ちなみに九州に対する輝元の野望は大友義統に留まらない。
九州は毛利や大友、ある時は島津も絡んで紛争地帯になっていたけど秀吉によって豊臣系大名に割り振られた。しかし毛利一族の影響力は残っていた。八月二十八日、松井康之が毛利吉成の動向を記録してる(松井文書)けどこの中に
「毛利吉成は熊本に来た。輝元と奉行衆の使者らしい。吉成は伏見城攻めで大損害を出したという…その為(門司城に)輝元が軍勢を入れると言う」とある。輝元は書状で部下を門司に派遣して更に町人からも人質を取っている。軍勢無しに出来る事では無いと思うのだが…
なお、門司城だけではなく毛利吉成居城・小倉城も輝元の支配下に置かれてる事が吉川家文書より明らかになっている(「尚々小倉の儀、輝元より加番入の由候間…」とある)