将棋界のちょっとダークな歴史を語るスレ
藤井聡太竜王(王位・叡王・王将・棋聖)の大活躍で、かつてないほどの華やかな
話題に包まれている将棋界。
今でこそ幸せ一杯の業界ですが、一時は斜陽になりかけていた時代も確かに存在
しました(-ω-)/ 板谷四郎九段の次男である板谷進は親子でA級棋士にまで昇りつめた。
昭和15年生まれ。
プロ目前まで来た時、1週間失踪して捜索願いが出された。自殺を考えたそうである。
山奥の川に入り、足まで浸かった時に急に怖くなり「生きたい」と思い直したらしい。
この板谷進の弟子が杉本昌隆で、さらにその弟子が藤井聡太になる。
ここで板谷進が自殺してしまっていたら、杉本昌隆の師匠は別人だった。藤井聡太は
影響なく大成したとは思う。 大内延介九段の右ストレートが空港職員の顔面にヒット! 桐谷広人
婚約者を師匠に取られて、株主優待にのめり込む日々となった。 桐谷さんの師匠は米長邦雄ではなく、升田幸三ですよ。 升田幸三の弟子だが米長邦雄に傾倒して「もう一人の師匠」と言っても過言ではない時期も確かにあった。
「好きだったからこそ余計に憎しみが湧いてきた」という感じがある。 「名人なんてゴミみたいなもんだ」
「名人がゴミならキミはなんだ」
「さよう、ゴミにたかるハエでしょうか」 (昭和53年の名人戦第1局・仙台にて)
大山「剃っちゃったの?」
森「ええ」
花村「私に断りなしに剃っちゃいけない」
大山「坊主頭が3人になっちゃった」
一同「・・・・・・・・・」
大山「髪の毛がある人は、いろいろな髪型に出来ていいんですよ」
一同「・・・・・・・・・」
大山「我々には、それが出来ない!」 「東海の鬼」花村元司も味わい深い棋士だった。
60歳でA級返り咲きを達成。
きょうびは羽生クラスでもB1に降級してしまうご時世で「還暦A級」は
加藤一二三以来出ていない。佐藤康光がA級を維持しているが、将棋界を
席巻した羽生世代が60になった時、何人A級にいられるか。興味がある。
そのころの名人は藤井聡太(竜王も)だと思う。 佐藤康光は会長として恐ろしく有能。
まさかこんなに仕事が出来る男とは思わなんだ。それでいて独裁者タイプでない。十分過ぎるほど頑張っているから、掛ける言葉は
「気楽にのんびり行こうぜ」としたい。 二上達也は会長としてはわずかに大山康晴の在任期間を上回ったようだ。
現役時代、大山康晴に散々コンプレックスを植え付けられ、軽く見られていたようだが、最後は退陣に追い込まれた15世名人と異なり、決して独裁者にはならず、
大内延介との2頭政治を前面に押し出し、無害キャラが幸いして会長としては、
ちょっぴり大山康晴に勝った。
「人徳のガミさん」の勝利である。一度でいいから名人になって欲しかった・・・ 大山康晴vs藤井聡太
一度は見てみたい幻の対決だが、大山康晴が得意の盤外戦術で嫌がらせをしても
藤井くんは気が付かないのではないのだろうか。 「兄貴はアタマが悪いから東大に行った」は米長邦雄の発言とされているが実際は
芹沢博文による創作であるらしい。
いかにも米長邦雄が言いそうなセリフなので、長期間だまされた。
四男・邦雄よりも6歳年長の長兄・泰さんは「アタマが悪くなければ、アレの兄は
務まりません」とコメントした。
さすがは年の功、兄貴の貫録。泰さんは1953年に山梨県名人戦で優勝。
全日本アマ名人戦に16歳で山梨県代表で出場している。
米長家は5人兄弟。邦雄は兄3人妹一人のきょうだい構成。 加藤一二三の師匠は以前は南口繁一だったが、還暦になった頃、
師匠を剱持松二に変えた。
剱持氏は1934年の3月生まれで、1940年1月1日生まれの加藤一二三とは
6つしか違わない。さらに言えばプロ棋士になった順番は加藤一二三の
ほうが早い。本当ならば成立しない師弟関係である。
剱持門下になりたいというよりも南口門下でありたくない、が本音で、
南口繁一の悪口の類いは一切言っていないが、何か恨むような感情が
加藤一二三にあったのではないかと思われる。
将棋世界誌では「妻と私の長年の願いだった」みたいに書かれていたから
高校時代の同級生である加藤一二三夫人も南口九段のことを快く思って
いなかったことが窺われる。 伊藤果は加藤一二三よりも先に師匠を変えている。
「どうしても人間的に尊敬出来なかった」
所属を関西から関東に。師匠を南口繁一から高柳敏夫に変更。 伊藤果・・・・・・なんて読むんですか? と聞かれて「いとう・はてな」ですよ、ととぼけて応えていたという、いとう・はたす。詰将棋の名手。 南口繁一は芹沢博文にビンタを食らわしたこともある。芹沢博文の師匠・高柳敏夫が仲裁役に立ってなんとか和解したようだ。 高柳敏夫は人格者に間違いない。最初の頃は血気盛んで、口の利き方の悪い弟子の芹沢博文に腹を立て、ナイフを投げつけて「お前はどうして師匠のナイフをよけるのか!」
と怒鳴りつけたそうである。これは90年代の将棋世界誌で、本人が「投げたのは、菜っ葉包丁で、当然芹沢に当てるようには投げ付けていない」とコメントしていたが。 金(こん)易二郎・名誉九段門。八重子夫人は金名誉九段の娘。夫人も将棋アマ三段の実力者。元A級だが結核を患ったこともあり、棋士としての盛りは短かった。
加藤一二三に敗れA級復帰ならず。18歳2か月の史上最年少A級棋士が同時期に
誕生。
「オレももう駄目だな。もたもたした将棋指しがいつまでも現役にしがみついているのは、みっともない」と自らに厳しく、それから数年後に引退してしまった。
むしろ引退後の人生が華やかだったと言える高柳敏夫名誉九段。 「高柳先生は芹沢のワルさに呆れて、芹沢と全く正反対に育てたら中原が出来上がった」
こんな噂が流れた時に高柳師匠は大笑いしたが
八重子夫人はキッとした表情になって
「冗談じゃありません! 確かにマコちゃんは可愛かったけど、セリちゃんだってマコちゃんに
負けないくらい可愛かったんです!」 「Yさん、今日は私に投了させてください」
佐藤大五郎がいるところで、Kがわざとらしく、佐藤大五郎とA級昇級を争っているYに言った、とある(河口俊彦の著者より) 藤井聡太対局中。評価値はいつの間にか63%のプラス。 藤井聡太待望のA級入り。
佐藤大五郎のB1の時は「こんな男が名人になったら大変なことになる」と
嫌われ度が半端ではなかったというが、竜王の場合「こんな強いのがB1に
いたら、たまらん。早くA級に行ってくれ」という空気は確かに感じられた。
盤に向えば真剣勝負でも、苦しくなったら、どうしてもクソ粘りは出来ない。 「こういう将棋を指している人と何年も同じクラスにいると思うと嫌になる」
C級2組時代の先崎学が言った。その対象にされた人は桐谷広人。
話が当人の耳に入り、桐谷広人は先崎学に恨みの感情を持つ。
先崎学の師匠とも冷戦状態になったが、その弟子とも抗争関係に。
しかし、同じく米長門下生の中川大輔は「昔から真面目で正義感が強い」と
断固として桐谷さんを擁護。
桐谷ブームの隠れた仕掛け人であるという。
なお中川大輔は師匠の米長邦雄と感情の面でもつれがあり、晩年は断絶状態。
関係が修復しないままに師匠が他界してしまう。 晩年の米長邦雄は残念ながら「独裁者」になってしまった。
弟子の中川大輔のほうがまともだったということなのだろう。
正論を吐くと煙たがられてしまうということは、どこの世界でもあるのかも知れない。 90年あたり「横歩も取れない男に負けては先祖に申し訳が立たない」と南芳一を挑発
していた頃は、さんざん中川大輔を持ち上げていた師匠だったのだが・・・・・ 「米長さん、今日は私に投了させてください」
佐藤大五郎がいるところで、米長邦雄の対局相手の北村昌男がわざとらしく言った。
昭和46年3月。
この時しか、佐藤大五郎とイニシャルYがA級昇級を争っている年はなく、Yの最終
Kに該当する人物が北村昌男しか当てはまらなかった。
Yはすぐ米長邦雄と分かったが(山田道美はA級だったし、そもそも前年に亡くなっている)Kは加藤一二三はA級だし、加藤博二も該当しなかった。
佐藤大五郎が敵を多く作った要因は口が悪かった(例えばB2以下はアマチュアなどと公言)ことに尽きる。
また同い年の河口俊彦をからかって、腕相撲を「両手で来い(俺は片手でやってやる)」というエピソードも書かれている。 佐藤大五郎は中年以降は凄く丸くなって、悪口が聞かれなくなっていったようだ。
目を悪くして引退を決めた時にC1からB2に上がる先崎学を呼び止めて
「昇級おめでとう。キミと対戦するのが楽しみだったんだけど、仕方ない。
キミは才能があるんだからこれからも頑張れよ」と励ましてくれたらしい。
若い頃からこういう人柄だったら、万人から愛されるキャラクターになれたような
気がしてならない。 先崎学もC2に8期いたのが響いた。
桐谷氏に対するコメントは羽生や佐藤康光や森内ならば絶対にしない。
不必要なことを言って、実は怒らせたら怖い人を本気で怒らせてしまった。
先崎vs桐谷のC2順位戦は、と金を3枚も作ってジワジワとなぶり殺す
ような展開に。体力のある桐谷氏にとって、長引かせれば勝ちが自然に
転がり込んでくる展開に持ち込めたのは、最高の勝利パターン。
「ミスだけは絶対にするなよ。この憎たらしいガキに痛い目に遭わせてやる」
と自分自身に言い聞かせていたことだろう。
先崎学はタイトルに手が届くだけの才能が十分あったと思うが、羽生ら同世代
が鬼のように強い連中が集まったという理由のほかにも本当の最盛期にA級に
いなかったことと、周りに「上がらせたい」という空気が希薄だったことが
響いた。 「聖の青春」読んだ人ならば灘蓮照のことを嫌いになるのは自然。
個人のエゴで村山聖の奨励会入りを白紙にしてしまった大悪人。
森信雄の弟子になったことで村山聖は救われた。
あと広島の将棋センターの篠崎とかいう奴も大嫌い。聖の青春を読むと分かる。
森信雄は「男の中の男」 93年秋に亡くなった森安秀光の死因は将棋世界にも書かれていない。
恐らく向こう50年はないだろう(-_-;) あまり知られていないが森安秀光の兄もプロ棋士(正幸)
双子の畠山兄弟の師匠で弟の鎮(まもる)の弟子が名人戦連続挑戦の斎藤慎太郎の師匠 畠山兄弟は兄の成幸が以前は眼鏡を掛けていたためにあまり顔が似ていないと
感じたが歳を重ねるごとに顔がそっくりになってきた。
若い頃は、もっと尖った雰囲気だったのに、二人とも丸くなった感じがする。 木村義雄14世名人の三男で昨年86歳で亡くなった木村義徳九段は、ある時
京セラの株を130万で買って、売る時には2400万になっていたという。
内藤國雄は「若い時は貧乏なほうが勝つが、歳がいったら金持ちのほうが勝つ」と
コメントしていたようだ。 1972年2月18日。B級1組順位戦。
佐藤大五郎七段対H八段。
先手のH八段、佐藤陣の7四にあった歩を駒台の上に置いて、パチパチ、と盤の上に
空打ちをしてから7五の時点に自らの歩を置いた。7四の歩を取ったのだから、
H八段の指し手は▲7四歩でなければ辻褄が合わない。それが7五の地点にある。
「おかしいよ、これ」
佐藤七段のアピールにより
「なんや、うっかりしてしもうた」
H八段は自らのミスを認めて反則負けを受け入れ、感想戦を始めた。
と、そこへS八段が入室してきて、H八段に耳打ち。さらに長老格のベテラン棋士が
入室。
「大五郎! お前は、そんなにまでして勝ちたいのか!」と何故か佐藤七段を非難。
結局、H八段のうっかりということで、先手の歩は7四の地点に置かれてから対局を
続行。佐藤七段が勝ち、A級昇級につなげた。
隣りの将棋の記録係を務めていた桐谷広人・当時奨励会会員は最初、佐藤が負ければ
いいと思ってみていたが、
「いくらなんでも、あれは酷いじゃありませんか!」
と長老格のベテラン棋士に抗議したそうである。
H八段とS八段が誰なのか、については想像がつくが、
「大五郎! お前は、そんなにして勝ちたいのか!」
と言ったベテラン棋士が誰なのか、が分からない。 原田泰夫先生は昭和46年3月に13年ぶりにA級カムバック。
一度B2まで落ちてからの二階級カムバックは現在に至るまで原田先生しかいない。
「48歳の抵抗」と言われ、将棋村では話題になった。
一緒にA級に上がったのはのちの名人であり、永世棋聖になる米長邦雄。
北村昌男七段に勝ったのだが、相手側に「勝とう」という気持ちが希薄だったように
思える。
昭和46年度のA級順位戦は原田先生は4勝4敗の指し分けでA級の地位を死守。
これで1期+7期+2期となりA級在籍通算10期を達成。次の期でA級から陥落
したが、普通の人ならとっくに衰えが来る時期に再浮上したのだから見事なもの
だった。 「さわやか流(米長邦雄)」「自然流(中原誠)」「自在流(内藤國雄)」「火の玉流(有吉道夫)」
「カミソリ流(勝浦修)」「怒濤流(大内延介)」「ダルマ流(森安秀光)」
このあたりの名付け親は、全て原田泰夫だと思う。
あと「神武以来(このかた)の天才(=加藤一二三)」の名付け親も原田泰夫。 youtubeで佐藤大五郎とH八段(当時)の将棋がUPされていたが、そこでは
「花村元司八段」と実名で紹介されていた。
進行役のユーチューバーは花村八段のことは擁護していたが、花村八段を
そそのかして対局を続行させたS八段については、「極悪人のS八段」と
思い切った表現で批判していた。
それよりも佐藤七段(当時)に「大五郎! お前はそんなにまでして勝ちたいのか!」
などと言ったベテラン棋士のほうがワルだろう。
このベテラン棋士は丸田祐三ではないか、と言われているが、証拠がない。
S八段については、関根茂の可能性もあるが、しっくり来ない。
「チョメチョメ先生」と呼ばれ、昭和62年に51歳で亡くなっているS九段
の可能性が非常に高い。
記録係に「君は黙っていろ!」と口出しさせなかった、と本人が雑誌か何かで
語っていたとも言っているそうだが、私はその内容を見ていない。 芹沢博文(1936.10.23 〜 1987.12.9)
佐藤大五郎(1936.10.19 〜 2010.9.1) 遮断機の降りていた踏切を強引に渡り轟沈してしまった大野源一(-_-;)
升田幸三と大山康晴の兄弟子。 屋敷伸之は2011年3月11日に松尾歩との直接対決に勝ってA級入りを決めた。
一時対局が中断した将棋だった。 屋敷はA級に上がるのが10年遅かったなあ・・・・・・・
50歳になった今でもB1にいるのはよく頑張っているけれど。。。 藤井聡太がA級に上がった。
これにより、タイトル経験者でA級未経験者は福崎文吾・中村修・中村太地・高見泰地の4人に。 丸田祐三の息子の丸田祥三氏が子供の頃、升田幸三が出てきて
「お前さんは可愛げがあって、いいな。きっとお母さんのほうに似たんだな」と
声を掛けたら、物陰から丸田夫人(祥三氏の母親)が出てきて、
「全く、その通りでございますわね」
ヒゲの大先生、ニタニタしながら退散したらしい。 大山康晴が中原誠に名人を取られた直後「ヤマさんもこれで終わりだな」と
丸田祐三が言ったというが、誰かの創作にハメられた可能性が高い。
本人の大山康晴への評価は変わらず高かったからだ。
大山と丸田の間に気まずいものが生じ、それまでの友好関係にヒビが
入ったとされる。 青野照市の次男は元・高校球児。慶應義塾高校在学時の2008年に補欠選手ではあったが、ベンチ入りして、甲子園の土を踏んでいる。 中原誠の母校は春の選抜優勝経験高校。
大山康晴から名人を奪取した年。
谷川浩司の母校は高校3年の春夏と甲子園出場。甲子園に応援に行ったらしい。 戦前生まれは中卒が当たり前だった。
戦後生まれ(昭和22年)の石田和雄は「私は中卒ですけど、将棋界は高学歴な人の
ほうがコンプレックスを持っている不思議な世界ですね」とコメントしていたが、
なるほど、と思った。
大成出来るかどうか自信のない人がプロ棋士になれなかった時の保険として、学歴を
つけておこう、と考えたのが昔の将棋界のようだ。 中学生プロ棋士5人の中で加藤一二三だけが大学に行った。
中卒が王道の将棋界で、中学の段階で職業を得た男がなんで大学まで行ったのか不思議だったが、のちに師匠を南口繫一から剱持松二に変えた時に理由が分かった。
京都に居たくなかったのだ。
早稲田大学進学は、南口繫一から離れる格好の理由になった。
谷川浩司・羽生善治・渡辺明は高卒。藤井聡太は高校自主退学。 谷川浩司(滝川高校卒)の実兄は灘高→東大→リコーと進んだ俊昭氏で17世名人の5歳年長。
昭和後期の将棋界の最強アマチュアで、今ならプロ編入試験を受けてプロ入りする選択肢もあったのかも知れない。 将棋は面白いが私生活が破綻していたからなあ小池氏(´;ω;`) 晩年は朝から将棋会館前で酔っ払っていた実力制第二代名人の塚田正夫 「アンタ、どこの組の者だい?」
何故か組関係の者に間違えられてしまった若き日の真部一男が
「日本将棋連盟です」
「組長は誰だ?」
「会長は塚田正夫です」
と応えて、なんとか災難を免れたと聞いた。 真部一男もなるがままに生きて早死にしてしまった棋士(-_-;) 酒を愛しすぎた人は長く生きられなかった。
昔はヘビー・スモーカーも多かった。
升田幸三は1日300本もタバコを吸っていた時期があるという。
ただ「ロッキード事件で田中角栄がパクられた頃、タバコをやめた」という本人の
コメントがある。イメージに反して、残りの約15年は喫煙はしなかった。
酒は晩年は「焼酎のお湯割りをチビチビと」飲む程度だったという。 大山康晴は昭和34年頃、タバコをやめる。持久力が落ちて来るのを感じたかららしい。
自分を律することが出来たのが長所。 こってりしたビーフ・カレーを2杯食べ、ビフテキにサラダ。
「もっと、じゃんじゃん持ってきなさいよ」
対局相手の前でガンガン食べて、無言の威圧を掛ける15世名人。
盤外戦術の鬼を現代によみがえらせてみたい。 親戚筋の囲碁の世界は食の細い人が多いみたいだけど(最近はそうでもないらしいが)
将棋界は「食べないともたない」と考える人が多く、健啖家に強い人が多いこともあって、その伝統が脈々と受け継がれているようだ。
大山康晴に言わせると「加藤(一二三)さんが最強。あの人には負けます」と
大食漢最強は加藤一二三であると強調していた。
現代ならば、丸山忠久と永瀬拓矢は毎回凄いようだ。藤井聡太も相撲部屋に一日体験
した時は、ちゃんこなど相当に食べていた。この方面でも頼もしい。 木村義徳は最初で最後のチャンスを見事に生かしてA級入りした。勝負強さは父親譲り。 丸田祐三が「キミ、今期はチャンスだね。たとえ日帰りでもいいじゃないか。(A級に)
行ってきたまえ」と木村義徳を励ましてくれたらしい。79年の話。 対局しながら二人で声を合わせて歌を歌っていた時期もある大山康晴と丸田祐三 昭和48年に規定が変わり、九段が大量に増産された。
九段は、それまで塚田正夫と升田幸三しか名乗っておらず、この年に大山康晴が
無冠になって、一時的に「九段」を名乗っていた。イメージ的に「元名人」と
いった趣があり、それだけ権威があった。
その権威が徐々に揺らぐようになる。
九段を量産したのには、親戚筋と言われる囲碁界が多くの九段を抱えていたこと
が理由と思われる。囲碁界とのバランスを取ったのだ。
昭和48年に九段が一気に増えた時に升田幸三は猛反対した。
「丸田などは九段じゃなくてB級1組七段の格だ」などと毒づいたが相手にされなかった
ようである。 竜王を取られた翌日にミス川崎と婚約した初代竜王・島朗 婚約した直後は新竜王となった羽生善治と一緒に周りから「おめでとう」と
言われていた島朗。
「失ったものよりも得たもののほうが遥かに大きい」との評価も。
目の覚めるような美人の結婚相手だったが死別(-_-;)
鈴木環奈の母親と死別した同志で再婚。 室谷由紀→谷口由紀→室谷由紀
名前が変わった理由はよく知らない。 ↑惜しくも1000人斬りは達成出来なかったらしい。 MVPはやはりというか、この人以外、ありえない。藤井聡太竜王。 第11回シモキタ名人戦。2022年4月30日(土)開催。 居飛車穴熊の田中寅彦も引退か。
ちょっと淋しい感じ。 田中寅彦に神谷広志といったところは、若い頃は、とんがっていた雰囲気だったのに、
随分と感じのいいおじさんになった。 田中寅彦九段は非公式戦の「新銀河戦」で藤井聡太竜王に対して必勝形を築くも
最後、持ち駒の銀を裏返して打ってしまったため、反則負け(金と成り銀は、
よく似ているので間違えてしまった模様)。
持ち時間が切迫していなければ、銀を成り銀の状態で駒台に置かなかったものと
思われる。
最後に、いい将棋が指せて本人も大満足だろう。 今日から名人戦第1局。
蛇足ながら谷川浩司が還暦になった。 竜王数え歌、平成の森内渡辺暗黒期間
2004 森内
2005 渡辺明
2006 渡辺明
2007 渡辺明
2008 渡辺明
2009 渡辺明
2010 渡辺明
2011 渡辺明
2012 渡辺明
2013 渡辺明
2014 森内 >>56
加藤一二三は早大二文に入学したが卒業はしていない。
タモリも早大二文中退
吉永小百合は珍しく早大二文卒業
加藤一二三は20歳で中学校の同級生と結婚している 1988年の第38期王将戦予選、大山康晴十五世名人(65)対羽生善治五段(17)
大山は、この対戦を突如、2日制にしようと提案したのだ。
この将棋自体、王将戦のリーグ戦でも挑戦者決定戦でもない、ただの予選にすぎない1局である。
5月21日将棋会館で途中まで指して中断し、わざわざ封じ手を行って、次の日22日に青森県百石町(現、おいらせ町)に遠征し、そこのイベントで公開対局
対局後の宴会に羽生の出席を要請
羽生は5月24日に富岡英作六段との竜王戦4組決勝予定だった。
羽生は大山の申し入れを承諾し大山に負けた
青森県旧百石町には当時大山康治後援会があり、現在大山康治将棋記念館が立てられている。
羽生は授業出席日数不足で高3時に高校を中退。その後、通信制高校に転校し高校を卒業している。 来年どちらが藤井聡太に名人を取られるか、を賭けた(!?)名人戦第1局は渡辺名人完勝。強いねえ。 吉永小百合が食べ残したカレーを食べたタモリ
加藤一二三、当時20歳が名人戦に挑戦者として登場した時は早稲田の学生だった。
翌年21歳の若さでA級から陥落してしまう。史上最年少A級陥落記録で、さすがの
藤井聡太もこの記録は破れない。 中学生棋士は現時点で5名だが、高校を卒業していないのは藤井聡太だけである
藤井聡太の母親は息子は東大に入れるとマスゴミに何度も豪語していた 行方尚史とか高校中退者はかなり多いと思う。永瀬王座もそうか。真部一男も。
abema トーナメントで高校中退ばかりを集めて「チーム中退」を結成したら、
優勝候補筆頭かも。 藤井聡太は女性に躓かなければ長期政権を築ける筈だが。 4月17日。山形県天童市で人間将棋開催。藤井聡太竜王登場。 林葉直子 不倫、整形、自己破産、余命1年宣告 27歳で引退した理由…激動の人生を告白
[ 2020年2月28日 12:20 ]
98年の30歳の時に、男性棋士との不倫が報じられたことには「ちょっとだけ不倫してまして…」と言い、3冊のヌード写真集を出したことには「3回目は変わってた方がいいかなって」と豊胸手術をし「(Bカップが)Fカップになった。(手術費は)200万円」と明かした。その後、1億円近くの借金を抱えて自己破産。棋士の頃から銀行の通帳と印鑑を父親に預けていたと言い、父親にマンションや高級車を購入されて借金が膨らんだと説明した。
また、2014年には肝硬変が発覚し、余命1年を宣告されたことを「妊婦さんみたいにおなかが腫れちゃう。足も紫色になっちゃう。移植しなくちゃいけないと言われた」と言い、アルコール飲料を断つことで症状は改善してきたという
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcSvX-BrqtMhexNUSOvj75hKUKE9hNFUTBJRHQ&usqp=CAU
https://zaitakudemamawork.com/2020/10/06/hayashibanaoko-2020-genzai/
https://www.youtube.com/watch?v=FtU4s_P2SjM 女流将棋界の黒歴史林葉直子
https://sekirara-nenkinseikathu.com/zinbuthu/hayashibanaoko/
師匠米長との淫行が米長妻から林葉父に通報され、林葉父が上京。林葉を殴り米長に怒鳴り込む
林葉直子さんの父親は警察官(警察犬の訓練士)でした。
将棋を始めたのは、父親の影響です。
将棋を教えてくれた父親でしたが、林葉さんにとってはどうしようもない父親でした。
警察官ですから、外見上は真面目に見えますが、家庭内では酷い暴力を振るっていたのです。
林葉さんは父親の意向で、中学1年生で将棋の米長邦雄さん宅に住み込み、内弟子として師事します。その際に、林葉さんは通帳や印鑑をすべて、父親に預けたのでした。
そこには、後にいくつものタイトルを取り、20冊以上のベストセラーを書いた賞金や印税が振り込まれていました。
それをすべて、父親に使い込まれていたのです。
ある日、千駄ヶ谷の将棋会館で、父親と林葉さんは殴り合いを始めます。
林葉さんの父親は大男で、その身体で林葉さんにパンチをするのでした。
林葉さんは何かギャーギャーと叫んでいますが、その間も父親は容赦のないパンチで、林葉さんを殴りつけるのでした。
将棋会館の男性職員が間に入って必死に止めてくれるまで、親子の殴り合いは続いたのです。さらに驚いたのは、職員に押さえつけられた父親の脛を林葉さんがガンガンと蹴り上げていたというのです。林葉さんは口を切り、父親は酷い打撲だったようです。
林葉父は米長を訴えると脅すが、米長はそんなことをしたらマスゴミを使って林葉父を社会的に抹殺すると脅すと対抗
結局林葉父が引き下がり、林葉は内弟子を解消して福岡に連れ戻される。そして米長は師弟関係の解消と、林葉が父と近親相姦をしていると言いふらす。 失踪騒動と将棋連盟退会
1994年5月29日に林葉は「心身ともに疲労を感じ極限状態にあるのですべての活動を停止ししばらく休養したい、保持していた倉敷藤花のタイトルも返上した上で、棋士としての処遇は理事会の決定に従う」という旨の休養願いを、理事の勝浦修を通じて日本将棋連盟理事会に提出し、姿を消した
6月1日、理事会は林葉の功績を考慮し特例としてこれを受理。しかし、既にスケジューリングされている対局の扱いについて林葉と話し合う必要があるにもかかわらず、林葉との連絡が取れなかったため、行方不明として中途半端な状態が続いた。6月9日・10日の対局に林葉が現われなかったことで、6月11日に新聞・雑誌・テレビのワイドショーなどで林葉が失踪したと一斉に報じられた。実際にはこの時に林葉はロンドンへ行っていたのだが、様々なボタンの掛け違いで、海外での休養が失踪騒動として独り歩きしてしまった。河内家菊水丸がラジオでドバイで目撃したと主張したり(林葉本人はインタビューで否定)、中にはサティヤ・サイ・ババに会いにインドへ行っているというデマまで流れた
6月下旬、アイルランドに滞在していた林葉は国際電話で連絡を受け日本で騒動になっていることを初めて知り、急遽理事会の担当者に連絡し、詫び状を提出し早期復帰を約束した。しかし、月刊誌『マルコポーロ』が7月上旬にアイルランドで林葉に接触し、連盟の頭越しに林葉の独占手記を掲載したことで、理事会が態度を硬化させた。理事の中には強硬に林葉の除名を主張する者もいたという[5]。
その後、7月18日にイギリスから帰国。将棋連盟から3か月間の出場停止(7つの対局すべて不戦敗)、その期間の公的活動の停止と約150万円の損害金の支払いなどの処分を受けた。そして7月20日、釈明の記者会見を行った。
11月からの第2期大山名人杯倉敷藤花戦の番勝負で復帰するものの、精彩を欠き挑戦者の清水市代に連敗してタイトルを失った。
翌1995年8月24日、突如として日本将棋連盟理事会に退会届を提出、これが受理され将棋界を去ることとなった[5]。段位は女流五段で、最後の対局は8月8日の第22期女流名人位戦B級5回戦の山田久美戦であった。退会理由は「将棋が嫌いになったわけではないが、情熱が冷めた」ためとしている。退会記者会見をしたその夜、林葉は新宿の料理店で行われていた羽生善治六冠と畠田理恵の婚約祝いの席へ駆けつけた[11]。 女流棋士引退後
1995年、将棋連盟退会と同時期に写真集『CONFESSION 告白』にてヘアヌードを発表。さらに1998年には1992年から続いていた中原誠との不倫を告白し、再びワイドショーの話題となる[12]。この当時、これらの一連の出来事で良くも悪くも女流棋士の知名度を大いに高め、他の女流棋士は自らの職業を名乗ると「あの林葉直子の」と反応されることが多く、非常に困ったという[13]。
2004年、ペンネーム「かとりまさる」名義で、月刊アフタヌーンで将棋をテーマとした漫画『しおんの王』の連載の原作者として執筆活動を行った。小説のつもりで原稿を編集者に見せたら、面白いので漫画の原作にしようということになり、2008年まで4年間続いた。かとりまさる=林葉直子であることは1年以上極秘とされていた。『しおんの王』はテレビアニメとして放送され、DVD化やゲームソフト化もされるなどヒットした[11]。
2004年、六本木で「Woo Curry」というインド料理店を経営する。店名は「うー、辛え」から。内装はミニクラブの居抜きで、インド人シェフによる本格的インドカレーの店だったが、経営は苦しく1年余りで閉店。店には将棋盤と駒が置かれていたり、林葉と同年代のプロ棋士や後輩の女流棋士が彼女の人柄を慕って店に通っていたり将棋関係者と交流が続いていたという[11]。
2006年、自己破産[14]。
2008年、『しおんの王』の原稿を書き終えた後に体調を崩して、半年ほど入院をしていた。退院後は福岡へ戻り、静養したり将棋好きな寺の住職と将棋を指したりの日々が続いた[11]。その後はタロット占い師として活動。 林葉直子のことは心底嫌なので、話題にしたくなかったし、あえて触れなかったが。。。。。。
中原誠がA級から陥落したのは騒動の後遺症の影響は間違いなくあった。
あれで、権威が喪失して軽く見られるようになってしまったマイナス面が大きい。 林葉が米長との淫行を告白したら、中原との不倫以上の話題になるだろう。
しかし内弟子で世話になった恩があるから、墓場まで秘密を持っていくつもりだろう
身近で観察していた先崎も口を閉ざしている