【犬山】織田氏全てをひっくるめて語る【岩倉】
清洲を本拠とした大和守家、岩倉を本拠とした伊勢守家に信長を出した弾正家など
織田氏全部を語りましょう 織田信広
いまいち影の薄い信長のお兄ちゃんが気になる 信秀の弟も酷い目にあってるよね
すぐ下の信康は美濃攻めで、信次は一向一揆攻めで討死。
信光は信長によって謀殺。 尾張国守護所、下津守護所に又守護代として越前国から織田常竹が
赤見、下津に出向してきたのが尾張織田氏の始まり。
岩倉、清洲、は下津に近い。 尾張国の中心、下津付近には市場や仏閣が多く存在した。
往古には、五条川にも港があったんですね。
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E6%B4%A5
岩倉信賢や犬山信清のその後ってどうなったんだろうな
尾張追放後トンと聞かない >>12
高知に墓があるらしいから旧臣の山内一豊に引き取られたんじゃないの?>岩倉 織田 信賢(おだ のぶかた、生没年不詳)は戦国時代の武将。
尾張国上四郡を支配した守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)織田信安の嫡男。母は織田信定の娘(秋悦院)か? 通称は兵衛、左兵衛。官位は伊勢守。尾張岩倉城主。
父信安が信賢の弟信家を寵愛し跡継ぎに定めようとしたため、居城岩倉城から父と弟を追放し新城主となった。
末森城主織田信行、美濃の斎藤義龍らと結んで、敵対関係にあった清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」出身の同族勢力織田信長に対抗するが、
永禄元年(1558年)、浮野の戦いで信長に敗れ、翌、永禄2年(1559年)、居城岩倉城も包囲される。数ヶ月の篭城戦ののちに信賢は降伏し、追放処分となった。その後の行方は不明だが、
このときに自刃したもしくは旧臣の山内一豊に土佐に招かれ、200石を給したという説があり、山内家墓所の日輪山真如寺に信賢の墓がある。 関ヶ原以後まで生き残ってたとしたら、相当の長生きじゃないか
土佐に行くまではどこにいたんだろう?
堀尾吉晴とか前野長康の元に居たのかな? 犬山の方は武田にかくまってもらってたらしいな
あっさり京とかで暮らしててもおかしくないけどね
今川氏豊なんかは城を乗っ取られたあと駿河へ行かずに京に登って暮らしたらしいし 永禄2年(1559年)に、織田信長からの攻撃で岩倉城が落城し(浮野の戦い)、そのとき、山内盛豊は戦死もしくは自害したともいわれる。 信長「そのほう・・・岩倉の・・・(山内という名前を思い出せず)」
秀吉「これなるは山内一豊で御座います。」 尾張国内、織田一族が築城した城(初期段階は平城が多い)
尾張国府領(斯波領)中島郡下津守護所を中心として尾張国織田家の平城は
築城され散らばって行く。
尾張国守護斯波氏が築城した城は下津城と離れ屋敷だった清州城のみ。
織田一族が築城した城、大赤見城、岩倉城、勝幡城、楽田城、犬山城、小田井城
野府城、古渡城、
信長が築城した尾張国内の城は小牧城。 清洲織田氏(大和守家)→滅亡
岩倉織田氏(伊勢守家)→土佐藩
因幡守家→滅亡
藤左衛門家→岡山藩、尾張藩 >>20
信清は甲州征伐の折に見つかり処刑ないし斬殺と言われる反面
信清系統を称する明石織田家では信忠に見つかったものの放免されたと
伝わっているそうな
秀吉史料の中に御伽衆鉄斎という文字が書かれているのがあって
これが信清ではないかとみられている ユニコーン書林 虚偽表示 ヤフオク 転売 脱税 質問欄 自演
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http://unicorn-syorin.com/index.html wikipediaにある「織田宝岩祐居士像」の画賛てなんて書いてあるの? 他国の守護代に比べて三管領家の守護代って、ポッと出てきた感じが凄い
そこらの守護代より史料少なかったりするし メジャー氏族の出自が信頼出来る守護代って上杉の長尾くらいじゃない
あとはマイナー氏族だけど鎌倉時代の史料でも確認できる宇都宮の芳賀(清原氏) >>28
尾張藩は信長系も居るんだっけか
一家離散しすぎ >>37
成り上がりの家だからこそ、原動力になったのかもしれん。畠山はマイナスに働いちゃったけど、細川斬波は室町末期に一時代を築いた。 一族離散して一番困るのは離散前の歴史を
それぞれが主張してどれが正しいかわからなくなる場合 弾正忠の家系でも織田を名乗ってないのはいるが
江戸時代で弾正忠以外で織田が名乗ってるパターンはあるのかな