探検
【報いを待てや】織田信孝【羽柴筑前】
2007/05/27(日) 18:10:20ID:5C9wymoz
三七丸こと信孝について語るスレッド
2人間七七四年
2007/05/27(日) 18:17:48ID:7kS0K9pM 糞スレ立てんな蛆虫死ね
3人間七七四年
2007/05/27(日) 19:11:38ID:KfzLJUJj >>2
お前が死ね
お前が死ね
4人間七七四年
2007/05/27(日) 19:53:28ID:seTIc0qw 織田信雄を語るの353で信孝スレを立てて欲しいと希望した者です。
1さん、ありがとうございました。
とりあえず辞世の句を「昔より主を内海の野間なれば、報いを待てや羽柴筑前」
これが一番一般的なようです
1さん、ありがとうございました。
とりあえず辞世の句を「昔より主を内海の野間なれば、報いを待てや羽柴筑前」
これが一番一般的なようです
5奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/27(日) 20:58:17ID:o6LCyiRg 兄弟スレおめでとう御座候。
2007/05/27(日) 21:01:44ID:BVBVUOiT
寄騎に恵まれてない印象が強いよね
家臣で有名なのといえば小島兵部と岡本良勝くらい?
家臣で有名なのといえば小島兵部と岡本良勝くらい?
7奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/05/27(日) 21:04:57ID:o6LCyiRg あっちでも書いたけど、関盛信は寄騎だったかな。
8人間七七四年
2007/05/27(日) 21:25:41ID:CkWH15xb9人間七七四年
2007/05/27(日) 22:29:42ID:seTIc0qw ちなみに、切腹した際自らの腸を引きずり出し掛け軸に投げつけたと
いわれてるが、生物学上無理らしい。
いわれてるが、生物学上無理らしい。
10人間七七四年
2007/05/27(日) 22:30:15ID:7kS0K9pM 糞スレ立てさせんな蛆虫死ね
112,10
2007/05/27(日) 22:31:34ID:seTIc0qw お前が死ね
ここは信孝について語るスレだ。分かったらくんな。
ここは信孝について語るスレだ。分かったらくんな。
12人間七七四年
2007/05/27(日) 22:40:36ID:seTIc0qw 清洲会議の事がつくづく惜しまれる。
柴田勝家も反論せんか。
だいたい3歳の子に何ができると言うのだ
柴田勝家も反論せんか。
だいたい3歳の子に何ができると言うのだ
13人間七七四年
2007/05/27(日) 22:44:14ID:EUaYeyMR >>12 推薦した秀吉以下、全員思っていたことだろう
1413
2007/05/27(日) 22:54:11ID:seTIc0qw もしあそこで柴田勝家が秀吉を押し切り、信孝を家督にすえていたら
どうなっただろうか。
そもそも織田秀信と織田信孝、どちらが上なのか。
どうなっただろうか。
そもそも織田秀信と織田信孝、どちらが上なのか。
15人間七七四年
2007/05/28(月) 00:40:02ID:Ed0uBmyz 星芒 長澤奏子著
信孝や信孝の娘を題材にした小説
信孝や信孝の娘を題材にした小説
16人間七七四年
2007/05/28(月) 01:50:24ID:LhgKTokn >>1
3月7日生まれだから、三七ってマジ?
3月7日生まれだから、三七ってマジ?
1716
2007/05/28(月) 03:13:15ID:IxFhITOZ マジ、
信長は子に変な幼名をつける。
個人的にそれで子供達が傷ついたりして、そのせいで
子供が信忠信孝除きみんな小粒なんじゃないか、と
思っている。
信長は子に変な幼名をつける。
個人的にそれで子供達が傷ついたりして、そのせいで
子供が信忠信孝除きみんな小粒なんじゃないか、と
思っている。
18人間七七四年
2007/05/28(月) 09:38:33ID:p2xRFlnL 清洲会議は意図的に一益はずされてるしな
池田はどう見ても重臣とは言えんし、長秀も若狭国主では勝家や秀吉より一歩下
がる
会議自体が秀吉の策謀臭い
勝家が光秀を先に討てば何の問題なく信孝が家督を得ただろうけど
でも不思議なのはなぜ本能寺の変時に信忠は幼い幼児の三法師をわざわざ京都に
連れていったんだろう?
しかも大軍の重囲下にありながら、信益に連れて逃げたと言われるが、そんなに
容易く光秀は逃したのか?
池田はどう見ても重臣とは言えんし、長秀も若狭国主では勝家や秀吉より一歩下
がる
会議自体が秀吉の策謀臭い
勝家が光秀を先に討てば何の問題なく信孝が家督を得ただろうけど
でも不思議なのはなぜ本能寺の変時に信忠は幼い幼児の三法師をわざわざ京都に
連れていったんだろう?
しかも大軍の重囲下にありながら、信益に連れて逃げたと言われるが、そんなに
容易く光秀は逃したのか?
19人間七七四年
2007/05/28(月) 10:29:34ID:wIuGPAuk 三法師脱出は創作だから、まじめに考えるだけ無駄だよ。
20人間七七四年
2007/05/28(月) 10:30:50ID:wIuGPAuk 本能寺発生時に、三法師は岐阜城にいて、その後変を聞いて清洲に避難。
こっちが史実だから。
こっちが史実だから。
21人間七七四年
2007/05/28(月) 10:43:50ID:p2xRFlnL じゃ信益は独りで逃げたの?後継者の甥っ子見捨てて
ヒデェ奴じゃ
でもこういう奴じゃないと家名残せないのか
正直に生きるとロクなことがないと言うことだよ
信孝くん
ヒデェ奴じゃ
でもこういう奴じゃないと家名残せないのか
正直に生きるとロクなことがないと言うことだよ
信孝くん
23人間七七四年
2007/05/28(月) 11:27:06ID:p2xRFlnL スマソ
24人間七七四年
2007/05/28(月) 12:46:28ID:LhgKTokn2524
2007/05/28(月) 13:05:16ID:IxFhITOZ そういうのから、本能寺の変信孝黒幕説も
でてくる。俺は全く信じんが
でてくる。俺は全く信じんが
26人間七七四年
2007/05/28(月) 16:49:14ID:l85Cfsxi 三好笑岩への養子は四国攻めの大義名分を得るためでしょ
それに倣ったのが秀吉
それに倣ったのが秀吉
28人間七七四年
2007/05/28(月) 17:57:53ID:lBFOkEVX29人間七七四年
2007/05/28(月) 19:44:29ID:8Rl5KhDK >>21
信忠に腹を切らせて自分はトンズラこいた織田有楽斎よりマシ。
信忠に腹を切らせて自分はトンズラこいた織田有楽斎よりマシ。
30人間七七四年
2007/05/28(月) 20:06:47ID:p2xRFlnL31人間七七四年
2007/05/28(月) 21:56:16ID:9FPpW0rX 信長が子供につけた名前とついでに生年と本能寺の変の時の年齢
? 信正(1554−1647)庶子といわれる。僧になり94歳で亡くなる。本能寺の歳は29歳。
長男信忠(1557−1582)幼名奇妙丸。本能寺の変の時26歳。詳しくは信忠スレを。
次男信雄(1558−1630)幼名茶筅丸。本能寺の変の時25歳。詳しくは信雄スレを。
三男信孝(1558−1583)幼名三七郎。本能寺の変の時25歳。詳しくはこのスレを。
四男秀勝(1568−1585)幼名於次。本能寺の変の時15歳。羽柴秀吉の養子となる。
五男勝長(1568−1582)幼名御坊丸。本能寺の変の時15歳。信忠と共に討ち死に。
六男信秀(1571−1596)幼名大洞。本能寺の変の時12歳。僧になったと言われる。
七男信高(1576−1602)幼名小洞。本能寺の変の時7歳。織田信成は子孫になる。
八男信吉(1573−1615)幼名酌。本能寺の変の時10歳。なぜか八男になっている。
九男信貞(1574−1624)幼名人。本能寺の変の時9歳。なぜか九男になっている。
十男信好( ?−1609)幼名良好。本能寺の変の時はまだ幼少であった、という。
十一男長次( ?−1600)幼名縁。本能寺の変の時はまだ幼少。全く不明の人物。
? 信正(1554−1647)庶子といわれる。僧になり94歳で亡くなる。本能寺の歳は29歳。
長男信忠(1557−1582)幼名奇妙丸。本能寺の変の時26歳。詳しくは信忠スレを。
次男信雄(1558−1630)幼名茶筅丸。本能寺の変の時25歳。詳しくは信雄スレを。
三男信孝(1558−1583)幼名三七郎。本能寺の変の時25歳。詳しくはこのスレを。
四男秀勝(1568−1585)幼名於次。本能寺の変の時15歳。羽柴秀吉の養子となる。
五男勝長(1568−1582)幼名御坊丸。本能寺の変の時15歳。信忠と共に討ち死に。
六男信秀(1571−1596)幼名大洞。本能寺の変の時12歳。僧になったと言われる。
七男信高(1576−1602)幼名小洞。本能寺の変の時7歳。織田信成は子孫になる。
八男信吉(1573−1615)幼名酌。本能寺の変の時10歳。なぜか八男になっている。
九男信貞(1574−1624)幼名人。本能寺の変の時9歳。なぜか九男になっている。
十男信好( ?−1609)幼名良好。本能寺の変の時はまだ幼少であった、という。
十一男長次( ?−1600)幼名縁。本能寺の変の時はまだ幼少。全く不明の人物。
32人間七七四年
2007/05/29(火) 02:19:39ID:qTB/VOkw 信孝の家臣で幸田彦右衛門は忘れないで欲しいな。
人質に出されていた母親の話なんか、これぞ武士の女だもんなあ。
人質に出されていた母親の話なんか、これぞ武士の女だもんなあ。
33人間七七四年
2007/05/29(火) 09:12:24ID:RVuA9YuR 幸田孝之だね、美濃で稲葉一鉄と戦い討死にしてる
35人間七七四年
2007/05/29(火) 16:26:07ID:msITwJQ7 織田信孝辞世の句
「川角太閤記」「昔より主を内海の浦なれば報いを待てや羽柴筑前」
「氏郷記」他 「昔より主を内海の浦なれば尾張を待てや羽柴筑前」
「坂役叢話」 「昔より主を内海の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」
まあ似たような感じだが、一般的には「坂役叢話」のが多用されてる
「川角太閤記」「昔より主を内海の浦なれば報いを待てや羽柴筑前」
「氏郷記」他 「昔より主を内海の浦なれば尾張を待てや羽柴筑前」
「坂役叢話」 「昔より主を内海の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」
まあ似たような感じだが、一般的には「坂役叢話」のが多用されてる
36人間七七四年
2007/05/29(火) 17:17:26ID:iOtOe8N8 本能寺の変前の信孝は自前の兵力だとどれくらい持っていたのかな
5000ぐらい?
5000ぐらい?
37人間七七四年
2007/05/29(火) 18:59:43ID:msITwJQ7 山崎の合戦では4000だったと思う
38人間七七四年
2007/05/29(火) 19:21:26ID:9zrd5UVB それは総動員数じゃないよな。
たぶんだけど。
たぶんだけど。
40人間七七四年
2007/05/29(火) 20:07:27ID:msITwJQ7 総動員なら1万2000だった気がする
41人間七七四年
2007/05/30(水) 00:32:58ID:hhsCrxtq 一万云々といっても、自分の所領以外の伊勢や伊賀やらのも集めてるから、
総動員とは違うんじゃないかな。
実際、信孝の本能寺の変の時の所領は伊勢二郡(鈴鹿・河曲?)のはず。
5万石ずつとしても、せいぜい10万石。3000〜4000がいいとこじゃないかな。
神戸、国府、峰、鹿伏兎らの国人ぐらいだし、組下にいたの。
総動員とは違うんじゃないかな。
実際、信孝の本能寺の変の時の所領は伊勢二郡(鈴鹿・河曲?)のはず。
5万石ずつとしても、せいぜい10万石。3000〜4000がいいとこじゃないかな。
神戸、国府、峰、鹿伏兎らの国人ぐらいだし、組下にいたの。
42人間七七四年
2007/05/30(水) 01:36:06ID:TSIJF+p/ >>28>>30
http://homepage1.nifty.com/manyapage/parque/syuppan/seibouhyou.htm
娘の名を賢子としている。生後まもなく父信孝が自害したあと信正(信長庶長子)に引き取られた。
母は村井貞勝の遠縁の者の娘。ちなみに信正の養父は村井貞勝。
夫は医家の坂氏、信正の嫡子信衡。
http://homepage1.nifty.com/manyapage/parque/syuppan/seibouhyou.htm
娘の名を賢子としている。生後まもなく父信孝が自害したあと信正(信長庶長子)に引き取られた。
母は村井貞勝の遠縁の者の娘。ちなみに信正の養父は村井貞勝。
夫は医家の坂氏、信正の嫡子信衡。
4328
2007/05/30(水) 13:02:13ID:sV2+6nPG44人間七七四年
2007/05/30(水) 13:43:28ID:3a+FzHvE 実は信孝には信茂、信豊という息子もいる。
いくつかの文書に見える。
いくつかの文書に見える。
45人間七七四年
2007/05/30(水) 15:02:48ID:FD9qmyLu 信正は実在の人物なんだ
ちょっと驚き
ところで本能寺の変時、信孝が決起して信澄を討った時点で摂津国主の池田恒興
に恐らく連絡したと思われる(というより恒興自身が信孝のもとにはせ参じるの
が筋と思うが)
恒興が動かなかったのは信孝を見捨て状況の変異の様子見?
それとも既にこの時点で秀吉の息がかかっていたと見るべきだろうか?
清洲会議では秀吉により重臣格に抜擢されてるし、怪しいが
ちょっと驚き
ところで本能寺の変時、信孝が決起して信澄を討った時点で摂津国主の池田恒興
に恐らく連絡したと思われる(というより恒興自身が信孝のもとにはせ参じるの
が筋と思うが)
恒興が動かなかったのは信孝を見捨て状況の変異の様子見?
それとも既にこの時点で秀吉の息がかかっていたと見るべきだろうか?
清洲会議では秀吉により重臣格に抜擢されてるし、怪しいが
46人間七七四年
2007/05/30(水) 15:28:44ID:9Pc5PQ3347人間七七四年
2007/05/30(水) 21:42:56ID:FD9qmyLu 一応、調べていたら天正六年六月二十七日の神吉城攻めでは足軽に混じって城に
乗り込んだというから指揮官としてはわからんが、武勇に関してはある方らしい
まあ城攻めの総指揮は兄の信忠が取っていたけど弟の無茶ぶりには手を焼いただ
ろう
その後、京都所司代村井貞勝のもとで事務方としての経験も積んだようだ
太閤記などに記されているようなそんな愚息でもなさそうだ
しかし元亀元年に養父神戸具盛と不和になり翌年神戸家家臣を粛清するのだが、
元亀元年と言えば、信孝はまだ十二歳
不和ってほんとかな
乗り込んだというから指揮官としてはわからんが、武勇に関してはある方らしい
まあ城攻めの総指揮は兄の信忠が取っていたけど弟の無茶ぶりには手を焼いただ
ろう
その後、京都所司代村井貞勝のもとで事務方としての経験も積んだようだ
太閤記などに記されているようなそんな愚息でもなさそうだ
しかし元亀元年に養父神戸具盛と不和になり翌年神戸家家臣を粛清するのだが、
元亀元年と言えば、信孝はまだ十二歳
不和ってほんとかな
48人間七七四年
2007/05/31(木) 00:27:07ID:jNZVJx9m 実際は信孝付きの織田家臣と具盛や神戸家中が対立したってあたりかな。
粛清も信孝主導というより信長の意を受けた家臣が行ったんだろう。
粛清も信孝主導というより信長の意を受けた家臣が行ったんだろう。
49人間七七四年
2007/05/31(木) 01:20:17ID:/m0IS6iG もちろんそうだと思う
ということは四国遠征に成功し三好家の家督を継いだら
三好家も後々粛清されることになったのかな
ということは四国遠征に成功し三好家の家督を継いだら
三好家も後々粛清されることになったのかな
50人間七七四年
2007/05/31(木) 02:03:07ID:FHvSGncF そのあたりは北畠家でも行われたし、小早川もやっているな。
51人間七七四年
2007/05/31(木) 02:24:23ID:KHi9RF1L このスレ伸びてるな スレ立て依頼者として嬉しく思うよ
あと話しぶったぎってしまうが、信長が信孝と
会話している記録って残ってる?
個人的な興味なのて分からなければスルーしてください
あと話しぶったぎってしまうが、信長が信孝と
会話している記録って残ってる?
個人的な興味なのて分からなければスルーしてください
52人間七七四年
2007/05/31(木) 08:06:10ID:/m0IS6iG 天正8年に病身の村井貞勝を補佐するため信孝は在京し禁裏との交渉などしてい
たらしく、7月には本願寺から教如が退去する誓詞を交わすため、信長を京に迎
えているので、その際に仕事上の話を交わすのは当然と思うが、自らの身上など
プライベートの事は信長を畏れて言えないだろうね
たらしく、7月には本願寺から教如が退去する誓詞を交わすため、信長を京に迎
えているので、その際に仕事上の話を交わすのは当然と思うが、自らの身上など
プライベートの事は信長を畏れて言えないだろうね
53人間七七四年
2007/05/31(木) 08:18:39ID:Fkelf/dg プライベートでの信長って、そんなに怖いイメージないなあ。
信忠を叱責した書状やいわゆる¨ご勘気¨は公的なものだし、
信勝以外の卑属には手を掛けていない。
ねねへの宥め状などは兄が妹をお守りするような繊細さがある。
一門の中で身分が信包より下なのに信長に四国を任されようとしていたのだから
信長からの期待は大きく気に入られていたのではないかな。
信忠を叱責した書状やいわゆる¨ご勘気¨は公的なものだし、
信勝以外の卑属には手を掛けていない。
ねねへの宥め状などは兄が妹をお守りするような繊細さがある。
一門の中で身分が信包より下なのに信長に四国を任されようとしていたのだから
信長からの期待は大きく気に入られていたのではないかな。
54人間七七四年
2007/05/31(木) 14:46:11ID:2QFnHEhA 52殿、53殿。個人的な興味に答えていただき感謝する。
どんな大名でも子に教育するような話は残っているのに、信長にはそれがない
ような気がする。
信長の目には息子たちがどう移っていたのか気になる。
まあ親馬鹿な信長だからなw 雷を落としたのは信雄の伊賀攻めの時と
信忠が能を舞いすぎたときぐらいか
どんな大名でも子に教育するような話は残っているのに、信長にはそれがない
ような気がする。
信長の目には息子たちがどう移っていたのか気になる。
まあ親馬鹿な信長だからなw 雷を落としたのは信雄の伊賀攻めの時と
信忠が能を舞いすぎたときぐらいか
55人間七七四年
2007/05/31(木) 20:59:58ID:Se627/t/ 信忠に関しては残ってるとオモ>信長
叱→「馬が欲しい時に金を与え、金が欲しい時に馬を与えるようじゃなきゃいかん」
誉→「俺が行く前に武田平らげたもんだから、俺は甲斐に観光にいったようなもんさ〜」
どっちも本人の前では言ってないが
叱→「馬が欲しい時に金を与え、金が欲しい時に馬を与えるようじゃなきゃいかん」
誉→「俺が行く前に武田平らげたもんだから、俺は甲斐に観光にいったようなもんさ〜」
どっちも本人の前では言ってないが
56人間七七四年
2007/05/31(木) 21:16:24ID:O2guJPlS 本能寺の動機は長宗我部攻めを阻止するためというのが
近年有力なようだ。
さらに四国攻めは信孝が信長に強く求めて決まったともいう。
だとすれば信孝はその行為のために自身と父の命を失った
ことになる。
近年有力なようだ。
さらに四国攻めは信孝が信長に強く求めて決まったともいう。
だとすれば信孝はその行為のために自身と父の命を失った
ことになる。
57人間七七四年
2007/05/31(木) 21:29:13ID:KP9ijYlF 本能寺の変後に、近衛前久が明智に加担したので信孝が成敗するとの噂が流れたそうな。
>>56
明智の家老、斎藤利三は長宗我部と縁者だからね。
外交の取次も明智がやってたし、秀吉が三好に肩入れしたのも理由になるか。
>>56
明智の家老、斎藤利三は長宗我部と縁者だからね。
外交の取次も明智がやってたし、秀吉が三好に肩入れしたのも理由になるか。
58人間七七四年
2007/05/31(木) 21:56:14ID:TZJHISiy59人間七七四年
2007/05/31(木) 23:17:10ID:FHvSGncF 長宗我部攻撃は、べつに誰かしらに進められたからというものでもないけどね。
普通に考えれば、長宗我部のこれまでの行動をみれば討伐するしかない。
秀吉が三好に肩入れしたとか、長宗我部を守るためにというのなら、どうして
明智はそれ以前に、長宗我部の反織田の行動を止めようとしなかったのか。
かつては敵対していたが、降服してからは従順に仕えている三好。
同盟は結んだがロクに役に立ったことがなく、逆に他で忙しくて四国に関わって
いられなかった時期に、四国の親織田勢力を攻撃するような長宗我部。
どちらを選ぶかとなったら、個人的な性格の問題ではないだろうよ。
普通に考えれば、長宗我部のこれまでの行動をみれば討伐するしかない。
秀吉が三好に肩入れしたとか、長宗我部を守るためにというのなら、どうして
明智はそれ以前に、長宗我部の反織田の行動を止めようとしなかったのか。
かつては敵対していたが、降服してからは従順に仕えている三好。
同盟は結んだがロクに役に立ったことがなく、逆に他で忙しくて四国に関わって
いられなかった時期に、四国の親織田勢力を攻撃するような長宗我部。
どちらを選ぶかとなったら、個人的な性格の問題ではないだろうよ。
60人間七七四年
2007/05/31(木) 23:22:13ID:F/CEPUkk どっちかというと武田攻めじゃないかなぁ。
光秀は恩賞に殆どありつけなかったからね。
武田攻めに関しては、「信長が到着する前に信忠が武田をオ滅ぼした! 信忠はさすが信長の後継者!」と
いわれているけど、途中で信長が家臣に信忠が無茶な進軍をしないように書状を出している割には
信長の進軍速度は遅い。
丁度信忠が武田を滅ぼした時点で武田の国境に足を踏み入れるタイミングは、信忠に功を立てさせるために
信長が武田領入りを引き伸ばした結果とも取れないだろうか。
なら、信忠に全て任せば良いじゃないかと思うかもしれないが、信忠の身を案じるなら、必ず後詰はしなければならなかった。
「武田崩れ」は、もちろん信忠の軍が強かったことが一番の原因だけど、このうえ更に後詰が来るという絶望感から起こったこと。
信長の後詰がなかったら武田戦は長引いた可能性が充分ある。
その意味では、武田領に入らなかったとしても、信長軍にもそれなりの功があったといえる。
けれど、徳川などの外様を除き、武田領は全て信忠の息の掛かった武将に割り振られた。
信忠への実質的な相続を急いでいた信長にとっては、武田攻めは、武田を滅ぼしたとともに
家臣団に対する、「今後、信忠につかないものは、活躍の機会を与えられない。」というメッセージも持っていたかもしれない。
信長的には「だから今ここで代替わりの誓約も結んどけ」という意図だったんだろうけど、明智の返事は「NO」だったと。
信長の変な行軍・戦場での行動って、親バカフィルターを通して見ると納得が行くことがあって面白い。
信忠に総大将を任せて自分は近場で鷹狩していたこととかも、「暢気に隠居」というよりは「はじめてのおつかいを見守る親」の方が
真実に近そうな気がする。
大軍を指揮するのは非常に難しいようで、家康なんかは、大軍を有機的に指揮できないまま一生を終えている。
19の若造が5万も6万もの大軍を常に有機的に動かすことができたことは、ちょっと信じがたい出来事だ。
よくよく考えると、少年の内からこれほどの大軍を動かした人物って、日本史上で信忠しか居ないんだな。
まぁ、信長としても心配だろうから、万が一劣勢になった時には、何時でも指揮を代われるように近場にいたんじゃないかな。
で、いかにも「心配で後ろに詰めてます」って様子で居たら、信忠が家臣に侮られるかもしれないので、鷹狩してたと。
諸大名には「信長ついにボケたか!?」と思われて、第二次信長包囲網に繋がったと。
光秀は恩賞に殆どありつけなかったからね。
武田攻めに関しては、「信長が到着する前に信忠が武田をオ滅ぼした! 信忠はさすが信長の後継者!」と
いわれているけど、途中で信長が家臣に信忠が無茶な進軍をしないように書状を出している割には
信長の進軍速度は遅い。
丁度信忠が武田を滅ぼした時点で武田の国境に足を踏み入れるタイミングは、信忠に功を立てさせるために
信長が武田領入りを引き伸ばした結果とも取れないだろうか。
なら、信忠に全て任せば良いじゃないかと思うかもしれないが、信忠の身を案じるなら、必ず後詰はしなければならなかった。
「武田崩れ」は、もちろん信忠の軍が強かったことが一番の原因だけど、このうえ更に後詰が来るという絶望感から起こったこと。
信長の後詰がなかったら武田戦は長引いた可能性が充分ある。
その意味では、武田領に入らなかったとしても、信長軍にもそれなりの功があったといえる。
けれど、徳川などの外様を除き、武田領は全て信忠の息の掛かった武将に割り振られた。
信忠への実質的な相続を急いでいた信長にとっては、武田攻めは、武田を滅ぼしたとともに
家臣団に対する、「今後、信忠につかないものは、活躍の機会を与えられない。」というメッセージも持っていたかもしれない。
信長的には「だから今ここで代替わりの誓約も結んどけ」という意図だったんだろうけど、明智の返事は「NO」だったと。
信長の変な行軍・戦場での行動って、親バカフィルターを通して見ると納得が行くことがあって面白い。
信忠に総大将を任せて自分は近場で鷹狩していたこととかも、「暢気に隠居」というよりは「はじめてのおつかいを見守る親」の方が
真実に近そうな気がする。
大軍を指揮するのは非常に難しいようで、家康なんかは、大軍を有機的に指揮できないまま一生を終えている。
19の若造が5万も6万もの大軍を常に有機的に動かすことができたことは、ちょっと信じがたい出来事だ。
よくよく考えると、少年の内からこれほどの大軍を動かした人物って、日本史上で信忠しか居ないんだな。
まぁ、信長としても心配だろうから、万が一劣勢になった時には、何時でも指揮を代われるように近場にいたんじゃないかな。
で、いかにも「心配で後ろに詰めてます」って様子で居たら、信忠が家臣に侮られるかもしれないので、鷹狩してたと。
諸大名には「信長ついにボケたか!?」と思われて、第二次信長包囲網に繋がったと。
61人間七七四年
2007/06/01(金) 02:12:00ID:ZeOIVlzD >>54
自分は信長はそんな子供に過保護な人間じゃないと思うし、思いたくないな
自らも信行との争いで家中を二分した痛い想い出があるし
結局、信忠には河尻秀隆を付けて指揮官として養成していった
18歳の信忠単独で行った岩村城攻めは次第点
信長がその時の信忠と同年齢のときは信忠のような大軍を指揮していなかった
恐らく、信孝にも長秀を付けて指揮官として修行させるつもりだったのだろう
勇猛さでは神吉城攻めで見せていたし、天正8年期に京で吏僚としての経験を積
んでいたから、これから旗頭としての教育を施す予定だったのだろう
四国平定後は惟住日向守、惟住という西国の名を貰った光秀、長秀とともに九州
平定に向かったことだろう(何の根拠もないよ、単なる個人的推測なだけ)
自分は信長はそんな子供に過保護な人間じゃないと思うし、思いたくないな
自らも信行との争いで家中を二分した痛い想い出があるし
結局、信忠には河尻秀隆を付けて指揮官として養成していった
18歳の信忠単独で行った岩村城攻めは次第点
信長がその時の信忠と同年齢のときは信忠のような大軍を指揮していなかった
恐らく、信孝にも長秀を付けて指揮官として修行させるつもりだったのだろう
勇猛さでは神吉城攻めで見せていたし、天正8年期に京で吏僚としての経験を積
んでいたから、これから旗頭としての教育を施す予定だったのだろう
四国平定後は惟住日向守、惟住という西国の名を貰った光秀、長秀とともに九州
平定に向かったことだろう(何の根拠もないよ、単なる個人的推測なだけ)
62人間七七四年
2007/06/01(金) 08:22:34ID:K75FsZK/ >>59
信長と長宗我部氏の関係は次のように変化している。
1.四国は元親の切り取り次第
2.土佐と阿波半国のみを認める
3.讃岐を信孝に、阿波を三好康長に与え、残りは未定。
2までは斉藤利三や光秀も容認できたろう。使者を送って
説得を試みている。
だが3では長宗我部氏の存在そのものが否定され、織田方の
軍勢によって滅亡必至。それで利三が激怒し光秀をたきつけて
謀反を起こさせたというのが近年有力な説。
2から3への変化は信孝が信長に求めてそうなったという。
従って3にならなければ本能寺は起こらず信長も信孝も
生きられただろう。
この説が正しければ信孝は自分で自分の首を絞めてしまった
ことになる。
信長と長宗我部氏の関係は次のように変化している。
1.四国は元親の切り取り次第
2.土佐と阿波半国のみを認める
3.讃岐を信孝に、阿波を三好康長に与え、残りは未定。
2までは斉藤利三や光秀も容認できたろう。使者を送って
説得を試みている。
だが3では長宗我部氏の存在そのものが否定され、織田方の
軍勢によって滅亡必至。それで利三が激怒し光秀をたきつけて
謀反を起こさせたというのが近年有力な説。
2から3への変化は信孝が信長に求めてそうなったという。
従って3にならなければ本能寺は起こらず信長も信孝も
生きられただろう。
この説が正しければ信孝は自分で自分の首を絞めてしまった
ことになる。
63人間七七四年
2007/06/01(金) 10:15:27ID:6JfsrX4p 長宗我部の縁者である利三が光秀を炊きつけて本能寺の変になった、というのは
一応つじつまは合うがそれを支持する文献的な根拠なんかが皆無なのが痛いな
一応つじつまは合うがそれを支持する文献的な根拠なんかが皆無なのが痛いな
64人間七七四年
2007/06/01(金) 21:31:19ID:49htB9J3 そりゃあ史料的根拠なんてないよ。
ここ1,2年で鈴木、藤本、桐野、谷口らによって
黒幕説が否定され、そして消去法的に残ったのが
長宗我部救援。
桐野はそれだけでなく野望説も同時に主張してる。
鈴木、藤本は「検討に値する」という言い方だが。
谷口の新刊では光秀の年齢を一般に言われてる55ではなく
67とし、このところ武功のない自分が佐久間や林のように
追放され、明智家が路頭に迷うことを恐れたというのも
理由に挙げている。
ここ1,2年で鈴木、藤本、桐野、谷口らによって
黒幕説が否定され、そして消去法的に残ったのが
長宗我部救援。
桐野はそれだけでなく野望説も同時に主張してる。
鈴木、藤本は「検討に値する」という言い方だが。
谷口の新刊では光秀の年齢を一般に言われてる55ではなく
67とし、このところ武功のない自分が佐久間や林のように
追放され、明智家が路頭に迷うことを恐れたというのも
理由に挙げている。
65人間七七四年
2007/06/01(金) 21:42:13ID:ER9yI8M3 >>62
まず1.だが、これはあくまで対三好をにらんだ同盟。かつ「織田領、親織田勢力でも
切り取り自由」なんて約束はない。しかし長宗我部は三好が信長と戦っていた時期は
ロクに戦わず(当時土佐国内で戦っていた長宗我部にそこまでの余裕がなかったとは
言えるが)、三好が信長に従うようになって両者の同盟の存在意義が揺らいだ時期に
なってから、何故か織田勢力化した三好を攻撃。
しかしこの時期の信長は本願寺、毛利を敵に回して四国の情勢に強く介入することが
できなかった。やむを得ず臣従勢力が攻撃されるのを座視することになる。
(当然、信長は長宗我部に対して不快な思いを抱いただろう)
で、本願寺・毛利戦線に目途がついてから四国問題を取り上げることになる。
2.を見れば判るが、信長は当初は長宗我部の領土を認めようとした。実際に
当時の長宗我部の領土はこんなもの。あと讃岐を少々か。
つまり信長はこれまでの行いは不問にすると言ったわけだ。信長にしてみれば
譲歩ではある。その上で、信長に服従する意志があるのなら讃岐で切り取った
部分は三好に返却しろといった。信長にだって、従属する三好を保護する義務が
あるのだから、このあたりは退けない要求だったろう。
しかし長宗我部はけった。
その結果、長宗我部討伐が決定され、3.となった。
明智にしてみれば納得ができないような決定でもないし、信孝がどうこうする
以前の問題として、長宗我部の対応をみれば2.から3.への移行は当然といえる。
この決定を明智が不服としたというのなら光秀はそうとうのバカだし、ここまで
行き着く前に長宗我部を外交で抑えられなかった明智の不手際となる。それを
恨んだというのなら単なる逆恨みだそりゃ。
君の説は時空列をごちゃまぜにして背景を完全に無視しているよ。
まず1.だが、これはあくまで対三好をにらんだ同盟。かつ「織田領、親織田勢力でも
切り取り自由」なんて約束はない。しかし長宗我部は三好が信長と戦っていた時期は
ロクに戦わず(当時土佐国内で戦っていた長宗我部にそこまでの余裕がなかったとは
言えるが)、三好が信長に従うようになって両者の同盟の存在意義が揺らいだ時期に
なってから、何故か織田勢力化した三好を攻撃。
しかしこの時期の信長は本願寺、毛利を敵に回して四国の情勢に強く介入することが
できなかった。やむを得ず臣従勢力が攻撃されるのを座視することになる。
(当然、信長は長宗我部に対して不快な思いを抱いただろう)
で、本願寺・毛利戦線に目途がついてから四国問題を取り上げることになる。
2.を見れば判るが、信長は当初は長宗我部の領土を認めようとした。実際に
当時の長宗我部の領土はこんなもの。あと讃岐を少々か。
つまり信長はこれまでの行いは不問にすると言ったわけだ。信長にしてみれば
譲歩ではある。その上で、信長に服従する意志があるのなら讃岐で切り取った
部分は三好に返却しろといった。信長にだって、従属する三好を保護する義務が
あるのだから、このあたりは退けない要求だったろう。
しかし長宗我部はけった。
その結果、長宗我部討伐が決定され、3.となった。
明智にしてみれば納得ができないような決定でもないし、信孝がどうこうする
以前の問題として、長宗我部の対応をみれば2.から3.への移行は当然といえる。
この決定を明智が不服としたというのなら光秀はそうとうのバカだし、ここまで
行き着く前に長宗我部を外交で抑えられなかった明智の不手際となる。それを
恨んだというのなら単なる逆恨みだそりゃ。
君の説は時空列をごちゃまぜにして背景を完全に無視しているよ。
66人間七七四年
2007/06/01(金) 21:46:55ID:md5tO0b0 信長が認めていたのは一条家を戴いた長宗我部氏の支配体制で、
一条氏が元親に追放されてからは関係が拗れてるとか。
一条氏が元親に追放されてからは関係が拗れてるとか。
67人間七七四年
2007/06/01(金) 22:29:46ID:lGJBdL84 >>65
ってか長宗我部って四国征伐時のときも秀吉側の降伏勧告を蹴ってなかったか?
もしそれが本当だとしたら、案外元親はプライド高いがゆえにあまり才能なかったのかもねw
もちろん、それなりにはあったと思うが、少なくとも信ヤボ革新のような、
総合能力で全武将中第6位なんてのは有り得ないだろうなw
ってか長宗我部って四国征伐時のときも秀吉側の降伏勧告を蹴ってなかったか?
もしそれが本当だとしたら、案外元親はプライド高いがゆえにあまり才能なかったのかもねw
もちろん、それなりにはあったと思うが、少なくとも信ヤボ革新のような、
総合能力で全武将中第6位なんてのは有り得ないだろうなw
68人間七七四年
2007/06/01(金) 22:51:26ID:MgujSOSn 長曽我部って北条以上に無茶してるんだな
何でなの?
何でなの?
69人間七七四年
2007/06/01(金) 22:56:54ID:BMVwLbV070人間七七四年
2007/06/01(金) 23:26:51ID:C8b+RBWC 【神戸】信孝公【当主】
永禄11年2月、信長が北伊勢に侵攻した際に、神戸城を本拠とした関一族の神戸友盛は信長に抵抗したが
支えきれずに信長の3男三七丸を養子にするという条件で降伏した。
当時三七丸は11歳、幸田彦右衛門が傳役として、その他、岡本太郎右衛門、坂仙斎、三宅権右衛門、
坂口縫殿助、山下三右衛門、末松吉左衛門、立木、河村以下の侍が添えられ、後に友盛の娘と婚約した。
また関一族の関氏・峯氏・国府氏・鹿伏兎氏らが与力となった。
しかし、男子がなかった友盛は以前から関盛信の子勝蔵(盛吉)を養子すると約束していたが
これが反故になってしまったので友盛、盛信ともに三七丸のことを快く思わず、粗略に扱った。
元亀2年正月、友盛夫妻が、年始の挨拶のため近江日野の蒲生家を訪れたとき
信長はこれを捕らえ沢城に隠居させ蒲生家に預けた。
この時、領地を検地し、神戸家の侍の所領を削り、尾張から来た侍に与えた。
そしてこれに抵抗する神戸具盛の孫、高岡城主山路弾正を高田孫右衛門に命じて誅殺して
神戸家の侍の粛清が行われ、その他120人の侍が追放された。引続き神戸家に仕えた者は480人。
これらを神戸480人衆と称したという。
山路の跡の高岡城には、信孝の異父兄小島兵部少輔が入れ置かれた。
元亀3年春頃、兄信忠・信雄と一緒に元服し、神戸三七信孝と号した。加冠の役は柴田勝家が務めたという。
神戸家当主として、神戸家の家臣だけでなく関一族をも摩下に置いた信孝だが
関家の当主関盛信は信孝に好意を持たず、とかくこれを軽んずる傾向があったという。
天正元年春、ついに盛信は信長の勘気を蒙り、蒲生賢秀に身柄を預けられた。これによって、関領の新城以下は信孝の領分とされた。
永禄11年2月、信長が北伊勢に侵攻した際に、神戸城を本拠とした関一族の神戸友盛は信長に抵抗したが
支えきれずに信長の3男三七丸を養子にするという条件で降伏した。
当時三七丸は11歳、幸田彦右衛門が傳役として、その他、岡本太郎右衛門、坂仙斎、三宅権右衛門、
坂口縫殿助、山下三右衛門、末松吉左衛門、立木、河村以下の侍が添えられ、後に友盛の娘と婚約した。
また関一族の関氏・峯氏・国府氏・鹿伏兎氏らが与力となった。
しかし、男子がなかった友盛は以前から関盛信の子勝蔵(盛吉)を養子すると約束していたが
これが反故になってしまったので友盛、盛信ともに三七丸のことを快く思わず、粗略に扱った。
元亀2年正月、友盛夫妻が、年始の挨拶のため近江日野の蒲生家を訪れたとき
信長はこれを捕らえ沢城に隠居させ蒲生家に預けた。
この時、領地を検地し、神戸家の侍の所領を削り、尾張から来た侍に与えた。
そしてこれに抵抗する神戸具盛の孫、高岡城主山路弾正を高田孫右衛門に命じて誅殺して
神戸家の侍の粛清が行われ、その他120人の侍が追放された。引続き神戸家に仕えた者は480人。
これらを神戸480人衆と称したという。
山路の跡の高岡城には、信孝の異父兄小島兵部少輔が入れ置かれた。
元亀3年春頃、兄信忠・信雄と一緒に元服し、神戸三七信孝と号した。加冠の役は柴田勝家が務めたという。
神戸家当主として、神戸家の家臣だけでなく関一族をも摩下に置いた信孝だが
関家の当主関盛信は信孝に好意を持たず、とかくこれを軽んずる傾向があったという。
天正元年春、ついに盛信は信長の勘気を蒙り、蒲生賢秀に身柄を預けられた。これによって、関領の新城以下は信孝の領分とされた。
71人間七七四年
2007/06/01(金) 23:58:15ID:ER9yI8M3 >>69
大名権力と下部豪族の軋轢というのはよく言われるが、例えば長宗我部と同じ
豪族レベル出身で典型的な豪族連合政権といわれた毛利氏は五カ国割譲講和を
成功?させている。吉川など反対派もいたが、その主張はあくまで割譲領土を
低く抑えるべしというもので、講和自体には反対はしていない。
まあ毛利氏の場合は、直接戦って戦力・国力差を豪族たちも承知していた、また
戦った末に力及ばず負けを認めたという点で、長宗我部とは異なるが。
戦いもせずに軍門に降るというのでは、そりゃあ影響は異なるだろう。
それでも、元親の外交は、織田に限らずかなり不信が多いシロモノだが。
「当人は負けを承知していたが、下からの突き上げで止む無く―」
とも言いづらいんだよね彼の場合。
大名権力と下部豪族の軋轢というのはよく言われるが、例えば長宗我部と同じ
豪族レベル出身で典型的な豪族連合政権といわれた毛利氏は五カ国割譲講和を
成功?させている。吉川など反対派もいたが、その主張はあくまで割譲領土を
低く抑えるべしというもので、講和自体には反対はしていない。
まあ毛利氏の場合は、直接戦って戦力・国力差を豪族たちも承知していた、また
戦った末に力及ばず負けを認めたという点で、長宗我部とは異なるが。
戦いもせずに軍門に降るというのでは、そりゃあ影響は異なるだろう。
それでも、元親の外交は、織田に限らずかなり不信が多いシロモノだが。
「当人は負けを承知していたが、下からの突き上げで止む無く―」
とも言いづらいんだよね彼の場合。
72人間七七四年
2007/06/02(土) 00:04:34ID:D5HBEjqs 元親記に元親公斎藤殿の事明智と相談
という記述があるぞ
誰も気づいてないが俺は発見した
という記述があるぞ
誰も気づいてないが俺は発見した
73人間七七四年
2007/06/03(日) 23:20:36ID:CHlYlcq+ 俺が>>72書きこんでから過疎ってる…
74人間七七四年
2007/06/03(日) 23:34:19ID:temp7VVD 今まで割と活気があったが、信長の息子のスレは基本的に過疎だよ
75人間七七四年
2007/06/04(月) 00:07:36ID:016/7RUd いや、詳細な続報がないとレスのしようがないわけで。
76人間七七四年
2007/06/04(月) 01:35:33ID:X1HKc2Gw 高野春秋に信孝が紀伊高野攻めの総大将として活躍している様が描かれているんだが
本当はどうなんだろ?
