天下という言葉が京都周辺を意味していることが知られていないからか?
ぶっちゃけ鎌倉の北条家よりやりたい放題してた
将軍と戦をして追放してたからねw
室町幕府も応仁の乱後、足利家の影響力がなくなったから戦国時代なんだよね
なんで三好家って天下を取ったのに知名度低いの?
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1人間七七四年
2014/08/26(火) 12:27:41.64ID:iUSeDPwA50人間七七四年
2014/09/13(土) 02:40:13.79ID:T/CY6ha4 >>48
自分もあなたの意見に近いです
三好は大好きだけど、織豊政権の畿内以外の地域への影響力・統一政権としての
同時代・後世へのインパクトの大きさは三好の畿内支配とは比較にならないと思ってる
だから三好と織豊を同じ「天下人」というカテゴリで括るのはわりと違和感ある方
でもこれって関東の研究者の見方にむしろ近いのかーw関西人なんだけどな
自分もあなたの意見に近いです
三好は大好きだけど、織豊政権の畿内以外の地域への影響力・統一政権としての
同時代・後世へのインパクトの大きさは三好の畿内支配とは比較にならないと思ってる
だから三好と織豊を同じ「天下人」というカテゴリで括るのはわりと違和感ある方
でもこれって関東の研究者の見方にむしろ近いのかーw関西人なんだけどな
51人間七七四年
2014/09/13(土) 02:52:43.30ID:qLjiSXN9 三好長慶は、室町幕府に代わる三好(堺)政権を打ち立てた
領国は、山城・丹波・摂津・播磨・淡路・阿波・讃岐・伊予・和泉・河内・大和・若狭に及んだ
これは高く評価されるべき
ただ、将軍家や管領家を傀儡にするやり方だったので目立たないだけ
三好政権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E6%A8%A9
領国は、山城・丹波・摂津・播磨・淡路・阿波・讃岐・伊予・和泉・河内・大和・若狭に及んだ
これは高く評価されるべき
ただ、将軍家や管領家を傀儡にするやり方だったので目立たないだけ
三好政権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E6%A8%A9
52人間七七四年
2014/09/13(土) 04:04:34.25ID:oaJ1ikKx 信長も三好より規模がでかいだけの天下だし
豊臣も肝心の徳川を滅ぼせなかった時点で天下人にしては中途半端
三好は政治を行っていた時点で織田より上かもね
豊臣も肝心の徳川を滅ぼせなかった時点で天下人にしては中途半端
三好は政治を行っていた時点で織田より上かもね
53人間七七四年
2014/09/13(土) 06:33:17.75ID:wuFId54d イメージにとらわれずにきちんと調べて細川・三傑政権と比較すると
三好政権の独自性ってのはたくさん見えてくるんだよ。
一揆との関係とか宗教政策とか。
なかでも一族ぐるみの宗教政策の巧みさは特筆ものだと思う。
滅んだから「失敗した政権」と切って捨ててしまわずに
きちんとその業績は評価されるべきだよ。
三好政権の独自性ってのはたくさん見えてくるんだよ。
一揆との関係とか宗教政策とか。
なかでも一族ぐるみの宗教政策の巧みさは特筆ものだと思う。
滅んだから「失敗した政権」と切って捨ててしまわずに
きちんとその業績は評価されるべきだよ。
54人間七七四年
2014/09/13(土) 08:31:33.80ID:2ww8Pv3f だって、知名度の低い程度の天下を取ったのだから。
55人間七七四年
2014/09/13(土) 08:31:53.62ID:VSw7LEoo あれってどうだったんだろうね。
私怨を捨てて、それまでの狂気の宗教戦争を終わらせた長慶と、
焼討や虐殺で強引にねじ伏せた信長。
現代の史家は、信長は宗教の影響を絶って近世への扉を開いた云々、とか言うかも知れないが、
当時の人達からすれば、強面の信長よりは長慶の方が優しくて良かったかも、みたいな。
私怨を捨てて、それまでの狂気の宗教戦争を終わらせた長慶と、
焼討や虐殺で強引にねじ伏せた信長。
現代の史家は、信長は宗教の影響を絶って近世への扉を開いた云々、とか言うかも知れないが、
当時の人達からすれば、強面の信長よりは長慶の方が優しくて良かったかも、みたいな。
56人間七七四年
2014/09/13(土) 09:42:34.82ID:FJoal0R957人間七七四年
2014/09/13(土) 23:45:34.72ID:wuFId54d 本願寺+細川晴国(高国弟)と晴元が争った天文の錯乱というのは複雑な相関関係がありまして
実は三好元長残党は波多野と組んで本願寺・細川晴国陣営に味方していました。
どうやら三好長慶の認識としては父を殺した一向一揆は晴元・木沢に扇動されたもので
本願寺法主は彼らに利用されただけで真の仇敵ではないと認識していたようです。
天文2年に一向宗・法華宗双方に影響力を持つ長慶が仲介した和議が破られたのは
法主の主戦派側近が暴走したもののようですが
再戦当初は本願寺に味方した長慶は木沢の調略に乗り晴元陣営に寝返っています。
三好家の支援を失った本願寺は天文4年に「滅亡」と呼ばれるほどの大敗を喫し
晴国と主戦派を追放することで晴元と和談を結びます。
しかし追放した主戦派と晴国が分派を起こし蜂起してしまいます。
すると長慶は木沢と共に彼らを攻め滅ぼし(法主に代わって分派を粛清し)ています。
長慶と本願寺の関係は複雑怪奇ですが、お互いの利用価値を認め合った法主と長慶は
その後強固な共闘関係となりタッグを組んで勢力を盛り返していきます。
実は三好元長残党は波多野と組んで本願寺・細川晴国陣営に味方していました。
どうやら三好長慶の認識としては父を殺した一向一揆は晴元・木沢に扇動されたもので
本願寺法主は彼らに利用されただけで真の仇敵ではないと認識していたようです。
天文2年に一向宗・法華宗双方に影響力を持つ長慶が仲介した和議が破られたのは
法主の主戦派側近が暴走したもののようですが
再戦当初は本願寺に味方した長慶は木沢の調略に乗り晴元陣営に寝返っています。
三好家の支援を失った本願寺は天文4年に「滅亡」と呼ばれるほどの大敗を喫し
晴国と主戦派を追放することで晴元と和談を結びます。
しかし追放した主戦派と晴国が分派を起こし蜂起してしまいます。
すると長慶は木沢と共に彼らを攻め滅ぼし(法主に代わって分派を粛清し)ています。
長慶と本願寺の関係は複雑怪奇ですが、お互いの利用価値を認め合った法主と長慶は
その後強固な共闘関係となりタッグを組んで勢力を盛り返していきます。
58人間七七四年
2014/09/14(日) 00:15:28.14ID:aJkeIejz59人間七七四年
2014/09/14(日) 00:26:49.30ID:JGJ2V3lj d
6057
2014/09/14(日) 01:49:31.92ID:7bbwf+zp61人間七七四年
2014/09/14(日) 07:41:42.11ID:X6FKFz/N どっちみち、地方政権レベルのあらそいでは、勢力均衡へバランスが取られて手ぬるい結果となる。
織田の場合は総決算的な戦争になるから野合でもなんでも、その他が集まって抵抗。
つまり、最後の勢力均衡策が取られて激しい抵抗となる。
それを並べておだと比べて三好の活躍のほうが上だから・・・とかいうのは贔屓の引き倒しかと。
織田の場合は総決算的な戦争になるから野合でもなんでも、その他が集まって抵抗。
つまり、最後の勢力均衡策が取られて激しい抵抗となる。
それを並べておだと比べて三好の活躍のほうが上だから・・・とかいうのは贔屓の引き倒しかと。
62人間七七四年
2014/09/14(日) 12:36:00.59ID:C3retOkx 誰も三好の方が織田より上なんて言ってないと思うけどな
それぞれのやり方があっただろうしな、信長のやり方、長慶のやり方、秀吉のやり方
信長は武力で抑えるやり方、長慶はその反対
信長の場合は圧倒的武力で抑え込むやり方が一番良かったし結果それで行けた
長慶の場合は武力で抑えつけられるやり方では駄目な時代でもあったし。
それぞれのやり方があっただろうしな、信長のやり方、長慶のやり方、秀吉のやり方
信長は武力で抑えるやり方、長慶はその反対
信長の場合は圧倒的武力で抑え込むやり方が一番良かったし結果それで行けた
長慶の場合は武力で抑えつけられるやり方では駄目な時代でもあったし。
63人間七七四年
2014/09/14(日) 13:26:35.03ID:5JGR4YEk 源平の合戦も規模敵には小さいからね
だから平氏は関東で苦戦して源氏に負けたと
当時の天下人も京都周辺でしか軍事力を発揮できなかった
平氏は京都を追われたら西国から無視されて敗れたと
鎌倉幕府の初期の源氏3代も京都を抑えていなかった
京都の平氏を追い出しただけで京は朝廷の影響化にあった。源氏は朝廷を助けただけになってたのねw
