サプリメントで精神病を治す溝口クリニック 2
獣医がある牛の状態を診て病気と診断する場合、彼はその診断のみでその牛の行動を変えはしない。 つまり、牛にとっての病気は体験している生体生理学的状態であるにすぎず、それ以上の意味はないのである。 ところが医者がある人間の状態を病気と診断すればその診断によって医者はその人の行動を変えてしまう。 いうならば病気の意味を疾患に付け加えることにより、ある社会的な状態が生体生理学的な状態に付加されるのである。 次のような場合の帰結の差異について考察してみよう。 労働の無能力が怠状によるとされる場合、または単核症のためとされる場合、またはてんかんのためだとされる場合、 あるいは飲酒癖が道徳的な弱さのためとされる場合、またはアルコール症のためとされる場合である。 つまり医学的診断は人の行動、その人が自分自身に対してとる態度、他人がその人に対してとる態度に影響を及ぼすのである。 要約すれば、病気とはそもそもある状態に関する人間の判断に基づいた社会的構成物である。 病気はある意味では美意識と同じく見る人次第である。 これは部分的には疾患とは何かということに関して流布している文化的な概念に基づいており、 そうでない時、この方が西欧社会では殆どなのだが、生体生理学的な現象に基礎を置いている。 だが、いずれにせよ病気というこの社会的評価を下すという過程が病気や疾患の概念にとっては枝葉末節なことでなくむしろ中心的なことなのである。 論理的には(体系化された分類である)診断と治療が共に社会的判断を土台としている以上、両者は不可分なのである。 「疾患」の原因である微生物を確認することが重要な結果をもたらすのとちょうど同じ様に病気を社会的判断として認識することが重要なのである。 いうまでもないが、逸脱行動をめぐる病気の社会的構成は、明らかに生体生理学的な問題に比べてより多義的で解釈次第となりがちである。 この点から見れば病気と定義された状態は、社会的な価値体系とある社会の一般的世界観とを反映していることが理解できるのである。 批判的精神医学 : 反精神医学その後 D.イングレビィ編 177p. 生政治(Bio-politics) 現代社会の支配体系の特徴として、例えば政府等の国家が市民を支配する際に、単に法制度等を個人に課すだけではなく、 市民一人ひとりが心から服従するようになってきたとして、個人への支配の方法がこれまでの「政治」からひとりひとりの「生政治」にまで及ぶようになったと説明する。 これを「生政治学(Bio-politics)」という。これはフーコーの著書『監獄の誕生』の中で言及される主要な概念のひとつで、この例を示すために、「パノプティコン」の例がよく使われる。 近代国民国家の支配の方法として、法制度といったものを「外的」に制定するだけではなく、法制度を「倫理」として各個人の「内的」な意識レベルまでに浸透させるようになってきたと説明する。 生-権力 フランスのポストモダンの哲学者フーコーの用語。 近代以前の権力は、ルールに従わなければ殺す(従うならば放っておく)というものだったが、 近代の権力は、人々の生にむしろ積極的に介入しそれを管理し方向付けようとする。 こうした特徴をもつ近代の権力を「生-権力」とフーコーは呼ぶ。 こうしたフーコーの権力論は、近代になって個々人の自由が広く認められるようになったという一般的なイメージを覆し、 近代を個々人を巧妙に支配管理する権力技術が発達してきた時代として捉えるものだった。 どの薬を服薬するかよりも誰が主治医なのかが最も重要 錐体外路症状が丸出しの人見ると主治医変えたらいいのにと悲しくなる 米海軍兵器センターの発言です。「我々は、細胞、組織、生体全体の行動を変化させることができる」。つまり、体のどこでも、です。 「胎児死亡率を6倍上げ、先天性異常を引き起こし、人体の細胞に悪性腫瘍を引き起こすことができる」。 2001年から2007年にかけて、秘密のコースが行われていました。このコースの第11番目の開始時には、こうありました。 「学生たちは、現在の知識を学ぶ。ガンのメモリー、脳の機能障害、目や肌へのダメージ、電磁波・周波数による先天性障害」。 ◆実験は特定のプロジェクトの一環だった どんな精神疾患だろうと、電磁波を使って引き起こすことができる、というのが彼らの自慢でした(それが可能なのは知っています)。 精神分裂病、パラノイアを誘発する事もできるし、目を見えなくさせたりすることもできます。 心臓発作、肝臓の機能障害、心臓の機能障害も引き起こせる。その内臓をターゲットにするだけで、人体になんでも引き起こすことが可能なのです。 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200& ;c=400&t=6&k=2&m=295046 ↑このテクノロジーを医師が使用していると考えて間違いないだろう 国家機密レベルの話なので絶対に言わないが 精神鑑定によって、どのようなタイプの対象が出現するのでしょうか? 