>>397
崔浩の国史事件が有名だが、あれは従来の定説の
「漢族の露骨な北族蔑視に、北魏の鮮卑族の怒りが爆発した」
という単純なものではないらしい。

一つは、柔然に大打撃を与えて弱体化させ、北方の脅威がなくなったので
太武帝は南征を志したが、漢族主義者である崔浩とその取り巻きの漢人門閥が邪魔になって
国史事件を口実にして崔浩一派を排除したという説、

もう一つは、太武帝の「務めて実録に従え」の指示通り、崔浩はいっさい忖度せず
国史を編纂したが、そこには現皇帝である太武帝への批評も含まれていた。
こういう批評は後世の史家によって記され、後世の人間に公開されるのが常であるが、
崔浩の場合、太武帝を在世中に公然と批判し、それが石碑によって衆人に公開されてしまった。
これが陛下への誹謗だ大逆罪だと告発され、太武帝の激怒を買ったという説がある。

いずれにせよこの時期は太武帝と崔浩との絶大だった信頼関係が崩れ始めており、
あっけなく大逆罪を着せられて崔浩は誅殺族滅の憂き目にあった。