探検
【報いを待てや】織田信孝【羽柴筑前】
2007/05/27(日) 18:10:20ID:5C9wymoz
三七丸こと信孝について語るスレッド
250宇喜多直家信者
2007/06/15(金) 01:49:49ID:1j+SlnNc >>249 確かにそうだ、これから気をつける
251人間七七四年
2007/06/15(金) 01:54:17ID:pe+4o4OR なにこの粘着厨、きもすぎ
252宇喜多直家信者
2007/06/15(金) 15:50:31ID:JuiYVIui 信澄しかり勝長しかり、津田性を名乗るやつが多いな。
津田信澄 「貴族織田と称せん事を憚って津田と名乗り」信長公記
1564年信澄元服して津田を称す。越前一向一揆、荒木攻め、槙尾寺焼討ち、
伊賀平定戦などに従軍する、1582年四国攻めのため住吉に着陣していたが、 家康接待のため大坂に戻っていたところ、本能寺の変が勃発。 明智光秀の女婿だったため信孝や丹羽長秀らに疑いをかけられ襲殺された。
津田信澄 「貴族織田と称せん事を憚って津田と名乗り」信長公記
1564年信澄元服して津田を称す。越前一向一揆、荒木攻め、槙尾寺焼討ち、
伊賀平定戦などに従軍する、1582年四国攻めのため住吉に着陣していたが、 家康接待のため大坂に戻っていたところ、本能寺の変が勃発。 明智光秀の女婿だったため信孝や丹羽長秀らに疑いをかけられ襲殺された。
253人間七七四年
2007/06/15(金) 16:51:25ID:gvYk5k0L 勝長は残っている書状などからも、織田源三郎信房だったようだけどな。
津田源三郎勝長っていうのは、どうしてそういう事にされたんだろうな?
津田源三郎勝長っていうのは、どうしてそういう事にされたんだろうな?
256宇喜多直家信者
2007/06/15(金) 17:31:23ID:JuiYVIui 言い方が悪かった
勝長は武田勝頼の養子になり勝をもらい勝長と名乗った
織田家に戻ってからは信房と名乗っていると信長公記にも書かれている、
なお信長公記には勝長(御坊)が元服する様子も書かれている、
勝長は武田勝頼の養子になり勝をもらい勝長と名乗った
織田家に戻ってからは信房と名乗っていると信長公記にも書かれている、
なお信長公記には勝長(御坊)が元服する様子も書かれている、
257人間七七四年
2007/06/15(金) 17:41:44ID:gvYk5k0L >>256
信長公記には信房を名乗ってるとは書かれてないよ。
禁制や書状から分かったんだよ。
それも、花押が一致するのが分かって勝長=信房だと分かった。
織田源三郎信房なのは分かったが、死亡後なぜ津田源三郎勝長という名前に
勝手に書き換えられてしまったのかという事が不思議だってこと。
寛政譜にも勝長で載っているが、それ以前に信雄は信房の子供に勝良という
名前を与えている。
その時点で、信房は勝長という名前に戻されていたと考えられる。
一体どうしてなんだろう?という疑問。
信長公記には信房を名乗ってるとは書かれてないよ。
禁制や書状から分かったんだよ。
それも、花押が一致するのが分かって勝長=信房だと分かった。
織田源三郎信房なのは分かったが、死亡後なぜ津田源三郎勝長という名前に
勝手に書き換えられてしまったのかという事が不思議だってこと。
寛政譜にも勝長で載っているが、それ以前に信雄は信房の子供に勝良という
名前を与えている。
その時点で、信房は勝長という名前に戻されていたと考えられる。
一体どうしてなんだろう?という疑問。
258人間七七四年
2007/06/15(金) 17:43:54ID:gvYk5k0L ちょっと言葉足らずだな。
犬山城主だった時に禁制を出していて、それが信房名で
それが勝長だというのは分かっていた。
また武田討伐時の、武田方からの助命嘆願の書状の返事に
花押が一致する信房があって、その経緯の関係で
織田源三郎信房が分かったということ。
犬山城主だった時に禁制を出していて、それが信房名で
それが勝長だというのは分かっていた。
また武田討伐時の、武田方からの助命嘆願の書状の返事に
花押が一致する信房があって、その経緯の関係で
織田源三郎信房が分かったということ。
259人間七七四年
2007/06/15(金) 17:44:19ID:JuiYVIui そこまでは分からん・・・
260人間七七四年
2007/06/15(金) 17:51:32ID:JuiYVIui 酷い意見だと思うが、津田だから勝長じゃないのか、
羽柴秀勝しかり、 織田一族のままならそのまま信房と名乗ったかもしれぬ、 酷い意見だとは思うが・・・
羽柴秀勝しかり、 織田一族のままならそのまま信房と名乗ったかもしれぬ、 酷い意見だとは思うが・・・
261人間七七四年
2007/06/15(金) 17:58:14ID:gvYk5k0L いや、ひどい意見とかは思わない。
ただ、死ぬ直前まで織田源三郎信房だったものが
死んだら津田源三郎勝長になってしまった理由が
よくわからないと思ってな。
ただ、死ぬ直前まで織田源三郎信房だったものが
死んだら津田源三郎勝長になってしまった理由が
よくわからないと思ってな。
262宇喜多八丈島主膳(280石)
2007/06/15(金) 19:40:21ID:1j+SlnNc 勝長の名乗り、御坊丸、津田源三郎、織田源三郎信房、法名林庭宗松、
勝長が織田家で元服した後から書状などを見る限り、みな織田源三郎信房に
なっている。織田家に返ってからは信房で通したようである。
しかし子には勝の一字(勝良)を信雄が与えてる…、
ただ勝良には加賀前田家に600石で仕えたという(諸士)記述ぐらいしか見つからん。
あと、今気づいたが津田源三郎とはあるが津田源三郎勝長(あるいは信房)と
書かれてる記述が見当たらんのだが…、誰か知らないか?
勝長が織田家で元服した後から書状などを見る限り、みな織田源三郎信房に
なっている。織田家に返ってからは信房で通したようである。
しかし子には勝の一字(勝良)を信雄が与えてる…、
ただ勝良には加賀前田家に600石で仕えたという(諸士)記述ぐらいしか見つからん。
あと、今気づいたが津田源三郎とはあるが津田源三郎勝長(あるいは信房)と
書かれてる記述が見当たらんのだが…、誰か知らないか?
263人間七七四年
2007/06/15(金) 19:54:42ID:gvYk5k0L ないと思う。
津田源三郎、または単に勝長。
だからそれを合わせて津田源三郎勝長と
後世の人間がいっているだけだ。
織田源三郎信房の名前なんて、
信長の子供を調べていれば知っているかも知れないが
普通はちょっと歴史に詳しくても、知らないだろうな。
信房を知っていても、禁制は知っているが、
書状ついては、知らない人間の方が多いだろう。
津田源三郎、または単に勝長。
だからそれを合わせて津田源三郎勝長と
後世の人間がいっているだけだ。
織田源三郎信房の名前なんて、
信長の子供を調べていれば知っているかも知れないが
普通はちょっと歴史に詳しくても、知らないだろうな。
信房を知っていても、禁制は知っているが、
書状ついては、知らない人間の方が多いだろう。
264人間七七四年
2007/06/15(金) 22:48:59ID:GlPMrSkQ 一つ疑問なんだが信長の六男信秀はいつ頃元服したの?
