石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ >>三成が挙兵しなかったら
博士「大いに関係あるぞい。 この事件で敦通・通世は京都から追放され、久我家は通世の弟通前が跡を継ぐ事になる訳じゃが…」
博士「久我家とは、太政大臣にはなれる清華家の一家で、村上源氏の宗家…すなわち『源氏長者』の家系なんじゃ」
ケン太「それで判った! 家康が源氏長者を名乗らなかったのは、いくら官位が一番でもそんなあやふやな出自の人を、『源氏長者』にしたくない人たちがいたからなんだね!?」
ゆう子「具体的に言うと、その代表が久我家だったのね」
博士「この事件の直後から、利家との和議以降、各方面に異心はないという書状を連発していた家康が、強気に他の五大老に対していちゃもんつけて討伐を連呼するようになる」
ゆう子「とりあえず、なんでも良いからきっかけを作って、一家ずつ屠りたかったのね」
ケン太「家康にとっては、降って湧いた征夷大将軍就任という手段が、現実的になってきたからだね」
博士「そうじゃな。 一般に家康は上杉討伐に向った後に、石田三成が挙兵するのを狙ったと言うが、別に三成に挙兵されなくても良かったんじゃと思う」
ゆう子「一家ずつ潰していけば、最後は強引になんでも出来るものね」
https://ameblo.jp/hosoyatakaragi/entry-10800367294.html お人形遊びに「博士」を登場させるのか。
書き手の境遇や心情が滲み出てるな。 会話形式のほうがわかりやすそうだからという事らしいが
博士が出現したのこれ一回だけ 石田三成の研究をしている人が、光成準治先生って分かりにくい 前田 なんくせ
上杉 こっちはほぼ黒。攻撃を受けて当然の口実を与えた
豊家 鐘問題でボロだして口実を与えた
三成が挙兵しなくても何かしら口実を見つけたりしてほかの家を従わせていってたろうな
北条の有力御家人粛清みたいに 前田は利家時代に喧嘩を売ってきた前科がある以上は難癖ではないだろ
それに利長の謀反を訴えてきたのは奉行連中であって、別に家康が自分で主張したわけではない 段取りとか形式なんかに全く頭が回らない知能の奴っているのかw
それで一人前の気で物言ってるんだから勇敢だな
まあそのぐらいのガッツがないとこの知能じゃ社会を生きていけないんだろうけど ハンセン病でもう後先が無いキチガイに巻き込まれた三成可哀想 主犯は宇喜多秀家
負けたから全部みっくんのせいにされた 1番めんどくさい小西を処理されたのを忘れられてて悲しいな 権力闘争は綺麗ごとじゃないですし。
実際、丹羽や蒲生が死後に大減封受けたから家康死後は予想しやすい
家康が悪辣な手を使ってもと考えるのも >>18
朝鮮行かせて削れば良かったのに
行かせたら現地じゃ親分視されるだろうし目の届かない所で派閥作られるのが嫌だったんかな >>19
大谷吉継健康説の根拠は二つあって一つは伏見城攻めの時に吉継が大酒を飲んで二日酔いになったという書状(確か島津書状)と大谷吉継が8月18日に北政所と共に豊国社に社参したという舜旧記の記載による。吉継が重い病を患っていて最期の奉公と命を燃やしていたなら酒の飲み過ぎなんかならない。豊国社は代理を出したって説もあるけどハンセン病の様な所謂業病を患ってる人間に供奉を命ずるほど北政所が大らかだったとは思えない。仮に単なる死病だったとしたら苛烈過ぎる。てことで大谷吉継は健康そのものだったと思われる。 死に直結するような病は患ってなかっただろうが健康体はないわ
外岡氏も吉継は文禄3年以降病気の重篤化を理由に一線を退いていたことを指摘してる
慶長5年から白頭を名乗り黒印を使用し始めたのも眼病が更に悪化したため花押を書くのが困難になったからだろう >>18
太閤遺言でも秀忠、利長は特に遺言されてるんで
一転大減封にさせない方針ではあったよ
次世代構想ができてなかったり
幼少で計算に入れられてなかったりして
無意無冠だった二人とは状況はちとちがう
まあでも政争仕掛けられて負けたりとかは
あり得ちゃう体制なのだけども 病状が重かったら大酒飲んで2日酔いなんてまず有り得んから健康体だったんだろ。それとも大谷吉継もアル中だったのか?一世一代の大戦を前に悪い体調を押してでも酒飲まずにはいられない身体だったのか… 大谷吉継の眼病って慶長には治ってたんじゃなかったかな?
