戦国時代のアイヌ
アイヌの北方交易の事なら、漢人はほぼ関わってないんじゃない? 江戸時代末期にロシアの進出に抵抗するため
慌てて北海道のアイヌ戸籍調査して北方警備してと和人とアイヌの接触増えたら疫病大流行したから、
それまでの人の流れはかなり制限されていたと思う、
実際幕府は接触制限しているし、交易も各地の港に限るで内陸はノータッチだったから、
和人とアイヌが港で交易して、そこからアイヌが他のアイヌにって形での交易だったんじゃ。 戦国時代から江戸時代にかけて行われてたのは山丹交易だっけ? アイヌが大陸と交易して借金漬けになったというやつか 幕府が借金肩代わりしたというのは本当なんだろうか? 和人とのアイヌ人だけでなくロシア人、中国人とも取引してたかなり大掛かりな貿易の商圏っぽかったんだな 内陸部はヨウ素欠乏症になりやすいから
昆布なんかを入手する必要ある その「中国人」ってのが曲者だな
漢族と直接取引してたのかって点ね 平安時代以降、もっと積極的に北方進出していたら
北海道や樺太あたりも、東北と同じく完全に日本系に同化されてたかもな
ロシア見てると、シベリアは気候・自然的にはきついけど
対アジアの国家相手に戦争して領土を奪い、それを維持するよりは難易度低いようだから 無理だろ。
ちなみに江戸時代には津軽藩士殉難事件というのがあった。
本州最北の雪深い土地の人間でさえ北海道の寒さには耐えられなかったしな。 江戸幕府がアイヌ保護のためか交流制限していなければ
本土系の文化に飲み込まれたんじゃないか?
津軽藩士殉難事件は碌に準備もせず現地情報もほとんどないまま
農民含む武士数百人を宗谷に駐屯させただから例としては不適格だと思う
駐屯先が北海道じゃなくても失敗するだろって行動だし 唐入りの際にも凍死者が出ていたわけで。今の北朝鮮一帯は北海道より寒いのにそれ以上に寒い北に進出は非現実的 9〜13世紀が温暖期、15〜19世紀が寒冷期だから
温暖期に北方へ進出、そこで北方民族の生活様式も取り入れ、気候の変化にも対応してたら、
樺太や千島くらいまでは領土化して、寒冷期がきても耐えられたか?
モンゴル帝国も、バイカル湖周辺や沿海州まで領土化しとるし
どちらにしろ北方民族と日本人との接触・抗争が増えたり、居住地の変化が起きる訳だから
双方に大きな影響は出そう
アイヌ等がオホーツク海北岸に多数移住したり、特に北方の日本人が米を絶対視しなくなったり 擦文時代は農業していたのにアイヌになってからは農業が衰退したのは気候も影響してるんだろうな。
温暖期には進出していたんじゃないか?
古墳時代とかの遺跡あるんだし。
領土化は寒冷期になって寒さに追われて北方から南下してくる集団に対応できるかと、
気候変動の影響で領地経営崩壊して撤退とならずに踏みとどまれるか次第だと思う。
>>370>>371とかようはそういうことだろうし。 明治以前の衣類に用いられていた線維は麻、綿、藁が主流だし無理じゃね 江戸時代進出してるし、陣屋築いて駐屯とかしてるのにか?
上にある津軽藩士殉難事件は薪さえまともに用意していない状況での冬越えだぞ。 >>395
北海道や本州のアイヌ人が漢民族と直接はなかったろうが、その辺は樺太にいたアイヌ人が代行してたんじゃね。 そりゃリレー形式で樺太アイヌも携わってただろうが、漢族と直接の接触があっただろうか?