精神鑑定は、裁判に介入する目的として、また、刑罰の目標としてどのようなタイプの対象を裁判官に提出するのでしょうか。 先ほど紹介したテクスト−他のテクストを紹介することもできます。 私は一九五五年から一九七四年にかけての精神鑑定書をひと揃い手に入れました。 精神鑑定によって出現し、犯罪に貼りつけられ、犯罪の裏地ないし分身となるような、 そうした対象といえば一体どのようなものなのかと言えば、 それは、「心理的未成熟」、「ほとんど構造化されてない人格」、「現実に対する不的確な判断」などといった、 それら一連のテクストの中に絶え間なく見いだすことのできる諸概念です。 実際私は、以下のような表現を見つけました。すなわち、「極度の情緒不安定」、「深刻な感情の混乱」、 あるいは、「補償」、「想像上の創作」、「倒錯的な戯れ」、「ヘロストラトス症」、「アルキビアデス症」、「ドン・ファン症」、「ボヴァリスム」などです。 要するに、精神鑑定は、犯罪の心理学的かつ倫理的な分身な構成を可能にする、ということです。 つまり、精神鑑定は、法典に明記されたものとしての違反行為をそれとして認めず、 その背後に、弟あるいは妹のようにそれに似ている分身を、もはや法律が定める違反行為としてではなく、 生理学的、心理学的、ないしは道徳的ないくつかの規則からの逸脱として、出現させるのです。 ミシェル・フーコー講義集成〈5〉異常者たち (コレージュ・ド・フランス講義1974‐75) 18p. 「残基的ルール違反者が公けにレッテルを貼られる時に生じる危機のなかでは逸脱者は被暗示性が高くなり、 申しだされた狂気の役割を唯一の代替策として受け入れるかもしれない ……残基的ルール違反者が精神障害の枠組みのなかで自分の行動を組織化し、 彼の組織化が他の人びと、特に医師たちのような威信のある他者たちによって妥当化される時、彼は「ひっかけられ」て慢性的な逸脱の経歴をたどって行くであろう」(pp.88-89) https://archive.is/vItZC 医療従事者専用の身に付ける機器を必要としない視界に直接投影する装置は 患者の話したことを分析して投影する患者の気分をお天気マークで表示したり 本当かウソかも表示する得意げにしているとニヤリと表示したりかなり精巧に表示するのである だが看護師が見るものは医師が編集したものばかりなので本当でもウソと表示させたり 事実と異なっている場合も多い 昔は乳幼児死亡率が高かった今でも開発途上国は乳幼児死亡率が高い なぜここまで乳幼児死亡率を下げられたのか 医療技術で細胞単位までコントロールすることができるようになったからである 例えば乳幼児にがんができたとしよう本当なら助からない それを小児科医は抗生物質等の適当な薬で治る病気と診断し 医療技術で細胞を書きかえなんでもない病気だったということにする 逆に年寄りはなんでもない病気だったとしてもそろそろ殺しとくかと 内科医はがんと診断し抗がん剤を処方し本当にがんにして殺すのである 医師特有のサイコパス感はこういう所からくるのだろう 中国やポーランドのニュースなど昔から交通事故に遭うと盲目だった人が目が見えるようになったという話を世界各地で聞く なぜそんなことが起きるのか医師は患者を主体化して自由自在に表向きないことになっている 機密医療技術で操作できるので目が見えないなんてあまりにもかわいそうだと思った良識ある医師が治してあげるのだろう つまり交通事故に遭うと目が見えるのではなくそれに伴う入院時に医師が視界に投影する医療技術で 視界のボタンをポチポチ押して人体を操作して目が見えるようになるわけだ https://switch-news.com/goodnews/post-43728/ 何科に行くか決めた? 研修医・6年生集合 その94 https://mao.5ch.net/test/read.cgi/doctor/1532100015/ 129 名前:名無しさん@おだいじに[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 21:38:18.38 ID:??? 精神科医は同業者からはともかく、患者本人および家族の視点からだとヤブ医者の判断がつきずらい。 患者本人はパーだし家族も精神病の身内への関わりがうすい。 だから医者間ではあの精神科医はクズだってわかっても患者や家族からは滅多に糾弾されない。 つまり、やりたい放題。 