石田三成の挙兵 ★2
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大体、自分の命惜しさで命令出すような奴を主人に仰ぐか?って問題がね。秀頼が大坂城に立て篭って徳川に救援要請してたらまだ主人として認められたかもしれない。 秀頼からの命令って出てたんかね?
関ヶ原前後の西軍への秀頼なり淀の文書って
確認されてたっけ?
そりゃ同じ城に兵を詰められて
命令出さなきゃ殺すとまでなりゃ
出さざる得ないだろうけど
そこまでやったのかな? 現状確認されてるのは、奉行集が秀頼の名前で命令書を出していることだけ。
これをもって秀頼が西軍についた、と解釈している先生もいるけど、
奉行が勝手に名前を使ったって解釈もできる。
豊臣は秀頼の名前が使用されることはおろか豊臣配下武将の土地収奪や秀頼馬廻衆の派遣などを許してる。これらが豊臣の意志でなかったならば討伐ものだがそうした命令は現在確認されてない。ということは豊臣は西軍に与していた事になり少なくとも東軍はそう見ていたことは間違いない。 少なくとも清正は秀頼が幼いことをいいことにという認識だな
東軍全体が共有してた認識かは不明だが、豊臣は西軍側だと東軍が認識していたとは断定できない
(慶長5年)9月15日付中川秀成宛加藤清正起請文
「秀頼様御幼少ニ付而、大閤様御置目をそむき、内府公へ別心仕衆有之ニ付而」 小学校あがるかどうかの幼児だからな
そもそもまともに命令できるとみなされてるなら
遺言もその後の権力争いも無意味だ
>>494
流石にその理屈はどうなんだ
脅して従わせれば全ては望み通りとはならんやろ やっぱ幼君の場合誰からも認められる直系の成人した親族がいないと駄目だな
主家としての意思表示ができないからその時近くにいる実力者の意のまま追認するしかなくなり
簡単に傀儡化してしまう、つまり政争が起きやすくなる
恐らく秀吉はその親族の役割を家康と徳川家に期待したんだろうけど他の大老や奉行には全く認められなかった >>496
冷徹な話だが豊臣が否定してない以上、西軍の動きは豊臣の認可があったものと見なすしかない。
そもそも西軍の動きを拒否するのは簡単で本丸にでも篭って輝元と三奉行の動きは謀反だと叫べばいい。西軍が正当性に秀頼ら豊臣公儀を使おうとしてるのは火を見るより明らかでということは西軍は秀頼に害を加えられない。もし豊臣を武力攻撃すれば西軍の正当性は完全に消失し家康に鎧袖一触に滅ぼされる。つまり豊臣が「許さない」と言えばそれで全てが終わってたのよ。 >>500
冷徹とか、どう見做すかとかの話じゃなくて
俺がしてるのは実際どうなのかな話だよ
あなたの言ってる「簡単」な方法は
同じ城の大兵力を敵に回し襲撃される危険と
背中合わせで全然簡単ではないよ
逆に本当に積極的に支持してるなら
もっと簡単に出陣せずとも文書で命令出すなり
西軍支持を表明すればよい
でもそういう証拠を残すことはしなかった
大阪の周りどころか大阪城内まで西軍の兵がいて
大義名分を求めてたにも関わらずね イヤミな比較になるが室町幕府の3代義満、江戸幕府の4代家綱7代家継も幼君だったが
周りを固める運命共同体たる一門譜代の質量ともに秀頼とはまさしく雲泥の差天地の違い
あれくらい充実していないと幼君で政権維持は不可能というのが歴史的な定理
秀吉が秀頼に遺したものは政権などではなく傀儡となって飼い殺しされるか殺されるかのどちらかしかない運命だけ
その意味では実に哀れだが逆に言えばやはり秀頼は産まれてくるべきではなかった >>497
だったら何故秀次を殺した、という話になるな
こういう事言うとすぐ秀次と秀頼で跡目争いが、とか言い出す奴がいるが
そもそも譜代のいない豊臣で身内以外に幼君を誰に託せばいいというのだろう
信用信頼できる部下?そいつはいったいどこのどなたですか?って本気で聞きたいわ
ここで三成とか言い出したら腹抱えて笑うけどさ
秀家?お前はまず豊臣だの天下だの語る前に宇喜多家の内情どうにかしろよって話だな ていうか直系の成人が誰からも認められてるなら
幼児ではなくそちらが後継ぐわな 直系の成人というのは徳川家のようにもともと赤の他人なのに押しかけ一門化したのではなく
秀長とかそれこそ秀次のように秀吉と直接血縁がある縁者という意味で傍系としたほうがよかったかも
秀吉のエゴ的にも最もよかったのは鶴松が夭折しないことで
秀次が一門の代表として鶴松成人まで後見するという体制だったろう
ただその場合でも鶴松成人まで関白をどうするのかという問題はあるんだが
それは関白という職を政権トップに選択した豊臣政権の構造的欠陥でまた別の話 >>501
西軍というか毛利は「家康に味方するとはけしからぬと秀頼が言った」として蜂須賀領を収奪してる。これこそ積極的な参加に他ならない。土地の保証・配分は武士にとって正に一所懸命の価値があるからね。
仰る通り豊臣はビビって両建てして身の安全を確保したかったんだろうがその真の意味を理解してなかったんじゃなかろうか。この後豊臣は諸将の支持を失っていくわけだがそれは関ヶ原のこの動きに理由があるとしても不思議じゃない。 直系というのは家系図上で一直線で表せる
親子関係でのつながりのこと
なので秀吉にとって秀長は直系ではない
>>506
その命令を豊臣家が文書化してるか?
それがあればこの上ない正当性を主張できるが
そのお墨付きがないと単に西軍が秀頼の命令だと
称してるのと変わらない
そのレベルのコミットメントなんよ なんで大名が公儀に従うかっていうと土地を保証してくれるからだぞ?逆に言えば保証してくれないなら従う事はない。
秀頼が蜂須賀を改易にしたことは書状で残ってる。これは実際に実行された。豊臣が西軍に与して無いならそれこそ書状に残してこれを否定しないといけない。ところがその形跡はなく蜂須賀領を回復させたのは徳川家康ときてるからなぁ >>508
だからそれは秀頼自身の発給文書でもなんでもない
そもそも秀頼が知ってたかどうかも定かでない
秀頼の命令を西軍が騙っただけかもしれんし
秀頼や淀も承知で加担していたけど
具体的なお墨付きは与えなかったのかもしれない
実情はそれでわからないのだから
だら豊臣が西軍に加担してた、とはいえない 豊臣家の人間がかかわったのって身内のいる大津城の開城以外にあったっけ
東軍も西軍も関が原前に領地を失ってる者がいるけど
彼らに対して豊臣家がなにか保証してやったという話はあるの?
そういうのがないなら西軍が秀頼の意向と称しているだけに過ぎないと思うが 蜂須賀領が収奪された時点で「秀頼は西軍についた」のが確定したのよ。輝元が大坂城に入って一緒に豊国社に参拝した程度ならまた豊臣が西軍についたとは言えなかった。でも土地の収奪はそうした範囲を遥かに越えてる。改易は公儀の権能なんだから。
「秀頼の名を騙った」なら即座に毛利・三奉行討伐命令を発付しないとならない。ところが豊臣はその様な動きを全く行ってない。そもそも、大坂城に籠城すれば西軍は攻撃できないのに戦ってすらいないどころか秀頼馬廻衆は西軍についてる。これで「豊臣は西軍では無かった」というのは相当難しい。上方では豊臣vs徳川と捉えられていたらしいが当然なんじゃなかろうか。 豊臣家が東軍と西軍にしたことって
対東軍→特に無し
対西軍→北政所が西軍首脳部と豊国社参拝(秀頼も同時期に参拝している)・西軍に秀頼馬廻衆を与える・西軍に四国九州での土地収奪権を付与・徳川に情報工作を行い石田三成、大谷吉継による小規模騒動と誤解させる・大坂城物資の供与
こう見てみるとあからさまに西軍なのよね豊臣は。ていうか徳川を排除する為に毛利輝元を呼び寄せたと見ても良いかも。少なくとも東軍はそう見たろう。 >>511
確定したと言うのは誰にとっての話だ?
あなたはそう解釈してるし
そう解釈してる同時代人もいたろう
でもそのことと実際にどうだったかは別の話 表向きは西軍側に見えるってだけで、秀頼発給文書でも出てこない限り実情は不明としか言えんと思うがな
義演准后日記七月十九日条によると大坂城には6万の毛利兵が居た
数の誇張はあるかもしれんがそれでも相当数の毛利兵が居た状況下で、
秀頼やその周囲の側近に毛利や三奉行に追討令を出すだけの胆力はないだろ
(慶長5年)9月22日付前田利長宛徳川家康書状
「大坂も一両日中相澄可申候、即乗懸雖可責崩候、秀頼様御座所ニ而候間、致遠慮候」
仮に家康が完全に豊臣を西軍と見做してたんならこんな遠慮なんかしなくてよかったのにな 胆力云々の問題では無く公儀としての資質の問題だからな。
まず毛利軍が居たから怖くて言う事聞いてたってのは論外。そんなの豊臣に公儀たる資格は無いって言ってるに等しい。大坂城に籠れば西軍は攻撃出来ない。攻撃したら西軍の「秀頼のため」という正当性は失われるから。徳川に助けを求めずあまつさえ西軍の行動に助力してる以上豊臣は西軍に属してた。東軍だってこれは分かってた。だから誰もが秀頼では無く家康を主人と仰いだのさ。 >>515
東軍も分かってたって史料はないよね
あくまであんた個人の解釈であり主観でしょ
個人的には東軍全体でも清正のように幼君を出しに使いやがってと、
秀頼は利用されてると感じてた人が多かった可能性の方が高いと思うがね
あんたの言う大坂城に籠もればいいってのも現実問題として輝元と毛利兵がいる状況で簡単にできる事ではない
結局実情は不明としか言いようがないし断定は難しい >>514
というか発給文書で秀頼の
西軍方の動きが確認できても
大阪城占拠されてる訳で
脅迫されてる可能性は捨てきれない
>>515
論外とかではなく普通にその可能性はあるだろ
信頼してた奉行と大兵力持つ毛利が脅してきたら
実際のところ女子どもが抵抗できるかと言う話
それでも跳ね除けて従わせる超人的な資質が
秀頼の天下には必要でそれがなかった
というのならまさにその通りと思うけど
そうあるべきなのにしてないから
協力してたんだとか断定されても・・・ 実際のところ大軍で主君の城を占拠する
ってのはそう言うことだと思う
主君からしたらクーデターみたいなもので
自分の意思を通すどころか迂闊に表明もできない
支持を表明しても額面通り受け取れるか疑問符付くし
むしろその状態で具体的な支持表明してないなら
圧力に屈してなかったとさえ取れてしまう
もちろんそれは会津征伐前の家康についても同様だが
秀頼も淀も自分の意思を表明することも
ままならない状況だった可能性は普通にありえる 9月の時点で西軍に勝機はほとんどない
どうせなら破れかぶれで夜襲するとか、刺客送って家康殺るとかしたら良かったのに
家康さえいなくなれば挽回も可能だったろうに じゃあ伏見に抑えの兵をおいて
清州から東海道を江戸まで一気に攻めるって積極策はどうよ >>520
以前あった関ヶ原スレでの記録を見る限り、東軍の前田が南下して終了だな
近江が東軍に染まった時点で西軍崩壊だろ >>514
それはものの言い様じゃろ。例えば何故家康は秀頼に遠慮しないといけないのか?豊臣が単純に東軍に属しているなら家康は遠慮する必要なんて無い。八月八日より行われていた毛利との和睦交渉は関ヶ原で合意に達してる。後は毛利軍が大坂から退去するのみ。徳川軍は解放軍として大坂に入るだけではないか?何故遠慮するかといえば秀頼が西軍と誰もが思っていたからだろう。つまり毛利ごと秀頼を粉砕してしまえという風潮が徳川、下手すると東軍全体に存在し家康は苦慮していたのかもしれない。結局のところ豊臣が東軍に属していた証拠にはならないのだ。 >>516
大坂城に籠るなんて簡単に出来る。三奉行や毛利は秀頼を攻撃出来ない。攻撃して秀頼らを殺害すれば西軍の正当性は潰えるんだ。また徳川に「毛利と三奉行が謀反している。伏見城も攻撃された」と伝える事だって出来たろう。何故やらなかったのか?「怖かった」なんてのは戦国時代だと大罪に等しい。少なくとも天下人たる資格は無いな。豊臣が徳川を信じていたなら本丸に親衛隊を集めて立て籠り全ての手段を使って太閤恩顧衆に討伐命令を出す。それをしなかったので豊臣は西軍に属してると見做された。だから家康は公儀を主張してないし東軍は家康の指示で動いてるだろう? 西軍が公儀名乗ってんのに東軍が名乗ってないのが物語ってる気がする >>523
単純に、どちらかに属していると
言える状態じゃないんだって
公式に文書も出してなきゃ自身も動いてない
西軍は秀頼の命令を喧伝してるけど
それはクーデターなら当たり前のこと
>>524
奉行も西軍周りも西軍に取り囲まれて
どうやって関東の家康に連絡すんの?
毛利や西軍が暴挙に出ないというのも
希望的な観測でしかないしな
奉行「我々の正当性を根底から覆す書状を
内府にお出しになる。宜しいお通りください」
なんてことが起きると思うの?
恐怖という個人の感覚の問題だけではなく
その状態で軽々に行動することは
豊臣の権威や政権の命脈を断ちかねない 秀頼の命令で西軍によって改易が行われてる以上西軍じゃないって言うのは不可能だろう。脅されて仕方なくなんて言い訳が許される立場じゃ無い。毛利が大坂城に入った時点で豊臣は死んだんだ。 そもそもこの時期秀頼の名で出てる書状って何あったっけ >>523
「致遠慮候」を現代人の感覚でいう秀頼への「遠慮」と捉えている時点で基礎知識もないし、古文書読みのセンスもない
間違った解釈の上に憶測に憶測を重ねれば壮大なゴミができあがる 関ヶ原以前で秀頼名義の書状って確かにあんまり思いつかん。 というか輝元が大坂城に籠城しようと言い出しても広家に秀元とか福原をはじめとした宿老達が付き合うとは思えんのよな ああすまん秀元が徹底抗戦主張してたとされてたのか
だとしたら関ヶ原での対応は何だったのだろう? 秀元が後世「俺はヤル気だったけど広家が止めた」って自己弁護しただけ。広家も言ってたらしいが南宮山では既に秀元含めた毛利軍は誓紙人質出して降伏を決定してる。輝元含めた毛利軍は降伏した以上戦闘は出来ないから動かなかった(この事実を知らない、若しくは知らされなかった者達は南宮山で徳川軍と小競り合いを起こしてる) >>529
その秀頼の命令って西軍が言ってるだけやん
脅されて云々は単にその可能性あるってだけで
西軍が捏造した可能性だって普通にある
その可能性を排除するには正式にでも私的にでも
秀頼自身の文書を出させるしかないのだが
西軍はそれを引き出すことはできてない ちょっと謎なんだけどこの時期秀頼って自分の意思で書状出せてるのかな?「西軍に対する秀頼の書状が無い」って事は逆言すればそれまで秀頼は領地宛外や事件解決において書状を出していた筈だけど…尤も、東軍にも秀頼の書状は無かったんだが。秀頼が自分の意思で書状を書けるならどうして西軍の横暴を徳川に訴えなかったのか。秀頼は輝元が降伏してからもそうした書状は書いてなかった気がする。逆に秀頼が書状を書けなかった場合「秀頼さまの意思」と言えばそれがそのまま公儀の意思だったことになる。 秀頼を抑えてる以上表向きは西軍が公儀を名乗ることは別に否定してないよ
ただその内実は分からんよねってことなんだが妄想くんは断定しないと気が済まないんだな
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状で三成・大谷の別心により淀殿と三奉行が家康へ上洛要請をする
同月29日付黒田長政宛家康書状では三奉行も騒動に加担していた情報を掴み長政にその旨を知らせている
情報が錯綜する中、家康としては秀頼・淀殿の真意が掴めない以上文書の上では
「公儀」や「秀頼様御為」等の文言を安易に使用せず差し控えてたって見方もできると思うがな 内実とかイタコで秀頼の霊でも呼び出さないと判らないものを長々論じても仕方ない。秀頼は西軍と行動を共にして東軍と敵対している。であるからして豊臣は西軍だよねって話。実は心の内側では違ったんだとか想像逞しくしても東軍には何の影響も無いわ。しかも秀頼若しくは豊臣関係者が徳川に救援要請した史料も無いのに幼児の心情を語られてもなぁ。 一個思い付いたのは三成襲撃事件を家康が裁定した時に輝元と取り交わした起請文。この中に「天下の儀について秀頼さまから粗略には思わないと仰せ頂いて重畳」とある(ただし家康が送った起請文には「秀頼がいうのはもっとも」とあり恐縮してない)しかし秀頼が真に事態を解明した訳じゃ無い。この一件は家康・輝元・北政所による会議で解決されてる。おそらくこの時期は「秀頼さまが仰った」と言えばそれが秀頼の意思と同視されてたんだろう。つまり西軍の「秀頼さまが仰った」事は全て秀頼の意思と見てなんら問題無い。少なくとも諸将にはそれで通ってたことになる。
この効力を否定するには秀頼が否定するしかない。ところが豊臣は日和って若しくは内心に反徳川の思考が有ったが故に機を逸した。それが太閤恩顧衆の離反を招いたのは間違い無い。 幼児といえる秀頼が緊急事態を自分で判断して政治的な指示を出すのは不可能というのは誰が見ても明らか
当時の政治は秀吉の遺言もあって家康が担ってきたわけで
秀頼の側近たちは秀頼の命を守ることを優先させるだろうから戦火を交えることはさけるはず
その状況で上方で大阪城に乗り込んできた西軍が勝手をしても止められる勢力は無い
そしてそれは秀頼の天下人としての権威喪失とイコール >>537
秀頼自身の発給文書がこの当時ないよ
なのに西軍は急に「秀頼の命令」を持ち出した
何の文書的裏付けもなしに >>539
実際に協力したかわからないのだから
協力したかはわからないが正解
何故協力したと言い切れるのよ
あなたこそ降霊術でも使ってるのか? >>540
嘘はいかんよ
闕字や平出こそないが「様」は付いてる
あと「秀頼が言うのはもっとも」って何?「秀頼様に対して疎略なきことは尤もだ」だけど
(慶長4年)閏3月21日付毛利輝元宛徳川家康起請文
「今度天下之儀、各申分在之處、被對秀頼様、無御疎略之通尤候」 >>538
つまりお前さんはあの殺人者は心の中で泣いていたのだという。その心は大変美しい。だが私が言っているのは心の中で何してようが殺人に及んだなら最早意味は成さないということだ。
そもそも秀頼が脅されていた可能性からして怪しい。それは西軍の主張、内府違いの条々を読めば分かる。西軍は明確に「秀頼の為に」徳川と戦うのだと宣言してる。つまり西軍は絶対に秀頼、豊臣には手を出せない。豊臣が西軍の行動を不服としたなら「太閤の遺言に逆らうなら我らは大坂城を枕に討死にする」と叫べば良い。そうなったら西軍に出来るのは下手に出て説得するくらい。大坂城が燃えれば西軍の寿命も尽きる。つまり豊臣が西軍に同調していた可能性はかなり高い。残る可能性は豊臣が西軍の行動に全く関心が無かったというものだがだとすると怠惰というより無能ではないか。太閤遺言を反故にされ、土地は勝手に収奪され、馬廻衆すら使役され、大坂城の物資は使われている。これを見過ごす程豊臣は政治に無関心だったのだろうか? ここでいう豊臣家って具体的に誰のこと言ってるの?
