戦国人物しりとり [無断転載禁止]©2ch.net
戦国人物の名前でしりとりをするスレです
大名、家臣、姫、僧、商人、南蛮人など何でもOK.!
ルール
1.「ん」での終わりは一つ前の字から続けて下さい。 例)太田道灌(おおたどうかん→かからスタート
2.架空の人物(アニメ・漫画・ゲーム・小説・映画など)は禁止→ググって名前が出てくる人物のみOK 例)ネット上に載ってた系図など
3.最後が濁音「゙ 」、半濁音「゜」の時、外して繋げてもOK。 例)立花宗茂(たちばなむねしげ→顕如(けんにょ
4.スレ内で1回出てきた人物は使用禁止→次スレからは使用OK→見つけた場合はリスタートして下さい。
5.人物は正式表記(フルネーム)のみ有効とし、愛称や短縮などは無効です。
6.難読と思われる人物には必ず「フリガナ」を添えて下さい。
7.どうしても出てこない文字の場合は一つ前の字から続けて下さい。 例)織田信長→(おだのぶなが→なからスタート ながない場合→ぶからスタート 龍造寺季明(りゅうぞうじすえあき)
龍造寺政家の孫、高房の子。通称・伯庵。
鍋島に主権が移ってから龍造寺宗家の再興を幕府に再三訴えるも
却下され、騒動を沈静化する為、会津藩預かりとなる。
隆慶一郎の未完小説「死ぬこととみつけたり」でちょっといい役どころ。 砂越氏維(さごし うじふさ)
砂越城主。砂越氏は最上川以北の有力な領主で武藤(大宝寺)氏の庶族。
1532年、氏維は大宝寺晴時(義氏の父)の大宝寺城を攻め
大宝寺城下を焼き払い大宝寺氏を尾浦城に追いやっている。
砂越氏はその後も度々大宝寺氏に反抗したが、
十五里ヶ原の戦いで上杉家臣・本庄繁長と子の大宝寺義勝が勝利し
最上氏の支援が見込めなくなると秋田氏を頼って落ち延び砂越城を去った。 龍造寺家久(りゅうぞうじ いえひさ)
龍造寺長信の子。後、多久安順と名乗る。
多久龍造寺氏の2代目。妻は鍋島直茂の娘。
龍造寺一門であるが、直茂の娘婿という立場からか
鍋島藩時代は、旧龍造寺一門の知行削減を断行したり
龍造寺伯庵の龍造寺家再興運動を退け、
鍋島藩の権力移譲の正当性を幕府に訴えるなど
鍋島寄りの行動を取っている。 郡司 敏良(ぐんじ としよし)
陸奥・田村氏に仕えた重臣。
主君・田村清顕の娘・愛姫が伊達政宗の正室として嫁いだ際には
自らの娘が愛姫の侍女として付き従うなど重用された。
清顕の死後、田村家でお家騒動が起こると
田村一族の長老である田村顕盛と共に相馬義胤方に与し
伊達政宗に与した田村顕頼と対立。
伊達軍の攻撃を受けて、1589年に下枝城の戦いで戦死した。 龍造寺 康房(りゅうぞうじ やすふさ)
龍造寺家臣。鍋島直茂の弟。通称太郎五郎。別名に信種。
龍造寺純家(家純の息子。周家の弟)の養子となる。
多久女山城主。1584年の沖田畷の戦いで戦死した。 君ヶ袋 兼継 (きみがぶくろ かねつぐ)
大崎家臣。加美郡君ヶ袋城主。通称九郎左衛門。祖先は千葉氏。
大崎氏の改易に伴い没落。
1590年、「葛西大崎一揆」で伊達勢と戦い、君ヶ袋城は落城。討死した。
弟の系統が生き延びて伊達家臣として血脈を繋いでいる。 菅沼 定仍(すがぬま さだより)
上野阿保藩主。伊勢長島藩の初代藩主。
元今川家臣・菅沼定盈の次男。
父の隠居後、家督を継いだ。
1600年の関ヶ原の戦いにも参加し
駿河興国寺城や駿府城、美濃岐阜城の守備を担当。
その功績により、翌1601年6月、1万石加増の2万石で
伊勢長島藩主として移封された。
しかし、生来から病弱の上
父や正室が先立つという不幸も追いうちをかけ
これが影響したか重病に倒れ、
療養していた最中の1605年10月25日、京都で死去した。享年30。
継嗣が無かった為、弟の定芳が養子として後を継いだ。 武衛満兼(ぶえいみつかね)?〜1580。
天童氏の庶流。のちに上山(かみのやま)城主となり上山満兼とも呼ばれる。
