桶狭間合戦の真実
桶狭間合戦は2万5千の大軍今川義元軍をたった3千の織田信長軍が打ち負かしたと言われています。
最近では桶狭間合戦は奇襲ではなく正攻法だったという説もありますがどうなのでしょうか?
改めて桶狭間合戦についてみなさんで検討してみましょう。 容易には弔い合戦に出られないってwww
そもそも同盟してるからってなんで
武田が弔い合戦しなきゃなんねーんだよwww
腹いてぇww
本当におもしれェ奴いるよなww ま、普通に考えれば誰でも分かる話だが
家康が独立を条件にはなから織田信長と通じてただけなんだがな。
作戦通り、大高城より信長に義元の場所を教える→義元討たれる→
イの一番に戦地を離れ浜松に逃亡する。
そのままどさくさにまぎれて独立する。最初からこの手はずだったわけだ。
信長、家康にとって双方多大なメリットしかない作戦。
のちの腹黒タヌキ親父と言われる男、雪斎の弟子で一番頭が切れる男。
300年帝国の家康はやはり伊達ではない。
義元は家康の能力を買ってたから
まさか寝返ってるとは思ってなかったんだろうな・・・ まことには、自演癖が染み付いており、もはや普通の書き込みと
自演の区別がつかなくなっていた >>815
義元討死後、松平家中は一枚岩ではなく親今川派もいたらしい
話は変わるけど
第1回太閤検地で織田領だった尾張の石高は57万2千石
今川領だった駿河・遠江・三河の石高は計69万6千石
20数年前の1560年の桶狭間の戦いの時点でも大差はなかっただろうし
もしかすると通説の義元本隊5千を、信長が2千の兵で奇襲ではなく
信長軍の方が大軍だった可能性もあると思う 石高だけでなく鉱山、特産品、港湾や関所等の税収、兵の練度、団結力とか含めたトータルが国力だと思う
そういうの詳しい研究家いないかな 織田信長は、今川義元の首奪い、夜盗のごとく逃げ出したではないか。
その、どこが悪い。 勝ち目ない方は敵の大将の首だけ狙う戦術よくやるけど、
めったにない成功例ということか 兵力二倍だから動員可能兵力二倍でなく、城や所領の防備にも残さなければならないこと考えると、石高、兵力が増えると、動員可能兵力は放物線カーブで増えていく
実際織田方の動員可能兵力は二千程度、今川は国元に2万残しても一万五千動員できたという史実で大体正しいと思うよ 家康って本当は今川で厚遇されてたんじゃないのか?
人質のわりに太原雪斎を教育係につけてたし、義元の姪を嫁にくれるなんて相当期待されてたと思うよ
まあ、織田に恭順したらそんなこと言えないから今川の悪口になるだろうし、今川の体制が整わないうちに武田と挟み撃ちで今川叩いたのも武田に全部取られるよりっていう思いもあるだろが、狸親父の兆しここにありだろうな 家康って本当は今川で厚遇されてたんじゃないのか?
太原雪斎を教育係につけてたし、義元の姪を嫁にくれるなんて相当期待されてたと思うよ まあ、織田に恭順したらそんなこと言えないし、今川の悪口言わなきゃならないし
今川の体制が整わないうちに武田と挟みうちにしたのも、武田に全部取られるよりはってのもわかるけど タヌキオヤジってNGワードなのか?
管理人は何を恐れてるんだ? た、ぬ、きオヤジ
って普通に書くとNGワードなんだな
管理人は何を恐れてるんだ?
どこにしっぽふってるんだ? 家康
今川にあっては桶狭間(従軍)
信長にあっては本能寺(一日早く京入り)
豊臣にあっては三成襲撃事件に関ヶ原
偶然じゃないわ
天下一のたぬきでしょう 家康の居た大高城から桶狭間古戦場まで五キロの場所にいながら義元が討たれるまで全く気付打てないのが不思議.