本能寺の時は数え年12だから元服は父の死後の可能性が高そうだけど、そうすると秀吉が力を持った時期に信秀を名乗ったことになるな。
宗家の秀信が秀吉の秀を上にもってきたり、蒲生氏郷(賦秀)みたいに秀吉を憚って改名したのもいるのに、信秀という秀が下につく名前を名乗るってのは変な気がする。
本能寺の時は数え年12だから元服は父の死後の可能性が高そうだけど、そうすると秀吉が力を持った時期に信秀を名乗ったことになるな。
宗家の秀信が秀吉の秀を上にもってきたり、蒲生氏郷(賦秀)みたいに秀吉を憚って改名したのもいるのに、信秀という秀が下につく名前を名乗るってのは変な気がする。
265中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/06/15(金) 23:23:06ID:BDSdddxZ なんで三七のスレで御坊の話題なんだよwww
信忠のとこでやれっつうの
信忠のとこでやれっつうの
266奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/15(金) 23:30:55ID:rhonvPVQ 庶子総合スレがあってもいいかもな。
267人間七七四年
2007/06/18(月) 01:12:18ID:0xkRsqEr 辞世の句や出生に関してはもういい
華々しい活躍について語ろうじゃないか
とりあえず神吉城攻めの武勇から始めようよ
華々しい活躍について語ろうじゃないか
とりあえず神吉城攻めの武勇から始めようよ
268人間七七四年
2007/06/18(月) 06:13:08ID:aCHbX2IW 信孝は光秀や信澄と組んで、秀吉・信雄を討つべきだったな。
269人間七七四年
2007/06/18(月) 07:55:40ID:7XIFc4z6 そんな先見の明はありえないんだぜ
270人間七七四年
2007/06/18(月) 09:21:51ID:aCHbX2IW 光秀が「この度の謀反は信孝様を織田家の当主とするためです」とか言ってそそのかしたら、乗ってこないかなぁ。
271人間七七四年
2007/06/18(月) 09:29:08ID:aCHbX2IW アホの信雄なら乗ってきそうだな。
光秀が信雄を安土城に迎え入れて、家督を相続させたら、秀吉も勝家も手が出せんだろw
光秀が信雄を安土城に迎え入れて、家督を相続させたら、秀吉も勝家も手が出せんだろw
272人間七七四年
2007/06/18(月) 09:46:52ID:z5EjXHhZ 三法師が本能寺の変で死んだら(といっても三法師が京都にいたかどうか確証は
ないが)
家康が信雄を織田家の家督を取るよう推挙するかも知れん
勝家は裏がないから信雄より有能な信孝を立てるのは目に見えている
その時、秀吉はどっちに付くか、それとも養子の勝長を立て独立するか
すると光秀が信澄を立てたりしたりしてw
ないが)
家康が信雄を織田家の家督を取るよう推挙するかも知れん
勝家は裏がないから信雄より有能な信孝を立てるのは目に見えている
その時、秀吉はどっちに付くか、それとも養子の勝長を立て独立するか
すると光秀が信澄を立てたりしたりしてw
273人間七七四年
2007/06/18(月) 09:55:06ID:L+pzCCRr 秀勝でしょ
274人間七七四年
2007/06/18(月) 14:56:16ID:8gSJGzu3 >>247
信秀の生母については、一説では稲葉氏ではないかといわれている。
(稲葉一鉄の縁者?)
それに信秀と信高の幼名が、大洞と小洞でどちらも実際に岐阜にある
地名らしい。生母は岐阜出身ではないか。と考えられる。
岐阜出身者だったら、稲葉氏でもおかしくない。身分が高いかどうかは
わからないが・・・
>>257 >>261
勝長は法名にしても変だし、信雄側が信忠と無理に同腹にしたのも意図的
にやったとしたら、勝長が織田家の正当な後継者であることを隠すためか
とも思われる。どうしても判明しない生母や、死後の扱いが変だと考える
と勝長が濃姫の実子である可能性もあるかなと。
それが都合悪かったのは信雄側なのかなと。
これまでの通説では、濃姫には実子がなかったといわれているけど、
御台出産記事や女の子が生まれている家系図もあるというし、信長の子供
はなんせ生母不詳の子が多いし、男子ならまだしも女子となれば、生母が
はっきりわかっている方が少ないので、可能性としてはないとは言えない。
信秀の生母については、一説では稲葉氏ではないかといわれている。
(稲葉一鉄の縁者?)
それに信秀と信高の幼名が、大洞と小洞でどちらも実際に岐阜にある
地名らしい。生母は岐阜出身ではないか。と考えられる。
岐阜出身者だったら、稲葉氏でもおかしくない。身分が高いかどうかは
わからないが・・・
>>257 >>261
勝長は法名にしても変だし、信雄側が信忠と無理に同腹にしたのも意図的
にやったとしたら、勝長が織田家の正当な後継者であることを隠すためか
とも思われる。どうしても判明しない生母や、死後の扱いが変だと考える
と勝長が濃姫の実子である可能性もあるかなと。
それが都合悪かったのは信雄側なのかなと。
これまでの通説では、濃姫には実子がなかったといわれているけど、
御台出産記事や女の子が生まれている家系図もあるというし、信長の子供
はなんせ生母不詳の子が多いし、男子ならまだしも女子となれば、生母が
はっきりわかっている方が少ないので、可能性としてはないとは言えない。
275人間七七四年
2007/06/19(火) 00:11:15ID:ldpELKVA ここは信孝スレ。
他で相手にされないからといって濃姫や勝長はスレ違いで迷惑だ。
よそでやってくれ。
他で相手にされないからといって濃姫や勝長はスレ違いで迷惑だ。
よそでやってくれ。
276人間七七四年
2007/06/19(火) 15:03:56ID:KgBqFC5P277人間七七四年
2007/06/19(火) 22:36:07ID:ttVOocI3278奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/19(火) 22:39:11ID:W2zlT1tZ もう少し話題が膨らむと思ったんだがなあ。
279人間七七四年
2007/06/20(水) 00:13:40ID:0/t2cZiE280人間七七四年
2007/06/20(水) 02:37:35ID:j/g0nPTL 信孝スレも信雄スレで信孝の話ばっかりだったからできたのに・・・。
281人間七七四年
2007/06/21(木) 18:06:29ID:+QfVmbfn しかし、この辞世は大好きだ。
282人間七七四年
2007/06/21(木) 19:57:31ID:PDadXZ9X 平安とかの時代だったら信孝は間違いなく怨霊扱いされたろうな。
283人間七七四年
2007/06/22(金) 02:04:33ID:YK9vMhIc まあ、恨みがそのまま残ったらまだしも、恨みの対象の秀吉の豊臣家は
見るも無残に報いを受けたんだから、怨念も浄化されたことであろう。
見るも無残に報いを受けたんだから、怨念も浄化されたことであろう。
284人間七七四年
2007/06/22(金) 10:27:24ID:oxdwpTsY 要は力量に合わせて信孝が北畠家の養子になって
信雄が神戸家の養子になっていれば、うまくいったかも
でも出生の序列は変えられないのか
信雄が神戸家の養子になっていれば、うまくいったかも
でも出生の序列は変えられないのか
285人間七七四年
2007/06/22(金) 20:12:00ID:Nj1OBdEq 北畠は名門なんで
織田家内で信忠に次ぐ信雄を出すのは最低限の礼儀
織田家内で信忠に次ぐ信雄を出すのは最低限の礼儀
286人間七七四年
2007/06/22(金) 20:27:48ID:H6Khe69F 北畠は木造らの補佐があったし長野は分部の補佐があったけど神戸は反目してたからな
蒲生と懇意にしておけば関もなびいたかもしれんが…
蒲生と懇意にしておけば関もなびいたかもしれんが…
287人間七七四年
2007/06/22(金) 23:29:28ID:CNdfUi0K だから、遠い血縁があった信孝を養子に出したんだろうな。
288人間七七四年
2007/06/23(土) 09:15:08ID:/fpQj6lw 母親の坂氏と神戸氏支族の坂氏が遠縁とする証拠はどこにあるのかな?
