仏教と言えば因果論と思われがちだが
般若心経では個別の因果を否定している。
因果の出現は相依的だと言っている。
つまりある事象を因だとするとそれに連なって縁、果、応報が現れる。
それらの関係は絶対的なものではなく、相依的、可変的であると言っている。

では因果の法則はないのかというとそうではなく常に全体性として存在する。
般若心経で説く「空」とは、存在は常に全体としてしか存在し得ず
個がそれを認知するときは相依的関係性でしか認知できない、ということ。

群盲象を撫でる、という諺があるが、あれを目が見えないとせずに
一つ上の次元を認知する知覚がないから全体を認識出来ない、とすると
般若心経はそういう人たちに世界とは何か、を説いた教え。
あの中には、ホログラフィでパラレルなパラダイムが展開されている。

般若心経と同じくらい読誦されている観音経は、有限な自己認知と全体の関係性を
フラクタル(自己相似)として捉える、すると個が認知する具象性と
因果の法則=原理性、全体性、抽象性の間にフラクタルの揺らぎが生じる。
これは具象←→抽象に転換する際の情報変容の容量のこと。

先ほどの群盲象の喩えだと、自分の撫でている(認知)している世界が
それだけではないと気づいたとき、スピリチュアル的に言うと、五感を超えた
体験をしたときに別の選択肢(感性)が生まれる、あくまで自己相似での
範囲内だけどね。
この選択の部分が観音経の「念彼観音力」になる。
自己相似の範囲でネガティブをポジティブに転換する様子が以下etc。

自己相似の範囲内で複数の選択肢が生じることを縁生という。
何か具体的な事象だけを言うのでなく、現在の自分の視野を離れて
新しい視点(感性)が開けることを指している。

人間が進化して意識がトーラス場に移ると、常に新しい視野(感性)が
開けるようになる、人類がトーラス場を共有するようになると
そこから業の解消が始まっていく といいな。