初めから信長と内通してたかも 結局実際の兵力差がどれくらいだったかですな。
前提が変われば行動(考察)も変わる。 「一万石あたり250人」の兵力計算はずいぶん常識化したけど実際はどうか?
三国志でいえば蜀が滅亡時に人口90万余りで兵力10万余り、呉が人口230万で
兵力23万。
全男子の五分の一が兵士になれた訳だ。
農業の比率は地域でも変わるがおおむね一石あたり一人の人口かな。
しょっちゅう戦をしていれば死傷者が増えて戦力は減るからいちがいに言えないし、
長期戦、遠征なのか短期戦、地元なのかでも変わる。
農民などの経済活動を減らせば国力は落ちるからいつも最大動員できる訳ではない。
「今川が100万の石高無いし、織田に対してだけ全軍投入できる訳ないから2万5
千は怪しい」って意見が目立つが、可能では?
今川は東海道押さえていたし石高だけで論ずるのは違和感ある
こういうの研究してる先生いないのかな
歴史研究家でも疑問視し反例出してる記事はたまに見るけど 逆に織田軍の戦力も少なくされ過ぎ。
父親の時代に既に斉藤道三が縁組を持ちかけて来る位で対等に近い関係なんだから
時代を経たせがれの時代は更に強かったはず。
まあ、織田が今川以外に対する備えも必要だったハンデはあるが。 まあ間違いなくスパイ大作戦だよな
家康が通じていたに決まってる >>843
それ戸籍帳に登録されてる政府の公式人口で
登録されてない例えば豪族なんかの私有してる人口は入ってない >>845
いや織田家は所謂成り上がりの勢力だから濃尾を掌握するまでの動員兵は意外と少ない。
同じ頃の上杉や武田が万を超える兵を動員していたのに
尾張を完全統一後の美濃攻めでさえ数千規模だからな。 何で義元が大高に移動しようとしたのかわからん
残敵掃討と考えてもそんなことのためにわざわざ本隊動かすか 義元みずから大軍を率いてきたのは鳴海城の包囲を解かせるためだろう
鳴海城を助けて大高城へ入るそして駿府へ帰るぐらいかな
とりあえず鳴海城が織田の砦に囲まれてるから南がわの砦を蹴散らして大高城から鳴海城までの補給線を確保
その状態を保てば大高城よりも更に南がわの織田領は自然と立ち枯れて今川に恭順する運命(※織田としても海上から補給はできるが急場の時は難しい)
義元としては信長が清洲城で待ち受けてくれれば充分と考えたのだろう
まさか今川大軍に信長がぶつかってくるとは思わず当てが外れた 義元としては駿河と遠江の2つを氏真に与えて三河の完全経営に乗り出していた
股肱の臣としての松平元康と岡部元信をフル回転させて織田を追い出すだけで良く、尾張にそれほど興味は無かった
織田家だった鳴海城と沓掛城が今川家へ寝返ったので確実に物にするため示威行為のため大軍を差し向けた
ところが信長は 信長公記の桶狭間の戦いは著者太田に利害関係がないため書き手に関しては信用できるものの織田軍から見た戦いの内容であり「勝ちに不思議な勝ちあり」をそのまま記述している
藤本正行氏の内容は織田側の見方としては正しい
ただし本当の勝因を知らない不思議な勝ちを記述されている可能性が高い
真実を知るには「負けに不思議な負けなし」の敗軍のほうの記述を見なければならない
敗軍から見た記述としては甲陽軍鑑があるが記述した時代が遅いため真実を伝えているのか不透明である
その甲陽軍鑑では今川軍は奇襲を受けたとあり「負けに不思議な負けなし」の貴重な敗因を示している
後は
太田牛一氏と小幡景憲氏と藤本正行氏の内容を擦り合わせれば衝撃の答えが出る
もう俺には分かっているけど言わない