秀頼は幼いし三奉行のことか? >>506
徳川政権では武家諸法度の何条に違反したと法治主義を前面に出して進めるけど
豊臣政権というのは法も何もない人治主義政権なので
「〜がけしからんと言った」というのがまるで法律のように前面に押し出される
こんな無茶苦茶な人治主義政権には東軍大名はもちろん西軍大名の大半もついていけないのは当然だろう
豊臣には元から法治という概念自体が存在していなかった >>545
それは西軍の主張を鵜呑みにしすぎだね
脅して命令を引き出してるかもしれないし
(というか同じ城に兵を入れてる時点で
脅してるのと同じ効果ぎある)
そもそも命令なんてないのに捏造してるかもしれない
手出しできないというのも希望的観測でしかなく
拒否されたら暴発する危険はある
その仮定の上でそれでも屈しない英雄的存在であれば
豊臣の威信は守られた(はず)というなら
それは一面正しい
でもそれをもって秀頼は西軍支持してるとは言えないよ >>548
その辺の法治主義の破綻は重要な指摘と思う
ただ「元々」というのはちょっと考える必要がある
政権発足からながらく秀吉という一個の
巨大権力者による支配が続いてたのは確か
でも秀次事件以降は御掟や秀吉の遺言を
基にした政治を行うという「建前」はあった
特に奉行らは序列、実力ともに二位の権力者である
家康への権力集中を阻止するために
御掟や遺言違反だと牽制してきた
つまり本質は権力争いであっても建前は法治
ところが西軍挙兵以降は「秀頼がけしからんと言った」
という非常に雑な人治主義で大名を攻めてる
「建前」は以前とコロッと変えられてしまった
そりゃ付いてけない人増えるよね
ってのは確かにあなたの言う通り まず三成ら奉行からして秀吉の御諚や遺言覚書を遵守せず破ってる
輝元は生前の秀吉の裁定を反故にして三成もそれに加担してるし
秀吉が人治主義の独裁制とった弊害なのか奉行らに遵法意識がハナからなかったんだから話にならない >>543
まず豊臣は大坂城に毛利軍が来た時に抵抗や抗議、報告を行ってない。更に豊臣は蜂須賀家政を改易処分にした。理由は「家康と親しいのはけしからぬ」とのこと。同じ理由で改易が出てる事から豊臣は反徳川思想を持ってた事が証明される。
また豊臣軍は全面的に西軍についており弓鉄砲隊はおろか馬廻衆までもが西軍に与してる。馬廻衆は親衛隊、ほぼイコールで本人がいると見ていい。これほどの事をしているのだから豊臣は西軍に与してた事になる。 >>549
脅してる可能性は皆無。加藤清正すらそうは見てなかったろ?そもそも三奉行はおろか毛利すら豊臣を攻撃出来ない。攻撃すれば「秀頼のため」という正当性が消滅する。攻撃出来ないのだから脅せない。当然の帰結である。
細川ガラシャの件を思い出して欲しい。彼女は西軍の人質収容を拒否して死んだ。天下人である豊臣が明智光秀の娘にすら覚悟で負けるというのか? >>552>>553
軍隊連れて乗り込んできた相手に
抵抗やら抗議やら悠長な話だな
あとその論法だと秀頼はそれ以前に入城していた
徳川家康もまた支持していたことになる
脅した可能性が皆無というけど
軍隊駐留させる行為自体が脅しになるし
情報ないのになかったと言い切れるのは単に
あなたが西軍をそうみてるというだけの話 九州にいた加藤清正が実際に見てるわけでもないし
そもそも「秀頼の命令が出た」ではなく
「西軍方がそう言ってる」という
限定的な物言いをしてる >>553
死の覚悟がどうこうの話は
何も断定する根拠にはならんよ
ガラシャの死はむしろ当時武家において
最も大切な家の邪魔にならないためのもの
秀頼の死は家の断絶を意味する
必要とする覚悟の質も引き起こす事態もまるで異なり
それを個人の死の覚悟という意味で一緒くたにするのは
現代人的な勘違いだとしか言いようがない とりあえず関ヶ原に勝って大坂城に乗り込んだ家康はどう思っていたんだろう
「女子供のことゆえ」お咎めなしとしたのは史実なんだろうか
史実なら西軍に与していると見たが女子供だから許したるよ、ともはや主家に対する態度ではない感じがするが >>555
豊臣が単なる平民ならそりゃこんな事は言わんよ。でも豊臣って一応天下人なんだろう?なら彼等はこれに対処する義務がある。抗議や抵抗して当たり前でそれをしないのは同意してるのと同じ。まぁこれは平民でも同じなんだけどさ。 西軍の行動を黙認、もしくは協力した時点で豊臣は謀反人として処罰されるか無能なトップとして天下人の位を明け渡すしか残ってない。で、家康に天下人の座を明け渡して延命させてもらった。家康からしても義理の孫を殺したくは無かったんだろう。身の程を知ってくれればそれはそれで使い道もあるしね。東軍諸将としては不満もあるだろうが、謀反人秀頼の土地を取り上げて分配してくれた家康には頭は上がらんし。 >>560
伊達政宗が秀頼の自殺知った時の書状の内容からして
家康に秀頼を殺したくないという気持ちがあったとは思えんがな 秀頼が自殺ってそれ家康に刃向かった後じゃん。
しかも一度許してやったのに。そりゃ愛情も冷めるだろ。 どこを擁護してんだこのバカ
何で5周遅れみたいなことドヤ顔で言いだすのか謎過ぎる 秀頼の配給文書が無いなら「秀頼が言った」ことがそのまま秀頼の意思として認識されるのは当たり前だし脅されてたんだとか想像が行きすぎてる。馬廻衆筆頭に豊臣親衛隊をかき集めて籠城戦しても良いし決死行覚悟で使者を徳川に送っても良い。そうした動きが全く無いからには豊臣は心情的には西軍だったんだろ。北政所なんて宇喜多や毛利と豊国社参りしてるからな。 ID変えて妄想垂れ流さないで欲しい
貴方の書くことには興味ないから 確かに「秀頼が脅されてる」なんて妄想は良くないよな。
そんなこと書いてる史料無いし。 >>540
輝元の起請文にも「秀頼様から仰せ頂いた」なんて文言はどこにもない
誤った解釈の上にあんたの妄想が加わって酷いことになってんな
(慶長4年)閏3月21日付徳川家康宛毛利輝元起請文前書案
「今度天下之儀、各申分御座候処、我等事、秀頼様御儀不存疎意之旨申入之通、
被聞召分、重畳御懇意之段、誠以過分存候」
天下の儀について各々申し分もあるところに、私(輝元)が秀頼様に対し疎意なき旨を(家康へ)申し入れましたが、
それを(家康が)お聞き入れになり、重ねてのご懇意誠に過分に存じます >>545
何このくそ気持ち悪いポエム
頭おかしいんじゃね
ちかひの条々に秀頼のために徳川と戦うなんて文言はないぞ
ちかひの条々と同日付で出された三奉行連署状の方は
「家康は誓紙と秀吉の置目に背き、秀頼を見捨てて会津征伐に向かったから戦うことにした」
と、秀頼のためにとは言ってないもののそれに近いニュアンスは多少含まれてるが
あんたこそちゃんと読んだらどうだ 秀頼が脅されてたって話の史料はなんなんだろ?
誰がそんな事を言い出したんだか。 >>571
ちゃんとレス返しなよ
そういうところだよ君が嫌われるのは >>559
どうあるべきか?を論じるのは歴史じゃない
どうであったのか?の話をしてくれ >>566
それはおかしい
発給文書もない上に
「秀頼が言ったと言ってる人がいる」だけ
心情的に西軍であったなら
それこそ西軍の行動にお墨付きを与えるために
文書を発給すれば良い
死を覚悟する籠城なんかよりよほど簡単だが
それをしなかった >>568
秀頼が脅されたかどうか関係なく
軍隊で居城を占拠されたら圧迫されるだろ 脅されたと断定してる人もいないからな
一方あなたは西軍を支持したと断定してる
それを証明する発給文書もないのにね >>569
解釈というより単なるひどい誤訳だね
「申入之通」ってあるんだから「我等」(私、つまり輝元)が秀頼に疎意がないと申し入れたとしか読みようがない
「秀頼様被仰出之旨」とかならともかく
双方の起請文から、秀頼を互いに粗略なく扱おう、盛り立てようという誓約だ
ここに秀頼の意思や、秀頼の意思に仮託されたものなんて一切ないね
まあそもそも妄想さんがなにを言いたいのかもよく分からないんだよな
たぶん本人もクリアに思考立てされてない
それだけならともかく、誤読を垂れ流されるのだけは勘弁なんだが >>563
盗将大権現様の生き方って、野望の為にここまで情を捨てられるかですもんね。
漢の武帝は「仙人に成る為には妻子を捨てる覚悟」といわれて、即答で「ぞうさもない」と
言ったそうですが。
嫁も、息子も、孫娘も、ノータイムで捨てられる人だけが挑戦者になれるんだろうなあ...
こういう人って最後の時に何を思うんだろ 豊臣VS徳川の図式に囚われすぎだよね
調べるほどに関ヶ原時点まではあくまで
豊臣政権を牛耳るための権力闘争で
劣勢の側が武力蜂起に踏み切っただけ
秀頼はこの時点では自発的な支持表明もしてない
少なくとも記録されてない 家康はそもそも豊臣の大老で一門筆頭者
会津征伐軍を率いるにあたっては
秀頼と淀に拝謁してせん別を与えられ
それによって両者の了解の下の
政権としての出兵という大義名分とした
回りくどいようだがそれが当時として
家康を支持する表明であったわけだが
その後の蜂起の際に家康は大老の地位を追われ
秀頼の支持も失った、あるいはなかった
というのが対する西軍の主張
であればそもそも「秀頼の支持」は
状況によって変わり得流ことになってしまい
何ほどの意味があるんか?となる
また政治的に無意味になった家康への支持より
一層のコミットメントが秀頼になされたか
となると疑問符がつく 西軍に豊臣馬廻衆が参加してる事を知らないんだろ。馬廻ってのは親衛隊で乱暴に言えば大将がいる様なもの。豊臣が西軍に属してなかったら絶対に参加させんわな。平和な現代日本人からすると「軍勢が来たら降伏するのは当たり前」かも知らんけど当時はバリバリの戦争してる訳でナメられる訳にはいかない。大坂城本丸に豊臣親衛隊集めて籠城しつつ徳川に密使を送るくらいやらないと豊臣が西軍に反対してたことにはならん。少なくとも歴史的には行われてるしな。 あの秀頼馬廻衆の参戦ってあんま重要視されないよね
もっとスポットライト当たってもいいと思うんだが
西軍が松尾山に迫った時も三成が大将で馬廻衆が後備の位置に見えてきてしっくりくる >>574
西軍は徳川派と見做した大名の領土を改易し、豊臣馬廻衆を動員し、大坂城物資を使用してる。これに対して豊臣は抗議反抗、面従腹背の行動等一切を行っていない。
これが大坂城を占拠して豊臣の意思を脅迫した結果なら、なんで西軍は秀頼のお墨付きを出させない?改易や軍役は豊臣公儀の権能でこれを行使させた時点で公儀を乗っ取ったようなもの。これらに抵抗せずお墨付きだけは死守するとか意味不明過ぎる。この時期、秀頼のお墨付きなんて無いからそもそも必要が無かったんだろうけど。 西軍に脅されてたならそれこそ秀頼のお墨付きを徳川に届けてるだろ。乱終わった後毛利が自分達をどうするかわからん豊臣じゃないわ。 >>585
全く同じことが言える
それらが全て秀頼の支持や命令によるのであれば
何故ちゃんと秀頼名義で命令を出さない?
それさえあれば完全に西軍は豊臣正規軍で
内府は反逆者というお墨付きになるというのに >>588
西軍を支持していたならそれこそ
お墨付きを与えていただろ
それをしていないということは
支持はしておらずせいぜいが日和見だということ >>577
この場合は誤訳だね
指摘サンキュー
妄想くんが史料引用すると度々誤訳や誤読があるし
その上曲解もあるからそのまま素直に信じられないんだよな
ほんと厄介 どちらにしても西軍が蜂起して敗北したことで十人衆誓詞の枠組はもとより
秀吉の遺言覚書体制自体が完全に崩壊してしまい 途中で送信してしまった
秀吉の遺言覚書体制が崩壊したことで勝った家康に新たな体制づくりのフリーハンドが与えられたのは確か
秀頼とその周囲にはそんな能はないからな ていうか幼児に天下を差配する能力なんて
ある訳もないわけで
元よりそれ前提の政局でしょう
秀頼は変に誰かに肩入れなんてせず
政治を担うものに奉られていればそれでよかった
幼君に政治の主導権なんてはなから必要ない
担ぐ権力者にとって神輿あって権力安定してるなら
あえて波風立てて神輿を壊したり辱める利点はない
秀吉はそれはわかってるから生前に
家康の力を削ぐ為の政争なんて仕掛けない
家康も心得てるから実権は握るけど
秀頼の立場を脅かしはしなかった 岐阜中納言ぐらいの扱いを家康がしてくれりゃいいなあぐらいに思ってたんじゃねーの?
もちろんそんなこと口に出したら終わりだから口には出してないだろうけど そもそもこの時期秀頼は命令書自体発給してないんだから西軍が秀頼の命令書を出さなかった事はおかしな事じゃ無い。
それに豊臣は西軍に加担してるのに東軍には全く加担してないことよ。豊臣が反西軍だったとは言えない。徳川に密使すら送ってない。これらから西軍の行動を豊臣は黙認してたことになる。思うに豊臣は元々徳川が権勢強めるのを苦々しく思っていて毛利のクーデターを認めたんだろう。豊臣の狙いは徳川と毛利が消耗し合う事にあって頃を見て和睦を命令する気だったんじゃないか?ところが余りに早すぎる展開が豊臣の政治処理能力を超えてしまった。 >>596
誤訳についてはスルー?
返事もしないならROMってろよ 家康は西軍と違って反乱軍をおこしたわけじゃないのだから
改めて秀頼に認めて貰う必要などない そもそも西軍は朝廷工作はしていたのか?
そのあたりが全く論文とかもないのかな? >>596
その論法だと軍事行動自体してないから
毛利の入城に抵抗してなくても西軍支持してないし
政治発言する私的文書も発見されてないので
徳川に助けを求めてなくても西軍加担したと言えない
ということになるね
あと元々話してたのは「豊臣は西軍を支持した」かどうか
スレには西軍支持派とどちらとも言えない派がいると思うが
何故「反西軍だったか」という論点に変わってるんだ 徳川も毛利も豊臣公儀だった説は司馬遼太郎の『関ケ原』が元ネタ。これは家康を簒奪者に描きたい著者が一次史料を見ずに書いたものでハッキリ言って事実でも真実でもない。
そもそも徳川は豊臣公儀では無い。毛利が大坂城に入って豊臣が徳川追放を宣言した時点で徳川は公儀たる資格を失ってる。その証拠に家康は公儀を称してない。だから東軍は豊臣公儀ではなく徳川家康を主人と仰いだ集団ということになる。
思い出してほしい。武士は理屈には従わない。それは後鳥羽上皇や後醍醐天皇が証明しただろう。 豊臣が家康に軍資金2万両、兵糧3万石を送ったのに比べれば
豊臣は石田や毛利に金も食糧も渡していない
ドラマのように豊臣が家康を脅威に思って倒したくて仕方がないなら
家康に送った以上の金と食糧を西軍に渡さないと辻褄が合わない
西軍蜂起というのは単にテロリストが大坂でテロを決行したに過ぎない 何故西軍が秀頼のお墨付きを使わなかったのかと言うとそんなもの要らなかったから。秀頼は「家康と親しい者は許せぬ」として蜂須賀家政を改易、その領土は毛利預かりとした。これが実行され豊臣が黙認した時点で秀頼は家康を見限った事になり豊臣=西軍となる。実は秀頼お墨付きが必要なのは家康の方で家康には「秀頼が家康を見限った」事への反論が出来ない。豊臣は徳川に一切の支援を拒否したのでこの事実は満天下に知れ渡る。
これをもって白峰氏なんかは「徳川は窮地に陥った」と言うんだがそうはならなかった。何故ならそも戦国大名は理だけで動かない。大量の利益に少しの理があればそれで良い。却って豊臣が西軍に与した事が東軍を結束させたかもしれない。勝てば上杉領に毛利領、更に豊臣領まで分配となれば… >>603
西軍に豊臣四奉行が参加してるのに何故大坂城物資が使われてないと思うのか。豊臣が西軍に与していても西軍に脅されていても金蔵も食糧庫も武器庫も明け渡してるに決まってるだろう。例えば毛利軍六万の食糧は何処から賄ったと思う?
九月十二日増田宛石田書状から大坂城の物資は西軍が使っていたと考えられてるがまぁ正しいだろう。わざわざ毛利が国許から兵糧を運ばせるとは余り考えられん。 >>606
じゃあ東軍の食糧は何処から?
何で国元から運ばせてないと思うのか 毛利が蠢動してたのに土壇場で煽ってた三成たちを裏切ってこっそり家康と手打ちしてたんだろ?戦後に影でセコセコ策動してたのが全部バレてたのを家康に示されて家を潰されそうになってたけど
大坂の陣でも保険で大坂城に送り込んだ家臣を尻尾切りで殺してるしクソみてえな野郎だな輝元って 東軍の場合は街道沿いに諸将の城があるからそこの備蓄を使っとるだけじゃね?それでも足りないかも知らんから家康は長束に食糧を渡してくれと言ってたけど >>605
必要なかった?あっただろ
実際お墨付きのない西軍が言ってるだけの「命令」で
西軍が諸国の大名の支持を得られたか?