実朝が暗殺された後、六波羅探題を設置して京都を抑えてやっと天下を取った
それまでの幕府は関東を治めていた武家政権にすぎない
西は朝廷の影響化にあった。だから承久の乱が起きた
三好も十分織田豊臣と同等に評価にできる
細川政権は応仁の乱後50年と長かった。この細川を見ても京都を抑えるのは難しかったと
細川時代に三好織田豊臣より先に天下に一番近づいたのが大内義興で、義興も過小評価されている
実力的には当時一番力を持っていた。ただ尼子や京都の政変のせいでタイミングがあわなかった
だから平氏は関東で苦戦して源氏に負けたと
当時の天下人も京都周辺でしか軍事力を発揮できなかった
平氏は京都を追われたら西国から無視されて敗れたと
鎌倉幕府の初期の源氏3代も京都を抑えていなかった
京都の平氏を追い出しただけで京は朝廷の影響化にあった。源氏は朝廷を助けただけになってたのねw
実朝が暗殺された後、六波羅探題を設置して京都を抑えてやっと天下を取った
それまでの幕府は関東を治めていた武家政権にすぎない
西は朝廷の影響化にあった。だから承久の乱が起きた
三好も十分織田豊臣と同等に評価にできる
細川政権は応仁の乱後50年と長かった。この細川を見ても京都を抑えるのは難しかったと
細川時代に三好織田豊臣より先に天下に一番近づいたのが大内義興で、義興も過小評価されている
実力的には当時一番力を持っていた。ただ尼子や京都の政変のせいでタイミングがあわなかった
64人間七七四年
2014/09/14(日) 14:16:28.14ID:jspvY4cE >三好も十分織田豊臣と同等に評価にできる
織豊政権のうち、豊臣政権は名実ともに天下統一を達成した政権なわけで
これを三好と同列に論じるのはどう考えても無理でしょう
三好の再評価を目指すなら、まだ三好と織田政権の畿内支配との
部分的な連続性を主張するくらいの現実的な路線の方が無難だと思う
織豊政権のうち、豊臣政権は名実ともに天下統一を達成した政権なわけで
これを三好と同列に論じるのはどう考えても無理でしょう
三好の再評価を目指すなら、まだ三好と織田政権の畿内支配との
部分的な連続性を主張するくらいの現実的な路線の方が無難だと思う
65人間七七四年
2014/09/14(日) 18:57:32.28ID:OmUTvPYP 三好政権を評価するっていっても教科書に載るような政策はあるの?
66人間七七四年
2014/09/14(日) 19:48:36.27ID:cW1sQYIo 三好長慶が何をしたのか?
そこが根本的な問題!
そこが根本的な問題!
67人間七七四年
2014/09/14(日) 21:07:34.88ID:bqfcxgkL 教科書に載るような政策は残念ながらないんじゃないかな
それまでの細川政権よりマシな経済政策と畿内自治権の調整を行っただけで
織田政権がやったほどの革新性はあんましないしまず資料が乏し過ぎる
そもそも長慶がどういう思想で畿内を支配したのかもはっきりしてないし
それまでの細川政権よりマシな経済政策と畿内自治権の調整を行っただけで
織田政権がやったほどの革新性はあんましないしまず資料が乏し過ぎる
そもそも長慶がどういう思想で畿内を支配したのかもはっきりしてないし
68人間七七四年
2014/09/14(日) 22:35:52.03ID:OmUTvPYP 畿内支配はある意味仕形がなくって感じがあります
細川晴元が三好長慶を優遇していたら
足利義輝が三好長慶と和解していたら
たぶん三好長慶は主君を立てると思います
細川晴元が三好長慶を優遇していたら
足利義輝が三好長慶と和解していたら
たぶん三好長慶は主君を立てると思います
69人間七七四年
2014/09/14(日) 23:32:47.43ID:bqfcxgkL あくまで晴元とその一派に仕掛けたはずが
将軍までびびって京から逃げ出したために空白となった京で政を代行
自らの晴元への私怨で仕掛けた抗争でこうなったのだから
仕方なくって感じですかねやっぱり?
個人的には長慶は最初から義輝とは敵対するつもりがなかったように見えます
晴元に色々吹き込まれて謀反人と信じ込まされたってのが将軍との対立の原因なのかも
将軍までびびって京から逃げ出したために空白となった京で政を代行
自らの晴元への私怨で仕掛けた抗争でこうなったのだから
仕方なくって感じですかねやっぱり?
個人的には長慶は最初から義輝とは敵対するつもりがなかったように見えます
晴元に色々吹き込まれて謀反人と信じ込まされたってのが将軍との対立の原因なのかも
70人間七七四年
2014/09/15(月) 02:00:02.81ID:pn/FzDhS 三好長慶の思想を反映したと思うわれる旗幟「理世安民」
民が安心して暮らせるように世を治めるという意味です。
つまり長慶は私怨から晴元や将軍を追放したのではなく
天下万民のための政治を実現するためだったと自己の行動を正当化しています。
実際に都の実権=政権を握った長慶はそのスローガン通り
新興層の勃興などで時代のニーズに合わなくなり破たんした旧秩序を
より畿内社会の実情に即した形に再構築していきました。
その過程で管領はその権威を完全に喪失させられ
室町幕府も再起不能なまでにズタズタに解体されました。
過去にも将軍や管領を家臣が殺したり傀儡にしたことはありました。
しかし三好政権は幕府の組織や権威まで解体してしまっています。
この点で三好政権は細川政権の延長と捉えることはできないと思います。
民が安心して暮らせるように世を治めるという意味です。
つまり長慶は私怨から晴元や将軍を追放したのではなく
天下万民のための政治を実現するためだったと自己の行動を正当化しています。
実際に都の実権=政権を握った長慶はそのスローガン通り
新興層の勃興などで時代のニーズに合わなくなり破たんした旧秩序を
より畿内社会の実情に即した形に再構築していきました。
その過程で管領はその権威を完全に喪失させられ
室町幕府も再起不能なまでにズタズタに解体されました。
過去にも将軍や管領を家臣が殺したり傀儡にしたことはありました。
しかし三好政権は幕府の組織や権威まで解体してしまっています。
この点で三好政権は細川政権の延長と捉えることはできないと思います。
71人間七七四年
2014/09/15(月) 07:46:43.51ID:kyCucSPA 細川晴元は管領であるためそれ自体が幕府中枢であるのに対し三好長慶は細川家の一武将
その立場の差が幕府解体に見えてしまいますね
しかし三好政権は幕府役人の取り込みに成功しているし足利縁者も確保しているので厳密には幕府解体とは言えず幕府代行と考えた方が無難かと
傀儡幕府ではなくね
その立場の差が幕府解体に見えてしまいますね
しかし三好政権は幕府役人の取り込みに成功しているし足利縁者も確保しているので厳密には幕府解体とは言えず幕府代行と考えた方が無難かと
傀儡幕府ではなくね
72人間七七四年
2014/09/15(月) 09:39:55.37ID:pn/FzDhS 三好家の研究に関してはその再評価に先鞭をつけた今谷氏が
自説に拘泥したために資料を意図的に曲解したりして
以降の三好政権の理解を歪なものにしてしまいました。
永禄元年に成立した三好と将軍家の和議は
将軍家を滅亡寸前まで追い詰めて義輝から人質を取って
つまり長慶が事実上の上位権力者だと認めさせたものだったのに
今谷氏の理解ではなぜか「三好家が将軍家に屈服した」となっています。
到底理解しがたい論理ですがなぜかこれが多くの人に信じられて
その後の三好政権の過小評価に拍車をかけていると思います。
永禄元年に「将軍を屈服させた」後にも三好家は独自に裁許を出しており
幕府側の裁許は三好家に壟断されたあげく事実上の機能停止に追い込まれています。
以上の経緯から幕政の代行ではなく傀儡化から簒奪に向けて
着々と地ならしをしている途上であったと見るべきだと思います。
自説に拘泥したために資料を意図的に曲解したりして
以降の三好政権の理解を歪なものにしてしまいました。
永禄元年に成立した三好と将軍家の和議は
将軍家を滅亡寸前まで追い詰めて義輝から人質を取って
つまり長慶が事実上の上位権力者だと認めさせたものだったのに
今谷氏の理解ではなぜか「三好家が将軍家に屈服した」となっています。
到底理解しがたい論理ですがなぜかこれが多くの人に信じられて
その後の三好政権の過小評価に拍車をかけていると思います。
永禄元年に「将軍を屈服させた」後にも三好家は独自に裁許を出しており
幕府側の裁許は三好家に壟断されたあげく事実上の機能停止に追い込まれています。
以上の経緯から幕政の代行ではなく傀儡化から簒奪に向けて
着々と地ならしをしている途上であったと見るべきだと思います。
73人間七七四年
2014/09/15(月) 14:30:17.70ID:3Lz0UUec しかしその結末は仰ることとは程遠く簒奪にも傀儡にもなってない
74人間七七四年
2014/09/15(月) 17:48:33.92ID:3NHkE7AJ 傀儡化って何でそんな突拍子もない発想に?
