唱えた。
こうして秀頼公の御自害を待っていると、速水甲斐(速水守久)は不憫に思い
「貴殿は一昨日誉田の戦いで股に槍傷を負ったと聞きます。
療養のためにここを出なされ。真田の縁者のところまで送り届けさせましょう」
と言ったが、大助は返答せず、念仏だけを唱えた。
八日午の刻、秀頼公は御自害なさり、供の男女三十二人も自害し、矢倉に火をかけ同じ煙に昇った。
大助も腹を十文字に掻き切り自害したため、見る人聞く人「さすが武士の子孫である」と誉めぬものはなかったという。
七日の朝食時から翌八日の午の刻まで、秀頼公とその御供三十二人は矢倉に詰めていた。
大助は父の行方を気にして、城中に逃れた人に父について尋ねたところ
「真田殿は天王寺前で大勢の敵陣に駆け入り、馬上で戦い、そののち槍十本ほどに槍玉にかけられてお討死されました」
と詳しく申す者があったため、大助は涙をおしぬぐい、
母と別れた時「最期にはこれを持って討ち死にせよ」と渡された水晶の数珠を取り出し、念仏を唱えた。
こうして秀頼公の御自害を待っていると、速水甲斐(速水守久)は不憫に思い
「貴殿は一昨日誉田の戦いで股に槍傷を負ったと聞きます。
療養のためにここを出なされ。真田の縁者のところまで送り届けさせましょう」
と言ったが、大助は返答せず、念仏だけを唱えた。
八日午の刻、秀頼公は御自害なさり、供の男女三十二人も自害し、矢倉に火をかけ同じ煙に昇った。
大助も腹を十文字に掻き切り自害したため、見る人聞く人「さすが武士の子孫である」と誉めぬものはなかったという。
676人間七七四年
2023/02/22(水) 21:55:36.40ID:ZjICsJeG 「武家閑談」から真田大助と三人の小姓
秀頼公に御供した三十二人のうち、高橋半三郎は十五歳、土肥庄五郎は十七歳、高橋十三郎は十三歳で、三人はいずれも秀頼公の御小姓であった。
秀頼公御自害の時、秀頼公の上意により、上﨟どもは皆介錯を受けることとなった。
三人の児小姓と真田大助は幼少であり、加藤弥平太と武田左吉が介錯を申しつけられた。
三人の児小姓と真田大助はいずれも具足を脱ぎ、四人とも西に向かって並んで手を合せ、念仏を高らかに唱え、
雪のような肌をおし脱ぐと、四人一度に声をかけ、いさぎよく切腹した。
弥平太と左吉は介錯し終わると刀を捨て、涙をむせび泣いたという。
秀頼公に御供した三十二人のうち、高橋半三郎は十五歳、土肥庄五郎は十七歳、高橋十三郎は十三歳で、三人はいずれも秀頼公の御小姓であった。
秀頼公御自害の時、秀頼公の上意により、上﨟どもは皆介錯を受けることとなった。
三人の児小姓と真田大助は幼少であり、加藤弥平太と武田左吉が介錯を申しつけられた。
三人の児小姓と真田大助はいずれも具足を脱ぎ、四人とも西に向かって並んで手を合せ、念仏を高らかに唱え、
雪のような肌をおし脱ぐと、四人一度に声をかけ、いさぎよく切腹した。
弥平太と左吉は介錯し終わると刀を捨て、涙をむせび泣いたという。
677人間七七四年
2023/02/22(水) 23:07:30.48ID:muSIJZw6 誰が見たんだよその場面
678人間七七四年
2023/02/22(水) 23:15:28.01ID:QsUorrkW 神君です
679人間七七四年
2023/02/23(木) 19:40:08.37ID:0RbDe1Xr 「武家閑談」から島原の乱の時の徳川頼宣
寛永十五年(1638年)二月二十一日の夜、島原の城から黒田、寺沢、鍋島勢に夜討がなされ、黒田忠之の究竟の侍数十人が討死にしたと江戸へ注進があった。
鍋島も「井楼や竹束なども焼かれた。なかなか城方の一揆勢は強い」と告げてきた。
御三家もそのため江戸城に登城し、諸大名も皆どうしたものかと思案していると、
紀伊大納言頼宣卿、御一人はその知らせを聞き
「さてもめでたい事である。近日中に城は落ちるだろう。
鍋島は井楼を焼かれたとはいえ、城内におる者どもの武官としての器量のほども知ったと見える」
とおっしゃると、諸大名は皆々こころえぬ顔をしていた。
そうこうしているうちに落城を告げる使者が来たため、諸人は頼宣卿に深く感心したという。
寛永十五年(1638年)二月二十一日の夜、島原の城から黒田、寺沢、鍋島勢に夜討がなされ、黒田忠之の究竟の侍数十人が討死にしたと江戸へ注進があった。
鍋島も「井楼や竹束なども焼かれた。なかなか城方の一揆勢は強い」と告げてきた。
御三家もそのため江戸城に登城し、諸大名も皆どうしたものかと思案していると、
紀伊大納言頼宣卿、御一人はその知らせを聞き
「さてもめでたい事である。近日中に城は落ちるだろう。
鍋島は井楼を焼かれたとはいえ、城内におる者どもの武官としての器量のほども知ったと見える」
とおっしゃると、諸大名は皆々こころえぬ顔をしていた。
そうこうしているうちに落城を告げる使者が来たため、諸人は頼宣卿に深く感心したという。
680人間七七四年
2023/02/24(金) 23:06:25.68ID:b2jcO/M3 「武家閑談」から黒田彦左衛門
大坂城落城の時、大坂方の赤母衣衆を榊原康勝家臣の黒田彦左衛門が討ち、首を取ろうとした。
そこへ同輩の三枝勘兵衛がやってきて
「彦左衛門よ、その首はともに討ったことにしよう」と言うと彦左衛門は首を打ち捨て、先に行った。
勘兵衛は恥じ「この首は彦左衛門が取った首だ」と声をかけたが彦左衛門は振り向かなかった。
論功行賞の時、三枝勘兵衛は「この首は黒田彦左衛門が取った首です」とことのあらましを言ったため
黒田彦左衛門を呼んで首のことを尋ねたが、彦左衛門は「まったく覚えのないことです」と答えた。
勘兵衛は事情をつぶさに述べて、彦左衛門に何度も認めさせようとしたが彦左衛門は「覚えがない」としか答えなかった。
このことが両御所(家康と秀忠)の上聞に達し、まことに感心なされたということだ。
孟之反が殿軍をしても「進んで殿軍をしたのではなく、馬が進まなかったからだ」と語り(「論語」に見える)、
馮異が光武帝の元で度々手柄を立てたにも関わらず功を誇らなかったようなものだ。
大坂城落城の時、大坂方の赤母衣衆を榊原康勝家臣の黒田彦左衛門が討ち、首を取ろうとした。
そこへ同輩の三枝勘兵衛がやってきて
「彦左衛門よ、その首はともに討ったことにしよう」と言うと彦左衛門は首を打ち捨て、先に行った。
勘兵衛は恥じ「この首は彦左衛門が取った首だ」と声をかけたが彦左衛門は振り向かなかった。
論功行賞の時、三枝勘兵衛は「この首は黒田彦左衛門が取った首です」とことのあらましを言ったため
黒田彦左衛門を呼んで首のことを尋ねたが、彦左衛門は「まったく覚えのないことです」と答えた。
勘兵衛は事情をつぶさに述べて、彦左衛門に何度も認めさせようとしたが彦左衛門は「覚えがない」としか答えなかった。
このことが両御所(家康と秀忠)の上聞に達し、まことに感心なされたということだ。
孟之反が殿軍をしても「進んで殿軍をしたのではなく、馬が進まなかったからだ」と語り(「論語」に見える)、
馮異が光武帝の元で度々手柄を立てたにも関わらず功を誇らなかったようなものだ。
681人間七七四年
2023/02/25(土) 20:25:06.11ID:iwVM1kCD 「武家閑談」から徳川頼宣の詩歌
頼宣公、江戸御参勤のみぎりに伊勢の高見山(神武天皇の八咫烏の導きによる東征伝説の舞台)を越えられた時
頼宣公「武士(もののふ)の弓箭(ゆみや)とる名の高見山、猶幾度も越んとぞおもふ」
また芳野へ花見に登山なされた時、雨が降り旅宿で手持ち無沙汰となったため、浜田という医師などが御伽として連句を行った。
浜田は当座に
「不思廬山雨、為君開百花(思わざりき廬山の雨、君の為に百花を開かんとは)」※「不憶廬山雨、為君湛百花」というバージョンも
と一句をつかまつると、頼宣公は
「堪斟盤谷水、対客喫新茶(斟むに堪えたり盤谷の水、客に対ひて新茶を喫す)」
と詠まれたという。
浜田が使った字が「湛」の場合、「堪」「斟」とわざと「甚」がつく漢字を使ったことになる
また「盤谷」で検索するとタイの首都バンコクの漢字表記と出てきたが、韓愈の「李愿の盤谷に帰るを送る序」に出てくる
「太行の陽(みなみ)に盤谷あり。盤谷の間、泉甘く土肥ゆ」の方だろう。
頼宣公、江戸御参勤のみぎりに伊勢の高見山(神武天皇の八咫烏の導きによる東征伝説の舞台)を越えられた時
頼宣公「武士(もののふ)の弓箭(ゆみや)とる名の高見山、猶幾度も越んとぞおもふ」
また芳野へ花見に登山なされた時、雨が降り旅宿で手持ち無沙汰となったため、浜田という医師などが御伽として連句を行った。
浜田は当座に
「不思廬山雨、為君開百花(思わざりき廬山の雨、君の為に百花を開かんとは)」※「不憶廬山雨、為君湛百花」というバージョンも
と一句をつかまつると、頼宣公は
「堪斟盤谷水、対客喫新茶(斟むに堪えたり盤谷の水、客に対ひて新茶を喫す)」
と詠まれたという。
浜田が使った字が「湛」の場合、「堪」「斟」とわざと「甚」がつく漢字を使ったことになる
また「盤谷」で検索するとタイの首都バンコクの漢字表記と出てきたが、韓愈の「李愿の盤谷に帰るを送る序」に出てくる
「太行の陽(みなみ)に盤谷あり。盤谷の間、泉甘く土肥ゆ」の方だろう。
682人間七七四年
2023/02/26(日) 22:46:16.88ID:EAgpXPFs 「続武家閑談」から「岡崎にて一揆どもと御合戦のこと」
大御所様が岡崎に御居城あそばされた時、信長公へ六条門跡(本願寺、ただし六条門跡は堀川六条に西本願寺ができてからの呼称)が逆心したということで、宗旨の者どもも国々で一揆を起こした。
三河一国の宗旨の者もことごとく一揆をおこし、一揆勢には家中の歴々の武士も多かった。
これは当時、大御所様が信長公に御味方してらっしゃったためである。
一揆の者どもを御退治なさるべく評定を行い、明日御合戦をなさるとお決めになった。
青見藤六はその夜まで大御所様の近くにおり、御手立ての様子の委細を承知していたが、その夜に一揆勢方に加わり、一揆の大将となってしまった。
大御所様はこれをお知りになり小姓どもにお触れをなし
「今日の合戦でわしが討ち死にするようなことがあれば、忠義のものは石川新七と藤六の首をとってわが前に持って手向けをするように。
さすれば二世までの忠節と思おうぞ」とおっしゃった。
さて合戦で藤六と石川新七は先に進み、新七は水野和泉(水野忠重)に突きかかってきた。
新七は「和泉殿は日ごろは一家の主とあがめていたが、今日は敵となったからには一槍つかまつろう」と言って和泉と槍を合わせ、討ち死にした。
青見藤六は太郎作(水野正重)と出会い、太郎作は逃がすまいと進むと
藤六は「小せがれめ、射殺してくれるわ」と大弓を引いた。
こうして太郎作は槍、藤六は弓を引いたまま、互いににらみあった。
するとどこからかしらぬが流れ矢が藤六の肘に突き立った。
藤六は弓を捨て矢をかなぐり捨てたため、太郎作は「うれしや」と一槍突いたけれども、良い具足であったため槍がはしって藤六と鼻合わせになってしまった。
藤六は刀を抜き、太郎作の兜の鉢から斬ったものの、兜はよい兜であったため斬れなかった。
太郎作は槍を捨て、刀を抜いて一打ちすると、藤六は倒れながら「小せがれにやられるとは無念の次第」と言い、念仏を唱え「早く首をとれ」と申した。
こうして石川新七と青見藤六が討たれたため、一揆勢も討ちに討たれて敗北した。
その後、太郎作が藤六の首を持参すると大御所様は
「藤六を討ったのはその方か。まことに満足でなににたとえようか。
太郎作一世の奉公と思うことにする」と重々おっしゃられたそうだ。
これについては拙者よりも渡辺図書(渡辺半蔵の三男の子孫?)がつぶさに存じられている。
なおこの時、太郎作は二十歳だったという。
信長と本願寺との対立はもっとあとのはず。
また「三河物語」では水野忠重が討った一揆勢として石河新九郎、佐橋甚五郎、大見藤六郎を挙げている。
大御所様が岡崎に御居城あそばされた時、信長公へ六条門跡(本願寺、ただし六条門跡は堀川六条に西本願寺ができてからの呼称)が逆心したということで、宗旨の者どもも国々で一揆を起こした。
三河一国の宗旨の者もことごとく一揆をおこし、一揆勢には家中の歴々の武士も多かった。
これは当時、大御所様が信長公に御味方してらっしゃったためである。
一揆の者どもを御退治なさるべく評定を行い、明日御合戦をなさるとお決めになった。
青見藤六はその夜まで大御所様の近くにおり、御手立ての様子の委細を承知していたが、その夜に一揆勢方に加わり、一揆の大将となってしまった。
大御所様はこれをお知りになり小姓どもにお触れをなし
「今日の合戦でわしが討ち死にするようなことがあれば、忠義のものは石川新七と藤六の首をとってわが前に持って手向けをするように。
さすれば二世までの忠節と思おうぞ」とおっしゃった。
さて合戦で藤六と石川新七は先に進み、新七は水野和泉(水野忠重)に突きかかってきた。
新七は「和泉殿は日ごろは一家の主とあがめていたが、今日は敵となったからには一槍つかまつろう」と言って和泉と槍を合わせ、討ち死にした。
青見藤六は太郎作(水野正重)と出会い、太郎作は逃がすまいと進むと
藤六は「小せがれめ、射殺してくれるわ」と大弓を引いた。
こうして太郎作は槍、藤六は弓を引いたまま、互いににらみあった。
するとどこからかしらぬが流れ矢が藤六の肘に突き立った。
藤六は弓を捨て矢をかなぐり捨てたため、太郎作は「うれしや」と一槍突いたけれども、良い具足であったため槍がはしって藤六と鼻合わせになってしまった。
藤六は刀を抜き、太郎作の兜の鉢から斬ったものの、兜はよい兜であったため斬れなかった。
太郎作は槍を捨て、刀を抜いて一打ちすると、藤六は倒れながら「小せがれにやられるとは無念の次第」と言い、念仏を唱え「早く首をとれ」と申した。
こうして石川新七と青見藤六が討たれたため、一揆勢も討ちに討たれて敗北した。
その後、太郎作が藤六の首を持参すると大御所様は
「藤六を討ったのはその方か。まことに満足でなににたとえようか。
太郎作一世の奉公と思うことにする」と重々おっしゃられたそうだ。
これについては拙者よりも渡辺図書(渡辺半蔵の三男の子孫?)がつぶさに存じられている。
なおこの時、太郎作は二十歳だったという。
信長と本願寺との対立はもっとあとのはず。
また「三河物語」では水野忠重が討った一揆勢として石河新九郎、佐橋甚五郎、大見藤六郎を挙げている。
683人間七七四年
2023/02/28(火) 21:16:51.50ID:rNDNB3Wk 「続武家閑談」から姉川の合戦と太郎作正宗
江北姉川で大御所様ならびに信長公が勝利された。
信長がおっしゃるには
「家康家中のものはよく合戦するとは常々聞いていたけれども、今眼前で見るに愛すべき者どもの働きであった。
家康の者どもが、こうも薄くのびて敵について離れないことを知らなかったぞ」
とお戯れになられたそうだ。
大御所様、御家中衆の誉となった。
この合戦の時、太郎作(水野正重)の刀がよく切れ、兜の鉢を切り割り、歯まで切り付けたという。
この刀は水野下野殿(水野忠政?)からたまわった、かくれなき名刀であったという。
大御所様もよくご存知であり、その刀には様々な不思議のことがあったという。
(このあとは有名な浅井長政ら三人の髑髏の話)
江北姉川で大御所様ならびに信長公が勝利された。
信長がおっしゃるには
「家康家中のものはよく合戦するとは常々聞いていたけれども、今眼前で見るに愛すべき者どもの働きであった。
家康の者どもが、こうも薄くのびて敵について離れないことを知らなかったぞ」
とお戯れになられたそうだ。
大御所様、御家中衆の誉となった。
この合戦の時、太郎作(水野正重)の刀がよく切れ、兜の鉢を切り割り、歯まで切り付けたという。
この刀は水野下野殿(水野忠政?)からたまわった、かくれなき名刀であったという。
大御所様もよくご存知であり、その刀には様々な不思議のことがあったという。
(このあとは有名な浅井長政ら三人の髑髏の話)
684人間七七四年
2023/02/28(火) 21:29:21.32ID:rNDNB3Wk というわけで>>682
藤六の刀は太郎作の兜を割れなかったが、太郎作の刀は割れたようだ。
なお昭和18年刊行の「日本刀と無敵魂」には
「前田侯爵家の家宝太郎正宗は正宗中の傑作であるのみでなく、其の歴史は此の名刀に一段の光輝を添へるものである。
此の刀は磨上無銘で、長さは二尺一寸二分、切先から八寸五分程下所のに、小さき刃こぼれがある。
又切先から五寸二分程下の所に、矢目といって矢の当たった四角な小さな穴がある。
(>>683の話)刃こぼれは此の時の功名傷である。
清久(太郎作)も正宗の切れ味が余りによいので、自分ながら驚いて家康に話すと、
家康「それは下野守が常々自慢していた刀であろう」といって、自ら手にとり見て、「此は正しく五郎入道である、大切に所持されよ」と云はれた。
此刀後に徳川二代将軍秀忠に入り、三代家光に伝はり、家康の養女が加州四代藩主前田光高に嫁した時、光高へ贈られ以来前田家の家宝の一となった。」
と書かれている。現在国宝指定。
藤六の刀は太郎作の兜を割れなかったが、太郎作の刀は割れたようだ。
なお昭和18年刊行の「日本刀と無敵魂」には
「前田侯爵家の家宝太郎正宗は正宗中の傑作であるのみでなく、其の歴史は此の名刀に一段の光輝を添へるものである。
此の刀は磨上無銘で、長さは二尺一寸二分、切先から八寸五分程下所のに、小さき刃こぼれがある。
又切先から五寸二分程下の所に、矢目といって矢の当たった四角な小さな穴がある。
(>>683の話)刃こぼれは此の時の功名傷である。
清久(太郎作)も正宗の切れ味が余りによいので、自分ながら驚いて家康に話すと、
家康「それは下野守が常々自慢していた刀であろう」といって、自ら手にとり見て、「此は正しく五郎入道である、大切に所持されよ」と云はれた。
此刀後に徳川二代将軍秀忠に入り、三代家光に伝はり、家康の養女が加州四代藩主前田光高に嫁した時、光高へ贈られ以来前田家の家宝の一となった。」
と書かれている。現在国宝指定。
685人間七七四年
2023/03/03(金) 20:05:29.67ID:OTZl9wjf 「武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆
広島浪人所持覚書によれば、浅野但馬守長晟が大坂に在陣している最中に熊野北山一揆が起きた。
一揆の大将は、大嶽の前鬼津具および山室という者だったという。
長晟より熊沢兵庫を大将として討手を派遣した。
前鬼津具は熊沢が大軍だったため新宮から西の川へ逃れ、雪に降り込まれ凍え死にした。
和州川井村の一揆の大将山室は北山へ逃れたため、熊沢が追いかけると、山室は一揆勢に下知して二、三度防戦して退いた。
熊沢兵庫はそれでも追いかけ、大沼村・竹平村の間に迫った。
山室は川を渡り上り、岩の陰で隠れ、熊沢を待ち受け、太刀打ち、組み打ってるうちに兵庫が下となった。
そこに長田作兵衛が駆けつけ、山室を突き倒し、首を取った。
兵庫と作兵衛が山室の首をそれぞれ自分のものだと主張したため、溝口五右衛門は進み出て
「兵庫が初め太刀打ち、組み打ちしていたのだから作兵衛は援助したということになる。
高名は兵庫のものだ」と山室の首を兵庫に渡した。
溝口の裁判が良いと思ったため、書き留める。
広島浪人所持覚書によれば、浅野但馬守長晟が大坂に在陣している最中に熊野北山一揆が起きた。
一揆の大将は、大嶽の前鬼津具および山室という者だったという。
長晟より熊沢兵庫を大将として討手を派遣した。
前鬼津具は熊沢が大軍だったため新宮から西の川へ逃れ、雪に降り込まれ凍え死にした。
和州川井村の一揆の大将山室は北山へ逃れたため、熊沢が追いかけると、山室は一揆勢に下知して二、三度防戦して退いた。
熊沢兵庫はそれでも追いかけ、大沼村・竹平村の間に迫った。
山室は川を渡り上り、岩の陰で隠れ、熊沢を待ち受け、太刀打ち、組み打ってるうちに兵庫が下となった。
そこに長田作兵衛が駆けつけ、山室を突き倒し、首を取った。
兵庫と作兵衛が山室の首をそれぞれ自分のものだと主張したため、溝口五右衛門は進み出て
「兵庫が初め太刀打ち、組み打ちしていたのだから作兵衛は援助したということになる。
高名は兵庫のものだ」と山室の首を兵庫に渡した。
溝口の裁判が良いと思ったため、書き留める。
686人間七七四年
2023/03/03(金) 20:19:36.10ID:tsS3dxGo 「和歌山県史 近世史料三」の「七 一揆・騒動」に収録されている、慶長の時にまとめられた「北山一揆等取集書付」にも同じ話が見える
「熊沢兵庫川井村山室討候節ハ互ニ太刀打致、夫ゟ組合兵庫を組伏候所へ永井作兵衛出合山室を鑓にて突首を取、
其時兵庫と作兵衛論ニ成を溝口五右衛門と云者申候ハ、作兵衛手柄之程我等見申候、
首ハ兵庫組之旨兵庫へ首ハ渡候へと被申」
また後呂忠一「北山一揆について」という論文から孫引きとなるが
「自得公済美録」(浅野家の家史「済美録」の浅野長晟の代)に北山一揆についても記されていて
・河井村の山室、善鬼の津久、堀内将監、中村某、小中某は五鬼として知られていた
・熊沢兵庫が大沼村へ行こうとした所、五十才ばかりの夫婦を見つけ打ち取ろうとしたが、甲冑をつけていたために逆に組み敷かれ、女が持ち出した松割包丁で殺されそうになった。
そこへ新宮の住人永田五郎左衛門に助けられ相手の首を打ち取った。
首を調べるとそれは一揆の首謀者の一人、山室鬼助であった。
と書かれているとか。
「熊沢兵庫川井村山室討候節ハ互ニ太刀打致、夫ゟ組合兵庫を組伏候所へ永井作兵衛出合山室を鑓にて突首を取、
其時兵庫と作兵衛論ニ成を溝口五右衛門と云者申候ハ、作兵衛手柄之程我等見申候、
首ハ兵庫組之旨兵庫へ首ハ渡候へと被申」
また後呂忠一「北山一揆について」という論文から孫引きとなるが
「自得公済美録」(浅野家の家史「済美録」の浅野長晟の代)に北山一揆についても記されていて
・河井村の山室、善鬼の津久、堀内将監、中村某、小中某は五鬼として知られていた
・熊沢兵庫が大沼村へ行こうとした所、五十才ばかりの夫婦を見つけ打ち取ろうとしたが、甲冑をつけていたために逆に組み敷かれ、女が持ち出した松割包丁で殺されそうになった。
そこへ新宮の住人永田五郎左衛門に助けられ相手の首を打ち取った。
首を調べるとそれは一揆の首謀者の一人、山室鬼助であった。
と書かれているとか。
687人間七七四年
2023/03/04(土) 07:22:41.41ID:QrIMP5Y9 2021年1月6日の朝日新聞デジタルの記事に五鬼について書かれていた
「私は鬼の末裔」記者に断言 熊野「五鬼」姓の謎を追え
>伝承の舞台は奈良県は下北山村の前鬼(ぜんき)集落。
>今から約1300年前、前鬼、後鬼(ごき)という鬼の夫婦がいた。この夫婦は山で修行する修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)の姿に心動かされ、仕えるようになった。
>そして「里へ下りて人として生活しなさい」との命を受けて暮らしはじめたのが前鬼集落だったという。
>前鬼と後鬼の5人の子は、修験者を世話する五つの宿坊を開いた。それぞれ「五鬼童(ごきどう)」「五鬼上(ごきじょう)」「五鬼継(ごきつぐ)」「五鬼助(ごきじょ)」そして「五鬼熊」と名乗った。
「私は鬼の末裔」記者に断言 熊野「五鬼」姓の謎を追え
>伝承の舞台は奈良県は下北山村の前鬼(ぜんき)集落。
>今から約1300年前、前鬼、後鬼(ごき)という鬼の夫婦がいた。この夫婦は山で修行する修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)の姿に心動かされ、仕えるようになった。
>そして「里へ下りて人として生活しなさい」との命を受けて暮らしはじめたのが前鬼集落だったという。
>前鬼と後鬼の5人の子は、修験者を世話する五つの宿坊を開いた。それぞれ「五鬼童(ごきどう)」「五鬼上(ごきじょう)」「五鬼継(ごきつぐ)」「五鬼助(ごきじょ)」そして「五鬼熊」と名乗った。
688人間七七四年
2023/03/04(土) 09:48:16.36ID:83OMXFqB 鬼といえば人喰い
689人間七七四年
2023/03/04(土) 09:52:42.48ID:CiDNdMPi ここから戦国時代にどう繋げるのかなと思ったんだけど終わりなのかな?