答えは史実が語っている 西軍というのは現代で例えるならイスラム国が蜂起したのと同じ
イスラム国がどこの都市を占拠して支配しようが公儀にも政権にもならない
西軍も同様にどこまで行っても武装テロリストが暴れているだけだ 筋で言えば毛利も宇喜多も上杉討伐の話を断固反対すれば良かったんよな
西軍決起は豊臣に対する背信行為に他ならんよ >>613
輝元は最初反家康ノリノリだったけど、無理に決まってんだろの吉川の意見が通って関ヶ原土壇場で家康に頭下げた
で、吉川は恵瓊と対立してたから丁度いいと始末されたんだろうな >>613
毛利の外交僧だから対外的には毛利の顔だといえるからな
西軍の敗北が見えて奉行の没落もほぼ確定してるから、奉行とのパイプが太いであろう
恵瓊は毛利家視点でも存在価値が低下しているし、そのうえ毛利一門という訳でもない
責任の押し付け先としてみた場合、ほぼ完璧ではあると思う 戦闘以前の多数派工作で負けてんのよ
東軍先鋒が切り崩せなかった時点で
そいつらは最初から家康派っていうのは
結果知っての逆算でしかない
生きるか死ぬかの博打より
損害あっても生き残れる道を探るのは
当たり前と言えば当たり前 西軍からすると豊臣を担いだ時点で徳川よか優位だとは思ったろうさ。ただ徳川は正当性とか関係無く勝っただけで。
徳川が勝った=徳川に正当性があったってのは間違いだからね。正当性なんて勝利の後に着いてくるわな。 関係なく勝ったのかというのはまた別の話
東軍についた諸将は豊臣に対する謀反人として
覚悟を決めて戦ったのか?
だとしたらその後の振る舞いが謎すぎる
単に西軍の唱える正当性が無視されただけでしょ 正当性は必ずどちらかにある
というものではない
むしろ双方が自分の正当性を掲げるのが政治対立 そりゃ覚悟決めてるだろ。徳川にはこの時秀頼からのお墨付き含めて何も正当性主張出来る物証無いんだぞ。対して西軍は秀頼のお墨付きを持って来てる。これを「奉行が勝手してる」の一言で無視してるんだぜ?公儀に敵対したら天から裁きが降ってくるとかそんな訳でも無いからな。むしろ弱い豊臣を倒して土地を増やす大チャンスと見てたろ。 ちなみに言うと徳川は一切自分が公儀、正当性があると主張してないんだと。これが何を意味するかって話よ。 上杉討伐軍に参加してた諸将としても
コソコソ留守を狙った空き巣まがいの蜂起には寝耳に水の横っ面張られたような不快感あったろうし
加えて公儀の正当性を標榜する割には妻子を人質にとろうとする犯罪的な卑劣さ
いかに戦国の風が残っていたとしても武士の風上にも置けぬ陰湿さで到底新しい時代の担い手とは思えず
感情的にも恭順しようなどとは思えなかったろう
よくよく見るとやってることマジでカッコ悪いよ、西軍て 政権側は西軍だぞ。秀頼の名によって改易してるし豊臣軍も西軍についてる。対して徳川は豊臣に切り捨てられた反乱軍扱い。でも徳川の方が実力があったし能力も高かったねって話。政権の敵に回ったら負ける訳じゃない。 家康は西軍蜂起した時には
豊臣公儀としての行軍中だからな
それが三成別心、三奉行謀反というなら
それは豊臣公儀に対するものと理解すべきだろ 秀頼からは文書一つも、面会しての下賜も引き出せず
パフォーマンスとしてもせいぜい豊国社参拝
しかも秀頼と一緒に参ってるわけでもない
それでお墨付きをもらってるってのは
はっきり言って相当弱いぞ >>625
必ずしも傀儡の秀頼=政権側とはならないよ 豊臣軍まで参加して改易も実行出来てるならこれ以上のお墨付きは無いだろう。徳川にはそうした動きが全く無いのだから尚のことね。秀頼が幼年とかお飾りとかはあんまり関係無い。東軍は豊臣が敵に回った事は知っていたろう。それでも東軍は徳川を主人と認めて戦っただけで。だから豊臣公儀はブッ壊れた。家康のせいという訳ではなく罪を見逃してもらう代わりに公儀たる資格を捨てたってだけで。 三成って1600年の挙兵の段階では奉行に復職してるの? してないの? 家康以外の東軍から西軍をみてもエゲつない行動とられているからな
むしろ家康にどうにかしろと頼られる雰囲気さえあるだろ >>631
してない。三成は終始奉行衆の指示で動いてるし。 毛利輝元が大老の立場から復職を認めるとか無理だったのかな
宇喜多秀家と上杉景勝(名義借り)して >>629
蜂須賀の件なら多勢に無勢というだけだろ
家政は阿波本国じゃなくて大阪にいたんだし
>>634
豊臣家の奉行への復職は秀頼の名前が必要
秀頼と豊臣家が西軍に与してたらやったはずだがやってない 会津征伐は至鎮が僅かの兵力で従軍(光成氏によると18騎)、家政は大坂屋敷に居た
阿波本国には相当数の兵がいたはずなんだが、家政に危害が及ばないよう留守居は軍事行動を控えたのかね
輝元は地下人と相談して仕置するよう指揮官の佐波広忠や村上元吉らに命じてる
けど大した騒動も起きてないし阿波占領は割とスムーズにいったんだよな ていうか大名の留守に隠居の身柄押さえて
接収されたらそりゃ抵抗できんわな 無理やり西軍に参加させたり大名の妻子を人質にとったやつと同じこと 秀頼を担いで行動すればその行為は正当化されるというなら
家康の専横を批判できる理屈がなくなる
西軍の行動原理は家康が好き勝手に振舞うなら
こちらもやらせてもらう以上の道理にはならないよ なぜ大坂城を抑えたなら、無理やりでも秀頼を担いで美濃にまで出陣しなかったんだろ
輝元じゃそういう政治テクニックは無理なのかな 「大軍が入っているから豊臣の意思が歪められた」ってのは余り堂々と言える話じゃない。今でも言う人いるが「徳川が軍勢入れてるから会津征伐が決まった」って話になる。じゃあ何をもって豊臣の意思だと言える?既に豊臣には意思決定機構が無かった。となると大坂城を握って豊臣と連携してる奴が「豊臣の意思」を出せる。 >>640
普通に考えたらそこまでの協力関係が
気づけなかったからだろう >>641
ていうか大軍が入ったら支持が覆るってことは
つまりそう言うことだから
豊臣政権、豊臣公議なんて意味ないねとなった その前の秀次事件から豊臣のオワコン感が決定的になった
その後何をやっても行き当たりばったりの弥縫策でしかなく政権としての安定感重厚感頼もしさが失われた
次に取って代わるだけの実力者がいなければワンチャン室町幕府のように権威だけでダラダラ続いたかもだが
それはすなわち政争紛争戦乱の世の再来でもある
徳川という全てにおいて豊臣を上回る圧倒的な統治能力を持つ存在がいたからそれが回避された 本来惣無事令で騒動特に土地に関しては公儀のみが裁定する。それで西軍は蜂須賀家政を改易した。これが秀頼、ないし豊臣の意思でなかったならこれは越権行為どころの話じゃない。即座に毛利・三奉行らの討伐を行わないといかん。
でも豊臣はそうした動きを全く見せていない訳で豊臣が西軍でなかったと言うのはかなり難しい。
尤も既に豊臣家が組織として終わってたという解釈も出来る。既に豊臣は戦国大名としては終わっていてただ強い者に従うだけだったんだと。だとすると秀頼は幼少期、何も出来ない時に天下人ではなくなっていたのだ… 上杉も三成も秀頼が成長するまでじっと我慢だよ
関ヶ原はなく
大阪の陣で家康を討ち取る 石田の思惑、石田の勝算
とかについて書けないのか?
関ヶ原スレじゃねーぞ >>646
関ヶ原の頃だって秀頼が6,7才なら幼少期、何も出来ない時といって差し支え無いと思うが、
豊臣が大名、政権として終わったのがその時であっても、それ以前であってもそれは同じ 勝算については有識者がいろいろ議論してたけど無さそう
今は勝算がない戦いに挑んだ責任転嫁で話題が逸れてるフェーズ >>640
まず西軍首脳部は軍議で軍団を伊勢・四国・九州に振ることを決定してる。これは石田三成が提案した勢力を東、つまり美濃に集中して徳川と決戦する戦略を却下したことを意味する。豊臣が西軍に与した事で家康はまず戦力の再選定を行うと思ったんだろう。実際家康は江戸から動かなかった事で彼らに一種の油断を産んだのかもしれない。ところが東軍に動揺無く福島正則・池田輝政ら攻撃隊が岐阜城を強襲して戦局が決まった。この状況から輝元が動かなかったのはまぁ輝元が安全圏に居たかったからなんだろうけどどの道そんなに結末は変わらなかったといえる。 他に同意も得られてないのに豊臣が西軍に与した前提で話進めようとしてて草
流石妄想野郎と言われるだけあるわ よく「西軍は何故秀頼のお墨付きを得なかったのか」と言われるけどそれは太閤恩顧衆が家康に従った事を曲解してるから。つまり「太閤恩顧衆が家康についていったのは家康が豊臣公儀だと信じたからだ」というもの。だがこれには根拠が無い。豊臣は徳川に西軍を討てといった命令を一切出してない。逆に西軍は秀頼が家康を討伐せよと言ったとして行動してる。つまり西軍=豊臣であり東軍=反豊臣とみて間違いない。秀頼が脅されていたとか妄想してる人も居るけどこれも根拠が無い。あくまで史料に忠実であるなら豊臣は西軍に与してる。 戦争の勝敗と正当性の有無に関係あるとか現実を知らな過ぎる。正しい者が勝つんじゃなくて勝った者が正しいんだぞ。 どちらが反豊臣かなんていうのはどうでもいい話やな
毛利に付くか徳川に付くかの選択があるだけや >>654
史料読めるようになってから御託を並べようね
解釈の問題とかじゃない、明らかに赤点の誤読だから 秀頼の馬廻りが西軍として参加してる時点で少なくとも形式上は豊臣家は西軍なんだよな しかも豊臣弓鉄炮隊は南宮山で徳川隊を攻撃してるし。 徳川家を関東移封したときに譜代を引き剥がせればよかったのかな
大友家から立花家を直臣にしたり
毛利本家から小早川家に親類筋送り込んだり
第二の石川数正釣り上げるとかさ
指揮権が一本化された250万石の大勢力を放置した時点で
秀次でも秀頼でも秀長でもどうしようもない気がしてきた 親豊臣派なら秀頼が言ってると言えば従うし逆に言えば秀頼が言ってるといって聞かん奴に何しても無駄。
「秀頼は毛利軍に脅されてる」「所詮幼児」って言い訳は強いからね。秀頼のお墨付きとやらがあったとしても「毛利が強要した」「幼児だから訳もわからず書いた」でお終い。 毛利軍が入ってきたことは仕方ないにしても諸将の妻子を人質にしようとして死者がでる、親徳川派を理由に蜂須賀家政を確保改易処分にする、反徳川戦争を仕掛ける、これだけのことをお膝元でやられて豊臣軍を与えた訳で豊臣もそれなりに腹括って戦争しようとはしたんだろ。宇喜多秀家や毛利輝元と仲良く豊国社詣もしてアピールもしたし。 >>646
いや実際討伐しなかったことで
豊臣公儀は地に落ちたやん
豊臣は西軍の見方って思いたいんだろうが
正直あなたずっと願望を力説してるだけだそ >>654
西軍が書状で書いた以外には
豊臣が家康を討伐せよと書いたものもないぞ >>663
奉行や毛利が「〜と言ってる」と言うだけで
本人から一切の発信がない状態で
奉行や毛利を信じるかどうかは全く別だぞ >>660
9月12日付増田長盛宛石田三成書状写
「今度勢州口より被働衆、中国ハ不及是非、其外長大・大刑并御弓鉄炮衆も、
長大・安国寺一手ニ被引向様ニ相見へ候間、大人数廻り兼候、
人数も少々そつ尓罷成躰ニ候事」
長束と安国寺は長束・大谷と(秀頼の)弓鉄炮衆まで引き寄せようとしているように見える
当該書状では引き寄せたとは書いてないし、ましてや徳川に攻撃したとはどこにも書いてない
確実に南宮山に秀頼の弓鉄炮衆が居て徳川に攻撃したという根拠となる史料出してみてくれ 秀吉は大事だったが秀頼なんぞはぶっちゃけどうでもいいと思ってる大名が大半だろ
秀吉死去後は主従関係が個人から家(組織)に落とし込めてない状態だからそもそも秀頼が絶対的公儀でもない もし秀頼もしくは豊臣公儀が自身の意思で政治を決められるなら西軍討伐指令を徳川に送ってないとおかしい。西軍は秀頼の命によって動いてるからこれを否定する物証を徳川に送らないと徳川が兵を集められない危険性があるから。
秀頼が幼くて物事を決められないんだとしたらそもそも会津討伐軍は誰の命令に従っていたのかが問題になる。物事を決められない秀頼の命令に従う道理は無いから要は徳川家康に従っていた事になる。つまり既に豊臣公儀は徳川公儀になっていて秀頼は単なるお飾りと化していた。 >>672
家康が決めて、秀頼の承認を得たってことじゃないのか
王と宰相の関係では >>664
腹を括ったのなら東軍大名の妻子が大坂から脱出したことに対して何も言わなかったのは何故?これ本来ならかなりの重大事案だと思うが >>668
卜斎記には関ヶ原の一年後に家康が田中吉政が南宮山の部隊を撃退した事を賞した事が記述されている(実はこれにより関ヶ原に家康は居なかった事が証明される。記述から導き出される家康本陣は南宮山より東だった。つまり家康は南宮山毛利軍の督戦、東軍先手衆の退路の維持をしていた)
これは毛利との講和違反なのではないか?これに対して吉川広家は「この和睦は我々しか知らない事で長束、長宗我部、豊臣は知らないこと」と答えたという。つまり毛利軍は戦闘に参加せず、それ以外の者達が戦闘に及んだのだという。 >>642
普通に考えたら大坂の陣でさえ陣頭に立たなかったぐらいだから淀がよっぽど戦闘頭に加担させるのが嫌だったんだろうと思うんじゃね
頭の働きがあれでそこは全く頭に浮かばないって感じ? 毛利や宇喜多とかに、家康に勝てるような人間が全くいないしな
戦歴で何とか家康と互角になりそうなのは島津義弘だけど、こいつも主力率いてないから論外だし
夜襲は作り話かどうか知らんが、もうあの時点でまともにやっても全く勝ち目無いんだから
やったほうがよかった >>675
大坂から脱出した妻子ってのが黒田親子・加藤清正しか知らんので何ともだがこれは豊臣が徳川派でも西軍派でも説明は出来る。徳川派なら西軍へのささやかな抵抗って話だし西軍派なら徳川派の武将が謀叛的行動をしたにすぎない。だが細川ガラシャの死はちょっと問題がある。西軍派なら説明は簡単なんだが徳川派だとすると説明ができん。 ささやかな抵抗て豊臣に人質としての役割の大名の妻子が勝手に逃亡したら大問題で、
豊臣家がなにもしないのはおかしくないか?
一部の旗本が勝手に参戦したことよりも重大事だと思うが 豊臣公儀への人質を西軍は普通に自分達のために使って豊臣は抗議とか一切してない。剰え死者まで出してるのにね。 そうなんよね豊臣宗家は東やら西にかかわらず主体的な行動してないのよね
まあそもそも何かしようとしても出来ないというのが正しいのだろうけど >>676
また嘘か、いやお得意の誤読か
慶長年中卜斎記には「船越猪子申候は」、田中が三町ばかり敗軍したが、誰の掛け声もないのに「引返敵を追崩し申候事、田中か勢の働き見事に御座候つると申し候へは」とある
このあと、家康が金森の旗印を知らず、敵と誤認したという本人の愚痴が載っている
まず、田中の働きを誉めたのは船越と猪子、家康は愚痴っただけで賞してなどない
次に、家康前衛にいた田中勢が後退したが「引返」て敵を追い崩したとあるのだから、南宮山の敵であるはずがない
田中勢は300メートルばかり後退したともあるんだから、これが南宮山の部隊のことだったら前後挟撃で後方崩壊の危機だよ
あほくさい
古文書読解とかいう以前の、日本語の読み書きに疑いがあるレベル 黒田・加藤の人質が逃げた事は西軍すらも問題にしてない。その理由は恐らく西軍の戦略にある。確かに西軍はガラシャの死にショックを受けた…らしいんだが代わりに質になりそうなものを取っていた。つまり全然効いてなかったようだ。黒田・加藤からも何かを受け取っていたのかもしれない。 676に反論しようと思ったら684の人が全部言ってくれてたわ
妄想くんが正しく読めるか甚だ疑問だけど、卜斎記の該当部分を載せとくからちゃんと読んでみろ
これ読んで田中隊が追い崩したのは南宮山の部隊だとは誰も思わんでしょ
「船越・猪子申候ハ、田中か人数敵合三町余敗軍仕候か、誰返し候へと下知仕体も見え不申候に、
引返敵を追崩し申候事、田中か勢の働と見事尓て御座候候つると申候へハ」
この時の家康の様子
「家康公被仰候ハ、間近く金森法印か吹貫を立備候、敵と心得て馬を不寄、法印手と知たらは先へ押立、
法印居候處へ馬を寄候ハヽ、敵ハ一人も洩す間敷事を、法印備を不知故と御挨拶總て」 >>685
まあ一部の豊臣旗本が勝手に西軍に参加していても東軍も特に問題視してないしな >>677
なんで自分が馬鹿みたいに見える煽り入れてるのかは謎だけど
普通にそこまでの支持がなかったってことだね 秀頼馬廻衆に関する記事って9月12日付増田宛三成書状と下記のものくらいかね
南宮山の方は秀頼馬廻衆が居たかどうか断定はできんけど
・義演准后日記八月十一日条
蜂須賀家政の逼塞処分により家臣団が豊臣馬廻衆に加えられ北国へ出陣した
・8月29日付黒河内長三(正光家臣)宛保科正光書状写
「大柿之城、石田治部少輔・備前中納言殿・筑前之中納言殿・嶋津兵庫助・
小西摂津守、其外秀頼様御馬廻衆も随一之衆五三輩楯篭候」
この時保科正光は浜松城の留守居として在番していた >>684
まず吉川家文書から南宮山東麓で長宗我部・豊臣・恵瓊の部隊と東軍が戦闘した事が記されてる。南宮山から攻撃できるとしたら東くらいしかないからこれは妥当だろう。そしてこれを家康は見ていたというのが卜斎記の記述になる。南宮山東麓は軍記物で家康が本陣を置いたという桃配山からは見えない。そもそも家康は十四日に美濃・赤坂に布陣しておりそこから関ヶ原に進む事は有り得ない(毛利が裏切ったら絶体絶命のため)つまり家康は、赤坂から垂井に掛けて布陣しておりそこで田中吉政・堀尾忠氏の部隊が南宮山の豊臣軍と戦闘に及んだところを見ていた。これは別に窮地でも何でもない。田中隊は家康本隊を背後にしてるのだから。 >>687
馬廻衆が居るって事の意味を考えた方が良いぞ。馬廻は大将直属の親衛隊みたいなもんで豊臣馬廻衆ということは秀頼がそこにいるようなもん。これが大坂を離れてるってことは秀頼を護る必要が無いって言ってるに等しい。 居なかったという史料は何も無い。居たと言う史料はあるが。 >>691
そんなことはないぞ
徳川幕府の旗本に相当するもので
必ずしも主君に供奉することが前提ではない >>690
まず、あなたの史料紹介はまったく信用できないから、吉川文書の原文を示してくれるか?