三好長慶は将軍を擁立なんかしてないよ
将軍を擁立してもいないのに傀儡化って意味が分からない
三好長慶は将軍を擁立なんかしてないよ
将軍を擁立してもいないのに傀儡化って意味が分からない
75人間七七四年
2014/09/15(月) 22:23:49.95ID:sI9njgkb 将軍を擁立してもいないなら
三好長慶の相伴衆就任とは何だったのか(震え声
三好長慶の相伴衆就任とは何だったのか(震え声
76人間七七四年
2014/09/15(月) 22:43:42.73ID:GTXX+rPA そうだけど、立てた訳でもないよな
77人間七七四年
2014/09/15(月) 23:20:36.05ID:pn/FzDhS かいらいせいけん【傀儡政権】
形式的には独立しているが、実質的には他国によって操られている政権。
形式的には独立しているが、実質的には他国によって操られている政権。
78人間七七四年
2014/09/15(月) 23:29:58.21ID:Uxo8h919 三好長慶ってそんなにすごいの?長寿だったらどうだったか
信長の上洛軍にあっさり敗北して現在の評価ガタ落ちになってそう
信長の上洛軍にあっさり敗北して現在の評価ガタ落ちになってそう
79人間七七四年
2014/09/15(月) 23:48:02.92ID:NLoCt1So 長慶が亡くなり三好三人衆と松永久秀とが対立して内部分裂していた頃に
信長は足利義昭を擁して上洛するわけでつまり漁夫の利を得たわけ
仮に三好長慶含め長慶の兄弟ももうちょっと長生きして政権も安定していたら
まず信長は畿内を掌握するのも難しい
三好長慶の全盛期には四国東部と畿内の10カ国200万石相当を支配化にしていて
やろうと思えば6万人強の兵力を動員することもできたはず
かつ信長と同じく堺の経済力にも目を向けていた
物量的にも当時最強の勢力
信長は足利義昭を擁して上洛するわけでつまり漁夫の利を得たわけ
仮に三好長慶含め長慶の兄弟ももうちょっと長生きして政権も安定していたら
まず信長は畿内を掌握するのも難しい
三好長慶の全盛期には四国東部と畿内の10カ国200万石相当を支配化にしていて
やろうと思えば6万人強の兵力を動員することもできたはず
かつ信長と同じく堺の経済力にも目を向けていた
物量的にも当時最強の勢力
80人間七七四年
2014/09/16(火) 00:13:52.26ID:dfwQKdkV まあ、三好家は最強談義には向いてないし一般層からは相変わらず逆風だからな。
まず今の三好研究では旧来イメージとは全く違うイメージになった松永久秀と
江戸時代に創作された松永久秀像のイメージの蔓延でまず三好家と言えば旧来の松永が表に出てくる弊害
『剣豪将軍』と最後の逸話で厨二要素満載で大人気の足利義輝
とその義輝を殺害した三好三人衆に対峙するのは
義輝の弟・足利義昭を擁する征伐した織田信長が悪の三好を征伐し荒れ果てた京を再興する
って構図からまず撤廃させないとダメだからな。
そもそも三好氏や畿内の研究が本格的に始まったのってここ最近の話でしょ?
(織田・上杉・武田などメジャー級は手垢が付いてるから三好や細川などの畿内大名くらいしか目新しいのがいないから)
今谷氏も本を書いた昔と今では違うって言ってたけど、天野氏が出てきたから色々これから三好は発掘されてくるだろう
まず今の三好研究では旧来イメージとは全く違うイメージになった松永久秀と
江戸時代に創作された松永久秀像のイメージの蔓延でまず三好家と言えば旧来の松永が表に出てくる弊害
『剣豪将軍』と最後の逸話で厨二要素満載で大人気の足利義輝
とその義輝を殺害した三好三人衆に対峙するのは
義輝の弟・足利義昭を擁する征伐した織田信長が悪の三好を征伐し荒れ果てた京を再興する
って構図からまず撤廃させないとダメだからな。
そもそも三好氏や畿内の研究が本格的に始まったのってここ最近の話でしょ?
(織田・上杉・武田などメジャー級は手垢が付いてるから三好や細川などの畿内大名くらいしか目新しいのがいないから)
今谷氏も本を書いた昔と今では違うって言ってたけど、天野氏が出てきたから色々これから三好は発掘されてくるだろう
81人間七七四年
2014/09/16(火) 02:03:11.34ID:Rmd1KMDn 三好は研究史の薄さから3冊ほど読めば
誰でも即通気取りできるお手軽アイテム化してるので
これから中二病も狂信者もいろいろ増えていくんですね
このスレ見ただけでわかります
誰でも即通気取りできるお手軽アイテム化してるので
これから中二病も狂信者もいろいろ増えていくんですね
このスレ見ただけでわかります
82人間七七四年
2014/09/16(火) 02:25:02.68ID:dLJFtMPw 大内なんて2冊だぜ
83人間七七四年
2014/09/16(火) 03:45:28.66ID:Rmd1KMDn >>81
大内厨は三好厨のように抜きがたい「天下人」コンプレックスも
「これまで不当に扱われてきた」という被害者意識からくる
攻撃的な啓蒙活動への意欲もないので
これからも戦国板の圧倒的サイレント・マイノリィとして
誰にも迷惑をかけず細々と活動してゆく未来しか見えません
正直大内は厨が湧くほどのキャラの濃さもないですし
歴代大内家の当主も名将揃いなのに不思議ですが
おそらく大内は戦国大名としては品が良すぎて
いかにも戦国らしい魅力に欠けるんでしょう
大内厨は三好厨のように抜きがたい「天下人」コンプレックスも
「これまで不当に扱われてきた」という被害者意識からくる
攻撃的な啓蒙活動への意欲もないので
これからも戦国板の圧倒的サイレント・マイノリィとして
誰にも迷惑をかけず細々と活動してゆく未来しか見えません
正直大内は厨が湧くほどのキャラの濃さもないですし
歴代大内家の当主も名将揃いなのに不思議ですが
おそらく大内は戦国大名としては品が良すぎて
いかにも戦国らしい魅力に欠けるんでしょう
84人間七七四年
2014/09/16(火) 07:00:22.68ID:DKXcqg2M >>83
こういう他人を貶めることでしか自己主張できない奴って
本当に哀れとしか言いようがない。
自分はたった3冊の本を読むこともしないし
読んでも正しく理解できないんだよね。
天下人コンプレックスなんて誰も持ってないのに
見えない敵と日夜戦ってるのは自分じゃないの?
