【涅槃】サイケドラッグと瞑想【仏教】
サイケドラッグがきっかけで、ヨガや瞑想を始める人が多いと思うのですが。
あまり語られることがないなと。 私達が有ると思っている世界は自分の心の中で映し出されたものである
というかこれでしか世界を捉えることができない
自分と別に世界が有るというものではない そうなると遠くに見える富士山も指させば自らの頭を指差すことになる この視点で観ると目に見える富士山もそれを創造したのはわたしということになる いや見えるすべての創造主はわたしとなっている
だから観ている者は誰?という問いになってしまう だからわたしが好きな人も私を好きな人もわたしが嫌っている人もわたしを嫌っている人もすべて幸せになるように
幸せになるのはすべての世界を作り上げた私となるからです 映画のインセプションが色々な意味で正解に近い気がする 瞑想とか解脱ってゲームとかでいうチート技みたいなやつだと思うんだが、カルマの法則とかでしっぺ返し食らわないんだろうか ワンネスという言葉 全ては一つであるという意味はこう解釈できると思える 自分に対する他者の好意、嫌悪って
自分が相手に対してどう接したかで変化するってことを最近気付いた。
こう書くと何当たり前のこと言ってんだって思うだろうけど。
自分が出会う前の相手は、シュレディンガーの猫ののようにニュートラルな状態で
自分の言動や表情で相手が敵になるか友達になるか変化する。
最近できる限り笑顔でいるように心がけるようにしたら、
出会う人の自分に対しての好意的に感じる事が多くなった。
それが犯罪者やヤクザのような人でも。
みんな相手から嫌われること、馬鹿にされることを恐れてるんだなと。
攻撃的な人がいたら、今この人は苦しんでるんだと想像する。
みなそれぞれの修行をするためにこの世界にログインしてきてるんだと考えると
すごく優しくなれるよ。 笑顔でいることはワンネスから見るとすべてが笑顔になってしまう
そのほうがいい 自分もだよ。
悪人正機ってこういうことなんだろうなと。
初めから気づいている人は、新たに気づくことがない
最初から救われてるから救われる必要がない。
悔しいと思うけど、地獄から救い出された分
追加の喜びがあるに違いない、
ハンデを背負ってここまでやってきたんだからすげーじゃんって思うことにしてる。 常に今という瞬間を感じていれば、妄想は起こらない
今という瞬間が安全地帯になっている
過去の後悔も未来の不安も生じる余地が無い
妄想を生じるには、時間の幅が必要なので
その幅を生じさせないように今に居れば良いことになる。 人生は悲劇だと思っていた。 だが今わかった。 僕の人生は喜劇だ。 カルマとはただの均一化されていない物であり、自然現象である 詩人のルーミーの言葉から
「悪いおこない、正しいおこないという概念を超えたところに、草原がある。
そこであなたと会いましょう。
魂がその草むらに横たわるとき、世界は、語るにはあまりにも満ち足りている」 >>129
それって自分の言葉?
その考え方出来たらすごく楽になりそうだな。 >>132
ジョーカーという映画の台詞を引用しました
個人的にはこの台詞を作った人はこの世界が「神が作った幻」である事を知っている人なのではないかと思います 「人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇である」
Charlie Chaplin(チャールズ・チャップリン) チャップリンだったのですね
コメディアンという役割を通じて真我に近づいたのかもしれません 現代の宇宙論に、私たちがいま生きている現実の世界は、もしかすると幻想かもしれない。
こんな突拍子もないことを主張する物理学の学説があります。「ホログラフィック理論」というものがありますので
参照ください。 体感としてはないけど、
想像としてはかなり言われてるよね、ネットがない時代で小学生だった自分でさえ
なんの予備知識もなくその空想はしてた。
何かしらバグみたいなものとか、証拠みたいなものを現実世界の中で見つけないと
この世界がバーチャルであると体感するのは難しそう。 この世は波であり、真の我々とは海ではないだろうか? この世はマトリックスだと思うんだけど、このマトリックスが作られた理由って創造者の暇潰しなんだろうか? マトリックスだとしても、それをそのまま現実としてみて生きるのなら現実って気もする。
始まりがある(最初は何もなかった)
という先入観自体が大いなる勘違いなんじゃないだろうか?と思う。
あまりにもその先入観は強いので、
始まりもなくあるということが想像しにくい。
始まりがあるという説を説明しようとすると
神という存在が必要になるから この世界 奥行きがあるように見えているけど 本当は平面でしかないんです。頭の中に奥行きを作り出す部分があるため立体と認識できています ”いま"しか存在していないのに
過去も未来もあるように考えてしまう
それと同じように始まりがあって終わりがあるように考えてしまう。 >>127
そこに良寛の書簡の死ぬ時節~も心得ればチンピラヤクザに絡まれようと肉親を亡くそうとサッパリと在れそうだな 災難にあう時節には、災難にてあうがよく候。
死ぬる時節には、死ぬがよく候。
是はこれ、災難をのがるる妙法にて候
――良寛 ドラッグをやると解脱への遠回りになるっていうの、どういう事か説明できる人います? ドラッグは脳を破壊するだけ、だからじゃね?