290宇喜多直家信者
2007/06/24(日) 19:51:24ID:FgrnJ3d0 3兄弟信忠信雄信孝の位
『信長公記』巻十四「御連枝の御衆」参照
「中将信忠卿、馬乗八十騎、美濃衆・尾張衆。北畠中将信雄、馬乗三十騎、伊勢衆。
織田上野守信兼、馬乗十騎。同三七信孝、馬乗十騎…」
織田信兼は織田信行の4男、つまり信孝は父の弟の子より位が低かったのだ。
信忠信雄には明らかに差をつけられている。
『信長公記』同じく巻十四
「中将信忠へ、作正宗。北畠中将信雄へ、作北野藤四郎。織田三七信孝公へ、
作しのぎ藤四郎。何れも御名物代過分の由候なり」
安土城において3兄弟に信長から脇差が与えられたときの記録。やはり兄弟で
差があるのが分かる。ちなみにこの時(上の騎位も同じだが)信忠25歳、信雄24歳、
信孝24歳で、年齢にはほとんど差がない。
『信長公記』巻十四「御連枝の御衆」参照
「中将信忠卿、馬乗八十騎、美濃衆・尾張衆。北畠中将信雄、馬乗三十騎、伊勢衆。
織田上野守信兼、馬乗十騎。同三七信孝、馬乗十騎…」
織田信兼は織田信行の4男、つまり信孝は父の弟の子より位が低かったのだ。
信忠信雄には明らかに差をつけられている。
『信長公記』同じく巻十四
「中将信忠へ、作正宗。北畠中将信雄へ、作北野藤四郎。織田三七信孝公へ、
作しのぎ藤四郎。何れも御名物代過分の由候なり」
安土城において3兄弟に信長から脇差が与えられたときの記録。やはり兄弟で
差があるのが分かる。ちなみにこの時(上の騎位も同じだが)信忠25歳、信雄24歳、
信孝24歳で、年齢にはほとんど差がない。
291宇喜多直家信者
2007/06/24(日) 19:52:50ID:FgrnJ3d0 >>290 失礼、信兼より位が低いのではなく同じであった、すまぬ、
292奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/24(日) 19:59:34ID:5EfsGpIX のぶかねは信長の弟なわけで。
甥は信澄やん。
甥は信澄やん。
293人間七七四年
2007/06/24(日) 21:08:17ID:ty2phnS4294人間七七四年
2007/06/24(日) 21:17:48ID:ty2phnS4 訂正。織田信包の「信兼」は誤記というより異字表記だった。
295宇喜多直家信者
2007/06/24(日) 21:43:11ID:FgrnJ3d0297人間七七四年
2007/06/25(月) 22:03:49ID:dCvtVv+i >>296
そうだよ。坂氏も鹿伏兎氏も神戸氏も関氏を宗家とする庶流。
信孝の家老だった岡本良勝の家から坂氏に嫁いだ女性がいて、
それが坂氏の母親だといわれている。
岡本氏も尾張で土着していた有力豪族で織田家とは代々諍いの多かった
関係だったから、信孝は岡本家と織田家との掛け橋でもあったんだろう。
信雄みたいに織田家の有力家臣を伴っての養子入りではなかったけど、
信孝が縁者であったことから、敵に警戒させずに信孝の身内で固めた側近を
つけて入り込み、頃合いをみて一気に乗っ取りを図ったんだと思う。
そうだよ。坂氏も鹿伏兎氏も神戸氏も関氏を宗家とする庶流。
信孝の家老だった岡本良勝の家から坂氏に嫁いだ女性がいて、
それが坂氏の母親だといわれている。
岡本氏も尾張で土着していた有力豪族で織田家とは代々諍いの多かった
関係だったから、信孝は岡本家と織田家との掛け橋でもあったんだろう。
信雄みたいに織田家の有力家臣を伴っての養子入りではなかったけど、
信孝が縁者であったことから、敵に警戒させずに信孝の身内で固めた側近を
つけて入り込み、頃合いをみて一気に乗っ取りを図ったんだと思う。
298人間七七四年
2007/06/26(火) 06:25:40ID:8/LLpQKC 関氏の中の坂氏から信孝の母が出ていたのであれば
神戸友盛や関盛信が信孝を疎んじたのが頷けない。
ちなみに加太定長の舎弟蔵人定住、縫殿介が坂氏を称した。
永録12年の信長の第3次伊勢侵攻に関盛信、盛重、加太定長、坂定住らは路地を塞ぎに出て抵抗した。
その後、一族の神戸友盛が信長の三男信孝を養子に迎えて和睦した結果、関一族は信長の傘下に入ることとなった。
このとき、定長も関氏とともに織田軍と講和している。
元亀元年6月に浅井長政が兵を起こすと、定長嫡子定心は鹿伏兎城を弟定義と叔父坂定住に託して江州に赴き加勢。
同28日姉川の合戦において佐々成政の軍と激戦し、さらに酒井忠次、小笠原長忠の軍と格闘して遂に討死した。
長島一揆が起こると関、加太両家はこれに通じたため信長は一揆平定後に両家を処罰した。
関盛信は日野に幽閉、所領を神戸信孝に与え、また加太定義は加太一族中で唯一長島一揆に加担しなかったとして
鹿伏兎城を安堵、所領は鹿伏兎郷のみに削られた。
なお嫡流の定心の子四郎、六郎兄弟は長島一揆に参加して氏家ト全を討ち取るも共に戦死。
とまあ、嫡流も庶家も織田家に敵対している。信孝の母の実家が坂氏とはとても思えない。
信孝の母は寛政譜等の系図には坂氏の女とあるが、一豊公御武功記には二宮一楽斎が織田三七信孝母方の祖父とある。
なのでこの一楽斎の男が坂氏を称したのか、又はもう1人の女が(別の)坂氏に嫁いだと思われる。
神戸友盛や関盛信が信孝を疎んじたのが頷けない。
ちなみに加太定長の舎弟蔵人定住、縫殿介が坂氏を称した。
永録12年の信長の第3次伊勢侵攻に関盛信、盛重、加太定長、坂定住らは路地を塞ぎに出て抵抗した。
その後、一族の神戸友盛が信長の三男信孝を養子に迎えて和睦した結果、関一族は信長の傘下に入ることとなった。
このとき、定長も関氏とともに織田軍と講和している。
元亀元年6月に浅井長政が兵を起こすと、定長嫡子定心は鹿伏兎城を弟定義と叔父坂定住に託して江州に赴き加勢。
同28日姉川の合戦において佐々成政の軍と激戦し、さらに酒井忠次、小笠原長忠の軍と格闘して遂に討死した。
長島一揆が起こると関、加太両家はこれに通じたため信長は一揆平定後に両家を処罰した。
関盛信は日野に幽閉、所領を神戸信孝に与え、また加太定義は加太一族中で唯一長島一揆に加担しなかったとして
鹿伏兎城を安堵、所領は鹿伏兎郷のみに削られた。
なお嫡流の定心の子四郎、六郎兄弟は長島一揆に参加して氏家ト全を討ち取るも共に戦死。
とまあ、嫡流も庶家も織田家に敵対している。信孝の母の実家が坂氏とはとても思えない。
信孝の母は寛政譜等の系図には坂氏の女とあるが、一豊公御武功記には二宮一楽斎が織田三七信孝母方の祖父とある。
なのでこの一楽斎の男が坂氏を称したのか、又はもう1人の女が(別の)坂氏に嫁いだと思われる。
299人間七七四年
2007/06/26(火) 07:28:21ID:8/LLpQKC >>293
織田信包は信孝には仕えていない。信孝と同じく連枝衆の一員。
主に信忠の下で連戦しており、越前一揆討伐戦では信雄と組んだり
伊賀攻めにおいては信雄の指揮下に入っている。
