ちなみにこの書状は一切毛利の役に立たなかった。輝元は十五日に三奉行からの上洛要請文が来ると即時に出発、十七日には大坂城を武力占拠してしまったから。行き違いになってしまったのだ(余りに動きが早いので輝元が西軍決起の首謀者なのが明らかである)
この後輝元は大坂城にいた蜂須賀家政を脅迫。蜂須賀家の本国阿波は毛利軍が接収。家政を出家させる。挙句蜂須賀軍は毛利軍に支配され危うく西軍として使われるところだった。そんな蜂須賀家が改易されなかったのはひとえに蜂須賀至鎮が東軍として活動してたからであった。