本当はどうなんだろ?
77人間七七四年
2007/06/04(月) 05:00:43ID:zAra4I66 本能寺の変で割を食ったのは、死者以外では、やっぱ信孝だよなあ。
讃岐一国はガチ。んで、三好康長が五年ぐらいで死ぬだろうから、
阿波もゲットで二カ国の太守。
伊予と土佐に分封されるだろう諸将も信孝の寄騎大名になるだろうから、
南海道の主になれただろうに・・・。
讃岐一国はガチ。んで、三好康長が五年ぐらいで死ぬだろうから、
阿波もゲットで二カ国の太守。
伊予と土佐に分封されるだろう諸将も信孝の寄騎大名になるだろうから、
南海道の主になれただろうに・・・。
79人間七七四年
2007/06/04(月) 11:56:29ID:zAra4I66 >>78
元親記がのっている戦国史料叢書(四国史料集)をちょうど借りてる。
元親記は寛永8年(1631)に長宗我部旧臣が、元親の33回忌を記念して書いたとある。
ってことで、元親の人物像について誉・褒が誇大な部分があるが、良質な史料とあるよ。
元親記がのっている戦国史料叢書(四国史料集)をちょうど借りてる。
元親記は寛永8年(1631)に長宗我部旧臣が、元親の33回忌を記念して書いたとある。
ってことで、元親の人物像について誉・褒が誇大な部分があるが、良質な史料とあるよ。
80人間七七四年
2007/06/04(月) 13:52:25ID:DnjI/aj481人間七七四年
2007/06/04(月) 14:27:26ID:DnjI/aj4 織田信長の子で言えば、信忠と信孝どっちが上だ?
どちらも戦死?だが
どちらも戦死?だが
82人間七七四年
2007/06/04(月) 16:55:42ID:txyeuyN3 圧倒的に信忠でしょ。
あの年齢で、あそこまで大規模な軍団を動かして武田を滅ぼした武将は
同年代に皆無だし、何より嫡男としてそのような教育を受けている。
信孝は一武将としての勇猛さは認められているし、嫡男教育などからは
遠い所で養育されたにもかかわらず、頭角を表してきたので、
改めて教育を施されている途中だったとは思う。
信雄は……駄目だろうな。
駄目すぎて秀吉にお目こぼししてもらった感じ。
信房(勝長)が、意外にも北条などの資料に、良き武将として残っているし、
武田方から頼られている書状もあるので、やはり二条城で死んだのが惜しまれる。
あの年齢で、あそこまで大規模な軍団を動かして武田を滅ぼした武将は
同年代に皆無だし、何より嫡男としてそのような教育を受けている。
信孝は一武将としての勇猛さは認められているし、嫡男教育などからは
遠い所で養育されたにもかかわらず、頭角を表してきたので、
改めて教育を施されている途中だったとは思う。
信雄は……駄目だろうな。
駄目すぎて秀吉にお目こぼししてもらった感じ。
信房(勝長)が、意外にも北条などの資料に、良き武将として残っているし、
武田方から頼られている書状もあるので、やはり二条城で死んだのが惜しまれる。
83人間七七四年
2007/06/04(月) 17:37:16ID:UK5blOk8 生来の資質はどっちが上かわからないけどね。
改めて見ると信長の息子たちはダメ息子ばかりってイメージがあるけどそうでもないな。
改めて見ると信長の息子たちはダメ息子ばかりってイメージがあるけどそうでもないな。
84人間七七四年
2007/06/04(月) 18:00:39ID:Ey/gN7Cn 窮地に陥ったときの垣間見えるのは資質と言えないか?
二条城で見事戦士した信忠
流言に惑わされて信澄を殺した信孝
資質的にも偉大な兄には適いそうに無いです・・・
二条城で見事戦士した信忠
流言に惑わされて信澄を殺した信孝
資質的にも偉大な兄には適いそうに無いです・・・
85人間七七四年
2007/06/04(月) 18:10:17ID:UK5blOk8 信澄が本当に明智と繋がっていたのかもしれんけどね。
まあ信忠のほうが上な可能性が高いとは思うが。
まあ信忠のほうが上な可能性が高いとは思うが。
86人間七七四年
2007/06/04(月) 21:20:19ID:DnjI/aj4 >>82よく分かった。詳しい説明感謝する
あとまた聞くが、そこそこ優秀な信忠、信孝の間の信雄はなぜ無能だったのだろうか?
信長の教育が悪かったのか
伊賀攻めの時叱りすぎて信雄が傷ついたとかは…無理やりだがないかな?
あとまた聞くが、そこそこ優秀な信忠、信孝の間の信雄はなぜ無能だったのだろうか?
信長の教育が悪かったのか
伊賀攻めの時叱りすぎて信雄が傷ついたとかは…無理やりだがないかな?
87人間七七四年
2007/06/04(月) 21:22:10ID:Ey/gN7Cn 信雄が商人気質の生駒衆に育てられたからという話はあるな
88人間七七四年
2007/06/04(月) 23:28:01ID:FMYNBszl 案外天下統一後に商業へ信雄を進出させて商業をも牛耳るつもりだった・・・・・ってことはないかw
89人間七七四年
2007/06/05(火) 00:22:53ID:kAdMbngz >>88それはいいなw
90人間七七四年
2007/06/05(火) 00:30:13ID:yFjZT+V2 辞世のセンスのなさに失笑。
プライドばっか高い駄目男だったんだろうなこいつ。
プライドばっか高い駄目男だったんだろうなこいつ。
91人間七七四年
2007/06/05(火) 02:41:22ID:aWfwJFQh 創作くらいも見抜けない馬鹿ってまだいたんだねwww
92人間七七四年
2007/06/05(火) 03:01:21ID:9d9+5vYe 自分は、辞世の句にここまで恨みを込められる信孝像が好きだけどなあw
93人間七七四年
2007/06/05(火) 07:54:56ID:RCDhyow+ 後年の創作だしな、創作した頃にはそういう信孝像ができてたのかもな。
94人間七七四年
2007/06/05(火) 13:15:44ID:IQKDAQEy >>93
創作というのはどこからきてるんだ? 同時代の複数資料に見られるのに
創作というのはどこからきてるんだ? 同時代の複数資料に見られるのに
95仙台藩百姓
2007/06/05(火) 15:03:48ID:SxRrsYP5 確かに、語呂だけ合わせたような安直で珍妙な句だお
教養のある人間が作ったとはとても思えないお
こんな失笑ものの句を遺したのは不可解だお(;^ω^)
創作によるものか、信孝がアホだったのか
今となっては分からんけど
教養のある人間が作ったとはとても思えないお
こんな失笑ものの句を遺したのは不可解だお(;^ω^)
創作によるものか、信孝がアホだったのか
今となっては分からんけど
96人間七七四年
2007/06/05(火) 18:12:02ID:CkV9Uv+P 仙台なんとかとかいう奴
いろんなスレで見かけるけどなんか刺々しいな
ほんと何様?
いろんなスレで見かけるけどなんか刺々しいな
ほんと何様?
98人間七七四年
2007/06/05(火) 22:56:40ID:IQKDAQEy >>95のほうがアホじゃね?
99奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/05(火) 23:08:54ID:5/Wxfvdt ネタでやってるんだから楽しんであげなよ。
100人間七七四年
2007/06/05(火) 23:33:28ID:IQKDAQEy 100なら桐野神先生が信孝を主人公にした小説を書いてくれる
101人間七七四年
2007/06/05(火) 23:39:46ID:suH/9NjF >95
そりゃあ冷めた目で見れば不可解に感じても仕方ないかも。
当の本人と同じ立場になってみるか、拠って考えてみないとな、
そりゃあ冷めた目で見れば不可解に感じても仕方ないかも。
当の本人と同じ立場になってみるか、拠って考えてみないとな、
102人間七七四年
2007/06/06(水) 01:56:59ID:syLifqUo 上手い下手はあるとはおもうが、
文字通り怨念以外篭ってないようなこの歌については
いちいち文芸批評を言う気は起きないな。
文字通り怨念以外篭ってないようなこの歌については
いちいち文芸批評を言う気は起きないな。
103仙台藩百姓
2007/06/06(水) 01:58:46ID:VcnDk5bo そうは言われても
どう見ても下手っぴな句だお(;^ω^)
漏れが見た歴史上の人物の句では
豊玉先生の句と信孝の辞世がトップ張れる下手くそ加減だお
豊玉先生の方は愛嬌があって下手でも良い句ではあるが
信孝のは面白くもなんともないお(;^ω^)
どう見ても下手っぴな句だお(;^ω^)
漏れが見た歴史上の人物の句では
豊玉先生の句と信孝の辞世がトップ張れる下手くそ加減だお
豊玉先生の方は愛嬌があって下手でも良い句ではあるが
信孝のは面白くもなんともないお(;^ω^)
104人間七七四年
2007/06/06(水) 02:44:30ID:gtN77NH1106人間七七四年
2007/06/06(水) 11:14:37ID:+1fKCHJu 信澄討伐について
『勢州軍記』では
光秀謀反により信孝、長秀、信澄は大坂城に入り、信孝、長秀は本丸、信澄は二
の丸を守っていたが、“信澄”の重臣朽木と匂坂が本丸の“長秀”に“信澄が謀
反を起こそうとしていることを告げ”、信孝、長秀が信澄を討ったことになって
いる
信孝が信澄に疑心を抱いて討ったというのはやはり秀吉サイドの反秀吉の信孝の
評をおとしめるために流布した作り話では?
『勢州軍記』では
光秀謀反により信孝、長秀、信澄は大坂城に入り、信孝、長秀は本丸、信澄は二
の丸を守っていたが、“信澄”の重臣朽木と匂坂が本丸の“長秀”に“信澄が謀
反を起こそうとしていることを告げ”、信孝、長秀が信澄を討ったことになって
いる
信孝が信澄に疑心を抱いて討ったというのはやはり秀吉サイドの反秀吉の信孝の
評をおとしめるために流布した作り話では?
107人間七七四年
2007/06/06(水) 12:08:29ID:gIv8gIly 権力争いだけじゃなく辞世の句でも秀吉に負けてるな
108人間七七四年
2007/06/06(水) 13:19:54ID:gtN77NH1 >>106 他の資料にも信澄討伐は見られないからなあ
しかし、じゃあ信澄はどうなったんだろ?
しかし、じゃあ信澄はどうなったんだろ?
109仙台藩百姓
2007/06/06(水) 13:59:12ID:VcnDk5bo 同じ娘婿の細川や筒井も本能寺の変は寝耳に水であったし
まして織田一族の信澄が共謀していたとは考え難いお
第一、諸説あるものの
これと言って信澄自身がおかしな行動とった様子はないお
信孝は勝手な疑惑で長秀と謀り信澄を殺害し
罪人として首を晒しておきながら
自分は勝家と組んで信雄・秀吉に喧嘩吹っ掛けて
負けたら恨み言を言う
最低な奴だお( ´ω`)
まして織田一族の信澄が共謀していたとは考え難いお
第一、諸説あるものの
これと言って信澄自身がおかしな行動とった様子はないお
信孝は勝手な疑惑で長秀と謀り信澄を殺害し
罪人として首を晒しておきながら
自分は勝家と組んで信雄・秀吉に喧嘩吹っ掛けて
負けたら恨み言を言う
最低な奴だお( ´ω`)
110人間七七四年
2007/06/06(水) 14:10:33ID:+1fKCHJu >>108
信澄自身、謀反すれば、桐野氏の『反太閤記』じゃないが、織田家の頭領に飛躍
できるチャンスがあったのも確か
密告した信澄重臣が真実を語っているのかはあの時点ではわからなかったと思う
しかし長秀と信孝にとってもし早急に対処せず、放置したら、こちらが討たれる
のは明白
例え信澄に叛意がなかったとしてもあの時点での長秀、信孝の判断を攻めること
はできないだろうと思いますね
信澄自身、謀反すれば、桐野氏の『反太閤記』じゃないが、織田家の頭領に飛躍
できるチャンスがあったのも確か
密告した信澄重臣が真実を語っているのかはあの時点ではわからなかったと思う
しかし長秀と信孝にとってもし早急に対処せず、放置したら、こちらが討たれる
のは明白
例え信澄に叛意がなかったとしてもあの時点での長秀、信孝の判断を攻めること
はできないだろうと思いますね
111人間七七四年
2007/06/06(水) 14:20:02ID:+1fKCHJu 『勢州軍記』はなかなか面白いですね
信孝が安土城建城の際にも事務方で有能な働きを見せていたことも書かれている
信孝が安土城建城の際にも事務方で有能な働きを見せていたことも書かれている
112人間七七四年
2007/06/06(水) 15:45:12ID:gtN77NH1113人間七七四年
2007/06/06(水) 22:55:50ID:syLifqUo 俺が見る中では、トップクラスに怨念バリバリの句なんでかなり好きなんだけどね。
114人間七七四年
2007/06/06(水) 23:32:24ID:AklNqRQM >>112
バカは構うなよ。君にもバカが伝染するぞ。
バカは構うなよ。君にもバカが伝染するぞ。
115仙台藩百姓
2007/06/07(木) 03:09:05ID:HlXt60zU そんな検討違いのレス読めと言われても困るお(;^ω^)
多聞院英俊の記録では
三七殿、丹羽五郎左、鉢屋の沙汰により七兵衛殿自害
とあるお
津田宗及の記録では
三七殿、五郎左衛門、七兵衛の首を堺にて晒す
とあるお
耶蘇会報の記録では
三七殿が安全を計るために七兵衛殿を討たんと考え
五郎左衛門と協議し七兵衛殿を追い詰め自害、又は殺害
とあるお
佐久間信栄の記録では
長秀が信孝を大坂に招き入れ信澄を殺す
とあるお
細川家の記録では
信澄のいる千貫櫓に信孝と長秀が攻撃を加え信澄は切腹する
とあるお
本願寺の記録では
三七殿、五郎左、七兵衛殿を生害す
とあるお
太閤記では
長秀の元に信澄配下の朽木、吉武の密告があり
信孝と協議して信澄を攻撃し自害させた
とあるお
信孝以外が信澄を殺したと言う記録があるなら
新説提唱の為に世に出すべきだお( ^ω^)
多聞院英俊の記録では
三七殿、丹羽五郎左、鉢屋の沙汰により七兵衛殿自害
とあるお
津田宗及の記録では
三七殿、五郎左衛門、七兵衛の首を堺にて晒す
とあるお
耶蘇会報の記録では
三七殿が安全を計るために七兵衛殿を討たんと考え
五郎左衛門と協議し七兵衛殿を追い詰め自害、又は殺害
とあるお
佐久間信栄の記録では
長秀が信孝を大坂に招き入れ信澄を殺す
とあるお
細川家の記録では
信澄のいる千貫櫓に信孝と長秀が攻撃を加え信澄は切腹する
とあるお
本願寺の記録では
三七殿、五郎左、七兵衛殿を生害す
とあるお
太閤記では
長秀の元に信澄配下の朽木、吉武の密告があり
信孝と協議して信澄を攻撃し自害させた
とあるお
信孝以外が信澄を殺したと言う記録があるなら
新説提唱の為に世に出すべきだお( ^ω^)
116人間七七四年
2007/06/07(木) 03:14:36ID:JJBla47o 百姓に論破されるスレ住民ワロスw
117人間七七四年
2007/06/07(木) 03:15:04ID:nd9O+Sci118人間七七四年
2007/06/07(木) 03:22:14ID:nd9O+Sci >>115 お前それだけの資料を出せるってなかなかの知識人だな
という事でこの件は俺が誤る。
信孝についての知識も人並み程度なのに
百姓を批判したことを詫びる。許せ
ただお前の信孝の辞世の句についての意見は許されることではない
という事でこの件は俺が誤る。
信孝についての知識も人並み程度なのに
百姓を批判したことを詫びる。許せ
ただお前の信孝の辞世の句についての意見は許されることではない
119人間七七四年
2007/06/07(木) 06:27:13ID:uVi7qqdV 武士偉そうだなw
120人間七七四年
2007/06/07(木) 13:47:29ID:nd9O+Sci 百姓はなかなかの逸物
121人間七七四年
2007/06/07(木) 14:03:25ID:e4ulDDKu 朽木って裏切ってばっかりだな。
122人間七七四年
2007/06/07(木) 16:05:58ID:Rf6OL0MR >>121 朽木氏の南北朝から幕末の家系図を見ると皆長寿で驚く
123人間七七四年
2007/06/07(木) 16:52:56ID:rroP4O+u 史板で信孝の家系の考察が出ていて、ちょっとその関係に驚いた。
124人間七七四年
2007/06/07(木) 17:03:32ID:nd9O+Sci >>123 スレタイ教えてくれ
125人間七七四年
2007/06/07(木) 17:21:00ID:rroP4O+u126人間七七四年
2007/06/07(木) 18:09:20ID:nd9O+Sci >>125 ありがと
なかなかレベルの高い話してるな
なかなかレベルの高い話してるな
127仙台藩百姓
2007/06/08(金) 11:45:40ID:CWHihkL/ (;^ω^)
128人間七七四年
2007/06/08(金) 13:02:02ID:QhFMZFzm 出た〜っ
自宅警備員乙
自宅警備員乙
129人間七七四年
2007/06/08(金) 13:56:35ID:8p8taF5f 偽者だろ
毛利武田スレで見たのとID違う
毛利武田スレで見たのとID違う
130人間七七四年
2007/06/08(金) 19:56:21ID:Qt15miQD >>120
自演乙
自演乙
132人間七七四年
2007/06/09(土) 19:00:44ID:AfwNJzNT133仙台藩百姓
2007/06/09(土) 20:43:24ID:3hnLZ469 記録が残ってないのに知るわけないお( ^ω^)
だいたい当時ていつだお
だいたい当時ていつだお
134奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/09(土) 20:51:22ID:AxlJCxDm 日本史板のスレが激しくくだらん流れに陥ってるな。
135奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/09(土) 21:05:51ID:AxlJCxDm ┌縁者─岡本秀成
│ ┌岡本良勝(?)───岡本良勝(?)
│ │
岡本氏─┴─女 信長
│ ├───信孝
├──信孝生母
│ ├───小嶋少輔
坂氏 ┌小嶋氏
┌───縁者───┘
│┌─────────── 女
││ ┌─川口宗定┴─川口宗吉
││ 大橋定広─┴─大橋定安──大橋重長
└┴───┐ │
│┏━←養女━━━━━┓│
小嶋信房ー┴┻─女 ┌───くらの方(他の側室の子供かも知れないが)
├──┴─信長
織田信秀
あっちに貼ってあったのを余分な線を抜いて作り直してみた。
│ ┌岡本良勝(?)───岡本良勝(?)
│ │
岡本氏─┴─女 信長
│ ├───信孝
├──信孝生母
│ ├───小嶋少輔
坂氏 ┌小嶋氏
┌───縁者───┘
│┌─────────── 女
││ ┌─川口宗定┴─川口宗吉
││ 大橋定広─┴─大橋定安──大橋重長
└┴───┐ │
│┏━←養女━━━━━┓│
小嶋信房ー┴┻─女 ┌───くらの方(他の側室の子供かも知れないが)
├──┴─信長
織田信秀
あっちに貼ってあったのを余分な線を抜いて作り直してみた。
136人間七七四年
2007/06/09(土) 21:11:09ID:AfwNJzNT >>133 また百姓現れたか、津田信澄の件では負けたがこれは譲れん
織田信孝の曾孫信章は松平光長に仕えたことが知られている、
ならば信孝の子から血縁関係を見出さねばならぬ。
ここからは俺の意見だから間違いかも知れんが、江戸時代旗本となった織田家の
子孫には織田信孝の子信豊から出た、と称するものが多々ある、
この信豊は信孝と小妻氏との間に生まれたとされる、出自がここまで現れているなら
信豊が実在していたと考えてもいいだろう。
少なくとも信孝に娘がいたことは事実なのである、天下を取った秀吉に謀反し滅ぼされた信孝の子
信豊が一時身を潜めていて、徳川の天下になってからまた現れたと俺は考える
分かったら消えろ百姓
織田信孝の曾孫信章は松平光長に仕えたことが知られている、
ならば信孝の子から血縁関係を見出さねばならぬ。
ここからは俺の意見だから間違いかも知れんが、江戸時代旗本となった織田家の
子孫には織田信孝の子信豊から出た、と称するものが多々ある、
この信豊は信孝と小妻氏との間に生まれたとされる、出自がここまで現れているなら
信豊が実在していたと考えてもいいだろう。
少なくとも信孝に娘がいたことは事実なのである、天下を取った秀吉に謀反し滅ぼされた信孝の子
信豊が一時身を潜めていて、徳川の天下になってからまた現れたと俺は考える
分かったら消えろ百姓
137奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/09(土) 21:12:51ID:AxlJCxDm 一番上の行はいらんぞそれ。
139仙台藩百姓
2007/06/09(土) 22:07:07ID:3hnLZ469 漏れは真面目に言ったつもりなんだけど(;^ω^)
それはそうと
その信章と信孝を結ぶ線が不明確である事が問題なんだお
信孝生存時の信茂信豊を示す文書でも発見されれば
確証が取れるのだおうけど
それと、普通に考えたら娘を人質に出すと言う事は
その時点では男子がいなかったと言う事だおね
こういう場合、男子(世子)を人質に出す方が一般的であるし
それはそうと
その信章と信孝を結ぶ線が不明確である事が問題なんだお
信孝生存時の信茂信豊を示す文書でも発見されれば
確証が取れるのだおうけど
それと、普通に考えたら娘を人質に出すと言う事は
その時点では男子がいなかったと言う事だおね
こういう場合、男子(世子)を人質に出す方が一般的であるし
140奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/09(土) 22:15:01ID:AxlJCxDm うまいこと言うね。
人質については、男児がいたとしても側室の子だった場合なら無理はないけど。
なにより信茂という人は織田じゃなく神戸でしか引っ掛かってこない。
人質については、男児がいたとしても側室の子だった場合なら無理はないけど。
なにより信茂という人は織田じゃなく神戸でしか引っ掛かってこない。
141人間七七四年
2007/06/09(土) 22:44:31ID:FYIJJa48 信孝の母親と信孝の息子は秀吉に磔にされなかったっけ。
143奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/09(土) 23:27:06ID:AxlJCxDm 生母を「なまはは」と読んだオレはきっと疲れてる。
144ソユーズ
2007/06/10(日) 00:01:43ID:IUO7O3Mi 継母→ままはは
の流れから「なまはは」と読んだと推測しましたw
の流れから「なまはは」と読んだと推測しましたw
145宇喜多直家信者
2007/06/10(日) 00:21:17ID:nmPnQpqi >>139 百姓の希望にこたえて系図を出す、これは旗本織田家に共通しているから
間違いではないだろう
神戸信孝−信茂−友信=信章−長経−(以下歴代)
百姓が信茂の存在を愚かにも信じられないというので、資料を出す。
神戸信茂は信孝死後宮崎城主の小幡播磨守に仕えた事が文書に見える、が小幡氏が没落
したため神原村に土着したと見える(小幡播磨守嶋八郎書状)。
信茂の子知信−信章は実在の人物であることに間違いないのであるが一応資料を出す。
信章は大瀁新田を開発したので知られる。
あと136に書いた信豊の子孫は川上家と名乗っている。あと旗本織田家も信豊から出た
とするものが多々ある。
上に書いたように信茂の子孫は高田藩士となり、新田開発を行ったことが知られる。
百姓もこれで反論できないであろう。これ読んで分かったら消えろ百姓。
これが旗本織田家に見られる共通した系図である。詳細を記すと、
織田信豊
間違いではないだろう
神戸信孝−信茂−友信=信章−長経−(以下歴代)
百姓が信茂の存在を愚かにも信じられないというので、資料を出す。
神戸信茂は信孝死後宮崎城主の小幡播磨守に仕えた事が文書に見える、が小幡氏が没落
したため神原村に土着したと見える(小幡播磨守嶋八郎書状)。
信茂の子知信−信章は実在の人物であることに間違いないのであるが一応資料を出す。
信章は大瀁新田を開発したので知られる。
あと136に書いた信豊の子孫は川上家と名乗っている。あと旗本織田家も信豊から出た
とするものが多々ある。
上に書いたように信茂の子孫は高田藩士となり、新田開発を行ったことが知られる。
百姓もこれで反論できないであろう。これ読んで分かったら消えろ百姓。
これが旗本織田家に見られる共通した系図である。詳細を記すと、
織田信豊
146宇喜多直家信者
2007/06/10(日) 00:22:55ID:nmPnQpqi >>145 ハンドルネームを替えるの忘れてた。
あと一番下のやつはミス、長文なので読みにくいかもしれんが許せ、
あと一番下のやつはミス、長文なので読みにくいかもしれんが許せ、
147奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/10(日) 00:30:15ID:oNo3qiLe おまいらだいすき。
148宇喜多直家信者
2007/06/10(日) 00:45:38ID:nmPnQpqi149奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/10(日) 00:46:28ID:oNo3qiLe 謝ってから。
150宇喜多直家信者
2007/06/10(日) 01:00:40ID:nmPnQpqi >>149 誤字の数々、スマン
151人間七七四年
2007/06/10(日) 01:09:05ID:SaqZ85K8 百姓にそこまで求めるのは酷というもの
152奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/10(日) 01:13:24ID:oNo3qiLe いや、トリップ付けたら大スター路線応援するよ。
153宇喜多直家信者
2007/06/10(日) 01:20:18ID:nmPnQpqi 百姓が消えたので少し寂しい俺…
154宇喜多直家信者
2007/06/10(日) 02:15:30ID:nmPnQpqi 織田信孝の母は坂氏である
155仙台藩百姓
2007/06/10(日) 03:01:15ID:6ofGAFoo だからさ
それでは信孝と信茂の関係が立証されないのだお
あくまで信茂や信章らが自称しているだけで
信孝側の記録として
信茂や信豊という男子がいたという事を示すものが
現時点では見つかっていないのだお( ^ω^)
それでは信孝と信茂の関係が立証されないのだお
あくまで信茂や信章らが自称しているだけで
信孝側の記録として
信茂や信豊という男子がいたという事を示すものが
現時点では見つかっていないのだお( ^ω^)
156宇喜多直家信者
2007/06/10(日) 03:17:36ID:nmPnQpqi >>155 百姓め、あいかわらず言いがかりをつけるな
小幡播磨守が嶋八郎宛に書いた文書に「神戸肥後(信茂)神原に住」と書いてある
と俺がいったが、その後に「天下取り信長公しかし孫肥後浪人とは、己を悔やみ」
みたいな(ちょっと違うかも知れんが)ことが書いてある。
これでいいだろ。分かったら自分の非を詫びて消えろ百姓
小幡播磨守が嶋八郎宛に書いた文書に「神戸肥後(信茂)神原に住」と書いてある
と俺がいったが、その後に「天下取り信長公しかし孫肥後浪人とは、己を悔やみ」
みたいな(ちょっと違うかも知れんが)ことが書いてある。
これでいいだろ。分かったら自分の非を詫びて消えろ百姓
157宇喜多直家信者
2007/06/10(日) 03:46:27ID:nmPnQpqi >>156このことは織田家について検証した本に書いてあった、
その本は図書館で読んでいたが、なぜか今はない、
ほかにもなんかの信豊、信茂資料があったのだが忘れた、
誰かこの本知らんか、タイトルは織田家一族の〜忘れた、
もう7、8年前になるんで、ただ信忠子の秀則とか、信長の有名じゃない
子たちとか織田家傍系について詳しく書かれていた。
その本は図書館で読んでいたが、なぜか今はない、
ほかにもなんかの信豊、信茂資料があったのだが忘れた、
誰かこの本知らんか、タイトルは織田家一族の〜忘れた、
もう7、8年前になるんで、ただ信忠子の秀則とか、信長の有名じゃない
子たちとか織田家傍系について詳しく書かれていた。
158仙台藩百姓
2007/06/10(日) 05:10:52ID:6ofGAFoo だからそれでは血縁を示す事にはならないと言っているのだお
全て自己申告によるものであって
自称の域を出る事はないお( ^ω^)
というか嶋八郎て何者?
全て自己申告によるものであって
自称の域を出る事はないお( ^ω^)
というか嶋八郎て何者?
159人間七七四年
2007/06/10(日) 08:13:18ID:pLOh2LMB 嶋八郎は何者か分からん
詳しく忘れたが帰農した人物
詳しく忘れたが帰農した人物
160人間七七四年
2007/06/10(日) 08:23:22ID:pLOh2LMB 小和田先生だったような気もするし違う人立ったかも試練
ただこれらの資料だけを見ても信豊信茂の存在が確かであるのは
さすがに百姓であれども信じるであろう。
ちなみに高田藩士となった信茂の系統には系図が残っている
俺ならこれだけの資料が残っているなら2人の存在を信じるが、百姓がこれだけ言っても信じんなら仕方ない。
百姓に俺の意見を押し付けることはできんが、俺としては出来る限りの事言ったと思う
ただこれらの資料だけを見ても信豊信茂の存在が確かであるのは
さすがに百姓であれども信じるであろう。
ちなみに高田藩士となった信茂の系統には系図が残っている
俺ならこれだけの資料が残っているなら2人の存在を信じるが、百姓がこれだけ言っても信じんなら仕方ない。
百姓に俺の意見を押し付けることはできんが、俺としては出来る限りの事言ったと思う
161宇喜多直家信者
2007/06/10(日) 14:51:50ID:nmPnQpqi ということでまた辞世の句についてでも語るか
162仙台藩百姓
2007/06/10(日) 15:39:00ID:6ofGAFoo 存在を信じないとは言ってないお( ^ω^)
信孝と信茂信豊の血縁が不明確であると言ってるだけだお
小幡氏との関連と言うのは初めて知ったけど
なかなか興味深い話しだお( ^ω^)
もしかしたら諱に何か隠されてる気がするお
信孝と信茂信豊の血縁が不明確であると言ってるだけだお
小幡氏との関連と言うのは初めて知ったけど
なかなか興味深い話しだお( ^ω^)
もしかしたら諱に何か隠されてる気がするお
163宇喜多直家信者
2007/06/10(日) 18:48:19ID:nmPnQpqi >>162 と言うことでこの件は解決した、
百姓も一部同調したのでついに許す。ただまた言いがかりつけてきたら反論するが、
百姓も一部同調したのでついに許す。ただまた言いがかりつけてきたら反論するが、
164人間七七四年
2007/06/10(日) 20:19:55ID:h9Elewfr コテは一人で充分。名無しに戻って。
166奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/10(日) 21:29:22ID:oNo3qiLe ふむう。
167人間七七四年
2007/06/11(月) 02:02:47ID:RQ5mpD3t 坂役叢話って大坂の陣を題材にした軍記物だよね
信孝自刃と豊臣氏滅亡が同じ5月だったので
徳川家康がこの辞世を引き合いに出して
大坂征討をおこしたとあるのが実に興味深い
信孝自刃と豊臣氏滅亡が同じ5月だったので
徳川家康がこの辞世を引き合いに出して
大坂征討をおこしたとあるのが実に興味深い
168宇喜多直家信者
2007/06/11(月) 02:14:34ID:vFRXuLvq169人間七七四年
2007/06/11(月) 02:15:43ID:vFRXuLvq >>168 しまったコテ消すの忘れた、すまぬ
170仙台藩百姓
2007/06/11(月) 12:40:20ID:pkqxo99+ 先生質問です( ^ω^)ノ
・主を内海の野間なれば
・主を内海の浦なれば
・尾張を待てや羽柴筑前
↑
この辺りの意味がいまいち分からないですお(;^ω^)
・主を内海の野間なれば
・主を内海の浦なれば
・尾張を待てや羽柴筑前
↑
この辺りの意味がいまいち分からないですお(;^ω^)
171人間七七四年
2007/06/11(月) 13:28:51ID:J24iM7Xx 源義朝 の件だよ
172人間七七四年
2007/06/11(月) 14:09:18ID:mYhheC18 だけど、信孝ってカワイソス〜
生まれたときから報告が遅れて?実質の次男が三男に。
本能寺がなかったら、三好家の養子になって 名実ともに 信孝>信雄
になったのに・・・
生まれたときから報告が遅れて?実質の次男が三男に。
本能寺がなかったら、三好家の養子になって 名実ともに 信孝>信雄
になったのに・・・
173宇喜多直家信者
2007/06/11(月) 14:53:11ID:vFRXuLvq >>170 百姓には自分で調べようという気がないのか、
「主を内海の野間なれば」 これは今一般的とされている句で「坂役叢話」に
収められている。野間は平治の乱で平家に敗れ落ち延びた源義朝が途中、
恩賞目当ての長田忠致・景致父子にに入浴中暗殺された場所(尾張国野間)。
信孝は秀吉を、主を私利により討った長田父子とかけているのである。
なかなかしゃれた句だと思わんか?
どうでもいいが戦国期家康に仕え、長久手の戦いでは池田恒興を討ち取った
永井直勝はこの長田父子の末商になる。
「主を内海の野間なれば」 これは今一般的とされている句で「坂役叢話」に
収められている。野間は平治の乱で平家に敗れ落ち延びた源義朝が途中、
恩賞目当ての長田忠致・景致父子にに入浴中暗殺された場所(尾張国野間)。
信孝は秀吉を、主を私利により討った長田父子とかけているのである。
なかなかしゃれた句だと思わんか?
どうでもいいが戦国期家康に仕え、長久手の戦いでは池田恒興を討ち取った
永井直勝はこの長田父子の末商になる。
174人間七七四年
2007/06/11(月) 14:57:05ID:OReryrBm >>173
何代も大将首挙げるとはすごいな
何代も大将首挙げるとはすごいな
175宇喜多直家信者
2007/06/11(月) 15:08:32ID:vFRXuLvq >>170 「主を内海の浦なれば 尾張を待てや羽柴筑前」
これは諸説ある信孝の辞世の句の中で俺が一番好きなやつだ。
出典は「氏郷記」「勢州軍記」、尾張を終わりとかけているのは一目瞭然。
ただこれは改ざんされたものであろう。
百姓が質問するので答えた、三七郎信孝の辞世の句についてであった。
これは諸説ある信孝の辞世の句の中で俺が一番好きなやつだ。
出典は「氏郷記」「勢州軍記」、尾張を終わりとかけているのは一目瞭然。
ただこれは改ざんされたものであろう。
百姓が質問するので答えた、三七郎信孝の辞世の句についてであった。
176人間七七四年
2007/06/11(月) 15:08:38ID:sheYXT56 裏切りでなければな。
昔より主を内海の浦なれば尾張を待てや羽柴筑前
↓
昔より主を討つ身の占れば終わりを待てや羽柴筑前
ただこの歌、「昔は長田今は山城」と対にしないとわかりにくいよね。
昔より主を内海の浦なれば尾張を待てや羽柴筑前
↓
昔より主を討つ身の占れば終わりを待てや羽柴筑前
ただこの歌、「昔は長田今は山城」と対にしないとわかりにくいよね。
177仙台藩百姓
2007/06/11(月) 16:33:19ID:pkqxo99+ 質問の仕方が悪かったお(;^ω^)
含まれている意味ではなく歌自体の意味の事だお
「主を内海の浦なれば」
主はアルジ=主君の意味だおね
内海の浦=地名だおね
内海は海岸沿いだから内海の浦
「主」「を」「内海の浦」「なれば」?
を?なれば?
何か文体が変な気が…
漏れも和歌の嗜みはないので意味解らんお(;^ω^)
含まれている意味ではなく歌自体の意味の事だお
「主を内海の浦なれば」
主はアルジ=主君の意味だおね
内海の浦=地名だおね
内海は海岸沿いだから内海の浦
「主」「を」「内海の浦」「なれば」?
を?なれば?
何か文体が変な気が…
漏れも和歌の嗜みはないので意味解らんお(;^ω^)
178仙台藩百姓
2007/06/11(月) 16:40:42ID:pkqxo99+ つまり何が言いたいかと言うと
「主をうつみのうらなれば」
が正しいのではないかと思うのだお(平仮名と言う事)
「主を討つ身の占なれば」が表の意味
討つ身の占なればに内海の浦をかけた歌なのではないかお
「主をうつみのうらなれば」
が正しいのではないかと思うのだお(平仮名と言う事)
「主を討つ身の占なれば」が表の意味
討つ身の占なればに内海の浦をかけた歌なのではないかお
180人間七七四年
2007/06/11(月) 16:53:06ID:sheYXT56 ただ追記しておくと。
「のま」は「野辺」に通じて、転じて「生を終える場所」と
読み取ることは可能なんだよね。
「のま」は「野辺」に通じて、転じて「生を終える場所」と
読み取ることは可能なんだよね。
181仙台藩百姓
2007/06/11(月) 17:18:06ID:pkqxo99+ 「尾張を待てや羽柴筑前」
は全く意味不明だお
秀吉が尾張を待つ
尾張が動くわけもなし( ;^ω^)
前の句の内海云々となにかかかっているのかお?
秀吉が移動している描写があるとか?
それとも尾張は尾張国以外の意味があるのかお?
長田親子処刑したのが尾張守とか言う奴だったとか
それとも長田が頼朝に尾張をくれる事を約束されて
それを待っていたが殺された事から
秀吉も尾張を待ってろと言う事かお?
でもとっくに分取られてるしそれでは滑稽すぎるおね
は全く意味不明だお
秀吉が尾張を待つ
尾張が動くわけもなし( ;^ω^)
前の句の内海云々となにかかかっているのかお?
秀吉が移動している描写があるとか?
それとも尾張は尾張国以外の意味があるのかお?
長田親子処刑したのが尾張守とか言う奴だったとか
それとも長田が頼朝に尾張をくれる事を約束されて
それを待っていたが殺された事から
秀吉も尾張を待ってろと言う事かお?
でもとっくに分取られてるしそれでは滑稽すぎるおね
183宇喜多直家信者
2007/06/11(月) 17:43:51ID:SewC4bXw 確かに「浦なれば」は「占れば」ともとれるが・・・
俺も和歌の知識がないので正直分からん・・・
百姓を批判しながらこれではなあ…
百姓すまぬ、お前の質問には答えられなかった。
和歌の知識があるやついないか?
俺も和歌の知識がないので正直分からん・・・
百姓を批判しながらこれではなあ…
百姓すまぬ、お前の質問には答えられなかった。
和歌の知識があるやついないか?