浮田信者もそうだが誤りが目立つな。
織田信包は信孝には仕えていない。信孝と同じく連枝衆の一員。
主に信忠の下で連戦しており、越前一揆討伐戦では信雄と組んだり
伊賀攻めにおいては信雄の指揮下に入っている。
浮田信者もそうだが誤りが目立つな。
300人間七七四年
2007/06/26(火) 07:51:37ID:8/LLpQKC と、人のことを言っていたら自身も誤っていた。
>>298
>なのでこの一楽斎の男が坂氏を称したのか、又はもう1人の女が(別の)坂氏に嫁いだと思われる。
信孝の母方の祖父が二宮一楽斎と言ってるのだから、男なわけないよね。
>>298
>なのでこの一楽斎の男が坂氏を称したのか、又はもう1人の女が(別の)坂氏に嫁いだと思われる。
信孝の母方の祖父が二宮一楽斎と言ってるのだから、男なわけないよね。
301人間七七四年
2007/06/26(火) 08:30:06ID:xxoK8I24 >>298 岡本氏と組んで早々に庶流の坂氏は一門を裏切って織田家にくだっていたからだよ。
だから坂氏はそのための恭順の証としての人質代わりの側室となったのだと思う。
坂氏は一門ではあるけど、初代か2代目程度の家柄だし、一門内では出世を
見込めないから、織田に寝返ったんだろ。
一門を裏切り、織田家サイドのものとして神戸家に乗り込んできたのだから
信孝や側近の坂氏の縁者たちへの風当たりが強かったのは当たり前だ。
特に本家の関氏にしてみれば、庶家の神戸家の台頭も苦々しく思っていたところに
そこに送り込まれたのが信長の傀儡みたいな嫡養子なんだから、
素直に受け入れるわけがない。
だから坂氏はそのための恭順の証としての人質代わりの側室となったのだと思う。
坂氏は一門ではあるけど、初代か2代目程度の家柄だし、一門内では出世を
見込めないから、織田に寝返ったんだろ。
一門を裏切り、織田家サイドのものとして神戸家に乗り込んできたのだから
信孝や側近の坂氏の縁者たちへの風当たりが強かったのは当たり前だ。
特に本家の関氏にしてみれば、庶家の神戸家の台頭も苦々しく思っていたところに
そこに送り込まれたのが信長の傀儡みたいな嫡養子なんだから、
素直に受け入れるわけがない。
302人間七七四年
2007/06/26(火) 15:27:31ID:MEEpsfpz303人間七七四年
2007/06/26(火) 19:39:09ID:OJ/+2Xmz304人間七七四年
2007/06/26(火) 19:53:08ID:OJ/+2Xmz とりあえず>>301には「岡本氏と組んで早々に庶流の坂氏は一門を裏切って織田家にくだっていたから」を証明してほしい
坂定住、縫殿介しか名前が知れてないのに誰が信長に下ったかその文献を教えて欲しいものだ
話は変わるが岡本良勝は熱田神宮の神官、宮司でない。これは熱田神宮の文庫を訪れれば知れる
坂定住、縫殿介しか名前が知れてないのに誰が信長に下ったかその文献を教えて欲しいものだ
話は変わるが岡本良勝は熱田神宮の神官、宮司でない。これは熱田神宮の文庫を訪れれば知れる
305人間七七四年
2007/06/26(火) 20:11:24ID:xxoK8I24 >>303 よく読んだよ。
坂氏は一家だけじゃない。
家系図を見る限り2家あったな。それ以外もあったかもしれん。
兄弟、親子だって敵味方にわかれる時代だから、
親族が反織田だからってなんだ?
織田家の家臣だって元は敵方で嫡男や娘を人質に差し出して投降して
のちに織田家で重用されているものがたくさんいるじゃん。
信長の側室が公になってきたのは道三死後。国譲状をもらって
美濃の後継者としての資格を得てからだ。尾張統一を見据えて外にも目を
向けた時期と一致する。その時期から人質代わりの側室が増えたことに
なんの不思議もない。生駒も政治がらみの人質兼側室だしな。
坂氏と姻戚関係にある岡本氏を介して織田家への従属を約束する代わりに
坂氏が娘を差し出したんだろ。岡本氏が寝返りをすすめたのか、
あるいは坂氏の方から岡本氏経由で寝返りを申し出たのかはしらんが。
それに鹿伏兎家庶流の坂氏の家系図にも載っている坂口縫殿助が
信孝が神戸家に入った時守役に一緒についてきてる。
もちろん生母の一族だからだろ。
守役や側近は生母の実家を重用する慣習があるから、そう考えるのが自然。
逆にここまで信孝氏生母は鹿伏兎庶流の坂氏一族の女性だと思われる根拠があるのに、
別の坂氏とは一体どこの坂氏?
坂氏は一家だけじゃない。
家系図を見る限り2家あったな。それ以外もあったかもしれん。
兄弟、親子だって敵味方にわかれる時代だから、
親族が反織田だからってなんだ?
織田家の家臣だって元は敵方で嫡男や娘を人質に差し出して投降して
のちに織田家で重用されているものがたくさんいるじゃん。
信長の側室が公になってきたのは道三死後。国譲状をもらって
美濃の後継者としての資格を得てからだ。尾張統一を見据えて外にも目を
向けた時期と一致する。その時期から人質代わりの側室が増えたことに
なんの不思議もない。生駒も政治がらみの人質兼側室だしな。
坂氏と姻戚関係にある岡本氏を介して織田家への従属を約束する代わりに
坂氏が娘を差し出したんだろ。岡本氏が寝返りをすすめたのか、
あるいは坂氏の方から岡本氏経由で寝返りを申し出たのかはしらんが。
それに鹿伏兎家庶流の坂氏の家系図にも載っている坂口縫殿助が
信孝が神戸家に入った時守役に一緒についてきてる。
もちろん生母の一族だからだろ。
守役や側近は生母の実家を重用する慣習があるから、そう考えるのが自然。
逆にここまで信孝氏生母は鹿伏兎庶流の坂氏一族の女性だと思われる根拠があるのに、
別の坂氏とは一体どこの坂氏?
306人間七七四年
2007/06/26(火) 21:20:52ID:OJ/+2Xmz それほど根拠があるならなぜ勢州軍記にその記載がないのかな?
307人間七七四年
2007/06/26(火) 21:57:36ID:xxoK8I24 伊勢軍記には信孝の守役に岡本良勝、坂仙斎、坂口縫殿介〜って書いてあるじゃん。
坂口縫殿介と坂仙斎を同一人物とする坂家家系図も見たことあるし、
兄弟とする家系図も見たことがある。
つまり、どっちにしても鹿伏兎家庶流の坂氏ということだ。
君の言うように坂氏が反信長なら、なぜ信孝の側近に一族のものがいるのかな?
それより君の主張する信孝生母の坂氏はどこの坂氏なの?
坂口縫殿介と坂仙斎を同一人物とする坂家家系図も見たことあるし、
兄弟とする家系図も見たことがある。
つまり、どっちにしても鹿伏兎家庶流の坂氏ということだ。
君の言うように坂氏が反信長なら、なぜ信孝の側近に一族のものがいるのかな?
それより君の主張する信孝生母の坂氏はどこの坂氏なの?
308人間七七四年
2007/06/26(火) 22:17:32ID:xxoK8I24 >>298
二宮一楽斎って一説には千代の祖父といわれる人物じゃなかったか?