単科精神科病院はご存知の通り警察に連れてこられるような人も多い だから裏の精神医療の仕組みが治すように基本的にできていない 表に出して懲らしめたくても懲らしめられない犯罪者を精神病にして悩ませて苦しめる所なんだよ 総合病院精神医学リエゾン精神医学心身医学の方がまだまともと言える 主治医が裏テクノロジーで病気を作っているから精神科は特に主治医との相性がめちゃくちゃ重要なんだよ ■シンポジウム「『精神分裂病』(現統合失調症)とは何か」 クーパーとサズの来日講演 /東京で第72回日本精神神経学会総会 1975/05/12・13・14 まず、東京医科歯科大の島薗安雄が精神分裂病の生物学的研究の歴史経過を、東京精神医学総合研究所の荻野恒一が病理学・精神分析学的立場からの現状を述べ た後、サズが「Schizophrenia:The Sacred Symbol of Psychiatry(精神分裂病:精神医学の神聖なる象徴」、クーパーが「What is Schizophrenia?(精神分裂病と は何か?)」と題してそれぞれ講演している。 サズは、ここでも従来からの主張を繰り返す。要約すると1点目は、精神分裂病の症状といわれている現象があることは認めるが、精神分裂病(現統合失調症)なる ものは存在しない。なぜなら、精神分裂病の診断は「行動上の諸症状」を基礎に行っているものであり、はっきりした細胞上の病理などを示されていないからである。 精神分裂病とは絶対的・科学的な研究の結果ではなく倫理的・政治的な判断によって生じたものである。すなわち発見されたものではなく、社会的に構成され考えだ されたものであるとする。症状はあるが病因は不明のまま作為的な病名だけが与えられているとする従来の反精神医学の主張である。2点目に、サズはこのような精神 分裂病が社会的なものであるという前提にたち、患者の市民権や法的権利において人権侵害がなされていることにふれる。3点目としては、医学一般と精神医学を対比 し、医師と患者関係について述べている。自由な資本主義社会において、精神医学の需要と供給、すなわち検査や診断、治療といったものは当事者である医師か患者の どちらかが拒否すれば成立しないはずである。しかし、「伝統的な医学においては、医師は患者の代理行為者であるが、伝統的な精神医学においては医師は社会の代理 行為者」であるという現実上、医師によって患者が精神分裂病の診断名を冠されてしまうことにより、患者はどのように危険なのかも明確でないまま危険視され患者の 意思に反しても施設に監禁することが精神医学にも必要で法的にも正当化されていること、また患者はその診断や診断過程、診断によって正当化された治療を拒否する ことができず、そのような同意を得ないままの診断や治療が行われていることは暴行に等しいという(精神神経学会 1976:308 )。 <クリニック選びの目安> うつ病などの心の病の治療においては特に、医師との相性が重要になります。 医師自身が、一種の「薬」の役割を果たすからです。 口コミなどの情報は一応の参考にはなるものの、実際に受診してみないと見極められません。 通院自体が負担にならないように、まずは通いやすさで選んでみてはいかがでしょう。 俺がある病院で性格を最初と真逆に当てつけられまくって原型をとどめない認知にされてどう頑張ってもそうなってしまっていたのに 精神科医を変えると訳分からん所まで病気になる前のもともとの性格や知能やコミュ力に戻ったのは 精神科医に完全な脳のコピーのデータがあってそこに精神科医が視界に投影する医療技術でフタを並べていくので 元々の脳はどうだったか他の精神科医がどう治療したかも精神科医は完璧に把握しているのだろう 戻そうと思えばいつでももともとの脳に完全に戻せるのだ 初日講義では、18世紀以来の精神鑑定によって、犯罪者に「非行者」という新しい人物像が重ね合わせられるとともに、裁判官としての精神科医、そして精神科医としての裁判官という二重化がもたらされたと述べる。 ミシェル・フーコー講義集成〈4〉精神医学の権力 (コレージュ・ド・フランス講義1973-74) 先進国では異常犯罪者を周りに分かるように懲らしめると批判を浴びるから 単科精神科病院で表に出して懲らしめたくても懲らしめられない異常犯罪者を周囲に分からないように懲らしめるようにできている 単科精神科病院は異常犯罪者に懲罰を与えるところだから総合病院の精神科に行け 精神科の看護師なんて視界に投影する医療技術で医師の指示通りに振る舞うだけだから 主治医と相性良ければ看護師全員が優しいのである 医師の指示は絶対でコメディカルは勝手な事はできない 身体を対象にした制御 実は、これには、近代、特に18世紀の啓蒙の時代になって以降の医学の進歩が深く関係している。 バーバラ・スタフォードが「啓蒙された批評家の仕事は今や数学者のそれと似ていた。 この木立ちに剪定の鋏を入れて、永遠の原理に従って構想された秩序立ち、客観的で機械的な自然にと刈り込むのである。 身体が概念へ、蓋然が公式に変わるこの複雑な変化が完成するには丸一世紀を要した」と『ボディ・クリティシズム』などで論じているとおり、 18世紀を通じて身体はイメージを介して制御の対象となる(数値を用いてより科学的に制御が行われるようになるには、もうすこし待たなくてはならない)。 