184人間七七四年
2007/06/11(月) 18:06:22ID:sheYXT56 占れば、じゃなくて「卜れば」と書けば良かったかな。
ニュアンス的には「多分バチがあたるよ」くらいな感じ。
尾張を待てや、は確かに無理があるね。
言葉がいかにも現代寄りくさいし、上の句と比較して下手すぎる。
これを辞世の余裕の無さと見るか創作と見るかは知らない。
ニュアンス的には「多分バチがあたるよ」くらいな感じ。
尾張を待てや、は確かに無理があるね。
言葉がいかにも現代寄りくさいし、上の句と比較して下手すぎる。
これを辞世の余裕の無さと見るか創作と見るかは知らない。
186仙台藩百姓
2007/06/11(月) 18:51:04ID:pkqxo99+ >>宇喜多、sheYXT56
意味的にはそんな感じだと思うけど
形がおかしいと思うのだお
「昔より主を内海の浦なれば 尾張(報い)を待てや羽柴筑前」
このまま読むと意味わからん
「内海」の単語は故事を指しているのだから
「昔より」と付くのも蛇足に感じるお
だが
「昔より主をうつみのうらなれば おわり(報い)を待てや羽柴筑前」
と平仮名で表せば形としても自然だし
意味の捉え方も変わってくる
漢字を当てるならsheYXT56の言うように
「昔より主を討つ身の卜なれば 終わり(報い)を待てや羽柴筑前」
とすべきであると思うお
そうすれば
「古来より主殺しの末路は決まっている、報いを待っていろ秀吉」
と言う歌に無理なくなるお
そしてその中にさりげなく故事を引っ掛けた
巧妙な句になると思うお
つまり表の意味と含まれた意味が
逆になってしまっているように思えてならない
漏れが陳腐さを感じた理由はそこなんだお
おわりを待てやの方は
尾張と終わりを引っ掛けてもさして意味がない
その手は桑名の焼き蛤じゃあるまいし
全体の雰囲気からして
辞世で無意味な言葉遊びするとは思えないお
報いを待てやの方が前の句から見ても合っているお
もっとも、あくまで素人の感覚だから
詳しい人に聞かないとよう分からんけどね( ´ω`)
意味的にはそんな感じだと思うけど
形がおかしいと思うのだお
「昔より主を内海の浦なれば 尾張(報い)を待てや羽柴筑前」
このまま読むと意味わからん
「内海」の単語は故事を指しているのだから
「昔より」と付くのも蛇足に感じるお
だが
「昔より主をうつみのうらなれば おわり(報い)を待てや羽柴筑前」
と平仮名で表せば形としても自然だし
意味の捉え方も変わってくる
漢字を当てるならsheYXT56の言うように
「昔より主を討つ身の卜なれば 終わり(報い)を待てや羽柴筑前」
とすべきであると思うお
そうすれば
「古来より主殺しの末路は決まっている、報いを待っていろ秀吉」
と言う歌に無理なくなるお
そしてその中にさりげなく故事を引っ掛けた
巧妙な句になると思うお
つまり表の意味と含まれた意味が
逆になってしまっているように思えてならない
漏れが陳腐さを感じた理由はそこなんだお
おわりを待てやの方は
尾張と終わりを引っ掛けてもさして意味がない
その手は桑名の焼き蛤じゃあるまいし
全体の雰囲気からして
辞世で無意味な言葉遊びするとは思えないお
報いを待てやの方が前の句から見ても合っているお
もっとも、あくまで素人の感覚だから
詳しい人に聞かないとよう分からんけどね( ´ω`)
187人間七七四年
2007/06/11(月) 19:06:26ID:sheYXT56 蒸し返しすまん。
尾張はともかく内海という地名まで出てくるこの句だが、
考えてみると秀吉も信孝もこの頃尾張にはいないし、二人とも内海には関係が薄い。
尾張はともかく内海という地名まで出てくるこの句だが、
考えてみると秀吉も信孝もこの頃尾張にはいないし、二人とも内海には関係が薄い。
188人間七七四年
2007/06/11(月) 19:14:43ID:Lt+ccwNI >>187
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/29aiti09.htm
によると
> 本能寺の変ののち、信長の後継争ひに敗れた織田信孝は、羽柴秀吉に追ひ詰められ、
> 岐阜城を捨てて、尾張の内海を経て野間まで敗走して、辞世の歌を残して自刃した。(天正十一年)
そうだから問題ないんじゃない?
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/29aiti09.htm
によると
> 本能寺の変ののち、信長の後継争ひに敗れた織田信孝は、羽柴秀吉に追ひ詰められ、
> 岐阜城を捨てて、尾張の内海を経て野間まで敗走して、辞世の歌を残して自刃した。(天正十一年)
そうだから問題ないんじゃない?
189宇喜多直家信者
2007/06/11(月) 20:12:18ID:vFRXuLvq190人間七七四年
2007/06/11(月) 20:24:53ID:VF5fz5TB ここもコテがのさばるだけのスレになった
191奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/11(月) 21:12:27ID:mGqjDZsE 内容読んで書き込んだらどうだ。
192人間七七四年
2007/06/11(月) 22:02:25ID:2jPqvkeG 結局、だから、この信孝の辞世の句はどう結論する訳?
194奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/11(月) 22:15:42ID:mGqjDZsE まとめるとそうなるね。
195人間七七四年
2007/06/11(月) 22:18:26ID:vFRXuLvq 質問に答えたので名無しに戻るか
196人間七七四年
2007/06/11(月) 22:31:37ID:2jPqvkeG いや・・・
だから、信孝の人格をこの句から推し量ってみて、結局どう結論するの?
あくまで句から見る人物像として、
・・・と言う意味だったんだよ、
色々な方面から信孝と言う人物像をつめていくんかと勝手にに思ってた〜ごめんね。
だから、信孝の人格をこの句から推し量ってみて、結局どう結論するの?
あくまで句から見る人物像として、
・・・と言う意味だったんだよ、
色々な方面から信孝と言う人物像をつめていくんかと勝手にに思ってた〜ごめんね。
197奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/11(月) 22:33:50ID:mGqjDZsE 句の作者が本人であろうとなかろうと。
激情が先に立つ性格であることは間違いないよね。
激情が先に立つ性格であることは間違いないよね。
198人間七七四年
2007/06/11(月) 22:45:57ID:NnIcxEtS 筑前煮がほんとに筑前発祥だか由来だか非常に疑わしいと思うんだよね
だってただの煮ものじゃん
だってただの煮ものじゃん
199宇喜多直家信者
2007/06/11(月) 23:51:24ID:vFRXuLvq >>196 関係ないが信孝が信雄を馬鹿にした句を読んでるよな、
詳しくは忘れたが、あの伊勢長島の大虐殺も見てるし、信長譲りの面も
あったかもしれぬ、
「三七郎ッ、そちは山岡景隆らを従え、近江より攻め入れよ」
ある小説の信長・信孝父子の会話
詳しくは忘れたが、あの伊勢長島の大虐殺も見てるし、信長譲りの面も
あったかもしれぬ、
「三七郎ッ、そちは山岡景隆らを従え、近江より攻め入れよ」
ある小説の信長・信孝父子の会話
200人間七七四年
2007/06/12(火) 03:01:00ID:Ns7rwnIs >>189
柴田勝家や前田利家にもそういう逸話があったような
柴田勝家や前田利家にもそういう逸話があったような
201宇喜多直家信者
2007/06/12(火) 05:27:31ID:ZAisVUtu202人間七七四年
2007/06/12(火) 12:59:05ID:m0Kjvqjg >>201
疑問ありまくりなんだが…
信頼度というのは武将としての信頼度か?
それなら武将として兵を有していた信忠・信孝・信雄・勝長
を比べるならともかく(秀勝を含めるべきかどうかは分からん)
信秀以下元服していない少年達の武将としての信頼度を計るなんて無理なのに
どういった根拠でお前さんは優劣をつけてるんだ?
武将に対する信頼度でも秀勝と勝長は共に武将としての経験は浅く、
あえて優劣をつけるとしたら一応武田征伐に参陣した経験がある勝長の方が上のような
気がするな。
なんで秀勝>勝長なんだ?秀勝の方が自身の手元に置いていた時間が長いからか?
疑問ありまくりなんだが…
信頼度というのは武将としての信頼度か?
それなら武将として兵を有していた信忠・信孝・信雄・勝長
を比べるならともかく(秀勝を含めるべきかどうかは分からん)
信秀以下元服していない少年達の武将としての信頼度を計るなんて無理なのに
どういった根拠でお前さんは優劣をつけてるんだ?
武将に対する信頼度でも秀勝と勝長は共に武将としての経験は浅く、
あえて優劣をつけるとしたら一応武田征伐に参陣した経験がある勝長の方が上のような
気がするな。
なんで秀勝>勝長なんだ?秀勝の方が自身の手元に置いていた時間が長いからか?
203宇喜多直家信者
2007/06/12(火) 14:40:03ID:ZAisVUtu204人間七七四年
2007/06/12(火) 14:58:05ID:ZAisVUtu 勝長ってかなりの若さで戦場に立ってるな、
信長のお気に入りだったのか、
信長のお気に入りだったのか、
205人間七七四年
2007/06/12(火) 15:12:42ID:rSC9FvPZ 信正は評価外?
206宇喜多直家信者
2007/06/12(火) 15:20:50ID:ZAisVUtu 信正は評価しようがないだろ
僧になり94歳で死んだと言うことしか知らん
僧になり94歳で死んだと言うことしか知らん
207人間七七四年
2007/06/12(火) 15:32:18ID:m0Kjvqjg >>203
年齢だけで信頼度に優劣をつけるのはいまいち説得力に欠けるよ
愛情度に多少の差はあっただろうけど信秀以下には信頼とかいう段階ではないと思うのだが?
>>204
武田家で過ごした時の知己や土地勘・情報などが役に立つかもしれない事と、
以前別のスレで誰かが言っていた事だが、
武田家で過ごした勝長が武田征伐に参加することで完全に武田家から脱して
織田家の人間に戻ったことを家中内外に示す為かもしれないね
勝長スレでは信長のお気に入りだという人が結構いるようだね↓
・武田家から返還されてすぐに重要な城である犬山城を与えられた
・信雄、信孝と違って織田姓・津田姓を許されていた
・勝長帰還時に信長の喜び、かわいがりようが信長公記に詳細に記されている
・濃姫の実子かもしれないという人もいる
年齢だけで信頼度に優劣をつけるのはいまいち説得力に欠けるよ
愛情度に多少の差はあっただろうけど信秀以下には信頼とかいう段階ではないと思うのだが?
>>204
武田家で過ごした時の知己や土地勘・情報などが役に立つかもしれない事と、
以前別のスレで誰かが言っていた事だが、
武田家で過ごした勝長が武田征伐に参加することで完全に武田家から脱して
織田家の人間に戻ったことを家中内外に示す為かもしれないね
勝長スレでは信長のお気に入りだという人が結構いるようだね↓
・武田家から返還されてすぐに重要な城である犬山城を与えられた
・信雄、信孝と違って織田姓・津田姓を許されていた
・勝長帰還時に信長の喜び、かわいがりようが信長公記に詳細に記されている
・濃姫の実子かもしれないという人もいる
209宇喜多直家信者
2007/06/12(火) 16:17:52ID:ZAisVUtu210宇喜多直家信者
2007/06/12(火) 16:25:38ID:ZAisVUtu >>208 織田信正
父は織田信長、母は原田直政の妹とされる。正室に織田信広の娘をもらっていたようだ。
尾張国古渡城主となっている微証が見える。
ただ戦国の世といえども父の兄の娘をもらうのには違和感がある気もするな、
しかし実在の人物というのは間違いないであろう。
このスレにも関係があるが、織田信孝と共に行動していたらしく、信孝切腹の際には
責任を問われたが許され、京都見性寺において僧になったと伝わる。
側室に村井貞運の娘ももらってる。
父は織田信長、母は原田直政の妹とされる。正室に織田信広の娘をもらっていたようだ。
尾張国古渡城主となっている微証が見える。
ただ戦国の世といえども父の兄の娘をもらうのには違和感がある気もするな、
しかし実在の人物というのは間違いないであろう。
このスレにも関係があるが、織田信孝と共に行動していたらしく、信孝切腹の際には
責任を問われたが許され、京都見性寺において僧になったと伝わる。
側室に村井貞運の娘ももらってる。
211仙台藩百姓
2007/06/12(火) 17:45:50ID:UthWNkku 信長の中では
信忠>信雄>信孝
の順番が絶対的なものであったと思うお( ^ω^)
信長は兄弟の順番をはっきりと区別していたお
信忠は別格として
信長の信雄と信孝に対する扱いを見ると
同い年ながら明らかに差がつけられているお
信孝を特別信頼や優遇をしようとしてたとは思えないお
信忠>信雄>信孝
の順番が絶対的なものであったと思うお( ^ω^)
信長は兄弟の順番をはっきりと区別していたお
信忠は別格として
信長の信雄と信孝に対する扱いを見ると
同い年ながら明らかに差がつけられているお
信孝を特別信頼や優遇をしようとしてたとは思えないお
212項龍 ◆Sw15bzOP8.
2007/06/12(火) 17:50:37ID:3hik4W3R そういえば実は信孝が先に生まれたけど母が卑賤の者だったから3男にされた
ってのは既出?
ってのは既出?
213人間七七四年
2007/06/12(火) 17:56:36ID:Jd5cSuU0 信孝の前に子供でもない信包や信澄が入ったりするしな。
214宇喜多直家信者
2007/06/12(火) 17:58:47ID:ZAisVUtu215項龍 ◆Sw15bzOP8.
2007/06/12(火) 17:59:35ID:3hik4W3R 確か20日ぐらいの差だっけ?
216宇喜多直家信者
2007/06/12(火) 18:01:17ID:ZAisVUtu217宇喜多直家信者
2007/06/12(火) 18:03:58ID:ZAisVUtu218人間七七四年
2007/06/12(火) 18:23:47ID:q1CqWydN >>212
信雄側の史料ではそうなってるな。
信雄側ではない資料では、卑賤の者とは書かれてない。
上の方に出てた系図からしても卑賤の者じゃないな。
20日くらいの差というのも、信雄側の史料。
そうではない史料では、そこまで離れているようには読み取れない。
信孝は4月4日生まれ説もある。
3〜4月あたりが誕生日なのは大体分かるから、
信雄もそのくらいの生まれなんだろうな。
信雄の生母の妊娠期間、計算が合わないよな。
信雄側の史料ではそうなってるな。
信雄側ではない資料では、卑賤の者とは書かれてない。
上の方に出てた系図からしても卑賤の者じゃないな。
20日くらいの差というのも、信雄側の史料。
そうではない史料では、そこまで離れているようには読み取れない。
信孝は4月4日生まれ説もある。
3〜4月あたりが誕生日なのは大体分かるから、
信雄もそのくらいの生まれなんだろうな。
信雄の生母の妊娠期間、計算が合わないよな。
219宇喜多直家信者
2007/06/12(火) 18:47:02ID:ZAisVUtu 人は十月十日で生まれてくる
220人間七七四年
2007/06/12(火) 18:54:25ID:q1CqWydN 信雄生母の前の夫死亡 弘治2年9月
通常四十九日過ぎてから側室になる
信忠誕生 弘治3年だけど、8月以降の出産じゃないとおかしい
信雄誕生 永禄元年5月以降じゃないと計算が合わない
通常四十九日過ぎてから側室になる
信忠誕生 弘治3年だけど、8月以降の出産じゃないとおかしい
信雄誕生 永禄元年5月以降じゃないと計算が合わない
222人間七七四年
2007/06/13(水) 08:42:19ID:ZRRT4x/7 >>220
弘治2年9月から四十九日がすんで側室になっても
1ヶ月は妊娠してないのを確かめるため(生理を確認するため)
閨には呼ばれない。
最初に閨に呼ばれるのは弘治2年12月くらいになる。
最短で妊娠しても、信忠が生まれるのは弘治3年9月。
産後1ヶ月は床上げしないから、最初に同衾するのが
超安産でだったとしても弘治3年10月。
当時は会陰切開などなくて産道の治りが悪いと
3ヶ月くらい性交渉なんて出来ない事もある。
仮に10月に閨のおつとめが出来てそこで妊娠しても
信雄誕生は永禄元年閏6月以降だろう(永禄元年は6月のあとに閏6月がある)。
信忠が嫡男だから、信長の胤とはっきりしてたはずだから
妊娠していないのを第三者に確認されてるのが普通だよな。
信孝の誕生日として伝わるのは、3〜4月だから、信雄もそのくらいだというなら
信忠の生母が信雄の生母とは違うのか、前の夫が弘治2年9月に死んだって言うのが
間違ってるかのどちらかじゃね?
弘治2年9月から四十九日がすんで側室になっても
1ヶ月は妊娠してないのを確かめるため(生理を確認するため)
閨には呼ばれない。
最初に閨に呼ばれるのは弘治2年12月くらいになる。
最短で妊娠しても、信忠が生まれるのは弘治3年9月。
産後1ヶ月は床上げしないから、最初に同衾するのが
超安産でだったとしても弘治3年10月。
当時は会陰切開などなくて産道の治りが悪いと
3ヶ月くらい性交渉なんて出来ない事もある。
仮に10月に閨のおつとめが出来てそこで妊娠しても
信雄誕生は永禄元年閏6月以降だろう(永禄元年は6月のあとに閏6月がある)。
信忠が嫡男だから、信長の胤とはっきりしてたはずだから
妊娠していないのを第三者に確認されてるのが普通だよな。
信孝の誕生日として伝わるのは、3〜4月だから、信雄もそのくらいだというなら
信忠の生母が信雄の生母とは違うのか、前の夫が弘治2年9月に死んだって言うのが
間違ってるかのどちらかじゃね?
223宇喜多直家信者
2007/06/13(水) 14:28:35ID:yliJtMH5 >>222 確かに一理ある、
224宇喜多直家信者
2007/06/13(水) 15:15:04ID:yliJtMH5 結局、良く分からんぞ
まあどっちにしろ信長の見る目でいうと、信雄の方が位も高いが、
まあどっちにしろ信長の見る目でいうと、信雄の方が位も高いが、
225人間七七四年
2007/06/13(水) 15:25:58ID:yjH/VQ3t 信孝のが才能はあったのは間違いない。
信雄は本能寺の変で親父が死んだ時、ぱにくって安土城燃やした説が
あるくらいじゃから。信長。。。ドンマイ。。。
信雄は本能寺の変で親父が死んだ時、ぱにくって安土城燃やした説が
あるくらいじゃから。信長。。。ドンマイ。。。
226宇喜多直家信者
2007/06/13(水) 15:29:19ID:yliJtMH5 >>225 それはデマだろ
227人間七七四年
2007/06/13(水) 15:38:38ID:yjH/VQ3t デマやろけど、流れるほどにアカン武将だった。
普通そんなデマ流れないだろ
普通そんなデマ流れないだろ
228宇喜多直家信者
2007/06/13(水) 17:47:55ID:yliJtMH5229虎之助
2007/06/13(水) 17:53:31ID:yjH/VQ3t うんうん。信孝を切腹まで追い詰めてから秀吉に利用されてること
に気付くからねぇ・・。
小牧長久手の講和はほんとにひどい。
に気付くからねぇ・・。
小牧長久手の講和はほんとにひどい。
230人間七七四年
2007/06/13(水) 18:13:07ID:fdIhIu0e231宇喜多直家信者
2007/06/13(水) 18:20:15ID:yliJtMH5 もう分からん。誰か小和田先生にでも聞きに行け、
週末国内2番目の蔵書量を誇る図書館行って調べてくる
週末国内2番目の蔵書量を誇る図書館行って調べてくる
232人間七七四年
2007/06/13(水) 18:25:04ID:zVV8Uvv4 信雄の母についての記述なあ。
三介と三七を混同しているように見えるのは俺だけかなあ。
三介と三七を混同しているように見えるのは俺だけかなあ。
233人間七七四年
2007/06/13(水) 18:36:41ID:fdIhIu0e ザッと調べただけなんだけど、信忠の生母候補に
久庵慶珠って崇福寺文書に名前が出てくる人物が挙ってるんだな。
同腹ではない可能性があるという事か。
そうなると、信雄>信孝はこの順番に生まれてきたか、
清洲で生まれた信雄の方が、熱田で生まれた信孝よりも報告が早く
披露されるのも早かったからそうなったのかってことか。
久庵慶珠って崇福寺文書に名前が出てくる人物が挙ってるんだな。
同腹ではない可能性があるという事か。
そうなると、信雄>信孝はこの順番に生まれてきたか、
清洲で生まれた信雄の方が、熱田で生まれた信孝よりも報告が早く
披露されるのも早かったからそうなったのかってことか。
234宇喜多直家信者
2007/06/13(水) 18:41:27ID:yliJtMH5 信長が絶倫すぎるゆえ混乱を招く、
信雄信孝だけじゃなく信秀信高信吉の順も変だしなあ…
信雄信孝だけじゃなく信秀信高信吉の順も変だしなあ…
235人間七七四年
2007/06/13(水) 18:49:23ID:fdIhIu0e >>234
だよなぁ。
信雄、信孝は数日の差と言われているからまだ分かるが
信高は天正4年生まれなのに、天正元年生まれの信吉や
天正2年生まれの信貞よりも席次が上なんだよな。
おまけに、信吉と信高って同腹だと言われてるんだろ?
同腹で数年も差があるのに、席次が覆るなんておかしいだろう。
幼名からすると、信秀と同腹の方がしっくりくるな。
だよなぁ。
信雄、信孝は数日の差と言われているからまだ分かるが
信高は天正4年生まれなのに、天正元年生まれの信吉や
天正2年生まれの信貞よりも席次が上なんだよな。
おまけに、信吉と信高って同腹だと言われてるんだろ?
同腹で数年も差があるのに、席次が覆るなんておかしいだろう。
幼名からすると、信秀と同腹の方がしっくりくるな。
236人間七七四年
2007/06/13(水) 18:49:44ID:zVV8Uvv4 いみなが同じ読みなのは問題ないよ
237宇喜多直家信者
2007/06/13(水) 19:00:16ID:yliJtMH5238人間七七四年
2007/06/13(水) 19:16:10ID:fdIhIu0e239宇喜多直家信者
2007/06/13(水) 19:47:54ID:yliJtMH5 生年と母親について(一般的な説)
長男信忠1557年生まれ、母には異説あるが井駒家宗の娘か。
次男信雄1558年生まれ、母は井駒家宗の娘。
三男信孝1558年3月7日生まれか?、母は坂氏といわれる。
四男秀勝1568年生まれ、母不明。
五男勝長1568年生まれ、どうでもいいが15歳で死んだとされるのに子供がいるとはどうしたことか。
六男信秀1571年生まれ、母は不明だが相当な身分の者あったと思われる。濃姫の子かもしれん。
七男信高1576年生まれ、母はお鍋の方。兄信秀とセットの幼名(小洞)。
八男信吉1573年生まれ、母はお鍋の方。幼名の酌はお鍋の方となぞらえたとも。
九男信貞1574年生まれ、母は土方雄久の娘とされるが、青山氏とも伝わる。
十男信好 生年不明、母も不明。
十一男長次 生年不明、母も不明。
母が不明なのは秀勝、勝長、信秀、信好、長次だが、ほかにも疑わしいのが多い。
信秀の母が相当な身分のもの、と書いたのは、信秀が侍従の冠位を授けられているから。
ただ俺は幼名から見るに信秀、信高は同腹に思える(つまり井駒氏)。
長男信忠1557年生まれ、母には異説あるが井駒家宗の娘か。
次男信雄1558年生まれ、母は井駒家宗の娘。
三男信孝1558年3月7日生まれか?、母は坂氏といわれる。
四男秀勝1568年生まれ、母不明。
五男勝長1568年生まれ、どうでもいいが15歳で死んだとされるのに子供がいるとはどうしたことか。
六男信秀1571年生まれ、母は不明だが相当な身分の者あったと思われる。濃姫の子かもしれん。
七男信高1576年生まれ、母はお鍋の方。兄信秀とセットの幼名(小洞)。
八男信吉1573年生まれ、母はお鍋の方。幼名の酌はお鍋の方となぞらえたとも。
九男信貞1574年生まれ、母は土方雄久の娘とされるが、青山氏とも伝わる。
十男信好 生年不明、母も不明。
十一男長次 生年不明、母も不明。
母が不明なのは秀勝、勝長、信秀、信好、長次だが、ほかにも疑わしいのが多い。
信秀の母が相当な身分のもの、と書いたのは、信秀が侍従の冠位を授けられているから。
ただ俺は幼名から見るに信秀、信高は同腹に思える(つまり井駒氏)。
240宇喜多直家信者
2007/06/13(水) 19:55:14ID:yliJtMH5 >>239 詳しく知りたい人は史板のほういったらいいと思うぞ、
なかなかレベルの高い話してる、
なかなかレベルの高い話してる、
241人間七七四年
2007/06/13(水) 20:01:27ID:fdIhIu0e >>239
>15歳で死んだとされるのに子供がいるとはどうしたことか
当時は12歳くらいで結婚するのも普通だから
別におかしくはないんじゃね?
>信秀、信高は同腹に思える(つまり井駒氏)
生駒?
生駒は1566年に死んでるだろ?
おまけに、信秀の所に濃姫の子供かもとか書いてて、
それはどういう事よ。
>15歳で死んだとされるのに子供がいるとはどうしたことか
当時は12歳くらいで結婚するのも普通だから
別におかしくはないんじゃね?
>信秀、信高は同腹に思える(つまり井駒氏)
生駒?
生駒は1566年に死んでるだろ?
おまけに、信秀の所に濃姫の子供かもとか書いてて、
それはどういう事よ。
242人間七七四年
2007/06/13(水) 20:06:46ID:yliJtMH5243人間七七四年
2007/06/13(水) 20:22:07ID:fdIhIu0e お鍋の前夫との子供の年齢と信秀はかぶるんじゃなかったか?
となると、信秀信高がセットで別の身分ある女性の子供。
信吉はお鍋と同居しているのが分かってるから鍋の子供だろうし
長次が幼名から見て鍋の子供かと言われているから
信吉と長次がセットの方がすっきりする。
そうすれば、鍋腹といわれているのに何故か席次が入れ替わっているという
不可思議な理由も理解できる。
鍋よりも身分の高い女性の子供なので、信高が信吉らより
優先されたと考えればいいだけだからな。
となると、信秀信高がセットで別の身分ある女性の子供。
信吉はお鍋と同居しているのが分かってるから鍋の子供だろうし
長次が幼名から見て鍋の子供かと言われているから
信吉と長次がセットの方がすっきりする。
そうすれば、鍋腹といわれているのに何故か席次が入れ替わっているという
不可思議な理由も理解できる。
鍋よりも身分の高い女性の子供なので、信高が信吉らより
優先されたと考えればいいだけだからな。
244宇喜多直家信者
2007/06/13(水) 23:52:00ID:rzzMP7mv245人間七七四年
2007/06/14(木) 02:44:30ID:fiTv0AJZ 百姓イラね
246宇喜多直家信者
2007/06/14(木) 03:07:46ID:Xh9z8D08 誰かこれらの疑問を一気に解決する百姓以外の勇者はおらんか
247人間七七四年
2007/06/14(木) 09:59:20ID:rvzeaItA 信秀が身分ある女性の子供というのは冠位からしてそうかなと思うし、
何より、信長の実父の名前をもらっている事からも、
何か有力な理由がある子供だった気はする。
勝長と伝わる、やはり生母の分からない子供にしても、
織田復帰後の署名は信房だから、信房という名前をもらっていたんだろう。
なのに、その子供の名前を信雄が勝良としている事からしても、
その名を与えた信雄からすると、都合の悪い出自だったのかもとも思える。
信孝の出自にしても、上に載ってた系図を見ると悪くないのに、悪いとされてきたし、
生母の分かっていない子供や、生母だとされている人物はいるが曖昧な子供は
信雄との絡みで考えてみた方がいいのかもしれないと思う。
信雄と同母とされてきた信忠も、調べてみるとどうも別の生母の可能性があるようだし。
信忠と信雄が同母で都合がいいのは、信雄の方だからな。
何より、信長の実父の名前をもらっている事からも、
何か有力な理由がある子供だった気はする。
勝長と伝わる、やはり生母の分からない子供にしても、
織田復帰後の署名は信房だから、信房という名前をもらっていたんだろう。
なのに、その子供の名前を信雄が勝良としている事からしても、
その名を与えた信雄からすると、都合の悪い出自だったのかもとも思える。
信孝の出自にしても、上に載ってた系図を見ると悪くないのに、悪いとされてきたし、
生母の分かっていない子供や、生母だとされている人物はいるが曖昧な子供は
信雄との絡みで考えてみた方がいいのかもしれないと思う。
信雄と同母とされてきた信忠も、調べてみるとどうも別の生母の可能性があるようだし。
信忠と信雄が同母で都合がいいのは、信雄の方だからな。
248宇喜多直家信者
2007/06/14(木) 17:28:16ID:vI+EjIFL249人間七七四年
2007/06/15(金) 01:32:23ID:pe+4o4OR とりあえず宇喜多直家信者はチラ裏に下書きしてからレスしろ
間違いが目立ち過ぎ
間違いが目立ち過ぎ
250宇喜多直家信者
2007/06/15(金) 01:49:49ID:1j+SlnNc >>249 確かにそうだ、これから気をつける
251人間七七四年
2007/06/15(金) 01:54:17ID:pe+4o4OR なにこの粘着厨、きもすぎ
252宇喜多直家信者
2007/06/15(金) 15:50:31ID:JuiYVIui 信澄しかり勝長しかり、津田性を名乗るやつが多いな。
津田信澄 「貴族織田と称せん事を憚って津田と名乗り」信長公記
1564年信澄元服して津田を称す。越前一向一揆、荒木攻め、槙尾寺焼討ち、
伊賀平定戦などに従軍する、1582年四国攻めのため住吉に着陣していたが、 家康接待のため大坂に戻っていたところ、本能寺の変が勃発。 明智光秀の女婿だったため信孝や丹羽長秀らに疑いをかけられ襲殺された。
津田信澄 「貴族織田と称せん事を憚って津田と名乗り」信長公記
1564年信澄元服して津田を称す。越前一向一揆、荒木攻め、槙尾寺焼討ち、
伊賀平定戦などに従軍する、1582年四国攻めのため住吉に着陣していたが、 家康接待のため大坂に戻っていたところ、本能寺の変が勃発。 明智光秀の女婿だったため信孝や丹羽長秀らに疑いをかけられ襲殺された。
253人間七七四年
2007/06/15(金) 16:51:25ID:gvYk5k0L 勝長は残っている書状などからも、織田源三郎信房だったようだけどな。
津田源三郎勝長っていうのは、どうしてそういう事にされたんだろうな?
津田源三郎勝長っていうのは、どうしてそういう事にされたんだろうな?
256宇喜多直家信者
2007/06/15(金) 17:31:23ID:JuiYVIui 言い方が悪かった
勝長は武田勝頼の養子になり勝をもらい勝長と名乗った
織田家に戻ってからは信房と名乗っていると信長公記にも書かれている、
なお信長公記には勝長(御坊)が元服する様子も書かれている、
勝長は武田勝頼の養子になり勝をもらい勝長と名乗った
織田家に戻ってからは信房と名乗っていると信長公記にも書かれている、
なお信長公記には勝長(御坊)が元服する様子も書かれている、
257人間七七四年
2007/06/15(金) 17:41:44ID:gvYk5k0L >>256
信長公記には信房を名乗ってるとは書かれてないよ。
禁制や書状から分かったんだよ。
それも、花押が一致するのが分かって勝長=信房だと分かった。
織田源三郎信房なのは分かったが、死亡後なぜ津田源三郎勝長という名前に
勝手に書き換えられてしまったのかという事が不思議だってこと。
寛政譜にも勝長で載っているが、それ以前に信雄は信房の子供に勝良という
名前を与えている。
その時点で、信房は勝長という名前に戻されていたと考えられる。
一体どうしてなんだろう?という疑問。
信長公記には信房を名乗ってるとは書かれてないよ。
禁制や書状から分かったんだよ。
それも、花押が一致するのが分かって勝長=信房だと分かった。
織田源三郎信房なのは分かったが、死亡後なぜ津田源三郎勝長という名前に
勝手に書き換えられてしまったのかという事が不思議だってこと。
寛政譜にも勝長で載っているが、それ以前に信雄は信房の子供に勝良という
名前を与えている。
その時点で、信房は勝長という名前に戻されていたと考えられる。
一体どうしてなんだろう?という疑問。
258人間七七四年
2007/06/15(金) 17:43:54ID:gvYk5k0L ちょっと言葉足らずだな。
犬山城主だった時に禁制を出していて、それが信房名で
それが勝長だというのは分かっていた。
また武田討伐時の、武田方からの助命嘆願の書状の返事に
花押が一致する信房があって、その経緯の関係で
織田源三郎信房が分かったということ。
犬山城主だった時に禁制を出していて、それが信房名で
それが勝長だというのは分かっていた。
また武田討伐時の、武田方からの助命嘆願の書状の返事に
花押が一致する信房があって、その経緯の関係で
織田源三郎信房が分かったということ。
259人間七七四年
2007/06/15(金) 17:44:19ID:JuiYVIui そこまでは分からん・・・
260人間七七四年
2007/06/15(金) 17:51:32ID:JuiYVIui 酷い意見だと思うが、津田だから勝長じゃないのか、
羽柴秀勝しかり、 織田一族のままならそのまま信房と名乗ったかもしれぬ、 酷い意見だとは思うが・・・
羽柴秀勝しかり、 織田一族のままならそのまま信房と名乗ったかもしれぬ、 酷い意見だとは思うが・・・
261人間七七四年
2007/06/15(金) 17:58:14ID:gvYk5k0L いや、ひどい意見とかは思わない。
ただ、死ぬ直前まで織田源三郎信房だったものが
死んだら津田源三郎勝長になってしまった理由が
よくわからないと思ってな。
ただ、死ぬ直前まで織田源三郎信房だったものが
死んだら津田源三郎勝長になってしまった理由が
よくわからないと思ってな。
262宇喜多八丈島主膳(280石)
2007/06/15(金) 19:40:21ID:1j+SlnNc 勝長の名乗り、御坊丸、津田源三郎、織田源三郎信房、法名林庭宗松、
勝長が織田家で元服した後から書状などを見る限り、みな織田源三郎信房に
なっている。織田家に返ってからは信房で通したようである。
しかし子には勝の一字(勝良)を信雄が与えてる…、
ただ勝良には加賀前田家に600石で仕えたという(諸士)記述ぐらいしか見つからん。
あと、今気づいたが津田源三郎とはあるが津田源三郎勝長(あるいは信房)と
書かれてる記述が見当たらんのだが…、誰か知らないか?
勝長が織田家で元服した後から書状などを見る限り、みな織田源三郎信房に
なっている。織田家に返ってからは信房で通したようである。
しかし子には勝の一字(勝良)を信雄が与えてる…、
ただ勝良には加賀前田家に600石で仕えたという(諸士)記述ぐらいしか見つからん。
あと、今気づいたが津田源三郎とはあるが津田源三郎勝長(あるいは信房)と
書かれてる記述が見当たらんのだが…、誰か知らないか?
263人間七七四年
2007/06/15(金) 19:54:42ID:gvYk5k0L ないと思う。
津田源三郎、または単に勝長。
だからそれを合わせて津田源三郎勝長と
後世の人間がいっているだけだ。
織田源三郎信房の名前なんて、
信長の子供を調べていれば知っているかも知れないが
普通はちょっと歴史に詳しくても、知らないだろうな。
信房を知っていても、禁制は知っているが、
書状ついては、知らない人間の方が多いだろう。
津田源三郎、または単に勝長。
だからそれを合わせて津田源三郎勝長と
後世の人間がいっているだけだ。
織田源三郎信房の名前なんて、
信長の子供を調べていれば知っているかも知れないが
普通はちょっと歴史に詳しくても、知らないだろうな。
信房を知っていても、禁制は知っているが、
書状ついては、知らない人間の方が多いだろう。
264人間七七四年
2007/06/15(金) 22:48:59ID:GlPMrSkQ 一つ疑問なんだが信長の六男信秀はいつ頃元服したの?
本能寺の時は数え年12だから元服は父の死後の可能性が高そうだけど、そうすると秀吉が力を持った時期に信秀を名乗ったことになるな。
宗家の秀信が秀吉の秀を上にもってきたり、蒲生氏郷(賦秀)みたいに秀吉を憚って改名したのもいるのに、信秀という秀が下につく名前を名乗るってのは変な気がする。
本能寺の時は数え年12だから元服は父の死後の可能性が高そうだけど、そうすると秀吉が力を持った時期に信秀を名乗ったことになるな。
宗家の秀信が秀吉の秀を上にもってきたり、蒲生氏郷(賦秀)みたいに秀吉を憚って改名したのもいるのに、信秀という秀が下につく名前を名乗るってのは変な気がする。
265中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y
2007/06/15(金) 23:23:06ID:BDSdddxZ なんで三七のスレで御坊の話題なんだよwww
信忠のとこでやれっつうの
信忠のとこでやれっつうの
266奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/15(金) 23:30:55ID:rhonvPVQ 庶子総合スレがあってもいいかもな。
267人間七七四年
2007/06/18(月) 01:12:18ID:0xkRsqEr 辞世の句や出生に関してはもういい
華々しい活躍について語ろうじゃないか
とりあえず神吉城攻めの武勇から始めようよ
華々しい活躍について語ろうじゃないか
とりあえず神吉城攻めの武勇から始めようよ
268人間七七四年
2007/06/18(月) 06:13:08ID:aCHbX2IW 信孝は光秀や信澄と組んで、秀吉・信雄を討つべきだったな。
269人間七七四年
2007/06/18(月) 07:55:40ID:7XIFc4z6 そんな先見の明はありえないんだぜ
270人間七七四年
2007/06/18(月) 09:21:51ID:aCHbX2IW 光秀が「この度の謀反は信孝様を織田家の当主とするためです」とか言ってそそのかしたら、乗ってこないかなぁ。
271人間七七四年
2007/06/18(月) 09:29:08ID:aCHbX2IW アホの信雄なら乗ってきそうだな。
光秀が信雄を安土城に迎え入れて、家督を相続させたら、秀吉も勝家も手が出せんだろw
光秀が信雄を安土城に迎え入れて、家督を相続させたら、秀吉も勝家も手が出せんだろw
272人間七七四年
2007/06/18(月) 09:46:52ID:z5EjXHhZ 三法師が本能寺の変で死んだら(といっても三法師が京都にいたかどうか確証は
ないが)
家康が信雄を織田家の家督を取るよう推挙するかも知れん
勝家は裏がないから信雄より有能な信孝を立てるのは目に見えている
その時、秀吉はどっちに付くか、それとも養子の勝長を立て独立するか
すると光秀が信澄を立てたりしたりしてw
ないが)
家康が信雄を織田家の家督を取るよう推挙するかも知れん
勝家は裏がないから信雄より有能な信孝を立てるのは目に見えている
その時、秀吉はどっちに付くか、それとも養子の勝長を立て独立するか
すると光秀が信澄を立てたりしたりしてw
273人間七七四年
2007/06/18(月) 09:55:06ID:L+pzCCRr 秀勝でしょ
274人間七七四年
2007/06/18(月) 14:56:16ID:8gSJGzu3 >>247
信秀の生母については、一説では稲葉氏ではないかといわれている。
(稲葉一鉄の縁者?)
それに信秀と信高の幼名が、大洞と小洞でどちらも実際に岐阜にある
地名らしい。生母は岐阜出身ではないか。と考えられる。
岐阜出身者だったら、稲葉氏でもおかしくない。身分が高いかどうかは
わからないが・・・
>>257 >>261
勝長は法名にしても変だし、信雄側が信忠と無理に同腹にしたのも意図的
にやったとしたら、勝長が織田家の正当な後継者であることを隠すためか
とも思われる。どうしても判明しない生母や、死後の扱いが変だと考える
と勝長が濃姫の実子である可能性もあるかなと。
それが都合悪かったのは信雄側なのかなと。
これまでの通説では、濃姫には実子がなかったといわれているけど、
御台出産記事や女の子が生まれている家系図もあるというし、信長の子供
はなんせ生母不詳の子が多いし、男子ならまだしも女子となれば、生母が
はっきりわかっている方が少ないので、可能性としてはないとは言えない。
信秀の生母については、一説では稲葉氏ではないかといわれている。
(稲葉一鉄の縁者?)