では、仮に南宮山東麓で戦闘があったとしよう
そこで交戦したのが田中隊だと卜斎記にはないし、吉川文書には記載があるのか?
卜斎記にあるのは、300メートル敗走してきた田中隊が押し戻して敵(誰かの記載はない)を壊滅させた
そのことを家臣が振り返って誉めると、家康は「金森の馬印を知っていればなあ。敵だと思ったから寄らなかったけど、味方だと知っていたら寄っていって敵を打ち破ったのになあ」という趣旨の愚痴を漏らした
どこにも南宮山の戦闘を見たなどと出ていないし、敵を打ち破ったのにという愚痴がある以上、田中隊が反撃に転じる前の敗走段階を見ていたと捉えるのが当然
流布している布陣図では田中と金森隊は家康の前衛におり、隣接している
関ヶ原正面で押された田中隊と脇にいた金森隊を桃配山の家康が見ていたとしか解釈できない
そもそもさ、田中隊の働きを家康が賞したって、卜斎記のどこに書いてあるの?
そういうのにはいつも通り知らんぷりするんだろうな
卜斎記には南宮山での田中の働きを家康が賞したことが載っており、これによって桃配山にいなかったことが証明される
はなから史料誤読した上で証明もくそもないだろ笑える >>690
この部分か、なるほどな
この吉川広家の記述が正しければ南宮山方面にも秀頼の弓鉄炮衆がいて、田中隊や堀尾隊と交戦していたことになるな
吉川広家自筆書状案
「南宮山へ之手あてハ、先手池田三左衛門尉・井伊兵部・本多中書・其外内苻馬廻、
此衆にて土佐侍従陣から御弓鉄炮衆陣、安国寺陣田中兵部・堀尾信濃足かかり能候条、是を切崩候て、かさ陣へ可切上之由にて候」
南宮山の手あてとして、先手に池田輝政・井伊直政・本多忠勝、その他内府馬廻
これらの衆にて長宗我部盛親の陣から(秀頼の)弓鉄炮衆の陣へ、
安国寺の陣へは田中吉政・堀尾忠氏が好位置にいるので、
これを攻撃してこれを切り崩し、山上の陣へ切り上るようだ。
卜斎記の記述には家康が田中隊の奮戦について言及してないから恐らく家康本人は直接見てないだろ
猪子や船越、若しくは他からの報告によるものだと思うがね >>689
形式上はみんな豊臣公儀対徳川とは捉えていたようで
あなたが引用された徳川方の保科にしてもそうだし(先手からの通報を家臣に報じる内容だから、少なくとも先手の認識)
白峰氏の論文「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」なんか読むと朝廷、寺社もそうだし
かといって徳川が朝敵扱いされたり豊臣戦勝祈願が寺社に命じられるわけでもなく
後陽成天皇も「平和にしろや」くらいしか言わない
東軍についた大名も動揺している様子でもない
西軍が公儀と広く認識されていても実質がまったく伴っていないから、ここのところの議論は不毛にしか思えないんだよなあ >>697
あくまで表面上はってことだね
実際清正や松井康之も細川の丹後領召上について「秀頼様が曲事に思われたことにより」とはっきり書状に書いてるしな
ただ中身が全く伴ってないってのはあなたが指摘した通りだと思う
九州を例に見ても東軍勢力は少ないはずなのに如水を中心として、
清正や杵築城代の松井康之・有吉立行にも全く動揺は見られない
松井は輝元や奉行衆から杵築を明け渡すよう遣わされた書状を投げ返し、
また使者が来るようなら斬り捨てるとまで言って不退転の覚悟を示してるしね >>696
だまされちゃいけないぞ
この書状案の当該部分だけ読んでも仕方ない
あまりに勝ち目がないと悟った吉川が無断で徳川方に内通して誓約が完了
そこで取り次ぎの井伊、本多に吉川が「此上は御行(てだて、軍事行動の予定)之様子如何候哉と、兩使へ相尋申候處」、山中方面は小早川が手引きする、南宮山へはこいつら、安国寺と秀頼の御弓鉄砲衆にはこいつらを宛がうと井伊、本多が明かした
その上で「もう和談しちゃったから攻めたら違反かな?」と言われたので、吉川は「和談を知ってるのはうちらだけなんで、どーぞやっちゃってください」と答えたので、井伊、本多は「じゃあ、君んところは手出ししないで控えていてね」と応じ、吉川は帰陣した
そうしたら「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」
つまり、南宮山で戦闘があったどころか、むしろ徳川本隊はなんの手立てもすることなく通過して関ヶ原に布陣したと書いてある
妄想太郎は何度でも誤読する、実際は真逆のことが書いてある そもそも秀吉没後の豊臣政権の機能についてだけど
1599年に三成の妹婿の熊谷直盛が朝鮮渡海組からの訴えで職務怠慢で改易されてるよね
そして、三成挙兵により大名復帰している
改易は主宰者の家康が決めたんだろうけど、復帰はこれ誰が決めたの? 妄想野郎はまた誤読してんの?
いい加減に消えてくれないかな? >>699
サンキュー
やっぱ全文読まないとダメだね
該当部分と思われるとこしか読んでないから時間ある時に全文読んでみるわ 吉川裏切り前の徳川方による単なる攻撃計画を田中による攻撃が実際にあったとすり替える(誤読する、そもそも「可」が入っている時点で過去形ではないと普通はすぐ分かるわな)
単なる攻撃計画が変更されて、吉川が困惑している(井伊、本多との会話を報告したのに違って気まずかったみたいな文言がある)のはスルーする
はっきり言えば誤読以前に自分で読んでないんだろう
「長大、安國寺は人數たかり候つけ共、兩人面白おかしく申候て、御人數打出候はて、敵手ふり聞合(照会する、つまり窺っているだけ)申候」ともあるから、秀頼の御弓鉄砲衆がどうしたかはともかく、ろくな戦闘はなかった
引用は関ヶ原スレからなので多謝多謝
>>702
あなたが紹介してくれた史料に秀頼の御弓鉄砲衆のことがよく出てきました
安国寺陣の近くにいたのだけは確実
ただ、この書状では、西軍は二手に陣を分けたが、早くも小早川が逆意の色を立て、山中方面にいられなくなった
大谷陣も引いた、「是は佐和山へ二重番引(二段階で佐和山まで引き上げる意でしょう)可仕覺悟と相見え候」
それに「さ候へは御弓鐵御味方として被出候○衆○○衆は、多分心合之樣子と相聞え申候」とあるから、佐和山に引くつもりで戦意は低かったように個人的には感じられる
そういったもろもろの様子を見て吉川は「一つとしてはや御弓矢御勝手に可成立ふり無御座候」と判断して裏切りを決めましたって文書 >>690
南宮山東麓で戦闘があったかどうかはしらないが、田中隊がいて近くに家康本陣があったなんてことは史料上にない
少なくともあなたが引用しただろう吉川文書は真逆のことを記している
田中隊が安国寺、秀頼馬廻りを攻撃するってのはあくまで事前の計画であることは明確に書いてある
でだ、「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」
これ、どう訳す?
試しに訳してくれ、無視せずに
卜斎記の訳もデタラメ、吉川文書の訳もデタラメ
もう書き込まないでくれ 奴はどうせ無視して暫くしてまた妄想ダラダラ書き始めるよ
教えてもらったのに有難う御座いますの一言すら言えない >>684
問鉄砲とか信じてそう。徳川家康が関ヶ原に陣取っていて指揮してたなんてのは幕末・明治記に書かれた軍記物を司馬遼太郎が間に受けて小説にしただけ。家康が何処に本陣置いたのかは当たり前だが史料には残ってない。だが何処にいたのかは分かってる。南宮山の吉川広家によれば家康は南宮山の押さえとして布陣していた。 さてここで問題がある。家康が布陣していた赤坂から関ヶ原は約4〜8キロほどの距離がある。それ程の遠距離から文字通り「山中」の関ヶ原での戦いをしかも小雨降る中どうして家康は視認出来たのだろうか?これは超人的な視力と言わざるを得ない。もしくは最新の軍事衛星でも使わないと無理だろう。PADを使う家康というのは確かに面白い図だが小説のネタにしかならない。
つまり家康が目撃した田中吉政の戦闘はその眼前で起きたものでしか有り得ない。赤坂から出撃した東軍先手衆を南宮山の豊臣軍が攻撃したのがそれだろう、って話。司馬遼太郎の小説に毒されていると中々受け入れ難いだろうけど、家康は毛利が裏切るリスクもちゃんと折込んでの布陣を敷いていたに過ぎん。 >>699
珍説披露ご苦労様って感じやな。書状一つを頑張って切り貼りしてるからこうなるのか?講和の席で戦闘計画を話したりそれを「約条違反だ」というようなアスペルガーは戦国時代におらんぞ。
家康が美濃赤坂に到着したのは九月十四日。時同じく小早川秀秋が松尾山を占拠した。この時点で西軍は大いに動揺。広家はここで徳川との和睦を行う。これは時間がタイトだった。何しろ石田三成らが大柿より出撃していて東軍先手衆も出動してる。夜を通して何とか本領安堵、少なくとも改易回避を勝ち取る。ところが十五日早朝、豊臣軍が東軍先手衆を攻撃する。これを徳川使者は「約条を反するのか」と確認すると広家は「この和睦は豊臣は知らぬ。約条違反に見えるが気にせず通り抜けてくれ」と誓った。結果豊臣軍は謂わば見殺しにされた(俗に言う宰相殿の空弁当)
十五日の朝にもなって和睦交渉してたんじゃ遅過ぎる。 吉川家文書のは毛利と徳川の不戦条約であって豊臣とは関係無いじゃろ。長束や豊臣弓鉄炮衆が戦闘しなかった証拠にはならん。 >>707
あのー
何から手をつけたらいいか分からないレベルなんだが
司馬とかどうでもよくて、史料の話でしょ
卜斎記には家康が賞したなんて記述がないし、直接見たかも不明確な家康の愚痴が載っているだけ
もちろん南宮山付近にいたという記載もない
あなたが原文ではなく一部の訳だけ書いた吉川文書は、南宮山への田中隊その他の攻撃「予定」が記されているだけで、実際には「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」とある
日本語読めないのデスカ? >>683
豊臣奉行が扇動してるのに主導的で無いとかヘソで茶が沸くだろ。良くて西軍派悪けりゃ主犯やぞ。 >>709
別の吉川書状案がある
以下、関ヶ原スレから一部引用
一 長土佐殿御弓矢てつほう衆は、一昨日内府山中へ被打越候を披見候てから、人夫悉如伊勢地被退候て、山中之合戦勝手に成候由被聞候てから、ととけなしに皆伊勢路のことく被罷退候、
一 長大大蔵殿も、山中合戦悪敷候由到来候へは、即ととけなしに如伊勢路被罷引退候、
一 安國寺も。長大同前に中途まてのかれ候つるか、いかか被存候哉、自中途被引帰候而、南宮山被罷越候、
普通に読めば、戦闘なんかしてないな
それとは別に、秀頼御弓鉄砲衆の戦闘参加の有無なんて重要事項か?
西軍に与したことは大事かもしれんけど 1600年9月の時点でどうあがいても西軍に勝ち目はほとんどない
関ヶ原で野戦なんかもってのほか
やるならとにかく時間稼ぎして家康の暗殺を謀るとか考える奴はいなかったのか >>710
はぁ…良いかい?家康が田中吉政を賞したかどうかなんてどうでも良いの。重要なのは家康は関ヶ原で吉政の戦闘を観てるってこと。上の珍訳でもそこは否定出来てないだろ?
そして家康は関ヶ原に居ない。吉川家文書から家康は南宮山の押さえとして南宮山東に布陣していた事がわかる。 さてここで問題がある。南宮山から関ヶ原までは5キロ以上ある。もし吉政の戦闘が関ヶ原だとしたら家康は5〜8キロ先の吉政馬印を視認したことになる。ということは家康は視力5以上、最低でも3以上あったことになる。また5キロ先でも視えたという事は吉政の馬印は相当巨大だったことになる。しかもこれは平地の話で関ヶ原は山中にある。更に当日は雨、霧の天候。この状況下ではこんな遠距離を観測出来ない。
ということで家康が見た吉政の戦闘は関ヶ原では無い。なら何の場面なのか? >>715
誤読くんなのにずいぶん高飛車だな
以下の吉川書状案を訳してみてくれるかい?君が引用したところもあるから、当然訳せるだろ
両人請紙仕使者帰○○も右四人之誓紙之返事仕調遣候て、爰元候此上は御行之様子如何候哉と、両使(井伊と本多ね)い相尋申候處、両使申事には、山中へ之先手は、福左太、黒甲、其外加左馬、藤佐、其外上より罷下候衆中筑中納言殿御手引之事に候条、打合中にたて候て可討果候、可合戦仕候、南宮山へ之手あては、先手池田三左衛門尉、井伊兵部、本多中書、其外内府馬廻、此衆にて土佐侍従陣から御弓鉄炮衆陣、安國寺陣田中兵部、堀尾信濃足かかり能候条、是を切崩候て、かさ陣へ可切上之由にて候、於干今此分候者、御和談調候はは間、相違可仕候条哉と申候、先此分にて候つると申候条此方申分には、此御和談之事は、○○先両人計存候、長大、安國寺、長土御弓てつほう衆なとは被存間敷候条、御手あて衆已下被出候は、可及合戦候、さ候へは、此首尾相違の様候条、○○○○一円に御手あてなしに○被作せ之候者、當陣之者不打出様相(手偏に只)候て可罷居候由申候て帰候へは、其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候
で、さっき引用したところに続く
御弓鉄砲衆は家康が「山中」に進出するのを見ると伊勢路のときと同じく人夫が逃げ出した
山中で味方が敗勢だと聞くと、伊勢路のごとく届けもなしに陣を払った
史料を読めないのに子供探偵団みたいな推理ごっこしても無駄だよ >>714
ほんとに一つも読めないんだな
関ヶ原一周年に家臣が田中の働きを誉めたら、家康は金森の馬印を覚えてたらなあと愚痴った
会話としてはずれているんだが、逆にそこに脚色性のなさ(卜斎が実際に見たこと)が感じられるし、卜斎が語った趣旨としては後段にある、家康はあまり戦の話を好まなかったのに珍しいって部分
まあそういう御託はともかく、流布する布陣図では田中隊と金森隊は近いので、後退してきた田中隊を見て、近くの金森隊に近寄って敵(重ねていうが誰かは書いてない)を破ろうと思ったんだろうな、と推測できる程度
田中隊の働きを見ていたと断言まではできないし、南宮山近くにいたとはまったく読めないし(むしろ卜斎記では桃配山に布陣したけど霧でなにも見えなかったと書いてたはず、確認は面倒なのでそっちでやってね)、君が引用した吉川書状案では攻撃計画はなかったことになって南宮山はスルーされたとある
あのね、悪いけど君の全部間違ってるから
もう無理するな、仮想戦記でも読んでるのがお似合いだよ >>714
仕方ないから卜斎記読み直したよ
14日に赤坂丸山に家康は陣取り
翌日早朝、勝手に出陣し、出向く場所はと聞かれて「敵の方へ」
垂井あたりで軍勢がほぼ追い付いた
家康が本陣を置いた場所と石田、小西、宇喜多、大谷の陣とは一里ばかり
陣立てが終わってときの声をなんどか聞いていたら合戦には勝っていた
垂井で大形の人数が揃ったとあるから、逆に垂井が終着点じゃないと分かるな >>714
で、その家康が南宮山東麓に布陣していたとする吉川文書とやらを「原文で」示してくれるか?
それが一番話が早いでしょ
どうせ知らんぷりするんだろうけど 保身の吉川の信用性はあんまり無いな
西軍贔屓の奴等がコイツを叩かないのがよくわからん 西軍首脳部が調べるほど能無し揃いだから吉川広家はむしろ同情してしまう まあまだ気は早いが、訳してくれってのはどうせ無視すんだろう
「両人請紙仕使者帰○○も右四人之誓紙之返事仕調遣候て、爰元候此上は御行之様子如何候哉と、両使(井伊と本多)い相尋申候處、両使申事には」とあるんだから、和談が調い、吉川側から「御行(軍事行動の予定)」の様子を井伊、本多側に尋ねたことが分かる
そこで両使は「山中へ之先手は、福左太、黒甲、其外加左馬、藤佐、其外上より罷下候衆中筑中納言殿御手引之事に候条、打合中にたて候て可討果候、可合戦仕候、南宮山へ之手あては、先手池田三左衛門尉、井伊兵部、本多中書、其外内府馬廻、此衆にて土佐侍従陣から御弓鉄炮衆陣、安國寺陣田中兵部、堀尾信濃足かかり能候条、是を切崩候て、かさ陣へ可切上之由にて候」と作戦計画を説明した
そもそも、前段を読まずとも「可」という助動詞が使われている時点で、この場合は意志の用法だが、いずれにせよ「過去に起こったこと」とは古文を知っていれば読めない
次いで、「於干今此分候者、御和談調候はは間、相違可仕候条哉と申候、先此分にて候つると申候条此方申分には、此御和談之事は、○○先両人計存候、長大、安國寺、長土御弓てつほう衆なとは被存間敷候条、御手あて衆已下被出候は、可及合戦候、さ候へは、此首尾相違の様候条、○○○○一円に御手あてなしに○被作せ之候者、當陣之者不打出様相(手偏に只)候て可罷居候由申候て帰候へは」
それはあくまで事前の計画で、ここにいたって南宮山を攻撃するのは違約かなあと井伊、本多が言うので「此方申分」(吉川の言い分)では「うちらしか知らないんでやっちゃってください。うちらは交戦しないんで」と話して帰陣した
そうすると「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」
ここ大事ね
少しも手あてなく、事前に聞いた計画と違って(翌朝に)打ち過ぎられたる(通過された)のはどこか、南宮山でしょ
そう聞いたからそう報告したのに違うから困ったぜ、という内容が続く
つまり、南宮山方面に攻撃予定だったものが吉川の裏切りで(吉川が把握できない家康本陣の中で、一晩のうちに)方針ががらっと変わった
続くところで秀頼御弓鉄砲衆は伊勢路のときみたいに逃げたと罵倒されているから、なんもしなかったんだろ
反論ある? 妄想くんが>>676で書いた内容は、この吉川文書案であるのが明白
なのに、同じ文書内に書かれたことすら把握していない、もしくは否定する根拠はなんだろうか?