スタフォードが身体のイメージとその制御の例としてあげるのが、当時有名だった観相学者のラファーターが人の人相をコード化していく例だ。 身体は、要約され、コード化され、図式化されることで監視・制御の対象となっていく。医学の技術が政治的にも利用可能になる。 これが時代が降って19世期に入ると、ジョナサン・クレーリーが『観察者の系譜』で論じているように、生理学という人体制御に使える分野も成立しはじめる。 医学がその計測能力を高めたことがアガンベンのいう生政治が可能な基盤を作ったのだといえる。 医学の分野における、こうした発展とともに、政治が身体を通じて剥き出しの生を管理・制御の対象とすることが可能になったのである。 収容所の出現を許すかどうか? そのことは、アガンベンは本書でも指摘している。 実のところ、国民社会主義帝国は、医学と政治が、一つに統合されるという、近代の生政治の本質的特徴がその完成した形を引き受けはじめる瞬間をしるしづけている。 このことが含意するのは、剥き出しの生に関する主権的決定が厳密に政治的な動機や領域から離れ、 さらに両義的な領域へと移動していく、ということである。この領域では、医師と主権者が入れ替わっているように思われる。 ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生/ジョルジョ・アガンベン https://archive.is/MVZbo ■思想と政治体制について 精神医学と収容所について 立命館大学生存学研究センター 天田 城介 周縁的な人間の監視=矯正へ 「金持ちと貧乏人の断絶」から「民衆と周縁的な人間の断絶」への書き換え。18 世紀における資本主義体制の成立とともに、経済的規律が課 せられ、民衆は労働に従事し、多少なりとも財を蓄積するようになると、非合法的行為を容認できなくなっていくと同時に、精神医学・警察・ 司法・刑法体系などが結合した統治システムによって「周縁的な人間の監視=矯正」が遂行されていく。こうして周縁的な人間たちが監獄や 精神病院といった施設へと分離的=差別的に収容されるようになると、かつては歓迎されることさえあった周縁的な人間は民衆と断絶させられ、 また他の下層民とも切り離されていく――プロレタリアートとプロレタリアート化されていない周縁的存在を分け隔てる分断――。そして、 こうした統治システムのもと「周縁的な人間の監視=矯正」が実効されるだけではなく、むしろその圧倒的な効果は、周縁的な人間と切り離さ れた民衆に対する監視=矯正となって現れてくるのである。したがって、「周縁的な人間」を作り出すことは「周縁的な人間の監視=矯正」よ りもむしろ「民衆の保護と監視=矯正」の効果を生み出すのだ。 こうした権力システムのもと民衆は「社会階層」のイデオロギーを発展させた。犯罪者という「周縁的な人間」を切り離し、彼/女らに敵意 ・憎悪を向けるようになった。警察による保護さえ求めるようになった。そのことで、民衆は警察から容易に監視されることになった。犯罪者 に対して厳罰を求めるようになった。「人種差別反対をしながらも犯罪者には極めて冷酷な対応をする」(Foucault 1994d=1999: 249)ように なった。その社会的帰結として、権力はいとも簡単に民衆を統制することになったのだ8)。 社会全体がひとつの精神病院となり、私たちはそこに収容された囚人となる。そこでは精神医学という専門家の知識が権力をもつことになる。 今回とりあげる、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault 1926-84)の描く近代とは、まさにこうした、知識によって管理された、一種の収容所のごとき世界です。 近代となって逸脱者への対応はより巧妙になりました。逸脱した者は排除されるのでなく、おもてむき、社会へ回復することになります。 社会は逸脱者を自己のうちに回収することで、逸脱者を無害なものとします。社会は逸脱者を「更生」・「治療」と称しつつ自分の管理下に集めるのです。 社会はもはや逸脱者から脅かされることもなければ、そこから学ぶこともありません。こうして社会にとって危険な逸脱者(犯罪者と精神病患者など)は、 排除されるのではなく、社会の内に、しかしその周辺に集められ、包み込まれて無害なものとされるのです。社会はその外部をみずからの内にとりこんだのです。 刑法は犯罪者をその違法行為においてとらえますが、監獄の技術は囚人をその生活態度においてとらえます。 前者では違法性が問題とされますが、後者ではその非行生が問題とされます。刑法の建前では、監獄は犯罪者を更正させることになっています。 しかし実際には監獄はその特殊な環境によってむしろ「非行者」を生み出し、あらゆる違法行為の可能性を持つ者として社会に循環させているのです。 