ということは、信孝とは従兄妹どうしになるってことだろ?
そのわりには信孝と千代や一豊との接点がなくねぇ?
去年の大河だったら、従兄の信孝のために千代が暗躍しそうだけどな。
二宮一楽斎って一説には千代の祖父といわれる人物じゃなかったか?
ということは、信孝とは従兄妹どうしになるってことだろ?
そのわりには信孝と千代や一豊との接点がなくねぇ?
去年の大河だったら、従兄の信孝のために千代が暗躍しそうだけどな。
310人間七七四年
2007/06/26(火) 23:50:12ID:W3MAnyEm >>309
弟の信包と信行の子の信兼の区別がついてないんじゃないの?
弟の信包と信行の子の信兼の区別がついてないんじゃないの?
311人間七七四年
2007/06/26(火) 23:51:09ID:OJ/+2Xmz >>301の説は結果論ありきの君の妄想でしかないよ
坂縫殿介と坂口縫殿介が同一人物とは強引なこじつけだし
関一族の坂氏がまだ尾張を今川に侵食されていた織田家に仕えるなんて何か確証はあるの?
それから坂仙斎は北畠家の侍医だった説もあるな
神戸氏の末裔である勢州軍記の作者が記載していない以上、坂氏との関係は不明だし推量の域を出ない
家系図の話は初耳、どこに行けば見れるのか教えて欲しいものだ
別の坂氏についてはまた文献が見つかったら報告するわ
坂縫殿介と坂口縫殿介が同一人物とは強引なこじつけだし
関一族の坂氏がまだ尾張を今川に侵食されていた織田家に仕えるなんて何か確証はあるの?
それから坂仙斎は北畠家の侍医だった説もあるな
神戸氏の末裔である勢州軍記の作者が記載していない以上、坂氏との関係は不明だし推量の域を出ない
家系図の話は初耳、どこに行けば見れるのか教えて欲しいものだ
別の坂氏についてはまた文献が見つかったら報告するわ
312人間七七四年
2007/06/26(火) 23:55:24ID:OJ/+2Xmz313人間七七四年
2007/06/27(水) 02:33:15ID:W2Yh/H36 >>310
ごめん、確かに区別がついてなかった
話の流れから新八郎信兼が出てくるとは思わなかった
ところでこの信兼は信孝に仕え信孝に殉じたとあるけど、兄を殺されてるのによく仕える気になったよな
で、仕えたのはいつ頃からなんだろ?知っている人がいたら教えてください
ごめん、確かに区別がついてなかった
話の流れから新八郎信兼が出てくるとは思わなかった
ところでこの信兼は信孝に仕え信孝に殉じたとあるけど、兄を殺されてるのによく仕える気になったよな
で、仕えたのはいつ頃からなんだろ?知っている人がいたら教えてください
314人間七七四年
2007/06/27(水) 06:54:21ID:BJ6b5qvD >>311
往生際が悪いね。
坂氏の家系図なんてちょっと足をのばせばいくらでも収集できますが?
坂氏の家系図に坂口縫殿介が載ってるんだから、
伊勢軍記にいちいちどこそこの坂氏なんて書く必要はないだろ?
逆にいちいち誰のこともどこどこ庶流の○○氏なんていちいち書いてある
史料あったっけ?
ぜひ教えてください。
そんなに親切な一次史料があったら家系図や他の史料とを検証せずに特定できて楽だ。
ところで君のいう坂氏はどこの出身の坂氏だと聞いているんだけどね?
まったく織田家とのかかわりをもたないような坂氏であれば逆にどういうルートで
信長の側室になったのか知りたいもんだ。
当時の信長がどこまで勢力拡大していたのかがわかって参考になる。
そこの坂氏を側室にしていたということは、その坂氏を支配下においていた
ということだからな。
それに岡本良勝の家で生まれたという信孝だから、
坂氏は岡本家の縁者でなきゃおかしいよな?
岡本氏関連の新たな発見もできるから興味深いよ。
往生際が悪いね。
坂氏の家系図なんてちょっと足をのばせばいくらでも収集できますが?
坂氏の家系図に坂口縫殿介が載ってるんだから、
伊勢軍記にいちいちどこそこの坂氏なんて書く必要はないだろ?
逆にいちいち誰のこともどこどこ庶流の○○氏なんていちいち書いてある
史料あったっけ?
ぜひ教えてください。
そんなに親切な一次史料があったら家系図や他の史料とを検証せずに特定できて楽だ。
ところで君のいう坂氏はどこの出身の坂氏だと聞いているんだけどね?
まったく織田家とのかかわりをもたないような坂氏であれば逆にどういうルートで
信長の側室になったのか知りたいもんだ。
当時の信長がどこまで勢力拡大していたのかがわかって参考になる。
そこの坂氏を側室にしていたということは、その坂氏を支配下においていた
ということだからな。
それに岡本良勝の家で生まれたという信孝だから、
坂氏は岡本家の縁者でなきゃおかしいよな?
岡本氏関連の新たな発見もできるから興味深いよ。
315人間七七四年
2007/06/28(木) 10:58:01ID:AeRmGb6D >>311
>>坂縫殿介と坂口縫殿介が同一人物とは強引なこじつけだし
坂定住の弟がさらに分家して坂口氏を名乗ったとなんかの文献で
読んだことがある。自分は>>314さんのように家系図では確認して
ないけど、その家系図を元にした検証だったのかもしれない。
坂口という地域が伊勢周辺にあるのでそのあたり
に土地をもらって住み、苗字も坂口としたらしい。
>>坂仙斎は北畠家の侍医だった説
代々関一門とは直前に戦をして敵対関係にあった北畠家の侍医が神戸家の
新当主の側近にいたとしたら、それこそ反信長の鹿伏兎氏庶流の坂氏が
信長にくだっていてもおかしくはないと思うが?
逆も然りだな。敵対関係にある神戸一門から北畠家が侍医を迎えたのだから。
>>神戸氏の末裔である勢州軍記の作者が記載していない以上
でも、>>311さんがどこの坂氏と思っているのか不明だが、別の坂氏で
あったとしても同様に勢州軍記には書いてないということになる。
神戸家主体に書いたものだから同族の坂氏のことはあえてどこの出自で
と書かなかったとも解釈できないか?
逆にそれこそ毛利庶流の安芸坂氏などなら書いたと思うよ。
坂氏というだけではなく、「坂○○息女」とか信孝生母の出自がわかる表記で。
>>坂縫殿介と坂口縫殿介が同一人物とは強引なこじつけだし
坂定住の弟がさらに分家して坂口氏を名乗ったとなんかの文献で
読んだことがある。自分は>>314さんのように家系図では確認して
ないけど、その家系図を元にした検証だったのかもしれない。
坂口という地域が伊勢周辺にあるのでそのあたり
に土地をもらって住み、苗字も坂口としたらしい。
>>坂仙斎は北畠家の侍医だった説
代々関一門とは直前に戦をして敵対関係にあった北畠家の侍医が神戸家の
新当主の側近にいたとしたら、それこそ反信長の鹿伏兎氏庶流の坂氏が
信長にくだっていてもおかしくはないと思うが?
逆も然りだな。敵対関係にある神戸一門から北畠家が侍医を迎えたのだから。
>>神戸氏の末裔である勢州軍記の作者が記載していない以上
でも、>>311さんがどこの坂氏と思っているのか不明だが、別の坂氏で
あったとしても同様に勢州軍記には書いてないということになる。
神戸家主体に書いたものだから同族の坂氏のことはあえてどこの出自で
と書かなかったとも解釈できないか?