舞を見たとか記録に残ってたはず。それに目の視えない男が最前線に立っていたとも思えないし。 そもそも茶会で膿が云々とかは戦後に出来た話で一次史料はおろか江戸時代の本にすら書かれてないって話だしハンセン病の可能性は無い。健康に問題があったとしてもすぐに快復する程度だった事になる。 慶長4年10月2日付島津忠恒宛大谷吉継書状
「併近年病中故、何方へも無音之条、非疎意候」
本人が近年はずっと病気で誰にも連絡していないと説明してる
さっきは慶長5年から黒印を使用し始めたと言ったが誤りなので訂正する
白頭を名乗り始たのは慶長5年からで、眼病を患った文禄3年以降の吉継発給書状には黒印が使用されてる
その後死ぬまで黒印が使われてるから眼病が治ることはなかったと思われる
とは言え完全に失明してるわけじゃないし支障をきたすことはあってもそりゃ動けるでしょ 目が悪くなる病気で考えられるのはそうは多くない
ハンセン病、梅毒、糖尿病くらいかな。
この時代一型糖尿病になるとインシュリンがないから直ぐ深刻になるだろな。
梅毒も、数年程度で深刻になる例も記録にあるし。 大谷吉継は慶長四年から七将襲撃事件・宇喜多騒動と外交問題に働き詰めで到底死病とは思えないし関ヶ原でも積極的に書状を送ってる。真田昌幸に対しては三成より早くコンタクトしてる。少なくとも健康体で死に掛けだった訳では無いんだろう。てかそうでないと舞い観たり酒飲んだり豊国社詣たりしてるのはなんなのかって話に。 >>20
秀吉に入っていた情報だと朝鮮は超豊かな大地で唐まで楽勝って話だったから徳川に手柄を立てられる訳にはいかなかった。で奉行が入って真実に気付いて秀吉を止めようとしたけど止められなかった。
慶長では複数の理由で家康を頼れなかった。まず秀次を殺した事で秀頼を守れるのが太閤秀吉と内大臣家康しか居なかった。また家康を送ると現地諸将は家康と繋がりが強くなるから送りたくない。それにもし徳川が敗れると日本最大勢力が大打撃を被ることになり明・朝鮮軍が勢い付く。 文禄の役では伊達政宗・上杉景勝の東国大名が動員されてるので一概に東西を理由にはできない 上杉も伊達もまともに戦ってないし西国の大名と負担は雲泥の差 伊達政宗は晋州城(もくそ城)攻撃に参加している。晋州城主金某は降伏勧告を蹴って徹底抗戦したので大激戦となった。
上杉景勝は熊川城築城を行ってる。こうした普請の殆どは諸将の持ち出しだった。何もしてないとは言えない。特に伊達政宗に至っては現地で戦闘までしてるしな。 西国の大名と負担はどうかというと全然軽い
伊達も2回目はパス 母親宛の書状で政宗は「九州や四国の大名はまだ朝鮮に在陣するが、私はこの城の普請が終われば帰国できそうだ。
これも朝鮮から遠く離れた国を領する我等故で、この時ばかりは東北の大名で本当に良かった」と心情を吐露している
何もしてないとは言えないが、負担で言えば西国大名とは歴然の差がある >>34
元々は、出羽米沢が本拠地でした。
しかし、欧州征伐の後に旧領回復の陰謀がばれて陸奥陸前に転封。
上杉と険悪なのは旧本拠の米沢が上杉領なのもある >>38
戦争地近くの諸将が先陣切るのは兵站の問題があるからだぞ。戦争地から遠ければ輸送コストが高くなる。
まぁそもそも「家康が動員されてないのは東の大名だから」が伊達政宗・上杉景勝らの動員によって否定されてるのでその軍役の軽重は論ずるものでは無いんだけどね。 動員じゃなくて渡航だろ