できれば早めに、家康が9月15日、南宮山東麓に布陣していたという史料を示してもらうとうれしいな 妄想くんが>>676で書いた内容は、この吉川文書案であるのが明白
なのに、同じ文書内に書かれたことすら把握していない、もしくは否定する根拠はなんだろうか?
できれば早めに、家康が9月15日、南宮山東麓に布陣していたという史料を示してもらうとうれしいな 吉川家文書のは凄い誤訳だな。広家と徳川大使の話がトンチンカンな事になってる。広家と徳川の講和条約は毛利と徳川しか拘束しない。じゃあここで出てくる長宗我部や豊臣弓鉄炮衆、また長束は毛利家の支配下なのか?そうじゃない。もしこれが十四日夜の話なら広家の答えは「戦闘が起きない様に努力する」しかあり得ない。この和睦は二人しか知らないから通り抜けてくれ、とした場合どうして長宗我部ら南宮山麓の部隊は攻撃しなかったのかを説明しないといけなくなる。 >>726
横からだけど会話もできないなら書き込みやめなよ >>716
普通に家康は南宮山の押さえと書いてあるな。少し応用になるけど。家康が美濃赤坂に着いたのが十四日(東軍先手衆は垂井に移動)、同日松尾山を東軍が占拠、同日夜大柿衆松尾山奪還に向けて出発、それを見て東軍先手衆は東山道を西進する。
家康が関ヶ原に居たとすると家康は先陣切って行ったことになるけどその手の話は明治以降の作り話。家康は南宮山に居た事は間違いない。 >>728
応用てw
さすがに草生やさざるを得ん
私はタイムマシンを持っていないので家康がどこに布陣したか断言はできないが、あなたが秀頼御弓鉄砲衆が戦闘に参加したとして引用した吉川文書案
それを読む限り、南宮山に池田や徳川譜代、馬廻りを当てるのは情勢が変わる前の計画であって、何度でも繰り返すが「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」と明確に書いてある 立花宗茂や小早川秀包が主張したように秀頼盾にして大坂城に籠もればどうなったかわからん
援軍が100%なかった大坂の陣とは違うからな。まあ扇動してきた仲間を捨てて勝手に家康に頭下げて所領安堵の約束をしてた輝元がそんなことするわけないが >>730
やる気なかったのに終わってからそんな主張するなよ立花 「攻撃したら約定に違反しますか?」の返答が「この約定は二人しか知らない」と繋がるのは確かにおかしい。常識的に考えれば「はい、約定に違反します」か「いいえ、約定には違反しません」のどちらかだろう。で読んでみると吉川広家、なんとこの問いに答えてない。だからキモは「御手あて衆已下被出候は、可及合戦候、さ候へは、此首尾相違の様候条」の訳し方なんじゃないの?ここは何て訳すのだ? 岐阜城が落ちた段階でもう離反者が出てるのにあそこから盛り返せるわけないだろ
関が原後はすべて失うか大損害で済ませるかの違いしかないぞ
大坂城で時間稼ぎしたところで全国各地の東軍勢に対抗できる手勢はないし
そいつらに本国落とされたら終わりなんだから >>730
なんつーか、西軍を支持してる奴が本音では豊臣家も豊臣政権も
どーでもよくて、ただ東軍(家康)をやりこめたいと思ってるだけなのがよくわかるな
「ほれほれ、秀頼がどうなってもいいのか、頭下げろや家康」ってか
自分で書いててみっともないって思わんのかね、恥ずかしくないのかな こんな感じかね
見せ消ちの部分は全て削った
間違ってたら忌憚なく指摘してほしい
あと「長土御弓てつほう衆」だけど大日本古文書家わけにある注釈だと、長宗我部の弓鉄炮衆となってるんだよね
「御」がついてるし秀頼の弓鉄炮衆だとばかり思ってたがどうなんだろうな
【原文】
「於于今者御和談調候ハヽ、相違可仕候哉と申候、先此分尓て候つると申候条、此方申分ニハ、此御和談之事ハ□□先両人計存候、
長大・安国寺・長土御弓てつほう衆なとハ被存間敷候条、御手あて衆已下被出候者ゝ、可及合戦候、
さ候へ者、此首尾相違之様候条、□□□□一圓ニ御手あてなしニ□被作せ之候者、当陣之者不打出様相抧(=控)候て、可罷居候由申候て帰候へ者」
【現代語訳】
現在和睦が成った状況では、そのような軍事行動は違約になるのではないかと(吉川)は言った。
しかし(東軍は)このように行動すると井伊・本多が言うので、こちらの申し分として、
この度の和睦は両人(吉川・福原)しか知らず、長束や安国寺、長宗我部盛親、(秀頼の)弓鉄炮衆等は知らぬことで、
その手あてとして(東軍が)軍勢を出せば合戦に及ぶことになろう。
そうすれば差し障りとなるので、この辺り一帯に(東軍の)軍勢の手配をしなければ、
私達は陣から出ずにじっとしていると申し上げて帰陣した。 >>732
ほんと古文の基本も分かってないし、それどころか現代日本語すらも解さないようで
答えてないってなに?
和談は吉川毛利しか知らないと思うので(ほかの勢力とは関係ないんだから)「御手あて衆已下被出候は、可及合戦候」と明示されてるでしょ
この助動詞「可」は適当、勧誘の可としか取れないから「合戦しちゃうのがいいですよ、やっちゃってください」だ
そうすっと違約みたいに思えるかもしれませんが、うちら手を出しませんのでと吉川は答えて帰陣した
で、事前計画の通りにやってくると思っていたら「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」だと何度も書いてるでしょ
早く家康が南宮山近くにいたという吉川文書を教えてくれな >>735
「此方申分」の以降はすべて吉川の弁で、それ以前は井伊と本多の弁と取るのが普通じゃないかな?
攻撃予定を述べて、「和談が決まったから(南宮山攻めるのは)違約かもね。いまのところはこんな予定です」
これに対し、吉川が「長束らは和談しらないと思うんで。予定の手当てをしたらそのまま攻撃しちゃってください。そうすると違約みたいですけど、○地域一円に布陣されないなら当家は動きませんので、と話して(吉川は)帰った」ではないか
で、秀元あたりに帰ってそう説明したのに、徳川方はさっさと通過していったから立場を失ったという愚痴につながる
「可及合戦候」の「可」は先にも記したけど、やっちゃえの助動詞だと思う >>738
なるほど
井伊や本多の発言とも取れるね
前後の繋がりから自分は吉川の弁だとばかり思ってたが
一応通しでは読んだから全文翻訳して吉川史料館に問い合わせてみようかな
何回か質問したことあるけどほんと丁寧に教えてくれる
現在3分の2位訳したけどこの他にも一部不明瞭なところもあるから聞いてみたいし
遅くなるかもしれんけども結果を報告するよ
あと関ヶ原史料スレにある翻刻は見せ消ちと訂正後の文を合わせて書いてたりする箇所
があるから東京大学史料編纂所のデータベースの吉川家文書を見る方がいいね
「御和談調候はは間」とか文法的におかさしいし
見せ消ちと訂正後の文を比較しながら見れるのもよかった >>734
むしろあなたがどういう感覚でそういうことを書いているのかが気になる
対立煽りでもしたいの? >>736
というか原典だ
翻刻に書状写真まであって最高だ、ありがとう
関ヶ原スレの人はかなり読む力があるけど、明らかな(なんでそこまで力があるのにという不可解な)間違いとかあったし
「於于今ハ御和談調候へハ相違可仕と申候条」とされているし、実際の書状でもそうなっている
予定はこうだったけど和談で変わるでしょうという徳川方に、吉川はいいから攻めろよと言ってるんだな >>739
そこらの不満は>>736で解消される
ありがたい
それを読んだので、「計画はこうだったけど和談で変わるわい」と井伊と本多が言ったと訳を恥ずかしげもなく変更します
まあそもそも大日本史料読めと言われそうだが、関ヶ原回りは稿本だから面倒くさい 関ヶ原史料すれはあちこちから皆が集めたものだから。
ひとりが全てを集めたものではない。 >>729
馬廻衆がどんな存在かあれほど語られてるのに理解してないって…内府馬廻衆が南宮山押さえってことはそこに徳川家康がいるって意味で問題無いぞ。お前さんは家康が相当勇猛果敢な男と思ってるんだろうけど馬廻衆を置いて関ヶ原に突入する程無謀じゃない。 >>735
吉川広家の言ってる事が無茶苦茶過ぎる。押さえの兵を置かなければ戦争にならないなんてのは左翼のよく言う「基地があると攻撃される」論と同じ。現代ですら通用しない理論が戦国時代に通用したとは思えない。おそらく既に南宮山豊臣軍が東軍先手衆を攻撃していてそれに対する言い訳なのだろう。 元々は、関ヶ原合戦の真実スレ、だったかな?
せっかくあそこに貼った史料がdat落ちして読めなくなってしまうので、
新たに史料スレを作っていつでも読めるようにしよう、
としたのが始まり。 馬廻衆は基本は主君の警備ではあるけど別働隊として派遣されることもあるから家康の在所の証明とまでははならないんじゃないか
信長なんかはあちこち派遣しまくりだったし 押さえの軍に戦闘吹っかけるって事は豊臣軍の士気は高い事を意味する。てことは押さえの軍が居なかったら尚のこと戦闘しに行くだろう。地形的に南宮山を避けては通れない訳で。移動中に突撃するのは戦の常道だ。 >>747
主君より安全な場所に馬廻衆を送るはずがなくね?もし毛利が裏切ったら関ヶ原で孤立するのは徳川になる。もしそんなリスキーな戦術してたら逸話に残ってる。関ヶ原は小早川が既に味方で戦力は拮抗してる。家康が出陣する理由が無い。 譜代大名が少ない代わりに旗本は大量に引き連れてたのが関ヶ原の家康隊だからあちこちに分派してても不思議はないが 馬廻のいるところ必ず主君がいるなら史料上
名のある大名は全て分身が使えてた証明となるなw
馬廻というのは文字通り主君の馬の周りで
備え(部隊)を構成する武士という意味もあるが
主君直属の職制を指す語だよ 馬廻衆は選抜された超エリートで大将の周りを固める親衛隊。故に「馬廻衆がいる」ということは大将が居ることを意味する。織田信長は複数の馬廻部隊を抱えていてこれを変幻自在に操った…らしい(本能寺の時にはそれが却って仇になった説があったり)家康も馬廻衆を当然持っていたけど複数部隊に分けたって話は聞かんな。攻撃部隊の旗本衆と防衛部隊の馬廻衆に分けてたらしいけど。 例えば「内府旗本衆」や「内府先手衆」なら家康がいるとは限らんがわざわざ馬廻衆が押さえにあるというのは南宮山は徳川家康本隊に押さえられていた事を意味する。広家からしたら裏切って攻めたところで勝ち目が全く無いから和睦を維持するしかないわな。戦略面でも矛盾は無い。南宮山の毛利軍が関ヶ原の東軍背部を狙う事は防がねばなるまい。 馬廻=少数精鋭のエリートで
主君の周りにしかいないって
史料上そんなに厳密に使われてる?
信長の馬廻はあちこち派遣されてるし
徳川の馬廻だけ特別な職制だったってこと? あのねえ
なんで「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」はかたくなに無視すんだろうね
池田や家康馬廻、井伊と本多らが南宮山方面の押さえとされたのはあくまで事前の計画
家康は一晩でひっくり返して(吉川の裏切りの結果)打ち過ぎていったとあるでしょ
君とは会話にならないんだよ 馬廻りがどうのこうのとか一切関係ないから
家康方との誓約が終わり、吉川が井伊、本多側に「軍事行動の予定はどうですか?」と聞いた
そんでこうこうと予定を明かし、両者にいろいろやりとりがあって、吉川は陣から動かないと伝えた
そんでもって山で待っていたら、「その返事はもはやなくなってしまったのか、(上記の部隊は)少しも南宮山方面に手あてをすることなく通過してしまった」
つまり、井伊、本多側が語った南宮山方面への布陣計画は撤回され、馬廻り含めて関ヶ原方面に突っ込んでいった
布陣計画は意志の助動詞「可」が使われているから「するつもりだ」
その時点で実際に起こったことではない
通過したという方は完了の助動詞「つ」と「たり」の連体形が用いられているので明確に過去に起きたこと
古文や現代文習ったことあるかい? もう一度、以下も引用しておきましょうか
同じ吉川文書
一 長土佐殿御弓矢てつほう衆は、一昨日内府山中へ被打越候を披見候てから、人夫悉如伊勢地被退候て、山中之合戦勝手に成候由被聞候てから、ととけなしに皆伊勢路のことく被罷退候、
一 長大大蔵殿も、山中合戦悪敷候由到来候へは、即ととけなしに如伊勢路被罷引退候、
一 安國寺も。長大同前に中途まてのかれ候つるか、いかか被存候哉、自中途被引帰候而、南宮山被罷越候、
「一 長土佐殿御弓矢てつほう衆は、一昨日内府山中へ被打越候を披見候てから」と明記されているな
一昨日とあるが、家康が山中に打ち越したのを見ただけで人夫が逃げ出し、山中の合戦が東軍勝利と聞くと部隊全体も届けなく逃げたとあるから、合戦当日の朝に家康は山中に進出し、その後すぐに東軍勝利が報じられ、撤退したのだと分かる
長大も安国寺も似たもの
その前にも「長束と安国寺は軍勢が集結していたが、敵の様子をうかがうばかりだった」といった内容の記述がある
家康は明らかに山中に進出していたし、南宮山の西軍部隊は戦闘していないのが濃厚
反論よろしく、妄想ではなく史料を使って あと、吉川文書によると家康が南宮山東麓にいたと連呼していたが、その根拠史料もよろしく
「山中」が南宮山とか言い出さないでくれよ >>754
家康は軍制で親衛隊を「旗本先手役」と「馬廻」に分けてる。
旗本先手役は徳川でも有名な連中、例えば鳥居元忠・本多忠勝なんかが指名されていて家康の指示で危険な任務をも行う突撃隊として活躍した。対して馬廻衆はそうした逸話があんま無いけどこれは家康の防衛部隊だから。つまり家康は馬廻衆を攻撃と防御に分けて組織したらしい。何故家康がこんな組織化をしたかは不明だけどおそらく本来大将を守るのが役目の馬廻衆に余計な職域を与えたくなかったんじゃないか。
信長は複数の馬廻部隊を作ったけど攻撃と防御両方を担わせた結果本能寺の変で全滅したらしいし。 >>757
その引用が正しいなら家康は決戦時に関ヶ原に居たことを証明は出来なくね?これは確か毛利輝元に戦況報告したものだから正確な報告で無い事は仕方が無いが。 まず徳川家康が「何時に」移動したのか明記されてない。関ヶ原の戦いは巳の刻に始まり正午には終わったとされてる。逆算すれば家康が桃配山に移動したのは早朝だったことになる。なら「一昨日朝…」とあっても良いだろうに。
つまりこうした説明も出来る。十五日朝、南宮山豊臣軍は移動中の東軍先手衆を攻撃した。ところが毛利が動かない。不信と疑心暗鬼が豊臣軍に広がり押し返され以後攻撃出来なくなった。正午近くまず家康本陣に西軍撃滅の知らせが入る。ここて家康は自軍を関ヶ原に移動させる。それを見てまず人夫共がパニックを起こし逃走を始める。流石に軍人は踏み留まるが西軍壊滅の一報が入るとこれも逃走。吉川文書だけでは家康が最初から関ヶ原に居たかは説明出来んと思うが… これは戦略的にも正しい。何故徳川が南宮山を押さえたかというともし全軍を関ヶ原に投入した後に毛利に裏切られた場合東軍は東西から挟撃される形になる。家康の戦略は小早川秀秋裏切りの報で関ヶ原に釣り出された西軍を東西で撃滅することにある。司馬遼太郎が家康が関ヶ原に居た事にしたのは小早川秀秋が既に東軍であることを知らなかったから若しくは物語の都合。
南宮山からは関ヶ原が視えない。しかし今まで動かなかった徳川本隊が関ヶ原に向かうとなれば戦局は人夫だって分かったろうさ。 >>761
大番は江戸幕府が組織したけど関ヶ原時点ではあって名称程度じゃね? >>759
それは関東移封後に組織が急拡大してく中で
馬廻が大名に取り立てられたものと
直属のものとに分けられただけで
直属のものの職質が親衛のみに特化して
他の仕事をしなくなった訳ではないよ
後の徳川幕府の組織上も馬廻にあたる旗本が
他大名家との連絡を業務にしたり
他の役職への出世の足がかりになっていた 幕府の支配体制が固まってから分業専門化が更に進んだんじゃないの >>762
徳川本隊が打ち過ぎたとやっと、やっとやっと認識してくれて何より
しかし「説明もできる」はいただけないなあ
世の中ではそれを「妄想」と言うんだよ
史料に書いてあることを読まず読めず、書いていないことを想像されても困るんだよね
自説が正しいというなら南宮山に家康がいたという吉川文書とやらを早く出せばいいんじゃないかな?
