【佐竹・江戸】 常陸の戦国大名2 【小田・大掾】
「麒麟がくる」の光秀は新当流
義輝「見事な太刀さばきじゃ。鹿島の太刀とみたが そうか?」
光秀「はっ」
義輝「やはりそうか。我が師の太刀筋とよう似ておる」
義輝「藤孝。そなたも同じ流派。仲間同士の斬り合いはやめておけ」 常陸の研究はここ数年大掾が熱い
佐竹は佐々木倫朗が孤軍奮闘
10年前期待してた千葉隆司は中世の論文全然書いてくれない 土浦市博の八田知家と名門常陸小田氏展行った人いる? 島崎氏のHP
自治体史の中身そのまま載っけてて
書籍ではモノクロの図版がカラーになってたりする 中根正人「「南方三十三館」謀殺事件考」
20181209-lecture.pdf 大掾氏と佐竹氏の関係はどうだったんだろ?
どっちも平安時代から続く家だが。 江戸氏を支援
江戸・佐竹・宍戸・鹿島vs大掾・真壁 潮来市が鹿島からアントラーズ誘致しようとしてる
クラブ社長の父親は旧麻生町出身なんだそう 【在日】 統一教会、日本会議、神社本庁 【支配】
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慶應のリポジトリにあった糸賀茂男の博士論文消えてるな
出版されたからか 佐竹義昭・義重は肖像画がないようだけど雪村に描かせようってならなかったのかな 佐竹氏の存在を知った頃は、当時お気に入りの北条や伊達の敵対勢力だったことから
邪魔な奴な印象だったが、
後に邪魔が可能な程の勢力・人物だったという点から、興味が湧いたな
ここら辺は、織田に対抗した一向宗や
ローマ帝国に対抗したパルティア等に興味持った流れと一緒 佐竹は謙信以上?
謙信最後の方の関東遠征では利根川さえ超えられず撤退
里見は後継者争いが長引き御館の乱状態。
結構長引き戦力にならないどころか北条につく
宇都宮と協力し下野北条勢力を味方につける
一時は上野東南から下野南部を支配下にする
北条相手に領土拡張凄すぎる 御館の乱でなんで北条は景虎助けなかったの武田に全振りしといてキレるのおかしくないって思ってたら同時期
北条は佐竹を盟主とした宇都宮、結城、那須が連合組んで絶賛対峙中でそれ所じゃなかったのね 桐村家所蔵「大中臣氏略系図」では関白藤原師通の子頼継(子に頼経)が大中臣氏に改姓したとあるが
尊卑分脈の紀氏系図には宗賢(師通の父師実に※恪勤)の子に頼賢(改姓大中臣氏)があってその子に頼継、頼継の甥に頼経とある
※恪勤 王家・貴族に仕えた下級武士
中郡氏の本姓が紀氏なら
益子氏は同根だったりするのか
宇都宮と同族の小田氏に仕えた菅谷氏も 多賀谷氏
もとは野与党で称・平氏
実際は秦(伴田、蕃田)氏
常陸の多賀谷は金子氏が襲ったもの
ただ武蔵七党の金子ではなく
遠江の原氏流の金子だともいう 公称は平氏としつつ丹治氏を出自とする系図も持つ熊谷氏
秩父平氏を祖とするが秩父平氏渋谷流の入来院氏の系図に出ない金子氏ほか武蔵七党
古代に諸蕃を入植させた武蔵にはハン(伴・榛・幡・番・繁・半)がつく地名が多いらしい
藤原道長後裔を称する児玉党粟生氏も通称が伴太
平氏を称する多賀谷氏も通称が伴太 【2/3~3/10、茨城県水戸市】水戸市立博物館で特別展「江戸氏 知られざる水戸の戦国時代」開催
https://news.kojodan.jp/entry/2024/01/09/130953 江戸氏と真壁氏は事実上の半独立勢力だったが、戦場においては佐竹氏の指揮下で戦う。
この認識でいいんだっけ? 譜代旗本一門を除いた江戸、真壁、大掾などのいわゆる洞中はあくまで独立勢力
佐竹を盟主にする格下の同盟国と言った感じ
独自に外交や婚姻を行い盟主から領内への干渉は受けない
だからその都度合議や交渉をして行動を決めていたと思われる
例えば大掾が佐竹と敵対した時に真壁に参戦を要求したが、真壁は大掾の一族である事を理由に拒否して参戦しなかった
戦国大名とは違って緩い協力関係でしかなかったから内側に対する外交も必要であり
これを上手く取りまとめて更に宇都宮、結城、蘆名など同じく洞を持つ勢力と広域連合を組んで戦国大名と戦ったこの地域の戦国史は面白い 江戸氏といえば数奇な運命を辿った一族がいる
常陸北部の下野との境
佐竹の本領の奥深くに河内城という城がありその城主が江戸氏
