瞑想を取り入れている様々な宗教は、離れること、禁欲を推奨しますが、
禁欲がいかにして、サマーディに導くかという理論的な部分はブラックボックスになっていることが多いです。
この部分を「気」という概念で五千年以上研究しいるのが気功だといってもよいです。

この部分がブラックボックスになることで、気が一か所に溜まる問題が生まれたり、身に合っていない非効率的な道を歩む羽目になりかねません。
白隠禅師も気功法を習い、瞑想者が陥りがちな禅病を克服しています。

ただ悟り(涅槃)は初期経典にある通り、有の滅であり、サマーディはその踏み台であるということを忘れると良くないです。
気は内観をすることで感覚として明確に感じることが出来るようになりますが、悟りは「感覚や識の有」を滅している状態です。
つまり、そこにおいては感覚を観るということも終わっていますし、音を有ると認める心の作用は欠片もありません。
そこまでいけば気はどうでもよくなります。気がどのような状態であろうと常に自由で常に安楽です。
そっちの方が目指す価値があります。