歴史家たちの苦難の研究を探偵が美味しいところだけ取っては失礼だからな いや美味しいところ取っていいよ
探偵でもなんでもいいからちゃんと公開しろ >>853
ここに書いちゃマズいのさ
詐欺師が情報さらって自説と称して発表してしまうからな
それは歴史家たちへ失礼なこと >>851
長島や蟹江を抑え海西郡に勢力を持ってた服部友貞が今川方だった事にもっと注目するべきだと思う
大高鳴海を抑えてた事と併せると信長の海上封鎖を狙ってた可能性が高い
尾張に興味がないどころか尾張の1番美味しい部分を得ようとしてるよ まず俺が言いたいのは『今川義元は天下を狙っていない』ということ
そして駿河と遠江という安定した今川の基盤を氏真に与え、義元自身は三河を領土化するつもりだったということ
その過程のなかで鳴海と沓掛の勢力が義元へ降ってきた
この尾張の2勢力を義元は三河の藩塀とする好機と見たであろう
義元の慎重な政略戦略からは尾張への拙速な決戦はまだ考えにくい、三河の外壁の確保として尾張中央への橋頭堡の確保として示威行為としての進軍と考える
長島の勢力が今川義元へ通じて来たのは外圧に抵抗するための当時の常套手段かと思う、つまり今川の旗を利用して外圧を防ぐためだったと俺は考える
もちろん今川家が拡大すればそのまま今川の傘下に入る選択肢にもなっただろうが、その時点では伊勢の勢力は是々非々で変わる可能性があったと思う >>856
蟹江はわざわざ海を渡って今川が自身の戦力で落としとるんやで
つまり当時の蟹江や長島はほぼ今川の直轄という事になる
(服部友貞が長島の「城代」になるのも桶狭間後)
そもそもの当時の情勢を勘違いしてる? 先日放映された歴史探偵においては大高城に入ってた鵜殿氏と熊野水軍とのつながりが紹介されていたし
後に信玄が取り込んだ事で知られる駿河水軍も含めて伊勢湾の制海権を掌握しつつあった事が容易に想像できる
だからこそ蟹江に直接兵力を送り込めていた訳だし義元の狙いも見えてくる >>857
松平元康も自身の勢力を削って今川家のために奮闘している
それでも是々非々で独立している
桶狭間の後も今川家に弓を引かなかった松平元康でも決して今川家一筋じゃないんだよ
伊勢長島もそれと変わらんよ
それから忙しいから連投してバカにすんのは止せ
こっちはもう相手にしてらんない >>856
今川と本願寺の関係は悪くないのではなかったか? >>859
だから蟹江は今川が直接落としてるし服部が長島の城代になったのも桶狭間後(家康が岡崎に入ったのに近い)という状況
ほぼ義元の直轄と考えていいと言ってるやん
そういう前提を無視して義元の戦略語るほど無意味な事はないと指摘してるだけやぞ >>860
長島が一向宗の手に落ちたのは桶狭間から10年後 戦国の当時に離れの直轄地とか考えられん
下剋上や裏切りが横行してる戦国に「城代」だから今川家の直轄地だとか意味不明も甚だしい
今回でこのスレを去るが『資料』や『教育番組』などを金枝玉条のごとく捉えてたら謎など永遠に解けんよ
歴史好きにはそういう輩が多すぎる
古代は永遠に解けんだろうね、俺以外は
中世は桐野氏と藤本氏が優れている本能寺の謎はほぼ解けたと見て良い、桶狭間はあと一押し、川中島はまだまだ届いてないな
近世は加治氏がなかなか優れているが龍馬はあと三押しぐらい足りない
まあケネディ暗殺もA級戦犯太平洋散骨も解けない民族だからまだまだ無理
もしかしたらAIが解く日が先にくるのかもしれん ケネディ暗殺が解けていないのは極東の民族だけなのか
たまげたなぁ