なんでこんなところに江戸氏が?と疑問だったけど
山入一揆(上杉からの養子に反対した山入氏が起こした100年に渡る内乱)の際に江戸氏はどさくさに紛れて佐竹の本領の一部を簒奪している
その後、佐竹が勢力を盛り返した事により孤立してしまったようだ
この一族は水戸の本家とは決別して佐竹に臣従し一貫して佐竹の配下として行動していた
そして桃山時代には筆頭格の家老にまでなり関ヶ原後は秋田へ移っている >>499
> 譜代旗本一門を除いた江戸、真壁、大掾などのいわゆる洞中はあくまで独立勢力
> 佐竹を盟主にする格下の同盟国と言った感じ
織田と徳川みたいなもんか。
形式的な主従関係もなかったのかな? >>501
織田と徳川よりは主従に近い感じかな
例えるなら「小さな幕府」が一番近いと思う
洞という一定の結束を持った組織の一員であるという意識は持っていた
佐竹の場合で言うと奥七郡(茨城県北部)に佐竹宗家の領地があって和田、小貫、人見、真崎、根本と言った配下が宗家の直臣である旗本を形成していた
彼らは臣従しており領地経営は佐竹宗家に従い独自に外交をしたりはしない
大山や長倉といった家はいわば親藩であり微妙な立場
佐竹一族であるため基本的には宗家に従うが自律性もあって領地経営には介入させないし独自に外交を行う事もあった
小野崎、真壁、江戸といった家は外様大名であり洞の一員として佐竹と行動を共にするが完全に独立勢力である
大掾は元々は佐竹と同格の大名であったけど戦国時代に入ると衰退して佐竹に取り込まれつつあり洞の狭間を漂っている状態
宗家は洞中に対して一字や官途を与えたり、起請文の取り交わし、分限帳的なものの作成などを行ってある程度の形式的な主従関係は形成していたけど
戦国大名に比べると緩く不安定なものでしかない
ただ、佐竹義昭以降は佐竹も積極的に戦国大名化を目指しており集権化を進めてはいた 郷土史サイトの中には
「佐竹氏は江戸氏の主君格」
と書いているところもあるな。
「格」というのがまた微妙な表現だが。
そのサイトには
1510年に佐竹義舜と江戸通雅・通泰との間に「一家同位」の盟約が結ばれた。これは佐竹氏が江戸氏に対して末永く佐竹一家と同位の格式を与えるとしたものである。
と書いてあるので、これは微妙な関係だな。 佐竹は室町体制化の守護大名だったからね
幕府から常陸の軍事や治安維持を統括する権限を与えられた家なので一番身分の高い家と言える
江戸も幕府から領地を認められた家であるから佐竹の家臣ではないけど有事の際は佐竹の指揮下に入る与力的な立場
柴田勝家と前田、佐々、不破みたいな関係 >>502
戎光祥出版から出てる
戦国武将列伝【関東編】読むと
佐竹洞中や東方之衆は複雑怪奇て印象だったな
当たり前だけど共通の脅威【北条】がないと
それぞれの家の利害の為に小競り合い繰り返してて
自分が佐竹義重の立場だったら
これらの勢力束ねるのに鬱になりそう >>506
関東は将軍家と関東公方家の争いによって家中も分裂して激しく争っていたしね
家中の敵対勢力を押えて洞中をまとめ上げて宇都宮、結城、蘆名といった同じく洞を有する勢力と広域的な同盟関係を築き
更に織田豊臣、上杉、武田といった大大名と結んで北条や伊達に対抗していたのだから佐竹義昭や義重は大した外交手腕だと思うよ
宇都宮、蘆名、白河結城、二階堂あたりなどは元々宿敵と言えるほど険悪で激戦を繰り返していたけど
宇都宮とは殆ど一体化して行動するようなったし
蘆名盛氏も晩年は義重をやたら信用している
二階堂も国が滅ぼうとも佐竹を裏切れないとして城を枕に討死を決めたし求心力も高かったようだ 当初北条方についてたと言われる真壁氏が
沼尻合戦の後に北条との和睦が手抜きと義重を批判してたの聞いて
こいつら(洞)面倒くさ。て思ってしまう
どの口でそんなに偉そうなんだよ 真壁氏は結構早い段階で佐竹の洞中に加わったけど自立心が高くて反抗的な面も強かったんだよな
後に同じく佐竹洞中となった梶原政景と婚姻関係を結んで二人で勝手な行動をするようになったし 真壁氏はのちに佐竹の家臣として秋田についていったんだっけ。
秀吉の時代に臣従したんだろうか? 洞中といえば安房国も入り組んでいたらしいが。
「正木氏は里見氏の同盟相手」