逆にそれこそ毛利庶流の安芸坂氏などなら書いたと思うよ。
坂氏というだけではなく、「坂○○息女」とか信孝生母の出自がわかる表記で。
316人間七七四年
2007/07/02(月) 10:23:05ID:+8cN2TqL ほほう、信孝は信雄よりも生母の出自はいいではないですか?
当時の生駒家なんてしょせん半農半士の土豪の家でしたからね。
だけど次男と三男ゆえに養子先の家柄で歴然と差をつけられていたという
ことなんでしょうかね。神戸家と北畠家では家格が全然違いますからな。
信孝が信長死後本当は次男だったといいだしたのが怪しいと
思っているのですが、そのへんどうなんでしょう?
同じ側室であった生駒に気を使う必用もないし、清洲で生まれなかったので
届けが遅くなったって言っても、
熱田なら清洲までちんたら行っても半日あれば着きますからね。
当時の生駒家なんてしょせん半農半士の土豪の家でしたからね。
だけど次男と三男ゆえに養子先の家柄で歴然と差をつけられていたという
ことなんでしょうかね。神戸家と北畠家では家格が全然違いますからな。
信孝が信長死後本当は次男だったといいだしたのが怪しいと
思っているのですが、そのへんどうなんでしょう?
同じ側室であった生駒に気を使う必用もないし、清洲で生まれなかったので
届けが遅くなったって言っても、
熱田なら清洲までちんたら行っても半日あれば着きますからね。
317人間七七四年
2007/07/02(月) 10:40:17ID:vpNlJn5B 熱田での接待用の伽係で、正式な側室じゃなかったんじゃね?
子供が男子だったから、側室になったって感じだろ。
子供が男子だったから、側室になったって感じだろ。
318人間七七四年
2007/07/03(火) 00:08:06ID:qeLyCnSB だけど、人質として送り込まれたなら普通に正式な側室でも
良かったんではないかな。なんで伽係だったんだろ。
そっちの方が不自然な感じするがな。
良かったんではないかな。なんで伽係だったんだろ。
そっちの方が不自然な感じするがな。
319人間七七四年
2007/07/03(火) 00:24:27ID:1b52iFLT 送り込まれてなかったからじゃないか?
だって、清洲城の奥にいた訳じゃないみたいだからな。
人質じゃなく、あくまで熱田に信長が来たときの
接待用の伽係だったと考えればいいんじゃね?
だって、清洲城の奥にいた訳じゃないみたいだからな。
人質じゃなく、あくまで熱田に信長が来たときの
接待用の伽係だったと考えればいいんじゃね?
320人間七七四年
2007/07/03(火) 01:20:57ID:qeLyCnSB 坂氏が岡本家と相談してかどうかはわからないが、信長に恭順の証として
娘を差し出したとされているんだよな。
だとすると、伽係として差し出されたとは思えないんだがな。
それだと人質にはならない気がするしな。
娘を差し出したとされているんだよな。
だとすると、伽係として差し出されたとは思えないんだがな。
それだと人質にはならない気がするしな。
321人間七七四年
2007/07/03(火) 07:44:55ID:1b52iFLT 奥にいない人間が、人質とはいわないんじゃないの?
身柄を押さえてない人質は、戦国期には考えにくい。
身柄を押さえてない人質は、戦国期には考えにくい。
322人間七七四年
2007/07/03(火) 07:46:21ID:1b52iFLT 人質を出さなくてはならない程、
不信感を持たれていた訳ではなかったのかも知れないしな。
信長を喜ばせる為の、伽係程度ですむ話しだったのかも知れん。
不信感を持たれていた訳ではなかったのかも知れないしな。
信長を喜ばせる為の、伽係程度ですむ話しだったのかも知れん。
323人間七七四年
2007/07/03(火) 08:06:03ID:U656fk6c 岡本家で信孝が生まれた、というのは勢州軍記に書いてあるんだけど、
勢州軍記は当然ながら信孝>>>信雄という視点で書かれているんだ。
信孝が兄に逆らって、織田家の家督を狙ったとされてしまったので、
本当は信孝が兄だったんだ、ということにして正嫡性を強めようとしたんじゃ、
っていう可能性はないかい?
庶子だから重きをおかれない存在であったのは確かだろうけど、それなら信雄も
同じ立場。信雄が贔屓される理由はない。
生まれたのはやはり信雄、信孝だったからその順で兄弟になった
というだけでは?
岡本家で生まれたというのもどうだろ?
通い婚の時代でもあるまいし、そんなのありえない話じゃないか?
夜伽女ならややこしいことになるから出産すらさせなかったか、
出産しても実子と公認しなかった可能性のほうが高いように思うんだけど。
本当に信長のお種かどうか怪しいじゃん。
勢州軍記は当然ながら信孝>>>信雄という視点で書かれているんだ。
信孝が兄に逆らって、織田家の家督を狙ったとされてしまったので、
本当は信孝が兄だったんだ、ということにして正嫡性を強めようとしたんじゃ、
っていう可能性はないかい?
庶子だから重きをおかれない存在であったのは確かだろうけど、それなら信雄も
同じ立場。信雄が贔屓される理由はない。
生まれたのはやはり信雄、信孝だったからその順で兄弟になった
というだけでは?
岡本家で生まれたというのもどうだろ?
通い婚の時代でもあるまいし、そんなのありえない話じゃないか?
夜伽女ならややこしいことになるから出産すらさせなかったか、
出産しても実子と公認しなかった可能性のほうが高いように思うんだけど。
本当に信長のお種かどうか怪しいじゃん。
324人間七七四年
2007/07/03(火) 09:27:01ID:1b52iFLT ところが、信雄側の史料にも同じく熱田で生まれたと出てくる。
その史料は、信孝を呼びすてにして、信雄を信雄卿と書いている、
信雄の家臣の更に家臣辺りの書いた文献だが。
その史料は、信孝を呼びすてにして、信雄を信雄卿と書いている、
信雄の家臣の更に家臣辺りの書いた文献だが。
325人間七七四年
2007/07/03(火) 09:32:14ID:1b52iFLT それから、そっちの文献にも信孝の方が先の生まれだと書いてある。
余吾庄合戦覚書
「爰ニ濃州岐阜ノ城主織田信孝ト申スハ、故信長公ノ次男ニテ渡ラセ給ヒシカトモ、
故有テ三男ニソ立給ケル。
其所以如何ト尋ヌルニ、故三位信忠卿ハ、信長公ノ妾腹ニ生レサセ給ヘト、
御台所ノ御腹ニ御子ナカリシ故ニ、御養子ト成給ヒ、御世嗣ニ定リ給ヘリ。
御実母ハ生駒氏ノ女ナリ。
其後、永禄元年同月二十余日隔テヽ、若宮二人誕生シ給ヘリ。
是三七信孝。
次ハ中将信雄卿也。
然レハ、信雄卿ハ三男タルヘキヲ、信忠卿ノ同母タル故ヲ以テ、人皆是ヲ尊敬シテ、
早速信長公ヘ披露ニ及ケル。
故ニ次男ニ定リ給ヒ、人(ママ。又カ)信孝之母ハ、人々サノミ賞翫セス。
遅ク申上ケルニ依テ、三男トコソハ定マリ給ヒケル。
信孝ノ母ハ、坂氏ノ女ニシテ、熱田ノ神司岡本カ家ニテソ生レ給ヒケル。 」
余吾庄合戦覚書
「爰ニ濃州岐阜ノ城主織田信孝ト申スハ、故信長公ノ次男ニテ渡ラセ給ヒシカトモ、
故有テ三男ニソ立給ケル。
其所以如何ト尋ヌルニ、故三位信忠卿ハ、信長公ノ妾腹ニ生レサセ給ヘト、
御台所ノ御腹ニ御子ナカリシ故ニ、御養子ト成給ヒ、御世嗣ニ定リ給ヘリ。
御実母ハ生駒氏ノ女ナリ。
其後、永禄元年同月二十余日隔テヽ、若宮二人誕生シ給ヘリ。
是三七信孝。
次ハ中将信雄卿也。
然レハ、信雄卿ハ三男タルヘキヲ、信忠卿ノ同母タル故ヲ以テ、人皆是ヲ尊敬シテ、
早速信長公ヘ披露ニ及ケル。
故ニ次男ニ定リ給ヒ、人(ママ。又カ)信孝之母ハ、人々サノミ賞翫セス。
遅ク申上ケルニ依テ、三男トコソハ定マリ給ヒケル。
信孝ノ母ハ、坂氏ノ女ニシテ、熱田ノ神司岡本カ家ニテソ生レ給ヒケル。 」
326人間七七四年
2007/07/03(火) 12:05:44ID:U656fk6c 信孝に関するソースが「勢州軍記」だったら当然そうなるな?
