朝倉義景が朝倉家を存続させるためには
信長包囲網の主力として頑張り、
志賀の陣では織田に勝利し、信長に
「天下は朝倉殿持ち給え、我は二度と望みなし」
とまで言わしめた
しかし、僅かその3年後に朝倉家は滅亡してしまう。
どうすれば朝倉家は滅亡を回避できたのか、
織田に勝利する可能性はあったのか、検討しよう。 そうなってくると義兄を裏切ってきた浅井長政はなんやねんってなるやん
どこまでいっても浅井長政がネックになるやん
共に頭下げようとか言ったら
朝倉殿はそうなんですね朝倉殿の中ではそうなんでしょうね
じゃあ今から徹底抗戦の挑発のために織田方の城に突撃してきますよ
それで朝倉殿の幻想をぶち壊してやりますよ
それでもダメなんですか?
とか言いそう… そもそも、金ヶ崎の戦いの時点は敵方の総大将が足利義昭だった
それがいつの間にか信長包囲網側の総大将が足利義昭になってる
総大将が逆の勢力に行ってるんだから、朝倉家が裏切るなんて大したことはない 義昭は通説が否定されてて武田の西上までは織田とずっと同心してる
武田の西上で包囲網側に一枚かんだだけぐらいな感じ 跡継ぎいなかったから信長の息子の誰かを養子に迎え入れれば良かったのでは? >>66
いや丹羽長秀に切られた朝倉愛王丸という次男がいたよ >>63
浅井は地形的に織田家に朝倉領を独占されると大名として詰みだからなあ。信長の家臣でなく大名でいるには朝倉領を獲るか、信長と戦うしかない。 >>68
信長政権で手柄立てれば栄達の道なんかいくらでもあったろうに本当にサイコパスだね 織田義昭連合政権が伸びるかどうかもわからん上に浅井の扱い軽んじてくるわけで
浅井の事を後世から見れば織田につかないとか勿体ないになるだろうけど
畿内の覇権を確立できたわけでもなく四方敵まみれで、織田が伸びるか叩かれるかわからん状況よ >>69
それを言い出したらほとんどの戦国大名はサイコパスになってしまうよ。(間違いではないきもするが。)結論から言うと宇喜多辺りのように信長に頭下げて大名から部下になることを受け入れた人間が生き残ったわけだし。 >>70-71
結局、敵対の仕方が、不義理っていうか、サイコパスっていうか、どうしょうもないよ
みんなが見てるのってそういうところだからな
ヤクザと同じで戦国大名って非情な一方で、義理人情とか恩義を重んじるところあるからな
宇喜多は非情な手段を用いたサイコパスとか言われるけど、そういうところは見る目あるしやはり上手いよな >>69
信長が最初から自分の手で天下取るって宣言してたなら織田政権で手柄立てる気にもなったかもしれんが
当時の信長は足利将軍を担いで、足利幕府を再興する立場だったからなぁ
落ち目の幕府で手柄立てても栄達の道なんてあったと思うか? 刀根坂の戦いの時に釣り野伏せすれば簡単に信長討てる >>70
四方敵になったのは裏切ってから、少し経ってから
裏切り直後は逆に朝倉三好(本家別)が勢力的には劣勢
他の味方って筒井位? 配下武将だと、領地が飛び地って珍しくないけど
大名でも大丈夫じゃないかな? 武田ではなく上杉謙信と同盟していれば織田も遠慮せざるを得なかった。
そして史実よりも早く上杉謙信が加賀まで出てこられる状況を作れば滅びることは無かった。 上杉と朝倉は対加賀一向一揆で手を組んでたよ
共同で加賀攻めの案があったけど実行には移されなかった 謙信の越中政策が温すぎたから無理だろうな
神保一族皆殺しにして一向一揆の寺全部焼き討ちしないと収まらないよ 一向宗に対抗するための朝倉ー上杉の連絡網として
姉小路氏が一枚噛んで越前ー越後間の連絡係として協力してた
やるならば能登畠山氏も巻き込んで東西南北から一斉に攻めかかれば何とか…
まあこの時代に複数勢力による連係プレーが困難な事も承知の上で
堀江氏や内ケ島氏が一向宗側に離反しそうだけど >>80
一向宗や根来寺のような反抗的武装宗教勢力に対しては結局信長秀吉のやった根切り焼き討ちが一番効果あるんでね
上杉も朝倉もそれやらなかったのが泥沼化した最大の原因だよ 焼き討ち自体はどこの大名もやってるが徹底して潰せるほど勢力が大きかったのが信長秀吉なだけでは 一向宗寺院や道場を破却して国内から一向宗を完全に駆逐してしまうと
今度は一向宗徒の百姓や町人などが田畑や家屋を放棄して国外逃亡してしまう恐れがあった
それらを防ぐ意味合いもあってか国内の僻地に本願寺系寺院の存続を許可したり
大坊主衆の追放のみに留めて民百姓には棄教を強く迫れなかったという面もある
信長や秀吉の様に根切りと称して掃討戦が出来たのはある程度の国力を保持出来ていたからだろうし
1〜2ヶ国程度を領する勢力ではそこまで強硬な策には出られなかったんだろうね さっさと織田方についてたら良かった説はないか?
