人類は品種改良という形で他の種を「進化」させる事の出来る唯一の生物だが、こと自分達の種の品種改良という事になると、全くの下手くそである。
というのも、人類は社会の支配者層が(或いは、集団を支配する思想が)早ければ一世代二世代で簡単に頻繁に変わっていく為に、
その度に「優秀」とされて好まれ「選定」される人種や形質や習性(本能)が変化しまくり、残す形質も淘汰される形質も均一化されてしまい、
結果として選定に何の意図も無い「無作為」の状態に近い事になってしまう為、種全体的が小さな変化の積み重ねで「緩やか」に変化こそすれ、
進化と言うほど劇的な変化も、当然分化も起こらず、
地理的に断絶されたおかげでかろうじて分化されたままだった「肌の色」という「亜種」程度の違い程度しか残らなかったのである。


品種改良においては、残したい形質を持つ個体をまず「選別し」、その形質を残すのに都合のいい相手も「選別して」掛け合わせ、
更にその子孫達の中から「選別」し…という事を何世代、場合によっては何十世代も「意図的」に行う事で初めて可能なのであって、
全く何も選別せず「無作為」のままならば、突然変異の形質は他の形質に飲み込まれて消えてしまう為、
丁度人類が碌に進化できないでいるように、何百世代経ても劇的な変化は得られないのである。

だからこそ、求めたい形質を持つ個体だけを残す為の因子として、ダーウィンは「自然淘汰」という考えを取り入れた訳だが、
「自然」が「残したい(環境に対し多少有利な)形質を持つ個体だけ」を常に都合良く残す筈もなく、
これもまた認めてしまうと上記の「本来極めて低確率でしか起こり得ないのはずの偶々都合の良い展開」は避けて通れないのである。

そしてこれを回避できる唯一の考えは、人間が「意図」を持って品種改良を行うように、
何らかの「意図」を持って進化を操作する「何か」が存在するいうものしか無いのである。