山田邦和
@fzk06736

#光る君へ
小説・ドラマと史実の乖離についてよく議論になります。私は常に言っておりますが、創作物が史実と離れても別にかまわない。しかし、史実を無視して創作してしまったがためにドラマが支離滅裂になるのは、そのドラマのためにもならないと思うのです。

藤原道兼が紫式部の母を斬殺するという衝撃的なシーン。制作者は「確信犯」としてやっていて、自信をお持ちのようですね。
しかし、貴族が自ら人を殺して血まみれになるのは、明らかに「触穢<しょくえ>」つまり穢れに触れるというタヴーを犯したことになる。これは大問題なのです。

平安時代の観念として穢は伝染します。道兼が血まみれの姿で東三条殿に帰ってくると、邸宅全体が穢れるし、さらには住んでいる人全員が穢れる。道兼の父の右大臣兼家にも伝染する。
兼家が知らないで参内したりすると、内裏も、さらには天皇まで穢が及ぶ。これはすったんもんだの大騒ぎになります。

では、創作なのだから「触穢」という観念自体が存在しないことにしてしまったらいいじゃないの、と思われるかもしれませんが、そうはいかない。
「穢←→清浄」という観念は平安王朝の根本理念で、それを無視してしまうと王朝の拠って立つ体系自体が崩壊する。

根本理念を無視してドラマが作られてしまうと、それはもはや歴史モノではなくなってしまい、SFかパラレルワールドモノになってしまうのです。