「勢州軍記」は1638年編纂とされているが「余吾庄合戦覚書」は
もっと後の編纂じゃなかったか?
「勢州軍記」は1638年編纂とされているが「余吾庄合戦覚書」は
もっと後の編纂じゃなかったか?
327人間七七四年
2007/07/03(火) 13:32:17ID:/P6Z2QEW 母親の実家で産むのがそんなにおかしいか?
信雄より軽んじられたのは後ろ盾となるべき一族の勢力が弱かったからだろう。
信雄より軽んじられたのは後ろ盾となるべき一族の勢力が弱かったからだろう。
328人間七七四年
2007/07/03(火) 14:03:53ID:U656fk6c 戦国時代なら通い婚の風習は廃れ、母方の実家に通ったり、出産、という
ことは一般的にもうなかったから。
清洲に側室をもつようになっていたのだから、坂氏の出自に関係なく側室なら
清洲に囲われて然るべきなんじゃなかなと思った。
それに生駒家は信雄が誕生した頃は武士といっても
馬借として成功した商家みたいな家だし、
財をなしたといっても織田家のもつ財力、経済基盤に比べたらたいしたことない。
後ろ盾といえるほど織田家で重用されるはずもないし、実際されてなかったしな。
ことは一般的にもうなかったから。
清洲に側室をもつようになっていたのだから、坂氏の出自に関係なく側室なら
清洲に囲われて然るべきなんじゃなかなと思った。
それに生駒家は信雄が誕生した頃は武士といっても
馬借として成功した商家みたいな家だし、
財をなしたといっても織田家のもつ財力、経済基盤に比べたらたいしたことない。
後ろ盾といえるほど織田家で重用されるはずもないし、実際されてなかったしな。
329人間七七四年
2007/07/03(火) 14:11:10ID:YMjhdzOD 坂氏が熱田社の関係だったら、当然尾張の大族千秋氏との関係もあると考えていいよな。
千秋氏は源頼朝の生母の出身として武家の崇敬を受けた家柄。
坂氏単体としてはともかく、坂氏が所属する共同体というか連合というかで考えると、
後ろ盾が弱いとはいえないと思うが。
千秋氏は源頼朝の生母の出身として武家の崇敬を受けた家柄。
坂氏単体としてはともかく、坂氏が所属する共同体というか連合というかで考えると、
後ろ盾が弱いとはいえないと思うが。
330人間七七四年
2007/07/03(火) 20:38:07ID:qeLyCnSB なんか偽書武功夜話では、信長は生駒屋敷に通っていたことになっているが、
実際は生駒は清洲の奥で側室になっているし、案外信長が熱をあげていたのが
坂氏だったりしてな。
坂氏は別に出目も生駒よりはずっといいし、それに人質じゃなく、伽係だと
したら、信長が熱田に通っていたのかも知れないな。
坂氏の出目なら側室にするのにも充分だと思えるが、信孝が生まれたのが
岡本家の屋敷というところが正式な側室でなかった可能性があるな。
実際は生駒は清洲の奥で側室になっているし、案外信長が熱をあげていたのが
坂氏だったりしてな。
坂氏は別に出目も生駒よりはずっといいし、それに人質じゃなく、伽係だと
したら、信長が熱田に通っていたのかも知れないな。
坂氏の出目なら側室にするのにも充分だと思えるが、信孝が生まれたのが
岡本家の屋敷というところが正式な側室でなかった可能性があるな。
331人間七七四年
2007/07/03(火) 21:08:37ID:QgHdhz3N 人質にする程ヤバい関係が、熱田と信長の間でなかったから、
坂氏を人質として側室にする必要がなくて、
信長が熱田にきた時に接待するための伽係だったと考えれるんじゃね?
要人が訪れた時に、伽係を出すのはあの時代は普通だし。
伽係も、不特定多数の人間に対して伽させる訳じゃなく、
大抵は決まった相手だけの伽係だからな。
熱田を押さえたのは、信秀の時代だろうし、
信長の時代には良好な関係だったんだろうな。
信長が、最初に出した制札が熱田に対してだろ?
敵対関係にあったら、最初の制札発布に選ばないだろうからな。
坂氏を人質として側室にする必要がなくて、
信長が熱田にきた時に接待するための伽係だったと考えれるんじゃね?
要人が訪れた時に、伽係を出すのはあの時代は普通だし。
伽係も、不特定多数の人間に対して伽させる訳じゃなく、
大抵は決まった相手だけの伽係だからな。
熱田を押さえたのは、信秀の時代だろうし、
信長の時代には良好な関係だったんだろうな。
信長が、最初に出した制札が熱田に対してだろ?
敵対関係にあったら、最初の制札発布に選ばないだろうからな。
332人間七七四年
2007/07/04(水) 08:35:09ID:2pyNQyrG 坂氏が側室になったのはどちらかというと、岡本良勝の都合のような気がする。
岡本氏は津島衆の一家で、同じ津島衆の小橋家と織田家は過去においても
姻戚を結んで懐柔策をとっているし、そのあたりの事情じゃないだろうか?
信孝側近に坂氏一族も配置されてはいるけど、筆頭家老は岡本良勝で
信孝自刃直前まで行動を伴にしているから、良勝が生母の実父か、叔父、兄、
あたりだったのではないかとも言われているし、岡本家から坂氏の養女になって
側室にあがったのかもしれない。
尾張平定でも、津島衆が活躍していて、桶狭間の戦いでは
主に勝幡衆・津島衆といった家臣団を引き連れ合戦に挑んだといわれている。
初期の信長にとって祖父の代から築いた津島は重要な基盤であったから
岡本氏とも坂氏を介在に主従関係をより強固にしていったのではないかともとれる。
信孝生母の出自がどうであれ、信孝の後見に岡本良勝がいたことは事実であって
そちらに注目すべきじゃないかな。信孝の後見は生駒家に見劣りするような家では
なかったということだ。
岡本氏は津島衆の一家で、同じ津島衆の小橋家と織田家は過去においても
姻戚を結んで懐柔策をとっているし、そのあたりの事情じゃないだろうか?