690人間七七四年
2023/03/04(土) 13:06:52.06ID:7UlQfOc/ IDが変わっていて、わかりづらくてすいません
朝日新聞の五鬼の記事について書いたのは、熊野北山一揆の指導者とされる
「河合村の山室(五鬼助?)」と「善鬼の津久(前鬼継)」がともに「済美録」では五鬼とされていて
五鬼の由来が役行者にまつわるという話がおもしろいため、付け足しただけです
朝日新聞の五鬼の記事について書いたのは、熊野北山一揆の指導者とされる
「河合村の山室(五鬼助?)」と「善鬼の津久(前鬼継)」がともに「済美録」では五鬼とされていて
五鬼の由来が役行者にまつわるという話がおもしろいため、付け足しただけです
692人間七七四年
2023/03/04(土) 13:15:22.69ID:Gyvr4Std でどうやって繋げるの?
693人間七七四年
2023/03/04(土) 13:29:25.72ID:HF8bfFEn 毛利のところにいた世鬼は子孫かしら
694人間七七四年
2023/03/04(土) 13:53:57.64ID:V+jxazcg 鬼小島が先祖です
695690
2023/03/04(土) 14:58:18.47ID:7UlQfOc/ 「武家閑談」から大坂の陣の時の樫井の戦い
>>685の次の話
同じく広島浪人の覚書の樫井の一戦によれば
(大坂夏の陣の一戦、熊野北山一揆と同じ頃)
紀州勢(浅野)は八丁畷から樫井町に入り、亀田大隅守(亀田高綱)は大梨打の兜、鷺の芦毛の羽織で人数に下知し殿軍した。
その武者使いはなかなか見事であり、良き大将に見えた。
樫井町に三丁ばかり乗り入れた所に大坂方がやってきたため亀田が向かうと、岡部大学(岡部則綱)がこの口にかかってきた。
亀田が町内に引き取ると、塙団右衛門(塙直之)勢、七、八十人ばかりが入ってきた。
上田主水(上田重安)は二十騎ほどで樫井町に潜んでいたため、塙勢が入ってきたところに一番槍で槍を合わせた。
上田主水配下の高川原小平太、水谷又兵衛、横井平左衛門が五、六人程で大坂方を追い立てると、亀田大隅守も上田主水に合流した。
大坂方は引き返し、塙団右衛門の家来の坂田庄次郎が真っ先に主水にかかってきたが、主水は槍で突き伏せ、小姓の横関新三郎に首を切らせ、足軽に命じて浅野長晟本陣に首を持って帰らせた。
また亀田勢は大坂方の山田五郎左衛門や金丸小膳以下数多を突き立てた。
>>685の次の話
同じく広島浪人の覚書の樫井の一戦によれば
(大坂夏の陣の一戦、熊野北山一揆と同じ頃)
紀州勢(浅野)は八丁畷から樫井町に入り、亀田大隅守(亀田高綱)は大梨打の兜、鷺の芦毛の羽織で人数に下知し殿軍した。
その武者使いはなかなか見事であり、良き大将に見えた。
樫井町に三丁ばかり乗り入れた所に大坂方がやってきたため亀田が向かうと、岡部大学(岡部則綱)がこの口にかかってきた。
亀田が町内に引き取ると、塙団右衛門(塙直之)勢、七、八十人ばかりが入ってきた。
上田主水(上田重安)は二十騎ほどで樫井町に潜んでいたため、塙勢が入ってきたところに一番槍で槍を合わせた。
上田主水配下の高川原小平太、水谷又兵衛、横井平左衛門が五、六人程で大坂方を追い立てると、亀田大隅守も上田主水に合流した。
大坂方は引き返し、塙団右衛門の家来の坂田庄次郎が真っ先に主水にかかってきたが、主水は槍で突き伏せ、小姓の横関新三郎に首を切らせ、足軽に命じて浅野長晟本陣に首を持って帰らせた。
また亀田勢は大坂方の山田五郎左衛門や金丸小膳以下数多を突き立てた。
696690
2023/03/04(土) 15:01:17.76ID:7UlQfOc/ 橋のたもとで塙の家来、山形三郎右衛門(山縣昌重。山縣昌景の息子)が上田主水と槍を合わせたが、亀田大隅勢が大坂方を追い立ててきたため少し下がった。
主水が「上田主水である。引き返して勝負せよ」と山形に声をかけたため、山形も引き返した。
主水は槍で打ったが、槍の柄が真ん中から折れてしまった。
間髪入れず山形は主水を組み伏せた。
小姓の横関は主人を助けようと山形にかかったが、山形は横関をも同様に押し伏せてしまった。
上田主水配下の横井平左衛門は大坂方の一人を家の軒下に突き伏せつつ、主水に呼びかけたが返答がなかった。
振り返ると主人の主水は組み伏せられ、半月の立物も落ちていたため、突き伏せていた敵を捨て、平左衛門は主水の上に乗っている山形の高股(たかもも)を切り落とし、引き倒した。
主水は起き上がり「その首は小姓の新三郎に取らせよ」と命じたため、新三郎の高名となった。
横井は山形の下人をも切り伏せ、先程の首と合わせ二つ高名をなした。
塙団右衛門は田子助左衛門と渡り合っていたが、田子が放った矢が団右衛門の上帯に当たり、いきりたった団右衛門は十文字槍で田子の弓の弦を切った。
そこへ八木新左衛門が来て渡り合い、団右衛門は手負であったが果敢に戦い討ち死にし八木が首をとった。
こうして大坂方の討ち死には、芦田左内、横井治左衛門、山田権三郎、須藤忠右衛門、熊谷忠太夫、徳永浅右衛門、坂田庄次郎、山形三郎右衛門、そのほか四人で都合十二の兜首となった。
首を二条城へ持ち帰り、浅野長晟からこの旨報告した。
主水が「上田主水である。引き返して勝負せよ」と山形に声をかけたため、山形も引き返した。
主水は槍で打ったが、槍の柄が真ん中から折れてしまった。
間髪入れず山形は主水を組み伏せた。
小姓の横関は主人を助けようと山形にかかったが、山形は横関をも同様に押し伏せてしまった。
上田主水配下の横井平左衛門は大坂方の一人を家の軒下に突き伏せつつ、主水に呼びかけたが返答がなかった。
振り返ると主人の主水は組み伏せられ、半月の立物も落ちていたため、突き伏せていた敵を捨て、平左衛門は主水の上に乗っている山形の高股(たかもも)を切り落とし、引き倒した。
主水は起き上がり「その首は小姓の新三郎に取らせよ」と命じたため、新三郎の高名となった。
横井は山形の下人をも切り伏せ、先程の首と合わせ二つ高名をなした。
塙団右衛門は田子助左衛門と渡り合っていたが、田子が放った矢が団右衛門の上帯に当たり、いきりたった団右衛門は十文字槍で田子の弓の弦を切った。
そこへ八木新左衛門が来て渡り合い、団右衛門は手負であったが果敢に戦い討ち死にし八木が首をとった。
こうして大坂方の討ち死には、芦田左内、横井治左衛門、山田権三郎、須藤忠右衛門、熊谷忠太夫、徳永浅右衛門、坂田庄次郎、山形三郎右衛門、そのほか四人で都合十二の兜首となった。
首を二条城へ持ち帰り、浅野長晟からこの旨報告した。
698690
2023/03/05(日) 01:02:03.61ID:aoFtKw4a いえいえ気になさらず
「武家閑談」から上田宗箇(上田重安)
上田主水入道宗古(宗箇)は関ヶ原の時に三成方にむいたため、浅野幸長に預けられた。
それまでは一万石で、明智光秀逆心の時に織田七兵衛信澄(津田信澄)の首を取ったこともあったが、元来茶の湯で名が高かった。
ある時、和歌山の堀で普請があり、宗箇は大石を引いてきた。
柿の木綿羽織で馬に乗っていたがあきたのか、舟の舵を大紋につけ、渋手巾で鉢巻し、石の上に登って下知をした。
若い侍どもは「殿様はなるほど大名だ。なにせ一万石の茶坊主を抱えているんだから」と嘲笑った。
そのことが家中に知れ渡ったため、浅野幸長は宗箇のことを気にかけ、諸士の前で宗箇に脇差を賜り
「家中で何かと批判されているが気にかけるな。一大事の時に役を勤めてくれ」と言った。
宗箇も脇差をいただき「この脇差を血をつけることを願って、忍びましょう」と退出した。
家中のものはまた笑って「拝領の脇差に何の血をつけるのだろう。ネズミか?猫か?」と嘲った。
幸長死去ののち、大坂の陣で元和元年(1615年、ただし元和改元は大坂の陣後)四月二十九日に泉州樫井合戦で上田宗箇は一番槍をなし、しかも山縣三郎右衛門を組み打ちにした。
浅野但馬守長晟の本陣に参ると、長晟は感悦至極であった。
宗箇は座を立って「みなみな以前我を茶坊主と申し、そののち幸長様が脇差を下さった時、我が「この脇差に血をつけましょう」と申すと「茶坊主が武道とは」とまた嘲りましたな。
今日は茶道の宗箇ほどの働きをした方はいないように見えますが」
と言うと、誰も一言も言わなかった。
「武家閑談」から上田宗箇(上田重安)
上田主水入道宗古(宗箇)は関ヶ原の時に三成方にむいたため、浅野幸長に預けられた。
それまでは一万石で、明智光秀逆心の時に織田七兵衛信澄(津田信澄)の首を取ったこともあったが、元来茶の湯で名が高かった。
ある時、和歌山の堀で普請があり、宗箇は大石を引いてきた。
柿の木綿羽織で馬に乗っていたがあきたのか、舟の舵を大紋につけ、渋手巾で鉢巻し、石の上に登って下知をした。
若い侍どもは「殿様はなるほど大名だ。なにせ一万石の茶坊主を抱えているんだから」と嘲笑った。
そのことが家中に知れ渡ったため、浅野幸長は宗箇のことを気にかけ、諸士の前で宗箇に脇差を賜り
「家中で何かと批判されているが気にかけるな。一大事の時に役を勤めてくれ」と言った。
宗箇も脇差をいただき「この脇差を血をつけることを願って、忍びましょう」と退出した。
家中のものはまた笑って「拝領の脇差に何の血をつけるのだろう。ネズミか?猫か?」と嘲った。
幸長死去ののち、大坂の陣で元和元年(1615年、ただし元和改元は大坂の陣後)四月二十九日に泉州樫井合戦で上田宗箇は一番槍をなし、しかも山縣三郎右衛門を組み打ちにした。
浅野但馬守長晟の本陣に参ると、長晟は感悦至極であった。
宗箇は座を立って「みなみな以前我を茶坊主と申し、そののち幸長様が脇差を下さった時、我が「この脇差に血をつけましょう」と申すと「茶坊主が武道とは」とまた嘲りましたな。
今日は茶道の宗箇ほどの働きをした方はいないように見えますが」
と言うと、誰も一言も言わなかった。
699人間七七四年
2023/03/06(月) 12:43:20.98ID:Y3zjxpvb 「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄
天正十八年(1590年)三月二十八日、太閤秀吉公が三枚橋に御着陣されたため、先手の諸大将が浮島が原までまかり出た。
織田信雄公、権現様も同じく御辺に出られた。
秀吉公は金小札糸緋威の鎧、唐冠の兜、金の大熨斗付きの太刀二振を帯し、金の土俵空穂の上に征矢一筋を付け、作りひげをつけなさっていた。
仙石権兵衛が進上した朱滋の弓をお持ちになり、金の瓔珞の馬鎧をかけた七寸の馬に乗られていた。
供の面々は異類異形の出立ちで、千利休は金の茶筅のついた七節のえつるを指物とし、極の口(樋口?)石見は鼓の筒の指物、狂言師の番内は三番三(三番叟)の装束で、その他さまざまな出立ちであった。
権現様、信雄公はお進みなさり、ことに信雄公は秀吉公の主筋であるため乗り打ちはどうしようかと思しめした。
その上、両大将とも小田原との内通の雑説もあるため、礼儀とはいえ御両将の前で秀吉公は馬からひらりとお降りになり、太刀を御手にかけ
「信雄、家康逆心と承る。立ち上がられよ、一太刀参るぞ」とおっしゃった。
信雄公は赤面して言葉が言えなかった。
権現様は諸人に向かい
「御陣初めに太刀に御手をかけられるとはめでたいことです。何もかもめでたい」
と高らかにおっしゃると、秀吉公は何も言わずに御馬に乗り、お通りになった。
諸軍は権現様の御智勇に感心した。
天正十八年(1590年)三月二十八日、太閤秀吉公が三枚橋に御着陣されたため、先手の諸大将が浮島が原までまかり出た。
織田信雄公、権現様も同じく御辺に出られた。
秀吉公は金小札糸緋威の鎧、唐冠の兜、金の大熨斗付きの太刀二振を帯し、金の土俵空穂の上に征矢一筋を付け、作りひげをつけなさっていた。
仙石権兵衛が進上した朱滋の弓をお持ちになり、金の瓔珞の馬鎧をかけた七寸の馬に乗られていた。
供の面々は異類異形の出立ちで、千利休は金の茶筅のついた七節のえつるを指物とし、極の口(樋口?)石見は鼓の筒の指物、狂言師の番内は三番三(三番叟)の装束で、その他さまざまな出立ちであった。
権現様、信雄公はお進みなさり、ことに信雄公は秀吉公の主筋であるため乗り打ちはどうしようかと思しめした。
その上、両大将とも小田原との内通の雑説もあるため、礼儀とはいえ御両将の前で秀吉公は馬からひらりとお降りになり、太刀を御手にかけ
「信雄、家康逆心と承る。立ち上がられよ、一太刀参るぞ」とおっしゃった。
信雄公は赤面して言葉が言えなかった。
権現様は諸人に向かい
「御陣初めに太刀に御手をかけられるとはめでたいことです。何もかもめでたい」
と高らかにおっしゃると、秀吉公は何も言わずに御馬に乗り、お通りになった。
諸軍は権現様の御智勇に感心した。
700人間七七四年
2023/03/08(水) 19:50:34.21ID:5gsbhMFH 「武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり
庵原助右衛門(庵原朝昌)が物語ることには、加藤清正はもちろん抜群な大将であるが、常々もすぐれていたという。
高麗陣のとき、釜山海より二十日ほどの地域は日本勢がかためており、七、八里ごとに城を築いて「繋ぎの城」といっていた。
戸田民部少輔(戸田勝隆)は密陽の城に、清正は全州にいた時に、日本からの指示で清正が帰国することになった。
全州から五日目に密陽には着くことになっていた。
戸田は清正の旧友なのでよろこび、城を掃除して馳走をたくさん用意した。
そして家老である真部五郎右衛門(真鍋貞成)と神谷平右衛門を道まで迎えに出した。
午の刻すぎに真鍋・神谷は密陽の城から四里ほどのところに出ると、清正の先手勢が見えた。
そのころは東西二十日、南北十日の朝鮮の地域は治っており、敵もいなかったため、戸田の家老二人も華やかな羽織袴で鎧を着ることもなかった。
しかし清正の部下たちはいずれもものものしく、箪食(弁当箱)つきの旗指物をなびかせ、鉄砲の火縄にも火をつけ、児小姓まで鎧、面頬までつけていかめしい姿であった。
妙法蓮華教の旗を押し立て、磨いた鉄砲を五百挺真っ先に立てていた。
庵原助右衛門(庵原朝昌)が物語ることには、加藤清正はもちろん抜群な大将であるが、常々もすぐれていたという。
高麗陣のとき、釜山海より二十日ほどの地域は日本勢がかためており、七、八里ごとに城を築いて「繋ぎの城」といっていた。
戸田民部少輔(戸田勝隆)は密陽の城に、清正は全州にいた時に、日本からの指示で清正が帰国することになった。
全州から五日目に密陽には着くことになっていた。
戸田は清正の旧友なのでよろこび、城を掃除して馳走をたくさん用意した。
そして家老である真部五郎右衛門(真鍋貞成)と神谷平右衛門を道まで迎えに出した。
午の刻すぎに真鍋・神谷は密陽の城から四里ほどのところに出ると、清正の先手勢が見えた。
そのころは東西二十日、南北十日の朝鮮の地域は治っており、敵もいなかったため、戸田の家老二人も華やかな羽織袴で鎧を着ることもなかった。
しかし清正の部下たちはいずれもものものしく、箪食(弁当箱)つきの旗指物をなびかせ、鉄砲の火縄にも火をつけ、児小姓まで鎧、面頬までつけていかめしい姿であった。
妙法蓮華教の旗を押し立て、磨いた鉄砲を五百挺真っ先に立てていた。
701人間七七四年
2023/03/08(水) 19:52:41.95ID:5gsbhMFH 清正は溜め塗りの具足に金の蛇の目を書き、例の銀の長烏帽子の兜の緒を締め、頰当、はぎ当、すね当、飯箪までつけ、草鞋をしめ、
銀の九本馬蘭の馬印を自身の背に指し、月毛の馬に白泡を噛ませて来た。
戸田の家老たちが道を避けて畑の中に下馬しているのを見た清正は
「戸田民部殿の使者か、御大儀である。
おっつけ城に着陣するが、小姓たちも汚れているので、風呂を用意し、下々にまで湯をたくさん浴びせていただきたい。
このよし、民部殿へお願い申す」と声高におっしゃった。
真鍋・神谷は「かしこまりました」と馬に乗り、先に帰って戸田に申し述べた。
ほどなく清正が城に到着したため、戸田が出てみると、大馬印を指していかめしい姿であった。
縁側で戸田の小姓二人が清正の馬藺や草鞋やすね当などを解いたところ、清正が腰につけていた緋緞子袋の口が解けて、座敷の畳に落ちた。
そこには米三升、干味噌、銭三百が入っていてかなり重かった。
戸田はおどろき「十里半里に敵もいないのに、重いものを腰に下げ、しかも馬印まで指すとはいかなることですか」と尋ねると
清正は「そのことだが、とかく一大事は油断より出るものです。
たしかに敵がいなければ安心するものですが、急事が起きて油断するようでは今までの武功も水となってしまいます。
下々の士卒はただでさえ油断しがちなのに、清正の心までゆるむと、下々はよけいに帯の紐が解けて怠けるでしょう。
我が身を顧みず油断がないようにすると、下の者は上の者を学ぶと言いますので、このようにしております。
一人の心が万人に通るとも申しますし」
と言うと、戸田民部は感激して涙を流したという。
銀の九本馬蘭の馬印を自身の背に指し、月毛の馬に白泡を噛ませて来た。
戸田の家老たちが道を避けて畑の中に下馬しているのを見た清正は
「戸田民部殿の使者か、御大儀である。
おっつけ城に着陣するが、小姓たちも汚れているので、風呂を用意し、下々にまで湯をたくさん浴びせていただきたい。
このよし、民部殿へお願い申す」と声高におっしゃった。
真鍋・神谷は「かしこまりました」と馬に乗り、先に帰って戸田に申し述べた。
ほどなく清正が城に到着したため、戸田が出てみると、大馬印を指していかめしい姿であった。
縁側で戸田の小姓二人が清正の馬藺や草鞋やすね当などを解いたところ、清正が腰につけていた緋緞子袋の口が解けて、座敷の畳に落ちた。
そこには米三升、干味噌、銭三百が入っていてかなり重かった。
戸田はおどろき「十里半里に敵もいないのに、重いものを腰に下げ、しかも馬印まで指すとはいかなることですか」と尋ねると
清正は「そのことだが、とかく一大事は油断より出るものです。
たしかに敵がいなければ安心するものですが、急事が起きて油断するようでは今までの武功も水となってしまいます。
下々の士卒はただでさえ油断しがちなのに、清正の心までゆるむと、下々はよけいに帯の紐が解けて怠けるでしょう。
我が身を顧みず油断がないようにすると、下の者は上の者を学ぶと言いますので、このようにしております。
一人の心が万人に通るとも申しますし」
と言うと、戸田民部は感激して涙を流したという。
702人間七七四年
2023/03/10(金) 13:19:38.82ID:AqPhcBaW >>699
こういう掛け合いができるから、秀吉も家康を信頼したんだろうな。
こういう掛け合いができるから、秀吉も家康を信頼したんだろうな。
703人間七七四年
2023/03/10(金) 15:19:04.75ID:w0q880jL 馬鹿だなあ 無能だったら潰しやすいのに
有能ゆえに扱いに困るんだわ
有能ゆえに扱いに困るんだわ
704人間七七四年
2023/03/10(金) 20:37:59.68ID:6tXRKhsW よし鼻毛伸ばそう!
705人間七七四年
2023/03/12(日) 16:05:49.62ID:nGsppXvO 「続武家閑談」から宮田光次
神子田半右衛門(神子田正治)、宮田喜八郎(宮田光次)、戸田三郎四郎(戸田勝隆)、尾藤甚右衛門(尾藤知宣)は秀吉草創の時に軍功が大きかったため、都鄙に名が知られていた。
(このあと神子田正治の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13315.html )
こうして秀吉公自ら神子田の晒し首の前の札に
「神子田半右衛門は敵前逃亡をした臆病者なので悪口を書く」と書きつけられた。
宮田についてだが、中国退治の間に戦功が甚だ多かった。
ある時、論功行賞の場でそれぞれの将に入れ札をさせたところ、宮田喜八郎に「逃げ札」が多く入った。
秀吉公は「信長公の御時、林新三郎に逃げ札が七枚入ったため、信長公は御自分でその札を新三郎にくだされ、
信長「臆病者でもその方ほどとはな。
その方でこのようであれば、入れ札など役に立たぬな」
と笑いなされたという。
その方に札が入ったのも同じことだろう。」
と喜八郎に札を下されたそうだ。
秀吉公いまだ天下を統一する前に、宮田は三木城攻めで戦死したという。
戸田三郎四郎、のちに武蔵は関ヶ原で討ち死にした。(実際は朝鮮出兵から帰る時に病死)
神子田半右衛門(神子田正治)、宮田喜八郎(宮田光次)、戸田三郎四郎(戸田勝隆)、尾藤甚右衛門(尾藤知宣)は秀吉草創の時に軍功が大きかったため、都鄙に名が知られていた。
(このあと神子田正治の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13315.html )
こうして秀吉公自ら神子田の晒し首の前の札に
「神子田半右衛門は敵前逃亡をした臆病者なので悪口を書く」と書きつけられた。
宮田についてだが、中国退治の間に戦功が甚だ多かった。
ある時、論功行賞の場でそれぞれの将に入れ札をさせたところ、宮田喜八郎に「逃げ札」が多く入った。
秀吉公は「信長公の御時、林新三郎に逃げ札が七枚入ったため、信長公は御自分でその札を新三郎にくだされ、
信長「臆病者でもその方ほどとはな。
その方でこのようであれば、入れ札など役に立たぬな」
と笑いなされたという。
その方に札が入ったのも同じことだろう。」
と喜八郎に札を下されたそうだ。
秀吉公いまだ天下を統一する前に、宮田は三木城攻めで戦死したという。
戸田三郎四郎、のちに武蔵は関ヶ原で討ち死にした。(実際は朝鮮出兵から帰る時に病死)
706人間七七四年
2023/03/12(日) 16:50:58.98ID:u4UaIy7F イイハナシナノカナー
707705
2023/03/12(日) 18:31:48.51ID:6PqIzfiZ おそらく同じ文章を訳したのだろうけど、ウィキペディアの解釈と自分の解釈がかなり異なっていたので、原文を併記しておく。
ウィキペディア
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/宮田光次
中国退治遠征のとき、宮田喜八郎は戦功が著しかったが、
ある日、将士の戦功を詮議した際に秀吉が喜八郎に多くの入札をして評したところ、喜八郎はその場を逃げ出したが、(皆からの)札が多く入った。
秀吉がいうには、
信長公の家臣にも林新三郎というものが同じようにその場を逃れたが(不在でも戦功ありとする)札が7枚入ったので、信長公は自ら新三郎を称賛されて、
臆病者どもはその身の言い訳のために戦功詮議に出席するがお前のような殊勲者はその場を遁れてさえても7枚も入札されるのだから入札するまでもないといって笑った、
ということがあった。秀吉は喜八郎もその気持だろうといって、札を与えて賞したという[3]。
原文
中国退治の間、戦功甚だ多かりき。
或時、戦功詮議に入札多く致させ給ふ処に宮田喜八郎逃れたりと札多く入ぬ。
秀吉公いわく
「信長の御とき林新三郎事を逃札七枚入たりしを、信長御手つから其札ともを新三郎に下され
「臆病者でも其身のみわけに斯のことし、其方にさへか様なれは入札用に立ぬ事なり」と笑ひ給ふ。
其方入札も此心なり」とて喜八に賜りける。
ウィキペディア
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/宮田光次
中国退治遠征のとき、宮田喜八郎は戦功が著しかったが、
ある日、将士の戦功を詮議した際に秀吉が喜八郎に多くの入札をして評したところ、喜八郎はその場を逃げ出したが、(皆からの)札が多く入った。
秀吉がいうには、
信長公の家臣にも林新三郎というものが同じようにその場を逃れたが(不在でも戦功ありとする)札が7枚入ったので、信長公は自ら新三郎を称賛されて、
臆病者どもはその身の言い訳のために戦功詮議に出席するがお前のような殊勲者はその場を遁れてさえても7枚も入札されるのだから入札するまでもないといって笑った、
ということがあった。秀吉は喜八郎もその気持だろうといって、札を与えて賞したという[3]。
原文
中国退治の間、戦功甚だ多かりき。
或時、戦功詮議に入札多く致させ給ふ処に宮田喜八郎逃れたりと札多く入ぬ。
秀吉公いわく
「信長の御とき林新三郎事を逃札七枚入たりしを、信長御手つから其札ともを新三郎に下され
「臆病者でも其身のみわけに斯のことし、其方にさへか様なれは入札用に立ぬ事なり」と笑ひ給ふ。
其方入札も此心なり」とて喜八に賜りける。
708人間七七四年
2023/03/13(月) 08:56:51.11ID:I+/rUjav709人間七七四年
2023/03/13(月) 09:01:24.77ID:I+/rUjav >>705
こちらの訳の方が自然に見えるね。
こちらの訳の方が自然に見えるね。
710人間七七四年
2023/03/13(月) 11:55:09.74ID:Lm1LxlrS 各々が自分の戦功を主張して場が乱れるから、各々に格付けしてもらって総計を取った感じか
でもなんで逃げ出す必要があるんだ?