漢人冒険商人なんてのがいたにしてもせいぜい満州地域までで、沿海州以北にはいないでしょ 山丹交易はあくまでもアイヌと山丹(ニブフやツングース諸族)との間で行われるもので
蝦夷錦もツングース他が入手したものを交易でアイヌが購買したわけじゃないですか
それにご承知の通り、満州への漢族居住は、清朝の中国支配後もかなり後まで禁止されていました >>376
和人が有利な取引。というよりは和人が望む物の変遷がアイヌ人を苦しめたって感じがする。
当初は陶磁器や明銭が和人との交易に用いられていたけど時代が経つにつれ、
入手難易度が高い絹織物の蝦夷錦や品質が高い綿織物が交易品に移り変わっていったから。 清朝が中国全土の支配に成功しちゃったんで、そのために満州族が南にほぼ全員引っ越しちゃったから
満州は空き家状態だったんですよね
そして一部の例外除いて長い間移住は認められなかった
そんな中、満州族が特に聖地として立ち入り禁止していた長白山(白頭山)の麓に勝手に移り住んできたのが朝鮮人
現在も韓国保守派が領土要求する間島地域ですね
そういうわけで漢族は比較的後までいなかっただろうというようなことです wikipedia満州から
清朝は建国の故地で後金時代の皇居(瀋陽故宮)がある満洲地域を特別扱いし、奉天府を置いて治めた。
後には奉天府を改めて東三省総督を置き、東省または東三省(奉天・吉林及び黒竜江の3省)と呼んだ。
当初は1653年から1668年まで遼東招民開墾令をはじめとする勧民招墾の諸法令を公布し、漢族の満洲植民を
奨励していたが、1740年以降は封禁政策を取り漢民族が移入することを禁じた[37]。一方、17世紀以降、
ロシア・ツァーリ国(のちロシア帝国)の東漸運動が顕著になり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が
数度起きた(清露国境紛争)。ヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなど、ロシア人の探検隊が
黒竜江流域に南下・侵入し、村落を焼いたり捕虜をとったり毛皮を取り立てたりして植民地化の動きを見せたため、
これを追い出し国境を定める必要が生じた。1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも満洲全域が
正式に清朝の国土と定められた[39][40][注釈 7]。その後、清朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させた。
しかし、王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれなかった。1858年5月28日のアイグン条約、
1860年11月14日の北京条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東の
いわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなった[8][9]。そして1860年には特普欽らの献策を容れて
政策を転換し、東三省への漢族の移住を認め、農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させた。
この民族移動のことを「闖関東」という。漢人人口は急増して満洲人人口を上回り、その生活域は蚕食された。 wikipedia間島から
もともと満洲族の清朝は白頭山一帯を祖先の地として封禁地としていたが、徐々に朝鮮農民が入植した。
1712年、国境を画定するため清と朝鮮の役人達により白頭山を南東に4kmほど下った地点に「大清
烏喇総管穆克登奉旨査辺至此、審視、西為鴨綠東為土門(西方を鴨緑とし、東方を土門とする)、
故於分水嶺上勒石為記」と国境が記された白頭山定界碑が設置された。しかし流入は収まらず、清朝が
1881年琿春に招墾局を設置して可耕地を調査したところ、すでに多くの朝鮮農民が入り込んでおり
住民の8割に達していた[3]。清朝は朝鮮に越境民をすべて引き上げさせるよう要求したが、越境農民の数が多く、
どうすることもできなかった。このため、清朝ではこれら朝鮮人農民を領民と認め課税することにした。
清朝の招墾局では朝鮮農民を募集し、食料を与えて開墾させるようになったので、さらに多くの朝鮮農民がこの地域に入った。 file:///C:/Users/user/Downloads/pp.43-50%20%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E6%B4%8B.pdf
サハリン発見「アイヌ鎧」の年代について 梶原洋
東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報2021
1933年に伊東信雄により樺太で発見された2領のアイヌ鎧は、主としてその構造が古墳時代の挂甲に類似していることから、
平安初期(9 世紀)の所産と推定されていた。しかし、11 から 12 世紀に生まれ、鎌倉時代以降に盛んに用いられた「腹巻鎧」
との構造的な類似性をもつと推定される。そして、鎧自体の特徴は、北東アジアのチュクチ族などの前合わせ式鎧と共通して
いて、その伝統に倣った上で、日本式鎧の縄目縅、菱縫などの製作技法を取り入れて作られた可能性が高い。また、サハリン
に残されたアイヌ鎧に見られる巴文が、南北朝以降の型式であり、新たに確認された松皮菱文は、武田氏に関連することから、
15世紀に蠣崎氏(武田氏)を中心とした道南の和人勢力とアイヌ民族との間で繰り広げられた戦いとの強い関連も推定される。
したがって、この鎧は、平安時代 9 世紀の所産ではなく、室町時代の 15 世紀頃に奥州以北などで製作され、サハリン(樺太)
にまでもたらされたとの説明が最も有力となり、従来の年代感は訂正されなくてはならないだろう。 file:///C:/Users/user/Downloads/JinbunShakaiRonso_J31_1%20(1).pdf
アイヌの宝物とツクナイ 関根達人
弘前大学人文学部人文社会論叢2014
file:///C:/Users/user/Downloads/HirodaiKokushi_149_31.pdf
〔資料紹介〕蝦夷刀三例―太刀と腰刀― 関根達人、田坂里穂
弘前大学國史研究2020
file:///C:/Users/user/Downloads/aomori_kenshi_8_26%20(1).pdf
蝦夷錦の品質と年代 : 赤地牡丹文蝦夷錦の分析を中心に 関根達人、柴正敏
青森県史研究2003
アイヌの武器・武具 関根達人、佐藤 里穂
季刊考古学 (133)2015 URLコピーして貼り付けないとPDF見れないか
リンク先論文は、アイヌも遙か古代の名残か大陸系の影響受けてるとか思ったら、蠣崎氏から入手した武具が基礎だったって話だし
沖縄の場合でも、首里城から発掘されてる15世紀の甲冑遺品は薩摩系工房の特徴が出てたりするんだよね
いざこざがあったりしても一番身近で付き合いがある相手から入手したものが多くて基本というのはよくあるよな
つい日本を離れた大陸風の異装をイメージするけど やっぱり文字で書き残して無いと、口伝の歴史は嘘扱いされる。
文字を持たない民族はどうしても野蛮扱いされるからな。
だからアメリカでも先住民は白人にあっさり乗っ取られた。 40年ほど前にバイクで北海道ツーリングに行った
どこか忘れたがキャンプ場の様なところに
バイクで乗り入れた
すでに数台バイクが停めてある
そしたらアイヌの人がすっとんできて
ものすごい勢いで怒られた
「おまえら!ここになんて書いてある!
ここはバイク進入禁止だ!読めないのか!」
とりあえず、すみませんと誤ったんだが
書いてあるのを確認したら「ごみをすてるな!」と書いてあった
周りを確認してもバイクや車の進入禁止なんてどこにもなかったよ REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 >>422
和人と交易していたし日本語の読み書きが出来るアイヌ人が居てもおかしくはないのに
何故かアイヌ人の書き残した史料はないんだよな >>422
アメリカ大陸に無かった疫病持ち込まれたのが大きかったんじゃなかったか
文字はあんまり使われなかったけど一応あったとか
後、鉄の製造技術が無かったのも大きいのでは
ろくろとか車輪とかすきもなかったけど、灌漑や染色、紡織は旧大陸と変わらないほどの技術があったとか > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 >>427
人名とは違うけど野辺地氏というアイヌ語の地名をそのまま名乗った家がある まあ地名は地名だもんね
江戸時代から政策的な蝦夷地入植が始まってれば、明治になって弟子屈さんとかいたかもしれんし
ユーカラで有名な鍋澤ワカルパの鍋澤姓は、居住地アイヌ語地名シウンコツ(紫雲古津)の日本語意訳だそうですな ネットだとアイヌ利権活動家の喚き声しか聞こえてこないんですが、アイヌ文化研究志望者なんてのがいたとして、
学ぶための端緒は彼らのご機嫌取りから始まってたりするのだろうか? >>419
>「 アイヌ学入門 (講談社現代新書) | 瀬川 拓郎 」によれば
>渡党とは、北海道南西にいた日本文化をかなり取り入れたアイヌのこと
>(引用元)http://gioan-awk.com/daimyou-01hokkaido.htm
>北海道は古くは蝦夷の居住地であり、8世紀頃から12世紀頃までは擦文文化の地域でした。
>13世紀以降はアイヌ人の文化圏であり、
>日の本(太平洋側)、唐子(日本海側)、渡党(津軽海峡周辺)の三部に分かれており、
アイヌの一派(渡党)である蠣崎氏が、松前藩となった