信孝側近に坂氏一族も配置されてはいるけど、筆頭家老は岡本良勝で
信孝自刃直前まで行動を伴にしているから、良勝が生母の実父か、叔父、兄、
あたりだったのではないかとも言われているし、岡本家から坂氏の養女になって
側室にあがったのかもしれない。
尾張平定でも、津島衆が活躍していて、桶狭間の戦いでは
主に勝幡衆・津島衆といった家臣団を引き連れ合戦に挑んだといわれている。
初期の信長にとって祖父の代から築いた津島は重要な基盤であったから
岡本氏とも坂氏を介在に主従関係をより強固にしていったのではないかともとれる。
信孝生母の出自がどうであれ、信孝の後見に岡本良勝がいたことは事実であって
そちらに注目すべきじゃないかな。信孝の後見は生駒家に見劣りするような家では
なかったということだ。
333人間七七四年
2007/07/04(水) 13:29:21ID:Lwa6O/x1 岡本良勝は天文13年(1544)生まれだから生母の実父はありえない。
従兄弟じゃないかな。
従兄弟じゃないかな。
334人間七七四年
2007/07/05(木) 19:50:00ID:qG+A49kb 岡本良勝が熱田の宮司だったといのは間違いだ。
岡本良勝は熱田出身ではないし、熱田社の宮司になったのは
岡本家の分家を継いだ息子。
宗家の岡本重政は関ヶ原で西軍につき自刃。
庶子の兄が苗字を関藤氏に変え熱田社宮司になったとする家系図が残っている。
なので熱田神官の岡本良勝、その岡本良勝の家で信孝が誕生したという話
は後年岡本氏の子孫が熱田社の宮司をしていたことから創られた
話だということになる。信孝はたぶん清洲で生まれたのだと思うよ。
岡本良勝は熱田出身ではないし、熱田社の宮司になったのは
岡本家の分家を継いだ息子。
宗家の岡本重政は関ヶ原で西軍につき自刃。
庶子の兄が苗字を関藤氏に変え熱田社宮司になったとする家系図が残っている。
なので熱田神官の岡本良勝、その岡本良勝の家で信孝が誕生したという話
は後年岡本氏の子孫が熱田社の宮司をしていたことから創られた
話だということになる。信孝はたぶん清洲で生まれたのだと思うよ。
335人間七七四年
2007/07/07(土) 11:17:24ID:5r4Nd+IS336人間七七四年
2007/07/07(土) 11:22:20ID:OMH+Njbw338人間七七四年
2007/07/07(土) 18:54:01ID:OMH+Njbw 例えば、「津嶋大橋記」
信孝誕生之事。元来二男也云云。信長御臺、斎藤山城入道道三息女之腹無若君也。
信忠妾腹也。弘治三丁巳年誕生給。是御臺御養子也。二男信雄、生駒半左衛門妹也。
永禄元戊午年誕生。三男信孝、坂息女腹也。信雄、同年月誕生日數少、信孝先也云云。
雖然、信孝母儀、在熱田神司岡本宿所也。後日、岡本参清須城、言上之故為三男也。
岡本太郎右衛門、彼神司之子也。
信孝誕生之事。元来二男也云云。信長御臺、斎藤山城入道道三息女之腹無若君也。
信忠妾腹也。弘治三丁巳年誕生給。是御臺御養子也。二男信雄、生駒半左衛門妹也。
永禄元戊午年誕生。三男信孝、坂息女腹也。信雄、同年月誕生日數少、信孝先也云云。
雖然、信孝母儀、在熱田神司岡本宿所也。後日、岡本参清須城、言上之故為三男也。
岡本太郎右衛門、彼神司之子也。
339人間七七四年
2007/07/07(土) 20:16:03ID:5omzuKPN340人間七七四年
2007/07/08(日) 10:11:04ID:CpJP06fw >>338 オリジナルのソースは「勢州軍記」じゃないか?
「余吾庄合戦覚書」と同様類似してる。
地誌だけど「金鱗九十九之塵」にも書いてあるけど
これは編纂が天保の頃だし明らかに勢州軍記の抜粋みたいだ。
不思議なのはきちんと生年月日を示していないということ。
信雄もなぜか不詳。
細々と当時のエピが書くぐらいなら二人の生年月日を
数字できっちり書けばすむことなのに。
「余吾庄合戦覚書」と同様類似してる。
地誌だけど「金鱗九十九之塵」にも書いてあるけど
これは編纂が天保の頃だし明らかに勢州軍記の抜粋みたいだ。
不思議なのはきちんと生年月日を示していないということ。
信雄もなぜか不詳。
細々と当時のエピが書くぐらいなら二人の生年月日を
数字できっちり書けばすむことなのに。
341人間七七四年
2007/07/08(日) 12:27:26ID:pqq+/7VQ 勢州軍記が元ネタと考える事もできるが、
逸話として残っているものがあって、
その逸話を勢州軍記や津島大橋記が
それぞれ引いたと考える事もできる。
逸話として残っているものがあって、
その逸話を勢州軍記や津島大橋記が
それぞれ引いたと考える事もできる。
343人間七七四年
2007/07/09(月) 08:06:47ID:P6ybMyjk 正室の子と誕生が近い場合は正室の子が兄とされることは江戸期まであったそうだけど
側室同士の子供が生母のからみで兄弟の順序を変えられることはない。
側室同士の子供が生母のからみで兄弟の順序を変えられることはない。
344人間七七四年
2007/07/10(火) 19:26:06ID:IXo9ZIQv やっぱ、信孝が三男になったんは単に報告の遅れでないかな。
母親がらみで二男が三男になんてありえないし。
信雄生母の生駒だってそんなに優遇されていたわけでなし。
実質、家柄だって信孝の母親の方がいいんだし。
母親がらみで二男が三男になんてありえないし。
信雄生母の生駒だってそんなに優遇されていたわけでなし。
実質、家柄だって信孝の母親の方がいいんだし。
345人間七七四年
2007/07/10(火) 21:42:49ID:UPXtBy5t 織田家に限らず大名家は嫡子以外の男子はどうでもよかったからな。
正室腹であっても次男以下は嫡子の家来として養育していったわけだし。
側室腹でしかない信雄と信孝がどっちが先に生まれようと、誰が生母だろうと
織田家的にはどうでもいい問題だったと思う。
しかもその頃なら濃姫も20才そこそこでまだまだ子供を生む可能性もあったわけで、
奇妙だって庶子扱いの頃だろうし、弟達のことなんてさらにどうでもいい問題だったはず。
だから実際信孝が早く生まれていても、何らかの理由で報告が遅れた、あるいは認知が
遅れたから三男になったというのもいかにもありえそうな話だ。
正室腹であっても次男以下は嫡子の家来として養育していったわけだし。
側室腹でしかない信雄と信孝がどっちが先に生まれようと、誰が生母だろうと
織田家的にはどうでもいい問題だったと思う。
しかもその頃なら濃姫も20才そこそこでまだまだ子供を生む可能性もあったわけで、
奇妙だって庶子扱いの頃だろうし、弟達のことなんてさらにどうでもいい問題だったはず。
だから実際信孝が早く生まれていても、何らかの理由で報告が遅れた、あるいは認知が
遅れたから三男になったというのもいかにもありえそうな話だ。
346人間七七四年
2007/07/10(火) 22:48:09ID:D1H5M0F5 話を戻すようで悪いが
「昔より主をうつみのうらなれば おわり(報い)を待てや羽柴筑前」
↑この「主」って誰のことだ?
信長のことかね?
「昔より主をうつみのうらなれば おわり(報い)を待てや羽柴筑前」
↑この「主」って誰のことだ?
信長のことかね?
348人間七七四年
2007/07/10(火) 22:56:10ID:D1H5M0F5 「昔より主をうつみのうらなれば おわり(報い)を待てや羽柴筑前」
この「主」が信長のことを指すなら
秀吉は本能寺の変の関係者ってことか?
この「主」が信長のことを指すなら
秀吉は本能寺の変の関係者ってことか?
349人間七七四年
2007/07/10(火) 23:06:52ID:DgruMvUl 主→主筋→織田家一門→信孝くらいの解釈でいいんじゃないかな。
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