白峰氏の論文より引用
【「内府ちかひの条々」について】
 7月17日に三奉行が「内府ちかひの条々」を出して豊臣公儀として反家康の動きが公然化した
のであるが、この日の状況として、御奉行衆(三奉行を指す)の大坂城籠城、毛利輝元の上洛を
記載していることは(DB…7月17日)、反家康で動いた豊臣公儀の中枢メンバーが大老の毛利輝元
と三奉行であったことを示している。
「内府ちかひの条々」に関する記載は、『義演准后日記』7月18日条に見られ、「内府ちかひの
条々」を当時家康がいた江戸へ遣わした(DB…7月18日)、という記載が注目される。通説では、
三奉行が反家康の動きに荷担していることを家康が知ったのは7月29日頃とされるが(5)、7月
17日に三奉行が「内府ちかひの条々」を出して江戸の家康に送付したとすれば数日中には江戸に
届くはずであり、それを家康が知らない(見なかった)ということはありえないので、上記の通説
の見解には再検討が必要であろう。『義演准后日記』7月19日条によれば、7月19日の時点で、
大名ではない義演ですら「内府ちかひの条々」を見ていることがわかるので(DB…7月 19日)、
弾劾された当事者である家康が7月29日頃まで「内府ちかひの条々」の存在を知らなかったとは
想定し難い。
 これまでの通説では、「内府ちかひの条々」は諸大名に対して出されたものであり、「内府ちかひ
の条々」が家康に対して送付されたという指摘はされてこなかったが、「内府ちかひの条々」に
よって弾劾された本人(家康)に対して送っていない、と想定すること自体が不自然であろう。
その意味で、上記の『義演准后日記』7月18日条の記載は重要である


『義演准后日記』7月19日条
家康へ奉行(衆)より(出した)十三ケ條(=「内府ちかひの条々」)
が流布し、(義演もそれを)一見した。

白峰氏見解
大名ではない義演が7月19日(「内府ちかひの条々」が出された
翌々日)の時点で「内府ちかひの条々」を見ている点に注意するこ
と。「内府ちかひの条々」の流布の速さなどの状況を考えるうえで
参考になる。