それに信秀と信高の幼名が、大洞と小洞でどちらも実際に岐阜にある
地名らしい。生母は岐阜出身ではないか。と考えられる。
岐阜出身者だったら、稲葉氏でもおかしくない。身分が高いかどうかは
わからないが・・・
>>257 >>261
勝長は法名にしても変だし、信雄側が信忠と無理に同腹にしたのも意図的
にやったとしたら、勝長が織田家の正当な後継者であることを隠すためか
とも思われる。どうしても判明しない生母や、死後の扱いが変だと考える
と勝長が濃姫の実子である可能性もあるかなと。
それが都合悪かったのは信雄側なのかなと。
これまでの通説では、濃姫には実子がなかったといわれているけど、
御台出産記事や女の子が生まれている家系図もあるというし、信長の子供
はなんせ生母不詳の子が多いし、男子ならまだしも女子となれば、生母が
はっきりわかっている方が少ないので、可能性としてはないとは言えない。
275人間七七四年
2007/06/19(火) 00:11:15ID:ldpELKVA ここは信孝スレ。
他で相手にされないからといって濃姫や勝長はスレ違いで迷惑だ。
よそでやってくれ。
他で相手にされないからといって濃姫や勝長はスレ違いで迷惑だ。
よそでやってくれ。
276人間七七四年
2007/06/19(火) 15:03:56ID:KgBqFC5P277人間七七四年
2007/06/19(火) 22:36:07ID:ttVOocI3278奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/19(火) 22:39:11ID:W2zlT1tZ もう少し話題が膨らむと思ったんだがなあ。
279人間七七四年
2007/06/20(水) 00:13:40ID:0/t2cZiE280人間七七四年
2007/06/20(水) 02:37:35ID:j/g0nPTL 信孝スレも信雄スレで信孝の話ばっかりだったからできたのに・・・。
281人間七七四年
2007/06/21(木) 18:06:29ID:+QfVmbfn しかし、この辞世は大好きだ。
282人間七七四年
2007/06/21(木) 19:57:31ID:PDadXZ9X 平安とかの時代だったら信孝は間違いなく怨霊扱いされたろうな。
283人間七七四年
2007/06/22(金) 02:04:33ID:YK9vMhIc まあ、恨みがそのまま残ったらまだしも、恨みの対象の秀吉の豊臣家は
見るも無残に報いを受けたんだから、怨念も浄化されたことであろう。
見るも無残に報いを受けたんだから、怨念も浄化されたことであろう。
284人間七七四年
2007/06/22(金) 10:27:24ID:oxdwpTsY 要は力量に合わせて信孝が北畠家の養子になって
信雄が神戸家の養子になっていれば、うまくいったかも
でも出生の序列は変えられないのか
信雄が神戸家の養子になっていれば、うまくいったかも
でも出生の序列は変えられないのか
285人間七七四年
2007/06/22(金) 20:12:00ID:Nj1OBdEq 北畠は名門なんで
織田家内で信忠に次ぐ信雄を出すのは最低限の礼儀
織田家内で信忠に次ぐ信雄を出すのは最低限の礼儀
286人間七七四年
2007/06/22(金) 20:27:48ID:H6Khe69F 北畠は木造らの補佐があったし長野は分部の補佐があったけど神戸は反目してたからな
蒲生と懇意にしておけば関もなびいたかもしれんが…
蒲生と懇意にしておけば関もなびいたかもしれんが…
287人間七七四年
2007/06/22(金) 23:29:28ID:CNdfUi0K だから、遠い血縁があった信孝を養子に出したんだろうな。
288人間七七四年
2007/06/23(土) 09:15:08ID:/fpQj6lw 母親の坂氏と神戸氏支族の坂氏が遠縁とする証拠はどこにあるのかな?
290宇喜多直家信者
2007/06/24(日) 19:51:24ID:FgrnJ3d0 3兄弟信忠信雄信孝の位
『信長公記』巻十四「御連枝の御衆」参照
「中将信忠卿、馬乗八十騎、美濃衆・尾張衆。北畠中将信雄、馬乗三十騎、伊勢衆。
織田上野守信兼、馬乗十騎。同三七信孝、馬乗十騎…」
織田信兼は織田信行の4男、つまり信孝は父の弟の子より位が低かったのだ。
信忠信雄には明らかに差をつけられている。
『信長公記』同じく巻十四
「中将信忠へ、作正宗。北畠中将信雄へ、作北野藤四郎。織田三七信孝公へ、
作しのぎ藤四郎。何れも御名物代過分の由候なり」
安土城において3兄弟に信長から脇差が与えられたときの記録。やはり兄弟で
差があるのが分かる。ちなみにこの時(上の騎位も同じだが)信忠25歳、信雄24歳、
信孝24歳で、年齢にはほとんど差がない。
『信長公記』巻十四「御連枝の御衆」参照
「中将信忠卿、馬乗八十騎、美濃衆・尾張衆。北畠中将信雄、馬乗三十騎、伊勢衆。
織田上野守信兼、馬乗十騎。同三七信孝、馬乗十騎…」
織田信兼は織田信行の4男、つまり信孝は父の弟の子より位が低かったのだ。
信忠信雄には明らかに差をつけられている。
『信長公記』同じく巻十四
「中将信忠へ、作正宗。北畠中将信雄へ、作北野藤四郎。織田三七信孝公へ、
作しのぎ藤四郎。何れも御名物代過分の由候なり」
安土城において3兄弟に信長から脇差が与えられたときの記録。やはり兄弟で
差があるのが分かる。ちなみにこの時(上の騎位も同じだが)信忠25歳、信雄24歳、
信孝24歳で、年齢にはほとんど差がない。
291宇喜多直家信者
2007/06/24(日) 19:52:50ID:FgrnJ3d0 >>290 失礼、信兼より位が低いのではなく同じであった、すまぬ、
292奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/06/24(日) 19:59:34ID:5EfsGpIX のぶかねは信長の弟なわけで。
甥は信澄やん。
甥は信澄やん。
293人間七七四年
2007/06/24(日) 21:08:17ID:ty2phnS4294人間七七四年
2007/06/24(日) 21:17:48ID:ty2phnS4 訂正。織田信包の「信兼」は誤記というより異字表記だった。
295宇喜多直家信者
2007/06/24(日) 21:43:11ID:FgrnJ3d0297人間七七四年
2007/06/25(月) 22:03:49ID:dCvtVv+i >>296
そうだよ。坂氏も鹿伏兎氏も神戸氏も関氏を宗家とする庶流。
信孝の家老だった岡本良勝の家から坂氏に嫁いだ女性がいて、
それが坂氏の母親だといわれている。
岡本氏も尾張で土着していた有力豪族で織田家とは代々諍いの多かった
関係だったから、信孝は岡本家と織田家との掛け橋でもあったんだろう。
信雄みたいに織田家の有力家臣を伴っての養子入りではなかったけど、
信孝が縁者であったことから、敵に警戒させずに信孝の身内で固めた側近を
つけて入り込み、頃合いをみて一気に乗っ取りを図ったんだと思う。
そうだよ。坂氏も鹿伏兎氏も神戸氏も関氏を宗家とする庶流。
信孝の家老だった岡本良勝の家から坂氏に嫁いだ女性がいて、
それが坂氏の母親だといわれている。
岡本氏も尾張で土着していた有力豪族で織田家とは代々諍いの多かった
関係だったから、信孝は岡本家と織田家との掛け橋でもあったんだろう。
信雄みたいに織田家の有力家臣を伴っての養子入りではなかったけど、
信孝が縁者であったことから、敵に警戒させずに信孝の身内で固めた側近を
つけて入り込み、頃合いをみて一気に乗っ取りを図ったんだと思う。
298人間七七四年
2007/06/26(火) 06:25:40ID:8/LLpQKC 関氏の中の坂氏から信孝の母が出ていたのであれば
神戸友盛や関盛信が信孝を疎んじたのが頷けない。
ちなみに加太定長の舎弟蔵人定住、縫殿介が坂氏を称した。
永録12年の信長の第3次伊勢侵攻に関盛信、盛重、加太定長、坂定住らは路地を塞ぎに出て抵抗した。
その後、一族の神戸友盛が信長の三男信孝を養子に迎えて和睦した結果、関一族は信長の傘下に入ることとなった。
このとき、定長も関氏とともに織田軍と講和している。
元亀元年6月に浅井長政が兵を起こすと、定長嫡子定心は鹿伏兎城を弟定義と叔父坂定住に託して江州に赴き加勢。
同28日姉川の合戦において佐々成政の軍と激戦し、さらに酒井忠次、小笠原長忠の軍と格闘して遂に討死した。
長島一揆が起こると関、加太両家はこれに通じたため信長は一揆平定後に両家を処罰した。
関盛信は日野に幽閉、所領を神戸信孝に与え、また加太定義は加太一族中で唯一長島一揆に加担しなかったとして
鹿伏兎城を安堵、所領は鹿伏兎郷のみに削られた。
なお嫡流の定心の子四郎、六郎兄弟は長島一揆に参加して氏家ト全を討ち取るも共に戦死。
とまあ、嫡流も庶家も織田家に敵対している。信孝の母の実家が坂氏とはとても思えない。
信孝の母は寛政譜等の系図には坂氏の女とあるが、一豊公御武功記には二宮一楽斎が織田三七信孝母方の祖父とある。
なのでこの一楽斎の男が坂氏を称したのか、又はもう1人の女が(別の)坂氏に嫁いだと思われる。
神戸友盛や関盛信が信孝を疎んじたのが頷けない。
ちなみに加太定長の舎弟蔵人定住、縫殿介が坂氏を称した。
永録12年の信長の第3次伊勢侵攻に関盛信、盛重、加太定長、坂定住らは路地を塞ぎに出て抵抗した。
その後、一族の神戸友盛が信長の三男信孝を養子に迎えて和睦した結果、関一族は信長の傘下に入ることとなった。
このとき、定長も関氏とともに織田軍と講和している。
元亀元年6月に浅井長政が兵を起こすと、定長嫡子定心は鹿伏兎城を弟定義と叔父坂定住に託して江州に赴き加勢。
同28日姉川の合戦において佐々成政の軍と激戦し、さらに酒井忠次、小笠原長忠の軍と格闘して遂に討死した。
長島一揆が起こると関、加太両家はこれに通じたため信長は一揆平定後に両家を処罰した。
関盛信は日野に幽閉、所領を神戸信孝に与え、また加太定義は加太一族中で唯一長島一揆に加担しなかったとして
鹿伏兎城を安堵、所領は鹿伏兎郷のみに削られた。
なお嫡流の定心の子四郎、六郎兄弟は長島一揆に参加して氏家ト全を討ち取るも共に戦死。
とまあ、嫡流も庶家も織田家に敵対している。信孝の母の実家が坂氏とはとても思えない。
信孝の母は寛政譜等の系図には坂氏の女とあるが、一豊公御武功記には二宮一楽斎が織田三七信孝母方の祖父とある。
なのでこの一楽斎の男が坂氏を称したのか、又はもう1人の女が(別の)坂氏に嫁いだと思われる。
299人間七七四年
2007/06/26(火) 07:28:21ID:8/LLpQKC >>293
織田信包は信孝には仕えていない。信孝と同じく連枝衆の一員。
主に信忠の下で連戦しており、越前一揆討伐戦では信雄と組んだり
伊賀攻めにおいては信雄の指揮下に入っている。
浮田信者もそうだが誤りが目立つな。
織田信包は信孝には仕えていない。信孝と同じく連枝衆の一員。
主に信忠の下で連戦しており、越前一揆討伐戦では信雄と組んだり
伊賀攻めにおいては信雄の指揮下に入っている。
浮田信者もそうだが誤りが目立つな。
300人間七七四年
2007/06/26(火) 07:51:37ID:8/LLpQKC と、人のことを言っていたら自身も誤っていた。
>>298
>なのでこの一楽斎の男が坂氏を称したのか、又はもう1人の女が(別の)坂氏に嫁いだと思われる。
信孝の母方の祖父が二宮一楽斎と言ってるのだから、男なわけないよね。
>>298
>なのでこの一楽斎の男が坂氏を称したのか、又はもう1人の女が(別の)坂氏に嫁いだと思われる。
信孝の母方の祖父が二宮一楽斎と言ってるのだから、男なわけないよね。
301人間七七四年
2007/06/26(火) 08:30:06ID:xxoK8I24 >>298 岡本氏と組んで早々に庶流の坂氏は一門を裏切って織田家にくだっていたからだよ。
だから坂氏はそのための恭順の証としての人質代わりの側室となったのだと思う。
坂氏は一門ではあるけど、初代か2代目程度の家柄だし、一門内では出世を
見込めないから、織田に寝返ったんだろ。
一門を裏切り、織田家サイドのものとして神戸家に乗り込んできたのだから
信孝や側近の坂氏の縁者たちへの風当たりが強かったのは当たり前だ。
特に本家の関氏にしてみれば、庶家の神戸家の台頭も苦々しく思っていたところに
そこに送り込まれたのが信長の傀儡みたいな嫡養子なんだから、
素直に受け入れるわけがない。
だから坂氏はそのための恭順の証としての人質代わりの側室となったのだと思う。
坂氏は一門ではあるけど、初代か2代目程度の家柄だし、一門内では出世を
見込めないから、織田に寝返ったんだろ。
一門を裏切り、織田家サイドのものとして神戸家に乗り込んできたのだから
信孝や側近の坂氏の縁者たちへの風当たりが強かったのは当たり前だ。
特に本家の関氏にしてみれば、庶家の神戸家の台頭も苦々しく思っていたところに
そこに送り込まれたのが信長の傀儡みたいな嫡養子なんだから、
素直に受け入れるわけがない。
302人間七七四年
2007/06/26(火) 15:27:31ID:MEEpsfpz303人間七七四年
2007/06/26(火) 19:39:09ID:OJ/+2Xmz304人間七七四年
2007/06/26(火) 19:53:08ID:OJ/+2Xmz とりあえず>>301には「岡本氏と組んで早々に庶流の坂氏は一門を裏切って織田家にくだっていたから」を証明してほしい
坂定住、縫殿介しか名前が知れてないのに誰が信長に下ったかその文献を教えて欲しいものだ
話は変わるが岡本良勝は熱田神宮の神官、宮司でない。これは熱田神宮の文庫を訪れれば知れる
坂定住、縫殿介しか名前が知れてないのに誰が信長に下ったかその文献を教えて欲しいものだ
話は変わるが岡本良勝は熱田神宮の神官、宮司でない。これは熱田神宮の文庫を訪れれば知れる
305人間七七四年
2007/06/26(火) 20:11:24ID:xxoK8I24 >>303 よく読んだよ。
坂氏は一家だけじゃない。
家系図を見る限り2家あったな。それ以外もあったかもしれん。
兄弟、親子だって敵味方にわかれる時代だから、
親族が反織田だからってなんだ?
織田家の家臣だって元は敵方で嫡男や娘を人質に差し出して投降して
のちに織田家で重用されているものがたくさんいるじゃん。
信長の側室が公になってきたのは道三死後。国譲状をもらって
美濃の後継者としての資格を得てからだ。尾張統一を見据えて外にも目を
向けた時期と一致する。その時期から人質代わりの側室が増えたことに
なんの不思議もない。生駒も政治がらみの人質兼側室だしな。
坂氏と姻戚関係にある岡本氏を介して織田家への従属を約束する代わりに
坂氏が娘を差し出したんだろ。岡本氏が寝返りをすすめたのか、
あるいは坂氏の方から岡本氏経由で寝返りを申し出たのかはしらんが。
それに鹿伏兎家庶流の坂氏の家系図にも載っている坂口縫殿助が
信孝が神戸家に入った時守役に一緒についてきてる。
もちろん生母の一族だからだろ。
守役や側近は生母の実家を重用する慣習があるから、そう考えるのが自然。
逆にここまで信孝氏生母は鹿伏兎庶流の坂氏一族の女性だと思われる根拠があるのに、
別の坂氏とは一体どこの坂氏?
坂氏は一家だけじゃない。
家系図を見る限り2家あったな。それ以外もあったかもしれん。
兄弟、親子だって敵味方にわかれる時代だから、
親族が反織田だからってなんだ?
織田家の家臣だって元は敵方で嫡男や娘を人質に差し出して投降して
のちに織田家で重用されているものがたくさんいるじゃん。
信長の側室が公になってきたのは道三死後。国譲状をもらって
美濃の後継者としての資格を得てからだ。尾張統一を見据えて外にも目を
向けた時期と一致する。その時期から人質代わりの側室が増えたことに
なんの不思議もない。生駒も政治がらみの人質兼側室だしな。
坂氏と姻戚関係にある岡本氏を介して織田家への従属を約束する代わりに
坂氏が娘を差し出したんだろ。岡本氏が寝返りをすすめたのか、
あるいは坂氏の方から岡本氏経由で寝返りを申し出たのかはしらんが。
それに鹿伏兎家庶流の坂氏の家系図にも載っている坂口縫殿助が
信孝が神戸家に入った時守役に一緒についてきてる。
もちろん生母の一族だからだろ。
守役や側近は生母の実家を重用する慣習があるから、そう考えるのが自然。
逆にここまで信孝氏生母は鹿伏兎庶流の坂氏一族の女性だと思われる根拠があるのに、
別の坂氏とは一体どこの坂氏?
306人間七七四年
2007/06/26(火) 21:20:52ID:OJ/+2Xmz それほど根拠があるならなぜ勢州軍記にその記載がないのかな?
307人間七七四年
2007/06/26(火) 21:57:36ID:xxoK8I24 伊勢軍記には信孝の守役に岡本良勝、坂仙斎、坂口縫殿介〜って書いてあるじゃん。
坂口縫殿介と坂仙斎を同一人物とする坂家家系図も見たことあるし、
兄弟とする家系図も見たことがある。
つまり、どっちにしても鹿伏兎家庶流の坂氏ということだ。
君の言うように坂氏が反信長なら、なぜ信孝の側近に一族のものがいるのかな?
それより君の主張する信孝生母の坂氏はどこの坂氏なの?
坂口縫殿介と坂仙斎を同一人物とする坂家家系図も見たことあるし、
兄弟とする家系図も見たことがある。
つまり、どっちにしても鹿伏兎家庶流の坂氏ということだ。
君の言うように坂氏が反信長なら、なぜ信孝の側近に一族のものがいるのかな?
それより君の主張する信孝生母の坂氏はどこの坂氏なの?
308人間七七四年
2007/06/26(火) 22:17:32ID:xxoK8I24 >>298
二宮一楽斎って一説には千代の祖父といわれる人物じゃなかったか?
ということは、信孝とは従兄妹どうしになるってことだろ?
そのわりには信孝と千代や一豊との接点がなくねぇ?
去年の大河だったら、従兄の信孝のために千代が暗躍しそうだけどな。
二宮一楽斎って一説には千代の祖父といわれる人物じゃなかったか?
ということは、信孝とは従兄妹どうしになるってことだろ?
そのわりには信孝と千代や一豊との接点がなくねぇ?
去年の大河だったら、従兄の信孝のために千代が暗躍しそうだけどな。
310人間七七四年
2007/06/26(火) 23:50:12ID:W3MAnyEm >>309
弟の信包と信行の子の信兼の区別がついてないんじゃないの?
弟の信包と信行の子の信兼の区別がついてないんじゃないの?
311人間七七四年
2007/06/26(火) 23:51:09ID:OJ/+2Xmz >>301の説は結果論ありきの君の妄想でしかないよ
坂縫殿介と坂口縫殿介が同一人物とは強引なこじつけだし
関一族の坂氏がまだ尾張を今川に侵食されていた織田家に仕えるなんて何か確証はあるの?
それから坂仙斎は北畠家の侍医だった説もあるな
神戸氏の末裔である勢州軍記の作者が記載していない以上、坂氏との関係は不明だし推量の域を出ない
家系図の話は初耳、どこに行けば見れるのか教えて欲しいものだ
別の坂氏についてはまた文献が見つかったら報告するわ
坂縫殿介と坂口縫殿介が同一人物とは強引なこじつけだし
関一族の坂氏がまだ尾張を今川に侵食されていた織田家に仕えるなんて何か確証はあるの?
それから坂仙斎は北畠家の侍医だった説もあるな
神戸氏の末裔である勢州軍記の作者が記載していない以上、坂氏との関係は不明だし推量の域を出ない
家系図の話は初耳、どこに行けば見れるのか教えて欲しいものだ
別の坂氏についてはまた文献が見つかったら報告するわ
312人間七七四年
2007/06/26(火) 23:55:24ID:OJ/+2Xmz313人間七七四年
2007/06/27(水) 02:33:15ID:W2Yh/H36 >>310
ごめん、確かに区別がついてなかった
話の流れから新八郎信兼が出てくるとは思わなかった
ところでこの信兼は信孝に仕え信孝に殉じたとあるけど、兄を殺されてるのによく仕える気になったよな
で、仕えたのはいつ頃からなんだろ?知っている人がいたら教えてください
ごめん、確かに区別がついてなかった
話の流れから新八郎信兼が出てくるとは思わなかった
ところでこの信兼は信孝に仕え信孝に殉じたとあるけど、兄を殺されてるのによく仕える気になったよな
で、仕えたのはいつ頃からなんだろ?知っている人がいたら教えてください
314人間七七四年
2007/06/27(水) 06:54:21ID:BJ6b5qvD >>311
往生際が悪いね。
坂氏の家系図なんてちょっと足をのばせばいくらでも収集できますが?
坂氏の家系図に坂口縫殿介が載ってるんだから、
伊勢軍記にいちいちどこそこの坂氏なんて書く必要はないだろ?
逆にいちいち誰のこともどこどこ庶流の○○氏なんていちいち書いてある
史料あったっけ?
ぜひ教えてください。
そんなに親切な一次史料があったら家系図や他の史料とを検証せずに特定できて楽だ。
ところで君のいう坂氏はどこの出身の坂氏だと聞いているんだけどね?
まったく織田家とのかかわりをもたないような坂氏であれば逆にどういうルートで
信長の側室になったのか知りたいもんだ。
当時の信長がどこまで勢力拡大していたのかがわかって参考になる。
そこの坂氏を側室にしていたということは、その坂氏を支配下においていた
ということだからな。
それに岡本良勝の家で生まれたという信孝だから、
坂氏は岡本家の縁者でなきゃおかしいよな?
岡本氏関連の新たな発見もできるから興味深いよ。
往生際が悪いね。
坂氏の家系図なんてちょっと足をのばせばいくらでも収集できますが?
坂氏の家系図に坂口縫殿介が載ってるんだから、
伊勢軍記にいちいちどこそこの坂氏なんて書く必要はないだろ?
逆にいちいち誰のこともどこどこ庶流の○○氏なんていちいち書いてある
史料あったっけ?
ぜひ教えてください。
そんなに親切な一次史料があったら家系図や他の史料とを検証せずに特定できて楽だ。
ところで君のいう坂氏はどこの出身の坂氏だと聞いているんだけどね?
まったく織田家とのかかわりをもたないような坂氏であれば逆にどういうルートで
信長の側室になったのか知りたいもんだ。
当時の信長がどこまで勢力拡大していたのかがわかって参考になる。
そこの坂氏を側室にしていたということは、その坂氏を支配下においていた
ということだからな。
それに岡本良勝の家で生まれたという信孝だから、
坂氏は岡本家の縁者でなきゃおかしいよな?
岡本氏関連の新たな発見もできるから興味深いよ。
315人間七七四年
2007/06/28(木) 10:58:01ID:AeRmGb6D >>311
>>坂縫殿介と坂口縫殿介が同一人物とは強引なこじつけだし
坂定住の弟がさらに分家して坂口氏を名乗ったとなんかの文献で
読んだことがある。自分は>>314さんのように家系図では確認して
ないけど、その家系図を元にした検証だったのかもしれない。
坂口という地域が伊勢周辺にあるのでそのあたり
に土地をもらって住み、苗字も坂口としたらしい。
>>坂仙斎は北畠家の侍医だった説
代々関一門とは直前に戦をして敵対関係にあった北畠家の侍医が神戸家の
新当主の側近にいたとしたら、それこそ反信長の鹿伏兎氏庶流の坂氏が
信長にくだっていてもおかしくはないと思うが?
逆も然りだな。敵対関係にある神戸一門から北畠家が侍医を迎えたのだから。
>>神戸氏の末裔である勢州軍記の作者が記載していない以上
でも、>>311さんがどこの坂氏と思っているのか不明だが、別の坂氏で
あったとしても同様に勢州軍記には書いてないということになる。
神戸家主体に書いたものだから同族の坂氏のことはあえてどこの出自で
と書かなかったとも解釈できないか?
逆にそれこそ毛利庶流の安芸坂氏などなら書いたと思うよ。
坂氏というだけではなく、「坂○○息女」とか信孝生母の出自がわかる表記で。
>>坂縫殿介と坂口縫殿介が同一人物とは強引なこじつけだし
坂定住の弟がさらに分家して坂口氏を名乗ったとなんかの文献で
読んだことがある。自分は>>314さんのように家系図では確認して
ないけど、その家系図を元にした検証だったのかもしれない。
坂口という地域が伊勢周辺にあるのでそのあたり
に土地をもらって住み、苗字も坂口としたらしい。
>>坂仙斎は北畠家の侍医だった説
代々関一門とは直前に戦をして敵対関係にあった北畠家の侍医が神戸家の
新当主の側近にいたとしたら、それこそ反信長の鹿伏兎氏庶流の坂氏が
信長にくだっていてもおかしくはないと思うが?
逆も然りだな。敵対関係にある神戸一門から北畠家が侍医を迎えたのだから。
>>神戸氏の末裔である勢州軍記の作者が記載していない以上
でも、>>311さんがどこの坂氏と思っているのか不明だが、別の坂氏で
あったとしても同様に勢州軍記には書いてないということになる。
神戸家主体に書いたものだから同族の坂氏のことはあえてどこの出自で
と書かなかったとも解釈できないか?
逆にそれこそ毛利庶流の安芸坂氏などなら書いたと思うよ。
坂氏というだけではなく、「坂○○息女」とか信孝生母の出自がわかる表記で。
316人間七七四年
2007/07/02(月) 10:23:05ID:+8cN2TqL ほほう、信孝は信雄よりも生母の出自はいいではないですか?
当時の生駒家なんてしょせん半農半士の土豪の家でしたからね。
だけど次男と三男ゆえに養子先の家柄で歴然と差をつけられていたという
ことなんでしょうかね。神戸家と北畠家では家格が全然違いますからな。
信孝が信長死後本当は次男だったといいだしたのが怪しいと
思っているのですが、そのへんどうなんでしょう?
同じ側室であった生駒に気を使う必用もないし、清洲で生まれなかったので
届けが遅くなったって言っても、
熱田なら清洲までちんたら行っても半日あれば着きますからね。
当時の生駒家なんてしょせん半農半士の土豪の家でしたからね。
だけど次男と三男ゆえに養子先の家柄で歴然と差をつけられていたという
ことなんでしょうかね。神戸家と北畠家では家格が全然違いますからな。
信孝が信長死後本当は次男だったといいだしたのが怪しいと
思っているのですが、そのへんどうなんでしょう?
同じ側室であった生駒に気を使う必用もないし、清洲で生まれなかったので
届けが遅くなったって言っても、
熱田なら清洲までちんたら行っても半日あれば着きますからね。
317人間七七四年
2007/07/02(月) 10:40:17ID:vpNlJn5B 熱田での接待用の伽係で、正式な側室じゃなかったんじゃね?
子供が男子だったから、側室になったって感じだろ。
子供が男子だったから、側室になったって感じだろ。
318人間七七四年
2007/07/03(火) 00:08:06ID:qeLyCnSB だけど、人質として送り込まれたなら普通に正式な側室でも
良かったんではないかな。なんで伽係だったんだろ。
そっちの方が不自然な感じするがな。
良かったんではないかな。なんで伽係だったんだろ。
そっちの方が不自然な感じするがな。
319人間七七四年
2007/07/03(火) 00:24:27ID:1b52iFLT 送り込まれてなかったからじゃないか?
だって、清洲城の奥にいた訳じゃないみたいだからな。
人質じゃなく、あくまで熱田に信長が来たときの
接待用の伽係だったと考えればいいんじゃね?
だって、清洲城の奥にいた訳じゃないみたいだからな。
人質じゃなく、あくまで熱田に信長が来たときの
接待用の伽係だったと考えればいいんじゃね?
320人間七七四年
2007/07/03(火) 01:20:57ID:qeLyCnSB 坂氏が岡本家と相談してかどうかはわからないが、信長に恭順の証として
娘を差し出したとされているんだよな。
だとすると、伽係として差し出されたとは思えないんだがな。
それだと人質にはならない気がするしな。
娘を差し出したとされているんだよな。
だとすると、伽係として差し出されたとは思えないんだがな。
それだと人質にはならない気がするしな。
321人間七七四年
2007/07/03(火) 07:44:55ID:1b52iFLT 奥にいない人間が、人質とはいわないんじゃないの?
身柄を押さえてない人質は、戦国期には考えにくい。
身柄を押さえてない人質は、戦国期には考えにくい。
322人間七七四年
2007/07/03(火) 07:46:21ID:1b52iFLT 人質を出さなくてはならない程、
不信感を持たれていた訳ではなかったのかも知れないしな。
信長を喜ばせる為の、伽係程度ですむ話しだったのかも知れん。
不信感を持たれていた訳ではなかったのかも知れないしな。
信長を喜ばせる為の、伽係程度ですむ話しだったのかも知れん。
323人間七七四年
2007/07/03(火) 08:06:03ID:U656fk6c 岡本家で信孝が生まれた、というのは勢州軍記に書いてあるんだけど、
勢州軍記は当然ながら信孝>>>信雄という視点で書かれているんだ。
信孝が兄に逆らって、織田家の家督を狙ったとされてしまったので、
本当は信孝が兄だったんだ、ということにして正嫡性を強めようとしたんじゃ、
っていう可能性はないかい?
庶子だから重きをおかれない存在であったのは確かだろうけど、それなら信雄も
同じ立場。信雄が贔屓される理由はない。
生まれたのはやはり信雄、信孝だったからその順で兄弟になった
というだけでは?
岡本家で生まれたというのもどうだろ?
通い婚の時代でもあるまいし、そんなのありえない話じゃないか?
夜伽女ならややこしいことになるから出産すらさせなかったか、
出産しても実子と公認しなかった可能性のほうが高いように思うんだけど。
本当に信長のお種かどうか怪しいじゃん。
勢州軍記は当然ながら信孝>>>信雄という視点で書かれているんだ。
信孝が兄に逆らって、織田家の家督を狙ったとされてしまったので、
本当は信孝が兄だったんだ、ということにして正嫡性を強めようとしたんじゃ、
っていう可能性はないかい?
庶子だから重きをおかれない存在であったのは確かだろうけど、それなら信雄も
同じ立場。信雄が贔屓される理由はない。
生まれたのはやはり信雄、信孝だったからその順で兄弟になった
というだけでは?
岡本家で生まれたというのもどうだろ?
通い婚の時代でもあるまいし、そんなのありえない話じゃないか?
夜伽女ならややこしいことになるから出産すらさせなかったか、
出産しても実子と公認しなかった可能性のほうが高いように思うんだけど。
本当に信長のお種かどうか怪しいじゃん。
324人間七七四年
2007/07/03(火) 09:27:01ID:1b52iFLT ところが、信雄側の史料にも同じく熱田で生まれたと出てくる。
その史料は、信孝を呼びすてにして、信雄を信雄卿と書いている、
信雄の家臣の更に家臣辺りの書いた文献だが。
その史料は、信孝を呼びすてにして、信雄を信雄卿と書いている、
信雄の家臣の更に家臣辺りの書いた文献だが。
325人間七七四年
2007/07/03(火) 09:32:14ID:1b52iFLT それから、そっちの文献にも信孝の方が先の生まれだと書いてある。
余吾庄合戦覚書
「爰ニ濃州岐阜ノ城主織田信孝ト申スハ、故信長公ノ次男ニテ渡ラセ給ヒシカトモ、
故有テ三男ニソ立給ケル。
其所以如何ト尋ヌルニ、故三位信忠卿ハ、信長公ノ妾腹ニ生レサセ給ヘト、
御台所ノ御腹ニ御子ナカリシ故ニ、御養子ト成給ヒ、御世嗣ニ定リ給ヘリ。
御実母ハ生駒氏ノ女ナリ。
其後、永禄元年同月二十余日隔テヽ、若宮二人誕生シ給ヘリ。
是三七信孝。
次ハ中将信雄卿也。
然レハ、信雄卿ハ三男タルヘキヲ、信忠卿ノ同母タル故ヲ以テ、人皆是ヲ尊敬シテ、
早速信長公ヘ披露ニ及ケル。
故ニ次男ニ定リ給ヒ、人(ママ。又カ)信孝之母ハ、人々サノミ賞翫セス。
遅ク申上ケルニ依テ、三男トコソハ定マリ給ヒケル。
信孝ノ母ハ、坂氏ノ女ニシテ、熱田ノ神司岡本カ家ニテソ生レ給ヒケル。 」
余吾庄合戦覚書
「爰ニ濃州岐阜ノ城主織田信孝ト申スハ、故信長公ノ次男ニテ渡ラセ給ヒシカトモ、
故有テ三男ニソ立給ケル。
其所以如何ト尋ヌルニ、故三位信忠卿ハ、信長公ノ妾腹ニ生レサセ給ヘト、
御台所ノ御腹ニ御子ナカリシ故ニ、御養子ト成給ヒ、御世嗣ニ定リ給ヘリ。
御実母ハ生駒氏ノ女ナリ。
其後、永禄元年同月二十余日隔テヽ、若宮二人誕生シ給ヘリ。
是三七信孝。
次ハ中将信雄卿也。
然レハ、信雄卿ハ三男タルヘキヲ、信忠卿ノ同母タル故ヲ以テ、人皆是ヲ尊敬シテ、
早速信長公ヘ披露ニ及ケル。
故ニ次男ニ定リ給ヒ、人(ママ。又カ)信孝之母ハ、人々サノミ賞翫セス。
遅ク申上ケルニ依テ、三男トコソハ定マリ給ヒケル。
信孝ノ母ハ、坂氏ノ女ニシテ、熱田ノ神司岡本カ家ニテソ生レ給ヒケル。 」
326人間七七四年
2007/07/03(火) 12:05:44ID:U656fk6c 信孝に関するソースが「勢州軍記」だったら当然そうなるな?
「勢州軍記」は1638年編纂とされているが「余吾庄合戦覚書」は
もっと後の編纂じゃなかったか?
「勢州軍記」は1638年編纂とされているが「余吾庄合戦覚書」は
もっと後の編纂じゃなかったか?
327人間七七四年
2007/07/03(火) 13:32:17ID:/P6Z2QEW 母親の実家で産むのがそんなにおかしいか?
信雄より軽んじられたのは後ろ盾となるべき一族の勢力が弱かったからだろう。
信雄より軽んじられたのは後ろ盾となるべき一族の勢力が弱かったからだろう。
328人間七七四年
2007/07/03(火) 14:03:53ID:U656fk6c 戦国時代なら通い婚の風習は廃れ、母方の実家に通ったり、出産、という
ことは一般的にもうなかったから。
清洲に側室をもつようになっていたのだから、坂氏の出自に関係なく側室なら
清洲に囲われて然るべきなんじゃなかなと思った。
それに生駒家は信雄が誕生した頃は武士といっても
馬借として成功した商家みたいな家だし、
財をなしたといっても織田家のもつ財力、経済基盤に比べたらたいしたことない。
後ろ盾といえるほど織田家で重用されるはずもないし、実際されてなかったしな。
ことは一般的にもうなかったから。
清洲に側室をもつようになっていたのだから、坂氏の出自に関係なく側室なら
清洲に囲われて然るべきなんじゃなかなと思った。
それに生駒家は信雄が誕生した頃は武士といっても
馬借として成功した商家みたいな家だし、
財をなしたといっても織田家のもつ財力、経済基盤に比べたらたいしたことない。
後ろ盾といえるほど織田家で重用されるはずもないし、実際されてなかったしな。
329人間七七四年
2007/07/03(火) 14:11:10ID:YMjhdzOD 坂氏が熱田社の関係だったら、当然尾張の大族千秋氏との関係もあると考えていいよな。
千秋氏は源頼朝の生母の出身として武家の崇敬を受けた家柄。
坂氏単体としてはともかく、坂氏が所属する共同体というか連合というかで考えると、
後ろ盾が弱いとはいえないと思うが。
千秋氏は源頼朝の生母の出身として武家の崇敬を受けた家柄。
坂氏単体としてはともかく、坂氏が所属する共同体というか連合というかで考えると、
後ろ盾が弱いとはいえないと思うが。
330人間七七四年
2007/07/03(火) 20:38:07ID:qeLyCnSB なんか偽書武功夜話では、信長は生駒屋敷に通っていたことになっているが、
実際は生駒は清洲の奥で側室になっているし、案外信長が熱をあげていたのが
坂氏だったりしてな。
坂氏は別に出目も生駒よりはずっといいし、それに人質じゃなく、伽係だと
したら、信長が熱田に通っていたのかも知れないな。
坂氏の出目なら側室にするのにも充分だと思えるが、信孝が生まれたのが
岡本家の屋敷というところが正式な側室でなかった可能性があるな。
実際は生駒は清洲の奥で側室になっているし、案外信長が熱をあげていたのが
坂氏だったりしてな。
坂氏は別に出目も生駒よりはずっといいし、それに人質じゃなく、伽係だと
したら、信長が熱田に通っていたのかも知れないな。
坂氏の出目なら側室にするのにも充分だと思えるが、信孝が生まれたのが
岡本家の屋敷というところが正式な側室でなかった可能性があるな。
331人間七七四年
2007/07/03(火) 21:08:37ID:QgHdhz3N 人質にする程ヤバい関係が、熱田と信長の間でなかったから、
坂氏を人質として側室にする必要がなくて、
信長が熱田にきた時に接待するための伽係だったと考えれるんじゃね?
要人が訪れた時に、伽係を出すのはあの時代は普通だし。
伽係も、不特定多数の人間に対して伽させる訳じゃなく、
大抵は決まった相手だけの伽係だからな。
熱田を押さえたのは、信秀の時代だろうし、
信長の時代には良好な関係だったんだろうな。
信長が、最初に出した制札が熱田に対してだろ?
敵対関係にあったら、最初の制札発布に選ばないだろうからな。
坂氏を人質として側室にする必要がなくて、
信長が熱田にきた時に接待するための伽係だったと考えれるんじゃね?
要人が訪れた時に、伽係を出すのはあの時代は普通だし。
伽係も、不特定多数の人間に対して伽させる訳じゃなく、
大抵は決まった相手だけの伽係だからな。
熱田を押さえたのは、信秀の時代だろうし、
信長の時代には良好な関係だったんだろうな。
信長が、最初に出した制札が熱田に対してだろ?
敵対関係にあったら、最初の制札発布に選ばないだろうからな。
332人間七七四年
2007/07/04(水) 08:35:09ID:2pyNQyrG 坂氏が側室になったのはどちらかというと、岡本良勝の都合のような気がする。
岡本氏は津島衆の一家で、同じ津島衆の小橋家と織田家は過去においても
姻戚を結んで懐柔策をとっているし、そのあたりの事情じゃないだろうか?
信孝側近に坂氏一族も配置されてはいるけど、筆頭家老は岡本良勝で
信孝自刃直前まで行動を伴にしているから、良勝が生母の実父か、叔父、兄、
あたりだったのではないかとも言われているし、岡本家から坂氏の養女になって
側室にあがったのかもしれない。
尾張平定でも、津島衆が活躍していて、桶狭間の戦いでは
主に勝幡衆・津島衆といった家臣団を引き連れ合戦に挑んだといわれている。
初期の信長にとって祖父の代から築いた津島は重要な基盤であったから
岡本氏とも坂氏を介在に主従関係をより強固にしていったのではないかともとれる。
信孝生母の出自がどうであれ、信孝の後見に岡本良勝がいたことは事実であって
そちらに注目すべきじゃないかな。信孝の後見は生駒家に見劣りするような家では
なかったということだ。
岡本氏は津島衆の一家で、同じ津島衆の小橋家と織田家は過去においても
姻戚を結んで懐柔策をとっているし、そのあたりの事情じゃないだろうか?
