肥前の熊・龍造寺隆信
【 『肥前の熊・龍造寺隆信』に付いて 】
:
※『龍造寺隆信』は、
『龍造寺家兼の曾孫』で、『龍造寺家純の孫』で、『龍造寺周家の長男』で、
『享禄二年(1529年)生』です。
※『龍造寺隆信』は、
『曾祖父・龍造寺家兼』の『肥前國佐賀郡水ヶ江城』を受け継いだ人物です。
:
【 令和四年(2022年)三月三十壹日 】
【 佐世保繹郎左衛門武雄(サセボ・タズロウザエモン・タケカツ) 】 沖田畷の戦いの時どれぐらいの石高だったのかな
70万石ぐらいですかね
龍造寺、尼子は複数国またいで完全制覇してないのでいまいちわからない 25000出したのなら100万石近くあるやろ(適当) 調べてみたら九州三強でも五州二島の太守でも全然無いのなえらい過大評価な武将 昭和八年編の隆信公御年譜のまえがき時点で『公を記するの書甚だ少し』とされていたが
90年経った今も状況は変わっていないようだ 龍造寺一族の変
反隆信派
鑑兼 龍造寺家門ノ子
胤直 龍造寺胤家ノ子
常家 龍造寺胤直ノ娘婿
家重 龍造寺盛家ノ子
常直
家就 龍造寺胤門ノ子 昭和の頃までは九州にも熊は居たらしいよ
鍋島直茂の祖父・清久が赤熊の面付けて奇襲戦を成功させた事がきっかけで
鍋島氏が龍造寺氏の家臣に取り立てられたらしいから熊は強い動物ってイメージは当時もあったのでは >>12
赤熊の飾りってヤクの毛の飾りのことで熊じゃあないぞ どの動物の毛が材料なのかは関係ないだろ
ヤクの毛を使って熊を表現してるんじゃねえの イメージがつかめないなら面浮立でググるといいぞ
熊を模してるわけではない 熊=強いってイメージはあまり無いやろ
本州四国九州の熊は月の輪熊やぞ
ヒグマのイメージ持ってる奴が多すぎる クマソにどういうイメージがあるか古代人に聞いてくれば 赤熊の飾りからの流れだろうけど
まず一番の誤解として赤熊の飾りは別にクマの飾りではないと言うね 長年政家の生年が1565年になってて、出版社に電話したり手紙出したりして、ようやく訂正してくれたわ
それまで毎回のぶやぼでPKあてて修正してたな 人間味のある逸話がひとつもないのにほぼ領土ない状態からよく三強の一角になるまで勢力広められたものだ
よく人がついてきたな 長信に送った手紙で「この前は武雄温泉手配してくれてありがとうねえ」とか
「俺は母ちゃんに嫌われてるけどお前は母ちゃんに好かれてていいよな……とはいえ多久は前線だから早く母ちゃんにこっちに戻るよう言ってくれ」とかやりとりしてたり
戸田さんに百人に勝る武だから百武とか送ったり、成富茂安が十の武功を立てたから十右衛門と名乗りなさいと名前を送って、使われてたり
結構人間くさい面は多い人だと思うぜ 龍造寺隆信の居城「須古城跡」で調査に向けた現地視察 白石町
ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20230621/5080014716.html
天正8年から沖田畷で戦死するまで4年間住んでいた城だね 冷酷で最後輿ごと投げ捨てられて島津の足軽に殺された可哀想なくまさん >>30
一応熊を討ったのは足軽じゃなく島津の若手期待株だぞ そのために弟の信俊や康房を犠牲にして?
馬鹿は休み休み言いなさいな 薩摩本にはっきりと書いてあるんだけど
否定するソースは? その薩摩本ってなんのどこのことなのかソースくれや
龍造寺家中で家老職や重要な多久家の軍事担ってる弟巻き添えに隆信殺すことにメリットなさ過ぎるわ >>33,35
直茂が隆信を島津に差し出したって話のソースはまだ出てこないの?
史料の名前も出てこないほどまともなソースもないなら与太話でしかないな >>38
まず鍋島直茂にそういうことする動機もメリットもないだろうし
他の史料に類する記述も何もないから、「薩摩本」都やらに載っている記述とやらを信じることがまずできない
まず直茂が島津に隆信を売ったって言う記述が何に載っているかってのを示すべきだぞ
確かどっかでは薩摩琵琶の演目のどれかとは聞いたことがあるが…… 出典を明記せずに「『薩摩本』に書いてある」とか言ったところで、一人のねらーがそう主張してる以上のソースにゃならんよな 肥陽軍記や九州治乱記(北肥戦誌)などの肥前本に
鍋島の都合悪いことなど書くはずがないからね