そういうのを出してくれたら、それに対する史料批判(史学用語のね)なり、ほかの史料との兼ね合いなりの議論になるんだが
司馬遼がどうとか、馬廻りがどうとか、真底どうでもいいので 妄想って悪く言ってるだけでしょ
想像とも言えるし推測とも言える 徳川本隊が関ヶ原に向かったのは関ヶ原決戦が終結した時だろう。それまでは南宮山東麓で毛利軍の監視をしていた、というのが吉川家文書の記載だね。一言も十五日朝に家康が関ヶ原に居たとは書いてないし。内府馬廻衆が南宮山押さえって事は家康が南宮山より東に居たことを意味してる。どの一次史料にも家康が何処に陣取っていたかわからない状況だけど南宮山の毛利が裏切ったら絶体絶命の地に敢えて踏み込む事は考えられん。 家康がいる場所は内府御本陣と書いてあるから内府馬廻衆とわざわざ別に書いてあるのは家康から離れた別働隊だな 毛利家の輝元への文書だし徳川の小身の武士だと一山なんぼで記載されないんじゃない
井伊や本多の記載は輝元も知ってるからではないか 妄想誤読くんはまともなコミュニケーション取れないからもう無視するとして
徳川馬廻りがどうのこうの言ってる人もまともじゃない
あくまで「御行(てだて=軍事行動の予定)之様子」を聞いたら答えたってだけで、それと実際は違ったから吉川はむしろ困っている
つまり、家康が合戦当日にどこにいたかという議論において、馬廻りの性質がどうのとか、内府御本陣は別に書いてあるとか、みじんも関係しない
ただの予定だから
少なくとも吉川文書にはそう明確に記されている
ついでに当該文書
最後の念押し部分には「一昨日十五日ニ、内府様直ニ山中へ被押寄被及合戦、即時被討果候」とあると附記しときます 馬廻りの話になったから役目や性質の話になったんじゃないのか
とりあえずは馬廻りが居る所=本陣ってのはここでは否定された >>745
広家には約定違反かについての裁定権が無いからしゃーない。
小早川秀秋の裏切りと違って毛利の和睦は土壇場も良いところの九月十四日夜に行われてる。これはつまり徳川にとって毛利との和睦は戦略の前提では無かった事を意味してる。一見公平に見えて実は毛利の無条件降伏な訳である行動が約定に違反してるか否かを決められるのは徳川。極端に言えば徳川は毛利を攻撃しても問題無いが毛利は僅かでも徳川を攻撃したら約定違反で潰される位の格差がある。 >>775
内府御本陣ってのは徳川家康のいる場所
内府馬廻衆ってのは徳川家康が率いている部隊
全く違う概念なのでこれが両立することに問題は無い、てかそうしないと内府御本陣が山中にあったと証明する羽目になるゾ 実は小早川秀秋なんぞより遥かにエグい裏切者だからな毛利って。秀秋は随分前から徳川についていて松尾山とったのも家康からの指示だけど毛利が和睦したのは十四日の夜。しかも目前で豊臣見捨てた訳でよくもまぁ悪評を抑えきれたねって。 輝元は大坂の陣でも保険で大坂に入れた家臣に全部責任を被せて腹を切らせてるからな。小物なクズ野郎 >>783、>>784
そりゃ誠実な行動とやらで御家を潰したらそれこそ先祖に申し訳が立たんからね
御家大事という観点で見るのなら、輝元の行動は正しい
周りからの嘲笑や侮蔑を「お前らなんかに何がわかる」と歯を食いしばって心の中で毒づきつつ、
下げたくもない頭を下げ、心にもないおべっかを使って、それを御家存続の為とひたすら耐える、
そしてその目的の為ならどんな卑怯で汚い手段でも決して厭わない、
これこそが『家』というものを背負った真の武士だと私は思うけどね 豊臣家が家康と三成で権力争いしてるのと同様に毛利家も安国寺と福原吉川で権力争いしてんのよね >>779
妄想をさも事実かのように語り、史料の誤読を平気で定説であるかのように扱うあいつが悪いんだよ
あー、そういう史料あるんだって思っちゃうから
厚顔無恥ってある意味、武器だわ >>778
徳川家康が関ヶ原決戦時つまり九月十五日十時頃には南宮山東に居たって話だぞ。内府馬廻衆は南宮山押さえに入ってるからな。で豊臣弓鉄炮隊は徳川に攻撃を仕掛けた、ってところに繋がる。司馬遼太郎は関ヶ原を決戦に仕立てる為に史料を無視して話を作った訳なんだがそのせいで史料と乖離した話になってしまった。それを未だに信じてる人が居るから大変なんだな。 広家が降伏した日時考えれば徳川の情報とか信じられる訳ないんだよなぁ 関ヶ原で豊臣政権の主だった官僚がほとんど全滅するけど、その中で言えば本人は処刑されたけど子供たちは助かった三成はまだマシだよね
お咎めなしの玄以は息子が発狂し、改易で済んだ増田は大坂の陣で息子が豊臣方についたせいで切腹だし 広家は親徳川派と言われて当初から東軍に与してたみたく言われているが史料上ではこいつが徳川に通じたのは九月十四日の夜。なんと小早川秀秋よりも遅い(秀秋は九月三日には徳川に通じてたらしい)十四日は家康赤坂着陣、秀秋は松尾山占拠なので東軍が詰めに来てるその時。これは家康は毛利を当てにしてなかった事を意味してる。毛利が敵でも勝つつもりで来てた訳でまぁ広家は限界で降伏したわけだ。
なんでこんなになるまで放って置いたのかは人によって解釈分かれるけどこの乱が終結したら毛利は良くて改易悪けりゃ切腹、そうならない様に西軍を高く売れる機会を窺ってたんだろうか。そしたらまさかの大暴落と。 >>791
子供は助かってるけど、父に兄にその息子は殺されてる
なぜ三成の子息は許されたんだろうな >>793
おそらく、直接戦闘に参加してなかったのと、三成の「遺児」を立てて挙兵するような勢力が皆無だったからだろう。 大坂から秀頼を連れ出したパターン
A 「上様がこのような所に来られるはずがない」
B 「上様の名を騙る不届き者だ」
C 「上様でも構わぬ」
D 「上様、お手向かい致しますぞ」
E 「上様、お命頂戴致します」
F 「ここで死ねばただの徳田新之助」
G 「悪党らしく死に花を咲かせてくれるわ」
H 「飛んで火に入る夏の虫」I 「我ら幕臣あっての上様ではないか」
J 「八代将軍もこれで終わりぞ」
K 「もはやこれまで」
L 「笑止千万」
M 「吉宗の首を我が殿、宗春公に差し出せ」
N 「上様の顔を忘れた」
O 「もはや上様の命に従う必要はない」
P 「腹を切るのは拙者ではなく、上様である」
Q 「どうせ上様には死んで頂くつもりでした 覚悟なされ」
R 「御役御免で一度は死んだ身」
S 「そこまでばれているのなら、毒を食うは皿まで」
T 「何をほざくか吉宗。良い所に現れたものよ」
Z その他 西軍の大将って三成みたいに思われてるけど一応は輝元なんだよね。
その大将が無血降伏するのだからその程度の戦意だったのが大きな敗因ではあった。
輝元に野心があって勝利したら逆に毛利に天下をのっとられそうではあるが。
無害で凡庸な部下か、有能ではあるが野心家で有害になりうる部下か
これは永遠の課題でもある。 >>793
本多正信「石田三成は何故か徳川に刃向かったお陰で大殿は天下人になりました。謂わば徳川の大恩人ですので放って置いてます」
おそらく徳川は西軍の中心人物は毛利輝元と知っていた。石田三成は誘われて参加しただけで警戒するにもあたらなかった。後三成の嫡男重家は家康に可愛がられていたとかで哀れに思われたのかも。 「処刑された石田も小西も実のところ従犯だしせめて子供たちの命は助けてやるか」と思ってる中よりによって主犯の輝元が天下の罪人を成敗したと言わんばかりに小西の息子の首を持ってきたときにはそりゃ家康も不愉快になる 輝元って信雄レベルで無能な上に信雄と違って人間的にクズ過ぎて軽く引くわ 輝元はどう見ても一番やりたい放題やった元凶なのに、本人は減封程度で済んで豊臣宗家はじめ巻き込まれた立場の連中のほうが比較にならないほど損してるから不気味
豊臣宗家を直接滅ぼしたのは徳川家だが、秀吉遺言体制を完全に崩壊させ破滅の道に叩き落としたのは輝元では >>800
そもそもそのドクズムーブの原因が自分の無能なのでは?自分のアホな行動の尻拭いを他人にさせてるだけのようにしか見えないんだが 唐様で書く3代目が家遺せただけでも偉いもの。ただここまで情けかけてもらっておいて正月の度に幕府呪ってたとか情けない気もするけど…ま、逸話なんだろうが そりゃ武家ってのはそういうもんだわ
家のために犠牲が必要になった時のためにいる わざわざ無能と結託して主家の天下を崩壊させるんだから
奉行も大したもんだよって評価にしかならないのが悲しいところ つか秀吉の晩年から既に「豊臣体制」ってのは家康の存在前提になってるだろ。
その家康を排除しようとしたらそりゃあ崩壊するわ。 >>802
そのやらかしの責任を、(完全ではないにせよ)うまい事他者に押し付けて
しっかり自分の逃げ道は確保しているから無能とは言えないだろう
実際問題、西軍の首脳部格で輝元よりマシな結末を迎えたのは前田玄以だけだ、
後は破滅か改易だぜ、そう考えると輝元は相当上等な結末に思える
(島津は義弘はともかく、島津家は首脳部といえるかちと微妙だし、上杉家も同様) 単に負け犬目線で上手くやった奴を
妬んでるだけじゃね?
奉行だって単に下手こいただけだべ 主君が死んで早々、その主君の最後の誓詞を五大老の中で最もなんとも思ってない輝元と秘密協定結んだ浅野以外の四奉行って言うほど忠臣かという印象が 輝元は別に上手くやってないよなw
失敗したけど尻尾切りして逃げようとして、でも家康には全部バレてて家を潰されかけたってだけで 裏で色々策動して、家康が迫ってきてからやべえと思って引き込んで仲間をほったらかしで家康に頭下げて、上手くいったと思ったら家康は自分が畿内から離れた後の輝元の悪さを全部把握してて、疎かにしないと約束したけどこりゃダメだ潰すわと
どう考えてもアホだと思います。最終的に頭下げるなら前田みたいに最初から従属しとけと 輝元には豊臣公儀を潰す動機がある。元々毛利が握っていた瀬戸内海利権のあれこれは秀吉に没収されて秀吉配下に分配された。関ヶ原で輝元は四国九州を収奪しようとしたのはこれを取り戻したかったからじゃないかという説がある。その為にまず主流の家康・利家派閥に対抗させる為に奉行派を作らせてそいつらを操って豊臣公儀を破壊した…っていうと深謀遠慮の黒幕なんだけどいかんせんその最後がなぁ 広家が東軍に内通した時にはもう東軍は攻撃体制整えてるし毛利が滅びるか残ったかの瀬戸際かぁ 広家は西軍決起時点から徳川と交渉してた、と言われてるけど実際のところ態度は曖昧だったらしい。九月三日になって黒田らから最終通告食らっても動かなかった。それが徳川家康着陣、小早川秀秋松尾山占拠、石田三成出撃と怒涛の展開を前に急遽降伏した訳で何でこんなになるまで放っておいたのか。おそらく毛利の為に高く西軍を売れるタイミングを図っていたんだろうが… 吉川が後世に向けて正当性を主張してる史料なんてバイアスきつすぎてアテにならんよな 輝元は現代で例えるなら
キーウ攻略に失敗した途端すぐにあきらめてアメリカに土下座したプーチンだからな >>815
なんで毛利がそんな事しなきゃならないんだよ、勢力倍以上の相手に正面決戦
(普通に戦えというのはそういう事だろう)をやるバカがどこにいる?
領国が本格的に攻め込まれてたりしてるならば話は別だがそうじゃないんだから
仮にこのままだと家康に難癖付けられるとか言う戯言を最大限受け入れるにしても、
それは毛利と徳川が政治的対立をする理由にはなっても、正面決戦を挑む理由にはならん
そんな事をしたら毛利が勝利しても大損害もいいとこ、割に合わないよ
真面目に聞くが正面決戦を挑んでもなお、毛利が得だと思えるような褒賞や損害補填を
西軍は用意できるの?又、仮に用意できたとしてそれが確実に実行される保証はあるのか?
まあ毛利が本格的に天下取りに挑む!ってんなら徳川と決戦をする価値はあるかもしれんが
それって一応豊臣恩為を掲げた西軍首脳(奉行衆や宇喜多)にとって喜ぶべき事態と思えんぞ >>819
兵を上げたこと自体が失敗だったから必死で巻き返しただけだよな
無かったことにはできずに所領を大幅に削減されたけど >>819
西軍は毛利の仕切りだろ
自分で扇動しておいて酷え奴だよなほんと >>822
自分の御家が生き残れる道を確保しておかない方が悪いわそんなもん
それが必要な事であるのなら、長年の友であろうと志を共にした仲間であろうと
笑顔のまま平然と切り捨てられるような事も決断出来ん奴が、大名なんてやっちゃだめだろう
個人の義憤や面子なんて下らん自己満足で、代々続く御家を潰したら
それこそ血反吐を吐きながら必死になって御家を残し続けたご先祖様に、申し訳が立たんだろ こういう場合の酷え奴って戦国大名にとっては中々の褒め言葉だよな 戦国大名も酷え奴だと言われたら普通に怒るんじゃないだろうかw 小西の立ち位置がわからん
現場に出てる諸将達と同じでいいの? 三成は関ヶ原で負ければ史実通り、勝っても得るものは失脚から復帰できるかもしれないくらいでそれでも他の奉行より格下扱いだからリターンと比べてリスクがデカすぎる 奉行衆や輝元、広家について色々言われてるけど宇喜多直家が主戦派であったことに異論はないんだね >>824
中世こそイエの存続が最も価値の高いものなんだが。江戸期のそれは中世からの継承に過ぎん。 その家を潰しかけたのが輝元だよな
巻き込まれてギリギリで破滅を回避したなら有能なのかもしれないが、自分で主導しておいて土壇場で自分だけ逃亡。でも領土は大幅に削られるとか無能の極みじゃないか 古代から土地(領地、経済力)が1番大事なわけで家はただそれに付随する概念でしかない 石田三成もわりかし窮地にあるからな。嫡男重家が大坂にいるから人質同然。それに大谷吉継は兵隊連れてきてるわけで果たして佐和山にこれを追い返せるだけの兵がいたかな。 >>830
家じゃなくて土地な
今川家なんて武士として滅亡したも同然だし
その土地を守る存在としてメンツも保たないといけなかった
和田義盛とか見れば分かるだろ なんか肝心なこと忘れてない? 最初期に瀬田に砦普請して東軍?迎撃しようと布陣してたのはその時の毛利主力だよ。 結局前田も徳川も来なくてなぜか伊勢制圧に向かったけど。 少なくとも最初期は毛利は瀬田で決戦する気があったわけでしょ? >>834
いや土地も家あってのものだぞ
今川家は公家旗本としてちゃんと存続したし
そのためにこそ今川の家臣たちは頑張った 高家って家康の良血コレクションて感じだけど、明治で華族にしてもらえなくて大変そうだったよね 輝元のこと無能の極みとか言うとその輝元や西軍に少しでも勝算感じてた大名たちが目も当てられないことになるのが実になんとも
真田みたいに保険で二股して本領安堵勝ち取った家もままいたけど、それなら家康に全面的に味方してれば加増も狙えたと言えるわけで 輝元がまともな判断できたら
そもそも挙兵しなかったし
奉行も輝元と同じ判断ミスして
大阪に招き入れたので同列 輝元からすると秀吉に奪われた領土利権を奪取する事が最優先だったんだろう。ただ徳川家康を甘く見過ぎた。 秀頼が幼年ゆえに統治能力がないから
豊臣政権で最も貫目のある家康がその後ろ盾にすえられるのは当たり前の話で
奉行たちにとって家康より扱いやすい相手じゃなきゃ協力者にはなりえないわけだが
結果的にそいつに梯子外されているんだからざまはない 輝元は軽率とか見通しが甘いとか言われても仕方ないけど、そんな輝元に最後まで手の平の上でいいように使い捨てにされたけど最期まで何も気付いてなさそうな三成はもう底抜けに評価が下がる 毛利が軽率で見通しが甘いなら
西軍首脳全部そうだろ
あと毛利が狙ってたリターンは
単なる領土拡張よりでかいはずだよ
だって実際総大将やって大阪入城してんのよ?
それやって内府の位置狙ってないと言ったら
どんだけストイックなんだよってなるわ 三成は西軍を美濃から東に集めて上杉と共に徳川に圧掛けていくつもりだったみたいだが長束や恵瓊に反対されて西軍主力部隊は伊勢から西に展開して美濃には僅かな兵しか置かれなかった。
そこを東軍が強襲した訳でそういう意味では三成は家康の能力を正しく評価していたことにはなる。対処出来なかったけど。 仮に西軍主力が美濃に集結してても
崩れる理由が北国からの進軍に変わるか
放置した畿内や伊勢からじわじわ蚕食されるか
程度の差にしかならなそうではないかね?