妻は最上義守の妹。義光と義守が争った天正最上の乱では
はじめ義光に属したが伊達輝宗と連携し義守側に寝返る。
その後も義光と敵対した伊達・天童氏と連携を強化したため
義光の調略を受けた里見民部に殺害された。
「り」で終わるから龍造寺しばりになるんだゾ!気をつけろ! >>284
そういうお前も「ね」で終わったら実質禰寝縛りになるじゃねーかw
根本里行 >>286
ごめんルビも併記した方がよかったかね
「ねもと さとゆき」ね 木呂子 元忠(きろこ もとただ) 生没年不詳。
北条家臣。武蔵大塚城主。
同じ武蔵国内の松山城主である上田朝直・憲定の家臣。
1560年頃から奉行としての活動が見られる。
1562年、敵が攻めて来た際に若林出羽他10余人を
討ち取ったとして氏政から感状と太刀を授かっている。
1590年、秀吉の小田原攻めの際は
上田氏が小田原城に籠城した為、松山城を守備。
この際、氏政から戦に勝利したならば
上野か駿河に加増するとの約束をされるが
前田利家率いる北国勢の大軍の前に降伏し
以後は八王子攻めなどに秀吉方として参加した。
戦後は徳川氏に仕えて、榊原康政や鳥居氏に属したという。 根津(禰津)政直(ねづまさなお) 1535?〜1590?
信濃国人海野氏の一族。妹は武田信玄の側室、禰津御寮人。
1541年、禰津氏は真田幸隆らと共に村上義清に敗れて離散。
1545年、武田を頼る。
1567年、上野箕輪城城代。
1575年、嫡男を長篠の戦いで失い隠居。
1582年、武田滅亡時は上杉景勝に援軍要請に向っていた為に生き延びる。
以後は徳川家臣として仕えた。 三ヶ尻 恒逢 (みかじり つねとよ) 生没年不詳
奥州葛西氏に属した江刺氏の家臣。胆沢郡丸子城主。加賀守。
1590年の秀吉による奥州征伐で江刺氏と共に没落。
浅野長政に江刺家の再興を願って忠節を賞されたが主家再興はならなかった。
1603年に南部家に仕官し、和賀倉沢城主。 三ヶ尻恒逢から吉田孝頼(よしだたかより) 出てたらごめん >>295
龍造寺縛り再び
龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ)
正座ができなかった肥満体 円城寺信胤 えんじょうじのぶたね 生年不詳-1584年5月4日
言わずと知れた龍造寺四天王(五人)の一人
沖田畷の戦いで主君もろとも討死 弟子丸宗盈(でしまるむねみつ)
関ヶ原の直後、島津義久京屋敷に居たが 途中送信御免候へ
島津義久の三女亀寿と共に京屋敷に居たが、義弘敗走を聞き他の家臣たちと共に脱出する
数代前に、蒲生合戦で貴久を庇って討ち死にした弟子丸播磨守がいる 横からわるいけど
こないだ加藤清正公の菩提寺である熊本県の本妙寺にいったんだけど。。。。。。。。。。。
大規模なお寺なんだけど。。。。。
先の震災のあと何も復興されてなくて、荒れ放題になってんの。
国も県も何もしてくれないとかで。。。。
熊本県はお寺に石灯篭を献上するのが風習みたいなんだけど
その何百という灯篭が倒壊したまんま、清正公の墓を守してきた一族の大きな墓所も壊れたまんま。
清正公があまりにもお気の毒。熊本は熊本城をシンボルにして観光やってるのにさ
菩提寺の惨状には知らぬ存ぜぬ。おかしいんじゃないの? 訪れる人もいなくなったとかで。。。。。
お寺の窮状も半端ない。
和尚さんもしっかりしてほしいんだけどなあ。 加倉井 久光(かくらいひさみつ)
?〜1590。
常陸江戸家臣。
1590年、江戸家が佐竹家の攻撃を受けて滅ぼされた際、水戸城攻防戦で討死した。 筒井順慶は既出なのでスルー
角隈石宗 つのくませきそう (生年不明~1578)
大友家の妖術軍師
宗麟に島津討伐を控えるよう進言するが聞き入れられず
死を覚悟した石宗は秘伝の書を焼き払って出陣
耳川の戦いで戦死した