実際上洛させようとしたりしてたし仲良くしてれば上杉の抑えにもなるから勢力残ったまであるが
一向一揆はどうせ起きる >>84
まぁ結果から見るとそうなんだが
織田家の風下にはそう簡単に付けないでしょ…
後は早々に織田に降っても池田勝正や赤松、尼子みたいに使い潰される可能性もある 朝倉は上司の斯波や同僚の織田を追い出して名門無双になっちゃったからプライドが許さなかったのかな 日下部氏の流れをくむ朝倉氏も下賤な出自って事はないそこそこの名門ではあるんだけど
越前国内におけるネームバリュー的には弱いって言えば弱いんだろうな
だからこそ自分達は名門であるって強く言い聞かせて信じ込ませてるような状態だったのでは
鞍谷氏を庇護下において縁戚となった後も名門コンプレックスは解消されなかったのか 創作物とかではよく
「この名門の朝倉家が織田家のような成り上がりものに仕えられるか!」
って言ってるけど立場的には同じだよね
斯波氏の領土を乗っ取っただけ、兄弟みたいなもん 二条宴乗記に信長が上洛要請した各地の有力者達から朝倉氏の名前が漏れているという事を根拠に
朝倉氏には上洛要請をしていない(織田とは既に対立関係にあった)という説を「麒麟がくる」では採用してるね
後世の軍記物扱いである朝倉始末記には朝倉土佐守が評定の席で織田家などには従えぬと強く主張するシーンが描かれてるんだけど
この辺りの真相はどうなんだろうね(信長からの上洛要請ではなく義昭ルートで上洛要請が2度あったとも言われてるようだが)
先代の頃からずっと足利幕府と繋がりを持ち続けて偏諱を受けたり教書を賜ったりしてた
富樫氏なんかも声がかからなかったのかな(この頃なら本願寺家と織田家の対立もなかっただろうし) >>88
信長になってやっと尾張一国を統一できた織田とだと、越前支配してすでに五代目の朝倉では織田を格下と想ってもある程度は仕方ないかと。
地理的にも京の次くらいに重要で当時日本中の憧れの地である越前と尾張とでは明らかに格差はあったかと。 朝倉の下剋上は足利将軍に認められた正式な下剋上やからな
そこら辺の下剋上とは格が違うわ 幕府としては孝景の選ぶ(斯波家の)人物を守護に認めるよってつもりで通達したのに
孝景の選ぶ(孝景自身も含む)人物って自分の都合の良い風に解釈してその座を奪っちゃったって感じかな 包囲網といえば、柴田、信孝、滝川の秀吉包囲網もうまくいかなかった
包囲される側が最強だと難しいのかね? >>94
古今東西、合従軍が上手くいった方が少ないのでは…
合従する側には手を組む要素はあるけど、それ以上に裏切る要素が山程ある 包囲対象より国力のあるやつを引き込まないと無理だな
ナポレオン戦争とか、ヨーロッパ戦線の米ソ参戦のように 朝倉義景の正室 鞍谷氏小宰相は、義持と将軍の座を争って命を失った、 足利中納言義嗣の忘れ形見である。 母親の素性がはっきりしない庶子でいいなら
朝倉家臣には足利義材の連れ子もいたよ
身分的には士分ではなくて商人だけど
21 >>73
大内や三好を見てれば、上洛したからって、だから何?と思うのは無理ない。
朝倉自身、長尾の上洛に協力してるしな。 >>96
フランスがハプスブルク家打倒のために当時最強のオスマン帝国と手を組んだがそれでも上手く行かなかったしなあ 刀根坂の戦いの時に
ひたすた敦賀まで逃走すればひとまずは無事だったのに
途中で軍議を開いたのがまずかったんだっけ?
それでも遅かれ早かれ滅亡はしただろうが。 >>77
> 武田ではなく上杉謙信と同盟していれば
同盟はしていないかったが、敵対はしていない。 >>2
> ・志賀の陣で和睦したこと
兵糧が不足していたと推測 >>104
義景の娘を謙信の養女として送ってるので
同盟してたかしてないかで言えばしてたと言える
上杉家に残る朝倉家からの書状に宗滴(上杉家との取次役)時代は
お付き合いがありましたが近年は疎遠になっていたので
以前の様に色々と交流再開しましょうって記述が残ってる 浅井援軍の時も信長以外誰も義景が逃げを選ぶと思ってなかったって話があるし義景としてはウラをかいたつもりだったのか(そんなことしてどうすんのかって話だが) 義景としては敦賀に軍を待機させたまま状況を探るべきという
近臣達からの進言を退けてまで軍勢を近江にまで動かしたのに
いつもの朝倉氏が陣を構える場所が既に織田軍に占拠されていたために
通常時とは異なる浮足立った雰囲気は織田軍に勘付かれていたのではないかな 上杉謙信と同じように国境の急峻な地形や雪の支障、一揆対応とかの不利もあって長期的な外征はできなかったんだろうな。
立ち回り次第では少しは滅亡は先伸ばしできかも知れんが、もう織田と敵対した時点で詰んでたな。 >>109
>敦賀に軍を待機させたまま状況を探るべき
まあそうだな。
あとこの当時の敦賀の防御力は高かったんだろうか? 地形とか城塞とか。 織田軍による天筒山城・金ケ崎城攻めの際に
敦賀の町衆に籠城戦への協力を城主の朝倉景恒が要請したんだが
籠城戦への協力そっちのけで我先にと織田軍からの禁制を得ようとするばかりで
それらの事に失望した開城後の景恒は無念の末に出家するに至った
峻嶮さでもって防衛には適した城郭群だったのに民心掌握が出来ていなかったようだ 一向宗の大軍を破った九頭竜川の戦いの半年前に
雪解けと同時に湖北・湖西から一斉に一向宗徒が敦賀に押し寄せたんだが
湖北・湖西の結節地域にあった疋田城だけで撃退に成功した事があった
織田家は数十年前にあったその戦いの事例を知っていたのかどうか
疋田城を通過するルートは使わずに国吉城方面からの進軍を選択した
疋田城ルートを選択していれば織田の大軍は防げたかどうか…?
城の周辺に残雪が無ければ疋田城も脆かったのかもしれないが