他人の評価なんかしたくねえ!俺がイチバン!ていう奴だったのか
でもなんで逃げ出す必要があるんだ?
他人の評価なんかしたくねえ!俺がイチバン!ていう奴だったのか
711人間七七四年
2023/03/13(月) 15:05:26.52ID:eeE8J6i+ 単に照れ屋さんな気が
712人間七七四年
2023/03/13(月) 16:08:50.42ID:tj7WdSLK 穴兄弟を立てるなんて
うわぁキモっ
うわぁキモっ
713人間七七四年
2023/03/14(火) 21:11:06.83ID:r3YEvImd 土屋右衛門尉(昌続)が、山県三郎兵衛(昌景)に聞いた
「いつぞや、穴山(信君)殿が、馬場美濃(信春)殿に問われた、遠州浜松の徳川家康についての噂について、
馬場美濃殿は、『藝能はやく請取る人を利根者、座配良き人を利発者、武辺の勝れて仕る人を利口者』と、
美濃殿は教えられたと聞き及んでます。さて、では(武田家中の)諸侍の中に、利根にて利発にて、しかも
利口なる人は有るでしょうか?」
山県曰く
「信玄公の御家には、侍大将としては内藤修理正(昌豊)、足軽大将としては横田十郎兵衛(康景)と、
この二人が居ります。この他侍大将の中で、若手では小山田弥三郎(信茂ヵ)なども居ります。
そういった人物の中でも、川中島合戦の時討死なされた故典厩(武田信繁)様などは、物事相整った、
まさしく副将軍と言うべき人物でした。」
山県三郎兵衛はそのように申された。
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1630338432/702
このお話の続きですね
『甲陽軍鑑』
「いつぞや、穴山(信君)殿が、馬場美濃(信春)殿に問われた、遠州浜松の徳川家康についての噂について、
馬場美濃殿は、『藝能はやく請取る人を利根者、座配良き人を利発者、武辺の勝れて仕る人を利口者』と、
美濃殿は教えられたと聞き及んでます。さて、では(武田家中の)諸侍の中に、利根にて利発にて、しかも
利口なる人は有るでしょうか?」
山県曰く
「信玄公の御家には、侍大将としては内藤修理正(昌豊)、足軽大将としては横田十郎兵衛(康景)と、
この二人が居ります。この他侍大将の中で、若手では小山田弥三郎(信茂ヵ)なども居ります。
そういった人物の中でも、川中島合戦の時討死なされた故典厩(武田信繁)様などは、物事相整った、
まさしく副将軍と言うべき人物でした。」
山県三郎兵衛はそのように申された。
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1630338432/702
このお話の続きですね
『甲陽軍鑑』
714人間七七四年
2023/03/15(水) 12:17:12.30ID:ChfCPxYW715人間七七四年
2023/03/15(水) 21:05:54.17ID:ffNL6Pnx 「続武家閑談」から本多正信について
本多佐渡守正信の人傑については世の人が知ることである、筆を尽くしても語り切れない。
権現様より四歳年上で、上京の際に松永久秀は
「家康の家臣たちは皆武勇を好むが、本多弥八郎正信のみは不剛不柔不飾でほとんど凡人ではない」と言ったという。
太閤秀吉も正信のことを聞き及んで権現様に告げて召しだした。
すぐに正信は江戸から伏見に出て、御目見えをとげ、ひそかに御旨を伺った。
夕方には増田長盛のところに行き、数刻にわたり密談して暇を告げて、翌朝江戸に帰った。
増田が何とかとりなしたのか、秀吉はあえて咎めなかった。
また権現様は諫言を好んでいた。
このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
徳川家康、家臣の諫言を「聞く」いい話
正信は大いに感心し、宿所で息子の上野介正純にこのことを申し聞かせた。
正純は「その人は誰なのですか?」と問うたので
正信は大いに怒り
「公が平生おっしゃられることには、
「天下を安泰にさせるうえで大事なことは、為政者の人となりが善であるためではない。
大本がなっていなかったとしても、よく諫めを入れて言語をふさがず、家臣を用いるために天下はよく治まる」
ということで諫言を好まれるのだ。
今の話の諫言をした者は智恵が不足しているため、申すところにも道理はないが、それでも大殿はその心を賞しなさった。
お前がその者の名を聞いて足りないところをあざわらおうという心であれば若殿の執事にはなるべきではない」
正信は常に権現様を「大殿」、台徳公(秀忠)を「若殿」と言っていたが、これは権現様の寵愛が深く「友のごとし」とされていたためである。質朴さが感じられる。
権現様は武蔵・相模で狩をなさっていた。
正信は江戸で台徳公の執政であったが、権現様の猟に昼夜伺候した。
権現様の仰せには「遊猟の趣向は第一に部を忘れないこと、次に民間のことを問うためである」ということであった。
ところどころに御留場(将軍家の猟場)があり、権現様の注意は厳しいものであったため、台徳公は謹んで整えさせたという。
本多佐渡守正信の人傑については世の人が知ることである、筆を尽くしても語り切れない。
権現様より四歳年上で、上京の際に松永久秀は
「家康の家臣たちは皆武勇を好むが、本多弥八郎正信のみは不剛不柔不飾でほとんど凡人ではない」と言ったという。
太閤秀吉も正信のことを聞き及んで権現様に告げて召しだした。
すぐに正信は江戸から伏見に出て、御目見えをとげ、ひそかに御旨を伺った。
夕方には増田長盛のところに行き、数刻にわたり密談して暇を告げて、翌朝江戸に帰った。
増田が何とかとりなしたのか、秀吉はあえて咎めなかった。
また権現様は諫言を好んでいた。
このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
徳川家康、家臣の諫言を「聞く」いい話
正信は大いに感心し、宿所で息子の上野介正純にこのことを申し聞かせた。
正純は「その人は誰なのですか?」と問うたので
正信は大いに怒り
「公が平生おっしゃられることには、
「天下を安泰にさせるうえで大事なことは、為政者の人となりが善であるためではない。
大本がなっていなかったとしても、よく諫めを入れて言語をふさがず、家臣を用いるために天下はよく治まる」
ということで諫言を好まれるのだ。
今の話の諫言をした者は智恵が不足しているため、申すところにも道理はないが、それでも大殿はその心を賞しなさった。
お前がその者の名を聞いて足りないところをあざわらおうという心であれば若殿の執事にはなるべきではない」
正信は常に権現様を「大殿」、台徳公(秀忠)を「若殿」と言っていたが、これは権現様の寵愛が深く「友のごとし」とされていたためである。質朴さが感じられる。
権現様は武蔵・相模で狩をなさっていた。
正信は江戸で台徳公の執政であったが、権現様の猟に昼夜伺候した。
権現様の仰せには「遊猟の趣向は第一に部を忘れないこと、次に民間のことを問うためである」ということであった。
ところどころに御留場(将軍家の猟場)があり、権現様の注意は厳しいものであったため、台徳公は謹んで整えさせたという。
716人間七七四年
2023/03/15(水) 21:08:51.53ID:ffNL6Pnx このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5962.html
本多正信、家康の怒りを
の話だけど微妙に違うので一応書いておく。
ある朝、権現様が御覧になると、御留場に罠ととりもちがしかけられていた。
誰のものか調べたところ青山忠成と内藤清成によるものであった。
権現様は「将軍はこのことを存じているのか」とお怒りになられた。
台徳公は「もってのほかの御迷惑でありましょうが、私は知りません。
両人を誅して御憤りをなだめるべきではありますが、両人は我にお付けなさった傅役でありますし、殺すに忍びません。
しばらく出仕をやめさせましょう」
と阿茶局を介しておっしゃったが、権現様は御容赦されなかった。
そこで正信は「このままでは大殿の悪が諸子に越えてしまう。
若殿に国家を捨てさせ匹夫に落とすこともおできになるのに、まして内藤・青山などは」
まずは申し上げようということで権現様の御放鷹に伺候し
「君が若殿に命じて内藤・青山両人の切腹をなされようとしていることをうかがいました。
まことに不憫のいたりで、それがしなど数日仕えただけで、もし営中で少しでも失敗をいたせばたちまち罪科をこうむるでしょう。
江戸所住の出仕をやめて大殿のところで天命の死に進みましょう」と申すと、権現様のお心もとけて、阿茶局に
「将軍もこのように申しておるのだから、友人を殺さぬよう申し遣わす」と命じられた。
台徳公はこれを聞し召し、大いに悦び、両人をゆるして家に帰らせたという。
正信の才覚の妙であった。
しかも高い録を辞して、わずか二万石を領した。関ケ原の前後、大坂の陣での謀略についてはほとんど人口に膾炙している。
正信は権現様御他界から五十日すぎた元和二年(1616年)六月七日に七十九歳で死んだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5962.html
本多正信、家康の怒りを
の話だけど微妙に違うので一応書いておく。
ある朝、権現様が御覧になると、御留場に罠ととりもちがしかけられていた。
誰のものか調べたところ青山忠成と内藤清成によるものであった。
権現様は「将軍はこのことを存じているのか」とお怒りになられた。
台徳公は「もってのほかの御迷惑でありましょうが、私は知りません。
両人を誅して御憤りをなだめるべきではありますが、両人は我にお付けなさった傅役でありますし、殺すに忍びません。
しばらく出仕をやめさせましょう」
と阿茶局を介しておっしゃったが、権現様は御容赦されなかった。
そこで正信は「このままでは大殿の悪が諸子に越えてしまう。
若殿に国家を捨てさせ匹夫に落とすこともおできになるのに、まして内藤・青山などは」
まずは申し上げようということで権現様の御放鷹に伺候し
「君が若殿に命じて内藤・青山両人の切腹をなされようとしていることをうかがいました。
まことに不憫のいたりで、それがしなど数日仕えただけで、もし営中で少しでも失敗をいたせばたちまち罪科をこうむるでしょう。
江戸所住の出仕をやめて大殿のところで天命の死に進みましょう」と申すと、権現様のお心もとけて、阿茶局に
「将軍もこのように申しておるのだから、友人を殺さぬよう申し遣わす」と命じられた。
台徳公はこれを聞し召し、大いに悦び、両人をゆるして家に帰らせたという。
正信の才覚の妙であった。
しかも高い録を辞して、わずか二万石を領した。関ケ原の前後、大坂の陣での謀略についてはほとんど人口に膾炙している。
正信は権現様御他界から五十日すぎた元和二年(1616年)六月七日に七十九歳で死んだ。
717人間七七四年
2023/03/16(木) 00:09:26.38ID:UMfQ7unG 「戦国武将の子孫」を公言していて驚く芸能人ランキング 3位は藤堂高虎の末裔「ゆってぃ」2位に明智光秀の末裔「クリス・ペプラー」 [muffin★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1678880086/1
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718人間七七四年
2023/03/16(木) 00:11:03.96ID:tg45pgpv お父ちゃんは引き際をわきまえていたのに息子は
719人間七七四年
2023/03/16(木) 12:47:37.77ID:1Yy0JpW0720人間七七四年
2023/03/16(木) 15:53:31.21ID:hV6MjIDN 秀吉みたいに子飼いに高禄を与えてたら次の代でぬっ殺されるからなあ
721人間七七四年
2023/03/16(木) 17:02:32.71ID:1Yy0JpW0 信長は親藩と譜代が強力で、外様といえるのは家康くらいか。国持大名ばっかりで小藩がない印象。
秀吉は親藩が弱く、譜代(子飼い)がまずまず、外様が強力。
家康は親藩と外様が大藩で、譜代は弱い。
まあ、江戸幕府で外様が大藩になったのは関ヶ原の経緯から仕方ない面はある。でも、本多忠勝くらいには一国やったってよかったのにな。
秀吉は親藩が弱く、譜代(子飼い)がまずまず、外様が強力。
家康は親藩と外様が大藩で、譜代は弱い。
まあ、江戸幕府で外様が大藩になったのは関ヶ原の経緯から仕方ない面はある。でも、本多忠勝くらいには一国やったってよかったのにな。
722人間七七四年
2023/03/16(木) 18:32:22.63ID:fKzTrDzf 秀次みたいな産ませる機械を壊したのが失策
723人間七七四年
2023/03/17(金) 09:06:24.94ID:ckdpC3Sb まあ、生みすぎで「こいつそのままにしとくと秀頼が危ねえ…」となったんだろうな。
724人間七七四年
2023/03/17(金) 10:33:44.97ID:ct6DtIHM 子沢山の秀次が秀頼を後継ぎにするとは思えないからね。何せ秀吉が秀次押し退けてでも秀頼を後継ぎにしようとしてるくらいなのだから
725人間七七四年
2023/03/17(金) 11:00:50.59ID:TGOPjo4/ 不倫相手の子供なのに惨めだな
726人間七七四年
2023/03/19(日) 18:45:51.31ID:3oOcadZo いい話かは微妙だが、秀頼つながりで。秀頼が薩摩に逃げ延びたという話が譚海にあったので。ちょっと都市伝説風味の話。
阿波の南の海から薩摩へはほど近く、船でたやすく一日で往復できる。それゆえ昔は阿波の漁師が釣りをしながら薩摩まで行き、そこで休息して阿波に帰るといったことが時々あり、自然と知り合いもできて、船を寄せて煙草の火をもらったりもするようになった。その船をよせる場所は薩摩の南海の浜辺で、岸の上には厳重な番所のようなものがあった。とはいえ、海のすぐそばで番人も一人か二人、人のいない寥々たるところで、何を守っているかも定かではない。そんなところだから、阿波の漁師たちも気楽に世間話をしにたびたび集まって番人たちと仲良くなった。
ある漁師が船を寄せた時のこと。番人は一人もおらず、しばらく待っても誰も来ないので、火をもらいに岸に上がり、番所の中へ入った。すると、いつも閉めている番所の後ろの扉が今日は開いている。何だろうと思って何の気なしに入ってみると、綺麗に掃除が行き届いていて人っ子一人いない。びくびくしながら奥に進むと、大きな石の五輪塔が二、三基ある。不思議に思いながらさらに進むと、最奥に美々しく作った五輪塔が一基あって、神廟か何かのようにしてあった。ほかには何もないので船に戻って待っていると、いつもの番人が薪を背負って山から帰ってきたので、船から上がって雑談をした。
ふと、「この奥にあるお墓のようなものは何ですか」と尋ねると、番人大いに驚いて「あなた方、あれを見られたのか。あれは非常な秘事なので、決して口外しないでください。今日はあそこの掃除をした後、山へ木を刈りに行ったので、つい鍵をかけ忘れてしまった。とにかく、決して口外なさいますな」と何度も念を押した。漁師たちもさては豊臣秀頼のお墓をはじめ、真田左衛門尉、そのほかの人々の墓なのであろうと心づいた。こののちは、番人たちも心掛けて漁師と親しくせず、決して他国の船が岸に寄せるのを許さぬようになったということだ。
阿波の南の海から薩摩へはほど近く、船でたやすく一日で往復できる。それゆえ昔は阿波の漁師が釣りをしながら薩摩まで行き、そこで休息して阿波に帰るといったことが時々あり、自然と知り合いもできて、船を寄せて煙草の火をもらったりもするようになった。その船をよせる場所は薩摩の南海の浜辺で、岸の上には厳重な番所のようなものがあった。とはいえ、海のすぐそばで番人も一人か二人、人のいない寥々たるところで、何を守っているかも定かではない。そんなところだから、阿波の漁師たちも気楽に世間話をしにたびたび集まって番人たちと仲良くなった。
ある漁師が船を寄せた時のこと。番人は一人もおらず、しばらく待っても誰も来ないので、火をもらいに岸に上がり、番所の中へ入った。すると、いつも閉めている番所の後ろの扉が今日は開いている。何だろうと思って何の気なしに入ってみると、綺麗に掃除が行き届いていて人っ子一人いない。びくびくしながら奥に進むと、大きな石の五輪塔が二、三基ある。不思議に思いながらさらに進むと、最奥に美々しく作った五輪塔が一基あって、神廟か何かのようにしてあった。ほかには何もないので船に戻って待っていると、いつもの番人が薪を背負って山から帰ってきたので、船から上がって雑談をした。
ふと、「この奥にあるお墓のようなものは何ですか」と尋ねると、番人大いに驚いて「あなた方、あれを見られたのか。あれは非常な秘事なので、決して口外しないでください。今日はあそこの掃除をした後、山へ木を刈りに行ったので、つい鍵をかけ忘れてしまった。とにかく、決して口外なさいますな」と何度も念を押した。漁師たちもさては豊臣秀頼のお墓をはじめ、真田左衛門尉、そのほかの人々の墓なのであろうと心づいた。こののちは、番人たちも心掛けて漁師と親しくせず、決して他国の船が岸に寄せるのを許さぬようになったということだ。
727人間七七四年
2023/03/20(月) 06:12:03.81ID:jc7bScQm > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。
728人間七七四年
2023/03/20(月) 09:34:02.22ID:dJ+hqUf/ ネトウヨは頭がおかしい
729人間七七四年
2023/03/20(月) 18:03:21.91ID:a61r3H24 「どうする家康」の紀行で「浜松まつり」が取り上げられていたので、
浜松の凧揚げを始めたという佐橋甚五郎について
佐橋甚五郎と凧揚げの関連について1974年の「濱松市史」に引用されている
酒井真邑「浜松城記」(お田鶴の方が引間城で戦ったと記す「浜松御在城記」とは別)という徳川御秘書の一つ(実在するか不明)、から抜粋すると
一、永禄年中 飯尾豊前守殿御居城
この子孫曳馬野に住する也、義広(豊前守長子)殿御誕生の時佐橋甚五郎(入野の者)凧の大なるものに御名を記し揚奉る
(中略)
一、慶長六年より松平左馬守殿 九年御居城
慶長九年、前出佐橋甚五郎、朝鮮に帰化して朝鮮人使節となりて浜松の凧を笑ふ、左馬守殿江戸に申送る、
永野、小松の旗本来り大に争ふ
とされていて佐橋甚五郎は浜松の入野の人間となっている。
ただ佐橋甚五郎の父は系図では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13835.html
三河一向一揆で水野忠重に討たれた(「三河物語」によれば)佐橋甚五郎吉実とされる
浜松の凧揚げを始めたという佐橋甚五郎について
佐橋甚五郎と凧揚げの関連について1974年の「濱松市史」に引用されている
酒井真邑「浜松城記」(お田鶴の方が引間城で戦ったと記す「浜松御在城記」とは別)という徳川御秘書の一つ(実在するか不明)、から抜粋すると
一、永禄年中 飯尾豊前守殿御居城
この子孫曳馬野に住する也、義広(豊前守長子)殿御誕生の時佐橋甚五郎(入野の者)凧の大なるものに御名を記し揚奉る
(中略)
一、慶長六年より松平左馬守殿 九年御居城
慶長九年、前出佐橋甚五郎、朝鮮に帰化して朝鮮人使節となりて浜松の凧を笑ふ、左馬守殿江戸に申送る、
永野、小松の旗本来り大に争ふ
とされていて佐橋甚五郎は浜松の入野の人間となっている。
ただ佐橋甚五郎の父は系図では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13835.html
三河一向一揆で水野忠重に討たれた(「三河物語」によれば)佐橋甚五郎吉実とされる
730人間七七四年
2023/03/20(月) 18:06:32.38ID:a61r3H24 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13751.html
「改正三河国後風土記」では、このように松平信康に仕えていたものの同役を討ち果たしたために逐電
そののち武田軍の甘利信恒の首を手土産に帰参。
甲斐の黒駒合戦(1582年)で活躍するも家康に憎まれていたため再び出奔
慶長年間に朝鮮の使節として来日している
(この話を元に小説「佐橋甚五郎」を書いた森鴎外は「続武家閑話」を元にした、と記していて、
山崎一穎「『佐橋甚五郎』攷」でも「続武家閑談」巻十三に「改正三河国後風土記」の元になった話があるとしていたが
国立公文書館の「続武家閑談」では見つからなかった)
黒駒合戦での活躍については
「続武家閑談」巻十二(編者の木村高敦によれば、この巻は「水野勝成覚書」そのもの)の「甲府新府中合戦のこと」によれば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
この話の前半部はほぼ同じで
「この佐橋甚五郎と申すものは三郎様(松平信康)に召し使われていた者でございました。
三郎様が御他界なされたあと、何かしら悪いことをしでかして出奔していたのですが、どうしたことかそのときには拙者の前にいました。
木の橋の側でよく弓を射ていたので、「これは射手であろう」と思っておりました。
重藤の弓でございましたが鉄砲で打ち折られたため捨てました。
甚五郎が「もはや弓も折れ、是非に及ばず」と申したので
拙者が「弓が打ち折れても槍があるだろう」と申すと
甚五郎は「手前には槍もなくこの刀だけです。是非なし」
とかたのごとく刀を振うと、見事な働きで、競り合いに打ち勝ちました。
茂野善十郎、落合左平次、この三人が大いに働きました。
(中略)落合左平次、茂野善十郎らはその後紀伊大納言様へ権現様御意にてつけられたそうです」
なお「三河後風土記」だとこの勇猛ぶりが家康の耳に達するが、家康は佐橋甚五郎を不義の者と憎んでいたため、阿部正勝に誅殺させており、出奔して朝鮮に、とかは出てこない。
「改正三河国後風土記」では、このように松平信康に仕えていたものの同役を討ち果たしたために逐電
そののち武田軍の甘利信恒の首を手土産に帰参。
甲斐の黒駒合戦(1582年)で活躍するも家康に憎まれていたため再び出奔
慶長年間に朝鮮の使節として来日している
(この話を元に小説「佐橋甚五郎」を書いた森鴎外は「続武家閑話」を元にした、と記していて、
山崎一穎「『佐橋甚五郎』攷」でも「続武家閑談」巻十三に「改正三河国後風土記」の元になった話があるとしていたが
国立公文書館の「続武家閑談」では見つからなかった)
黒駒合戦での活躍については
「続武家閑談」巻十二(編者の木村高敦によれば、この巻は「水野勝成覚書」そのもの)の「甲府新府中合戦のこと」によれば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
この話の前半部はほぼ同じで
「この佐橋甚五郎と申すものは三郎様(松平信康)に召し使われていた者でございました。
三郎様が御他界なされたあと、何かしら悪いことをしでかして出奔していたのですが、どうしたことかそのときには拙者の前にいました。
木の橋の側でよく弓を射ていたので、「これは射手であろう」と思っておりました。
重藤の弓でございましたが鉄砲で打ち折られたため捨てました。
甚五郎が「もはや弓も折れ、是非に及ばず」と申したので
拙者が「弓が打ち折れても槍があるだろう」と申すと
甚五郎は「手前には槍もなくこの刀だけです。是非なし」
とかたのごとく刀を振うと、見事な働きで、競り合いに打ち勝ちました。
茂野善十郎、落合左平次、この三人が大いに働きました。
(中略)落合左平次、茂野善十郎らはその後紀伊大納言様へ権現様御意にてつけられたそうです」
なお「三河後風土記」だとこの勇猛ぶりが家康の耳に達するが、家康は佐橋甚五郎を不義の者と憎んでいたため、阿部正勝に誅殺させており、出奔して朝鮮に、とかは出てこない。
731人間七七四年
2023/03/20(月) 18:19:40.83ID:a61r3H24 「浜松城記」の記述が正しいことにして佐橋甚五郎についてまとめると、
・永禄六年(1563年)ごろ、三河一向一揆で水野忠重に父を殺されたため、浜松の入野に住む
・飯尾連龍が氏真に殺された永禄八年(1565年)までに、引間城の飯尾連龍とお田鶴の方の間に長男が生まれたことを祝して大凧を揚げる
・引間城落城後、松平信康に仕えるが天正四年(1576年)までに同輩を殺して出奔
・天正四年(1576年)、武田の甘利信恒に取り行って寵愛を受けるが、甘利の寝首を掻いて徳川帰参
・天正十年(1582年)の黒駒合戦では、父の仇である水野忠重の嫡男の水野勝成と共闘
・しかし家康に疎まれ、阿部正勝に誅殺される
・もしくは再び出奔し朝鮮に渡り、慶長九年(1604年)に朝鮮使節として来日し、浜松で自分の大凧揚げが由来となった凧揚げを見て笑う
ところが家康に甚五郎だと見破られ、一族との文通も禁じられた
(はずだが佐橋家にはなぜか上等の人参がたくさんあったという)
なかなか波瀾万丈
・永禄六年(1563年)ごろ、三河一向一揆で水野忠重に父を殺されたため、浜松の入野に住む
・飯尾連龍が氏真に殺された永禄八年(1565年)までに、引間城の飯尾連龍とお田鶴の方の間に長男が生まれたことを祝して大凧を揚げる
・引間城落城後、松平信康に仕えるが天正四年(1576年)までに同輩を殺して出奔
・天正四年(1576年)、武田の甘利信恒に取り行って寵愛を受けるが、甘利の寝首を掻いて徳川帰参
・天正十年(1582年)の黒駒合戦では、父の仇である水野忠重の嫡男の水野勝成と共闘
・しかし家康に疎まれ、阿部正勝に誅殺される
