▲▲ 応仁・文明の乱 ▲▲
130年あまり続いた戦国時代の幕開けを飾る戦い「応仁の乱」。
東西両軍合わせて26万人とも言われる動員を繰り出した、想像を超える大規模なものだったこの戦いは、
当初畿内を中心にやがて全国に伝播し、その後10年に渡って日本全土を巻き込み未曾有の騒擾となった。
全国津々浦々の隷属階級がそれまでの権威や因習を打破し、自らの力で自立と利権の獲得を目指した
まさに下剋上を象徴する大乱。
日本の有史以来空前の戦「応仁の乱」をあらゆる角度から検証するスレです。 関東管領山内上杉家も鎌倉公方の再興を持ち出した越後上杉家に霹靂してたよな。
絶対に後悔することになるって。 >>8
アレは、大砲や鉄砲と言うよりもロケットランチャーに近いものでしょう。
細川家は、大陸と貿易していたから、その手の武器が入手しやすかった。
また、一部は日本の職人に造らせていた可能性があるけどね。あと手榴弾っぽいのも使っていたかも。
洛中での戦闘で、細川の軍勢が多用し、その為に洛中がアレだけ燃えてしまったらしい。
足軽が火をつけるだけでは、洛中を燃やすほどの火災には成らないらしい。
>>213
細川や上杉は、同族連合体制を作っていたけど、鎌倉時代に比べて、総領権が弱体化している感じ。
庶流が、各地の守護家になって在地性を強めているので、
従来の総領権が、効かなくなっている。その為に宗家と庶家の間でも対立や意見の相違が出て来る。
そこに目を付けて、将軍権力の強化を目指して、
守護大名家の分断工作や鎌倉公方の弾圧に乗り出したのが足利義教であり義政。
それが、義教暗殺や文正の政変で頓挫する。
室町幕府は、北条得宗家みたいな中央集権体制じゃないからね。
だから割れやすい。鎌倉公方なんて六波羅探題の様に数年の任期で交代制にしてしまえば良かった。 応仁の乱ではカタパルトで発射される炸裂弾が使われていた記録もある >>213
越後上杉家の房朝は、鎌倉公方が復活する事で
上杉宗家である山内上杉家や、その家宰の長尾氏を押さえ込んで欲しかったのだろう。
越後長尾家は、越後上杉家の言う事を全然聞かなかったらしいし。 >>213
越後上杉家の房朝は、鎌倉公方が復活する事で
上杉宗家である山内上杉家や、その家宰や守護代家の長尾氏を押さえ込んで欲しかったのだろう。
越後長尾家は、越後上杉家の言う事を聞かなかったらしいし。 元寇の時に、西国御家人達は、
モンゴルが高麗の軍勢の飛び道具や集団戦法を始めて見て、
それを積極的に取り入れた可能性が大きい。北条得宗家も元寇後に高麗征服計画を立案していたし。
それ以来、東国の武士と西国の武士の戦法に違いが出て来た可能性ある。
西国武士は、重火器の使用とゲリラ戦に躊躇が無くなったのかも知れない。
応仁の乱では、当初は、市街地(洛中やその郊外)の大名屋敷を取ったりとられたり
の戦いだったので、重火器を用いて、大名屋敷に打ち込んだり、その隣地の家々に放火
して火災を起こしたり、と言う戦い方になってしまった。
特にてつはうの様な、ロケット弾は、命中率が悪く、どこに飛んでいくか判らない為に
一度に束にして大量に打ち込んだりしてた可能性が有る。その為に洛中の火災も酷くなった。 >>214
小川信の名著「足利一門守護発展史の研究」にもあるように
細川一門の分国支配の安定性はある意味室町体制の守護として理想的だった
家格がうえの斯波、畠山は細川に比べればその点遙かに脆弱で
応仁の乱以前に衰退したのも必然だった 信之の過大が酷過ぎるんだよな
そのせいで、幸隆、昌幸、幸村がものすごく被害を被ってる 応仁の乱の終盤頃って何が目的で戦ってたんだろうな
誰が将軍になってもどうにもならない状況なのに >>225
そんなことはない。東軍の勝利とされたため、実際に西軍の畿内における領地は全て没収され、残党の掃討も広く行われた。 西軍の畿内における領地は全て没収?????