という説と
「正木氏は形の上(だけ)では里見に臣従していた」
という説を読んだことがある。
どっちが正しいのかはわからん。 下位同盟からの姻族取り込みじゃないのかな
下総侵攻なんかは鑓大膳の息子の信茂が任されてるし
正木自体も早くから土着してる内房系とあとからやってきた外房系で北条に対する行動がぜんぜん違うね >>510
そうだね
真壁家譜には天正18年(1590年)に佐竹に臣従したと書いてある
つまり逆に言うと臣下であるような意識はなかったと言う事でもある
室町体制化ではあくまで任命権や知行は将軍(幕府)が行うものであったから国人達は将軍の直臣であるという点で守護大名とも同格という意識が強かった
だから豊臣政権下に組み込まれる事は諸大名にとって非常に大きな利益があったんだよね
豊臣政権はあくまで大名格だけに所領を安堵したからだ
その傘下にあった国人領主達のような中小勢力は大名から領地を分け与えられる形になってしまったので大名の臣下にならざるを得なかった
それによって地方大名の集権化が成功した 小田原合戦のあと
なんの遠慮もなく
あっさり江戸・大掾滅ぼせるあたり
北条の軛なければ
佐竹氏はもっと早く小田氏あたりの南常陸も平定できたのでは?ないかと思ってしまう。 その辺りが東関東の複雑なところで、いまだ室町体制の秩序を維持していて尚且つ縁戚関係も複雑に入り乱れているから
理由なく他家の領地を奪う事は出来なかった
だから基本的に戦に勝っても起請文を取り交わすだけで終わった
佐竹も小田、大掾、那須、皆川、白川結城といった家を何度も破っているけど結局領土は返還している
南郷だけは佐竹が地頭職を賜ったという経緯があるとかで大義名分があるから南陸奥の勢力と何十年も激しく争って併呑した
逆を言えば大義名分さえあれば滅ぼせるだけの実力があったとも言える
豊臣家から大義名分を得てからは僅か数ヶ月で常陸の諸勢力を滅ぼした 信号機のない横断歩道の一時停止率0.9%草
茨城・栃木の民度やばすぎる >>515
小田原より前は
佐竹も結構負けが多いし単純に勢力というか力が少し足りなかったのでは >>502
とても解り易くて的確な解説をありがとう。
それにしても佐竹の戦国大名化への始動が如何にも遅かった…と云う印象は否めない。
関東戦国は享徳ノ乱で既に始まっていたがそれは佐竹の動向から遡ること実に百数十年前。
アンシャン・レジームの典型だった古河、山内、扇谷は乱初期の十年間くらいで急速に戦国大名化を果たしていたし、
この大乱にドップリ関わった越後上杉房定の「一円領域支配」「直轄一元統治」達成は更に早くて「史上最初の戦国大名」と評される。
少し後から抬頭する北條の権力構造については今更云うまでもない。
こういう連中に比べると、
いくら常陸の政治構造が複雑だったとしてもどうにかならなかったのか、
享徳ノ乱当時の武蔵の太田道灌なんぞは味方である山内系の所領までお構い無しにガンガン押領して地域権力化したのに佐竹は何を遠慮していたんだ、
…などと四百年以上前のことを歯痒く思ってしまう。
まあ、佐竹は関東府を支える旗頭としての役割を期待されていたからね
100年の内乱で完全に出遅れたというのも大きい
せめて佐竹義昭が早死しなければもっと優位に戦えたのだけど
100年の内乱の終結後に2代続けて当主が早死し一進一退を繰り返す不運にも見舞われて佐竹は伸び悩んだ
義重の代に至ってようやく本格的に行動できるようになったけど既に戦国時代も末期に差し掛かっていたという 和牛の「常陸牛」など、旧国名を冠した産品のブランド化に取り組む茨城県が、思わぬ壁にぶつかった。「常陸」が読めない人が多い-。
県がインターネットで行った全国アンケートで、20〜30代の約半数が正しく読めていないことが判明。関係者に激震が走った。
アンケートは昨年12月に実施、調査会社を通じて300人から回答を集めた。その結果、20代では57%、30代では43%が「じょうりく」「ときわ」などと読み間違えた。正解は「ひたち」だ。
常陸牛を取り扱う精肉店「肉のイイジマ」(水戸市)の飯島充社長は「お客さんから正しく読まれていないな、という実感はあった」と苦笑した。
デイリースポーツ 2024.04.17(Wed)