渡航した東国の大名もいるが、渡航してない大名は東国がほとんど
そもそも負担の重さが問題なんだから渡航したとしても戦病死者続出の西国の大名に比べて東国の大名の負担が軽いのは自明 唐入りで削るという発想自体が的外れだから
負担がどうこう議論しても意味ないんじゃない >>24
島津家文書に大谷吉継が伏見城攻めの最中に酒を飲み過ぎて次の日も気分が悪かったと書いてる書状が残ってる。そこまで飲めると言う事は体調はかなり良かったんだろう。吉継は慶長四年から働き詰めだしな。 伊達政宗らが普通に朝鮮に行かされてるし城の普請等の軍役もこなしてるので「家康は東の大名だから朝鮮に行かなかった」説はとうに破綻してる。
なんで伊達政宗らが朝鮮に送られてるかというと明らかにもくそ城攻略のため。秀吉は晋州城落城で明・朝鮮との講和を有利にしようとしてたから予備兵力も投入した。つまり秀吉は意図を持って徳川を使わなかったわけだけど俗説にあるように関東への移動を理由に断られたからかもしれないし家康に手柄を取られたく無かったからかもしれない。 実の所、口実作ろうと思えば何でも出来るからな。
大坂の陣みたいに、いちゃもん付けしようと思えばさ。
何故徳川を放置したんかね。 妄想太郎は無視として
朝鮮出兵は西国の大名が中心
東国はもともと相対的にずっと負担が軽い
その基本的なルールを変えて徳川だけ難癖つけて先陣任せる?
関東転封したばかりだし、効率面でどうだろうね
勝つための出兵である以上、西国の大名が行くのが効率的 東の大名は渡航してない!→東の大名は負担が少ないから!
とか意味不明なすり替えしても無意味じゃね?東国の大名が渡航してる以上さ。負担が軽くていいなら躊躇う理由が一つ消えるしね。 >>49
ID:C1AxxNDr
ID:WLgvrsnI
ID:GR+gwpjE
ID:mQV8+gyt
これ全部あんたの書き込みだよね?
今日だけでこんだけID変えてるのは何か意図があるの? 家康が東の大名だから外征に呼ばれなかった!ってのは伊達政宗・上杉景勝が文禄の役に呼ばれてるから否定された。当時の大名にも「東だから朝鮮には行かなくて済む」という発想は無かったんじゃないか?南部信直が三月に「(朝鮮に)渡航したくない。朝鮮で病気になると死ぬ」って書状を出しとるらしいし。 >>50
そりゃこんなにガバガバな知識だと突っ込まれるさ。「東国の大名は朝鮮に渡航してない」なんて言ってる学者居るのか?一体何を読んだんだろうな。
小学生向けの伝記にすら伊達政宗が朝鮮に行きたくなくて金ピカの装備で名護屋に行ったなんて逸話描いてるのに。上杉景勝が渡航してないことはあんま知られてないけど。 >>20
文禄2年3月14日付小少将(義姫の侍女)宛伊達政宗書状
「二番ニとしいへ・かもうひた、三番ふねニいへやす、そのほかくハんとう・ゑちこしゆ、
ミなミなのこり不申いたり申候、としいへの一くミハ、今月廿日ころニ候へく候」
という具合に一応前田も蒲生も徳川も皆渡海予定ではあったんだよね
前田・蒲生組はこの一週間後には渡海する予定だったし間違いなく彼らの渡海計画はあったが結局中止になってる 兵糧は基本各自負担だと思ってたが豊臣家からの補助は半分程度はあったの? 蔵米の兵糧支給は有償でしょ
あと水軍が足りなくて徳川とか前田みたいな大軍は運ぶの困難
兵糧もそうだし 今川といい、徳川といい、せっかく大軍を擁してるのに
なんで本陣を手薄にすんのさ?
