【名君】今川義元 Part2【海道一の弓取り】 [転載禁止]©2ch.net
今川義元(永正16年(1519年) - 永禄3年5月19日(1560年6月12日))とは、室町時代の戦国大名にして駿河の守護大名今川家の9代目当主。
足利氏一門で、今川氏親の五男
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
1560年、2万5千の大軍を率いて尾張へ侵攻するが、田楽狭間で休息中に織田信長による奇襲を受け戦死(桶狭間の戦い)。
享年42歳。
前スレ
【桶狭間の戦い】今川義元【花倉の乱】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1333917640/ このところのレスを見ていて思ったんだけど、
今川は領国内を支配しきれていないと言いながら、信長も領国内を支配しきれていない点に留意しないのは何か意図があるのかな? そもそもあの当時、完璧に領国を支配し切ったと言い切れる大名なんているの? >>237
> 信長が幕府や水野と組んで、義元を誘い出して叩こうと
幕府と組むといっても、当時の将軍は無力だから組みようがなかったのでは? >>239
いないと思う。
島津ですら一枚岩ではなかった。 どこも戦国大名を頂点とした半独立の従属国人連合だからな >>238
信長の領内掌握度を、義元と比べて強調するようなレスってあるか?ドラマの桶狭間みたいに
重臣も全く信用しなかったというのは創作的過ぎるにしても、服部党みたいに今川方で参戦した
尾張国人もいたし、そもそも今川に奪われた国境地帯での戦いだし、信長が尾張を完全には
統一していなかったというのは常識だと思う。
>>241
義昭の御内書外交と同じく、義輝も弱体化したとはいえ幕府の権威を武器に、三好と張り合ったり
遠方の大名を利用して外交をしたりしていた。だから信長や謙信も上洛したわけで。 >>244
今川と織田にそれほどの差はないって流れになってたからね 現代人の地図鳥瞰バイアスだと、尾張は小国に、駿遠三は大国に見えるけど、
国力差はイメージより小さいってことで。 義元は、上洛をエサに呼び寄せられて織田領で暗殺されたんよ 信玄も 義元は今川仮名目録制定していて内政面は有能だけど軍事作戦能力って上手くないの? 北条とにらみ合いの末に外交で勝利した河東一乱とあの桶狭間しか戦歴無いからね それらは雪斎か朝比奈泰能の功績じゃねーの
義元が直接出向いたわけじゃないだろ 今川は前線総司令官制を取ってて当主は遠征せず北条早雲や太源雪斎を指揮官に立ててやってる
関ケ原の時は氏真に当主を譲って義元が総司令官になって遠征 第二次河東一乱では義元自ら出陣してるよ
吉原城の氏康と一ヶ月ほど戦い撤退させ
武田信玄と合流して幻庵が籠もる長久保城を包囲し和睦開城させた だから河東一乱と関ヶ原しか前線での戦歴がないって話をしてる 当主時代に義元は河東に遠征してますね
あと関ケ原ではなく桶狭間ですよ 織田信長は今川義元を尊敬していた
岐阜城を信忠に譲って安土城に入ったのは駿府を氏真に譲って岡崎城だか安祥城だかに入った義元の真似
義元が後方を氏真に任せて三河・尾張の統治・制圧に専念したように、信長も後方を信忠に任せて畿内・西国の統治・制圧に専念した
と、いうのをどこかで見た 今川さんと徳川さんのおかげで、今の私があります
ありがとう! 結局桶狭間は上洛ではなくて尾張の同族今川氏豊を助けるためだったの? >>265
助けるというより、尾張の一部は今川家領という意識があったし、もっと大きな
戦略意図として伊勢湾経済圏の制圧をめざしていたという見解もある。
蟹江の服部党を取り込んでいるし。 >>265
助けるというより、尾張の一部は今川家領という意識があったし、もっと大きな
戦略意図として伊勢湾経済圏の制圧をめざしていたという見解もある。
蟹江の服部党を取り込んでいるし。 尊氏の命令で今川について各地を転戦していた伊達の一族が駿河に領地を貰っただけ
謎ではないよ 上洛だったら将軍とやりとりや畿内大名に協力求める要請書残ってるはず
武田、北条にも上洛すると言ってないし
援助求めてもいない。まず上洛では無いな
ただ単に三河落ち着いて山口教継が寝返ったから尾張攻略に動いただけ 山口教継が寝返ったから尾張攻略に動いたのか、尾張攻略に動いたから山口教継が寝返ったのか 尾張を攻略できた場合には美濃と隣接することになるが。
美濃斎藤は今川にも織田にも加担せずに中立だったんだっけ? 尾張攻略と簡単に言うけど信長相手に勝てるわけがないわな >>276
今川と共謀して織田を挟撃する選択肢もあったはずなんだが。
それはしていないな。 >>277
今川と斎藤が示し合わせて同時に尾張に攻め込めば勝てるだろ。 斎藤は周辺国から嫌われてるから無いな
唯一の同盟国の六角でさえ信用するなの記録残ってる
戦国とはいえ親殺しはタブー
朝倉と同盟組んでて六角と敵対してる浅井、武田、織田と敵対
今川も斎藤と共同すれば楽になるなんて承知の上だが今川も毛嫌いしてたんだろう >>280
親殺しはたしかにタブーだがそれ以前にその記録に触れた割に外交認識が滅茶苦茶では では今川、斎藤双方協力求めた書状の一つでも公開してもらいましょうか 今川と斎藤というと
道三存命時に武田信玄が木曽家に対して
私は今川と親しい。その敵である斎藤家と親しくしないように
と釘を刺しているね 斎藤家と浅井家は同盟を組んでいた
義龍の最初の妻は浅井家から
斎藤家が追放したのが土岐家で土岐家の盟友が六角家と朝倉家で土岐頼芸は六角家が保護している
道三死後にこの土岐六角朝倉の繋りに織田も参画している
義龍は浅井家と手切った上で六角家と組もうとして当主義弼も承諾して同盟を成立させようとしているのを知った先代の承禎が激怒しているのが>>280のいう記録 義元は坊さんになるはずだった
兄の死が不幸を招いたわね 仮に桶狭間に勝ったとしても、
氏真の代で家康等に下剋上くらうか、他国に併合されるだろうなあ