・もしくは再び出奔し朝鮮に渡り、慶長九年(1604年)に朝鮮使節として来日し、浜松で自分の大凧揚げが由来となった凧揚げを見て笑う
ところが家康に甚五郎だと見破られ、一族との文通も禁じられた
(はずだが佐橋家にはなぜか上等の人参がたくさんあったという)
なかなか波瀾万丈
732人間七七四年
2023/03/21(火) 12:21:09.53ID:skfkcONT 譚海に、さらにツッコミどころ満載の秀頼生存説がもう一つあったので
享保年間中、薩摩の家老の猿渡なにがしが江戸に出て、老中松平左近将監(松平乗邑)殿のところへ、密かに申し上げたき儀ありと対面を願った。猿渡、封印してある墨塗の箱を差し出して、「薩摩守より申し上げまする。去年薩摩にてかの人死去されました故、このようなものを所持していては、恐れながら将軍家のお恥ともなり兼ねぬと存じまして、密かにお返し申そうと持参いたしました」と申し上げた。
左近将監殿、すぐさまその箱を持って登城して言上すると、有徳院公方様開封してご覧になられた。なかには東照院より豊臣家へ遣わされた起請文が入っていて、秀頼が十五歳に達したら政務を返上する旨が書いてあった。これについては何の仰せもなく、ただ、かの人は何歳で死去されたのか、子孫はいるのかなど詳しく聞いてくるようにと上意あり、左近将監殿帰宅して猿渡を召して委細を尋ねられた。
猿渡申し上げていわく、「かの人去年百三十七歳で死去され、百二十一歳の時に男子が生まれ、この子は今も生きております。以前も男子一人出生しましたが、すでに亡くなっており、ほかに女子三人ありますが、いずれも家老どもへ縁組いたしました」
このことが上聞に達すると、来春薩摩守参勤のせつにその男子を同道せよと上意あった。翌年薩摩守が同道して参勤すると、何事もなくお目見えを許され、その男子に知行五百石下賜され、赤坂山王の神主に仰せつけられ、樹下民部という名前も下された。子孫は今も続いていて、樹下はすなわち木下の意であるとのことだ。
樹下民部で検索すると、山王の日枝神社の神主が樹下姓で、元禄十年に幕命により神主職を継いだという話が出てくるので、樹下=木下を思いついた誰かが作った話ですかね。
享保年間中、薩摩の家老の猿渡なにがしが江戸に出て、老中松平左近将監(松平乗邑)殿のところへ、密かに申し上げたき儀ありと対面を願った。猿渡、封印してある墨塗の箱を差し出して、「薩摩守より申し上げまする。去年薩摩にてかの人死去されました故、このようなものを所持していては、恐れながら将軍家のお恥ともなり兼ねぬと存じまして、密かにお返し申そうと持参いたしました」と申し上げた。
左近将監殿、すぐさまその箱を持って登城して言上すると、有徳院公方様開封してご覧になられた。なかには東照院より豊臣家へ遣わされた起請文が入っていて、秀頼が十五歳に達したら政務を返上する旨が書いてあった。これについては何の仰せもなく、ただ、かの人は何歳で死去されたのか、子孫はいるのかなど詳しく聞いてくるようにと上意あり、左近将監殿帰宅して猿渡を召して委細を尋ねられた。
猿渡申し上げていわく、「かの人去年百三十七歳で死去され、百二十一歳の時に男子が生まれ、この子は今も生きております。以前も男子一人出生しましたが、すでに亡くなっており、ほかに女子三人ありますが、いずれも家老どもへ縁組いたしました」
このことが上聞に達すると、来春薩摩守参勤のせつにその男子を同道せよと上意あった。翌年薩摩守が同道して参勤すると、何事もなくお目見えを許され、その男子に知行五百石下賜され、赤坂山王の神主に仰せつけられ、樹下民部という名前も下された。子孫は今も続いていて、樹下はすなわち木下の意であるとのことだ。
樹下民部で検索すると、山王の日枝神社の神主が樹下姓で、元禄十年に幕命により神主職を継いだという話が出てくるので、樹下=木下を思いついた誰かが作った話ですかね。
733人間七七四年
2023/03/21(火) 14:21:20.83ID:07kYylV9 日吉権現に願ったら猿似の男子が生まれたため日吉丸と名付けた
とか「絵本太閤記」とかに書かれてるから
山王権現の神主が樹下姓なら自然と思いつきそう
とか「絵本太閤記」とかに書かれてるから
山王権現の神主が樹下姓なら自然と思いつきそう
734人間七七四年
2023/03/21(火) 15:46:17.00ID:s91iSmcn 秀頼生存説も良い話というより、百姓より天下人になった秀吉の子供である秀頼は天下人から百姓になった、という天道説的没落物語っぽくてなんか…
735人間七七四年
2023/03/21(火) 15:55:29.97ID:ZbYnv9vr 一方生まれながらの将軍は女に目覚めてからは百姓女とパコパコするのが好きな変態だったという
736人間七七四年
2023/03/21(火) 22:17:10.16ID:x6CQOMpB 甲州において、武田法性院大僧正信玄公は、軍法を新しくなされた事について、このような古歌を索かれ説明された
・しなてるや かた岡山のいひにうへて ふせる旅人あはれ親なし 聖徳太子
・いかるかや とみのおがはのたえばこそ 我大君のみなはわすれめ 達磨大師
『この歌は昔、聖徳太子と達磨大師が対面した折の歌である。達磨大師も日本国に渡られて、大和国の片岡山に、
乞食のようにして住まわれていた。臨済の録に、片岡山下老野狐とあるが、その通りであったのだろう。
凡人はゆめにもこれを存じなかったが、聖徳太子、達磨大師は何れも三世を悟る佛同士の寄り合いであり、
互いにそれを知っているからこそ、先の歌の上に『達磨は唐土に帰ると定めていたが、それは日本の仏心宗が、
その頃は時季相応ではないという故であった。事長し。あらゝゝ』と云ったとある。
件の歌は聖徳のものも達磨のものも本来ずっと長かったのだが、これでは人は会得できないとして、藤原定家卿が
短く歌二首に詠んで、人が会得できるようにされたのだと聞いている。
さて又、いやしくも信玄は分別・才覚の真似を以て、工夫・思案して唐国の諸葛孔明が陣をとりしぎ、備を
設けて城を構えられた儀を尋ねてこれに習い、陣取りを大小二つにして、その他人数、備、三つの構え、数の
働きようを仕り、自分の子孫ばかりではなく、誰人であるといえども、扶桑(日本)戦国の中において、
数万の衆を率いて合戦を行う場合の、疑いを定められまいらせんがための、信玄の軍法は斯くの如しである。』
と宣われたのである。
『甲陽軍鑑』
信玄の軍法は誰であっても合戦の疑問に答えられるように作った、という事なのでしょうね。
・しなてるや かた岡山のいひにうへて ふせる旅人あはれ親なし 聖徳太子
・いかるかや とみのおがはのたえばこそ 我大君のみなはわすれめ 達磨大師
『この歌は昔、聖徳太子と達磨大師が対面した折の歌である。達磨大師も日本国に渡られて、大和国の片岡山に、
乞食のようにして住まわれていた。臨済の録に、片岡山下老野狐とあるが、その通りであったのだろう。
凡人はゆめにもこれを存じなかったが、聖徳太子、達磨大師は何れも三世を悟る佛同士の寄り合いであり、
互いにそれを知っているからこそ、先の歌の上に『達磨は唐土に帰ると定めていたが、それは日本の仏心宗が、
その頃は時季相応ではないという故であった。事長し。あらゝゝ』と云ったとある。
件の歌は聖徳のものも達磨のものも本来ずっと長かったのだが、これでは人は会得できないとして、藤原定家卿が
短く歌二首に詠んで、人が会得できるようにされたのだと聞いている。
さて又、いやしくも信玄は分別・才覚の真似を以て、工夫・思案して唐国の諸葛孔明が陣をとりしぎ、備を
設けて城を構えられた儀を尋ねてこれに習い、陣取りを大小二つにして、その他人数、備、三つの構え、数の
働きようを仕り、自分の子孫ばかりではなく、誰人であるといえども、扶桑(日本)戦国の中において、
数万の衆を率いて合戦を行う場合の、疑いを定められまいらせんがための、信玄の軍法は斯くの如しである。』
と宣われたのである。
『甲陽軍鑑』
信玄の軍法は誰であっても合戦の疑問に答えられるように作った、という事なのでしょうね。
737人間七七四年
2023/03/25(土) 22:46:11.27ID:hu1HyIr1 「続武家閑談」から「信玄対謙信伝之事」
謙信と信玄の取合の時分、謙信軍が境を越えてきた。
このとき信玄は一の手に若武者を、二の手に老功の武者をあて、川を前にして布陣した。
これを見た謙信は合戦にかかろうとはしなかった。
この理由だが、一の手の若武者は「老人の前で逃げ腰でいられようか」といよいよ励むだろうし
二の手の老功の武者は「若武者がこうも頑張っているのに劣っていられようか」と進むため、強兵となるからだという
謙信と信玄の取合の時分、謙信軍が境を越えてきた。
このとき信玄は一の手に若武者を、二の手に老功の武者をあて、川を前にして布陣した。
これを見た謙信は合戦にかかろうとはしなかった。
この理由だが、一の手の若武者は「老人の前で逃げ腰でいられようか」といよいよ励むだろうし
二の手の老功の武者は「若武者がこうも頑張っているのに劣っていられようか」と進むため、強兵となるからだという
738人間七七四年
2023/03/25(土) 23:06:10.78ID:hu1HyIr1 (続き)
また、信玄が北条と取合の時、北条常陸介の黄八幡の指物を拾ってきた。
(地黄八幡だから北条綱成だろう)
北条の勇猛で有名な常陸介が我が軍の勢いを恐れて指物を捨てて逃げた、と山県昌景をはじめ皆これを笑った。
信玄は「おそらく差し替えの指物を下人が落としたのだろう。
常陸介は隠れなき弓取である。これにあやかって誉を取れ」
とそのさしものを真田隠岐(真田信尹?)に賜った。
真田隠岐は其歳二十三歳であった。
この真意は、敵に怒りを含ませては無理な働きをさせてしまうからである。
常陸介も三千の大将であるので、より必死で戦うようなら難敵となるからだ。
北条家でも指物を落としたことで常陸介が嘲られていることだろうと落胆していたところに、信玄の批評を聞いたのでほっとした。
常陸介もこれを聞きおよび、よろこんで涙を流したという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-497.html
武田信玄と、北条綱成の地黄八幡の旗・いい話
後の方は一応出ていたけど、真田昌幸に与えられたことになっていた
また、信玄が北条と取合の時、北条常陸介の黄八幡の指物を拾ってきた。
(地黄八幡だから北条綱成だろう)
北条の勇猛で有名な常陸介が我が軍の勢いを恐れて指物を捨てて逃げた、と山県昌景をはじめ皆これを笑った。
信玄は「おそらく差し替えの指物を下人が落としたのだろう。
常陸介は隠れなき弓取である。これにあやかって誉を取れ」
とそのさしものを真田隠岐(真田信尹?)に賜った。
真田隠岐は其歳二十三歳であった。
この真意は、敵に怒りを含ませては無理な働きをさせてしまうからである。
常陸介も三千の大将であるので、より必死で戦うようなら難敵となるからだ。
北条家でも指物を落としたことで常陸介が嘲られていることだろうと落胆していたところに、信玄の批評を聞いたのでほっとした。
常陸介もこれを聞きおよび、よろこんで涙を流したという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-497.html
武田信玄と、北条綱成の地黄八幡の旗・いい話
後の方は一応出ていたけど、真田昌幸に与えられたことになっていた
739人間七七四年
2023/03/26(日) 03:14:21.88ID:6QIuKyed 兎口って何て笑うんだろうな
不気味そう
不気味そう
740人間七七四年
2023/03/26(日) 10:53:20.18ID:AqAmt3K9 まだ真田宝物館に旗があるようだ
741人間七七四年
2023/03/27(月) 16:05:02.71ID:hF7jsEmB 指物ついでに
「続武家閑談」から「岡部権太夫指物落して首と取替る事」
佐竹氏と北条氏康の下総境合戦のとき岡部権太夫は猪廉の指物をつけて、戦場で組討ちをして首を取った。
しかし気づいてみると背中の指物がなく、
「これは組討ちの最中に指物が抜けたのを敵が拾っていったのだろう」と岡部は無念に思った。
そこで取った首をぶら下げ、退却する敵の正面に回って
「これは北条家人下総の岡部権太夫と申すものなり。
ただいまの戦で組討ちをし、指物を取り落としてしまった。
おそらくどなたか拾いなさった人があるだろう。
指物は猪廉である。この首はいまだ首実検をしていないので、これと取り替えてくれ」と声高に言った。
敵が大いに感心していると、武者一騎が出てきて
「殊勝な御所望である。猪廉の指物は関八州でも珍らしので拾いおいた。
すぐにお返ししよう」と返した。
岡部はよろこび首を渡し「御芳志感謝いたす」と背中を向けて指物をささせ、一礼して立ち帰った。
「あっぱれ大剛の武士かな」と敵味方ともに感嘆したということだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-785.html
北条家、岡部権太夫の指物・いい
こちらだと下野での争いになっているためか(沼尻合戦?)北条氏政カテゴリだった
「続武家閑談」から「岡部権太夫指物落して首と取替る事」
佐竹氏と北条氏康の下総境合戦のとき岡部権太夫は猪廉の指物をつけて、戦場で組討ちをして首を取った。
しかし気づいてみると背中の指物がなく、
「これは組討ちの最中に指物が抜けたのを敵が拾っていったのだろう」と岡部は無念に思った。
そこで取った首をぶら下げ、退却する敵の正面に回って
「これは北条家人下総の岡部権太夫と申すものなり。
ただいまの戦で組討ちをし、指物を取り落としてしまった。
おそらくどなたか拾いなさった人があるだろう。
指物は猪廉である。この首はいまだ首実検をしていないので、これと取り替えてくれ」と声高に言った。
敵が大いに感心していると、武者一騎が出てきて
「殊勝な御所望である。猪廉の指物は関八州でも珍らしので拾いおいた。
すぐにお返ししよう」と返した。
岡部はよろこび首を渡し「御芳志感謝いたす」と背中を向けて指物をささせ、一礼して立ち帰った。
「あっぱれ大剛の武士かな」と敵味方ともに感嘆したということだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-785.html
北条家、岡部権太夫の指物・いい
こちらだと下野での争いになっているためか(沼尻合戦?)北条氏政カテゴリだった
742人間七七四年
2023/03/29(水) 18:06:48.91ID:n94hwOxL https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/130sekigahara.html
米沢市上杉博物館 没後四〇〇年記念特別展「上杉景勝と関ヶ原合戦」
会 期:前期 4月22日(土)~5月21日(日)
後期 5月27日(土)~6月25日(日)
定番の国宝「上杉本洛中洛外図屏風」原本展示以外にも、各所から貸し出しを受けた展示品が目白押しなのでぜひご来訪ください。
関が原関連の武将の没後400周年も、そろそろ打ち止めですかね。大阪の陣関連だと何年後までできるのか。
展示品のうち佐竹義宣の甲冑は、秋田市佐竹史料館が改築工事でお休みだからってのもあるんでしょう。
その他の貸出先が工事中ってわけではありませんが。
米沢市上杉博物館 没後四〇〇年記念特別展「上杉景勝と関ヶ原合戦」
会 期:前期 4月22日(土)~5月21日(日)
後期 5月27日(土)~6月25日(日)
定番の国宝「上杉本洛中洛外図屏風」原本展示以外にも、各所から貸し出しを受けた展示品が目白押しなのでぜひご来訪ください。
関が原関連の武将の没後400周年も、そろそろ打ち止めですかね。大阪の陣関連だと何年後までできるのか。
展示品のうち佐竹義宣の甲冑は、秋田市佐竹史料館が改築工事でお休みだからってのもあるんでしょう。
その他の貸出先が工事中ってわけではありませんが。
743人間七七四年
2023/03/29(水) 18:40:36.33ID:QINr/QdV スレチのバカって何でこんなに頭が悪いんだろうな
744人間七七四年
2023/03/29(水) 18:59:41.95ID:0AUyz2EU 甲州武田の普代衆、隨分の(立派な)侍である今福浄閑という人物が在ったが、彼は若い頃より
ためし物(試し斬り)を能く斬る人で、しかも上手であった。据物を斬ってその頸が落ちる瞬間、
脇差しを以て傷口を貫いて、下に落とさぬよう落下の途中で上に上げるほどの手練であった。
彼はためし物の上手であったので武田家の侍衆は大身・小身共にそれを浄閑に頼んだ。
そのようであったので、年齢が四十六、七歳の頃までには、千人に及ぶほど斬ったと評された。
しかし実際には百人から二百人ほどであっただろう。
この人はどういうわけか、自身の能き子供が幾人も病死した。しかし今福浄閑は禅の参学などして
心も出来た人であったので、下劣な批判には取り合わず、子供が死ぬのも所詮因果に過ぎないとして、
すこしも取り合わなかった。
ある時、信州岩村田の法興和尚が甲州に御座あったが、今福浄閑はこの和尚に見廻(見舞)に参った。
この折、法興和尚は今福入道への教化として言った
「その方は良い齢であるのに、ためしもので罪を作るのは勿体ない。」
今福入道は
「私が斬るのはどこぞの囚人であり、その科が斬り参らすのです。」と言われた。
知識(和尚)は「それは先ず尤もである。」としばらく間を置き、法興和尚は仰せに成った
「今福入道、このいろりへ炭を入れてくれないだろうか。」
「畏まって候」と炭を持って炉辺へ寄った所、和尚は宣われた
「大きな炭を火箸にてはいかがであろうか。定めて、さすが武田の幕下歴々の今福入道であれば、
指を以て炭を入れてくれないだろうか。」
今福浄閑はまた、物の興のある人物で諸芸に達し、既に能などする時も、古保庄太夫などの能楽の者が
立ち会っていても、結句今福の方が優れているほどであった。そういった人であったので、この時も
炭をいかにも面白く入れられた。
さて、立ち退く時、浄閑は手を拭った。このとき和尚は宣わった「今福入道はどうして手を拭うのか。」
「今持った炭のために汚れたのです。」
「この炭を焼いた炭焼の手も、定めて汚れていたのであろうな。」
今福入道は申した「炭焼はこれを製造して出すのですから当然ですが、今はその炭を取った私の手が
汚れたのです。」
「さてこそ、先刻その方がためし物について、相手に科があると言ったが、それを究めて頸斬る今福浄閑にも、
(炭を取った手が汚れたように)その罪がまとわりつくのだ。」
このような法興和尚のすすめにて、今福入道はその後、ためし物を斬らなくなったという。
『甲陽軍鑑』
ためし物(試し斬り)を能く斬る人で、しかも上手であった。据物を斬ってその頸が落ちる瞬間、
脇差しを以て傷口を貫いて、下に落とさぬよう落下の途中で上に上げるほどの手練であった。
彼はためし物の上手であったので武田家の侍衆は大身・小身共にそれを浄閑に頼んだ。
そのようであったので、年齢が四十六、七歳の頃までには、千人に及ぶほど斬ったと評された。
しかし実際には百人から二百人ほどであっただろう。
この人はどういうわけか、自身の能き子供が幾人も病死した。しかし今福浄閑は禅の参学などして
心も出来た人であったので、下劣な批判には取り合わず、子供が死ぬのも所詮因果に過ぎないとして、
すこしも取り合わなかった。
ある時、信州岩村田の法興和尚が甲州に御座あったが、今福浄閑はこの和尚に見廻(見舞)に参った。
この折、法興和尚は今福入道への教化として言った
「その方は良い齢であるのに、ためしもので罪を作るのは勿体ない。」
今福入道は
「私が斬るのはどこぞの囚人であり、その科が斬り参らすのです。」と言われた。
知識(和尚)は「それは先ず尤もである。」としばらく間を置き、法興和尚は仰せに成った
「今福入道、このいろりへ炭を入れてくれないだろうか。」
「畏まって候」と炭を持って炉辺へ寄った所、和尚は宣われた
「大きな炭を火箸にてはいかがであろうか。定めて、さすが武田の幕下歴々の今福入道であれば、
指を以て炭を入れてくれないだろうか。」
今福浄閑はまた、物の興のある人物で諸芸に達し、既に能などする時も、古保庄太夫などの能楽の者が
立ち会っていても、結句今福の方が優れているほどであった。そういった人であったので、この時も
炭をいかにも面白く入れられた。
さて、立ち退く時、浄閑は手を拭った。このとき和尚は宣わった「今福入道はどうして手を拭うのか。」
「今持った炭のために汚れたのです。」
「この炭を焼いた炭焼の手も、定めて汚れていたのであろうな。」
今福入道は申した「炭焼はこれを製造して出すのですから当然ですが、今はその炭を取った私の手が
汚れたのです。」
「さてこそ、先刻その方がためし物について、相手に科があると言ったが、それを究めて頸斬る今福浄閑にも、
(炭を取った手が汚れたように)その罪がまとわりつくのだ。」
このような法興和尚のすすめにて、今福入道はその後、ためし物を斬らなくなったという。
『甲陽軍鑑』
745人間七七四年
2023/03/29(水) 19:02:03.64ID:atCz6vka 佐竹義宣が1633年没、伊達政宗が1636年没、あと十数年は400周年記念行事があるでしょうよ
746人間七七四年
2023/03/29(水) 19:12:08.10ID:s91GNlX4 「甲陽軍鑑」といえば今川氏真を「馬嫁(ばか)なる大将」と書いてるけど
大河ドラマの早川殿はむしろ足が悪かった感じに
(徒歩で逃げたことに対して父の北条氏康が怒ったネタを使うため?)
なってたから馬の嫁、て感じではないな
大河ドラマの早川殿はむしろ足が悪かった感じに
(徒歩で逃げたことに対して父の北条氏康が怒ったネタを使うため?)
なってたから馬の嫁、て感じではないな
748人間七七四年
2023/03/29(水) 21:48:12.55ID:ttbfDJcS 「続武家閑談」から正重の疵
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7323.html
の元になった記事
掛川城攻めの時、信長公御家中の日根野備中(日根野弘就)の甥である日根野弥吉が落城時に城中にいた。
徳川軍が城中に攻め入ったところ、二の丸と本丸の間で太郎作(水野正重)が弥吉にであった。
弥吉が言うには「その方は家康家中のなんと申す者だ。
それがしは日根野備中の甥、日根野弥吉と申すものだ。
それがしのことはその方の主君の家康もよくご存知なので、わが首を得たならば家康に見参させよ。」
と名乗り、会釈もなく太郎作と組んで、首を取られた。
太郎作が弥吉の首を取って立ち上がったところを、敵一人が来て、一間半ほどのところから太郎作の腰のえびらを射通した。
重傷で苦しんでいたため、丸山清林という外科を大御所様は御前に召され
「水野太郎作の傷の具合はどうだ」とお尋ねになられた。
清林が申すには「急所に少しはずれましたのでそのうち楽になるでしょう」と申した。
大御所様は「なにとぞ、なにとぞ太郎作の命を救ってくれ」と重ね重ね清林に頼まれた。
冥加が至極あり御意のとおり完治した、と物語った。
(これは水野太郎作の息子が書き置いたものを写した話)
日根野弘就も甥と同様、当時今川方だが、水野太郎作の息子は当時も織田信長の家臣と認識したたのだろうか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7323.html
の元になった記事
掛川城攻めの時、信長公御家中の日根野備中(日根野弘就)の甥である日根野弥吉が落城時に城中にいた。
徳川軍が城中に攻め入ったところ、二の丸と本丸の間で太郎作(水野正重)が弥吉にであった。
弥吉が言うには「その方は家康家中のなんと申す者だ。
それがしは日根野備中の甥、日根野弥吉と申すものだ。
それがしのことはその方の主君の家康もよくご存知なので、わが首を得たならば家康に見参させよ。」
と名乗り、会釈もなく太郎作と組んで、首を取られた。
太郎作が弥吉の首を取って立ち上がったところを、敵一人が来て、一間半ほどのところから太郎作の腰のえびらを射通した。
重傷で苦しんでいたため、丸山清林という外科を大御所様は御前に召され
「水野太郎作の傷の具合はどうだ」とお尋ねになられた。
清林が申すには「急所に少しはずれましたのでそのうち楽になるでしょう」と申した。
大御所様は「なにとぞ、なにとぞ太郎作の命を救ってくれ」と重ね重ね清林に頼まれた。
冥加が至極あり御意のとおり完治した、と物語った。
(これは水野太郎作の息子が書き置いたものを写した話)
日根野弘就も甥と同様、当時今川方だが、水野太郎作の息子は当時も織田信長の家臣と認識したたのだろうか
749人間七七四年
2023/03/29(水) 22:09:38.84ID:Em404pRp750人間七七四年
2023/03/29(水) 22:12:47.14ID:Em404pRp この時は2人とも今川方でした!って注釈いれないとバカには理解できないらしい
751人間七七四年
2023/03/29(水) 22:56:38.93ID:G39ficZt 同書は信長の死後の天正十二年の蟹江城の合戦までの記事があり
水野太郎作が桶狭間の戦いの時に十六歳としているため
その息子が書いた年を考えると、信長死後だいぶ経ってからと思われます。
水野太郎作が桶狭間の戦いの時に十六歳としているため
その息子が書いた年を考えると、信長死後だいぶ経ってからと思われます。
752人間七七四年
2023/03/30(木) 09:12:20.35ID:PCZy94dg 伝世洋剣 水口レイピアの謎に挑む
小林公治 編
https://www.chukobi.co.jp/products/detail.php?product_id=884
それは日本製の「洋剣」なのか?