このスレのやり取りで攻撃的な啓もう活動なんてなかったでしょ。
ただ誤った情報から貶められることに対して
誤りを正して反論していただけだよ。
こういう他人を貶めることでしか自己主張できない奴って
本当に哀れとしか言いようがない。
自分はたった3冊の本を読むこともしないし
読んでも正しく理解できないんだよね。
天下人コンプレックスなんて誰も持ってないのに
見えない敵と日夜戦ってるのは自分じゃないの?
このスレのやり取りで攻撃的な啓もう活動なんてなかったでしょ。
ただ誤った情報から貶められることに対して
誤りを正して反論していただけだよ。
85人間七七四年
2014/09/16(火) 07:56:33.56ID:rPxV59xM86人間七七四年
2014/09/16(火) 20:29:09.54ID:CweMTe6y なんか違う方向に流れきたのでしばらく様子見
87人間七七四年
2014/09/16(火) 20:54:38.31ID:ZtFrvYOG 長慶って運が良かったからみたいな場面ってあんまりないよな
本当に実力のみで這い上がった感じ
本当に実力のみで這い上がった感じ
88人間七七四年
2014/09/16(火) 21:40:22.09ID:WHx+p6+K 近江の六角がいつも三好との挟撃決戦時に間にあわないか
中途半端な出兵になるあたり長慶は結構強運だと思うよ
中途半端な出兵になるあたり長慶は結構強運だと思うよ
89人間七七四年
2014/09/21(日) 11:49:56.32ID:VbZV3/EU 江口の戦いの時は六角は長慶に釣りだされたんじゃないかな?
六角勢一万が摂津に進軍せずに京に留まっていれば
三好勢に摂津は奪われてもその後の総崩れはなく
晴元は都までは失陥せずに済んだと思う。
六角勢一万が摂津に進軍せずに京に留まっていれば
三好勢に摂津は奪われてもその後の総崩れはなく
晴元は都までは失陥せずに済んだと思う。
90人間七七四年
2014/09/21(日) 21:49:04.58ID:eBTJGzF2 三好家が最終的に戦国大名としては生き残れなかったのは、三好実休とその子の長治の存在が大きく響いてるでしょ。
三好実休不可解な細川持隆の暗殺、持隆の息子真之への扱いと実休の戦死、実休の跡を継いだ長治の悪政・・・。
このへんの流れが三好家の基盤であるべき阿波の混乱と畿内での騒擾とがリンクしている。
阿波がしっかり治められていれば、最悪地方の権力として生き延びる道も有ったであろうのに、
長宗我部の侵攻を許し、阿波・讃岐の混乱を招いたことで生き残る道も自ら閉ざしてしまっている。
細川家が傍流ながら見事に生き残ったのとは対照的ですね。
三好実休不可解な細川持隆の暗殺、持隆の息子真之への扱いと実休の戦死、実休の跡を継いだ長治の悪政・・・。
このへんの流れが三好家の基盤であるべき阿波の混乱と畿内での騒擾とがリンクしている。
阿波がしっかり治められていれば、最悪地方の権力として生き延びる道も有ったであろうのに、
長宗我部の侵攻を許し、阿波・讃岐の混乱を招いたことで生き残る道も自ら閉ざしてしまっている。
細川家が傍流ながら見事に生き残ったのとは対照的ですね。
91人間七七四年
2014/09/22(月) 00:11:54.79ID:viJgHnHt 三好家が消滅して忘れ去られた原因は以下の3点も考えられると思います。
三好の名跡が織田信雄に移ったり羽柴秀次に移ったりしてうやむやになってしまったこと。
秀次が三好に養子入りした時に三好系家臣団も秀次配下に合流したものが
後の秀次粛清劇で多くが巻き添えで没落したこと。
三好系と親密だった堺閥が利休(長慶の義兄弟?)の粛清に象徴されるように没落したこと。
三好のネームバリューが長治滅亡後も
まだ一定の影響力を持っていたがのが裏目に出て
権力闘争に巻き込まれるうちに歴史の波にもまれて藻屑と消えてしまっんじゃないかと。
三好の名跡が織田信雄に移ったり羽柴秀次に移ったりしてうやむやになってしまったこと。
秀次が三好に養子入りした時に三好系家臣団も秀次配下に合流したものが
後の秀次粛清劇で多くが巻き添えで没落したこと。
三好系と親密だった堺閥が利休(長慶の義兄弟?)の粛清に象徴されるように没落したこと。
三好のネームバリューが長治滅亡後も
まだ一定の影響力を持っていたがのが裏目に出て
権力闘争に巻き込まれるうちに歴史の波にもまれて藻屑と消えてしまっんじゃないかと。
92人間七七四年
2014/09/22(月) 01:42:20.53ID:u4PbSWj1 権力者の子弟が三好の名を欲するぐらいなんだから、
やはり、三好の名声は高かったんだろうね。
やはり、三好の名声は高かったんだろうね。
93人間七七四年
2014/09/22(月) 01:54:20.62ID:l2ATK9xw 三好市って町の名前があるから四国の一部じゃ庶民からも人気だったのかな?
94人間七七四年
2014/09/22(月) 06:47:06.92ID:uCG3b6xL >>93
地名のほうが昔から有る、
三好家は小笠原家の支流で阿波に移って三好の地を根拠地にしたから三好を名乗った・・・ということになっている。
小笠原家の支流・・・の部分はまだ未解明で、ホントは別の一族だったが小笠原家から入婿を迎えて小笠原支流を名乗るようになった・・・とか
ただの仮冒とか、いう話も有る。
地名のほうが昔から有る、
三好家は小笠原家の支流で阿波に移って三好の地を根拠地にしたから三好を名乗った・・・ということになっている。
小笠原家の支流・・・の部分はまだ未解明で、ホントは別の一族だったが小笠原家から入婿を迎えて小笠原支流を名乗るようになった・・・とか
ただの仮冒とか、いう話も有る。
95人間七七四年
2014/09/22(月) 08:07:02.36ID:l2ATK9xw そうなのか…そもそも四国における三好長慶や三好家の知名度ってどんくらいなんだろ
なんか四国の戦国武将と言えば長宗我部がメジャーになっちゃてるが
全盛期の長慶と比べたらちょっとばかりスケールダウンすると思うんだよね
なんか四国の戦国武将と言えば長宗我部がメジャーになっちゃてるが
全盛期の長慶と比べたらちょっとばかりスケールダウンすると思うんだよね
96人間七七四年
2014/09/22(月) 09:52:29.17ID:VDU1dnCJ 三好は長宗我部にボコボコにされたってイメージあるからなあ
97人間七七四年
2014/09/22(月) 09:58:59.84ID:uCG3b6xL98人間七七四年
2014/09/22(月) 23:20:28.52ID:54CYh3Mi >>96
三好にしたって最盛期の細川京兆家や畠山家と
ガチでやりあった訳じゃないし
細川同族連合が盤石なら三好はそもそも畿内に進出できなかっただろうに
大内義興の在京期間は海路も封鎖されて畿内に入ることさえ不可能だった
そういう意味ではタラレバの無意味な議論だと思うけどねー
>>95
三好は畿内に本国の阿讃のリソースつっこんで
国元の阿波にはろくな備えのある城(だからろくに防戦もできず
コウモリ如きにしてやられるんだよ!)も城下町もつくらなかったし
やっぱり末期が悪政だったのがイメージ悪いんだと思う
三好長治の失政と家臣の篠原長房や主家・阿波守護家との内乱で
阿波は盗賊が跋扈する国状態だろ
長宗我部の侵攻以前に三好自体が統治能力失って自壊したようなもんだもの
その挙句土佐の田舎者のコウモリ如きにフルボッコェ…
足利義昭や織田信長とも最後まで戦っていればそれなりに絵になって
人気がでたかもしれん。でもそのへん三好は節操も意地もない
長宗我部も四国統一の過程で寺は燃やすし謀殺祭で
無茶苦茶やりよったけどなー