それゆえ、監獄制度の真の意義は、違法行為を減らし、抑制することではなく、 社会の転覆や不安につながるような犯罪の可能性を「非行性」として管理し安全なものとして閉じ込めることにあるのです。 [それはちょうど、精神病院のありかたに似ています。精神病院はたてまえとしては精神病患者の治療をするためにあります。 しかし患者を閉じ込めることでかえって患者の社会への不適合を生み出してしまいます。 実際には精神病院は、社会不安を引き起こす者たちの閉じ込めと管理をしているというべきでしょう]。 https://shakaigaku.exblog.jp/21000984/ http://archive.is/GEFMi フーコー権力論における4つの諸相 1.言説編制体を経由した権力の行使:社会の権力行使のタイプ 2.系譜学的アプローチを使った「権力の意味理解」への反省:権力への系譜学的探究 3.権力行使を微視的に観察するミクロロジーという方法:権力行使の分析法 4.身体を規格・規範化を通して「従順な身体」へと構成すること:身体を統治する 「権力というものを、否定と拒否と排除のメカニズムの総体だと考えてはならないことを想起する必要があります。権力は実際に、作りだす力をもつ ものなのです」(フーコー2008[June, 1975]:30) 医療における権力論の研究は、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)の、生権力や統治性の 議論が登場して根本的な変化を 遂げました。 それまで、医療について考えられてきた権力像は、患者をコントロールするむき出しの力、患者をモルモットにす る服従を強制する権力というのが定番でした。 今でも、このような権力論の図式にのっかって、「医者は権力を行使するからリベラルでなければならない」 「医 師の権力は神聖」(→医療聖職論)ということを主張する主に高齢者を中心としたお目出度いオールド・リベラストの方々がおられます。 ところが、権力の作用の多様なあり方や、統治性(governmentality)に かんする フーコーの議論に触れたものは、 権力というものは、我々が考えるほど(1)狭い範囲の出来事ではない、(2)容易に統御されるものではない、しかし、かと 言って (3)人間をがんじがらめにする絶望的なものでもない、という認識に到達しつつあります。 「真理には権力が伴う」「私たちは誰もが、権力のターゲットであるだけでなく、権力を結ぶ結節点(リレー)であり、ここからある種の権力が発揮されるからです」(フーコー2008[June, 1975] https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/000316helpoli.html >>646 こうした統治システムのもと「周縁的な人間の監視=矯正」が実効されるだけではなく、むしろその圧倒的な効果は、周縁的な人間と切り離さ れた民衆に対する監視=矯正となって現れてくるのである。したがって、「周縁的な人間」を作り出すことは「周縁的な人間の監視=矯正」よ りもむしろ「民衆の保護と監視=矯正」の効果を生み出すのだ。 >>647 社会全体がひとつの精神病院となり、私たちはそこに収容された囚人となる。そこでは精神医学という専門家の知識が権力をもつことになる。 今回とりあげる、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault 1926-84)の描く近代とは、まさにこうした、知識によって管理された、一種の収容所のごとき世界です。 >>648 「私たちは誰もが、権力のターゲットであるだけでなく、権力を結ぶ結節点(リレー)であり、ここからある種の権力が発揮されるからです」(フーコー2008[June, 1975] 精神科医は患者と関係する人物全員日本のどこに居ても心理を表示でき本人たちに無自覚に脳を操作し人間関係をコントロールすることもできるのである 患者と街中ですれ違っただけの他人の心理を表示するだけではなく脳を操作することもできる 精神科医と相性がよければ家族関係はもちろん良好だし近隣住民との人間関係も良好にできるのである 発達障害の人で何回職場を変えてもなぜか偉い役職の上司にばかり嫌われるなんて言う人がいるがこれは精神科医の仕業だろう 精神科医は人工衛星から日本中の人間の心理を表示し本人達に無自覚に脳を操作できるのである 人間への印象も精神科医は入れ替えることができるのだ 精神科病院よりも総合病院の精神科のほうが治る見込みが大きい なぜなら精神科病院から最も遠いところにあるのが総合病院の精神科だからだと精神科医の斉尾武郎の本に記してある 精神科医のkyupinのブログにも単科精神科病院よりも総合病院の精神科のほうが少しだけ治る期待が大きいと記してある 