岐阜で睨み合ってる間に東軍先鋒が
丸々鞍替えしてくれるとかない限りは >>846
もうあの時点だと、信長みたいな存在がいきなり
出てこないと勝ち目ない
西軍はやることがとろくさすぎる
伏見城最初に攻めるとか話にならないし
しかも攻めるにしてもそこに14日もかけるとか つまるところ輝元が江戸を滅ぼせるかどうかなんだけど
そこまで覚悟完了してる気配がないのよね
伏見大坂から家康を追放するだけじゃ
全国統一政権である秀吉体制からの後退にしかならんもんね 徳川を滅ぼす気で戦争やるとかもう日本東西全面戦争で戦国初期に逆戻りなんだよなあ >>738
遅くなったが該当部分の訳について報告するよ
吉川広家自筆書状案(吉川家文書913号)準拠で
・「於于今者御和談調候ハヽ、相違可仕候哉と申候条」はあなたの指摘通り井伊・本多の弁
私は>>735で「先此分尓て候つると申候条」と、誤って見せ消ちの部分を加えて
訳してしまったため吉川の弁としたがこれは間違い
福原家文書には「哉」がついてないが吉川家文書の方はついてる
「哉」の有無でここはニュアンスが変わるところだね
「哉」がなければあなたが>>742で言ってるような意味合いになるだろうし
・「可及合戦候」の「可」は勧誘の可ではなく推量の可になるので、
「攻撃してどうぞ」ではなく私が735で訳した「合戦になるだろう」という意味になる
これは確認するまでもないことだが、妄想くんの実際に戦闘があったという主張は論外
あなたの指摘通り、もし過去形として既に戦闘があったなら「可」は付かない
戦闘があれば「及合戦候」とか「合戦仕候」という表現になるはずだからね
前段の内容はあくまで東軍のこれからの軍事行動の予定を話しているに過ぎない >>738
・「其返事ハ者や無之候つるか、少も手あてなし尓被打過たる事候」の「打過たる」は、
軍勢つまり東軍が通過したという意味ではなく時間の経過を表し、意訳すると「もう戦いが終わっていた」となる
当時の「打過」の用例も調べてみたが通過するという意味で使われているものはなく、全て時間の経過を表したものだった
・(慶長5年)9月16日付松井康之・有吉立行宛中川秀成書状
「数多大坂ニ于今在之ニ付、一日一日と打過、無念至極生々無之為躰、筆ニも帋ニも難盡事共候」
・(慶長5年)10月16日付寺沢広高宛島津義久・忠恒連署状
「依遠邦其以来無音打過候、本慮之外候」
・(慶長8、9年頃カ)8月9日付片桐且元宛付加藤清正書状
「此地へ御上御逗留之由候へ共、何角打過不懸御目、所存之外候」
まあ古文書の訳って研究者間でも食い違うこともままあるしこれが絶対とは言えないが参考まで >>847
たかが1800の守備隊が数万の軍勢相手に何が出来ると侮っていた節はある。小説的に言えば三河武士を舐めてたんだろう。
予定では伏見城をサクッと落として上方を完全に固めるつもりが落とし損ねたが故に全部の計画が狂った面は有る。 >>847
いや失敗の本質は政治的な支持を
得られなかったことだよ
西軍の多くは上方以西にいたから巻き込まれたもの
自由に去就を決めれたのに西軍に積極的に
賛同したのはごく僅かだ
何より会津征伐に参集した諸将から目立った離脱者が
真田(の半分)くらいしかいないのが痛かった
挙兵自体が自分達の影響力を過信した
政治的、戦略的な失敗
それを戦術で覆そうというのはまあかなり苦しい >>848
秀次の一族を滅殺したり、家康を関東に移したのがそもそも失敗
五大老のうち4つが束になっても家康には勝てないくらい力をもっちゃった
利家も亡くなって恐れるものもなくなったしな >>851
卓見をいつもどうも
気になった点を少々
古語の「打過ぐ」は通過するという意味もあるからどうなんだろうと思ってttps://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/3520205100/3520205100200050/ht000180を見ると「被打通たる事」になっている
関ヶ原スレ民の誤読の様子
確認に大日本史料を読むとttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-1/46/0070?m=all&s=0067&n=20
たしかに「通」だ
また、同文書では「一 長(長曾我部盛親)土佐殿御弓鉄炮衆ハ、一昨日内府山中へ被打越候ヲ被見候てから、人夫悉如伊勢路被退候而、山中之合戦勝手ニ成由被間候てから、無届ニ皆伊勢路ノ如ク被罷退候」ともある
こちらでは「内府山中へ被打越候」
もう一つ、吉川が同日に「重ゝ致言上候」として出した書状には、「一昨日十五日ニ、内府様直ニ山中へ被押寄被及合戦、即時被討果候」と記されていて、「被打通」「被打越」「被押寄」はすべて同一の出来事を指していると考えられる
なので、素直に「通過した」と訳すのが妥当ではないでしょうか 仮に伏見城から挽回するとしたら、越前は調略してるからそいつらに前田は何とか任せて
自分たちは急いで美濃と伊勢、尾張方面を抑えることが大事なのに、またここでもトロトロ
していて尾張まではいけなくなるし
せめて清州を抑えられていたなら、そこにいる兵糧を手に入れていたなら……まだ何とかなったかもしれんのに
大谷や島は小説とかでは名将と言われてるが、このあたりはどう考えてたんだろうか >>850
こちらの部分についてはちゃんと読み直すと「可及合戦候」の「可」は勧誘ではなく推量ですね
「此方申分ニハ、此御和談之事ハ先両人ハかり存候、長大・安国寺・長(長曾我部盛親)土御弓鉄炮衆なとハ被存ましく候間、可及合戦候、左候へハ此首尾相違之やうニ候条、一円ニ御手当なしニ被作せ候者、当陣ノ者不罷出相控候て可罷居候よし、申候て返し候へハ、其返事ハ無之候ツルか、少も手当なしニ被打通たる事ニ候」
ざっくりいえば、あいつら和談を知らないから「御手当」あったら交戦しちゃいますよ、だから一円(南宮山)に手当てしないでもらえればこっちも控えてますよ、ってことですね
だとすると、「其返事ハ無之候ツルか」の「か」は疑問ではなく「が」で、返事はなかったけどその通りになったという意味か
吉川はむしろ自分の功績を誇っていたわけですね
いろいろお恥ずかしい >>855
その部分はそこまで細かく聞かなかったな
私が東軍が通過する?時間が経過する?と質問して、「戦いが終わっていた」との回答だった
確かに大日本史料は「通」になってるね
「打通」なら間違いなく通過するという意味になるな
大日本古文書家わけ吉川家文書之二の913号の翻刻だと「過」になってるんだけどね
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0902/0066?m=all&s=0064&n=20 >>858
本当だ
「哉」ってのはこれか
こっちだとより、吉川が自分の手柄をアピールしてるように読めるね
むしろ、南宮山への徳川主力布陣を違約になるからやめてと この吉川文書案を素直に読んでみたとする
そこから分かること
誤読があったら指摘してほしい
西軍は小早川の裏切りを早くに疑い、不利とみて佐和山まで引きそうな状況だった
これは勝ち目がないと吉川が裏切りを決意
東軍は吉川の合戦前日の裏切りまでは南宮山の勢力を警戒し、家康馬廻りや井伊、本多ら貴重な身内やその他を手当てして攻撃する計画だった
ただ、それだけ南宮山に勢力を割いても福島、黒田、加藤、藤堂のいわゆる外様衆だけでも小早川の手引きもあって山中では勝てると踏んでいた
家康は裏切りの申し出を信用し、池田らは一応残しつつ、計画を変更して合戦当日には山中方面に進出
合戦はすぐに終わった
南宮山の勢力は家康本隊が関ヶ原に進むだけで狼狽し、敗軍の報が入ると次々逃げた 西軍首脳陣は誰も彼も見通しが甘かったが
それにしてもいきなり江戸まで攻め下って制圧
とまで誇大妄想的だったとは思わんのよね
勢多の普請にしてもそこに天下の兵を迎えて決戦
という構想と取るのは早計でしょう
挙兵当初は遥か遠く関東の家康よりも
前田の上洛の方が早い訳だし
他にどこが敵になるかも分明ではない
政権から家康を排除は後退だというのは
単に豊臣政権にとってそうなだけで
それ言ったら武力で政権奪取の時点でそう
でも徳川から政権奪いたかった連中からしたら
それこそが前進なんよ
>>856
清洲を攻略しても東海道は東軍の城が連なってるし
単に東軍先鋒を完全に敵に回して
家康の出馬を早める程度の意味しかないだろね
伏見に家康の家臣が居座ったままじゃ
政権奪取と言っても説得力ないし
最悪東軍先鋒+家康本隊と尾張で睨み合う中
大津城が寝返って田辺城-伏見城と連動
って展開もあり得ちゃって
さほど有利じゃないのではないかと 関ヶ原の輝元の失敗のツケを一番多く払う羽目になったのは毛利ではなく豊臣宗家だけど、そもそも遺言体制が家康と利家の二人が健在であることに全てがかかってる属人性の高すぎるものだからもう戦乱勃発した時点で東西どちらが勝っても豊臣の天下が崩壊することだけは確定なんだよな
>>856
大谷や島は関ヶ原を先祖の武功として誇るに足る激戦にするためにかなり盛られていると思う 広家は家康が来たと聞いて絶望したと思う。広家のところに家康から書状が来たという話は無いからこれは家康は毛利を問題外と判定してたことになる。要は「毛利が敵でも西軍に勝てる」という話で毛利軍が何しようが西軍の敗北は確定したに等しい(少なくとも広家・秀元には思い付かなかった)
広家は毛利の領土保全を図っていたけど事ここに至れば攻撃して全滅(若しくは奇跡的勝利)するか降伏して僅かな領土を許されるかの択一。そりゃ降伏ですよねー… >>854
秀次の件は突発的で明らかに大失敗だけど家康の関東転封は悪くない選択肢
あの段階で徳川を関東に追いやれたのは明らかに成功だと思うけどね むしろ徳川を最悪ここさえ味方についてれば他の全員から背かれても問題ないくらいまでにして豊臣存続のための第一の藩屏にするつもりだったのでは
なお秀忠 >>860
吉川の発言の真偽の程は別にして、通しで読んだけど自分もそのように読んだよ
それで最後に本来なら直接輝元や輝元の側近と相談したかったが、時間もなく通行も不自由だったので
先ずは御家第一で家が続くよう吉川と福原で和睦を調えたと手柄を念押しして締めてる >>865
秀忠は豊臣を討っても秀の字をあらためなかったな 秀忠、綱吉、慶喜
家の字でない将軍もいくらかはいる 石田三成の子孫はいるけど真田幸村や大谷刑部の子孫はいるのかね?
真田は信之の系統は残ってるけど >>862
奉行がそれをわかってなかった無能なのか
それでも自分達で権力握りたい野心家なのか
どっちか気になる
いずれにしろ従来のイメージとはかなり異なるのは確か >>867
秀吉の秀だし秀吉に対して表立って批判めいた事を言ったりしたりする理由も無い
あくまでも秀頼体制以降の公の話で豊臣家と対立しただけだしな >>865
実際そうだよね
渡海絡みの紆余曲折でも徳川前田が身を挺して
止めたって形で治めてるわけで
それが狂ってくるのが秀吉の最晩年
奉行毛利が両大老の動きに制限つけて権力分散させて
西軍挙兵で排除独占を決行して頓挫した >>861
確かに瀬田で決戦ではなく、佐和山もしくは敦賀への後詰の為の布陣であったかもしれない。
だが西軍主力伏見攻城に向かう中、
野戦用決戦兵力もしくは後詰戦力として最東部にいたことは、
毛利にやる気があった表れと見ている。 秀元はやる気満々だったんじゃないの
だからこそ吉川はずっと毛利一門で変な立ち位置になったんじゃなかったっけ 毛利の運命を決する議決に秀元が居ないとは考え難いしそも秀元がやる気だったら広家を押し退けてでも出撃したろう。尤もその場合、秀元と恵瓊や豊臣軍で南宮山を押さえている徳川本隊約四万と戦争せねばならずやる気があっても勝ち目が無いと思った可能性はあるが…
広家と秀元は険悪だったとかでそれで戦後、責任を押し付けあった結果じゃなかろうか。 秀元と恵瓊に黙って徳川と交渉してたんだろ?秀元は輝元に大坂城への籠城も主張してたみたいだし
結局まんまと徳川に騙されて自分が分知されてた所領も全部没収されちゃったんだからそりゃ秀元は広家を憎むわな 家中一族内であっちは戦う気、こっちは和睦降伏する気とバラバラなんてお話にならない
意思統一され指揮命令系統が機能していた東軍とは雲泥の差だな
そりゃ西軍勝てないわ
西軍内だけでなく毛利家中でも同床異夢だったんだから 国とかある程度でかい組織はそういうもんでしょ
あっちと結美ついてる奴がいれば
こっちと結ぼうとしてる奴もいて
トップの判断でどっちかのラインの話が進む
んで失敗したらそのラインの奴らの責任で
別のラインに切り替えて収拾図る
関ヶ原の毛利は単にそういう状態じゃないかな
しかもそれなりにうまく機能した例
うまく機能してなかったのは徳川や奉行と
連絡してたラインじゃなくて
豊臣恩顧と言われる東軍先鋒の切り崩し ただ秀元に広家を憎む道理は無いかと。最終的に徳川との総和談を決めたのは主人の輝元であって広家じゃない。そんなに戦争したけりゃ勝手に突撃すれば良かった訳で広家を憎むのはお門違いだろうさ。もし決戦して予想通り負けてたら輝元は切腹、毛利は改易だったかも知れない訳で。 勝手に突撃できねーように広家が先陣に陣取ってたんだよなあ そもそも毛利グループを語るには小早川の位置付けをハッキリさせとかないと色んな前提条件が変わるんよな 別に広家は陣敷いて止めたとかはしてないんだよなぁ。 前面に布陣して背後を突こうとする秀元を止めたんだろ?じゃなきゃあんなに長い間確執が続いたりしないだろ 真面目な話、吉川広家と毛利秀元の間に確執があったなどという史料は無い。 山に布陣してる軍団を止めようとしたら広家は麓に布陣しないと止められない。広家は麓より上に布陣してるから攻撃したいという奴を止められない。広家は別に家康に「兵を押さえる」とかは約束してないから秀元も攻撃したかったら出来た…尤も広家の軍団が居ない状況で圧倒的兵力を有する徳川を攻撃したらどうなるかなんて秀元だって分かってたろうし内心攻撃したくても広家が降りた時点で勝ち目ゼロと諦めてたって可能性はまぁある。 >>885
関ヶ原の時の話じゃないが(元和3年)9月3日付吉川広正宛吉川広家書状とか見たら広家と秀元が仲悪いの分かるよ
長いんで一文だけ抜き出すけど他でも秀元に対して色々文句言ってる
「御家れきれきをも役不立、公儀を我一人仕、別ニかたをならへ候者無之様尓仕なし、
公儀内儀共仕度様可計との分別と相聞候事」
家中のお歴々を無能者扱いして、公儀のことは秀元一人で差配をし、
秀元に肩を並べるような者はいないかのように振る舞い、
公儀・内儀共に秀元のしたいように計らう分別だとこちらにも聞こえている 秀元と広家の確執が関ヶ原に由来してるかは我々にはわからない。でも正直怪しいとは思う。仮に南宮山の毛利軍が徳川を裏切るとしてどうなるかと言うと南宮山東麓の徳川軍約四万と交戦、徳川軍を数キロ以上後退させ東山道を5キロ行軍して東軍背後を強襲する事になる。若しくは出来るかはわからんが南宮山を南に降りて裏道を通って松尾山を攻撃するか。結果論だがこれは2時間以上掛けたらアウト。
秀元から見てもまず前者はいきなり家康を討ち取る様な奇跡が起きないと結局徳川軍に背後を突かれるから危険、後者は道が険しくて間に合うか不明なのは明らかだったはず。しかも失敗したら毛利は改易、配下の全員が牢人になる訳で… 秀元と広家の仲がわるいとか関係なく
関ヶ原の時点で停戦は毛利全体の方針でしょ
秀元は戦うつもりで広家の和睦が独断
ってのは小説ならおもしろいけど非現実的 家康が輝元はアレ過ぎるから広家に周防長門を与えて毛利軍団を仕切らせるつもりだったとか色々言われてるよね 少なくとも恵瓊は外されていたのは確か。ただ秀元まで外されていたかは不明。秀元がヤル気だったら広家には止められないんだから共有くらいはしておかないと危なかったわけだし。勿論秀元がそんな馬鹿な戦をする筈が無いと広家が信じてた可能性はあるけどそれよりは一言通してた可能性の方が高かろう。 秀元は秀包や立花宗茂と一緒に大坂城で籠城することを輝元に進言したってのは? 関ヶ原の戦況を秀元がどう考えていたか。
まず十四日、徳川家康が赤坂に着陣。東軍先手衆は垂井に移動する。これは大柿からも見えたので夕刻までに軍議が開かれて大柿・南宮山で決戦と戦略決定する。ところがその後、小早川秀秋が松尾山を占拠したとの報が大柿に届く(松尾山から大柿まで10キロ以上ある事と東山道を東軍に押さえられていて報告が遅くなった)
でどうも西軍はミスを犯した。本来直ちに軍議を行うべきところをそれをしなかった。石田三成ら西軍主力部隊は連絡無しに出発してしまう。 南宮山に連絡が無いから秀元がこれをどう解釈したかだけど二つしかない。一つは大柿衆が敵前逃亡したというもの。家康に恐れをなして毛利(と豊臣)軍を見捨てて佐和山に逃走したというもの。この場合秀元は絶対に動かない。二つ目は松尾山が秀秋に取られた事を知っていて大柿衆はこれを討ちに行ったというもの。ただこの場合、毛利軍も即座に山を降りて東山道に展開しないと東軍を止められない。東軍先手衆が東山道を西上し出した時に騒いでも遅いのは分かってた筈だが… 秀元が輝元に徹底抗戦を叫んだって書状はどこにあるんだろうか?原文分かる方居たら教示頂けると幸いです。もし広家が秀元を無視してまたその行動を阻んだなら書状は広家への憤激で溢れてるはず。逆に秀元も納得していたなら大坂城への籠城は「関ヶ原は負けが見えてたので戦力を温存した」程度の認識だったことになる。 関ヶ原本戦の時点で広家が引き出してた条件は
「本領安堵」な訳だから秀元も恵瓊も
あえて異をとなえる立場にはないだろうよ
のちに詰め腹切らされる恵瓊にしても
この時点で和睦の条件にされてたわけではない
その交渉自体を知らないというのはなかろう
それじゃ広家の交渉は毛利家に無断で
なんの実効性もないことになる 要するに本領安堵で皆納得させたけど実際は吉川に周防長門で他は取り潰しって裁定だったから秀元は広家に騙されたとブチ切れたってこと? 安堵は表向きで実際は減封は受け入れてたらしいけどな、毛利 ていうかマジで「本領安堵」してくれるとか思ってたら底無しのバカだろ。少し調べりゃ毛利軍が主体となってることはバレる訳で無事で済む筈が無い。 輝元って小早川隆景からも吉川元春からも豊臣秀吉からも徳川家康からもアホだと思われてるよね まあその輝元を甘く見たせいで豊臣政権は終わったわけだけどな
家康も輝元を甘く見たことで一時的にはやべー状態になったのは確かだし
輝元自身もやらかしたツケをしっかり払う事になるが(なお、本人は生き残る模様) 戦国期こいつほんとしょうもねーな大名四天王だわ
毛利輝元
上杉景勝
北条氏政
織田信雄
揃いも揃って半端に威勢が良かったせいで父の遺産を潰した無能。土下座するなら徹底して土下座しろっての 威勢ばかりよいけど統一政権も主家も
潰した奉行が入らないのは
そこまで大物じゃないからかな? 家康からすりゃ先に誓紙破っておいて自分の方は守ってくれとか馬鹿にしてんのか◯ね、みたいな話だったろうしまぁよく潰されずに済んだね そりゃ甘すぎる見通しでリスクも考えず、奉行の挙兵にホイホイ付き合った恵瓊(輝元)
の尻ぬぐいのつもりだろ、本人視点では
「全く、俺が東軍に渡りをつけておいたからよかったものの、もし伝手がなかったら
どうするつもりだったんだ、御家が残っただけ感謝せえよ」とか普通に思ってそう
(そうとでも思わなきゃ、やってられなかった可能性もあるが) 吉川が残した広家のおかげで毛利は救われた的な史料は自己肯定感が強すぎてアテにならん それは一面事実だろう
その成り行きが気に食わないにしても
>>906
というか実際上洛して調べてみたら
思った以上に主犯格だったってだけよね 関ヶ原まで出張って来てる時点でもうアウトなんだよな
一面みるならむしろ広家は戦犯とも言える 広家に毛利の所領すべてを与えるって約束したけどそれじゃバランス悪いから2カ国ぐらい与えるわ、みたいな書状があるんじゃなかったっけ?偽書かもしれないけど >>912
吉川家譜所収の10月2日付吉川広家宛黒田長政書状だな
吉川家文書にも原本は伝来してないし光成氏は偽書の可能性を指摘してる >>911
その見方も否定しないけど
広家がやる気満々で毛利一族総出で
決戦してても勝てたかは微妙やで すまん言葉を濁す悪い癖だ
毛利一族総出で血栓に及んでも
勝てない可能性の方がずっと高いし
局地的勝利を得てもその後茨の道で
もっと酷い状況いくらでもあり得るで 広家は八月から徳川と交渉してたけど内通にまでは至ってない。多分輝元の所業を鑑みて余程の戦況にならないと本領安堵は取れないと分かってたんじゃないか。それで南宮山まで来て徳川が「本領安堵するから味方してくれ」と言ってくるのを待っていた。ところが蓋を開けてみたら徳川は既に小早川を落としていて東軍と小早川で西軍を詰ませにきた。毛利は敵対していても構わんって訳でここから土下座外交で何とか家を残すところまで持っていった広家の外交手腕は中々じゃなかろうか。 三成が隠居して石田家の家督はだれだったの?
隠居が西軍を率いられた権力の源泉はなに? 三成が佐和山蟄居になってからは兄の正澄が石田家を差配していたらしい(家康が大坂の石田屋敷を借りる時の交渉口は正澄だったはず) 三成が兵を使えたのは西軍、名目上は秀頼実質的には輝元らから任されたからに過ぎん。しかも指揮権の範囲は美濃にいる一万から二万程度に限られてる。こいつには西軍のほんの一部しか動かす権利は無かったさ。 三成が西軍を率いてたと言うのは文学的表現だろ?
秀頼も輝元も三成に指揮権を委ねたというわけではない 西軍はお題目は秀頼様のためと言ってるので名目上は秀頼が指揮官、ただ実際は秀頼の意思ではなく輝元を頂点とした合議制だったらしい…ここら辺の不明確さが西軍の敗北を招いたのかもしれない。 >>920
すごい納得した
どこの小説でも「石田三成率いる西軍と激突」って書くけど
率いてないんだよな、実際 輝元や秀家の代わりに処刑されたようなもんだ。日本は昔から上級無罪 そりゃ三成はすでにイエローカード貰って後がない立場だからな
この状態で反乱に参加したら温情なんて期待できるわけがない >>922
奉行は関ヶ原前の動きを見る限り、奉行中心による合議での政権運営を企図してるから
輝元に全権を与えるとマズい、輝元を第二の家康にしたら関ヶ原を起こした意味がないからな
この点、東軍はとりあえず家康主導でいいという立場に一応なってるからこの辺は楽だ
>>924
輝元とは広家を通じて手打ちが成立してるからな、問答無用で処刑はさすがにまずい
また、東軍はあくまで豊臣正規軍として反乱を起こした西軍を討伐するという体裁だから、
豊臣一門格の秀家処刑をするのはちょっと微妙だろう、改易程度ならともかく
かといって誰だコイツみたいな小物処刑でなあなあも無理だろう、これだけの大戦乱に
はっきりと決着がついてしまったのだから、こう考えると秀吉子飼いの大物である
石田や小西(長束も一応含む)、そして毛利の外交僧を務めている関係上、
対外的な毛利の顔といえる恵瓊処刑は、実にバランスが取れているように思える 輝元が処刑されないのがアンフェア
という感覚はまあわかる
なんたって総大将なんだから
でも石田の処刑はいたってフェアだろw 結局日本は中世以来常に家格次第なんよね
石田とか小西はその出自で生け贄にされたようなもんだ どっかで精華成の大名だから死罪にできなかったとのレス見た気がするがそういうことも関係あるんかな 西軍の軍事指揮権は、実質的には曖昧だった、
という表現が近いと思う。
形式的にはおそらく主謀グループの合議で決める、
辺りだったんだろうけど、
宇喜多が長島攻城やめて美濃に向かったのも、
大谷が北陸から山中村に向かったのも
石田からの要請じゃないの?
あと、関ヶ原前夜で光成氏が指摘してたけど、
増田と吉川で安濃津の二ノ丸だかの占拠で揉めたりしないでしょ、
輝元と長束、増田、玄以が指揮権あるというなら。
さらに瀬田の守備隊九州勢に大垣入城依頼も石田じゃなかったっけ?
マイナー峠から大垣南方へ抜けるルート使って。 総大将が大坂城にいたまま動かないのではどうしようもない
現場監督が必要、それが三成だったんでしょ 三成には石田軍と豊臣公儀より与えられた大柿軍の指揮権はあったはず。少なくともこの二つを三成は動かしてる。
でも西軍全体の指揮権は三成には無いし関ヶ原前の状況でもそれは変わってない。厄介なところで西軍の指揮系統は輝元>毛利家臣>三奉行>三成なんだけどこれは明文化されてないからいざという時は相談になる。つまり相談の結果で指揮系統が変わる訳で徳川家康に一本化されてる東軍に比べると余りに脆かった。 >>931
現場監督が三成とかあまりにもしょぼい
三成が家康に戦で勝てると思ってるなら尚更 三成に発言権はあっても決定権は無かったと思うよ
毛利としては自分達に無い三成の良い所だけ利用するだけだしな >>928
生贄って言うけど普通に主戦派で
他の西軍諸将が恭順の道探り始めても
ノリノリで本戦戦った面子やん >>935
毛利は彼らに何も言わずに土壇場で勝手に土下座した。生け贄という表現が適当だと思うけど 後々徳川が豊臣滅ぼしたことが本来何も知らないまま毛利輝元にいいように使い捨てにされて滅んでいった連中の集まりだった西軍諸将を幼君を守るため忠義の心で立ち上がったヒーローたちというストーリーにすることができるようになった 大西泰正『宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性』
「念のため補足しておくが、この史料は、秀吉の死去前後に「大老」らが提出した起請文の一通で、政権=秀頼への忠誠を誓うのが目的である。私的徒党を組むためではないので、大名相互の起請文交換を禁じた「御掟」には抵触しない。
家康や利家・秀家らも五「奉行」を宛所にして同趣旨の誓いを立てている点、同年七月十五日付で家康・利家に宛てた起請文(前書)と一緒に書き留められている点からも明瞭だが、この史料によって毛利輝元が四「奉行」と私的な盟約を結んだわけではない。
彼らは便宜上、政権組織の一部としての奉行たちを、おそらく相互監視の意図もあって宛所に設定したのである。」 >>936
別に毛利のためにやった訳でも
毛利に操られてた訳でもない
彼ら自身の決断の結果だし
それに見合った最後だろ? 安国寺恵瓊ならまだわかるが
そう言ってもらえないのは
ハゲだからだろうな >>935
西軍の総大将である毛利が関ヶ原という土壇場で降参するとは流石に予想できんでしょ。まだ三奉行も諦めてないのに。 家康ヲタのいかれた視点だとそうなんだろうけどな
上にも有る通り毛利は遺訓破りはしてないし
上杉が上洛せず国替後2年は治政に専念するのは秀吉の命
年貢を持ち去るのは全国的に起こってた事
むしろ遺訓破りで利家&恩顧大名と対立したり異常な毛利家介入で荒らしてたのは家康 >>942
輝元が1598年8月28日に勝手に諸大名に誓紙出してるのはいいのか?
秀吉は勝手に徒党を組むなと遺訓していたはず
あの時点で家康はまだ大した行動してなかったはずだが
しかも奉行の内、なぜか浅野長政には輝元は送ってないし >>942
上洛せず国替後2年は治政に専念せよ、ってソースは何?
それなら家康なんか移封2年どころか連年のように豊臣政権に協力していたのに
秀吉って物凄い差別してたんだな
しかも治政に専念せよ、はわかるんだが、牢人雇えとか遺訓あったのか? >>942
そもそも2年なら既に期限切れだろ
景勝が国替えされたのは1598年1月
家康の上洛命令は1600年4月
既に2年以上過ぎてるぞ >>943
>輝元が1598年8月28日に勝手に諸大名に誓紙出してるのはいいのか?
その書状はスレ内でバッサリ否定されてるよ…
>938
いいのか?じゃなくてスレ読もうな 宇喜多も毛利秀元も長束も島津も脇坂朽木らも小早川同様に
「なんでおめーが仕切ってんだよ」
的な目で三成みてたわけだ >>941
そこが甘いんだよ
お家潰す大博打なんてする訳ないじゃん
決定的に情勢が見えてない 関ヶ原で日和って動かないのは流石に酷いと思いますよ
やる気が無いなら関ヶ原から事前に撤退しとけよと思う >>948
領土大幅削減されてるし、吉川が懇願しなきゃ潰されてたじゃん
煽った張本人が勝手に離脱することまで想定していたら何も出来ないよね?輝元みたいなのを信じたのがバカだったって言われたら何も言い返せないが >>938で唐突に輝元と奉行の擁護してるけどこれ何が言いたいんだろう
毛利は純粋に秀頼と豊臣家への忠誠心があったと言いたいんだろうか
その後の行動見れば到底そんなお人好しではなく我が身我が家第一の当たり前の武家に過ぎないんだが >>951
毛利は毛利の利害で動き
石田は石田の利害で動いた
失敗したら破滅のリスクは同じで
石田は失敗したと言うだけだよ
リスクが大きいのでやらないと言う選択肢も
保険をかけて逃げ場を作る選択肢も
双方にあったが石田は選ばなかった 安国寺恵瓊は確かに輝元の意向で
毛利のために動いてやばくなったら
生贄にされたって面が大きいかもな
でも石田は単に自分の考えで内府と敵対して
その結果負けて殺されただけだろう 九月十四日、家康は赤坂に来た。この時点で西軍は窮地に陥ってる。ただそれでも彼等は大垣・南宮山で決戦する作戦を立てた。ところが同日小早川秀秋が松尾山を占拠した。十二日三成書状によれば西軍は近江から食糧を運ぶ手筈になっていたらしいけど、垂井を東軍に占領されてるから残ってる道は佐和山からの道だけでつまり松尾山を取られたら西軍は干上がる。それで三成ら大垣衆は緊急襲撃した。これは良い。 問題なのはどうも大垣衆は南宮山にその旨を連絡する事すらしてなかったらしく(吉川広家が嘘書いてる可能性もあるけど)、南宮山は疑心暗鬼に陥っていた。事情を知ってる広家からすりゃ家康の作戦だと分かった筈でもう降伏か死かみたいな話に。ここから御家残せたんだから大したもんよ。まぁ輝元はそれで良いのかっていう問題もあるけど。 輝元が挙兵しなければ良かったのよ
時勢も情勢を読めずに進んで泥沼に嵌まって行き祖父元就たちが広げた領土を減らしたのは主導した輝元の責任
朝倉義景に似ているというのは当たっている
幸いにも上手く立ち回れる家臣に恵まれ、相手が戦国大名あがりとしては甘い徳川家康だから家が潰れずにすんだ 輝元からすると秀吉に奪われた利権を奪い返すラストチャンス。豊臣公儀を味方につければどんな無茶でも通るし上手く行けば天下人になれるかもしれない。それがまさか瞬殺されるとは思わなかったのは輝元の戦略眼の欠如というべきか相手が悪過ぎたのか。 従来、豊臣を簒奪したい徳川vs豊臣を守りたい石田って構図で語られてきた関ヶ原だけど実は大老レベルでみると秀吉に奪われたものを取り返したい毛利・上杉と現状で満足してる徳川・前田という構図も隠れてる。 >>957
なるほどやはり招き入れた奉行らは戦犯だな >>960
どっちが主導かは不明だけど奉行衆にとって輝元はもしかしたらカモネギだったかもな 明らかに豊臣政権を覆すメリットがある輝元と比べて三奉行が敢えて徳川に挑むメリットが少な過ぎる。実際には奉行を操っていたのは輝元だったんじゃないか。輝元が無能故に目立ってないだけで。 東軍が勝てば史実通り輝元に協力していたことがばれ、西軍が勝てば東軍に内通していたことがばれるので豊臣家や増田ら奉行はどっちが勝っても詰む
しかも輝元は家康より豊臣家を敬う気がない 大谷やらが兵を起こすと不穏な噂が流れてたからビビって輝元の大坂入城を要請したら輝元こそ陰謀の大元だったみたいな可能性はある 増田長盛は蜂須賀家政失脚後毛利取次してたって話だし豊臣公儀ではなく戦国大名豊臣家として見れば取次役に鼻薬効かせてやがったといえばままある。 実は宇喜多秀家こそ真の首謀者だとすると案外全てがしっくりくる >>965
まあ家康が帰国する時は輝元が大阪(もしくは京)に入ると言うのは秀吉の遺言 遺言はあるかもしれんけどソースは無いと思う。秀吉の遺言状って3つしか無いけどそれ以外に「私の聞いた太閤さまの遺言」ってのが各家にあるやん?三年間上洛しなくても良いだの大坂に居ろだの。多分その内の一つで最早真実はわからん系の遺言なんじゃなかろうか。 宇喜多は上級特権で生き残れたけど復権出来なかったのは秀吉の縁者だったせいなのか、実は首謀者に近い立場だったからなのか >>897
そんな書状はない
というか仮にあったとして原文提示してもあなたじゃ読めないでしょ そもそも三成は佐和山に引きこもった翌年に挙兵してるけど
あの時点で奉行職には再度復帰したの? >>973
書類上のことはどうか知らんが
以下所収の三成書状だと、三成は「(越後は旧領だから中納言に返すというのが)秀頼公御内意に候」と伝えている
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0040?m=all&s=0040&n=20
秀頼の内意を承り、大老家へ伝える役目まであくまで自称してるようで
単なる取り次ぎというより事実上の奉行としての仕事ぶりに思われる
ただ、この続武者物語が信用できるのか(秀頼「公」という表記は気になる)、仮に信用できたとして三成がでまかせ言っているだけじゃないのか、などなどいろいろ疑問は残る
詳しくないので識者の指摘を待ちます 白峰説だと確か「そもそもクビになってない」だったかな。ただ史料面では八月越えるまで三成は連署してない。まぁ奉行職とかどうでもよかったんだろうけど。 >>976
白峰氏そんなこと言ってたか?
7月15日の時点で実質的に奉行に復帰していて、8月4日には正式に復帰していたと言ってるけど
それぞれ根拠となる史料は
・7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状
・8月4日付松井康之宛毛利輝元・宇喜多秀家連署状と同日付松井康之宛三奉行・三成連署添状 >>971
秀家が復権できなかったのは他の誰でもない、本人のせいだよ
縁者の前田家が「大名として復帰しないか?」ってとりなしてくれたのに、断固拒否するんだもの
徳川に頭下げたくないなんて個人の下らん面子で宇喜多の御家を再び浮き上がらせる
最大の好機を捨てちゃうんだから、輝元なんかより余程バカだと思う
本人が嫌でも息子を推挙して宇喜多を再興させるとか、やり方はいくらでもあったろうに
必死になって宇喜多家を大きくしてた父の直家とかあの世で呆れてたんじゃないか >>977
白峰氏の言ってる事はそれなりに矛盾してるからな。論文の中で氏は「三成は奉行を罷免されてない」としてる(根拠としては秀頼に罷免されたら復職は叶わないからとか)つまり閏三月に三成は隠居したのであって罷免されたんじゃない。復職しようと思えば何時でも出来た、と。そんな曖昧なもので良いのか豊臣奉行はって思うが法定化されてないからいいんじゃないの? >>980
確認したら七将襲撃事件の論文でそんなこと言ってるな
まあ罷免はされてないが失脚中だとは言ってるから奉行職復帰の話も一応整合性は取れてるか
微妙な感じではあるが >>978
まあお坊ちゃんだったんだろね
内輪揉め繰り返してる家臣団と
その統率がままならない大名職とに
嫌気がさしていたろうとも思うけど 明治で恩赦されて前田家と政府から金と土地をもらったのに島に帰ったんだな
秀家もそんな気持ちだったんだろうか 白峰説だと三成の立場が曖昧過ぎる。罷免されて無ければ復帰出来る?奉行ってそんな気分で辞めたり戻ったりして良いものなのか?
ただこれが家康の温情って可能性もあるんだよな。家康が三成を追い込まない為に謂わば休職扱いにしてた。だから家康もしくは豊臣公儀が認めたら直ぐにでも復職できる? というかクーデター起こしたんだから
本来復帰できる職かどうかとか関係ないでしょ
武力で主君を取り込んで無理通そうとしてんだから >>984
石田の隠居後、誰かを加えた五人連署状なんかがない以上、補充されなかったのは確か
その理由が石田への配慮なのか、それとも誰かを充てる人事権者といえる卓越した存在がいなかったからなのか(秀頼成人まで人事は凍結という視点)
それとは別に、続武者物語の書状には案の定、偽書説があるようで 人員の補充が必要なのは定数がある場合のみだぞ
残りの面子で仕事に支障がなければ補充は要らない
多数決で何か動かしていたような実績もないし
定員補充の要求があったという記録もないんだから
三成の為に空けておく席というものは存在しないのでは 大老になったかは知らんが傅役は受け継いで大坂城に入ったんじゃないの
すぐ家康に言われて金沢に帰っちゃったけど 上杉家によれば奉行の勧めらしい。ただこの時利長は家康の後見を受けてる事や利家の死で両国統治を固める必要がある訳で全く家康の意思が無かったとは言えないはず。
後の家康暗殺事件で浅野長政が隠居してるから長政が手続を怠ってしまってたんじゃないか?って気もする。 地元で家中が揉めて急遽帰国
家康には無断だったような 家康は八月から諸将の帰国を認めてるし利長の帰国も知らなかったとは思えない(問題としてたら帰国した瞬間に戦闘体制とってるはず)ただ佐和山に居た石田三成が利長の帰国を知って照会したら手続の事実が無かったっていうから利長は手続きを怠ったかさもなくば「家康が個人的に許してくれればええじゃろ」的な感じで帰国したんだろう。それだけ早く国に戻りたかったのか。 そもそも5大老、5奉行は必ずしも
当時固定的な職名ではない
奉行って今の言葉で言うと管理職とか
プロジェクトリーダーみたいな
割とふわっとした言葉だろ >>996
いや、「五奉行」ってのはあくまで後世の呼び名なんですけど…
当世的には大老が「奉行」、奉行が「おとな」だったっけ? >>997
だから当時の職名じゃないと書いたろ?
何が言いたいの?
奉行は当時主君の名を「奉じて行う」ものを指す一般名詞
おとなも家老、重臣を指す一般名詞
五奉行、五大老を指す統一的な用語は当時ない
立場や場合に応じてどう呼ぶかは変わる
所謂五奉行が大老を奉行と呼んでる例もあり
逆に所謂大老が所謂五奉行を奉行と呼んでる例もある
そもそも豊臣政権自体が歴代の武家政権ほど
職制をしっかり定めてない属人性が高いものだった
その中で双方が秀吉から後を頼まれた自分達が
政権の中枢であり相手は秀吉や自分達の命令を
「奉じて行う」立場だとして争ってた
と観ることもできる 南宮山に大軍を布陣するのは不可能
これはあまり語られない
関ヶ原の戦い
本当の布陣を知りたいところ このスレッドは1000を超えました。
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