オレは土佐人でも長宗我部ファンでもなんでもない四国人だけど
一般的に三好よりは長宗我部元親の方が人気があるのはまぁわかるよ
三好は畿内も阿波も最後がカッコ悪すぎるんだよ
三好にしたって最盛期の細川京兆家や畠山家と
ガチでやりあった訳じゃないし
細川同族連合が盤石なら三好はそもそも畿内に進出できなかっただろうに
大内義興の在京期間は海路も封鎖されて畿内に入ることさえ不可能だった
そういう意味ではタラレバの無意味な議論だと思うけどねー
>>95
三好は畿内に本国の阿讃のリソースつっこんで
国元の阿波にはろくな備えのある城(だからろくに防戦もできず
コウモリ如きにしてやられるんだよ!)も城下町もつくらなかったし
やっぱり末期が悪政だったのがイメージ悪いんだと思う
三好長治の失政と家臣の篠原長房や主家・阿波守護家との内乱で
阿波は盗賊が跋扈する国状態だろ
長宗我部の侵攻以前に三好自体が統治能力失って自壊したようなもんだもの
その挙句土佐の田舎者のコウモリ如きにフルボッコェ…
足利義昭や織田信長とも最後まで戦っていればそれなりに絵になって
人気がでたかもしれん。でもそのへん三好は節操も意地もない
長宗我部も四国統一の過程で寺は燃やすし謀殺祭で
無茶苦茶やりよったけどなー
オレは土佐人でも長宗我部ファンでもなんでもない四国人だけど
一般的に三好よりは長宗我部元親の方が人気があるのはまぁわかるよ
三好は畿内も阿波も最後がカッコ悪すぎるんだよ
99人間七七四年
2014/09/22(月) 23:49:42.69ID:0vlIDkt+ しかし三好も長宗我部も最期は仲良く同じ運命に殉じている
所詮は同じ四国勢似たり寄ったりだな
所詮は同じ四国勢似たり寄ったりだな
100人間七七四年
2014/09/23(火) 00:12:28.30ID:kV7+en8j 大内・細川・長曽我部・三好どれも普通に凄かったと思うけど
置かれた立場や時代が違うんだから
優劣をつけるなんてさほど有意義だとは思わないけど。
元親を蝙蝠なんていうけど事績をきちんと追えば
文武に優れた英雄と呼ぶにふさわしい傑物だよ。
三好長治の悪政に関しては後代の軍記物しかソースがなく信ぴょう性が薄いようだよ。
内乱で盗賊が跋扈したなんて資料あるなら出してきてよ。
三好義継は義昭を守って華々しく討ち死にして賞賛されてるよ。
笑岩も十河存保も三好の勢力を残すために必死に戦った事績が残ってるのに無視するの?
置かれた立場や時代が違うんだから
優劣をつけるなんてさほど有意義だとは思わないけど。
元親を蝙蝠なんていうけど事績をきちんと追えば
文武に優れた英雄と呼ぶにふさわしい傑物だよ。
三好長治の悪政に関しては後代の軍記物しかソースがなく信ぴょう性が薄いようだよ。
内乱で盗賊が跋扈したなんて資料あるなら出してきてよ。
三好義継は義昭を守って華々しく討ち死にして賞賛されてるよ。
笑岩も十河存保も三好の勢力を残すために必死に戦った事績が残ってるのに無視するの?
101人間七七四年
2014/09/23(火) 00:30:33.75ID:kV7+en8j あと三好は最盛期には11カ国に勢力を持ち都も支配していた。
長曽我部元親も四国の大半を掌中に収めていた。
この偉業を吹っ飛ばすなんて語るに落ちるとしか言いようがないよ。
長曽我部元親も四国の大半を掌中に収めていた。
この偉業を吹っ飛ばすなんて語るに落ちるとしか言いようがないよ。
102人間七七四年
2014/09/23(火) 00:51:37.73ID:kV7+en8j 連投になるけど阿波勝瑞に城下町があったし
他にもいくつも寺内町や港町が栄えていた。
あったものをなかったようにミスリードするのはやめてね。
他にもいくつも寺内町や港町が栄えていた。
あったものをなかったようにミスリードするのはやめてね。
103人間七七四年
2014/09/23(火) 03:09:49.69ID:nXIr7HJ+ 勝端城は阿波屋形時代からの旧来の平城・館形式で
籠城や防衛に対応していないつくりだったのは事実だけどね。
中富川の戦いの前に急遽泥縄で砦を増築したくらいだから。
山城としては河内に飯盛城のような大規模な城つくったものの
畿内で城下町の形成に力入れなかった(なくてもやっていけた)のも
阿讃淡に同時代の畿内や中国に見られる大規模な防衛・籠城重視の
山城が少なかったのもよく言われるけどそれはそう。
勝端城も畿内の三好の主要居城も近世の早い段階で破却されたので
後世の地元の記憶に三好とセットで残らなかったんだと思う。
摂津・越水城のようにすでに天正年間に地元民が
「こんな城あっても合戦に巻き込まれて迷惑なだけ。城割してどうぞ」
と織田信長に依頼して破却された可哀想な子もいる。
籠城や防衛に対応していないつくりだったのは事実だけどね。
中富川の戦いの前に急遽泥縄で砦を増築したくらいだから。
山城としては河内に飯盛城のような大規模な城つくったものの
畿内で城下町の形成に力入れなかった(なくてもやっていけた)のも
阿讃淡に同時代の畿内や中国に見られる大規模な防衛・籠城重視の
山城が少なかったのもよく言われるけどそれはそう。
勝端城も畿内の三好の主要居城も近世の早い段階で破却されたので
後世の地元の記憶に三好とセットで残らなかったんだと思う。
摂津・越水城のようにすでに天正年間に地元民が
「こんな城あっても合戦に巻き込まれて迷惑なだけ。城割してどうぞ」
と織田信長に依頼して破却された可哀想な子もいる。
104人間七七四年
2014/09/23(火) 08:08:07.88ID:kV7+en8j 四国全体が100年以上にわたって細川家の影響下にあり
阿波は長く細川領国として安定していたので
防御的城館が発達しなかったんだと思うよ。
戦う相手がいないのに城を建てても不便なだけだよ。
三好が畿内の拠点に城下町を作らなかったのは
103氏の指摘にもあるように
町や村落が戦の巻き添えにならないように配慮したというのも
その理由の大きなものの一つだと考えてるんだけど。
阿波は長く細川領国として安定していたので
防御的城館が発達しなかったんだと思うよ。
戦う相手がいないのに城を建てても不便なだけだよ。
三好が畿内の拠点に城下町を作らなかったのは
103氏の指摘にもあるように
町や村落が戦の巻き添えにならないように配慮したというのも
その理由の大きなものの一つだと考えてるんだけど。
105人間七七四年
2014/09/23(火) 10:09:10.60ID:/5p1LZA1 木沢や茨木とかも城下町にしてないだろ
106人間七七四年
2014/09/23(火) 15:25:40.92ID:Sn4RPSw5 城下町化を考えなかった三好氏が特別だったわけではない
三好氏が城下町化をしなかったのは主家細川氏に遠慮した
若しくは将軍足利氏に遠慮したと考えた方が妥当だな
そもそも親三好派の堺が存在するのに城下町化は背信行為だよ
三好氏が城下町化をしなかったのは主家細川氏に遠慮した
若しくは将軍足利氏に遠慮したと考えた方が妥当だな
そもそも親三好派の堺が存在するのに城下町化は背信行為だよ
107人間七七四年
2014/09/23(火) 21:18:28.18ID:4srcEAfJ 畿内での拠点として堺を抑えているのにわざわざ城下町を作る必要性はないもんな
108人間七七四年
2014/09/23(火) 21:59:41.52ID:m39u3rIa 三好長慶が城下町に興味を示さなかった理由が資金不足だったら笑う
まさか堺に用立ててもらうわけにも行かないし
用立ててもらうといえば後土御門天皇が細川政元に用立ててもらおうとしたトンデモな件を思い出したよ
まさか堺に用立ててもらうわけにも行かないし
