>>276
>>280
それについては微妙にニュアンスが違う。史料スレの吉川廣家自筆覺書案より一部抜粋。

一 伏見之城へ人數差寄、責口被申付候刻、勢州へ可相仂之旨、奉行衆相談被相究候、惣別濃州北國兩口之仕置、
  堅被申付候て社尤候、勢州さしむかひたる儀にもあらす候間、出勢無詮候、雖然、長太、安國寺被罷向、
  あのの津近邊掠夲よ申所、兩人被陣取候、如何候哉、夜中我等陣所關之地藏へ被引取候、其より猶以敵味方覺相替候、
  其後又津之城可指寄之由被相催候、左樣へは、大御所樣被成御打上候は、大分之一戰可有之前かとに、
  不數城乘崩候ても無詮候、萬一手負死人罷成候はは、一方御をくれに罷成儀に候處、首尾不合行被仕、城被乘崩候へ共、
  手負死人候て人數半分に罷成、味方之覺莫大に罷替候事、

>惣別濃州北國兩口之仕置、堅被申付候て社尤候、
 勢州さしむかひたる儀にもあらす候間、出勢無詮候、

ここね、瀬田で陣地構築後、伊勢に行けと言われたが伊勢なんぞに行ってもしゃあない、
北陸か美濃に行くべきだと言ったが伊勢行け伊勢行けうるさいんで、
(秀元は)兵が足りないからとしばらくごねた後仕方なく伊勢に行った。

この時点では別にやる気がないわけではなく、長束・安国寺が伊勢行けとかアホなこと言い出したんで
ごねてた。この覚書が正しいなら、秀元らの瀬田の毛利勢は北陸か美濃ならすぐに向かったと言える。