【島津義弘】露梁海戦って日本の負け?【李舜臣】
韓国の史料 乱中雑録より
賊兵殊死血戰 勢不能支 乃退入觀音浦
(島津軍は必死で戦ってきたため 勢いを支えきれず朝鮮軍は総崩れになり 観音裏まで敗走した)
このように、実は韓国の史料(乱中雑録)にもはっきり結果が書かれている事を授業でも教えるべき 明朝鮮の主だった将を打ち取り、日本側は無事退却しているのだから勝利では? 宣祖実録三十一年十二月己巳
首功則李舜臣所騎船也 但舜臣約束以争先斬級 不能多殺為戒 故今此之戦 獲級甚少矣
首を獲るのを争っていては多く殺すことができない
勝利を決めるのは首級ではなく戦う力を奪うことにある
論功行賞で最高の活躍をしたとされたのが李舜臣の船であり同乗していた孫文ケはその功により官職を賜っている >>85
戦場で局地的な勝利をあげたとしても目的を遂げた方が勝ちでしょう?
だったら日本が勝ちになるんじゃないかな 停戦したのだから無事日本に退却することが戦略目的だよ >>88
君は議論の土俵にすら立てていないからもう少し勉強しておいて お互い目の前の敵を倒そうとしたのがシンプルかつ明確な目的かと >>90
横レスだけど、初心者に
マウントとるなやw ロシア、ウクライナの問題の裏でイスラエルがシリアを空爆してるのがこれまた怖い。
日本での報道はまずない。
://twitter.com/umaduravideo_/status/1497954326882316288?s=20&t=vAqBmJW1V7SeBK6TI_WCkQ
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 面白かったので上から一気に読んでみたけど>>1は史料の誤読であり
>>39は日本軍が観音浦に逃げ込むというのもおかしな話というが>>41で実はむしろ必然と判明
>>80で島津は撤退したのではなく統制が取れなくなり散り散りに潰走とわかり
>>85で李舜臣が死んで壊滅的打撃を受けてるはずの船がその後も活躍し功績一位で表彰と言う不思議現象
戦略はゴールラインで揉めてるようだが李舜臣は名将で島津は凡将というのは確定でいいというのが感想 >>96
それあなたたの感想ですよね?
竹田氏や百田氏も言っているがネット上でも評価は真逆
変な人だと思われるだけだよ 百田は「亀甲船がなかった」とかどう考えても支持されないこといっちゃってる人なんだけど >>98
日本の記録にまったく載ってない物の存在を信じるなんて大丈夫か? >>99
高麗船戦記に載ってることもご存じないレベルでよくそんなに強く否定できるな 「文禄・慶長の役」で書いた、秀吉の書状見つかる 正室宛てに「当年中に明を取り、向こうへ渡ったら迎えを」(南日本新聞)
「妻に対して、自身の野望を強気につづっている」と指摘。
一方、明征服の時期を「当年中」と記すが、1カ月ほど前に出した別の書状では「9月」と伝えていた。
秀吉は6月2日、朝鮮水軍の反攻などで渡海の延期を決めており、戦況悪化を認識していたと考えられるという。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6eb07152fc186dfce626bce2404925fea2d15c4b 李舜臣が豊臣秀吉の軍を打ち破ったと信じたいようだけど、現実は李舜臣は敗死しているんだよね。
日本の武士に火縄銃で討ち取られている。 今月の歴史街道の10月号で作家の近衛龍春氏が露梁津の海峡での戦に島津が勝利したと書いている
いくら朝鮮が勝ったと主張してもこのように識者が正しい歴史を雑誌に掲載していくのだ
李舜臣が講和を破って背後から攻撃をした挙句に討ち取られるという事実は客観的な視点からも否定できない 居丈高に講和を破ったって言うけど
そもそも侵攻に正当性がなんもないもの
正直国家軍っていうよりでっかい倭寇でしょ
講和なんてもともと信用出来ないよ
やれる時にやろうってなるのは当然 柳成龍備忘録暦という史料に部下達が引き止めながら「大将が自ら軽々しく乗り出してはなりません」と言ったがそれに耳を貸さず前線に立って銃弾を受けて死んだと書かれている
この言う話しは日本では美点ではなく小早川秀秋が前線に出すぎて叱責されたように愚将扱いなってしまうからマイナス 無線のない時代に海戦で指揮官先頭を行なうのは合理的。もちろん指揮官は戦死しやすくなるがな。
状況が変わりやすい海上で即断即決ができないと部隊は崩壊してしまう。日本側がそうであったように。
朝鮮側の勝ちという結論すべて説明がつく議題なのによくこんなレスがついたもんだ。もう終わりでいいだろ。 【日明戦争(朝鮮出兵)にて戦死した武将】
「日本(一万石以上)」
来島通総(1万4千石)の1名のみ
※中川秀政は鷹狩中に敵に遭遇し戦死
「朝鮮(三品以上)」
鄭撥、尹興信、宋象賢、洪允寛、李宗張、申石吉、元豪、元喜、柳崇仁、徐礼元、鄭湛、高敬命、趙憲、鄭運、金時敏、沈岱、金千鎰、崔慶会、黄進、元均、李億祺、李福男、任鉉、崔湖、呉応鼎、黄世得、郭越、李舜臣、李英男、金澥、李薦、「蘿立、李渾、金貴栄、李瑛、黃赫等、李範、李錘、文夢軒
「明(遊撃以上)」