用立ててもらうといえば後土御門天皇が細川政元に用立ててもらおうとしたトンデモな件を思い出したよ
109人間七七四年
2014/09/23(火) 23:05:59.37ID:kV7+en8j 細川家の一奉行に過ぎない茨木直隆や
守護代から戦国大名化に挑んで失敗して滅んだ木沢と
信長以前の最大の戦国大名三好家を同列に並べるのは流石に・・・。
堺・平野・尼崎・富田林・京都など既に発展をしている畿内の諸都市とその経路を抑えているのに
新たな都市を作る必要はないと思うけれど。
自治都市というのはみな自衛のために武装してるし環濠や塀も張り巡らしてるので
防御力という点ではいわゆる「城」と遜色ないものがあります。
ですから都市が外敵に襲われたときに速やかに「後詰」を行えるように
軍事拠点と各自治都市をよく整備された街道や水路で結んでおけば
わざわざ城を建てて軍勢を駐屯させなくても都市の実効支配と効果的な防衛は可能です。
守護代から戦国大名化に挑んで失敗して滅んだ木沢と
信長以前の最大の戦国大名三好家を同列に並べるのは流石に・・・。
堺・平野・尼崎・富田林・京都など既に発展をしている畿内の諸都市とその経路を抑えているのに
新たな都市を作る必要はないと思うけれど。
自治都市というのはみな自衛のために武装してるし環濠や塀も張り巡らしてるので
防御力という点ではいわゆる「城」と遜色ないものがあります。
ですから都市が外敵に襲われたときに速やかに「後詰」を行えるように
軍事拠点と各自治都市をよく整備された街道や水路で結んでおけば
わざわざ城を建てて軍勢を駐屯させなくても都市の実効支配と効果的な防衛は可能です。
110人間七七四年
2014/09/24(水) 12:40:57.07ID:JyY1PxQn そもそも、足利家が健在なんだから
この段階で近畿で拠点を作ると完全に敵対することになるからやらんでしょ
この段階で近畿で拠点を作ると完全に敵対することになるからやらんでしょ
111人間七七四年
2014/09/24(水) 23:04:10.60ID:HOvPEaUw でも拠点が貧弱(?)な割には、
妙に機動的・効果的に、四国から援軍を繰り出してるよな。
妙に機動的・効果的に、四国から援軍を繰り出してるよな。
112人間七七四年
2014/09/25(木) 00:13:33.94ID:58ZNUiSv 阿波って長宗我部が来る前と後で全然違うよね
基本的には治世も上手くいってるし争いもそんなにない、で木材と藍と脇の物流で潤ってる
基本的には治世も上手くいってるし争いもそんなにない、で木材と藍と脇の物流で潤ってる
113人間七七四年
2014/09/25(木) 00:40:02.79ID:GRP6s+Cz 細川や三好の勢力が弱体化して
大敵不在の四国を掠め取ったのが長宗我部
大敵不在の四国を掠め取ったのが長宗我部
114人間七七四年
2014/09/25(木) 01:46:42.62ID:AA/Aiwo7 でも長宗我部が本能寺の陰の主役かも、なんて新説もあるんでしょ?
この頃の四国って、思ってる以上に中央に影響力があったんかな。
この頃の四国って、思ってる以上に中央に影響力があったんかな。
115人間七七四年
2014/09/25(木) 07:01:59.67ID:0Fkah5Cf 戦国時代になり地方から畿内への流通が不安定になると
畿内に近く、水運の大量輸送が使える四国の重要度は増しますね。
応仁の乱以後連年の戦で畿内は木材などが大インフレ状態で
四国勢は儲かって笑いが止まらないって状態だったんじゃないかな。
土佐が流刑地として知られているためか凄い僻地と誤解されているけど
船を使えば畿内からそんなに遠いわけではないので
長宗我部は中央の情勢をよく把握して動いていたみたいだね。
畿内に近く、水運の大量輸送が使える四国の重要度は増しますね。
応仁の乱以後連年の戦で畿内は木材などが大インフレ状態で
四国勢は儲かって笑いが止まらないって状態だったんじゃないかな。
土佐が流刑地として知られているためか凄い僻地と誤解されているけど
船を使えば畿内からそんなに遠いわけではないので
長宗我部は中央の情勢をよく把握して動いていたみたいだね。
116人間七七四年
2014/09/25(木) 09:56:59.73ID:CNUSUjCd 三好が安宅水軍をして大阪湾を抑えていたから畿内への介入が容易だったんでしょ
117人間七七四年
2014/09/25(木) 14:10:57.90ID:cvjDXS2m 阿波を拠点に大坂に進出し橋頭堡を築き天下を狙う。
日本ハムや大塚製薬みたいなもんか。
土佐にある日本有数の大企業なんて聞いたことないな。
阿波が現在も畿内に影響力があるのは三好のおかげかも
日本ハムや大塚製薬みたいなもんか。
土佐にある日本有数の大企業なんて聞いたことないな。
阿波が現在も畿内に影響力があるのは三好のおかげかも
119人間七七四年
2014/09/25(木) 17:16:24.53ID:yWljF5I3 岩崎弥太郎は最初から大阪に会社を設立している。
四国の会社が大阪を経て全国へという流れではない。
四国の会社が大阪を経て全国へという流れではない。
120人間七七四年
2014/09/26(金) 18:35:43.16ID:FoEQ/DZI 三好のおかげなんかじゃない
堺の経済力のおかげだ
極端なこと言えば三好がいなくても全く問題ないが堺がいなかったら話にならん
堺の経済力のおかげだ
極端なこと言えば三好がいなくても全く問題ないが堺がいなかったら話にならん
121人間七七四年
2014/09/26(金) 20:32:44.39ID:4iQ8AyF0 三好は伊予なんか支配していたのか?
讃岐ですら西半分支配していたと言い難いのに
讃岐ですら西半分支配していたと言い難いのに
122人間七七四年
2014/09/26(金) 22:26:49.82ID:VMW5G2Hw 堺の発展は瀬戸内を抑える大内に対抗して
南九州・土佐沖を通る航路の開発をしたことによるものだから
阿波・淡路周辺の水軍を抑える三好家の協力は絶対必要でしょ。
三好長慶が本願寺と同盟したおかげで
本願寺と敵対関係にあった堺に安定がもたらされたことも
その発展に大きく寄与したと思うよ。
西讃岐は永禄年間に香川氏が屈服して三好傘下になってるし
伊予東部も細川家の領地であったのを実休が抑えてます。
阿波西部の三好一門・大西覚養は伊予・土佐の一部にも影響力を持ち
河野氏や村上水軍も香川攻めの時に三好側についてます。
南九州・土佐沖を通る航路の開発をしたことによるものだから
阿波・淡路周辺の水軍を抑える三好家の協力は絶対必要でしょ。
三好長慶が本願寺と同盟したおかげで
本願寺と敵対関係にあった堺に安定がもたらされたことも
その発展に大きく寄与したと思うよ。
西讃岐は永禄年間に香川氏が屈服して三好傘下になってるし
伊予東部も細川家の領地であったのを実休が抑えてます。
阿波西部の三好一門・大西覚養は伊予・土佐の一部にも影響力を持ち
河野氏や村上水軍も香川攻めの時に三好側についてます。
123人間七七四年
2014/09/27(土) 03:10:34.13ID:YT1/walI124人間七七四年
2014/09/27(土) 15:38:19.48ID:cMFD3BP+ 香川氏屈伏の史料は年月も経緯も間違っとるかな
つーかありえないことになっとる
つーかありえないことになっとる
125人間七七四年
2014/09/27(土) 23:25:29.76ID:Klts/lHp >>124
> 香川氏屈伏の史料は年月も経緯も間違っとるかな
> つーかありえないことになっとる
wikiの記述のことかな?