義就が制圧した河内や大和は畿内ではないとでも? >>37
8年越しのレスになるが、もと大内領だった泉州を細川にとられたので取り返したいとの悲願があったかも
越前斯波氏が一時領有してた加賀を取り返したいとの代々行動したことが応仁の乱にまで響いたみたいな >>85
義廉は管領になったことはあるものの斯波家の人々にとって部外者で支持が薄かったから早く消えたんでないか?
何年越しのレスだよ、とは思いつつ。 >>95
義視を将軍後継として迎え入れることにもっとも強く反対してた勝元が義視の後見人とか、最初からおかしかったもんなあ。 >>225
戦争継続を望んでいたのは大内政弘、土岐成頼、六角高頼、畠山義就だな。 室町時代 の 売れ筋ランキング 一位
応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書) 呉座 勇一
すごい奴がでてきたな。国際日本文化研究センター助教授 吉川弘文館からでた、石田晴男「戦争の日本史9 応仁・文明の乱」を強く意識してそうな内容だったね
現状、その2冊を合わせるのが乱の理解に最適なのかな?
こちらのは奈良興福寺の紛争を軸とした乱理解で、石田氏の本は斯波氏と関東永享の乱を軸とした理解
たぶん両方とも重要だよ
共通項として、従来の理解の全否定がある
乱に関わる諸派閥は臨時で急造のものだとか、6代義教の遺産(負の遺産)の影響とかもある
斯波畠山両氏の家督争いが通説の理解と全然違うんだよね
畠山の方は義教の遺産なんだ。 渡邊大門の「戦国誕生 中世日本が終焉するとき」 (講談社現代新書)
も面白かったけど、呉座の方がすっきりした感じでより面白かったな。 呉座勇一は、文正の政変を独自の視点で分析していて説得力もあったな。
文正の政変は今後もっと研究されていく予感がした。 応仁記より一次史料を慎重に読む研究が進んだことと、
三好研究の成果により、応仁の乱への興味の道が拓けたことが、
>>233の本のヒットに繋がったのだと思う
でも当時の史料も登場人物もまだまだ膨大に残っているから、これは序章にすぎないだろうね 買ったわ
個人的にはあれ読んで応仁の乱よりも大和の歴史への興味のほうが増えたわ テメエらポーラ名作劇場で放送してた『幻花』を憶えて居ねえのかい?
足利義政を山口崇、日野富子を夏純子、今参局を藤村志保、裏松重子を三益愛子が
好演してたテレビ・ドマラだゼッ!
昭和の歴史ドマラにしちゃあ面白えほうだったのサッ!
原作が瀬戸内晴美、現・寂聴尼だからナッ!
ソイツを見てから云々しやがれーイッ!
分かったナッ!
! 2011年度 東京大学入試問題
室町幕府と守護
【2】つぎの表は、室町幕府が最も安定していた4代将軍足利義持の時期(1422年)における、鎌倉府の管轄および九州をのぞいた諸国の守護について、氏ごとにまとめたものである。この表を参考に、下の(1)・(2)の文章を読んで、下記の設問A〜Cに答えなさい。
(1) 南北朝の動乱がおさまったのち、応仁の乱まで、この表の諸国の守護は、原則として在京を義務づけられ、その一部は、幕府の運営や重要な政務の決定に参画した。一方、今川・上杉・大内の各氏は、在京を免除されることも多かった。
(2) かつて幕府に反抗したこともあった大内氏は、この表の時期、弱体化していた九州探題渋川氏にかわって、九州の安定に貢献することを幕府から期待される存在になっていた。
設問
A 幕府の運営や重要な政務の決定に参画した守護には、どのような共通点がみられるか。中央における職制上の地位にもふれながら、2行以内で述べなさい。
B 今川・上杉・大内の各氏が、在京を免除されることが多かったのはなぜか。2行以内で説明しなさい。
C 義持の時期における安定は、足利義満の守護に対する施策によって準備された面がある。その施策の内容を、1行以内で述べなさい。
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/02entrance_examination/todai/2011tokyo_univ2.html ユニコーン書林 野球 鉄道 古本 ヤフオク吊り上げ 不法 違反 泉智倫
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http://unicorn-syorin.com/index.html 応仁の乱の原因を為したといふ「春日局」とは
一体どのやうな人物なのかゑ?
