・秀吉の軍勢が前日近江にいなかったとはいえ大身の支持者だった中川清秀の軍勢を見殺し。
・美濃では秀吉軍の総攻撃が中止されたため岐阜の織田信孝とその軍勢が健在。

・奇襲部隊に損害を与えないと美濃―近江間の主力行軍が徒労になってしまう。

・逆襲を受けて羽柴軍の方に損害が出た。

・奇襲部隊が先に高所を押さえて布陣し待ち構
えている。
この秀吉軍の苦境を覆して勝利をもたらしたのが「後方部隊の逃走」であり、
それは秀吉が追撃を諦めず奇襲部隊に食い下が
った結果として生じた状況が可能にした一手
だったんですから!
賤ヶ岳の戦いは後世言われるような「全てが秀吉の計画通り」の戦いで
はなく、「智謀の秀吉(時代の先駆者)が武勇
の柴田や脳筋の佐久間盛政(時代遅れの武将たち)に優った」「羽柴兄弟の巧妙な罠に愚かな
柴田軍が嵌った」というわけではなかったですよ。
秀吉は自ら織田信孝の封じ込めに向かい、美濃大返しの後に山岳地の追撃戦から休まず
柴田殿軍の殲滅戦、さらに越前侵攻と織田信長
譲りの苛烈な采配で自軍と自身の体を酷使していますから
秀吉は鬼玄蕃や鬼柴田を上回る猛将振りを発揮して勝利を捥ぎ取ったのです。

対して佐久間盛政たち奇襲部隊は「慢心した猪武者たちが神速の秀吉軍にしてやられた」どころか困難な撤退戦でも秀吉軍の追撃を跳ね返し決戦の構えまで見せるなどよく団結していた上に事前の準備も入念に行っていたことを窺わせる善戦振りでしたし、
秀吉軍が帰還
→しばらく時間が経ってから奇襲部隊が撤退を開始→秀吉軍が追撃を開始
→奇襲部隊が善戦→奇襲部隊が柴田勝政勢を救援、
奇襲部隊が布陣
→羽柴軍との決戦が始まる時に柴田軍の味方が逃走し動揺が広がる
→秀吉軍の攻撃を受けて奇襲部隊が敗走
戦いの決着は翌日の夜明けから更に数時間経って付いているし秀吉帰還から勝敗が決するまでの長い時間こそ奇襲部隊が大活躍した時間ですもんね。

佐久間盛政が率いた軍勢は史料によっては1万5千人。
いずれにしても大軍であり彼らを送り出した柴田勝家には戦局を大きく動かそうとする意図があったことが窺える。
史料で示された
「退路の確保」他の史料にも記された
「追われる奇襲部隊が追う側の羽柴軍に痛撃を加えた」戦果に加えて『一柳家記』の記述から考えられる奇襲部隊や柴田勝政勢が
「大量の矢弾を想定される退路の要所に運び込んだ可能性」から奇襲部隊は初めから撤退戦も想定した入念な準備を行った可能性が考えられる。
この戦いは柴田方が結果的に
「羽柴方を堅固な陣地から誘き出して山岳戦に引き摺り込んだ」という見方もできる。
奇襲部隊の善戦はあるいは、こうして退路に配置されただろう部隊=疲労が少ない部隊が奇襲部隊に順次合流し、殿軍を交替で引き受けることで実現したのかもしれない。
対して羽柴軍の追撃部隊は全員が長距離を移動しなければならず特に美濃から戻ってきた主力部隊の疲労は深刻なものだったと推測される。
『太閤記』には、
「前田殿の軍勢が茂山にいてくれるから」と佐久間盛政が後退を止めて布陣し羽柴方に決戦を挑もうとしたところへ拝郷家嘉が盛政を諌めてさらに後退すべきだと進言する場面がある。
拝郷が決戦を諌めた理由は「羽柴方があまりに大軍だから無茶」というものだった。
そして羽柴方の大軍に怯えた後方の部隊が逃走し奇襲部隊は動揺して羽柴方に敗北した。
盛政は刑死、拝郷は戦死したので拝郷の諫言の部分は創作の可能性もあるが拝郷が本当に懸念したのは敵だったのか味方だったのか考えさせられる記述である。
奇襲作戦は奇襲部隊の後方を誰かが守る必要があった。
佐久間盛政は(内心は疑いを抱いたとしても)前田勢を信じることが前提の作戦を行った。
そうでなければ神明山方面から羽柴方が進出して奇襲部隊の退路を脅かす事態を防ぐ大事な役割を、別の武将が行うよう進言したはずである。
(北陸で長年共に戦った柴田勝政、拝郷家嘉、徳山則秀など)