信孝側近に坂氏一族も配置されてはいるけど、筆頭家老は岡本良勝で
信孝自刃直前まで行動を伴にしているから、良勝が生母の実父か、叔父、兄、
あたりだったのではないかとも言われているし、岡本家から坂氏の養女になって
側室にあがったのかもしれない。
尾張平定でも、津島衆が活躍していて、桶狭間の戦いでは
主に勝幡衆・津島衆といった家臣団を引き連れ合戦に挑んだといわれている。
初期の信長にとって祖父の代から築いた津島は重要な基盤であったから
岡本氏とも坂氏を介在に主従関係をより強固にしていったのではないかともとれる。
信孝生母の出自がどうであれ、信孝の後見に岡本良勝がいたことは事実であって
そちらに注目すべきじゃないかな。信孝の後見は生駒家に見劣りするような家では
なかったということだ。
333人間七七四年
2007/07/04(水) 13:29:21ID:Lwa6O/x1 岡本良勝は天文13年(1544)生まれだから生母の実父はありえない。
従兄弟じゃないかな。
従兄弟じゃないかな。
334人間七七四年
2007/07/05(木) 19:50:00ID:qG+A49kb 岡本良勝が熱田の宮司だったといのは間違いだ。
岡本良勝は熱田出身ではないし、熱田社の宮司になったのは
岡本家の分家を継いだ息子。
宗家の岡本重政は関ヶ原で西軍につき自刃。
庶子の兄が苗字を関藤氏に変え熱田社宮司になったとする家系図が残っている。
なので熱田神官の岡本良勝、その岡本良勝の家で信孝が誕生したという話
は後年岡本氏の子孫が熱田社の宮司をしていたことから創られた
話だということになる。信孝はたぶん清洲で生まれたのだと思うよ。
岡本良勝は熱田出身ではないし、熱田社の宮司になったのは
岡本家の分家を継いだ息子。
宗家の岡本重政は関ヶ原で西軍につき自刃。
庶子の兄が苗字を関藤氏に変え熱田社宮司になったとする家系図が残っている。
なので熱田神官の岡本良勝、その岡本良勝の家で信孝が誕生したという話
は後年岡本氏の子孫が熱田社の宮司をしていたことから創られた
話だということになる。信孝はたぶん清洲で生まれたのだと思うよ。
335人間七七四年
2007/07/07(土) 11:17:24ID:5r4Nd+IS336人間七七四年
2007/07/07(土) 11:22:20ID:OMH+Njbw338人間七七四年
2007/07/07(土) 18:54:01ID:OMH+Njbw 例えば、「津嶋大橋記」
信孝誕生之事。元来二男也云云。信長御臺、斎藤山城入道道三息女之腹無若君也。
信忠妾腹也。弘治三丁巳年誕生給。是御臺御養子也。二男信雄、生駒半左衛門妹也。
永禄元戊午年誕生。三男信孝、坂息女腹也。信雄、同年月誕生日數少、信孝先也云云。
雖然、信孝母儀、在熱田神司岡本宿所也。後日、岡本参清須城、言上之故為三男也。
岡本太郎右衛門、彼神司之子也。
信孝誕生之事。元来二男也云云。信長御臺、斎藤山城入道道三息女之腹無若君也。
信忠妾腹也。弘治三丁巳年誕生給。是御臺御養子也。二男信雄、生駒半左衛門妹也。
永禄元戊午年誕生。三男信孝、坂息女腹也。信雄、同年月誕生日數少、信孝先也云云。
雖然、信孝母儀、在熱田神司岡本宿所也。後日、岡本参清須城、言上之故為三男也。
岡本太郎右衛門、彼神司之子也。
339人間七七四年
2007/07/07(土) 20:16:03ID:5omzuKPN340人間七七四年
2007/07/08(日) 10:11:04ID:CpJP06fw >>338 オリジナルのソースは「勢州軍記」じゃないか?
「余吾庄合戦覚書」と同様類似してる。
地誌だけど「金鱗九十九之塵」にも書いてあるけど
これは編纂が天保の頃だし明らかに勢州軍記の抜粋みたいだ。
不思議なのはきちんと生年月日を示していないということ。
信雄もなぜか不詳。
細々と当時のエピが書くぐらいなら二人の生年月日を
数字できっちり書けばすむことなのに。
「余吾庄合戦覚書」と同様類似してる。
地誌だけど「金鱗九十九之塵」にも書いてあるけど
これは編纂が天保の頃だし明らかに勢州軍記の抜粋みたいだ。
不思議なのはきちんと生年月日を示していないということ。
信雄もなぜか不詳。
細々と当時のエピが書くぐらいなら二人の生年月日を
数字できっちり書けばすむことなのに。
341人間七七四年
2007/07/08(日) 12:27:26ID:pqq+/7VQ 勢州軍記が元ネタと考える事もできるが、
逸話として残っているものがあって、
その逸話を勢州軍記や津島大橋記が
それぞれ引いたと考える事もできる。
逸話として残っているものがあって、
その逸話を勢州軍記や津島大橋記が
それぞれ引いたと考える事もできる。
343人間七七四年
2007/07/09(月) 08:06:47ID:P6ybMyjk 正室の子と誕生が近い場合は正室の子が兄とされることは江戸期まであったそうだけど
側室同士の子供が生母のからみで兄弟の順序を変えられることはない。
側室同士の子供が生母のからみで兄弟の順序を変えられることはない。
344人間七七四年
2007/07/10(火) 19:26:06ID:IXo9ZIQv やっぱ、信孝が三男になったんは単に報告の遅れでないかな。
母親がらみで二男が三男になんてありえないし。
信雄生母の生駒だってそんなに優遇されていたわけでなし。
実質、家柄だって信孝の母親の方がいいんだし。
母親がらみで二男が三男になんてありえないし。
信雄生母の生駒だってそんなに優遇されていたわけでなし。
実質、家柄だって信孝の母親の方がいいんだし。
345人間七七四年
2007/07/10(火) 21:42:49ID:UPXtBy5t 織田家に限らず大名家は嫡子以外の男子はどうでもよかったからな。
正室腹であっても次男以下は嫡子の家来として養育していったわけだし。
側室腹でしかない信雄と信孝がどっちが先に生まれようと、誰が生母だろうと
織田家的にはどうでもいい問題だったと思う。
しかもその頃なら濃姫も20才そこそこでまだまだ子供を生む可能性もあったわけで、
奇妙だって庶子扱いの頃だろうし、弟達のことなんてさらにどうでもいい問題だったはず。
だから実際信孝が早く生まれていても、何らかの理由で報告が遅れた、あるいは認知が
遅れたから三男になったというのもいかにもありえそうな話だ。
正室腹であっても次男以下は嫡子の家来として養育していったわけだし。
側室腹でしかない信雄と信孝がどっちが先に生まれようと、誰が生母だろうと
織田家的にはどうでもいい問題だったと思う。
しかもその頃なら濃姫も20才そこそこでまだまだ子供を生む可能性もあったわけで、
奇妙だって庶子扱いの頃だろうし、弟達のことなんてさらにどうでもいい問題だったはず。
だから実際信孝が早く生まれていても、何らかの理由で報告が遅れた、あるいは認知が
遅れたから三男になったというのもいかにもありえそうな話だ。
346人間七七四年
2007/07/10(火) 22:48:09ID:D1H5M0F5 話を戻すようで悪いが
「昔より主をうつみのうらなれば おわり(報い)を待てや羽柴筑前」
↑この「主」って誰のことだ?
信長のことかね?
「昔より主をうつみのうらなれば おわり(報い)を待てや羽柴筑前」
↑この「主」って誰のことだ?
信長のことかね?
348人間七七四年
2007/07/10(火) 22:56:10ID:D1H5M0F5 「昔より主をうつみのうらなれば おわり(報い)を待てや羽柴筑前」
この「主」が信長のことを指すなら
秀吉は本能寺の変の関係者ってことか?
この「主」が信長のことを指すなら
秀吉は本能寺の変の関係者ってことか?
349人間七七四年
2007/07/10(火) 23:06:52ID:DgruMvUl 主→主筋→織田家一門→信孝くらいの解釈でいいんじゃないかな。
350人間七七四年
2007/07/11(水) 07:52:57ID:/2TjZcO9 この辞世の句といわれているものが、本当に信孝作かどうかも怪しいといわれている。
なんのひねりもない幼稚な句だから、江戸期の創作ではないかという意見もある。
一般的な見解は「主」は「主筋」という意味となっている。
でも実際は信孝は信雄に切腹の命令を出されているので、秀吉が織田家に
叛いているのではないし、なぜ信雄への恨みはないのか?という素朴な疑問もある。
そもそも織田宗家である三法師への逆心というのが信孝切腹の理由だから、
「主」に叛いている信孝がそんな句を残す立場でもなかったと思うが。
なんのひねりもない幼稚な句だから、江戸期の創作ではないかという意見もある。
一般的な見解は「主」は「主筋」という意味となっている。
でも実際は信孝は信雄に切腹の命令を出されているので、秀吉が織田家に
叛いているのではないし、なぜ信雄への恨みはないのか?という素朴な疑問もある。
そもそも織田宗家である三法師への逆心というのが信孝切腹の理由だから、
「主」に叛いている信孝がそんな句を残す立場でもなかったと思うが。
351人間七七四年
2007/07/13(金) 21:32:01ID:P8doPyRd 建前からいけばそうかもしれないが、切腹の命令を出したのも信雄の後ろに秀吉の意向があるのはミエミエじゃん。
三法師への逆心というが、そもそも三法師を保護していた信孝を攻めて(当然三法師を攻めて)降伏させ、彼から
三法師を取り上げたのも秀吉だし。
三法師への逆心というが、そもそも三法師を保護していた信孝を攻めて(当然三法師を攻めて)降伏させ、彼から
三法師を取り上げたのも秀吉だし。
352人間七七四年
2007/07/13(金) 22:09:51ID:job9lbN4 一番悪いのは秀吉!
浪人の身分から取り立ててもらった恩を忘れて、
主君の息子を切腹に追い込んで、三法師が子供だったのをいいことに
さんざんやりたい放題。
おまけに天下統一してからも、自分の気に入らない奴は切腹させるは、磔にするわ・・
秀吉死後に家康が、豊臣一家を滅亡させたのはほんとすかっとするね。
こいつが織田家に所属する人間でなかったらここまで思わなかっただろうけど、
なんかホント嫌なやつだな。
浪人の身分から取り立ててもらった恩を忘れて、
主君の息子を切腹に追い込んで、三法師が子供だったのをいいことに
さんざんやりたい放題。
おまけに天下統一してからも、自分の気に入らない奴は切腹させるは、磔にするわ・・
秀吉死後に家康が、豊臣一家を滅亡させたのはほんとすかっとするね。
こいつが織田家に所属する人間でなかったらここまで思わなかっただろうけど、
なんかホント嫌なやつだな。
353人間七七四年
2007/07/13(金) 22:17:35ID:QDtbr+br そうはいっても、信孝自身も織田家の家督を狙っていたからな。
それがだめなら一門筆頭になって織田宗家乗っ取りを企んでいたのはみえみえ。
秀吉にはめられた印象が強いが、墓穴を掘ったのは信孝。
信雄との絆を強め、兄弟で三法師を後見していれば織田宗家があんなに早く
滅びる事はなかったと思う。
それがだめなら一門筆頭になって織田宗家乗っ取りを企んでいたのはみえみえ。
秀吉にはめられた印象が強いが、墓穴を掘ったのは信孝。
信雄との絆を強め、兄弟で三法師を後見していれば織田宗家があんなに早く
滅びる事はなかったと思う。
354宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/13(金) 22:20:01ID:1Z9yKgnA 10歳にも満たない三法師に仕えることは、2人のプライドが許さなかっただろうな。
355人間七七四年
2007/07/13(金) 22:26:46ID:QDtbr+br まぁ平伏して仕えるというより、三法師を傀儡にして政治の実権を握りたかった
とは思うよ。秀吉にそのポジションを取られちゃったんだけど。
そして三法師に自分の姫を娶らせいずれ宗家乗っ取りとかな。
自分達だってそうやって他家を乗っ取ったわけだから、恐らくやっただろう。
信孝には勝家という名将がついていたのに、なんであんなことしちまったのかな。
とは思うよ。秀吉にそのポジションを取られちゃったんだけど。
そして三法師に自分の姫を娶らせいずれ宗家乗っ取りとかな。
自分達だってそうやって他家を乗っ取ったわけだから、恐らくやっただろう。
信孝には勝家という名将がついていたのに、なんであんなことしちまったのかな。
356人間七七四年
2007/07/14(土) 01:05:12ID:Pj/F7B4m 結局ただの権力争いだから、どっちが悪いとかそういう話じゃないんだよな
357人間七七四年
2007/07/14(土) 07:42:55ID:xkvvIR8f 秀吉なんかに乗っ取られるなら、織田家宗家としては同じ織田一族に乗っ取っられた
方が良かったかもな。
だから勝家も信孝をのせて、対秀吉として争ったんだろう。もともとこの二人は仲悪
かったからね。
方が良かったかもな。
だから勝家も信孝をのせて、対秀吉として争ったんだろう。もともとこの二人は仲悪
かったからね。
358人間七七四年
2007/07/14(土) 09:25:03ID:606dmku9 勝家は勝家で家臣として織田家内で筆頭になり、権力を掌握する野心を持ったろうし
結局武士の忠義だなんだは江戸期の幕藩体制が整った後の話で、
戦国期は己の家のため、出世のためにあれこれ動いていた時代なんだよ。
そういう視点からみると、確かにどっちが悪いとかいう問題じゃなくて
秀吉が実力行使で台頭したのも当たり前だし、
実力のない宗家が滅んでいったのも自然淘汰で当たり前なのかもしれない。
結局武士の忠義だなんだは江戸期の幕藩体制が整った後の話で、
戦国期は己の家のため、出世のためにあれこれ動いていた時代なんだよ。
そういう視点からみると、確かにどっちが悪いとかいう問題じゃなくて
秀吉が実力行使で台頭したのも当たり前だし、
実力のない宗家が滅んでいったのも自然淘汰で当たり前なのかもしれない。
359人間七七四年
2007/07/14(土) 09:53:39ID:Pj/F7B4m 誰が継いでも織田家を維持できたとは思えんしな
信包なんかはその辺りのこと冷静に受け止められたから秀吉支持したんだろ
実際なんだかんだであれだけ凋落しておきながら存続はできたんだし
信包なんかはその辺りのこと冷静に受け止められたから秀吉支持したんだろ
実際なんだかんだであれだけ凋落しておきながら存続はできたんだし
360人間七七四年
2007/07/15(日) 10:28:30ID:Elt7nP11361人間七七四年
2007/07/15(日) 11:05:22ID:evI1NJrl >>360
家督相続においては合戦の実績よりも血の正嫡性優先。
嫡男の子である三法師の方が信長の庶子の息子よりも正嫡性が強いよ。
家督はすでに信忠に譲られていたのは周知の事実だしな。
ただ信孝が正室腹であったら嫡子の認定がなく、まだ幼かった
三法師と比較した場合、正嫡性の強い信孝を推す家臣が多くいたとは思えるけど。
三法師が正室腹の子ではなく、庶子扱いだったあたりで当初諸侯が難色を示した
とも思えるからな。
意外と思われるけど、正室の子は家をあげて祝福され、家の慶事として扱われたけど
側室の子は当主が個人的にお祝いをする程度で、特に公に公表されることもなかった。
嫡子と庶子では扱いが違うんだ。三法師の存在すら諸侯が知らなかった可能性もあるし
信孝が嫡子であったら、三法師よりも信孝に織田家の家督が譲られる可能性は
高かったと思う。
家督相続においては合戦の実績よりも血の正嫡性優先。
嫡男の子である三法師の方が信長の庶子の息子よりも正嫡性が強いよ。
家督はすでに信忠に譲られていたのは周知の事実だしな。
ただ信孝が正室腹であったら嫡子の認定がなく、まだ幼かった
三法師と比較した場合、正嫡性の強い信孝を推す家臣が多くいたとは思えるけど。
三法師が正室腹の子ではなく、庶子扱いだったあたりで当初諸侯が難色を示した
とも思えるからな。
意外と思われるけど、正室の子は家をあげて祝福され、家の慶事として扱われたけど
側室の子は当主が個人的にお祝いをする程度で、特に公に公表されることもなかった。
嫡子と庶子では扱いが違うんだ。三法師の存在すら諸侯が知らなかった可能性もあるし
信孝が嫡子であったら、三法師よりも信孝に織田家の家督が譲られる可能性は
高かったと思う。
362人間七七四年
2007/07/15(日) 13:00:30ID:DUtA4eop だが柴田勝家は信孝が父の復讐戦に加わった
(それだけではないが)ことで織田家の跡目に
信孝を推している。
それが明智を破った秀吉の思わぬ三法師擁立論に
池田、丹羽も賛成して押し切られている。
ただ本当に信孝に決まったら信雄が黙っていなかった
だろうから争いが起きたろうな。
これを思えば信忠が父と共に死んだことでもう織田家の
天下はなくなったということだな。
(それだけではないが)ことで織田家の跡目に
信孝を推している。
それが明智を破った秀吉の思わぬ三法師擁立論に
池田、丹羽も賛成して押し切られている。
ただ本当に信孝に決まったら信雄が黙っていなかった
だろうから争いが起きたろうな。
これを思えば信忠が父と共に死んだことでもう織田家の
天下はなくなったということだな。
363人間七七四年
2007/07/15(日) 13:11:57ID:whpNZivx 先代に実績と才能を認められた腹違いで他家を継いでいた弟と、家督継承者の
認められてもいないまだ乳幼児な庶子。
正当性云々といっても困るよな。特に戦国時代は、正嫡であっても指導力を
発揮できない未成年では忌避されることがあった(それが継承争いに繋がる)し。
認められてもいないまだ乳幼児な庶子。
正当性云々といっても困るよな。特に戦国時代は、正嫡であっても指導力を
発揮できない未成年では忌避されることがあった(それが継承争いに繋がる)し。
364人間七七四年
2007/07/15(日) 14:11:47ID:DUtA4eop 信孝が総大将の四国攻めの軍勢は信長の死が伝わると、
あらかたが逃亡してしまった。
これを単純に信孝の統率力不足というのはあまりに
表面しか見ない議論。
「彼の兵は各地から集まった人々であったから、反乱を
知るとたちまち大半の兵は彼を見捨てた」(イエズス会の
文書より)。
つまり1万4千の軍のほとんどは2郡しか領していない
信孝の兵ではなく、兄信雄をはじめとした各国からの応援の
兵であったのである。これでは信長が死に、四国での新たな
所領や恩賞目当てであった兵が逃亡するのも無理はない。
あらかたが逃亡してしまった。
これを単純に信孝の統率力不足というのはあまりに
表面しか見ない議論。
「彼の兵は各地から集まった人々であったから、反乱を
知るとたちまち大半の兵は彼を見捨てた」(イエズス会の
文書より)。
つまり1万4千の軍のほとんどは2郡しか領していない
信孝の兵ではなく、兄信雄をはじめとした各国からの応援の
兵であったのである。これでは信長が死に、四国での新たな
所領や恩賞目当てであった兵が逃亡するのも無理はない。
365人間七七四年
2007/07/15(日) 15:41:51ID:evI1NJrl >>362
秀吉に押し切られているのではなく、その時秀吉にお市を娶ることを斡旋され
織田家一門での有利な立場を保証されたので、三法師擁立に賛同したんだよ。
あくまで反対の姿勢を貫く事も可能だったのに、態度を豹変したのはなぜか?
信孝を主君と仰げばあっさり引き下がることもなかったはずだ。
ちなみに勝家は家臣に宛てた手紙にお市を娶る経緯について書いている。
清洲においてお市をもらうように秀吉にすすめられたと。
勝家にしてみれば主君と仰ぐのは信孝であっても、三法師であっても、
自分を重用し、柴田家が繁栄すればよいこと。
お市を娶り、信長と義兄弟になることで織田家内で有利なポジション
につけるとふんだんだろう。
嫡子優先は鎌倉時代からの武家の慣習だし、信忠の死後男子がいたら
庶子であろうと、優先順位は嫡男の弟よりも高いし、たとえ幼少だとしても
家督を継ぐことには不自然さはない。問題になるのはむしろ守役や後見人の選定だ。
信雄、信孝は庶子であり、しかも他家を継いでいる織田家一門の扱いにすぎなかった
のだから、柴田が本気で信孝を後継者に推挙していたかは疑問だな。
ところで家督を相続していた嫡男が急死した場合、子供が幼少の庶子しかおらず、
庶子である嫡男の弟が家督を継いだ、という例は戦国期にあるのだろうか?
そういうケースで家督相続争いがおきた例は記憶にないが。
秀吉に押し切られているのではなく、その時秀吉にお市を娶ることを斡旋され
織田家一門での有利な立場を保証されたので、三法師擁立に賛同したんだよ。
あくまで反対の姿勢を貫く事も可能だったのに、態度を豹変したのはなぜか?
信孝を主君と仰げばあっさり引き下がることもなかったはずだ。
ちなみに勝家は家臣に宛てた手紙にお市を娶る経緯について書いている。
清洲においてお市をもらうように秀吉にすすめられたと。
勝家にしてみれば主君と仰ぐのは信孝であっても、三法師であっても、
自分を重用し、柴田家が繁栄すればよいこと。
お市を娶り、信長と義兄弟になることで織田家内で有利なポジション
につけるとふんだんだろう。
嫡子優先は鎌倉時代からの武家の慣習だし、信忠の死後男子がいたら
庶子であろうと、優先順位は嫡男の弟よりも高いし、たとえ幼少だとしても
家督を継ぐことには不自然さはない。問題になるのはむしろ守役や後見人の選定だ。
信雄、信孝は庶子であり、しかも他家を継いでいる織田家一門の扱いにすぎなかった
のだから、柴田が本気で信孝を後継者に推挙していたかは疑問だな。
ところで家督を相続していた嫡男が急死した場合、子供が幼少の庶子しかおらず、
庶子である嫡男の弟が家督を継いだ、という例は戦国期にあるのだろうか?
そういうケースで家督相続争いがおきた例は記憶にないが。
366人間七七四年
2007/07/15(日) 15:58:30ID:cZuQx0A+ >>363
そう
だから後ろ盾の力が物を言う
結局世襲制が一番シンプルだから受け入れられてるってだけで
そこにもやっぱり歪みがあることは誰もが気づいてるんだよ
だからその歪みが表面化したときは、結局力のある人間が後を継ぐことになる
そう
だから後ろ盾の力が物を言う
結局世襲制が一番シンプルだから受け入れられてるってだけで
そこにもやっぱり歪みがあることは誰もが気づいてるんだよ
だからその歪みが表面化したときは、結局力のある人間が後を継ぐことになる
367人間七七四年
2007/07/15(日) 16:46:59ID:cIRHaWXr でもさ、間違って信孝が織田家を継いでたりしたら勝頼の二の舞だったかもね。
本能寺時点で信孝は神戸家の当主で、勝長の方がまだ織田家後継者の資格がありそう。
元々資格の認められていなかった後継者、統制の効かない家老たち、四面楚歌・・・
周囲の外敵も、雑賀や北条は油断ならないし、上杉、毛利も息吹き返してくるし、
同盟者のはずの家康は(間接的にせよ)信忠付き筆頭だった河尻ぶっ殺して
織田領だった甲斐、信濃を侵略(穴山の死もかなりあやしい)。
なんか勝頼の状況にダブって見えるんだが。
よく考えたら、こんな内部のゴタゴタ抱えて、不安定な立場で打ち克っていった
秀吉ってやっぱりバケモノだな。
本能寺時点で信孝は神戸家の当主で、勝長の方がまだ織田家後継者の資格がありそう。
元々資格の認められていなかった後継者、統制の効かない家老たち、四面楚歌・・・
周囲の外敵も、雑賀や北条は油断ならないし、上杉、毛利も息吹き返してくるし、
同盟者のはずの家康は(間接的にせよ)信忠付き筆頭だった河尻ぶっ殺して
織田領だった甲斐、信濃を侵略(穴山の死もかなりあやしい)。
なんか勝頼の状況にダブって見えるんだが。
よく考えたら、こんな内部のゴタゴタ抱えて、不安定な立場で打ち克っていった
秀吉ってやっぱりバケモノだな。
368人間七七四年
2007/07/15(日) 22:54:00ID:a2kpE/a+ きゃつ親父の草履取りだった分際で
369人間七七四年
2007/07/16(月) 06:02:28ID:Fod+syFo >>365
確かにある本には「勝家は信孝を立てて争ったとされている
がその確証はないらしい」とある。
だが信孝、勝家、滝川一益の3人がその後トリオを結成して秀吉に
対抗してるのを見るとまんざら間違いではなかろうと思う。
第一三法師擁立など秀吉の奇策なんだから、対する勝家も
誰かを推していたと見ていいのでは。
確かにある本には「勝家は信孝を立てて争ったとされている
がその確証はないらしい」とある。
だが信孝、勝家、滝川一益の3人がその後トリオを結成して秀吉に
対抗してるのを見るとまんざら間違いではなかろうと思う。
第一三法師擁立など秀吉の奇策なんだから、対する勝家も
誰かを推していたと見ていいのでは。
371人間七七四年
2007/07/16(月) 09:01:29ID:k33HS7u1 >>369
>>信孝、勝家、滝川一益の3人がその後トリオを結成して秀吉に対抗
その後、というのがポイントじゃないかな。
家督相続の段階では秀吉が年配者で古参の勝家をたてて、お市との婚姻により
「織田家家臣団は信長義兄弟の柴田様が筆頭でございます」というポーズを
みせたので勝家も納得したんだと思うんだ。
信孝を推挙したのも目的は秀吉を退け織田家家臣団の筆頭を狙っての事。
結果が一緒なら家臣団の不和を生んでまで信孝を推す必用はないと判断したと思う。
三法師を相続人にしてしまえば、後は秀吉の想定通りにことがすすめるわけで、
さっそく信長葬儀のあたりからあからさまに秀吉の野心が見え見えになってきてる。
一族の反対を押し切っての秀吉メインの信長の葬儀。
喪主は信長の息子とはいえ秀勝。でも実質は秀吉。
すでに秀吉は織田家一族の庇護や有力家臣の取り込みに精をだしている。
そういう姿を見て危機感を覚えてのトリオ結成だったと思うんだ。
だからトリオを結成したのは、結果的に利害関係の一致した者たちが
集まっただけで、秀吉の露骨な野心が見えてこなければトリオは結成されずに
実力行使にでることもなかったと思う。
もともとが反秀吉の連中だったとは思うけどね。
>>信孝、勝家、滝川一益の3人がその後トリオを結成して秀吉に対抗
その後、というのがポイントじゃないかな。
家督相続の段階では秀吉が年配者で古参の勝家をたてて、お市との婚姻により
「織田家家臣団は信長義兄弟の柴田様が筆頭でございます」というポーズを
みせたので勝家も納得したんだと思うんだ。
信孝を推挙したのも目的は秀吉を退け織田家家臣団の筆頭を狙っての事。
結果が一緒なら家臣団の不和を生んでまで信孝を推す必用はないと判断したと思う。
三法師を相続人にしてしまえば、後は秀吉の想定通りにことがすすめるわけで、
さっそく信長葬儀のあたりからあからさまに秀吉の野心が見え見えになってきてる。
一族の反対を押し切っての秀吉メインの信長の葬儀。
喪主は信長の息子とはいえ秀勝。でも実質は秀吉。
すでに秀吉は織田家一族の庇護や有力家臣の取り込みに精をだしている。
そういう姿を見て危機感を覚えてのトリオ結成だったと思うんだ。
だからトリオを結成したのは、結果的に利害関係の一致した者たちが
集まっただけで、秀吉の露骨な野心が見えてこなければトリオは結成されずに
実力行使にでることもなかったと思う。
もともとが反秀吉の連中だったとは思うけどね。
372人間七七四年
2007/07/16(月) 17:58:54ID:762wVGEG いや、書き方悪かったけど、つまり本能寺起きる前までは
勝長のほうが継承権あるのでは、ってこと。
だっていくら一門集ったって信孝は神戸家の養子、つまり他所のうちの跡取り。
秀勝、信雄、ついでに信長の弟だけど連枝衆格の信包しかり。
織田家の子は信忠(とその孫の三法師)と勝長くらいでしょ。
二条城で死んでなけりゃ、勝長が織田家継いだと思うんだけど、どうかな。
勝長のほうが継承権あるのでは、ってこと。
だっていくら一門集ったって信孝は神戸家の養子、つまり他所のうちの跡取り。
秀勝、信雄、ついでに信長の弟だけど連枝衆格の信包しかり。
織田家の子は信忠(とその孫の三法師)と勝長くらいでしょ。
二条城で死んでなけりゃ、勝長が織田家継いだと思うんだけど、どうかな。
373人間七七四年
2007/07/16(月) 18:17:49ID:wkOOcgBN 信房だって津田姓なわけで。厳密に「織田」は信忠一人だろ
374人間七七四年
2007/07/16(月) 18:29:34ID:dL1/Aq+f 信秀も忘れないで。
勝長とさほど年の変わらない信秀が候補に上がらなかった点を見ると、勝長が生きていても、後継者は
三法師で決まりだったと思う。
信秀は、稲葉氏が生母として有力で、母の身分も高く、小田原攻めでは6番隊の大将を勤めるほどの器。
もう普通に考えたら、三法師以外ありえないというほど、三法師は織田家中で認められていたんじゃね?
三法師は塩野氏の子って説もあるんだけど、状況証拠的は森長可の妹の可能性が高いんだよね?
後継者問題に敏感だった信長は、三法師の外戚が森氏なら、三法師を後継と定めていないなら
三法師の外戚であるという理由で、長可を出世させないだろう。(後継争いを避けるため)
もしも、三法師の外戚が森氏だったとしたら、もうすでに織田家の中枢に近い範囲では、三法師が後継に
決定していた可能性のほうが高いと思う。
勝長とさほど年の変わらない信秀が候補に上がらなかった点を見ると、勝長が生きていても、後継者は
三法師で決まりだったと思う。
信秀は、稲葉氏が生母として有力で、母の身分も高く、小田原攻めでは6番隊の大将を勤めるほどの器。
もう普通に考えたら、三法師以外ありえないというほど、三法師は織田家中で認められていたんじゃね?
三法師は塩野氏の子って説もあるんだけど、状況証拠的は森長可の妹の可能性が高いんだよね?
後継者問題に敏感だった信長は、三法師の外戚が森氏なら、三法師を後継と定めていないなら
三法師の外戚であるという理由で、長可を出世させないだろう。(後継争いを避けるため)
もしも、三法師の外戚が森氏だったとしたら、もうすでに織田家の中枢に近い範囲では、三法師が後継に
決定していた可能性のほうが高いと思う。
375人間七七四年
2007/07/16(月) 18:38:44ID:HMZADC/z376人間七七四年
2007/07/16(月) 19:33:22ID:uEgEi/IC >>375
後継者は三法師に決まっていたっていうのはどうかな。信忠の正室がいなかったから
もし本能寺が起きなかったら、信忠がその後他の大名家辺りから正室を娶って、
男の子が生まれればその子が正式な織田家の跡取りとなったろうね。
だから、三法師の母親が信忠の正室でなかったので、三法師は正式な跡取り
として認められていたとは思えないんだよ。
しかし、信忠が正室を娶る前に死んだんで、側室の子供だった三法師が秀吉に
担ぎこまれてしまったということだと思う。
あと、織田の名乗りを許されていた勝長(信房)も信忠とともに討ち死にしている
からね。勝長と年が近いと言われている信秀だってまだ元服前だったしね。
後継者は三法師に決まっていたっていうのはどうかな。信忠の正室がいなかったから
もし本能寺が起きなかったら、信忠がその後他の大名家辺りから正室を娶って、
男の子が生まれればその子が正式な織田家の跡取りとなったろうね。
だから、三法師の母親が信忠の正室でなかったので、三法師は正式な跡取り
として認められていたとは思えないんだよ。
しかし、信忠が正室を娶る前に死んだんで、側室の子供だった三法師が秀吉に
担ぎこまれてしまったということだと思う。
あと、織田の名乗りを許されていた勝長(信房)も信忠とともに討ち死にしている
からね。勝長と年が近いと言われている信秀だってまだ元服前だったしね。
377人間七七四年
2007/07/16(月) 20:50:52ID:k33HS7u1 これは自分の臆測だけど、秀吉は養嗣子である秀勝をゆくゆくは
織田宗家の座につかせようと思っていたんじゃないかなと思ってるんだ。
その目論見が顕著にでてるのが、信長葬儀の時に秀勝に喪主をさせていること。
喪主は後継者がするのが通例だ。
本来なら後継者に決まった三法師がすべきこと。
織田宗家当主の喪主を養子とはいえ羽柴家の嫡子ができるわけもない。
それをやらせたということには大きな意味があると思う。
事実上の後継者を秀吉と印象付けたと解釈されているが、本来なら
喪主を務めた秀勝が後継者という印象をもたれかねないと思うし、
そういう意図もあっての事じゃないかなと思う。
三法師が幼少の頃に反対勢力を排除あるいは臣従させてしまえば、
秀勝を織田姓に復帰させ織田家を相続させることも可能だったろう。
だから最大の反対者と想定される勝家に三法師相続を認めさせるために
お市を斡旋したり、長浜城や所領を勝家にゆずったりと譲歩
しまくったんじゃないかと思う。
織田宗家の座につかせようと思っていたんじゃないかなと思ってるんだ。
その目論見が顕著にでてるのが、信長葬儀の時に秀勝に喪主をさせていること。
喪主は後継者がするのが通例だ。
本来なら後継者に決まった三法師がすべきこと。
織田宗家当主の喪主を養子とはいえ羽柴家の嫡子ができるわけもない。
それをやらせたということには大きな意味があると思う。
事実上の後継者を秀吉と印象付けたと解釈されているが、本来なら
喪主を務めた秀勝が後継者という印象をもたれかねないと思うし、
そういう意図もあっての事じゃないかなと思う。
三法師が幼少の頃に反対勢力を排除あるいは臣従させてしまえば、
秀勝を織田姓に復帰させ織田家を相続させることも可能だったろう。
だから最大の反対者と想定される勝家に三法師相続を認めさせるために
お市を斡旋したり、長浜城や所領を勝家にゆずったりと譲歩
しまくったんじゃないかと思う。
378人間七七四年
2007/07/17(火) 06:00:23ID:EpLdoV3y379人間七七四年
2007/07/17(火) 07:53:54ID:BDBNaRMu >>378
たぶんそういう意味じゃなくて、本能寺の前までの織田宗家の家督相続権利の順の
ことを言っているのではないかと思う。
嫡男信忠の次は、織田姓の勝長に家督を継ぐ権利がある、
だからもし勝長が生きていたら三法師ではなく勝長の方が相続する権利が
強かったんじゃないか、てことが言いたいんじゃない?
でも庶子とはいえ信忠に男子がいたから、権利は弟より信忠の息子の方が
権利が強かったと思う。庶子ってそもそもが嫡子のスペアなんだし、
嫡子がいなければ庶子が家督を継いできたわけで。
家督相続権は親→直系男子(嫡庶長幼)が基本ラインだから
三法師がいたらやはりそっちに家督がいくのは自然じゃない?
嫡男とはいえまだ家督を相続していなかったら弟にいったかもしれないけど。
たぶんそういう意味じゃなくて、本能寺の前までの織田宗家の家督相続権利の順の
ことを言っているのではないかと思う。
嫡男信忠の次は、織田姓の勝長に家督を継ぐ権利がある、
だからもし勝長が生きていたら三法師ではなく勝長の方が相続する権利が
強かったんじゃないか、てことが言いたいんじゃない?
でも庶子とはいえ信忠に男子がいたから、権利は弟より信忠の息子の方が
権利が強かったと思う。庶子ってそもそもが嫡子のスペアなんだし、
嫡子がいなければ庶子が家督を継いできたわけで。
家督相続権は親→直系男子(嫡庶長幼)が基本ラインだから
三法師がいたらやはりそっちに家督がいくのは自然じゃない?
嫡男とはいえまだ家督を相続していなかったら弟にいったかもしれないけど。
380人間七七四年
2007/07/17(火) 07:57:29ID:RgtYk00h 勝長が継ぐなんて一番現実味が薄いと思うし
継承権自体も、単にどっか養子先を探してて一時的に津田(織田って手紙だけじゃなかったか?)を名乗らせてた可能性が高い
本能寺起こらなかったら二、三年後には武田勝長にでもなってそうだ
継承権自体も、単にどっか養子先を探してて一時的に津田(織田って手紙だけじゃなかったか?)を名乗らせてた可能性が高い
本能寺起こらなかったら二、三年後には武田勝長にでもなってそうだ
381人間七七四年
2007/07/17(火) 08:05:13ID:qDsG+5/D >>380
>織田って手紙だけじゃなかったか?
当時の一次史料では、「津田」と記載されているものが
一つもないんだよ。
「織田」ならある。
死後「津田」とされるようになったようだ。
信房は、天正9年11月に武田から帰って来たのではなく、
実際はもう半年くらい早かったと考えられる史料があり、
最近では天正9年の早い時期に戻って来たとする説もある。
戻って来た後、武田との交渉役をやっていたらしい。
その時は既に、織田信房と考えられる署名になっている。
>織田って手紙だけじゃなかったか?
当時の一次史料では、「津田」と記載されているものが
一つもないんだよ。
「織田」ならある。
死後「津田」とされるようになったようだ。
信房は、天正9年11月に武田から帰って来たのではなく、
実際はもう半年くらい早かったと考えられる史料があり、
最近では天正9年の早い時期に戻って来たとする説もある。
戻って来た後、武田との交渉役をやっていたらしい。
その時は既に、織田信房と考えられる署名になっている。
382人間七七四年
2007/07/17(火) 09:28:38ID:BDBNaRMu 他家に養子にだせば織田家の家督相続から外れるけど、他家にださずに
一門扱いをして家を残す場合はあえて津田を名乗らせ、
立場をわきまえさせようとしたんじゃないか?
織田姓のまま庶家として家系を残している場合もあるけど、
いったんは津田姓を名乗っていたりしているし。
津田家は織田家の本家筋ではあるみたいだけど、家督相続でごちゃごちゃしないように
姓で一線を引いていたイメージがある。
勝長もいったんは遠山家の養子になっていたし、本能寺の変がなければ
どこぞの家に乗っ取り目的の婿養子にだされていた可能性が高い。
勝長の息子の勝良は津田姓で前田家に600石で召抱えられてるし。
一門扱いをして家を残す場合はあえて津田を名乗らせ、
立場をわきまえさせようとしたんじゃないか?
織田姓のまま庶家として家系を残している場合もあるけど、
いったんは津田姓を名乗っていたりしているし。
津田家は織田家の本家筋ではあるみたいだけど、家督相続でごちゃごちゃしないように
姓で一線を引いていたイメージがある。
勝長もいったんは遠山家の養子になっていたし、本能寺の変がなければ
どこぞの家に乗っ取り目的の婿養子にだされていた可能性が高い。
勝長の息子の勝良は津田姓で前田家に600石で召抱えられてるし。
383人間七七四年
2007/07/17(火) 09:34:45ID:sLZBSMg4 政略で継承した他家の家督なんか、すぐ放棄できる。
信孝も神戸を捨てて三好を継ぐ手はずだったと聞くし、
機会があればすぐ復姓すれば済むだけのこと。
信孝も神戸を捨てて三好を継ぐ手はずだったと聞くし、
機会があればすぐ復姓すれば済むだけのこと。
384人間七七四年
2007/07/17(火) 10:11:25ID:BDBNaRMu >>383
でも他家の姓を継ぎ、本家に後継者もいたなら
他家のくせに織田の本家の家督を狙うわけにはいかないよね?
実力行使にでるにしてもそんな理不尽なことに賛同する家臣もいない。
そのあたりの抑止力にはなると思う。
でも他家の姓を継ぎ、本家に後継者もいたなら
他家のくせに織田の本家の家督を狙うわけにはいかないよね?