義元は討ち取られたし、家康も真田に馬印を引き倒されるほど追いつめられてたし 寡兵で大軍を破った戦いであればやはり桶狭間の戦いだな
駿河・遠江・三河を支配し、海道一の弓取りとまで言われた今川義元の軍2万5千を
尾張一国の領主に過ぎない織田信長が3千で撃破し、義元の首級をあげた
兵力差8倍以上
まさに戦国史上ひいては日本史上最大の番狂わせ 頼朝は義経がいなかったら平家を倒せなかった
家康は信長が搗いて、秀吉が捏ねた天下餅をくすねた
征夷大将軍らしいのはやっぱ尊氏
九州大返し、そして湊川の戦いで大勝利とかロマンやん >>48
「徳川は転封したから出兵せずに済んだ」も事実では無い。
というのもまたも伊達政宗でこいつ天正19年(1591年)に葛西に転封されてる。家康の関東転封が天正18年とかだからかなり近しい。にも関わらず政宗は文禄3年(1593年)に朝鮮に渡航させられてる。家康は本国待機。だから転封があろうがなかろうが秀吉は構わず軍役を課してる。 >>61
家康は大軍を率いて名護屋在陣で秀吉の補佐をしている
本国待機なわけがない 伊達は小田原参陣が遅れて豊臣政権下で手柄がない
立場上忠誠をアピールする必要があるから志願して浅野と渡航したんじゃ?
徳川とは立場が違う 小西が「太閤殿下の要求した7か条を全て飲ませました」など出鱈目報告を繰り返していたからな
降伏したも同然(と思っている)相手に徳川とか前田を渡海させる必要はないだろ
小西の出鱈目報告がばれた後に徳川に渡海をお願いするのも、騙された自分が間抜けに感じてしまうし
慶長は西国大名を中心に尻拭いして来いという態度になるのは当然だろう 三成「豊臣家を守ろう」
清正&正則「うるせー馬鹿」
三成「秀頼様の御出陣を!」
淀殿「ダメじゃ」
家康「豊臣の領地は削減ね」
淀殿「ファッ?!」
家康「加藤も福島も改易ね」
忠広&正則「ファッ?!」
三成「だから言ったろお前ら・・・」 北条家臣「真田昌幸の城を奪ったお!」
↓
秀吉「惣無事令って知ってる?上洛して直接謝罪に来てね」
↓
氏政「名門北条が百姓出のサル顔に頭下げれるかヴォケ」
↓
秀吉「やるのか?おっおっおっ」
素直に従って上洛していれば毛利や島津や上杉みたいに後北条も残れたかもしれないね そもそも基本的な知識だと思うのだが
当初の計画はあくまで唐入りで
朝鮮出兵はその前哨に過ぎなかった
んで利家家康どころか
秀吉自身も渡海する予定だった
ところが楽勝のはずの朝鮮で
初戦こそ圧勝で首都を落とすも
政権は降伏せず明の援軍も来て
統治がままならず
万一を懸念して秀吉家康利家の出馬が
引き伸ばされたという展開
(さらに早期講和を目論む小西石田の
欺瞞交錯による遅延も) つまり別に徳川が出馬する予定が無かったのではない
敵に近いほど兵役を多く負担されて
先陣を切ることを期待される傾向はあり
それは朝鮮出兵でも基本的にはその通りだが
その話が何故か徳川は出馬予定がなかったと
すり替えられてないかね?
実際は太閤ともども出馬予定が繰り延べられて
出馬に至らなかっただけよね つまり別に徳川が出馬する予定が無かったのではない
敵に近いほど兵役を多く負担されて
先陣を切ることを期待される傾向はあり
それは朝鮮出兵でも基本的にはその通りだが
その話が何故か徳川は出馬予定がなかったと
すり替えられてないかね?