総合病院の精神科を10年以上経験している精神科医がもっとも当たりの先生である確率が高いと 和田秀樹の精神科医は信用できるかという本に記してある 精神科医が病気を作っているので精神科医の人間性が患者の病気ひいては人生を左右する 名古屋大学医学部精神科のウェブサイトには 「サイエンスとアートの共存を目指して」と書いてある これは科学技術により患者の心身から人間関係まで何もかも変えることが可能であり そのため精神科医が精神医学の掟に則って患者の病気を細部までデザインすることをアートと言っているのである 精神科医が患者の病気を機密医療技術で自由自在にコントロールしているので 当然重い患者が多い病院へ通院していたら自分が重い患者にされる危険性が高いし 軽そうな患者ばかりの病院へ通院していたら自分も軽い患者にされる可能性が高い メンクリでもここは緊張している患者が多いなとかここは錐体外路症状が出ていてキワモノみたいな患者が多いなとか ここは健常者のような普通の人しかいないなとか外来を見るだけでもそこの精神科医がどういう精神医療を行っているか分かるのである ウェーバー=他者をその意思に反しても行動させる バクラックとバラッツ=非決定権力。ある争点を議題にのぼらせないようにする。 ルークス=三次元的権力。本人に意識させないまま認識や思考を形成する。 フーコー=監獄の誕生。権力作用を受ける者が自ら規律。 フーコーの晩年 晩年のフーコーは、どの著作においても、西洋社会で「生の権力」という新しい権力、 つまり、伝統的な権威の概念では理解することも批判することも想像することもできないような管理システムが発展しつつあることを示そうとした。 従来の権力機構においては、臣民の生を掌握し抹殺しようとする君主の「殺す権力」が支配的であった。 これに対して、この新しい「生の権力」は、抑圧的であるよりも、むしろ生(生活・生命)を向上させる。 たとえば、住民の生を公衆衛生によって管理・統制し、福祉国家という形態をとって出現する。 フーコーは、個人の倫理を発展させることによって、この「生の権力」の具体的な現れである福祉国家に抵抗するよう呼びかけた。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC#%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%99%A9%E5%B9%B4 精神科医に転院を申し出ると渋ったり中には怒り出す先生もいるだろう 何かしらの理由をつけて転院させないようにしたりする先生も多い なぜ転院を精神科医は嫌がるのか? 主治医が変わってしまったらその患者の病気をコントロールする権限を失うからである 転院すれば新しい先生がその患者の病気をコントロールすることになるので 当然精神症状も薬の副作用の出方も変わってしまうし病気の予後も変わる なので転院の話になると態度が豹変する精神科医が多いのである 精神科の薬を抜く上で最も重要なポイントはどの精神科医が主治医のときに薬を抜くかである 相性の悪い精神科医や相性の悪い病院で薬を抜こうとしても精神科医は再発させるだろう 相性の良い精神科医が主治医だとあっさり薬を抜けてしまったりするものである なぜ総合病院の精神科がいいのか? 単科精神科病院は逸脱者を精神病の症状で懲らしめて患者を悩ませる事に特化した精神科医の集まっている病院だから 患者にデタラメな精神症状や社会的構成を付加する精神科医がいても他の精神科医はスルーすることが多い ところが総合病院の精神科は精神科医より立場が上の一般科の医師が沢山いて院長も一般科の医師である 一般科の医師の目があるので精神科医は患者をデタラメな精神症状にしたりできない そのため断薬も総合病院の精神科の方が成功する確率は上がるだろう 断薬した後にどういう精神状態にするか断薬成功させてあげるかも主治医が決定しているからだ Wikipediaに総合病院精神医学とリエゾン精神医学と心身医学は似ていると記してある この3つは一般の患者が思う本当の意味で治すためにある精神医学に近いと言える これらの医学は表に出して懲らしめたくても懲らしめられない逸脱者を 周囲に分からないように懲らしめることに特化した単科精神科病院とは根本的に違うのだろう http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=2459187 大学教授の福島哲夫のブログが参考になる 精神科や心療内科に限っては大病院の方がいいとは言えないむしろ逆だ この領域では国公立や大学病院は必ずしもおすすめできないのが残念ながら率直な感想ですと記している 勤務先が大病院かどうかに至っては、精神科や心療内科に限っては「ほぼ逆」なのではないかという印象すらあります。 