滋賀県甲賀市の神社に伝わる一振の長剣、水口レイピア。美術史・理化学・文献史の研究者が多角的な視点から、
東洋と西洋が交差した大航海時代に誕生した比類なき伝世品の実像に迫る。
まとめの2019年度のこちらが書籍になったようです。編者は実際に調査された方ですので、詳細な経緯がわかりそうですね。
【ニュース】「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12141.html
小林公治 編
https://www.chukobi.co.jp/products/detail.php?product_id=884
それは日本製の「洋剣」なのか?
滋賀県甲賀市の神社に伝わる一振の長剣、水口レイピア。美術史・理化学・文献史の研究者が多角的な視点から、
東洋と西洋が交差した大航海時代に誕生した比類なき伝世品の実像に迫る。
まとめの2019年度のこちらが書籍になったようです。編者は実際に調査された方ですので、詳細な経緯がわかりそうですね。
【ニュース】「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12141.html
753人間七七四年
2023/03/30(木) 09:38:21.24ID:wJymD5x+ 先月出た歴史文化ライブラリーの
北野信彦「天下人たちの文化戦略 科学の眼でみる桃山文化」
のテーマが桃山文化・寛永文化の技術における世界(中国、東南アジア、西洋)の資源や技術の応用だったから重なるか
レイピアの話はなかったけど
北野信彦「天下人たちの文化戦略 科学の眼でみる桃山文化」
のテーマが桃山文化・寛永文化の技術における世界(中国、東南アジア、西洋)の資源や技術の応用だったから重なるか
レイピアの話はなかったけど
754人間七七四年
2023/03/30(木) 11:50:57.41ID:/0xlCPcr どこがいい話なんだスレチくん
スレ立ててそこでやってろよ
スレ立ててそこでやってろよ
755人間七七四年
2023/03/31(金) 09:26:50.50ID:uCy/L7mH 南北朝時代の錦旗が実在していたとは、文化財指定が40年前ということなのにさっぱり知らなかった
というか戦国時代に浪岡北畠氏は断絶したものとばかり・・
東欧日報2023年3月29日
北畠家の宝4品 板柳町に寄贈/現当主・顕浩さん
https://toonippo.ismcdn.jp/mwimgs/c/f/300m/img_cfea9b6a8b247878ffc8787dabb250b91012254.jpg
https://www.toonippo.co.jp/articles/-/1526629
浪岡北畠氏の子孫に当たる青森県板柳町出身の北畠顕浩さん(59)=盛岡市=が28日、板柳町役場を訪れ、
北畠家が所蔵する約700年前の錦旗(きんき)や、津軽最古の民間記録とされる永禄日記の原書など4品を町に寄贈した。
いずれも1984年に町第1号の文化財指定を受けた。町は郷土資料館などで保管、展示する方針。
というか戦国時代に浪岡北畠氏は断絶したものとばかり・・
東欧日報2023年3月29日
北畠家の宝4品 板柳町に寄贈/現当主・顕浩さん
https://toonippo.ismcdn.jp/mwimgs/c/f/300m/img_cfea9b6a8b247878ffc8787dabb250b91012254.jpg
https://www.toonippo.co.jp/articles/-/1526629
浪岡北畠氏の子孫に当たる青森県板柳町出身の北畠顕浩さん(59)=盛岡市=が28日、板柳町役場を訪れ、
北畠家が所蔵する約700年前の錦旗(きんき)や、津軽最古の民間記録とされる永禄日記の原書など4品を町に寄贈した。
いずれも1984年に町第1号の文化財指定を受けた。町は郷土資料館などで保管、展示する方針。
756人間七七四年
2023/03/31(金) 12:15:12.41ID:Et8oKEjV >>755
死ね
死ね
757人間七七四年
2023/03/31(金) 13:50:23.23ID:iY1J9mvs スレ違いにしても死ねは言い過ぎ
758人間七七四年
2023/03/31(金) 19:21:04.67ID:5g8rZmk3 浪岡北畠についての過去の逸話にもあるけど奥羽に散り散りになってどの家も維新迎えてる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7349.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7349.html
759人間七七四年
2023/03/31(金) 20:49:26.67ID:eLwg5cPw https://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/takii-date/photo_002b.jpg
こちらの青森県板柳町の解説によると、>>758の逸話の子孫が>>755の方らしいですね。
ただ、今回家宝を寄贈して盛岡在住ってことからすると、既にご一族は先祖代々の館跡から離れているのかな?
こちらの青森県板柳町の解説によると、>>758の逸話の子孫が>>755の方らしいですね。
ただ、今回家宝を寄贈して盛岡在住ってことからすると、既にご一族は先祖代々の館跡から離れているのかな?
760人間七七四年
2023/03/31(金) 21:15:56.89ID:qqupdpl3 「永禄日記」を読むと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7067.html
津軽信建と天藤四兄弟
の話があって、てっきり津軽信建の悪逆ぶりが後世に盛られたのかと思ったら細部も同じで驚いた。
あと元和元年(慶長二十年)の記事に
大坂落城時の秀頼公御詠歌(辞世の句?)として
「アワレタゝウキトキツルゝトモゝカナ人ナサケハヨニアリシホト
(哀れただ 憂き時連るる 友もがな 人の情けは 世にありしほど?)」が載っていた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7067.html
津軽信建と天藤四兄弟
の話があって、てっきり津軽信建の悪逆ぶりが後世に盛られたのかと思ったら細部も同じで驚いた。
あと元和元年(慶長二十年)の記事に
大坂落城時の秀頼公御詠歌(辞世の句?)として
「アワレタゝウキトキツルゝトモゝカナ人ナサケハヨニアリシホト
(哀れただ 憂き時連るる 友もがな 人の情けは 世にありしほど?)」が載っていた
761人間七七四年
2023/03/31(金) 22:21:57.29ID:eLwg5cPw とりあえず「永禄日記」とはこういうものらしい。
?みちのく双書 第一集『永禄日記』昭和31年刊 ?
『永禄日記』は浪岡城主北畠氏の後裔、山崎氏(浪岡落城後に山崎と姓を変えていましたが、明治十五年に北畠に復姓しています)の家記であるこの日記は、
「山崎記」或いは単に「記録」などと 題されて二百年にわたり代々書き伝えられていましたが、損傷が多くなり、宝暦十三(1763)年に、山崎立朴によって
整理・編纂一書としたものです。書かれている内容は、物価、天候、天変地異 から政治まで、多方面に亘っています。
?みちのく双書 第一集『永禄日記』昭和31年刊 ?
『永禄日記』は浪岡城主北畠氏の後裔、山崎氏(浪岡落城後に山崎と姓を変えていましたが、明治十五年に北畠に復姓しています)の家記であるこの日記は、
「山崎記」或いは単に「記録」などと 題されて二百年にわたり代々書き伝えられていましたが、損傷が多くなり、宝暦十三(1763)年に、山崎立朴によって
整理・編纂一書としたものです。書かれている内容は、物価、天候、天変地異 から政治まで、多方面に亘っています。
762人間七七四年
2023/04/01(土) 12:47:18.86ID:UeNMkdTv お前ら先祖が最下層の農民や非人だったから俺ら華族に憧れがあるんだろ
残念だったな親ガチャ失敗してw
残念だったな親ガチャ失敗してw
763人間七七四年
2023/04/02(日) 16:24:46.07ID:0/464KFC 敵討ちのことについて。
先ず、狙われる側の人は常に寝所を変え、昼夜用心し、その上路次を行く所に、先に敵が待っていると聞けば、
脇道を通って迂回するなど、どのように仕るとも討たれるようにするのが分別尤もと言える。
この事を、無案内な人々から卑怯であると言われても、全く問題はない(此儀を無案内なる人々比興という共不苦)。
信玄家の作法はそのようになっているのだ。
次に狙う人は、その身が怪我をしたことへの意趣であるなら、夜昼共に狙って討ち果たそうという時、
その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを
手柄といたすべきである。
自分の意趣で討つ場合でも、敵討ちであっても、その敵の家に忍び込んで討ち果たすのは、ひとしお良き
心馳せと申すものである。
他の家はどうであれ、信玄家の作法は斯くの如しである。
『甲陽軍鑑』
先ず、狙われる側の人は常に寝所を変え、昼夜用心し、その上路次を行く所に、先に敵が待っていると聞けば、
脇道を通って迂回するなど、どのように仕るとも討たれるようにするのが分別尤もと言える。
この事を、無案内な人々から卑怯であると言われても、全く問題はない(此儀を無案内なる人々比興という共不苦)。
信玄家の作法はそのようになっているのだ。
次に狙う人は、その身が怪我をしたことへの意趣であるなら、夜昼共に狙って討ち果たそうという時、
その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを
手柄といたすべきである。
自分の意趣で討つ場合でも、敵討ちであっても、その敵の家に忍び込んで討ち果たすのは、ひとしお良き
心馳せと申すものである。
他の家はどうであれ、信玄家の作法は斯くの如しである。
『甲陽軍鑑』
764人間七七四年
2023/04/02(日) 19:29:49.48ID:mxpp21ER 今日の大河の将軍義昭の衣装、あれあの色の衣って許されてたんだっけ?
765人間七七四年
2023/04/02(日) 20:52:25.50ID:IvYZ1SFj ファンタジーに食いつくアホが釣れましたw
766人間七七四年
2023/04/04(火) 09:10:38.20ID:d0SphvuW >その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
>さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを手柄といたすべきである。
ここすき
>さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを手柄といたすべきである。
ここすき
767人間七七四年
2023/04/04(火) 11:27:47.19ID:cFINril/ >>766
卑怯なジャップらしいわ
卑怯なジャップらしいわ
768人間七七四年
2023/04/04(火) 21:14:50.13ID:Flu5Hexi この書き方だと、妻や子供の敵討ちというのは、弓や鉄砲は駄目なんだな。
769人間七七四年
2023/04/04(火) 21:21:31.29ID:7VhXufKi 武田信玄公の仕置に、諸々の境目に在る侍大将衆に、近国・他国の大将の行儀、作法、仕形などを
聞き出し次第、善悪共に一ツ書にて言上いたせ、というものがあった。
或る年、遠州犬居の天野宮内右衛門(藤秀)と申す侍大将の所より進上仕る書状に、
『美濃岐阜の織田信長に、直系一尺(約30センチ)にもなる桃が三つ成ったものを枝折りにして、
霜月(十一月)中の十日に献上した所、信長は差し引きの冴えたる大将であり、上辺は事を破っている
ように見えても、内心には時により、一段と練れたる事の多き武士でありますから、この桃を大いに
心祝いして、一つは信長自身が取り、もう一つは嫡子城介信忠へ参らされ、三ツ目を遠州浜松の
徳川家康へと送られました。
この事に対し家康は、世の常ならぬほど忝ないことだという返事を出しましたが、その桃は密かに捨てさせ、
家康が食うことはありませんでした。』
これを天野宮内右衛門は書き付けて提出した。それは一ツ書の多い中に、「これはそれほどの事でも無い」と、
末にいかにも粗略に書いたものであったが、信玄公はこれをご覧になり、その書付を御手に取られ、
しばらく目を塞がれた後、御目を開いて申された
「家康は今年で定めて三十ばかりであろう。しかし四十代に及び殊更大身の信長に比べ、五位も増した、
締まりどころ在る分別である。これに対し、武士の心馳せの無い者が聞けば、年齢に似合わぬとも
申すであろうが、三河国を治めるとして、十九歳より二十六まで八年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れも
それに相応し、海道一の武士と呼ばれているが、日本国においても彼に匹敵する武将はあまり多くはないだろう。
丹波の赤井(荻野直正ヵ)、江北の浅井備前守(長政)、四国の長宗我部(元親)、会津の(蘆名)盛氏、そして
若手にはこの家康であろう。
さて、時期外れのこの桃を捨てたこの分別は、後の出世を考えてのことであろう。この出世とは、無事年を明ける
事ができれば吉事となるという事であり。その意味は馬場美濃、内藤修理、高政は定めて合点するであろう。」
そのように宣われた。
『甲陽軍鑑』
聞き出し次第、善悪共に一ツ書にて言上いたせ、というものがあった。
或る年、遠州犬居の天野宮内右衛門(藤秀)と申す侍大将の所より進上仕る書状に、
『美濃岐阜の織田信長に、直系一尺(約30センチ)にもなる桃が三つ成ったものを枝折りにして、
霜月(十一月)中の十日に献上した所、信長は差し引きの冴えたる大将であり、上辺は事を破っている
ように見えても、内心には時により、一段と練れたる事の多き武士でありますから、この桃を大いに
心祝いして、一つは信長自身が取り、もう一つは嫡子城介信忠へ参らされ、三ツ目を遠州浜松の
徳川家康へと送られました。
この事に対し家康は、世の常ならぬほど忝ないことだという返事を出しましたが、その桃は密かに捨てさせ、
家康が食うことはありませんでした。』
これを天野宮内右衛門は書き付けて提出した。それは一ツ書の多い中に、「これはそれほどの事でも無い」と、
末にいかにも粗略に書いたものであったが、信玄公はこれをご覧になり、その書付を御手に取られ、
しばらく目を塞がれた後、御目を開いて申された
「家康は今年で定めて三十ばかりであろう。しかし四十代に及び殊更大身の信長に比べ、五位も増した、
締まりどころ在る分別である。これに対し、武士の心馳せの無い者が聞けば、年齢に似合わぬとも
申すであろうが、三河国を治めるとして、十九歳より二十六まで八年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れも
それに相応し、海道一の武士と呼ばれているが、日本国においても彼に匹敵する武将はあまり多くはないだろう。
丹波の赤井(荻野直正ヵ)、江北の浅井備前守(長政)、四国の長宗我部(元親)、会津の(蘆名)盛氏、そして
若手にはこの家康であろう。
さて、時期外れのこの桃を捨てたこの分別は、後の出世を考えてのことであろう。この出世とは、無事年を明ける
事ができれば吉事となるという事であり。その意味は馬場美濃、内藤修理、高政は定めて合点するであろう。」
そのように宣われた。
『甲陽軍鑑』
770人間七七四年
2023/04/04(火) 21:22:08.31ID:mUM08mQR そもそも目上の男性の敵以外は敵討にならないよ
771人間七七四年
2023/04/04(火) 22:43:19.41ID:mUM08mQR そもそも目上の男性の敵以外は敵討にならないよ
772人間七七四年
2023/04/05(水) 03:13:26.68ID:EsqAvUW1 なんで2回言ってんだ?
773人間七七四年
2023/04/05(水) 09:43:17.78ID:IEEkKZDY 寒かっただけでとち狂った時代
やってる中身は今と変わらぬ時代
やってる中身は今と変わらぬ時代
774人間七七四年
2023/04/05(水) 09:49:39.59ID:OzRsC2U6775人間七七四年
2023/04/05(水) 09:50:46.44ID:OzRsC2U6 お詫び(?)に『異説まちまち』から松平忠輝のいい話を
忠輝公に蟄居を仰せつけられる使者として中山助六が遣わされた。中山、無刀で忠輝公の御前にまかり出て蟄居の旨を申し上げると、忠輝公、「その方が刀を差してわが前に出てきたならば切って捨てようと思っていたが、無刀で出てきたことは天晴だ。お請けしよう」と仰った。
助六すぐさま後ろに飛び退って、「若様のご返事次第ではかように覚悟しておりました」と懐剣を出してお見せすると、忠輝公、「さてさて、上様はお人持ちであらせられる」と感服されたということだ。
忠輝公に蟄居を仰せつけられる使者として中山助六が遣わされた。中山、無刀で忠輝公の御前にまかり出て蟄居の旨を申し上げると、忠輝公、「その方が刀を差してわが前に出てきたならば切って捨てようと思っていたが、無刀で出てきたことは天晴だ。お請けしよう」と仰った。
助六すぐさま後ろに飛び退って、「若様のご返事次第ではかように覚悟しておりました」と懐剣を出してお見せすると、忠輝公、「さてさて、上様はお人持ちであらせられる」と感服されたということだ。
776人間七七四年
2023/04/05(水) 19:27:04.81ID:jWaTSmOW 貝原益軒「朝野雑載」から大友宗麟の和歌
大友義鎮(宗麟)は諸芸に通じ、歌道にも達していた。
あるとき戯れにオウムの歌を詠んだ
「なびくなよ、しめておく野の女郎花 思ふかたより風はふくとも」
「なびくまじ、しめて置のの女郎花 思ふかたより風はふくとも」
この両首をどうしたわけか天子が聞こしめし、「雪の中の早苗」「蛍火の灰」という難題を豊後国に下されたため、この禁題にて義鎮が詠んだ
雪中早苗
富士うつる田子の浦わの里人は 雪の中にもさなへとるなり
蛍火灰
夜もすがらともす蛍の火も消て いけの真こもに、はひかかりけり
天子より題を下されたるこころを
思ひきや筑紫の海の果までも 和歌の浦波かかるべしとは
この三首を奏聞したため、叡感があったという。
※存斎(貝原益軒の兄)が言うには、終わりの歌は難題二つの歌に対する天子の賞賛の御製であろう
なびくなよ…なびくまじ…の両歌は
細川忠興「なびくなよ我が姫垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
ガラシャ「なびくまじ我がませ垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
に似ているが、本歌があるのだろうか
大友義鎮(宗麟)は諸芸に通じ、歌道にも達していた。
あるとき戯れにオウムの歌を詠んだ
「なびくなよ、しめておく野の女郎花 思ふかたより風はふくとも」
「なびくまじ、しめて置のの女郎花 思ふかたより風はふくとも」
この両首をどうしたわけか天子が聞こしめし、「雪の中の早苗」「蛍火の灰」という難題を豊後国に下されたため、この禁題にて義鎮が詠んだ
雪中早苗
富士うつる田子の浦わの里人は 雪の中にもさなへとるなり
蛍火灰
夜もすがらともす蛍の火も消て いけの真こもに、はひかかりけり
天子より題を下されたるこころを
思ひきや筑紫の海の果までも 和歌の浦波かかるべしとは
この三首を奏聞したため、叡感があったという。
※存斎(貝原益軒の兄)が言うには、終わりの歌は難題二つの歌に対する天子の賞賛の御製であろう
なびくなよ…なびくまじ…の両歌は
細川忠興「なびくなよ我が姫垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
ガラシャ「なびくまじ我がませ垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
に似ているが、本歌があるのだろうか
777人間七七四年
2023/04/05(水) 19:31:53.70ID:jWaTSmOW http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3316.html
名門武家の若者、後奈良天皇の求めに
こちらの話だと宗麟が若い頃に参内して後奈良天皇の前で「雪中早苗」一首を詠んだことになっていた
名門武家の若者、後奈良天皇の求めに
こちらの話だと宗麟が若い頃に参内して後奈良天皇の前で「雪中早苗」一首を詠んだことになっていた
778人間七七四年
2023/04/05(水) 21:22:42.24ID:EsqAvUW1779人間七七四年
2023/04/06(木) 12:18:07.62ID:sy19QJwM >>769
重要人物は季節外れの果物は食べないって、別の逸話でも見た気がするな。あれは誰だったか…。
重要人物は季節外れの果物は食べないって、別の逸話でも見た気がするな。あれは誰だったか…。
780人間七七四年
2023/04/06(木) 12:27:27.97ID:wrO1aHin781人間七七四年
2023/04/06(木) 12:31:22.08ID:sy19QJwM782人間七七四年
2023/04/06(木) 16:53:04.10ID:QdzFzLJH 少し意味が違うが、打ち首直前の石田三成が水を飲ませてくれと言ったら、水はないが柿ならあるけれどどうだ?と言われて、柿は腹を冷やすからいらないと言った話があったな
784人間七七四年
2023/04/06(木) 21:38:36.39ID:asQEHxFF じゃあ他に果物が体に悪いって話ある?
785人間七七四年
2023/04/06(木) 22:55:45.51ID:FhYovSIC そもそも日本原産の果物って柿だけだろ?
戦国時代にあったのってかなり限られるんじゃね
戦国時代にあったのってかなり限られるんじゃね
787人間七七四年
2023/04/07(金) 09:15:08.34ID:1D1H5gP+ 林檎、小みかんとかも
姫林檎みたいな小さい種類だったと思うけど、浅井長政が苗をくれてありがとうという手紙を書いていたはず
姫林檎みたいな小さい種類だったと思うけど、浅井長政が苗をくれてありがとうという手紙を書いていたはず
788人間七七四年
2023/04/07(金) 09:37:11.47ID:APLW2NFB 前に出ていたフランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」の16世紀末の様子
多くの大都市と無数の人口があり、景観は良い。米が特に豊かで、穀物、野菜、果物にも富んでいる。
特に皮ごと食べられるオレンジを含めた柑橘類を強調しよう。
オレンジは我々のレモンに似ており、cunebes(九年母?)と呼ばれる。また桜桃ほどの小さなレモンに似た柑橘類もあり、
これも皮ごと食べられるし、ジャムにしてもおいしい。
(この後フィレンチェに持ち帰った種の話あり)
梨もあり、非常に大きくて瑞々しい。皮は非常に薄く剥くことは難しい。梨、桃、杏は砂糖漬けにすると美味である。
ぶどうはほとんど見られないが、聖職者たちが見本市のためにワインを準備することもある。
メロンは多量に入手可能であるが、風味、品質は異なる。
皮ごと食べられ、キュウリのように切り分けられる。緑の状態で塩漬けされているので、保存可能である。
多くの大都市と無数の人口があり、景観は良い。米が特に豊かで、穀物、野菜、果物にも富んでいる。
特に皮ごと食べられるオレンジを含めた柑橘類を強調しよう。
オレンジは我々のレモンに似ており、cunebes(九年母?)と呼ばれる。また桜桃ほどの小さなレモンに似た柑橘類もあり、
これも皮ごと食べられるし、ジャムにしてもおいしい。
(この後フィレンチェに持ち帰った種の話あり)
梨もあり、非常に大きくて瑞々しい。皮は非常に薄く剥くことは難しい。梨、桃、杏は砂糖漬けにすると美味である。
ぶどうはほとんど見られないが、聖職者たちが見本市のためにワインを準備することもある。
メロンは多量に入手可能であるが、風味、品質は異なる。
皮ごと食べられ、キュウリのように切り分けられる。緑の状態で塩漬けされているので、保存可能である。
790人間七七四年
2023/04/07(金) 10:01:01.12ID:Hd21G4Ga >>785
これってみんなに話すと馬鹿にされるネタだよね?
これってみんなに話すと馬鹿にされるネタだよね?
791人間七七四年
2023/04/07(金) 12:17:06.10ID:nrRDFYzI >>789
知ったかのアホがイキってて草
知ったかのアホがイキってて草
792人間七七四年
2023/04/07(金) 12:21:37.91ID:nrRDFYzI イキッて→アホ
イキって→正常
イキって→正常
793人間七七四年
2023/04/07(金) 17:10:19.52ID:CU/qrO/6 (っ)でも(ッ)でもどっちでもいいご、要は誰かの話を聞いて
「あ、似たこんな話を思い出した」と誰でも知ってる話を例に挙げて、
「うん、その話ならおれも知ってる」
「おれも聞いたことある」
ってだけの話に
「そんな誰でも知ってる話をするな!」って噛みつかれても、「はぁ?」としかならんわけだが
何をイキッて空回りしてるのやら
マウントにも何にもなってないし
「あ、似たこんな話を思い出した」と誰でも知ってる話を例に挙げて、
「うん、その話ならおれも知ってる」
「おれも聞いたことある」
ってだけの話に
「そんな誰でも知ってる話をするな!」って噛みつかれても、「はぁ?」としかならんわけだが
何をイキッて空回りしてるのやら
マウントにも何にもなってないし
794人間七七四年
2023/04/07(金) 18:28:24.12ID:9xyDb8cV 顔真っ赤にして草
どっちでもいいとかアホの言い訳丸出しやん
どっちでもいいとかアホの言い訳丸出しやん
795人間七七四年
2023/04/07(金) 18:57:41.83ID:MRBpmiHn 今は「的を射る」と「的を得る」をどっちでも使うから!「的を得る」でもいいんだ!って言ってるようなものだな
日本人なら本来の言い方を使うべきだし、謙虚な日本人なら素直に間違いは認めて謝罪してるとこ
チョンには日本人の心は理解できなかったようだね
日本人なら本来の言い方を使うべきだし、謙虚な日本人なら素直に間違いは認めて謝罪してるとこ
チョンには日本人の心は理解できなかったようだね
796人間七七四年
2023/04/08(土) 11:22:07.31ID:olOpq4Ad はい論破、チョンのイキッて君弱すぎー
797人間七七四年
2023/04/08(土) 16:52:30.59ID:V1u+k6am なんだ?コイツ
798人間七七四年
2023/04/08(土) 20:23:22.77ID:M9OGZ0x1 正しく使えというのはわかるけど、結局は世間でどんなふうに使われていくかで変貌するのも仕方ないんじゃないの?