実際は太閤ともども出馬予定が繰り延べられて
出馬に至らなかっただけよね >>65
三成「関白が謀反を企てている。豊臣家を守ろう」
清正&正則「うるせー馬鹿」
三成「秀頼様のために秀次を妻子もろとも粛清しましょう」
秀吉「秀次を妻子もろとも殺し、家康を筆頭大老にして豊臣を任せる」
三成「ファッ?!」
清正&正則「だから言ったろ」 秀吉も秀吉で家康を妙に信用し過ぎだよな
古い付き合いでも腹の底は見抜けなかったか 政権がお飾り秀頼、実質トップ家康で
安定してれば問題なかったんよ
あえて家康が危険を犯して秀頼滅ぼす必要なくなる
むしろ秀吉は奉行たちを信用し過ぎた
政権の安定を優先して己の権益失ってでも
新しいトップに従うとは人間ならないが
そこが何故かわかってなかった
あるいは冷静に勝ち目ないと判断できると
思ったのかもしれないが >>56
基本的には各部隊が負担する。ただし公儀が軍役として行う場合は支度金下賜や公儀が貯蓄した物資の使用が許可されることがある。文禄の役だと事前情報がデタラメだったのと朝鮮水軍の活動で補給が出来なくなった、ってのと諸将が秀吉怖さで現実の戦況を報告しなかった事が被害を拡大させた。 >>73
なんで妄想でシッタカするの?
『豊臣政権の朝鮮出兵における兵糠米調達政策とその実態』って論文読んだ?
ネットで簡単に読めるんだけど
各大名は兵糧自弁、足りなくなったら公儀からの借米
公儀から支給されるのは秀吉直臣団だけです
妄想くんの言っていることの根拠教えてくれる? >>67
凄い矛盾してると思わない?秀吉の狙いは唐入りなんだがそれが不可能という状況でしかも秀吉自身の渡航すら出来ない程の劣勢だった。だというに「明が降伏した」という明らかに非現実的な報告を何故信じるのか。普通なら「日本を押してる明が降伏なんかしない。何かある」と思うだろう?まぁこの解答として「秀吉は既に論理的思考が出来なくなっていた」ってのがあるしその可能性はかなり高いらしいけど。既に認知症に罹っていたとか。 >>75
妄想の前にシッタカのお詫びは?
なんで都合悪いとシカトするの? 秀吉は明朝鮮相手に勝ったと思ってたのは明らかだからな。でなければあんな無茶苦茶な講和条件を押し付けたりしない。あれだけ高飛車な講和が結べると思ってたんだから正しい戦況を知らなかったことになる。大体秀吉の渡航が延期になったのは天候が理由だし。 五月の漢城落城を知って秀吉は渡航しようとしたけど家康・利家に止められた。ここで二人は「秀吉が渡航する時には共をするから」と言ったという。結構興味深い。少なくとも二人は外征軍の現実を知ってた訳で故に朝鮮には渡りたくなかったろう。こうして秀吉を止めるように振舞いながら実は渡航の順番を最後にしたのだろうか。 人たらしと人を使う能力、家臣の献策を聞く能力に長けてたが
人の言うことを聞かなくなって自身の能力を過信した秀吉自身の軍略の無さは小田原征伐の忍城水攻めから出ていた
秀吉の水攻め指令に現場の三成らは大反対
秀吉の命令だからと渋々実行したら決壊して大損害&沼地化して逆に難攻不落の要塞化
朝鮮出兵も秀吉の当初の目的の唐入りなんか目指さず、秀吉が来ても迷惑だから止められてただけでは? >>79
適当なこと言うな
漢城陥落前の天正20年4月28日付福島正則宛豊臣秀吉朱印状等で既に秀吉渡海の意向は述べられてる
書中で秀吉は自身の渡海準備のため奉行を添えて空き船を名護屋まで運ぶよう命じてる 渡海して悪戦苦闘し彼の地で客死でもすればまだ言い出しっぺとしての責任とったとも思えるんだがな
本人以外ほぼ誰も望んでいなかった国を賭け物にした外征を
結果的に配下任せのやりっ放しで何の後指示も出さず死んで
残ったのは駆り出された諸侯の疲弊と政権の分裂と衰退
これで家康が座りしままに天下餅食ったなんてよく言えるわ
秀吉が捏ねるの放棄して腐らしそうになった天下餅を危うく家康が救いあげて食品として完成させた
残った豊臣家は天下餅食うには幼すぎもしくは衰え過ぎて無理やり食わせたら喉につかえて死亡確定だった >>80