実力行使にでるにしてもそんな理不尽なことに賛同する家臣もいない。
そのあたりの抑止力にはなると思う。
385人間七七四年
2007/07/17(火) 14:32:50ID:Zj3KQW+Z >>379
信忠の子供も庶子なのが問題といえば問題。
勝長が嫡流扱いなのかどうかはおいて、仮にそうだと仮定すると、すでに成人した
嫡流の弟と未成年の庶子では正当性の優劣は逆転しかねない。
それと戦国時代では、なによりもまず当主には指導力が求められる。嫡流であっても
家を守る指導力が期待できない場合は外されることもあった。
例としては今川家。氏範の死後、明白な嫡男がいるにも関わらず、子供であることを
理由に一族の男鹿光範が当主代行を担うことになった。(今では、代行ではなく当主
だったのではないかという説もある)
信忠の子供も庶子なのが問題といえば問題。
勝長が嫡流扱いなのかどうかはおいて、仮にそうだと仮定すると、すでに成人した
嫡流の弟と未成年の庶子では正当性の優劣は逆転しかねない。
それと戦国時代では、なによりもまず当主には指導力が求められる。嫡流であっても
家を守る指導力が期待できない場合は外されることもあった。
例としては今川家。氏範の死後、明白な嫡男がいるにも関わらず、子供であることを
理由に一族の男鹿光範が当主代行を担うことになった。(今では、代行ではなく当主
だったのではないかという説もある)
386人間七七四年
2007/07/17(火) 15:24:21ID:BDBNaRMu >>385 名前が全然違うよw
小鹿範満の場合は子孫に嫡流を継ぐことが許されない期間限定一代限りの
仮の当主を遂行することを許されただけでしょ。
しかも内戦が長く続いたので幕府が介入してその条件をのまされて
期限がきても約束を守らないからあっさり成敗されているし
範満がいかに正嫡性のない当主だったかを証明している。
範満は父の代から今川家の家督を争っているし、自身も虎視眈々と今川家の家督を
狙っていたから、先代が亡くなったのを境に家臣をけしかけ、
お家乗っ取りを図ったというのがことの真相でしょう。
けして幼少の嫡男がどうのこうのではなく、初めから乗っ取る気でいたという
あたりで、指導力がどうのこうのというのは関係なかったと思うよ。
小鹿範満の場合は子孫に嫡流を継ぐことが許されない期間限定一代限りの
仮の当主を遂行することを許されただけでしょ。
しかも内戦が長く続いたので幕府が介入してその条件をのまされて
期限がきても約束を守らないからあっさり成敗されているし
範満がいかに正嫡性のない当主だったかを証明している。
範満は父の代から今川家の家督を争っているし、自身も虎視眈々と今川家の家督を
狙っていたから、先代が亡くなったのを境に家臣をけしかけ、
お家乗っ取りを図ったというのがことの真相でしょう。
けして幼少の嫡男がどうのこうのではなく、初めから乗っ取る気でいたという
あたりで、指導力がどうのこうのというのは関係なかったと思うよ。
387人間七七四年
2007/07/17(火) 16:08:03ID:NVbUeLzX どうでもいいけど時世の句のセンスいいよな
388人間七七四年
2007/07/17(火) 17:26:04ID:jiWnz71l むしろ暗愚よりは置物の方がよい
指導力がありすぎると今度は自分達の利権を脅かされる
ってのが戦国の常識じゃないか?
信長なんて仕えにくい当主だったから、単純にアクの強いというかガツガツしてる信雄や信孝はさけて
一息つきてーぐらいの気持ちでみんな三法師を選んだのに、一人権力猿がいた
指導力がありすぎると今度は自分達の利権を脅かされる
ってのが戦国の常識じゃないか?
信長なんて仕えにくい当主だったから、単純にアクの強いというかガツガツしてる信雄や信孝はさけて
一息つきてーぐらいの気持ちでみんな三法師を選んだのに、一人権力猿がいた
389人間七七四年
2007/07/18(水) 00:11:29ID:hUxmd9gG >>388
下の人間の立場よってかわるね。
豪族レベルなら、基本的には自分の利権を守ってくれるのがいい君主。戦に強くて
領地を守り、かつ利益をもたらしてくれるのなら多少の人格の難なんて気にしない。
信長がそうだし、信玄や謙信も同じ。継承に関して指導力や年齢が求められるのは
それ故。
ただこれは、大名の君主権がそれほと強くなかった時期の話。戦争に勝つためには
結局は君主権の強化が必然の道で、その過程で利益がぶつかる勢力化の大勢力を
どのように臣従化させていくかで部下とはぶつかるようになる。まあ大勢力になる
ような家は、大抵はこの被官化を抵抗少なく進めた結果だが。
下の人間の立場よってかわるね。
豪族レベルなら、基本的には自分の利権を守ってくれるのがいい君主。戦に強くて
領地を守り、かつ利益をもたらしてくれるのなら多少の人格の難なんて気にしない。
信長がそうだし、信玄や謙信も同じ。継承に関して指導力や年齢が求められるのは
それ故。
ただこれは、大名の君主権がそれほと強くなかった時期の話。戦争に勝つためには
結局は君主権の強化が必然の道で、その過程で利益がぶつかる勢力化の大勢力を
どのように臣従化させていくかで部下とはぶつかるようになる。まあ大勢力になる
ような家は、大抵はこの被官化を抵抗少なく進めた結果だが。
390TRICKSTER ◆CASVAL9Zfw
2007/07/18(水) 00:28:59ID:5ACqUgNd391人間七七四年
2007/07/18(水) 02:10:47ID:EZdUe8xa しかし結局君主権なんて日本じゃ成立しなかった皮肉
392人間七七四年
2007/07/18(水) 04:58:06ID:ZpuCoHDd >>384
信孝の場合は本能寺の変後「織田三七郎」という
表記が日記などに登場するので、三好氏との養子
を解消して織田姓に復したと思われる。
そのわけは三好苗字では織田家の家督を狙うのに
都合が悪いから。
もちろんこれは嫡男たる信忠の死によって可能になった
ことだろう。信忠が生きてれば織田姓復帰などできない。
ちなみに信雄も本能寺後は北畠でなく「織田信雄」
と呼ばれることが多い。こちらは養子関係を解消した
とかではなく、ただなんとなくに思えるが。
信孝の場合は本能寺の変後「織田三七郎」という
表記が日記などに登場するので、三好氏との養子
を解消して織田姓に復したと思われる。
そのわけは三好苗字では織田家の家督を狙うのに
都合が悪いから。
もちろんこれは嫡男たる信忠の死によって可能になった
ことだろう。信忠が生きてれば織田姓復帰などできない。
ちなみに信雄も本能寺後は北畠でなく「織田信雄」
と呼ばれることが多い。こちらは養子関係を解消した
とかではなく、ただなんとなくに思えるが。
393人間七七四年
2007/07/18(水) 06:41:20ID:2Xg3Sgj5 信孝の三好家への養子の話は書状からの臆測じゃなかったっけ?
正式に養子縁組はしてないはずだと思ったけど。
正式に養子縁組はしてないはずだと思ったけど。
394人間七七四年
2007/07/18(水) 14:05:13ID:2Xg3Sgj5 信長がああいう亡くなり方をしたら、家臣たちの頭をよぎるのは
「誰の下につくのが一番賢いか、出世できるか」だったと思うんだよね。
戦国時代だもの信長への忠義心や息子たちや孫への忠義心よりも優先されたと思う。
そうなると、トップクラスのほとんどの重臣たちは信雄、信孝よりも三法師を
主君と仰いだほうがやりやすいと判断したんじゃないかな?
本来嫡男ではなかった三法師には手ごわい側近衆もつけられていなかったろうし、
正室がらみのしがらみもない。
信雄や信孝にはすでに幼少期からの側近がいて、そのものたちが優先的に
重用されるのは目に見えているから、外様の家臣たちは思うように出世
できないかもしれない。
そう考えると三法師擁立は信長直臣たちにとって都合のいい人選だし、
秀吉をはじめ諸侯にとっても、勝家にとっても悪い話じゃなかったと思うんだけど。
「誰の下につくのが一番賢いか、出世できるか」だったと思うんだよね。
戦国時代だもの信長への忠義心や息子たちや孫への忠義心よりも優先されたと思う。
そうなると、トップクラスのほとんどの重臣たちは信雄、信孝よりも三法師を
主君と仰いだほうがやりやすいと判断したんじゃないかな?
本来嫡男ではなかった三法師には手ごわい側近衆もつけられていなかったろうし、
正室がらみのしがらみもない。
信雄や信孝にはすでに幼少期からの側近がいて、そのものたちが優先的に
重用されるのは目に見えているから、外様の家臣たちは思うように出世
できないかもしれない。
そう考えると三法師擁立は信長直臣たちにとって都合のいい人選だし、
秀吉をはじめ諸侯にとっても、勝家にとっても悪い話じゃなかったと思うんだけど。
395人間七七四年
2007/07/18(水) 14:35:59ID:flqOJ5fn >>393
神戸の次の、筒井の方は正式に決まってたんだっけ?
神戸の次の、筒井の方は正式に決まってたんだっけ?
396人間七七四年
2007/07/18(水) 15:20:30ID:GxSdqBKP 筒井信孝・・・
397人間七七四年
2007/07/19(木) 02:38:59ID:s03ef44b >>393
天正10年5月に信長が信孝に与えたいわゆる「四国分国令」に
次の1節がある。
万端山城守に対し君臣・父母の思いをなし、馳走すべきの事、
忠節たるべく候云々
つまり山城守(三好康長)を父とも主君とも思い仕えよと
命じている。
また「宇野主水日記」にも三七郎殿、阿州三好山城守養子として
ご渡海ありとあり、信孝の三好氏養子入りは間違いない。
本能寺の変により幻となったが信孝による四国征伐が行われ
信孝が讃岐を領していた場合それは「三好信孝」としての
ものだったことは間違いない。
ただ四国渡海前に彼が「神戸信孝」か「三好信孝」のどっち
だったのかは微妙なところだが。
天正10年5月に信長が信孝に与えたいわゆる「四国分国令」に
次の1節がある。
万端山城守に対し君臣・父母の思いをなし、馳走すべきの事、
忠節たるべく候云々
つまり山城守(三好康長)を父とも主君とも思い仕えよと
命じている。
また「宇野主水日記」にも三七郎殿、阿州三好山城守養子として
ご渡海ありとあり、信孝の三好氏養子入りは間違いない。
本能寺の変により幻となったが信孝による四国征伐が行われ
信孝が讃岐を領していた場合それは「三好信孝」としての
ものだったことは間違いない。
ただ四国渡海前に彼が「神戸信孝」か「三好信孝」のどっち
だったのかは微妙なところだが。
398人間七七四年
2007/07/19(木) 06:57:36ID:iwPeAF5Y だから読めば読むほどまだ養子になっていないとわかるじゃん。
そういう予定だろうな、という臆測が成り立つ手紙であって
三好信孝であったことを証明するものではない。
第一三好家のほうの史料にも信孝を正式に養子にしたとされる
史料は何も残ってない。
豊臣秀次のことは康長が秀吉に取りこまれる際に一時養子にしたことはあるようだがな。
そういう予定だろうな、という臆測が成り立つ手紙であって
三好信孝であったことを証明するものではない。
第一三好家のほうの史料にも信孝を正式に養子にしたとされる
史料は何も残ってない。
豊臣秀次のことは康長が秀吉に取りこまれる際に一時養子にしたことはあるようだがな。
399人間七七四年
2007/07/19(木) 08:08:27ID:/iU2urqS 正式にとか、三好側の史料がないなんて
そんなのは屁理屈だろう。
この「四国分国令」を書いたのは天下人たる信長なんだよ?
ただの一大名ではない。
信長がそう言ってる以上、その配下である三好康長がそれを
拒めるはずはない。
研究者の書いたものにも「信孝の三好養子入りは間違いない」とか
「信長は信孝に三好氏の名跡を継がそうとした」などと書かれている。
関連書籍も読んでないようだから紹介しておく。
谷口克広「信長軍の司令官」(中公新書)
桐野作人「だれが信長を殺したのか」(PHP新書)
百歩譲って正式に養子にはなってなかったとしても
その予定だったとは断言できる。
そんなのは屁理屈だろう。
この「四国分国令」を書いたのは天下人たる信長なんだよ?
ただの一大名ではない。
信長がそう言ってる以上、その配下である三好康長がそれを
拒めるはずはない。
研究者の書いたものにも「信孝の三好養子入りは間違いない」とか
「信長は信孝に三好氏の名跡を継がそうとした」などと書かれている。
関連書籍も読んでないようだから紹介しておく。
谷口克広「信長軍の司令官」(中公新書)
桐野作人「だれが信長を殺したのか」(PHP新書)
百歩譲って正式に養子にはなってなかったとしても
その予定だったとは断言できる。
400人間七七四年
2007/07/19(木) 08:24:51ID:iwPeAF5Y >>399
俺のレスよく読んでるのかよ?
俺は養子云々の話はあくまで予定であって実際にはなっていかったと言ってるん
ですけどね?
養子にという申出があったとしても信長が亡くなる時は
正式には養子縁組はしていなかったんだから。
それとも養子縁組をしていたという三好家もしくは織田家の史料でも
あるのか?
「継がそうとした」と「継がした」は同じ意味か?
信孝が「三好信孝」と署名した手紙でも残っているのか?
養子になった後神戸家を継いだのは誰なんだ?
それに三好家への養子の話があったことを誰も否定してないがな?
>>そういう予定だろうな、という臆測が成り立つ手紙であって
>>三好信孝であったことを証明するものではない。
桐野氏だって、谷口氏だってそういう臆測のもとに自論を述べているだけで
当時信孝がすでに三好家に養子に入って「三好信孝」になっていたと
断言していたか?
俺のレスよく読んでるのかよ?
俺は養子云々の話はあくまで予定であって実際にはなっていかったと言ってるん
ですけどね?
養子にという申出があったとしても信長が亡くなる時は
正式には養子縁組はしていなかったんだから。
それとも養子縁組をしていたという三好家もしくは織田家の史料でも
あるのか?
「継がそうとした」と「継がした」は同じ意味か?
信孝が「三好信孝」と署名した手紙でも残っているのか?
養子になった後神戸家を継いだのは誰なんだ?
それに三好家への養子の話があったことを誰も否定してないがな?
>>そういう予定だろうな、という臆測が成り立つ手紙であって
>>三好信孝であったことを証明するものではない。
桐野氏だって、谷口氏だってそういう臆測のもとに自論を述べているだけで
当時信孝がすでに三好家に養子に入って「三好信孝」になっていたと
断言していたか?
401人間七七四年
2007/07/19(木) 11:49:34ID:lcrmGp/N402人間七七四年
2007/07/19(木) 11:58:26ID:iwPeAF5Y403人間七七四年
2007/07/20(金) 04:57:09ID:vnutGU+0 一応同母とされてる信忠・信雄と違って
信雄・信孝は同年、しかも真偽は定かでないが
信孝の方が先に生まれていたのに母の関係で3男にされて
しまったといううらみがあるからな。
多分信孝は信雄を兄などとは思っていなかっただろう。
しかも自分は今度四国攻めの総大将に任命されたのに
信雄は以前伊賀攻めに失敗して父から譴責されてる始末。
こんな2人では手を組んで秀吉に対抗するなんて不可能
だったろうなあ。まずあるのは相手を潰すこと。
ただし実際の歴史通り信孝は信雄を潰すなんて考えて
いなかったろう。相手にもしてないって感じ。
信雄・信孝は同年、しかも真偽は定かでないが
信孝の方が先に生まれていたのに母の関係で3男にされて
しまったといううらみがあるからな。
多分信孝は信雄を兄などとは思っていなかっただろう。
しかも自分は今度四国攻めの総大将に任命されたのに
信雄は以前伊賀攻めに失敗して父から譴責されてる始末。
こんな2人では手を組んで秀吉に対抗するなんて不可能
だったろうなあ。まずあるのは相手を潰すこと。
ただし実際の歴史通り信孝は信雄を潰すなんて考えて
いなかったろう。相手にもしてないって感じ。
404人間七七四年
2007/07/20(金) 07:48:24ID:SoFNmkdy 信雄は理由はどうあれ兄である以上生まれながらに
織田家では信孝より優位な立場にある。
北畠家と神戸家では家格の差もかなりあるし、養子に入る時に
信雄は織田家の家臣や親族が側近でつけられているが
信孝には生母一族や乳母の夫などで、織田家内の有力家臣などはいない。
だからこそことさら信孝が頑張ったとか、ライバル意識を持っていたという
通説が生まれたけど、本当はそこまであからさまに兄弟間に差をつけたら
お互いをライバル視するなんていう関係は生まれないと思うよ。
信孝もあきらめるでしょ。逆立ちしてもかなわないと。
三好康長の養子になったところで三好家の庶家にすぎないわけだしね。
織田家では信孝より優位な立場にある。
北畠家と神戸家では家格の差もかなりあるし、養子に入る時に
信雄は織田家の家臣や親族が側近でつけられているが
信孝には生母一族や乳母の夫などで、織田家内の有力家臣などはいない。
だからこそことさら信孝が頑張ったとか、ライバル意識を持っていたという
通説が生まれたけど、本当はそこまであからさまに兄弟間に差をつけたら
お互いをライバル視するなんていう関係は生まれないと思うよ。
信孝もあきらめるでしょ。逆立ちしてもかなわないと。
三好康長の養子になったところで三好家の庶家にすぎないわけだしね。
405人間七七四年
2007/07/20(金) 12:18:26ID:55FEgtQb >信孝の方が先に生まれていたのに母の関係で3男にされて
そういう事実はない。
側室同士の子供が母親がらみで、兄弟の順番をかえられるなんてことは
ない。
そういう事実はない。
側室同士の子供が母親がらみで、兄弟の順番をかえられるなんてことは
ない。
406人間七七四年
2007/07/20(金) 13:06:01ID:4ACPbK1W 皇室じゃ、近年になるまで側室の出自で兄弟の順番を変えた例は複数確認できるから
当時の事がはっきり分からない以上、武家の事とは言え、ないと言い切るのもどうかと思う。
だが、自分は、実際の生まれた日時はどうであれ、報告の順番だと思う。
生母の出自は、関係なかったとも思う。
生駒と坂じゃ、大差ないしな。
信忠が仮に生駒腹でも、信雄信孝が生まれた頃は、
まだ正室の養子にもなっていないだろうし、嫡男でもなかっただろうから
嫡男の生母だから信雄が二男になったというのも、眉唾だと思う。
当時の事がはっきり分からない以上、武家の事とは言え、ないと言い切るのもどうかと思う。
だが、自分は、実際の生まれた日時はどうであれ、報告の順番だと思う。
生母の出自は、関係なかったとも思う。
生駒と坂じゃ、大差ないしな。
信忠が仮に生駒腹でも、信雄信孝が生まれた頃は、
まだ正室の養子にもなっていないだろうし、嫡男でもなかっただろうから
嫡男の生母だから信雄が二男になったというのも、眉唾だと思う。
407人間七七四年
2007/07/21(土) 13:57:45ID:wh3PkL6u 信雄って平家でいうと宗盛のポジションか。
早世した信忠が重盛で。
じゃぁ信孝はさしずめ知盛あたり?
早世した信忠が重盛で。
じゃぁ信孝はさしずめ知盛あたり?
408人間七七四年
2007/07/21(土) 15:29:52ID:TGdV7s65 知盛に失礼な希ガス
409人間七七四年
2007/07/21(土) 23:00:07ID:h/rrrP2c 信孝優秀伝説って具体的になんかあるの?
戦場では側近の働きが大きかったと思うんだけど。
あとキリシタンに友好的だったから、宣教師の評判はすこぶるよかった。
そのへんの史料の影響もあって優秀伝説が生まれたのだと思う。
それと信雄愚将伝説もあるから、よけい。
本当に優秀ならあんな無様な最期にはなってないさ。
しょせん偉大な父親の指導とバックアップがあってこその戦歴だったってこと。
戦場では側近の働きが大きかったと思うんだけど。
あとキリシタンに友好的だったから、宣教師の評判はすこぶるよかった。
そのへんの史料の影響もあって優秀伝説が生まれたのだと思う。
それと信雄愚将伝説もあるから、よけい。
本当に優秀ならあんな無様な最期にはなってないさ。
しょせん偉大な父親の指導とバックアップがあってこその戦歴だったってこと。
411人間七七四年
2007/07/22(日) 01:29:41ID:ExvskDUg412人間七七四年
2007/07/22(日) 08:36:09ID:qcS0XvID413人間七七四年
2007/07/22(日) 09:10:07ID:miDxI2yV414人間七七四年
2007/07/22(日) 09:21:03ID:IEDlIKqN 具体的な反証を示さず、書き込んだ人間への中傷を始めるのは、普通世間一般では「敗北宣言」とみなされます。
特に「歴史検証」なんてする場所ではね。
特に「歴史検証」なんてする場所ではね。
415人間七七四年
2007/07/22(日) 11:21:30ID:vPvNQkqg 要は自分の主張の矛盾点・問題点を指摘された409が逆ギレしてるわけか。
具体的な指摘には、具体的な反論で返さなきゃな。
具体的な指摘には、具体的な反論で返さなきゃな。
416人間七七四年
2007/07/22(日) 21:53:39ID:DwHo8VF1 勝頼と比べるのはおかしい罠。
彼は信玄死後も充分な実績があったわけだし。
信孝と似たような人生の二世って誰かいる?
彼は信玄死後も充分な実績があったわけだし。
信孝と似たような人生の二世って誰かいる?
417人間七七四年
2007/07/22(日) 22:11:59ID:qcS0XvID それに
>しょせん偉大な父親の指導とバックアップがあってこその戦歴だったってこと。
なら、信雄も信孝と同じぐらい戦での実績を挙げてないといけないことになるが。
>しょせん偉大な父親の指導とバックアップがあってこその戦歴だったってこと。
なら、信雄も信孝と同じぐらい戦での実績を挙げてないといけないことになるが。
418人間七七四年
2007/07/22(日) 23:04:20ID:DwHo8VF1 ノブヲちゃんは伊賀攻めで大敗したりと
父親の庇護下のときでも評判悪くて
もともとが無能扱いだから比較対象にならないと思う。
まあ、後の天下人相手では誰だってダメなんじゃない?
勝家だって滅んだんだしさ。
かといって有能とも思わないけど。
父親の庇護下のときでも評判悪くて
もともとが無能扱いだから比較対象にならないと思う。
まあ、後の天下人相手では誰だってダメなんじゃない?
勝家だって滅んだんだしさ。
かといって有能とも思わないけど。
419人間七七四年
2007/07/23(月) 07:33:21ID:S4R6V0w+ >>417 誰もが認める信孝の実戦での実績とは例えば何?
420人間七七四年
2007/07/23(月) 22:09:11ID:NZW6xdil 少々苦しいが
信孝は四国攻めの総大将に任命されている。
実際は本能寺の変のため幻となったが。
これは父信長が信孝の資質を認めたからこその
任命であって、伊賀攻めに失敗して父から譴責されている
信雄とは大いに異なる。
信孝は四国攻めの総大将に任命されている。
実際は本能寺の変のため幻となったが。
これは父信長が信孝の資質を認めたからこその
任命であって、伊賀攻めに失敗して父から譴責されている
信雄とは大いに異なる。
421人間七七四年
2007/07/24(火) 00:30:19ID:4gvAHLAl 副将が丹羽・蜂屋・信澄な時点で疑問視がつく
信忠旗下の斉藤・森・団に比べれば、手堅い人選
信忠旗下の斉藤・森・団に比べれば、手堅い人選
422人間七七四年
2007/07/24(火) 01:31:45ID:JLlxO0yB 信雄も大粗相の2年後には総大将で伊賀攻めで成果をあげ、勝利を
おさめているから、信雄と差のつく戦歴かどうかは微妙。
ところで信孝は本能寺の変後まっさきに津田信澄を討ち取っているが
信澄はまったくの冤罪説が有力なのだが、いいのか?
いくら混乱のドサクサとはいえ、罪もない身内を殺しちまって。
そういう軽率なことろが自滅を招いたといういう見かたもできるが。
おさめているから、信雄と差のつく戦歴かどうかは微妙。
ところで信孝は本能寺の変後まっさきに津田信澄を討ち取っているが
信澄はまったくの冤罪説が有力なのだが、いいのか?
いくら混乱のドサクサとはいえ、罪もない身内を殺しちまって。
そういう軽率なことろが自滅を招いたといういう見かたもできるが。
423宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/24(火) 01:39:03ID:tXSITDDh 織田家中において重きを置かれる信澄が、邪魔だったのかな…
まあ、「疑わしきは罰せず」の現在とは違い、「疑わしきは誅す」時代だしな。
信孝が本心から信澄謀反を信じていたとは思い難いが…
まあ、「疑わしきは罰せず」の現在とは違い、「疑わしきは誅す」時代だしな。
信孝が本心から信澄謀反を信じていたとは思い難いが…
424人間七七四年
2007/07/24(火) 05:17:04ID:XoRTywtV 現代では、かつて信長に謀反した信勝(通称・信行)の子で
あることと、光秀の娘婿であることを疑われて
「明智の一味」とされたということになってるが
前者は皆忘れてたかもな。
信長自身それを許して(?)重用してたわけだし。
馬揃えでも当の信孝より上位。
同じ光秀の娘婿の細川忠興のように、早く
妻を離縁するなどして、明智との絶縁を明らかに
しておけば、殺されずにすんだろうが。
あることと、光秀の娘婿であることを疑われて
「明智の一味」とされたということになってるが
前者は皆忘れてたかもな。
信長自身それを許して(?)重用してたわけだし。
馬揃えでも当の信孝より上位。
同じ光秀の娘婿の細川忠興のように、早く
妻を離縁するなどして、明智との絶縁を明らかに
しておけば、殺されずにすんだろうが。
425人間七七四年
2007/07/25(水) 23:47:11ID:27+3l7IS2007/07/29(日) 17:39:33ID:KWWY108R
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428人間七七四年
2007/07/30(月) 18:00:43ID:0jEcp9e/ で、結局それなりに有能なのか?
429人間七七四年
2007/08/01(水) 15:21:16ID:f7iqcbGO 信雄以上信忠未満なのは確定
430人間七七四年
2007/08/01(水) 18:14:34ID:IVtQFkrZ 有能か、っていう問いは難しくないか
能力があっても判断力がない奴はいる
三成とか勝頼とか光秀とか正則とか
能力があっても判断力がない奴はいる
三成とか勝頼とか光秀とか正則とか
431人間七七四年
2007/08/01(水) 18:36:39ID:z72X88Pn 福島はちょっと微妙なところだが前3人は敗者といえども
自分の力で名を残しているから
信孝とは同列には語れないと思うんだが。
自分の力で名を残しているから
信孝とは同列には語れないと思うんだが。
432人間七七四年
2007/08/02(木) 12:27:30ID:WIp6YCcF 福島?ただのコネ大名だろw
実績は猪武者程度の武功のみ
実績は猪武者程度の武功のみ
433人間七七四年
2007/08/07(火) 20:12:54ID:pd2xFO11 福島は頭弱い感が否めん。
434人間七七四年
2007/08/13(月) 11:25:50ID:36A3sCOr 別に弱くねぇだろ
435人間七七四年
2007/08/18(土) 04:19:07ID:lB5+zhFx ところで信孝の墓とか安養院って行ったことあります?
私は年に一度行くのですが、お聞かせください。
私は年に一度行くのですが、お聞かせください。
436人間七七四年
2007/08/19(日) 05:03:50ID:Op3Uikww ないです。ごめん。
437人間七七四年
2007/08/20(月) 13:55:49ID:k8rQWGv0 中伊勢では長野家や関家に比べ格下の神戸家の養子にされた信孝カワイソス
国司の北畠家の養子となった信雄では格では歴然
信孝のふつふつと湧き出るどうしようもない怒りが解るような気がする
国司の北畠家の養子となった信雄では格では歴然
信孝のふつふつと湧き出るどうしようもない怒りが解るような気がする
438人間七七四年
2007/08/21(火) 14:46:04ID:AnmzkNmb でも、その後、三好家を継ぐ予定だったよね。
その三好家も家格低い方だけど・・・
その三好家も家格低い方だけど・・・
439人間七七四年
2007/08/24(金) 17:46:02ID:G7LwB+PI 細川忠興はいいね。
ガラシャも萌え〜
ガラシャも萌え〜
440人間七七四年
2007/08/24(金) 18:33:12ID:alQBmH9u >>438
でも三好家を継ぐって事は、四国から畿内のかなり大きい範囲を信孝が支配する事になってた、って事じゃ無いかね?
でも三好家を継ぐって事は、四国から畿内のかなり大きい範囲を信孝が支配する事になってた、って事じゃ無いかね?
441人間七七四年
2007/08/24(金) 18:48:53ID:hEnBQqqv ということは三好家も北畠家、神戸家同様、乗っとり後粛清か?
442奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/08/25(土) 00:28:34ID:I3S20RpU 乗っ取り粛清とはいえ、しっかり分家で血統が残るように心配りしているところがかわいい。
443人間七七四年
2007/08/27(月) 14:43:56ID:u/xN0JAJ テスト
444人間七七四年
2007/08/28(火) 12:48:05ID:/7sDi9/7 ふーん
445人間七七四年
2007/08/28(火) 21:57:06ID:57wN8pPH 三好康長の養子の件は拡大解釈しすぎかも。
だってその頃すでに秀次が康長の養子になってるんだぜ?
これに関しては確定。秀次の「三次秀次」の署名も残っている。
三好宗家でもない康長の格なら秀次を養子に迎える程度がお似合い。
信孝ではつりあいがとれなさすぎ。
信長は「君臣・父母の思いをなし馳走すべき」と書いてあるだけだから
そのぐらい康長を敬ってたてなさい、というだけだったと思うよ。
家臣の秀吉が康長をすでに取り込んでいるのだから、さらに信孝を
神戸家から引き抜き、庶流のぱっとしない三好家の養子にする必要性は
まったく感じられない。
だってその頃すでに秀次が康長の養子になってるんだぜ?
これに関しては確定。秀次の「三次秀次」の署名も残っている。
三好宗家でもない康長の格なら秀次を養子に迎える程度がお似合い。
信孝ではつりあいがとれなさすぎ。
信長は「君臣・父母の思いをなし馳走すべき」と書いてあるだけだから
そのぐらい康長を敬ってたてなさい、というだけだったと思うよ。
家臣の秀吉が康長をすでに取り込んでいるのだから、さらに信孝を
神戸家から引き抜き、庶流のぱっとしない三好家の養子にする必要性は
まったく感じられない。
446人間七七四年
2007/08/30(木) 21:11:59ID:ptHtcLhw >>445
秀次は状況によってたらい回しだったから、上意があれば問題ないだろう。
秀次は状況によってたらい回しだったから、上意があれば問題ないだろう。
447人間七七四年
2007/08/30(木) 22:10:05ID:izznF8xK >>445
>だってその頃すでに秀次が康長の養子になってるんだぜ?
>これに関しては確定。秀次の「三次秀次」の署名も残っている。
確定してないよ。
あくまで一部の人が言っているだけ。
三好康長周辺(家臣など)の動きを見ても、
この当時に秀次を養子にしていたとは思えないよ。
>だってその頃すでに秀次が康長の養子になってるんだぜ?
>これに関しては確定。秀次の「三次秀次」の署名も残っている。
確定してないよ。
あくまで一部の人が言っているだけ。
三好康長周辺(家臣など)の動きを見ても、
この当時に秀次を養子にしていたとは思えないよ。
449宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/08/31(金) 02:22:34ID:nzQ2sP9y このスレの人ならすでに知ってると思うが、
とりあえず、信孝が三好康長の養子となる件の参考資料。
他には、元親記、信長から信孝宛ての書状(康長を父、家臣とも思え)など。
『宇野主水日記』の天正十年六月一日条
「…三七郎殿、阿州三好山城守養子としてご渡海」
とりあえず、信孝が三好康長の養子となる件の参考資料。
他には、元親記、信長から信孝宛ての書状(康長を父、家臣とも思え)など。
『宇野主水日記』の天正十年六月一日条
「…三七郎殿、阿州三好山城守養子としてご渡海」
450人間七七四年
2007/08/31(金) 02:33:08ID:pxsp9lGb 織田政権が確立したら、信孝は四国を領有したのかね?
452人間七七四年
2007/08/31(金) 18:07:17ID:B8qr/M/i 後の豊臣秀次が三好氏の養子になった時期を本能寺の変
の後とするのは谷口克広、桐野作人。
秀次は「次兵衛」という名で秀吉の部将、宮部継潤の養子
だったが、「惟任謀反記」に、変の直後に秀次がその名で
登場しているためだという。
信孝と秀次が2人同時に養子になってるのより
その方が自然と思われる。
の後とするのは谷口克広、桐野作人。
秀次は「次兵衛」という名で秀吉の部将、宮部継潤の養子
だったが、「惟任謀反記」に、変の直後に秀次がその名で
登場しているためだという。
信孝と秀次が2人同時に養子になってるのより
その方が自然と思われる。
454人間七七四年
2007/09/01(土) 10:01:10ID:TR4/MRps 天正十年六月一日の時点で三七郎は三好家の養子にもなってないし、
渡航などもしてない。
渡航などもしてない。
455人間七七四年
2007/09/01(土) 12:23:27ID:hMxiXNBh 谷口氏や桐野氏の話なら信憑性は高いな
456人間七七四年
2007/09/01(土) 12:57:21ID:8D14gKda きゃつオヤジの草履取りだった分際でw
458人間七七四年
2007/09/06(木) 19:50:08ID:cV+tdk+F459人間七七四年
2007/09/07(金) 07:01:30ID:pWSaUPeN460人間七七四年
2007/09/07(金) 08:53:34ID:tlqZ1/wr461458
2007/09/08(土) 01:02:13ID:KJ0iLJZ1462人間七七四年
2007/09/08(土) 08:35:05ID:t5lUPu4P 方針、というのは「養子になった」というのとは違うだろ?
その後四国の情勢によっては養子の話が反故になった可能性も充分ある。
現に本能寺の変で信孝は即織田姓に復帰し、三好の養子になどなってはいない。
方針=確定などではない。
その後四国の情勢によっては養子の話が反故になった可能性も充分ある。
現に本能寺の変で信孝は即織田姓に復帰し、三好の養子になどなってはいない。
方針=確定などではない。
463458
2007/09/08(土) 08:54:06ID:BjPyH342 >>462
「養子になった」、「養子になる予定だった」
の違いがそんなに重要かな?
織田権力としては、信孝が三好氏の地盤を基に四国政策を進める予定だった、
と考えれば、どちらでも同じことだと思いますよ。
ここでの論点は「織田権力の四国政策に秀次が関わっていた(?)」
という説に対する反論として、信孝の位置付けを考えているんじゃない?
「養子になった」、「養子になる予定だった」
の違いがそんなに重要かな?
織田権力としては、信孝が三好氏の地盤を基に四国政策を進める予定だった、
と考えれば、どちらでも同じことだと思いますよ。
ここでの論点は「織田権力の四国政策に秀次が関わっていた(?)」
という説に対する反論として、信孝の位置付けを考えているんじゃない?
464人間七七四年
2007/09/08(土) 09:03:51ID:t5lUPu4P 全然意味が違うだろ?
三好の養子になったのと、予定だった、そういう方針だったというのじゃ。
違う事を違うんだと主張するのは当然のこと。
ここのスレの主旨は「三七丸こと信孝について語るスレッド 」
なんだから、信孝についての検証ならなにを書き込んでもよいはず。
自分勝手にスレの主旨まで変えるな。
三好の養子になったのと、予定だった、そういう方針だったというのじゃ。
違う事を違うんだと主張するのは当然のこと。
ここのスレの主旨は「三七丸こと信孝について語るスレッド 」
なんだから、信孝についての検証ならなにを書き込んでもよいはず。
自分勝手にスレの主旨まで変えるな。
466458
2007/09/08(土) 09:40:35ID:BjPyH342 本能寺の変情報が届く前の信孝書状などが見つからない限り、
信孝が三好を名乗ったかどうかなんて、証明できないのでは?
信孝が三好を名乗ったかどうかなんて、証明できないのでは?
467人間七七四年
2007/09/08(土) 09:44:48ID:t5lUPu4P >>465 どこの史料にも養子になったことを示すものはなく、全て予定なり
方針なりということしか解釈できないからだよ。
信長の手紙にも「君主・父母の思いをなし馳走すべし」だから
養子になっていたことを証明するものじゃない。もし養子になっていたら
「君主・父母なのだから馳走するように」となるだろ?親子になってるんだから。
方針なりということしか解釈できないからだよ。
信長の手紙にも「君主・父母の思いをなし馳走すべし」だから
養子になっていたことを証明するものじゃない。もし養子になっていたら
「君主・父母なのだから馳走するように」となるだろ?親子になってるんだから。
469458
2007/09/08(土) 10:15:20ID:BjPyH342471人間七七四年
2007/09/08(土) 10:27:03ID:t5lUPu4P >>469-470 それはその時点で信孝が養子になっていない、という前提での話だから
俺と同じ意見ということだろ?養子にはなっていない、そういう予定、方針を
裏付ける史料でしかないと認めてるわけだな。
ゆえに君も史料からはその時点では養子になっていない、という意見に
賛同してくれたわけだ。
ありがとう。
なっていないという史料しかないのに、なっていたということに固執する理由はない。
そこまで拡大解釈するなら歴史検証なんて妄想だらけの無双状態になってしまう。
現存する史料において、信孝が養子になったと示す史料がない以上
なった、ならないの論争は無意味なだけ。
現状では信孝は三好家の養子になる予定だったらしい、という解釈で問題なし。
俺と同じ意見ということだろ?養子にはなっていない、そういう予定、方針を
裏付ける史料でしかないと認めてるわけだな。
ゆえに君も史料からはその時点では養子になっていない、という意見に
賛同してくれたわけだ。
ありがとう。
なっていないという史料しかないのに、なっていたということに固執する理由はない。
そこまで拡大解釈するなら歴史検証なんて妄想だらけの無双状態になってしまう。
現存する史料において、信孝が養子になったと示す史料がない以上
なった、ならないの論争は無意味なだけ。
現状では信孝は三好家の養子になる予定だったらしい、という解釈で問題なし。
474458
2007/09/08(土) 12:57:58ID:BjPyH342476人間七七四年
2007/09/09(日) 14:41:16ID:exI0Slv+ 自己中心的な考え方だな
477人間七七四年
2007/09/09(日) 20:50:14ID:DWaAi2yj 秀吉の天下取りに貢献した男だな
…いや、死んだから評判いいけどさ やった内容は信雄と大して変わらんしな
…いや、死んだから評判いいけどさ やった内容は信雄と大して変わらんしな
478人間七七四年
2007/09/10(月) 06:53:58ID:Qu5QV8MH 信雄以下だろうが。
親父が死んだら一年たたずしてぶっ潰されて、織田家に壊滅的なダメージを
あたえやがった。三法師が誰を恨んだといったら、信孝だろ?
あいつがしっかり後見人をしてくれれば宗家は盛り返したかもしれないのにな。
親父が死んだら一年たたずしてぶっ潰されて、織田家に壊滅的なダメージを
あたえやがった。三法師が誰を恨んだといったら、信孝だろ?
あいつがしっかり後見人をしてくれれば宗家は盛り返したかもしれないのにな。
479人間七七四年
2007/09/10(月) 17:48:07ID:mJNlBdlN >>478
つまりこういうことか
> 大野以下だろうが。
> 親父が死んだら一年たたずしてぶっ潰されて、豊臣家に壊滅的なダメージを
> あたえやがった。秀頼が誰を恨んだといったら、三成だろ?
> あいつがしっかり後見人をしてくれれば豊臣家は盛り返したかもしれないのにな。
つまりこういうことか
> 大野以下だろうが。
> 親父が死んだら一年たたずしてぶっ潰されて、豊臣家に壊滅的なダメージを
> あたえやがった。秀頼が誰を恨んだといったら、三成だろ?
> あいつがしっかり後見人をしてくれれば豊臣家は盛り返したかもしれないのにな。
480人間七七四年
2007/09/11(火) 10:54:07ID:KqDcYTes 三成には協力者が多数いて、関ヶ原を戦うだけの人脈も強かった。
しかし信孝は・・・
三成には負け戦とわかっていても最後まで味方がいた。
しかし信孝は・・・
三成は秀頼を除外して豊臣を乗っ取ろうとは思っていなかったろう。
しかし信孝は・・・
しかし信孝は・・・
三成には負け戦とわかっていても最後まで味方がいた。
しかし信孝は・・・
三成は秀頼を除外して豊臣を乗っ取ろうとは思っていなかったろう。
しかし信孝は・・・
481人間七七四年
2007/09/23(日) 15:38:33ID:H6229EqU 信孝が三好の養子になったかどうからは、神戸家の当主交代が
いつか、ということがはっきりすればわかるはず。
信孝が三好家にいってしまったら、当然息子が神戸家を継いだだろうから
いつ家督相続が行われたかを調べればいいと思うのだが、そんな
記録はないのかな?
神戸家の家系図をみるとどういうわけか信孝で断絶になっている。
つまり信孝は三好家の養子にもなっておらず、織田姓にも復帰してないのでは?