799人間七七四年
2023/04/08(土) 20:40:36.65ID:wrawGclA まあ繰り返し侵略されてきた半島人にとっては間違ってても受け入れる下地ができてるからね
800人間七七四年
2023/04/09(日) 06:49:08.17ID:aEgFHgPX なんかかかわっちゃいけない粘着質のヤツに絡まれちゃったみたい・・
801人間七七四年
2023/04/09(日) 08:10:33.84ID:tNUQmptV 知ったかのイキッて君降臨www
802人間七七四年
2023/04/09(日) 09:02:25.11ID:2s3XLOMu 朝鮮人また来てたんだね
803人間七七四年
2023/04/09(日) 09:42:48.95ID:aEgFHgPX 1人でID変えて連投、ご苦労様です
804人間七七四年
2023/04/09(日) 16:09:14.69ID:/w6d8Jbv 効いてる効いてる
805人間七七四年
2023/04/10(月) 11:50:41.37ID:Mq1VAjSD https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1681015699/1 【東京】後ろから抱きついて…帰宅中20代女性にわいせつ モデルの北畠亜都夢容疑者(27)を逮捕 世田谷区 [ぐれ★]
>北畠亜都夢
https://i.imgur.com/xsRobLC.jpg
くっさ
>北畠亜都夢
https://i.imgur.com/xsRobLC.jpg
くっさ
807人間七七四年
2023/04/10(月) 13:53:49.55ID:vHOpS6kB イキッて君タイホ〜
808人間七七四年
2023/04/15(土) 19:04:07.05ID:9+E2Bn0r 「博多記」から神屋宗湛
神屋宗湛は肥前国唐津に仮住まいをしていた。
そのころ天下に名の知れた茶人である千利休や天王寺屋宗及(津田宗及)にも会い、自分も名を世上に知らしめようと唐津を出て入京した。
茶道において有名な京大坂の僧俗の間でも抜きん出ていたため、秀吉公がはなはだ感心なさった。
天正十五年(1587年)正月三日、秀吉公が大坂城で諸大名を招き茶会をなされたときも宗湛を召して茶をあがらせた。
この時、石田三成の取り持ちで名器を秀吉公に進上した。
虎皮二枚、豹皮一枚、照布(上等の麻布)二編、沈香一斤であった。
天王寺屋宗及がこれを取り次いだ。
このときから秀吉公の寵を受け、茶会でも近侍し、諸大名にも招かれた。
秀吉公の弟の大和大納言秀長卿も、大和郡山城に在城されていた時も参謁した。
こうして秀吉公恩顧の者となったため、秀吉公が筑前に下向された時もつき従い、(島津軍により)焦土となった博多を御覧になった時も御供した。
また天正十五年六月十九日、秀吉公は御陣所にて神屋宗湛と島井宗室にお茶をくださり、
二十五日には筥崎赤幡坊で秀吉公へ宗湛は御茶を立てた。細川幽斎も御相伴であった
神屋宗湛は肥前国唐津に仮住まいをしていた。
そのころ天下に名の知れた茶人である千利休や天王寺屋宗及(津田宗及)にも会い、自分も名を世上に知らしめようと唐津を出て入京した。
茶道において有名な京大坂の僧俗の間でも抜きん出ていたため、秀吉公がはなはだ感心なさった。
天正十五年(1587年)正月三日、秀吉公が大坂城で諸大名を招き茶会をなされたときも宗湛を召して茶をあがらせた。
この時、石田三成の取り持ちで名器を秀吉公に進上した。
虎皮二枚、豹皮一枚、照布(上等の麻布)二編、沈香一斤であった。
天王寺屋宗及がこれを取り次いだ。
このときから秀吉公の寵を受け、茶会でも近侍し、諸大名にも招かれた。
秀吉公の弟の大和大納言秀長卿も、大和郡山城に在城されていた時も参謁した。
こうして秀吉公恩顧の者となったため、秀吉公が筑前に下向された時もつき従い、(島津軍により)焦土となった博多を御覧になった時も御供した。
また天正十五年六月十九日、秀吉公は御陣所にて神屋宗湛と島井宗室にお茶をくださり、
二十五日には筥崎赤幡坊で秀吉公へ宗湛は御茶を立てた。細川幽斎も御相伴であった
809人間七七四年
2023/04/19(水) 17:24:36.68ID:S9OmN5yQ 『異説まちまち』からある時の秀吉と家康の会話
太閤「井戸に釣瓶を落としてしまった。道具を使わずにこれを引き揚げるにはどうする?」
神君「大人数で井戸へ水を汲み入れ、二本の指でその釣瓶を引き揚げましょう」
太閤「私と同じ考えだ。私の死んだ後は、天下の主は貴殿であろう」
一応いい話に
太閤「井戸に釣瓶を落としてしまった。道具を使わずにこれを引き揚げるにはどうする?」
神君「大人数で井戸へ水を汲み入れ、二本の指でその釣瓶を引き揚げましょう」
太閤「私と同じ考えだ。私の死んだ後は、天下の主は貴殿であろう」
一応いい話に
810人間七七四年
2023/04/20(木) 08:22:38.76ID:LWei7ilA 家康に使えたが棄教を拒み流刑、悲劇のキリシタン「ジュリアおたあ」初の直筆書状
読売新聞2023/04/20
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230420-OYT1T50048/
萩博物館(山口県萩市)は19日、豊臣秀吉の朝鮮出兵で朝鮮から連れてこられ、徳川家康に仕えたが棄教を拒んで
流刑となったとされるキリシタン女性「ジュリアおたあ」の直筆書状が初めて見つかったと発表した。同館は「悲劇の
キリシタン女性にまつわる貴重な史料」としている。
おたあは朝鮮出兵で捕らえられ、キリシタン大名として知られる小西行長の養女となった。関ヶ原の戦い後は家康に仕えたが、
幕府の禁教令後も信仰を捨てず、伊豆諸島に流されたという。
同館によると、書状は3通で長州藩士の村田家に伝わり、子孫が同館に寄贈した。村田家初代の村田安政はおたあの弟
だという長州藩の記録があり、2人のつながりを裏付ける発見としている。
江戸時代初期の1609年(慶長14年)8月19日付の書状は、安政が長州藩にいると知ったおたあが、体のあざの位置
などを記して本人確認する内容で、ほかの2通は弟と会いたいなどと望む内容だった。
このほか、村田家からは、おたあの仲介で安政が家康に面会した際に与えられたという家康の小袖(身丈121センチ、
裄ゆき 丈59センチ)も寄贈された。
読売新聞2023/04/20
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230420-OYT1T50048/
萩博物館(山口県萩市)は19日、豊臣秀吉の朝鮮出兵で朝鮮から連れてこられ、徳川家康に仕えたが棄教を拒んで
流刑となったとされるキリシタン女性「ジュリアおたあ」の直筆書状が初めて見つかったと発表した。同館は「悲劇の
キリシタン女性にまつわる貴重な史料」としている。
おたあは朝鮮出兵で捕らえられ、キリシタン大名として知られる小西行長の養女となった。関ヶ原の戦い後は家康に仕えたが、
幕府の禁教令後も信仰を捨てず、伊豆諸島に流されたという。
同館によると、書状は3通で長州藩士の村田家に伝わり、子孫が同館に寄贈した。村田家初代の村田安政はおたあの弟
だという長州藩の記録があり、2人のつながりを裏付ける発見としている。
江戸時代初期の1609年(慶長14年)8月19日付の書状は、安政が長州藩にいると知ったおたあが、体のあざの位置
などを記して本人確認する内容で、ほかの2通は弟と会いたいなどと望む内容だった。
このほか、村田家からは、おたあの仲介で安政が家康に面会した際に与えられたという家康の小袖(身丈121センチ、
裄ゆき 丈59センチ)も寄贈された。
811人間七七四年
2023/04/20(木) 08:33:09.01ID:LWei7ilA 補足として、昨年こういう報告がありました。
第75回美術史学会全国大会(2022) 萩博物館所蔵「葵紋付亀甲模様小袖」の服飾史的位置付け 福島雅子(学習院女子大学)
https://www.bijutsushi.jp/c-zenkokutaikai/pdf-files/2022-5/2022_D2.pdf
本小袖の伝来について検討する。上述の墨書のある畳紙には、本小袖とともに「大御所さま御内たあ」と「うんなき」との間で
交わされた書簡等が包まれていた。これらの関係史料の分析によれば、村田家の初代である村田五右衛門安政は、豊臣秀吉の
朝鮮出兵の際に捕らえられた朝鮮人捕虜であり、名は「うんなき」であったとされる。
また、安政の姉も日本に連れてこられ、大御所時代の徳川家康に奉公しており、姉を通じて駿府に召し出された際に、家康から
安政に馬や刀とともに「葵御紋付之御服」が下賜されたとの記述を『萩藩閥閲録』(享保 10 年成立)に見出せる。
この記述が、本小袖にあたると考えられる。
さらに、付属する書簡にみえる「大御所さま御内たあ」は安政の姉であり、近年の研究で指摘される「ジュリアおたあ」であったと考えられる。
朝鮮出兵の際の朝鮮人捕虜とされる「ジュリアおたあ」に関しては、これまでキリスト教信仰史等の面から研究が進められてきたが、
本小袖と付属する書簡類は、これまで指摘されていない新たな関係資料といえる。
第75回美術史学会全国大会(2022) 萩博物館所蔵「葵紋付亀甲模様小袖」の服飾史的位置付け 福島雅子(学習院女子大学)
https://www.bijutsushi.jp/c-zenkokutaikai/pdf-files/2022-5/2022_D2.pdf
本小袖の伝来について検討する。上述の墨書のある畳紙には、本小袖とともに「大御所さま御内たあ」と「うんなき」との間で
交わされた書簡等が包まれていた。これらの関係史料の分析によれば、村田家の初代である村田五右衛門安政は、豊臣秀吉の
朝鮮出兵の際に捕らえられた朝鮮人捕虜であり、名は「うんなき」であったとされる。
また、安政の姉も日本に連れてこられ、大御所時代の徳川家康に奉公しており、姉を通じて駿府に召し出された際に、家康から
安政に馬や刀とともに「葵御紋付之御服」が下賜されたとの記述を『萩藩閥閲録』(享保 10 年成立)に見出せる。
この記述が、本小袖にあたると考えられる。
さらに、付属する書簡にみえる「大御所さま御内たあ」は安政の姉であり、近年の研究で指摘される「ジュリアおたあ」であったと考えられる。
朝鮮出兵の際の朝鮮人捕虜とされる「ジュリアおたあ」に関しては、これまでキリスト教信仰史等の面から研究が進められてきたが、
本小袖と付属する書簡類は、これまで指摘されていない新たな関係資料といえる。
813人間七七四年
2023/04/20(木) 09:05:38.90ID:LWei7ilA >>810
投稿してから気づいた、タイトルの使えた(ママ)は読売の間違いなんですが、今サイト見たら仕えたに訂正されてましたねw
投稿してから気づいた、タイトルの使えた(ママ)は読売の間違いなんですが、今サイト見たら仕えたに訂正されてましたねw
814人間七七四年
2023/04/20(木) 12:01:49.03ID:4JvXiGil 新聞から転載とはここのレベルも地に落ちたな
816人間七七四年
2023/04/20(木) 13:04:38.18ID:+6bqh/8m817人間七七四年
2023/04/20(木) 16:03:46.60ID:q9cETSOF ほんと三成が言いそう
818人間七七四年
2023/04/20(木) 16:10:41.46ID:0Lk0BD22 だから柿なんだよ
819人間七七四年
2023/04/20(木) 18:06:48.40ID:gtI08+75 「博多記」から朝鮮人捕虜で桃山文化史でも重要な李文長関連の話
西昌山本岳寺は昔は今熊町にあった。
大友宗麟から筑前国別府村の土地、十五丁の寄進の文書が今もある。
また朝鮮人李文長という者が博多に来て滞留した。
本長寺(本岳寺?)についての寺記を書いたのが今もある。
李文長は慶長十九年(1614年)春に客星が出たことと、大坂城の天守から黒雲風が立って天を覆ったことから占ったそうだ。
(大坂の陣と豊臣滅亡について?)
また博多に滞留した時、あちこちの記事を書いた。
儒者で、占いもよくしたという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13618.html
秀頼薩摩落の事
この記事の、大坂城から後藤又兵衛と落ち延びた朝鮮人のことではないかというので前に出ていた。
西昌山本岳寺は昔は今熊町にあった。
大友宗麟から筑前国別府村の土地、十五丁の寄進の文書が今もある。
また朝鮮人李文長という者が博多に来て滞留した。
本長寺(本岳寺?)についての寺記を書いたのが今もある。
李文長は慶長十九年(1614年)春に客星が出たことと、大坂城の天守から黒雲風が立って天を覆ったことから占ったそうだ。
(大坂の陣と豊臣滅亡について?)
また博多に滞留した時、あちこちの記事を書いた。
儒者で、占いもよくしたという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13618.html
秀頼薩摩落の事
この記事の、大坂城から後藤又兵衛と落ち延びた朝鮮人のことではないかというので前に出ていた。
820人間七七四年
2023/04/20(木) 18:40:47.35ID:tB8DIojS 李文長が客星(彗星)について占ったことは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13254.html
大阪周辺の治安が悪すぎる
に、天守からの黒雲云々について占ったことは家康が肉人(ぬっへふほふ?)を見たことも書かれている
「一宵話」に以下のように書かれていた。
「一宵話」から「朝鮮の易者」
慶長の頃、朝鮮が降伏したため、俘虜たちを返還したなかで李文長はどういうわけか日本にとどまった。
甲寅の年(上記の1614年)、大坂に乱が起ころうとした時、城の殿主(天守)の上に火煙がいきなり燃え上がった。
城の内外が驚き騒ぎ、駆けつけて消そうとしたが、どこにも火は見えなかった。
そして人が静まったらまた燃え上がった。(原注:二月五日のことか?)
このようなことがたびたびあったため、片桐且元に命じて李文長に占わせた。
李文長「焦氏(焦延寿)の「易林」によって占うと
「艮が謙に変ぜり。艮益。尋兵争強。失其貞良。敗之殽郷。奚予孟明。否謙。人面鬼口。長舌利歯。劉破瑚璉。殷商絶祀。」と出ました」
籠城の始めから終わりまで、この占いにつゆも違わなかったとは、すぐれた易者であった。
焦氏易は昔から占いに多く使ったわけではないのに、李文長はよく伝えたものだ。
李文長は書法の達人でもあり、中楷で書かれた孝経を見たところ、たいへん見事であった。(浅井氏蔵書)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13254.html
大阪周辺の治安が悪すぎる
に、天守からの黒雲云々について占ったことは家康が肉人(ぬっへふほふ?)を見たことも書かれている
「一宵話」に以下のように書かれていた。
「一宵話」から「朝鮮の易者」
慶長の頃、朝鮮が降伏したため、俘虜たちを返還したなかで李文長はどういうわけか日本にとどまった。
甲寅の年(上記の1614年)、大坂に乱が起ころうとした時、城の殿主(天守)の上に火煙がいきなり燃え上がった。
城の内外が驚き騒ぎ、駆けつけて消そうとしたが、どこにも火は見えなかった。
そして人が静まったらまた燃え上がった。(原注:二月五日のことか?)
このようなことがたびたびあったため、片桐且元に命じて李文長に占わせた。
李文長「焦氏(焦延寿)の「易林」によって占うと
「艮が謙に変ぜり。艮益。尋兵争強。失其貞良。敗之殽郷。奚予孟明。否謙。人面鬼口。長舌利歯。劉破瑚璉。殷商絶祀。」と出ました」
籠城の始めから終わりまで、この占いにつゆも違わなかったとは、すぐれた易者であった。
焦氏易は昔から占いに多く使ったわけではないのに、李文長はよく伝えたものだ。
李文長は書法の達人でもあり、中楷で書かれた孝経を見たところ、たいへん見事であった。(浅井氏蔵書)
821人間七七四年
2023/04/20(木) 20:31:12.80ID:PkBOkJ1I 三成関係ないのにフルボッコで草
異説まちまちに、成島道筑(錦江)がミツナリでなくミツヒラと読むと言っていたと書いてあった。
成をヒラと読む人誰かいたっけ
異説まちまちに、成島道筑(錦江)がミツナリでなくミツヒラと読むと言っていたと書いてあった。
成をヒラと読む人誰かいたっけ
823人間七七四年
2023/04/21(金) 00:45:13.16ID:gRmW3DNN824人間七七四年
2023/04/21(金) 04:29:48.88ID:tOJDGDR/ <(´ー`)♪三成 (´ー`)>です♪
825人間七七四年
2023/04/21(金) 12:40:38.86ID:tOJDGDR/ 散兵
826人間七七四年
2023/04/21(金) 21:12:57.90ID:LUHBz44e >>820
「易林」の引用部分が意味が分からなかったので調べてみた。
最初の「尋兵争強。失其貞良。敗之殽郷」の部分は、艮之益の「秦兵爭強,失其貞良,敗於殽鄉」だと思う。
注に「秦穆公違蹇叔之諫,命孟明伐晉,師敗于殽」とあって、秦の穆公が諫めを用いず晋を攻めて(秦兵爭強)殽で大敗を喫し(敗於殽鄉)、
孟明視(百里奚の息子で名は視、字は孟明)ら三人の将軍が捕虜になったこと(失其貞良)を指すらしい。
秀頼が諫めを用いず戦をして将卒を失ったことを予言するのかな。
「易林」の引用部分が意味が分からなかったので調べてみた。
最初の「尋兵争強。失其貞良。敗之殽郷」の部分は、艮之益の「秦兵爭強,失其貞良,敗於殽鄉」だと思う。
注に「秦穆公違蹇叔之諫,命孟明伐晉,師敗于殽」とあって、秦の穆公が諫めを用いず晋を攻めて(秦兵爭強)殽で大敗を喫し(敗於殽鄉)、
孟明視(百里奚の息子で名は視、字は孟明)ら三人の将軍が捕虜になったこと(失其貞良)を指すらしい。
秀頼が諫めを用いず戦をして将卒を失ったことを予言するのかな。
827人間七七四年
2023/04/21(金) 21:31:36.16ID:LUHBz44e 途中で送信しちゃったので続き
「奚予孟明」はよくわからないけど、易林の本文にはないので注が混じったかなんかかな。
「人面鬼口。長舌利歯。劉破瑚l。殷商絶祀」は否之謙に「人面鬼口,長舌為斧;斲破瑚l,殷商絕祀」というのがある。
「人面鬼口」は昔は鬼は九と通じたらしく、「人面九口」と同じらしい。「長舌為斧」と合わせて、口は災いの門とかそんな感じか。
「斲破瑚l,殷商絕祀」は注によると「商紂無道,微子抱祭器奔周,其後武王伐紂,遂滅商焉」で
無道な商が祭祀のための宝器も失い子孫も死滅したことを言うらしい。
大阪方の方針がなかなか決まらず無駄な軍議のみ重ねて最後は豊臣家が滅びたことを予言しているんだろう。
ただ、商の紂王を指してるのが本当だとしたら、わりとストレートに秀頼ディスってることになるけど大丈夫だったんだろうか。
「奚予孟明」はよくわからないけど、易林の本文にはないので注が混じったかなんかかな。
「人面鬼口。長舌利歯。劉破瑚l。殷商絶祀」は否之謙に「人面鬼口,長舌為斧;斲破瑚l,殷商絕祀」というのがある。
「人面鬼口」は昔は鬼は九と通じたらしく、「人面九口」と同じらしい。「長舌為斧」と合わせて、口は災いの門とかそんな感じか。
「斲破瑚l,殷商絕祀」は注によると「商紂無道,微子抱祭器奔周,其後武王伐紂,遂滅商焉」で
無道な商が祭祀のための宝器も失い子孫も死滅したことを言うらしい。
大阪方の方針がなかなか決まらず無駄な軍議のみ重ねて最後は豊臣家が滅びたことを予言しているんだろう。
ただ、商の紂王を指してるのが本当だとしたら、わりとストレートに秀頼ディスってることになるけど大丈夫だったんだろうか。
828人間七七四年
2023/04/21(金) 22:10:10.09ID:LUHBz44e しつこくてすまんけど、「人面九口」もよく意味わからんからもう少し調べてみたら
どうも、「人面鬼口」「人面九口」も「八面九口」の意味っぽい。
これだと色んな人がてんでに自分の意見を言い合って話が全くまとまらないって感じなのかな。
どうも、「人面鬼口」「人面九口」も「八面九口」の意味っぽい。
これだと色んな人がてんでに自分の意見を言い合って話が全くまとまらないって感じなのかな。
829人間七七四年
2023/04/21(金) 23:33:52.19ID:XSWnTD4j 人と八、鬼と九
字面が似てるけど間違えて覚えたやつが広まったのか?
字面が似てるけど間違えて覚えたやつが広まったのか?