載朝弁、史儒、廬継忠、李新芳、蒋表、毛承先、楊万金、李寧(副総兵) 、李寧(参将)、廬徳功、ケ子龍 明軍が関わった数万単位の合戦で、明確に明軍の勝利と
言えるのは第三次平壌攻めくらい(おまけに不意打ち)
第二次平壌の戦い(日本勝利)
第三次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)
露梁について補足。
明軍、朝鮮軍、日本軍の2倍の兵力&待ち伏せの好条件ながらも
小西軍、島津軍を殲滅できずに取り逃がす。
朝鮮軍主将の李舜臣が戦死 明軍副将の 眷子竜が戦死。
特に慶長役で明軍が負けた戦いは、いずれも明史、朝鮮王朝実録などで
大敗、大損害、人が溶けたと表現されるくらいの潰走っぷり。
第二次晋州城攻防戦では明軍救援に赴かず(または秀吉軍に撃退されたとも)
南原の戦いでも付近にいた陳愚衷旗下の明軍3000千は動かず、
南原が落ちると、これも付近にいた朝鮮軍1000とともに散り散りになって逃げた。
戦意も低く、日本軍を恐れているのがわかる。 REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 >>111
お前はアホ過ぎるから俺が真実を教えてやる
朝鮮出兵の計画が「この地を占領して吸収した兵力で次の地を攻める」と国内の戦略のそのまま延長で、現実は各地で反抗されて頓挫してる
文禄の役では兵站が伸び切って苦戦。
まぁ、慶長の役ではここはだいぶ改善されたようですが。
けっきょく、後の太平洋戦争で同じ失敗を繰り返したわけで。 撤退の支援という戦略目標は達成してるから勝ちではいいんじゃないの
朝鮮出兵それ自体は敗北だったとしても 関ヶ原から敵中突破を成功させたから「勝ち」と言い張るような人なら何も言うつもりはないけど
常識的なら散り散りに逃げだして軍組織としての体を為していない側を「勝ち」と言う表現はしないかな 関ヶ原から敵中突破を成功させたから「勝ち」と言い張るような人なら何も言うつもりはないけど
常識的なら散り散りに逃げだして軍組織としての体を為していない側を「勝ち」と言う表現はしないかな 質問
日本の負け?
解答
日本の負けです
軍事行動がとれなくなるまで痛めつけられた日本軍
掃討戦を行い重要拠点である南海島を確保した朝鮮軍
議論の余地もないでしょう >>118
朝鮮軍は単独作戦も出来なくなって活動していたのは明軍と付属の朝鮮軍 > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 感想として日本勝った派の人は鹿児島や薩摩藩の事詳しくないと言うかあまり興味なさそう 明鮮軍と違って日本軍で敗死した高位の武将って居ないもんなあ >>123
んな理由ゃーない
壇ノ浦でも木津川でも負けた側の武将は多く敗死している
トラファルガーで勝った側のネルソンが戦死している例を取ったとしても
負けたスペイン側の幹部の戦死の方が圧倒的に多数 鹿児島や薩摩藩の事に詳しければ島津の親族衆や複数の地頭が戦死している事も分かるので
敗死した高位の武将って居ないとかまず書きこめない
要は知識が不足してると陥りやすい思考なんだよ ループしてるな
久見崎盆踊り想夫恋(鹿児島県指定無形文化財)
秀吉の命令で出陣した島津義弘の一万余りの将兵は、慶長二年(1597年)三月十八日軍港であった久見崎の港から出陣した。
その後秀吉の死のため引き揚げる際に、明と高麗の海軍に破れ甚大な戦死者が出ることになった。
この犠牲者には港町から漕ぎ手として招集した者達も多く、残された家族は悲しみに暮れた。
義弘の後の家久の代に、慰霊のために、その時地元の未亡人たちに踊らせた踊りが「想夫恋」のもとになったといわれる。 いつも水掛け論でしか見ない内容だが
こうやって一つの話題でじっくりやると
ネットですら朝鮮勝利派が優勢になっちゃうのだな >>128
別にいいだろw
第二次大戦だって主力じゃない
中国やフランスが戦勝国なんだから 歴史スレで「事実」とか言うのは胡散臭く見える
小西との間で順天城を明け渡し穏便に島を南周りに抜けさせる交渉をまとめたとしても
それでも一万の軍が背後を通るのだから警戒は必要だろう
となればその目を利かせておく後方待機は先陣の朝鮮軍ではなく
明軍となるのだからどれだけ前線に差し向けられたかわからない
更に言うなら明軍はジャンク船が主流で日本軍を苦しめた囲い船(板屋)ではなく
伝統的に河川を中心に戦い移譲攻撃を行うがこの戦は海峡出口に待ち伏せする朝鮮水軍のやり方
明史には随分前線で活躍したように書いているが実際明指揮官は先鋒の朝鮮の陣にいたケ子龍以外特に主だった犠牲もない >>130
いや、明も遠戦志向だよ
戚継光とかが倭寇対策で苦労して編み出した戦術
明や朝鮮の兵は近接すると斬られて問題にならないから >>130
明水軍の主だった3人のうちの1人が戦死しているわけで
主だった水軍の将で生き残ったの誰よ? >>132
明軍は約2万ほどで指揮官は相当にいただろう
これらは戦死していればその戦死者として史料に残っててもおかしくない
つまりわからないってことは生き残ったと推し量れるよ