としか思えないのだが、そのあたり神戸家について詳しい人教えてくれ。
いつか、ということがはっきりすればわかるはず。
信孝が三好家にいってしまったら、当然息子が神戸家を継いだだろうから
いつ家督相続が行われたかを調べればいいと思うのだが、そんな
記録はないのかな?
神戸家の家系図をみるとどういうわけか信孝で断絶になっている。
つまり信孝は三好家の養子にもなっておらず、織田姓にも復帰してないのでは?
としか思えないのだが、そのあたり神戸家について詳しい人教えてくれ。
482人間七七四年
2007/09/24(月) 18:57:04ID:cbtzkeTl >>481
利用価値が無くなったから、神戸家が断絶しても問題なかったのでは?
利用価値が無くなったから、神戸家が断絶しても問題なかったのでは?
483人間七七四年
2007/09/25(火) 09:35:27ID:9+fjCdP5 う〜ん、でも代々続いてきた家をあっさり断絶させるような
無責任な真似も出来ないと思うな。
昔からの神戸家の家臣たちの反感や国人たちの反感をかうし。
息子がいたら息子に神戸の家督を譲ればいいだけのことなんだが。
どうせそっちは名目上の当主にすぎないわけだし。
姫はいたことが伝わっているけど、息子はどうだったんだろう?
無責任な真似も出来ないと思うな。
昔からの神戸家の家臣たちの反感や国人たちの反感をかうし。
息子がいたら息子に神戸の家督を譲ればいいだけのことなんだが。
どうせそっちは名目上の当主にすぎないわけだし。
姫はいたことが伝わっているけど、息子はどうだったんだろう?
484人間七七四年
2007/09/28(金) 18:50:51ID:xLdKLnCw 息子がいたとは伝わってないが、側室に生ませた庶子がいたかもしれない。
信孝たあんなことになったから密かに落ち延びで表にでることなく
一生を終えたんだろうな。
伊勢のどこかに信孝の子孫がいるという話を聞いたことがある。
姫の末裔なのか、若君の末裔かはわからん。
神戸家を継ぎながら織田姓に復帰することは出来るんじゃないかと思う。
大抵の戦国大名は苗字を変えても所領をそのまま統治してるし。
だが神戸家の家督を継承しながら、三好家の嫡養子になることはできんだろう。
そのあたりから三好家への養子の話はあくまで予定にすぎない話だったと
思ってるがな。
信孝たあんなことになったから密かに落ち延びで表にでることなく
一生を終えたんだろうな。
伊勢のどこかに信孝の子孫がいるという話を聞いたことがある。
姫の末裔なのか、若君の末裔かはわからん。
神戸家を継ぎながら織田姓に復帰することは出来るんじゃないかと思う。
大抵の戦国大名は苗字を変えても所領をそのまま統治してるし。
だが神戸家の家督を継承しながら、三好家の嫡養子になることはできんだろう。
そのあたりから三好家への養子の話はあくまで予定にすぎない話だったと
思ってるがな。
485人間七七四年
2007/09/29(土) 18:43:32ID:Yg1yD2Jy 信孝>>>信雄だとずっと思っていたけど、ここをロムって
信孝≧信雄程度だと感じた。
結局母親の出自も同じようなもんみたいだし、
次男>三男の違いしかないんだろうな。
信孝≧信雄程度だと感じた。
結局母親の出自も同じようなもんみたいだし、
次男>三男の違いしかないんだろうな。
486人間七七四年
2007/09/30(日) 11:29:25ID:OFVAAbSG 信孝が信雄より評価が上な理由って早死にしたからだろ
もし死ななかったら信雄と同レベルに扱われただろうな
もし死ななかったら信雄と同レベルに扱われただろうな
488人間七七四年
2007/09/30(日) 17:38:34ID:0MgpA430 >>484 最初の方のレスに、信孝以降は
>>神戸信孝−信茂−友信=信章−長経−(以下歴代)
とある。
でも神戸家を継いだわけではないらしいがな。
男子を人質にださずにいたあたりで、信茂の存在はかなり怪しいと思う。
後年有名人の自称子孫を名乗る連中も多かったから(先祖は平家の落ち武者と同じ)
その類じゃないかな。
自称子孫というのは非常に多く、それを証明するために偽手紙をつくる
職人までいたらしいから。家系図ほど怪しいものはないというしな。
>>神戸信孝−信茂−友信=信章−長経−(以下歴代)
とある。
でも神戸家を継いだわけではないらしいがな。
男子を人質にださずにいたあたりで、信茂の存在はかなり怪しいと思う。
後年有名人の自称子孫を名乗る連中も多かったから(先祖は平家の落ち武者と同じ)
その類じゃないかな。
自称子孫というのは非常に多く、それを証明するために偽手紙をつくる
職人までいたらしいから。家系図ほど怪しいものはないというしな。
489人間七七四年
2007/10/01(月) 16:07:35ID:Fjdfz/5o 娘婿や養子ならわかるが
490人間七七四年
2007/10/04(木) 00:06:24ID:er3ZO8k+ 信孝の最大のミスは信澄を殺した事
他の織田一族に不信感や恐怖を与えたのは間違いない
勝家と組んだのも間違い、過去に信長に謀反したわけで光秀と同じ穴の狢だからね
これじゃ織田家を蔑ろにする秀吉に憤っている織田一族や重臣すらも味方に引き込むことが出来ない
他の織田一族に不信感や恐怖を与えたのは間違いない
勝家と組んだのも間違い、過去に信長に謀反したわけで光秀と同じ穴の狢だからね
これじゃ織田家を蔑ろにする秀吉に憤っている織田一族や重臣すらも味方に引き込むことが出来ない
491人間七七四年
2007/10/04(木) 04:58:33ID:QFgf68rC 偽の手紙といえばお宝鑑定団に山本勘助への手紙として出されたのが
思いっきり江戸時代製作の偽物だと鑑定されてたな
思いっきり江戸時代製作の偽物だと鑑定されてたな
492人間七七四年
2007/10/04(木) 06:31:15ID:4iDiaRjS 勝家の方が秀吉より織田家に対しては愚直なほど忠臣だろ
対上杉のための加賀出兵での敵前逃亡、信長の許しを得ないでの宇喜多氏に対す
る本領安堵や毛利との和平の絡む領土交渉など秀吉の方の越権行為は目にあまる
ものがある
たとえ信孝が勝家と結ばぬとも織田家をないがしろにして天下取りを目指す秀吉
にとって信孝は目の上のコブ
いずれは秀吉に謀殺されただろう
対上杉のための加賀出兵での敵前逃亡、信長の許しを得ないでの宇喜多氏に対す
る本領安堵や毛利との和平の絡む領土交渉など秀吉の方の越権行為は目にあまる
ものがある
たとえ信孝が勝家と結ばぬとも織田家をないがしろにして天下取りを目指す秀吉
にとって信孝は目の上のコブ
いずれは秀吉に謀殺されただろう
493人間七七四年
2007/10/04(木) 19:21:15ID:bkLlJNFt494関連スレ
2007/10/17(水) 23:11:32ID:BCrPQdLz495人間七七四年
2007/11/02(金) 10:26:07ID:PLTnYxFk 落城させないage
496人間七七四年
2007/11/10(土) 20:03:22ID:xfEy247L 信孝の家臣に織田新八郎(信兼)って人がいるが、
この御仁は本能寺後に誅殺された信澄の弟(信勝の子)。
その織田新八郎は、信孝に殉じて亡くなったらしい。。。
この御仁は本能寺後に誅殺された信澄の弟(信勝の子)。
その織田新八郎は、信孝に殉じて亡くなったらしい。。。
497人間七七四年
2007/11/11(日) 09:52:06ID:8FCkIJdD 天正10年(1582)
信孝の長宗我部征伐・三好家への養子入りが決まる。
養父・神戸友盛が幽閉を解かれ、伊勢沢城に入る。
本能寺の変。
信孝が美濃岐阜城主となる。
信孝の異父兄・小島兵部少輔が神戸城主となる。
天正11年(1583)
信孝自害。
織田信雄家臣・林与五郎が神戸城を攻め開城させる。
林十蔵(与五郎の子)が信孝の未亡人(友盛の養女?)と結婚し、神戸姓を名乗る。
林与五郎が神戸正武と名乗り、神戸城主となる。
天正12年(1584)
羽柴秀吉方が神戸城を攻める。
神戸正武・十蔵父子は美濃加賀野井城へ逃れ籠城・戦死。
神戸友盛は織田信包を頼り、伊勢津へ逃れる。
年不詳
神戸政房(高島勝政(友盛の従兄弟)の子)が友盛の嗣子となる。
慶長5年(1600)、神戸友盛が伊勢津で死去。
信孝の長宗我部征伐・三好家への養子入りが決まる。
養父・神戸友盛が幽閉を解かれ、伊勢沢城に入る。
本能寺の変。
信孝が美濃岐阜城主となる。
信孝の異父兄・小島兵部少輔が神戸城主となる。
天正11年(1583)
信孝自害。
織田信雄家臣・林与五郎が神戸城を攻め開城させる。
林十蔵(与五郎の子)が信孝の未亡人(友盛の養女?)と結婚し、神戸姓を名乗る。
林与五郎が神戸正武と名乗り、神戸城主となる。
天正12年(1584)
羽柴秀吉方が神戸城を攻める。
神戸正武・十蔵父子は美濃加賀野井城へ逃れ籠城・戦死。
神戸友盛は織田信包を頼り、伊勢津へ逃れる。
年不詳
神戸政房(高島勝政(友盛の従兄弟)の子)が友盛の嗣子となる。
慶長5年(1600)、神戸友盛が伊勢津で死去。
499人間七七四年
2007/11/13(火) 20:16:20ID:O+C5scpH 何故、信雄は信孝を切腹させた?
信孝を切腹させれば、自分が三法師成人までの陣代、或いは織田家後継者の
地位を得ると本気で思ってたのかね。
信孝を切腹させれば、自分が三法師成人までの陣代、或いは織田家後継者の
地位を得ると本気で思ってたのかね。
500人間七七四年
2007/11/14(水) 01:46:25ID:sgK99RPy そりゃそうだろ。
502人間七七四年
2007/11/24(土) 12:42:22ID:F4A8cKM3 北畠粛清時も生かしたように信雄と妻の雪姫は仲が良かったらしいが
信孝と妻の神戸家の娘はあまり仲良くなかったのかな?
秀吉に母妻子が人質になっていたにも関わらずあっさり挙兵しているし
信孝と妻の神戸家の娘はあまり仲良くなかったのかな?
秀吉に母妻子が人質になっていたにも関わらずあっさり挙兵しているし
503人間七七四年
2007/12/03(月) 05:57:04ID:5pYwt+wG【野球/五輪】日本、大接戦を制し宿敵韓国を4-3で撃破!稲葉が貴重な追加点を奪う★7
1 :ポッケ兄さんφ ★:2007/12/03(月) 03:24:24 ID:???0
日 021 000 010 4
韓 100 100 010 3
バッテリー
日−成瀬、川上、岩瀬、上原−阿部、矢野
韓−田炳浩、張ウォン三、韓基周、柳澤鉉、権奕、鄭大ヒョン−趙寅成、朴勍完
本塁打
韓−高永民1号
http://www.sanspo.com/baseball/japan/08beijing/score/20071202.html
【野球/五輪】日本、大接戦を制し宿敵韓国を4-3で撃破!稲葉が貴重な追加点を奪う★6
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1196611526/
1が立った時間 2007/12/02(日) 23:09:55
504人間七七四年
2007/12/23(日) 12:42:15ID:ftj9k76Z 保守age
505人間七七四年
2008/01/05(土) 23:59:50ID:sMthZ6ST もし信孝が筒井家の養嗣子になったら順慶は後々出奔させるよう追い詰める?
信澄はそのパターンで城主なったし
信孝が大和国主になった方が順慶よりマシになったと思うが
ただ信雄が嫉妬するだろうけど
信澄はそのパターンで城主なったし
信孝が大和国主になった方が順慶よりマシになったと思うが
ただ信雄が嫉妬するだろうけど
506人間七七四年
2008/01/09(水) 18:05:33ID:NFEcs07O 信孝が大和を支配していたなら本能寺の変が起きても兵が四散せず、独力で光秀
を討ったかもしれんな
を討ったかもしれんな
507人間七七四年
2008/01/19(土) 22:31:25ID:JIdJdU1K 馬揃えの時、信忠>信雄>信包>信孝だったていうけど
それって家格じゃないの?
織田家当主>国司北畠家当主>長野家当主>神戸家当主
こんなカンジで
それって家格じゃないの?
織田家当主>国司北畠家当主>長野家当主>神戸家当主
こんなカンジで
508人間七七四年
2008/01/20(日) 09:46:53ID:6c6FiL/2 信長も信孝の資質を認め、もう少し出世させようと筒井順慶の猶子にしようとし
た形跡はあるが、大和国主は原田直政の討死、松永久秀の謀反など縁起が悪いの
で信長が思いとどまったのではないかと桐野作人氏が推察してるね
信孝の四国遠征に際し、信孝の所領は北伊勢、河曲・鈴鹿の二郡しかなかったた
め、その二郡の15歳から60歳に至る名主・百姓を動員、それでも足りず占領後の
恩賞目当ての牢人衆を召し抱え、伊賀・甲賀・雑賀からの他国衆も集めたらしい
これじゃ本能寺の変勃発で兵が四散したのは頷ける
恐らく四国遠征では阿波・讃岐の三好の兵頼みだったのだろう
た形跡はあるが、大和国主は原田直政の討死、松永久秀の謀反など縁起が悪いの
で信長が思いとどまったのではないかと桐野作人氏が推察してるね
信孝の四国遠征に際し、信孝の所領は北伊勢、河曲・鈴鹿の二郡しかなかったた
め、その二郡の15歳から60歳に至る名主・百姓を動員、それでも足りず占領後の
恩賞目当ての牢人衆を召し抱え、伊賀・甲賀・雑賀からの他国衆も集めたらしい
これじゃ本能寺の変勃発で兵が四散したのは頷ける
恐らく四国遠征では阿波・讃岐の三好の兵頼みだったのだろう
509人間七七四年
2008/01/31(木) 12:55:53ID:wD3sjtSk 小倉女は肉便器〜♪ 肉便器〜♪ 肉便器〜♪
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510人間七七四年
2008/02/11(月) 13:50:13ID:a7RHsGPC 誰か信茂系の信章以降の系図がわかりませんか?
あと信豊とその子孫など…
あと信豊とその子孫など…
511人間七七四年
2008/02/11(月) 13:53:00ID:Eq0jcycQ この人神戸家での逸話が残ってるよね
513人間七七四年
2008/02/11(月) 16:02:34ID:ramajtpf 信長の命令で一族騙まし討ちにしたヤツじゃなくて?
514人間七七四年
2008/02/11(月) 16:38:40ID:Eq0jcycQ 信雄と勘違い
515人間七七四年
2008/03/09(日) 20:11:07ID:GNQRr9kV age
516人間七七四年
2008/03/10(月) 00:00:53ID:cgbqO2MM 信長公記の神吉城攻めの記述に「神戸三七足軽と先を争ひ・・」とある
信孝は何を焦っていた?
そこまでして戦功が欲しかったのかね?
信孝は何を焦っていた?
そこまでして戦功が欲しかったのかね?
517人間七七四年
2008/03/10(月) 18:06:52ID:ykgqz02S 信忠との仲はどうだったんだろう?
518人間七七四年
2008/03/11(火) 00:01:20ID:hoQafcFB 仲が悪いと書かれた文書は出てないだろ
519人間七七四年
2008/03/11(火) 09:50:37ID:68Tv2E0i 仲がいいとか悪いとかいう以前に、主従だし。
520人間七七四年
2008/03/11(火) 12:18:19ID:tNf7opJO 主従はわかってるが兄弟としての親密さとか信頼感とか
521人間七七四年
2008/03/11(火) 12:24:44ID:/TpPHjQL 別に悪くはないだろ?
本能寺までは、信雄とだって別に悪くないと思うぞ。
信雄は能をやるからってことで、
信忠と信孝の両方を招いたりしているしな。
3人の仲が悪かったら、プライベートな能のために
一堂に会するような事しないだろ。
信雄と信孝に関しては本能寺前と本能寺後で
わけて考える必要はあると思う。
本能寺までは、信雄とだって別に悪くないと思うぞ。
信雄は能をやるからってことで、
信忠と信孝の両方を招いたりしているしな。
3人の仲が悪かったら、プライベートな能のために
一堂に会するような事しないだろ。
信雄と信孝に関しては本能寺前と本能寺後で
わけて考える必要はあると思う。
523人間七七四年
2008/03/15(土) 19:08:51ID:ioOXeWwS つーか、信忠だって戦で突出して「お前は一平卒じゃねえんだぞ!」って信長にしかられてるじゃん。
むしろ叱ってはいるものの信長は、息子達を煽っていた節があるが。
むしろ叱ってはいるものの信長は、息子達を煽っていた節があるが。
524人間七七四年
2008/04/10(木) 16:04:07ID:dHH6iehR >>523
信長自身、信忠や信孝の歳には自ら陣頭に立って戦っていた
無論、信長がその歳の時は信忠のように総大将は勿論、信孝のような一軍の将に
匹敵する兵力を率いたことはないと思うが
信長が一軍の将に見合う兵力を率いたのは桶狭間の合戦の時の2000を率いた時が
初めて
それを考えると信忠は勿論、信孝も若年ながらよくやった方だと評価すべきでは
信長自身、信忠や信孝の歳には自ら陣頭に立って戦っていた
無論、信長がその歳の時は信忠のように総大将は勿論、信孝のような一軍の将に
匹敵する兵力を率いたことはないと思うが
信長が一軍の将に見合う兵力を率いたのは桶狭間の合戦の時の2000を率いた時が
初めて
それを考えると信忠は勿論、信孝も若年ながらよくやった方だと評価すべきでは
525人間七七四年
2008/04/15(火) 01:16:15ID:CA4t8AHG 坂氏は可哀想だな
526人間七七四年
2008/04/15(火) 01:20:22ID:a3r4Ty20 筑前に人質に出された信孝の娘は憐れだ。
527人間七七四年
2008/04/16(水) 00:10:04ID:xn0Xcbh4 信孝の異父兄が小嶋少輔で、小嶋信房の縁者って説があるんだろ?
信長の生母が小嶋信房息女だと書かれてる史料もあるし、
信長生母の関係で側室になったのって、信雄の母親じゃなく信孝の母親の可能性もあるんじゃないか?
信長の生母が小嶋信房息女だと書かれてる史料もあるし、
信長生母の関係で側室になったのって、信雄の母親じゃなく信孝の母親の可能性もあるんじゃないか?
528Y ◆VqSh5C7CR6
2008/04/16(水) 03:30:19ID:r2XhLqsu529人間七七四年
2008/04/22(火) 07:40:04ID:EGEKpO41 信孝は明智本隊を総崩れにした輝かしい実績をもつ
連中の一人
中川、丹羽、高山、池田、加藤、信孝
の力のおかげで光秀を倒すことができたのだ
連中の一人
中川、丹羽、高山、池田、加藤、信孝
の力のおかげで光秀を倒すことができたのだ
530人間七七四年
2008/04/26(土) 07:52:59ID:cOcFxGC9 信長が信孝の立場にいたら、本能寺の変後、どう行動したろうか?
531人間七七四年
2008/04/26(土) 16:10:17ID:4WzDLg6j まず葬儀で位牌に香を投げつけるとして・・・・
532人間七七四年
2008/04/26(土) 17:33:20ID:p243yAYu 次に偽りの病気装って弟信雄をお見舞いに来させ抹殺
533人間七七四年
2008/04/26(土) 17:57:24ID:pSRedAKf 秀吉の到着なんてまたずに、各地に激を飛ばすと同時に全軍で京を攻撃に出陣しただろ
534人間七七四年
2008/04/27(日) 12:33:15ID:zeA1qR2J 『父よなぜ死んだ』と叫びながら、単騎で駆け出す。
535人間七七四年
2008/05/02(金) 04:01:38ID:Nwt/xDLb >>17
すんごい遅レスですが、当時は幼児の間に病気などで死んでしまう事が多かったので
元服前の幼名については、わざと変な名前をつけて悪霊が寄り付かないように、みたいな風習があったそうですよ。
(要は、「うんこ丸」みたいな名前なら、悪霊も憑りついたり、興味を持たないだろう、と)
信長がそれゆえ変な名前をつけたかどうかはわからないですけどね。
すんごい遅レスですが、当時は幼児の間に病気などで死んでしまう事が多かったので
元服前の幼名については、わざと変な名前をつけて悪霊が寄り付かないように、みたいな風習があったそうですよ。
(要は、「うんこ丸」みたいな名前なら、悪霊も憑りついたり、興味を持たないだろう、と)
信長がそれゆえ変な名前をつけたかどうかはわからないですけどね。
536人間七七四年
2008/05/02(金) 08:20:53ID:Ynec6o+l 信長の子供って、結婚してから随分長い事生まれてないけど、
普通は3年くらい子供できなきゃ、側室を妻の側から勧めるのが普通だし
本当は何人か生まれていて、夭逝したので、変な名前を付けるようになったのかもな。
夭逝した子供って、記録に残さないから。
普通は3年くらい子供できなきゃ、側室を妻の側から勧めるのが普通だし
本当は何人か生まれていて、夭逝したので、変な名前を付けるようになったのかもな。
夭逝した子供って、記録に残さないから。
537人間七七四年
2008/05/04(日) 05:33:37ID:70XlGXGg538人間七七四年
2008/05/04(日) 07:49:57ID:Z630LwBv 「信孝」の読みは「のぶのり」と読むらしいけど、詳細知ってる人いますか?
539人間七七四年
2008/05/04(日) 07:59:31ID:j/hfHmQt 初めて聞いたな。
540人間七七四年
2008/05/11(日) 18:18:45ID:1QCplj7e 信孝と信雄の対立って、表面的には清洲会議の後、美濃を領した信孝と尾張を領した信雄の
国境線をどこにするか、って言う争いが発端なのな。
国境線をどこにするか、って言う争いが発端なのな。
541人間七七四年
2008/05/24(土) 10:56:10ID:K2URaVxn 信孝にすれば“何もしなかった”信雄がなんで尾張を得るんだという感じだろう
な
な
542人間七七四年
2008/05/26(月) 09:19:03ID:w9ga6aHd 兄弟不仲だったというよりも、国境問題から不仲になったのかな?
544人間七七四年
2008/05/26(月) 13:45:14ID:YeV2E+qp 実力はともかく、格式から言うと伊勢国司家を継いだ信雄の方が上だが
545人間七七四年
2008/06/13(金) 14:49:32ID:csRHpbbC さつまあげ
546人間七七四年
2008/06/13(金) 16:40:11ID:K7NoujGf 織田信孝が切腹した野間岬の夕焼けを見てきたよ。
547人間七七四年
2008/06/13(金) 20:15:15ID:csRHpbbC 首洗い池に小便すると一物が張れ上がるから短小くんにはお勧め
548人間七七四年
2008/06/13(金) 20:20:59ID:03jtlPyU その腫れ上がったナニのまま女とやれる訳じゃないじゃん
549人間七七四年
2008/07/20(日) 00:06:40ID:bscCtoA0 age
550人間七七四年
2008/09/27(土) 04:01:34ID:D68452Mw 結局、信孝の血は後世に残ってないのかな?
551人間七七四年
2008/10/29(水) 22:26:41ID:TaPsi+Cp age
552人間七七四年
2008/10/30(木) 07:25:53ID:/S++FiD9553人間七七四年
2008/10/30(木) 11:14:41ID:91RvCOW5 最近は方面軍司令官の一人だったと認識されてるのね>信孝
将来的には信忠の元で織田軍全体を把握する存在になったかもね。
将来的には信忠の元で織田軍全体を把握する存在になったかもね。
554人間七七四年
2008/10/31(金) 13:48:29ID:PayfnYFJ 江戸時代の大名の子孫って現代でもどうして代を重ねるに連れすごくなっていくのでしょうか?
555人間七七四年
2008/11/02(日) 18:34:27ID:TmZiQtgU >>553
谷口の妄想
谷口の妄想
556人間七七四年
2008/11/02(日) 23:20:10ID:HtCsnIyY557人間七七四年
2008/11/03(月) 06:08:17ID:a67MK2rY 伊賀方面軍司令官を信雄と考えた上で、四国方面軍司令官を信孝と考えるなら理解できる。
明智を司令官(だった)というなら信雄も司令官(だった)と言うべきかと。
信孝だけを柴田・羽柴・滝川ら家臣層と同列に語るのも疑問。
信忠を司令官と呼ばない理由や信忠・滝川間の指揮関係が不明確ということです。
明智を司令官(だった)というなら信雄も司令官(だった)と言うべきかと。
信孝だけを柴田・羽柴・滝川ら家臣層と同列に語るのも疑問。
信忠を司令官と呼ばない理由や信忠・滝川間の指揮関係が不明確ということです。
558人間七七四年
2008/11/04(火) 02:56:17ID:fToxz73+ >>555
以前はよく、三七は名目上の大将で、実質は丹羽長秀が主将だ
と言われることが多かったけど、当時の長秀の知行や、それ以前の
経歴、四国に関して、実質的な権益の確約が長秀にない(信孝には
讃岐が予定されてたらしい)、丹羽氏の記録にも長秀の扱いは
蜂屋や津田と同じ「副将」とされているなどから、最近はやはり
三七信孝が四国方面の大将だったと見られているようです。
信忠の軍は濃尾系の家臣を中心に編成されているけど、ゆくゆくは
家督を継ぐ立場なわけだし、とくに司令官と見る必要もないんじゃないの?
以前はよく、三七は名目上の大将で、実質は丹羽長秀が主将だ
と言われることが多かったけど、当時の長秀の知行や、それ以前の
経歴、四国に関して、実質的な権益の確約が長秀にない(信孝には
讃岐が予定されてたらしい)、丹羽氏の記録にも長秀の扱いは
蜂屋や津田と同じ「副将」とされているなどから、最近はやはり
三七信孝が四国方面の大将だったと見られているようです。
信忠の軍は濃尾系の家臣を中心に編成されているけど、ゆくゆくは
家督を継ぐ立場なわけだし、とくに司令官と見る必要もないんじゃないの?
559人間七七四年
2008/11/04(火) 06:35:47ID:tp1HIKOh >>558
それも谷口説ですよね。
司令官に「実質的な権益の確約」という例が他の司令官(柴田や羽柴)に無かったので証拠にはならないのでは?
滝川や河尻も信忠の副将だったと言えるのでは?
伊賀攻めのとき滝川と丹羽は信雄の「副将」だったのでは?
それも谷口説ですよね。
司令官に「実質的な権益の確約」という例が他の司令官(柴田や羽柴)に無かったので証拠にはならないのでは?
滝川や河尻も信忠の副将だったと言えるのでは?
伊賀攻めのとき滝川と丹羽は信雄の「副将」だったのでは?
560人間七七四年
2008/11/04(火) 08:29:04ID:Hi3ADGkC 伊賀攻めのような一戦限りの総大将と長期戦前提の方面軍クラスの旗頭では同一視できないな
あと信忠の場合、既に信長の代わりに何度も総大将経験あるから武田攻めで他将に指揮を任せることはなかったでしょ
そもそも遊撃部隊の指揮官である一益はその時限りの与力に過ぎないし
方面軍説なら谷口氏以外にも桐野作人氏とか多くの人が言ってると思うけどね
あと信忠の場合、既に信長の代わりに何度も総大将経験あるから武田攻めで他将に指揮を任せることはなかったでしょ
そもそも遊撃部隊の指揮官である一益はその時限りの与力に過ぎないし
方面軍説なら谷口氏以外にも桐野作人氏とか多くの人が言ってると思うけどね
561人間七七四年
2008/11/04(火) 10:32:06ID:RkIdrCbs 信忠は濃尾をもらうと同時に織田の家督を譲られていたような
562人間七七四年
2008/11/06(木) 00:02:32ID:sWNUv6yQ 織田家の継承者=信忠
これだけは間違いない。
家督相続で色々あった信長だから信孝も信雄も親族家臣の一人
として据えるのは間違いない事で。
これだけは間違いない。
家督相続で色々あった信長だから信孝も信雄も親族家臣の一人
として据えるのは間違いない事で。
563人間七七四年
2008/11/06(木) 02:59:33ID:srT9prCT ちなみに信孝は紀伊攻めで総大将を務めておるぞよ
564人間七七四年
2008/11/06(木) 06:22:12ID:adk3s+8d565人間七七四年
2008/11/06(木) 23:46:15ID:srT9prCT 伊賀攻めにしても高野山攻めにしても武田攻めにしても子息に経験を積ませようとした親心だろうな
でも信雄は愚鈍だから銃後に置いて信忠は東へ信孝は西へといふのが信長の構想だったかも
でも信雄は愚鈍だから銃後に置いて信忠は東へ信孝は西へといふのが信長の構想だったかも
566人間七七四年
2008/11/07(金) 00:28:05ID:bOfIu6TA どうだろう?
四国ってその気になれば畿内からスグだから
信孝がヘマしたらスグ駆けつけられるようにって感じがするし
信澄と長秀と横を固めた所をみると、その構想は四国遠征が成功して初めて考慮していいレベルじゃないか
四国ってその気になれば畿内からスグだから
信孝がヘマしたらスグ駆けつけられるようにって感じがするし
信澄と長秀と横を固めた所をみると、その構想は四国遠征が成功して初めて考慮していいレベルじゃないか
567人間七七四年
2008/11/07(金) 03:07:57ID:pBycuk3+ とりなきしま、だからヘマはしない讃岐と阿波は確実に征圧できる
568人間七七四年
2008/11/07(金) 05:20:03ID:pBycuk3+ だいたい一万ちょっとの兵力で四国征圧は無理な話で
あれは三好の救援と讃岐阿波の地固めに過ぎないと思ふ
降伏すれば土佐一国は安堵したんじゃないのかなぁ
あれは三好の救援と讃岐阿波の地固めに過ぎないと思ふ
降伏すれば土佐一国は安堵したんじゃないのかなぁ
569人間七七四年
2008/11/07(金) 13:40:06ID:Lk52QiKY >>565
神吉城 信忠
神吉城 信忠
570人間七七四年
2008/11/07(金) 13:48:25ID:Lk52QiKY すまん
信忠は別格だろ
既に神吉城攻めや松永久秀討伐では総大将を勤めている
信忠は別格だろ
既に神吉城攻めや松永久秀討伐では総大将を勤めている
571人間七七四年
2008/11/07(金) 15:47:20ID:pBycuk3+ 天正9年から10年まで3つ並べただけだよ
わざわざググッたの?ご苦労さん
わざわざググッたの?ご苦労さん
572人間七七四年
2008/11/08(土) 00:48:46ID:B0sxNJg8 信長の弟子
573人間七七四年
2008/11/12(水) 03:14:17ID:+JTB21yR >>568
どうだろ。たしかにあの一軍だけで四国を制圧するには少ないけど、三好の兵力もあるし。
同時に中国地方に自分と明智のいわば織田家の本隊を投入してるけど、
あれは毛利にトドメさすだけじゃなくて中国からも四国に侵入するつもりだったんじゃないの。
信長がすぐそこの中国にいるってだけでも蝙蝠には脅威になってるし
その上で格では羽柴や明智なんかより上の自分の息子を現場の大将にもってきたと。しかも津田までつけて。
こりゃ蝙蝠さん詰んじゃってないかい。
ただの地固めだったら実績もあって単独で指揮できる兵力も多い明智使った方が成功率高いでしょ。
羽柴の後詰なんぞ丹羽、蜂屋その他の混成兵力でも充分なわけで。
わざわざ信孝に大将を任せたのは一気に四国を制圧して、
同時に息子(と期待の甥の津田に)に危なげなく実績つませるためじゃないの。
どうだろ。たしかにあの一軍だけで四国を制圧するには少ないけど、三好の兵力もあるし。
同時に中国地方に自分と明智のいわば織田家の本隊を投入してるけど、
あれは毛利にトドメさすだけじゃなくて中国からも四国に侵入するつもりだったんじゃないの。
信長がすぐそこの中国にいるってだけでも蝙蝠には脅威になってるし
その上で格では羽柴や明智なんかより上の自分の息子を現場の大将にもってきたと。しかも津田までつけて。
こりゃ蝙蝠さん詰んじゃってないかい。
ただの地固めだったら実績もあって単独で指揮できる兵力も多い明智使った方が成功率高いでしょ。
羽柴の後詰なんぞ丹羽、蜂屋その他の混成兵力でも充分なわけで。
わざわざ信孝に大将を任せたのは一気に四国を制圧して、
同時に息子(と期待の甥の津田に)に危なげなく実績つませるためじゃないの。
574人間七七四年
2008/11/12(水) 05:58:52ID:88aNA34P 信孝の旗頭就任は信孝自身が前々から志願していたからだったらしい
神宮文庫所蔵文書には
『三七様連々お望み候四国へ・・・』
とあるね
神宮文庫所蔵文書には
『三七様連々お望み候四国へ・・・』
とあるね
575人間七七四年
2008/12/15(月) 01:51:10ID:2I8FfoRW 司馬さんは、信忠、信雄は平凡、暗愚だが、
信長の子たちの中で信孝だけは親譲りの気性の激しさを持っていて信長の血が濃かった。
みたいな書き方してたな。必ずしもそうとは思わんが、
秀吉に詰め腹きらされてなけりゃあ良い意味でどうなってたんだろうということは考えないでもない。
信長の子たちの中で信孝だけは親譲りの気性の激しさを持っていて信長の血が濃かった。
みたいな書き方してたな。必ずしもそうとは思わんが、
秀吉に詰め腹きらされてなけりゃあ良い意味でどうなってたんだろうということは考えないでもない。
578人間七七四年
2009/01/14(水) 15:18:32ID:IDT4mZyB ここはまだ新年明けてないんですね。
579人間七七四年
2009/02/01(日) 04:42:05ID:t0fVmiOG 負けないぞぉ
580人間七七四年
2009/03/07(土) 02:40:55ID:sOToYaBi ☆誕生日おめでとう☆
581人間七七四年
2009/03/14(土) 11:02:51ID:Q7uOJEbO 大儀であった (^-^)
582人間七七四年
2009/03/14(土) 12:01:35ID:8WTW4lbu 辞世の句の「内海の野間なれば」ってこの人、知多半島が好きだったの?
584人間七七四年
2009/04/19(日) 06:57:02ID:KNlXFxJL 「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」でしたな。
信孝が切腹した野間御坊は昔にも「主殺し」が有った場所なんです。
平治の乱で敗れ脱出を図った源義朝は、ここ野間御坊で長田忠致・景致父子に浴場で騙まし討ちにされて殺されます。
下手人の長田父子は後に覇権を握った源頼朝に散々こき使われた挙句、「約束どおり美濃尾張(身の終わり)をくれてやろう」と刑死。
信孝はこの故事を踏まえ、「いずれお前にも天罰が下るぞ!」と秀吉を呪ったんですな。
信孝が切腹した野間御坊は昔にも「主殺し」が有った場所なんです。
平治の乱で敗れ脱出を図った源義朝は、ここ野間御坊で長田忠致・景致父子に浴場で騙まし討ちにされて殺されます。
下手人の長田父子は後に覇権を握った源頼朝に散々こき使われた挙句、「約束どおり美濃尾張(身の終わり)をくれてやろう」と刑死。
信孝はこの故事を踏まえ、「いずれお前にも天罰が下るぞ!」と秀吉を呪ったんですな。
585人間七七四年
2009/04/19(日) 12:41:30ID:GEDno885 とはいえ信孝が滅ぶ原因を作ったのは、他ならぬ信孝自身な訳だが。
586人間七七四年
2009/04/20(月) 02:50:05ID:19wRXfir どう考えても秀吉だろ。
588人間七七四年
2009/04/20(月) 23:00:35ID:uSZicd/r 三法師を安土に移すという織田家中の取り決めに従わず、
三法師を岐阜城から出さなかった信孝に対して、
秀吉・長秀・恒興の三人は、
三法師が成長するまでは信雄を当主代理とする手段で大義名分を得て、
信孝を攻めた訳で。
信孝が素直に三法師を出していれば運命は違っていたかも…。
三法師を岐阜城から出さなかった信孝に対して、
秀吉・長秀・恒興の三人は、
三法師が成長するまでは信雄を当主代理とする手段で大義名分を得て、
信孝を攻めた訳で。
信孝が素直に三法師を出していれば運命は違っていたかも…。
589人間七七四年
2009/04/25(土) 10:05:15ID:NUPL/spj590人間七七四年
2009/05/07(木) 04:46:11ID:IE4yawoF 本能寺にある信孝様のお手紙字がとっても綺麗。何て書いてるか読めないけど
591人間七七四年
2009/05/13(水) 09:15:23ID:tgfak6Ww ■ おすすめ2ちゃんねる 開発中。。。 by FOX ★
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【一号】仮面ライダー強さ議論スレ15【ディケイド】 [特撮!]
だれだよここ見てる奴w
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592人間七七四年
2009/06/12(金) 13:10:41ID:huF/EsL8 三法師の名前をつかって信孝排斥しようとするだろ。
593人間七七四年
2009/07/25(土) 09:35:59ID:edHUGr8X 秀吉が三法師の影で実権を掌握しようとするのがあまりにもミエミエで
さぞかし勝家、一益、信孝が苛立っただろうことは見て取れる
秀吉もそれを見越しての挑発だからな
さぞかし勝家、一益、信孝が苛立っただろうことは見て取れる
秀吉もそれを見越しての挑発だからな
594人間七七四年
2009/09/04(金) 19:40:03ID:s1v3FLz2 このボンクラ息子も今川氏真のように秀吉の前で蹴鞠でも蹴ってれば名将って言われたのに…
596人間七七四年
2009/09/05(土) 08:33:37ID:kSrXLpZH じゃあ織田のぶおのほうが名将だな
598人間七七四年
2009/10/05(月) 06:17:15ID:SGJ9KnLs 本能寺後の信孝が主人公の
『織田戦国志』尾山晴紀著
はなかなか面白いね
『織田戦国志』尾山晴紀著
はなかなか面白いね
599人間七七四年
2009/12/07(月) 18:34:32ID:06GQaX7a >>598
詳しく
詳しく
600人間七七四年
2009/12/13(日) 02:44:51ID:qKgkG9co 素直に三法師を出したとして、切腹が改易になった程度では。
改易されて何年か経って一万石で大名復活、御伽衆ってところじゃね?
で、徳川時代になって二から五万石、ないし交代寄合だろう。
改易されて何年か経って一万石で大名復活、御伽衆ってところじゃね?
で、徳川時代になって二から五万石、ないし交代寄合だろう。
601人間七七四年
2010/02/01(月) 02:44:43ID:hqNhps6y602人間七七四年
2010/02/04(木) 14:04:26ID:9BbdsU99■■織田信成が織田信長の子孫って本当?■■
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1251535688/
昨日のNHKヒストリアによると、信孝公をぶっ殺した自称・信雄の末裔らしい
信雄がぶっ殺した信孝公が建立した本能寺の墓の前で先祖自慢。
でもでも・・・・家系図は、明治大正の先祖が4代不明。
曾祖父が分からんなんてあり得るか?
603人間七七四年
2010/02/11(木) 01:57:44ID:STGi7jCF604人間七七四年
2010/04/06(火) 13:10:18ID:CcsynSTj アッ神戸〜
605人間七七四年
2010/04/09(金) 00:35:41ID:2SjSmAcE 神戸んしてよ
606人間七七四年
2010/04/14(水) 17:44:43ID:a/EyZwoP クローンで現代によみがえった?