この領域では、大学病院や国立病院は必ずしもお勧めできないというのが、残念ながら率直な印象です (詳しい理由は、別の機会に書きたいと思います)。 福島哲夫 (大妻女子大学 教授) 相性について(2)ー医者と患者の相性とはー https://megalodon.jp/2021-0515-2144-18/https ://www.seijooffice.com:443/2015/02/02/%E7%9B%B8%E6%80%A7%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%EF%BC%92-%E3%83%BC%E5%8C%BB%E8%80%85%E3%81%A8%E6%82%A3%E8%80%85%E3%81%AE%E7%9B%B8%E6%80%A7%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%83%BC/ 42 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (スッップ Sdbf-2Enh) sage 2021/04/17(土) 09:57:23.86 ID:OufO+Nf+d 町医者はやさしい医者が多いけど、病院は態度でかい医者しかいない 796 優しい名無しさん sage 2021/05/22(土) 21:18:25.06 ID:su+2jnUZ >>794 東の方にある某銭ゲバ病院はそんな感じだぞ デイケア訪問看護グループホーム作業所で囲って食い物にされる なんせデイケアサボっただけで通院時にそのまま連れていかれてご入院ですからw しかも勝手に病院変えるといきなり医者と看護師が家に乗り込んで来て医療保護入院にしますって宣言されて護送されますw これ全部実話な 800 優しい名無しさん sage 2021/05/23(日) 13:26:36.97 ID:zFP5Ojmt >>796 これがあるから入院施設のある私立の精神病院は怖い クリニック行ってるけどデイケアも訪問看護もグループホームも作業所も何にも強制されないぞ ただ診察して帰るだけ そして統御すべき相手は狂人です。先ほど私は、フォデレによる狂人についての興味深い定義、すなわち、自分が「誰よりも優れている」と信じている者、という定義をご紹介しました。 実は、十九世紀初めの精神医学の言説と実践の内部において、狂人はまさにそのような者として現れるのであり、そしてここに、すでにお話したことのある大きな転換点、大きな裂け目が見いだされます。 つまり、狂気を定義するため、狂気を指定するための、錯誤という基準が消失するということです。 ミシェル・フーコー講義集成〈4〉精神医学の権力 (コレージュ・ド・フランス講義1973-74) デビッド・クーパーは言う。「すべての妄想は政治的な宣言であり、すべての狂人は政治的な活動家である」。 セドウィック、ミッチェル、グライス、ヤコビィ等はいずれも次のような異議を唱えた。 社会の犠牲者をこのように「ロマン化する」ことは、一貫した合理的な政治活動のための真の要請から目を逸らせてしまうことになってしまうそして彼らを助けることにもならない。 だがほとんどの人々は結局自分自身を治療に委ねてしまうのである。これはまさに、何が起こっているかを人々が理解しないが故に生じることなのである。 批判的精神医学 : 反精神医学その後 D.イングレビィ編 〔仮説1〕精神分裂病になる人はこれから述べるような誤った信念に至る誤った訓練を重ねた人である。 a.自分の欠損のためや、外界の敵意のために、あるいはその2つのためにこの世の中に自分の生きる余地はないという確信 b.何か特別な状態とか地位を勝ち取らねばならないという確信。そうすることによって、分裂病者はあらゆる欠損から解放され、満足な人生を味わえると考えている。 この特別な状態や地位はきまって誇張された目標である。このような状況を乞い願うことだけが分裂病者に生きる余地を与えるのである。 したがって、その目標は柔軟性に欠け、完全か無かといった特徴を持ち、完全な満足を求めがちになる。 また、分裂病者にとってその目標の代理になるものはなかなかありえない。 c.この目標を達成する過程に、どんなささいな失敗があっても、あるいは失敗が予想されるだけでも、 それが自分の欠点を克服しようとする死にものぐるいの試みをすっかり挫折させ、自分の人生をダメにするに違いないという確信。 このように普通の人ならある程度の失望に耐えられるけども、分裂病者はわずかな失敗に対しても非常に敏感なのである。 分裂病者は欲求挫折の閾値が低いとか自我が弱いと言われている。 分裂病者が自分の人生にわずかな失敗もあってはならないと考えるのは、その失敗によって人生全体が壊れてしまうと思っているからである。 d.常識とか、社会的活動への参加とか、社会が機能するために必要な規則とかのすべてが自分の選んだ目標を達成するのに邪魔になるという確信。 