覚せい剤中毒者の幻視や幻聴は、解脱ではない。 解脱と悟りが同じものなのかわかりませんが
悟り(あるがままに見る)って妄想の結び目を解いていくことだと思うんですが
ドラッグによって逆に結び目を増やしたり、きつくしてしまってるのではないか?(感覚的に理解した!と思い込んでそれに固執してしまう)
それが自分にはすごく恐ろしい。
5億年ボタンをまた押してしまったような気持ち。 インド系の賢者やニューアースの人が言う事(自身とは意識であるみたいなの)ってタダの貧乏人の現実逃避にしか見えないんだが、やはりこれは自分が理解力のない俗人なせいなのだろうか?
悟ろうと現実が変化しないのであれば意味などあるのでしょうか? 価値観や感じるものは相対的だから、
物理的には何も変わらなくとも、
見えるもの感じるもの、気分はすごく変わるのでは?
その価値観の水準をぐんと下げたら、相対的にハッピーに感じるものが増えるということだと思う。
とにかく刺激を少なくしてかすかな感覚を味合うようにしていくと、
小さな幸せにすごく気づけるようになるのかも。 自分も内面はすごく変わった気がしてるけど、
自分の居場所や生活をほとんど変えられてないので、
それが苦しく感じる。
たぶん、現状をキープしたいという強い執着があるのだと思う。 意識とか心とか、引き寄せは現実を物質的に変えます
自分は自殺寸前のヒキニートのアラサーで、あらゆる意味で終わっている人だったんですが、
ヨガナンダや聖書やエックハルトトールなどの本を参考に、ヴィパッサナー瞑想や慈悲の瞑想、善行(侵入した虫を殺さない、家を綺麗に掃除する、ゴミをきちんと片付ける、家族や世間の人、敵対者や憎い相手にも愛の光を注ぐ、観葉植物を可愛がるなど)などをしたところ、
なろう作品の様な事が起きてしまいました
神、意識、心、生命や光、瞑想、善行、愛、引き寄せの法則などの力は肉眼には見えにくいですが存在し、現実という物質世界を変化させます
現代日本の皆さんはあらゆる意味で苦しんでいるようですが、是非、瞑想や善行をしてみてください
これらの力を駆使して宝くじを当てるみたいなことも不可能ではないかもしれません
合法の大麻や合法の紙も役立ちました あと、ちょっぴり無理してでも寄付したり自腹を切るのも有効だと思います >>152
こういうの意識しながら🌿とか瞑想とかしてたら現実がVRみたいに感じる様になってきた
あとなんか感情がなくなった? 微細な感覚を味合うこと、すごく重要な気がする。
瞑想でうまく入れた時の、空気吸い込んで吐いてるだけで幸福感で満たされるのとか
数回しかなったことないが、
子供の頃はなんかそういう感じで生きてた気がするんだよな、思い出せないけど。
“森鴎外は子供たちに「人間はなんでもない景色を見て楽しめるようでなくてはいけない」ってよく散歩に連れて行ったらしいけど、今はその言葉の意味がわかるわ。いつもなんか刺激がないと楽しめないってダメだよねー。。” すごく懐かしい感覚が体感として現れてるとき、幸福感が付随してる。 今という意識でずっと世界を観ていると
とても綺麗にみえてくるよ
身体が動き出す前の何も無い時が大切になってくる
今と今の間にある 体が動き出す瞬間の間とか意識したことなかったわ
思考が始まった時に、始まったなぁーってのは時々ある。
他者の顔を見て変な顔、ブサイクだなぁと思ったときとか
面と向かって失礼なことを言われたときに
自分の顔に反応が出てしまうのが怖くて
それらの思考に気づきが入る
よく言う気付きってこれの事で合ってるのかな?
1段階目の思考(反応)に対して
2段階目の思考(理性)みたいな カンナビきっかけでスピった初心者なんですが、スピリチュアルや宗教系の本でオススメありますか?
このスレでも出てるヨガナンダは聖書級に良かったです