【織田孝一】
織田 孝一(おだ こういち、1959年 - )は、日本のフリージャーナリスト、コピーライター。
旧丹波柏原藩織田家(旧子爵家)の当主。本名は織田信孝という。
祖父は織田信大。父は織田信和(長男)。学歴は学習院大学法学部卒業。学位は法学士(学習院大学)。
織田信長の子信雄の五男高長の直系の子孫(ただし、曽祖父織田信親は養子)。
1981年3月学習院大学法学部を卒業後、広告プロダクションに就職し、コピーライターとなる。
1989年に独立し、フリーとなる。主に経済雑誌に記事を書いている。
田部井昌子著『現代に生きる戦国武将の智恵』(出版文化社、2000年)の出版に際し、
対談に応じ、織田家の歴史などを語っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%AD%9D%E4%B8%80
【織田孝一】
織田 孝一(おだ こういち、1959年 - )は、日本のフリージャーナリスト、コピーライター。
旧丹波柏原藩織田家(旧子爵家)の当主。本名は織田信孝という。
祖父は織田信大。父は織田信和(長男)。学歴は学習院大学法学部卒業。学位は法学士(学習院大学)。
織田信長の子信雄の五男高長の直系の子孫(ただし、曽祖父織田信親は養子)。
1981年3月学習院大学法学部を卒業後、広告プロダクションに就職し、コピーライターとなる。
1989年に独立し、フリーとなる。主に経済雑誌に記事を書いている。
田部井昌子著『現代に生きる戦国武将の智恵』(出版文化社、2000年)の出版に際し、
対談に応じ、織田家の歴史などを語っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%AD%9D%E4%B8%80
607人間七七四年
2010/04/15(木) 00:40:13ID:aC5JzOKW 四国遠征軍の参戦武将は思いつくところ
旗頭:織田信孝(伊勢国河曲・鈴鹿郡主、神戸城主)
副将:丹羽長秀(若狭国主、佐和山城主)
武将:三好康長、蜂屋頼隆、津田信澄、矢部家定、木津甚五郎(山城国相楽郡主)、庄村久三(丹波国上山城主)
三好存保(讃岐国十河城主)、篠原自遁(阿波国木津城主)、新開道善(阿波国牛岐城主)
水軍衆:鈴木重秀、真鍋貞成(和泉国海賊衆)、真鍋同芥右衛門(和泉国海賊衆)
他に誰かいます?
旗頭:織田信孝(伊勢国河曲・鈴鹿郡主、神戸城主)
副将:丹羽長秀(若狭国主、佐和山城主)
武将:三好康長、蜂屋頼隆、津田信澄、矢部家定、木津甚五郎(山城国相楽郡主)、庄村久三(丹波国上山城主)
三好存保(讃岐国十河城主)、篠原自遁(阿波国木津城主)、新開道善(阿波国牛岐城主)
水軍衆:鈴木重秀、真鍋貞成(和泉国海賊衆)、真鍋同芥右衛門(和泉国海賊衆)
他に誰かいます?
608人間七七四年
2010/04/15(木) 11:38:11ID:LKqIpijy 伊勢衆の関盛信や国府佐渡守とか
あと丹羽蜂屋津田は副将格で同列じゃね
三好康長は当事者兼先鋒扱いかね。
あと丹羽蜂屋津田は副将格で同列じゃね
三好康長は当事者兼先鋒扱いかね。
609607
2010/04/16(金) 00:05:53ID:PTNSivTz610人間七七四年
2010/06/07(月) 14:48:12ID:Xc+G3178 >>607
こうして見ると名目上の大将として信孝・丹羽・蜂屋らの名前があるけど
彼らの直属兵ってのは実際大した事なくて
実情は、旧三好勢や、和泉・丹波・山城・伊勢(信雄の支配下の国人)らの寄せ集め衆でしかないんだよね。
本能寺の変後に、信孝の兵がほとんど逃げちゃった事で
人望がないとか、統率力に欠けたなんて言われるけど
長宗我部にやられてジリ貧だった三好勢や、
土橋氏にあっという間に勢力挽回された雑賀鈴木氏なんかは当てにならないし、
和泉・山城・丹波なんかから動員された連中は光秀に付いたんだろうし
他の軍団長クラス(勝家や秀吉ら)と四国遠征軍を同列に見るのはおかしな話なんだよね。
こうして見ると名目上の大将として信孝・丹羽・蜂屋らの名前があるけど
彼らの直属兵ってのは実際大した事なくて
実情は、旧三好勢や、和泉・丹波・山城・伊勢(信雄の支配下の国人)らの寄せ集め衆でしかないんだよね。
本能寺の変後に、信孝の兵がほとんど逃げちゃった事で
人望がないとか、統率力に欠けたなんて言われるけど
長宗我部にやられてジリ貧だった三好勢や、
土橋氏にあっという間に勢力挽回された雑賀鈴木氏なんかは当てにならないし、
和泉・山城・丹波なんかから動員された連中は光秀に付いたんだろうし
他の軍団長クラス(勝家や秀吉ら)と四国遠征軍を同列に見るのはおかしな話なんだよね。
611人間七七四年
2010/06/09(水) 05:55:29ID:OZ3ciyeH 信雄の子孫が信孝(孝一)を名づけられたのはどういう縁だろう...。
612人間七七四年
2010/06/11(金) 20:23:03ID:bVy0w2Sb _,,,,,,,,
, - ' ゙ `` ‐ 、_,,,,,
,r' /=ミ
/ 彡ll',''´
. / 彡lll
!-- .、 ,、、、、,,, 彡lノ
l,,,,,__ / ___ 'r''゙ヽ
. |`゙'' ./ `'゙'''" .〉,l |
|. ,' // 近代に4代不明なら、おまえはワシの末裔じゃないだろう
. ',. ,' , r'
. ゙, ゙'ー ‐` l |
゙、''゙ ,,、二''‐ ノ l、
''''''''7'ヽ ''' / /`〉`゙T''''''''''
l ` 、,,,,、- ' " / /.| | 織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
. | | .l i / ./ | | http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161/
| | | l / ./ .| |
. | | | l / / | |
| | | ', / / l .l
∧∧
( ,,) 『やっぱり・・・・。』
/ |
〜(__)
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|. ,' // 近代に4代不明なら、おまえはワシの末裔じゃないだろう
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l ` 、,,,,、- ' " / /.| | 織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
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( ,,) 『やっぱり・・・・。』
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613人間七七四年
2010/10/15(金) 16:14:42ID:bxtAMYhe 仮想物で信孝と津田信澄が秀吉倒して天下統一して大坂城作って将軍就任とか、
電波極まりないのを見たが・・・。
むごい、これはむごい。
電波極まりないのを見たが・・・。
むごい、これはむごい。
615人間七七四年
2010/11/07(日) 13:42:21ID:xQhW0aLV 仮想物ならいいんじゃね?
信長が本能寺脱出して云々なんてのもあるんだし。
信長が本能寺脱出して云々なんてのもあるんだし。
616人間七七四年
2010/11/08(月) 21:32:30ID:68Rn5pnK 仮想物のなかでは出来はよかったと思うが
617人間七七四年
2010/11/16(火) 17:33:10ID:VmptQmCd 信雄に負けるな
エールage
エールage
618人間七七四年
2010/11/16(火) 18:02:34ID:T+qm7vQ0 実母坂氏を見殺しにしても敢然と挙兵に及んだ織田中将信孝をお解放しか
621人間七七四年
2010/12/20(月) 22:12:32ID:D1oOQde2622人間七七四年
2010/12/20(月) 22:48:49ID:HMX4SBBc >621
取り決めなんだから事前に散々やり取りしているはずのこと。
それを守らなかったのだから、非がありまくりなのは信孝のほう。
取り決めなんだから事前に散々やり取りしているはずのこと。
それを守らなかったのだから、非がありまくりなのは信孝のほう。
623人間七七四年
2011/02/19(土) 16:39:30ID:BaGZdkDC624人間七七四年
2011/02/20(日) 02:09:16.44ID:TJHUlRdE 人質まで取られてるなら大人しくして静観できなかったのかね。
どうせ信雄と秀吉なんていずれは不和になっただろうし、
そうすりゃ反撃する隙はあっただろ。もちろん徳川家康の力を借りるのは必要だと思うけど。
どうせ信雄と秀吉なんていずれは不和になっただろうし、
そうすりゃ反撃する隙はあっただろ。もちろん徳川家康の力を借りるのは必要だと思うけど。
625人間七七四年
2011/02/27(日) 12:17:53.66ID:N5AErmcZ この人、信雄よりマシってだけで大将としての器量は無かったんだろうな。
気位だけは高くて、あとは性急な性格っぽい。
本能寺の変後に信澄を殺したり、秀吉の挑発に引っかかって挙兵したり最悪な結果ばかり。
気位だけは高くて、あとは性急な性格っぽい。
本能寺の変後に信澄を殺したり、秀吉の挑発に引っかかって挙兵したり最悪な結果ばかり。
626人間七七四年
2011/03/12(土) 11:19:29.07ID:IkSGffvG 本能寺の変がなければ父信長の薫陶を受けて、
30過ぎに大化けしていたかもしれない。
30過ぎに大化けしていたかもしれない。
627人間七七四年
2011/03/20(日) 15:22:22.16ID:8J5p+lcr >>625
信澄の殺害は信孝の意というよりは丹羽長秀の助言だと思うね
信孝は神吉城攻めで足軽に混じって城に乗り込むなど武勇はあるが
大将としての思慮が足らないのは確かだ
だから信長は浪人、農民徴集兵の烏合の衆とはいえ四国遠征軍として一軍の将の経験させようとした
そしてそのアドバイザーとして実戦経験豊富な丹羽を付けた
もともと信長は信孝を大和国主にしようとしたが
大和国主だった原田直政の討死、松永久秀の謀反など不吉な事が起こるため避けて
讃岐国主にするべく四国遠征軍の長に信孝を据えた
信澄の殺害は信孝の意というよりは丹羽長秀の助言だと思うね
信孝は神吉城攻めで足軽に混じって城に乗り込むなど武勇はあるが
大将としての思慮が足らないのは確かだ
だから信長は浪人、農民徴集兵の烏合の衆とはいえ四国遠征軍として一軍の将の経験させようとした
そしてそのアドバイザーとして実戦経験豊富な丹羽を付けた
もともと信長は信孝を大和国主にしようとしたが
大和国主だった原田直政の討死、松永久秀の謀反など不吉な事が起こるため避けて
讃岐国主にするべく四国遠征軍の長に信孝を据えた
628人間七七四年
2011/03/21(月) 14:08:20.27ID:4QCPOji3 津田信澄って結構有能な将だったから殺すよりも自陣営に引き込んだ方が後々の為に良かった気がするんだけどね。
まぁ彼は光秀の婿なんで、信孝長秀も彼が明智方につくのを恐れて、先制攻撃しかけて殺したんだろうけど。
元々から信澄は信孝長秀とは馬が合わなかったのかね?
まぁ彼は光秀の婿なんで、信孝長秀も彼が明智方につくのを恐れて、先制攻撃しかけて殺したんだろうけど。
元々から信澄は信孝長秀とは馬が合わなかったのかね?
629人間七七四年
2011/03/21(月) 19:33:04.55ID:KfbMgIdb 信澄が有能?
初耳だな
小説かなんか見て思い違いしてない?
信忠に対しては勿論、信孝に対してもそんなに功績で上回ってると思えない
藤堂高虎は信澄が無能だから見切りつけて羽柴秀長にくら替え仕官したと思ったが
初耳だな
小説かなんか見て思い違いしてない?
信忠に対しては勿論、信孝に対してもそんなに功績で上回ってると思えない
藤堂高虎は信澄が無能だから見切りつけて羽柴秀長にくら替え仕官したと思ったが
630人間七七四年
2011/03/21(月) 21:00:50.28ID:4QCPOji3 そうなのか。
信勝の子にかかわらず信長に重用されてるから有能な将だと思っていたが。
あと、藤堂高虎は信澄の遺児(昌澄)を後々まで色々と世話したりしてるから、
高虎も豊臣秀長ほどではないにしても津田信澄にも思い入れあるのかなと思ってたんだけど。
信勝の子にかかわらず信長に重用されてるから有能な将だと思っていたが。
あと、藤堂高虎は信澄の遺児(昌澄)を後々まで色々と世話したりしてるから、
高虎も豊臣秀長ほどではないにしても津田信澄にも思い入れあるのかなと思ってたんだけど。
631人間七七四年
2011/03/21(月) 22:18:21.47ID:aa+YH4EW632人間七七四年
2011/03/22(火) 00:19:17.59ID:B92HFMen 信澄が与えられた大溝城は、結構重要な位置じゃないか?
若狭の丹羽と接してるし。
若狭の丹羽と接してるし。
633人間七七四年
2011/03/22(火) 00:31:14.97ID:B92HFMen634人間七七四年
2011/03/22(火) 11:29:54.15ID:RB/FhPkT >>632
大溝城主であることは確かだが、城主に見合う活躍をしたかというと疑問符がつく
地理的に対松永久秀、対本願寺、第二次伊賀攻めなど出兵召集されてもいいものだが従軍した形跡がない
むしろ信長弟の岸和田城主織田信張の方が地味だが活躍している
親織田に転身した鈴木重秀を支援して重秀の雑賀庄統一を成功させ
本能寺の変後、四国遠征軍の水軍として従軍していた鈴木重秀が
長宗我部の支援を受けた反鈴木派の雑賀衆土橋らの侵攻から逃げてきた時岸和田城へ迎入れ守った
大溝城主であることは確かだが、城主に見合う活躍をしたかというと疑問符がつく
地理的に対松永久秀、対本願寺、第二次伊賀攻めなど出兵召集されてもいいものだが従軍した形跡がない
むしろ信長弟の岸和田城主織田信張の方が地味だが活躍している
親織田に転身した鈴木重秀を支援して重秀の雑賀庄統一を成功させ
本能寺の変後、四国遠征軍の水軍として従軍していた鈴木重秀が
長宗我部の支援を受けた反鈴木派の雑賀衆土橋らの侵攻から逃げてきた時岸和田城へ迎入れ守った
635人間七七四年
2011/03/23(水) 08:23:28.66ID:I+d60SXQ 基本的に、もうひとつ上の一門衆だったのかもしれないよ。
636人間七七四年
2011/03/23(水) 08:36:36.25ID:xAXyd76I 信行の息子が信長に尽くしているってのが大事だったのかも知れないね
信澄の方も自分の立場を理解して一門衆の筆頭としての立場で動いていたなら
本人が武将としては平凡であっても、織田家にとっては代え難い歯車だったんじゃないか
信澄の方も自分の立場を理解して一門衆の筆頭としての立場で動いていたなら
本人が武将としては平凡であっても、織田家にとっては代え難い歯車だったんじゃないか
637人間七七四年
2011/05/06(金) 16:01:54.40ID:wNExOLB4 信孝も信澄も若くして死んでるからどの程度だったかってのはなかなかなあ。
638人間七七四年
2011/05/08(日) 20:20:13.42ID:zzsOm6xd 2人とも信長が横死しなかったら大きく化けた可能性はあったんだろうけどな。
639人間七七四年
2011/06/15(水) 20:27:45.05ID:xcnnbldE ウリ達のワグネス息してない
640人間七七四年
2011/06/15(水) 20:29:47.45ID:xcnnbldE ごばくゆえご容赦願いたい
641人間七七四年
2011/10/27(木) 01:20:38.01ID:U/RLRX/c 信澄殺しage
642人間七七四年
2011/11/29(火) 22:07:09.89ID:sqFEOQz/ 信孝には養家系の後見人いないの?
信忠には斉藤利治
信夫には木造具政
がいるけど
信忠には斉藤利治
信夫には木造具政
がいるけど
643人間七七四年
2011/12/06(火) 18:04:11.50ID:5eiGSh1H ┌縁者─岡本秀成
│ ┌岡本良勝(?)───岡本良勝(?)
│ │
岡本氏─┴────女 信長
│ ├───信孝
├───信孝生母
│ ├───小嶋少輔
坂氏 ┌小嶋氏
┌───縁者───┘ │
│┌───────────女
││ ┌─川口宗定┴─川口宗吉
││ 大橋定広─┴─大橋定安──大橋重長
└┴───┐ │
│┏━←養女━━━━┓ │
小嶋信房ー┴┻─女 ┌───くらの方(他の側室の子供かも知れないが)
├──┴─信長
織田信秀
一応岡本氏が後見だな。
│ ┌岡本良勝(?)───岡本良勝(?)
│ │
岡本氏─┴────女 信長
│ ├───信孝
├───信孝生母
│ ├───小嶋少輔
坂氏 ┌小嶋氏
┌───縁者───┘ │
│┌───────────女
││ ┌─川口宗定┴─川口宗吉
││ 大橋定広─┴─大橋定安──大橋重長
└┴───┐ │
│┏━←養女━━━━┓ │
小嶋信房ー┴┻─女 ┌───くらの方(他の側室の子供かも知れないが)
├──┴─信長
織田信秀
一応岡本氏が後見だな。
644人間七七四年
2012/03/11(日) 07:19:58.59ID:Y3wsJVmL 神戸氏には居ないのかねやっぱり
645人間七七四年
2012/03/11(日) 07:34:15.69ID:9shf1ETg 長尾種常
646人間七七四年
2012/03/11(日) 09:40:14.07ID:zPY3Bw6d >>638
優秀すぎる弟は邪魔だろ
優秀すぎる弟は邪魔だろ
647人間七七四年
2012/03/17(土) 20:17:53.87ID:9yQlzXDq 報いを待てなかった羽柴筑前。
ただいま外出中。
ただいま外出中。
648人間七七四年
2012/03/18(日) 13:55:38.93ID:dn78M9Bn ただいまァ
信孝死んでるね。
信孝死んでるね。
649人間七七四年
2012/04/21(土) 15:44:19.41ID:/e2YvoTk 信孝復姓後、神戸家の名籍は誰も継がなかったの?
650人間七七四年
2012/04/21(土) 16:05:54.99ID:0TMKCiw/ 神戸具盛が生きてる
651人間七七四年
2012/04/28(土) 16:12:01.65ID:PcaOJIvd 『勢州軍記』の神戸良政は?
652人間七七四年
2012/06/03(日) 00:22:45.23ID:4OmaneKu 慶長5年(1600年)に具盛が安濃津で客死して、神戸家は絶家と
なった。
第4代神戸具盛の曾孫で、蒲生氏に仕えていた高島政房が神戸姓
を名乗り神戸家を復興し、子の良政が紀州徳川家に仕えて『勢
州軍記』等を著した。
なった。
第4代神戸具盛の曾孫で、蒲生氏に仕えていた高島政房が神戸姓
を名乗り神戸家を復興し、子の良政が紀州徳川家に仕えて『勢
州軍記』等を著した。
653人間七七四年
2012/06/03(日) 02:52:10.07ID:HI/GMwWu >>646
信忠と信孝の関係って実際どうだったんだろう?
信忠と信孝の関係って実際どうだったんだろう?
654人間七七四年
2012/06/11(月) 08:59:35.07ID:fvxs281x 明治25年(1892年)11月24日付の「読売新聞」に、大阪府の平民が宮内大臣に系図などを添えて、信孝の嫡流、10世の子孫と称し、名乗りでたという記事を掲載している。
このほか岐阜に神戸氏を名乗る子孫があり、廣瀬氏などの分家を輩出しているという。
このほか岐阜に神戸氏を名乗る子孫があり、廣瀬氏などの分家を輩出しているという。
655人間七七四年
2012/06/13(水) 20:50:58.83ID:vQpNanRp656人間七七四年
2012/07/14(土) 19:39:15.87ID:GPYyYitK 「三七信孝もまた、将軍(信長)の御息男にして、智勇人に越えたり」(『天正記』)
「御覚え御利発の有様、残る所御座なく候」(『川角太閤記』)
「御覚え御利発の有様、残る所御座なく候」(『川角太閤記』)
657人間七七四年
2012/07/18(水) 00:03:27.48ID:5sa5EnK0 頭がよかったゆえのコンプレックス
信雄とは対照的なイメージ
信雄とは対照的なイメージ
658人間七七四年
2012/09/25(火) 20:42:47.55ID:6p1OAB9L 信孝の印「一剣平天下」が捺されてる書状を展示してる博物館ないかなぁ。
659人間七七四年
2012/12/03(月) 01:01:00.46ID:QgwQt2sf 頭は悪くないんだろうけど、自信過剰で野心家で人望が無いイメージがあるな。
信澄を明智方と思い込んで殺したり、近衛前久にも同じような事しようとしたりと短慮な面もある。
あと秀吉みたいな怪物にマジで対抗してしまったのが運の尽き。
信澄を明智方と思い込んで殺したり、近衛前久にも同じような事しようとしたりと短慮な面もある。
あと秀吉みたいな怪物にマジで対抗してしまったのが運の尽き。
660人間七七四年
2012/12/21(金) 15:52:29.49ID:kyDiEvld 織田信雄と比較すると気性の激しさが際立ってるよね
小牧の時以外は一貫して空気なままだった信雄とかなり異なる
武田勝頼に近いな
小牧の時以外は一貫して空気なままだった信雄とかなり異なる
武田勝頼に近いな
661人間七七四年
2012/12/22(土) 00:27:07.03ID:yLbUWFHf 勝頼って別に気性激しくないんじゃね
662人間七七四年
2012/12/29(土) 12:10:01.37ID:MFzEoV2x 一度目の挙兵失敗で大人しくしてれば信長の子だし、秀吉も切腹させる事はなかったと思うんだけどな。
さすがに美濃には置いておけないだろうけど、小大名で生きながらえたかもしれない。
さすがに美濃には置いておけないだろうけど、小大名で生きながらえたかもしれない。
663人間七七四年
2013/04/05(金) 14:31:18.94ID:9iQmYUFR age
664人間七七四年
2013/04/05(金) 18:14:00.19ID:4vGVC7+y 切腹させたのは信雄だよ
665人間七七四年
2013/05/03(金) 23:21:41.48ID:PdIBjcc3 秀吉は信雄すら殺さなかったしな。
666人間七七四年
2013/05/04(土) 01:00:13.30ID:Qxsv7eun 殺さなかったも糞も直接対決で大敗してるから殺せるわけがない
667人間七七四年
2013/05/04(土) 04:21:04.27ID:P63Om3q2 犠牲者が多いだけで大敗ではない
そもそも大久保によると羽柴軍は10万以上だからな
5万人くらい消えてもまだ羽柴軍が優勢
そもそも大久保によると羽柴軍は10万以上だからな
5万人くらい消えてもまだ羽柴軍が優勢
668人間七七四年
2013/05/04(土) 07:33:50.87ID:cztiZSu1 天正12年の秀吉と家康・信雄との戦役は
秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もって
ひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように
依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
秀吉に呼応する上杉の南下と
秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
秀吉と敵対する愚を犯した家康は最低最悪の戦略的大失敗を
犯しただけじゃんよ。
アンチ豊臣政権のキチガイ在日の捏造歪曲コピペ爆撃の必死さは買うけどよwwwwww
秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もって
ひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように
依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
秀吉に呼応する上杉の南下と
秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
秀吉と敵対する愚を犯した家康は最低最悪の戦略的大失敗を
犯しただけじゃんよ。
アンチ豊臣政権のキチガイ在日の捏造歪曲コピペ爆撃の必死さは買うけどよwwwwww
669人間七七四年
2013/05/04(土) 09:24:58.48ID:Qxsv7eun ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
670人間七七四年
2013/05/04(土) 09:26:10.27ID:Qxsv7eun >>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき
>>空手形の発行をする始末だからねぇ。
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
>>在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態
小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
>>八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
218 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/23(土) 11:14:22.58
>>20万人が戦った関が原の戦いですら
>>旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を
>>8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明
ただ逃散兵が多かっただけだろ
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
>>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
>>三河渥美郡にある常光寺の日記
>>4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか?
むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
>>空手形の発行をする始末だからねぇ。
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために
>>在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態
小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと
>>八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
218 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/23(土) 11:14:22.58
>>20万人が戦った関が原の戦いですら
>>旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を
>>8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明
ただ逃散兵が多かっただけだろ
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
>>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
>>三河渥美郡にある常光寺の日記
>>4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか?
むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
671人間七七四年
2013/05/04(土) 09:28:30.98ID:ZGRnni1M 実際秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
672人間七七四年
2013/05/04(土) 09:36:47.34ID:Qxsv7eun >>秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もってひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
673人間七七四年
2013/05/04(土) 09:39:50.69ID:Qxsv7eun 秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)
まで2か月も経ってるな。大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない。戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意の
ハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
まで2か月も経ってるな。大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない。戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意の
ハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
674人間七七四年
2013/05/04(土) 09:40:27.47ID:Qxsv7eun 9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね で、11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
>>信雄も家康も手も足も出ないほど追い詰められていた事実は動かない
当初去就が不明だった池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け 二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出なかったのが秀吉
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね で、11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
>>信雄も家康も手も足も出ないほど追い詰められていた事実は動かない
当初去就が不明だった池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け 二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出なかったのが秀吉
675人間七七四年
2013/09/15(日) 01:05:18.75ID:IUNo1C5O バカテスの木下秀吉について語りましょう。
676人間七七四年
2013/09/23(月) 06:55:32.03ID:boh32KSo 来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
677人間七七四年
2013/09/23(月) 09:07:38.76ID:5kaNRLsN678人間七七四年
2013/09/23(月) 11:53:55.87ID:jabZ1Y7w だがだから無駄。特定ワードをNG入れとけ
679人間七七四年
2013/12/23(月) 20:14:08.62ID:7Jx4vbig 年末帰ったら関の地蔵(首塚)と神戸城址行ってみるわ
このスレ見てたら行きたくなった
このスレ見てたら行きたくなった
680人間七七四年
2014/03/12(水) 14:51:33.47ID:tVEbL2+3 【三法師】清洲会議を語る その2【天正十年】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1393977605/
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1393977605/
681人間七七四年
2014/03/12(水) 15:05:30.11ID:bG3fSb+t _______ __
// ̄~`i ゝ `l |
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| | ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄)) | | // ̄_>>
\ヽ、 |l | | | | | | | | ``( (. .| | | | ~~
`、二===-' ` ===' ' ` ===' ' // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
ヽヽ___// 日本
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄
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682人間七七四年
2014/08/09(土) 23:52:42.24ID:Q9N46CE9 三七様御謀反
683人間七七四年
2015/03/28(土) 11:23:25.24ID:oleCoKU7 笛吹きサンケイバイトラーメン
笛吹きサンケイバイトラーメン
笛吹きサンケイバイトラーメン
684人間七七四年
2015/05/01(金) 19:16:37.88ID:F8xH2gns 岡本良勝の裏切りが痛かった。
裏切られる信孝にも信長や秀吉が
持っていた何かが欠けていたのだろう。
裏切られる信孝にも信長や秀吉が
持っていた何かが欠けていたのだろう。
685人間七七四年
2015/05/23(土) 18:26:17.98ID:2g6wyAPD 池田が信孝を支持していればもっと違った展開だったろうな
そもそも池田は誰を後継者に押していたのやら
そもそも池田は誰を後継者に押していたのやら
686人間七七四年
2015/06/13(土) 15:28:14.62ID:X13vJz/I687人間七七四年
2015/06/15(月) 16:30:20.27ID:PgLeDwiu 江戸時代に生まれていれば可も不可もない殿様だったのに…
688人間七七四年
2015/07/09(木) 18:28:38.07ID:+nmOVx// 宣教師に頼んで、スペインかポルトガルに亡命すべきだった。
689人間七七四年
2015/07/12(日) 21:08:59.27ID:Is/RjrE0 秀吉の立場からすれば、信孝の母と子供を殺害した時点で、信孝を殺害しなければ自分が信孝に討たれてしまうことになり、信孝の命を狙う事は100%確実になった。
信孝は秀吉を滅ぼすことに全力を傾けるべきだった。それができなければ、逃げて逃げて逃げまくるべきだった。
信孝は、現状分析が大甘のお坊ちゃん。
信孝は秀吉を滅ぼすことに全力を傾けるべきだった。それができなければ、逃げて逃げて逃げまくるべきだった。
信孝は、現状分析が大甘のお坊ちゃん。
690人間七七四年
2015/08/12(水) 12:53:33.42ID:3sxlo2Q5 センゴクでの切腹場面が強烈
これが織田信長の倅どもだと
これが織田信長の倅どもだと
691人間七七四年
2015/09/12(土) 22:48:39.41ID:9EWwsTHK 信孝とその人質を処刑したのは、秀吉じゃなく信雄ですよ
正室の鈴与は、信雄方の武将の林十蔵と再婚して
新たな神戸城主として迎え入れることで助命されてる
秀吉と信雄が対立して、神戸城を攻められ落城すると十蔵も切腹するけど
正室の鈴与は、信雄方の武将の林十蔵と再婚して
新たな神戸城主として迎え入れることで助命されてる
秀吉と信雄が対立して、神戸城を攻められ落城すると十蔵も切腹するけど
692人間七七四年
2016/02/10(水) 05:07:36.67ID:ijhC9ro3 https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足)
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨーク従業員英産プルトニウムチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨーク従業員英産プルトニウムチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田
693人間七七四年
2016/05/01(日) 15:53:49.61ID:JB94HEVq そもそも三七は幼名なのか仮名なのか
694人間七七四年
2016/06/24(金) 17:35:10.75ID:jySf7SXD >>690
あまりいい扱いではなかったがインパクトは残るなあ
あまりいい扱いではなかったがインパクトは残るなあ
695人間七七四年
2016/06/28(火) 00:04:40.28ID:KQIugvdY ひとり一頭ずつ豚を育てたんだ。
一頭だけ誰の豚がわからないのが紛れていたんだよね。
そのとき織田くんは居なかったんだ。
「おだのぶたか?」
一頭だけ誰の豚がわからないのが紛れていたんだよね。
そのとき織田くんは居なかったんだ。
「おだのぶたか?」
696人間七七四年
2016/11/28(月) 12:39:09.26ID:SMQgmkUX >>687
参勤交代の自分の大名行列を横切った他領地の町民を切り捨てて復讐されてる
参勤交代の自分の大名行列を横切った他領地の町民を切り捨てて復讐されてる
697人間七七四年
2016/11/28(月) 20:11:39.65ID:DG4v4Dux699人間七七四年
2017/01/01(日) 04:49:27.40ID:fnHRKQTW 信雄は、自分の生母が信長の側室から下げられて
信孝の生母が側室になったのが気に入らなかったんだろうな
父の側室を殺すなんて普通は考えない
坂氏個人に対する憎悪も多少あった気がする
信孝の生母が側室になったのが気に入らなかったんだろうな
父の側室を殺すなんて普通は考えない
坂氏個人に対する憎悪も多少あった気がする
700人間七七四年
2017/01/02(月) 02:26:15.39ID:nnEfQa/o 粘着気持ち悪い
701人間七七四年
2017/02/08(水) 11:31:50.90ID:jzZRvOD/ フロイスのせいで有能説があるけど
何かにつけてうまくいかないイメージだな
何かにつけてうまくいかないイメージだな
702人間七七四年
2017/02/12(日) 07:50:31.57ID:uNFEPeT+ 有能と言っても、「信雄よりはマシ」というだけだからね
津田信澄ぶっ殺したのも、後々考えれば
秀吉の簒奪を助けただけだったし
津田信澄ぶっ殺したのも、後々考えれば
秀吉の簒奪を助けただけだったし
703人間七七四年
2017/08/05(土) 15:31:11.09ID:2iQOmkO+ 「きゃつ、親父の草履取りだった分際で!」
704人間七七四年
2017/08/05(土) 18:52:41.78ID:BuSa1M1J いや信雄より無能だから。
信雄は清洲会議の時には秀吉に近づいている信雄は実力者が誰かくらいは理解している
信雄は清洲会議の時には秀吉に近づいている信雄は実力者が誰かくらいは理解している
705人間七七四年
2017/08/06(日) 12:16:50.34ID:ABZxQcOq 能力はさすがに信孝の方が信雄よりは上だけど秀吉の足元にも及ばないのに身の程知らずに自滅した
信雄は一度解任はされたけど自分が秀吉家康たちに遠く及ばない能無しなことを知ってたから最終的には生き延びた
中途半端な有能はプライド捨てきれず自滅するけど無能なことを知ってる奴はプライド捨てられるからなんとか生き延びる
信雄は一度解任はされたけど自分が秀吉家康たちに遠く及ばない能無しなことを知ってたから最終的には生き延びた
中途半端な有能はプライド捨てきれず自滅するけど無能なことを知ってる奴はプライド捨てられるからなんとか生き延びる
706人間七七四年
2017/08/07(月) 02:02:03.18ID:43CLqCmc 大坂の陣では大将になることを求められたけど
辞退したんだっけか
辞退したんだっけか
707人間七七四年
2017/08/07(月) 03:53:15.03ID:7XBA1HY2 >>685
後の輝政の動向なんかで考えると秀信(三法師)というか信忠の系統を
後継者と思ってた感があるからその時点では三法師じゃね?
信雄には最期まで冷たかったし信孝は言わずもがなで他の信長の子供達へも
口添え含めてほとんど動いていないけど秀信や秀則に関しては動いてる
後の輝政の動向なんかで考えると秀信(三法師)というか信忠の系統を
後継者と思ってた感があるからその時点では三法師じゃね?
信雄には最期まで冷たかったし信孝は言わずもがなで他の信長の子供達へも
口添え含めてほとんど動いていないけど秀信や秀則に関しては動いてる
708人間七七四年
2017/08/08(火) 11:50:17.23ID:Iv1NJBEs 池田と言えば本来の嫡流筋にあたる恒興の孫が神戸姓の家臣に
刺殺されてる
信孝の神戸とつながりあるのか知らないけどもしつながりがあったとしたら
もしかして祟りかな?と盆も近いから怖い話風にレスってみるw
刺殺されてる
信孝の神戸とつながりあるのか知らないけどもしつながりがあったとしたら
もしかして祟りかな?と盆も近いから怖い話風にレスってみるw
709人間七七四年
2017/08/08(火) 16:40:13.87ID:OSeT/g5D >>705
信孝の有能エピソードってなにかある?
信孝の有能エピソードってなにかある?
710人間七七四年
2017/08/09(水) 15:23:38.29ID:Uy5yt/J8 >>709
キリスト教宣教師がかなり高く評価している。
播磨攻めの際に、大将の身でありながら自ら先頭に立って攻め寄せた、というから、武勇はともかく知性は乏しい脳筋の可能性がある。
それと清須会議後に美濃を与えられたのはむしろ不幸。美濃の有力者は信忠と一緒に死んでるし、その後の混乱で荒れて本来の国力の半分以下に落ちていた可能性がある。
キリスト教宣教師がかなり高く評価している。
播磨攻めの際に、大将の身でありながら自ら先頭に立って攻め寄せた、というから、武勇はともかく知性は乏しい脳筋の可能性がある。
それと清須会議後に美濃を与えられたのはむしろ不幸。美濃の有力者は信忠と一緒に死んでるし、その後の混乱で荒れて本来の国力の半分以下に落ちていた可能性がある。
711人間七七四年
2017/08/09(水) 19:55:51.16ID:g/Ps+a7i 宣教師はキリスト教に好意的かどうかでかわるからなあ。
稲葉を始め美濃の連中みな秀吉についているわけで国力が落ちてたは言い訳にはならんだろう。
信雄でももうちょっと踏ん張ったぞ。九鬼とかは切り崩しされたがね。
強いてあげるならまだ美濃へ支配が浸透してなかった不幸はあるがね。
稲葉を始め美濃の連中みな秀吉についているわけで国力が落ちてたは言い訳にはならんだろう。
信雄でももうちょっと踏ん張ったぞ。九鬼とかは切り崩しされたがね。
強いてあげるならまだ美濃へ支配が浸透してなかった不幸はあるがね。
712人間七七四年
2017/08/14(月) 04:57:30.88ID:ZBJIoydy 和田惟政などは絶賛する一方でキリスト教を弾圧した蝙蝠さんは
「チョオスガミなる悪魔」とかボロクソに言われてる
「チョオスガミなる悪魔」とかボロクソに言われてる
713人間七七四年
2018/02/12(月) 00:03:27.36ID:flZyQvAK 3兄弟の中で唯一まともな肖像画がない
まあ他の兄弟の肖像画も信長の息子だから信長に似てるだろうって
信長の肖像画参考に適当に描いたんだろうが
まあ他の兄弟の肖像画も信長の息子だから信長に似てるだろうって
信長の肖像画参考に適当に描いたんだろうが
714人間七七四年
2018/04/24(火) 23:42:18.98ID:x6i/L6Ea715人間七七四年
2018/11/16(金) 11:11:41.28ID:4TKYpS1s この人は劣化武田勝頼って印象ある
一方面軍を指揮する者として成長すれば猛将として名を馳せていたかもしれないけど、織田家の当主としては到底相応しくない
まあ、信長の跡を継ぐに相応しい人間なんて当時日本中に5人といないだろうけど
一方面軍を指揮する者として成長すれば猛将として名を馳せていたかもしれないけど、織田家の当主としては到底相応しくない
まあ、信長の跡を継ぐに相応しい人間なんて当時日本中に5人といないだろうけど
716人間七七四年
2018/12/20(木) 10:13:09.46ID:2Rjqx2Ce もし信孝信雄兄弟が仲良かったら、清洲会議後に二人で秀信の後ろで実権握ることって可能だったんだろうか
717人間七七四年
2018/12/27(木) 02:23:26.49ID:LAVJQz6H718人間七七四年
2019/12/31(火) 23:48:18.20ID:DLNtcLHh 史実的実像がいまいちわかってない気がする
719人間七七四年
2020/02/15(土) 12:55:37.77ID:lxYJqd05 辞世の句は用意してたのか?
内海の野間からかなりの教養が高そう
なにわの事も夢のまた夢って
内海の野間からかなりの教養が高そう
なにわの事も夢のまた夢って
720人間七七四年
2021/12/27(月) 14:38:48.45ID:EqyK1l7u721人間七七四年
2021/12/27(月) 15:22:35.88ID:rfDHQIEt 岐阜城を貰ったけど本貫地の神戸より離れていて美濃の領主のほとんどが秀吉方じゃあな
出自からすでに信雄との差はついてたし養子先に至ってもそう
養父は存命で影響力があり統制が完全でなかった
このため四国遠征軍の直轄軍は逃亡が相次ぎ瓦解してる
烏帽子親の勝家は北国だし母坂氏が朝廷と繋がりがあっても色々と詰んで孤立してる
信包と同じ野心であったなら家名は続いたろうな
出自からすでに信雄との差はついてたし養子先に至ってもそう
養父は存命で影響力があり統制が完全でなかった
このため四国遠征軍の直轄軍は逃亡が相次ぎ瓦解してる
烏帽子親の勝家は北国だし母坂氏が朝廷と繋がりがあっても色々と詰んで孤立してる
信包と同じ野心であったなら家名は続いたろうな
722人間七七四年
2022/01/20(木) 13:58:43.94ID:gXcds8MH どう見てもノブオやん
https://twitter.com/T71144199/status/1463037986438742021
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
https://twitter.com/T71144199/status/1463037986438742021
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
724人間七七四年
2023/08/25(金) 22:21:29.64ID:KRidaIpe725人間七七四年
2023/08/26(土) 23:14:23.60ID:2jk32Gp4 >>719
秀吉が生きている間に信孝から受けた報いってどれを指してるのだろうか?
秀吉が生きている間に信孝から受けた報いってどれを指してるのだろうか?
726人間七七四年
2024/08/25(日) 12:05:05.55ID:Ulk9Jom4 本能寺の変の1582年、小早川秀秋が生まれた
ねねの甥に生まれ変わった信長は息子の仇の豊臣家を滅ぼした
ねねの甥に生まれ変わった信長は息子の仇の豊臣家を滅ぼした
727人間七七四年
2024/09/03(火) 17:43:48.34ID:2mY9H3n+ 乱の直後に京都に向かっていたらなあ
多少離散しても摂津の国人は信孝に付いたでしょ
多少離散しても摂津の国人は信孝に付いたでしょ
728人間七七四年
2024/09/12(木) 21:14:35.97ID:AaPR25Wg 言うように兵が離散したからな
目処が立たなきゃ京都に向かえない
勝ち目ないので
秀吉は勝つ目処があったから畿内の武将らが味方についた
目処が立たなきゃ京都に向かえない
勝ち目ないので
秀吉は勝つ目処があったから畿内の武将らが味方についた
729人間七七四年
2024/09/12(木) 21:23:17.76ID:9pY2z9hI 目処があろうがあるまいが前進すべきだった
桶狭間の信長と同じよ
熱田から出たあと次々と兵があつまってきた
桶狭間の信長と同じよ
熱田から出たあと次々と兵があつまってきた
730人間七七四年
2024/09/16(月) 23:07:33.42ID:IE3kWO2D 秀吉は大枚払って兵の脱走を防いだ
信孝にそんな金はないだろう
信孝にそんな金はないだろう
731人間七七四年
2024/09/17(火) 07:47:54.98ID:622f5nFu ここにも来たのかチョンコ
732人間七七四年
2024/12/21(土) 21:09:08.71ID:ytdb8Bl2 たらちねの名をばくださじ
あずさゆみ稲葉の山の露と消ゆとも
あずさゆみ稲葉の山の露と消ゆとも
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