830人間七七四年
2023/04/22(土) 11:21:00.14ID:5o7Pygfj 李文長自体は豊臣家に重用されたけど、
占いにかこつけて秀吉を殷の紂王にたとえて朝鮮出兵を批判して、豊臣の祭祀が滅びるぞ、と言ったとか
占いにかこつけて秀吉を殷の紂王にたとえて朝鮮出兵を批判して、豊臣の祭祀が滅びるぞ、と言ったとか
831人間七七四年
2023/04/22(土) 11:49:18.71ID:adN4jV/6 >>829
人と八はたぶんただの読み間違いor書き間違いだと思う。
鬼と九は、易林釈文の注に「陳第の毛詩古音考に人面九口を引用して
昔は九と鬼が通用して、例えば九候を鬼候とも書いた」と書いてあるんで、
これが正しければ、古い時代は鬼と九の音が似ていた(或いは同じだった)ために
同じ字として扱ったってことだと思う。
人と八はたぶんただの読み間違いor書き間違いだと思う。
鬼と九は、易林釈文の注に「陳第の毛詩古音考に人面九口を引用して
昔は九と鬼が通用して、例えば九候を鬼候とも書いた」と書いてあるんで、
これが正しければ、古い時代は鬼と九の音が似ていた(或いは同じだった)ために
同じ字として扱ったってことだと思う。
832人間七七四年
2023/04/22(土) 13:00:01.55ID:l5yoKC5/ William M. BaxterとLaurent Sagartの「Old Chinese: A New Reconstruction」の鬼・九の上古音(「毛詩(詩経)」などをもとに再構築)
鬼: *k-ʔujʔ
九: *[k]uʔ
落合淳史「漢字の音」によればBaxterの再構成音は複雑だから当てにならないそうだけど
鬼: *k-ʔujʔ
九: *[k]uʔ
落合淳史「漢字の音」によればBaxterの再構成音は複雑だから当てにならないそうだけど
833人間七七四年
2023/04/22(土) 13:14:46.93ID:adN4jV/6 支那語の上古音については無知なんで鬼と九が通ずるという説が正しいかどうかはわかんない。
ただ、易林には「人面鬼口」「人面九口」「八面九口」「八口九頭」「八面九口」という句が
だいたい「長舌為斧」「長舌破家」という句の前に出てくるみたいなんで、鬼=九は腑に落ちるかなと。
あと、この李文長の占いの逸話は日本外史にも載ってるみたいで、デジタルコレクションに「日本外史解義」
という本が収録されていて詳しい注釈があった。
ただ、易林には「人面鬼口」「人面九口」「八面九口」「八口九頭」「八面九口」という句が
だいたい「長舌為斧」「長舌破家」という句の前に出てくるみたいなんで、鬼=九は腑に落ちるかなと。
あと、この李文長の占いの逸話は日本外史にも載ってるみたいで、デジタルコレクションに「日本外史解義」
という本が収録されていて詳しい注釈があった。
834人間七七四年
2023/04/25(火) 19:27:30.85ID:uI6jtdb3 「続武家閑談」から「高橋立花秋月三者縁組のこと」
立花宗茂は幼名を千熊といい、父の高橋紹雲のところから立花道雪のもとに行って遊んでいた。
あるとき罪人を道雪の前で討った。
道雪は「不意のことなので千熊も驚いただろうか」と千熊の懐中に手を入れてみたが、鼓動は少しも激しくなっていなかった。
こうして道雪は千熊が立派な武人となると考え養子とした。
千熊の弟の主膳(立花直次)とが高橋家を継ぐことになり、秋月種実の婿となることが決まっていた。
筑紫広門はこれを聞いて「高橋・立花・当家は、九州の英将である秋月にも対抗できる三羽の弓である。
しかし高橋・立花・秋月三家が合体するとなると、当家秋月家は間違いなく滅びるだろう」と仰天した。
そのとき何とかという侍が
「それがしに姫をお預けください。
高橋の岩屋城に行って主膳殿を姫の婿といたしましょう。
もし承知しないようであれば、姫を斬り私も腹を切ります」
と申したので広門と秋月と高橋の縁組の破棄が叶うなら、と姫を預けた。
こうして侍が姫を連れて岩屋城に行き、高橋紹雲に詳しく述べると
高橋紹雲は「前代未聞の珍事である。秋月の娘を貰うことは決まっているのだから広門との縁組はならぬ。
早々に姫を連れて帰られよ」と言った。
侍は「このように御返答あることは予期しておりました。
三家合体であれば筑紫家が滅ぶのは必定。
後日貴家と当家との合戦の時に討ち死にするも、ただいまあい果てるのも同じことなので、娘を殺し、私も腹を切り、御座敷を汚しましょう」
と思い切って申した。
紹雲も侍の忠義のほどに感心し、そのまま娘を留め置いて主膳の妻とした。
このため秋月は憤り、薩摩に対して「必ずや高橋を滅ぼしましょう」と申した。
立花宗茂は幼名を千熊といい、父の高橋紹雲のところから立花道雪のもとに行って遊んでいた。
あるとき罪人を道雪の前で討った。
道雪は「不意のことなので千熊も驚いただろうか」と千熊の懐中に手を入れてみたが、鼓動は少しも激しくなっていなかった。
こうして道雪は千熊が立派な武人となると考え養子とした。
千熊の弟の主膳(立花直次)とが高橋家を継ぐことになり、秋月種実の婿となることが決まっていた。
筑紫広門はこれを聞いて「高橋・立花・当家は、九州の英将である秋月にも対抗できる三羽の弓である。
しかし高橋・立花・秋月三家が合体するとなると、当家秋月家は間違いなく滅びるだろう」と仰天した。
そのとき何とかという侍が
「それがしに姫をお預けください。
高橋の岩屋城に行って主膳殿を姫の婿といたしましょう。
もし承知しないようであれば、姫を斬り私も腹を切ります」
と申したので広門と秋月と高橋の縁組の破棄が叶うなら、と姫を預けた。
こうして侍が姫を連れて岩屋城に行き、高橋紹雲に詳しく述べると
高橋紹雲は「前代未聞の珍事である。秋月の娘を貰うことは決まっているのだから広門との縁組はならぬ。
早々に姫を連れて帰られよ」と言った。
侍は「このように御返答あることは予期しておりました。
三家合体であれば筑紫家が滅ぶのは必定。
後日貴家と当家との合戦の時に討ち死にするも、ただいまあい果てるのも同じことなので、娘を殺し、私も腹を切り、御座敷を汚しましょう」
と思い切って申した。
紹雲も侍の忠義のほどに感心し、そのまま娘を留め置いて主膳の妻とした。
このため秋月は憤り、薩摩に対して「必ずや高橋を滅ぼしましょう」と申した。
836人間七七四年
2023/04/29(土) 16:39:29.88ID:LCBDHzIG ある時、小山田弥三郎がこのように申した
「馬場(信春)殿、内藤(昌豊)殿、山縣(昌景)殿、高坂(虎綱)殿聞き給え。町人というものは
武辺の事についても、力の強い者ばかり手柄をすると思っているようで、普広院殿(足利義教)を
討ち奉った赤松左京大夫(満祐)を、彼を贔屓する町人が褒めて書いた本の中で、この赤松が
『三百人力』であると書き付けておりました。」
そのように申して笑っていた所、馬場美濃が
「されば、我ら侍衆が商いの雑談を仕る時、あなたが言ったような無案内な事が多く、そういった侍を
町人たちは可笑しく思い笑っている。
その道々によって、家職と直接関係の無い事については、その取り沙汰もおかしなものなのだ。」
馬場はそのように言われたのである。
『甲陽軍鑑』
「馬場(信春)殿、内藤(昌豊)殿、山縣(昌景)殿、高坂(虎綱)殿聞き給え。町人というものは
武辺の事についても、力の強い者ばかり手柄をすると思っているようで、普広院殿(足利義教)を
討ち奉った赤松左京大夫(満祐)を、彼を贔屓する町人が褒めて書いた本の中で、この赤松が
『三百人力』であると書き付けておりました。」
そのように申して笑っていた所、馬場美濃が
「されば、我ら侍衆が商いの雑談を仕る時、あなたが言ったような無案内な事が多く、そういった侍を
町人たちは可笑しく思い笑っている。
その道々によって、家職と直接関係の無い事については、その取り沙汰もおかしなものなのだ。」
馬場はそのように言われたのである。
『甲陽軍鑑』
837人間七七四年
2023/04/29(土) 17:53:53.27ID:5k9Mkckn http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8915.html
町人という奴らは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4590.html
ご存知ですか。町人どもは将軍義教を殺した赤松満祐を
山縣もドラマとかではでかくなるけど
町人という奴らは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4590.html
ご存知ですか。町人どもは将軍義教を殺した赤松満祐を
山縣もドラマとかではでかくなるけど
838人間七七四年
2023/04/29(土) 18:55:55.05ID:LCBDHzIG >>837
もうしわけありません。かわりにこちらはまだ出てないの思うので
高坂(虎綱)がある時、このように言った
「人が人を馳走する時、悪しき事が三ツある。
一つは、医者に相談することなく薬を与えること。
二つに、過馬(荒くて乗ることのできない馬)に人を乗せること。
三つに、フグを振る舞うこと。
この三ヶ条にて(馳走をした)傍輩に怪我が有った場合、腹を斬らねば見苦しい。
しかし死ぬというのも嫌なことで有るのだから、こういった事については常々遠慮をしておくのが尤もである。
『甲陽軍鑑』
もうしわけありません。かわりにこちらはまだ出てないの思うので
高坂(虎綱)がある時、このように言った
「人が人を馳走する時、悪しき事が三ツある。
一つは、医者に相談することなく薬を与えること。
二つに、過馬(荒くて乗ることのできない馬)に人を乗せること。
三つに、フグを振る舞うこと。
この三ヶ条にて(馳走をした)傍輩に怪我が有った場合、腹を斬らねば見苦しい。
しかし死ぬというのも嫌なことで有るのだから、こういった事については常々遠慮をしておくのが尤もである。
『甲陽軍鑑』
840人間七七四年
2023/04/29(土) 19:48:21.32ID:YYXijNfq そら甲陽軍鑑なんて家康におべっか使うのが目的だもの
841人間七七四年
2023/05/03(水) 18:56:35.17ID:bGCWxSuH 高坂弾正が申されたことに
「四国牢人の村上源之丞と申す者が、堺の(武野)紹鴎の雑談を聞いたとして、それを私に語った。
それによると、数寄者と茶湯者は別なのだという。
茶湯者とは、手前よく茶を点てて、料理よくして、いかにも塩梅よく茶湯を座敷にて振る舞う人の事を申す。
一方、数寄者というのは、振る舞いに一汁一菜なりとも仕り、茶は雲脚(品質の悪い茶)であっても、
心の綺麗な者を数寄者と名付けて呼ぶ。
元来数寄は禅僧から出た考え方であり、よってそのようになっているのだ。
仏教諸宗では「仏語」という所を、禅宗は「仏心」といって意地を重視しており、誠多き心象で執り行う
人の点てる茶こそが数寄者の振る舞いなのだと、村上源之丞は語った。
すなわち、数寄者と茶湯者は各々別物なのだと考えるべきなのだろう。」
そう、高坂弾正は語った。
『甲陽軍鑑』
「四国牢人の村上源之丞と申す者が、堺の(武野)紹鴎の雑談を聞いたとして、それを私に語った。
それによると、数寄者と茶湯者は別なのだという。
茶湯者とは、手前よく茶を点てて、料理よくして、いかにも塩梅よく茶湯を座敷にて振る舞う人の事を申す。
一方、数寄者というのは、振る舞いに一汁一菜なりとも仕り、茶は雲脚(品質の悪い茶)であっても、
心の綺麗な者を数寄者と名付けて呼ぶ。
元来数寄は禅僧から出た考え方であり、よってそのようになっているのだ。
仏教諸宗では「仏語」という所を、禅宗は「仏心」といって意地を重視しており、誠多き心象で執り行う
人の点てる茶こそが数寄者の振る舞いなのだと、村上源之丞は語った。
すなわち、数寄者と茶湯者は各々別物なのだと考えるべきなのだろう。」
そう、高坂弾正は語った。
『甲陽軍鑑』
842人間七七四年
2023/05/03(水) 19:16:27.48ID:VO4Kw0mB 馬のションベンが茶の代わりと豪語していた武田侍はとんだ数奇(スキ)者よ
843人間七七四年
2023/05/05(金) 20:06:58.24ID:D4ZMWEXl 九月九日から始まった大津城の合戦の最中、
九月十一日の夜、城中から敵陣へ夜討ちせんと
赤尾伊豆守、山田大炊、三田村安右衛門の面々が五百の兵を選出し
赤尾と山田が率いる二百人は筑紫広門の陣を襲撃し散々に打ち破った上で
筑紫家の馬印を奪って勝鬨を上げて城へ引き返した
一方、三田村安右衛門率いる三百人は立花宗茂の陣に攻めかかろうとしたが
宗茂は知勇兼備の猛将で油断なく、足軽に玉薬を入れた縄襷をかけさせ早合による銃撃で応戦した
三田村の「何程のことあらんかかれ」という下知を受け京極勢は風雨のごとき玉矢を事共せず攻めていき
中でも丸毛万五郎と名乗る者が薙刀を水車のごとく回して、一人当千離倫絶類の有様で敵を突破していった
立花の陣屋より六尺あまりの仁王のごとき大男が現れ、大音声で十時摂津(連貞)と名乗り勝負せんと
三尺八寸ほどの重く厚いダンビラをかざし丸毛の元に走ってきた
丸毛は薙刀で十時の胸板を突き貫こうとするが十時は事も無げに薙刀を真っ二つに斬り折ると
太刀を抜こうとする丸毛の隙をついて無手で取り押さえ、腰より縄を取り出して搦め上げた。
それを見た中江式部という者が韋駄天のように駆けて来て十時に斬りかかり鎧の外れを斬ったが、
十時に振り返りざま件の太刀を打ち据えられ露と消えた
京極方の箕浦備後という者は敵3人を討ち取り一息ついていたが十時の働きを見て首を投げ捨てて
一文字に十時に向かって行き無手で組み伏せようとした
備後は家中でも剛力の名を取りたる者であったが、十時は物ともせず逆に備後を押伏せ生け捕りにした
夜討ちの大将である三田村安右衛門は丸毛と箕浦が生け捕られたのを見て、
南無三と十時に向かって行ったが小石につまづき倒れたところを立花勢の村井平六という者に捕えられた
平六が「今宵夜討ちの大将を村井平六が生け捕った」と高らかに名乗るのを、
安右衛門の嫡子である三田村平助が聞き、父を取り返さんと立花勢の真っただ中へと駆け入ると
天命か村井平六が安右衛門を連行するところに出逢った
平助は怒る目に血を注ぎ、いかなる鬼神も倒さんという有様で向かってきたため村井は大いに驚き退くが
平助は平六に追い迫り平六が振り返ろうとするところを一刀に切り倒して父を救った
十死を逃れ一生を保った安右衛門だが、立花勢が備えを固め新手を繰り出してきたのを見て
今はこれまでと敵兵を突破し城へと引き上げた
『大津籠城合戦記』
九月十一日の夜、城中から敵陣へ夜討ちせんと
赤尾伊豆守、山田大炊、三田村安右衛門の面々が五百の兵を選出し
赤尾と山田が率いる二百人は筑紫広門の陣を襲撃し散々に打ち破った上で
筑紫家の馬印を奪って勝鬨を上げて城へ引き返した
一方、三田村安右衛門率いる三百人は立花宗茂の陣に攻めかかろうとしたが
宗茂は知勇兼備の猛将で油断なく、足軽に玉薬を入れた縄襷をかけさせ早合による銃撃で応戦した
三田村の「何程のことあらんかかれ」という下知を受け京極勢は風雨のごとき玉矢を事共せず攻めていき
中でも丸毛万五郎と名乗る者が薙刀を水車のごとく回して、一人当千離倫絶類の有様で敵を突破していった
立花の陣屋より六尺あまりの仁王のごとき大男が現れ、大音声で十時摂津(連貞)と名乗り勝負せんと
三尺八寸ほどの重く厚いダンビラをかざし丸毛の元に走ってきた
丸毛は薙刀で十時の胸板を突き貫こうとするが十時は事も無げに薙刀を真っ二つに斬り折ると
太刀を抜こうとする丸毛の隙をついて無手で取り押さえ、腰より縄を取り出して搦め上げた。
それを見た中江式部という者が韋駄天のように駆けて来て十時に斬りかかり鎧の外れを斬ったが、
十時に振り返りざま件の太刀を打ち据えられ露と消えた
京極方の箕浦備後という者は敵3人を討ち取り一息ついていたが十時の働きを見て首を投げ捨てて
一文字に十時に向かって行き無手で組み伏せようとした
備後は家中でも剛力の名を取りたる者であったが、十時は物ともせず逆に備後を押伏せ生け捕りにした
夜討ちの大将である三田村安右衛門は丸毛と箕浦が生け捕られたのを見て、
南無三と十時に向かって行ったが小石につまづき倒れたところを立花勢の村井平六という者に捕えられた
平六が「今宵夜討ちの大将を村井平六が生け捕った」と高らかに名乗るのを、
安右衛門の嫡子である三田村平助が聞き、父を取り返さんと立花勢の真っただ中へと駆け入ると
天命か村井平六が安右衛門を連行するところに出逢った
平助は怒る目に血を注ぎ、いかなる鬼神も倒さんという有様で向かってきたため村井は大いに驚き退くが
平助は平六に追い迫り平六が振り返ろうとするところを一刀に切り倒して父を救った
十死を逃れ一生を保った安右衛門だが、立花勢が備えを固め新手を繰り出してきたのを見て
今はこれまでと敵兵を突破し城へと引き上げた
『大津籠城合戦記』
844人間七七四年
2023/05/06(土) 14:50:46.01ID:MCigo0Yu 武田信玄公は大将衆への御仕置において、このように御諚された
「競り合い・合戦といった戦いには、勝ち様が三つ有る。
十のうち六分・七分の勝ちが一つ。
十のうち八分・九分の勝ちが一つ。
十のうち十全の勝ちが一つ。
第一に、十のうち六・七分の勝ちは、これ十分の勝ちである。
第二に、十のうち八・九分の勝ちは危うい。
第三に、十のうち十分の勝ちは、その後必ず過失があって、跡の誉れを無にしてしまうだろう。」
また信玄公は宣われた
「若き大将が十分に勝っても、そのため過失があっては、その後どれほどの勝利を得ても、
若き時の過失による敗北を引き出され、後々までその過失を指摘されるものである。
必ず大将たらんとする者に、十を十ながら勝ちたいという思案があれば、それは自分の心中より
大敵・強敵を数々作り出し、勝利を失うであろう。
そういった意識は悪事を招くものなのだと、相心得るように。」
『甲陽軍鑑』
「競り合い・合戦といった戦いには、勝ち様が三つ有る。
十のうち六分・七分の勝ちが一つ。
十のうち八分・九分の勝ちが一つ。
十のうち十全の勝ちが一つ。
第一に、十のうち六・七分の勝ちは、これ十分の勝ちである。
第二に、十のうち八・九分の勝ちは危うい。
第三に、十のうち十分の勝ちは、その後必ず過失があって、跡の誉れを無にしてしまうだろう。」
また信玄公は宣われた
「若き大将が十分に勝っても、そのため過失があっては、その後どれほどの勝利を得ても、
若き時の過失による敗北を引き出され、後々までその過失を指摘されるものである。
必ず大将たらんとする者に、十を十ながら勝ちたいという思案があれば、それは自分の心中より
大敵・強敵を数々作り出し、勝利を失うであろう。
そういった意識は悪事を招くものなのだと、相心得るように。」
『甲陽軍鑑』
846人間七七四年
2023/05/06(土) 22:09:38.11ID:k4psJ+xG 今日の英国王即位式で、チャールズ国王が白い毛皮を纏ってましたが、あれはオコジョの毛皮だそうですね
東アジアでもモンゴルに満州や中国北部では欧州同様にオコジョの毛皮が珍重されていたようですが
日本では敷物や陣羽織に鞘の装飾などの一部でしか、あまり利用されていませんが、ごく一部で白い毛皮が使われています
大名行列でおなじみの毛槍は、鶏の羽根などで飾り付けた毛槍鞘が多いのですが、中には熊毛鞘がありました
これは抜いた熊毛を木型に張り付けて作ったもので、厳密には毛皮そのものでありませんが、その中には白熊毛鞘も
ツキノワグマ胸元の月の輪型の白毛だけを集めて作った熊毛鞘なんですね
津山郷土博物館所蔵 熊毛鞘(江戸後期)
https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2014/07/keyari1-thumb-600xauto-76592.jpg
https://www.e-tsuyama.com/report/2014/08/post-754.html
なお、結城家から伝わる御手杵の槍で有名な川越藩(結城松平家)では、将軍家から養子縁組をしたときに本物の白熊毛皮を手に入れ
それで白熊毛鞘を作った記録があります
この毛皮が通常のクマ白化個体かホッキョクグマかはわかっていません
東アジアでもモンゴルに満州や中国北部では欧州同様にオコジョの毛皮が珍重されていたようですが
日本では敷物や陣羽織に鞘の装飾などの一部でしか、あまり利用されていませんが、ごく一部で白い毛皮が使われています
大名行列でおなじみの毛槍は、鶏の羽根などで飾り付けた毛槍鞘が多いのですが、中には熊毛鞘がありました
これは抜いた熊毛を木型に張り付けて作ったもので、厳密には毛皮そのものでありませんが、その中には白熊毛鞘も
ツキノワグマ胸元の月の輪型の白毛だけを集めて作った熊毛鞘なんですね
津山郷土博物館所蔵 熊毛鞘(江戸後期)
https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2014/07/keyari1-thumb-600xauto-76592.jpg
https://www.e-tsuyama.com/report/2014/08/post-754.html
なお、結城家から伝わる御手杵の槍で有名な川越藩(結城松平家)では、将軍家から養子縁組をしたときに本物の白熊毛皮を手に入れ
それで白熊毛鞘を作った記録があります
この毛皮が通常のクマ白化個体かホッキョクグマかはわかっていません
847人間七七四年
2023/05/08(月) 11:10:29.98ID:H5oGRO0X 昨年のまとめから
【ニュース】キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13724.html
↓
今回のニュース
松潤家康 浜松を席巻 まつり最終日、武者行列に68万人
静岡新聞2023.5.6
https://www.at-s.com/news/article/shizuoka/1235470.html
浜松まつり最終日の5日、浜松市は大河ドラマ「どうする家康」で主人公徳川家康を演じる俳優の松本潤さん(39)ら
出演者4人を招いた家康公騎馬武者行列を同市中区の中心街で初開催した。松本さんらは勇壮な甲冑(かっちゅう)姿で
約800メートル区間をパレード。沿道を埋めた大勢の観衆に笑顔で手を振ると、中心街に熱狂の渦が巻き起こった。
これは東照神君の勝ちw
【ニュース】キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13724.html
↓
今回のニュース
松潤家康 浜松を席巻 まつり最終日、武者行列に68万人
静岡新聞2023.5.6
https://www.at-s.com/news/article/shizuoka/1235470.html
浜松まつり最終日の5日、浜松市は大河ドラマ「どうする家康」で主人公徳川家康を演じる俳優の松本潤さん(39)ら
出演者4人を招いた家康公騎馬武者行列を同市中区の中心街で初開催した。松本さんらは勇壮な甲冑(かっちゅう)姿で
約800メートル区間をパレード。沿道を埋めた大勢の観衆に笑顔で手を振ると、中心街に熱狂の渦が巻き起こった。
これは東照神君の勝ちw
848人間七七四年
2023/05/08(月) 11:13:03.96ID:H5oGRO0X 単純な人気ではキムタクがずっと上なんでしょうけれど、もともと人が集まりやすいお祭りの中のイベントだったみたいですね浜松は。
849人間七七四年
2023/05/08(月) 15:21:04.43ID:GLweqOB8 映画は大コケみたいやん
お前ら貢献したんか?
今はナレーションで合戦が終わる時代だぞ
お前ら貢献したんか?
今はナレーションで合戦が終わる時代だぞ
850人間七七四年
2023/05/08(月) 18:24:35.04ID:h9LcG64t SNSで皆さん知識自慢して盛り上がってるようには見えるが
視聴率はあの惨状という大河ドラマもね?
視聴率はあの惨状という大河ドラマもね?
851人間七七四年
2023/05/08(月) 19:07:58.95ID:Z0n6jH8j 今時視聴率マウント
852人間七七四年
2023/05/08(月) 19:16:28.23ID:h9LcG64t 客観的な人気の指標ってのが他にあればね?
しゃーない
しゃーない
853人間七七四年
2023/05/08(月) 22:13:47.53ID:ZX3IVYv2 歴史好きでも大河ドラマ一度も見たことない奴もおるやろし
大河ドラマ好きでも歴史に特に興味ない奴もおるやろ
大河ドラマ好きでも歴史に特に興味ない奴もおるやろ
854人間七七四年
2023/05/09(火) 20:18:51.52ID:z2UNFaNf 大将の三つの采配とは、第一に、常々自国・他国共に武士の手柄、忠節、忠功について、上中下共に
よき評価をすること。
第二に、人をよく見知り、それぞれに役を申しつける事。
第三に、忠節、忠功の武士に、手柄の上中下をよく詮索した上で、三段に恩を与えること。
これらが三つの采配であり、こういった事が悪しければ、諸侍は行儀ばかり慾り、上中下のうち
下の手柄であっても、様々なやりようで上になるのだと心得、戦場での働きを控え、軽薄な者
ばかりとなって、その大将の矛先が弱くなる。
であるから、この三ヶ条は国持大将の采配である。
そしてまた、手で采配を振るうというのは、国持大将の下である侍大将、或いは足軽大将の役目である。
『甲陽軍鑑』
よき評価をすること。
第二に、人をよく見知り、それぞれに役を申しつける事。
第三に、忠節、忠功の武士に、手柄の上中下をよく詮索した上で、三段に恩を与えること。
これらが三つの采配であり、こういった事が悪しければ、諸侍は行儀ばかり慾り、上中下のうち
下の手柄であっても、様々なやりようで上になるのだと心得、戦場での働きを控え、軽薄な者
ばかりとなって、その大将の矛先が弱くなる。
であるから、この三ヶ条は国持大将の采配である。
そしてまた、手で采配を振るうというのは、国持大将の下である侍大将、或いは足軽大将の役目である。
『甲陽軍鑑』
855人間七七四年
2023/05/10(水) 10:33:50.91ID:f26oxxe6 じゃあその三条の具体例が続くのかな
それともここまでに書いてるのかな
それともここまでに書いてるのかな
856人間七七四年
2023/05/10(水) 12:16:35.86ID:tcUmS+y+ ワイは人を見る目は確かで適材適所ができて適切な評価で褒賞授与できる大将(笑
857人間七七四年
2023/05/14(日) 13:33:46.82ID:h/ZA9HOh 足軽大将が心得るべきことは、自身で戦働きをするのは過失に繋がるという事である。
脱体の勝負を分別して足軽を扱い、軍の先達をして、味方の勝利を得るよう仕らなければならない。
その上で後に良き敵があれば、それを討つのも尤もである。
侍大将は自身を同心被官が貴むようにしなければ、御大将として成り立たない。
合戦では勝利を見極めて勝負をし、味方を諌め、後軍を二重三重に考え、危なげも無いようにするのが肝要である。
五度の衝突があれば一、二度は敵を崩し、その後敵に能き武者が有れば手にかけても然るべしである。
但し小身より度々覚えある人が(立身して)大将になった場合、自身の働きは一切すべきではない。
もし若い頃の心が出てきてしまえば、大きな過失の元となる。
若き衆は御大将の使いに先へ走り、晴れなる高名をもし、度々を重ねて足軽大将になる、或いは
侍大将にもなるべきである。
信玄公の御渦中は、この如きであった。
『甲陽軍鑑』
足軽大将、侍大将の心得について
脱体の勝負を分別して足軽を扱い、軍の先達をして、味方の勝利を得るよう仕らなければならない。
その上で後に良き敵があれば、それを討つのも尤もである。
侍大将は自身を同心被官が貴むようにしなければ、御大将として成り立たない。
合戦では勝利を見極めて勝負をし、味方を諌め、後軍を二重三重に考え、危なげも無いようにするのが肝要である。
五度の衝突があれば一、二度は敵を崩し、その後敵に能き武者が有れば手にかけても然るべしである。
但し小身より度々覚えある人が(立身して)大将になった場合、自身の働きは一切すべきではない。
もし若い頃の心が出てきてしまえば、大きな過失の元となる。
若き衆は御大将の使いに先へ走り、晴れなる高名をもし、度々を重ねて足軽大将になる、或いは
侍大将にもなるべきである。
信玄公の御渦中は、この如きであった。
『甲陽軍鑑』
足軽大将、侍大将の心得について
858人間七七四年
2023/05/14(日) 21:43:38.95ID:bMQU9WSv 今回の大河、甲冑の考証に関してはどうする言われてた話もありましたが、先週の回から酒井、本多、榊原と、現存する各人の甲冑と
同様のデザインの甲冑を着用してましたね
「唐の頭に本多平八」の逸話に合わせて、複数人が唐の頭(白いヤク毛飾り)を付けてたのもよかったんじゃないでしょか
信玄公の兜はもう時代劇ならば定番すぎて外せないからということで
同様のデザインの甲冑を着用してましたね
「唐の頭に本多平八」の逸話に合わせて、複数人が唐の頭(白いヤク毛飾り)を付けてたのもよかったんじゃないでしょか
信玄公の兜はもう時代劇ならば定番すぎて外せないからということで
860人間七七四年
2023/05/15(月) 10:25:40.96ID:ZDewH9ua 中遠広域事務組合
中遠昔ばなし第70話酒井の太鼓(磐田市)
https://www.chuen.net/mukashi/mukashi_070.html
その昔、徳川家康が三方原の戦いに敗れて、浜松城へ逃げ帰ってきた後、武田方は勢いよく城門の近くまで追ってきました。
このとき家康は、後から逃げ帰って来る者のために、城門を開いたままにして、城門の外へ、とてつもない大きなかがり火を焚かせました。
武田方はこの大きなかがり火を見たとたん「何か策略でもあるのではないか」と城の近くで様子を見ることにしました。
すると城の中を守っていた酒井左衛門尉忠次が、突然、太鼓を高々と打ち鳴らし始めました。
驚いた武田方は「きっと何かあるにちがいない」と思い、急いで浜松城から離れていき、徳川家康は、かろうじて城を守ることが
できたという物語があります。その酒井忠次が打ち鳴らして、敵を退散させた太鼓が「酒井の太鼓」と呼ばれています。
「酒井の太鼓」と伝えられている太鼓は、その後、見付の所有となり、明治8年夏に見付小学校校舎(現在の旧見付学校)が落成した際、
小学校に寄付されました。そして太鼓は5階の楼上に据えつけられ、明治43年まで、生徒の登下校と正午には、毎日時報として打ち鳴らされました。
現在、この太鼓は、旧見付学校に展示されています。また、地元の磐田市立磐田北小学校には、太鼓クラブができて、
子供たちが酒井忠次に負けじと太鼓を打ち鳴らしています。
(磐田むかしばなしより)
中遠昔ばなし第70話酒井の太鼓(磐田市)
https://www.chuen.net/mukashi/mukashi_070.html
その昔、徳川家康が三方原の戦いに敗れて、浜松城へ逃げ帰ってきた後、武田方は勢いよく城門の近くまで追ってきました。
このとき家康は、後から逃げ帰って来る者のために、城門を開いたままにして、城門の外へ、とてつもない大きなかがり火を焚かせました。
武田方はこの大きなかがり火を見たとたん「何か策略でもあるのではないか」と城の近くで様子を見ることにしました。
すると城の中を守っていた酒井左衛門尉忠次が、突然、太鼓を高々と打ち鳴らし始めました。
驚いた武田方は「きっと何かあるにちがいない」と思い、急いで浜松城から離れていき、徳川家康は、かろうじて城を守ることが
できたという物語があります。その酒井忠次が打ち鳴らして、敵を退散させた太鼓が「酒井の太鼓」と呼ばれています。
「酒井の太鼓」と伝えられている太鼓は、その後、見付の所有となり、明治8年夏に見付小学校校舎(現在の旧見付学校)が落成した際、
小学校に寄付されました。そして太鼓は5階の楼上に据えつけられ、明治43年まで、生徒の登下校と正午には、毎日時報として打ち鳴らされました。
現在、この太鼓は、旧見付学校に展示されています。また、地元の磐田市立磐田北小学校には、太鼓クラブができて、
子供たちが酒井忠次に負けじと太鼓を打ち鳴らしています。
(磐田むかしばなしより)
861人間七七四年
2023/05/15(月) 12:44:34.52ID:7IjTCzJh 信玄の体調もあるしそもそも浜松城は落とすつもりなかっただけだと思うけどな
862人間七七四年
2023/05/15(月) 23:46:36.46ID:PyxT3pxx あの信玄でさえ落とせなかったといいたいのだろうねw
小人の考えそうなことだ
小人の考えそうなことだ
863人間七七四年
2023/05/16(火) 07:21:51.30ID:+kSr0jow ひねくれすぎではないかい
864人間七七四年
2023/05/16(火) 07:50:28.54ID:WXv0QfIU 包囲して落とせなかった小田原
うんこ臭くて落とせなかった浜松
うんこ臭くて落とせなかった浜松
865人間七七四年
2023/05/16(火) 11:50:06.10ID:clmBcYtC867人間七七四年
2023/05/16(火) 20:04:09.02ID:xhKeKL8Y ちなみに英国オスプレイ社のイラスト入り歴史本、メンアットアームズシリーズで描かれた「酒井の太鼓」です。
https://i.pinimg.com/originals/36/dc/48/36dc48bb1213387d5b3a0fa78ddaf017.jpg
https://i.pinimg.com/originals/36/dc/48/36dc48bb1213387d5b3a0fa78ddaf017.jpg
868人間七七四年
2023/05/17(水) 09:05:21.01ID:S1Wv2UEF 海外絵師のよくある微妙さがほとんどない再現度ですけど
太鼓の皮が赤いのは中華陰陽模様あたりの影響かな?