軍記物ベースでなく確認できる資料だけから追っていくと
実休から村上に香川攻めへの助力を謝した書状が永禄2年に出されてます。
この時は攻め手の阿波三好家に香川家が従属することで和睦になったようです。
永禄6年に香川之景天霧状を退去(之景発給感状から)、毛利家を頼る?。
天正元年篠原の死後の混乱を突いて毛利織田の支援を受けて天霧状を奪還。
(之景に復帰を祝う書状が足利義昭から出されている)
こんな感じですので1559年から1573年あたりまでは
西讃岐は三好の勢力化にあったと言えそうです。
> 香川氏屈伏の史料は年月も経緯も間違っとるかな
> つーかありえないことになっとる
wikiの記述のことかな?
軍記物ベースでなく確認できる資料だけから追っていくと
実休から村上に香川攻めへの助力を謝した書状が永禄2年に出されてます。
この時は攻め手の阿波三好家に香川家が従属することで和睦になったようです。
永禄6年に香川之景天霧状を退去(之景発給感状から)、毛利家を頼る?。
天正元年篠原の死後の混乱を突いて毛利織田の支援を受けて天霧状を奪還。
(之景に復帰を祝う書状が足利義昭から出されている)
こんな感じですので1559年から1573年あたりまでは
西讃岐は三好の勢力化にあったと言えそうです。
127人間七七四年
2014/09/28(日) 08:17:05.90ID:g3gLDInV128人間七七四年
2014/09/28(日) 10:09:07.78ID:lyOh3vVl >>127
結局その程度の話ってのはそれくらいのことなら誰でも知ってる内容という意味で別に君を馬鹿にしたわけではない
一般的なことだけだなという意味で書いたんだ
勘違いさせるような文章を書いてすまなかったよ反省する
あと自分では何でもできないくせにというあからさまな煽り文句は控えた方がいいぞ
日本語は難しいので読み手によっては悪意を持って解釈されてしまうことがあるから難しいよな
結局その程度の話ってのはそれくらいのことなら誰でも知ってる内容という意味で別に君を馬鹿にしたわけではない
一般的なことだけだなという意味で書いたんだ
勘違いさせるような文章を書いてすまなかったよ反省する
あと自分では何でもできないくせにというあからさまな煽り文句は控えた方がいいぞ
日本語は難しいので読み手によっては悪意を持って解釈されてしまうことがあるから難しいよな
129人間七七四年
2014/09/28(日) 15:41:34.00ID:3WZ8Q6ad130人間七七四年
2014/09/28(日) 23:40:09.74ID:2Eu5uoqY131人間七七四年
2014/09/29(月) 00:57:23.06ID:ltvAbEtB 永禄〜天正の香川氏には3人の人物、
香川民部大輔行景、香川之景、香川信景が登場する。
この3人は同一人物視する人も居るけれど、3人は別人の可能性が高い。
香川民部大輔行景は、西庄城の城主で十河氏に敗れ毛利氏を頼り(元亀2年)、「元吉合戦」(天正5年7月)を起こした。
香川之景は、天霧城の城主で「善通寺合戦」(永禄6年)で和睦し三好家の参加に入った。
香川信景は、織田信長に近づき偏諱を与えられた(天正4年)。
おそらくこんな感じかと。
香川民部大輔行景、香川之景、香川信景が登場する。
この3人は同一人物視する人も居るけれど、3人は別人の可能性が高い。
香川民部大輔行景は、西庄城の城主で十河氏に敗れ毛利氏を頼り(元亀2年)、「元吉合戦」(天正5年7月)を起こした。
香川之景は、天霧城の城主で「善通寺合戦」(永禄6年)で和睦し三好家の参加に入った。
香川信景は、織田信長に近づき偏諱を与えられた(天正4年)。
おそらくこんな感じかと。
132人間七七四年
2014/09/29(月) 01:19:22.46ID:ltvAbEtB 誤字酷いな。
×この3人は同一人物視する人も居るけれど、3人は別人の可能性が高い。
○この3人は同一人物視する人も居るけれど、別人の可能性が高い。
×三好家の参加に入った。
○三好家の傘下に入った。
×この3人は同一人物視する人も居るけれど、3人は別人の可能性が高い。
○この3人は同一人物視する人も居るけれど、別人の可能性が高い。
×三好家の参加に入った。
○三好家の傘下に入った。
134人間七七四年
2014/09/30(火) 00:46:08.26ID:nwwcPp0f 年月や経緯を詳しく頼むとお願いした者です
>>127
>詳しく載せるのめんどくさいから端折ってるだけだよ。
めんどくさいなら書かなくていいよ
役に立たなさそうだしレスの無駄になるしみんなの迷惑になるし
>>127
>詳しく載せるのめんどくさいから端折ってるだけだよ。
めんどくさいなら書かなくていいよ
役に立たなさそうだしレスの無駄になるしみんなの迷惑になるし
135人間七七四年
2014/09/30(火) 22:41:40.01ID:KO8eMsWY 125は書状だけ追ってるってことかな。
永禄6年に香川之景天霧城を退去っていうのは、善通寺合戦の根拠になるんじゃないかと。
天正元年篠原の死後の混乱を突いて毛利織田の支援を受けて天霧状を奪還というのは、
おかしいような気がしますね。
織田や毛利は天正元年年末まで阿波に上陸できるような状況じゃ無いし。
永禄6年に香川之景天霧城を退去っていうのは、善通寺合戦の根拠になるんじゃないかと。
天正元年篠原の死後の混乱を突いて毛利織田の支援を受けて天霧状を奪還というのは、
おかしいような気がしますね。
織田や毛利は天正元年年末まで阿波に上陸できるような状況じゃ無いし。
136人間七七四年
2014/10/01(水) 08:11:10.23ID:hyD0eReW 支援だから調略とか資金・兵員援助とかもあるし。
讃岐にわたるまでは毛利方水軍が支援しただろうし。
このあたりの時代の四国と東瀬戸内の情勢はカオスで面白いね。
讃岐にわたるまでは毛利方水軍が支援しただろうし。
このあたりの時代の四国と東瀬戸内の情勢はカオスで面白いね。
137人間七七四年
2014/10/01(水) 08:14:48.63ID:BPYRYaxB まあ検証とかしてないよな
そのまま並べた感がありあり
そのまま並べた感がありあり
138人間七七四年
2014/10/01(水) 20:38:19.07ID:ylbjrdn2 んだな!