徳川時代の記述に書かれて居るさうぢやが。 応仁の乱550年、握手で「和睦」 東西両軍の関係者対談
10年以上にわたって争乱が繰り広げられた「応仁の乱」が今年で勃発550年
を迎えた。西軍大将・山名氏の末裔と東軍大将・細川氏ゆかりの団体代表の2人
が5月下旬、戦端が開かれた地、京都市上京区で対談した。秘話や両家のその後
についてなど多彩な話題で盛り上がり、約360人が耳を傾けた。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6243035 守護代から守護職に成り上がった最初は朝倉教景?
東軍に寝返った後も斯波とゴタゴタしてるけど正式に守護に任命されたのいつだろう 朝倉教景は守護になってないと思われ
英林孝景の守護就任も否定されてる
その後、斯波氏が支援した9代将軍足利義尚が朝倉氏の越前守護を認める訳ないし、
10代義稙の上洛支援を遅らせたし、
11代義澄はもっと疎遠
12代義晴の時の朝倉孝景 (10代当主)が最初じゃないだろうか? >>249
ご丁寧にありがとう
前に読んだ本だと義政の書状で守護職を約したようなのがあった気がしたんだけど 教景って応仁の乱より前に死んでるけど、何にたいして義政が守護を約束しようとしたん?
東軍への寝返りだと教景の孫孝景(敏景)のときだろ >>251
ごめん、その英林孝景の事だ
教景って名乗ってなかったかなぁと検索したら初名だった
ややこしい言い方で申し訳ない 最初は将軍義教から一文字もらって始まった教景という名前、
子、孫、曾孫まで四代にわたって勝手に相続してたのか
とんでもない一族だな 変わる室町時代のイメージ 応仁の乱で「焼け野原」は大げさ!?
「京が焼け野原になった」との言い回しはやや大げさかもしれない。近年は「応仁・文明の乱」と
表記するように、二つの元号にわたって11年ほど続いたが、史料にある洛中の戦火は応仁年間の2年間
に集中し、文明の9年間は劇的に減ったようだ。被害状況を見ると、将軍御所「室町殿」などのあった
上京が中心だ。もう一つの市街地・下京も無傷ではすまなかったが、焦土にはなっていない。その後の
「天文法華の乱」(1536年)の方が被害が大きかったとの見方もある。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190818-00010000-kyt-l26&p=1 応仁記とは
足利義稙と細川家が結ぶつくことを正当化するために過去の対立を隠蔽し
代わりに富子を乱の元凶とした
そうしなければならない関係者とは細川高国
だから高国と周辺の人物が書いた
近年はこう考えられる訳だが
桜井英治氏は苦言を呈しているな >>253
将軍から貰った文字を大切にすることで越前を治めることは正統だ
と認知して貰おうと考えたのかもしれない 朝倉というと甲斐にとっては越前守護代を奪われたのが応仁・文明の乱
遠江守護代になったはいいが没落してしまった REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 戦国状況開始の画期となった事案は応仁ノ乱よりも享徳ノ乱である。
後者は前者よりも十年以上早かっただけではなくて、
戦国期の本質的意義である「権力構造の根本的変質」をより尖鋭的に、且つより夾雑物の少ない形で具現化している。
敢えて皮相だけ眺めても、
享徳ノ乱の余波として応仁ノ乱が発生したと云う脈絡がある。
京都至上の偏向思想からは認め難いことではあろうが、事実である。