朝鮮出兵は最初から失敗して当然の戦だった。指揮官が名護屋にいてそこから指揮を行うからタイムラグがある。一週間前の情報から一週間先の未来を予測しないとならない。正確な情報伝達が不可欠だが諸将は秀吉を怖がって都合の良い情報だけ送ってきた。こんなので勝てる指揮官は居ないわな。石田三成なんて諸将に軍役拒否させて欲しいって言ってるくらいだし。 >>33
伊達政宗は東の大名じゃなかった…?北の大名ってカウントしてるんかな >>84
そういうのいいから
シッタカしたお詫びは? >>75
基本的な歴史の理解が矛盾してる訳でなく
そういう矛盾した状況だったんだよ
トップに対して失敗してると言えない状況
歴史上というか今の時代の身近な例でも
普通に生活してたらいくらもあると思うけど? >>79
実際秀吉が出馬していたら泥沼化して
撤退がより困難になった可能性は高いよ
秀吉が出馬してたら勝ってたとかは楽観的過ぎる
当面の戦闘での勝利は得られても政治決着が無理
目的だった明を降伏させる全面勝利は得られず
かと言って目的達成もできないうちに
秀吉が撤退するのは政権の明確な失敗となりかねない
そして家康利家が日本にいなくなれば
秀吉を(うまく)諌められる人はいなくなる
政治的にもふたりの渡海引き伸ばしは必要だった
その点では家康利家奉行の利害は一致してたんよね 秀吉が朝鮮に渡っていたら現実を認識して朝鮮出兵は即時打ち切りになった可能性が高い。秀吉が認知症になっていて適切な判断が出来なかった可能性もあるが流石に聞いてた朝鮮と現実の朝鮮の違いを知れば唐入りの不可能さを思い知っていたろう。そういう意味では本土で裸の王様だったのが悲喜劇だった。 >>87
単純に秀吉の認識の問題。秀吉が朝鮮の現実、日本軍大苦戦を知っていたなら明に高飛車な講和条件なんか出さない。史実として秀吉は明・朝鮮に勝ったと思ってるからあんな非現実的な講和条件を突きつけた。これはつまり秀吉は朝鮮の現実を知らなかったということ。皆が朝鮮渡航を止めるのは苦戦してるからではなく気候の問題と思ってた。じゃあその秀吉が家康を朝鮮に送らなかったワケは?伊達政宗や上杉景勝は渡航してるから国の東西は関係ない。答えは家康に手柄を立てられたく無かったから、くらいしかない。 三成は秀吉の出陣を要請したらしいけどそうでもしないと戦争が終わらないとみたんだろ >>89
そういうのいいから
なんでシッタカしたという指摘は無視するの?
論文読んでくれた?
はっきり書いてあるよね、読めば
直臣以外は借米だと
図書館で取り寄せなくてもPDFでさくっと読めるんだから読んでくれたよね? >>92
一応本土に「聞いてた話と全く違う!このままだと日本は負ける!秀吉さまに話して戦略を変えるよう説得してくれ」と書状は送ってる(名護屋博物館所蔵)ただこれは秀吉には披露されなかったと見られてる。この時点で三成は秀吉を見限った。もしくは秀吉の絶対に叶う事の無い夢が叶ったという、優しい嘘を伝えてやることにしたんだろう。明はおろか朝鮮すら倒せないことを秀吉が認める筈もないから。 >>94
で、シッタカした件についての見解は?
君の妄想なんて誰も興味がないんだよ >>95
お前さんが何にそんな興奮してるんだ?朝鮮出兵だと直臣だろうが自弁だぞ。有名なのが加藤清正書状(『今井文書』『本妙寺文書』)で清正は国許に向けて唐入りの物資を集めさせたり、また朝鮮に物資を送るよう命令してる。戦国時代、部隊長が全ての差配をするのは当然なのでそこまで妙じゃない。つまり秀吉は自分の子飼衆にすら物資を与えてなかった事になるがおそらく何らかの支度金位は渡していたろう。 >>97
なんで文末のそれ、わざわざサラッとおまえの妄想書いてんの?
そういうところが嫌われるんだよ >>97
「おそらく」という根拠なきものをさも前提に話すからおまえは妄想太郎といって忌み嫌われるんだよ
ちなみに清正は直臣ではない
旗本と呼べるものが直臣だから根本的な認識も間違っている
頼むから書き込まないで
害悪 >>98
見事にかぶったがこれが共通認識ではないかと思うね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています