>>111
まず文禄二年四月十四日加藤清正書状(原富太郎氏蔵文)、同月二十八日加藤清正書状(本妙寺文書)に清正が兵糧欠乏に陥っていた事が記されているね(「都辺兵根不相続」「兵糧相越候事専一候」「兵糧之儀、成次第可差越事肝要候」)同じく玉薬に関しても数回催促が行われているから補給がままならない現実が窺える。具体的には文禄二年で「兵糧を送れ」と言っている書状は簡単に数えて三月に一通、四月に二通、六月に一通、八月に一通ある。