目標をうまく達成したり、失敗を避けるためなら目標以外のことはすべて無価値なものとしてしまう。 したがって、よい人間関係、社会習慣、性、健康、あるいは人生そのものでさえも自分の目標を追求することに比べれば無価値なものにすぎないのである。 分裂病者は他の人と同じになっても、自分の目標のためにはなんら役立つことはないと思っているので、他の人とは違う人になるように自分自身を持っていく。 精神分裂病者への接近―目的論的見解とその実践 (1978年)バーナード・H.シャルマン/坂口信貴 〔仮説2〕一般に受け入れられ役に立つと思われている常識にそって自分の目標を達成しようとしても、 自分のおかれているありのままの現実状況がそれを許さないことに気づいた時、危機がやってくる。 常識や合意性は自分の目標を達成するのに邪魔になるので放棄される。この瞬間、分裂病者は常識の世界に別れを告げることを決心する。 これがさきざき精神病への転落につながる決断である。この時点で、分裂病者は他の人と同じように生きていくことを放棄しているのである。 〔仮説3〕常識を放棄してしまうと、自由に自己本位の論理を発展させ、自分は人よりも優れているのだという目標に到達したり、 あるいは、ゆくゆくは到達できるであろうという空想をこしらえることができる。 精神分裂病者への接近―目的論的見解とその実践 (1978年)バーナード・H.シャルマン/坂口信貴 不幸にも、「バベルの塔」(ノアの大洪水の後、バビロンの古都に、人びとが天まで届くようにと、塔を建てはじめたが、 神の怒りにふれて言葉の混乱が起こりついに完成されなかった聖書にある伝説)を築くために日時を費やし、結局は混乱状態に陥ってしまう。 この新しい世界観と、おそらく神聖な性格をおびざるをえない新しい人間性とを両立させるなどという試練に成功する人はまずいないであろう。 精神分裂病者への接近―目的論的見解とその実践 (1978年) (現代精神分析双書〈第2期 第3巻〉)バーナード・H.シャルマン/坂口信貴 ビタミンAが20000IUが目安になってるけどいいのかな? -y(▼。▼メ)Ξ(▼。▼メ)/⌒-~ポイッ!! 0001 優しい名無しさん 2020/01/12 21:49:15 精神科単科病院は行きたくもない作業所やデイケアを強制してきて 言う事を聞かなければ入院させたりする グループホームにしか退院させないぞと言ってきたり理不尽な事を強いられることも多い だが総合病院の精神科や開業医は入院施設がないので勝手に薬を減らしたり作業所に行かなかったり 精神科医の言うことを聞かなくても強制入院させられる心配がない 精神単科病院なんて特に障害者手帳持ってるレベルの奴はベッドに空きが出たからと なんやかんや理由つけて金儲けのために強制入院させたりする 絶対に総合病院の精神科や開業医のほうがいい自由度が違う まあ開業医でも精神科医との相性はあるから1度ダメでも粘り強く優しい先生を探したほうがいい 0002 優しい名無しさん 2020/01/12 22:34:50 同意だ ご家族の方にも本人を入院施設がドンと構える精神科病院に連れて行くのはやめた方がいいと言いたい 保健所とかで紹介された病院も危険だ バックマージンをもらっている例が某県で実際にある だから紹介された病院こそ危険とも言える 開業医やクリニックに行って出来れば入院せずに治療したいと伝えるのがベストだと思う 叶わなければ入院ということになるだろうが… 公立の病院なら大丈夫だろうというのも間違った認識だ 公立には利益のためではない過剰な治安維持や思想的な理由での長期入院を強いられる例もあると聞く 民間病院への転院も多い 総合病院これは良い選択だと思う。最低の病院よりかは遥かにマシな医療を受けられる 0003 優しい名無しさん 2020/01/12 23:25:39 提携病院に3ヶ月ごとに入退院させる通称グルグル病院というのもある これは悲惨だ 入院施設のある精神病院は減薬断薬に理解がない場合が多い 総合病院の精神科かクリニックの精神科医のプロフに 一般病院連携精神医学(日本総合病院精神医学会) か日本心身医学会に所属していると書いてあると減薬断薬に理解がある先生である確率が上がる 総合病院の精神科に10年以上勤めた経験がある精神科医ならもっとも当たりの先生である確率が高い ただし大学病院の精神科はおすすめできない断薬に賛成しない精神科医も多いからだ 統合失調症に使う薬 ↓ 抗精神病薬 躁鬱病に使う薬 ↓ 抗精神病薬と気分安定薬 抗精神病薬を飲むから統合失調症になるとすれば 気分安定薬も合わせて飲んでおけば躁鬱病と同じ処方なので 薬理的には躁鬱病になれる read.cgi ver 07.4.6 2024/03/23 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる