後三条天皇が自分で宣旨枡を試してみようと庭に降りたら
天皇は居るかどうかもわからない幽玄の存在であるべきなのにと非難する手合いがいたとか
でもそんな風潮は一条天皇三条天皇の頃には無かったわよね
天皇は「よろづのことは何も知らない」ことが美徳とされたのは道長の孫三人が天皇だった間だけじゃない?

兼家が亡くなったとき一条天皇10歳三条天皇14歳くらいかしら
二人への教育方針は兼家の意向が強かったはずだけど
兼家は将来皇位に就けるつもりの孫達を無知な人形に育てようとはしなかったってことよね
道隆にしても一条天皇が好文の賢皇と呼ばれたのは本人の資質もあるけど中関白家の勉強好きの影響も大きかったんじゃない?
伊周が一条天皇の家庭教師まがいのことしてたようだし

やっぱり道長のやり方に摂関家代々の在り方から外れた行き過ぎたところがあったんじゃないかしら