吊り下げてあるところも
太鼓の皮が赤いのは中華陰陽模様あたりの影響かな?
吊り下げてあるところも
869人間七七四年
2023/05/17(水) 09:26:20.01ID:Yl/PxCQx えっ支那の横の島って支那の領土でしょ?
870人間七七四年
2023/05/17(水) 13:42:50.94ID:+F8Ae7wE そうだな
871人間七七四年
2023/05/18(木) 09:54:40.80ID:k8bJj2IP >>860
リンク先の中遠昔ばなし、「武田に追われて浜松に逃げ帰るまでかくまわれた家康の話」のなんと多いことよw
リンク先の中遠昔ばなし、「武田に追われて浜松に逃げ帰るまでかくまわれた家康の話」のなんと多いことよw
872人間七七四年
2023/05/18(木) 11:28:21.65ID:rbP1hb1E 百姓の家で匿われてたときに娘を犯して生まれたのが秀康
873人間七七四年
2023/05/23(火) 15:19:31.92ID:TYAgTzqy 結城秀康のイメージはやはり漫画「花の慶次」のものが一番影響大らしいが、連載時点では「御手杵の槍」の復元が進んでいなかったので
厨二的な武器としての登場がなかったのが今となっては残念だな
厨二的な武器としての登場がなかったのが今となっては残念だな
874人間七七四年
2023/05/23(火) 15:21:40.29ID:fqT3O69+ 華がないから地味なイメージ
875人間七七四年
2023/05/23(火) 19:02:32.43ID:kxcY31LZ 結城ついでに秋鹿英「埋蔵金物語」から「結城晴(なぜかタイトルでは春)の埋蔵金」
家康から秀康を養子にさせられることもなった結城晴朝は藤原秀郷以来の名家の誇りを守るため、
秀康がくる前に時価三億七千万円(当時の日本のGDPの1/100)の財宝を地中深く埋めてしまったという。
その伝説を元に享保年間、明和年間、天保年間に結城城跡や小山城跡を掘ってみたが財宝は見つからなかったという。
そののち結城藩主・水野勝長の子孫である水野直子爵が大正六年に十万円をかけて結城城を発掘したが、めぼしいものは出なかった。
子爵は「小山城か菩提所を掘っておけばよかった」と死の前までも言っていたという。
なお宇都宮の小堀という旧家から出た「秀嵐雑録」という古記録によれば、
結城晴朝の死後、金銀財宝があるはずの蔵を開けてみると空であったため、晴朝の重臣であった膳所主水が拷問にかけられたという。
それは足の指を一本ずつ切り落とすような酷いものであった。
そののち膳所を江戸に送って取り調べをすることに決まったが、膳所主水は獄中にて、どこから手に入れたのか短刀で割腹自殺をしたという。
家康から秀康を養子にさせられることもなった結城晴朝は藤原秀郷以来の名家の誇りを守るため、
秀康がくる前に時価三億七千万円(当時の日本のGDPの1/100)の財宝を地中深く埋めてしまったという。
その伝説を元に享保年間、明和年間、天保年間に結城城跡や小山城跡を掘ってみたが財宝は見つからなかったという。
そののち結城藩主・水野勝長の子孫である水野直子爵が大正六年に十万円をかけて結城城を発掘したが、めぼしいものは出なかった。
子爵は「小山城か菩提所を掘っておけばよかった」と死の前までも言っていたという。
なお宇都宮の小堀という旧家から出た「秀嵐雑録」という古記録によれば、
結城晴朝の死後、金銀財宝があるはずの蔵を開けてみると空であったため、晴朝の重臣であった膳所主水が拷問にかけられたという。
それは足の指を一本ずつ切り落とすような酷いものであった。
そののち膳所を江戸に送って取り調べをすることに決まったが、膳所主水は獄中にて、どこから手に入れたのか短刀で割腹自殺をしたという。
876人間七七四年
2023/05/23(火) 19:07:22.04ID:kxcY31LZ 書くのを忘れていました。
秋鹿英「埋蔵金物語」の出版は昭和14年(1939年)で、1940年ごろの日本の名目GDPが370億円なので1/100という意味です。
秋鹿英「埋蔵金物語」の出版は昭和14年(1939年)で、1940年ごろの日本の名目GDPが370億円なので1/100という意味です。
877人間七七四年
2023/05/24(水) 02:30:17.06ID:ktKFjjw5 ウィキペディアより
福井に移る際に、晴朝は金銀・財宝を地中に埋めたとされ、天保5年(1834年)から翌々年にかけて、下谷通新町の次左衛門が埋蔵金の発掘を行っている(「野州本吉田村地内埋金掘立願一件」『旧幕府引継書』)
福井に移る際に、晴朝は金銀・財宝を地中に埋めたとされ、天保5年(1834年)から翌々年にかけて、下谷通新町の次左衛門が埋蔵金の発掘を行っている(「野州本吉田村地内埋金掘立願一件」『旧幕府引継書』)
878人間七七四年
2023/05/24(水) 16:00:37.47ID:TCronjTz 家康も目をつけた!〝奥州藤原氏の黄金〟結城家の財宝
https://note.tokyo-sports.co.jp/n/n18ca0f1b983f
江戸中期には8代将軍吉宗の命で、大岡忠相が発掘を行っている。このときは掘った穴が崩れて、11名の犠牲者を出し、
その霊を弔う碑が今も建つ。
明治以降も、最後の結城城主である水野氏の子孫が、米相場で当てた熊倉良助と組み、大がかりな発掘を行った。
さらに1967年からは、筆者が知る限り日本でただ一人埋蔵金発見の実績をもつ仲元虎斉氏が挑戦し、89年までの
22年間に、1億円以上をつぎ込んで掘ったが、いずれも失敗に終わった。
https://note.tokyo-sports.co.jp/n/n18ca0f1b983f
江戸中期には8代将軍吉宗の命で、大岡忠相が発掘を行っている。このときは掘った穴が崩れて、11名の犠牲者を出し、
その霊を弔う碑が今も建つ。
明治以降も、最後の結城城主である水野氏の子孫が、米相場で当てた熊倉良助と組み、大がかりな発掘を行った。
さらに1967年からは、筆者が知る限り日本でただ一人埋蔵金発見の実績をもつ仲元虎斉氏が挑戦し、89年までの
22年間に、1億円以上をつぎ込んで掘ったが、いずれも失敗に終わった。
879人間七七四年
2023/05/24(水) 16:17:36.78ID:TCronjTz テレビ朝日【独自】豊臣秀吉「黄金お茶道具」競売へ 3億円の落札予想 鑑定士「国宝級の品物」
[2023/05/23
https://news.yahoo.co.jp/articles/1f37e727620a29a7395b110fe06dfd1589166776
東京・銀座の“ある場所”に大変貴重なお宝が保管されています。実はそのお宝は、
豊臣秀吉が愛したといわれる貴重な「黄金の茶道具」です。
そして、この「黄金の茶道具」がオークションに出品されることが明らかになりました。
落札予想額は、なんと3億円だといいます。
津藩の初代藩主・藤堂高虎。江戸城修築の際、天守閣を設計するなど、築城の名手として
知られた戦国武将です。
今回、その子孫が諸般の事情から、先祖代々伝わってきた黄金の茶道具をオークションに
出品しました。
豊臣秀吉が、1592年から1598年にかけて2度にわたり朝鮮半島へ攻め込んだ「文禄・慶長の役」。
この時、藤堂高虎は、船奉行として水軍を率い、戦果をあげました。
秀吉から、その武勲を称えられ、領地を8万石に加増された高虎。さらに、秀吉から褒美として、
自らが黄金の茶室で愛用していた黄金の茶道具が授けられたと、藤堂家には伝えられています。
[2023/05/23
https://news.yahoo.co.jp/articles/1f37e727620a29a7395b110fe06dfd1589166776
東京・銀座の“ある場所”に大変貴重なお宝が保管されています。実はそのお宝は、
豊臣秀吉が愛したといわれる貴重な「黄金の茶道具」です。
そして、この「黄金の茶道具」がオークションに出品されることが明らかになりました。
落札予想額は、なんと3億円だといいます。
津藩の初代藩主・藤堂高虎。江戸城修築の際、天守閣を設計するなど、築城の名手として
知られた戦国武将です。
今回、その子孫が諸般の事情から、先祖代々伝わってきた黄金の茶道具をオークションに
出品しました。
豊臣秀吉が、1592年から1598年にかけて2度にわたり朝鮮半島へ攻め込んだ「文禄・慶長の役」。
この時、藤堂高虎は、船奉行として水軍を率い、戦果をあげました。
秀吉から、その武勲を称えられ、領地を8万石に加増された高虎。さらに、秀吉から褒美として、
自らが黄金の茶室で愛用していた黄金の茶道具が授けられたと、藤堂家には伝えられています。
880人間七七四年
2023/05/24(水) 21:27:13.48ID:v+W2Lmab 420年以上の年月を感じさせない金ピカだな
藤堂家で塗り直してたのかな
藤堂家で塗り直してたのかな
881人間七七四年
2023/05/30(火) 18:31:17.87ID:q1jfEv2f 結城埋蔵金に関わる暗号?三首
>>875の
「結城晴(なぜかタイトルでは春)の埋蔵金」をネットで調べたら
ニコニコのsm16899139
というアイドルマスターのキャラに歴史を紹介させている動画がヒットした(ゆっくり解説みたいなの)。
その動画によれば、茨城県結城市にある金光寺の山門の天井に結城埋蔵金にまつわる暗号が書かれているとあった。
国会図書館のデジタルコレクションで閲覧可能な雑誌「コンセンサス」1985年3号によれば、
結城晴朝が義弟の江戸重道(妻が小山高朝の娘)に埋蔵を頼み、重道の重臣が歌に詠んで金光寺の山門に刻んだ、という説があるらしい。
たまたま隣の栃木県小山市に用事があったから行ってきた。
寺の山門周辺は作業中で外観は撮影できなさそうだったため、参拝だけして帰ろうとしたら、御住職に和歌を拝見させていただいた。
山門には三つの和歌があるようだが、自分が見たときには真ん中の和歌は削られていた。
御住職によれば近年、夜中に悪い人間が削っていってしまったとのこと。
このお寺、正月になると「結城七福神めぐり」というイベントで賑わうようで、お寺に興味がある人はその時に参詣するのがいいそうだ。
そして結城埋蔵金に関わるとされる暗号の和歌三首
(ニコニコの動画では三首の和歌以外にも暗号っぽいのが紹介されていたが、山門が作業中なこともあり確認していない
ほかのニュース記事とかサイトでは和歌についてだけ触れられていた)
きの苧か ふゆうもんに さくはなも みどりをのこす 万代のたね
こふやうに ふれてからまる うつ若葉 つゆのなごりは すへの世までも
あやめさく 水にうつろう かきつばた いろはかはらぬ 花のかんばし
>>875の
「結城晴(なぜかタイトルでは春)の埋蔵金」をネットで調べたら
ニコニコのsm16899139
というアイドルマスターのキャラに歴史を紹介させている動画がヒットした(ゆっくり解説みたいなの)。
その動画によれば、茨城県結城市にある金光寺の山門の天井に結城埋蔵金にまつわる暗号が書かれているとあった。
国会図書館のデジタルコレクションで閲覧可能な雑誌「コンセンサス」1985年3号によれば、
結城晴朝が義弟の江戸重道(妻が小山高朝の娘)に埋蔵を頼み、重道の重臣が歌に詠んで金光寺の山門に刻んだ、という説があるらしい。
たまたま隣の栃木県小山市に用事があったから行ってきた。
寺の山門周辺は作業中で外観は撮影できなさそうだったため、参拝だけして帰ろうとしたら、御住職に和歌を拝見させていただいた。
山門には三つの和歌があるようだが、自分が見たときには真ん中の和歌は削られていた。
御住職によれば近年、夜中に悪い人間が削っていってしまったとのこと。
このお寺、正月になると「結城七福神めぐり」というイベントで賑わうようで、お寺に興味がある人はその時に参詣するのがいいそうだ。
そして結城埋蔵金に関わるとされる暗号の和歌三首
(ニコニコの動画では三首の和歌以外にも暗号っぽいのが紹介されていたが、山門が作業中なこともあり確認していない
ほかのニュース記事とかサイトでは和歌についてだけ触れられていた)
きの苧か ふゆうもんに さくはなも みどりをのこす 万代のたね
こふやうに ふれてからまる うつ若葉 つゆのなごりは すへの世までも
あやめさく 水にうつろう かきつばた いろはかはらぬ 花のかんばし
882人間七七四年
2023/05/30(火) 21:00:42.91ID:aSM9BdmM 埋蔵金にロマン感じる奴って直ぐにポンと融資してくれるからカンタンだわ
883人間七七四年
2023/05/30(火) 21:01:30.59ID:aSM9BdmM 埋蔵金にロマン感じる奴って直ぐにポンと融資してくれるからカンタンだわ
884人間七七四年
2023/05/31(水) 09:20:30.46ID:8u9xS1D8 まあ、いいぞ
885人間七七四年
2023/06/04(日) 15:03:32.74ID:F4RPUIsG 天正元年(元亀四年)三月上旬に、武田信玄公の御病気は一段平癒された。その仔細は、板垣法印が薬を進上し、
その上四花の灸をされ給った事で、御快気目出度くましまして、同三月十五日には、織田信長の居城する国の内、
東美濃へ発向有るべきとの旨を公表され、その陣触れが甚だしかった。
諸人は大小・上下共に尽く、この度の陣には一入忠功を励まし御感に預からんと、喜ぶこと限りなかった。
『甲陽軍鑑』
武田信玄の西上のさい野田城を陥落させた後発病したとされ、その後元亀四年四月十二日に死去するわけですが、
一時的には回復し、東美濃攻略を目指していたらしい、という記述。
その上四花の灸をされ給った事で、御快気目出度くましまして、同三月十五日には、織田信長の居城する国の内、
東美濃へ発向有るべきとの旨を公表され、その陣触れが甚だしかった。
諸人は大小・上下共に尽く、この度の陣には一入忠功を励まし御感に預からんと、喜ぶこと限りなかった。
『甲陽軍鑑』
武田信玄の西上のさい野田城を陥落させた後発病したとされ、その後元亀四年四月十二日に死去するわけですが、
一時的には回復し、東美濃攻略を目指していたらしい、という記述。
886人間七七四年
2023/07/01(土) 17:31:44.87ID:5OhX76wn 武士道批判の事
一、人を褒める時は、褒めるに値する能き証拠を引き、謗る時はその根拠となる悪き証拠を引く、
これが本道である。
また邪道は、上杉憲政の家中のように、分限の者であれば悪しきも褒め、貧しければ良くても謗る。
このような家中には、臆病な者が十人中八人ある。
一、たとえ一人が能くとも、大勢の悪きに囲まれると未練の様になる。その時は十人中十人がよわ者となり、
そのようであったので、上杉憲政公は子息を捨てて越後へ逃げ込まれた。
さて、証拠を引いて善悪の定めのある家は、先ず運が尽きてその大将が死んだとしても、跡まで
その家中衆は弓箭に利発である。それは証拠を以て褒め、謗る故に、能き武士が多く集まり、
また未練な者が十人の内二、三人あっても、皆能きように見えるものなのだ。
『甲陽軍鑑』
ホント甲陽軍鑑は上杉憲政には容赦がないな
一、人を褒める時は、褒めるに値する能き証拠を引き、謗る時はその根拠となる悪き証拠を引く、
これが本道である。
また邪道は、上杉憲政の家中のように、分限の者であれば悪しきも褒め、貧しければ良くても謗る。
このような家中には、臆病な者が十人中八人ある。
一、たとえ一人が能くとも、大勢の悪きに囲まれると未練の様になる。その時は十人中十人がよわ者となり、
そのようであったので、上杉憲政公は子息を捨てて越後へ逃げ込まれた。
さて、証拠を引いて善悪の定めのある家は、先ず運が尽きてその大将が死んだとしても、跡まで
その家中衆は弓箭に利発である。それは証拠を以て褒め、謗る故に、能き武士が多く集まり、
また未練な者が十人の内二、三人あっても、皆能きように見えるものなのだ。
『甲陽軍鑑』
ホント甲陽軍鑑は上杉憲政には容赦がないな
887人間七七四年
2023/07/01(土) 18:59:37.35ID:a8HcLhKp 子息を捨てて越後に逃れて、謙信を頼り
子息の仇の氏康の子息の景虎のために御館の乱を調停しようとしたら
景勝軍に景虎の息子ともども殺される憲政
子息の仇の氏康の子息の景虎のために御館の乱を調停しようとしたら
景勝軍に景虎の息子ともども殺される憲政
888人間七七四年
2023/07/01(土) 19:25:49.30ID:i1A71xwj おだてられて育てられたボンボンでしょ
889人間七七四年
2023/07/08(土) 22:09:11.41ID:58EwJ9sF 此の頃の大将弓矢取様之事
一、北条氏康公は名大将にて度々の軍に勝利を得給う中に、夜軍にて管領上杉の大敵にひとしお付け、
終に(上杉)憲政に斬り勝ち追い討ち、関東を切従えるように成った。つまり北条家の弓矢は、
敵の油断を肝要に目を付けるものなのだ。
一、越後の(上杉)謙信は、後の負けにもかまわず差し懸る合戦をしようとするが、それは氾濫した川を
無理矢理に渡るような仕方である。殊更相手がましい敵に対しては、いつも退き口が荒い。
謙信は加賀、越中、或いは関東碓氷などで敗軍したことがあるが、武田信玄公と対峙する時は
無二に仕掛け申された。
一、織田信長は取り囲んだ城の包囲を解いて撤退し、境目の小城をいくつ攻め落とされても問題としない。
追い崩されて自軍の人数を追い討ちに討たれなければ、世間の取り沙汰は無いのだから。
攻め難い所は急ぎ引き取り、すぐに(別方面に)出兵して国を多く取って持ち、大身と成れば、
終にはその名は高きものとなる、という事である。
一、(武田)信玄公は軍に損害の無いように、敵を見て退き口が荒くならないようにした。
包囲した城に対し敵の後詰め(援軍)が来ても、それを見て(慌てて)包囲を解いたり撤退しないよう、
出陣の前からその方針を軍勢によく理解させて出る。
総じて、我が領分の小城を一つも取られないように、跡の勝利を水にしないようにさえ有れば、
末代まで名は残るものである。
さて又、国を多く治めることについて信玄公は、その身の果報により少しも怪我無くして名を取ったが、
この上寿命が長ければ終に扶桑(日本)六十余州の主とも成るだろうと仰せに成られた。
信玄公の御作法は御小旗に文字で書かれている、四ヶ条の如くである。その古語とは、
一其疾如風
一其徐如林
一其侵掠如火
一其不動如山
『甲陽軍鑑』
一、北条氏康公は名大将にて度々の軍に勝利を得給う中に、夜軍にて管領上杉の大敵にひとしお付け、
終に(上杉)憲政に斬り勝ち追い討ち、関東を切従えるように成った。つまり北条家の弓矢は、
敵の油断を肝要に目を付けるものなのだ。
一、越後の(上杉)謙信は、後の負けにもかまわず差し懸る合戦をしようとするが、それは氾濫した川を
無理矢理に渡るような仕方である。殊更相手がましい敵に対しては、いつも退き口が荒い。
謙信は加賀、越中、或いは関東碓氷などで敗軍したことがあるが、武田信玄公と対峙する時は
無二に仕掛け申された。
一、織田信長は取り囲んだ城の包囲を解いて撤退し、境目の小城をいくつ攻め落とされても問題としない。
追い崩されて自軍の人数を追い討ちに討たれなければ、世間の取り沙汰は無いのだから。
攻め難い所は急ぎ引き取り、すぐに(別方面に)出兵して国を多く取って持ち、大身と成れば、
終にはその名は高きものとなる、という事である。
一、(武田)信玄公は軍に損害の無いように、敵を見て退き口が荒くならないようにした。
包囲した城に対し敵の後詰め(援軍)が来ても、それを見て(慌てて)包囲を解いたり撤退しないよう、
出陣の前からその方針を軍勢によく理解させて出る。
総じて、我が領分の小城を一つも取られないように、跡の勝利を水にしないようにさえ有れば、
末代まで名は残るものである。
さて又、国を多く治めることについて信玄公は、その身の果報により少しも怪我無くして名を取ったが、
この上寿命が長ければ終に扶桑(日本)六十余州の主とも成るだろうと仰せに成られた。
信玄公の御作法は御小旗に文字で書かれている、四ヶ条の如くである。その古語とは、
一其疾如風
一其徐如林
一其侵掠如火
一其不動如山
『甲陽軍鑑』
890人間七七四年
2023/07/09(日) 19:14:59.25ID:yyEh7rNI もうネタ切れか
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