讃岐と東瀬戸内、それに備前も含めマジカオスすぐる
細川、大内、三好、毛利、織田と入り乱れ度がパネ
讃岐と東瀬戸内、それに備前も含めマジカオスすぐる
細川、大内、三好、毛利、織田と入り乱れ度がパネ
139人間七七四年
2014/10/01(水) 23:10:55.59ID:XxeUtsza 結局三好氏による西讃岐の完全支配は確証無しということで
140人間七七四年
2014/10/02(木) 22:37:51.01ID:/V89uPPH >>100
>内乱で盗賊が跋扈したなんて資料あるなら出してきてよ。
「昔阿波物語」に天正8〜9年の事項として「阿波の国は盗賊の世となり申し候」
とある。ただ長治じゃなくてすでに十河存保の時代だな。
すでに長宗我部との阿波での戦いが始まってる時期だが、国内の治安が盗賊団の
横行によって自壊してしまったんだと。
日下又之進という盗賊の頭領が貞方を拠点に暴れまわって、強盗・追い剥ぎを
くり返し、勝瑞城下でも盗賊が盗品を売りさばく市を立てる始末で治安が極度に悪化。
城主の十河存保も盗賊を討伐しようにも、三好家の郎党が盗賊に混じっている
有様でどうすることもできず、毎日盗賊の襲撃知らせる早鐘の鳴らない日はなかった。
このような状態は三好笑岩が天正10年に阿波に一旦帰国して日下を討ち取るまで続いた。
同時期に勝浦川河口でも海賊が跋扈し襲撃を繰り返した。とある
阿波も末期はこんな感じで勝端城下の治安維持すらできない状態。
これで長宗我部と戦うとかまぁ無理。
>内乱で盗賊が跋扈したなんて資料あるなら出してきてよ。
「昔阿波物語」に天正8〜9年の事項として「阿波の国は盗賊の世となり申し候」
とある。ただ長治じゃなくてすでに十河存保の時代だな。
すでに長宗我部との阿波での戦いが始まってる時期だが、国内の治安が盗賊団の
横行によって自壊してしまったんだと。
日下又之進という盗賊の頭領が貞方を拠点に暴れまわって、強盗・追い剥ぎを
くり返し、勝瑞城下でも盗賊が盗品を売りさばく市を立てる始末で治安が極度に悪化。
城主の十河存保も盗賊を討伐しようにも、三好家の郎党が盗賊に混じっている
有様でどうすることもできず、毎日盗賊の襲撃知らせる早鐘の鳴らない日はなかった。
このような状態は三好笑岩が天正10年に阿波に一旦帰国して日下を討ち取るまで続いた。
同時期に勝浦川河口でも海賊が跋扈し襲撃を繰り返した。とある
阿波も末期はこんな感じで勝端城下の治安維持すらできない状態。
これで長宗我部と戦うとかまぁ無理。
141人間七七四年
2014/10/03(金) 03:06:52.59ID:auSt8Dv6 織田と交戦中しつつ篠原父子とも細川真之とも殺しあう三好長治
家臣とも主筋とも殴りあうとかせめてどっちかにしとけば
阿波三好家は長宗我部の侵攻以前にすでにオワコン
家臣とも主筋とも殴りあうとかせめてどっちかにしとけば
阿波三好家は長宗我部の侵攻以前にすでにオワコン
142人間七七四年
2014/10/03(金) 07:04:49.49ID:S7jb6nqg 三好記とか昔阿波物語とか軍記物ベースでは
あまり語ってほしくないんですよね。
変な記述が満載で三好家の事績が歪められた原因の一つだし。
長宗我部には押されまくりだったけど
織田家の支援を取り付けて天正9年には逆襲に転じてるし
本能寺がなければ天正10年のは三好信孝が上陸していたし
普通にまだまだ逆転可能だったよ。
あまり語ってほしくないんですよね。
変な記述が満載で三好家の事績が歪められた原因の一つだし。
長宗我部には押されまくりだったけど
織田家の支援を取り付けて天正9年には逆襲に転じてるし
本能寺がなければ天正10年のは三好信孝が上陸していたし
普通にまだまだ逆転可能だったよ。
143人間七七四年
2014/10/03(金) 20:46:50.08ID:ViWnuozd >讃岐の香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告する書状を
>送りつけたため、これを憂えた存保からも長治の暴政について諫言を受けてい
>る。だが、これを疎んじた長治は却って存保を無視して兵3,000人を以って
>香川・香西両氏を攻め、両氏の三好氏からの離反を決定的なものとした(全讃史)。
この記述からすると香川氏・香西氏は三好家に従属してる。
でも香西氏は教興寺の戦い(河内)や元太城の戦い(備前)に出征してるけれど、
香川氏の名は見えない。
兵役を免除されていたのかな。
>送りつけたため、これを憂えた存保からも長治の暴政について諫言を受けてい
>る。だが、これを疎んじた長治は却って存保を無視して兵3,000人を以って
>香川・香西両氏を攻め、両氏の三好氏からの離反を決定的なものとした(全讃史)。
この記述からすると香川氏・香西氏は三好家に従属してる。
でも香西氏は教興寺の戦い(河内)や元太城の戦い(備前)に出征してるけれど、
香川氏の名は見えない。
兵役を免除されていたのかな。
144人間七七四年
2014/10/03(金) 22:35:48.57ID:UbmURMPh >>142
この期の阿波三好家には良質な史料がないんだから仕方ない。
かりに否定するに足る一次史料があるなら語ってどうぞ。
宇喜多なども残存している史料が極端に少ないので
軍記物の記述でも毛利などの他家の史料や他の軍記物と照合して
比較的信頼性の高い使える部分を使うしかない。
「三好記」にせよ「昔阿波物語」にせよバックグラウンドも
成立年代も異なるけれど、少なくとも父の世代には阿波三好家に近い
あるいは実際に三好時代の阿波に生きていた著者の叙述なわけで
三好に不都合な記述はすべて後世の補正がかかって歪曲されてるっていう
考え方もそれはそれで逆のバイアスがかかりすぎだわ。
この期の阿波三好家には良質な史料がないんだから仕方ない。
かりに否定するに足る一次史料があるなら語ってどうぞ。
宇喜多なども残存している史料が極端に少ないので
軍記物の記述でも毛利などの他家の史料や他の軍記物と照合して
比較的信頼性の高い使える部分を使うしかない。
「三好記」にせよ「昔阿波物語」にせよバックグラウンドも
成立年代も異なるけれど、少なくとも父の世代には阿波三好家に近い
あるいは実際に三好時代の阿波に生きていた著者の叙述なわけで
三好に不都合な記述はすべて後世の補正がかかって歪曲されてるっていう
考え方もそれはそれで逆のバイアスがかかりすぎだわ。
146人間七七四年
2014/10/03(金) 23:41:25.44ID:S7jb6nqg >>144
>三好に不都合な記述はすべて後世の補正がかかって歪曲されてるっていう
>考え方もそれはそれで逆のバイアスがかかりすぎだわ。
いや、こんなこと誰も言ってないわけで。
資料として問題のある軍記物から採るなら
せめて一次資料の裏付けのある部分で語ってほしいんだ。
これら軍記物は事実に基づいてより
亡国を語る物語のテンプレ表現を
三好家の末路に重ね合わせて書いている部分が多いんで
一次資料から類推した史実とはきちんと分けて
取り扱いは慎重にしてくれってね。
軍記物のイメージが暴走して松永が大悪人にされたり
長治が暗愚の暴君にされたりということがあったので
きちんと実像を探し出すためにいったんそこから離れてほしいんだよ。
>三好に不都合な記述はすべて後世の補正がかかって歪曲されてるっていう
>考え方もそれはそれで逆のバイアスがかかりすぎだわ。
いや、こんなこと誰も言ってないわけで。
資料として問題のある軍記物から採るなら
せめて一次資料の裏付けのある部分で語ってほしいんだ。
これら軍記物は事実に基づいてより
亡国を語る物語のテンプレ表現を
三好家の末路に重ね合わせて書いている部分が多いんで
一次資料から類推した史実とはきちんと分けて
取り扱いは慎重にしてくれってね。
軍記物のイメージが暴走して松永が大悪人にされたり
長治が暗愚の暴君にされたりということがあったので
きちんと実像を探し出すためにいったんそこから離れてほしいんだよ。
147人間七七四年
2014/10/04(土) 00:40:15.52ID:oj5sRy2P 香川氏が従属していないとすると、香川之景や香西佳清らは連名で実弟の十河存保に離反を警告する書状を
送りつけたという話が破綻してしまうよな。
もし従属していないとすると、
・香川氏は三好家に対し天霧城を守りとおした。
・香川氏は三好家に天霧城を退去し、その後も実休や一存に対し反抗を続けた。
どちらだろうか?
送りつけたという話が破綻してしまうよな。
もし従属していないとすると、
・香川氏は三好家に対し天霧城を守りとおした。
・香川氏は三好家に天霧城を退去し、その後も実休や一存に対し反抗を続けた。
どちらだろうか?
148人間七七四年
2014/10/04(土) 03:24:44.62ID:OiHfL3oY149人間七七四年
2014/10/04(土) 12:14:47.93ID:oj5sRy2P 香川氏が天霧城を退去したというのは>>125の書状から確かそうだね。
すると香川氏はどこを拠点とし、誰が天霧城を守備したのだろうか?
すると香川氏はどこを拠点とし、誰が天霧城を守備したのだろうか?
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